excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
以前の記事
2018年 05月
2018年 03月
2017年 10月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


タグ:宗教曲 ( 42 ) タグの人気記事

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その309

b0083728_2329938.jpg個人的経験:
シューベルトが、
「ます」の五重奏曲を
書いたのは、
1819年の事だと
されて来た。
それが本当だとすると、
の話であるが、
同時並行的に、
いくつかの宗教曲が、
構想されていたのが面白い。


例えば、シューベルトの作品というだけに留まらず、
ロマン派期における宗教曲のマスターワークとされる、
「ミサ曲」第5番変イ長調D678なども、
この時期に着手されている。

渡邊學而著の「フランツ・シューベルト」(芸術現代社)でも、
このミサ曲は、「一八一九年十一月から作曲を始め、
一八二二年九月にようやく完成している」
などと記載されていた。

「ます」の五重奏曲は、夏の滞在で着想され、
年末にかけて完成されたという説もあるので、
何と、これらの作品は並行して書かれていた可能性も、
なきにしもあらず、という感じなのだ。

このような著書が出たのが出たのが、
昭和60年(1985年)であったというのが悩ましい。
というのは、この時点で、
シューベルトの宗教曲など、
日本では数えるほどのレコードしか出ていなかったのである。

本を読めば読むほど、気になる、
というのがシューベルトの宗教曲であったわけだ。

ようやくにして現れたのが、
1980年代前半に、アナログ録音、
デジタル録音取り混ぜた感じで登場した、
サヴァリッシュ指揮の「宗教曲全集」、
CD7枚組であった。

これは、日本では、東芝EMIから、
1990年代になって、ようやく、
限定仕様ながら出された。

採算が合ったのか心配になったが、
きちんと各曲の解説も歌詞も付けられ、
瞠目すべき偉業であった。

サヴァリッシュは、私にシューベルトの、
初期交響曲のすばらしさを教えてくれた、
大恩人のような指揮者である。

サヴァリッシュの交響曲全集や前のミサ曲録音は、
ドレスデン・シュターツカペレの演奏であったが、
ここでは、バイエルン放送交響楽団が起用されている。
これだけの作品群を効率よく録音するには、
放送交響楽団の機能性、即応性が買われたのであろうか。

歌手陣も壮観だ。
ポップ、ドナート、ファスベンダーといった女声陣、
フィッシャー=ディースカウ、シュライアー、
ティアー、アライサといった男声陣。
その他、私が知らない人も独唱者として上がっているが。

何と、日本盤には、
「ヴォルフガング・サヴァリッシュの言葉」
として、
「シューベルト宗教合唱曲全集によせて」
という一文まで付いている。

実は、これは大変、貴重な読み物である。

1994年に真鍋圭子という、
それから、サントリーホールのプロデューサーになった人が
じかに聞き取ったようなので、
まさしく日本でしか読めない内容と見た。

このような付加価値の付け方もあるわけだ。

これを読むと、
何故、このような大がかりな録音が行われたかが、
よく分かるようになっている。

つまり、サヴァリッシュが、友人に、
この録音プロジェクトを持ちかけられた経緯から、
回想がなされている。

「これらの作品を全曲録音することが自分の使命である」
と遂に思い始め、幸いにも、
バイエルン放送響とEMIとの全面的協力があった、
事などが書き出されている。

つまり、サヴァリッシュからの提案ではなく、
彼は、その友人に乗せられてしまった側だったようなのだ。
しかし、遂に、それは、使命感をかき立てたようで、
こうした、自発的な高揚感の連携から
生まれた仕事が悪いはずがない。

すでに亡くなっていたルチア・ポップを惜しみ、
「実に充実した、楽しい時」と、このプロジェクトを回想し、
この録音を「胸躍らされることが度々」あった事を告白している。

エキスパートの歌手陣も、初めて見るような楽譜を前に奮起し、
「この仕事に情熱を傾けていました」と言っているから、
これは、サヴァリッシュだけの功績ではない。

しかも、練習や録音をしながら、
「美しい宝石の数々を見いだし、感動を分け合った」
とあるので、現代に蘇ったシューベルティアーデのようなものである。

オーケストラも合唱団も真面目に興味深く取り組んでいたという。
「あの時の私たちの喜びを、この録音から聞き取って頂ければ
こんなにうれしいことはありません」という、
サヴァリッシュの言葉通りに、
私は、この録音から、
多くの発見と感動を追体験している。

録音完了から10年を経てからのインタビューゆえ、
いろいろと美化されていることもあろうかと思われるが、
それゆえに、読む者には、妙に澄みきった懐かしさを伝えてくれる。

さて、この「全集」の内容を見ても明白なのだが、
シューベルトの宗教曲の主たるものは、
CD7枚の半分を占める「ドイツ・ミサ曲」を含むミサ曲群である。
また、オラトリオ的な「ラザロ」がCD1枚を占めている。

その他は、大きめの作品として、
「スターバト・マーテル」があり、
未完成のミサ曲の切れ端などにまざって、
「サルヴェ・レジーナ」や、「オッフェルトリウム」、
「タントゥム・エルゴ」、「詩篇」といった小品群がある。

これらの作品名は、大変、古い実用音楽のそれであって、
普通一般の音楽愛好家の知識では、
何のことかわっぱり分からんという感じではなかろうか。
私も、今回、「サルヴェ・レジーナ」を、
いろいろ聞き比べるまで、何のイメージも、
この作品名から思い浮かべることが出来なかった。

「サルヴェ・レジーナ」は、歌詞が11世紀に出来ていた、
ということなので、1000年に亘って、
ものすごい数の作曲家が、曲をつけていることになる。

そのような流れの中で、
シューベルトの名前を位置づけられるのは、
私にとっては、貴重な体験になった。

このCDの日本盤解説は、
藤本一子という国立音大の教授が書いている。
シューマンの研究家のようだが、丁寧に解説をしてくれている。

「総説」という部分には、
シューベルトが、15歳の時からミサ曲のスケッチを残し、
死の一ヶ月前の「タントゥム・エルゴ」D962まで、
「親しさにみち」、「峻厳な孤独の面立ち」で、
生涯に亘って宗教曲を残していることから書き始めている。

何故か、このアルバムには、先に触れた、
「ドイツ葬送ミサ曲」D621は収録されていないが、
これについても、この「総説」でさらりと触れられている。

シューベルトは交響曲、室内楽、ソナタに加え、
オペラ、宗教曲、歌曲を書く、「普遍型の作曲家」であったとし、
宗教曲においても「比類ない峰」を築いた、としている。

また、彼が、児童合唱で教会と関わったのみならず、
兄のフェルディナントが、
教員学校の付属教会の合唱長を務めていた関係で、
創作の機会を与えたのも良かったと書いている。

教会が啓蒙主義による教会改革の余波や、
ドイツ語運動の流れなども、
これらの作品群には読み取れるという。

中核を成すのは、ラテン語の6曲のミサ曲であり、
「サルヴェ・レジーナ」のような「伝統的な機会音楽」も、
「内的な創作の発展と深化の自己表白へと進んで」いった、
と特筆されていることがうれしい。

「1819年のイ長調D676を中期として、
それ以前の作品が初期、以後がはやい後期の様式をあらわしている」
とあるように、「ます」の五重奏曲のあたりを転換点と捉えている。

「サルヴェ・レジーナ」だけで、
ここまで、しっかり書いたCD解説はなかなかないのではないか。
しかも、確かにそうそう、と言えるのが、
「初期の作品には全体に晴朗で
みずみずしい美しさがあふれている」と指摘した部分である。

中期の作品では「一種の危うさも感じさせる」というのも肯ける。
テクストが個人的な意味を持って、音楽は真摯となり、
内面の歩みが始まるとしている。

後期の作品は、「真の祈りの音楽」となって、
「宗教音楽史上、例をみない力と深さを感じる人は多いだろう」
とのこと。

シューベルトのミサ曲で問題とされるのが、
テキストの削除の問題だが、信仰告白の「クレド」で、
「そして一にして、聖なる、公の、使徒継承の教会を」
の歌詞を、シューベルトは、
すべてのミサ曲から削除しているらしい。

また、「第1ミサ曲」以外では、すべて、
「よみがえりを待ち望む」を削除、
「造られずして生まれ、父と一体なり」というテキストは、
「第3」、「第5」、「第6ミサ曲」で削除されているらしい。

解説者は、これ以上に、
同じテクストなのに、音楽が変貌していく事を、
「音楽の実質がまったく異なる」ことを重視している。

最後に、発音の問題を注記しているのが、非常に参考になる。
「サルヴェ・レジナ」を、
北方ドイツでは、「ザルヴェ・レギナ」と濁って発音するが、
ここでの録音では、これらのちゃんぽん型で、
「サルヴェ・レギナ」と歌わせているとある。

ヴィヴァルディの時代、この楽曲は、十数分程度の多楽章の、
ソプラノ独唱曲として作曲されることが多かったようだが、
このサヴァリッシュ盤で、取り上げられている、
シューベルトの付曲は、以下のような内容。

このCDは、とにかくいろんな人が登場するので、
各曲をどの人が歌っているのかを、
記号で判別できるようになっているが、
この作業が極めて面倒である。

CD5のTrack3に、
「サルヴェ・レジーナ」変ロ長調D106(5分31秒)
フランシスコ・アライサのテノール。

CD5のTrack8に、
オフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
ヘ長調D223(6分14秒)
ヘレン・ドナートのソプラノ。

CD2のTrack7に、
「サルヴェ・レジーナ」ヘ長調D379(3分4秒)
バイエルン放送合唱団。

CD2のTrack20に、
「サルヴェ・レジーナ」変ロ長調D386(3分56秒)
バイエルン放送合唱団。

CD6のTrack1に、
オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
イ長調D676(9分12秒)
ヘレン・ドナートのソプラノ。

CD6のTrack11に、
「サルヴェ・レジーナ」ハ長調D811(5分55秒)
バイエルン放送合唱団に、バイエルン合唱団も共演?

このように、長さも編成も様々なもので、
いかにも演奏する機会に従って作曲した感じが見え見えである。

また、オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」の他、
単なる「オッフェルトリウム」と題された曲や、
「オッフェルトリウム」の他に、副題が付いたものもある。

これらを列挙すると、
CD4のTrack8の、
「オッフェルトリウム」変ロ長調D963。

CD5のTrack4の
オッフェルトリウム「疲れたわたしの心の中に」
ハ長調D136。

CD5のTrack6の
オッフェルトリウム「三つのもの」イ短調D181。

いくら正月休みとはいえ、
いきなり7枚を聴くのは無理なので、
今回は、他にCDが出ていない曲目を中心に聴いてみたい。
上述した曲の数からして、CD5を攻めてみたい。

このCDには、最初期のシューベルト作品が多数含まれているが、
子供の遊びだと思うと、いきなりのけ反ることになる。

Track1.
キリエ ニ短調 D31。
このドイッチュ番号からして、我々が良く知っている、
交響曲第1番D82(1813)や、
第10番とされる弦楽四重奏曲D87(同上)より、
ずっと前の作品だということが分かる。

解説にも、「シューベルトの残されている最も早い宗教曲のひとつ」
と書かれている。

ロッシーニが「試金石」で、わずか20歳で、
スカラ座の聴衆を沸かせた年、1812年の作曲である。

シューベルトの残した数多くの「キリエ」は、
ミサ曲の未完の楽章だということだが、
この15歳の作曲家は、思春期の火照りの中で、
フルート、オーボエ、ファゴット各2、
トランペット、ティンパニにオルガンを含む、
大オーケストラを駆使して、
めざましい効果を上げている。

この年の7月、シューベルトは変声期を迎え、
宮廷教会でのヴィンターという人のミサ曲の演奏を最後に、
児童合唱団を辞めなければならなかった。

ミサ曲を歌う役から、ミサ曲を作る側に回ってやろう、
と野心旺盛な15歳が考えたとしてもおかしくはない。

何と、このキリエ楽章は、
立派なオーケストレーションまで施されて、
未完成魔のシューベルトの若書きのはずが、
しっかり完成されている。

怒り狂った序奏から緊迫感をみなぎらせ、
それが、最後まで途切れることがない。
合唱の迫力の中、
ソプラノとテノールの
独唱者が立ち上がる時の清冽さ、
トランペットやティンパニの炸裂も強烈で、
自信たっぷりの筆遣いである。

サリエーリに師事してから3ヶ月。
このような作品も師匠に見せたりしたのだろうか。

Track2.
キリエ ヘ長調 D66。
ドイッチュ番号は先のキリエの倍を超えたが、
まだ、8ヶ月しか経っていない時期の作品。
これは、独唱者とフルートがなくなり、
編成は小型化されているが、
力任せで息切れしたのを反省したのか、
今回は、あえて、楽曲の展開に注意を向けている。

つまり、最初から荘厳な合唱が響くが、
いくぶん控えめで、前作と比べて、
最初の方は物足りないが、
途中から悲痛な展開を見せ、
16歳のシューベルトが追求したかった効果は、
きっとここにあったのだ、と納得できる。

しかも、後半はフーガ風の書法を見せ、
巨大な力への憧れが明白である。

実は、この2曲の間に、
さらに2曲の「キリエ」が作曲されていて、
それは、CD1のTrack1、2に収められている。

Track3.
サルヴェ・レジーナ 変ロ長調 D106。
テノール独唱で歌われるもので、合唱はない。
オーボエとファゴット、ホルンが各2、
弦楽にオルガンも付くオーケストラ編成。

1814年の作品らしく、最初のキリエから、
2年を経過して、すでに、安定した書法を手にしているが、
何となく、力が抜けすぎた感じで、
手慣れた職人芸のようにも聞こえる。

だだだだーっという動機による統一感が少しくどいが、
「涙の谷」の描写で、このリズムを使って、
悲壮感を描くあたりさすがである。

バロック期に書かれた「サルヴェ・レジーナ」と比べ、
全く異なる美学によって成り立っている事に、
私は、少なからず衝撃を受けた。

歌詞はラテン語で、まったく同じながら、
バロック期の作品が、神秘的な気配をみなぎらせ、
いかにも、聖処女の特別さを強調し、
人間の惨めさを訴える内容だったのに対し、
シューベルトの音楽では、
あまり、人間は惨めな存在ではない。

やはり、裕福な貴族が、宮殿の礼拝堂に客人を招いて、
披露した楽曲と、
市民階級の善男善女が、
地区の教会に行って、聴く音楽とは別のものだった、
という感じがしないでもない。

Track4.
オッフェルトリウム「疲れたわたしの心の中に」。
ハ長調 D136
饗場裕子氏の訳では、
「疲れたわたしの心の中に
神の愛は輝いている
神聖な愛は輝いている。」
と歌い出される、美しいソプラノのアリアで、
「キリストの愛があるのだから」と、
素朴な信仰を歌い上げるには、
華美なまでに美しいクラリネットの助奏が付いている。

その代わり、オーケストラは簡素で、
フルートとホルンが各2と弦、オルガン。

1815年の作品とされるらしく、
自由闊達に上空を浮遊する音楽は、
最後の歌曲ともされる、
「岩の上の羊飼い」の完成度さえ思わせる。

初恋のテレーゼのための楽曲と解説にはある。
ここでは、ヘレン・ドナートのソプラノ。
クラリネットは、ブルンナーである。
クラリネットというと、
もう少し、豊饒な音を想像するが、
ブルンナーの演奏の軽さが、ここでは生きている。

Track5.
スターバト・マーテル ト短調 D175
1815年、歌曲爆発の年の作品。
最初の4節のみへの作曲で、
翌年作曲の同名の別の作品(D383)と比べると小規模のもの。

したがって、このタイトルから、
ドヴォルザークのような大曲を想起してはならない。
7分に満たないものである。

だが、内容はかなり充実しており、
序奏からして、うつろな響きがぞっとさせるもので、
トロンボーンを三つ要するオーケストラ伴奏の合唱曲で、
非常に痛切な響きに彩られた名品だと思われる。

「悲しみに沈み、母は立っていた」から、
「鋭い刀で貫かれていた」、
「どれほどの苦しみだっただろう」を経て、
「御子のくるしみを見ながら」という所まで。

オーケストラも、悲痛な慟哭を響かせる。

Track6.
オッフェルトリウム「三つのもの」 D181。
この奇妙な題のものは、
「三つのものが天国の証明」として、
「父と御言葉と聖霊である」と挙げるだけのもの。

3分半のものながら、かなり充実した作品。
「スターバト・マーテル」D175の数日後の作品。
編成も同じで、シューベルトは、
一続きで作曲したのではないか、
などと思ってしまった。

三位一体の祝日のための依頼曲ではないかと解説にある。

「終わり近くのゲネラルパウゼが、
厳粛な印象をつよめる」とあるが、
まさしく厳粛ながらも、美しい作品である。

Track7.
グラドゥアーレ ハ長調 D184。
さらに数日後の作品。
ファゴットの代わりにトランペットが入って、
壮麗な響きを獲得している。

「グラドゥアーレ」は、
「ほめたたえよ、神よ」という典型的な信仰の歌で、
最後は、壮大な「アレルヤ」で終わる。
厳粛宗教曲3連発である。

これまた、5分に満たないながら、
力強い作品で、18歳のシューベルトの、
恐るべき力量を見せつけてくれる。

Track8.
オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
ヘ長調 D223。

ここでの「サルヴェ」は、前の作品より、
歌詞が短縮されていて、
イエスの姿を見せたまえの部分がない。

ドナートのソプラノが舞い上がって、
非常に晴朗な作品となっている。
「涙の谷に、あなたを慕う」という部分で、
少し陰るだけで、全編が輝いている。

バロック期の同名の作品とはかけ離れ、
朗らかな希望の歌になっている。

「これはまた美しいサルヴェ・レジナ!」と、
解説者も思わず、感嘆符をつけてしまっている。

1815年作曲で、23年に改訂され、
さらに25年に出版されてもいる、
ということだから、
シューベルト自身も気に入っていたのであろう。

「あたたかい情感がみちている」と解説にあり、
「個人的な感情の浸透はロマン派のもの」と、
強調されている。

Track9.
タントゥム・エルゴ ハ長調 D461。

Track10.
タントゥム・エルゴ ハ長調 D460

ここで、1815年の宗教曲シリーズから別れを告げ、
翌年8月の作品2曲。
D番号も連番ながら、後者は半分以下の長さで、
2分に満たない。歌詞も後半がない。
また、前者が4人の独唱者を含むのに、
後者はソプラノのみ。

ヴィオラなしの弦という珍しい編成であるが、
トランペットにティンパニを含み、
壮麗なオーケストラ曲である。

前者は強烈な力感でぐいぐいと押すタイプであるが、
後者は、より優美でしなやかな楽曲。

「タントゥム・エルゴ」とは、
トマス・アクィナスの作と伝えられる、
「偉大な秘蹟を伏してあがめよう」という詩に作曲したもので、
「聖体降福式」という儀式のための音楽で、
リヒテンタールの教会のために書かれたのではないかとある。

アインシュタインは、D460を、「野心的な」作品とした上で、
「旧ヴィーン式華美様式の作品」と書いている。
ギャラントスタイルということであろうか。

Track11.
マニフィカート ハ長調 D486。
再び、1815年の作曲とある。

この題名のものは、バッハやヴィヴァルディにもある。
それらには劣るが、9分という長さは、
このCDの中では、最も長い楽曲となる。

序奏から、「イタリア風序曲」を想起させ、
トランペットとティンパニが鳴り響き、
分厚い合唱の効果に重なる
弦楽の精力的な活躍もあって、
ものすごく壮麗な音楽となっている。

中間部では、のどかな伴奏に乗って、
ソプラノが、冴え冴えと、
「神は権力をふるう者を
その座からおろし、
見捨てられた人を高められる」と歌う。

最後の「グローリア」の部分は、
再び、オーケストラと合唱が火花を散らし、
「アーメン」の部分で、合唱と独唱が織りなす、
煌びやかな音楽の肌触りが豪華である。

コーダもすさまじい迫力である。
この作品が、どのような機会に演奏されたかは、
解説には書かれていない。

「マニフィカート」は、解説によると、
マリアの賛歌とあるが、どこがそうなのか分かりにくい。
「わたしは神をあがめ」に続いて、
「神は卑しいはしためを顧みられ、
いつの代の人も
わたしをしあわせな者と呼ぶ」
とあるからであろうか。

これらの詩句を見ていくと、
ここでも、シューベルトは、
いくつかの部分を省略していることが分かる。

例えば、ヴィヴァルディにあった、
「力のある方がわたしに偉大なことをなさったからです。
その御名は神聖です。
そして、主を畏れるものには、
子々孫々に至るまで
その慈悲が示されるでしょう」の部分がない。

アルフレート・アインシュタインは、
「全曲が賛歌風で、装飾的で、手堅い出来であり、
伝統的なバロック式教会音楽の大きな、
満足すべき楽曲である」と書いている。

Track12.
「すでに天国にいるアウグストゥスよ」 D488。

このCDの最後は、打って変わって、
ソプラノとテノールによる軽妙な音楽。
「テクストの扱い、特に呼吸のひそやかさは、
感嘆させられる」と解説者が感嘆しているように、
みごとな二重唱の声の絡みを聴くことが出来る。

1816年の作品で、8分弱とそれなりの規模がある。

「すでに天国にいる
アウグストゥスよ。
あなたを崇拝する人々の心の中に、
どうかいてください」という素朴な歌詞で、
ほとんど、モーツァルトやロッシーニの
オペラの二重唱を聴いているような感じ。

何故だ。シューベルトは、こんなに魅力的な二重唱曲が書けたのに、
何故に、自作のオペラで、こんな音楽を入れなかったのだろうか。

ルチア・ポップとダラポッツァが、
生き生きと感極まって歌っているように思える。
非常に心のこもった名演となっている。

得られた事:「シューベルトの音楽家人生は、伝統的なバロック式教会音楽の優等生として開始された。」
[PR]
by franz310 | 2012-01-02 23:38 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その308

b0083728_0374348.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディが書いた
「サルヴェ・レジーナ」は、
ヴェネチアの伝統である、
分割合唱の効果を模して、
二つのオーケストラの掛け合いを
伴奏にしているという。
この街を代表する作曲家なので、
確かにそれらしくも思え、
フィリップスには、
そんな題名のCDも実在した。


「サン・マルコ寺院におけるヴィヴァルディ」がそれで、
やがて、大きな集大成を録音する、
ヴィットーリオ・ネグリが指揮をしたものである。

ヴェネチアの作曲家、
ヴィヴァルディは聖職者でもあったので、
ヴェネチアを代表する教会のための活動も、
当然あったように思えてもおかしくはない。

ここでの指揮者ネグリは、1970年代に、
ジョン・オールディス合唱団と、
イギリス室内管弦楽団を使って、
ヴィヴァルディの宗教曲全集
みたいなのを出して、
好評を博していたので、
私は最初、この91年に出された、
二枚組CDを発見した時、
てっきり、そのロンドンでの録音を
寄せ集めたのかと勘違いしていた。

まさしくサン・マルコ寺院を描いた、
カナレットの絵画をあしらった、
美しい表紙が印象的なもので、
寄せ集めにしては、
よく出来たアルバムだと思った。

が、CD裏面のデータを見ると、
1964年10月ヴェニスとあり、
オーケストラも合唱も、
ヴェネチアのフェニーチェ劇場のものとあった。
これは明らかに「全集」とは別のものと分かった。

ソプラノには、フィリップスらしく、
オランダのアグネス・ギーベル、
アルトには宗教曲を得意とした、
ドイツ人のマルガ・ヘフゲンを
起用しているのが目を引く。

この人たちは、1921年生まれなので、
ともに43歳頃という円熟期の録音であった。
いずれも、往年の宗教曲のLPなどで、
記憶に残っている名前である。

ギーベルは、非常に美しく澄んだ声の持ち主で、
ここでも、その超俗的な音色が舞い上がる様を楽しめる。
ヘフゲンは、折り目正しい、
いかにも格調の高い歌唱を聴かせている。

ちなみに、指揮をしているネグリは、
1923年生まれで、彼女らより少し若い。
ヴィヴァルディの権威で、学者でもあり、
そもそもフィリップスのプロデューサーでもあった。
そんな人である。

この録音のタイトルも、彼の発案かもしれない。

ネグリの後年の録音では、合唱もオーケストラばかりか、
独唱者までも、フェリシティ・ロットや、
アン・マレイといった、一世代若い、
英米系の歌手を起用していたので、
この64年盤の方がフィリップスらしい感じがする。

ただし、ロット、マレイは、
我々、シューベルト愛好家にとっては、
ハイペリオンのシューベルト歌曲全集を受け持ってくれた、
恩義を感じるべき歌手たちであることが忘れられない。

このようなCDであるから、
4曲中3曲までが、「ネグリ校訂」とされている。

演奏されているのは、
有名な、「グローリア」ニ長調RV589、
「サルヴェ・レジーナ」RV616、
「マニフィカート」RV610/611、
そして、RV App.38という、
奇妙な番号が付けられた「テ・デウム」である。

ここでの解説は、アルバムと同様、
「VIVALDI IN SAN MARCO」と題されている。
が、内容を見てみると、
あまり、サン・マルコと関係あるような感じではない。

ミヒャエル・タルボットという人が書いているが、
この人は、BBCミュージック・ガイド・シリーズでも、
ヴィヴァルディを担当した著書を出している人である。
日音楽譜出版社は、トールバットと訳している。

この人は、1981年に日本で出た本の著者なので、
ずっと年配の人かと思っていたが、
1943年生まれのイギリス人らしく、
ヴィヴァルディやアルビノーニ、マルチェルロを研究し、
イタリア政府から若くして勲章を貰っているようだ。
このCDが出た91年の時点で、まだ、48歳である。

「サン・マルコの侯爵の教会は、
(ヴェネチアの独立が失われてからは、
単にヴェネチアの大聖堂教会となったが)
共和国全体の教会のスタンダードであった。
サン・マルコの創設したイノヴェーションは、
演奏者を分散させて配置させ、
『分割合唱』の効果に至ったことである。
17世紀と18世紀には、
この演奏スタイルは、広い範囲のイタリアの教会に広がり、
応答頌歌の効果が採用され、
以前は声楽家の集まりだった演奏に、
器楽奏者の追加がスペース問題を引き起こしたが、
異なる場所で音楽家がグループ化されることにより、
解決することができた。
18世紀にヴェネチアを訪れた人は、
総督(ドージェ)の個人的な教会であった
サン・マルコでの音楽を伴う礼拝に参加することは稀で、
他の場所の王室教会でも同様であった。」

という事で、このCDは、
サン・マルコ寺院がテーマのはずなのに、
何故か、そこでは何が行われていたか、
よく分からん、といった感じで、
話が逸らされてしまう。

その代わりに出て来るのが、
我らがヴィヴァルディの話であって、
いきなり、孤児院になっているのが悩ましい。

「彼等は、四つのオスペダリ・グランディのうちの、
一つにおいて音楽を聴くことが多かったようである。
これらは孤児、浮浪児、低所所得者、いわゆる捨て子
(多くの場合、庶子といった養育放棄された乳児)
たちが住めるようにした施設で、
最後のカテゴリーは、オスペダリで最も有名だった、
オスペダーレ・デラ・ピエタが特に責任を持っていた。
これら4つの組織は、そこの女性住人によって、
合唱団やオーケストラが組織され、
彼女らの先輩らがアシスタントとなり、
外部からの指導者によってトレーニングされ、
そこの礼拝堂における礼拝時に、
素晴らしい音楽を聴かせることによって、
参加者からの寄付や遺産を貰うことを期待していた。」

完全に、サン・マルコの話は、
出て来なくなってしまったが、
当然、サン・マルコの影響下の音楽が、
ここでも聴けたということであろう。

また、これらの施設が、何故に、
ヴィヴァルディのような音楽家を雇ったのかが、
この解説でよく分かった。

「彼女らの歌う合唱曲は、
一般に四つのパートに分けられていたが、
他の三つのオスペダリの合唱は、
二つのソプラノ、二つのアルトの声部と、
高音部に限定しており、
ピエタのみ男声の教会合唱を真似て、
合唱パートを慣習的なソプラノ、アルト、
テノール、バスに分けた。
そのテノールのパートは明らかに、
書かれたピッチで歌われ、
学者の中には、バスのパートも高めに書かれているから、
そこも同様であったと想定している。」

ピエタのみ、女子に男声低音部も歌わせていたということか。

「1701年から1713年にかけて、
すべての新作声楽曲を作曲する任にあった、
ピエタの合唱長(マエストロ・ディ・コーロ)は、
フランチェスコ・ガスパリーニであった。
1703年に、役所に対し、
ヴァイオリン教師の採用を求めたのは、
他ならぬ彼である。
彼等は新進の名手で、
その頃、司祭に任ぜられたばかりの
ヴィヴァルディを選考した。
ガスパリーニが実権を握っている間は、
ヴィヴァルディに、ピエタの宗教合唱曲を
作曲する機会はなかった。
彼は、単にソナタや協奏曲の作曲を求められた。
しかし、ピエタのオーケストラを指導する際や、
同様に指導的なヴァイオリン奏者で、
イタリアの様々な教会での祭礼に参加していた、
彼の父親との、度重なる演奏旅行によって、
彼は、実践的な経験を積んでいたに違いない。」

サン・マルコは消し飛んで、
何だかローカルな話題になっているのが残念である。
よくある職場のトラブルの話になっている。
しかも、その職場は孤児院の音楽教師のそれである。

「1713年、表向きは病気療養という理由で、
ガスパリーニは職を辞し、
新しい合唱長がその任に着くまで、
ピエタはもっぱらヴィヴァルディ、
声楽教師のスカルパーリら、
他の外部教師に代役を頼んだ。
1719年まで、その任命はなく、
ヴィヴァルディは宗教声楽曲の領域における手腕を、
6年にわたって発揮した。
ガスパリーニ不在時に作曲された、
『全ミサ曲、ヴェスペレ、オラトリオ、
30曲以上のモテット、そして他の作品ゆえに』
合唱長に習慣的に与えられていたボーナスを、
1715年には与えられているので、
どう見ても、ピエタの経営陣は、
彼の成果に満足していたようである。」

ということで、これまで、ヴィヴァルディが、
ずっと協奏曲の作曲家として知られていた理由は、
当然のことだった、と読み取れる。
当時からそうだったのであり、
声楽曲は偶然が重なって書かれるようになった、
という感じである。

「ここに録音された『グローリア』か、
(リオムによるヴィヴァルディの作品カタログで、
RV589とされるもの)
あるいは、知名度は劣るが、
同じ調性の作品(RV588)のどちらが、
経営陣が言及したミサの一部をなすものかは分からないが、
RV589は1713年から15年の時期のものである。
最大級のスケールで作曲され、
調性的、スコア、明暗、スタイル的に
コントラストのよい12の楽章からなる。
トランペットを利用し、
しばしば、第2トランペットの代用もする
独奏オーボエが、祝典的な趣きを添えている。」

b0083728_0383448.jpgこの曲は、
1970年代後半に、
ネグリが意を決して、
ヴィヴァルディの
宗教曲全集に取り組んだ時、
第1巻に収録したもので、
この事からも、この曲が、
ヴィヴァルディの宗教曲の
王者であることが分かる。
ソプラノはマーシャル、
メゾはマレイが歌っている。


これは、大変、美しいジャケットで印象に残るもの。
木版にフラ・アンジェリコが描いた絵画の一部をあしらっている。
金色の背景が全く下品でなく、
むしろオーラを放って上品である。

何と、このCDでも、英文解説を書いているのは、
旧盤と同様にトールバットである。
が、ここでは、旧盤を中心に聴き進む。

Track1.冒頭の序奏からして、
ファンファーレが鳴り渡る華麗な音楽で、
「高きところの神に栄光あれ」
という内容にふさわしい、分厚い合唱が素晴らしい。
「四季」のヴィヴァルディの延長のような、
卑俗な音型から、次第に崇高に盛り上がって行く、
楽想の変転を楽しむべきであろう。

最初のリズムが、見事な全体の統一を成し遂げていて、
ベートーヴェンの交響曲の展開部を思わせる。

Track2.「善意の人々に平和あれ」という、
祈りの音楽であるが、非常に重厚、濃厚。
祈りというには深い、嘆きのようなものを垣間見る。

この楽章は、解説者も絶賛している部分である。

「楽章間でもっとも傑出したものは、
ヴィヴァルディの協奏曲のいかなるものにも見られない、
複雑な構成で野心的な合唱である第2楽章、
『Et in terra pax』」
と書いている。

ネグリが再録音した意図が分からないくらい、
録音も立体的で魅力的である。

Track3.「おんみを讃えます」の、
二重唱曲で、晴朗な音楽である。
ここでは、ギーベルとヘフゲンの、
美しいハーモニーが、
オーケストラの中から舞い上がる。

Track4.「全能の父なる神よ」は、
謙虚にひれ伏す深い合唱曲。

Track5.はカノン風に合唱が渦を巻く。
「おお神よ、イエス・キリスト」。

Track6.は、オーボエ協奏曲の緩徐楽章みたい。
ブルーノ・バルダンという人の演奏のようだが、
線は細いが暖かいオーボエである。
「全能の天主」への憧れであろうか。
まことに無垢な感じのギーベルのソプラノが、
天上への憧れにふさわしい。
ここもまた、解説者が絶賛する部分。

「ソプラノ独唱用のシチリアーノ調の
『Domine Deus』も傑出したもので、
オーボエと時にヴァイオリンのオブリガードを持つ。」

しかし、今回、聞き比べて分かったが、
ネグリは新盤では、冒頭の独奏をヴァイオリンで行っている。
ルイス・ガルシアである。
新盤の独唱はマーガレット・マーシャルだが、
いくぶん、取り澄ましたような歌唱で、
ギーベルの方が、無邪気さがある。

マーシャルは、アバドのペルゴレージで、
テッラーニと共演していた人である。

Track7.力強いヘンデル風の楽想で崇高だ。
合唱も分厚く、「主よ、イエス・キリスト」と、
呼びかけが力強い。

Track8.オルガン独奏が瞑想的なアダージョ。
「我らをあわれみたまえ」というテキストにふさわしく、
思慮深いアルト独唱の曲で、
バッハを得意としたヘフゲンにふさわしい。

ネグリの新盤では、オルガンより、
通奏低音の嘆き節が強調されており、
オペラも得意とするマレイが歌っているが、
より劇的な表現となっている。

Track9.ここもアダージョで、
神秘的な合唱で始まるが、
「我らの嘆きを聴き入れたまえ」の興奮が絶叫になる。

Track10.鮮やかなリズムのアレグロ。
焦燥感が加わって、アルト独唱が、
「我らを憐れみたまえ」と切実な声を響かせる。

Track11.再び、冒頭のリズムで、
全曲が統一される感じで、
合唱が盛り上がって来る。
「唯一の至高者」を讃えるのにふさわしい。

Track12.「聖父の栄光、アーメン」と歌う、
輝かしい終曲で、合唱が波のように打ち寄せ、
オーケストラも色彩的で、めざましい効果を上げている。

「終楽章は『Cum Sancto Spiritu』は、
少し年配のヴェロナの同時代人、
ジョヴァンニ・マリア・ルッジェーリのテキストによるが、
創造的な修正を施して、
さらに高い次元に、この楽章を引き上げている。」

このように解説にあるように、
他の人の作品の引用のようだが、
みごとに全曲を締めくくっている。

この楽章、新盤の合唱は、
ジョン・オールディス合唱団で、
一級の合唱団らしい精緻な歌声を聞かせるが、
私は、旧盤の合唱も立派に聞こえ、
かつ、素朴な味わいがあるように感じてしまう。

なお、この曲は、ヴィヴァルディの宗教曲の代表として、
比較的、古くから知られており、
1939年というきな臭い年に、
作曲家のカゼッラが蘇演したとされている。

音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー」では、
この曲は長すぎるので、
ミサの時に使われたものではないだろう、
と書かれている。

この曲には、この作品を演奏するに当たっての、
「序唱」部もまた残されているようで、
ネグリの新しい方の録音では、
この「グローリアへの序唱」RV642も、
収められている。

また、旧盤の解説に戻ろう。
曲順に沿って、「サルヴェ・レジーナ」の解説がある。

「合唱曲作曲家としてのヴィヴァルディの名声は、
すみやかに広がった。
彼を高く評価したパトロンに、
ローマに住んでいた、
ピエトロ・オットボーニ枢機卿がいた。
1720年代と思われるが、
同じテキストの応答頌歌で残っている、
彼の3曲の中で、最も壮大なハ短調の作品、
『サルヴェ・レジーナ』(RV616)は、
オットボーニからの依頼によるものと考えられ、
二つの合唱のように配置された、
弦楽オーケストラが必要で、
最初のものは一対のリコーダーと、
一本のフルートを含む。
ヴィヴァルディの音楽では、
フルートとリコーダーが、
同じ曲に出て来るのは珍しく、
これからも、ヴェネチア用のものではない、
という点が分かる。
宗教的テキストの各節が異なる楽章に分けられ、
リコーダーは外側の楽章で求められ、
フルートは第3楽章で登場し、
オーケストラの質感は、ここで表現力豊かな、
オブリガート部によって輝かしさを増している。」

ということで、この作品に至っては、
ローマ用と明記されており、
全く、サン・マルコとは関係なかったことが分かった。

この前聴いた、ボウマンの盤より、
ゆっくりと噛みしめるようなテンポが味わいを増す。
ヘフゲンのアルトが、極めて生真面目で、
何となく、威厳すらあるが、
それをパスカーレ・リスポーリのフルートが優しく包む。

オリジナル楽器旋風が吹き荒れる前の、
1964年という録音時期ならではの、
懐かしい感じの演奏になっている。
あの頃のバッハのカンタータの乗りである。

しかし、オットボーニ枢機卿は、
いったい、どのような機会に、
この作品を演奏したのであろうか。
教会か、それとも個人の邸宅の礼拝堂か、
はたまた、演奏会場でであろうか。

アルトで歌われる事から、
教会にて、カストラートが歌ったということもあるのだろうか。

以上がCD1に入っている。
以下は、CD2の内容である。

「1718年から1735年の間、
ヴィヴァルディはピエタの職員ではなかったが、
特殊な協定で協奏曲は提供していた。
1735年、しかし、彼は、再び、
器楽曲の監督のようなスタッフ(合奏長)となった。
この任期は1738年までしか続かなかった。
しかし、1737年、ジョヴァンニ・ポルタが、
合唱長を辞め、後任の決定が遅れて、
ヴィヴァルディは再度、宗教曲の作曲を任された。
1739年、彼がピエタのために書いた作品の一つが、
彼の教会音楽の中で最も素晴らしい、
ト短調の『マニフィカート』の新版(RV611)であった。」

ややこしい事に、
このCDには、RV610/611という表記がある。

「この作品はもともと、
彼の第1期(1713-19)の作品と考えられ、
二つのオーボエや二つの合唱になぞらえた合奏の分割が施され、
1920年代にも改訂を受けていた。
1739年版の目新しさは、
第5楽章が独唱用になったことで、
ピエタに特別な歌手がいたことを思わせ、
オリジナルのものから取り替えられた。
これらの追加は、特別なギャラント様式であるが、
残りの楽章とスタイル的にも動機的にも、
驚くほど、ぴったり合っている。」

Track1.バッハの宗教曲を思わせる、
荘厳な合唱曲でマニフィカートは開始する。

Track2.しかし、すぐに、
軽やかなソプラノのアリアとなり、
神の中に、魂の喜びを見いだす。

Track3.ここでもソプラノのアリアが続くが、
いくぶん、しっとりとして、
「この小間使いにも目を留めてくれた」と感謝し、
ギーベルの歌唱が心に染みる。

Track4.
「聖なる方が偉大な事を」と、
メゾが神妙に神の御業を改めて賞賛する。
ちらちらと響くチェンバロの響きが美しい。
心満たされるような曲調。

Track5.神秘的な序奏に乗って、
合唱が、「限りなく及ぶ憐れみ」について賞賛する。
そのありがたさに、心から動かされているように、
情念がうごめく音楽。

Track6.風雲急を告げる合唱曲。
疾風のように、傲慢なものを追い散らす。

Track7.ぎざぎざの厳しいリズムが特徴的な合唱。
権力者を引き下ろし、低い身分を引き上げる。

Track8.メゾのアリア。
「飢える者を満たし、金持ちを去らせる」という、
神の働きに思いを寄せて真摯である。

Track9.重厚な合唱曲で、
しもべを助け、その慈悲に感謝する部分。

Track10.軽妙な田園風の音楽。
開放的なものだが、バッハの音楽を思わせる。
祖先にしてもらった約束に、
未来の希望を感じる。

Track11.「グローリア、父と子と聖霊に」
という崇高な合唱曲。
分厚い合唱が、演奏され録音された時代を感じさせるが、
フーガ風の展開も経て、まことに荘厳である。
「いつまでも終わる事なき世界。
はじめにあったことが、今も、これからも。」

意味深な歌詞である。

男声合唱が力強いので、本当か、などとも思うが、
解説を読む限り、この作品もピエタのための作品であって、
決して、サン・マルコ聖堂のためのものではなかった。
しかし、『サルヴェ・レジーナ』にせよ、
この『マニフィカート』にせよ、
オーケストラが分割されている点が、
サン・マルコ的だということになるのか。

実は、BBCミュージックガイドに、
このトールバット氏が、
この曲の改作に関して書いた部分を読むと、
こんな部分が出て来るのである。

「ちなみに、ヴィヴァルディの複オーケストラと、
(使用されていれば)複合唱作品のほとんどが、
サン・マルコ寺院のために書かれたと、
一部の人たちは短絡的に考えているが、
じつはそうではなく、
ピエタのために作曲されたものであることを
裏付けるのが、この『エルサレムよ讃えよ』
なのである。」

この「Lauda Jerusarem」は、ネグリの新盤の、
ヴィヴァルディの宗教曲全集の冒頭に収められており、
華麗な複オーケストラの迫力が圧巻である。

この作品には、二人のソプラノ、
二つの合唱団も使われており、
ヴィヴァルディが、明らかに、
ピエタの少女を想定して書いた、
と考えられるようなのだ。

この作品は、ヴィヴァルディの貴重な後期作品らしい。

なお、この新盤の解説では、
旧盤の解説「サン・マルコのヴィヴァルディ」
を打ち消すかのように、
トールバット氏は、「ピエタのための音楽」
という題の文章を捧げている。

ということで、今回のCD、
タイトルは、恥ずかしい誤解の時代の、
記録のような位置づけになる。

さて、この恥ずかしい題名の
ネグリの旧盤アルバムは最後には、
さらなる問題作、「テ・デウム」が収録されている。

しかし、文字数オーバーとなったので、
ここで仕方なく終わることとする。

得られた事:「サン・マルコ大聖堂とヴィヴァルディは、その分割合唱の効果の模倣以外は無関係であった。」
[PR]
by franz310 | 2011-12-25 00:41 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その307

b0083728_11323012.jpg個人的経験:
聖母マリアを讃える
祈りの歌「サルヴェ・レジーナ」は、
18世紀初頭のイタリアにて、
多くの名品が生まれたという。
これまで、主に、ナポリ所縁の
作曲家たちの作品を聴いて来たが、
今回は、ライヴァル都市、
ヴェネチアを代表する名手、
ヴィヴァルディが作曲した、
同曲を聴いてみたい。


歌っているのは、
前回、スカルラッティや、
ハッセの作品を歌っていた、
カウンターテナーのジェイムズ・ボウマンである。

ただし、あまり新しいものではない。
1986という数字が見えるので、
今から四半世紀も前のものだ。
イヤホンで聴くと、無音部の境でノイズが聞こえるので、
アナログ録音かもしれない。

ブックレットをひっくり返しても、
どこにもディジタルという言葉はない。
別に、私には、どちらでも良い。
ただ、気になるのは、残響は豊かなのだが、
ダイナミックレンジに寸詰まり感がある点。

今回のジャケットは、
これまで見てきた辛気くさいものではなく、
ラファエロの聖母子像が使われて、非常にすっきりしている。
ただし、真横に歌手の名前が大きな文字で書かれていて、
明らかにぶちこわし気味である。

源頼朝の肖像画を横切って、
「五木ひろし」と書いてあるような図案として、
私には捉えられてしまうのだが、
いかがであろうか。

アリオン・レーベルと言えば、
フランスのもので、それなりに名門の印象が強いが、
かなり無神経な感じがした。

とはいえ、このレーベル、
どんなジャケット・デザインが特徴かと言われると、
確かに、あまり思い出せないのである。

実は、このCDの内容、
ヴィヴァルディの他、
ペルゴレージの「サルヴェ・レジーナ」も
ボウマンの歌で収録されているとはいえ、
必ずしも、ボウマンだけが活躍しているわけではない。

2曲目と4曲目は、純粋な器楽曲、
長らくペルゴレージ作曲とされていた、
ヴァッセナール伯作曲の
「コンチェルト・アルモニコ」ト長調と、
ペルゴレージ作曲とされている、
「ヴァイオリン協奏曲」変ロ長調が収録されて、
当然、ここには、ボウマンは登場しない。

指揮は、JEAN-WALTER AUDOLIとあり、
JEAN-WALTER AUDOLIの器楽アンサンブルが、
演奏している。
ジャン・ワルター・オードリと読むのだろうか。

興味深いのは、チェロのベアトリス・ノエル、
フルートのヴィンセント・プラッツ、
チェンバロ&オルガンのベアトリス・ベルステルの前に、
長沼由里子、ヴァイオリンとあること。
79年にパガニーニ国際コンクールで2位を取った人らしい。
妙齢のさなかでのヴァイオリン協奏曲の録音である。

ボウマンの歌も悪くないが、
実は、これらの作品が、よかったりする。
一見、寄せ集めのような感じがするが、
全曲を通じていろいろ楽しめるCDに仕上がっている。

また、こうして全体を見てよく考えると、
「ペルゴレージ所縁の作品集」という感じで、
ヴィヴァルディは前座を務めているにすぎない。

ヴィヴァルディは、由緒正しき、
ヴェネチアの音楽界を代表する人物だったようで、
新興の、しかし人気を集めた
ナポリの音楽に対しては、
複雑な想いを抱いていたようである。
しかも新参者ペルゴレージの前座では、
さぞかし、腹立ちもあることだろう。

が、同じような作品を書いている点、
やはり時代の子という感じがしないでもない。

今回、ヴィヴァルディとペルゴレージの作品を、
並べて聴けたことによって、
彼等の差異を感じることも出来た。

解説は、Veronique BOITEUXという人が書いている。
ここでのヴィヴァルディは、決して前座扱いではない。
何と、ドイツのJ・S・バッハと同様、
重責を担った作曲家のイタリア代表、
という感じで紹介している。

が、この解説者の文体は独特で、
冒頭から、書き出しがぎくしゃくしている。

「『赤毛の司祭』のシルエットは、
遠い忘却の運河の向こうに消えつつある。
ヨーロッパは、彼を呼び戻し、
褒め称えようとしている。
1678年に生まれたヴィヴァルディは、
司祭であり音楽家で、1741年にヴィーンで亡くなった。
しかし、ヴィヴァルディは、まず第1に、
その故郷、夢の街、ヴェネチアで、
1637年以来、新しく出来た劇場と、
サン・マルコや街全体で鳴り響いた、
壮大な宗教行事の二つから依頼を受けた。」

簡単に書くと、ヴィヴァルディは、
ヴェネチアで生まれ、劇場でも教会でも活躍したが、
ヴィーンで死んで、忘れられていた、という感じだ。

「聖職者に任ぜられて6ヶ月しか経たない、
1703年3月23日、
ヴィヴァルディは司祭に任ぜられ、
ピエタ養育院に、『合唱長』として赴任、
バッハが務めた『カントール』と同様の役職だった。
この職務は、毎年の二つのミサ曲や、
少なくともイースターと、
ピエタが奉る聖処女マリアの祝日の祭礼という
二つの典礼の晩梼など、様々な負荷となった。」

何だか、可愛そうな身の上の音楽家のようにも読めるが、
実際は、ヴィヴァルディは、オペラの興行師としても、
活動していたことが、最近では注目されており、
ちょっと違和感がある。
私の頭の中では、あまりの才能に自ら苦しみ、
好き勝手生きた人のような感じがしている。

「宗教行事のための委嘱に加え、
より自由な礼拝関連のテキストへの作曲などがあり、
その中には、コントラルトと二つのオーケストラのための
二曲の『サルヴェ・レジーナ』がある。
最近、3曲目の『サルヴェ・レジーナ』が、
ローラント・デ・カンデと、
ジャン・ピエール・デモリンによって、
チェコスロヴァキアで発見されている。」

このように、ヴィヴァルディの「サルヴェ・レジーナ」について、
実は、3曲あることが書かれているが、
ここでは、一番有名なRV616が演奏されているだけである。

最初から、この解説者を、
プロジェクトに入れておいてくれたら、
もう2曲も収録しちゃいましょう、
という提案もあったかもしれないが、
どうやら、録音が済んでから、
これらの解説を書け、と言われた感じと見た。

トータルで57分しか収録されていないので、
あと1曲は入ったはずだ。

「これらの作品は、作曲家の生涯、
最後の10年のもので、
詩篇・カンタータに似ている。
二つのオーケストラの使用は、
サン・マルコ聖堂のバルコニーの一方から、
他方に合唱が歌い交わした、
16世紀の終わりのアンドレアと、
ジョヴァンニ・ガブリエリによって創始された、
伝統を思い出させる。」

ジョヴァンニ・ガブリエリが、
サン・マルコ聖堂の空間を利用した、
立体的な音楽を書いた事は有名で、
4チャンネル・ステレオが出た時など、
話題になったものだが、
まさか、ここで、こんな話が出て来るとは想わなかった。

「『サルヴェ・レジーナ』RV616は、
多様なテンポと様々な楽器編成による、
6つの部分の連続からなり、
ヴォカリーズの利用など、
声楽部はオペラの影響を示し、
伴奏部との関係は『コンチェルタンテ』で、
豊かな伴奏部が繊細な声の甘さを包みながら、
覆い隠すことはない。」

ヴィヴァルディの作品は、CDの最初に入っている。
Track1.
「聖なる女王よ、慈悲の母。
おお、我らの命、我らの甘い希望」
と歌われる部分だが、
冒頭から、フルートの音色が印象的で、
あまり宗教曲らしくはない。

フルート自身が俗っぽい、
という事があるかどうか分からないが、
何故か、作り物めいた牧歌的状況である。

ヴィヴァルディ自身が、心から、
聖母に嘆願しているというより、
昔々、こんな人がいました、
みたいなイメージである。

ヴィヴァルディ自身が、
信心深くなかった証拠とまでは言わないが、
どこか冷めた、近代的なプロ意識のようなものは感じる。
祈る人と音楽を作る人は別という感じ。

しかし、それゆえに、精巧を極めた、
作品という感じはする。

Track2.
「あなたに向かって叫ぶ。イブの罰せられた子供らは」
という、悲痛なテキストなのだが、
活発な楽想が繰り広げられ、
完全に「四季」のヴィヴァルディである。
ちゃらちゃらとイブの子供らは、
マリア様にじゃれつくようである。

この部分を聴いたとたん、
これは、本当に宗教曲なのだろうか、
と考えてしまう人も多いことだろう。

解説には、下記のような謎の言葉がある。

「アレグロNo.2で3回繰り返される、
『exusles』という言葉のメロディ・ラインの高揚など、
比喩的な象徴を読み取る人もいる。」

『exusles』は、「追放された」の部分であるが、
いったい、この解説は、何を言いたかったのだろうか。

Track3.
「我らのため息を送ります。
嘆きとすすり泣きを、涙の谷間から」
ここでも印象的なのが、
雄弁なフルートの響きで、
テキストのとおり虚無的な歌で、
それを素晴らしく美しく彩っている。
まさしく磁気のような冷たさの工芸品である。

「別個の部分からなるレチタティーボの使用は、
その動きによって声に繊細さを与えている。」
という解説があるが、ちょっと理解が出来ていない。
この楽章のような、レチタティーボ風の、
悩ましさを言っているのだろうか。

このような独白調は、Track5でも現れる。

Track4.
「だから、こちらに慈悲の眼差しを向けたまえ」
という部分であるが、かなり、強引な楽想である。
ずうずうしい小唄という感じがする。

交響曲の終楽章が始まるかのような、
ものものしい始まり方は、
そのまま100年後でも通用しそうな感じ。

Track5.
「この追放の後、あなたの胎内より、
御子イエスを我らに」の部分。

このあたりのさざ波の効果は、
まさしく二つのオーケストラの掛け合いが印象的。
ナポリ派の連中は、ここで、歓喜の声を上げて、
御子を待ち望んだが、ヴィヴァルディの場合、
やけに神妙である。
期待感を高めているような表現であろうか。

しかし、本当に、この二つのオーケストラは、
サン・マルコ聖堂を想定して用意されたものなのだろうか。
意地悪な聴き方をすると、祈っているというより、
祈っている姿を、非常に美しく描写している。

Track6.
「おお、慈悲の、愛するべき、
甘い聖処女マリア」という部分だが、
この楽曲前半の調子の良さは、
どこかに消えてしまって、
孤独感に苛まれたような、
嘆きの歌である。

寂寥感を高めて、フルートが呟く。
フレーズごとに装飾音が効果的で、
これがまた、工芸品の質感を高めている。
オペラの中で恋人の不実を嘆くようなシーンを、
ふと想起してしまう。

このフルートは、ヴィンセント・プラッツという人だろうか、
ネット検索するとパリ管弦楽団の主席とある。

Track7.
さて、2曲目はヴァッセナール伯の作品だが、
この曲の深々とした、しかも澄んだ序奏部が始まると、
私は、瞑想的な空間に連れ去られるような感じがした。
ヴィヴァルディのこの世の事とも思えぬ音楽に続いて、
何か、遠くに連れ去られるような感じ。

この瞬間を聴くだけでも、このCDは買いである。
したがって、ボウマンの名前を前面に押し出した、
今回の表紙デザインには反対である。

この部分は、2分に満たず、続く速い楽章の序奏にも聞こえる。

Track8.は一転して、
ヴィヴァルディ風の快活なアレグロで、
これも楽器の線の絡まりが、
まことに美しい。

Track9.は、再び、瞑想的な音楽になり、
チェロが浮かび上がってメロディを奏で、
神秘的で、ものすごく美しい。
それに対し、高音のヴァイオリンが、
迎え入れるようなメロディを奏で、
十分に宗教的な法悦感が描かれている。

低音で刻まれるパッサカリアのような、
リズムが、音楽に非常な濃密な緊張感を与えている。
恐るべし、ジャン-ワルター・オードリ。
そして、その楽団。

私は、これまで、この曲は、
ペルゴレージの作品と言われながら、
実は、その典拠が疑わしいという話ばかり聞かされ、
聴きたいと思った事もなかったが、
もったいない事をしていた。

Track10.は、
バッハの協奏曲に現れる終楽章のように、
繰り返しが強調された微笑ましく爽やかな楽章。
休日に聴いて満足、という類。

この曲については、以下のような解説がある。

「ポーランドの作曲家、
フランシス・レッセル(v1780-1835)
によって、長い間、
ペルゴレージ作とされてきた、
『コンチェルト・アルモニコ』または、
『コンチェルティーノ』は、
ここで2曲めに収録されている。
実際は、オランダの作曲家で外交官であった、
ヴァッセナール伯(1692-1766)
によるものである。
まさしくタイトルの
『コンチェルティーノ』が示唆するように、
『コンチェルト』よりも形式が発展しておらず、
オーケストラから突出する独奏楽器はない。
グラーヴェ-アレグロ
-グラーヴェ・スタッカート-アレグロと、
4つの楽章が続き、
ゆっくりした楽章と、速い楽章が交互に現れるが、
古い時代の舞曲集の痕跡が残っている。
ポリフォニーは豊かで、すべてのパートが等質である。
第3楽章で通奏低音は、
チェロにメロディラインを歌うことを許している。」

いかにも、私が感じたままが書かれているが、

確かに、下記のことも感じられる。
「ある人は、この作品の、はじめから終わりまで、
音響のスペクトルを拡大するために、
音域を広くすることに対する作曲家の偏愛を指摘している。」

渋いが、かなり豊饒華麗な感じはここから来ている。

「二つのグラーヴェに対応して、
対になったように速い楽章は扱われている。
大きな休止の使用が目立ち、
メロディ・ラインにダイナミズムをもたらしている。
バッハの作品のように、
作曲家は一つの楽器のパートですら、
ポリフォニックな書法を達成している。」

このあたりも聴いてきたとおり。
が、下記のような事は、指摘していただかないと、
分からないし、指摘されてもあまりぴんと来ない。

「真ん中の二つの楽章では、ユニゾンだが、
最初と最後の楽章では、
動機の提示は、模倣を通じて展開されている。
この『アーチ状プラン』は、
特別な創意もなく、がっちりとして、
堅苦しくさえある構造を支え、
イタリアオペラに直接由来する、
表現力豊かな半音階で飾られている。」

Track11以下は、ペルゴレージの作品が並ぶ。

ヴァッセナール伯の作品同様、
弦楽のハーモニーが素晴らしい。
高音から降りてくるヴァイオリンといい、
低音でうごめく意味ありげな音型といい、
先の作品との統一感もあって、曲の配列も、
選曲も良い。

「ペルゴレージは、
二つの『サルヴェ・レジーナ』を作曲しており、
1曲はソプラノ用でハ短調、
もう一方は、ここに録音された、
ヘ短調のものであるアルト用で、
ここではカウンターテナーが歌っている。
テキストは、伝統的な6つの部分に分けられ、
モデラートのテンポで統一されている。」

私は、どちらかと言うと、このヘ短調のものの方が、
好きかもしれないが、多くのCDは、
ハ短調のみを収めている。
ということで、これは貴重。

が、ヴィヴァルディの作品の、
多彩なテンポ、速度が華美に感じられたのは、
これまで、私がペルゴレージを聴いていたからか。
ペルゴレージは、あえて、モデラートで統一したのだろうか。

「ヴィヴァルディの選択とは異なり、
ペルゴレージは、弦楽四重奏と通奏低音を、
伴奏に選んで、室内楽の雰囲気を醸し出している。
慎重さ、遠慮、半陰影の特徴を持つこの作品は、
ヴォーカル・ラインと弦楽の伴奏が、
賞賛すべき結合をしている。」

以上も事は一聴して分かるこの曲の美しさであろう。
が、下記のことは、成る程と思った。
休止をはさみながら、切々と訴えかけるのは、
100年後にベッリーニなどが、
オペラの中で、多用する手法ではないか。

「フレーズの終わりの装飾、
大きな休止や他の音域への急変、
素晴らしく計算された半音階が目立って、
独唱部にしばしば表出力の集中が見られる。
作品の冒頭から、
例えば、『サルヴェ』という言葉の変化は、
半音に留まっているのに、
最初の嘆願が減四度で繰り返される。
声の抑揚と考えられた休止が、
瞑想的な雰囲気や祈りの悲痛を喚起する。」

同じ音型が、様々な楽器、音域で重ねられて、
幻想的な空間を生み出している。
ヴィヴァルディの作品は、陶磁器に描かれた、
パノラマ絵画のようなイメージを持ったが、
こちらは、もっと立体的な、
上下方向を感じさせる楽曲である。

「偉大な自省によって、この表出力は、
より深く、より誠実なものとなっている。
26歳で亡くなったペルゴレージが、
傑出した天才が消え入る時、
その青春の高揚の中で、
これを書いた事を想起させる。」

このような総括の仕方は、冒頭以来の、
この解説者の得意とするところであるが、
ハ短調が死の直前の作品とされるのに対し、
この曲が何時書かれたかは分からないようだ。

しかし、これらの「サルヴェ・レジーナ」、
聴けば聴くほど、何を目的に書かれたのだろう、
という感じが強まって来る。

教会的というには、もっと狭い空間用に聞こえるし、
宗教的というよりは描写的にも聞こえる。
だれか依頼する人がいて、貴族の邸宅の広間で、
客人の前で演奏された、という感じがしないでもない。
各曲の性格は、その依頼者の性格を反映したような感じもする。

ボウマンの歌唱は、
カウンターテナーの不自然さを感じさせず、
心地よく聴けたが、録音のせいか、
空間の空気感は希薄である。
これまで、由緒正しい教会での録音を聞き続けて来たので、
今回のCDは、そのあたりの記載なく一歩譲る。

さて、4曲の収録の最後は、
Naganumaが弾くヴァイオリン協奏曲である。

「1710年から1736年までしか、
生きられなかったとはいえ、
ペルゴレージは、ナポリ楽派の偉大な人物の一人であった。
パトロン、Marquis Pianettiの寛大な計らいで、
彼はナポリでドメニコ・デ・マテウスにヴァイオリンを学び、
貧者のための音楽院に入学し、
ガエターノ・グレコ、さらに、
フランチェスコ・デュランテに対位法を学んだ。」

「寛大な計らいで、貧者のための学校に入った」
という部分に、
どうも釈然としないものを感じるが、
あるいは、その間、家族の心配はしなくてよい、
とかいう条件があったのだろうか。

「ナポリ派はオペラで有名だが、
ペルゴレージ自身、その多産な作品から、
コミック・オペラに影響を及ぼしている。
当時のイタリアは、純粋な器楽曲は、
作曲家の技術の練習用と考えられていた。
従って、その劇場音楽と宗教曲以外は、
室内楽、チェロと通奏低音のためのシンフォニア、
6曲のコンチェルトーネ、
1730年頃書かれた、見事な変ロ長調の、
ヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲
くらいしか残していない。」

ここでは、ヴァイオリン協奏曲は、
彼の真作として紹介されているが、
資料によっては「偽作」とされている。
1730年頃とあるから、20歳頃の作品。

「この作品は古典派協奏曲のような、
イタリアオペラの序曲に由来する、
急-緩-急の伝統的な3楽章からなる。
最初のアレグロは、壮大なオーケストラの序奏が、
3楽章を通じて、明らかに伴奏から分離された、
ヴァイオリン独奏を導く。」

Track16.
序奏のような部分が、
すっ飛ばされたような唐突さで始まる音楽。
ヴァイオリンも、流れに逆らわず乗って来る感じで、
大見得を張って出て来たりはしない。

ここでは、「明らかに分離された」とあるが、
このCDでは、独奏者の線が細く、
曲想もあって、あまり近代的な協奏曲感はない。

「その書法はいまだ、行進曲風、
モティーフを含むパッセージの繰り返しが続くなど、
バロック的な発想である。
この作品の近代性は、独奏楽器の技巧的な書法、
それとオーケストラの対話にある。」
とあるが、ちゃかちゃかした音楽という感じで、
どうもとりとめがない。

Track17.は、ラルゴで5分以上かかり、
この曲で最も長い部分。
ヴァイオリンにあまり存在感がなく、
オーケストラにも深みがなく、
ペルゴレージ作で期待される繊細さはあっても、
求心力のようなものがない。

「中心のラルゴは、シチリアーノのリズムで牧歌的」
解説も、こんな感じで書き飛ばしている。

Track18.
「フィナーレのアレグロは、
完全に軍隊風の尊大なリズムで、
無条件に締めくくられる。
オーケストラのリズムに、ヴァイオリンは答え、
トリプレットや跳躍、
活発に音域を変えて、メロディを際だたせ、
ペルゴレージ自身が、
華麗なヴァイオリニストであったことを物語る。」

解説には良く書いてあるが、
これまで聴いた3曲の明確な個性の前では、
珍しい作品という以上の関心が湧かない。
終わり方も、いつの間にか終わっているのに、
気づかなかったというもの。

ネット検索すると、長沼は、
「The Octuor de France」という楽団で、
ヴァイオリンを弾いているようだが、
室内楽に向いた人なのかもしれない。
オーケストラの色彩との統一感からしても、
そんな感じがした。

そういう意味では、
この時代の協奏曲の特色を感じさせる、
上品な演奏である。

得られた事:「ヴィヴァルディの『サルヴェ・レジーナ』は、精巧に作られた工芸品のような趣き。パノラマ状に情景が広がる。どこで、誰を対象に演奏されることを想定したのものなのかが気になった。」
[PR]
by franz310 | 2011-12-18 11:32 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その306

b0083728_14555170.jpg個人的経験:
18世紀イタリアで書かれた、
聖母への祈りの独唱曲、
「サルヴェ・レジーナ」。
これまで、レオ、ペルゴレージ、
大物、A・スカルラッティと
聴いて来たが、
今回は、その息子、
ドメニコ・スカルラッティと、
ドイツ人ながらナポリ派の代表格、
ハッセの同曲を集めたCDを聴いてみたい。


このCDは、ハイペリオン・レーベルのもので、
クリスマスも近づくこの時期、
この表紙デザインはあんまりな感じもする。

この前聴いたペルゴレージ、レオらのCDが、
「受胎告知」の表紙だったのに対し、
こちらのCDは、ヴェロネーゼの絵画、
「十字架の重さに崩れるイエス」なのである。

色調も暗いし、テーマも最悪だ。
何だか、助けてくれている人がいるようなので、
救いはあるのかもしれないが。

が、今回のCDは、「サルヴェ・レジーナ」を
聞き比べるには、おあつらえ向きのもので、
美しい鍵盤楽器のためのソナタを残した、
ドメニコ・スカルラッティや、
ドイツ人ながら、こてこてのナポリ派とされる、
アドルフ・ハッセの「サルヴェ・レジーナ」を、
聴くことが出来る。

D.スカルラッティの偉大な父親、
アレッサンドロ・スカルラッティの、
カンタータまでも入って、
ソプラノやカウンターテナーなども交代で出て来て、
変化という意味では、
至れり尽くせりの内容である。

ジェームズ・ボウマンのカウンターテナー、
デボラ・ヨークがソプラノを受け持っているが、
二人で歌う曲はない。

2曲の「サルヴェ・レジーナ」は、
いずれもカウンターテナーが歌っていて、
3曲のカンタータのうち、最初と最後をソプラノが、
真ん中のものをカウンターテナーが担当。

クリスピアン・スティール=パーキンスのトランペットが、
時折、花を添える、ロバート・キング指揮の、
キングズ・コンソートの演奏。

ドメニコ・スカルラッティについては、
ピアノ音楽愛好家なら、知らない人のいない、
鍵盤音楽の大家であるが、
ここに聴くような作品においても、
どうやら実力者であったようだ。

そもそも、この人が、鍵盤音楽のソナタを作曲し始めたのは、
確か、ポルトガルに行ってからだったような気がする。
しかし、後半生を彼の地で過ごしたのは確かなようだが、
どのような理由で、王女の音楽教師になったのかは、
どうやら、よく分からないらしい。

1720年代には、イタリアを去っていたようなので、
ひょっとしたら、ペルゴレージなどの活動は、
知らなかったかもしれない。

「アレッサンドロ・スカルラッティの10人の子供たちの
6番目のドメニコ・スカルラッティの今日における名声は、
主に550曲に及ぶソナタなど、
鍵盤音楽の膨大な作品群によるものである。
オラトリオやカンタータの多くと同様、
彼の15曲のオペラの大部分は失われ、
残っているものも、ほとんど演奏されることはない。
ドメニコの初期の作品、
そして、32歳までの人生は、
大きな影響を与えたその父親に、
多大な制約を受けていた。
横暴な父親から引き離す、
1717年の法的記録からもそれは分かる。
1713年から1719年にかけての、
ドメニコのほとんどの宗教曲は、
ローマのジューリア聖堂の
合唱長であったとはいえ、
父親の監督下にあった時期のものである。」

私も、ケフェレックの弾く、
素晴らしいピアノ・ソナタ群によって、
D.スカルラッティの魔力を垣間見た立場ではあるが、
頭の中には、イベリア半島の王宮で、
王女に指導する威厳に満ちた肖像をイメージしていたから、
ここまで、父親に管理されていたというのは意外であった。

「その宗教曲の中で、ドメニコは、
和声の豊かさ、メロディの独自性は、
彼の後年の鍵盤作品の要素を示しているが、
感情豊かな宗教的テキストへの
彼の曲付けの主な特徴は、
折々のオペラの要素と宗教的敬意をミックスした、
美しいメロディにある。
音を構成する高度な技術が、
打ち込まれているにもかかわらず、
それは心地よく耳に響く。」

Track1からして、雰囲気たっぷりのこの曲は、
私たちに、信仰の世界の安らぎを感じさせてくれる。
ずーんと来る深い低音に抱かれて、
聖母への懐に抱かれるようである。

「『サルヴェ・レジーナ』の見事な曲付けは、
実にこのような豊かな和声と優雅な流れで始まる。」

Track2は、下記解説にあるように、
「続いて、トランペットが鳴り響くような効果の
劇的な部分『Ad te clamemus』と、
より緊迫したグラーヴェの部分『eules filii Hevae』が来る。」
という部分。

まずは、ぱっぱぱぱぱぱぱという、
「我らは叫ぶ(クラマムス)」という部分に対し、
沈鬱な、「追放されしエヴァの子(イクセルス)」
という部分は、悶々として、
「エヴァの子が叫ぶ」という、
一続きの詩句のはずだが、
思い切ったやり方である。

この部分は、さらに、「クラマムス」や、
「イクセルス」を繰り返し、
悲痛なレチタティーボのような、
「涙の谷」などの部分にも続く。

ちゃっちゃちゃちゃーららららと喜ばしいのは、
「あわれみの目を向けたまえ」の部分。
解説にも、
「高音の弦楽が互いに模倣して楽しげな中、
声楽部はさらに叙情的な書法を見せる
『Eia ergo』に回帰する。」とある。

Track3は、区切りがついたかのように、
「この追放の後、我らに示したまえ(ノービス)」と、
朗らかな歌が歌われる。

テキストに沿って、『Nobis post hoc exilium』では、
自信を持って始まるが、『ostende』では、ムードは静まる。」

Track4は、「オ・クレメンス」と、
神妙な声で歌い出され、
マリアへの嘆願の部分が始まる。

「最も感情に訴え、そして個性的な書法は、
『O clemens, o pia』で現れ、
ここでスカルラッティは、
特徴的に不協和音やほろ苦いメロディを用いて、
最後の、宗教的に抑制された『アーメン』が現れる前に、
素晴らしい美しさに音楽を高める。」

この楽章は、清らかな魂の救済のような部分を経て、
吹っ切れた終結部を有するが、
確かに、それに先だって、
深く沈潜するような、
自らの罪を自覚するような表現が素晴らしい。

本当の意味での宗教の力を感じさせる、
自らの戒めまでを思い出させる名品であった。
D.スカルラッティとは、こんな人だっただろうか。
今回、聴き進んでいる「サルヴェ・レジーナ」の中でも、
作曲家の精神の深さまでを感じさせる点では、
屈指の作品であった。

さて、このような楽曲の後、
ハッセの「サルヴェ・レジーナ」を聴くと、
同じカテゴリーにしてはいけないような気がして来た。

このCDのTrack13~16は、
ハッセの同曲が収まっている。
ハッセは、少年モーツァルトに粉砕されるまで、
大変な権勢を誇っていた人で、
下記のような解説から、元は歌手だったことを知った。

「ハッセのオペラ・セリアの作曲家としての、
イタリア(彼はここで、A・スカルラッティにしばらく学んだ)と、
ドイツにおける傑出した人気は、
彼の死後にそれが瞬く間に失われたとはいえ、
18世紀において無比のものであった。
フェティスは有名であったのに、
たちまち忘れられた作曲家の数少ない一人に、
ハッセを数えている。
ハッセの初期のキャリアは、
ハンブルク・オペラのテノールであって、
この役割のために叙情的なスタイルのものを作曲した。
イタリアを旅行した1730年頃、
彼は歌手から作曲家に転向、
ナポリで6年を過ごすことになる。
そのアリアが、声を披露するのに、
素晴らしい効果を発揮するとして、
彼のオペラはイタリアで大評判となった。
彼のオペラはドレスデンにおいても順風満帆で、
やがてヴィーンでも同様の賞賛を得た。
ヘンデルもハッセの音楽を賞揚し、
ロンドンのコンサートでは、
それが演奏されるように計らった。」

このような経歴の人であるから、
出自からして劇場の人で、
宗教との関わりは不明。

「膨大な作曲の仕事の中で、
少なくとも13曲の『サルヴェ・レジーナ』が、
ハッセのものとされている。
1740年にロンドンで出版されたイ長調のものは、
最も有名なものであるが、
ここでは、1744年の日付を持つ、
未出版のバージョンを収めている。
そのスタイルは極めてオペラ的で、
華美な器楽のメロディの魅力的な単純さと、
声に極めてふさわしいヴォーカル・ラインの混合である。
ジェスチャーもしばしば目立ち、
スコアはダイナミックスの変化もふんだんで、
突然のフォルテやピアノが散りばめられている。」

まさしく、このように書かれた通りで、
いかさま宗教の雰囲気がぷんぷんしている。
D.スカルラッティは、一緒にするな、と言いそうだ。
ドメニコは1685年生まれ、ハッセは1699年生まれ、
ちょっと世代も違うから仕方ないのであろうか。

Track13で始まる導入部のオーケストラは、
素晴らしい色彩感、神秘的な魅力に満ちているが、
「サルヴェ・レジーナ」の「サ」が、
「サーーーーーーーーーー」と入って来ると、
むかむかしてしまう。
それを装飾する楽器の軽妙な響きはどうだろう。

最初の1音から、声の展示会にしようとしている意図は見え見え。
宗教はまるで、うわべの言い訳だけで、
精神は完全に、それらしいジェスチャーをすることに、
集中しているように見えるではないか。

Track13.
「最初の楽章は、ペルゴレージを思わせる、
魅力的なオーケストラを背景に、
表現力豊かで、装飾に満ちた声のフレーズが、
優美にメロディアスである。」
と解説にあるとおりだが、
これは完全にコンサート・アリアではなかろうか。

Track14.も私は、何故か、むかついてしまう。
高音で魅惑的な弦楽が囀る中、
意味ありげな低音音型が気障である。

「『Ad te clamamus』は同様に効果的で、
細かい弦楽の指遣いが輝かしい声楽部に満ち渡る。」

まったく追放された身とも思えず、
左うちわで扇いでいるようなリズムのせいか、
優雅で豪勢な暮らしをしている感じがする。

アレッサンドロ・スカルラッティの言葉へこだわりや、
ドメニコ・スカルラッティの高邁な精神の時代は、
すっかり終わりを告げてしまったようだ。

ロンドンでの作品より、さらにオペラ的とあり、
さもありなんという感じもする。

Track15.
「『Eia ergo advocata』は、より直裁なアレグロで、
急速なパッセージで独唱者に試練を与える。」
とあるように、聖母をからかって、
こっちを見てみてというような情感。

軽妙な市井の情景のスケッチみたいな感じ。
とても日常的で、その意味では新しい。

Track16.
「最終楽章『Et Jesum, benedictum』は、
再び声楽のカンタービレが戻り、
日記作者のバーニーが、何故、ハッセを、
『最も自然で、優美、そして思慮深い
声楽曲の作曲家』と呼んだかが分かる。」

ここでは、イエスへの期待から、
敬虔なるマリア様への信仰までが歌われるが、
明らかにハッセの興味は、
そんなところにはない。

通りがかりのマリアちゃんに、
甘い声をかけているだけの音楽。
あるいは、自分の美声に酔いしれているだけ、
というような風情かも。

このように、18世紀を風靡した、
大作曲家ハッセの「サルヴェ・レジーナ」は、
それらしい効果に満ちた俗臭ぷんぷんの
美しい宗教音楽風アリアであった。

さて、これら2曲の『サルヴェ・レジーナ』の他、
このCDには3曲のカンタータが収録されている。
何故、すべて、『サルヴェ・レジーナ』で、
統一しなかったのかは不明。

エクゼクティブ・プロデューサーには、
ジョアンナ・ギャンブルとニック・フラワーの名がある。
二人の企画を無理矢理、がちんこしたのであろうか。

アレッサンドロのカンタータ、
特に最初の2曲は、単なる愛の歌で、
マリア信仰やキリスト教と関係しているとも思えない。

まず1曲目は、「テブロ川のほとりで」。
これは、ソプラノのためのカンタータながら、
トランペットの助奏がつく。

この曲の解説には、まず、
当時のカンタータの位置づけが、
明記されているので、注意深く読んでみたい。

「近年、カンタータはオペラに次ぐジャンルと考えられているが、
18世紀においては、作曲家の最高の芸術性を示すジャンルだと、
一般に考えられていた。
明らかにアレッサンドロ・スカルラッティ作とされる
カンタータは600曲を越え、
疑わしいながら、彼の作とされるものも、
100曲ばかりあって、スカルラッティは、
彼の時代の最も専門的なカンタータ作曲家となった。
スカルラッティのカンタータの大部分は、
コンティヌオを伴奏とする独唱用の曲である。
しかし、時代の流れは、器楽伴奏を付ける傾向にあって、
60曲ばかりのスカルラッティのカンタータも、
特別な器楽伴奏を有する。
ここに収録された3曲も伴奏を伴う。
一般に器楽の伴奏は弦楽器であるが、
時に、彼の作品ではリコーダやトランペットを伴う。」

シューベルトが歌曲を600曲残したように、
アレッサンドロは600曲のカンタータを残したらしい。
しかも、この形式のものは、当時は高く評価されていた、
芸術ジャンルだという。
シューベルトの歌曲にも、時折、
オブリガードの器楽部を持つものがある。
こじつけて見れば、似たような状況である。

「『テブロ川のほとりで』は、
高音域を演奏する難しいオブリガードのトランペット付きで、
ソプラノのパートナーとして演奏できる、
素晴らしいスタミナのプレーヤーがいたと、
推測することができる。
報いのない愛に失望した古典的なストーリーで、
形式も一般的なアリアとレチタティーボの交代で、
短いシンフォニアが前に付いている。」

Track5.は、繊細な序奏に、
トランペットが鳴り響き、
オルガンの響きも神秘的なシンフォニア。
霊妙な空気が漂っているが、
宗教的なものではない。

Track6.
ここで、テオルボがちゃらちゃらと鳴り、
オルガンの持続音の上をソプラノが輝く。

テブロの川辺の情景が広がるようである。

Track7.
シンフォニアとアリアで、
活発にトランペットと声楽が渡り合い、
「忠実な考えをしっかりと持ち、
悲しみや不安に悩む我が心に、
守護神を保て。
力強い戦士を率いるのは痛み」
といった歌詞を高らかに歌う。

Track8.
内省的なレチタティーボで、
「悲しみ、疲弊、嘆きのため息、
それらが彼を虐げ、
彼の目に語りかける」

Track9.
ペルゴレージの「サルヴェ」の先駆のような、
素晴らしく神秘的な序奏を持つアリア。
「不幸な眼よ、
我々は一人っきりだ。
涙を流す門を開けよう。」

Track10.
へんてこな意味ありげなバスに導かれ、
ソプラノが途方に暮れたような歌を歌う。

「少なくとも、凶星たちよ、
我が心がなんじらを思う時、
嘆きでそれを満たすだろうか。
愛の殉教者よ、
真実の涙に希望を見いだせ。」
解説にはこうある。
「このトランペット付きのアリアは、
その感傷性にぴったりで、
『少なくとも、凶星たちよ』では、
興味深い低音が響くような試みが見られ、
とろけるように美しいアリア
『不幸な眼よ』の不協和音など、
スカルラッティの最高のものが聴ける。」

スカルラッティの最高のもの、
とあるが、心情が豊かに伝わる作品だ。
ヴァイオリンの後奏も美しい。

Track11.
レチタティーボである。
「空を見て空や風に向かい、
優しい羊飼いは言いました。
・・・
この幻滅の恋人は、その心に言いました。」

Track12.
晴れやかにトランペットも歌うアリア。
「泣くのを止めよう。可愛そうな心よ・・
何も残りはしないが、不実なものの残酷さを、
ただ悲しもう。」

次のアリアは、Track17~22で、
「傷つけられて、おお貧しき者はいかに幸いか」は、
ジェイムズ・ボウマンがカウンターテナーで歌っている。

「『テブロ川のほとりで』と同様、このカンタータは、
報われない愛に関する、
一般的なテーマのテキストを中心としている。
スカルラッティの手稿は、
1702年10月のものである。」

1702年と言えば、まだ、ヴィヴァルディの活躍も、
本格化していない頃ではないか。

Track17.
この作品は、シンフォニアなく、
いきなりアリアで開始する。

「無垢な愛を求め、
弱り、傷つき、愛の痛みで、心が溶ける。
我が幸福は消え去った。」

解説にはこうある。
「二つのヴァイオリンが伴奏し、
冒頭から嘆きの方向に向かう。
進行バスの上で歌われる最初のアリアでは、
声のパートはめったに絶望から立ち上がらないのに、
会話のような対話と悲しみを交錯させる。」

Track18.
レチタティーボで、切々たるもの。
「甘く、貴重な愛、
何故、お前はこうも残酷に変わってしまった。
以前は、裏切ることなどなかったのに。」

Track19.
控えめなアリアで、シャコンヌのような、
暗く嘆きを繰り返して、伴奏も深く沈潜する。
「打撃を与えよ、我が心を突き刺せ、
苦しみの渦も私をたじろがせたりはしない。」

歌詞の内容と一致して、
強い信念を感じさせる名品である。

「『打撃を与えよ』では、感傷性が渦巻き、
和声もたっぷりとしており、
器楽群はのたうつ」とあるように、
強い感情表現で心を捉える。

Track20.
へんてこな低音音型にかき回される。
「何故、何故、そうも残酷なのだ。過酷にも。
私は忠実なまま、優しくして欲しい。」

Track21.
レチタティーボ、
「勝利はお前のものだ、愛。
私の心は屈してしまった。」
発作に駆られて叫ぶ感じ。

Track22.
明るい楽器群が歌いだし、
「私はお前を永遠に愛するだろう」
と歌手も最後に宣言する。

解説には、こうある。
「最後のアリアでは、
歌手と楽器奏者の間の短いフレーズでテンポを上げ、
この恋人は勝利を夢見る。」

このCDの最後に収録されているのは、
「おおベツレヘム、あなたの誇るべき貧しさに幸いあれ」
というもので、この時期にぴったりの内容のもの。
ただし、表紙デザインとは一致しない。

「アレッサンドロ・スカルラッティの、
この優れたクリスマス・カンタータは、
教皇によって、
『音楽の様々な楽しみで、
幼子イエスの降誕に関するイタリア語カンタータを』
聖職者の家族は注文すべしとされた当時の習慣に倣い、
イタリアの貴族からの委嘱によりものと思われる。
この作品は、降誕祭の晩梼から、
クリスマスイブの深夜のミサにかけての、
『一番豊かな夕食』に先だつ前奏として、
演奏されたものと思われる。」

Track23.
極めてアルカディア的な情感の序曲。
これから始まることに、
ついつい、心がときめく。

「スカルラッティの典雅なカンタータは、
伝統的な優美な序曲で始まるが、
その第2部には、
牧歌的なクリスマスのバグパイプのドローンを導く。
これは、コレッリの『クリスマス協奏曲』や、
ヘンデルの『メサイア』の『pifa』、
バッハの『クリスマス・オラトリオ』の第2部でも、
有名なものである。」

このように、クリスマスの清らかな空気が、
スピーカーからあふれ出す感じ。

Track24.
レチタティーボでは、
彼の産声があなたを照らす、といった内容。

Track25.
「序奏のようなレチタティーボの後、
さっそうとしたアリア『星々の美しい乳から』が始まり、
ダカーポにおいて、独唱者は装飾音の技術を開陳できる。」

「星々の乳から、われらのため太陽が昇る。」という内容。

Track26.
レチタティーボで、「無罪な赤子の情熱の愛こそが我らが盾」
と歌われ、
Track27.
では、
「豊かさの源泉は、産着に包まれ、
我が束縛を解いてくれる」
という繊細な部分。

「第2のアリア、『私たちの豊かさの源泉は』は、
微光を思わせるヴァイオリン独奏と、
高音でのチェロ、リュート、ヴィオラを伴って、
陽気なメロディを雰囲気豊かに伴奏して輝かしい。」

とあるように、繊細で愛情に満ちた
オーケストラが聴きものである。

Track28.
レチタティーボで、
「このこよなき生誕を祝福するべく急げ」、
とシンプルなもの。

Track24.
「心を揺りかごに寄せ、
この幼子の美しさを見よ」という、
心のこもった感動的なアリア。
澄んだ声と濃やかな色彩で曲を彩る
楽器の見事な調和が素晴らしい。

「最終楽章は、喜ばしい田園風景で、
抑揚のあるメロディがオーケストラのドローンで伴奏される。
ここには、幼子イエスを賛美する飼い葉桶の羊飼いを表す、
全バロック音楽における最も魅惑的なものがある。」

私はこのCD最後のこのトラックを聴きながら、
しばし、至福のひとときに酔いしれた。
こうした世俗的とも教会的とも言える作品では、
作曲家の敬虔な人間性が問われそうな気がするが、
スカルラッティ父子には、その気配が濃厚。
そんな親子ゆえに、最初の紹介したような、
確執が生じたものとも思われる。

解説の最後には、キングス・コンソートについて書かれているが、
ハイペリオンに当時、60もの録音を行っていたらしく、
パーセルのアンセムやオードの全集など、
さすがお国柄といった内容のものから、
ヘンデルの大作の録音群があったらしい。

得られた事:「スカルラッティ父子の音楽に見える敬虔な人物像と、ハッセの世俗的な音楽の俗臭が、生々しく対比できる録音。」
[PR]
by franz310 | 2011-12-11 14:56 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その305

b0083728_2375725.jpg個人的経験:
前回、取り上げた、
ナポリ楽派による
宗教曲のCDで、
レオやペルゴレージと
共に収められていた
A・スカルラッティの
「サルヴェ・レジーナ」は、
あえて紹介しないでいた。
今回のCDにも、同じ作曲家の
同じ題名の曲が収録されているからだ。


今回のCDは、メインは、
ペルゴレージの大名作、
「スターバト・マーテル」であるが、
以上の理由によって、
これについて多く語るわけではない。

それにしても、バッハより一世代若いにも関わらず、
14年も早く亡くなっている、
バロック期のこの薄倖の作曲家の宗教曲を、
何故、この陣容で録音しなければならないか、
そんな事を深く考えさせられるCDである。

この日本盤のデザインも、いかにも、
というもので、どうしても、この人気者たちを、
前面に持って来たかったらしく、
海外盤では、単に、
キリストの茨の冠をあしらっただけの、
シンプルで研ぎ澄まされたデザインだったのに、
ここでは、所狭しと、指揮者と、
二人の独唱者の写真が押し込められている。

枠取りもピンク色で、ほとんど、
オリジナルのデザインは塗りつぶされた感じ。

そもそも、この「悲しみの聖母」を描く音楽で、
何故に、デュトワは、こんなに喜んだ笑顔を見せているのか。
それだけで、かなりありがたさが減衰してしまう。
デュトワに罪はないのだが。
このようなテイストを見ると、
いかにも、ペルゴレージの誠実な音楽を、
ごてごてと塗りつぶしてみました、
という演奏を想像するしかない。

フランス音楽の名匠として登場、
NHKでも活躍しているデュトワが、
モントリオール交響楽団の小編成版を指揮し、
今から20年前、1991年に、
彼の地のST.EUSTACHEという所で、
録音されたようだ。

このサントゥシュタシュ教会は、
パリに有名なものがあるようで、
こちらは、ステンドグラスなどが有名。

このモントリオールの教会も、
ネット検索すると、由緒正しい姿が見られるが、
時に内部空間に特徴があり、
オーケストラ録音にも使われることで有名らしい。

とにかく、これだけでは国籍不明感があるが、
イタリアのバルトリと、
アメリカ人ながらイタリア・オペラで鳴らした、
ジェーン・アンダーソンが共演して、
かろうじて、イタリア伝来の音楽に、
正当性を付け加えている。

しかし、二人とも、どちらかというと、
宗教曲の人という感じはなく、
ばりばりのオペラ歌手と言った方が良い。

とはいえ、この教会での録音は、
非常に美しく、静謐な空気感が伝わって来る。
RAY MINSHULLというプロデューサー名が見えるが、
これは、カルショウを継いだデッカの大物で、
この教会とオーケストラを愛して、
このオーケストラによる
ベルリオーズ・チクルスなどによって、
その仕事の集大成としたという。

94年に引退し、2007年には亡くなっている。
彼がいなくなった事で、デッカのアイデンティティが、
無くなってしまったのだという。
そのような御大の引退間際の録音とすれば、
心して味わう必要があろうと言うものだ。

そのような事を調べながら書いていると、
この録音は、ペルゴレージはともかく、
とても澄みきった音楽という感じが好ましい。

特に、いつも私が気になるのが、
第2曲「嘆き悲しみ」で、
「苦しみたる子の魂を
剣が貫きたり」と歌われる部分である。

この残酷なシーンを多くの歌手は、
絶叫気味に歌って、
始まって早々にして、
この曲の気品を台無しにするが、
このCDでのアンダーソンの歌唱は、
絶妙なバランスを持って響く。

全く持って、
誰が買う事を想定したかが分からない商品であるが、
とても、気持ちの良い演奏であることは確かである。

二人の独唱者の天高く登る声の芳醇さや、
二重唱における調和の美しさも比類がない。
まったくもって、ビロードの光沢の贅沢さである。
とはいえ、下品なぎらぎら感はまったくない。

ペルゴレージのもう一つの名作、
「サルヴェ・レジーナ」も、
ロッシーニやベッリーニを得意とする、
アンダーソンの声だと思って聴くと、
ちょっと違う印象が立ち上っている。

精妙なオーケストラをバックに、
敬虔な感情がみなぎっている。

しかも特筆すべきは、さすが、
オペラ界で実力を認められているだけあって、
声の質感や色彩の多様さには、
聴く人を圧倒するものがある。

陰影を帯びて深くなったり、
ぴーんと張られた絹糸のようになったり、
ステンドグラスから差し込む光線のようでもある。

まさしく、こうした圧倒の中でこそ、
聖マリアの信仰の実感が、
得られるような気すらしてくるではないか。

作品が大きくなった感じもするが、
この魅力には抗しがたい。
ナポリでもモントリオールでも、
国籍不明でも、どうでも良いような気がして来る。

いったい、どのような経緯で、
この不思議な録音が生まれたのか、
誰か知っている人はいないだろうか。
プロデューサーの発案か、デュトワの発案か。

私について言えば、付録のスカルラッティがなければ、
絶対、手を伸ばさなかったものであると言って良い。
巷で話題になったという記憶もない。

そもそも古楽器全盛期のような時代において、
このような録音が現れていた事が不思議である。
こうした時代背景がなければ、このような、
人気ある歌手たちを共演させたい企画があっても、
まったくおかしくはなかったかもしれない。

このCD、表紙デザインは、
先に書いたように不気味であるが、
日本盤も解説は、かなり親切なものとなっている。

「スターバト・マーテル」や、
「サルヴェ・レジーナ」について、
歴史をひもとく詳しい解説があるし、
私が知らなかった事として、
何と、この「スターバト・マーテル」は、
ペルゴレージが最後の二重唱を完成できなかったのを、
レオナルド・レオが完成させた、
という逸話までもが紹介されている。

これは、Track12で聴ける、
「肉体が死するとき」で、
「魂が天国の栄光に捧げらるるよう、
なしたまえ。
アーメン」
と歌われる部分で、
訥々としたオーケストラを背景に、
悲しみの歌が切々と歌われた後、
突然、堰を切ったように、堂々とした音楽が現れる。

ペルゴレージが死んで完成できなかったものを、
師でもあったレオが代筆したとすると、
モーツァルトの「レクイエム」以上に、
感動的な逸話になるではないか。

音楽の盛り上がりも格別で、
その逸話を読んでから、
私は、ますます、この曲が好きになった。
また、このCDは、いろんな人に勧めたくなってしまった。

さて、このCD、最後に入っているのが、
私が聴きたかったスカルラッティ、
鍵盤楽器のソナタで有名なドメニコの父、
アレッサンドロの「サルヴェ・レジーナ」である。

この作品は、CD裏には、「attrib」とあって、
(伝)スカルラッティということになるはずだが、
解説では、完全にA・スカルラッティ作の5曲の一曲、
「ヘ短調」として、紹介されている。

この曲は、これまで聴いたレオやペルゴレージより、
前の世代の作品であるのに、
彼等の作品よりゴージャスで、
独唱曲ではなく、
第1曲「サルヴェ・レジーナ」(Track19)は、
何と、二人の歌手によって歌われはじめる。

この第1曲は、6分近くある長大な楽章で、
レオやペルゴレージの1.5倍から2倍ある。

二人の独唱者が、互いに嘆き合う様子は、
ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を
想起させるものだ。

この曲など、二重唱の部分は、
いずれも、深い祈りの音楽になっていて、
後輩たちの諸作に負けていない。

解説(菅野浩和氏)には、
「声の美しさを立てる工夫など、
演奏効果上の特色は高い」と書かれているが、
すぐに、「饒舌」という烙印も押されている。

アレッサンドロ・スカルラッティというと、
何となく、いつも、こんな扱いをされて、
まるで、日本では人気がないが、
それで良いのだろうか。

第1曲後半にかけて、ヴァイオリンもオルガンも、
嘆き節で進むが、このあたりの静謐な空気感は、
非常に味わい深いものである。

一方、解説にあった、「饒舌」という表現は、
第2曲「御身に向かい」(Track20)などで、
何となく納得できる点で、
ここでの挑発的な弦楽などがそんな感じであろうか。

何となく、宗教曲というより、
劇場音楽みたいに聞こえはする。
が、アンダーソンの歌唱は、
水を得た魚となって解放感を感じさせる。

続く第3曲「われらは御身を」も、
第2曲と同じTrack20に入っているが、
ここに来ると、深いバルトリの低音が加わって、
再び、神妙な音楽になる。
ぽつぽつと印象的にオルガンの響きが聞こえる。
(4:17)
神秘的な感じが満ちて来る。
「われら、この涙の谷に嘆き泣くなり」。

第4曲「われらが代願者」(Track21)は、
このバルトリの独唱。
ヴァイオリンに対するヴィオラのように、
微妙な波長の音色が渋い。
このように、しみったれた音楽であるが、
真ん中に、英雄的とも言える楽章を入れるのも、
何となく、オペラ的バランスを感じた。
(1:50)

第5曲「祝福されし御子」(Track22)は、
再び、ソプラノ独唱となって、
御子を期待するにふさわしい、
明るい光を感じさせる音楽が舞う。
少し若いヴィヴァルディと同様の、
清新な雰囲気がある。
(2:02)

第6曲「おお、慈悲深き」(Track23)は、
再び二重唱で、敬虔な感情がみなぎる。
ヴァイオリンの伴奏などは、
レオやペルゴレージでもおなじみの嘆き節。
(2:28)

この曲は第1曲が6分もあったせいか、
16分半を超す大作となっている。

さて、前回、カーティスの録音で
ナポリ楽派の宗教曲を集めた中にも、
このスカルラッティの作品、
しかも「サルヴェ・レジーナ」が、
収められている。

ただし、こちらはハ短調(ニ短調?)で、
メゾ・ソプラノの、ネージが独唱曲として歌っている。
さらに書くと、こちらは10分程度の、
小規模なものになっていて、
デュトワ盤のものと比べると、
2/3以下の長さしかない。

そのせいか、トラックも分かれておらず、
Track16の中に、全曲が収められている。

さて、このカーティス盤、
解説(Carsten Niemann)において、
「レオが彼の世代や、
その次世代のモデルとなったとしても、
いわゆる『ナポリ楽派』における、
並ぶ者なき創設の父といえば、
アレッサンドロ・スカルラッティであったし、
今もそうである」と、
アレッサンドロ・スカルラッティの重要な役割が、
一筆書きで描き上げられている。

「レオと同様、人気のある教師でもあった彼は、
模範的なオペラやカンタータの作曲家としても知られ、
ナポリ総督の礼拝堂における宮廷オルガニストでもあった。
彼の芳醇な和声、厳格な対位法の掌握、
文学に対する見識ある把握、
特に、音楽劇に対するセンスによって、
次第に時代遅れになったとはいえ、
彼は若い世代にとって刺激的な模範であった。」

という風に、スカルラッティを抜きに、
ナポリ派を語るのは片腹痛い、
と言わんばかりの書きぶりである。

私は、この「芳醇な和声、厳格な対位法」という
一節を思っては、スカルラッティへの思慕を深めるのである。
オペラ界から教育界、教会まで高名を馳せた、
レオもどえらい人間だったようだが、
これを見ると、その先陣はスカルラッティだったようだ。

「いかに念入りにスカルラッティが言葉を解釈し、
いかに器用に、最小限の効果でドラマを作り出したか、
ということを、ニ短調の『サルヴェ・レジーナ』からも、
伺い知ることが出来る。」

何と、この曲は、世界初録音だということである。
しかし、ニ短調というのは、
ここに収められた曲と考えて良いのだろうか。

この作品は、こうした調性のせいか、
デュトワのヘ短調作品とは異なり、
ずっと、沈鬱な響きである。
先の、デュトワ盤を聴いていなければ、
スカルラッティの宗教曲とは、
こんなに地味なものなのか、
と早合点してしまいそうである。

解説にも、第1曲は、こんな風に書かれている。
「罪の意識のように同じ場所を旋回する、
低音モティーフの上に歌われる、
聖処女への三つの部分からなる祈りで、
慎み深い切迫感は、
スカルラッティの作品ではおなじみのものである。」

確かに、逡巡するような、
一人、もんもんとするような音楽。
歌詞にある聖母の呼びかけとして、
極めて謙虚な謙遜を感じさせるものである。

呼びかけてみても、
結局は、マリア様は相手にしてくれない、
と分かっているかのようでもある。

そこで、一閃し、まるで、
レチタティーボのような、
激しい音楽が始まる。

「叫ぶような『我らは叫ぶ』の部分では、
彼は突然、テンポを速め、それを撤回、
同様に、驚くことに、続く、『イブの子供らが』では、
嘆願の中、自分たちの無価値に気づいたかのようだ。」

多くの作曲家が、ここぞと元気な音楽を聴かせる部分だが、
スカルラッティのこの曲では、
はるかに歌詞に忠実である。

罪深きものの子孫なのであるから、
偉そうに呼びかけるのはおかしいのである。

「続く12/8拍子の部分では、
苦々しいため息に満ちている。
続く、『追放の地で呻き、嘆く』の部分では、
嘆願するように、
旋回する低音伴奏の束縛から声を解き放つ。」

これらの部分も沈鬱な自省の念に満ちている。

しかし、スカルラッティは、
ようやく、我々に希望の片鱗を見せてくれる。

「キリストへの祈りになり、
ここでは、嘆願に答えがあったかのようで、
ヴァイオリンが天のはしごを登っていく。」
と解説に書かれたところでは、
イエス誕生の期待が明るい色調で歌われ、
優しい、心のこもった伴奏が、
朗らかな響きを響かせる。

何となく、そのまま続いていく、
マリアへの呼びかけも、
極めて真実味にあふれて等身大だ。

「しかし、スカルラッティは、
突然、その動きを打ち砕き、
最後の聖処女への祈りのために、
再び12/8拍子に突き落とすが、これは、
罪深い人間が神の御母の取りなしを必要とすることを、
彼が感じていたことを、いかにも感じさせる。」

解説にも、こんな書き方がなされているが、
実に、素直な、個人的な宗教音楽となっている。

この曲は、これまで聴いたどの曲よりも、
歌詞の語句に忠実かもしれない。

得られた事:「A・スカルラッティの芳醇な和声、厳格な対位法、そして、内省的な宗教曲の魅力。」
「デュトワ盤、透明に輝く陶酔のペルゴレージ。」
[PR]
by franz310 | 2011-12-03 23:10 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その304

b0083728_14194166.jpg個人的経験:
ナポリ派の指導的作曲家、レオの
「サルヴェ・レジーナ」を聴いたが、
さらにもう1曲を収めた、
比較的最近のCDがあることを知り、
急いでネット注文した。
ヴィヴァルディの
オペラ録音で知られる、
カーティスが指揮をしている。
独唱を受け持つメゾ・ソプラノは、
メアリー・エレン・ネージである。


この歌手は、やはりこのカーティス指揮の、
ヴィヴァルディのオペラでも、
重要な役目を担当している人である。
ここでも、「エルコレ」のアンティオペの役を、
熱演するのを紹介した。

カナダのモントリオールで、
ギリシア人の両親の元に生まれ、
1994年にアテネで学業を終えた、
とあるので、録音された時点(2008年)で、
アラフォーだと思われる。

この前聴いた、ビオンティ盤の歌手、
シュリックより、一世代若いに違いない。
それだけでなく、シュリックはソプラノで、
こちらはメゾであるという違いもある。

表紙写真は、私には意味不明だ。
カバー・フォト、Filippo Massellaniとあるが、
題名や撮影場所もない。

観光客目当ての古道具屋の親子といった風情である。
白黒写真であるが、昔の人には見えない。
最近のナポリでのスナップであろうか。
真ん中にマリア様の顔が描かれた旗のようなものがある。

このCDは、かなり最新のものと言え、
日本盤発売未定だと言うが、
このデザインでは厳しいような気もする。

なお、特筆すべきは、
かなりたっぷりした収録で、
全部で6曲も入っているということ。

CDプレーヤーに入れると分かるが、
トータルでは78分も入っている。
何故か、CDケース裏には、
67分と、控えめな数値が書かれているが。

うまい具合に、レオの他、
その先達、アレッサンドロ・スカルラッティの作品、
レオの後輩にあたるペルゴレージの作品も聴け、
ナポリ楽派の宗教曲がCD一枚で概観できる。
確かに、「ナポリの宗教曲」とタイトルが書かれている。

さらに、ここでは、
このタイトルにふさわしくない感じになるが、
レオのチェロ協奏曲も、何故か1曲入っていて、
これまで聴いたレオの作品を回想できるような効果もある。
キャサリン・ジョーンズのチェロ、
ちなみに楽団は、イル・コンプレッソ・バロッコ。

ペルゴレージは2曲が収められ、
この前聴いたビオンティ盤に入っていた、
「サルヴェ・レジーナ」はすべて聴ける。

ドイツ・ハルモニア・ムンディのものだが、
ソニー・ミュージックとも書かれている。
最近のレコード会社再編で、
昔のイメージは変えて行かないといけないようだ。

さて、今回のCD、1曲目の、
レオのハ短調の「サルヴェ・レジーナ」は、
初めて聴く曲で、その調性からしても渋いが、
2曲目に、同じくレオのヘ長調の曲が始まると、
聞き慣れた典雅な響きが聴かれて嬉しくなってしまった。

どうやら、私は、この曲が好きなようである。
ただし、前回のビオンティ盤と、今回のカーティス盤、
比較すると、全体的に、前の演奏、録音の方が、
柔らかく、優しい印象。
ビオンティ盤は、テオルボの弾奏音が、
不思議な光沢を放っていたが、
今回のものには、それが聞こえない。

また、前回のCDは、
美しいステンド・グラスで囲まれた、
Abbaya de Saint-Michel en Thieracheという教会で、
録音されたのに対し、
今回のものは、イタリア、ロニーゴという所の、
Villa San Fermoという場所での録音。

改めてネットで調べてみると、
前者は、パリの北東、人里離れた修道院で、
中世には文化的な中心でもあったと書かれている。
ホームページを見ても、珍しい壁画や、
瀟洒なオルガンなどが見られる。

一方、後者も、調べると、これまた、
中世からの伝統を誇る素晴らしい建物のようで、
由緒正しい場所のパワーという意味では、
どちらもそれぞれの主張を持っているようだ。

確かに、今回のCDの3曲目に入った、
チェロ協奏曲の朗々たる響きの残響感は美しい。
しかし、幾分、かっちり感があって、固いイメージの録音だ。

さらに言えば、ネージの声がメゾである上に、
かわいらしさの要素がなく、真摯一途なのが、
この聖母を讃える歌を、どう捉えるかによって、
評価が分かれるところにならないか。

調べるほどに興味深いナポリ派の音楽であるが、
今回の解説には、どのように書かれているだろうか。

解説には、「すべての人の口に上った栄光の処女」とある。
それだけ多くの人々が、「サルヴェ・レジーナ」という、
聖処女礼賛の楽曲を口ずさんだということであろう。
カルステン・ニーマンという人が書いている。

「リヒャルト・ヴァーグナーや、
E.T.A ホフマンなら、
レオナルド・レオの『サルヴェ・レジーナ』を、
何と評しただろうか。
そして、何故、この人たちの名を上げたかというと、
その答えは、極めて簡単である。
彼等はこの古いナポリの楽匠を知っていたし、
レオの他の教会音楽、『ミゼレーレ』を、
模範として賞賛していたからである。」

ヴァーグナーやヴェルディが、
賞賛したという話は読んだが、
ホフマンの話は、今回、初耳である。
今回は、ホフマンについて詳しい。

「最高のロマン主義者、ホフマンはそれを、
『教会スタイルで書くのに絶対的に必要な、
対位法の深い知識』と褒めている。
同時に彼は、非難の矛先を、
彼の同時代の作曲家たちに向け、
まさしくこの問題を完全に無視していると攻撃し、
彼等がもっぱら、
群衆に格好良く見せることにかまけ、
賤しい金銭利益のために、
軟弱な嗜好を見せていることを案じた。」

ホフマンが対位法について怒っているのか、
レオが無視されているのか判然としないが、
恐らく、前者であろう。

「しかし、このホフマンですら、
おそらくレオの全業績を知っていたわけではなく、
コインの1面を見ているにすぎない。
だが、レオもまた、当時の嗜好に反することは出来ず、
そのリスクを負いたかったわけでもなかった。
その『サルヴェ・レジーナ』に明らかなように、
作品は、当時のオペラの様式に大きく依存している。」

とはいえ、レオは、オペラばかりの作曲家ではなかったはず。
そう書かれると、この演奏は、オペラ的な演奏かもしれない。

「『サルヴェ・レジーナ』の応答頌歌は、
ジャンルとして人気があり、
当時の書法にぴったりのものであった。
栄光の処女マリアへの祈りの言葉は、
11世紀の前半に書かれたものである。
13世紀には、修道院の一日の終わりに、
聖務日課最後の祈りの一部として歌われた。
『サルヴェ・レジーナ』は、
典礼カレンダーにおいて、
マリアの他の三代替応答頌歌と交代で歌われたが、
もっとも頻繁に歌われたものである。
そればかりか、聖務日課を離れてもポピュラーで、
17世紀においては、
聖処女を讃える土曜の夜の特別な儀式が伝統となり、
この特別な機会、『サルヴェの祈り』においても、
『サルヴェ・レジーナ』は歌われた。
初期バロック期には、まだ、この歌詞は、
二重合唱のために曲付けされていた。」

このあたりについては、前にも読んだ感じ。

「18世紀初頭のナポリでは、
しかし、その習慣は変化し、
歌詞は独唱と器楽伴奏のために、
曲付けされるようになった。
ナポリの有名音楽院では、
こうした作曲の需要が特に多く、
教会やオペラ歌手を離れて、
そこの優れた生徒の最高度の技量を
発揮するために書かれた。」

今回、このように書かれているところを見ると、
これらの「サルヴェ・レジーナ」は、
実際の宗教儀式「サルヴェの祈り」と関係があったかどうか、
何やら怪しく感じられて来た。

確かに、様々に変転する歌詞と楽想が、
歌手の魅力を最大限引き出せるような要素となっており、
祈りというより歌唱協奏曲みたいな感じがしなくもない。
それゆえに、ここでは、途中、チェロ協奏曲などが、
割り込んで来たりするのだろうか。

「レオポルド・レオの『サルヴェ・レジーナ』は、
ナポリの境界を遠く越え、この種のものの規範となった。
1712年から聖オノフリオの音楽院で教えていた、
この才能豊かな作曲家は、これ以外のジャンルでも、
形式上の規範となるものを作曲している。
古い教会音楽の技法を完全に習得しながら、
彼はさらにコミック・オペラの先駆者でもあった。
ドレスデンの同業者、ハイニヒェンは、
レオの『サルヴェ・レジーナ』を、『熟達の作品』とし、
『古い教会形式の無味乾燥から完全に離れている』と評した。」

レオは、むしろギャラント様式だ、
などと、ビオンティ盤の解説にもあった。

「構成の上では、両作品は非常に似ている。
それぞれ、似た時期のサインを持ち、
同様のテンポ記号が記された5つの部分からなる。
注意は主に、技巧的なメロディパートに注がれるが、
器楽伴奏部も、紋切り型になることは決してない。
これらの作品で、愛想を振りまくほどに、
微妙で思慮深い音楽上の工夫で、
レオは聴衆の心を動かそうと気遣っている。」

このように、うまい具合に、
複数の部分があって、
1.ラルゴで、天の女王に呼びかける、
「サルヴェ・レジーナ」という部分が序奏、
2.アレグロが、「われらは叫ぶ」という、
ソナタ形式の提示部のような趣き、
3.ゆっくりした部分は、第2主題提示部のようで、
「御身を仰ぎ見」という部分もあり、
4.「われらが代願者」の敬虔な部分、
5.「御子」の部分では、明るい希望で、
展開部のように、音楽が盛り上がり、
6.再び、瞑想的な部分で、
マリア様に話しかけるような、
冒頭のような効果が再現される。

第2、第3の部分がくっついたりして、
5つの部分からなる、と書かれたりもする。
最後は消えるように終わるので、
チャイコフスキーやマーラーの交響曲のひな形のような、
形式のロジックが感じられてしまう。

作曲家も苦労しているのである。
何故なら、2の部分は、
内容としては、「追放されたエヴァの息子が叫ぶ」
という内容なので、アレグロになる必然性は、
必ずしも高くないからである。
が、ここで、盛り上げておかないと、
最後まで、めそめそした変化のない音楽となってしまう。

「例えば、ヘ長調の作品の冒頭では、
『哀れみ』(ミゼリコルディエ)という言葉が、
幅の広いコロラトゥーラで鳴り響き、
メランコリックな感情移入を伴い、
心地よい和声のカデンツで作品を締めくくる。
第4部の最後の、『示したまえ』(オステンデ)の願いの描写も、
何と繊細なことであろうか。
まず、つつましく慎重に嘆願を唱えながら、
自信と冷静さを持った朗唱となる。」

Track1.この作品は、非常に晴朗な開始部からして、
我々の目を天上に向けさせてくれる。
ミゼルコルディエの部分の美しい旋律線、
言葉と共に、しっかりと聞き取れる。
何と、前回、歌詞がまるで聞き取れなかったが、
今回の演奏では、くっきりと歌詞が、
歌い混まれていることが分かった。

Track2の部分などは、
ヴィヴァルディ的に響くが、これは、
カーティスがヴィヴァルディ大好きだからか。
ここは、ビオンティ盤の小編成のじゃかじゃか感が良かった。

第3曲でも、「ラクリマラム・ヴァレ」(涙の谷)が、
美しく声の綾を聴かせて、悲嘆を強調している。

第4曲は、マリア様が我々に味方してくれることを期待し、
「さらばわれらが代願者、哀れみ深い目を向けたまえ」で、
明るい明るい色調、
第5曲も続けざまに歌われ、前述の「オステンデ」は、
さりげなくであるが、確かに、優しい語りかけ。2回。

第6曲はTrack11で、
「慈悲ふかいです」「敬虔です」と、
マリア様を持ち上げているので、
純情な感じがする。

以上、レオのヘ長調、ビオンティ盤が、
19分半で演奏されていたのに、
このカーティス盤は、より大編成で演奏されているのに、
17分程度で演奏されていて、
これがすこし、慌ただしさを感じさせる。
祈りというより、演奏会を想定した行き方を、
感じさせると言っても良いだろう。

ということで、この曲は、聞き比べが出来たが、
最初に収められた曲は、私は初めて聴くもの。

「ハ短調の作品は、対照的に、
レオが派手な技巧を施し、
弦楽が常に8分音符の伴奏を続ける
ビロードのクッションの上に、
音節の切迫を伴って歌われる
コントラストに満ちた最後のセクションに特徴がある。」

という風に解説は素っ気ない。
しかも、ここに書いてあることもぴんと来ない。

Track1.いきなり、モーツァルトの、
「レクイエム」でも始まったかと思うような重さ。
ラルゴの4分。

必死の嘆願で、マリア様も、
この切実感には、胸を打たれると同時に、
あまりにもおどろおどろしくて、
顔を背けたりしないか心配になる。

いずれにせよ、ヘ長調とは全く異なる世界。

Track2.はこれまたヴィヴァルディ風で楽しい。
あるいは、ヴィヴァルディが、このような影響を、
あえて受けたのだろうか。
この部分は短く、すぐに次に行く。57秒しかない。

Track3.は「涙の谷」に嘆く部分。
アダージョ・エ・ピアノの1分48秒。

Track4.は、不思議な恩寵の色彩に満ちて神秘的。
レントで、夕暮れの情感に満ちていて、
「哀れみの目を向けたまえ」の、
願いが切々と歌われている。
この部分は3分23秒と長い。

Track5.は、音楽が活気付き、
御子への希望が歌われる。
ラルゲットとあるが、
低音で繰り返されるオスティナートの効果もあって、
バッハ風に深い。2分19秒。

Track6.は、ラルゴの3分で、
再び、マリアへの懇願に沈み込んで行く感じ。
改めて解説にあった部分を思い出すが、
弦楽が柔らかく受け止める中、
歌唱は、切実さを極めるような表現力に満ちる。

以上、約15分なので、
ヘ長調よりコンパクトサイズである。
が、祈りの終わりにせよ、
独唱者の名技の披露にせよ、
適当なサイズではあろう。

が、沈鬱なイメージで、コンサートで聴くなら、
ヘ長調を聴きたい。

「レオがスタイルの上で基準を作ったのは、
教会音楽の分野だけではなかった。
今日、彼のソロ協奏曲の発生に果たした貢献が、
ますます見直されている。
1738年にナポリから遠く離れた、
マッッダローニ公のために書かれた、
ニ短調協奏曲は、ヴィヴァルディのアプローチとは、
全く異なる独特のギャラントスタイルを取っている。
ヴィオラを持たない伴奏の、
弦楽部の生き生きとした動機の書法は、
より入り組んでいるし、
ソロと伴奏の対話は、その技巧性にも関わらず、
室内楽的な親密さを展開している。」

この解説はうまい。
確かに技巧的でありながら、親密というのは、
ごく限られた室内楽の傑作でしか聴かれない言葉である。
シューベルトの「ます」の五重奏にも、
そうした側面があるだろう。

5曲もの「サルヴェ・レジーナ」の中で、
ぽつりと置かれた、この協奏曲ニ短調、悪くない。

Track12.
アンダンテ・グラツィオーソの第1楽章の楽想も、
祈りの情感が感じられ、宗教曲のようだ。

まえに、この曲を聴いた時は、
「前の諸作より感情の表出が増幅され、深くなっている。」
という解説を読んだが、サルヴェ・レジーナという曲種にも、
そうしたところがある。

繊細なオーケストラに支えられ、
チェロの歌はしみじみと、味わい深く、
「恋わずらいの緩徐楽章」と書いたが、
ここでは、まえに聴いた演奏より速い。
4:06だったのが、3:42で弾かれている。

Track13.
第2楽章は、コン・スピリートで、
かなり技巧的な部分。こうした流れも、
何故か、「サルヴェ・レジーナ」風である。

Track14.
第3楽章は、「星を見上げ、逡巡するような音楽」
と前に書いたアモローソだが、
4:53で弾かれていたのが3:37で弾かれていて、
さらに切迫感が強まっている。
これもまた、「サルヴェ・レジーナ」のように、
「涙の谷に嘆き泣くなり」という音楽とも言えよう。

Track15.
第4楽章は、焦燥感にあふれたアレグロ。
ここは2分16秒という速さで疾走していく。

この後、アレッサンドロ・スカルラッティの、
「サルヴェ・レジーナ」が収録されているが、
これについては、次回に回そう。

その前に、前にも聴いた、
ペルゴレージの2曲の「サルヴェ・レジーナ」が問題だ。

解説には、このようにある。
「ペルゴレージは、ナポリで学び、
おそらくレオの弟子であったが、
一見、ペルゴレージの
『サルヴェ・レジーナ』ハ短調は、
レオのものより、スカルラッティの語法に近いように見える。
聴衆は、すぐに彼のバックグラウンドの語法、
つまり、動機を主導する低音上の上質のハーモニー、
高度な対位法の出来映えなどに気づくが、
それらは、より新しい表現、個人的な質感を見せる。
この作品を作曲していた時、
致命的な病気にかかっていた作曲家は、
焼け付くような不協和音で質感を豊かにし、
飾りはないが、しかし、表現力豊かな声が、
高度に感情的なため息の形を表している。
彼は、周到に長調と短調の明暗配合によって作品をはじめ、
最初の『サルヴェ』部では、解放五度の上を、
声を引き延ばして懇願させるような、
驚くべき要素で聴衆の心を動かす。」

これは、2曲あるペルゴレージの、
「サルヴェ・レジーナ」のうち、有名な方である。
一説によると、名作「スターバト・マーテル」と、
一緒に書かれたという。

このCDでは、2曲とも収録されていて便利だが、
先にこの曲が収められている。
解説には、冒頭の懇願が味わい深いとあったので、
心して、そこを聞き取ろう。

Track17.3分27秒のラルゴ。
この開始部は、いつも感心する。
不思議な降臨の神秘体験のようなものを感じる。
今回のネージの声は、決して天上的に美しいものではなく、
むしろ、人間の生々しい声といった感じだが、
我々自身の声という感じがする。

Track18.アンダンテとあるが、
かなり錯綜したもので、速い楽章という感じがする。
57秒で行ってしまうが、歌詞はしっかり聴き取れる。

Track19.2分47秒のラルゴ。
「涙の谷に嘆き泣く」という部分だけでも、
様々な音楽的ニュアンスが詰め込まれている。

Track20.「あわれみ深き目を向けたまえ」であるが、
アンダンテとあるが、もっと速い感じがする。
1分25秒で終わるのは、すごい切迫感である。

Track21.は御子の登場で、
心浮き立つ感じがよく出ている。
アンダンテ・アモローソとあるように、
優しげな眼差しと期待に満ちた2分8秒。

Track22.はラルゴ・アッサイ。
1分35秒に、再び、マリア様への、
懇願が深まって行く。
死の病に苦しんでいたペルゴレージの、
心の有様までが、感じられるような音楽。

さらに最後には、前回のCDでは冒頭に入っていた、
ペルゴレージ作曲、イ短調の「サルヴェ・レジーナ」が、
収録されている。

「対照的に、同じテキストによる、
ペルゴレージ初期のイ短調作品は、
さらにギャラントなものである。
聴衆の注意は、高音の声部にひき付けられ、
バスにおける力強い根音位置和音が
優美なアルペッジオを導き、
ハーモニーはすべて、
メロディから流れ出るように聞こえる。」

このギャラントという表現はそうかもしれない。
が、とにかく、序奏部の不思議な恩寵からして、
何となく、心にしみいるものがある。
メロディの魅力から全てが決まっている感じも、
よく分かる。

「最初の部分から、ペルゴレージは、
ヴァイオリンをギャラントなため息で飾った。」

ヴァイオリンのきーん、きーんという感じを、
この解説者は、ため息と聴いたのだろうか。
私には、語彙が足りないかもしれないが、
むしろ、恩寵の象徴のように感じられるのだが。

「第二部の嘆願は心地よいコロラトゥーラを駆使した。
悲哀の中に表出される嘆きというより、
涙ぐんだ懇願のテキストを、
短調の常に暗い色彩を通じて感じさせる。」
とあるが、このセコンド・セクションというのは、
Track23の後半のことか、
Track24のことか分かりにくい。

というのは、テキストで懇願しているのは、
「あわれみ深き御母」というTrack23の方が、
「我らは叫ぶ」というTrack24よりも、
合致しているように思われるからである。
最後の「サルヴェ」は、
ものすごく引き延ばして歌われる。

Track24.は、アレグロ。
むしろ、喜ばしい音楽に聞こえ、
「御身に向かい、我らは叫ぶ」と勇ましく、
Track25.は連続した音楽に聞こえ、
しかし、50秒しかなく、
絶妙なテンポ変更で、「涙の谷」のラルゲットになる。

1分程度でテンポをシフトして始まる
Track26.の「アレグロ」は、
再び、音楽が息づき、
「代願者、あわれみ深き目を向けたまえ」の、
積極的な訴えかけになるが、
御子の到来を予告して、
いくぶん、期待が高まって来ている感じ。
この部分は6分割の4、5の部分を混ぜた感じ。

解説にも、ここは舞曲調とされている。
「『向けたまえ』(エヤ・エルゴ)でも。
瞑想的な最後の部分で、ペルゴレージが、
レオのハ短調のモデルを想起するように見えるまで、
栄光の処女マリアは、喜ばしい舞曲で祝福される。」

Track27.は、このように、
レオをモデルにしたとされる部分。ラルゴ。
「おお、慈悲深きマリアよ」は、
再び、嘆願調で現実に戻った感じ。

レオの2曲ともラルゴだった。
レオのハ短調は、寒々とした孤独の訴えであり、
ヘ長調は、少しずつ純化されていくような表現。
ペルゴレージが似ているとすれば、
ハ短調だろう。

改めて聴いても、ペルゴレージの2曲、
レオの2曲ほどの違いはないが、
私は、有名なハ短調よりも、イ短調の方が親しみを感じる。

これらの2曲、イ短調は、ビオンティ盤が11分半、
カーティス盤が10分程度。
ハ短調は、ビオンティ盤が15分程度に対し、
カーティスは12分程度で、
これまた、カーティス盤のテンポの速さが分かった。

ビオンティ盤の方が祈りに近く、
カーティス盤の方が、表現力が大きく、
コンサート的かもしれない。

ヴィヴァルディの長大なオペラでは、
このような割り切りの良さが助けになったが、
このような曲種では、もうすこししっとりさせても良かった。

併録は、ビオンティが室内楽だったのに対し、
こちらはチェロ協奏曲であった。
そうした点からも、二つの演奏の違いが分かるだろう。

得られた事:「サルヴェ・レジーナは、序奏と終結部をゆっくりした楽章で統一、その間の4つの部分に、速い部分や舞曲調の部分が挟まって、声楽ソナタのような構成感。」
「天上的な表現では、歌詞が聞き取れず、歌詞を克明に歌うと世俗的になって、バランスが難しい。」
[PR]
by franz310 | 2011-11-27 14:20 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その303

b0083728_11215461.jpg個人的経験:
前回、レオナルド・レオの
チェロ協奏曲集を聴いて、
ナポリ楽派を代表する、
この作曲家の音楽が持つ、
豊かな情感や、技法を味わい、
真摯な音楽への取り組みに
感じるものがあった。
彼はオペラで高名だが、
教師として後進を育て、
宗教曲にも名作を残したという。


宗教曲の中では、「ミゼレーレ」が有名らしいが、
「サルヴェ・レジーナ」が入ったこのCDは、
美しい「受胎告知」の絵画のジャケットで目を引いた。

しかも、同時代のペルゴレージの作品も、
比較して聴くことが出来る。
演奏しているのは、
ヴィヴァルディの「バヤゼット」で、
素晴らしい演奏を聴かせた、
ビオンティ&エウロパ・ガランテである。
バーバラ・シリックという人がソプラノを受け持っている。
OPUS111の1993年の録音。かなり前のもの。

ペルゴレージは、これまで読んで来た、
ナポリ派の作曲家の解説では、
少し若い世代として別格扱いであったが、
レオより16年若いのは確かだが、
何と、レオが亡くなる8年も前に
亡くなっているではないか。

完全に活動時期が重なっているのである。
このCDでも、
(1710-1736)と書かれた、
生没年が痛々しい。

なお、ここでは、ペルゴレージ作とされながら、
ガロの作品と言われている器楽曲が、
Track5~7と、Track14~16に、
「ソナタ」として収められているが、
快活なヴァイオリンの響きがフレッシュで、
しんみりとした宗教曲の間に挟まって、
一服の清涼感を出しているのが憎い。

名手ビオンティの若き日の冴えが見える。

「サルヴェ・レジーナ」という楽曲は、
多数、見受けられるが、
ここでは、改めて、それがどんなものかが、
比較的良く解説に書かれている。

Jean Lionnetという人が書いたものだが、
冒頭から、実は私は面食らった。

「『サルヴェ・レジーナ』のテキストは、
11世紀の前半に書かれ、
その典礼において、それが使われ出したのは、
次の世紀からとされている。
少なくとも15世紀以降、
一日の終わりの、最後のおつとめである、
終課の時の、聖処女の応答頌歌の一部となった。
終課の時の、聖処女の応答頌歌は四つあって、
典礼のカレンダーによって使われる。
『サルヴェ・レジーナ』は、
『聖霊降臨祭』の次の日曜日である、
『三位一体の主日』から、
降臨節の最初の日曜日まで歌われる。
すなわち、復活祭後六ヶ月の期間である。」

ふざけるな、と言いたくなるような解説だ。

どれが何時で何のためかが良く分からない。
ただ、「サルヴェ・レジーナ」は、
しょっちゅう歌われていたということは分かった。

降臨節、イースターは、
「春分の日の後、最初の満月の次の日曜日」だと書かれており、
まあ、4月頃と考えられるから、
10月くらいまで歌うものと言うことになる。
これでは、今、11月にこれを聴くのは反則になってしまうのか。

聖霊降臨節は、5月か6月のようだし、
降臨節は、11月27日 から12月3日の間の日曜日から、
クリスマスイブまでの約四週間と書かれているので、
まだ、セーフのような気がする。

「終課の時の、他の三つの応答頌歌は、
『Alma Redemptoris Mater』、『Ave regina caelorum』と、
『Regina caeli leatare』であるが、
一年の残りを分けて使われるので、
『サルヴェ・レジーナ』ほど歌われる機会はない。
『サルヴェ・レジーナ』は、
このように頻繁に歌われるため、
典礼以外のセレモニーでも歌われる事が多く、
人気のある聖母マリアへの信仰のために、
イタリアでは多くの曲が書かれた。
その重要さは、聖地『ロレットの聖処女』巡礼が、
流行ったことからも明らかである。」

ここで、いきなりノートルダム・ドゥ・ロレット(Lorette)という、
意味不明の固有名詞が出るが、
とにかく、こうした巡礼が流行ったのだろうと解釈しておく。
ネットで調べると、パリと出るが、ナポリの話なのに、
面食らうではないか。
あるいは、このレーベルがフランスのものだから、
こうした例えになるのであろうか。
迷惑な話である。

あと、ロレート(Loreto)というイタリアの街は、
巡礼で有名であるようだ。
こちらは英和辞典にも出ている。
こちらが正解ではなかろうか。
サントゥナリオ・デッラ・サンタ・カーザという、
由緒正しき教会が黒い聖母を奉っていたようだ。
地図で検索すると、ローマの北東、
アンコーナという街の近くにある。

イタリア観光のサイトには、
「世界で最も重要な巡礼地」とあり、
「有名な礼拝堂Santuario della Santa Casa は、
イエス・キリストがナザレで生活した家と言われ、
1294年に奇跡的にこの地に運ばれたという」
言い伝えがあるという。

こっちが正解だろう。
OPUS111の解説もいい加減なものだ。
これだけ調べるのに、1時間くらい格闘してしまった。

しかし、このような小さな田舎街が、
巡礼の地としてクローズアップされ、
そこに向かってみんなが歩いていた時代を空想するのは、
非常に得難い体験であった。

「17世紀以降、非常に多くのイタリアの信者が、
カルト的現象で土曜日の夜の儀式を行い、
聖母マリアへの連檮が歌われ、
『サルヴェ・レジーナ』も同様で、
サルヴェの祈りとして、
普通に行われるようになった。
この応答頌歌(アンティフォン)は、
晩祷の最後にも歌われ、
人々に就寝時の祈りとして捉えられた。
これらのことからも、このテキストに、
かくも多くの作曲家によって、
よく音楽が付けられた理由や、
晩祷のための詩篇やマグニフィカトの終わりに、
これが付けられたかが分かる。」

17世紀イタリアの宗教儀式に関する資料など、
日本で見つかるだろうか。
これは、こういうものと認めるしかない。
あるいは、隠れキリシタンなどが、
実は、同様の事を行っていたということはありやなしや。

そんな妄想をしていたら、先に進まないので、
どんどん読み進める。

「『サルヴェ』の初期のバロック作品は、
一般に二重合唱のために書かれていたが、
17世紀を通じ、次第に小編成になって行き、
18世紀の初めには、
独唱と器楽伴奏によって『サルヴェ』が書かれるようになった。
この傾向は特にナポリとヴェニスで顕著で、
孤児たちに音楽を教える
孤児院の音楽院では、独唱者の才能に、
ハイライトを当てることを目的とした。
レオナルド・レオ(1694-1744)と、
ジョヴァンニ・バッティスタ・
ペルゴレージ(1710-1736)は、
同様の環境の出自で、
地方の小さな田舎に生まれ、
音楽院で音楽の才能を高めるために、
共に10歳でナポリに送られた。
レオは1712年に音楽院で初めて自作を発表し、
ペルゴレージの場合は1731年だった。
後者は足が悪く、健康にも不足して、
そのために、自作の『奥様女中』の成功を、
知ることがなかった。
一方、レオは、イタリア中の劇場のために、
多くの優れたオペラを作曲し、
宮廷やローマやマドリッドのフランス大使館の、
特別な機会のためなどに、
非常に多くのカンタータを作曲した。」

この解説を読むと、
非常に大量の「サルヴェ・レジナ」のレコードなり、
CDなりがあるように思えるが、
ネット検索しても出て来るのは、
ペルゴレージのものばかりである。

レオについては、この前、オペラの断片を聴いたし、
チェロ協奏曲の解説で生き様も見たが、
フランスとの繋がりは知らなかった。
これまた、非常に多数あるとされるカンタータも、
ネット検索しても入手できそうなものはない。

「ペルゴレージの二つの『サルヴェ・レジーナ』は、
基本的に同じような作品であり、
その語法は、いまだ、典型的なバロックのもので、
通奏低音を有し、メロディの点では精巧で、
対位法的に書かれ、さらに言えば、
全体的にメロディの創意が絶対的に敬虔な、
深い感情を滲み出させている。」

確かに、このペルゴレージの作品、
こうしたマリア信仰にぴったりの優美さに満ちている。

先に書いたように、ペルゴレージの『サルヴェ』は、
この歌詞に付けた宗教曲の代表作のようで、
ネット検索しても、CDが多数あり、
名だたるピリオド楽器用指揮者たちが、
ぞろぞろと名を連ねている。

ここに収められたのは、ハ短調とイ短調の2曲である。
表紙にはハ長調と書いてあるが、中はハ短調となっている。
上記、各CDでは、
どの曲が収められているのかまでは分からない。

「何かパラドックスめいているが、
ペルゴレージより前の世代に当たる、
レオ作曲『サルヴェ』の方が、
このあたりで登場した様式、
『ギャラント・スタイル』でモダンである。
テキストのリズムもより柔軟で、
多くの場合、
ハーモニーの補助だけでない通奏低音の上を、
かなり技巧的なヴォーカルラインのパッセージがあり、
大胆な和声を見せることを、
レオはいとわない。」

確かに、レオのものは、宗教曲ではないみたいな、
パッションの乗りを見せていたりする。
なお、レオの「サルヴェ・レジーナ」は、
ヘ長調のものが収められている。

「こうした、作品間のスタイルの大きな違いは、
この時期のイタリアではよく見られる。
ある作曲家は、とりわけ、
作品の重要な要素であるテキストなど、
バロック音楽の束縛からもはや、
逃れようとしているように見え、
そして、彼等は完全に新しい表現を模索している。
他の作曲家たちは、バロックの境界を押し広げようとしており、
最終的に、スタイルの混合をいとわず、
ある様式から別の様式に同じ作品でも行ったり来たりした。
我々は、レオが、
ギャラントよりバロックに近い形で書いた、
『Eja ergo(向けたまえ)』の詩句で、
この誘惑に屈する様子を見ることが出来る。
いずれにせよ、これらの三つの『サルヴェ』は、
18世紀初頭のナポリで、
表現された宗教的感情の興味深い例を、
示しているだろう。」

ということで、歌詞まで、よく見ないといけないらしい。
「向けたまえ」は、真ん中くらいに出て来る語句であるが、

歌詞は、こんな感じでかなり違う。

ペルゴレージの最初、
「サルヴェ・レジーナ(聖なる女王よ)、
慈悲の母、我が命、愛しき、我が希望。」
Track1で、ペルゴレージのイ短調作品は、
オルガンとテオルボによる神秘的な開始部から、
我々を惹き付ける。

よく見ると、オルガンはリナルド・アレッサンドリーニ。
解説書の裏に、ステンドグラスに囲まれた、
教会の写真が出ているが、
こうした空間に満ちて来る不思議な宗教体験を表すに、
非常にぴったりな感じである。

シュリック(ソプラノ)の歌も敬虔な感情に満ちている。
この人は、1943年生まれで、ビュルツブルクで学び、
また、そこで教えている(いた?)とある。
最初からバロック音楽の専門家的な活躍を見せたようだ。
写真を見ると、ショートカットで、
若い頃は、特に魅力的な眼差しを持っている。

Track8のペルゴレージのハ短調作品、
これも確かに、イ短調作品と同様、ラルゴで、
降臨の瞬間のような神秘さに満ちた序奏が美しい。
解説にあるように、基本的には同じ感じである。
こちらの方がストレートか。
表現にも、少し、高ぶったような部分がある。
どちらの作品も、単なる、呼びかけにすぎない内容なので、
歌手がどこを歌っているのかを判別するのが難しい。

レオの最初、
「サルヴェ・レジーナ(聖なる女王よ)、
サルヴェ、サルヴェ、サルヴェ、慈悲の母よ。
あなたは我が命、優しき、我が希望、おお、あなたは我が命、
優しき、我が希望。」

このように、レオの作品では、テキストの上でも、
表現過剰になっている感じだが、
Track17のラルゴもまた、
ペルゴレージの神秘というよりも、
マリア様への愛情を、あるいは愛想みたいなものを、
たっぷりとふりまいた音楽となっている。

とても快適な暖かい室内に通されたような感じ。
ようこそ、ようこそと、歌う方も、
かなり余裕がある。
通奏低音というよりも、対位法的な補助や、
装飾が目立ち、ぽろぽろとテオルボの音が愛らしい。

サルヴェ、サルヴェと歓待する、
ソプラノの歌唱ラインの装飾も粋な感じである。

「あなたは我が命」というのも、
感謝の念はよく描かれていて、
若いマリアというよりも、
老母に改めてねぎらいの言葉をかける風情だ。

ペルゴレージの次、
「あなたにすがります、
哀れにも追われたイブの子供たちは。
あなたに我らのため息を、
嘆きを、すすり泣きを、
この涙の谷間から送ります。」

Track2で、イ短調作品、
アレグロ、ラルゲットと、
二つの部分からなるが、
前の部分から一転し、
かろやかにソプラノが舞い上がる。
歌詞とあまり合っていない感じもする。

途中から、ラルゲットの部分、
ビオンティのヴァイオリンが、ため息まじりの、
悲嘆を聴かせる。

Track9、ハ長調作品のアンダンテは、
かなり急速な音楽で、ヴァイオリンなどが、
慌ただしい楽句を繰り返す中、
ソプラノも焦燥感を持って歌っている。

Track10、ハ短調作品のラルゴも、
この部分に相当する。
かなり哀願調になっている。
ゆっくり引き延ばされた音楽で、
ソプラノの清澄な感じが生かされている。

ただし、歌詞の単語がやたら引き延ばされているので、
どこを歌っているのかが分からない。
当時の信者さんたちは、これを聴いて、
歌われている内容を理解できたのだろうか。

レオの次、
「あなたに向かって、我らは嘆きを上げます、
追われたイブの息子らは。
あなたに向かって、ため息を、うめき声とすすり泣きを、
うめき声とすすり泣きを、この涙の谷間から送ります。
そう、この涙の。」

Track18のアレグロ、素晴らしく活力のある器楽の序奏、
テオルボがフラメンコギター並みにかき鳴らされ、
あああああーあああーという装飾だらけの歌唱、
これまた、何を歌っているか分からない。
全然、イブの息子たちは困っていないようである。

が、この音楽の推進力と気前の良さは、
しんみりした音楽が続く中、
私は、かなり満足して聴いた。

Track19のラルゴは、
一転して、訥々とした語りになるが、
いちおう、うめき声とすすり泣きが表現されている。
急に現実にかえったような感じだ。

ペルゴレージの次、
「だから、向けたまえ、最も恵み深い擁護の、
あなたの慈悲の目を我らに。
そして、それから、我ら流刑の民に、
祝福されたあなたの胎内の果実たる、
主イエスを見せたまえ。」

Track3はイ短調作品のアンダンテ。
この部分も、明るいが、聖母がこちらを、
ちらりと見てくれる期待に満ちた部分と考えれば良い。
活発に動くヴァイオリンの掛け合いの中、
ソプラノが、快活に軽やかさを生かす。

Track11は、ハ短調作品のアンダンテ。
この作品では、イ短調作品より切実なのか、
ほとんど期待はなく、催促ばかりである。

Track12の同曲アンダンテ・アモローソは、
一転して、平穏な感じになって、
楽しいリズムに乗って、御子の誕生を期待する感じになっている。

レオの次、
「ああ、あなたは、我らのただ一つの救い、
ああ、あなたは、我らのただ一つの救い、
あなたの慈悲深い眼差しを我らに向けたまえ。
それらを我らに向けたまえ。
そして、主イエス、あなたの胎内の果実、
主イエス、あなたの胎内の果実、
彼を我らに見せたまえ。
我ら追放の後、我ら追放の後、
彼を我らに見せたまえ。」

Track20のアレグレット。
ちょんちょんと肩を叩くような、
こびるような、軽妙な、おふざけの入った表現。
そこらのお姉ちゃんにちょっかいを出すような感じ。
レオの作品は、完全に余裕のある階層の人の音楽である。
オペラの一こまのような表現。

ペルゴレージの最後、
「おお、慈悲深い、おお慈愛の、
優しい処女マリア様。
ああ、処女マリア様。」

Tack4のラルゴ、イ短調作品では、
打ちひしがれたような表現。
しかし、それが純化されて、不思議な晴朗さに変化していく。
どの楽器も、かろうじて鳴っている感じで、
繊細なことこの上ない。

息も絶え絶え、みたいな感じで尻切れトンボ的。
ただ、あああ、あああ、ああああーという装飾的な部分があって、
何の盛り上がりもなく、終わってしまう。

Track13のハ短調作品のラルゴ・アッサイも同様。
恐ろしく長く引き延ばされた歌唱が、
夜のおつとめの終わりにふさわしく、
闇の中に消えていく。

これら、ペルゴレージの作品が終わると、
それぞれ、ガロの器楽曲が奏されているが、
爽やかな語り口で、まるで、
期待された聖母の眼差しによって、
平穏が訪れたような感じを与えてくれる。

レオの最後、
「おお、慈悲に満ちた、おお敬虔な、
おお優しい処女マリア様、
おお、慈悲に満ちた、おお敬虔な、
おお優しい処女マリア様、
あなたを喜び迎えます。」

Track21のラルゴは、何故か神妙になって、
サルヴェ、サルヴェと再び、お迎えの音楽のはずだが、
先ほどまでの羽振りの良さは影を潜め、
最後は、ちゃんとお祈りしましょう、
という感じである。

このように、解説の先入観かもしれないが、
貧しい人の教会、もしくは、孤児院などで歌われたのが、
ペルゴレージの作品で、
レオの作品は、貴族の邸宅などの礼拝室などで、
裕福な家族がお祈りしているようなイメージが浮かんだ。

作曲家の語法がどうこう、という以外にも、
何となく、いろいろあるものである。
同じペルゴレージでも、イ短調作品の方が、
簡潔ながら、平易な変化に富んで楽しめた。

が、多くのCDがあるのは、ハ短調の方のようだ。

ペルゴレージのイ短調が約11、12分、
ハ短調が14、15分、
レオの作品が18、19分で、
ガロの5、6分のソナタが2曲入って、
58分で終わる、短めのCDである。
もう1曲、2曲入れてくれてもよかった。

レオの作品が、割合、すっと終わってしまうので、
そんな感じもした。

以上、見てきたように、
「サルヴェ・レジーナ」は、
1.マリア様を呼び寄せる部分、
2.自分たちの窮状を述べる部分、
3.だから、こっちを見て、という部分、
4.マリア様に感謝する部分、
という感じに分かれるので、
2と3の部分を、様々に変容させて、
多楽章の声楽作品に、まとめやすくなっている。

聖母マリアは、天上との架け橋なのであろう。
従って、それは人間に近く、
ある時は、そこらに歩いているかもしれない。
レオの作品などには、そんな感じすらあった。

こうした思いで、一日を締めくくるのは、
確かに、心休まることだったに違いない。

得られた事:「サルヴェ・レジーナは、聖母マリアへの祈りの歌で、一日の終わりのおつとめのために歌われた。」
「何と、サルヴェ・レジーナの歌詞は作曲家によって異なり、各部の解釈も、それが歌われた環境によって異なるような感じ。」
[PR]
by franz310 | 2011-11-20 11:26 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その198

b0083728_1093098.jpg個人的経験:
音楽家協会から委嘱を受け、
モーツァルトは、大急ぎで
オラトリオを完成させたが、
それは旧作、「ハ短調ミサ曲」の、
焼き直しバージョンであった。
しかし、このミサ曲そのものが、
「未完成」と言われているので、
ややこしいと言えばややこしい。
それでも、ヴィーン時代唯一の
ミサ曲として、高く評価する人は多い。


それにしても、ミサ曲はオリジナルであるがゆえに、
未完成作品であるにもかかわらず、
高く評価されており、
完成されているにもかかわらず、
「悔悟するダヴィデ」は、
オリジナルでないがゆえに、
低く評価されているというのも面白いことだ。

そもそもモーツァルト自身が、
このミサ曲こそが、自らの傑作とし、
オラトリオの方は、やっつけ仕事だと考えていたかどうか。

オラトリオにアリアを加えて完成させる事は出来ても、
ミサ曲の未完成のクレドを完成させ、
アニュス・デイを付けることは出来なかったというのは、
単に、経済的な問題だったのかもしれないが。

さて、そうした、「未完成」作品であるはずの、
「ハ短調ミサ」が、何と完成版で演奏された演奏があることを、
私は、うかつにも、このパウムガルトナー盤を知るまで知らずにいた。

このような状況では、完成された作品として、
「ミサ曲」対「オラトリオ」という対戦構造となる。

このCD、以前、集中的に取り上げた、
オルフェオ・レーベルのもので、
ザルツブルク音楽祭の実況録音である。

モノラルであるが、マリア・シュターダーがソプラノを歌い、
このモーツァルトの使途が振ったとなれば、
聴かないわけにはいかない。

しかも、解説を読んで、背筋が寒くなったのだが、
そういえば、モーツァルトは、この曲を、
ザルツブルク帰郷に際して作曲、
この街に捧げたようなものだった。

ザルツブルクにとって、この曲は、
かなり特別なものなのである。

しかも、この表紙写真、モーツァルトが、
この曲を演奏した教会の内部写真である。
ザルツブルク音楽祭は、まさしくこの教会で、
演奏したもののようにも読める。

単なる、記録ではなく、何やら因縁めいた場所の力が、
この演奏には籠っているかもしれない。

解説は、ゴットフリート・クラウス氏が書いている。

「過去の大家の厳格な様式に影響された
モーツァルト随一の大規模作品は、
未完成のハ短調ミサ曲である。
五部の合唱、これは時に八部にまで分かれ、
クラリネットは含まないものの、
トロンボーンを伴う、
フル・オーケストラが駆使され、
バッハの精神、ヘンデルの感情が合唱部に漲っている。」

「1783年、10月26日、
モーツァルト最後の帰郷時に、
この大ミサの完成部分が、コンスタンツェの独唱で、
演奏されたのを記念して、
ザルツブルクのアーティストによって、
早い時期から、聖ペーター教会で、
ハ短調ミサ曲K.427の演奏が行われてきた。」

このようにもある。
「聖ペーター教会における、
ハ短調ミサ曲の演奏は、
国際モーツァルト財団によって、
大戦中と戦後すぐに何度か中断された以外、
毎年行われており、
これがザルツブルク音楽祭の、
一つの目玉となっている。」

ここで少し、話は変わるが、シューベルトの場合も、
ミサ曲の作曲は、様々な興味深い問題を抱えていることを、
ふと思い出してしまった。

まず、モーツァルトが、
このミサ曲ハ短調で、新妻の声を響かせたかったように、
シューベルトも、初期のものでは、
初恋のテレーゼの声を想定したし、
また、彼女の晴れの舞台をも想定した。

中期の傑作、第5番変イ長調は、
就職活動と関係していると言われ、
これまた、モーツァルトの、奉納ミサ曲を思わせる。

さらに、すべてのミサ曲において、
「クレド」の楽章に、テキスト削除が認められるという。

モーツァルトもまた、
ハ短調ミサ曲において、クレドを完成できなかったのである。

ちなみに、クレド(信仰宣言)は、
こんな内容のものである。

「われらは信ず、唯一の神、
全能の父、天と地、見ゆるもの見えざるものの、
すべての造り主を。
われは信ず、唯一の主、神のおんひとり子、
イエズス・キリストを。
主は、よろずの世のさきに父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、
まことの神よりのまことの神。
造られずして生まれ、父と一体なり、
すべては主によりて造られたり。」

モーツァルトは、この部分を、
どんどこどんどこ活気の良いアレグロで、
壮麗に、対位法的に合唱を歌わせている。

これらの文言の作曲はすらすらいったようである。

ちなみに、シューベルトは、この、
「父と一体となり」を、
いくつかのミサ曲で削除している点が、
注目されることもある。
これは、父親との確執を物語るものとされるが、
最初のミサ曲が初演された時、
父親は息子を誇りに思って、
ピアノを褒美に買ってやったという話もあり、
つくづく、父親の役割は難しいものである。

ファザコンとして有名なモーツァルトの場合、
このあたりは問題なかったのだろうか。

さて、さらにクレドは、さらに、このように続く。

「主はわれら人類のため、
またわれらの救いのために、
天より下り、
聖霊によりて、処女マリアよりおんからだを受け、
人となりたまえり。
ポンテオ・ピラトのもとにて、
われらのために、十字架につけられ、
苦しみをうけ、葬られたまえり。
聖書にありしごとく、
三日目によみがえり、
天にのぼり父の右に座したもう。
主は栄光のうちに再び来たり、
生ける人と死せる人を裁きたもう、
主の国は終わることなし、
われは信す、主なる聖霊、
生命の与え主を、
聖霊は、父と子よりいで、
父と子とともに拝みあがめられ、
また予言者によりて語りたまえり。」

このような、三位一体の信仰に関し、
シューベルトはそこそこ許容できたようだが、
下記のように続くところは、
どうも信用できなかったようである。

「われは、一・聖・公・使徒継承の会を信じ」
つまり、教会は信用ならん、というところか。

また、それにつづく、
「罪のゆるしなる唯一の洗礼をみとめ」
は作曲しているものの、
「死者のよみがえりを待ち望む」
もうさんくさいと思って、多くの場合、作曲していない。

彼のように死を見つめて作曲していた人には、
確かに、こんな感覚はなかったかもしれない。
最初のミサ曲でだけ、これを作曲しているが。

クレドには、さらに、
「来世の生命を待ち望むアーメン」
とあって結ばれるが、
これについては、シューベルトは異議なしだった模様。
作曲されている。

では、モーツァルトの場合、
いったい、どこが作曲され、
どこが作曲されていないのだろうか。

「聖霊によりて、処女マリアよりおんからだをうけ」
の部分は、非常に穏やかな弦楽に、
フルートとオーボエが美しく絡んで来る、
ソプラノのアリアは、憧れに満ち、
神聖な気配に満ちている。
ここまでは、何の問題もなかったか、
優美極まりない表現で完成されているようだ。

しかし、このあとの
「人となりたまえり」を繰り返すばかりで、
十字架につけられたり、教会を認めたりするところは、
まるで触れられていない模様。

この曲が、結婚を祈念して奉納されるべく、
作曲されたというのが事実ならば、
確かに、縁起の悪い歌詞への作曲はためらわれたかもしれない。

では、最初から見直してみよう。

Track1:ミサ曲は、まず冒頭に、
「主よ、あわれみたまえ」の「キリエ」がある。

このパウムガルトナー盤では、
ものすごい粘ったテンポで、
この指揮者であれば、個性を発揮して、
これぐらいやって欲しいという私の要望は、
かなり満たされる。

Zalzburger-Rundfunk-und Mozarteum Chorも、
重厚で丁寧な合唱を聴かせるが、
フリッチャイの指揮の名盤でも、
世紀の名唱を聴かせた、マリア・シュターダーは、
ちょっと歌いにくそうな一瞬がある。

この録音が1958年の8月。
あの20世紀の名盤とも言えるフリッチャイ盤は、
翌年の秋の録音であるから、
モーツァルトの権威、パウムガルトナーは、
あの名盤にも、いくらか影響を及ぼしているのだろうか。

ちなみに、この部分は、「悔悟するダヴィデ」では、
「私は主に向かい声を上げて泣く。
悪に責められて私は、
神に向かって声を上げて泣く」という歌詞に変えられた。

どちらでも良いようなラメント風の音楽。

Track2:
それから、
「天のいと高きところには、神に栄光」と歌われる、
「グローリア」が来るが、ヘンデル風に壮麗。

これもまた、ずしりと重みのある演奏で、
オルガンや木管の伴奏も美しい。

「ダヴィデ」では、
「栄光と賛美を歌わせたまえ、
それを百度も繰り返し、
最愛の主を賛美させたまえ」という歌詞になってしまった部分だが、
この曲想も、確かにどちらでも行ける。

Track3:
途中、「我ら主をほめ、主をたたえ、主をおがみ、
主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに、
感謝したてまつる」の部分は、
「ダヴィデ」では、「悲しい苦しみから遠く離れ、
再び自由を感じよ。かつて怖れた者は、いまや喜びの時」
などと変えられた。

ここでも、清らかなソプラノ独唱が高く舞い上がるのを、
木管が彩るが、その丁寧な強調に、
パウムガルトナーの、この曲に対する愛情が聴ける。

Track4:
「神なる主、天の主、全能の父なる神よ」の部分は、
ずんと気合いのこもったアクセントが、
悲痛さを感じさせるが、
歌詞は、単に、神を前に、へりくだった姿勢を示すもの。

五部の合唱だと解説されている。

「ダヴィデ」では、「永遠に恵み深い神よ、
この祈りによって、その慈悲を給われますように」と、
確かに、変更容易そうな歌詞となった。

Track5:
「神なる主、神の小羊」は、
「世の罪をのぞきたもう主よ、
われらをあわれみたまえ」という内容で、
いかにも、ねちっこい表現で、これでもかこれでもかと、
へりくだっているのであろう。
二人のソプラノ、シュターダーと、カンブリーが、
素晴らしい綾を紡ぎ出す。

「ダヴィデ」では、
「主よ、来たりて、敵を追い散らしたまえ」
になってしまったが、同様に懇願の歌ということか。

Track6:
「父の右に座したもう主よ、
われらをあわれみたまえ」という部分は、
このパウムガルトナー盤、
合唱が大きくうねり、伴奏も鬼気迫る。
全員、没入している感じの壮絶さである。

何と、8部のダブル・コーラスだという。

この部分、「ダヴィデ」では、
「罰して下さい。思われるままに。
お怒りがしずまるように。
私の青ざめた顔を見て、主よ、私を慰め、助けて下さい。
助けたまえ、主よ、あなたにはそれが出来ます。」
という歌詞に変えられたが、「あわれんで欲しい」と、
「罰して下さい」では、かなり違いがありそうだが、
結局は、懇願の音楽なので成り立っている。

ちなみに、この部分の前に、
「ダヴィデ」では、テノールのアリアが挿入され、
「こうした苦難の中に、慈悲を求めます。主よ。
わが心に善を見いだしたまえ」と歌われる。

大胆にも、ミサ曲の「グローリア」が、
ちょうど半分あたりにて、
幾分、軽快な音楽で分断されている構図である。

Track7:
しかし、ミサ曲での「グローリア」はまだまだ続く。
「主のみ聖なり、主のみ王なり」の部分は、
二人のソプラノに、ゲオルグ・マランというテノールが加わり、
何故か、少し気のはやった歌唱が繰り広げられる。
「主のみいと高し」と歌われるのに、
それ以上に高みを目指している感じである。

あるいは、その高みに駆け上がる表現を、
パウムガルトナーが求めたのであろうか。
思い切った表現で、
音楽に大きな変化をつけているとも聞こえる。

「ダヴィデ」では、前回のCDではトラック9の、
「三重唱」で、
「私のすべての希望は、あなたの中にあります。
神よ、私を追いかけて苦しめる
あなたの凶暴な敵から私を護りたまえ」と歌われる。

歌詞では、この改変が一番、大きなものであろう。
「主のみ聖なり」とあがめていたのが、
いつのまにか、助けを求めている。

ちなみに「ダヴィデ」では、
これに先だって、
ソプラノのアリア、「暗く耐え難い陰を通って、
ちょうど穏やかな天が輝く」が歌われている。

Track8:
「イエズス・キリスト」とだけ繰り返し、
壮大な合唱で歌われる。
先ほどの浮き足だったところを、
ずーんと引き締めてくれる。

Track9:
「聖霊と共に、父なる神の栄光のうちに。アーメン。」
と歌われるが、先ほどの沈潜から、
一気に爆発して高揚する。
対位法的な動きも目が眩むばかり。
オルガンも強奏されて、
最後には大きく劇的なリタルダンドが来る。

Track8と9が、
「ダヴィデ」の終曲部であるが、
「このような危機にあっても、
神のみを希望とするものには、
何の怖れもない」という内容を歌うべく、
ベートーヴェンの「第九」のような、
華やかなエンディングとした。

ということで、以下のような等式が、
ほぼ成立する。

オラトリオ「悔悟するダヴィデ」≒
「ミサ曲ハ短調のキリエ」+「ミサ曲ハ短調のグローリアの前半」
+アリア2曲+「ミサ曲ハ短調のグローリアの後半」+α。

アリアの間には、劇的な「クイ・トイス」がはさまっているが。

そのあと、問題のクレドが来るということだが、
「ダヴィデ」には、これ以降の音楽は使われていない。

つまり、「悔悟するダヴィデ」は、
未完成の「ミサ曲ハ短調」の、
そのまた一部を使った音楽なのである。

とすると、未完成の「ミサ曲」か、
完成された「オラトリオ」か、という議論以外に、
中途半端な「クレド」と、
完成された「サンクトゥス」、
同様に、完成された「ベネディクトス」の価値の問題が出て来る。

さて、続きを聴くと、
このパウムガルトナー盤、後半がすごい。

まず、10分程度で中断されたはずの「クレド」が、
21分23秒となっている。
何じゃこりゃ、となる。

Track10:
問題の「クレド」である。
例のどんどこの行け行けテーマが出る。
パウムガルトナーは微笑んでいそうである。
シュターダーの声は、限界ぎりぎりだが、
「インカナトス」のマリア賛歌を歌い終えている。
軽妙で古雅な木管伴奏も美しい。

解説によると、「愛らしい牧歌風景」とされ、
キリエの中間部や、
グローリアの「われら主をほめ」などと共に、
「オーストリアの後期バロック・ミサ曲の、
ミックススタイルの最後の愛らしい回想」
とされている。

このあと、ざわざわと着席の音がするが、
何と何もなかったかのように、
「クレド」の続きが歌われていく。

さすがに、十字架の苦難を歌ったものだけあって、
苦渋に満ちた表現が聴かれるが、
その後、弾けるように、復活の喜びが歌われる。
合唱も緻密で、オーケストラもそれに密着した、
丁寧で優しい音を響かせている。

テノール独唱も声がハンサムだ。
再度、大合唱となり、
無事にアーメンまで歌われている。

これは何が起きたのか。
(答えは最後に書いた。)

Track11:
感謝の賛歌たる「サンクトゥス」、
合唱団は、渾身の爆発である。
心の奥底からほとばしり出る、
聴く者の心を動かす感謝の叫びである。

宗教曲とは、本来、こうしたものではなかろうか、
などという感想が浮かび上がる。

Track12:
サンクトゥス後半の「ホザンナ」。
バッハ、ヘンデル体験の結晶たるフーガが、
少しずつ積み上げられて行く。

Track13:
そして、「ほむべきかな、主の名によりて来るもの」の、
「ベネディクトス」。
ここでは、ヴァルター・ラニンガーのバスを加え、
素晴らしい四重唱が繰り広げられる。

パウムガルトナーは、前のフーガの緊張の後の弛緩を楽しみ、
十分にかろやかかつ、楽しげな音楽を聴かせている。

しかし、次第に、音楽は濃密さを増して行き、
再び対位法的な凝集に向かっていく所が素晴らしい。

このように、「ダヴィデ」にない、
二つのオリジナル楽章は、素晴らしい音楽である。

ミサ曲の場合、このあと、
最後に、「アニュス・デイ」(神の小羊)が来るが、
モーツァルトは、この「アニュス・デイ」も作曲しなかった。

「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、
われらをあわれみたまえ。」
という内容が繰り返されるだけなので、
「ダヴィデ」のために、
「暗く耐え難い陰を通って、
ちょうど穏やかな天が輝く。
嵐の中にも、真実の心には平穏がある。
公正な魂は、そう、喜ぶのです。
誰も妨げぬ喜びと平穏。
神のみがその創造主。」
などという、数分を有する長いアリアを、
2曲書いたモーツァルトなら、
その気になれば、簡単に書けそうなものだが。

よほど、すごい終曲で締めくくりたかったのだろうか。

しかし、このパウムガルトナー盤、
のけぞる結末が待っていた。

何と、冒頭の「キリエ」の、
「主よ、あわれみたまえ」の音楽が、
ここで再び蘇って来るのである。
ソプラノの独唱もそのままに、
9分14秒の大曲が、突如、
復元されたという感じである。

これはこれで良いではないかと思われる。
確かに、キリエもアニュス・デイも、
「あわれみたまえ」という内容が繰り返されるので、
「ダヴィデ」のように、
歌詞のすげ替えを許すモーツァルトなら、
これで良しとしたかもしれない。

元の音楽が強烈なので、素晴らしい効果であった。

さて、このCDの解説をかいつまんでみると、
下記のようなことが書かれている。

「残念ながら、この曲がザルツブルクで初演された時、
初期のどのミサ曲で補完されたかは明らかでない。
1901年、エルネスト・レヴィッキと、
協力者のアロイス・シュミットが、
とりわけ、クレドの一部を、
モーツァルトのスケッチから復元し、
古い教会の実例の応用として、
アニュス・デイをキリエから、
フルート、クラリネット、
オルガンを補って発展させ、
このミサ曲補完の最初の試みを行った。
この版は、ブライトコップフ&ヘルテルから出版され、
多くの実演に繋がった。
1956年、H.C.ロビンス ランドンは、
オイレンブルク出版のために、
序文と研究とともに新バージョンとして改訂した。
シュミット版とは違って、
足りない部分は、
おそらくモーツァルト自身が、
初演した時に使ったと思われる、
モーツァルトの『ミサ・ロンガ』
K.262の類似パートで補足した。
1958年の聖ペーター教会での
このライブ録音では、
このバージョンが使われ、
完璧なスタジオ録音ではないものの、
おそらく、最も価値ある、
ザルツブルク音楽祭の伝統を生き生きと伝える、
演奏の一つだと思われる。」

得られた事:「ミサ曲のテキストは、熱烈な信仰を迫るものがあり、シューベルト同様、モーツァルトもまた、作曲したくないテキストゆえに、作曲できなかった部分があるかもしれない。」
[PR]
by franz310 | 2009-11-01 10:09 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その197

b0083728_9154023.jpg個人的経験:
前々回、コジェルフのオラトリオ、
「エジプトのモーゼ」を聴いたが、
このオラトリオは、1772年、
ガスマンによって創設された、
ヴィーン音楽家協会
(Wiener Tonkunstlersozietat)の
委嘱を受けての作品であった。
この協会は、
音楽家の互助会のような性質を
持っていたようである。


コジェルフは1787年のクリスマス担当で、
その他、ディッタースドルフが「エステル」を、
ハイドンが、「トビアの帰還」を書いたとされるが、
モーツァルトもまた、この協会から委嘱されていたようだ。

「悔悟するダヴィデ」という問題作が、
こうして生まれた。
ケッヒェルの番号で、469番がついている。

彼のピアノ協奏曲が好きな人は、
あの有名なニ短調K.466や、
ハ長調K.467を思い出すかもしれない。

あるいは、室内楽なら、このあたりでは、
ハイドン・セットの最後の「不協和音」K.465、
ピアノ四重奏曲K.478が有名である。

このような、高みにあったモーツァルトのものながら、
ほとんど知られていない作品である。

これは、一般には、スヴィーデン男爵が創設した、
ヴィーン芸術家協会のために書かれたとされていたが、
どうやら、ガスマン創設の音楽家協会と同じ団体のようである。

例えば、このCDの英文解説でも、
Vienna Society of Artistsとあるので、
「芸術家協会」が正しく思えるが、
同じCDのドイツ語解説では、
Wiener Tonkunstler Societatとあり、
これは「音楽家協会」と訳されるべきものであろう。

音楽家の未亡人や孤児のための募金集めの演奏会であるから、
芸術家協会では、少々話が合わなくなってしまう。

このナクソスのCD、
演奏は、ライプツィヒ室内管弦楽団のもので、
何と、ゲヴァントハウスでの収録とある。
シュルト=イェンセンという指揮者が振り、
ルンド、ヴァーリンといった人たちがソプラノを受け持ち、
オディニウスというテノールに、
不滅のバッハ合唱団というすごい合唱がバックについている。

2006年の4月の録音で、非常に澄んだ音で聴ける。
指揮者がデンマーク人、ソプラノがノルウェーとスウェーデン出身、
といった北欧の風があるからだろうか。
ルンドは1979年生まれ、
ヴァーリンも2000年に学校を卒業した人のようなので、
その若さが爽やかなのだろうか。

後述のように、この作品、成立がクリーンな感じではないが、
演奏がクリーンな感じで救われているかもしれない。

表紙には、Simeon Solomon(1840-1905)という人の、
『David』が使われている。
儚げな様子が、ミケランジェロの作品とは大違いであるが、
悔悟する場合は、こんな顔になったのかもしれない。
この絵画の消え入りそうな感じは、
「私は声を上げて泣く」などと歌われる、
この作品の歌詞とマッチしていると言えなくはない。

さて、このCDの解説には、この問題作は、
どのように書かれているであろうか。
Keith Andersonという人が書いているが、
私の感覚では、分量の比率として、
少々、曲に対する解説が不親切のような気がしているが。

最初の半ページは、モーツァルトの生涯の概観なので、
今回は省略、次の半ページに、
この曲の成立の由来が現れる。

「モーツァルトの教会音楽の大部分は、
雇い主の求めに応じて書いた、
ザルツブルク時代のものである。
1781年からのヴィーン時代には、
他に多くの優先事があったが、
1783年には、もう一度、ザルツブルクを想定し、
1曲のミサ曲の作曲に専念した。
1782年8月、彼は、
作曲家、カール・マリア・フォン・ウェーバーの、
親類でかつての女地主の娘、
コンスタンツェ・ウェーバーと結婚した。
最初、彼はこの縁組に反対していた父親に、
このことを隠そうとしており、
このカップルがザルツブルクで、
彼女の義理の父と姉と会うのは1年後のことだった。
この機会に、モーツァルトは、
断続的に作曲していながら、
クレドとアニュス・デイが未完成だった、
『ミサ曲ハ短調K.427』を携えていた。
この作品は、最初に彼らがザルツブルクを訪れた際、
コンスタンツェが、彼の地の聖ペーター・ベネディクト教会で、
ソプラノ・パートを歌う約束を果たすためのものだった。」

ここまでは、このオラトリオと無関係の内容に見えるが、
このミサ曲が、このオラトリオの原曲となった経緯が、
以下のように説明される。

「1785年、慈善組織であった、
ヴィーン音楽家協会(英訳文では芸術家協会)から、
作品を依頼された時、絶頂期にあり、
作曲家としても演奏家としても多忙だったモーツァルトが、
頼りにしたのは、実に、この以前の作品であった。
この団体は、亡くなったメンバーの、
貧困な寡婦や孤児の面倒をみていたことで、
明らかにモーツァルトも興味をもっており、
その会員になりたがっていたものだった。」

このような編作は、はたして、
どのような評価をすればいいのだろうか。
厳密には、オリジナルではないから、
こんなのはまともな作品ではない、
と考えるのが普通かもしれない。

そのせいか、この作品、
モーツァルトには珍しいオラトリオでありながら、
また、その絶頂期のものながら、
ほとんど知られていない作品として放置されている感じがある。

「この新作、『悔悟するダヴィデ』は、
おそらくロレンツォ・ダ・ポンテのイタリア語のテキストにより、
モーツァルトは、ラテン語の歌詞を、
しぶしぶ新しいイタリア語に置換えて行った。
しかし、彼は、2曲の新しいアリアと、
最後のカデンツァを追加している。
『悔悟するダヴィデ』は、
1785年3月13日と15日に、
ホーフブルクの国立劇場で演奏された。
モーツァルトの『後宮からの誘拐』で、
コンスタンツェ役を歌った、
サリエーリの弟子カテリーナ・カヴァリエーリが、
ソプラノを受け持った。
第2ソプラノはエリザベス・ディストラーで、
テノールは、ヴァレンティン・アダムベルガーだった。
レオポルド・モーツァルトは、
この時、ヴィーンに息子を訪ねて、
その活躍に当惑していたが、
残っている娘への手紙には、
おそらく聴きに行ったと思われる、
音楽家協会の演奏会の予告の短信が残るだけである。
声楽家の数、コーラスの大きさに対応し、
必要とされるオーケストラは大きなもので、
各コンサートは、ハイドンの最新の交響曲、
同じくハイドンの、『トビアの帰還』からの合唱、
ガスマンの『プシシェの愛』の合唱や、
独唱アリア、器楽曲などを含む、
ごちゃ混ぜの内容だった。
最初の演奏会はレオポルド・モーツァルトの弟子、
ハインリッヒ・マーチャントのオーボエ協奏曲が、
二回目の演奏会では、
同じ人のヴァイオリン協奏曲が演奏された。」

こうしたごたまぜの演奏会であったせいか、
この作品は、未完成の作品の焼き直しで済むくらいの規模で、
CD二枚を要した、コジェルフの「エジプトのモーゼ」
のようなものを連想してはならない。

40分程度で、このCDにも、余白にはもう1曲の宗教曲、
12分半の「レジーナ・チェリ」K.108が収録されている。
このK.108は、1771年、ザルツブルクでの作品とされ、
題名は、「天の女王」を意味し、つまり、聖母賛歌のようである。

逆に、モーツァルトがこの程度しか書けなかったから、
父レオポルドにも頼んで、
他の作品をかき集めてもらったようにも見える。
レオポルドが、何故、この演奏会の様子を書かなかったのか、
などということも気になる。

意外にも、レオポルドの弟子の作品の方が、
評判が良かったもかもしれない。
そうした場合は、報告も、しにくかったかもしれない。

ミサ曲ハ短調も、この作品も、
両方とも知っていた人は、
レオポルドと、コンスタンツェの二人だけだったのか、
それとも、公衆にもバレバレであったのかは不明。

入りたくて仕方なかった協会のために、
このような作品しか提出できなかった事について、
モーツァルトはどう思っていたのであろうか。

少なくとも、10年前の春に演奏され、
前年にも再演された、ハイドンの大力作や、
2年後のクリスマスに現れたコジェルフの力作と比べ、
今日から見ると、かなり見劣りがするのは確か。

モーツァルトは俺様だったかもしれず、
これで何が悪いと思ったかもしれないが、
レオポルドは、少し、呵責を感じていたのではないか。

あるいは、コンスタンツェが、
うっかり、これは私の曲だ、などと、
つい口を滑らせたかもしれない。

歌詞がぴったり当てはまる点なども怪しく、
あるいは、ポンテに、適当にこんな感じの歌詞を書いてくれ、
などと頼んだのはモーツァルト本人だったと考えるべきであろう。

どう考えても、あまり褒められた来歴のものではない。

さて、以上のように、初演の様子などが、
事細かに書かれているにもかかわらず、
どのような内容なのかはよく書かれていない。

(ちなみに好評だったという解説もどこかで読んだ。)

前回、コジェルフの「エジプトのモーゼ」が、
モーゼのようでモーゼでなかった以上に、
この作品のダヴィデは、まったくもってダヴィデではない。

モーゼと言えば十誡であるように、
ダヴィデといえばゴリアテであるが、
テキストにそんな内容は皆無である。

どこがどのようにダヴィデであるかなど、
この曲のテキストを読んでもさっぱり分からないのである。

そこで仕方なく、私は、聖書の要約から、
ダヴィデが何故に悔悟しなければならなかったかを、
探そうとしてみたが、
ミケランジェロの彫刻で有名なこの人には、
やたらとエピソードがあって、どこで悔悟してもおかしくはない、
という感じがしなくはない。

ひょっとすると、ダヴィデは、「悔悟する」人物の、
代表格として捉えられているのかもしれない。

そういうことがないとしたら、ここで、
抽象的な言葉の羅列によって、
悔悟するのは、ダヴィデであろうと、
モーゼであろうと、はたまた、
ハイドンのトビアであろうと関係なさそうである。

あるいは、キリスト教の決まりか何かで、
この年は、どの素材を扱う、などという、
常識的な関係があったのかもしれない。

あと、ケッヒェル番号を見ていくと、
このあたり、フリーメーソン関係の音楽も多いから、
そうした背景があったりするのだろうか。

解説に戻ろう。

「『悔悟するダヴィデ』は、オーボエ、バスーン、ホルン各2、
弦楽合奏に3本のトロンボーンに、おそらく鍵盤コンティヌオ、
外側の楽章には、トランペットとドラムを要する。」

ここからは、全10曲の各曲についての説明となる。

「オラトリオはハ短調の合唱とソプラノで始まり、
ミサ曲ハ短調の『キリエ』が使われている。」

こんな感じで、ハ短調ミサとの関係が述べられるだけで、
ほとんど、内容に触れてくれないじれったい解説である。

解説者は、内容は、たいしたことないと思っているのか、
あるいは、「どこがダヴィデか」という事を追求されるのを、
怖れているのかもしれない。

仕方ないので、別ページにある歌詞を、
書き出して見て、内容についてもさぐりつつ行きたい。

この部分は、こんな歌詞である。
Track1:合唱。
「私は主に向かい声を上げて泣く。
悪に責められて私は、
神に向かって声を上げて泣く。」

とにかく、嘆いているのであろう。
いきなり、ハ短調ミサ曲の冒頭が現れるが、
切々と、途切れがちな、その進行は、
ティンパニの連打を伴いながら、たいそう劇的である。
途中で現れるソプラノ独唱は、そんな中から舞い上がって、
非常に美しい効果を上げるが、これも、ミサ曲のまま。

ミサではコンスタンツェが脚光を浴びたが、
このオラトリオでは、サリエーリの愛人とも言われた、
カヴァリエッリが、大きくクローズアップされたのであろう。

しかし、神に向かって泣き叫ぶと歌われても、
神様も困るであろう。

これが、「悔悟」している証拠であろうか。

「第2の合唱は、ハ長調。
前作のグローリアのオープニングが使われている。」

Track2:合唱。
「栄光と賛美を歌わせたまえ、
それを百度も繰り返し、
最愛の主を賛美させたまえ。」

ここでは一転して壮麗な、
ヘンデル風の押しの強い音楽が、
神を押しつけがましく、
叩きつけるように讃える。

まったく悔悟していない。

「ヘ長調のソプラノのアリアは、
オーボエ、ホルン、弦楽を伴い、
前作のラウダムスが繰り返されている。」

Track3:アリア。
「悲しい苦しみから遠く離れ、
再び自由を感じよ。
かつて怖れた者は、
いまや喜びの時。」

どうやら、今度は、独唱で神を言祝ぐ部分のようだ。
ダヴィデである必然はまるでない。

が、おそらく、キリスト教の、こうした言葉は、
千年の時を経ても、信者を勇気付けたに違いない。

速いテンポで弦楽が細かく動き回り、
音楽は明るく、天かけるように進む。
オーボエがソプラノに唱和して、
非現実的な天上の響きを思わせる。

悔悟とは無関係である。

「イ長調の合唱は、フル・オーケストラで、
オリジナルの『グラティアス』を用いている。」

Track4:合唱。
「永遠に恵み深い神よ、
この祈りによって、その慈悲を給われますように。」

ここでは、合唱が神妙に神秘的な響きを聴かせる。
すぐに終ってしまう。
泣きを入れているだけで、ダヴィデには相応しくない。

「続いて、二人のソプラノによって、
オリジナルの『ドミネ・デウス』のバージョンが、
ニ長調の弦楽で奏される。」

Track5:二重唱。
「主よ、来たりて、敵を追い散らしたまえ。
追い散らし、追い払いたまえ。
あなたを害するものすべてを敗走させたまえ。」

ここでは、勇壮で深刻な曲想を、
二人のソプラノが歌い交わし、
神を害するものを、しっかりと見つめる視線が鋭い。
ミサ曲でも取り分け印象的な一節であろう。

敵が悪いと、人のせいにして、
まったく悔悟している様子はない。

「第6のパートは、変ロ長調のテノールのアリアで、
最後のアレグロ、『あなたが私の祈りを』で、
新しく作られた部分が登場する。
これはフルート、オーボエ、クラリネット、バスーン独奏と、
高い変ロのホルン二つと弦楽によって演奏される。」

Track6:アリア。
「こうした苦難の中に、慈悲を求めます。主よ。
わが心に善を見いだしたまえ。
あなたが祈りの声を聴けば、それだけで心が弾む。
あなたを通じて、胸の嵐はおさまるがゆえに。」

前半、テノールによる、切実な歌を、
様々な木管楽器が、ある時は同情するように、
ある時は鼓舞するかのように、寄り添うに支え、
チェンバロの響きも、印象的で、
きらきらと耳に飛び込んで来る。

後半は、「心が弾む」という部分で、
オーケストラもチェンバロも興奮し、
ホルンの信号音やめまぐるしい木管群の交錯も加わって、
テノールは、軽やかに舞い上がる。

ここは、男声で歌われるがゆえに、
ダヴィデを想起できるかもしれない。

付点リズムのフル・オーケストラを伴う、ト短調の合唱が続き、
ここは、オリジナルの『クイ・トイス・ペカッタ・ムンディ』による。

何だか、それがどうした、と言った感じの解説だが、
下記のように、何だか、自虐的な内容の詩で、
自分が罰せられることが前提になっている。

Track7:合唱。
「あなたが私を罰するとしても、
でもまず主よ、あなたのさげすみやお怒りは、
なだめられるでしょう。
罰して下さい。思われるままに。
お怒りがしずまるように。
私の青ざめた顔を見て、
主よ、私を慰め、助けて下さい。
助けたまえ、主よ、あなたにはそれが出来ます。」

先ほどの喜びはどうしたのか、
急に深刻な内容になって、
が、これこそが「悔悟」というに相応しい。

「フルート1、オーボエ、バスーン、ホルン各2と弦楽による、
ハ短調のアリアは、カタリーナ・カヴァレッリのために新しく作られた。」

Track8:アリア。
「暗く耐え難い陰を通って、
ちょうど穏やかな天が輝く。
嵐の中にも、真実の心には平穏がある。
公正な魂は、そう、喜ぶのです。
誰も妨げぬ喜びと平穏。
神のみがその創造主。」

これは、1785年の時点で作られたので、
ちゃんと、新奇な部分を期待して聴かなければなるまい。
さすがに、先ほどのテノールのアリア同様、
楽器法が凝っていて、いろいろな表情と音色で歌を彩る。
しかも、テンポの変化も面白い。

後半は、神を讃える歌となって、これまた、
高揚した心を歌って、聴衆をも巻き込んだと思われ、
さすが、当代のプリマの活躍を際だたせた力作と思わせる。
この演奏では、このあたりは、少し、若さが出たかもしれない。
風通しはよく、力強いのだが、余裕はない感じ。

この曲、尻切れトンボ的な変な終り方である。
次が、三重唱で、ソプラノが再び入って来るので、
そんなに違和感はないが、ここで、拍手を入れるには、
ちょっと歯切れが悪い。

「これは、オーボエ2、バスーン2と弦楽と、
独唱者たちによる、ホ長調の三重唱に続くが、
これはオリジナルの『クオニアム』による。」

Track9:三重唱。
「私のすべての希望は、
あなたの中にあります。
神よ、私を追いかけて苦しめる
あなたの凶暴な敵から私を護りたまえ。
ああ、神よ。救い給え。」

この曲も、女声による、
高い所9での声の交錯が美しいが、
凶暴な敵が悪いと、
当事者意識に欠け、「悔悟」の要素はない。

つづいて、いよいよ終曲である。

「終曲のハ長調の合唱、
『神のみを希望とするもの』は、
オリジナルの『イエズ・クリステ』により、
ポリフォニックな、『何の怖れもない』は、
本来、伝統的な典礼のテキスト
『クム・サンクト・スピリトゥム』に、
うまくマッチしていた。
これに対し、モーツァルトは、
独唱者たちが最後の栄光を歌うための、
新しいカデンツァを追加した。」

Track10:合唱。
「このような危機にあっても、
神のみを希望とするものには、
何の怖れもない。」

何だか短い歌詞であるが、
4分半にわたって、フーガの書法もちらつかせながら、
合唱の壮大さや、技巧に聞き惚れる部分。
ティンパニの連打、オーケストラも豪壮で、
木管群は独特の音色と音型で和声を支えている。
弦楽のちょこまかした動きは、
シューベルトにも連なる要素がある。

やがて、独唱者も加わってくると、
その精妙な声の交錯の妙味に続き、
バーンと盛り上げて終わる迫力もあって、
さすがに、絶頂期のモーツァルトが書き上げた、
晴れある舞台のための作品という感じがしてくる。

が、かなりひいき目に書いての話で、
実際は、え、これだけ?という感じの方が強かろう。

悔悟している率は2~3割程度で、
ダヴィデっぽさは、1~2割程度。
「悔悟するダヴィデ」の含有率は、
10%程度と言えるのではなかろうか。

解説は、
「よりテキストにマッチした、
二つの新作の劇的なアリアと、
最後の何小節かに、全作品の興味の中心がある。」
という感じで、かなり突き放してくれる解説である。

いずれにせよ、モーツァルトの「悔悟するダヴィデ」は、
ライヴァル、コジェルフの大作、「エジプトのモーゼ」以上に、
内容に偽り有りの作品のような気がする。

カンタータが、ヘンデルの「メサイア」のようなものであるならば、
この「ダヴィデ」は、まったく物語がなく、オラトリオというより、
祝祭声楽作品といった感じが強い。

こうして、隅から隅まで、
このCDに書いてあることを精査しても、
内容からして、「悔悟」でも「ダヴィデ」でもない。
ナクソスという廉価盤レーベルの、
制限されたページ数など予算の限界であろうか。

それにしても、この作品の委嘱はいつなされたのであろうか。
1784年から1785年の春といえば、
確かに、モーツァルトは父親の来訪があったし、
すでに書いたように、「ハイドン四重奏曲」の作曲、
有名なピアノ協奏曲20番、21番の作曲などで多忙ではあった。

特に、ハイドンに捧げられた四重奏曲群は、
かなり苦心惨憺だったとされているので、
このために、うまく時間が取れなかったのかもしれない。

「悔悟するダヴィデ」鑑賞には、
さらなる介護が必要である。
どこがどうダヴィデなのか。
結局はよく分からなかった。

さて、このCD、次に収められた「レギナ・チェリ」は、
同じハ長調ということで選ばれたのだろうか。

解説には、こんな事が書かれている。
「1770年と1771年に、
モーツァルトと父親は、
イタリアにいて、ボローニャにて二・三ヶ月を過ごし、
ここで、マルティーニ神父から、
モーツァルトは、伝統的な対位法を授かった。
このイタリア旅行の結果として、
『レギナ・チェリ』K.108が1771年5月、
帰国後にザルツブルクで書かれた。」

1771年といえば、
モーツァルト15歳である。
イタリアにプチ留学した中学生が、
帰郷後に意気揚々と書いた作品という感じだろうか。

「オーボエ、ホルン、トランペット2、
ティンパニ、弦楽合奏とソプラノ独唱、
4部の合唱、オルガンのバスによる。
祝祭的な最初のハ長調部は、
二つのフルートと弦楽合奏によって伴奏される、
華麗なソプラノ独唱と、対位法的展開を見せる合唱の、
ヘ長調の部分に続く。」

「喜べ、天の女王よ、アレルヤ」と歌われる、
かなり激しい始まりの曲に比べ、
このソプラノは優しく、
「その言葉のとおり、
彼は復活された」と歌う。

「弦楽合奏を伴奏に、イ短調のソプラノ独唱は、
『アダージョ・ウン・ポコ・アンダンテ』と記され、
『我らのために祈れ』と歌われる。」

この部分は、一転して、憂いの表情を見せ、
シンプルながら、伴奏音型にも切迫感がある。
「神のために祈れ」と、
ソプラノ独唱が切々と歌う。

最後の『アレルヤ』では、独唱、合唱に加え、
フル・オーケストラが戻って来る。」

いきなり、ティンパニが鳴り響き、
晴天の青空を思わせる解放感の中、
混声合唱の中から、軽やかなソプラノが浮かび上がる。

「悔悟するダヴィデ」よりも、
こちらの方が、純粋に楽しい音楽で、
これをCDの最後に持って来ているのは良かった。

得られた事:「コジェルフ対モーツァルトのオラトリオ対決は、力作という意味でコジェルフ圧勝。」

(追記:この作品、私の知識レベルにまだ問題があり、再検討予定。)
[PR]
by franz310 | 2009-10-25 09:16 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その195

b0083728_15571220.jpg個人的経験:
前回、コジェルフの大作、
「エジプトのモーゼ」を聴いたが、
前半で力尽きた。
今回は、後半を続けて聴いて見よう。
ユダヤの同胞を率いて、
隷属していたエジプトから、
モーゼが出立する前に、ファラオと、
モーゼの育ての親で王女のメリームが、
邪魔立てしようとして神の怒りを買う。
天変地異が起こり、えらいことになった。


そこで、全能の正しき神ならば、
いっそ、ファラオもメリームも亡き者にすれば良かったのに、
第二部でも、この分からず屋たちは相変わらず、
敵対してモーゼの前に立っているようである。

そもそもモーゼは、ファラオの許しだけでなく、
ファラオに信心まで求めたので、話がこじれたのである。
キリスト教圏の人がみな、
こうした思考だとすれば、
とても、まともな交渉など出来はしない。

二枚組CDの二枚目を始めから聴いて行こう。

ちなみに、解説によると、こんな内容である。

「第2部の最初の部分で、
改めてイスラエルの民は自由を求める。
これまでにファラオは、
これ以上の抵抗はしないと決めている。
メリームは別れを言わねばならぬことで悲しむ。
1790年のヴィーンでの2回目の上演時に作曲された、
情景とアリア、
『何を見るのか、何を怖れるのか』(CD2のトラック6)は、
1787年の初演では、ここに置かれていた、
ことわざのアリア、
『風の強いひと吹きが』(CD2のトラック5)よりも、
音楽的にもスタイルの点でも近代的である。
こちらの方が母の愛をさらに感動的に表わし、
印象的な人間的感情を加える。
今回の録音では、
二つのバージョンを聴き比べられるように、
どちらも聴けるように並べたが、
演奏会で並べられたことはない。」

私は最初、このような事情を知らずして、
このCDの二枚目を聞き流していて、
延々と続くメリームの歌に辟易したが、
ちゃんと解説は読まないといけないと痛感。
トラックのみ見ていても、
そこまでは書いてない。

何しろ、Track1とTrack3の合唱が、
そもそも繰り返しなので、
Track4に来た時点では、
かなり、うんざりした精神状態になっているので、
この攻撃はかなり耐え難いものであった。

しかし、このように、
Track4、5(計9分)と、
Track6(7分19秒)は、
どちらかを聴けばよいということが分かった。

このCDの二枚目は、聞き流してはいけない。

さて、続き。

「モーゼは神に嘆願し、助力を嘆願する。
アーロンが、人々の出発の準備が出来た事を知らせると、
メリームは虚しく息子に留まるよう再度願う。
ファラオは自らの気違いじみた憎悪と戦う。
アーロンはメリームに、父王に、
良い印象を与えるようにとアピールし、
虚しくも、彼女が神の善性を確信するように試みるが、
彼はモーゼを『危険な魔法使い』と考えている。
王女が、モーゼはそのミッションを捨てることはなく、
すでに、なすすべがないと気づくと、
彼女は理解を示さず、怒りに身を任せ、彼を完全に拒絶する。
モーゼとしては、結局、民と共に去っていく。
モーゼとメリームという、
二人の主役の間の確執が、第1部より目立ち、
モーゼにとっては、神の指示と養母との関係の矛盾となり、
メリームにとっては、息子への愛情と、
同時に、彼の行動への悲劇的な理解しがたさが矛盾となる。
彼が与えられた責務を果たすには、
自らが根無し草となって、そして母をも捨て、
自由になるしかなかった。」

こんな内容のオラトリオであるが、
いったい、ここに何を我々は読み取ればいいのか。
コジェルフも、台本作家も、いったい、
どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。

結局、話し合っても無駄、みたいな教訓しか私には感じられない。
モーゼが行ったのは、神が言うから仕方がないんだ、
という狂人のロジックでしかなく、
隷属状態からの解放には、力ずくでやるしかない、
ということであろうか。

フランス革命を前にした当時の人々の感覚とは、
こんな感じだったのだろうか。

で、それをコジェルフは代弁して見せたということか。
ナポレオン戦争を経て、第一次大戦に突き進む思想の萌芽を、
ここに見るべきなのだろうか。

このような意味でも、
聖書を傘にしたこのドラマを、
我々が正しく鑑賞するには、
かなりのハードルがあると言わざるを得ない。

CD2を順番に聴いて行こう。

はたして、分からず屋たちは和解したのだろうか。

Track1:合唱。
「知られざる神の強力な手が、
我々を打ち崩し、破壊した。何が起こるのだろう。
隷属のイスラエルの民を自由にし、
我らの惨めな境遇を終らせよ。
モーゼを解き放て。」

静謐なクリスマスの夜に奏でられるに相応しい、
晴朗なメロディーの美しい合唱だが、
内容はちょっと、いや、かなりヤバい。
このような清純な音楽にする必要が、
どこにあったのかはよくわからないが、
これが、当代とっての人気者たる所以であろう。

Track2:ファラオのレチタティーボ。
「もういい。
残った連中をここから去らせ、
多くの災いの種を追いやってくれ。
哀れなエジプトよ。
最後には一息つけるだろう。
私はこの怒り、憎しみ、憤怒をぶちまけ、
復讐できればいいものを。」

この怒りに満ちたレチタティーボ、
36秒しかないが、おそらく、
先の合唱に変化をつけるために挿入されたもの、
あるいは、この怒りを理由に、
それを慰撫するような合唱を置く理屈をつけた、
と考えてしまうほどだ。

Track3:合唱の繰り返し。
後半に入って、コジェルフの悪い所が顔を覗かせる。
このメロディーが気に入ったものと見え、
コジェルフは何度も繰り返して、
いつか読んだ、コジェルフは似たような繰り返しが多い、
という当時からの評判を思い出した。

そもそも、天変地異が起こったので、
1から3の、何も起こっていないような、
意味のないトラックは省いても良いのだ、
何故なら、次に、メリームがもっと恐れおののいた歌を、
次に歌っているからである。

前述のように、以下、
メリームのレチタティーボとアリアが続く。
以下は、トラック6と差し替えてもよい。

Track4:メリームのレチタティーボ。
「どこに行けばいいのだろう。
どこに隠れればいいのだろう。
この凶暴で残忍な野獣の住む恐ろしい場所で。
この恐ろしい夜、エジプトの民たちをなぎ倒したのは誰。
この国の動物たちに、ここまで冷酷に出来るのは誰。
誰がこの血を流させたのか。
可愛そうな哀れな母よ。どんな神が、
あなたがたを、その力の的としたのか。」

このレチタティーボは、
先の天災に対する恐れをダイレクトに表わして、
私は悪くないと思う。
人々の動揺を示す、伴奏の動きも説得力がある。

Track5:メリームのアリア。
「風の猛威。
よくしなる藻のついた蘆はそのままに、
大きな古いオークの木をなぎ倒すつむじ風。
抵抗するものを苦しめ、
屈する者を許す寛大な心。」

確かに、この内容、比喩が多く、評論家的である。
ただし、音楽は、高らかなファンファーレに続き、
壮麗である。それだけに形式的にも聞こえるのかもしれない。
妙に英雄的で、話の筋としては、ファラオにでも歌わせたいものだ。

Track6:メリームのレチタティーボとアリア。

こちらが再演時のメリームの担当分である。
音楽も葛藤を表わし、メロディーも精妙で心に染みる。

さらにそれが、快活なリズムになだれ込んで、
まるで、オペラの情景のように、鮮やかな印象を与える。
これは、全曲でも屈指の部分であろう。
コジェルフは1790年まで、その実力は健在であった。

「私は何を見るのか。何が私を圧倒するのか。
私はモーゼを見ることが出来ない。
心の中に起こったこの戦い。
彼が去り、別れを言わねばならぬというのに、
私の血は氷のようだ。私の心は引き裂かれた。」

登場人物の心理描写という点では、
まるで、モノローグのようで秀逸。

「臆病な恐れによる声ではなく、
私の恐れは理由なきもの。
たぶん、私の不運な、なおも愛する息子は死ぬでしょう。
私は私が死ぬのも分かる。
そして涙が溢れる。
この涙は、息子よ、たぶん、これで最後でしょう。
この別れの言葉、愛する息子よ、これも最後でしょう。
心の苦悩。もはや、神よ、慰めはありません。
何と言う瞬間。
恐怖に満ちた永遠の神よ。
私の苦痛は大きいのに、まだ、こうして生きて呼吸している。
神よ、かくも恐ろしい運命を前に、
この心をどうすればいいでしょう。
母の純粋な愛が、せめて、あなたの同情となることを。」

それにしても、天変地異で、
回りがめちゃくちゃになっている時に、
この人たちは、何の働きもせず、
ただ、何の助けにもならぬ自分の感想を言い続けているところが、
完全に大企業病である、というのは皮肉にすぎようか。

そういった意味で初演時の歌の方が、
筋としては通っている。

Track7:モーゼのレチタティーボ。
「至高なる神よ。
あなたの叡智と力をへりくだってあがめます。」

モーゼは主人公なのだから、
周りを助ける働きをして欲しいものだが、
洪水の後は、なすすべもないのか、
まるで、他人事であるのが悲しい。

これまた、自分の世界に浸った歌で、
マルクス・シェーファーの内省的な声も、
この緊急時とは思えぬ敬虔なもの。

「イスラエルの民を罰する恥ずべき鎖は、
遂に打ち砕かれた。
神よ、許し給え、罪ある民衆を。
人の心をよく知る神ならば、
彼らの自責と後悔は分かりましょう。
彼らを良きものにて守りたまえ。
信頼と愛と希望と。」

Track8:モーゼのアリア。
「苦く恐ろしい自責の念を心から感じ、
愛を求め、あなたからの助けを請う民には、
慈悲を受ける価値がある。
彼らは一度は裏切ったが、
その盲目を恥じています。
このような愛情を見て、
彼らの不動の信頼が、
失われることはないでしょう。」

明朗な歌唱を、木管が優しく彩る。
このような歌が続く際、前のアリアは、
初演版は、動と静の対比という意味では自然であり、
再演版は、心理と心理の対比という意味で興味深い。
意外に、初演版が正解のような気がする。
神の怒りをまの当たりにした人々の歌としては、
少しリリカルにすぎる。

Track9:アーロンとモーゼのレチタティーボ。

これから出発の時。
何度も書くが、何故か女声のアーロンが使者となってくる。
しかし、アーロンを担当するぴんと張り詰めたものがあって、
ペリッロの声は至純で、急を告げる感じはよく出ている。
また、レチタティーボとは言え、伴奏のメロディは素敵だ。
これなどもシューベルト風としか言いようがない。

「アーロン:王女様、兄弟、すべての民の準備は出来ました。
民も家畜も、自由を味わっております。
母の腕にあってまだ自由の贈り物を知らぬ赤子とて、
喜びの様子を明らかに見せています。
すべては整いました。
後はリーダーを待つのみです。」

ピアノフォルテのぱらぱら音に続いて、
モーゼの歌が始まる。

「モーゼ:長く待ち焦がれていた贈り物を、
虐げられた民が喜んでいる。
行こう。
何が命じているか、
言わば、聖なる炎が、
シナイの山頂でくびきを断って、
それが、彼らの導きとなると、
そしてそれが、すべての過ちを厳しく報いると伝えよう。」

このあたりの流れは自然なものとして受け入れられる。
葛藤の後、使者が来てそれが中断され、
その後、再度、分かれの状況が盛り上がっていくわけだ。

Track10:メリーム、アーロン、モーゼの三重唱。

「メリーム:ああ、息子。もはや、あなたを見ることもない。
モーゼ:愛しいお母さん、
私をあなたから引き離すのは運命なのです。
アーロン:この厳しく不確実な状態で、
私はどうすればよいか分からない。
モーゼとアーロン:ああ、別れ。
メリーム:ああ、やめて。
アーロンとモーゼ:駄目です。義務がそれを許さない。
3人:理不尽な運命よ、
苦痛に満ちた心に安らぎを。それでようやく、呼吸ができる。」

この場面も、穏やかな曲調に、三つの声が響き合って、
牧歌的なものを感じさせる。
一幅の絵画のようだ。
アーロンの声が重なって来るところは、
非常に美しい。

Track11:ファラオとモーゼのレチタティーボ。
「ファラオ:モーゼはどこだ。
あの危ない魔術師はどこに隠れた。」

ヤバい展開である。
また、前半の、「ああだ、こうだ」が、繰り返される兆候あり。

「モーゼ:陛下、魔法などではありません。
あなたが目にしたのは大いなるもののなせる不思議。
その力を、あなたの頑迷さも、最後には受け入れ、
すべてをなだめ、無礼を服従させる、
神の手腕を知ることになります。」

モーゼがしゃべる度に繰り出されるのは、
ほとんど気違いの論理で、私には耐え難い。

ゲーテのプロメトイスも気違いだったが、
こうした無礼者が当時の人たちは、
大好きだったのだろうか。
音楽も、これまでの静謐、穏和なものから、
やけに人を苛立たせる挑発的なものに変る。

「ファラオ:全能の神!
ファラオであっても、王であっても、
あえて、その力を試すほどに、
かくも弱いものなのか。
私はこの胸の中になおも持つ不敬を試し、
エジプトに対して何が出来るかを確かめようとする。」

Track12:ファラオのアリア。
「私の前から離れ、視界の外に消えてくれ、
我が苦痛、我が恥辱。
見せかけの神の外見には騙されない。
稲妻はまだ続いている。」

この興奮したアリアに続き、
メリームも、もう、正気の沙汰ではなくなっている。

Track13:アーロンとメリームのレチタティーボ。
この会話は、ソプラノが二人だが、
アーロンは自信満々で、
メリームは動揺しているので、
混乱することはない。

「アーロン:メリーム、王女よ、
あなたしかいません。
王様の心を変えられるのは。
メリーム:この大きな不幸が、
エジプトを傷つけているというのに、
私に何ができましょう。
あなたの神に?
血と死を好み、人々が苦しむのを、
喜んでいるような異教の神に?」

メリームがこうして取り乱すのも、
私には当然と思える。
無茶な要求を出す、
テロリストにしか見えないはずだから。

「アーロン:神をそのように言ってはなりません。
神はその力をいつかお見せになり、
私たちに永遠の利益で満たすのです。
王女様、あなたも帰依すれば分かります。」

Track14:アーロンのアリア。
「心から神を信じるなら、
感謝をもって神を見るなら、
神は苦しみを楽にしてくれ、
良いもので満たし、苦痛をなくすでしょう。」

Track15:モーゼとメリームのレチタティーボ。
「モーゼ:
王女様、王様は私が立ち去るよう催促しています。
もはや出立を遅らせるわけにはいきません。
常に私の味方であったあなた。
まだ若くか弱い、お母さん。
メリーム:黙って。母という聖なる言葉を使わないで。
あなたがヘブライの民であるなら、
もう、ここに留めおかれることはありません。
何があなたを駆り立てるのです。
モーゼ:私を常に導く、
大いなるものの手によって。
メリーム:行って、恩知らず。」

最後は、「away、you monster!」
この曲の結論のような緊迫に再度向かう、
序章のようなやり取りである。

Track15:メリームとモーゼのデュエット。
「メリーム:恩知らず、行って。
そしてもう二度と、
私のことは言わないで。
決して予期さえしなかった、
こんなむごい行い。
モーゼ:その哀しげな目を、
開けて、恩知らずなどと言わないで。
あなたの所に留まれないのは、
私のせいではない。
メリーム:母のことは忘れて、愛を破壊して。
モーゼ:そんなことは出来ません。
二重唱:(ああ、何故偽りを。)
(あなたの不幸)可愛そうな。
正義の天空が、この瞬間、
私の苦痛は混乱を起こす。
私の義務が分からなくなってきた。」

あの憎しみあったレチタティーボの後で、
この二重唱は割と落ち着いて、結構、良い感じである。
ここでは、少し、モーゼの方が、
折れそうになるのが良いのだろうか。
いたわるような優しい歌で、
これならメリームの心も癒されたかもしれない。

伴奏も、別れの歌を、さざ波のような音型で、
優しく包み込んでいる。
後半の加速でも、二人のデュエットは大変、美しい。

Track17:モーゼのレチタティーボ。
「私はこのしがらみを断つ。
最終的に、この楽しからぬ場所を去る。
家畜を連れて、
種族を率いていく。
至高の神に、
すべての思いは向かい、
空は感謝の賛歌が響き、
解放者に対して、
かつては辛く、
いまや幸福になった人たちの、
歌声が響く。」
何だか分からないが、
メリームは捨てられて、モーゼは決心する。
この決意が述べられると、爆発するように、
人々の声が響き渡って、全曲は結ばれる。

Track18:合唱。
「最高の力によって、苦役のくびきは外された。
我々を苦しめるものはもはやない。
あなただけが、ただ一つの真の神。
栄光は神のもの。力は神にあり。」

Track19:合唱フーガ。
「あなただけがただ一つの真の神。」

低音で管弦楽が唸る中、
混声合唱の荘厳なフーガが舞い上がる。
ラッパが鳴り響き、ティンパニが轟き、
これはなかなかの聴き所であるが、
ファラオもメリームも、みんな消えてしまった。

何だか知らないが、フランス革命と関係はあるのだろうか。
王様は悪く、民衆は正しいという雰囲気が後半の全編を覆う。

「エジプトのモーゼ」の名を借りた、
革命賛歌といった感じがする。

啓蒙君主、ヨーゼフ二世の治世でなければ、
不可能だったような出し物ではなかろうか。
シューベルトの時代、反動的なフランツ二世が、
ヴィーンを統治したが、
コジェルフ、モーツァルトの時代と、
シューベルトの時代では、おそらく、時代を覆う空気自体が、
違っていたのではないかと実感できるほどだ。

例えば、この王女メリームは、
民族施策が穏和であったマリア・テレジアであり、
ファラオはその子で、
かなり厳格だったヨーゼフ二世とすれば、
モーゼは誰だか分からないものの、
民衆は、ハプスブルクに支配されていた諸民族と、
見えなくはないではないか。

もちろん、コジェルフはその諸民族の地、
ボヘミアの出である。
コジェルフは、こうした急進的な思想の代弁者だったのだろうか。

しかし、そんな危険人物を、宮廷作曲家にするとも思えず、
これは単に私の妄想しすぎないものと思われる。

以上、聴いて来たように、
コジェルフの大作「エジプトのモーゼ」は、
聖書に題材を取りながら、何だか、換骨奪胎して、
別の思惑に当てはめたような作品に思える。

アーロンも、単なるモーゼの代官、あるいは伝令にしか過ぎない。

ただし、そうした裏のストーリーは別にして、
このオラトリオは、変化に富み、
前半最後の天変地異から、後半最初の聖歌調、
後半に向かっての心理劇の緊迫、
最後の壮麗なフーガなどなど、
かなりの力作となっているのは確か。

ただし、主人公のモーゼの人間像には少々抵抗が残った。
また、メリームもファラオも、結局、置き去りのままである。
このあたりの後味の悪さが残る。

ポーランド分割の時、
最初は反対していたのに、
結局は、署名して承諾したマリア・テレジア。
プロイセンのフリードリヒ大王は、
こういったと伝えられる。
「彼女は泣きながらも受け取る。」

メリームの嘆きから、その余韻を感じたりもした。

書き忘れたが、指揮は、
解説によれば、ドイツ古楽研究の大御所とされている、
ヘルマン・マックス。
合唱は、プロの歌い手を集めたとされる、
Rheinishe Kantreiで、
オーケストラは、Das kleine Konzertという手兵。


得られた事:「コジェルフの『エジプトのモーゼ』は聖書を題材にした、何だか別の思惑の話。ここで高らかに歌われる自由思想は、おそらく、モーツァルトの時代とシューベルトの時代を大きく隔てるものだ。」
[PR]
by franz310 | 2009-10-11 16:04 | 音楽