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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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タグ:ヴィヴァルディ ( 56 ) タグの人気記事

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その354

b0083728_23324689.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの
弦楽合奏のための協奏曲、
コンチェルト・リピエーノには、
RV159というのがあり、
これは、彼自身のオペラ、
『試される真実』のアリアから、
主題を取ったものである。
このようにオーケストラでも
演奏可能にしたオペラとは、
いったい、どのようなものだろう。


シューベルトが歌曲をもとに器楽曲を作ったことは、
常に特別なことのように書かれているが、
ヴィヴァルディにおいては、
それは特別なことではなかったようだ。

そのあたりの事情が知りたくて、
今回は、このオペラを取り上げて見た。

うまい具合に、先の協奏曲に使われた主題は、
いずれも第1幕のものなので、
3枚組のCDの最初の1枚を聴けば良い。

オペラ全曲を聴こうとすると、
かなりの気合いがいるが、
そう自分に言い聞かせて、
プレーヤーにかけてみたが、
これはまた、非常に美しい作品である。

また、解説を読んでも、
この作品がヴィヴァルディのオペラの中でも、
出色の作品である旨が強調されている。

いつもの碩学、フレデリック・デラメアが、
「ヴィヴァルディのヴェネチアでの課題曲」
という思わせぶりな題で、
解説を書いているので、急いで読み進めてみよう。

「『試される真実』は、ヴィヴァルディが、
作曲家兼興行師として作曲した25のオペラ作品のうち、
13番目のもので、1720年の秋、ヴェネチアで初演された。
この大作は、彼がマントヴァ宮廷に仕えての3年の不在の後、
再度、故郷の街の劇場生活に復帰したときのものである。」

ということで、ヴィヴァルディのオペラの、
ちょうど中期とでも言うべき位置にあることが分かる。

このブログでも、これまで、いくつかの
ヴィヴァルディのオペラ全曲を聴いてきたが、
これらを年代順に並べるとこうなる。

「離宮のオットーネ」(1713)
「狂気を装うオルランド」(1714)
「エルコーレ(ヘラクレス)」(1723)
「オルランド・フリオーソ」(1727)
「バヤゼット」(1735)
「ウティカのカトーネ」(1737)

ちょっと、ナポリ派の影響を受けた、
後期作品に偏っていたようなので、
これを聴くことによって、バランスが取れる。

「ヴェネチア音楽界における、
ヴィヴァルディの地位向上の空白は、
市の劇場との関係悪化によるものだったが、
3年の間に身に着けた、
再征服のオーラを伴って帰郷することになった。」

「オルランド」の解説を読んだ時、
私は、まだ、この作曲家の生涯に疎く、
この「四季」の作曲家は、ヴェネチアで愛され、
ずっとそこを拠点にしていたと思っていたので、
このような記述に戸惑ったものである。

「所有者の激しい嫉妬によって、
市の上流の劇場の一つへの
カムバックはならなかったが、
ヴィヴァルディは、最初に成功した
サンタンジェロ劇場で支配的地位を、
再び手に入れる機会を
手にすることを望んでいた。
しかし、彼が不在だった間における、
新進の作曲家たちの運気の上昇と、
新しい興行師たちの体制確立は、
その計画を阻止し、
彼が手にしようとした完全な権力を、
奪うように見えた。」

劇場となると、様々な利害が衝突する舞台でもある。
そう簡単に行くとも思えない。

「事実、『試される真実』が上演された秋には、
サンタンジェロ劇場への彼の影響力は、
限られたものとなり、
続くカーニバルのシーズンでも、
それは限られたこのとなり、
彼は、ヴェネチア人、
ジョゼッペ・ボニヴェンティとの共作で、
『マケドニアのフィリッポ』の第三幕を、
作曲できただけであった。
他の二つのカーニバルでのオペラは、
おそらく、彼の守備を越えて、
カルロ・ルイジ・ピエトラグルアの、
『Il pastor fido』と、
ジョゼッペ・マリア・オルランディーニの、
『アンティゴネ』の再演であった。」

こう読むとヤバそうだが、
結局はヴィヴァルディはうまいことやったようだ。

「彼の特権のこれらの制限にも関わらず、
ヴィヴァルディは、
サンタンジェロへのマネジメントに十分食い入り、
『試される真実』のリブレットや、
1720年の秋とカーニバルのシーズンの、
4舞台作品の歌手の選定には影響力を発揮した。
リブレットや歌手たちの選択という、
この二つの要素こそが、
彼の熟達の主要要素であり、
作曲において、欠くことのできない補助物であり、
事実、この2つのキーファクターは、
彼が再征服したかったものであった。」

こうした記事を読むと、
本当にオペラとは、複雑怪奇なもので、
シューベルトのような作曲家には、
手におえなくて当然と思え、
また、ヴィヴァルディの辣腕ぶりを、
改めて痛感する。

「トゥリンの国立図書館の
フォア・コレクション33として保存された、
『試される真実』のスコアを調べてみると、
これがヴィヴァルディの、
最もまばゆいオペラの一つであることが分かる。
この新しいヴェネチアのためのオペラのために、
作曲家が与えた細心の注意は、何よりも、
アリアやアンサンブルが、過去に使われたものではなく、
新作であることからも明らかである。
さらに、ヴィヴェルディの霊感の豊かさ、
アリアやアンサンブルの美しさと力強さは、
ほぼ10年のわたる劇場体験の後、
今や、円熟期の開花を迎えた、
彼のオペラ語法が目覚ましい発展を示している。
ホルン、トランペット、オーボエ、バスーン、
フラウト・グロッソ、フラウティーノなど、
彼は特に独奏楽器を有効利用し、
弦楽に加えてスコアに要求し、
とりわけ、繊細な洗練された弦楽の扱いや、
声とオーケストラの巧みな扱いに、
作曲家の並外れた抒情的天才が見られる。」

このCDを一聴すれば、この指摘には肯くばかりである。
かずかずの楽曲で、不思議な楽器の色彩が浮かび上がる。

また、声楽アンサンブルのきめ細かな綾が聴けるが、
それについても抜かりなく指摘されている。

「サンタンジェロ劇場との新しいコラボに当たって、
ヴィヴァルディが、若いヴェネチアのリブレット作者、
ジョヴァンニ・パラッツィとの作業を決定したことは、
明らかに、彼の個人的立ち位置が、
ゼーノやその弟子たちによる
文学的、劇的改革に傾倒したことを表している。
『試される真実』の均整のとれたプロポーションや、
合理的構成は、アルカディア派の様々な派閥から離れた、
ヴィヴァルディの劇の理想を示している。
その限られた声楽の人数、
ダ・カーポ・アリアに与えられた重要な位置、
控えめながら、それでいて重要な役割が、
アンサンブル(三重唱1、四重唱1、合唱)に与えられ、
アリアの破格も、劇場にマッチして、
『試される真実』は、アルカイックとモダンの総合する、
作曲家の嗜好を示した個性的な構成を示している。
それに加え、『オリエンタリズム』や『トルコ風』の装いは、
明快に描かれたキャラクターの、
真の感情のぶつかり合いの裏に、
イロニーとユーモアを加え、
ヴィヴァルディの霊感に刺激を与えている。
事実、『試される真実』でのアクションの扱いの特別さは、
シリアスとコミカルが慎重にバランスされ、
音楽劇の領域における作曲家の根本的野望を、
表明しているように見える。」

この後、ヴィヴァルディは、ナポリ派の興隆に悩まされるが、
この曲では、まだ、その脅威はなかったのだろうか。
流行よりも、自らの流儀を通している。

「1720年秋の演奏のために組織された歌手団は6人で、
全員が秋のオペラと、
続くカーニバルのシーズンの3作品のために契約された。
ズボン役を含め、女声が支配的であるにもかかわらず、
カストラートを一人に制限し、
テノールにスルタン・マムードを主役にして、
『試される真実』のキャスティングは、
男声をも目立つようにしている。
この声のバランスは、
芸術的な慣習にとらわれず、
流行のスターのギャラの要求を満たす、
例外的な配役を集めようとした、
この作曲家・興行師の素晴らしい技量の一例である。
いつものように、ヴィヴァルディは、
新星のプライドを満たしつつ、
ベテランや声の自然さを信頼した。」

このような事は、ヘンデルのオペラでも指摘されるが、
ヴィヴァルディの結成する歌手団は、
とりわけ念入りに選ばれているようだ。

ということで、以下、初演時の歌手たちの紹介がある。

が、いきなり、それに触れる前に、
このオペラが、いかなる物語であるかを知りたい。
この作品が、ヴィヴァルディの野望の結集であることは、
非常によくわかった。

序曲は、CD1のTrack1-3を占め、
これは、すでに序曲集でも紹介されていた。
幸い、この曲は、序曲もついた形で保存されていたようだ。

直線的にじゃかじゃかが突き進む第1楽章、
メランコリックで物憂げな第2楽章、
明るく晴れやかな組曲の終曲風。

解説書のSynopsisにはこうある。

「二つの勢力の長い政治的対立を終わらせるために、
Jogheのスルタンの後継者であるロザーネは、
Cambajaのスルタンの息子メリンドと結婚することになった。
この企ての達成にいかなるリスクをも排除すべく、
スルタンのマムードは、スルタン妃ルステーナと、
寵姫ダミーラがそれぞれ生んだ、
二人の息子を、交換していたことを、
明らかにしようと決意した。
正当の後継者であると思われていたメリンドは、
ダミーラが生んだ庶子であり、
ダミーラの息子として育てられたゼリムは、
実は、ルステーナの息子なのであった。
カーテンが上がると、スルタンは、
真実を公表することによって、
ダミーラにこのすり替えを、
終わらせるよう宣言したところである。」

まことにややこしい状況だ。

真実の関係は、   (正)
正妻ルステーナ← マムード(スルタン) →寵姫ダミーラ
     息子ゼリム      息子メリンド

という感じだが、
今までは、下記の関係にすり替えられていたというのだ。
          (誤)
正妻ルステーナ← マムード(スルタン) →寵姫ダミーラ
     息子メリンド      息子ゼリム

第1幕:
Track4.
アンソニー・ラルフ・ジョンソン(テノール)
によるスルタンと、
ナタリー・シュトゥッツマン(アルト)の
による寵姫ダミーラの対話である。

ト書きには、「宮殿内の人目に付かない場所、
たくさんの部屋がある」とある。

女声の方が多いのに、バランスが取れている、
と書かれていた作品だけあって、
冒頭から、非常に存在感のあるスルタンの威厳である。

シュトゥッツマンの声は、
例によって低く、男性的なので、
これまた、妙に威厳がある。
かわいらしい寵姫ではなく、
一癖ある側室で、淀殿みたいな感じである。

「王冠がメリンドから滑り落ちるということで、
怒ったダミーラは、スルタンの決定に反対し、彼を脅す。
しかし、彼は動ぜず、その心の痛みと解決を表明する。」

Track5.
スルタンのアリアで、断固としたリズムが刻む、
「息子への愛で私は誤った」
と、苦悩と英雄的な高ぶりが感じられるもの。
メロディも異教的と言えるだろうか。
伴奏の弦楽もちょこまかと面白い効果を出す。

Track6.
ダミーラとゼリム。
ゼリムは、ジャルスキーのカウンターテナーで、
どうもシュトゥッツマンの声より、
きんきんして、どっちが息子か分からないので、
要注意である。

「ロザーネを愛しているゼリムは、
想い人がメリンドと結婚すると知ったところである。
彼は、まだ母と信じているダミーラに、
スルタンにとりなして味方になってほしいという。」

Track7.
「ダミーラは曖昧な言葉で、彼を慰めるふりをする。」
これまた、エキゾチックなリズム、
明快な魅力あふれるメロディのアリア。
「私だって息子の幸福を見たいもの。」

Track8.
ゼリム、そして、スルタン夫人、
ロザーネ、そしてメリンド。
先のジャルスキーが嘆いているのをよそに、
メゾ・ソプラノのグレメッテ・ローレンス(夫人)、
ソプラノのジェマ・ベルタニョリ(ロザーネ)、
コントラルトのサラ・ミンガルド(メリンド)が、
喜びを口にするという残酷なシーン。

どうも、前半は、本当は庶子のメリンドが、
ロザーネと結婚する段取りで進む模様である。
スルタンは、まだ、決定を布告していないようだ。

「正妻のルステーナはメリンドとロザーネの、
来たるべき婚礼を楽しみにしている。
しかし、ゼリムは、嘆いている。」
とあるが、メリンドもロザーネも喜んでいる。

Track9.
ロザーネのアリアである。
唯一のソプラノなので、
軽やかに舞い上がる感触が心地よい。

まさに、これこそが、コンチェルト・リピエーノ、
RV159の第1楽章のメロディに使われた、
ロザーネのアリア『あの美しい魅惑的な』である。

リズムもぴょんぴょん跳ねて、
ロザーネはゼリムの失恋に無関心である。

解説には、
「幸福に酔いしれたロザーネは、
面倒なことはごめんと、ゼリムを退ける」とある。

Track10.
ルステーナ、ゼリムとメリンド。
「ロザーネが出て行くと、
ルステーナは、ゼリムに中立を申し立てながら、
息子の喜びをかみしめる。」
(実際は、ゼリムが息子であるのに。)

Track11.
ここで、コンチェルト・リピエーノ、
RV159の第3楽章の主題となった、
ルステーナのアリア、
『あなたの甘い眼差し』が始まる。

これは、怪しげな序奏の歩みを持つもので、
不思議な色調で、異教的な雰囲気を漲らせている。
前半は、メリンドに向かい、
「あなたの甘い眼差しに、私の幸福はいや増すの」
と言い、後半はゼリムに、
「その美しさを愛するなら
彼女の喜びを嘆いてはなりません」
と諭している。

ということで、Track25まであるCDの前半で、
コンチェルト・リピエーノの2つの楽章に引用された、
2つのアリアが聴けた。
前者は、愛の喜びを歌ったもので、
後者は、それに喜ぶもの、嘆くものの、
二人の立場に同調した、
より複雑な状況を歌ったものであった。

なぜ、これらがコンチェルト・リピエーノに、
使われたかは分からない。
とにかく、胸にしみるメロディではある。

Track12.
「スルタン夫人の退出後、
二人の兄弟でライヴァルは、
面と向かい合う。」
とあるが、
ミンガルド対ジャルスキーで、
ジャルスキー(ゼリム役)の方が、
きんきんして無垢な感じ、
ミンガルド(メリンド役)は影があって、悪者風。
「しかし、メリンドが軽蔑したようにしても、
ゼリムが痛切な誠実さで、兄弟愛を乱すことはない。」

Track13.
ゼリムのアリアで、
「君が侮辱しても、僕の兄弟愛は変わらない」。
ジャルスキーのこの世ならぬ声が、
冴え冴えと響いて美しい。

Track14.
メリンドは、今や、舞台に一人。
ゼリムの友愛の主張は、
嫉妬を隠そうとしているだけと、
なおも信じている。」

Track15.
メリンドのアリア、「ナイルの岸で」。
「弱った蛇が嘆いて死んでいく」という内容。
解説には、
「彼はここで憎しみの手綱をほどく」とあるから、
憎悪の感情を発散させているのであろう。

が、これも推進力があって明快なものだ。

Track16.
このような状況で現れれば、
非常にややこしくなりそうだが、
ようやくスルタン再登場。
「スルタンとダミーラ、
スルタンのプライヴェート・ルームにて」。

「スルタン、マムードは、自責に苦しみ、
愛情は二人の息子たちに二分したのに、
王権は二分することはできぬと嘆く。
ダミーラが現れて、メリンドのために再度、
仲立ちを試みる。
彼は、その言いなりになりそうになるが、
急に、それを止めて、荒々しく、彼女を追いかえす。」

このように、非常にややこしい状況であるが、
緊迫したレチタティーボが、7分近くに及ぶ。

Track17.
ダミーラとルステーナ。
正妻対側室のシーンだが、敵は夫である。
「ダミーラは、スルタンの計画を邪魔立てしようと、
計略を実行に移す。ルステーナの信頼を得て、
彼女はマムードがあなたを騙そうとしているとすっぱ抜き、
ルステーナを説得しようとする。」

Track18.
ダミーラのアリア、「王冠を手にすれば」。
これは、ナポリ派風に、
急速なパッセージで煽り立てるもので、
じゃんじゃんと合いの手を刻むリズムに、
旋回する弦楽が目覚ましい効果を発揮し、
シュトゥッツマンも、あえて、
変な声も出したりして、技巧の限りを尽くす。

Track19.
「ルステーナ一人になって、
騙された女として悲しい運命を嘆く。」
Track20.
そのアリアで、「繊細な花は」。
笛の伴奏も霊妙な、
素晴らしい色彩に彩られたもの。
「咲くとすぐに萎れる」という、
極めて古雅な情感に満ちたもの。

ローレンスの声も、この繊細さを湛えて美しい。

Track21.
恐ろしく幻想的な三重唱であり、
ロザーネ、ゼリム、メリンドの三角関係で歌われる、
「静かなうららかなそよ風よ」。

「シトロンの木々の庭、ロザーネ、ゼリム、メリンドが、
彼らの衝突した心情を田園的に表現する。」

独白が木霊するような感じ。

Track22.
先の三人によるレチタティーボ。
「そして、ロザーネはゼリムに言い訳をしようとする。
彼は、彼女の説明を聴こうとせず、絶望を露わにする。」

Track23.
ゼリムのアリアで、「いや、もう僕は信じない。」
これは、ヴィヴァルディのアリアでは、
よく聞かれるような、
強いアクセントで、リズミックに明るく言葉を強調するもの。
中間部では、なだらかに美しいメロディが出る。
「その偽りの媚態、意味のない眼差し、うそつきがすぐわかる」
という部分。

ジャルスキーが歌うと、
その澄んだ声質のせいか、
どろどろとした情念ではなく、
妙に民謡風に聞こえる。

Track24.
「メリンドはロザーネがゼリムにかけた憐みの言葉に立腹し、
嫉妬の気持ちを爆発させる。」

ゼリムはアリアの後、いなくなって、
痴話げんかが始まったのである。

Track25.
メリンドのアリア、「僕を騙そうとしている」。
これも、先のゼリムのアリアの対をなすもので、
リズミックでぴちぴちしているが、
もっと暗い情念で突き進む。

ミンガルドが歌うが、これまた、ナポリ派風に、
強烈な音の高低やスピード感が要求されている。

第1幕は、CD2にまたがるが、
最後に、三角関係の残りの一人、
もてもての女王様、ロザーネの番が残っているだけ。
最初の二つのトラックだけ聞いてしまおう。

CD2、Track1.
「彼女は一人残され、自分がどんな行動をし
ようと、自分の権利だわと主張する。」

Track2.
これはどこかで聞いたような音楽である。
ロザーネのアリア、「恋人よ、私の希望、光」。
精妙な弦楽の伴奏が月光のように冴え冴えと、
あるいは優しく、清澄なソプラノの声を包みこむ。

このメロディは、「エルコーレ」か何かで聞いたような気がする。
今回は、第1幕の鑑賞までで終わる。

得られた事:「ヴィヴァルディが、弦楽のための協奏曲に利用したメロディは、三角関係の恋人たちの物語の中で、純粋な愛の喜びと、それを寿ぐ部分のアリアのメロディが使われている。」
by franz310 | 2012-11-17 23:33 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その353

b0083728_225256.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディには、
「弦楽のための協奏曲」という、
作品群があって、
まとめて録音されることがある。
イ・ムジチも録音を残していたし、
ここに聞くOPUS111にも、
アレッサンドリーニが、
印象的、鮮烈な表紙写真のCDを
10年近く前に出している。
2003年の録音とある。


真っ赤な背景に真っ赤なシャツのイケメンが、
目を閉じてカラスを持っている。

このレーベルのヴィヴァルディ・エディションは、
極めて意味不明なファッション系モデル撮影を、
表紙に据えたもので知られるが、
目を瞑ってしたり、鳥を持っていたりと、
とりわけわけの分からない写真である。

さて、ここに収められた「弦楽のための協奏曲」は、
弦楽の独奏部を持つ、たとえば、
ヴァイオリン協奏曲のようなものではなく、
弦楽合奏曲である。ソロらしいものはない。

三楽章形式であるし、
つまり、彼がオペラの序曲として、
書いた作品と外見が何ら変わりない。

また、一方で、これらの作品を利用して、
オペラの序曲として流用し、
これに続けて演奏したオペラの録音も多い。

たとえば、マルキ指揮の
「狂人を装ったオルランド」では、
RV112の協奏曲が、
スピノジ指揮の「オルランド・フリオーソ」では、
RV116の協奏曲が、
序曲として使われていた。

マルク・パンシェルルの
「ヴィヴァルディ生涯と作品」では、
第2部「その音楽」に、
「コンチェルト・リピエーノ」という章がある。

「リピエーノ」は、合奏協奏曲などを調べると、
必ず出てくる言葉で、
「合奏協奏曲は、ソロ楽器群(コンチェルティーノ)と、
オーケストラ(リピエーノ、大グループ)が、
交互に演奏する楽曲」などと書かれている。

したがって、バルトーク同様、
「オーケストラのための協奏曲」という感じにも見える。
しかし、ヴィヴァルディに関して言えば、
このオーケストラは弦楽合奏団であって。
バルトークの楽曲のように、
各楽器がソロのように活躍するものでもない。

ということで、言うなれば、
独奏楽器なし協奏曲みたいなニュアンスとなる。

パンシェルルの本では、シンフォニアと序曲と、
この4声のためのコンチェルト(コンチェルト・リピエーノ)が、
どのように分類されるべきか、
この研究家がいかに悩んでいるかが、
いろいろと書かれている。

ヴィヴァルディは、同じように、
ほぼ、急緩急の三楽章形式の弦楽合奏曲を書き、
ある時は、シンフォニアと言ってみたり、
協奏曲と言ってみたりして、
わけわからんということである。

この本の早川正昭訳では、
ヴィヴァルディが大量に残した、
外見が似た楽曲に対し、
「《コンチェルト》と呼ばれているシンフォニアと
《シンフォニア》と呼ばれているシンフォニアが
まったく同一だということはないが、
また相違点と思われるものもわずかしかない」とある。

そして、相違点は、
「一番簡単に片付けていいのは
オーケストレーションについてである」
といくぶん、破れかぶれ的に結論づけている。

コンチェルトは、
宮廷のあらゆる条件のそろったオーケストラ用、
オペラの序曲であったシンフォニアは、
劇場の貧弱なオーケストラ用、
と簡潔に補足が書かれている。

また、オペラの序曲集を聴いても思ったことが、
列挙されている点は以下のとおりである。

1.コンチェルトと違って終楽章がやたら短い。
2.アレグロのテーマが調子のはっきりした性格を持つ。
3.簡単なものを執拗に繰り返して活発に展開。
4.緩徐楽章に特色があり、情感は深くないが音色が独特。

といった感じであろうか。
これは、サルデッリ氏も書いていた事だ。

パンシェルルは、こうした点に加え、
ポリフォニー的な手法を強調し、
これが、のちの交響曲の起源に重要な役割を果たした、
と書いている。

意外に、私は、この結論が好きである。
つまり、ヴィヴァルディは、要所要所で、
その目的に合わせてこうした合奏曲を書いた。

言うことの聞かない楽師たちが集まって演奏する
オペラのシンフォニアとして作る場合、
何よりも、即効性を持って、
こけおどしをするように作り、
たとえば、ピエタのすぐれた合奏団、
自分の意のままに応じる楽団のためには、
洗練された楽曲を書いた。

音楽之友社の「作曲家別名曲ライブラリー」でも、
「どの曲もあまり長くはなく、
独奏協奏曲ではほとんど見られなかった対位法も導入されている」
と書かれている。

なお、この音楽之友社の本では、
RV120、121、128、141、142、
145、151「アラ・ルスティカ」、152、158の、
9曲が取り上げられているが、
もっとたくさんの楽曲がある。

ピノックが「アラ・ルスティカ」というタイトルの、
CDを出したことがあったが、
あまりに短い作品で驚いたことがあった。

今回のOPUS111レーベル、naiveシリーズ、
ヴィヴァルディ・エディションのアレッサンドリーニ指揮、
コンチェルト・イタリアーノの演奏によるCDでは、
12曲もの協奏曲が収められているが、
いずれも数分の作品なので、65分くらいしかかからない。

「四季」などは四曲で一枚のLPになっていたので、
規模としては、一曲が、あの協奏曲の半分以下、
場合によっては一楽章相当しかない。

さて、今回聴いてみたこのCDであるが、
前述のRV128の代わりに123が、
RV142や145の代わりに143が、
151「アラ・ルスティカ」、152の代わりに、
RV153、154、156、159などが収められている。
また、RV115というのも入っている。

さて、フレデリック・デラメアは、
このCD解説で、どのように書いているだろうか。

「ヴィヴァルディのオーケストラのためのコンチェルト、
オペラのシンフォニアか、演奏会用の作品か?」
というタイトルが、完全に、これまで論じて来た事に、
答えを与えてくれるようで、
時宜にかなっており、極めて興味をそそる。

「ペーター・リオムのアントニオ・ヴィヴァルディの
作品レパートリーによるカタログナンバーで、
通しのRV109~169にあたる、
オーケストラと通奏低音のための作品群は、
性格的にも機能的にも様々なバラエティを持つ作品である。」

この数字からすると、61曲もあるということか。
12曲くらいを聴いて、全貌を知ろうとしたら、
大間違いという感じがしてくる。

「『オペラの前のシンフォニア』は、
『音楽劇』の序曲であり、
これらは世俗的であれ宗教的であれ、
教条的なものであれ、娯楽的なものであれ、
コンサート用の作品と混ざっている。
しかしながら、これらの作品を、
タイトルの用語で分類するのは困難で、
ヴィヴァルディ自身、
コンチェルトと書いたり、
コンチェルト・リピエーノと書いたり、
シンフォニアと書いたり、
題名を二重に書いたり重ねてみたりして、
混乱させることを楽しんでいるようである。」

このような状況なら、各曲、
どのような題名がつけられていたか、
書き出してほしいくらいである。

「ある作品は、シンフォニアとコンチェルトと、
二つの名前を持っていて、
自筆譜には続けて書いているが、
音楽内容はそれによって変わってはいない。
同様にある協奏曲は、
ある楽章だけが変えられて、
セレナータやオペラのシンフォニアとして、
再登場する。
多くの作品は自筆譜が失われており、
名称が気まぐれに付けらてているので、
これがまた問題を難しくしている。
この録音にあるRV123などは、
エステルハーツィの宮廷の音楽目録には、
『シンフォニア』と書かれているのである。」

ということで、さらりと書かれているが、
ハイドンゆかりのエステルハーツィの話が出てくるだけで、
嬉しくなってしまう。

「この用語的な混乱は、しかし、
類型学にはさほど問題とはならない。
作品の分類によって、ある程度まで、
それらを、それぞれの用語体系の
本来の地位に戻すことが出来る。
ジャン・ピエール・デモウリンの調査では、
ヴィヴァルディの舞台作品のために
残された11曲のオペラの前のシンフォニアの研究によって、
典型的なヴェネチア・オペラの序曲の
プロファイルを知ることが出来た。
コンサートのために書かれたオーケストラ作品とは、
長調へのシステマチックな依存によって分類でき、
その生き生きとした最初の楽章は、
もっぱら、劇的な和音と和声進行によって支配されており、
中央のメロディの豊富な楽章は、
通常、アンダンテのテンポで、
第一楽章の関係短調である。
二部形式の終楽章は、プレストかアレグロ・モルトである。
これらの特徴が、オペラのシンフォニアと、
コンサート用の楽曲を分けるのに、
はっきりした線を引くというのは確かであるが、
これらのジャンルの交差点のような、
狭いあいまいな部分もある。
たとえば、この録音にあるRV141などである。」

ということで、何でも単純に割り切れる、
というもではない方が、
ミステリアスなロマンが感じられて良い。

「オペラのシンフォニアとは異なり、
コンサート作品は、性格が多様で、
単一のカテゴリーに収めきれない。
これらはいくつかのサブ・グループに分けることが出来る。」

以下、このコンサート用作品の、
サブ・グループについて語られている。

「これらの中で主要なものは、
短調のもので、しばしば、
二三小節の単なる経過句のように切りつめられた
半音階的な中間楽章を持ち、
ヴィヴァルディによる『フーガの技法』の好例のような、
彫琢された終楽章からなる。
このサブ・グループは、
RV120、121、123、
143、153、156などで、
すべて、この録音に含まれている。
そして、すべての曲が、
一つ以上のこれらの特徴を備えている。」

ということで、これらの
「コンチェルト・リピエーノ」は、
前回聴いた「オペラの前のシンフォニア」が、
長調で書かれ、単純な終楽章を持っており、
むしろ中間楽章のメロディに特徴があったのに、
まったく異なる特徴があることが分かった。

「第2のサブ・グループは、このCDに収められた、
『マドリガーレ風協奏曲RV129』に見られるように、
通常のものとは異なる作品のシリーズで、
スタイルや構成が異種混合である。
時に描写的、しばしば伝統的な三楽章構成を逸脱する。」

このように、分かりやすくグループ分けされていて、
鑑賞の助けとなる。

「第3のグループは、明らかに教育用で、
疑いなく、もともとピエタのオーケストラのために
書かれたものである。
これらの作品は、ここでは、
協奏曲RV121やRV115で代表され、
初歩的な主題材料からなり、
リズムやドラマ的効果を積み上げ、
明らかにソノリティやニュアンス、均質性の訓練に、
適するように書かれている。」

この解説を読んでいて、
かなり高度な音楽家集団であった、
ピエタの少女たちに思いを馳せ、
練習用とはいえ、おそらく、
彼女らは、これらの曲を演奏会で披露して、
聴衆に質の高さをアプローチしたこともあっただろう、
などと考えてしまった。

「第4の、そして最後のサブ・グループは、
本質的にメロディの基づくもので、
ヴィヴァルディ自身の声楽曲の主題を借りて、
オペラの世界と予期せぬ関係を築いている。
作曲家のオーケストラ作品の
この魅惑的な側面は、この録音では、
協奏曲RV154とRV159によって、
例証されている。」

この記載には驚いた。
シューベルトは、声楽曲をベースにした、
室内楽や器楽曲の創作によって、
様々な音楽的変容を見せ、
特殊な作曲家として語られることが多かったが、
100年前の大先輩に、
そうした事を積極的にやっていた人がいた。

「後者(RV159)の第1楽章は、
『試される真実』(RV739)の
ロザーネのアリア
『あの美しい魅惑的な』(第1幕第3場)が、
同じテーマに基づいており、
第3楽章の主題は、同じオペラの
ルステーナのアリア
『あなたの甘い眼差し』(第1幕第4場)のものである。」

ということで、この1720年のオペラが気になってきた。
いずれも第1幕で、しかも続く情景での音楽であるが、
何か意味があるのだろうか。

大変、勉強させていただいた、
この解説は、次のようなセンテンスで、
ヴィヴァルディの知られざる一面を強調して結んでいる。

「しばしば自己引用が多くて非難される
ヴィヴァルディではあるが、
これらの楽しい祝典的なコンサート作品は、
多様な変奏によって、
一つの主題を展開させていく、
素晴らしい能力を開陳し、
その知られざる才能の一面を示している。」

実は、このCD、指揮をしている
アレッサンドリーニ自身の解説もあるが、
ここでは、「エゴを主張するかわりに、
絶対音楽としての美観を追及した曲集」
みたいなことが書かれている。

2つのヴァイオリン群がユニゾンになり、時に抗争して、
「ノイジー・スタイル」の輝かしいアレグロで、
演奏の始まりを告げる。
フーガの終曲が目立つ、など、共通の特徴を書いている。
ヴィヴァルディは、その力量を見せつけたかったのだという。

また、自作からの引用があることを、
アレッサンドリーニも列挙している。

以下、ここに収録された各曲を聴いたイメージを、
RV番号順に並べてみた。

RV.115(Track17-19)ハ長調。
これはいったいの破れかぶれ系音楽である。
是非、オルランド・フリオーソくらいの序曲として、
もっと普及させて使って欲しい。
強烈なビートで、じゃんじゃかかき鳴らして、
かなり忘我系のもの。
第2楽章は、うってかわって、
弱音が支配する冥界の、
あるいは夢うつつの情景。
ほとんど音楽と言うよりハーモニーの連続。
非常に詩的である。
終楽章は、これまでのことを、
みんなご破算にする健康なかけっこである。
何だか意味深。

が、この曲は、先の解説では、第3分類。
練習曲に分類されていた。

RV120(Track26-28)ハ短調。
極めて実験的な音楽と聞こえる。
ほとんど主題になりそうでならない
メロディの切れ端が繰り返されているだけ。

第2楽章も、低音部で繰り返される
ゴンドラを漕ぐような動きに、
高音でハーモニーが重なっているだけ。

第3楽章はフーガである。
これは、しかも、モーツァルトも好きそうな
ジュピター式の開始。
ただし、晴れやかなものではない。
むしろ、バッハの「音楽の捧げ物」みたいな感じもする。
いずれにせよ、それらの名曲と比較したくなる存在感である。

この曲は、先の解説では、
第1分類、典型的なコンチェルト・リピエーノである。

音楽之友社の「作曲家別名曲解説」にある。

RV.121(Track7-9)ニ長調。
この作品は激しいユニゾンによるリズム強調で始まって、
オペラの序曲のように、実用的な、
あるいは機能的な音楽である。

しかし、そのあとに爽やかに流れる
流動的な楽想が来て、
モーツァルトの喜遊曲のような風が吹き抜ける。
そのせいか、この曲はイ・ムジチなども録音している。

短い第2楽章は、沈鬱に沈みこむが、
これをバネにするように機械仕掛けのごとき、
がちゃがちゃ系終楽章が来る。
ペチャクチャしゃべくりまくる音楽。

この曲は、第1分類、
または、第3分類の練習曲とされた。

音楽之友社の解説にある。

RV123(Track35-37)ニ長調。
この曲はいわく言いがたい。
何だか明るいのだが無機的な楽想の繰り返しを、
それらしくまとめただけにも思える。

第2楽章は、独奏的な、
即興も絡む謎かけのような音楽。

第3楽章は澄んだ空気がみなぎった
微妙な舞曲調の対位法的のものでこれまた神秘的である。

この曲は、先の解説では、第1分類とされた。
対位法の駆使からしてその通りと思える。

RV129(Track10-13)ニ短調。
「マドリガーレ風」とされる。
この曲には意味ありげな序奏がついているが、
この緊張感に続いて現れる
まさしくフーガの技法のごとき、
展開はなんという世界だろうか。
これがヴィヴァルディ?という凄い空間。

さらに、またまた緊張感みなぎる部分が、
精一杯引き伸ばされると、
ちょっと明るさを持ってはいるが、
これまた、抽象的な錯綜した音楽となる。

これは先の分類では、唯一、第2分類とされたもの。
様々な様式の寄せ集めというわけだ。

何が「マドリガーレ風」かはよく分からないが、
4楽章形式だし、他の曲とはかなり違う。

アレッサンドリーニは、
「自身のマグニフィカト、キリエのいろいろな要素を、
再構成したものに他ならない」と書いている。

RV141(Track23-25)ヘ長調。
ちゃっちゃらちゃっちゃらとお祭り騒ぎの主題に、
これまた、かき鳴らし系のかき乱し楽想がからむ。

この中間楽章は何だ。
小唄を口ずさむようなお気楽感に満ちている。
ヴィヴァルディ版「道化師の朝の歌」。

じゃんじゃか系の終楽章と相まって、
全体的に官能的な交響詩になっている。

この曲はデラメアの解説では、
特に分類されていないが、
RV121が2回分類されているので、
どちらかが間違いなのかもしれない。

音楽之友社の解説にある。
ただし、この解説群は身が入っておらず、
終楽章がシンコペーションとあるくらいで、
たいがい、そうした事しか書かれていない。

第1楽章についても明確な形式を指摘できない、
と書いている。

RV143(Track20-22)ヘ短調。
いきなりフーガである。
ヴィヴァルディの技巧集成といった趣で、
何だか建築作業が始まる。
そうした創意工夫を始めるぞ、
と言わんばかりのよっこらしょ系の主題である。
そこに、多少、超越したような表情のメロディがまとわりつく。

第2楽章は、研ぎ澄まされ系の導入部という感じで
素晴らしく高潔なメロディに満ちた終楽章に続く。
何だかセンチメンタルでもあり、ナルシスティックでもある。

当然、第1分類。

RV.153(Track4-6)ト短調。
この曲の第1楽章の寄せては砕け散る
海の嵐を想起させる劇的な表現は、
ニヒルなメロディが歌われる第2楽章と共に、
作曲家のこだわりの個性的な刻印を感じるが、
終楽章も同様な雰囲気で孤高である。

この協奏曲は、かなり力作ではあるまいか。
RV.156と共に自画像的。

これも第1分類とされて当然かもしれない。

RV154(Track14-16)ト短調。
この曲はシューマンの音楽のように
気紛れな雰囲気とリズムが、
これまた、「錯綜する」、という感じの楽章で始まる。

第2楽章も衒学的で、
いかにも、意味深で深刻な張り詰めたもので、
終楽章はがっちゃんがっちゃん言うリズムに、
やけっぱちなメロディが無理矢理付けられている。

この作品は第4分類なので、
オペラから主題が採られたのか。

RV156(Track29-31)ト短調。
粋ないなせなメロディで、
肩で風を切るヴィヴァルディで、格好いい。
北風が吹こうとたじろがぬ自信に満ちた足取りである。

中間楽章は幾分、失意を感じさせる。内省的なもの。

終楽章のメロディも素晴らしく推進力があり、
この協奏曲は不遜とも言える作曲家の肖像画に見える。

あるいは、あえてベルリオーズを先駆けた、
自伝的協奏曲と書いて問題提起しておこう。

これも第1分類とあるが、私は、RV153と共に、
もう一つ、別の分類にしたい。

RV158(Track32-34)イ長調。
開放的な楽想をおおらかに展開し、
途中、マニエリスティックな確信犯的な、
ぎこちないジグザグをさしはさむ。

第2楽章も、ぎっちょんぎっちょん系の
スケルツォとかフモレスケ。

終楽章は、これまた、開放的なもの。
合いの手のような動機が吹き抜け、
停滞しがちなリズムの繰り返しの推進を助けてくれる。
アレッサンドリーニは、ペルゴレージ風と書いている。

この曲も、デラメアの解説では分類されていなかった。

RV.159(Track1-3)イ長調。
明朗な楽想で微笑みが感じられる開始部ながら、
袋小路的な、意地悪がある。

中間楽章はメロディとしては、
ものすごく引き伸ばされた子守唄のような感じ。

終楽章は、このCDの中では目立って個性的なもので、
エキゾチックな色調で目立ち、苛立たしく停滞する。

この作品は、先に、「試される真実」の、
第1幕の音楽の焼き直しとされた。
第4分類。

アレッサンドリーニは、解説を、
「メロディ発明の才能、巧妙なリズム処理、
いたるところにヴィヴァルディの天才を感じる。
そして、ヴェネチアの器楽の伝統に明らかに則っている。」
と結んでいる。


得られた事:「ヴィヴァルディのシンフォニア(序曲)と弦楽合奏協奏曲は、外見が似ているが、前者は長調が支配的で中間楽章のメロディに特徴があるのに対し、後者は短調の場合が多く、対位法的で終楽章に力点がある。」
「ヴィヴァルディの器楽曲にも、シューベルトと同様、声楽曲を改変したものがある。」
by franz310 | 2012-11-10 22:06 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その352

b0083728_19585124.jpg個人的経験:
前回聴いたシモーネ指揮の
ヴィヴァルディ「序曲集」、
今回聴くサルデッリ指揮
のものと比べると、
あまりにのんびりして、
ひと世代前の録音と
感じずにはいられない。
しかし、このサルデッリ盤も、
あまりに強引な感じが
しないでもない。


このような演奏の性格は、
怪しげなカーニバルの仮面の表紙デザインが、
図らずも、よく表しているように思える。
何となく、真意を見せずに、
聴き手を驚かせようという魂胆か。

演奏はモード・アンティコである。
そうは言っても、
彼らの演奏には、
私は、ちょっと弱いかもしれない。

勢いが乗ってくると、
完全にフォルクローレ的な陶酔に陥って、
リズムと楽器の過激なかき鳴らしで、
とにかく我々を揺さぶりまくろうとする。
しかも、ヴィヴァルディに対しては、
全幅の信頼を寄せていることが感じられる。

いかに、過激にさく裂しようとも、
大将、あなたなら、きっと、
こうやりたかったはずですよね、
と語りかけているような感じがしないでもない。

2001年11月の録音ということで、
11年の年月が経っているが、
あるいは、もう少し気負いのない、
より自然で落ち着いた表現が、
この十年の間に出てきているような気もする。

このCDは、Frame Recordsのライセンスとあるが、
ブリリアントレーベルのもので安く入手できるし、
収録曲目が多いので、それだけで価値がある。

シモーネ盤が11曲だったのに対し、
こちらは14曲入っていて、3曲多い。
これは、オペラでなくセレナータである、
「祝されたセーナ」から二曲、
シンフォニアと序曲が入っているからで、
あと一曲は、「忠実なニンファ」の「海の嵐」である。
これは1分程度のもの。

あと、これらの序曲(オペラの前のシンフォニア)は、
急緩急の3つの部分からなるが、
一般に最初の急の部分が長いので、
これを前半、残りを後半として、
それぞれにトラックが振られているのもうれしい。

解説を、ヴィヴァルディ気違いの、
フェデリコ・マリア・サルデッリ自身が
受け持っているのも価値がある。

「『いずれにせよ、全ヨーロッパは、
私が作曲した94のオペラによる名声と、
私の名前を無視できません。』
1739年の1月2日に
グイド・ベンティボーリョ侯爵に宛てた、
心からの嘆願書の途中にある、
このいかにもプライドを感じさせる表現から、
この年配の作曲家は、
自分が作曲したオペラの総量を見積もっている。
現在では、我々はヴィヴァルディのこうした数字の傾向を、
例えば彼がハンズワースに、
17のエディション(12ではなく)を出版したと書き、
ベンティボーリョには、
彼の家賃が200ドゥカーティ(136ではなく)
と書いた傾向から、疑いたくもなるだろう。」

このようにいきなりペテン師ヴィヴァルディへの、
誹謗中傷かと思いきや、
さすが、サルデッリ氏は違う方向に舵を切る。

「こうして残されたドキュメントを、
ふるいにかけ、もはや、釈明が出来ない人に代わって、
こうした計算をするのは、後世の人の勝手である。
が、公正を期するなら、
ヴィヴァルディにも言い分があることを、
受け入れる必要がある。
彼はおそらく、分冊を含め17冊と言ったのであり、
また、94という数字は、
今日、散逸しているもののみならず、
再構成したもの、彼自身が繋ぎ合わせたものや、
ほかの誰かのものを含むパスティッチョも、
そこに含めたものかもしれない。」

ということで、ほら吹きというより、
神経質に計算した結果となった。

「結局、こうした活動は、
オペラ作曲家の公式な仕事の中で、
他の仕事の一部でしかなかった。
しかし、1713年の『離宮のオットーネ』から、
1739年の『忠実なロズミーラ』まで、
おそるべき数量ではあった。
我々は47の作品を数えることが出来る。
もちろん、音楽として残っているのは31曲で、
その中の14曲のみが完成していて、
8曲は不完全で9曲は断片である。
18世紀のオペラのプロダクションは、
こうしたもので、
しきりに変化する要求によって育まれたもので、
(流行に追従し、大衆の好みの急変に
対応しなければならなかった。)
オペラの作曲家は、
新しいアリアやレチタティーボを提供し、
昔の作品に新しいテキストを当てはめ、
旧作を改作し、自作や他人の作も縫い合わせ、
常に上演ニーズの変化に
立ち向かう必要があった。
つまるところ、すでに上演された
オペラからの音楽材料は、
要求に合わせて自由に使える
一種の宝箱のようであった。」

まったく、肯けるもので、
芸術のための芸術を追及する余裕はなかったのである。
うまくすれば大きな金が入り、
失敗したら素寒貧という博打業と言ってもよい。

博打というのは悪い表現に見えるが、
ハイリスク・ハイリターンのベンチャー精神であり、
むしろ、現代の日本人が学ぶべき点であって、
大企業で寝てても給料がもらえる方が、
こうした全力を賭けた賭け事と比べると悪い事に決まっている。

「シンフォニアであれ、オペラの序曲であれ、
交換や変更が前提となっていた。
ヴィヴァルディのたった15曲のシンフォニアが、
確かに実際の上演のタイトルと関連づいていて、
2曲はセレナータ『祝されたセーナ』という
準舞台作品に属し、
もう一曲は英雄田園劇
『忠実なニンファ』の第三幕の開始部である。
他の多くのシンフォニアのスコアは、
独立した器楽曲として残され、
オペラと一緒にするべきか分からず、
同時に特定のオペラのタイトルや
上演との関係をつなげる証拠もない。
これらのシンフォニアは、
自由に別のオペラにくっつけられ、
今日、同じ曲が別のオペラの序曲として使われたり、
他のシンフォニアの一部がばらされて、
一つの楽章になっていたり、
また、あるオペラの手稿から外されて、
別のオペラの序曲になっていることに出会う。」

結局、グルックが、オペラ改革で、
序曲が、そのオペラの雰囲気に合わせないとだめよ、
と言いたくなるのもわかるほど、
めちゃくちゃ見境ない状況ということであろう。
ヴィヴァルディは、それどころではない、
と言うであろう。

「この最初のシンフォニア完全録音では、
こうした、ほかのオペラにも流用された状況から、
最初に演奏された時のヴァージョンを選んだ。
たとえば、『テルモダンテのエルコーレ』へのシンフォニアは、
一度しか記録がなく、『エルコーレ』より5年前に演奏されていた、
『アルミーダ』のシンフォニアとした。
されに変なのが一つあって、
1727年から1738年の謝肉祭で成功したオペラ、
『ファルナーチェ』のシンフォニアの最初の二つの楽章が、
1726年に初演された『ドリラ』のそれと同じなのである。
明らかに、これは『ドリラ』のシンフォニアが、
終楽章のみ変えて『ファルナーチェ』に転用されたのであるが、
我々が使った『ファルナーチェ』は、1731年の演奏時のもので、
『ドリラ』のリヴァイヴァルは1734年なので、
実際にはもっとややこしい。」

同じオペラが10年も流行ったという事実にも、
私は驚いてしまうのだが。

しかし、ヴィヴァルディのオペラ、
単に、レチタティーボとアリアを、
単に並べたものという感じもするが、
そういった構成にしておかないと、
適宜、差し替えなどが出来なくなってしまう。

人気のあったものは、すぐに別の曲でも代用、
などが出来るようにしておくとは、
まるでユニット設計ではないか。
現代の工業製品の大量生産を先駆けた作戦の、
一つの解だということになる。

「したがって、このシンフォニアが、
これらのオペラの初演時に使われていたかは、
我々には判断不可能で、
残された楽譜の順番を優先した。
『ファルナーチェ』のシンフォニアを通して演奏し、
有名な『春』の協奏曲のテーマで、
このオペラのオープニングの合唱で使われた、
『ドリラ』のシンフォニアの第三楽章は、
もれなく補遺として録音した。」

このあたり、この前に聞いたシモーネ盤とは、
完全に反対のアプローチで、
両方聴く者にとっては好ましい。

「楽章の代用やほかのオペラへの貸し出しは、
音楽的内容の変更を伴い、
すべてのヴァリアントを録音した。
『ジュスティーノ』のシンフォニアの中間楽章は、
『セーヌ』に流用され、さらに、
『セーヌ』と『ファルナーチェ』の終楽章にも利用されたが、
表面的に一致するだけである。」

ということで、同じ楽想でも使われ方によって、
演奏の仕方を変えたということであろう。

「通常のオペラのシンフォニアの楽器法は、
四部からなる協奏曲に等しい。
しかし、オーボエを重ねる慣例があるので、
状況に応じて、演奏にこれを添えた。
三つのケースのみ、ヴィヴァルディは管楽による、
コンチェルタンテな書法を使った。
二つのヴァイオリンと二つのオーボエを使った、
『離宮のオットーネ』と、
二つのホルンを使った『バヤゼット』と、
『忠実なニンファ』の『海の嵐』である。
この最後の作品は、注目に値する音画で、
序曲ではなく、ヴェローナの
フィラーモニコ劇場の落成式のための、
田園劇の三幕を飾る前奏曲である。
この機会に、ヴィヴァルディは、すでに名声を得ていた、
横笛のための協奏曲(RV98/570、RV433)や、
ヴァイオリン協奏曲(RV253、RV309)を発展させ、
さらに、ホルンを加えた。
激しい弦楽とこれらの楽器の活躍によって、
色彩と描写力の傑作となった。
ヴェネチア駐在のフランス大使、
ヴィンセント・ランゲ公のための、
1726年作曲のセレナータ、
『祝されたセーヌ』の二つのシンフォニアで、
管楽器はすでに使われている。
ここでは、スコアにヴァイオリンのユニゾンに、
二本以上のフルートを伴い、
二本以上のオーボエを伴い、
と明記されている。」

もしかして、この一例をもって、
オーボエを重ねてよい、という判断をしたのだろうか。

「オペラのシンフォニアがいかに発展したかを知る、
今日の聴衆には、この時代の作品は、
やかましい聴衆の注意をひきつける、
鳴り響くシグナルとしての起源の、
大胆な和声に過度に拘束された小型のもの、
と思われるかもしれないが、
ヴィヴァルディの作品を知れば、
その意見を変えたくなるであろう。」

そんな単純なものではない、という事であろうか。

「慣習的に、同じ調で、
決まった和声で書かれているにも関わらず、
ヴィヴァルディは、驚くべき転調をさしはさむ。
開始部のアレグロは、彼のコンチェルトの、
素晴らしい輝かしさを利用するが、
緩徐楽章は抒情的魅惑を放射する瞬間で、
まさしく、この中間のアンダンテこそが、
彼のシンフォニアに斬新さを与えている。」

短い、控えめな中間楽章、
便宜的に第二楽章こそを聴け、
ということか。

「目覚ましい表出力や、
恥じらうことなき繊細な音色によって、
同時代の誰も到達できなかった、
郷愁のメランコリーの雰囲気に包み込み、
これらの作品は、まさしく、
最も手におえない聴衆にも、
てきめんの効果あるシグナルとなったのである。」

ということで、さすが、サルデッリ師匠、
うまい具合に聞きどころまでを、
ずばっと言い切っている。

では、各曲を聴いてみよう。

Track1.忠実なニンファ
弦と管が交錯して進む目まぐるしいアバンギャルド風。
解説にあったように、
(まるでヴァーグナーみたいだが)
第三幕への前奏曲で、かなり短い作品だが、
いきなりこの団体の強烈な音楽作りのドライブが見られる。

いくら「海の嵐」でも、
やりすぎではないの、という感じもする。

「海の嵐」にしては周波数が高すぎて、
描写的ではなく、むしろ、警報風。

テンポの対比も強烈で、
ファンファーレのような豪快な管楽合奏で終わる。

以下の曲は、「オペラの前のシンフォニア」で、
三つの部分からなるが、
便宜的に第一楽章、第二楽章、第三楽章と呼んでみた。

Track2.「アルジルダ」。
がちゃがちゃちょこまかの
極端な強弱が対比されたもので、
前の作品に近い豪快さで進む。

煽るような推進力は疲れるが、
鮮烈さは、作曲家の情熱を彷彿とさせる。

Track3.同曲の第二楽章、
ぽろぽろとテオルボが鳴り、
チェロがぼそぼそ鳴る中を、
弦楽が緊張感のある音楽を進行させる。
同じトラックの第三楽章は、
警戒に跳ね回る田園舞曲。

Track4.「ジュスティーノ」。
またかと思わせるように類型的な、
弦がかき鳴らされる突進風主題は、
後半では、ためらう奇妙な表情を見せる。

それに反発するような主題も、
同様に途中で力が弱まる。
展開部風の部分はいろいろ変化があって面白い。

特にこれ以上に先鋭には出来ないくらいに、
この演奏は密度が高い。

Track5.第二楽章は、寂しげな、
夢遊病のような音楽であるが、
まるでショスタコーヴィチみたいなギクシャクと、
跳び跳ねる終楽章が来る。

Track6.「バヤゼット」。
まさしく、待ってましたみたいな感じで、
この勇壮な序曲が炸裂するが、
ゴニョゴニョした動機は、
変化をつけてチェロの独奏になっている。

Track7.第二楽章は、主人公の英雄に相応しく、
孤高の音楽だが、終楽章は、
これまた激烈な金管の咆哮がこの演奏のコンセプトに合っている。

Track8.「オリンピアーデ」。
この曲なども乗りまくって、
飛び跳ね回る表現が過激である。
チェンバロのかき鳴らしが、打楽器的である。
神経質に強弱、スピードが激変する。

Track9.第二楽章は、
リズムがカリカリしていて、
いくぶん潤いがないが、
終楽章は、ひねくれた主題をこねくりまわして面白い。

Track10.「祝されたセーナ」のシンフォニア。
この曲は、オペラへの序曲ではない。
祝典的なセレナータについているもので、
シモーネの序曲集にはなかった。
しかし、シモーネは、このセレナータ全曲を録音しいる。

何となくヴィヴァルディへの微笑みを感じさせるとはいえ、
恣意的で挑発的なものが続くサルデッリの演奏の中で、
不自然さがないのは、この辺りだろうか。

即興的なのか、思いつきで突発的なのか
よく分からない解釈だが、
この曲では、比較的抵抗がない。

Track11.第二楽章は、
ポツポツと流れが途切れるが、
晴朗な終楽章への流れ込みは素晴らしい。

エマーヌエル・バッハくらいの時代を思わせる爽快さである。
チェンバロのきらびやかな技巧も同様の時代感。
が、このセレナータ自身は、それほど後年のものではない。

Track12.「祝されたセーナ」の序曲。
緩やかな序奏を持ち、解説にあったように、
管楽器のオブリガードがついている。

バロックのマニエリズムと言いたくなる
不思議に立ち上る楽想が幻想性を深める。
エル・グレコの絵画の背景みたい。
これは美しい。

あるいは、バロックそのものなのかもしれない。
まさしく「いびつな真珠」である。

Track13.終楽章の田園舞曲は、
木管楽器が古雅な長閑さを感じさせ、バッハの管弦楽組曲風。

Track14.「グリセルダ」。
これまた、強烈なアタックで始まるものだが、
アクロバットのような音の連続が爽快。
テオルボだろうか、立ち上る撥弦楽器の音色も、
ハイセンスで気が利いている。

Track15.第二楽章は、
へんてこな音の切り方で面妖な音楽になったが、
終楽章の武骨なリズムの破れかぶれの音楽は、
是非、これくらい思い切りやって頂きたい。

Track16.「テウッツォーネ」。
じゃんじゃかやかましい上に
過激なアタックが積み重なって、
もうベートーヴェンも脱帽の音の建築である。
個々の楽想は煉瓦のようだ。

この指揮者のかき鳴らし嗜好がよく活かされている。

Track17.第二楽章は、
悩み多い複数の声部が絡まってうねうね行く感じ。
終楽章は、弾けてお開きにするような陽気なもの。

Track18.「離宮のオットーネ」。
待ってましたの序奏から興奮が掻き立てられる。
二つのヴァイオリンの技巧的な絡まりも、
管楽器の応答も個性的で美しい。

Track19.第二楽章は、
短いがメロディもシンプルで情感豊か。
終楽章は、それの高速版。

Track20.「ファルナーチェ」。
この曲などは推進力に明快な流動感が加わって、
とても分かりやすい音楽である。

Track21.第二楽章は、
その代わりリズミックでスケルツォ風、
終曲は爽やかで晴朗な解放感のある音楽。

Track22.「ダリオの戴冠」。
じゃじゃじゃ系の強引系。
そこに優しいメロディが絡まる感じ。
これは、前古典派の交響曲といった雰囲気。

Track23.第二楽章は、
モノローグ風で長い。
終楽章は、これは、短く破れかぶれ系。

Track24.「アルミーダ」。
これまた暴発の冒頭。
基本じゃんじゃかで、
そこにヴィヴァルディ的な
詩情豊かな経過句が織り込まれていくのを、
決して聞き逃してはならない。

Track25.第二楽章は、
かなり抽象的に空中に浮かんでいる。

終楽章では、急に意識を取り戻したように、
短く強烈な舞曲が縦のラインを強調する。

Track26.「テンペのドリラ」。
解説にあったように、これは前の曲の、
第一、第二楽章に続けて演奏されて、
完全なシンフォニアとなるが、
ここでは終楽章だけ録音されている。

ヴィヴァルディの四季の冒頭の切れ端である。
これで終わりなの?という感じもする。

得られた事:「ヴィヴァルディのオペラは、十年にもわたって人気を保った演目もあるが、それは人気曲を流用し、流行に合ったものに差し替えながらの上演を可能にしたユニット設計戦略による。」
by franz310 | 2012-11-03 19:59 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その351

b0083728_18152315.jpg個人的経験:
前回、ヴィヴァルディの、
オペラから、アリアの他、
シンフォニアを集めた
CDを聴いたが、
シンフォニア(序曲)のみを
集めたCDもいくつか出ている。
このCDも、
ヴィヴァルディの、
「オペラの前のシンフォニア」
というタイトルになっている。


かつて、エラート・レーベルで、
ヴィヴァルディのみならず、
イタリア・バロック関係の録音では一世を風靡した、
シモーネ指揮のイ・ソリスティ・ヴェネティの演奏。

表紙のGiovaneの絵画も美しい。
サンマルコ広場を描いたもので、
ヴィヴァルディが生まれた年に亡くなっている画家らしいが、
当時のヴェネチアの活気を表していて、
何とも言えぬ味わいがある。

単に活気というのではなく、
この夕陽色の色調が、すでに、
最盛期は過ぎ去った街の印象をもって、
私の胸に刻まれる。
作者がそう思って書いたかどうかはわからないが。

このCD、録音は1978年と、
30年以上も前のアナログ録音であるが、
オリジナル楽器が当然となる前の解釈で、
弦楽合奏も分厚く、第一ヴァイオリンだけでも、
9人の奏者の名前が連ねられている。

チェンバロには、名手スグリッチの名前が見えるが、
このチェンバロが、素晴らしい銀色の響きを聞かせることは、
この演奏を通じて、耳にしみることで、
改めて名前を見てうれしくなった。

エラートでバロック音楽のLPを楽しんだ世代には、
何となく懐かしさを感じさせる名前であろう。

なお、バスーンには、日本人名、
WAKABAYASHI MICHIOがある。

「当時の劇場の雰囲気の中で作曲された、
アントニオ・ヴィヴァルディの『オペラの前のシンフォニア』は、
『赤毛の司祭』の才能と個性を表した、
非常に興味深い証拠となっている。」

と、演奏をしているクラウディオ・シモーネ自身の解説も、
かなり期待される書き出しである。

「オペラ分野において、ヴィヴァルディは、
非常な熱意と努力で取り組んだ。
華麗で想像力にあふれる音楽で『赤毛の司祭』は、
ヴェネチアのバロック芸術の頂点を表している。
大胆にも、最初の器楽曲群に、
『放たれた音楽のイマジネーション』とか、
『過度の』といった名前をつけた男は、
ヴェネチアの劇場のきらきらした飾りや、
魅力的なアトラクションとして片づけられる存在ではなかった。
これらの劇場は、すべての偉大な文学家たち、
劇作家、カナレットのような華麗な振付師、
当時の最も重要な作曲家たちの戦場であり、
継続的に公衆に『驚き』を提供していた。
彼の死(1741)を前にした手紙によると、
ヴィヴァルディは94曲のオペラを作曲した。
彼は、四分の一世紀にわたって、
音楽ショーの監督であり興行師で、
彼が、いかに劇場に直結していたかが分かる。
さらに言うと、彼は、生涯を通じて、
歌手のアンナ・ジローと非常に親密な関係にあり、
彼女は、彼の作品を歌い、多くの作品に登場した。
さらに、マルク・パンシェルルがすでに指摘したように、
多くの器楽曲での革新的書法が、
形式的にも表現の領域でも、
劇音楽に直接的な影響を与えている。」

確かに、パンシェルルの著書(早川正昭訳)を見てみると、
「器楽とオペラが並行して作曲されていった
この自然な結果として、
この2つの分野は互いに影響を及ぼしあった。」
とあったり、
「ヴィヴァルディの第一の独創性が、
コンチェルトの中にオペラ的な要素を持ち込んだことにある」
とあったり、
「ヴィヴァルディの音楽性は、両方に同じように貫かれている」
とあったりする。

「この巨大な作品群のほんのわずかしか、
残念ながら今日まで残っておらず、
その重要性はようやく認められはじめられたところである。
我々は20作品かそこらしか知らず、
いくつかは不完全であり、
すべてのページが『赤毛の司祭』のものではないものもある。
いくつかは疑いなく傑作であって、
音楽史に残るいかなる傑作とも比較できる。
『オペラの前のシンフォニアは、
ヴェネチアのバロックのメロドラマの発展の中、
ロマンティックな前奏曲や交響曲の先祖となった。
ヴィヴァルディの時代を通じて、
それらは比較的単純なパターンのものであったが、
我々は、それら大多数を、
一連のシリーズのように見ることが出来、
ちょうど、コンチェルト・リピエーノや、
合奏協奏曲、独奏コンチェルトなど、
ヴェネチア風の協奏曲への
出発点となった。
当初、これらのシンフォニアは、
厳密な意味での音楽作品ではなく、
聴衆にオペラの開始を告げるための、
アナウンスの和音の連続にすぎなかった。」

ということで、ヴィヴァルディの場合、
協奏曲が序曲になったように見えるが、
もともと、オペラがあって、
それらが協奏曲的な形態をとって行った、
という解釈のようである。

「1609年のマルコ・ダ・ガリヤーノの、
『ダフネ』のまえがきを見てもそれは明らかである。
彼は、シンフォニアを、様々な楽器で奏し、
カーテンが上がる前に聴衆の注意を引けと書いている。
この聴衆の注意を引くことは、
最近の例では、開演のベルを想起させるが、
これがシンフォニアの芸術性を支配することになった。
長い間、これらの作品は、
和音を繰り返すファンファーレであったが、
協奏曲のように、三つの部分を持つようになり、
ゆっくりした和音が前にあって、
速い楽章が続くようになった。
このあまりにも単純な音楽による警報は、
1642年のカヴァッリの『愛の矢の美徳』に明らかに見られ、
一つの和音が260回も繰り返される。
このパターンは多くの和声や、
異なるリズムを有することで豊かさを増した。
この、器楽のコンサートを導く、
『オペラの前のシンフォニア』の新しい形式にもかかわらず、
少なくとも18世紀の前半においては、
これらのシンフォニアは慣習的で類似のものであった。
ベネデット・マルチェッロは、
彼の『ファッショナブル・シアター』において、
手厳しく皮肉っている。
『シンフォニアは一般にフランス風か、
三度の和音の16分音符の急速な和音からなり、
短三度を伴う同じ調性のピアノ部が続き、
時代遅れな、フーガや、
ブリッジ・パッセージや主題はなしで、
再び短三度を伴うメヌエット、ガヴォット、
またはジグで終わる。』
『赤毛の司祭』の爆発性の才能は、
色彩や目もくらむような名技性の、
素晴らしい豊かさを加えた。
彼の『オペラの前のシンフォニア』は、
名人芸に満ち、明るく輝かしく、
聴く者に、純然たる喜びを感じさせる。
ヴィヴァルディが劇場のために書いた時代をカバーして、
シンフォニアは残っていることを特筆したい。
そして、それらのある特徴は、
常に繰り返されていることが分かる。」

このように、シモーネは書いて、
いくつかの特徴を列記している。

「1.非常な単純な形式で書かれており、
マルチェッロの書いたような感じで、
生涯を通じて、それはほとんど変わっていない。
調性はほとんどがハ長調か、関係調である。
最初の部分は一般に明るく器楽的で色彩的、
ダブル・ストッピングや繰り返しが、
オーケストラで奏される。
第二の部分は表出力があり、
出だしから優雅であり、
第三の部分は、非常に短く、
三拍子で踊りやすく、時にメヌエットと題される。
2.器楽的な見地からすれば、
これらの作品は、際立って類似であり、
第1、第2ヴァイオリンはユニゾンで奏され、
ある作品では、三度で奏される。
これは第二、第三の部分で顕著である。
ヴィオラはバスに重なっている。
3.オペラの前触れにもかかわらず、
シンフォニアは何の説明関係にもない。
最も血なまぐさい物語も、
他のものと同様に、
長調で生命力にあふれている。」

ということで、多くの作品は、
見分けがつきにくいが、
よく聞くと、様々な魅力に満ちている。

「すべてのオペラが、
専用のシンフォニアを持っているわけではなく、
ヴィヴァルディはしばしば、
同じシンフォニアを異なる複数のオペラに流用した。
したがって、シンフォニアがないオペラは、
他のシンフォニアを使って演奏されたものと思われる。
バヤゼットのためのシンフォニアは、
序曲とリブレットが無関係というルールの
例外であるように見える。
第二の部分に聞く、間合いや東洋的な色彩が、
物語の雰囲気からヒントを受けたように見える。
最初のシンフォニアは、
『離宮のオットーネ』のもので、
これはヴィヴァルディの最初のオペラとして知られ、
1713年にヴィンセンツァで上演された。
この作品では、ヴィヴァルディは、
上述の例外を示し、
合奏協奏曲のようなスタイルで、
オーケストラと二つのヴァイオリンと、
二つのオーボエが対話をする。
先立つ年に、アムステルダムで、
『Estro Armonico』を出版、
この形式に、彼は重要な貢献を行っている。
もともとは『ファルナーチェ』のために書かれた、
『テンペのドリラ』のシンフォニアの、
最後のセクションでは、
ヴィヴァルディの作品で最も有名なもののひとつ、
『春』の協奏曲の最初のトゥッティが聴かれる。
ヴィヴァルディは、もともと、
『ファルナーチェ』のために書いたオリジナルを、
『ドリラ』の最初のシーンに合わせて書き直した。
オペラは、春のお祭りのシーンで始まるのである。
ここでは、『四季』の有名な主題が登場する。」

では、各曲を聴いてみよう。()内は、私が補った。
音楽の友社の「名曲解説ライブラリー」にある数字だ。

Track1.「テンペのドリラ」
(テンペーのドリッラ)(1726)。
先ほど、解説に書かれていた作品が冒頭から登場する。

分厚い弦楽が、
モコモコした音形を繰り返しながら勢いよく飛び出すが、
テンポを落として、ヴァイオリン独奏が、
何度か繰り返されただけで、
何だか、静かに情念を秘めた次の部分になる。
そして、多くの人が驚くのが終曲部で、春のメロディ、
という感じ。

「四季」の演奏で鳴らした団体でもあり、
このあたりの表情は、実にそれっぽい印象を醸し出して、
演奏者自身が喜んでいる感じ。

Track2.「ファルナーチェ」。
これが、先の序曲のオリジナルの終曲である。

情感豊かな、さえざえと広がる弦楽のうねりが美しい。
「春」の協奏曲に負けずに、春の陽気である。
しかし、何の展開もなく終わってしまう。
1分半もない。

Track3.「ジュスティーノ」(ユスティヌス)(1724)。
これもざわざわするぎくしゃくした合奏に、
ヴァイオリン独奏の名技が絡まっている。
驚くべきは途中のものがファルナーチェ序曲の、
終曲のメロディと同じである点。
活発で、強弱の激しい音楽進行が、
かなり不格好な中断をともないながら悲愴感あふれる
メロディの中間部に流れ込む。
それもすぐに簡潔で元気一杯の終曲部に入る。

Track4.「離宮のオットーネ」(1713)。
これは、カークビーが歌ったアリアのCDに入っていた。
ヴィヴァルディの「四季」の後に入っていても
おかしくないような、ほとんど合奏協奏曲の外観ながら、
強弱の激しい起伏は、耳に適度な刺激を与え、
いかにも、舞台が始まるわくわく感を高めていく感じである。

中間部の寂しげな木管の佇まいも、
詩的ではかなげである。
終楽章はそれを勢いよくしただけ。

Track5.「ダリオの戴冠」。
(ダレイオスの戴冠)(1717)。
ファンファーレのような弦楽の激しい強打に続いて、
優しい応答が応え、目まぐるしい音形が駆け巡り、渦巻く。
その部分が展開部に見えて古典的な形式感はそこまで来ている。

逍遥するような繊細で情感をかきたてる中間部は、
いくぶん神経質な合いの手が入る終曲に続く。

Track6.「グリセルダ」(1735)。
この曲もカークビーが歌ったアリアのCDに入っていたもので、
この演奏の時代を感じさせる。
編成が大きいせいか、妙に重々しく、
ロマンティックで、もたもた感がある。
じゃっじゃっじゃっという即物的な序奏により、
でんぐり返りのような主題が導かれるが、
悲劇的な物語を反映してかしないでか、
なにか透徹した気分も低流している。

従って、中間部は何か昔話を語るような風情。

Track7.「試練の中の真実」(1720)。
ヘンテコな題名のオペラである。
この序曲(シンフォニア)は、たらららたらららと、
これまた直截的な開始で、
それがそのまま主部になっているのか、
たいした展開なく、
孤独なメロディが流れるゆっくりした中間部に続く。
躍動感のある終楽章はヘンデルの組曲みたいな感じ。

Track8.「エジプト戦場のアルミルダ」。(1718)
この曲になると、明るくざわめきのある序奏から、
明快なメロディが流れだし、
序奏のざわめきもこのメロディも展開があって、
少し古典派の交響曲みたいに明快さが心地よい。
中間部は少し物語を語るような風情がある。
題名につられて、エジプト風にも聞こえる。

終楽章は短いが、メヌエット風で優雅であり、
かつ爽やかな風を感じさせる。

Track9.バヤゼット(1735)。
これもカークビーのCDで聴いた、ホルンも勇壮なもの。
もたもた感はないが、ゆっくりゆっくりやっているなという印象である。
大編成ゆえに弦の分厚さによる
ロマンティックな情感を期待したいが、
まるで学生オーケストラの練習に聞こえるのは残念。

終楽章はものものしく、唯一、納得できる内容。
二人の王が対立する、このオペラの雄大な背景を喚起している。

Track10.「オリンピアーデ」。
(オリュンピアス)(1735)。
このシンフォニアは、
CDの大詰めに置かれるだけあって、
ヴィヴァルディの序曲の中では、
規模と構想と個性の上で特筆すべきものである。

乱暴で猥雑な冒頭からして注意を引き付け、
続く主題も表情豊かで、期待感に満ちている。

中間部の悩ましい情感も印象的で、
終楽章は合奏協奏曲のような解放感で、
ヴィヴァルディならではの爽快さが聞き物である。

この演奏では鈴のように、
チェンバロが鳴り響き、典雅さを盛り上げている。

Track11.「ポントスのアルシンダ王妃」(1716)。
「オルランド・フリオーソ」(1727)の序曲でもあるらしい。

ついに最後の曲であるが、これまた、序奏に続いて、
ヴァイオリンの技巧的な独奏部がある。
いかにも、ヴィヴァルディがさっそうと指揮をして、
ヴァイオリンも演奏している様子が思い描かれる。

これも、がちゃがちゃ系の出だしであるが、
稀有壮大な感じの楽想が現れるのが素晴らしく、
ピッチカートを伴う中間部の、
幻想的な効果は素晴らしい。
この部分、たっぷりとして、
この時代のヴィヴァルディ解釈の、
最も美しいページであるような気がする。

終楽章は、チェンバロの装飾も美しく、
爽快で、優雅なメロディが快適である。

得られた事:「生涯を通じて、オペラの序曲は、類似品と書かれたヴィヴァルディであるが、私の聞いた印象では、初期の方が古典的で、後期のものほど、表現主義的な感じ。」
by franz310 | 2012-10-28 18:16 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その350

b0083728_11242956.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ後期の
貴重なオペラ、
「ウティカのカトーネ」
の中のアリアを収録した
CDアルバムとして、
2009年に出た
ジュノーのものを聴いたが、
それから15年前の、
カークビーの録音にも、
二曲が収められている。


イギリスのハイぺリオン
のもので、表紙も美しい。
ロイ・グッドマン指揮の
ブランデンブルク・コンサートが共演している。

ティエポロの描いた、
「アルミーダの魔法の庭における、
リナルドとアルミーダ」という絵画で、
ヘンデルのオペラにふさわしい表紙だが、
このCDと、直接関係があるとは思えない。

なぜなら、
「ヴィヴァルディ:オペラ・アリアとシンフォニア」
と題されたこのCDには、
「グリセルダ」(1735)、
「ティト・マンリオ」(1719)、
「離宮のオットーネ」(1713)、
「アテナイーデ」(1728)、
「バヤゼット」(1735)、
「ダリウスの戴冠」(1717)、
「ウティカのカトーネ」(1737)といった、
どちらかと言えば、歴史ものが収録されていて、
魔法的要素はなさそうだからである。

また、このアルバムは、
単なるオペラ・アリア集というより、
啓蒙的なヴィヴァルディの
オペラ入門みたいな選曲になっていて、
最初の作品として知られる、
「ヴィラにおけるオットーネ」(1713)から、
序曲と2曲のアリアが選ばれて、
後期の作品である、
「タメラーノ」(1735)の序曲に、
「ウティカのカトーネ」(1737)から
2曲のアリアなどと、
比較できるようになっているのである。

マントヴァ時代の「ティト・マンリオ」なども、
選ばれて、解説の中で、この時期についても、
触れられている。

また、同じく後期の「グリゼルダ」からも、
序曲とアリア2つが選ばれて並べられ、
さながら、短縮オペラ集の趣向になっている。

どうやら、この「グリゼルダ」などが、
イギリスでは早く復活していたようで、
ERIC CROSSという人が、
1994年に書いた解説も、
こんな風に締めくくられている。

「ヴィヴァルディの現代によるリヴァイヴァルは、
特に、彼の生誕300年だった1978年がきっかけになったが、
英国では、ただ、『グリゼルダ』だけしか、舞台にかかっていない。
このアリア集は、いくつかは初録音になり、
各曲の印象的な劇的なパワー、
そのスタイルの多様性について導きになろうが、
オペラ・セリアのジャンルについて共感するプロダクションによって、
いくつかの彼の最高作品が上演されて初めて、
ヴィヴァルディのオペラ作曲家としての重要性が、
正しく計れることになるだろう。」

ということで、約20年前には、
ヴィヴァルディのオペラ作品は、
まだ、保留状態にあったということが分かる。

では、解説を見て行こう。
啓蒙的なCDであるがゆえに、概括的で非常に勉強になる。
表現がシンプルなのも読みやすい。

「現在、ヴィヴァルディは、多くの器楽作品でよく知られているが、
彼はまた、多作のオペラ作曲でもあった。
1713年、35歳でのオペラでのデビューの時までに、
彼はすでに協奏曲の作曲家として、
国際的な名声を博しており、
これらの活動は残りの彼の人生においても並行して続けられた。
彼が何曲のオペラを作曲したかは正確にはわからないが、
ヴィヴァルディは1739年の手紙で94曲と書いている。
しかし、この数字は、ヴィヴァルディの誇張趣味もあり、
再演や、自身の作品や他人の作品の再構成作品も、
疑いなく含んだ数である。
しかし、50曲以上のリブレットが残っており、
20曲ばかりのスコアも残っていて、
ほとんどが完成作品である。
ヴィヴァルディがオペラに関わったのは、
単に作曲家としてだけではない。
彼は、その人生を通して、興行主としても活動した。
劇場を運営し、歌手と契約し、しばしば値切ったりもし、
自身の作品と同様、ほかの作曲家の作品も上演した。
事実、彼のオペラの契約は、ヴェネチアの外へも、
彼を多くの楽旅に旅立たせ、
ローマやフィレンツェのような中心地を離れ、
ヴィーン、たぶん、プラハにも赴いた。」

このあたりのことは、
ぜひ、いきなり全曲録音などを聴く前に、
読んでおくべきであった。

しかし、面白い事に、
ジュノーもカークビーも、
私が最初に聞いた、
「オルランド・フリオーソ」(1727)などは、
まったく無視した選曲を行っている。
また、ヴィヴァルディのオペラでは、
「テルモドン川のヘラクレス」(1723)
なども聞いたが、
いずれも、今回のCDでは手薄な、
1720年代のものであることが、
今回の解説で、改めて意識された。

「すべての現存するヴィヴァルディのオペラの序曲では、
作曲家は『シンフォニア』と題して、
彼の膨大な協奏曲同様、3楽章形式になっている。
『テンペのドリラ』では、シンフォニアの最終楽章が、
オペラの開始部のコーラスと同じ材料、
有名な『四季』の『春』の協奏曲の最初の部分を共用しているが、
これはただ一つの例外で、
普通、序曲とオペラに主題的なつながりはない。
事実、その手稿を見ても、
シンフォニアはタイトルページの前に置かれ、
また、前の作品のシンフォニアを、
いくつかのヴィヴァルディのオペラは流用している。」

こんな具合に、序曲の解説だけでもかなり手厚いのが、
このCDの特徴で、確かに、トラックが18あって、
3つの序曲用に9トラックが使われている。

「オープニング楽章が、3つの楽章では最長で、
性格的にはブリリアントである。
最初の主題は、ヴィヴァルディの協奏曲でよくある、
マルチストップの『スリー・ハンマー・ストローク』など、
ヴァイオリンのテクニックが目立つように利用され、
1735年の2つのオペラ、
『グリセルダ』と『タメラーノ(作曲家の自筆譜ではバヤゼット)』
では、これで開始される。」

こう書かれているので、聴き比べると、
確かにTrack1.の「グリゼルダ」も、
Track13.の「バヤゼット(タメラーノ)」も、
じゃっじゃっじゃっとはじまり、
同じ曲かと思ったくらいである。

が、「タメラーノ」では、勇壮なホルンが活躍し、
第2主題は木管で演奏されて、より古典的な感じがある。
「グリセルダ」では、より執拗な主題の弦楽による反復が目立つ。
それゆえに、もっとねちねちした感じがつきまとう。
したがって、ロマンティックな感じ、
と言い換えてもよいかもしれない。

「こうして、聴衆の関心を引いた後、
ヴィヴァルディは対照的な楽想を繰り広げる。
しばしば繰り返され、少し短縮され、
リピエーノ協奏曲と同様の構成となる。
需要な部分は、しばしばゆっくりと、短調で、
『グリゼルダ』では、半音的な進行や、
前打音アッポジャトゥーラが見られるのに対し、
『タメラーノ』では、高音の弦楽が持続音を続ける中、
驚くべきことに、低音にメロディが現れる。」

このように、二つの主題の対比で、
曲が緊張感をもって立体的に聞こえ、
ほとんど、交響曲の世界である。

「これら2つの序曲の中間楽章では、
典型的ヴィヴァルディで、
優しい短調のアンダンテが来る。
ハープシコードなしで、
低音の弦が鼓動のように繰り返す中、
ユニゾンのヴァイオリンが抒情的なラインを描く。」

これらの楽章では、ヴァイオリンの独奏が、
悩ましいトリルを聞かせて、
これまた、非常に似た双生児である。
Track2.の「グリセルダ」の方は、
何となく、物語を語り聞かせるような楽想で、
中間部は、ふと、現実に返るような楽想、
「バヤゼット」の方は、より内省的で、
中間部には、心やすめになる主題が出る。

「フィナーレは、生き生きとした、
三拍子の舞曲で、長調への短い回帰がある。
ここでも再びヴァイオリンはユニゾンで、
『タメラーノ』ではホルンだが、
短調の静かな中間部があって、
これがテクスチャーに加わる。」

Track3.の「グリセルダ」の方は、
野趣あふれるリズムが強烈で無骨。
Track15.の「バヤゼット」の方は、
ホルンの響きも牧歌的なメヌエット風である。

「初期のオペラ『離宮におけるオットーネ』の序曲は、
『タメラーノ』と同様例外的に管楽器を含む。
ここでは、しかし、ヴィヴァルディは、
2つのオーボエを採用、
その素晴らしい3度のソロ・パッセージは、
第1楽章で繰り返され、
より技巧的な独奏ヴァイオリンと交代する。」

Track7.の『オットーネ』序曲は、
明るく晴朗な感じで、誰にでも楽しめる。
非常に典雅なもので、上記オーボエもさることながら、
2つのヴァイオリンによる、
唐草模様のような装飾が美しい。

「第2楽章は、後年のシンフォニアの通常形と違って、
二部形式で、最初の半分は、ヴァイオリン伴奏のオーボエ、
そして、後半はヴァイオリンを補助するオーボエ付きの弦楽合奏。
同じ8小節の最初の部分はイ短調からイ長調に変えられて、
終曲のアレグロとなる。」

Track8.の第2楽章は、
ロマンティックな情感溢れ、
詩的なヴィヴァルディの芸術のエッセンスのよう。

「第1楽章の32小節のオーボエのパッセージが回想され、
3つの楽章が、珍しくも主題でリンクされる。」

Track9.の終楽章は、
単に、前の楽章を早くしただけだが、
まことに爽快で、爽やかな風のように、
吹き抜けてゆく。

この時代の、希望いっぱいのヴィヴァルディの、
心境を描き出したような感じもする。

このように、今回のこのCDの解説、
序曲だけで、かなりの語りが繰り広げられている。

私は、すでに、「離宮におけるオットーネ」を、
この欄で取り上げたことがあったが、
まさか、ほぼ処女作の方が、
むしろ多様な工夫がされているとは思っていなかった。

さて、このCDは、いきなり、
後期の作品「グリセルダ」から始まるが、
この作品は、この英国製CD発売時点で、
英国で唯一、上演されたヴィヴァルディのオペラだったようなので、
何か、代表作的な位置づけにあったということであろうか。

あらすじを見ても、
別に、この作品が特別なもののようにも思えないが、
ひょっとすると、オペラを離れても、
文学者として高名な、ゴルドーニがリブレットを担当したから、
みたいな理由があるのだろうか。

「『グリゼルダ』は、ヴィヴァルディのキャリアの終わりにかけて、
ヴェネチアのテアトロ・サン・サミュエレのために書かれたもので、
1735年、昇天祭のシーズン、5月18日に上演された。
この上演のために、ゼーノのポピュラーなリブレットは、
若い劇作家カルロ・ゴルドーニによって改作され、
彼のメモワールには、
当初、未知の作家の能力に懐疑的であった作曲家が、
ゴルドーニが筋に沿って、新しいアリアを作った時、
いかに、完全に納得させられたかが書かれている。」

このように、ゴルドーニとヴィヴァルディの出会いも興味深い。
このイタリアを代表する劇作家は、
1793年にパリで85歳で没するが、
あと、4年でシューベルトが生まれる年まで生きたわけで、
ヴィヴァルディとシューベルトの距離感が分かるような気がする。

「テッサーリアの王グァルティエロが、
どのように質素な小作農のグリセルダを、
自分の妻にしたかが語られる。
民衆の不安は、娘のコスタンツァが生まれたことによって、
頂点に達する。
反乱を抑えるため、王は子供は死んだことにして、
アテネに密かに送って育てさせることにする。
何年か後、グリセルダの忠節を試すため、
グァルティエロは、コスタンツァを街に呼び寄せ、
彼女は本当の身の上を隠し、
新しい妻にするようなふりをする。
第2幕の第2場で、コスタンツァは、
夫となるべき人への義務と、
幼馴染の恋人、ロベルトを巡る葛藤を語る。」

グリセルダより、コスタンツァの方が、
主人公のような書かれ方をしている。

「『アジタータ・ダ・ドゥ・ヴェンティ』(Track5.)は、
嵐の海に揉まれる船を、彼女の状況になぞらえる。
おなじみの比喩は、彼の『海の嵐』の協奏曲の、
生き生きとした描写を思わせる。
これは、同じアリアを、先立つ年に、
マルガリータ・ジャコマッツィが、
『アデライーデ』の中のマティルデ役で歌っていたので、
さぞかし人気のあるアリアだったと思われる。
名技的な声楽書法は、明らかに、
ジャコマッツィの印象的な技巧を万全に生かすように、
設計されていることは明らかである。
急速に繰り返される同様の音符、広い跳躍などが、
オーケストラのリトルネッロに彩られた声楽部に見られる。」

この素晴らしい飛翔を見せるアリアは、
ひょっとすると、ヴィヴァルディを代表するものかもしれない。
少なくとも、技巧の点ではそうだし、
音楽の推進力、上昇力の点でも、ものすごい効果を持つものである。

しかし、このカークビーの歌は、
歌のお姉さんが歌う同様みたいで、
人畜無害でひたすら明るいが、これでいいのだろうか。
歌に微笑みすら感じさせ、
まるで、苦悩の歌には聞こえない。

このアリアは、「Vivaldi AGITATA」と入れるだけで、
ネット上で大量の動画検索が可能であるが、
ジュノーも、バルトリも、複数聴けるが、
激しく突き上げるように高速で曲をドライブして、
切迫した状況をうまく表現している。

表情なども、微笑している暇がないほどに、
恐ろしくゆがみ切っている。

こう並べて聞くと、バルトリは、
その表現の多彩さにおいて新境地を拓き、
ジュノーのような世代が、そこに、
さらに柔軟さを加えていることが分かる。
スミ・ジョーの動画も見たが、
ちょっと優等生的で、カークビーに近い。
カバリエの歴史的ヴィヴァルディでは、
古典歌曲みたいな位置づけで歌われている。

ついつい、アジタータで足踏みしてしまったが、

「オペラの最後の幕では、ロベルトとコスタンツァは、
ぞっとしたグリゼルダによって発見されるが、
彼らが驚いた事に、グァルティエロは彼らを許す。
『虚しい影、不正な恐怖』(Track4.)という、
コスタンツァの優しいハ長調のアリアは、
息つく間もない中間部は、彼女の過去の苦しみを思い出させるが、
より幸福な未来を待望するものである。」

このような幸福を願うアリアは、
技巧と詩情が両立した極めて美しいもので、
カークビーのような清潔感で聞かせる歌手には、
よく合っているのではないだろうか。
中間部の狂乱の部分、
「もはや、こんな苦しみは耐えられません」も、
ちょっと影が差す程度である。

このCDの解説は、時代順になっておらず、
いきなり、初期から中期にかけての話になる。

「1718年から1720年に、ヴィヴァルディは、
マントヴァ宮廷の宮廷楽長に任命された。
まずは、オペラ興行に着手、
彼は、1718年と19年のカーニバル時期、
『ティト・マンリオ』や、『テウッツォーネ』といった、
自身のオペラの全権を握った。」

ということで、マントヴァ時代の作品が登場。
ヴィヴァルディは、この時代に、
生涯の盟友とも言うべき、
アンナ・ジローに会っているので、
とても気になるではないか。

「『ティト・マンリオ』は、このローマの執政官が、
反抗的なラティウム人に罵るところから始まる。
そして、息子や、ラティウム族の騎士、
ルッチオまでが従う。
彼は、ティトの娘のヴィッテリアを愛していたからである。
彼女は、しかし、ラティウムの首領、
ジェミニオを愛するがゆえに、そんな罵りに反抗する。
ティトは、彼女が祖国を裏切るなら、死ぬべきだと言う。」

この物語など、ティトをカトーネに、
ジェミニオをカエサルに置き換えれば、
ほぼ20年後の「ウティカのカトーネ」そっくりの構図である。
当時のオペラの筋は、20年くらい、
平気で同様のパターンだったようだ。

「第2幕冒頭のアリア、
『残酷さに惑わされてはならない』(Track6)で、
ルッチオはティトに娘への憐みを見せてほしいと乞う。
ヴィヴァルディの自筆譜は、
このCDにも収録されている『ダリオの戴冠』の、
『Non mi lusinga vana aperanza』というアリアを流用し、
新しい歌詞をつけたものだとわかる。
後者のアリアは、オーボエと通奏低音だけが伴奏し、
声に寄り添う独奏楽器の扱いを示した、
ヴィヴァルディの素晴らしい一例である。
二つの線は時に互いに親密で、特に三度に近づく。」

これは、この解説にあるとおりで、
夕暮れの空を仰ぎ見た時のような情感の
オーボエ協奏曲の第2楽章のような趣で、
声と、器楽の調和が、ものすごく詩的である。
カークビーの情念を超越した声が、
この場合、器楽の協奏曲にぴったりな感じ。
これは、極めてヴィヴァルディ的な世界と思える。

しかし、シューベルトにも、
木管のオブリガードを持つ歌曲やアリア、
宗教曲があるが、ここには、大先輩の傑作が聴ける。

この後、初期(1713年)の「離宮のオットーネ」の解説があるが、
これは、前に聞いたので少し省略。
このオペラから、以下の2曲が採られている。

Track10.には、
「嫉妬、すでにお前は我が心を地獄より恐ろしい状態にした」
というアリアも、ヴィヴァルディらしい活気に満ちた、
素晴らしい名曲であるが、この爽やかな歌唱から、
この恐ろしい歌詞を想起することは不可能である。

中間部で、不安を掻き立てる部分も、
ヴィヴァルディらしい詩的情緒が発散している。

Track11.の
「影よ、私の嘆きの木霊よ」もまた、
処女作にかけるヴィヴァルディ一流の才気が漲るもので、
素晴らしい木管やヴァイオリン独奏の活用、
木霊のような二重唱の効果がぞくぞくする。
ここでは、リリアナ・マッツァーリという人が、
木霊のような、恋人の声を受け持っている。

恋人同士の木霊のような二重唱といえば、
ロッシーニの「試金石」が思い出されるが、
ここでは、あのような洒脱さはなく、
何とも、恐ろしい、悲しい性の、
詩的絵画のようなものになっている。

以下、1720年代の作品についての解説となる。
中期の脂ののった時期であろうか。
(こんなことはどこにも書いていないが、
1710年代、20年代、30年代という区分では、
そんな風に当てはめられるように見える。)

「『グリゼルダ』同様、『アテナイーデ』は、
ヴィヴァルディが、
ゼーノのテキストにつけた、
数少ない作品の一つである。
ヴィヴァルディのオペラの、
1720年代半ばにローマで人気によって、
多くの劇場が彼に委託したが、
1727年の初頭には、『ヒュペルメストラ』が、
フィレンツェのペルゴラ劇場で上演された。
その成功を受けて、翌年の12月には、
『アテナイーデ』が初演されたが、
これはあまり評価されなかった。
批評家は、特に、
プルチェリアの役を歌った
ヴィヴァルディの被保護者、
メゾ・ソプラノのアンナ・ジローを非難した。」

まさか、ここに来て、
アンナ・ジローが出てくるとは思わなかった。
というか、待ってました、という感じだろうか。

とにかく、ここでは、
1720年代のオペラの代表として、
「アテナイーデ」が取り上げられている。

「アテネの哲学者の娘、アテナイーデは、
ペルシアの王子、ヴァラーネの愛情から逃れるため、
コンスタンティノープルに逃れていた。
彼女は今や、偽りの名前、エウドッサとして、
皇帝テオドラシス二世と婚約している。
しかし、ヴァラーネは彼女をコンスタンティノープルに追い、
アテナイーデは、彼らを選ばなければならない。
彼女はテオドラシスへの忠誠を決め、
その証拠として彼に送った宝石は奪われ、
彼女の知らないところでヴァラーネに送られてしまう。
このように、第3幕では、テオドラシスの妹、
プルチェリアに裏切りを責められ、
驚いた事に、彼女は皇帝に拒絶され追放されてしまう。」

ヒロインが、ここまで、追い詰められるのは、
ロッシーニのタンクレーディなども同様で、
このような趣向は、20年どころか、
一世紀以上も続いていたということであろう。

が、せっかくアンナが出て来たのに、
彼女が歌った歌ではないところが物足りない。
プルチェリアの歌も収めるべきであろう。

「彼女は、その苦しみを、劇的なシェーナ、
『待って、テオドラシス、聴いて』(Track12.)
で吐き出す。
これは単純なレチタティーボと、
伴奏つきのレチタティーボと、
アリオーソとのミックスでなり、
その柔軟な様式は、
ヴィヴァルディというより、ヘンデルを思わせる。」

とあるが、確かに、9分を越えるアリアで、
まさしくヘンデルの「アルチーナ」の
「わが心」などを思い出す情念の大作となっている。

「彼女は、テオドラシスに行かないでといい、
彼はぶっきらぼうに立ち去って、
それがハ短調で終わる
短い6小節のラメントの引き金となる。
伴奏つきレチタティーボの劇的な部分に続き、
彼女は、自らの運命と皇帝の追放命令を思い出す。
それから、攻撃的なアレグロ・モルトは、
時折、無垢の愛を思う優しいラルゴが、
散りばめられているものの、
逃げることを決めたような、
声楽にも弦楽にも16分音符が敷き詰められた、
狂ったようなプレスト部を導く。
最後は、短いレチタティーボ部の後で、
彼女は、貧しい羊飼いのような、
追放の人生を受け入れて、
異常なヘ短調、
無慈悲なシンコペーションのリズムで、
フルスケールのダ・カーポ・アリアを開始する。」

まさしくここに書かれているような、
素晴らしい変幻の妙を見せ、
シューベルトの「フィエラブラス」などの、
後半を盛り上げる、メロドラマの融合なども、
こうした前例があると考えてはならないのだろうか。

まさしくこのCDの頂点を極めるのにふさわしい名曲で、
圧巻と言ってもいい内容だが、
カークビーが歌うと、むしろ、時代をさかのぼって、
モンテヴェルディのマドリガルみたいな感じにも聞こえる。
意外にも、そうしたルールを掘り当てた歌唱なのかもしれないが。

「ヴィンセンツァでの、
オペラ作曲家としてのデビュー後、数年は、
ほとんどのヴィヴァルディの劇作品は、
故郷のヴェネチアで上演された。
1717年の『ダリウスの戴冠』の中で、
オロンテは、人々に人気のあるハンサムな青年で、
キュロス王の死後の3人の後継者候補の一人である。
流血を避けるため、高潔なダリウス(候補者の一人)は、
キュロス王の長女のスターティラを娶った者が、
王冠をも受けるべきだと提案する。
第2幕6場で、太陽の神託によって承認され、
アポロとオロンテは、
アリア『虚しい希望で悩ませないで』
(Track16)の中で、
自分が選ばれることを願う。
この忘れがたいシチリアーノは、
オリジナルは、カストラート、
カルロ・クリスティーニによって歌われ、
ヴィヴァルディの初期オペラの様々な特徴を示している。
オープニングのメロディの間合い、
ナポリ6度の頻繁な利用、
低音楽器を使わないで、
声楽が活躍する部分の伴奏を、
軽やかにしていることなどである。」


続いて、「ウティカのカトーネ」の解説があるが、
このオぺラもここで取り上げたので、
すべての解説を訳出はしない。

Track17.は、第2幕5場で歌われる、
「顔に風を感じたら」というアリア。
政敵カトーネの娘、マルツィアから、
カエサルが、父との和平を促された時のもの。
ソプラノ・カストラートのロレンツォ・ジラルディのために書かれた。
弱音器付のヴァイオリンと、
ヴィオラのピッチカートを伴う雰囲気たっぷりのもの。
ここでは、カエサルは愛に酔いしれているので、
カークビーの澄んだ表現は好ましい。

Track18.は、戦争を想起させる、
「戦場で、我を試せ」。
トランペット付の勇壮なアリア。
カークビーは、カストラート役を担える感じではないが、
どれもこれも格調高く、音楽的に高水準、
飽きさせない、安心できる完成度の高い歌唱である。

グッドマン指揮のブランデンブルグ・コンソートも、
全編を通じて、作為なく充実した演奏を聞かせている。
分かりやすい解説も良かった。

得られた事:「鑑賞上の仮説。ヴィヴァルディオペラ作品、1710年代(初期)は器楽の比重が高く詩的、1720年代は実験的、1730年代(後期)はナポリ派的な明晰な技巧勝負、といった感じ。別途、検証を要するが。」
by franz310 | 2012-10-21 11:28 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その349

b0083728_18495011.jpg個人的経験:
1739年と40年、
謝肉祭のシーズンに、
アルプスを越えて、
はるばるグラーツでも、
上演されたという、
ヴィヴァルディ
最晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」には、
多くの素晴らしい
アリアが含まれているが、
あまり有名とも思えない。
そんな中、
このジュノーのCDは、
そのアリア2曲を収録。


今回、ここに示したのは、
Virginレーベルから出たCDの裏面であるが、
真紅のたっぷりとした生地の衣装をまとったジュノーが、
ちょっと、いつものボーイッシュなイメージとは、
違った感じで映っている。

髪の毛の盛り上がり方も尋常ではない。
よく見ると、ヴァージン・クラッシックス・クラブの
ホームページに行くと、ボーナス・マテリアルが見られるとある。
さっそく、レジスターして入ってみた。

トップページには、別に、そんな案内はない。

せっかく登記したので、やみくもな感じで、
演奏家の中から歌手、ジュノーと選び、
さらにこのCD表紙写真をクリックすると、
下記のような能書きと、動画の画面が出て来た。

「ヴェネチアのうららかな湾は、
アメリカの最北の寒い海からは遠いが、
アラスカ生まれのメゾソプラノ、
ヴィヴィカ・ジュノーは、
現在ヴェネチアの近くで暮らしており、
彼女は、ヴィヴァルディをよく取り上げる。
ヴィヴァルディのアリアを集めた、このアルバムは、
その1ダースぐらいのオペラから選曲され、
初録音のアリアも5曲含むものだ。」

なぜ、彼女がヴェネチアの近くで暮らしているかと言うと、
彼女の夫がイタリア人だということだ。
インタビューで、彼女が答えている記事がネット上にあった。

ヴァージン・クラシックスのこのCDのPRのページ、
動画の方は、奇妙な構成で、同じものが続けて入っている。

最初の方は字幕なしで、
後半が英語字幕付きになっている。
極めて美しい映像で、イタリアの古い町並み、
古い教会での演奏(収録)風景などに、
インタビューが挟まれる。

指揮をしているビオンティは、
「ヴィヴァルディの才能のショーケースのような録音だ」
といい、
ジュノーは、
「それはとてもリリカルだが、一面、ハッセのようにけばけばしい」
などとこれらの収録曲を形容し、
本当に、この録音でいいものをたくさん発見した、
みたいなことを語っている。

教会の回廊を回るジュノーは、ロングヘアだが、
録音時には、髪を束ねているのであろう、
いつものボーイッシュな雰囲気になっている。
「バヤゼット」の付録のDVDを見た時にも、
こりゃあ、すごい歌い方だと感じ入ったが、
これは今も健在だ。
エピソード的に子供が出て来るが、
彼女の子供であろうか。

とにかく、これは良いCDを手に入れた、
という感じがするプロモーションで、
非常に満足した。

実は、私は、このCDにおけるジュノーの声は、
ちょっと抜けが悪いような気がしていたが、
この映像を見ると、それ以上の価値があると感じられた。

また、このホームページには、
ニューヨークタイムズが、
「名人芸のレパートリーが彼女のトレードマーク」
としながら、
この歌手を評した時の記事を引用している。

「彼女の声は、彼女の外見同様、イケている。
明るく自由な高音や豊かなチョコレートのような低音が、
削岩機のようなスピードで、
マシンガンのような正確さから、
春の雨だれのような不規則な連続性まで、
彼女の繰り出すコロラトゥーラの流れに譲るにしても。
ジュノー自身が言っている。
『バロック音楽では、声楽とオーケストラの相互作用が好き。
オーケストラは単に伴奏するだけでなくて、
歌手が言おうとしていることに句読点をつけ、
真の意味での器楽との競演になるから。』」

さて、このように、
素晴らしい聴きどころ満載のアルバムであるが、
何しろ、ヴィヴァルディの碩学、
デラメアの解説なので、語られることも多く、
前回は半分しか聞き進むことが出来なかった。

今回、めでたくもノーベル賞を取った山中教授は、
見ちゃおれんほどのハードスケジュールで、
飛び回って取材や講演や方々での会見に忙しいが、
私は一枚のCDを聴くのに、時間ばかりかかっている。

何年か前に、私は教授の講演を真ん前で聞いたことがあったが、
非常に精力的な人であることはすぐに感じられた。
早く特許を整備しないと、競争に負けてしまうと、
しきりに訴えていた頃である。
まだ、研究所が出来るとか、出来ないといった時期である。

ただし、あの時には、ノーベル賞という言葉は、
まるで想像していなかった。
そういう意味では、ものすごい速さの受賞であった。
特に、文学賞を逃した村上春樹氏とは対照的な印象だ。

それはさておき、前回はTrack7.まで聞いたので、
今回は、Track8.から聞いて行きたい。

このオペラ「ファルナーチェ」からのアリアは、
「いや、戦士にとって愛は弱みではない」などという、
レチタティーボから入っている。

「『ナイチンゲールの孤独な歌は』は、
もともと、『メッセーナの巫女』のために書かれたものだが、
『ファルナーチェ』の後のバージョン(フェラーラ、1738年)
でも使われている。
『ファルナーチェ』では、ベレニーチェ軍の司令官、
ギラダによって歌われ、
兵士たちと女王との対立が続く。」

これだけだと、なんのことやらわからないが、
王女というのは、ベレニーチェのことである。
ヘンデルのオペラに「ベレニーチェ」というのがある。

とにかく、この歌い手、司令官のギラダは、
恋人を亡き者にしないといけない状況のようだ。
残念ながら、ギラダという人はヘンデルの作品には、
登場しないようである。

とにかく、そうしたムカつきから、
上述の対立になる、という図式なのであろう。

「ギラダは、ベレニーチェから殺すように言われた、
ゼリンダへの愛に思いを巡らす。」

とあるように、レチタティーボは、
ギラダは、ベルニーチェからの命令で苦しんでいる。

「田園的な哀歌のスタイルで、
アルカディアの木立で鳴くナイチンゲールの、
伝統的な比喩が採用されている。
『ナイチンゲールの孤独な歌』は、
技巧的困難さに満ちているが、決して、
声の体操のために表現が犠牲になることはない。
ヴィヴァルディはしかし、
単に困難なパッセージを書いただけでなく、
(このアリアを歌手にとっての難関としているのだが)
彼のペンから生まれた最も身を切るようなメロディを、
作り上げることに成功している。」

主部は、こうした緊迫した状況にふさわしくなく、
ちょこちょこした、かなり愛らしい感じのメロディである。
テオルボだかの撥弦音も愛らしい。

「ナイチンゲールは、枝から枝へと、
友を求めて呼ぶ」と歌詞のとおりに、
さえずりを取り入れたコロラトゥーラである。
「何という残酷な運命と言いながら」と、
しなやかな陰影がある。

ただし、中間部は、緊迫感を増す。
歌詞は、
「愛する答えが森の奥から聞こえ」という部分の、
胸の高鳴りを示す。

「浮き浮きした気持ちで枝伝いに歌いながら行く」
という歌詞が続く。

このように、歌詞の内容を見ると、
ベレニーチェも、ファルナーチェも、
メッセ―ニアの巫女も関係ない。

Track9.
このアルバムを聴いて、私が、一番、強烈に思ったのは、
この曲の、蒸気機関車のようなリズムの推進力で、
エキゾチックで、情念に満ちている。

「再び感情が支配するのは、
『ティト・マンリオ』の第二版(1720年ローマ)
からのコロラトゥーラ『私の美しい太陽はまだ』である。
ローマの慣習上、カストラートによって歌われた、
女性役サーヴィラによって歌われるもので、
若い女性が、
執政官ティートの命令を拒んだことによって捕えられ、
鎖に繋がれた、愛するマンリオと会う支度中の歌。
この差し迫った状況の悲劇的雰囲気は、
はっきりと、この不安な作品で示唆され、
ヴァイオリンとヴィオラのなだらかなラインと、
旺盛で間断ない低音の16分音符のコントラストが織りなす。
セルヴィラのパートは、しなやかに波打ち、
デリケートなコロラトゥーラのパッセージで強調されている。
これは、ヴィヴァルディが、1720年代初頭に、
カストラートの声の扱いを、
完璧にこなしていたことの例証である。
この心打つラメントでの火花は、
比較的、自制的であり、ドラマに完全に奉仕している。」

歌詞は、「美しい太陽をまだ見ない。
西にそれが沈むと、その光を私はまた崇める。」
などという、単純なものである。

Track10.
「忠実なロズミーラ」からの「悲しみを語りましょう」。

次のアリアもなだらかなメロディーラインに、
夢見るような感じだが、
晴朗なイメージ、ギャラントな感じもする。
「私の唇から、悲しみの言葉を。
私の心にそれは返り、
より、痛みを増す木霊となる。」

中間部では、切迫感を増し、
「つぶれる胸は、ただ、ため息の間に喘ぐばかり。」
と、極めて内容はただ事ならぬ状況。

コロラトゥーラは、一節ごとに、
控えめに付けられて行く感じだが、
最後に華麗な見せ場がある。


「『私の美しい太陽はまだ』は、
欠くことのできないマルゲリータ・ジャコマッティが、
『忠実なロズミーラ』(1738年ヴェネチア)の中で歌った、
『悲しみを語りましょう』のような、
ヴィヴァルディ後期のジャンルに見られるような、
洗練からは遠い。
ここで王子アルセースは、
ロズミーラに、恐れながらもつつましく、
愛を打ち明ける。
このドラマティックな文脈の中、
様々な当惑の表情を見せる。
パルテノペ女王を選んだことで、
すでにロズミーラは裏切られており、
彼が拒絶した女主人が、ライヴァルの宮殿に、
男装して突然現れ、
彼女な気まぐれな求婚者に、
上品な復讐をしようとしていていることに、
対処しなければならない。」

「感動的な自制された愛の歌は、
王子の恐れと罪の意識にあふれ、
『悲しみを語りましょう』は、
優美なラルゲットで、
フレーズのギャラントな変更によって、
声楽ラインは木目が細かい。」

Track11.
いよいよ、ヴィヴァルディ晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」からのアリアが聴ける。

これは、豪壮なホルンの響きが雄大な、
手負いのライオンの最後をを描いた歌で、
独特の風格と聞かせどころを持っている。

レチタティーボもついていて、
「私と同じような不幸があって?
多くの人たちには、嵐は収まる時が来る。
闇も明るくなる。
私にだけ、運命は容赦なく、
永遠の夜、永遠の嵐が続く。」
などと、言っている。

「『ウティカのカトーネ』のエミーリアの最後のアリア、
『森の中の最後のライオン』では、再び、
見世物芸が中心に来る。
弦楽オーケストラと二つのホルンのために書かれ、
この壮大なヘ長調のナンバーは、
カエサル暗殺のエミーリアのたくらみが潰えた所で歌われる。
計画のほつれで挫折し、
エミーリアは、自身の苦痛を、
致死の深手を負ったライオンのそれになぞらえ、
その呻きは、風が森中に伝えて行く。
『鳴り響く』(ファ・リーソナール)という言葉の、
長いコロラトゥーラのパッセージは、
傷ついた野獣の叫びを鮮やかに示唆し、
ホルンの呻きと遠吠えによって、
そのイメージは強化される。」

ホルンの豪壮さは明らかだが、
声の方の表現も、
「ファ・リーソナール、
ファ・リーーーーーーソーーーーナーーーール」
という感じか。

Track12.
「『お前はかつて女王だった』
もまた、勇壮な花火となる。」

これも「ファルナーチェ」の中のもの。
Track8.はジラーダのアリアだったが、
こっちは王様ファルナーチェ自身のアリア。

「名技的なヴァリアントが聴かれ、
オリジナルからの改訂がある、
『ファルナーチェ』の、
後のバージョン(1738年フェラーラ)から。
恐ろしく困難な声楽パートは、
おそらくカストラート用であろう。
オペラの最初で、傲慢な王様、ファルナーチェは、
妻、タミーリに、子供を殺して、
自殺せよと言う。
彼は、妻の母親、ベレニーチェに敗れたのである。
このアリアでは華美なコロラトゥーラのパッセージが、
キーワード『主権』(マエスタ)や、
『妬み』(ジェロサ)を強調する。
これらの許、彼は集団自決を迫られており、
誇大妄想的な君主のポートレートを描き、
辱めによって、さらに傲慢に、
駆り立てられた様子が表されている。」

序奏部は、楽しい協奏曲の始まりのようだが、
内容は、このようにえげつないものだ。

「お前はかつて、女王であり、
母であり、妻だったことを思い出せ。
油断なく(ここでジェロサ)誇りを護るべきだ。
お前の身分(ここで、マエスタ)からして。」

ここで、私は知ったのだが、
英訳の詩句の順番と、イタリア語の順番が、
入れ替わっている。
英訳は、「お前の身分(statue)から、
護るべきだ」と書かれているのに、
節の最後に、マエスタああああああ、マエスタ、
と言っているからである。

ということで、これまで、
英語訳の最初を題名として扱っていたが、
間違っている可能性が高い。

楽しげにも聞こえる、
追い詰められた王様の歌であるが、
「痛々しい奴隷の鎖より、
この哀れみ深い残酷な仕打ちに従うのだ。」
という、詩句後半部(音楽では中間部)の冷徹な音楽は、
この状況を明らかに表している。

「思い出せ」の、「リコーダティ」もやけに耳に付く。

Track13.
ここでは、美しい木管の序奏が、
夢のように美しい情景を想起させるが、
この推進力あるリズムは、
まるで、広々とした草原を馬車で行くような感じだ。

最も、当時の馬車は地獄の難行であったようだが。

それをデラメアも意識しているのであろう。
このアルバムの最後に持ってきて、
「ヴィヴァルディが書いた最も美しいアリアの一つで、
この名人芸集の最後を華々しく締めくくる」
と書いている。
題名は、『静かな広がりの中ででも』か?
「Sin nel placido soggiorno」とある。

「祝福された、永遠のエリジウムの
静かな広がりの中ででも、
私の魂はあなたに憧れる。」
という前半部(主部)は、
私のイメージ通りの歌詞で、
ヴィヴァルディの描写力、
イメージ喚起力のすごさを見せつけられる。

それにしても、なんという、雄大な風景であろう。
底知れぬ蒼さの大空を、悠々と、
飛行しているような気持になる音楽だ。

少し、陰影を宿す中間部は、
「しかし、私の死んだ兄の冷たい影が、
私をただ、脅すのだ」と歌われており、
のっぴきならない状況だとわかる。

では、急いで、興奮して解説を読んで見よう。
「ホ長調のアンダンテ・モルトで書かれた、
この興味深いスコアは、
『裏切られ復讐した忠誠』(1726年ヴェネチア)
のために作曲されたヴァリアントである。
半分は愛の宣言で、半分は、復讐の叫びである。
この作品から、ヴィヴァルディは、
その魔術的な大火災のような、
花火の打ち上げを開始する機会を得た。
最初のパートの神秘主義から、
第二部の陰鬱なカオスに進み、
ここで、ヴィヴァルディは、
その花火師としての真髄を開陳する。」

もう、解説者も興奮のさなかにある。
最後の一文は、難しい単語が、
それこそ花火のように繰り出され、
訳す方もへとへとになる。

「燃えるように、圧倒的に、無比。
これは、彼の全作品の小宇宙である。」

ここまで熱くなって解説されたものは、
二度に分けて、注意深く聞き進んだ甲斐があったというものだ。

が、結局、この歌い手は、
兄を殺した女を愛してしまった、
という設定なのだろうか。
そのあたりの事が書かれていないのが不満である。

なお、このCDは、発売3年を経た現在でも、
ネット上で激安で売られているが、
いったいどうしたことか?

ジュノーは人気のある歌手だし、
ヴィヴァルディ・ルネサンスは、
息切れ気味なのだろうか。

日本では、「四季」の作曲家から、
いや、大島真寿美の小説からして、
「調和の霊感」あたりから、
あまりヴィヴァルディ探求は進んでいないようにも見える。

こうしたアリアをやるコンサートがあれば、
ぜひ、出かけたいと思うが、
まったく、そんなイベントは見当たらない現状である。

裏表紙には、先のボーナス・マテリアルの他、
www.vivicagenaux.comとか、
www.europagalante.comとか、
宣伝がいっぱいなので、大量に売りさばいて、
これらのプロモーションを狙ったのかもしれない。

ジュノーのサイトには、彼女は、昨シーズンの秋も、
ヴィヴァルディの「ファルナーチェ」などに出演したとある。
今頃は、フランスでカルメンを歌っているとある。

得られた事:「ヴィヴァルディは(というか、当時の習慣か?)、歌詞のキーワードに強烈なコロラトゥーラを付けて強調した。」
「ヴァージン・クラシックスのネット誘導作戦、満足度高く、さすがだ。ボーナス・マテリアル良し。」
by franz310 | 2012-10-13 18:52 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その348

b0083728_16395727.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの
晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」は、
第1幕に欠落が
あるせいか、
あまり知られていない
作品となっている。
ヴィヴァルディの
アリアを集めた
CDなどにも、
この中のものが
含まれることは稀である。
しかし、ここに聞く、
ジュノーのCDは違う。


いきなりTrack1に、
「ウティカのカトーネ」の、エミーリアのアリア、
「荒れた海原が岸を打ち付け、岩を叩きつけようとも」が、
収められているし、
Track11にも、
同オペラの中でも屈指のアリア、
やはり、エミーリアによる、
「森の最後のライオン」が収められているのである。

さらに、マルゴワールが、
「カトーネ」の1幕を補筆した時に、
引用してきた、ヴィヴァルディのオペラの断片、
「セミラーミデ」からのアリア、
「囚人として、王として」が、
Track2に収められてもいる。

このCDは、2009年のもので新しく、
しかも安く出回っていたので、
「ウティカのカトーネ」の雰囲気を、
少しでもいいから味わいたい人には、
良いかもしれない。

表紙もゴージャスだし、
超絶の技巧の持ち主とされる、
ヴィヴィカ・ジュノーの歌と、
ビオンティ指揮のエウローパ・ガランテの、
活力ある演奏の激突が味わえる。

タイトルの「PYROTECHNICS」は、
花火技術とか、打ち上げ花火という意味であるが、
まさしく、花火のような作品が、
どんどん打ち上げらて行くCDだ。

ジュノーの声は、しかし、花火というほど華やかではなく、
どちらかというと陰影を生かした感じであるから、
ど派手なものではなく、飽きが来ない。

このCDについては、ジュノー自身、
かなり、作るのが嬉しかったようで、
ブックレットを開くと、
こんな事が書かれている。

「『打ち上げ花火』!
その喜ばしい音階、アルペッジョ、
跳躍、トリルの稲妻が、
物思いのため息がデリケートに
蔓のように絡み付いてやわらげられ、
再度、爆発的感情で解決されるといった、
バロックスタイルの完璧な要約。
このヴィヴァルディのアリア集は、
いくつかは世界初録音で、
その華麗なスタイルの全領域をカバーしている。
これらの音楽の構成も設計も、
いつか、誰かが私に言っていた、
『噴出するバロック』を表している。
この華麗さは、洗練された基礎の上に重ねられた、
金細工の装飾のようで、
私がバロック期のもので大好きなところ。
ヴァイオリンの名手ファビオ・ビオンティと、
活気にあふれた、エウローパ・ガランテと一緒に、
この音楽を発見していったことに、
私は特に本当に興奮しました。
ヴァイオリンと声の競演は、
ヴィヴァルディの高度に技巧的で、
器楽的な書法によるもので、
ビオンティの共演のおかげで、
私の興味は常にひきつけられました。」

そして、最後を、こう締めくくっている。

「フレデリック・デラメアの、
このプロジェクトに対する驚くべきリサーチに、
また、この機会を与えてくれたヴァージン・クラシックに、
ビオンティさんの無限のエネルギーとイマジネーション、
そして、師クラウディア・ピンツァの愛と献身に、
感謝を込めて。」

ということで、ヴィヴァルディ研究の権威、
デラメアにも賛辞が贈られているが、
解説も、この人が受け持っている。

「ヴィヴァルディのファイヤーワーク」
と、またまた、花火になぞらえた題名のもの。

この解説が、コロラトゥーラなどについて、
改めて概説してくれているのが嬉しい。

「グレゴリオ聖歌の即興的なメリスマ以来、
コロラトゥーラは、西洋の歌唱芸術の基本要素であった。
聖オーガスティンは、この歌唱の『感謝の賛歌』様式を、
言葉より強すぎるという感想を書いていた。」

とあるように、最初から、この技法は、
言葉との相性が悪い事が明記されている。
詩の言葉を重視するシューベルトの歌曲などで、
これがあまり出てこないことは、
当然、ということだろうか。

「しかし、アカデミー・フランセの辞書が、
『言葉のない声楽のパッセージワーク』と記述したものは、
イタリアのバロックオペラの声楽技法を新しい高みに至らせた、
高名なカストラート歌手たちの卓越した技量によって、
18世紀にようやく最盛期を迎えた。」

この文章も味わい深い。
極めて特殊な歌手であった、
カストラート歌手の必殺技が、
コロラトゥーラであり、
これが、最盛期を導いたというのである。

特殊な状況下で、
音楽は、特殊な状況に追い込まれ、
遂に、未踏の世界に突入したという感じであろうか。

「『音楽劇』の長期間にわたる王国を通じて、
アルペッジョ、スケール、トリル、スタッカート、
そしてパッセージワークは、
ブラヴーラ・アリア(シャルル・ブロスは、
その『イタリア書簡』で、それらを、
目もくらむような声のための音楽と和声に満ちた、
見世物アリアと呼んだ)を輝かせ、
それを正真正銘の声楽の花火大会にした。
これらのアリアでは、
歌手たちの名技性は、オーケストラのそれと拮抗し、
ある時は決闘を演じ、それから、
コロラトゥーラは、オペラの見世物の
メイン・アトラクションとなった。」

ということで、その特殊領域は、
ある意味、袋小路であった、という感じがにじみ出る。

「この連続は、必然的に超過を引き起こし、
多くの作曲家たちが、劇の要求を無視して、
名技性のみを目的とし、
美を越えた空虚なスペクタクルにする罠にかかった。
このようなオペラは、
息を飲む声楽の見世物の連続みたいなものになってしまった。
『それはもはや、情熱を呼び起こし、
補足する人間の声を描いたものではなく、
ナイチンゲールやカナリアの声を真似たものである」と、
コンティ師は1729年のヴェネチアの謝肉祭に書いている。」

これは、確かに異常な進化であったようだ。
が、ふと、このような状況に、
器楽奏者としてのヴィヴァルディのセンスが、
マッチしたような気もした。

「長期間、こうした超過は、
名技的なイタリアオペラを傷つけ、
モーツァルトなども、
『後宮からの逃走』のアリアを書いた後、
父親に書いた手紙で、
『イタリアのブラヴーラが許す限りで、
彼女の感情表現を試みました』と書いている。
18世紀前半のオペラ・セリアを盛り上げた、
この技法の乱用にもかかわらず、
この重要な声楽ジャンルを、
普遍的に非難させるまでにはならなかった。
『打ち上げ花火』のスタイルは、
メジャーなアート・スタイルになり、
その発展と完璧を目指すために、
多くの輝かしい音楽家たちが、
コロラトゥーラを新しい高みに導き、
音楽のための劇の重要な声楽形式の中心となった。
これらの作曲家にとっては、
名技性は、空虚なものではなく、
逆に、ドラマに生気を与える重要な要素となり、
台本作者によって示唆されたテキストから、
作曲家による強調が始まるポイントとなった。
意味のない発展ではなく、この花火は、
声楽のジャンルの典型として美学となり、
ありふれたリアリズムの拒否となった。
これをヴィヴァルディ以上に実践した作曲家はいなかった。」

ということで、さすがヴィヴァルディおたくのデラメアさんである。
コロラトゥーラ芸術の極致に、ヴィヴァルディを置いた。

「ヴィヴァルディは、その音楽キャリアを、
この故郷ヴェネチアの劇場の外から始め、
ピエタ養育院での教育者と、
ヴァイオリンの名手としての二足のわらじを履いた。
しかし、すぐに、器楽曲の作曲家として名をなし、
それから宗教曲に進んだ。
1713年5月(彼の最初のものとされるオペラ
『ヴィラのオットーネ』の初演)以来、
声楽曲は、彼の作品の主たるものとなり、
30年近くにわたり、北イタリアの劇場、
ミラノのレッジオ劇場やフィレンツェのペルゴラ劇場、
ローマのカプラニカ劇場といった最も栄えある劇場から、
パヴィアのオモデオ劇場やアンコナのフェニーチェのような、
地味な舞台までをまわり歩いた。
イタリアの北、プラハ、ハンブルグ、ヴィーンやグラーツや、
はるか遠くのロンドン、キングス・シアター
(ヘンデルの『テーセオ』と『アマディジ』の間で上演)
まで、ヴィヴァルディのオペラや個々のアリアは、
すぐに評価され、同様の成功を収めた。
この長い劇場キャリアは、ヴィヴァルディの死後一年、
1742年の謝肉祭に演じられた
『メッセ―ニアの巫女』の演奏で、頂点に達した。
この二つのランドマークとなる年の間に、
音楽史上、最も傑出したオペラのキャリアにおいて、
ヴィヴァルディは、アレッサンドロ・スカルラッティや、
ラインホルト・カイザーの後を継ぎ、
カルダーラ、ハッセ、ヘンデルに先だって、
最も多産なオペラ作曲家となった。」

ということで、さすがデラメア、
ヴィヴァルディのオペラ作曲家としての活動を、
音楽史上の快挙に位置付けてくれているではないか。

しかも、野垂れ死にしたはずのヴィーンで、
死後に、その名声の頂点を画したというのが、
ものすごい解釈ではなかろうか。
多くの愛好家は、死後、すぐに忘却の淵に沈んだ、
と思っているはずである。

「この重要な作品群で、何が残っているかを調べると、
ヴァイオリンの名手として名声を馳せた
ヴィヴァルディの到達点が分かり、
特にその華々しいスタイルとリンクして、
歌手の声が、あたかも、
人間ヴァイオリン(human violin)として、
声楽作品で扱われているのが分かる。
しかし、この検証によって、
何よりも、彼が、単なる声楽のアクロバットのレベルに、
歌うことを貶めるのを拒絶していたこともわかる。
彼のキャリアの最終段階に至るまで、
彼は並ぶものなき技巧と、
表現の多彩さのせめぎ合いを求めており、
直接的にその協奏曲から霊感を受けた
洗練されたオーケストラのテクスチャーに包み込み、
劇の要求に従うことを保証していた。
ここに聞かれるアリアたちは、
ヴィヴァルディの異なるフェーズや形式の、
声楽花火を表しており、
これは、広い感情の振幅、劇的な状況、
驚くべき多彩さの管弦楽、
調性やテンポを追及したジャンルであった。」

ここからは、個々のアリアの解説となる。

Track1.
「『荒れた海原が』は、オペラ、
『ウティカのカトーネ』(ヴェローナ、1737年)の中で、
メゾ・ソプラノのジョヴァンナ・ガスパリーニが
歌うために書かれたもの。
このヴィヴァルディの高度な名技主義は、
ポンペイウスの未亡人エミーリアが歌うものである。
貴族的で気位が高い彼女は、
カエサルへの復讐方法を考えて、
何ものも彼女の目的を阻むことはできないと言っている。
アリアは、ハ長調、印象的なアレグロ・モルトで、
ここでの花火発射は、ドラマに必要なものである。
声の稲妻は、2オクターブを越えて、
超絶のコロラトゥーラ・パッセージは、
『恐れさせる』という言葉で絶頂に達する。
12小節にわたって二度、転がり回り、
恐怖から決断に至るエミーリアの動揺を、
素晴らしく陰影をつけられた声楽運動が描き出す。」

なるほど、こうやって書かれると、
どれどれ、と聞き返したくなる。

「海原が荒れて岸を打ち付けても無駄なように、
カエサルの誇りも、私を恐れさせることはない」
という前半部分を、
「私をおそれええええええええええさせることはない」
と歌っている感じになる。

直線的な推進力のある楽想のものであるが、
このあたりでは、浮遊が始まり、
大風に翻弄される凧のように空中で激しく旋回する。

Track2.
これは、心ふるわすような繊細な序奏に導かれ、
非常にロマンティックな情感にあふれた、
ゆるやかで静かなアリアで、第1曲と対比をなす。
背景で鳴る撥弦楽器の音色も、得も言われぬ効果を持っている。
「囚人として王として」という題なので、
男性の歌と思われるが、
ひたすら、前半の歌詞が繰り返される。
「囚人としても、王としても、
わが心臓は、まだまだ強く高鳴っておる。」

これが、後半の詩、
「盲目の運命の裏切りによっても、
それを鎮めることはできぬ」となると、
ばーんと爆発して、
花火が上がる構成である。

では、解説にはどう書かれているか。

「より控えめな表現も、
1732年マントヴァでの『セミラーミデ』で、
ゾロアストロの役を受け持ったソプラノ、
テレサ・ザナルディ・ガヴァッツィのために書かれた、
『囚人として王として』にも、
見て取れる。
このデリケートなアリアは、
暴君のニーノに死刑を宣告された王様の、
冷静な熟慮を表している。
予測のつかない運命に思いを巡らし、
ゾロアストロは、理不尽な運命を前にしても、
自分の心臓が動いていることを確信する。
ヴィヴァルディは霊妙なオーケストラの生地に、
声楽を包みこみ、
コンティヌオの調和のない、
単純なバスラインに伴奏された
痛切な弦楽の繰り返しが、
デリケートでほとんど内省的とも言える、
コロラトゥーラのパッセージの連続に添えられ、
この優雅なアリアを政治的な衝突の狭間での、
つかの間の静寂を表している。」

Track3.
これは、再び激烈なもので、
まさしく花火のような序奏、
強烈な焦燥感がこみ上げ、
ヴィヴァルディの協奏曲の特徴がにじみ出る。
そこに、すーっと入って来る声の美しさ。

焦燥感のつのる様子は、この管弦楽が、
活発に、伴奏して苛立たせるからである。
声楽部は、変幻自在の表情を見せながら流れて、
聴くものをどんどん連れ去ってしまう。

アリア集にはよく取り上げられる、
オペラ「忠実なニンファ」からのもので
「残酷な運命に苛まれた魂は」というもの。

「きっと愛が癒してくれるけど、
愛はまた次の苦痛を呼ぶの」
と続く。

解説には何とあるだろうか。
「『苛まれた魂』は、やはり、
『カトーネ』のエミーリア役を演じた5年前、
ジョヴァンナ・ガスパリーニが、
『忠実なニンファ』(1732年ヴェローナ)で、
リコーリ役を歌った時のためのものである。
この強烈なホ短調なアリア・ブラヴーラは、
この中で繊細なリコーリが、
羊飼いのオスミーノの誘惑を軽蔑して歌うもので、
歌手は、狂ったような技巧部と、
活発なオーケストラ書法と激突しなければならない。
田園的な神話の劇的な凝集は、
情け容赦ない曲芸的な歌唱で頂点をなし、
傷ついた処女の憤怒を生き生きと描いている。」

Track4.
これまた、有名なアリア「アジタータ」で、
いかにもジュノーが得意としそうな、
強烈なパッセージが、きらびやかに敷き詰めらた、
しかも、明るい陽光に満ちた名品。

「ぶつかる風に打ち付けられて、
嵐の海の波が揺れる。
恐れた舵手はすでに難破を覚悟する。」

という状況を歌ったものにしては、
あまりに威勢が良いのが気になるが、
覚悟の上の状況ということであろうか。

いつものように、強烈なコロラトゥーラは、
この最初の歌詞の最後で繰り広げられるので、
「難破あああああああ」と言っている感じであろう。

後半は、この船乗りの状況になぞらえて、
「義務と愛に引き裂かれ、心は無抵抗。
降参して、もうだめだ。」
と続く。

解説には、
「打ち上げ花火は、『アジタータ』のドラマでも、
重要な助けになっている。
『グリゼルダ』(1735年ヴェネチア)
のスコアに残っているが、
この変ロ長調のアレグロは、
数か月前の『アデライーデ』(1735年ヴェローナ)のために、
書かれたものである。
これらのオペラは、共に、
ヴィヴァルディが才能を見出して育てた、
傑出した技巧家、
マルガリータ・ジョアコマッツィによって演じられた。
このアリアは、グリゼルダ女王の隠し子、
優しいコンスタンツァが、心理的な緊張の果て、
ターニング・ポイントに達した時のもの。
彼女は、向かい風の中の船乗りのように、
対立する感情にとらわれていた。
ヴィヴァルディは、いささか常套的なメタファーを、
コンスタンツァのジレンマを表すものとして、
魂を与え、目もくらむようなヴォーカルラインで、
その狂気を表している。」

Track5.
ここで、再び、「忠実なニンファ」からのアリア。
長いレチタティーボがついた形での録音。

「敵意に満ちた運命よ、これでも不足なの。
私をもっと苦しめようというの。」
みたいなものが、最初に語られる。

続く、「しみったれた運命よ、
絶え間なく苦い涙を私は流した。
彼女を失ってからは」というアリアは、
かなり絶望的な状況のはずだが、
これまた空元気か、勇ましいような、
焦燥感にあふれたようなもので、
いきなり、技巧的なパッセージが繰り広げられる。

伴奏部は、それほど出しゃばりではないが、
ぎざぎざした楽想が時折、強烈なスパイスを利かす。

「『しみったれた運命』は、
『忠実なニンファ』の中のもので、
カストラートの
ジュゼッペ・ヴァレンティーニのために書かれた。
ヴィヴァルディの表現力のパレットの豊かさを示す。
モラストは、愛するリコーリが、
他の男に抱かれているのを見て、
アリアは、この不幸な男が、
深い絶望に陥るときのもの。」

その割には生気にあふれたものである。
後半は、「その涙を終わることのない川に流し続ける」
とあるが、ほとんど、コロラトゥーラだらけと言ってもよい。
苦しすぎて、もう言葉にならんという感じは出ている。

「ヴィヴァルディは、モラストの苦痛の嘆きを、
驚くべき劇的正確さで描き、
休息で荒々しいオーケストラが合いの手を入れ、
取り乱したコロラトゥーラは一緒になって、
素晴らしく様式化された表現で、
そのみじめさを呼び起こす。」

Track6.
これは未知のオペラからのアリアで、
「私の唇がお世辞を言い」。
清新な息吹が感じられ、
私は、バッハの息子の音楽を思い出した。

伴奏部のギャラントな感じも、
背景に聞こえるぽろぽろ音も、
まことに優雅である。

と書いたら、いきなり、同様のことが書かれていた。

「知られざるオペラのために書かれた
『私の唇がお世辞を言い』は、
ヴィヴァルディの声楽における、
もっとギャラントなアプローチで、
彼の生涯の終わり向けての
時代の精神を反映している。」

ここで、注釈があって、そちらを見ると、
先ほど、「ヴィヴァルディが才能を見出して育てた
傑出した技巧家」とされていた人の名前が出てくる。

「これは、マルガリータ・ジョアコマッツィによって歌われた、
『忠実なロズミーラ』(1738年ヴェネチア)の中の、
『La bella mia nemica(美しい我が敵)』の
オリジナルバージョンである。
このパスティッチョを作る際に、
ヴィヴァルディは、
『私の唇が』のテキストを、
『美しい我が敵』のそれに置き換えた。
この時、ジョアコマッツィが成功したのか、
ヴィヴァルディはさらに次のオペラ、
『アルミーダ』でも、このアリアを使った。
ここでは、オリジナルの意図の歌詞で録音している。」

さて、ここは注釈だったので、
もとの解説に戻ると、
「心地よいメロディラインの
デリケートなアラベスクの中、
魅惑と感情が競い合って、
不運の愛の苦しみを表現する。」

Track7.
じゃんじゃんじゃんという序奏からして、
元気いっぱいのアリアであるが、
スケルツォ的で、しっとりしたところはない。

「剣をちらつかせているが、どちらが深く傷ついているかは、
私はもう知っているのだ」というしゃれた内容である。

これを知ると、まるで、あのロマンティックな、
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」が、
こうしたテンポの舞曲の集合体だということを思い出した。
激しいリズムの中に、焦燥感が盛り上がる。

したがって、解説でも、このアリアは、
Track6のアリアと対比されている。

「もう一つの怒りのアリア、
『剣をちらつかせ』は、これとはコントラストをなして、
好戦的なコロラトゥーラの古典的傾向が探求され、
怒り狂った16分音符が絶え間ない戦闘を表している。」

ここでも、通釈が出る。
「『剣をちらつかせ』は、
ヴィヴァルディの作品でも、
最もミステリアスなもののひとつである。
これは、カルフォルニア大学のバークレイ校に、
他の作曲家も含まれるアリア集の中に、
ヴィヴァルディの『Ipermestra(イペルメストラ)』
の3つの断章と一緒にあるものであるが、
このテキストは1726年に、フィレンツェで、
先のオペラが演奏されたときに、
同時に印刷されたものとは異なる。
しかし、典型的なヴィヴァルディのスタイルの書法で、
いくつかの状況の手がかりからして、
『Ipermestra』の差し替え用アリアであると考えられるが、
すでにリブレットが印刷されてから、
編入されたものと思われる。」

もとに戻って、解説には、
「ここでは劇的な内省などはお呼びでなく、
しかし、スリリングなコロラトゥーラによって、
強調された打ち震えるエネルギーは、
単純にメカニカルな妙義からも遠く離れ、
そこで解放される感情の激変によって、
ドラマを盛り上げる効果を有するものである。」

全編、コロラトゥーラの技法で埋め尽くされ、
凝集したエネルギーの塊のような曲で、
このアルバムは半分まで来た。

今回は、このあたりで終わって、次回、後半を聴くことにしよう。

得られた事:「ヴィヴァルディのオペラ創作30年は、音楽史の中でも特筆すべき快挙であった。」
「ヴィヴァルディの打ち上げ花火は、空虚なものではなく、ドラマに生気を与える重要な要素であり、台本から飛翔して作曲家の創造活動の起点となった。」
by franz310 | 2012-10-07 16:41 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その347

b0083728_2149137.jpg個人的経験:
古代ローマの英雄、
カエサルが登場するので、
もっと聴かれても良いと思われる
ヴィヴァルディのオペラ、
「ウティカのカトーネ」。
前回は、消失したものながら
修復された第1幕に続き、
ヴィヴァルディの真筆である
第2幕を聴いた。
今回は最終幕を聴くことにする。


カトーネとは、カエサルの独裁に反抗した
ローマの元老院議員の名で、
ポエニ戦争の時のカトー(曽祖父に当たる)
と区別するために、
小カトーなどと呼ばれることがある。

この人の胸像であろうか、
DYNAMICレーベルのCDの
解説書の表紙は、極めて頑固そうな親父である。

が、共和主義の最後の擁護者などは、
独裁者にはやられてしまう、
と、思わず嘆息したくなるような、
神経質そうな表情も印象的である。

その意味では、エラートのシモーネ指揮による、
CDの表紙を飾ったルブランの絵画の方が、
やられるにしても、柴田勝家風で、
そこそこは強そうだ。

ウティカは、この人が最後に立てこもった、
アフリカの街の名であって、
結局は、この人はこの地で自害して果てることになる。

共和主義者が、独裁者にやられてしまう筋なので、
ヴェネチア共和国の真ん中で演じられるには、
極めて微妙な意味合いに思われたようで、
作曲家兼興行主はこれをヴェローナで初演した。

ヴィヴァルディが、
この時使った歌手のアンサンブルは、
興味深い組み合わせだったようで、
マルゴワールが指揮した、このオペラのCD解説には、
それが特記されている。

フレデリック・ダラメアという一人者が書いたもので、
「メタスタージオのオペラが、一般的に演奏されているのとは違って」
と書かれており、
ヴィヴァルディの歌手発見の才能を特筆している。

ヘンデルは、クッゾーニ、ストラーダ、
ファブリ、カレスティーニらを発見して、
新星と古参をより取り見取り組み合わせ、
予算内でオペラ興行をしたとある。

つまり、有名どころで固めれば、
ギャラが嵩んでしょうがないが、
ヴィヴァルディもヘンデルも、
積極的に若手を育て、
コストパフォーマンスを高めたのである。

タイトルロール、つまり、小カトー(カトーネ)には、
地元のテノール、チェーザレ・グランディが配された。
あるいは、地元にファンがいて、
成功に寄与したかもしれぬ。

歌手の方も、余所から来た企画に採用されれば、
安い金額で応じたかもしれぬ。

また、カエサル役は、カストラート・ソプラノの、
ロレンツォ・ジラルディが担当したとある。

彼ら二人は、この時しか、
ヴィヴァルディとの仕事はなかったらしい。
ということで、この人たちについては、
状況に応じて、たまたま起用した人事だとわかる。

しかし、もう一人のカストラート・ソプラノ、
(アルバーチェ役か?)若いジャコモ・ザッギーニは、
ヴィヴァルディの、ヴェネチアでの2シーズンに、
引き続き登場したという。

この人は、ブランデンブルク辺境伯のお抱え歌手であった。
それもあってか、ヴィヴァルディも気に入ったのか、
まあ、この場合は、良い出会いでもあったのだろう。

さらに、これらの発掘された3人に対し、
残る3人はもっとも信頼できる歌手で固めた。

フルヴィウスは、コントラルトの、
ヴェネチアから連れて来たエリザベッタ・モーロで、
12年以上も一緒に仕事をした道化役の名手だったとある。

エミーリアのパートは、
同じくらい一緒に仕事をした、
技巧家のジョヴァンナ・ガスパリーニで、
すでにヴェローナでは、
『忠実なニンファ』で仕事を共にしていた。

この人は、これがヴィヴァルディとの仕事が最後になった。
そのため、彼女には、ポンペイウスの妻の役の、
輝かしい役柄を用意した。

哀れなマルツィアには、最高の信頼をおいていた、
アンナ・ジローを配置。
生徒であり、秘書であり、親友であり、女声のアドヴァイザーであった。

このように考えられた配役であったからであろうか、
このオペラは、下記のように、注目すべき成功を収めたようだ。

「1737年の春、ヴェローナで初演された、
『ウティカのカトーネ』は、長く浮沈も激しかった、
ヴィヴァルディのオペラのキャリアにおける、
絶頂を期した。
『カトーネ』は、彼がヴェローナのために書いた、
4番目のもので、ヴィヴァルディ自身が、
1737年3月3日、
ベンティボーリョ侯爵に書いた手紙に読めるように、
素晴らしい成功を収めた。
『神を祝せよ。オペラは賞賛されました』。」


ナポリ派が蹂躙していた、気まぐれなヴェネチアでは、
彼への門戸はほとんど閉じられようとしており、
この大陸部での成功は、例外的なことだったようである。

「彼が1741年に亡くなったヴィーンに旅立つ何年か前から、
赤毛の司祭は、すでにヴェネチアから離れようとしていて、
北イタリア、中央イタリアを、広く活動を広げ、
アンコナ、レッジオ・エミーリア、フェラーラ、フィレンツェ、
マンチュア、パヴィアで、彼の作品は上演されている。」

解説者は、病弱だった彼が、
60歳近くになって、行ったこの行動を、
「驚くべき放浪」と書いている。

「この彼のヴェローナでの最後のシーズンには、
ヴィヴァルディは、自身の詩的、劇場的、哲学的な持ち味から、
遠く離れたリブレットを選ぶ必要があった。
最も有名なイタリアの劇作家であった、
メタスタージオの作品に、
この10年に3度向き合ったが、
この熟達した作曲家―興行主は、
リスクを計算し、うまくいくはずの方法をとった。
『カトーネ』は、ローマで上演されるために、
メタスタージオが1728年に書いたもので、
すでに、ヴィンチやレオ、ハッセらによって作曲されていて、
18世紀イタリアの分裂状態の埋め合わせのように、
ローマの輝かしい過去の歴史にあやかった、
教訓物語であった。
ヴィヴァルディはこれをさらに要約し、
編作し、政治的葛藤や価値観のせめぎ合い、
愛のもつれなどをうまく穏やかな筋にまとめた。
劇的なキャンバスは、心理的な色彩で描かれた。」

ヴィンチやレオ、ハッセは、
ナポリ派の作曲家であって、
ヴェネチアで上演しようとしたのは、
あるいは、ヴィヴァルディが最初だったのだろうか。

とにかく、この物語の内容は、政治色が濃く、
ヴィヴァルディもそれを心配したのであろうことが、
プロットの後の解説に書かれている。

第2、第3幕しか、
ヴィヴァルディのスコアは残っていないが、
特筆しべき作品であることが、
下記のように理由づけされている。

うまい具合に残ったのは、
素晴らしい成熟度を示す、
11のアリアとコーラスで、
これらは、技法的にも成熟し、
ナポリ派の作曲家の語法も、
驚くほど手中に収めているというのである。

「『忠実なニンファ』(1732年ヴェローナ)や、
『バヤゼット』(1735年ヴェローナ)を特徴づけた、
革新性はなりを潜め、
当時好まれた劇形式に収められている。
第3幕の最後に、伴奏つきのものがあるが、基本、
通奏低音のみを伴奏とする簡素なレチタティーボと、
アリアが交互に現れる。
同様に最後に二重唱と合唱が例外的に置かれている。
ただし、この合唱は、
テノール(カトーネ)と、
二人のコントラルト(マルツィアとエミーリア)
三人のソプラノ(カエサルとフルヴィウス、アルバーチェ)が
一緒に歌うだけで、アンサンブルのパッセージはない。」

この解説者は、このオペラの特徴として、
「ヴィヴァルディは、その形式の独創性より、
オーケストレーションの洗練を重視した」としている。

これについては、
「ヴェローナのフィラモーニコ劇場のオーケストラが、
ヴィヴァルディがヴェネチアで扱えたものより、
はるかに大型であった。
ヴィヴァルディは楽器法の大家であったのに、
いつも、ヴェネチアでは、その錬金術を使うのを、
諦めねばならなかったのだが。」
などと書かれている。

その証拠として、街のアーカイブにある資料によると、
1737年のシーズンのフィラモーニコのオーケストラは、
22人以上の器楽奏者を含む常設のものだったことが分かるようだ。
さらに当時の慣習として、エキストラもいたらしい。

「このレポートにふさわしく、
このオペラのスコアは、二つのトランペット、
二つのホルンなどが、一般的なバロック・オーケストラ
(2つのヴァイオリン・パート、ヴィオラと通奏低音)
に加えられて、このオペラの楽器法の壮大さが、
その成功に寄与したものと思わせる。」

なお、この「ウティカのカトーネ」は、
メタスタージオの初期の作品らしく、
下記のような解説がついている。

「1728年謝肉祭の時期に、
ヴィンチが曲をつけて、
ローマのTeatro delle Dameで初演された、
『ウティカのカトーネ』は、
『アルタセルセ』、『オリンピアーデ』、
『デモフォンテ』といった1730年から33年に、
メタスタージオが芸術的成熟を遂げる少し前のものである。
『見捨てられたディドーネ』(1724)や、
『Attilio Regolo』(1740)と共に、
カトーネは、この大詩人が悲劇的フィナーレを置いた、
数少ないメロドラマである。
主人公が舞台上で死んだりしない、
これらの作品とは違って、
カトーネでは、娘の腕で息を引き取る
『舞台上の死』を描いた。
明らかにこれは、18世紀の聴衆には粗野にすぎ、
メタスタージオの見識からもそうだった。
作品への批判によってか、
彼は、マルツィアが父の死を報告するという、
もっと穏当な方法のフィナーレを書き直した。
しかし、メタスタージオはオリジナルの着想も捨てきれず、
1733年に出版社に第二版を送った時、
どちらのフィナーレも出版したいと書いている。
しかし、ヴィヴァルディの場合、
メタスタージオの改定を越えて、
音楽劇の進行を軽快にするべくカットを施し、
決定的なハッピーエンドにしてしまった。
このことは確かに歴史の真実から離れることになったが、
当時の嗜好に沿ったものであった。」

では、ここでプロットを読みながら、
このさまざまな特色を持つ、第三幕を聴いてみよう。

CD2のTrack12.は、シンフォニアから始まる。
1分半程度のものだが、軽やかでありながら、
神妙な面持ちで、羽根のような肌触りで、
荘厳な終幕を予告している。
「イシスの泉の近くの木立の多い場所」とある。

Track13.
「カエサルは小カトー(カトーネ)との和解を、
きっぱりとあきらめ、戦争を仕掛けることを決めた。」
というシーン。

カエサルは、最初から、
「何も起こらなかった。私は十分耐えた」とお怒りだ。

フルヴィウスは、それを呼び止め、
「待ってください。ウティカの門では、
敵が待ち構えています」と忠告するが、
実は、こいつは食わせ物である。

イシスの泉のところに待っている、
フロルスという信頼できる男がいるから、
それに秘密の抜け道を教えてもらえばよいという。

第2場になって、
「いったい何度、運が変わるんだ」と、
オペラではよく出る、
不自然な時間進行に対し、
観客への言い訳をしながら歩いている。

プロットに、「カエサルは最初に、
父親の激怒から逃げ出したマルツィアに会う」とあるように、
「まだ、あなたはウティカにいたの」とマルツィア登場。
「父は殺したいほどだから、
私が逃げても何も言わない」と言っている。

しかし、「お別れよ」と繰り返し、
一緒に行く気はなさそうだ。
彼女は、ただ、どっかに消えて行こうとしている。

Track14.
マルツィアのアリア。
「行くかとどまるか、どうしていいかわからない」
という、刻むようなテンポで、
焦燥感と軽快さを併せ持ったもの。
ヴィヴァルディらしい活発な伴奏も聞きものである。
アリアの後なので、彼女は行ってしまう。

Track15.
カエサル一人。
このトラックは、
「なんてこった」というシーンですぐ終わって、
Track16.
カエサルのアリアが始まる。
「愛のため息に溶け込むのは、
本当に楽しいことだった」と、
失った恋人をしのぶ。

が、かなり軽い曲想で、
軽薄男の口ずさむ小唄といった風情。

Track17.
今度は、エミーリアが、カエサルを待ち構えるシーン。
男たちを引き連れ、隠れる。
カエサルは、ここがイシスの泉だが、
などと言っていると、
送水路からエミーリアが現れ、
「復讐の時」とか言っている。

プロットで、
「カエサルは、次に、罠に誘い込もうとする
エミーリアに会う」とあるところ。
つまり、フルヴィウスは、この人の陰謀に、
カエサルを誘ったというわけだ。

このトラックは長く、
さらに、こんな解説の部分まで行ってしまう。
「ポンペイウスの未亡人のぺてんに乗じて
変装したカトーネが来なかったら、
独裁者は命を失うところだった。」

かっこいい男声が響くので、
この部分はわかりやすい。

が、カトーネは、
誰の陰謀か知らなかったようだ。
「誰がたくらんだ悪事だ。」
「エミーリアだ。」
「エミーリアだって。」
「その通りよ。彼を捕まえたわ。」
などという会話がある。

4分以上もレチタティーボが続き、
どんどん劇は進行する。
ということで、第3幕は、そんなに長くない。

「決闘で、決着をつけようとカトーは提案する」とあって、
男たちが言い合っているが、
カエサルは剣を捨てて逃げていく。

プロットで、
「ローマ人がウティカの城壁を
猛攻しているという急報は、
彼らの戦いを止め、彼らはそれぞれの陣に戻る」
とあるところだ。

エミーリアは、「逃がした」と怒って、
ようやく次のトラックになる。

Track18.
激烈な太鼓連打を伴う序奏に続き、
「森の草地で、最後のライオンが横たわり」
という有名なアリアをエミーリアが歌う。

カンヘミの技巧的な歌が聴けるが、
この難曲では、さすがに、少し苦しそうだ。
それほどまでに、敏捷さと、
跳躍した高音が要求されるもので、
なだらかな中間部も、テンポが激変する。
「致命傷の傷を負って、
死の苦しみに卒倒し、
私は苦しめられる。」

ホルンが吹き鳴らされ、勇壮な音楽であるが、
かくも、内容は悲壮感あふれるものだ。

Track19.
カトーネは、剣を片手に、
「勝利は君のものだ。何と誤った星の運命よ。」
と言っているから、敵が勝ち、決着がついたのであろう。

彼は、「世界はカエサルの意のままになった」、
「すべてのローマの自由は、我と共に滅びん」
と言って、自決しようとするが、
マルツィアとアルバーチェが飛んでくる。

プロットに、
「ウティカの軍勢は打ち破られ、
カトーネの自決は、マルツィアとアルバーチェに止められる」
とある部分。

Track20.
ここからは、解説にもあった二重唱である。
カトーネが、
「私の目の前から消えよ」
「許されると思うな」
と、弾むようなリズムで言うのに対し、
娘は、「o dio!(神様)」と合いの手を入れている。
管弦楽伴奏が生き生きとした伴奏を繰り広げ、
活発で色彩も豊か。非常に効果的である。
かなり不思議な効果がある。

Track21.
カエサルが、「諸君、勝利だ」と言っている。
もう、プロットにも、
「カエサルは勝利したが、カトーネの命は救われる」
とあるだけである。

Track22.
太鼓が打ち鳴らされ、
トランペットも吹き鳴らされる喜びの合唱曲。
粗野な響きが、戦場の生々しさを表しているのだろう。
「愛の炎が明るく勇敢に燃え、
都は喜びで満たされ、平和が戻る。」

何と言うことであろうか。
独裁者が勝利して終わるオペラに、
満場の拍手が沸き起こっている。

このオペラは、初演時から好評だったというが、
ヴェローナの人々は、いったい、
なぜ、こんな内容のものを賞賛したのであろうか。
と、ふと思ってしまう。

ヴィヴァルディがハッピーエンドにしたから、
歌手たちが素晴らしい歌唱を聴かせたから、
オーケストラが雄弁だったから、などなど、
多くの理由は列挙できるだろうが、
ちょっと悩ましいものである。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』は、歌手の選定から慎重を期し、ヴェローナの優秀なオーケストラを前提として、ヴィヴァルディはその色彩の錬金術を自由に駆使できた。」
by franz310 | 2012-09-29 21:50 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その346

b0083728_2138626.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ晩年のオペラ
「ウティカのカトーネ」は、
全三幕中、第1幕が残っておらず、
第2幕、第3幕が残存する。
これらは幸い真筆とされており、
これに第1幕を補筆すれば、
全曲上演が可能となる。
各場面が類型的であるがゆえに、
この演奏では、類似シーンの音楽を、
別の作品から持ち寄って作った。


この補筆も行ったマルゴワールの指揮によるこのCDは、
豪華な衣装での舞台上演の記録のようで、
極めて魅力的な表紙写真が目を引くものである。
オーケストラは
LA GRANDE ECURIE ET LA CHAMBRE DU ROYとある。
ラ・グランド・エキュリ・エ・ラ・シャンブル・デュ・ロワとか、
ラ・グランド・エキュリ&ラ・シャンブル・デュ・ロワとか書かれる。
王室大厩舎・王宮付楽団とも訳されるようだ。
厩舎とは、うまやであるが、うまやでも大厩舎ともなれば、
オーケストラを持つのであろう。

今回は裏表紙を紹介するが、
高位にあると思われるきれいな女性が、
いかにも舞台映えのするしぐさで、
訴えかけるように歌っている。

このエキゾチックな出で立ちは、
本当にローマの時代を再現したものなのだろうか。
なんだか中央アジアの方の色調のような気もするが。

この劇作品で、もっとも、この嘆きにふさわしいのは、
カエサルを愛していながら、父の宿敵として遇するしかない、
小カトー(カトーネ)の娘、マルツィアであるが、
これは、彼女であろうか。
リリアナ・ファラオンというソプラノ歌手が歌う。

今ひとり、このオペラには、
かわいそうな女性が登場するが、
これは、これまたカエサルを恨む、
ポンペイウスの未亡人エミーリアであるが、
これは、どちらかと言うと、
劇の進行をややこしくする脇役であり、
表紙写真を飾るような役柄ではない。

が、この役は、人気のソプラノ歌手、
ヴェロニカ・カンヘミが歌っている。
この人は、カエサルを敵視していて、
カエサルについて歩いている、
フルヴィウスに色仕掛けで、
復讐の手助けを呼びかけている。

したがって、かわいそうではあるが、
あまり、同情を引く役柄ではない。

フルヴィウスは、アルト歌手が受け持ち、
ディアナ・ベルティーニという人が歌っているが、
ややこしいのは、英雄カエサルが男性ソプラノだということ。
Jacek Laszczkowskiという、
どこに母音があるかわからない人。
また、小カトーの盟友のアルバーチェも男性アルトで、
これは人気のジャルスキーが担当。
主人公のカトーネだけが、男らしい声である。
サイモン・エドワーズがかっこいいテノールを聞かせる。

さて、前回は、この補筆された第1幕を、
その出展を学びながら聞いてみたが、
さすが、ヴィヴァルディの音楽を集めただけあって、
かなり、充実した音楽であることが分かった。

が、逆に言えば、シューベルトの例でいえば、
美しい自然の一コマを描いた作品として、
「ます」の詩を、「野ばら」の曲で歌ったようなもの、
という乱暴な置き換えであったような気もしなくはない。

シューベルトとヴィヴァルディでは、
100年の年の隔たりがあるが、
(「カトーネ」が1737年の作品だとすれば、
90年程度の差異しかないのだが)
オペラと歌曲を置き換えて比較するのは、
ちょっと乱暴な例えになるかもしれない。

そもそも、ヴィヴァルディ自身、
自作や他人のヒット作を含めて、
ありとあらゆる手段で新作を成功させる義務を持った、
興行師でもあったのである。

今回は、第2幕を聴いて、さらに、
この古代ローマの激戦を描いた作品を聴き進んでみよう。
ここからは、ヴィヴァルディが書いたとおりの音楽が鳴り響く。

THE PLOTを読みながら聞き進もう。
ここでは、ポンペイウス未亡人のエミーリアと恋仲の、
フルヴィウスがカトーネ(小カトー)に、
カエサルとの面会を願い出るシーンから。

第2幕:
CD1のTrack18.
いきなり、カトーネ(小カトー)は、
娘のマルツィアに、明日は、王子との婚礼だ、
などと言っている。
マルツィアが狼狽していると、
フルヴィウスがやってくる。
「フルヴィウスは、小カトーにカエサルと会うよう求め、
小カトーは、人民の求めにこたえるべし、とした、
ローマの元老院からの説得の手紙を渡した。」
とプロットにあるように、
カトーネが手紙の文面を読み上げる部分がある。
カトーネは、これは、私の知っている元老院ではない、
私と、私についてくるものだけがローマなのだ、
と独裁者の提案を飲むことはない。
「小カトーは、誇り高くそれらを拒絶した。」
とプロットにもある。

その間、アルバーチェは、
マルツィアの顔色が悪いのを案じている。
そして、マルツィアは、それどころではないので、
「どこかに行って、あなたを見ていると痛みが増すの」
などと言ってしまう。

Track19.は、傷心のアルバーチェのアリア。
「羊飼いの真心がないと、
雌羊はきっといつか後悔する」
とかいう感じの、
軽妙な序奏がついた軽い曲。

Track20.
「何という運命でしょう」などと、
マルツィアが言うので、
エミーリアが、
「カエサルは、わたしたちを、どうするでしょう」、
とか言っていると、
カエサルが来て、「小カトーは何を怒っているのだ」
といぶかる。

フルヴィウスは、「小カトーは面会するそうです」と伝える。
カエサルが、「なぜ、彼は態度をすぐに変えた?」
と聞くのも納得だ。
フルヴィウスは、「友人や民衆たちは平和を願って、彼に頼んだ」
と説明している。

プロットに、「友人らや供の者らの強い要望を受け、
小カトーは、独裁者と会うことを受け入れる。」
とある部分であろう。

マルツィアとカエサルの様子にエミーリアは、
「もう疑う余地はない。マルツィアは彼を愛している」
とつぶやいている。
カエサルは、もう一度、和平を申し出てみる、
とマルツィアに言いながら、アリアとなる。

Track21.
非常に精巧で美しいカエサルのアリアである。
「優しいそよ風があなたを抱くとき、
それが熱いため息でできていることを知るでしょう」
という、かなり熱々の感情を込めたものだが、
忍ぶ愛にふさわしく、静かに底流する感情の起伏が胸に迫る。

CD2.
Track1.
プロットに、
「遂に、心の中の問題解決の糸口を見出した
マルツィアはこの決断を喜んで歓迎し、
エミーリアは驚嘆するが、
彼女はマルツィアが動揺するのを見て、
カエサルへの愛情を確信する」とあるが、
このあたりの事であろうか。

エミーリアが、「神様、ありがとう。
マルツィアの胸に再び希望が生まれました。」
というと、
マルツィアは、「そうかもしれない。
戦争のような熱気が収まってみると、
世界全体が優しい平和を求めます」などと返している。

フルヴィウスがやって来て、
エミーリアにもう一度、
平和の使者として来たことを告げる。
恋人としての働きをしないので、
エミーリアはむかついている。
そして、フルヴィウスは、
彼女の気を引くように、
「あなたの許しを求めます。
反逆で殺された、高貴なポンペイウスの魂に、
私が彼の死に復讐しなければ」とか言っている。

Track2.
どどーんと太鼓が鳴って、
勇ましいフルヴィウスのアリア。
ディアナ・ベルティーニが歌うが、
ちょっと、重々しい感じがする。

「至福の休息を破って、
否応なく影が迫る。
休みなく回りは動き始め、
血と復讐に彼は叫ぶ。
でも、優しい。
こうした考えは捨てねばならない。
私は高貴なローマ人ではない。
カエサルをすべての危害から救うことを、
彼女は許さない」と、
自分の意志に関係なく、
風雲急を告げていることを歌い上げる。

Track3.ティンパニの豪快な独奏。
ティンパニ・イントロダクションとある。
Jacques Philidor le cadet(1657-1708)とある。
この人の作品ということか。1分20秒。

これは、英雄カエサルが、遂にカトーネと、
やり合う前奏の役割をはたしている。
この打楽器だけで、
よく、ここまで多彩な音楽を紡ぎ出したものだ。

Track4.
小カトーの館の静かな場所である。
小カトーは、独白で悩んでいる。
「話は聞くが、拒絶するだろう」。

そこにカエサルがやって来て、
世紀の会見が始まるが、
甲高い声で、ヒステリックにちょこまかしゃべるカエサルは、
まさしく、こんな人だったのではないか、
などと感じられる。
カトーの方は、イケメン風のテノールなので、
英雄カエサルは、いかにも三枚目みたいな感じがする。
「この男、変わらないな」と、傍白があるように、
当然、独裁者と共和主義者に折り合う点はない。

プロットにも、
「カエサルは小カトーと面会するが、
帝国の栄光を分かち合うことを、
気休めのように約束することは、
彼の共和主義の規範を破ることだとする。」
とあるとおりである。

さらに、
「カエサルのマルツィアと結婚するという提案も、
小カトーを怒らせるばかりである。」と書かれている。

このあたり、トールバット著の
BBC・ミュージック・ガイド・シリーズの
「ヴィヴァルディ」では、
「民主主義と独裁者の立場で、
それぞれ利害にからんだ2人の男の議論が
たたかわされる第10場には、
現代的な精神がみなぎっている」(為本章子訳)
と紹介されているシーンだ。

ただし、CD解説では、第8場とされている。
5分にわたって、立ったり座ったりしながら、
激しい応酬が聴かれる。

カエサルは、
「世界で激戦した帝国、
我が苦難と汗によって熟した果実を、
あなたが共に平和を守るなら、
これを分けて統治してもよい」と提案するが、
カトーは、
「恥さらしで罪の赤面を、
なぜ、そなたと分けねばならんのだ。
そうした悪事を、
カトーが望むと思ったか?
聴きたくもない」と、
大人げない言葉で返す。

どっちも気違いとしか思えない。

カエサルは、むかついて帰ろうとするが、
そこにマルツィアがやって来て、
父と恋人に、「これが、あなたの平和ですか」、
「これらのため息が、あなたの友情ですか」、
などと勇敢な詰問をする。
「マルツィアは絶望し、むなしく、
二人のローマ人らの平和的和解を模索する。」

小カトーは、「彼からは何も提案はない」といい、
カエサルは、「もう私は十分我慢した」という。
結論は戦争である。

Track5.
カエサルのアリアで、これまた、
傲慢さが突き上げて来るような序奏に続いて、
「戦場で運試しだ」と宣誓され、
英雄カエサルの胸中にこみ上げる、
自信たっぷりの高揚感が味わえる。

Track6.
マルツィアが、「どうなさるおつもり。
私たちの生命は風前の灯です」というと、
カトーは、
「私の命はどうでもよいが、もう平和は終わった。
隠し逃げ道から逃げよ」という。

アルバーチェがやって来て、
戦う時が来たから、
マルツィアと結婚させてくれという。
マルツィアは強烈な拒絶である。
しかも、問い詰められ、カエサルを愛していることまで、
言ってしまい、
カトーは「娘の資格もない、失せろ」と怒る。

プロットに、こうある。
「実際、アルバーチェのしつこい要求に、
彼女は秘密を隠すことができず、
父親やエミーリアにカエサルへの愛を語り、
小カトーは怒り狂う。」

Track7.
小カトーのアリア。
マルツィアを罵り、
エミーリアやアルバーチェに、
こんな事があろうか、と問いかけ、
「この苦悩だけは、私は止めることが出来ない」
と胸をかきむしる。

激烈な序奏から、強烈なアタックが効いて、
素晴らしく英雄的な苦悩のアリア。

ライヴァル、カエサルのアリアとは、
あまりに強烈な対比をなす。

Track8.
絶望したマルツィアは、
アルバーチェやエミーリアに恨み言を言う。

Track9.
しみじみとした情感にあふれるマルツィアのアリア。
シモーネの解説では、このように書かれていた。

「また注目する価値のあるものは、
衝撃的なマルツィアのアリア、
第2幕第9場(12場の誤りか?)の、
『哀れな蔑まされた心』などは、
バッハとヘンデルの中道を行く。」

これは、非常に聞きごたえのあるもので、
バロック時代ならではの低音から積みあがった和声に、
聴く者は、どっぷりと体を埋め込まれてしまう。
先の、カエサルのアリア、カトーネのアリアに続き、
ヴィヴァルディの書法の冴えには、驚嘆すべきものがある。

が、こうした対比の妙は、
メタスタージオの台本からして、
そうなっているのかもしれない。

「すべてが残酷でしかない」と、
抽象的に前半が歌われた後、
中間部では、具体的になって、
父にも疎まれた愛を嘆く。

このアリア、装飾したリフレイン部が、
かなりシモーネ盤とは異なる。
シモーネ盤がダウラントのラクリメのように沈潜し、
マリリン・シュメージによって、
7分12秒もかけて歌われていたのに、
ここでのリリアナ・ファラオンは、
5分55秒で、より明晰にかっちりと歌っている。

「ch'il consoli」と歌われているところなどは、
「きーみのそーら」と歌っているのかと思って、
思わず、歌詞とにらめっこしたくらいである。

実際、ここなだらかな曲は、
技巧勝負の音楽ではなく、
味わいで聞かせるものなので、
(アンナ・ジローのための曲と言われる)
日本のポピュラー音楽に編曲しても、
歌えてヒットしそうな感じがする。

Track10.
エミーリアとアルバーチェ、
アルバーチェは「真実の愛だったのに、
もっとも不幸になった」と嘆き、
エミーリアは、より現実的に、
どっちに付くか悩み始める。

Track11.
超絶技巧を駆使した、
エミーリアのいくぶん軽薄なアリア
「海辺を襲う荒れ狂った海のように、
運命が私を打ち付ける」
で、この幕は閉じられる。

活発な伴奏は、冴えたヴィヴァルディの、
エネルギーが横溢し、
カンヘミの歌うソプラノが、
明るく、大空を飛翔する。

この女性歌手によるアリアの連鎖も、
すばらしくスパイシーな対比が味わえる。
マルツィアは悲痛に沈み、
エミーリアは、同様に切羽詰った状況ながら、
やけっぱちのような縦横無尽を見せる。

そういえば、このような対比について、
かつて、「バヤゼット」の解説に、
「ナポリ派風の音楽は悪役に使った」という、
説があることが書かれていた。

まさに、このことは、ここでも言えるかもしれない。
確かに、ナポリ派というより、
スペイン派と呼べば、
「独裁王国スペイン」対「共和国ヴェネチア」
の戦いの物語とも考えられる。
ひょっとすると、今回の文脈からすると、
ヴィヴァルディにとって、ナポリ派とは、
カエサル同様、帝国主義の象徴だったのかもしれない。

しかし、カンヘミの歌唱、
さすがに人気のある歌手だけある。
シモーネの盤では、
マルガリータ・ツィンマーマンという、
メゾ・ソプラノが担当していたが、
やはり、声の質から言っても、
技巧の冴えから言っても、
カンヘミの飛翔の自由さには及ばない。

シモーネの指揮も、歌手の実力を考慮して、
手心を加えているのであろう。
やや、鈍重な印象を残す。

マルゴワールは、その点、歌手を信頼しきって、
思い切ったことが出来た、と言う感じであろうか。

以上で第2幕は終わり。
今回は、このくらいにしておく。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』第2幕は、民主主義と独裁者の直接対決が描かれるが、自画自賛の独裁者の方が歌ものびやかで幸せそうである。これは、ナポリ派風の技法を駆使しているとも思われる。」
「ヴィヴァルディにとっては、ナポリ派=独裁という構図だった可能性がある。」
by franz310 | 2012-09-22 21:39 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その345

b0083728_22124419.jpg個人的経験:
「ウティカのカトーネ」は、
第1幕の楽譜が散逸したオペラで、
第2、第3幕のみが、
ヴィヴァルディの作品として、
認められ、この部分を飛ばして
クラウディオ・シモーネなどは
録音していた(1986年)。
しかし、研究が進んだのか、
今世紀に入ってからは、
第1幕を修復する試みも出た。


イタリアのDYNAMICレーベルから、
2001年、フランスのTourcoingで、
上演されたものが、
「ジャン・クロード・マルゴワールによって、
第1幕が修復された完全版レコーディング」
と題されて、
また、「3幕版による完全録音」などと書かれて発売されている。

マルゴワール自身が指揮を執っているばかりか、
カンヘミやジャルスキーなど、
歌い手にも人気者がそろっている。

かなりゴージャスな上演であったであろうことが、
この表紙写真でも伺える。
兵士が立ち並ぶ前に、身分の高そうな女性が立ち、
これまた、尊大そうな男性に向かって、
昂然とした態度を見せている。

CD1のTrack1~3.
音楽は、力強い推進力を持った、
ホルンの重奏も勇壮な序曲から始まるが、
これ一つとっても出所が気になるではないか。

第2楽章には物憂げな、
内省的な表情を見せる部分もはさみ、
終曲は、さらに典雅な味わいを深めた
明るい舞曲で、そこそこ聴きごたえがある。

解説は、フレデリック・デラメアが書いているが、
「『ウティカのカトーネ』のスコアには、
導入のシンフォニアがないが、
事実、ヴィヴァルディが、ヴェローナでの上演の際に、
特にそれを書いたかのか、
(そうだとすると、第1幕と一緒に消失)、
当時の習慣によって、
すでに書いたほかの曲を流用したのか、
我々にはわからない。
この録音では、RV135の
ヘ長調のシンフォニアを使った。
これは、ザクセンのヴァイオリニスト、
ゲオルグ・ピゼンデルが、
手稿パート譜のコピーを持っていた、
弦楽と2つのホルンのための
輝かしいオペラ用シンフォニアを使った。」

以下、第1幕であるが、
以下のようなことが起こるらしい。
Stefano Olcese
が書いたプロットには、こうある。

「アフリカの都市、ウティカは、
カエサルに反抗する共和主義者の最後の拠点である。
カエサルは、ポンペイウスとの戦いの勝利の後、
ローマの政治的、軍事的権力を手中にし、
元老院議員小カトー(カトーネ)と、
小カトーの娘、マルツィアを愛するヌミディアの王子、
アルバーチェらが、最後の激しい抵抗勢力となった。」

このようにあるように、
Track4からは、この抵抗勢力の様子が描かれる。
まず、沈鬱なレチタティーヴォで、
マルティアが、父、小カトー(カトーネ)
の落ち込み様を心配している。
マルツィアは、リアンナ・ファラオンという
ソプラノが受け持っている。

それに対して、「なぜ、陛下はこのように黙り込んでいるのか」
と甲高い声で続けるのは、アルバーチェで、
フィリップ・ジャルスキーが担当。

カトーの声は、サイモン・エドワーズの、
かっこよいテノールで、さすが主役である。

「シーザーの攻囲は狭まり、我々の兵力は乏しい」
と、いかにもやばい状況である。

和平か戦闘かを問う局面。

Track5.
カトーネのアリアで、
勇敢に、いかに死ぬかを見せつける、
自分の心意気を示すものだが、
明るい木管の響きも軽やかなもの。
中間部では、少し、陰影を深くして印象的。

「このオペラの最初のアリアは、
カトーが改めて決意表明するもので、
メタスタージオはここで愛国的傾向を示す。
多くの場合、ヴィヴァルディは、
オペラの最初は、
深い声の輝かしいアリアを好んだから、
レオナルド・ヴィンチのように、
偉大なブラヴーラのアリアを書いたに相違ない。
(彼の同じ曲への付曲は、トランペットの助奏を持ち、
ロンドンに手稿がある。)
カエサルのライヴァルである、
底知れず誇り高い人格を描くために、
1738年にフェラーラでの
『ファルナーチェ』再演のために、
ヴィヴァルディが書いた、
『Non Trema senza stella』
を利用した。」
とある。

Track6.
アリアの後は歌手は立ち去るので、
マルツィアとアルバーチェのレチタティーヴォ。

プロットに、
「小カトーは、アルバーチェに、
マルツィアを与えることを約束しているが、
マルツィアは密かにカエサルを愛しているので、
王子を愛することが出来ない」とある部分。

が、彼女は、
「もう何度も言いましたわ。
アルバーチェ様は私の愛をご存じのはず。
どなたも、その思いを、他の者に対し、
上手に隠すことはできません。」
などと言ってそらとぼけている。

Track7.マルツィアのアリアで、
「それは馬鹿げた恋人たち、
彼らの情熱を隠して、
急に青ざめたり、赤らめたりして、
すぐにばれてしまうのに。」

かわいい小唄風のもので、軽い感じ。
リリアナ・ファラオンの子供っぽい声にあっている。
ネットで画像検索してもかわいい感じ。

前回、この役柄は、ヴィヴァルディが信頼していた、
アンナ・ジローのためのものとあったが、
このアリアについては、それを考慮して、
「Rosmira fedele」
というオペラのものを拝借したという。

「ロスミラのアリアは、
カトーネからの流用が多いとされているので、
この修復でもそれを考慮した」とある。

「アリアの第1部は、ため息は、
テンポと拍子のぶっきらぼうなシフトで、
第2部の劇的な部分につながるが、
マルツィアが持つ、恐ろしい誘惑の力を、
かすかに暗示しているようである」
とあるが、蠱惑的な歌と言えるかもしれない。

Track8.
これまたアリアでマルツィアが去るので、
アルバーチェ一人のモノローグである。
「いったい、私は何を約束したのだろう」
などと悩ましい。

Track9.
当然のように、ややこしい状況に、感情は爆発。
ジャルスキーが歌う、アルバーチェのアリア。

「傷ついた魂にとって、
何という無慈悲な法則、残酷な運命。」

傷ついた心情にふさわしいギザギザした音楽で、
伴奏もおどろおどろしい。
解説にも、
「力強いホ短調で、悲痛さを素晴らしく表したもの」
とされている。

「このアリアは、メタスタージオのリブレットでは、
第3場のために用意したが、
ヴィヴァルディは第1幕終結に利用した。
明らかに、『グリセルダ』(1735)の中で、
アテネの王子、ロベルトが、
王女コンスタンツァに、黙って去ってほしいと言われる時の
彼の戸惑いを表す悲痛なアリア
『Che legge tiranna』を借用した。
したがって、当然、この修復でもこれを利用した」
とある。

「オーケストラの序奏なしに始まり、
荒々しい叫び声が、
コンティヌオ付の弦楽のユニゾンで補助され、
典型的なヴェネチア風書法で、おおげさである。」

Track10.
カトーネのところに、
フルヴィウスがカエサルを連れてきたシーンであろう。
「カエサルは100の大隊がありながら、
私は一人丸腰でここに来た」と言って、
「カトーネの徳を賞賛しているからだ」、
「ローマの父と、多くの人々から崇められているあなたを。」
と言う。

が、カエサルはカウンターテナーで歌われているので、
なんだかヘンテコな感じである。
Jacek Laszczkowskiが担当。

カエサルを連れてきたフルヴィウスも、
元老院から遣わされて来たが、
戦争をやめるように、と言う。
このフルヴィウスも女声(アルト)で、
ダイアナ・ベルティーニが担当。

すると、エミーリアが現れ、
これまた、女声(ソプラノのカンヘミ)で、
「何という光景でしょう」と大騒ぎを始める。

プロットに、
「カエサルはカトーネを訪れ、
和平を提案するが、
彼女の夫を死に至らしめたローマの首領を見るや、
ポンペイウスの未亡人エミーリアは、
たちまち罵声を浴びせかける。」
とある部分である。

最初の緊迫したシーンと言えよう。
カエサルは、「あなたが怒っているとすれば、
それは正しいことではない」などとつっけんどんである。

カトーネは、時間を与えるから決意せよ、
と出て行ってしまう。
「スキピオの娘、ポンペイウスの妻として
その怒りから冷静になるように」と忠告する。

Track11.
カエサルは、ここで焦燥感に満ちたアリアを歌う。

が、これは、非常に暗い情念に満ち、
耳にこびりつく印象的な音楽である。
これは、バヤゼットでも使われたものではなかったか。

「ローマの首領の複雑な気持ちを表現して、
カエサルの最初のアリアは、
2つの部分が別々に扱われる、
一般のものとは異なり、
破格の詩的な構成をとっている。
この特徴は、アリアの場所や慣習を破る形式から、
1732年マンチュアで初演された
『セミラーミデ』のアリアを使った。
このオペラのスコアは、
ドレスデン州立図書館に、
6つのアリアのみが残されていたものである。
ここでは、『セミラーミデ』の、
第2幕を閉めるアリア、
『Vincero l‘aspro mio fato』
を使ったが、
これは、たぶん、1735年、
ヴェローナで『アデライーデ』でも流用されている。
ヴィヴァルディが成熟したオペラを書くようになってから、
3回しか使わなかった
暗いヘ短調を使っていることや、
『ジェスト・エ・アンダンテ』のモデラートのテンポ、
例外的なオーケストレーションで独創的である。」

Track12.
エミーリアとフルヴィウスという恋人たち二人が残る。
当然、エミーリアは、なぜ、敵である男につき従っているか、
と言う。
「ローマの特使であり、
カエサルの追随者であるフルヴィウスは、
エミーリアと恋仲であり、
愛情と、政治的な状況に引き裂かれる」
とプロットにある。

Track13.
フルヴィウスの活発なアリアで、
この苦境を感じさせないもの。
技巧を凝らし、高く舞い上がるもので、
ヴィヴァルディ的であると共に、
ナポリ派的な装飾や陰影に満ちている。

「エミーリアへの約束を宣言するもので、
これは演劇的なだましであり、
フィレンツェのためにヴィヴァルディが前年に書いた、
しかし、同様に失われたオペラ『ジネウラ』の
『Neghittosi, or voi,che fate』
が、持ってこられて使われたに違いない。
ポリネッソに裏切られたダリンダの怒りを表す、
劇的な状況のものだったが、
フルヴィウスの騙す気持ちをいささかも感じさせず、
ヴィヴァルディはフルヴィウスの狂乱のアリアに仕立て上げた。」

もともと、ヴィヴァルディは、
このアリアを借用したというのだろうが、
その元がなくなっているので、
今回のものは、どこから持ってきたのであろうか。

「今回の再構成では、
ヴィヴァルディが『セミラーミデ』のために書き、
1735年、『バヤゼット』の中で、
ヴェローナで取り上げた
生き生きとしたテンポの
壮大な嵐のイ長調のアリアを利用した。
それほど輝かしくはないが、
外面的なもので、
フルヴィウスの思いと状況の差異を際立たせる」
などと書いてある。

これまた「セミラーミデ」の有効利用である。

壮大とあるが4分程度であり、
「私の怒りは、不正な男の頭を稲妻で打つだろう」
という、威勢の良い内容である。
ディアナ・ベルティーニは、
きりきり舞いさせられそうなアリアを、
高い集中力で、いくぶん苦しそうに歌いきっているが、
これはいかにも、難しそうな音楽である。

Track14.
エミーリア一人である。
「馬鹿げた愛で、私が苦しみ、
私がなお生きていたとしても、
愛する夫よ、私の復讐のために許して。」
と、彼女もまたフルヴィウスを騙している様子。

Track15.
エミーリアのアリアであり、
これは、いかにもヴィヴァルディ的に繊細な、
詩的な空気感の漲ったもので、
リコーダーの助奏が美しい。

「星に抱かれ、レーテの船着き場で、
間違えないで、私を待っていて。」
という内容。

「メタスタージオの書いたリブレットの傑作で、
ポンペイウスへの変わらぬ愛情と思いやり、
それと、同時にカエサルへの憎しみの叫びの、
著しいテーマ上のコントラストをなす。」
とあるが、激しい部分は、かなり地味な感じ。

歌詞も、そんな感じで、
「その前にあなたに対して武装した
暴君に対して立ちはだかる必要があります」
みたいに、激烈ではない。

「うまい具合に、ドレスデンの州立図書館には、
1726年の謝肉祭にヴェネチアでヴィヴァルディが上演した、
『La fede tradita e vendicata』
から、『Sin nel placido soggiorno』
という単品のアリアがあって、
特徴からして、これが部分的に代用可能であった。」

Track16.
カトーネの居城近くの庭園で、
カエサルとフルヴィウスが語らうシーンである。

このあたり、男性ソプラノ(カエサル)と、
アルト(フルヴィウス)の声の感じの関係が混乱する。
声が高い方が女性だと思うのが普通だが、
どっちがどっちかわからなくなるし、
演じられている役柄は男性なので、
ややこしくて仕方がない。

「かくも、エミーリアは、
あえて君を裏切るように誘惑しているが、
君の愛情を占めようとしているようだが。」
とカエサルが問うと、
「いかに私が彼女を愛そうが、
私が求めるのは名誉です。」
とフルヴィウスが答えている。

ここで、フルヴィウスの代わりに、
カエサルとマルツィアのシーンになるが、
マルツィアの声はいかにも女性の声なので、
悩ましいことはない。

この二人の関係はややこしそうだ。

「あら、あなたはだあれ?」などと、
マルツィアはしらばっくれている。

「カエサルなら知っているわ。
天が二人を分けるまでは、
彼は私の愛しい人だった。」

カエサルは和平のために来たというと、
「これこそ、私のカエサルだわ」などと、
現金この上ない反応である。
「カトーネも愛してね」などと、
父親との和睦をそそのかす。

プロットに、
「マルツィアはカエサルと会うが、
父親との和平を、自身の愛との交換条件にする。」
とある部分である。

Track17.は、カエサルのアリアで、
「目を開いて、変わらぬ愛を見ておくれ」
という、愛情に満ちた素晴らしいものだ。

序奏部のオーケストラの渦巻くような効果も、
非常に胸を躍らせるもの。

歌っているラシュコフスキをネット検索すると、
もう若くはなさそうだが、イケメンで、
カエサルの役柄に合っていそうである。

「ヴィヴァルディがもともと『ジネウラ』のために書き、
カトーネの2年後、
フェラーラで『ペルシャ王シロエ』で使ったものだが、
いずれの版も伝わっていない。
不安や恐れも感じられるが、
感動的で情熱的な宣言。
この悲劇的状況で、弱々しい愛の歌は、
『ジネウラ』では、侍女のダリンダが、
悪名高いアルバニー公ポリネッサに、
心を向けてほしいと歌うもの。
こうした状況から、『セミラーミデ』から、
同様の主題のものを選んだ。
これはおそらく、ヴェローナで『バヤゼット』で利用、
その前には、
『モンテズマ』(1733年ヴェネチア)の、
第1幕の終結で使われたものである。
『セミラーミデ』では、アラビア王オロンテの歌になっていて、
同様に愛が政治で邪魔される劇的シーンで歌われる。」

劇的とあるが、ひたすら繊細に美しい音楽に聞こえる。
こういう音楽があるから、ヴィヴァルディ鑑賞はやめられない、
という感じがするものだ。

以上聞いて来た様に、どのアリアも、
類型的なシーンを参考に再構成されている。
かろうじてアリアだけ残った、
『セミラーミデ』からの流用が多い。
あと一曲、同様にドレスデンから出て来たものがあり、
この貴重なドレスデン資料で、
何とか7曲中の4曲が修復された。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』第1幕は、場面の状況に従って修復されて録音されている。オペラには、さまざまな題材があれど、愛と義務の狭間に苦しんだり、隠された本心を歌ったり、怒り狂って訴えたりといった音楽は必ず出てくるということか。」
by franz310 | 2012-09-16 22:15 | 古典