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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その279

b0083728_23421234.jpg個人的経験:
タイトル自体、「絹のはしご」は、
妙に気になるものだったが、
タイトルから連想される、
登場人物の「怪しさ」という点では、
さらに上を行くものがあった。
「ブルスキーノ氏」である。
職場のメールにおいても、
「~さんが」、「~様が」と書かずに、
「~氏が」、と書かれている場合、
私は、かなりのいかがわしさを感じる。


これもフォッペの台本であるが、
原作は「まぐれの息子」という、
余計、意味不明なものであるらしい。

このLDの表紙を見ても、いかがわしい人物ばかりで、
右側の赤い服の若いが、怪しげなおっさん5人の方を見ている。
(この写真は帯をつけて撮っているので見えないが。)

窓の向こうの、
ローマ風の松が見える風景は、
非常に美しく見える。

ロッシーニは、1810年から1813年まで、
ヴェネチアのサン・モイーゼ劇場のために、
5曲のオペラ・ファルサを作曲したが、
「ブルスキーノ氏」は、
このシリーズの最後を飾るものである。

LDの高橋保男氏の解説によると、
(ここでの「~氏」は、
面識がない方への敬意を示したものである)
「ファルサ(笑劇)」は、
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、
ヴェネチア中心に使われた用語とあり、
もともとは喜劇の中に歌を混入させたものが、
オペラ・セリア幕間の息抜き用の、
インテルメッツォのようになったという。

19世紀には衰退したので、ロッシーニには、
この後は、1818年の「アディーナ」があるだけ、
ドニゼッティにも数曲あるだけだとあるから、
まさに、この「ブルスキーノ氏」は、
ファルサの集大成のような位置づけとなるだろう。

解説にも、「よく出来たドラマに属していて、
一見わかりにくい感じを与えるかもしれないが、
喜劇としてはたいへん巧妙に、
かつ論理的に構成されている」とある。

さらに、「サン・モイーゼ劇場のための
5曲のファルサの中では最も高い完成度を示していて」と続けて、
「この直後に生まれ出る傑作『アルジェのイタリア女』に比べても
さほど大きな遜色を感じさせない」とまで書かれている。

これは大変、楽しみである。

最後は、「類型的な物語を少しも陳腐を感じさせないような
表現の工夫や、意表をつくユニークな効果のおもしろさ、
そこに生まれる新鮮な笑いが、この20才の年の若書きを、
魅力あふれる作品にしているのである」と結んでいるのが嬉しい。

このように早く聴きたくなるような、
見たくなるような解説が良い解説である。

さて、「絹のはしご」同様、
このオペラは、「序曲」が大変有名なもので、
トスカニーニなども録音していた。

Track2.「序曲」は、弦楽器の弓で、
かちゃかちゃ鳴らす妙な音の効果が、
耳をそばだたせるが、このLDでは、
譜面台上の照明の傘を叩いているのが分かる。

解説によると、ロッシーニの序曲の定型だという。
堂々たる序奏と弦による第1主題、木管による第2主題、
展開部の代わりに経過部で、
オーケストラの輝かしいクレッシェンド効果があるという。

これまた、自分だけは陶酔して、
オーケストラにはエネルギッシュにドライブをかける、
ジェルメッティ指揮のものだ。
意外に、クレッシェンド効果は自然でこけおどしがない。

ハンペ演出のもので、幕が上がると、
大きな窓から外を望む舞台が美しい。
ガウデンツィオの城館の一室のようだ。

この演出家は、「音楽の友」別冊の、
1988年の「オペラものしり辞典」では、
「ドイツのオペラ演出家で、ウィーンなどでも演出しているが、
ザルツブルク音楽祭でのモーツァルトが目立っている」
という感じで紹介されている程度。

テルデックというメジャー・レーベルの割には、
すごい歌手たちが出て来る訳でもないし、
この一連の録音、録画が、
初期のロッシーニを特集した珍しい企画であるとは分かるが、
純正ロッシーニ・ファン、オペラ・ファンにとって、
どのような位置づけのものかは分からない。

今回、こうした舞台の鑑賞によって、
シューベルトの時代を妄想しようとしている訳だが、
訳の分からない現代的演出よりは、
この美しく素直な正攻法の方がずっとありがたいのは確かだ。

これは、1989年のシュヴェツィンゲン音楽祭の記録で、
「結婚手形」と一緒に録画されたものと思われる。

したがって、最初から出て来る、
フロルヴィッレというイケメン青年は、
デイヴィッド・キューブラーというテノールが演じている。
「結婚手形」のエドアルド、「絹のはしご」のドルヴィルだ。

彼が演じる役は、常にヒロインの恋人なのだが、
少し情けない感じで、常に、ライヴァルが現れる。

先に簡単に内容をデッサンすると、
このフロルヴィッレとソフィアという娘が恋仲である。
彼等の障害になるのが、
ソフィアの後見人のガウデンツィオが、
ソフィアに婚約者がいるとしている事である。

では、劇に沿って鑑賞してみよう。

このLD解説の最大の問題は、あらすじの所が、
「導入部」とか「小二重唱」とか書かれているだけで、
トラックナンバーが振られていないことである。
せっかく読んでも、どこのトラックのことか分からない。

Track3.「愛する人よお願いだ」は、
解説あらすじの「導入部」と「小二重唱」に相当する。

美しい風景のバルコニーの扉から、立派な室内に、
黄色い服を着て、帽子を持ったフロルヴィッレが入って来て、
人の家の室内で、でかい声を張り上げて歌う。

どうやら、フロルヴィッレの父親は、
彼が好きなソフィアの父と仲が悪いという、
「ロメオとジュリエット」風の状況のようだ。

彼は、ソフィアの父親も世を去ったので、
求婚に来たようである。
そこに、女中のマリアンナが来るが、
状況は悪いことを仄めかす。

マリアンナが出て来て重要な人物かと思うが、
彼女は、ここくらいしか存在感がない。
ジャニス・ホールが演じているが、
これは「結婚手形」でヒロインを演じたソプラノだ。

Track4.「愛する人に会えるのは」。
これは解説あらすじの「レチタティーボと二重唱」に対応。

その後、女中のマリアンナは、
ソフィアを連れて入って来るが、
恋人たち、つまりフロルヴィッレとソフィアは、
いきなり抱き合ってロマンティックな愛の二重唱となる。

典型的にイタリアオペラ風で、管弦楽はピッチカートの上に、
簡素な木管の助奏があるだけみたいな感じ。
歌詞の内容もイタリアオペラ的に、
どうでもいいような内容、
「愛しいあなたを愛しく思います」って何?って感じ。

ソフィアを歌うのはアメーリア・フェッレ。
これは「結婚手形」で女中を演じていた方だ。
LD表紙に出ていた女性で、
どちらかと言えば恰幅が良いが、
声は澄んでいて美しい。
表情も豊かである。
すごい長い接吻で終わる。

驚いた事が、解説に書かれていた。
ベッリーニやドニゼッティが愛用した、
ソプラノとテノールによる「愛の二重唱」を、
ロッシーニは嫌悪していて、
これは珍しいナンバーだという。

Track5.解説あらすじの「レチタティーボ」。
「会えてうれしいよ、ソフィア」の部分。
ここで、ブルスキーノ氏の正体が分かる。
ソフィアは、もうすぐ婚約者のブルスキーノ氏がここに来る、
しかし、心はあなたのもの、などと言っている。

その時、宿屋の主人フィリベルトが入って来て、
3日前にブルスキーノ氏が来たが、
400フランも借金しているので、
宿屋に閉じ込めてある、などと意表をついた展開。

このフィリベルトは、この劇ではかなり重要で、
カルロス・フェレールが歌っている。
「結婚手形」では番頭さんをやっていた。

Track6.解説あらすじの、「レチタティーボと二重唱」。
フロルヴィッレは、
自分がお金を今払うから、秘密にして、
彼を閉じ込め、手紙を渡せ、という交渉を成立させる。

今回のデイヴィッド・キューブラーの役柄は、
いままでの善良なだけの兄ちゃんではなく、
機転が利いているようだ。
実際、今回は、これまで以上に大活躍する。

Track7.「ソフィアの許嫁になりすましてやろう」。
フロルヴィッレは、ブルスキーノ氏になりすます計画を立てる。
マリアンナにこの計画を話しに行くと、
使用人たちが歓迎の準備を進めに入って来る。

Track8.「この地は大きな芝居小屋だ」は「カヴァティーナ」。
これは、「手にいれたものだけでは満足しない」、
と、この館の主、ガウデンツィオ氏が使用人の前で、
哲学を歌い上げるもの。

「もっともっと欲しくなる。金も名誉も」と、
人間の欲深さを賛美する歌を歌い上げるが、
最後は、「何が起こっても楽しく過ごそうじゃないか」、
などと、悦楽的な境地を陽気に歌い出すのが面白い。

ロッシーニのオペラのみならず、多くのオペラでは、
どうでも良いことを歌われるが、
この部分は、一応、意味ありげな有難い内容になっている。

解説には、「金銭崇拝」で笑いを誘うのは、
当時の常套手段だったとある。

この後見人の役は、コルベッリが歌っているが、
「絹のはしご」で、機転の利く使用人ジェルマーノを歌った人である。

Track9.解説あらすじの「レチタティーボと三重唱」。
「ソフィアにはブルスキーノを見つけてやった」。

マリアンナがガウデンツィオ氏に手紙を持って来る。
これはソフィアの婚約者のブルスキーノ氏の父親からのもの。
さっき、恋人フロルヴィッレが入手しておいたものだろう。

「旦那様に手紙です。痛風で左手で書くのを、許して欲しい。
ちょっと、寄り道をしているから、
人相書きの息子が来たら、見付けて掴まえて欲しい」
という内容。

人相書きを自分の顔にしてあったので、
さっそく、召使いは、外に出て、
フロルヴィッレを間違って掴まえて来る。

フロルヴィッレの思惑通りであるから、彼は、
彼は、父に書いた手紙があるから読んで欲しいと言う。

「いい青年だ、父上は厳しすぎる」と、
ガウデンツィオ氏は、物わかりが良いふりをする。
これまた、計画通りということであろう。
ソフィアの後見人は、なりすましの彼に満足してしまうのである。

このあたりから、ようやくオペラは、
ヤバい道を突き進んで行く。

何と、寄り道していたはずのブルスキーノ氏(父)が、
杖を突きながら、暑い暑いとやってくるので、
ややこしいことになるのは必定。

この「暑さ」が、ブルスキーノ氏(父)の頭を、
混乱させているのであろう。
彼は出て来るたびに、暑い暑いを繰り返す。

ガウデンツィオ氏は、
息子さんは、すでに家に来ている、
彼は後悔しているから、許してやって欲しいと言う。

すでに、包囲網が完成している。
この先で待ち受ける善良な病気の老人の運命やいかに。

Track10.「息子さんはもう後悔しています」。
解説あらすじの「レチタティーボと三重唱」である。

これは、現世主義、快楽主義者のガウデンツィオ氏が、
フロルヴィッレをかばって、
ブルスキーノ氏(父)を前に、
親子でよりを戻すように歌うもの。

何と、なりすましのフロルヴィッレも、
成りきって「心臓が止まりそうだ」などと歌うので、
まだ、顔を見る前に、
ブルスキーノ氏(父)は、「許すべきか」などと呟いている。

ブルスキーノ氏の父親は、このオペラでは、
非常に重要な役回りをする。
リナルディが歌っているが、
これは「結婚手形」のカナダ人スルック、
「絹のはしご」の求婚者ブランザックが担当している。

これらと同様の役回りだが、
今回はさんざん、
おちょくられる屈辱に耐える必要がある。

何と、しらばっくれて、「許してください」
などとフロルヴィッレが出て行くと、
「誰だお前は」と杖で突き飛ばすので、
友人である後見人からは、「意地を張って認めないのだな」、
と勘違いされてしまう。

「無慈悲な怪物のようだ、ぞっとする」とまで言われ、
「警察を呼ぶぞ、ペテン師の仮面を剥がしてやる」と、
ブルスキーノ氏(父)も激高する。

「お慈悲を」と、なりすまし男がしゃあしゃあと近づくと、
「息子を認めないなんて」と、後見人も怒る。
ロッシーニ得意の早口の三重唱、大混乱である。

解説でも、ロッシーニの、
ブッファの才能を結晶させたナンバーと特筆されている。

Track11.レチタティーボ、「何かあったのですか」。
ガウデンツィオ氏が、
頑固者の父親が息子を認めない、と、ソフィアに言うと、
彼女も、もちろんグルなので、
「頑固」、「意地っ張り」などと挑発して、
ブルスキーノ氏(父)をおちょくる。

彼は、暑さを嘆きながら、
「ここにいる奴はいかさま師だ」と言う。
ほとんど老人虐待である。

Track12.「ああ、愛しい花婿をお与え下さい」。
は、ソフィアのアリアである。
解説にも、「水準以上の歌唱技術を要求している」とあるが、
以下に記すように、めちゃくちゃな内容。
これは、技巧のための措置かもしれない。

この部分もまた、最も、ややこしい場面の一つかもしれない。
とにかく、曲想も内容も変転して、
いったい、ソフィアは何が言いたいんだ、
となってしまう。

長い助奏の後、いくぶん装飾的なオーボエに導かれ、
美しいメロディで、しっとりした情感が盛り上がる。

「私の平和と安らぎは、
すべてあなたにかかっている、すべてあなた次第」
とソフィアが訴えかけると、
繊細なオーケストラがそれを彩り、
ブルスキーノ父の胸を打ち始める。

しかし、ソフィアはいきなり取っていた手をはずし、
「残酷なあなたは苦痛に苛まれるでしょう」と、
脅しの内容を激しくぶつける。

その後も、
「あなたに救いを求めます」という台詞や、
「あなたは残酷さに報いられるでしょう」という台詞が、
交互に現れ、あの手この手で、老人を説得しようとする。
弦楽が活気付き、木管が色彩を添える。

このように、このトラックでは、ソフィアは、
甘えてみたり、非難してみたり、
両方を同時にまくし立てたり、
いかにも振る舞いがある種の女性的である。

裏面Track1.解説あらすじの「レチタティーボ」。
「決着をつけなければ」。

レチタティーボで、いろんな人が出て来てややこしい部分。
お巡りさんがやって来る。

これは、ディ・クレディコが演じているが、
なかなか面白い役割である。

「空から降って来た息子を認められますか」と、
ブルスキーノ氏(父)が訴えると、
お巡りさんは、「さあ別に」と、まるで心配しない。

しかも、お巡りさんは、
何故か、ブルスキーノ氏(息子)の手紙を持っているという。

ガウデンツィオ氏も出て来て、
お巡りさんに朝の手紙を渡すと、
お巡りさんは、「息子さんの筆跡です」と断言するので、
漫画の効果のように、じゃーんとオーケストラが鳴って、
ブルスキーノ氏(父)は椅子に倒れ込む。

裏面Track2.解説あらすじの「レチタティーボとアリア」。
「私は頭をなくしてしまったのか。」
この言葉のとおり、ブルスキーノ氏(父)は、
自分が錯乱しているのかと疑う。

ここは、ブルスキーノ氏(父)が主に歌い、
他のみんながはやし立てる部分。
これはほとんどイジメ、老人ハラスメントである。

ブルスキーノ氏(父)は、
自分の方がおかしいのではないかと言いだし、
遂には、「脳みそがからだの上から下までかけめぐる」
などという、早口の歌を歌いまくる。

お巡りさんまでが、何と、
なりすましのフロルヴェッレのことを、
ブルスキーノ氏(父)の息子だと断言するので、
彼は、「もっとはっきりした証拠を探す」
と激高するので、オーケストラは、
これこそロッシーニ・クレッシェンドで興奮する。

音楽は、悲痛な響きとなり、
ソフィアは、ここでも、まだ、
「私の心を安心させて下さい」などと訴え、
完全にブルスキーノ氏(父)は怒りと悲しみに爆発寸前となる。
そりゃそうだ。

みんなは「頑固な人だ」、「異常なほど頑固だ」と、
「めったにお目にかかれないほど頑固だ」と、
めちゃくちゃにはやし立てる。

すると、宿屋の主人、フィリベルトが現れるので、
ブルスキーノ氏(父)は、ようやく証人が現れたと喜ぶが、
すでに買収されている彼は、
お巡りさんの質問に対し、フロルヴィッレの事を、
はっきりと、ブルスキーノ氏だと宣言する。

このあたりが、LD表紙の部分であろう。

椅子の老人がブルスキーノ氏(父)で、
その上で、何かを振り回しているのが宿屋の主人。
睨んでいるのはヒロインの後見人のガウデンツィオ氏である。

事ここに至って、ブルスキーノ氏(父)は、
まったく希望をなくしてしまう。

「たとえ殺されたって認めないぞ」と怒る一方、
「少しは同情して下さい」と訴えたりもする。

そんなことはおかまいなしで、
「恥を知りなさい、もう諦めなさい」と、
みんなからはやし立てられるのが可愛そうである。
オーケストラは乗りに乗って、
非常に軽快な音楽を運んでいく。

もちろん、
「こんなむちゃくちゃなことがあるものか」と歌う、
ブルスキーノ氏(父)の方が正しいのだが。

裏面Track3.解説あらすじの「レチタティーボ」で、
「うまくおさまったが、借金の残りは」。

宿屋の主人が、「残りの借金を返せ」と、
ブルスキーノ氏(父)につめよると、
父親は、息子なら、あそこにいるだろうと突き放す。
すると、遂に、宿屋は、本人は宿に閉じ込めてある、と、
口止めされていたことを口走ってしまう。

それを聴いて、二人は外に出て行く。

後見人ガウデンツィオ氏がソフィアを連れて現れ、
「婚約を後悔いているに違いない」などと、
見当外れなことを言っている。
ソフィアは、「結婚って何ですの」などとカマトトぶる。

裏面Track4.解説あらすじの「レチタティーボと二重唱」。
「結婚とは愛の絆なのだ」。
ここは、後見人ガウデンツィオ氏がソフィアに、
「結婚とは愛の絆で、清らかな情熱と甘い情熱を灯すもの」
と説き聞かせる部分。
ソフィアも「心打たれました」と返して、二重唱となる。

「今こそ愛の絆を結ぶときなのかしら」と歌うと、
「その時なら兆しが見えるはず」と後見人は教え、
「心の兆し」について「教えようか」と尋ね、
彼女は、「ドキドキしてじっとしていられない」と答えたり、
「情熱の炎」についての診断が始まる。

ソフィアはいちいち、それを認めていき、
「私に花婿をお与え下さい」と要求する。

「お前に花婿を与え、嬉しい顔を見せてくれ」、
「よし、すぐに結婚させよう」と盛り上がって行く。

最後は、オーケストラも盛り上がって、
「彼だけが喜びで輝かせてくれる」という絶唱となる。

裏面Track5.解説あらすじの、
「レチタティーボと四重唱」。
「やっと分かったぞ、巧みな陰謀だ」。

ここでもいろいろな情報が錯綜して、
字幕を熟読して、流れを掴まなければならない。

ブルスキーノ氏(父)は、よろよろと戻って来て、
「ペテンが分かった」、
「しかしあいつは誰だ」と言っていると、
何と、なりすましのフロルヴェッレが、
「ガウデンツィオ氏の敵の息子とバレる前に結婚を急ごう」
などと言うので、ブルスキーノ氏(父)は、
全貌を掴むに至る。
が、ブルスキーノ氏(父)はしらばっくれることにする。

裏面Track6.解説あらすじの「フィナーレ」である。
「さあ、もう分別を取り戻してくれましたか」。

ここで、ガウデンツィオ氏が現れ、
再び、「息子さんと認めますか」などと聴くと、
ブルスキーノ氏(父)は、「意地を張ってしまった」、
「彼をここに呼んで下さい」という。

何かややこしい問題が起こるということか、
オーケストラでは、金管が激しく信号音を連呼する。
ソフィアも呼ばれ、
「二人を結婚させましょう」というので、
恋人たちが喜んで口づけをしている所に、
宿屋の主人、フィリベルトが、何と、
本物のブルスキーノ氏(息子)を連れて現れる。

音楽は、ぴょろぴょろと軽妙なリズム。
「ろくでなしの息子」と呼ばれるように、
息子は、ぐでんぐでんに酔っぱらっており、
頭髪にゴミが付いた汚い出で立ちである。

「後悔しています」と言って父親に近づくが、
情けないうらぶれた行進曲、葬送曲のような感じ。

「どういうことです」とガウデンツィオ氏が訪ねると、
ブルスキーノ氏(父)は、事の次第を説明し始める。
どうやら、彼は、散々、ソフィアから訴えられていたので、
若者たちの味方をしたようである。

そもそも、彼の息子は、完全に婚約者の資格などなく、
そうするしかないのは、誰の目に見ても明らかであるが。
ヴィト・ゴッピという人が演じているが、
有名なテノール、ティート・ゴッピの親戚筋であろうか。

そして、遂に、宿屋の主人が、なりすまし男は、
フロルヴィッレ上院議員の息子だと説明するに至り、
ガウデンツィオ氏は、「私の敵ではないか」と怒り出す。

が、すでに、二人の結婚を認めていたはずだったので、
「分別のない頑固者め、自分の息子を認めないなんて」
と、先ほど、散々、罵られたブルスキーノ氏(父)が、
今度は、ガウデンツィオ氏に詰め寄る。

「間違いのもとは『愛』なんです」と恋人たちが答えると、
ガウデンツィオ氏も、「許してやろう」としぶしぶ言って、
めでたしめでたしの幕となる。

このように、「ブルスキーノ氏」とは、
とんでもない酔っぱらいの不良息子で、
まったく、劇のタイトルになるような人物ではまったくない、
ということがフィナーレになって分かる。

なお、このLDも最後に、おまけトラックが付いているが、
この上演がなされたシュヴェツィンゲンのお城の紹介から始まり、
結局は、前回、「絹のはしご」で見たのと同じ内容であった。

このオペラでは、ブルスキーノ氏(父)と、
後見人のガウデンツィオ氏の事が、さんざん、
「頑固者」とか「意地っ張り」などと、
いかにも世代間の確執のように揶揄されているのが印象的だった。

また、このロッシーニの「ブルスキーノ氏」というオペラは、
この名前の役柄に出番が少ないということでは、
シューベルトの「フィエラブラス」以上であった。

なお、チェンバロは明記されていないが、
あまり特筆すべき点がなく、これまでのような、
シモーネ・ヤングのような大物ではなかったのかもしれない。

今年はこれから、電力規制によって暑い夏になりそうだが、
ブルスキーノ氏(父)のように、
暑さによって錯乱状態にならないよう注意したいものだ。

得られた事:「シューベルトの『フィエラブラス』と同様、この『ブルスキーノ氏』においても、若者たちと父親世代の隔たりが浮き彫りにされている。」
「『ブルスキーノ氏』自身は、確かに、いかがわしい人物であったが、その父親の方がむしろ主役級で、ひどい目に遭いながらも、最後には親世代の良心を代表する。」
by franz310 | 2011-06-04 23:47 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その278

b0083728_14195640.jpg個人的経験:
ロッシーニの音楽は、
ショスタコーヴィチではないが、
「ウィリアム・テル」序曲から
入門するのが通常であろう。
その他、彼のオペラの序曲には、
単独でも演奏されるものが多く、
かつては、時折、コンサートの
冒頭を飾っていた。
しかし、最近は、
そうしたコンサートも少ないようだ。


ロッシーニの序曲集の中で、
取り上げられるものには、
「どろぼうかささぎ」など、
気になる題名のものがあるが、
「絹のはしご」などと言う題名も同様だ。

今回、ようやく、その内容を吟味した。
これは、もう20年も前のLDである。

表紙を見て一目瞭然であるが、
かつて、「結婚手形」を楽しんだ、
シュヴェツィンゲン音楽祭のもので、
この前のが1989年のものであったのが、
今回のは1990年の記録である。

このオペラの序曲、
序奏の新奇な音響効果からして、
奇をてらったものと言えるが、
その後に出て来るうねうね系の主題も面白い。
木管による人をからかうようなメロディも美しい。
さすが、序曲のみで楽しませるだけのものはある。

はたして、このような序曲にふさわしい内容なのだろうか。

南條年章という人も、解説で、
「どちらかといえば序曲だけがある程度知られているだけで
『失敗作』のようにみなされてきたオペラに、
ジェルメッティとハンペは見事な光を与えた」と書いている。

こうあるように、この記録も、
前回の「結婚手形」と同じコンビによるものとなっている。
チェンバロはやはり、シモーネ・ヤングで、
解説者は、「注目に値するもので、
単純な和音しか書かれていない楽譜から、
その状況にぴったりの装飾音型を紡ぎ出している」と特筆している。

何と、解説者によると、ハンペの演出のすぐれた点は、
レチタティーボのこまやかさなのだという。
レチタティーボなどは音楽ではないと思って、
聴き飛ばしていた。

そして、失敗作とみなされるのは、
筋が二番煎じっぽいから、と書いている。

一方で、歌手陣の好演も特記されており、
特に、ヒロインのジューリアを歌っている
ルチアーナ・セッラと、
召使いのジェルマーノを演じる、
アレッサンドロ・コルベッリを最高と書いている。

しかし、前回、「結婚手形」で印象に残った、
カナダ人スルック役だったリナルディと、
その恋敵となった、エドアルド役だったキューブラーが、
今回もまた、同様の構図におかれており、
ヒロインが好きなドルヴィルにキューブラーが、
ヒロインが拒絶するブランザックにリナルディがあてられている。
これは、前作とまったく同じ役回りということになる。

前回も番頭さんみたいなノートンが、
三角関係の間で立ち回ったが、
今回は、それが召使いのジェルマーノになっている。

「絹のはしご」が、「結婚手形」と内容が似ているというのは、
こういった構図からも明瞭である。
このLDの表紙の写真に、彼等の関係が見て取れる。
真ん中にジューリアが立ち、
その前にジェルマーノが座り、
左には求婚者のブランザック(前回のスルック役)が、
右には事実婚のドルヴィル(前回のエドアルト役)が
向かい合っている。

さらに、前回、ややこしい役回りをヒロインの父親、
トビアが演じたが、今回もそれに相当する保護者として、
ドルモントというおっさんがいる。
この人の役はデイヴィッド・グリフィスという人が歌う。
前回の父親役デル・カルロは大変面白かったので、
ここでも出て来て欲しかった。

「結婚手形」では脇役だった女中に相当する女性役が、
今回はさらに重要な役割を演じ、
何と、彼女にジューリアはブランザックを押しつけようとする。
これはルッチアという名前で、いとこという設定。
ジェーン・バネルという人が演じている。
(前回はフェッレ)。

この人は、すっかりその気になって、
Track11で、素晴らしいアリアを聴かせる。
この音楽は、非常に機知に富んだもので、
きんきんする木管が、エキゾチックなメロディを奏でる。

A.Klugeという名前で、
「絹のはしご」上演史は、こう要約されている。
「1812年ヴェニスで初演されたものの、
観客や批評家の間での評判はよくなかった。
・・
1823年にはバルセロナで、
又1825年にはリスボンで上演されている。
しかし、ロッシーニの小品は次第に世の中から忘れられてしまった。
一つには誤って解釈されることが多かったからだ。
ロッシーニの伝記作者として有名なスタンダールやトイでさえ
多くの間違いを犯している。
もう一つの理由として、
その後に書かれたロッシーニのオペラの影に
隠れてしまったことが挙げられる。」
とお座なりのことが書かれている。
買った人の事を考え、
一つでも聞き所を書き出すべきではなかろうか。

さて、Track1は、オープニングで音楽ななし。

Track2.序曲で、冒頭から、
ジェルメッティの元気のよい指揮が見られる。
あの、特徴的な冒頭の急速で意表を突く楽節を、
ジェルメッティは斜め45度前方の空中に、
指揮棒を勢いよく突き上げているのが脳裏にこびりつく。

やたらオーボエのお兄さんが強調されるが、
木管アンサンブルに焦点を当てたカメラワークによって、
この作品も木管の音色を重視したものであることが分かる。

弦による、悪戯っぽい第1主題が始まると、
布で作ったはしごが暗闇に消えていく映像が一瞬出る。
これによって、絹のはしごは、
実際に、布製のもので梯子のように使われることが分かる。

第2主題の木管の交錯も美しい。
展開部では、ジェルメッティが横から写され、
何故か、背後の手すりに左手をあけての指揮であることが分かる。
だからそうした、ということはないが、
エネルギッシュだが、力を抜いた余裕も感じさせる。

Track3、「行っておしまい、いらいらさせないで」。
幕が上がると、いきなり大きな窓のある邸宅の一室。
このような舞台からしても、「結婚手形」にそっくりである。
このそっくりの理由は、後ほど分かる。

ちゃちゃちゃちゃちゃ、ちゃちゃちゃという、
明るい音楽が、冒頭から楽しい雰囲気を盛り上げる。

どたばたとピンクの女性が走り回っているが、
かっぷくが良すぎて、まさか、これがヒロインとは思わなかった。
しかし、目立つ服の色からして、
これがヒロインでなければなるまい。

このジューリアは、何か隠し事があるので、
召使いのジェルマーノが部屋に入って来るのを恐れているのである。
何やら隣室に隠しているものがあるので、
本を読むような振りをしてごまかしている。

ジェルマーノは何か作業をする恰好で入って来て、
近々、ジューリアがお見合いをすることを知っているという。
「結婚することは災難だ」などと昔の人が言ったとか、
どうでも良い話をして、なかなか出て行かない。

この後、「やっと独り」と、ジューリアは、
隠してあった絹のはしごを取り出し、
秘めやかな恋を、声の技法を駆使して歌い上げる。
窓の外には凱旋門がわざとらしく見えている。

この部分も、しっとりとした情感が美しく、
冒頭のけたたましい雰囲気と対照をなしている。

ジュリアーノに続いて、今度はいとこのルッチラが入って来て、
また、ジュリアーノも続いて入って来る。
はしごは、物置からはみ出して、
それを隠そうとジューリアは必死である。
すると、音楽は再び活気を取り戻し、
推進力を持って三重唱を盛り上げて行く。

Track4.レチタティーボ「もう大丈夫よ」で、
隠れていたドルヴィルが出て来て、
いつも夜中に密会の時の移動に使う絹の梯子の秘密を語る。

題名である「絹のはしご」とは、
テラスに引っかけてドルヴィルが夜這いする時、
いや、通い婚する時の道具だったのである。

確かに、シモーネ・ヤングのチェンバロの即興的な装飾は、
状況の描写までして素晴らしい。
絹のはしごを巻き取る様子など、名人芸である。

恋人たちが、しっとりと抱き合っていると、
ドアを叩く音がして、後見人のドルヴィルや、
従姉妹のルチッラが入って来る。
間一髪で、ドルヴィルはバルコニーから逃げる。
夜になったら戻って来てね、となまめかしい。
またまた、召使いのジェルマーノも、
男の人が来たとか言いながら入って来る。

Track5.「私は知っているわ」は、
後見人が結婚を勧めるその男が嫌なので、
このジェルマーノを味方にしておこうと、
ジューリアが「愛情の印を見せて欲しい」などと、
思わせぶりな歌を歌い出す。

実際の顔の表情変化もしっとりとして、
音楽のメロディも甘い。
装飾や声による緊張の高め方も、
ドニゼッティやベッリーニももうすぐ、
という所まで来ている。

ジェルマーノは、格好良いバリトンで、
「いくらでも差し上げましょう」と言いながら、
このロマンティックなメロディを歌い上げ、
それなりの愛のデュエット風になる。

ジューリアは、ジェルマーノには、従姉妹のルチッラの方が、
その男、ブランザックにふさわしいという。

ジェルマーノは、ブランザックを嫌うのは、
自分にジューリアは気があるものだと思っていたが、
すぐに、単に利用されていると気づく。
「優しい心に感謝しているわ」とか、
ジューリアは、彼を利用しようと必死である。

この部分は、音楽が急速になって、
お互いの思惑の差異や、手練手管を表す
軽妙なやりとりが軽快に描かれて行く。
ロッシーニは、しっとりした部分で時間を停滞させ、
続く部分では、快速に時間を先に進め、
魔法のように、緩急自在で時間を操っている。

シューベルトには、
こうした臨機応変な軽業が出来なかったかもしれない。

Track6.レチタティーボ「ご挨拶もなしに」。
後見人ドルモントが、
ややこしい花婿候補のブランザックを連れてやって来る。

何と、通い婚男のドルヴィルは、その友人だったらしく、
立会人として、一緒に入って来る。

ジューリアは部屋に入って出て来ない。
その間、友人たちは、ややこしい展開になっている。
ブランザックは、いかに口説くかを見てろ、と、
ドルヴィルを、物置に隠すことにするのである。

Track7.「拝見しようぜ」は、
ドルヴィルが、高らかなアリアを歌う。

序奏からロマンティックなもので、
耳をそばだたせる。

これは、とってつけたような華麗な装飾を伴うもの。
友人に影で見ているから頑張れと、言いながら、
「裏切らないでくれ」と神頼みをするような部分もある。

本来、感情が高ぶって歌い上げられるべきアリアが、
どうでも良いような戯言に声を張り上げる手段になっているのである。

Track8.レチタティーボ「この僕が、つかめないだって」。
何と、ジューリアから、
男を見張れ、と言われたジェルマーノもこっそり入って来て、
暖炉のところに隠れる。

ジューリアに言い寄るブランザックの様子は、
二人の男によって観察されることになる。
ブランザックは立派な花束を渡す。

ちょうど、私がこれを書いている今、
薔薇の花盛りの季節であるが、
香りも良く、ジューリアは、きっと、
その色にも香りにも、うっとりしていると思う。

Track9.「いとしい花嫁と結ばれるなら」は、
ブランザックがかき口説くシーンであるが、
リナルティのバリトンが、これまたダンディである。
乙女心をくすぐりそうだ。

今度は、豪華な首飾りを見せたりで、
ジューリアと友人が、
すごく良い雰囲気になってしまうのを目撃することになる。

物置から、大声でドルヴィルが、
「これはピンチだ」と歌い上げるのがおかしい。
ジューリアの揺れる心も表情に出て傑作だ。

これまた、やるなロッシーニという感じ。
自由自在に声の饗宴の効果を操り、
ジューリアがうっとりした瞬間には、
金管が勝利の咆哮を上げている。

「これこそ幸せ」とか言って、喜びや陶酔を歌うデュエットに、
物陰の二人が参加して四重唱になる。
ジューリアは、首筋にキスまでされている。

めちゃくちゃ怪しいシーンであるが、
何と、ブランザックは、ここで物置を開けてドルヴィルを出す。
今度は、ドルヴィルが甘い声で言い寄りながら、
首飾りを引きちぎる。
ジェルマーノも出て来て、表紙写真のややこしいシーンに突入し、
全員が、訳が分からなくなって「頭がぐらぐらする」と、
ぐるぐる回ったり、頭を抱えたり、
おかしな仕草を伴う興奮した四重唱に突入する。
各人が勝手な事を喋りまくって、
もう対訳が間に合わなくなって、
字幕が出ないが、もう台詞はどうでもよろしい。
生で見ていたら、きっと楽しくおかしいであろう。

Track10.レチタティーボ「さあ、行け」は、
勝ち誇ったブランザックが、ドルヴィルに、
うまく行ったと報告しろと言う部分。

ブランザック一人の部屋に、ルチッラが入って来る。
何と、ブランザックは、ルチッラの眼鏡を取ってしまい、
今度はルチッラの美しさを褒めそやす。

Track11.「私は心の中に感じるのです」。
ルチッラが気を良くして歌うアリアで、最後に喝采が起こる。
この部分の音楽については、とても印象的で最初に書いた。

管弦楽利用法の軽妙さ、メロディの新奇さ、
声の美しさを強調したメロディライン、
オペラの大家の筆はさすがである。

ルッチアはブランザックにキスし、
何と、ジューリアに上げたはずの薔薇の花束までを、
持って行ってしまう。

Track12.レチタティーボ「絶品だ!」
この手の美人は初めてだ、などと言い、
彼は、一回の訪問で美人二人に会ったとご機嫌である。

夜中になっても、ジェルマーノは働いている。
天井から妙な音がするが、ガス灯であろうか、
召使いが操作すると灯が点る。
この時のチェンバロの効果も、なかなかやるな、という感じ。
このチェンバロ、こっそり、
オペラのメロディを浮かび上がらせたりしている。

ジェルマーノは、物置の中にも仕事がある。
ジューリアは、誰もいないと思い、
恋人とのいざこざがあったので、気になっている。

きっとドルヴィルが謝りに来るはずだと、
「バルコニーに秘密の梯子を垂らしましょ」
などと歌い上げている。
ジューリアが好きなジュリアーノは、
その秘密を聴いて驚く。

CDで聴いていたら分からないかもしれないが、
ここでの二人の言葉は会話ではない。
それぞれが勝手にしゃべっているのである。

このLD、ここで裏面になる。
裏面Track1.「でも、もし、私の後見人が」となり、
ジューリアは、見つかった時のことが心配になってくる。
音楽も、その不安感を強奏する。

しかし、それからオーケストラは、
素晴らしい詩的な雰囲気を醸しだし始める。
ベルリオーズもびっくりであろう。
そして、フルートやオーボエが美しい響きを立て、
「愛しい方と」という、
ジューリアの美しいアリアを導く。

それは、「生命であり希望」だと歌い、
「この影の中、震えずにいられない」と、
彼女は、ヒヤシンスみたいな白い花を持って歌う。

あまりにしっとりしているので、
あまりおびえているようにも聞こえないが、
どうやら、後見人にバレることにおののいている模様。

ジェルメッティの指揮は、序曲で見たように、
強引とも思えるものであったが、
この部分で、このような超絶的な美しさを描き出したのには、
賛辞を贈らずにはいられない。

しかし、続いてジュリアーノが入って来て、
ジューリアは彼を追い出す。
活発な音楽になって、微笑みに満ちた序奏に続き、
ジューリアは引き続き、「恋する心は苦しいもの」と、
華麗な歌を歌い上げる。
すごい高音を駆使し、完全にベルカントで、
「胸が引き裂かれそう」とオーケストラと一緒になって盛り上げるので、
観客は大拍手である。
何故か、ジューリアは出て行く。

この部分は、音楽的にも濃密で、聴き応えがある。
これまた、ドニゼッティやベッリーニを先取りしている感じ。
筋とは離れた無関係な歌を、華麗に歌うのも同じだ。
このあたりになると、セッラという歌手が、
実に魅力的に思えて来る。

裏面Track2.レチタティーボ「ご立派!ご自由に」は、
入って来たジェルマーノが、
きっとブランザックが来るものと確信する。

裏面Track3.
彼はそのまま部屋に居座り、
ヒヤシンスや酒瓶を手に、
「恋は優しく、心に火をともし、
炎を燃え上がらせ、正気を失わせる」と、
眠気を感じながら、一日を振り返る。

この部分は、酔っぱらいながら、戯言を言う感じだが、
解説の南條氏も賞賛している歌である。
オーケストラも適度に歌手を補助して、
夜の気配、やるせない恋心など、みごとな雰囲気を作り上げている。

何と、この召使いがテーブルに伏せているところに、
ブランザックが本当にやって来る。
寝ぼけたジェルマーノは、
「お嬢さんは、真夜中に梯子を垂らして、あんたを待っている」と、
妄想も交え、知ってる限りをぶちまける。

この部分のロッシーニの音楽は、
管楽器にへんてこな音を出させたりして、
ハイドン風の小気味良いユーモアを効かせている。

ここで、ブランザックが、それを信じこむ点がミソである。
彼はラッキーと思うのである。

裏面Track4.レチタティーボ「何だって」。
ブランザックは、何だかよく分からず、呆然となって、
とにかく真夜中を待つ。
そのうちに、後見人やルチッラも入って来て、
どんどん、ややこしいことになる。
ジェルマーノは、ルッチアにも、
これから密会が起こると耳打ちする。
ルッチアは、暖炉の影、ジェルマーノは、

裏面Track5.「家の中はみな寝てしまった」。
この部分の音楽も期待感としめっぽい夜気が感じられて、
とても詩的なものだ。
「寝てしまった」というのは大嘘で、
次々といろんな人が現れ、最後には、
登場人物全員が揃っての、常識外れに騒々しい真夜中のシーン。
フィナーレである。

ジューリアが、「もうそろそろだわ」と歌いあげる。
控え目だが、美しい音楽だ。
「思った通りだ」とジェルマーノが呟くと、
「僕だよ」とドルヴィルがバルコニーから入って来る。
ジェルマーノにはすべて分かってしまう。

二人が昼間の事を許し合って抱擁していると、
誰かが物音を立てる。
ジューリアは、この1時間の間に、
何度、男性と抱擁したであろうか。
外で、「真夜中です、愛しいお方」と、
ブランザックが歌いだし、梯子を登ってやってくるのである。

この歌がいかにも勇ましく、
有無を言わさぬ強引さを感じさせるもので、
よくもこのキャラクターをうまく描いたと思う。
月光に照らされて、
テラスの手すりで恰好をつけているのも傑作だ。

オーケストラは、「とんでもない状況です」と、
まくしたてるような効果で活気づく。

ここで、またしても、ドルヴィルは隠れ、
ジューリアが一人で合うと、
「密会に来た」とずうずうしいので、
「誰も呼んでいない」と混乱の三重唱となる。

何と、ここからが仰天である。
何と、最後に後見人までがパジャマ姿で梯子で登って来て、
「驚いたか私が登って来るとは」などと言うのが面白すぎる。

「結婚手形」も、父親役が、ものすごい存在感だったが、
今回も、後見人が、やはりかましてくれた、という感じである。
私は、このワン・パターンが非常に嬉しい。
権威とは、何と脆弱なものであろうか。

福島原発の放射能漏れの報道も、
今となっては、すべて、嘘っぱちばかりだったようだ。
21世紀の先進国の実体は、大本営発表と何も変わらないものだった。
受け取る方も、出す方も、世界からは笑いものになっている。

それはともかく、怒り狂った後見人はコミカルに描かれ、
ここに隠れているな、と暖炉の陰にルッチアを見付ける。

まだいるはずだと、何と、ブランザックまで見付けると、
彼は大混乱に陥る。
ブランザックは彼のお気に入りだからである。

ルッチアは、ジェルマーノに言われたと白状、
後見人がテーブルをずらすと、その召使いまで出て来て、
もうどたばたの極地であるが、
ようやく、ドルヴィルが出て来て名乗りを上げ、
ジューリアも結婚させて、と言う。

ここで、何と、ブランザックは、怒りもせず、
これまた、じゃあ私はルッチアと結婚すると言い出すので、
見事に二組のカップルが出来て、後見人はなすすべがない。
「勝手にしろ」と叫ぶ。
これで、めでたしめでたしとなる。
「必ず愛の力が勝つのです。」

結婚のサインをする段になって、
天井の照明が爆発する演出もおかしい。

題名となっている、「絹のはしご」を、
登場人物の半数に当たる3人もが使うとは思いもしなかった。
これは、この演出特有のものだろうか。
少なくとも私は感動した。

これまで聴いたロッシーニのオペラ、
すべて、それぞれ彼にとって意味のある成功作であったが、
意味不明な題名のものばかりであった。

今回の「絹のはしご」は、失敗作だったようだが、
題名という点では、最も気が利いたものだったように思える。
台本は、「幸せな間違い」でヒットを飛ばしたフォッパである。

しかも、音楽も、序曲がそうである以上に、
とりわけ精妙に書かれているように思われる。
あちこちに私淑していたハイドン譲りのアイデアと、
詩的情緒が散りばめられている。
「失敗作」と読んでいたが、これは聞き応えのあるものであった。

さて、このLD、裏面のTrack6には、
ボーナス・トラックのようなものがある。

1752年に作られ、モーツァルトが演奏したこともあるという、
由緒正しいシュヴェツィンゲンのお城の紹介が最初にあって、
美しい壁画、天井画、室内の装飾、庭の画像が出る。

その後、なかなかイケメンのハンペ氏が出て来て、
今回の舞台についての説明が始まる。

ロッシーニが上演したヴェネチアの劇場は、
今はもうないので、この小さめの劇場で、
初期の小オペラ群を演奏しようと考えた、と内幕を語る。

彼もまた、ロッシーニの初期の小オペラ群は、
「すべて大筋が似ている」と言っているが、
よく肉付けすると、
生き生きと個性を発揮するといった感じのことを言っている。

また、これらの作品は、いろいろな国を舞台にしており、
ロンドン、イタリア、パリなどが巡れ、
窓の向こうには、その都市特有の景観が見えるようにした、
これによって、小旅行が出来るなどと言っている。

こうした作品を本来の魅力を出して演じるには、
歌えて演じられる優れた歌手が必要なのだそうだ。
そう言う中、各オペラの難しいシーンの画像が出て来る。

最後に、この演出家が初めて見たオペラは、
ここで見た、モーツァルトの「魔笛」だったという話があった。
感慨深い言葉である。

そうした体験あってこそ、昔の夢を追い求めてこその、
これらの演出だったというわけだ。

得られた事:「ロッシーニのオペラにおいて、オーケストラは観客の反応を代弁し、時間を緩急自在に調節する。」
「『絹のはしご』は、後半にかけての『私は心の中に感じるのです』から『でも、もし、私の後見人が』のオーケストラと声の織りなす技を聴け。」
by franz310 | 2011-05-29 14:30 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その277

b0083728_983837.jpg個人的経験:
シューベルトの大オペラが、
「救出オペラ」という
ジャンルに属すると言われても、
どうもぴんと来なかったが、
ロッシーニの初期作品を見ても、
そうしたジャンルが
確かにあったことが分かる。
ロッシーニ初期の「ひどい誤解」、
そしてここに聴く「幸せな間違い」も、
何となく同様の展開を持つオペラだ。


それにしても、
「ひどい誤解」と、「幸せな間違い」は、
何とややこしい題名であろうか。

内容まで検証しないと、
どっちがどっちか分からない感じだ。

こんなのは日本盤がなかなかないので、
レコード屋に言った場合、
イタリア語を見つめるしかないが、
「L’EQUIVOCO STRAVAGENTE」と、
「L’INGANNO FELICE」では、
見た感じがかなり違う。

従って、すっきりした方を選べば、
「幸せな間違い」の方が選べる。

これらの作品は、実際、かなり違ったもので、
1811年に書かれた「ひどい誤解」が、
二幕のオペラ・ブッファであるのに対し、
翌年初演の「幸せな間違い」は、
一幕のオペラ・ファルサである。
このCDなどは1枚に収まっている。

また、救出オペラとはいえ、
内容としても、まったく異なるもので、
類似品と考えてはならない。
今回聴くのののほうが、悲劇的な色彩が強い。

このような相違は、
当然、これらの作品に異なる運命をもたらし、
前者が長い間、不遇をかこっていたのに対し、
後者は、かなりのヒットを飛ばし、
少しすると、パリやロンドンでも聴くことが出来たようである。

従って、CDを探しても、この作品のものの方が、
簡単に見付けることができる。
今回、紹介するのは、それらの中でも、
強烈なデザインで私を惹き付けたものである。

1795年生まれという、
ちょうどロッシーニとシューベルトの間くらいの、
G.Bodinierというフランス人の絵画。
もみあげの長い、濃い顔立ちの男性が、
神妙な面持ちの女性に、何かを語りかけている。
胸に手を当てていることからも、
「La demande en mariage(結婚の申し込み)」
であることは見て取れる。

背景には、澄んだ夕空が広がっている。
これが、何となくセンチメンタルな情感を醸し出すが、
それは、この作品が持つ雰囲気の一部である。

ぱっと見の印象では、
現代であれば、さしずめ、一日、デートして見て、
やっぱ決めた、って感じだろうか。

女性の髪には大きなリボン、純白のドレスは、
たっぷりとした生地で、かなりのおめかし。
家柄も良さそうだ。
そういう意味では男性の方も、
たくさん飾りのようなものがついた出で立ちで裕福そうだ。

シューベルトの友人たちが、
同じ服を使い回していたのとは事情が違いそうだ。
だが、ロッシーニの描いた人たちは、
こんな恰好をしていたかもしれない。

さて、この「幸せな間違い」はヒットして、
ヴィーンでも見ることが出来たようだ。

井形ちづる著の「シューベルトのオペラ」でも、
1815年のヴィーン会議によって、
外国からの訪問者が増えた事、
それによってドイツ語が、
分からなくても楽しめる出し物が増えた、
とあって、その後に、
1幕もののオペラと1幕もののバレエの
2本立てが好まれたことが書かれている。

確かに、バレエなら言葉は関係なく、
オペラも型どおりのものなら、
たいがいの人は楽しめたはずだ。

その「型どおり」の一つが、
あるいは「救出オペラ」だったのかもしれない、
などと考えてしまった。

そして、この1幕ものの代表に、この「幸せな間違い」がある。
先の著書にはこうある。

「ウィーンにおけるロッシーニ熱は、
1816年の11月26日に
イタリア劇団によって
『幸福な錯覚』がケルントナートーア劇場で
上演されたといから始まる。」

1816年と言えば、
シューベルトは創作の最初の爆発を見せており、
「第4」、「第5」の2曲の交響曲や、
ミサ曲、3曲のソナチネの他、
100曲を越える歌曲を書いていた。

つまり、この年に、24歳のロッシーニの音楽が、
ヴィーンに上陸したのだとしたら、
まだまだ無名だったとはいえ、現在の目から見れば、
迎え撃つは19歳のシューベルトという構図であった。

が、迎え撃ったシューベルトは、
こてんぱんにやられてしまった感じであろうか。
翌1817年には、交響曲第6番や、
二つの「イタリア風序曲」が書かれるが、
これらは、ロッシーニの影響を受けたものとされる。

が、この「幸せな間違い」の序曲を聴くと、
むしろ、ロッシーニの方が、
シューベルトの交響曲第3番などを参考にしたのではないか、
などと考えたくなる響きが聴かれる。
彼等には、何か共通する先人なり、
風土なりがあったのだろう。

1816年にシューベルトが見たのは、
ロッシーニの「タンクレーディ」という、
ずっと大規模な作品の方だとされている。

が、この「幸せな錯覚」も、
ヴィーンで演奏されたとする資料もある。
私は、この事実を、今回のCD解説にも探してみたが、
見付けることは出来なかった。

ダミエン・コーラス(Damien Colas)という人が書いた解説は、
こんな感じで始まっている。
「ロッシーニの『幸せな錯覚』は、
ヴェニスのサン・モイーズ劇場で、
1812年1月8日に初演された。
たちまち、このオペラは成功し、
他のイタリアの劇場で取り上げられた他、
その後、主要なヨーロッパのオペラハウスで上演された。
1819年5月13日には、パリのイタリア劇場で初演され、
1819年7月1日のロンドン公演が続いた。
この小さな1幕のオペラ・ファルサは、
ロッシーニの傑作群に先立つものであるけれども、
疑いもなく、
素晴らしい成功にかけあがる作曲家の最初の一歩であった。」

1819年の英仏初演が取り上げられているのに、
何故に、ヴィーン初演が書かれていないのか、
まことに不思議ではある。

ただし、アインシュタインの著書でも、
このオペラこそが、ヴィーンに最初に紹介された、
ロッシーニであると書いている。

この作品は、フランスの文化に通暁した大家であった
ジョゼッペ・マリア・フォッパと、
ロッシーニの幸福な出会いともなった作品であるらしい。

では、この作品のどこが「幸せな間違い」であり、
どこが「救出オペラ」なのか。

まず、それが知りたいではないか。
CD解説には、このように、「あらすじ」が書かれている。

ややこしいことに、この劇は、
前段階にいろんな事が起こっており、
その顛末のみが描かれたもので、
まず、下記のような状況を把握しておく必要があるらしい。

「ベルトランド侯爵と妻のイザベッラは、
オルモンドが彼女に横恋慕するまでは、
完全な幸福の中に暮らしていた。
彼女が夫を愛し続けることに対する、
彼の激しい恨みと、イザベッラへの復讐の念は、
彼女の評判を傷つけ、バトーネを拐かして、
彼女を船に乗せて風のままに流してしまう。
彼女は奇跡的に、田舎の鉱山のコミュニティ長である、
タラボットに救出され、
以来、彼女は、タラボットの姪のニーサとして過ごすことになった。」

ロッシーニのオペラは、
これまで見てきたように、
やたら相手がいる女性に言い寄る男が出て来るが、
今回は、悪さにかけてはピカ1である。

また、こう見ただけで、このCDの表紙の絵画と、
このオペラには、何の関係もないことが分かる。

こんな長い話を、省略してしまって良いのだろうか、
などとも感じるが、以下の部分が、
実際にオペラとして演じられるようである。

「それから10年が経過した。
タラボットの鉄鉱山を、
軍関係の仕事でベルトランド侯爵が訪れた時点から劇は始まる。」

おいおいおい、と言いたくなる設定である。
何故、そんな近くにいたのに、
イザベッラは帰ろうとせず、また、
タラボットはイザベッラを帰そうとしなかったのだろう。

などと考え出すと、先に進まないので、先を急ごう。

序曲は、極めて独創的なもので、
穏やかに情感豊かな序奏部から、
いきなり、スペイン風のリズムが強奏される。
その後、ハイドン風にちょこまかした第1主題が出る。
浮き立つようにこの主題は発展していく。

ピッチカートに乗って、シューベルトの交響曲のような、
木管による晴朗な主題が響き渡る。
この序曲だけでも、
すでに、シューベルトは知っていたのではないか、
などとも考えてしまうほど、似た雰囲気である。
リズムも激しくなって、音楽も推進力が増して終わる。

このCD、フランス古楽の新鋭、
マルク・ミンコフスキ指揮によるもの。
いつも、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
という団体と録音していたが、
ここでは、チュイルリー・コンサートという団体を振っている。

第1場は、山並みが連なる谷間である。
山には平地に抜ける道が見え、
岸壁に坑道に入る穴が開いている。
崖に近いところにタラボットの家があって、
反対側に高い木とベンチがある。
タラボットは坑夫を連れて、穴から出て来る。

Track2.導入部、タラボットとイザベッラの二重唱。
いきなりてきぱきしたリズムが支配的なのは、
伯爵が来るので、タラボットは、
部下たちに指令を出しているのである。
が、オペラ・ファルサなので、
合唱が応答するわけではなく、
タラボットの一人芝居みたいな感じ。

みんながいなくなると、物憂げなオーケストラに乗って、
イザベッラの歌が始まる。

「ニーサ/イザベッラは、一度は捨てられたとはいえ、
いまだ夫を愛しており、自分が無実である旨を手紙に書く。
(カヴァティーナ、『何故あなたの胸から妻を手放した』)」

なるほど、単に、船で流されたのは、
オルモンドがやったというよりも、
ベルトランド自身が、そうさせたのだな、と理解する。

切々たる歌の途中で、急にリズムが激しくなるが、
これは、「私は策略にかかったのだ」と怒っている部分。

が、再び、変わらぬ愛を歌う部分はロマンティックになる。
アニック・マッシスというソプラノである。

また、せかせか主題が始まるが、相変わらず、
ベルトランドが準備をしていて、
そんな中、伯爵が来ることをイザベッラは知る。
イザベッラは、「私はあなたの妻」などと口走り、
隠していた手紙や肖像画までベルトランドに見つかってしまう。

「彼女は偶然、彼女が口走った事を聴き、
そのほんとうの素性を知って、
すぐに夫の愛が取り戻してやると約束する。」

このあたりはTrack3のレチタティーボで、
やりとりがある。

Track4.第2場。ベルトランドのアリア。
「ベルトランドが腹心の二人、
オルモンドとバトーネを連れて到着する。
彼は悲しげで、彼女が裏切ったと考えているのに、
いまだ妻を想っている。(カヴァティーナ、『何と優しい光』)」

「憎まなければならないのに、
私の愛は彼女にあることが苦しいのだ。」
採掘場に現れるや、いきなりこんな歌を歌うとは、
この人もかなりいかれている。

かなり純情な歌で、フルートの助奏も楽しく、
いかにもイタリア風に歌い上げる。
ギメネッツというテノールが歌っている。

Track5はずっとレチタティーボで長い。
第3場から第5場までがこのトラック。

第3場、オルモンドとバトーネ登場。
悪役二人の低音を交えてのおっさん臭い部分。
ベルトランドは、どうやら敵の急襲のために、
坑道を利用しようとしているようだ。

第4場では、タラボットがそこに加わる。
タラボットは、自分は姪とここで幸せに暮らしている、
などと説明している。

第5場では、タラボットは伯爵を連れて鉱山に入り、
残ったバトーネは、ニーサに水を飲ませてくれと頼んで、
かつてヤバい事をした相手を認め、おどろいて顔を隠す。
彼女も気づいているが、勇気を出して、
「何を驚いているの」などとしらばっくれている。

解説にはこうある。
「坑道の案内に伯爵にタラボットが随行すると、
バトーネはニーサと二人で取り残される。
そして、それは、驚いたことに、
伯爵夫人のイザベッラにそっくりだった。

Track6.バトーネのアリア。
じゃーん、じゃじゃじゃじゃという序奏で始まるが、
バリトンで男前っぽいアリアを歌う。
「彼女の声は俺を凍り付かせる」。
歌っているのは、ロドネー・ジルフライという人で、
写真で見てもイケメンである。
が、内容は、まことに情けない。
海に流したはずが、何でいるんだーっという感じ。
しかも、ちゃっちゃらちゃっちゃちゃーちゃと、
軽妙な音楽である。
シリアスなのに、軽妙。
最後は逃げてしまう。

Track7.
第6場、イザベッラとタラボットのレチタティーボ。
イザベッラは、夫が来ることを期待し、
タラボットも、再会を応援する。

第7場は、イザベッラが消えて、
伯爵が兵士たちを連れてやって来る。
ベルトランドとタラボットのレチタティーボ。
仕事の話から、ニーサ紹介の話になる。

第8場は、イザベッラが再登場し、
大きな地図を持って来る。
「バトーネとの再会シーンに続き、
すぐに第2の再会シーンとなる。
今回は、ベルトランドが来て、
坑道の下調べを終わろうとしている。」

イザベッラは地図で説明し、伯爵は、
彼女を見て、びっくりの三重唱となる。

Track8.ベルトランド、タルボット、イザベッラの三重唱。
じゃじゃ、じゃじゃっと、オーケストラも、
この再会のシーンを盛り上げる。
「その優美な顔が私を驚かせる」と、
ベルトランドが歌うと、
イザベッラは、「彼は冷淡だけど愛が伝わるわ」
などとやっている。

緊迫したシーンを盛り上げる
まことに心温まる三重唱である。
このような歌は、シューベルトも得意としていたはずだ。
オーケストラの繊細な響きも、典雅なメロディラインも、
いかにもシューベルトを思わせる。
最後にソプラノが輝かしい音色を響かせながら、
突き進む様子も、シューベルトが好みそうだ。
8分半にもわたって、このドキドキシーンは歌い上げられる。

Track9.第9場。レチタティーボ。
タルボット、ベルトランドに、悪者、オルモンドが加わる。

「ベルトランドは、彼女はニーサだ。
イザベッラは死んだんだ」などと言っている。
そして、彼はこの場を去る。

第10場。
「言うまでもなく、この驚くべき事の成り行きは、
オルモンドに報告され、彼はすぐに、
その夜、ニーサを誘拐するように、バトーネに命じる。」

Track10.オルモンドのアリア。
完全に悪者のアリアで、
じゃっじゃっじゃっという序奏に続き、
「俺という男を知っているな、
誰も、俺を否定することは出来ない」などと、
怖い声を張り上げている。
シューベルトの軍隊行進曲のような、
へんてこな効果を持つリズムが、
有無を言わさず、命令に従うことを強要する。

Track11.第11場。
タラボットとバトーネのレチタティーボ。
「タルボットは、この言葉を偶然聞き、
バトーネが、ニーサが本当は誰なのか悩む中、
懐疑心を起こす。」

レチタティーボは、最初、独白の連なりである。
それが次第に腹の探り合いになっていく。

Track12.二重唱。
ロッシーニ得意の早口言葉も交えてのコミカルな二重唱。
「あなたに姪なんていないと言っている」
「あなたは誰かを危めたと聴いている」
などと、言ったあと、
「中傷はまずいですなあ」、
「たわごとはまずいですなあ」
などと皮肉を言い合って笑っている。

Track13.第13場。
イザベッラのアリアで、緊迫したシーンから切り離された、
純愛を歌い上げるもの。
「悪者たちが、愛する人の心から私を奪った時、
私には盲目の愛しかなかったわ」。

解説には、
「タラボットは、客人たちに自分の不幸について、
説明するようにアドバイスする」とあるが、
この部分は省略されたのであろうか。
このアリアは唐突である。
CDの収録時間は78分なので、おそらく、
この説得シーンは入らなかったのであろう。

Track14.第14場。
タラボット、オルモンド、ベルトランドのレチタティーボ。
ベルトランドも、彼女が気になって情報を集めている。

第15場、タラボットとベルトランド。
タラボットは、姪のニーサを助けて欲しいとベルトランドに頼む。
夜になると悪者が来るという。

Track15.フィナーレ。
このフィナーレはいろんな事が起こる。
14分もかかる。
「夜が更ける。タラボットはベルトランドに、
ニーサがまた危ない目に会うと訴える。
まさにその時、オルモンドとバトーネは、
公然とマスクもせず、ニーサを拉致しようと到着する。
彼女が伯爵夫人の服を着ていて、
伯爵の肖像を持っていたおかげで、
最終的にイザベッラだと認められる。
オルモンドは逮捕されるが、イザベッラは、バトーネを許す」
と解説に書いてある部分である。

確かに、これはピンチを救う救出オペラだ。
だが、「ひどい誤解」や「フィデリオ」や、
「フィエラブラス」のように牢獄から救出するものではない。
水戸黄門のように、ピンチで現れるもの。

「舞台は暗い。バトーネは、ランタンを持ったりして、
武装した何人かと現れる。ライトが内部を照らすと、
舞台は真っ暗になる」というシーンから。

夜の雰囲気たっぷりの、
冴えた空気を感じさせる序奏も美しい。
あるいは、この曲で、この部分が最も素晴らしいかもしれない。

バトーネは、悪役の下っ端であるにもかかわらず、
実際に歌っているのがイケメンのバリトンだからか、
「静かな、親しい夜よ、
ああ、私の目的を果たさせてください」
などと歌うだけで、妙にナイーブな恋の歌に聞こえる。
花を摘んで話しかけ、
家のドアが開いていてラッキーと入っていく。

ここから、別の状況が歌われるので、
是非とも、このあたりでトラックが欲しいものだ。

庭の小道からタラボットとイザベッラが現れ、
木の陰に隠れる。
イザベッラは下手な仕立ての貴族風の服を着る。
「どうして、これを着せたがるの」
「これらを着ることが、お前を救うのだよ」
などとやって、隠れる。
イザベッラが無邪気なのが可愛い。

ベルトランドが、松明やランタンを持った手勢を連れて現れる。

彼等が入って行くのを見て、
イザベッラは、「胸が張り裂けそうだわ」などと言っている。
イザベッラが可愛い子供のような反応をする点に留意必要である。

オルモンドが来て、バトーネはうまくやったかな、
などと言っていると、ベルトランドは、
「オルモンド!」と驚く。

バトーネは、「家にいません」と報告している。
オルモンドは、「俺が調べる」と入っていく。

ベルトランドは、「静かにしないと殺す」と、
バトーネを掴まえる。
そして、オルモンドが出て来たら、
誘拐する理由を聞き出せ、と命じる。
まことに格好良い現れ方だ。

これもまた、救出オペラの醍醐味であろうか。
おびえるバトーネに合わせて、
ベルトランドとイザベッラが歌う二重唱の美しいこと。
このあたり、夜の雰囲気たっぷりのオーケストラも聴きものだ。

さて、ここからは、テンポが快速になる。
バトーネは、「勇気を出せバトーネ、
はっきりと言うのだぞ」などと自分を奮い立たせている。

オルモンドが「チクショウ、いねえじゃねえか」などと出て来ると、
バトーネはうまく誘導尋問する。
オルモンドは、「俺を袖にしたイザベッラだとしたらぶっ殺す」
とか言ってしまう。
快適なリズムに乗って軽妙に描かれていく。

ここで、緊迫感を盛り上げて音楽が一転する。
この時、伯爵は手勢を連れて取り囲むので、
舞台は明るくなる。
すごいトーチだ。ついたり消えたり簡単にできるようだ。

ベルトランドは、自分の過ちにも気づき、
妻はどこだ、などと叫んで自殺しようとする。
登場はかっこいいが、直情径行の人でもある。
そこに、やめてやめてとイザベッラが飛び込んで来る。
このあたりの展開はものすごく速い。

最後は、急に調子良くなったタラボットが、
「長い長い、真実の愛」などと叫び、
最後には、急速に奏されるフルートに乗って、
音楽が盛り上げられ、喜びの四重唱が歌われる。
ここでも、最後は、ソプラノの輝きが印象的。

このように聴き進むのは、
ほとんど一日がかりの仕事になってしまったが、
解説を書いたダミエン・コーラスによれば、
このオペラは特別なものだというので、
よく味わう必要がある。

彼が書くところによると、
台本作者のフォッパと、ロッシーニは、
さらに、「絹のはしご」(1812年5月)や、
「ブルスキーノ氏」(1813年1月)など、
同様な成功作を生んだが、
この「幸せな間違い」は、「アルジェのイタリア女」や、
「セリビアの理髪師」のような喜劇の才能の爆発まで、
特別な地位にあったという。

ロッシーニの5つの若い頃のファルサの中で、
この作品のみがジョコーソ的ではなく、
「感傷的コメディ」に属していると書いている。
革命後のヨーロッパで、
革命前のフランスを思い起こさせて好評だったようだ。

そう言われてみれば、主人公は貴族だし、
前に聴いた2作のような成金のいやらしさは皆無だ。

この作品はジャン・ジャック・ルソーが、
「コメディーは道徳的に悪漢を懲らしめるものではなく、
聴衆に親近感を持たせるものだ」と書いた理論の、
完璧なサンプルだという。

確かに、ロッシーニの書き方は、バトーネに優しい。

イザベッラを拉致しようとする、
憎たらしいオルモンドとバトーネには、
コメディに付きものの、
いらだたしい邪魔者を消そうとする計略
(このファルサのタイトルの「間違い」やごまかし)
が見られるが、これが転じて福となる。

邪魔者を消す計略が「間違い」だとすると、
「幸せな間違い」と訳してはいけなかったのか?
「幸福になる計略」とかが正しいのだろうか。

解説を書いた人は、
「貞節と無垢の勝利」という副題を推奨している。
そして、この解説の題名は「気立ての良い喜劇」となっている。

どんでん返しという伝統的な劇的手法ばかりか、
単純さ、誠実さが、悪賢さやエネルギーと対比されてもいる。
ということで、ここに出て来るヒロインの、
イザベッラは、無垢の魂を体現したように描かれているのである。

得られた事:「ロッシーニは、斬新で皮肉に満ちたテーマで世に出たが、国外に名を馳せるのに役立ったのは、むしろ、シューベルト的に生真面目な主題によるものだった。」
by franz310 | 2011-05-22 09:12 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その275

b0083728_2302514.jpg個人的経験:
オペラ作曲家として立つという、
シューベルトの望みを、
打ち砕く原因として、
必ず語られるのが、
ロッシーニの存在である。
彼のオペラを、
ここではざざっと鑑賞し、
それらがシューベルトを
いかにして魅惑し、粉砕したのか、
考えていきたいと思う。


例えば、アインシュタイン著、
「シューベルト、音楽的肖像」(白水社 浅井真男訳)には、
「シューベルトが・・・華麗さそのものを、
軽蔑したり非難したりしたわけではない。
・・ただ彼はあの華麗さを、
どちらかといえば『社交的に』構想された作品、
軽くてあまり厳粛でない種類の室内楽、
例えばピアノとヴァイオリンの大きい二重奏曲、
二曲のピアノ三重奏曲、『ます』の五重奏曲などの範囲に
とどめておいたのである。」
などと書かれていて、
このブログの主題たる「ます」の五重奏曲もまた、
節度ある華麗な作品の一つとして取り扱っている。

そして、この節度を見失った作品として、
1818年のホ長調のアダージョ(D612)が、
上げられているが、それについては、
「ロッシーニ派のコロラトゥーラ=アリアの
穏やかな序奏部の模倣のように聴こえる」
と書いているのである。

このように、シューベルト研究の碩学も、
シューベルトにおける華麗さは、
ロッシーニなどイタリア音楽に負うものが多いと考えている。

さて、私が入手したロッシーニのオペラのうち、
最も初期のものは、1810年作曲、
彼が音楽院を出てすぐ作曲したとされる、
「結婚手形」である。

ロッシーニは1792年生まれで、
シューベルトより5歳年長であるから、
巨匠のわずか18歳頃の作品である。

ちなみにこの頃、シューベルトは、
サリエーリについて勉学を始めており、
学校のオーケストラを指揮したりして、
着実に歩みを初めていた。

さすが、オペラの大家ともなると、
こんな若い頃に書いた作品から、
「まずまずの成功」を収めたと解説にある。

結論を先に書くと、
この作品は、登場人物も数人しかなく、
一幕の小さい作品ながら、聞き所の多い、
機知に富んだ作品となっている。

シューベルトでは聴かれない、
技法も多く含んだ音楽は美しく、
劇としても、風刺が効き、上質で楽しいので、
見ているだけ、聴いているだけでも満足度が高い。
あるいは、このLDの演出が優れているのかもしれないが。

シュヴェツィンゲン音楽祭で、
89年に収録された記録のLDで、
ありがたいことに、ワーナーミュージック・ジャパンが、
1991年頃に日本でも発売してくれてたもので聴く。

このLDの帯を見ると、
(物語)として、
「カナダの成金商人スルックに、
娘のファニーを嫁入りさせようとする
英国商人トビアス・ミル。
ところが、ファニーには親に内緒で
エドアルドという恋人がいるために、
話がややこしく。」

何だか、シューベルトの世界と違って、
いきなり、英国だ、カナダだと、
生々しく、かつ、国際的で洒落ている。
ほんとうに同じ時代の作品かと目を疑うではないか。

帯のコメントはさらに続く。
「事情を察したスルックの協力を得て、
如何に恋人たちが父親の裏をかき、
ハッピーエンドに導いて行くか・・・
が見どころ」と書いてある。

このように、父親との確執がある部分は、
いくぶん、シューベルトの世界にも通じるものだ。

どうやら、スルックは別に、
ファニーと結婚する気はなかったということか。
このLDを見れば分かるが、
問題は、実際、一人、その気になっている父親なのである。

とにかく、そのあたりの下世話な話が展開する。
「英雄ロマン・オペラ」などを構想した、
シューベルトの世界とは別世界と言ってよい。
英雄でもなければ、ロマンでもない。

表紙には、にやにやした男と、
当惑した女が写真となっているが、
この二人が「恋人たち」である。
あまり冴えない二人に見えるが、
実際、鑑賞してみると、
ジャニス・ホールのファニーはかわいらしく、
キューブラーのエドアルトもハンサムだ。

荘重な家具や、コンパスや地図など、
舞台の大道具、小道具も素敵で、
非常に格調の高い、見応えのある舞台と言ってよい。

LD表紙には、小さな写真も並んでいて、
頑固なくせに、実は気の弱い父親の情けない顔や、
豪勢な毛皮を着た、カナダ人の姿も映っている。

ミヒャエル・ハンペの演出で、
この前のグース演出の奇抜な「フィエラブラス」の後では、
何の工夫もない舞台にも見える。
ただ、絵画的にしっとりと美しい。
室内で展開される物語だが、
窓の外に教会のドームが見えているのも洒落ている。

解説書によると、
この音楽祭は1956年に
南西ドイツ放送協会が始めたものらしく、
「企画力あふれるユニークな存在」、
「質の高さ、音の良さでわが国の音楽ファンに
かなり以前から注目されてきた」と書かれている。

西ドイツ、バーデン・ヴュルツブルク州にある、
18世紀、マンハイム選帝王の夏の離宮、
そこのロココ劇場は響きが良く、
ここを中心に、
盛りだくさんのプログラムが演奏されるのだという。

裏表紙にお城の写真があるが、瀟洒で清潔な感じ。

LDの最後には会場内が映し出されるが、
装飾も美しく、シャンデリアも豪華な、
流線型の美しいホールである。

確か、シューベルトの音楽も盛んに演奏されたはずで、
私は、FMなどで聴いた覚えがある。

1992年がロッシーニ生誕200年だったことから、
ロッシーニが集中して取り上げられたようだ。

名演出家とされるミハエル・ハンペが手がけ、
前述のテノールのキューブラー、
ソプラノのホールの他、
バリトンのリナルディ、バスのノートン、
バス・バリトンのデル・カルロ、
女声では、フェッレといった陣容が歌っている。

指揮はジェルメッティで、
シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏。
何と、近年話題の女流指揮者、シモーネ・ヤングが、
伴奏を務めている。

有難い事に字幕もあって、解説も日本語で分かりやすい。
解説は、LDのサイズの紙で表裏1枚分しかないが、
よく書いてあってかなり勉強になる。

ロッシーニの生涯から、オペラの分類、
このオペラの作曲や初演について、
物語の内容から各曲の説明まで、
至れりつくせりの内容である。
南條年章という人が書いている。

日本にオペラを盛んに紹介している人のようだ。
さすがと思わせる解説である。

ロッシーニは、結局、何曲のオペラを書いて、
私は、それらのどれだけを知っているのだろう、
などと考えて聞き始めたが、
この解説は、最初から、
「ロッシーニの生涯と39曲のオペラ」
という題で始まっており、とても助かる。

彼は音楽家の家庭に生まれ、
未来の作曲家は12歳から、
ボローニャ音楽院で学ぶことが出来た。

前述のようにこの作品の成功によって、
オペラ作曲家の道を歩み始め、
わずか数年で、音楽史上の傑作、
「セビリャの理髪師」を書くに至るが、
ものすごい量の作品を、
いろいろな劇場のために書いたようだ。
このあたり、ヴィーンに留まっていた
シューベルトとはかなり違う生き方である。

この「結婚手形」は、ボローニャではなく、
ヴェネチアのサン・モイゼ歌劇場で初演されているが、
余勢を駆ってだろうか、「絹のはしご」、「ブルスキーノ氏」なども、
この劇場のために書かれている。

1811年にボローニャのために「ひどい誤解」、
1812年にはミラノ・スカラ座のために「試金石」を書いているし、
1813年には、同じヴェネチアでも、
フェニーチェ座のために「タンクレディ」が、
サン・ベネデット歌劇場のために
「アルジェのイタリア女」が書かれている。

この「タンクレディ」などが、
ヴィーンでヒットした事は有名である。

つまり、ロッシーニは、
学校を卒業して何年かして書いた作品によって、
いきなり外国をも征服したのである。

このオペラ「結婚手形」は約86分のもので、
台本は、ロッシという人が書いたらしい。
もともとが、フェデリーチという人のコメディらしく、
「ファルサ・ジョコーザ」と呼ばれるものとなっていて、
短い笑劇みたいな感じである。

なお、このロッシという人は、かなりの大家で、
ロッシーニは、シューベルトの場合とは違って、
正規ルートで良い台本を得たと言えるだろう。

「上演時間は一時間前後、合唱は使用されず、
何人かのソリストによって構成される」
オペラ・ファルサに分類されるようである。

ロッシーニには、ファルサが6曲あるようだ。
ただし、この形式は衰退の途上にあったということで、
これらの多くはロッシーニの20歳前後の作品だという。

この作品の作曲の経緯も書かれているが、
これまた、非常に興味深い。
何と、ロッシーニの両親の友人にモランディ夫妻というのがいて、
この人たちが出演するサン・モイゼ歌劇場の作曲家が降りたので、
急遽、ロッシーニに依頼が来たとあるので、
完全にコネによるチャンスである。

というか、両親が絡んでいるので、
ステージパパ、ステージママによる援助を受けた、
エリート坊やという感じではないか。

ただし、この解説には、
ロッシーニはハイドンに傾倒していたので、
「ドイツ坊や」と学校であだ名を付けられた、
などという逸話も出ていて、
早くから、特別な才能だったことが分かった。

ただし、この作品、作曲が急がれたので、
序曲は在学中に書かれていた既製品の流用のようである。
この序曲は、そのためか、かなり充実したもので、
ジェルメッティも気持ちよさそうに指揮している。

じゃじゃーんという助奏には、
木管の音型も美しく、
続いて、ロマン的なホルンの呼び声が印象的。
主部への入り方などもハイドン風である。
ただし、たったらたたったらたーと喜ばしい第一主題を始め、
フルートの軽妙な主題など、
いかにもイタリアの明るさがみなぎっている。
楽器音色の交錯と力強い推進力は、さすがである。

LDでは一面にトラックが15、二面に7トラックある。
Track3で幕が上がると、大きな邸宅の一室であろうか。
使用人とおぼしき老人が、
テーブル上の本に挟まれた手紙を見ている。
小間使いのクラリーナが買い物から戻って来る。

この役を演じるフェッレは美しくて愛嬌がある。
二人はお嬢さんが何時結婚するかについてああだこうだと歌う。

Track4では、荘重な出だしながら、
軽薄なリズムが旦那のトビアの登場を告げるが、
この役柄の居丈高な部分と、実は情けない部分を予告している。
見事だ、ロッシーニ。
地図や羅針盤を手に、使い方がまったく分からん、
と歌う、へなちょこのアリアである。
こんなことまで音楽にしてしまうのだなあ、
と改めて感じ入った次第である。

途中、手紙が届くが、
Track5で、レチタティーボとなって、
手紙の内容に、トビアが興奮する。

ここで気の利いたチェンバロを奏でるのが、
シモーネ・ヤングであろうか。

結婚会社の設立をするので、
妻を送ってくれ、という文書に、
トビアは新しい結婚の申し込みだと喜ぶ。
「素朴で感情豊かで善意に満ちている」と言うが、
読み上げられた内容は、
「以下の条件に見合う妻を送ってくれ」という、
ビジネスレター調の結婚申し込みなのである。

番頭のノートンは、トビアの娘に同情する。

トビアや番頭が出て行くと、
Track6で、その部屋にファニーと、
エドアルドが入って来て、恋を語らい合う。
キスを交わしながらの効果的な二重唱で、
途中から速度を増したりして、
わくわく感を醸成させている。

このような効果は、シューベルトにはなかったかもしれない。

オーケストラはセレナードを表すようなピッチカートとなって、
時折、挟まれる弦楽のメロディも繊細だ。

Track7はレチタティーボ。
ノートンが現れ、この二人に例の「妻注文書」を見せる。
彼等が困っていると、何と、父親も入って来て、
見知らぬエドアルドを見て、不愉快に思ったのだろう。
「若すぎるし現代的すぎる」などと批判する。

Track8で、巨大な毛皮の上着、
毛皮の帽子を被ったカナダ人スルックが登場する。
ゴージャスにほおひげまで生やした成金である。
上着を脱いでも、袖にぴらぴらがついた、
変なスーツを着ている。

音楽は、この人物の登場のおかしさを表すように、
活気付いて妙に雄弁である。
ロッシーニの音楽は、
オーケストラが目立ちすぎると、
当時の歌手たちが不平を言ったというのもよく分かる。

Track9はレチタティーボ、
スルックは、ずうずうしくも、
「私にふさわしい商品はまだか」などと催促する。

彼は、娘のファニーを気に入ったようである。
ファニーはしかし、あなたの商品ではないと怒る。

Track10は、スルックは、
「このような素晴らしい在庫品のためならば、
資本をはたいても悔いはない」という、
いかにも商売人をこけにした台詞が面白い。
ファニーは、
「他の在庫品を捜してください」と、
機転を利かせた歌を聴かせる。

この音楽も、素晴らしく推進力のある、
木管を伴うオーケストラがややこしい状況を、
微笑みを持って描き出す。

運動会の徒競走にでも使えそうな、
まことに威勢の良い音楽で、
聴衆を釘付けにしそうである。

Track11は、再びエドアルドが登場して、
彼女は君のために創造されたのではない、
という説得の歌を歌う。
しかし、スルックもさすがに押しが強い。

オーケストラは急速に泡だって、
さまざまな技法を繰り出すが、
そんな中、エドアルドはカナダに帰れと詰め寄り、
ものすごい早口でまくし立てる、
絶大な効果を持つ三重唱となる。
オーケストラも必死になってついていっている感じ。
拍手が鳴り止まない。

Track12は主人と小間使いのレチタティーボ。
小間使いは「旦那さまはひどい」といい、
番頭さんは、「アメリカ人は単純だ」などと言う。
他愛ない会話である。

Track13は、そのクラリーナが、
「二人の気持ちはよく分かる」と、
いかにもモーツァルト風の歌を歌う。
このフェッレという人は声量はないが、
澄んだ声を聴かせる。

Track14は、
レチタティーボになって、
番頭ノートンが「入手するものをよく検査したか」などと、
カナダ人、スルックに問いかける。
彼は、「ひどい所に来たかもしれない」と独り言を言う。

そこに、何も知らないトビアが、
調子よく、事の成り行きが、
うまく行ったことを期待してやってくる。
スリックは、トビアに対しては、
「取引も順調だ」などと語る。

「では、あなたのものだ」と嬉しそうな、
主人に向かって、スルックは、「欲しくない」という。

Track15は、二重唱。
何と、諦めたスルックに対し、
トビアが、
「娘は注文どおりだ」と、
取引が成功しそうにない事を怒り出す。

早口で応酬し合う言葉に対し、
パガニーニの協奏曲のアンダンテのように魅惑的な、
オーケストラが穏やかに響いているかと思うと、
管楽器がぺちゃくちゃと喋る、
快活なメロディが出たりして、
音楽的にも凝った作りである。

「アメリカ人さん」、「ヨーロッパ人さん」と、
呼び合うまでに関係が悪化した二人。
トビアは遂に決闘まで口に出すに至る。
一方、野蛮な成金のはずのスルックの方は、
冷静に、何とか無事に帰れないかと考え始める。
最後は、ちゃちゃちゃちゃ、ぶちゃちゃちゃちゃと、
快速なリズムと早口で締めくくる。

裏面のTrack1は、
ようやく、スルックが、ファニーとエドアルドの仲を理解する部分。

またまた大げさな毛皮を着込んだスルックが、
「みんなが私を殺したがる」とボヤキながら、
二人の関係を察し、エドアルトは、
自分には財産がない事を告げる。

ファニーは、父がスルックとの結婚を強要した事を告白、
「なんて国だ、父が娘に強要するなんて」
というスルックの台詞が意味深である。

彼は、自分の相続人にエドアルドを指名する書類を書き、
これで、恋人たちの結婚は保証されたと言う。
粋な計らいである。

Track2は、喜びを歌い上げる、
ファニーの感謝の歌で、
華美ではないが、素直にスルックへの感謝が感じされる。
その後、彼女はエドアルドの手を取って、歌を続けるが、
何と、情緒に満ちたオーケストラが息づいていることだろう。

アインシュタインが、
「ロッシーニ派のコロラトゥーラ=アリアの
穏やかな序奏部」と書いたのは、
こうした部分であろうか。

その後、音楽は加速してみたり、
夕暮れの気配を醸し出したり、実に変化に富む。
最後はベルカント風の装飾を散りばめながら、
ファニーは、「私は何と幸せでしょう」と歌い上げる。
後半になると、さまざまな技巧が凝らされたアリアになるが、
これ見よがしではなく素直。
ジャニス・ホールの歌唱に、拍手喝采である。
伴奏は、えっちらおっちら軽妙なリズムを刻んでいる。

もう、これで、ややこしい関係は解決されて、
話はついたはずだが、もっとややこしい問題が残っている。
ファニーの父親とカナダ人の決闘である。

Track3で、
「善を施せた」と良いながらスルックは去る。
レチタティーボ。
主人が戻って来て、
「何か陰謀を感じる、復讐してやる」、
「一発で殺す」など、まだ激情に囚われている。
そして、今更ながら、自分が死ぬ場合もあることに気づく。
それはみっともない、と自ら認め、
何となく怖じ気づいてくるが、気を取り直し、
いかに、相手を圧倒し冷酷に恐怖心を与えるかの練習を始める。

Track4では、
このオペラの魂とでも言える二重唱が始まる。

主人は剣を出して、自作自演で、
相手を倒す練習と妄想を始める。
「帽子はこう被る、目と顔をひきつらせる、
歩きながら、彼を睨む」とイメージ練習に没頭する。
このあたりの舞台効果は絶大で、
さきほどまで威厳に満ちていたトビアが、
完全に間抜けに見える。

考えてみれば、このおっさんが、
諸悪の根源なのである。

それを演じるデル・カルロの表情も動作も最高である。
目を剥き、口を開き、間抜けな顔をしたと思うと、
威厳を見せてみたりして、面白すぎる。

一部始終を見ていて、
「私は生き返った」と歌いながら現れるスルック。

今度は、スルックの方が、さあ、決闘だと言い出す。
声色も変えながらの、あまりに面白い二重唱である。
このおっさん二人、ジョン・デル・カルロというバス・バリトンと、
アルベルト・リナルディというバリトン、素晴らしい共演だ。

オーケストラは二人をはやし立てるように、
ちゃーちゃちゃちゃーちゃちゃとリズム良く、
時折、進軍のファンファーレなども響かせて、
とても気が利いている。

このように、このオペラ、ちゃんと後半になって、
どんどん盛り上がるように出来ている。

Track5は、
決闘に行こう行こうと言いながら
なかなか出かけない二人の前に娘のファニーや、
小間使いのクラリーナが仲介に入って、
四重唱が盛り上がって行く。

Track6は、全員が現れての、
大団円の六重唱である。

まず、エドアルド役のデイヴィッド・キューブラーが、
格好良いテノールで、決闘を制止する。

主人のトビアは、みんなを懲らしめてやりたい、
と何時までも興奮している。

野蛮人のスルックが、妙に落ち着いて、
「怒鳴り散らして、すっきりしただろう」と、
事態の収拾を図る。
私の相続人に娘を譲ってくれ、
という取引に、「この取引はきっとうまく行く」と、
喜ぶ主人。最後まで商売人なのである。

最後は、6人の合唱を、軽妙で推進力のある、
ロッシーニらしいオーケストラが盛り上がってサポートして、
終幕の興奮を強烈にドライブしている。

ロッシーニのオペラ、ほとんど処女作からして、
面白すぎないか。

が、これは、シューベルトが確立したかった、
どこか理想郷のような物語ではなく、
三面記事にありそうな、金と色恋の物語でしかない。
「英雄ロマン・オペラ」ではなく、「成金風刺オペラ」、
あるいは、「商人現実オペラ」である。
おそらくシューベルトは、
こんな作品は書きたくなかったと思われる。

得られたこと:「ロッシーニの初期オペラ、聴き映え十分。が、あえて、シューベルトは、こうした機知に富む風刺の世界を拒絶していたのではないか。」
by franz310 | 2011-05-07 23:04 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その145

b0083728_08589.jpg個人的経験:
前回、カラヤンが、
フルニエと録音した、
シュトラウスの
「ドン・キホーテ」
について取り上げた。
このカラヤン、
この曲への傾倒を
口にしているとおり、
さらに、2回の録音を
残している。

本来の「ます」に関するテーマからも、
ケッケルト四重奏団の話題からも、
かなり離れてしまったが、
せっかく、この指揮者は音声のみならず、
画像も残してくれているので、これを見ない手はないような気もする。

カラヤンの残したLDでは、
チャイコフスキーのピアノ協奏曲を、
ワイセンベルクと残したものが、強烈に問題作である。

ワイセンベルクが一人で弾いているような映像が登場し、
完全に録音と録画が別の機会のものであることが見え見え。
つまり、これは演奏の記録ではなく、演奏の映像脚色なのである。
もし、そんなものであれば、まったく見たくないのだが、
これは幸い、演奏会の拍手から収録されているようだ。
前回のものから10年、75年1月とある。

ちなみに表面には、やはり、ワイセンベルクの共演の記録、
ラフマニノフの「第二ピアノ協奏曲」が収められたお得盤である。
これは、73年9月の録音とある。
確かに、カラヤンのラフマニノフの「第二協奏曲」と、
ロストロポーヴィッチとの「ドン・キホーテ」は、
この時代、相次いでEMIから洒落たジャケットで発売されたのを思い出す。

しかし、かつて、東芝EMIからLPが出ていた音源が、
こうして、イエローレーベルから出て来ると、
非常に不思議な気持ちになる。
何だか節操のない世の中になったような気がしたものだ。

LDの発売は88年。
もう20年も経ってしまい、LDからDVD、
さらに新世代DVDの時代になりつつある。

偶然ながら、ちょうど、最近、
中川右介著「カラヤン帝国興亡史」(幻冬社新書)を読んだ。

その終わりの方に、「映像」という一章があるので、
これを見て見ると、カラヤンの晩年のレコードの多くは、
映像の企画があって、それに便乗したものである、
と書かれている。

また、カラヤンはTV放送を想定して65年から、
このような映像作品を手がけていたともある。
が、これが花開くのはLDの時代になってからであった。
彼は、20年も待ったのである。

また、この本には、ありがたいことに、
この70年代のカラヤンの、
グラモフォン、EMIとの関係についても書いてある。

グラモフォンだけでは、自分の帝国の拡大には限界を感じ、
レパートリーの制約も多かったので帝王は不満だったとある。

が、ベルリン・フィルはグラモフォンと契約していたので、
その束縛を離れるべく、何と、ミュンシュが亡くなって困っていた、
パリ管弦楽団に近づいて、まず、そこの音楽顧問となったようだ。

パリ管と、69年にフランクの交響曲をEMIに録音、
翌年に、ワイセンベルクとチャイコフスキーのピアノ協奏曲を、
やはり、EMIに録音して、EMIへの再進出を果たす。

これによって、何と、グラモフォンは、
レパートリーの一任という好条件に転じたとあるので、
したたかな戦略は、みごとに成功したのである。
このように、パリ管は、すでに十分利用できたので、
2年で契約は終了。

それにくわえて、
グラモフォン録音時は、
ベルリン・フィルの時給も4割UP、
さらに、ここの専属から離れての録音も、
可能になったというのだから、
やりたい放題だったと言える。

73年にはベルリン市から名誉市民の称号も得た。
ということで、このLDの映像は、
このような絶頂期の記録とも言える。

さて、ラフマニノフと、シュトラウス。
ほとんど同時代を生きた作曲家ながら、
まったく異質な組合わせとしか言いようがない。

単に、二人の独奏者との共演風景を撮影しただけの
表紙デザインも、適当にならざるを得ない、
ということを如実に示している。

ロストロの方が大きいのは格の違いということか。
ソリストは、眼を開いてがんばっているのに、
カラヤンはおなじみの目瞑り指揮で、
アイコンタクトは拒否。

下の方に映った、ベルリンの楽員も呆れている。

一方、解説を書いた、Wolfgang Domlingという人も、
このカップリングには、さぞかし困ったのではなかろうか。

そのためか、非常に難解な書き出しに苦渋をにじませている。

「多くの人々に何かを語りかける音楽を書いた、
成功した作曲家の成功は
(The success enjoyed by successful composers)」、
という、奇妙奇天烈な書き出し、
このこんがらがる主語に続いて、
「しばしば、芸術の『純粋さ』を掲げる者によって、
多くの聴衆を責め立てるために使われてきた。」

成功した作品が分からない奴はダメだ、ということか?

「新しく、また、同時に、
多くの人々に聴かれるような音楽を書くことの問題は、
ベートーヴェンの時代から存在し、
作曲家たちは、それぞれの方法で対処しなければならなかった。
中傷と非難はしばしば一緒になるがゆえに、
成功した作曲家を、時代の『前衛』ではないからと責めるのは、
歴史的にも、人間的にも不当であるし、
成功は理想への裏切りを伴うという連想は、
一般にまったく根拠のないことなのである。」

以上の文章は、英訳者のMarry Whittallも、
正しく訳せているのだろうか。

とにかく、ラフマニノフとシュトラウスは、
共に成功した作曲家であったということが共通点だ、
ということを導くための枕詞を考えるようにしたい。

「セルゲイ・ラフマニノフとリヒャルト・シュトラウスは、
彼らの世代の最も成功した作曲家であったことに、
疑問の余地はないが、
彼らはどちらも、イージーな道を歩まなかったし、
また、大衆を喜ばせようと慎重に作品発表を行ったわけでもなかった。」

確かに、そうかもしれないが、
共に作曲家でありながら、指揮者やピアニストなど、
演奏家として活躍でき、なおかつ、長寿を授かったこともあって、
自作自演によるコマーシャルもうまくいった人たちとも言えよう。

レーガーなどが前衛のチャンピオンだったはずだが、
この人はまともな録音技術が出来る前に亡くなってしまっている。
マーラーなどもそうかもしれない。

さて、ここから前半のラフマニノフの話になるが、
こんな事が書いてある。
ざっと読み飛ばす。
「ラフマニノフの音楽が分かりやすいのは、
その音楽が自発的な即興の結果だからではなく、
注意深い推敲の結果だからである。
良心や憂鬱と戦いながらの、
ラフマニノフの作曲のスピードはいつもゆっくりで、
自身の技術や超絶技巧を完成させるべく、よく改訂を行った。
彼の大規模の作品は、できあいの設計に乗るものではなく、
むしろ、形式のいずれもが新しい着想に満ちていた。
彼の『第二ピアノ協奏曲』においても、交響的な着想
(ここに独奏楽器が特別な音色を添えるような)と、
伝統的な協奏曲(オーケストラと独奏楽器の交錯が素晴らしい)
の圧倒的な総合を目指していた。
また、テーマの結合も独創的で、例えば、
第一楽章の再現部では、第一主題が展開された形で、堂々と現れる。
この作品は冒頭から非凡なもので、
独奏者のための8小節は、和音の繰り返しで聴衆を魔法にかけながら、
ピアニッシモからフォルテッシモに変化し、
ヘ短調から始まるのに、ハ短調のカンタービレの主題を準備する。
第二ピアノ協奏曲は、ラフマニノフの伝記において、
特別な場所に位置し、1897年初演の第一交響曲の失敗による、
鬱病の危機から創造力を取り戻しての解放を意味する。
この鬱状態は、精神科医のダール博士の催眠療法が、
作曲家の創造力を復活させるまで、2年の長きに及んだ。
1900年の夏に彼は、この作品の第二、第三楽章を書き、
その年の12月に初演した。
曲は翌年、全曲が完成され、モスクワにおける、
1901年11月のジロティ指揮の初演によって一気に名声を確立した。
これは同時にラフマニノフが、
国際的なヴィルトゥオーゾとしてのキャリアを踏むための一歩となり、
彼自身、この作品や後に出来た協奏曲を演奏することを好んだ。
1904年、彼は、この作品によってグリンカ賞を得ている。」

今回のテーマはシュトラウスなので、
個人的にはラフマニノフの方が好きだが、
これはこれで紹介するにとどめ、
後半に書いてあることを詳細に見て見よう。

だから、ラフマニノフとシュトラウスとは、こうである、
といった話は、もうおしまい。まったく何も書いていない。
先の難しい前置きの後は、完全に別個のことが書かれている。

「ドイツ語圏にて、19世紀終わりの10年、
その中心に二人の作曲家があった。
1860年生まれのマーラーと4歳年少のシュトラウスである。
彼らは早くから互いをライヴァルと意識し、
一般的に、彼らは同じように高く評価されながらも異質、
という風な位置づけとなっている。
マーラーは交響曲に優れ、シュトラウスはオペラに優れる。
しかし、シュトラウスもまた、
交響的な作品の作曲家としてデビューしており、
最初の交響詩『ドン・ファン』は、マーラーの『第一交響曲』と同時期、
1888年から89年にかけて書かれている。
(シュトラウスのオペラ作曲家としてのキャリアは、
8つめの音詩『家庭交響曲』の後、2年した、
1905年の『サロメ』まで離陸しなかった。)
シュトラウスもマーラーも、非常に色彩的な音楽を書いたし、
文学との結合も中心的要素として作品の中に持っており、
この観点からすると、二人とも、
リスト風の交響詩のコンセプトの後継者と言える。」
このあたり、だいぶ分かりやすいが、
マーラーとの関連をここまで長々と書く理由は不明である。

「『ドン・キホーテは、彼の音詩の第六番であって、
1897年のものである。
風刺の効いたセルバンテスの騎士ロマンス、
『ラマンチャの男、ドン・キホーテ』(1605、1615)に
基づいているが、タイトルだけ拝借したものではなく、
シュトラウスは材料として、いくつかの章を選び、
明白な内容のリストを作ってもいる。
スコアにある言葉の引用としては、しかし、
これら2人のキャラクターを表す、
主題が最初に出て来る時の、
『ドン・キホーテ』と『サンチョ・パンサ』の名前があるのみである。
騎士は独奏チェロで表され、恐らく、
シュトラウスは、ベルリオーズの、特異な協奏曲風交響曲、
『イタリアのハロルド』(1834)を踏襲したものと思われる。」

「イタリアのハロルド」については、このブログでも取り上げたので、
何らかの関連性が出来てよかった。
このところ、シューベルトから大きく離れてしまったので、
少々、心配であったのだが。
ちょっと、前の文章とのつながりが出来た。

「『ドン・キホーテ』の形式は、よくある1楽章形式の交響曲ではなく、
エキセントリックな英雄の個々のアドヴェンチャーの主題に相応しく、
序奏部と終曲に挟まれた10の変奏曲からなる。
シュトラウスは後に『ドン・キホーテ』の中に、
当時流行の騎士道に強烈な風刺を効かせた、
セルバンテスの精神に基づいて、
『へんてこな変奏曲の形に悲喜劇的な冗談を振りかけた』と書いている。
古くさい仰々しいフル・タイトル、
『序奏と主題と変奏と終曲。騎士的な性格の主題による幻想変奏曲』は、
作曲家の伝統からのアイロニカルな距離の取り方を示し、
1912年の『ナクソスのアリアドネ』では、
音楽そのものに、より明確に、
そうした、彼の距離の取り方が反映されている。」

アリアドネといえば、劇中劇のような、
二重構造の構成を持つことで知られているが、
「ドン・キホーテ」にもそうした要素があるのだろうか。

実は、この解説、ここから最後にかけての記述が嬉しかった。
「『英雄の業績』と題された部分において、
作曲家自身の以前の作品が引用される点が重要な役割を演ずる、
どこか尊大な音詩『英雄の生涯』にも劣らず、
『ドン・キホーテ』の風刺的視点は、
シュトラウス自身にも向けられている。」
私は、こうした事実を単刀直入に聞きたかった。

「『英雄の生涯』は、
1898年まで完成しなかったとはいえ、
『ドン・キホーテ』と共に着想され、
同時期に描き始められたものである。
1897年4月の彼の日記には、
『交響詩“英雄と世界”は、形をなし始めている。
まるでパンの笛が、“ドン・キホーテ”を伴奏するかのように。』
彼は常々、これら二作品は一緒にプログラムに載せることを主張していた。
『ドン・キホーテ』と『英雄の生涯』は、一対の作品と考えられ、
特に、『ドン・キホーテ』は『英雄の生涯』と並べられて、
初めて完全に理解できるのである。」
このように、この解説では、
これまで見てきた解説のどれよりも、
この作品の作曲家の内面における位置づけに、
言及したものとなっているのだ。

つまり、単なる、セルバンテスの文学作品の描写、
とは完全に別次元の側面を有していたわけである。
反対にこれまでのCDにあったような、
描写の内容などには一切触れていない。

とはいえ、これまで、
マーラーとは違って、外面的なことばかりに、
労力を割いていたとされるシュトラウスの、
違う一面を見たような気がした。

マーラーは、美しい自然の中で、
「ここにあるものは、すべて作曲してしまった」
と言ったが、やがて、「アルプス交響曲」を書く、
シュトラウスもまた、見た物、聴いた者、
すべてを作曲していたことでは変わりない。

さて、貴公子フルニエとは異なり、
カラヤンの言うことをまったく聴かずに、
自由自在に演奏していたという、
ロストロポーヴィッチの解釈も聴きものである。

このLD、映像付で楽しんでいるうちに、
あっと言う間に終わってしまった。
とても美しい演奏で、
これを買って、有り難い気持ちになって、
満足するのではなかろうかと思った。

私には、しかし、基本的に65年の、
フルニエ盤との大きな差異は感じられなかった。
あいかわらず、流麗な演奏であるが、
カラヤン流に料理され尽くしたシュトラウスで、
先の解説にあった、シュトラウスがアイロニーの中に込めた、
二重三重の意味のようなものは、
ほとんど滲み出て来ない。
この作品に対する愛着を語ったとおり、
カラヤンは、冒頭から、非常に満足そうな表情である。
もう一人の主役のロストロポーヴィッチは、
彼の独奏が始まるまで、まったく姿を現わさない演出もすごい。

演奏会とは別に、
わざわざ、この部分は、ロストロ抜きで撮り直したとしか思えない。

おそらく、この巨匠は、
まさか、極東のリスナーごときに、
そんな風に取られるとは思わなかっただろうが、
この映像が、余計に、彼の解釈の平板さを剥き出しにしてしまった。

どこまでカラヤンの息がかかっているかは分からないが、
Artistic SupervisionにHerbert von Karajanとあるから、
彼の責任の範疇に数えてよいかと思うが、
まず、絵作りが常套的である。
この時点で、平面的にしか、音楽を見ていないことが明々白々。

映像編集は、時間ばかりかかって、
労多くして、というような単調な苦行であるが、
おそらく、こうした労力に専念しているうちに、
それ自体が目的になってしまったのかもしれない。

そうした落とし穴があれば、
作品数を落とすべきであるが、
彼は、その落とし穴にすら気づかなかったのであろうか。
大量に録音するスター指揮者とは、
実は、そうした宿命を背負うものなのかもしれない。

晩年のバーンスタインが、ライブ録音という形を好んだのも、
おそらく、そうしたルーチンに流れるのを、
聴衆の力で引き離す効果を求めたものに相違ない。

今回のLD、具体的に書き出すと、
とにかく、光で滲んだような楽器の光沢を背景に、
眼を瞑った指揮者の大写しばかりが映るものと思って頂ければよい。

そして、音楽が強奏になると、力一杯に力んで見せ、
流麗な部分では、なだらかな動作を見せる。
曲想が激しくなると、楽器のコラージュが始まる。
このような演出のルーチンワークの中に、
いったいどんな創造性があるのか理解できない。

とはいえ、確かに、これはこれで、
かつては、かっこよく見えたかもしれない。
眼を瞑った彼は、まるで、念ずるだけで、
魔法を繰り出すことの出来る超能力者に見えるではないか。
高度成長期のお父さんなら、
こんな風に、自由自在に部下を操ってみたいと、
憧れたとしても不思議はない。

我々の時代、多くの力を合わせて、
個々の力を超えようとする、
オープン・イノヴェーションが主流となりつつあるなか、
これは、完全に時代遅れの町工場の発想である。
(もちろん、今でも、こうしたスタイルが好きな、
中間管理職は多いものだが。)

つまり、ここでの楽団は、
遠隔操作で操られるロボット集団なのである。
ロボット集団などを率いて嬉しい価値観は、
北朝鮮を想起させる。

これは、団員の顔は写さないで良い、
音楽は俺様が奏でているのだ、と言ったという、
彼の言葉からもすでに分かっていたことだが、
第四変奏などで、カラヤンの手のひらが大写しになって、
そこに楽器が重ねられていくような編集までを見せられると、
もう、ほとんど、ギャグではないかと思ってしまう。

この後、ぺろっと舌を出して、
いかがでしたか?というような、やらせでもあった方が、
ずっと芸術として深いものになりそうだ。

シュトラウスは、自画自賛の「英雄の生涯」の毒消しのように、
「ドン・キホーテ」を書いたに相違ない。
が、カラヤンは、この作品までも、
自らの「英雄の生涯」にしてしまっている。

例えば、第三変奏の後半で、
騎士は崇高な理想に向かって、
素晴らしく美しい間奏曲のような音楽を奏でるが、
ここでは、カラヤン一人が、この世界で俺様を発揮して、
流麗に弧を描きながら陶酔している。

まるで、「英雄の完成」のような表現である。

シュトラウスが補完が必要だと思ったものに、
同じものを当てはめて、
それは、果たして、意味のあることなのだろうか。

また、前回の演奏でも気になった点だが、
序奏で、ドン・キホーテが、妄想の世界に突入する様子は、
音として、美しく磨き上げられているだけで、
あまり説得力を感じないし、
主人公が死んだ後の余韻も物足りない。

が、多くの人がすでに書き連ねたことを、
真似したように、ケチばかりを書いても仕方がない。
これはこれで完成した商品であることは間違いない。

先ほど、書いたように、あっと言う間に時間が流れ、
快適なひとときは約束されているのである。

コンサートマスターのシュヴァルベの活躍もそこそこ見られるし、
ヴィオラ独奏のコッホの登場もかっこよい。
ロストロポーヴィッチも、体当たりの熱演だが、
その力演以上に音が出ていないような気がする。
おそらく、音はレコード用に撮って、後から、
演奏会の絵を継ぎ接ぎしたのではないだろうか。
実演は、もっとホットな部分があったと想像した。

第三変奏で、ロストロポーヴィッチがコッホと、
アイコンタクトをしながら、シュヴァルベも絡んで来る三重奏は、
まことに美しい。これは、やはり、三人の個性がぶつかるからであろう。

双方向性といった特徴を有するweb2.0時代には、
このようなひとときに至福がある。

もちろん、眼を瞑って他人の介入を拒絶し続けるカラヤンには、
こうした喜びは無縁であろうが。

ハープの弦の向こうに時折見えるハーピストの女性も、
良く見えないがロマンティックである。
第五変奏で、夜風が主人公に襲いかかる時に、
眼があってはっとする。
シュトラウスの方は、こんな楽しみもある。
でも、何故、ウィンドマシーンは、画像に出て来ないのであろうか。
あまりにも、へんてこなので、失望させないようにだろうか。

一方、ラフマニノフの演奏は、どうも楽しめない。
音が硬いのか、音楽が堅苦しくてぎこちない。
曲想のせいか、画質も暗い感じがするし、
(よく見ると、ピアノが黒、ワイセンベルクの服も黒、
カラヤンの服も黒。オーケストラもみんな黒。
聴衆も黒くて、9月の録音とは思えない。)

ワイセンベルクは髪型も表情も兵隊のようで、気が滅入る。
それぞれが、それぞれの仕事をして帰って行きました、
という感じ。

このコンビによるラフマニノフの2番のLPは、
教会のステンドグラスのデザインで、
とても素敵だった印象があるが、
あの時のイメージはたぶん、ぶち壊しになる。


あまりにもカラヤンが映る比率が高く、
主役のはずのワイセンベルクですら居場所がなさそうなので、
我々聴衆の居場所などあるわけがない。

得られた事:「『ドン・キホーテ』+『英雄の生涯』≒シュトラウスの自画像」
カラヤンの場合:「『ドン・キホーテ』=『英雄の生涯』=俺様」
by franz310 | 2008-10-19 00:27 | 音楽