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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その152

b0083728_1330555.jpg個人的経験:
多少世代が違うとは言え、
ベルリンとヴィーンで活躍した、
二人のコンサートマスターの
経歴を読んでいると、
妙に懐かしい名前が登場して、
改めて、そうした人たちについて、
聞き直してみたくなってしまった。
国も世代も違うが、
その名前は、
かなり紛らわしい二人である。


まず、ベルリンのコンサートマスターだった、
シュヴァルベの関係者として登場したのが、
ベルンハルト・パウムガルトナーである。

「1960年代初頭、シュヴァルベは、
ザルツブルク・モーツァルテウムの、国際サマーアカデミーの、
客員教授となり、彼はザルツブルク音楽祭に何度も登場し、
ベルンハルト・パウムガルトナー指揮のカメラータ・アカデミカと、
モーツァルトの協奏曲のいくつかを共演したりした。」
と、シュヴァルベの略伝にあった。

このパウムガルトナー、グリュミオーやハスキルの伴奏をしていた指揮者、
という印象ばかりが残っており、どんな経歴の人だったのかは、
あまり考えたことがなかった。

そもそも、シューベルトに五重奏曲「ます」を依頼したのが、
パウムガルトナー氏であったが、この人とは関係があるのかないのか。

有り難い事に、例のオルフェオのライブ・シリーズのCDで、
この人のことはよく知ることが出来る。

一見して心そそられるのは、パウムガルトナーの情熱的な指揮姿に、
名ピアニストのクララ・ハスキルと、ゲザ・アンダが並べられた、
表紙写真である。
演目に、モーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲」が含まれているのだ。
この典雅極まりない名曲を、この往年の大家たちが、
どのように繰り広げるのかが、まず、興味の中心となろう。

また、よく見ると、ソプラノのエリカ・ケートの名前も見える。
つまり、この協奏曲の他に、コンサート・アリアが2曲歌われている。

1957年のライブというが、何と豪華な演目であろうか。
とはいえ、最後の曲は、何と、初期、K112のヘ長調交響曲。
私も、まったくどんな曲か、途方に暮れるエンディングである。

b0083728_13304444.jpg先のグリュミオー、
ハスキルのLPが
そうであったように、
パウムガルトナーは、
ここでもやはり、
モーツァルトの大家であって、
さらに言えば、
ここでの解説を見る限り、
現代モーツァルト解釈の
原点になったような人、
とも言えるようだ。


ちょっと、ここで、前回紹介した、シュナイダーハンの、
1952年のモーツァルトと、このパウムガルトナーとグリュミオーの、
1954年の同じ曲を聞き比べてみよう。
何と、オーケストラは一緒で、ヴィーン交響楽団である。

グリュミオーの演奏は、恐ろしく冴え渡る美音を武器に、
歌うところは思いっきり歌を伸ばして協調し、
小気味のよく早くパッセージをきらめかせ、
官能に直接、迫るものである。
そこに、パウムガルトナーが便乗し、
いかにも意味ありげな音色やテンポの変化を与えていく。
伴奏でありながら、息づくような愉悦感を振りまいている。

一方、シュナイダーハンは、
果たして、そのような官能性や愉悦感に興味を持っていたかは疑問である。
名技性を誇示すべきカデンツァでも、妙に、神妙な面持ちなのだ。
これはこれで、非常に爽やかできまじめな好青年のモーツァルトである。
美音をあえて伸ばして強調せず、きりっと引き締めながら進む。
この時、彼はヴィーン・フィルのコンサートマスターを辞めて、
独奏者になる決意をして3年の後、しかし、まだ37歳の若さであった。

まだ40歳だった、ライトナーの指揮ぶりにも、同様の傾向が伺える。
愉悦感よりも、希望を胸にして前進する様子に重点が置かれている。

グリュミオーは、カデンツァともなると、完全に忘我の境地になっている。
しかし、パウムガルトナーはそれをウェルカムとし、
そう来るならば、こう返すといった、丁々発止のオーケストラドライブ。
グリュミオーは1921年生まれなので、33歳の記録である。
パウムガルトナーは、67歳。

さて、こんなパウムガルトナーが、
シェフを務める演奏会の記録はいったいどんなものだったのだろうか。

このように喜び勇んで書き始めたものの、
ミシェル・シュヴァルベが関与する前の記録かもしれない。

中川右介著「カラヤン帝国興亡史」には、
フルトヴェングラーが、自分が生きている間は、
カラヤンにザルツブルク音楽祭を振らせないようにしたという話や、
54年にフルトヴェングラーが死んで、55年から早速、
カラヤンと音楽祭の間に、交渉が始まった話などが出ていた。

その結果、何とカラヤンは、
57年からは音楽祭の全権を掌握したという話が出ているから、
あるいは、このコンサートがあった時、ベルリン・フィルは、
この地にいたのかもしれない。

先の著書では、カラヤンがベルリン・フィルと、
この音楽祭のメインになってしまったので、
モーツァルトの祭典の意味が薄れてしまった、
という記述もあった。

まさしくそうした転換期の記録なのだが、
パウムガルトナーのマチネーの音からは、
そうした影響があったようには聞こえない。

何と、パウムガルトナーは、カラヤンの恩師にあたる、
というので、ここだけは聖域であったのかもしれない。

解説を読み進めよう。Gottfried Krausという人が書いている。
「What Bernhard Paumgartoner Achieved for Mozart」
という題名のものである。

「1920年の夏、ザルツブルク・カテドラルの前で、
『イエーダーマン』が最初に鳴り響いた時、
ベルンハルト・パウムガルトナーは、まだ33歳になっていなかった。」
ということで、1887年頃の生まれだということが分かる。

「1960年からは、パウムガルトナーはザルツブルク音楽祭の監督となり、
1971年7月27日、音楽祭が50周年を迎えた翌年に、
84歳でなくなっている。
彼は、指揮者の中で、第1にランクされるような人ではなかったが、
いや、それ故にか、この音楽祭で育っただけでなく、
この音楽祭の発展に寄与した。
しかし、パウムガルトナーは、非常に複雑な芸術肌の人物で、
その影響と輝きを簡単に分類できるようなものではない。
彼は根っからの音楽家であったが、実際はそれ以上の存在だった。
彼の受けた広範な教育もあって、
その関心は、音楽に留まらず、美術、文学、歴史にまで及んだ。
モーツァルト、シューベルト、バッハに関する本、
そしてザルツブルクの町に関する著述、
音楽祭を中心とした非常に興味深いメモワールなど、
今でも十分、読むに足る内容となっている。
1917年、この作曲家にして、ピアニスト、指揮者は、
ヴィーンの芸術を愛好する家庭に生まれ、
モーツァルテウムの校長に招かれた。
彼はブルーノ・ワルターの門下であり、法学博士の学位も得ていた。」

私は、少々、頭の中が混乱するような感じがする。
というのは、ベルリンのシュヴァルベの経歴で出て来た人が、
この、ヴィーン生まれのワルターの弟子だったという点である。

「ザルツブルクは彼の第2の故郷となったのみならず、運命ともなった。
パウムガルトナーは、この町を、おそらく『よそ者』の愛し方で愛した。
彼は、知る人ぞ知るザルツブルクの歴史を知っており、
その町の美しさを賛嘆して飽くことを知らなかった。
この流れの中で、彼はモーツァルトと特別な関係を形成していく。
モーツァルトの音楽才能が育まれた文化的背景を熟知していた。
レオポルド・モーツァルトや、
ザルツブルクの宮廷音楽の環境についての研究に没頭しただけでなく、
所謂、フィレンツェ追放の時期(1938-1945)には、
17世紀、18世紀のイタリア音楽を、極めて詳細に研究していた。」

恐ろしいおっさんである。
言うまでもなく、ナチスの時代であるが、50歳を過ぎてなお、
この苦境を研究で乗り切ったというのだから、もはや、鬼である。
このように、パウムガルトナーは、国際的な視野でモーツァルト理解を深め、
ハスキルやグリュミオーのような独墺系以外の演奏者との交流を深めたのか。

「このように、パウムガルトナーは、
それまでよく研究されていなかったモーツァルト初期作品の、
様式や音楽的なルーツ研究のパイオニアの一人となった。
そして、彼は、それ以前の音楽家たちとモーツァルトを隔てるものを、
どのように引き出すかを心得ていた。
ベルンハルト・パウムガルトナーは、ごく初期から音楽祭に関与しており、
Einar Nilsonによる『イエーダーマン』の音楽を編曲し、指揮し、
2年目からは、1番の目玉、マックス・ラインハルトの
『イエーダーマン』の他に、モーツァルトをも出し物にした。
1921年の夏からは、4回のオーケストラ演奏会、
3回の室内楽演奏会、そして1回のセレナード演奏会が、
モーツァルテウムのイベントとして公表された。
これらは特にモーツァルトに捧げられ、ヴィーン国立歌劇場や、
モーツァルテウムのオーケストラのメンバーを、
パウムガルトナーが組織したアンサンブルによって演奏された。
パウムガルトナーは2つのオーケストラ演奏会、
室内楽演奏会を一つ、セレナードと、
カテドラルにおける『レクィエム』の演奏を受け持った。
パウムガルトナーは、マチネーにおいて、
その広範な知識をモーツァルトの作品演奏に利用、
当時のどの音楽家よりもモーツァルト需要に寄与したのである。
しばらくの間、音楽祭は、パウムガルトナーの、
思うようにならなかった時期がある。
1922年にリヒャルト・シュトラウスが、ザルツブルクで、
国立歌劇場でオペラを指揮、そしてヴィーン・フィルと演奏会を開き、
こうなると、単なる『地方行事』ではなくなってしまった。
このようにして、この後数年は、ザルツブルク音楽祭は、
演劇とオペラの他は、当時の大物たち、
つまり、シュトラウス、フランツ・シャルク、
ワルター、クレメンス・クラウスらによるヴィーン・フィルの演奏会、
または、ヴィーンから来たアンサンブルや独奏者による、
室内楽演奏会ばかりになり、モーツァルトもまた、
めったに演奏されなくなってしまった。
1927年に、パウムガルトナーは、
それまで演奏されなかった、『グラン・パルティータK361』を含む、
モーツァルトの大作を独自にプログラムした、
ヴィーン・フィルによる、
7つのセレナード・チクルスを演目に加えるのに成功した。
その後の年も、ワルターやトスカニーニの年でクライマックスを築く、
音楽祭の中にあって、これらのセレナードは、
引き続き、パウムガルトナーの手によって演奏された。」

ザルツブルクだから、当然、モーツァルトが演奏されて来たと思うと、
どうやら、大間違いだったようだ。
言うなれば、パウムガルトナーのような人の努力によって、
モーツァルトの町としての真価を得たとも言えるようである。

「オーストリアの政局の変化がこれに終止符を打ち、
パウムガルトナーはザルツブルクからフィレンツェに逃れた。
1945年、わずか数週間前に戦火が収まったばかりの時期に、
この精力的な指揮者は、ザルツブルクに戻り、戦後最初の夏に、
即席メンバーで、オーケストラコンサートを一つ、
そして、3つのセレナードの夕べを開催した。
1946年、ザルツブルクならではの、
モーツァルトのセレナーデ演奏会の新演出実現模索を始めた音楽祭と同様、
モーツァルテウムもまた、パウムガルトナーを先頭にして再建された。
1949年、二つのマチネーが加わり、
ここでまた、パウムガルトナーは、
モーツァルトの知られざる初期作品と、有名な協奏曲に、
素晴らしい声のための声楽作品を、
組み合わせたプログラムの新基軸を打出した。
パウムガルトナーは、上手に名手たちと契約するコツを心得ており、
1949年には、偉大なベルギーのヴァイオリニストグリュミオーや、
1950年には、ハスキルが『ジュノーム協奏曲』を演奏し、
1952年には、センセーショナルな音楽祭デビューに続き、
アンダが、『変ホ長調』の協奏曲を演奏している。
ハスキルとアンダは、以来、ほとんど毎夏登場し、
遂にパウムガルトナーは1957年、
素晴らしい『二台のピアノのための協奏曲』で、
ここに記録された、名手二人による共演を実現させた。
音楽祭で、彼女はこの年、リサイタルを開いたのみで、
病気と死のため、二度と来ることはなかった。
彼女は、1960年、65歳で世を去ったので、
これが最後の共演となってしまった。
一方、ゲザ・アンダもまた、マチネー、オーケストラコンサート、
リサイタルを通じ、音楽祭の常連スターであったが、
1975年の悲劇的な病気によって、早すぎる死を迎えた。」

ということで、一期一会の素晴らしい音楽会だったようで、
この日の聴衆が大変、うらやましい。

「ベルンハルト・パウムガルトナーは、1952年に、
彼のマチネーやその他の目的のために、
モーツァルテウムの教授や生徒を集め、
カメラータ・アカデミカを創設した。
楽器や編成の点で歴史的、オーセンティックとは別観点で、
マチネーや室内楽演奏会のプログラム用に、
理想的に最適化されたアンサンブルであった。
そうしたものが、世間一般の流行になるずっと昔のことである。
世界中の音楽愛好家たちは、この音楽祭やその放送を通じて、
ザルツブルク時代の、数多くの喜遊曲、カッサシオン、セレナードや、
同様に初期の交響曲、素晴らしい協奏曲、アリアの宝庫など、
モーツァルトの音楽の豊かさを知った。
モーツァルトが若い頃から、素晴らしく独創的な劇作家であることも、
他の人が初期オペラの上演を考える前に、すでに多くの人が知っていた。」

以上で、パウムガルトナーと音楽祭の一般論の話は終わり、
これらの録音がどのように残されたかが書かれている。
「ザルツブルク放送の音楽祭アーカイブに、
多くのこれらコンサートの記録は保存されており、
パウムガルトナーが、後に有名になる
歌手や奏者とコラボレーションしたドキュメントとなっている。
現在の耳からすれば、これらのすべてが、
技術的に満足できるものというわけではないが、
パウムガルトナーが第1に求めたのは、技術的な完成度ではなく、
表現力や正しいスタイル、音楽内部のプロポーションであった。
彼はまた、その知識や理解、情熱を伝えるための機会でもあった。
マチネーの前の公開練習での独特の会話は、
音楽家や生徒、ザルツブルクに来た、
音楽愛好家にとって、最高の瞬間でもあった。」

「このドキュメントは、1957年8月のもので、
モーツァルトのマチネーの完全な記録のうち、
最古のものの一つである。
その独奏者が高名ゆえに、協奏曲が最も目を引くが、
1927年、ダルムシュタッドに生まれ、
ミュンヘンオペラの花形だったエリカ・ケートが、
ここで共演しているのはまさしく掘り出し物である。
この人は音楽祭でも『魔笛』だけでなく、1956年、セル指揮、
57年、カイルベルト指揮の『後宮からの逃走』の、
コンスタンツェ役でも人気が高かった。
パウムガルトナーのモーツァルテウムでの長年の盟友であり、
カメラータ・アカデミカの共同創設者であった、
クリスタ・リヒター=スタイナーが、
1775年のオペラ『羊飼いの王様』からのアリアの、
ヴァイオリン独奏を受け持っている。」
このように、ケートの登場のみならず、
何と、控えめなヴァイオリニスト、
リヒター=スタイナーという人についても特筆しているのが嬉しい。

「プログラムの最初に、パウムガルトナーは、
彼のお気に入りの一つ、オペラ全曲もよく指揮していた、
『劇場支配人』からの序曲を演奏している。」
さすがにお気に入りということだけあって、
非常にエプスレッシーヴォな、活力溢れる力演である。
ただの音楽院の教授ではない。
こんな魂を込めた演奏をする人が、カラヤンの師という事実も、
どうもピンと来ない。何となく不思議な感じがする。

「ここでの最後は、交響曲ヘ長調K112で、
1771年イタリア楽旅の際のもので、
15歳のモーツァルトはここで、
フォーマルなイタリア・バロック様式を離れ、
古典的な交響曲の間にあって、独自の独立した様式を達成した。
ザルツブルク音楽祭での初演の旨、
プログラム冊子には書かれており、
パウムガルトナーが行ったユニークなマチネーの好例となっている。」

このように、このCD、というか、このコンサート、
非常に多面的な楽しみ方が可能である。
独唱、独奏の人気アーティストを目当てにしても良いし、
力の入ったパウムガルトナーの解釈を聴くもよく、
最後に知られざる名曲の発見の楽しみや、
若き日のモーツァルトに思いを馳せるなどなど。

私は、「2台のピアノのための協奏曲」が好きで、
この二人の、惜しまれつつ亡くなった大家たちの共演が、
最も聴きたい演目であったが、ひょっとすると、
これ以上に他の演目を楽しんだような気がする。

やはり即席の共演ということからか、
ミスも目立つし、何となく、完全には興が乗っていないような気もする。
あるいは、ハスキルの調子が悪かったのだろうか。
また、このCDの中では、ピアノのタッチに輝きがなく、
唯一、録音に不満を感じる演奏が、この協奏曲ではなかろうか。

それに引き替え、エリカ・ケートの声は、非常に美しい。
か細い、リヒター=スタイナーのヴァイオリンも楚々として美しい。
さらに言うと、この「羊飼いの王様」からのアリアのメロディは、
何と、あの「ハフナー・セレナード」の第2楽章のアンダンテの、
魅惑的なメロディと同じなのである。

あのセレナードでは、ヴァイオリン独奏だけでも、
十分、蠱惑的であったが、この30歳のケートの声がまた愛らしく、
もはや、天上の音楽としか言いようがない。

この独唱、2曲目には、「レチタティーヴォとアリア、
『おお、運命の星々よ、
憐れなるデルチューアがおまえたちになにをしたのか/
岸は近いと望んでいた』」という長々しいタイトルのものが歌われている。
デルチューアという恋人がいるのに、
政略結婚を強いられたティマンテの状況を歌ったもの。
歌っているティマンテは男のはずだが、ソプラノのアリア、
という点がややこしい。
歌詞はついていないので、何だかよく分からないが、
ケートの声は、かなり高い声までクリアして、
非常に華やかな熱演となっている。

また、最後の交響曲、たった13分程度の音楽だが、
ちゃんと4楽章形式になっていて、
解説に軽く述べられているように独自の魅力を持っている。
推進力のあるアレグロに始まり、
シンプルなアンダンテも、時折、影を宿して美しく、
爽快なメヌエットに、楽しいフォークダンスのような終曲が続く。
きりりとした感触が爽やかで、
パウムガルトナーも愛おしむように演奏している。
そのせいか、盛大な拍手と歓声が待っている。

このCDは、恐らく、名作である「協奏曲」を目当てに買う人が多いと思うが、
買って来てCDプレーヤーにセットした後、
この日の会場にいる自分を想像できるかどうかで評価が分かれると見た。
あるいは、全曲を聴き通す余裕があるか否かでも評価は分かれよう。

以上、パウムガルトナーについてであった。
素晴らしい音楽家であったことは分かったが、
シューベルトと先祖が関係あったかは不明。
むしろ、自分自身が、マーラーばかりか、
ブルックナーにも会ったという経歴がびっくり。

今回、字数がいっぱいになってしまったが、
まぎらわしい名前の、ルドルフ・バウムガルトナー氏についても、
書いてみたかった。この人は、ヘッツェルの師匠である。

得られた事:「シューベルトに五重奏曲を依頼したパウムガルトナー氏以上に、ベルンハルト・パウムガルトナーは音楽の鬼。どうやら、シューベルトに関する著作もある模様。二人の姻戚関係は不明。」
by franz310 | 2008-12-07 13:34 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その151

b0083728_1219435.jpg個人的経験:
カラヤンの「四季」!
この録音などは、
1970年代に
音楽を聴き始めた
愛好家にとって、
いったい、
誰が買うのだろう、
などと思わせる
ものの代表では
なかっただろうか。

バロック音楽と言えば、専用の楽団が登場し、
マリナー、レッパードといった新鋭が本命で、
その前に、リヒター、ミュンヒンガー、レーデル、パイヤールといった、
何となく権威を感じさせる大家たちが、これまた、自身の楽団を率いて、
バロック音楽は、歴史の垢がこびりついています。
いろんな研究を取り入れていかないとダメでっせ、
何でもござれの大オーケストラでやるのは嘘っぱちでっせ、
と群れをなして、高踏的な愛好家たちを徹底的に洗脳していた時期である。

またまた、イ・ムジチのような団体は、
やっぱり、ヴィヴァルディのようなイタリアの音楽は、
本場物じゃないとあかんのやないの?
と、別方面から、我々をそれらしく説得してきたものだ。

さらに、楽器の使い型、知ってまっか、
バロックは違いまっせ、
調律そのものが、あなた、全然、ちがうんでっせ、
と楽器まで変え始め、それが普及してきたのがこの時期であった。

そんな中、ベルリン・フィルで、ヴィヴァルディ?
狂気の沙汰ですな、という感じではなかっただろうか。
いったい、こんなもの誰が買うの?

特に、日本では、音楽評論家に、
カラヤン、ヴィヴァルディの名前が出るだけで、
嫌悪感を露わにする方々がおられた。
これが相乗効果になったら、
耳が汚れると思う若者がいたとしてもおかしくはない。

私自身の体験で言えば、
シェリングが演奏した「四季」を友人に聴かせてもらって、
そのヴァイオリン主体の演奏に絶句したことがあった。
何しろ、私の頭の中では、マリナーのようなスタイリッシュな演奏が、
スタンダードになっていたのである。
聴く前からダメって分かってるでしょ、という感じだった。

しかし、前回、シュヴァルベの、
奔放とも言える、ヴァイオリンを聴いてから、
妙に気になって、聴いてみたくなった。

b0083728_12193180.jpg驚くべきことに、
この輸入盤LP、
シュヴァルベが
大きく
クローズアップされている。
顔のサイズでは、
裏面の写真、
帝王カラヤンを、
恐れ多くも、
凌駕しているではないか。
カラヤンは、これを許したのか?


しかも、中の解説が、これまた、シュヴァルベが、ヴィヴァルディ並に、
大きく扱われているではないか。
カラヤンについては何も書いていない。
何だか、早く聴きたくなってしまった。

ともかく、この解説を見てみよう。
「ミシェル・シュヴァルベは、わずか10歳の年に最初の演奏会を開いた。
ハイフェッツ、ジンバリスト、エルマンなどを輩出した、
アウアーの楽派の数少ない門下、モーリッツ・フレンケルの弟子である。
ワルシャワの音楽アカデミーを出てからは、パリで学業を続け、
エネスコやモントゥーに学んでいる。
さらに彼は、サラサーテ、ヴィエニアフスキ、クライスラーなどを生んだ、
フランコ-ベルギー派のJules Boucheritの下で働き、
結果としてシュヴァルベのテクニックは、
これらの偉大な楽派の強力な結合となった。」

このあたり、前回も読んで、びっくりした部分である。
ドイツ・グラモフォンでも、その意味は、じゅうじゅう承知ということか。
それなら、もっと独奏の録音も入れて欲しかったと思う。
しかし、何故、この人の評伝は、いつも生年が書かれていないのであろうか。

「彼のキャリアは1938年以降、傑出したものとなったが、
第二次大戦の後、それはようやく実際に花開くこととなる。
アンセルメの下で、スイス・ロマンド管弦楽団のリーダーを務めていた時、
シェヴェニンゲンのコンクールで厳しい戦いを勝ち抜き、
ヨーゼフ・シゲティの後を継いで、ジュネーブ音楽院の教授となり、
多くの著名オーケストラと共にコンサートを開いた。
1957年、カラヤンに招かれ、ベルリン・フィルのリーダーとなった。
1960年からは、ザルツブルクのモーツァルト・サマー・スクールに参加、
1963年からは、ベルリン音楽院の教授を務めている。
ここで、このヴァイオリニストは、
『マキシミリアン王』という、とりわけ貴重な楽器である、
1709年のストラディバリウスを弾いている。
この名は、前の持ち主である、
バイエルンのヨーゼフ・マキシミリアン王に由来する。」

非常に豊かな音で、ヴァイオリンも素晴らしく冴え渡り、
まことに安心して聴けるのには驚いた。
もっと、チャイコフスキーのような音楽になるのではないかと、
怖れていたが、まったくそんなことはなかった。
シュヴァルベの音楽性が、どちらかというと細かく興奮する感じで、
それがかえって、音楽がのっぺりとするのを防いでいるのかもしれない。

しかし、このレコード、どういう経緯で出て来たのだろう。
カラヤンは、70年に、ベルリン・フィルと、
ヴィヴァルディを何曲か、また、クリスマス協奏曲集などを録音し、
バロックに目覚めたような感じで録音しているが、その時の独奏は、
ブランディスが務めていた。

この「四季」は、それから2年後の72年の録音。
シュヴァルベは57年入団なので、その入団15周年企画かもしれない。
これは勝手な想像であるが、そう考えると、何となく、
カラヤンもやるな、というような気がして来た。

前回のCD解説では、カラヤンが、シュヴァルベに対し、
「彼を思うとき、賞賛と深い感謝の念を感じずにはいられない」
と言ったとあったが、この言葉が、妙に真実味を持ってくるレコードである。
私は、この言葉を、単なるお世辞と思っていた。

カラヤンの信頼厚い、録音エンジニア、ギュンター・ヘルマンス、
プロデューサーとしては、この黄金時代のトップを務めた、
ハンス・ヒルシュ博士の名前が上がっている。

おっと、コンティヌオとして、
チェロのエーベルハルト・フィンケの名前も嬉しい。
この人は、1967年9月録音の、
アンダを独奏に迎えたブラームスのピアノ協奏曲第2番で、
美しい独奏を響かせていた人だ。

それにしても、このジャケットは、何ともしゃれたもので、
リンゴの4態に四季を重ね合せており、
何だか豪華なお歳暮を思わせる。
これは、みんなが貰ってうれしくなるようなもの。
さすがドイツ・グラモフォンと思わずにはいられない。
カバー・デザインには、Holger Matthiesとある。

慌てて、当時の「レコード芸術」での評価を見ると、
何と、推薦盤になっていて、これはこれで驚いた。
「流麗の限りを尽くす」、「ムードの極み」、
「いぶし銀のフィルター」、「上質な弦のハーモニー」と、
何だか、効果だけを狙った演奏にも思える表現ながら、
妙に引きつけられずにはいられない感じが伝わってくる。

b0083728_1223181.jpgさて、シュヴァルベが
大活躍するカラヤンの盤に、
リムスキー=コルサコフの
「シェヘラザード」があるが、
これは、1967年のもの。
まさか、シュヴァルベの
入団10周年ではあるまいな。
私は、これは、
LPでも持っていたような
記憶があるが、
売り払ったような気がする。


今回、入手したのは、最近、再発された廉価盤CDだが、
改めて聞き直してみて、この曲の方が、私には抵抗があった。

というのは、これまた、「流麗の限りを尽くす」演奏だが、
何だか、骨抜きの軟体動物みたいで、立体感のない音楽に聞こえる。
弦楽器も木管楽器も同じ音に聞こえる。
細かいパッセージも粒立ちが悪く、テンポも何だかしまりなく、
やたら煽られている感じだけが残る。
世界最高のオーケストラとは思えない。
カラヤンは目を瞑って指揮をするので、
細部がよく見えてないのではないか、などと考えたりもする。

私が聴きたいシュヴァルベが、
ちょっとしか登場しないから、採点が辛くなったのだろうか。
だが、このソロも妖艶ではあっても、全体が同様なので、
あまり嬉しくはない、という感じだろうか。

暴れ馬のシュヴァルベの本領を発揮するとすれば、
終楽章の「難破」のあたりかと期待したが、
特に感銘を受けることはなかった。

ということで、「四季」がよく聞こえたのは、
録音が新しいので雰囲気が豊かになっただけではないか、
などと勘ぐって、もう一度、聞き直してみた。
ポイントは、細かい音型がつぶれて平板になっていないか、
テンポや色彩感が一本調子になっていないかであるが、
小粋なシュヴァルベが出たり入ったりして立体感があるし、
小編成のオーケストラには自発性が感じられて、
皮膚呼吸をしている感じがする。

ということで、シュヴァルベは、
前回の協奏曲のように興奮することはなく、
コンサートマスターの殻を破るようなシーンは、
結局、これらの録音から感じ取ることは出来なかった。

b0083728_12235322.jpgさて、ベルリンの
シュヴァルベに対し、
ヴィーンのコンサートマスター、
ヘッツェルの
バロックものはどうだろうか。

どういった経緯からか、
リヒター最晩年の、
1980年6月の
バッハの協奏曲録音に、
この人が参加している。

先ほどのものが、ドイツ・グラモフォンだったのに対し、
こちらは、アルヒーフ・レーベルである。
言うまでもなく、グラモフォンの古楽部門であるが、
そのオーセンティックな雰囲気は、グラモフォンの比ではない。

シュヴァルベが、どちらかというと、
妖艶な楽派を背景にしているのに対し、
ヘッツェルの場合は、シュナイダーハンなどに学び、
ルツェルンの合奏団にもいたと言うので、
バロックには向いているのではないかと思った。

しかも、曲目は、
「フルートとヴァイオリンとチェンバロのための協奏曲」で、
共演はニコレ、チェンバロは明記されていない。
ここでのヘッツェル、はっきり言って、まったくよく聞こえない。
ニコレのフルートと、チェンバロが、鮮やかな色彩で、
縦横無尽に行き交うのに対し、ヘッツェルのヴァイオリンは影に徹している。
フルートを際だたせるための助奏のような感じがしないでもない。

このCD、泣く子も黙るリヒターの、
「ブランデンブルク協奏曲集」の付録みたいに入っていて、
そもそも曲として優れているのか良く分からない。

BWV1044とあるから、
この番号で1046から始まるブランデンブルク協奏曲と、
合わせてまとめられた感じだが、曲の魅力はかなり見劣りする。

ゲルト・プレープシュ博士がディレクターとある。

解説には、両端楽章は、チェンバロ独奏曲からの編曲、
中間楽章は、オルガンのためのトリオ・ソナタからの編曲だという。
ということで、チェンバロが目立っても仕方がないということ。

また、中間楽章は、何と、オーケストラは沈黙、
三つの楽器だけが会話をする。
非常に変則的なものである。
ここで、ヴァイオリンは、最初、ピッチカートのみ、
というのも、いかにも伴奏風である。
途中から、歌い始めるが、また、ピッチカートになる。
こんな断片のような音楽から、
ヘッツェルが何をやりたかったのかはよく聞き取れない。
過不足なく演じているという感じだろうか。

リヒターのこの1967年録音の「ブランデンブルク協奏曲」、
私にとっては、思い出深い演奏である。

バロック音楽が好きな友人が、とにかく聴け、と、
中学生だった私にくれたのがこれであった。
特に、リヒターが独奏する「第5番」の強烈なチェンバロ独奏は、
恐ろしい気迫というか、情熱のようなものを、
私にひたすら照射してきたものである。

ここでは、ヴァイオリンは、シュネーベルガーという人が弾いているが、
この人について詳しいことは私は知らない。
ただし、この鬼気迫るチェンバロに、くらいついて行く様は、
さすが、絶頂期のリヒター主導のたまもの、
という感じがしないでもない。

さて、このヘッツェルは、10代のうち、
つまり1950年代は、シュナイダーハンに師事していたとあった。

ヘッツェルの師匠、シュナイダーハンの50年代と言えば、
ケンプと共演した、ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ全集」
(52年9月)などが有名だが、
同時期に、ドイツ・グラモフォンに録音した協奏曲も、
最近、ヘンスラー・レーベルから復刻されている。
シュナイダーハンは、モーツァルトの5番(52年11月)と、
ブルッフの1番(52年5月)を弾いている。

b0083728_12242382.jpgシュナイダーハンは、
ヴィーン・フィルの
コンサートマスター
だったこともあろう、
フルトヴェングラーはじめ、
多くの巨匠との録音がある。
が、このCDには、
貴重極まりないことに、
ルドルフ・ケッケルトの
ヴァイオリン独奏も、
収められているのである。

シュナイダーハンは、独奏者になるべく、
オーケストラを退団し、カルテットも辞めてしまったが、
ケッケルトの場合、反対に、カルテットもオーケストラも多忙を極め、
独奏者としての録音はほとんど絶えてしまった。
それゆえに、いっそう復刻はありがたい。
1953年8月の録音とある。

グラモフォンのカタログには、30cmLPで出た時には、
同じライトナーの指揮によるシュポアの8番に併録されていたようで、
このシュポアも聴いて見たいが残念ながらそれはない。

このCD、指揮者ライトナーの記念盤らしく、
表紙も、写真が三つもあるのに、
3枚とも、ライトナーの写真で、独奏者たちは登場してこない。
しかも、ブルッフやベートーヴェンも入っているのに、
大々的に、Mozartと書かれたレイアウトも不思議である。
Birgit Fausewehという人の担当とある。

ただ、Fotos/Picturesとして、
Gisela LeitnerのPrivate archivesとあるので、
遺族提供の貴重なものと味わうべきなのであろう。
一枚目はダンディなポートレート、二枚目は指揮の練習姿であろうか、
三番目のものは、鍵盤楽器の前で、楽譜のようなものを調べている。

Wolfgang Teubnerという人の解説、
曲目解説は丁寧にあって、ライトナーの経歴も、
かなり詳細に書いてあるのに、
シュナイダーハンとケッケルトについては何も書かれていない。

シュナイダーハンに対して、
私は、ずっとそのシューベルト録音を愛聴しているので、
いくら感謝してもしきれないような感情を持っているが、
1965年頃録音した、ベルリン・フィルの指揮も兼ねた、
モーツァルトの協奏曲は、あまり楽しめなかった記憶がある。

それは、何かべったりした演奏で、
彼の典雅な芸風が感じられるものではなかった。
この人は1915年生まれらしいので、
あの録音は50歳になった巨匠の、
余裕の芸風を伝えるものだったはずだが、
シェヘラザードの音を思い出すと、楽団にも問題があったのだろうか。

この50年代の録音は、30代後半という若い時期のものだが、
ライトナーの堅実な指揮(楽団はヴィーン交響楽団)に抱かれて、
線は細いが、暖かみのあるヴァイオリンの音色が冴える。

天才コンサートマスターとして鳴らしたはずだが、
非常にゆっくりとしたテンポで噛みしめるように弾いており、
むしろ不器用な感じさえする。
若き日のモーツァルトの青春の迸りや、
ロココ風の享楽性などには目もくれず、
何か、真摯なものを追求するような趣きが漂っている。
ライトナーの指揮にも、まったく微笑みはない。
何だか異常なモーツァルトのような気もして、
全く楽しくないが、琴線に響くものを持っている。

ブルッフの協奏曲も同様に真摯で、
第一楽章から、第二楽章に入っていくところの、
静謐感には、非常な奥深さを感じ、ぞくぞくしてしまった。
確かに、ここでは、名技性などは忘れられており、
オーケストラのピッチカート一つとっても、何か意味を感じさせ、
作品の奥深く分け入って行こうとする姿勢が、
ライトナー、シュナイダーハンの中心にあるようだ。
第三楽章も、馬鹿騒ぎにはなっておらず、
あくまで気品を失わない表現となっている。
カラヤンのポスターのような「シェヘラザード」の後では、
ああ、音楽とはこういうものであった、
と耳も、心も洗われる内容である。

この時代、ハイフェッツ、メニューイン、フランチェスカッティら、
ドイツ圏以外の名手の全盛期にあって、
これは、強烈な主張を持った解釈と言えそうだ。

続く、ケッケルトのベートーヴェンも、
同様に、内面だけに耳を澄ませたような高潔な表現で聴かせる。
オーケストラは、彼の古巣のバンベルク交響楽団である。
あるいは、シュナイダーハン以上に、この人は、
まじめな人だったのかもしれない。

天下のベルリン・フィルは、
名器マキシミリアンの美音を操るシュヴァルベを招いたが、
ヴィーン、または、バイエルンのオーケストラのコンサート・マスターたちは、
つややかな美音以上に、何か一途に暖めているものを持っていた、
という感じがしなくもない。

「ロマンス」のような、比較的小規模な作品にも、
壊れ物を扱うような丁寧さが見てとれるが、
音楽が終わった時のすっきり感というものより、
共に、音楽を噛みしめているときの、
場の共有感のようなものを大切にした姿勢を守っているという感じだろうか。

こういう価値観が、ライトナーとも共有されており、
それがまた、グラモフォンの方針にも合っていたのかもしれない。
しかし、59年にカラヤンを獲得して以降、このレーベルは、
こうしたものより、国際的な喝采に向けて舵を切っていくことになる。
カラヤンがどれほどこの会社に口を挟んだかは分からないが、
50年代のアーティストの多くが、60年代には消えていった事は確かである。
ライトナーとケッケルトなどは、その代表格と思われる。

さて、このCDで指揮をしている、このライトナー、
ケンプとの「皇帝」はベストセラーになったし、
日本でも、N響との共演など、重要な指揮者だったはずなのに、
確かに、人気という点で恵まれない人で、こうした追悼盤が出るのは、
大変、素晴らしいことだと思う。

以下のようなことが書かれている。

1912年3月4日、ベルリンに生まれたライトナーは、
幼い頃、プラハにいたが、ベルリンで学業を修め、
ベルリンのシャルロッテンブルクの音楽アカデミーでは、
フランツ・シュレーカー、Julius Pruwer、シュナーベル、
カール・ムックらに学び、
まず、ピアニストとして知られるようになったとある。

わずか17歳にして、バイロイトの練習ピアニストとなり、
エレナ・ベルガー、マルガレーテ・クローズ、ワルター・ルートヴィヒら、
当時の偉大なヴァグネリアンや、
ヴァイオリンのゲオルク・クーレンカンプやチェロのヘルシャーら、
国際的な器楽奏者らと共演したらしい。
彼はオペラとコンサートの両方をこなしたが、
ブルーノ・ワルターやフリッツ・ブッシュのような音楽家を目指していた。
ベルリンでの指揮者としてのデビューの後、
1935年にはブッシュをアシストするためにグラインドボーンにも行っている。
最初のポストは、1943年、ベルリンのノレンドルフ劇場でのもので、
そこから頂点へは、異常な速さで駆け上がった。
オイゲン・ヨッフムは、1945年に、彼をハンブルク州立劇場に招き、
1946年の終わりには、ミュンヘンの州立劇場の音楽監督に就任している。
33歳である。
1950年にはシュトッツガルトの音楽監督となり、
1969年まで、それを務めた。
1961年、ライトナーは教授となり、
数多くの都市に、シュトッツガルト州立オペラを連れて行き、
シュトッツガルト、ミュンヘン、ハンブルクなどの放送交響楽団と、
重要な録音を行っている。
現代音楽にも理解が深く、多くの初演を行った。
1956年から1987年まで、ブエノス・アイレスの
コロン劇場のドイツシリーズを受け持ち、6回も「指輪」を指揮している。
1976年から80年までは、ハーグの指揮者となり、
1988年には、トリノRAIの主席客演指揮者、
NHK交響楽団とは7回の大きなツアーを行い、
1969年から88年まではシカゴでオペラを9回指揮している。
1969年、ライトナーはシュトッツガルトを離れ、
チューリッヒ・オペラの監督となり、
1983年に任期が切れても関係を持っていた。
80歳近くになっても、彼は世界中から引っ張りだこであったが、
長い闘病生活の後、1996年6月3日、
ライトナーはチューリッヒ近郊のForchで、
ライトナーは84年の生涯を閉じている。

また、こうした讃辞が出ているのも興味深い。
「彼はセンセーショナルな評論で飾られるような、
虚しいスターたちの一人ではなかった。
彼は、完全性や情熱を尊び、個人的なことよりも、
音楽に全霊を捧げるような指揮者たちの系譜に連なり、
それにもかかわらず、いや、それゆえにというべきか、
前世紀の偉大なドイツの指揮者の一人であり、
五大陸の音楽界から歓迎され、数百もの録音や映像を残した。
様々な栄誉を授かったが、彼は彼自身とその音楽に対して、
常に忠実であった。
『密度』と『継続性』といったものが、
ライトナーにとって重要な何かであり、
オーケストラのサウンドを作り上げ、
音楽を統一と強さと共に伝えることが最優先事項であった。」

得られた事:「カラヤン美学の功罪を垣間見た。」
by franz310 | 2008-11-30 12:18 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その150

b0083728_2254273.jpg個人的経験:
ベルリン・フィルの
シュヴァルベと、
ヴィーン・フィルの、
ヘッツェルは、
共に、
名コンサートマスター
として、学生時代の
私の脳裏に刻まれたが、
楽団員としてではなく、
彼らが独奏したCDもある。


シュヴァルベについては、
ヴィヴァルディの「四季」から、
リムスキー=コルサコフの、「シェヘラザード」、
さらには「タイスの瞑想曲」まで、
ほとんど独奏者のような録音もあるが、
純粋な協奏曲というのは、LP時代には、聴いた事がなかった。

今回、こうしたCDには、詳細な解説がついており、
彼らの略歴をも勉強することが出来る。

まずは、オルフェオ・レーベルが出した、
1984年8月19日のザルツブルク音楽祭からの、
実況録音のCDには、Clemens Hellsbergが、
ヴィーンのコンサートマスター、ヘッツェルの略歴を書いている。
「The Best in the Best Way Possible」
という一文である。

「ゲルハルト・ヘッツェルが不慮の事故で亡くなって、
10年が経つが、その悲劇によるショックは、
直接、それを体験したものにとって、
いまだ記憶から消えることがない。
そして、この10年は、
私たち、それに、当時からの音楽通の人々に、
ゲルハルト・ヘッツェルとは、忘れがたい、というのみならず、
もっと、かけがえのない存在だったということを、
改めて確信させたのである。
ヘッツェルは、1940年4月24日、
旧ユーゴスラヴィアのNeu-Werbasに、
医者の息子として生まれ、5歳からヴァイオリンを習った。
彼は、1952年、ルツェルンにて、ルドルフ・バウムガルトナーや、
その後、彼を教え導いたウォルフガング・シュナイダーハンと会う前、
まず、MagdeburgでOtto Kobinに師事した。
1956年から、1960年まで、
ヘッツェルは、ルツェルン音楽祭ストリングスで活動、
1959年から1970年までは、
ルツェルンのマスタークラスで、
シュナイダーハンの助手を務めた。
1963年から、彼はベルリン放送交響楽団のコンサートマスターを務め、
1969年9月1日のオーディションの後、ヴィーン国立歌劇場の、
コンサートマスターに就任、同時に、アソシエーションにも属することとなった。」

1969年と言えば、30歳になる前である。
29歳から52歳までの23年にわたって、彼はヴィーン・フィルの、
コンサートマスターを務めたということだ。
後で触れる、シュヴァルベの在任期間も28年だったが、
それに劣らず、長い期間、この人はヴィーンの顔だったのである。

しかし、ベルリンのシュヴァルベが、いろいろな賞を取っているのに、
この人にはそうした経歴はなかったようだ。

また、この解説には、オーディションで、
ヴィーンのコンサートマスターになったとあるが、
一説によると、カール・ベームが連れてきたともいう。

ということで、コンサートマスター就任の所から、
解説を再開させて引用すると、
「彼は、その後、理想のコンサートマスター、
そして輝かしい独奏者として存在感を示し始め、
ヴィーン、ボン、ザルツブルク音楽祭で、
ヴィーン・フィルと演奏した、
バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番では、
素晴らしい解釈を聴かせた。
1982年3月27日もまた、記憶に残る日で、
ミルシテインが定期演奏会のわずか2・3時間前に、
キャンセルをした時、オーケストラとのリハーサルもなしで、
ベートーヴェンの協奏曲のソロの代役を務めた。
ヴィーン・フィルの定期では、
以下のような作品の独奏者も務めている。
ブラームスの協奏曲、モーツェルトの協奏交響曲、
ベルクの室内協奏曲、シュナイダーハンとのバッハの二重協奏曲の他、
マルティヌーのフルートとヴァイオリンのための協奏曲。
彼の共演者は、フェレンチーク、ハイティンク、ドホナーニ、
マゼール、メータ、オザワなどである。
ヘッツェルはまた、管弦楽作品の独奏部でも、
非常に印象深い演奏を行い、それはしばしば至福の時を作り上げた。
見せ物になるのではなく、高いモラルの重視こそが、
ヘッツェルの音楽家としての目指すところであった。」
このCDのジャケット写真1つとっても、
そのような雰囲気が滲み出ていないだろうか。

そうした意味で、このジャケットは、
いつも、赤と金で適当な感じのオルフェオにしては、
比較的かっこいいものとなっている。

「難なく独奏者としても成功し、
室内楽奏者としても、国際的に最高の評価を得たが、
彼は人生を豊かにするためには、
彼が言うところの、安定性や忍耐力が不可欠な、
オペラや交響楽への参加も絶対不可欠だと考えていた。
こうした事全般へ彼がいかに関心を持っていたか、
思い出の中でのみ、推し量ることができる。」
ヴィーン歌劇場の、オーケストラ・ピットに入るような、
繰り返し作業にも、彼は同じ情熱とエネルギーを注ぎ、
模範的で、同僚たちの良き規範となった。
多くの最高級の指揮者たちが、
彼を世界最高のコンサートマスターだと考え、
また、レコード会社のマネージャーたちにとっても、
彼は、絶対的な音楽の権威であった。
オーケストラの同僚にとって、彼は、音楽家としてだけでなく、
一人の人間としても信頼できる存在だったので、
誰が言うというわけでもなく、いつしか高名となったこの権威には、
いつも喜んで従った。」
このヴァイオリニストは、このように、非常に有能なリーダーでもあった、
ということであろう。
これを読んだだけでも、この人を尊敬したくなってしまう。

「ヴィーン・フィルは、傑出した音楽家を失ったのみならず、
素晴らしいヒューマニズムと、広範な知識を併せ持った人材を、
失ったことになる。
『最高の事を、できるだけ最高の手段で』という、
楽友協会の産みの父たちの金言は、
まさに、ヘッツェルの生き様そのものであった。
彼は、おそるべき仕事量の最中、自らには最高を課しながら、
他の人には、寛容と暖かさを持って接した。
彼との交流は通常の友情といったものではありえなかった。
彼と個人的に近づきになった者は、
愛と感謝も持たずにはいられなかった。
23年もの間ヴィーン・フィルにとって、
そこでコンサートマスターとして過ごした彼は、
この上もない存在として記憶に残っている。」

ここで聴く、バルトークの最高傑作とも言える協奏曲の演奏からも、
以上、書かれていることが、まったくの真実であろうと、
確信せざるを得ないような演奏になっている。
マゼールもヘッツェルも音楽に没入し、有り難いオーラが発散している。

ヘッツェルの演奏も、澄み切って突き抜けるようなトーン、
まったく危なげのない技巧は、どのような難所にあっても、
まったく、乱れることはない。
高潔な人柄を、そのまま音にしたような演奏である。

バックは、マゼール指揮のヴィーン・フィル。
ティンパニの強烈な一撃などが目立ち、意欲的な表現力である。

しかし、この協奏曲、構想も雄大で、
独奏部も管弦楽も強烈、なおかつ長大なもので、
楽団との対決姿勢のようなものが必要と思っていたが、
こうした寄り添うような解釈もあり得たのである。

考えて見れば、この曲をバルトークに書かせたのは、
ゾルタン・セーケイであって、このハンガリーの名手は、
名門ハンガリー弦楽四重奏団を率いた室内楽の名手でもあった。
が、この人が初演した時の1939年の録音を聴くと、
ヘッツェルの演奏は、かなり特異なもののようにも思える。

とはいえ、解説にあったような、この素晴らしい音楽家の、
人となりをそのまま音にした音楽となっており、
これはこれで、非常に真実の音楽として聴くことが出来る。

CDの後半に、モーツァルトの喜遊曲が収められていて、
この重量級のコンチェルトの後で、
気持ちの良い開放感を味わえることを付記しておこう。


b0083728_2262665.jpg一方、ベルリンの
名コンサートマスター
として知られた、
というか、カラヤンの
片腕のような感じだった、
シュヴァルベの方は、
ビダルフという
弦楽器系に強い、
イギリスのレーベルが、
3曲もの協奏曲録音を
集めてくれている。

ジャケット写真は、これまた、ベルリン・フィルという、
大楽団のリーダーを務めた人に相応しいもので、
言うなれば、大企業幹部のような雰囲気を漂わせたものだ。

もっと言えば、ヘッツェルも含め、
どっちもメガネをかけたいかめしいおっさんで怖い。
とても、初心者は、欲しいと思わないであろう、
壮絶なデザインともいえる。

が、こうしたイメージとは違って、
ベートーヴェンとかショスタコーヴィッチといった、
重量級のものが演奏されているわけではない。

メンデルスゾーン、サン=サーンス、ヴィエニアフスキという、
どちらかというと、カラヤンが得意としたとは思えない曲目ばかり。
しかも、共演は、皆が期待するベルリン・フィルではない。

が、ヴァイオリン協奏曲としては、素晴らしい名曲揃いである。
スイス・ロマンド管弦楽団が放送用に録音したもので、
1960年から63年のものである。
拍手も入っており、実況中継のようなものだろうか。

メンデルスゾーンが1960年3月25日、
指揮は、Samuel Baud-Bodyとある。
また、サン=サーンスは「第三協奏曲」で、
1961年1月4日、指揮はFrederick Prausmitzとある。
私は、まったく知らない。
ようやく、ヴェイニアフスキの「第二」が、
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ。
1963年1月23日の録音。

ここでも、シュヴァルベの略伝がばっちり読める。
先に触れたが、ヘッツェルと違って、何だか、
コンクールとか成績を重視した書きぶりである。

誰が書いたかは分からないが、
何故か、日本のヴァイオリニストが関与した発売らしく、
スイスロマンド管弦楽団と、Joji Hattoriに謝意が述べられている。

「ミシェル・シュヴァルベは、その才能を、
絶対的な熟達の域にまで高めることが出来た、
数少ない神童の一人であった。
この若いヴァイオリニストは、早くから特別な才能を示し、
10歳にしてコンサートを開いている。
レオポルド・アウアーの門下で、後にそのアシスタントを務めた、
モーリッツ・フランケルの生徒だったので、
アウアーの流派と呼ぶことが出来る。」

アウアーは、どちらかというとスラブ系の人だと思うが、
それゆえに、ハイフェッツやエルマンが愛奏した、
ヴィエニアフスキが含まれているのだろうか。

が、どうやら、それだけではなさそうだ。

「ワルシャワの音楽院を卒業した後、シュヴァルベは、
パリでジョルジュ・エネスコとピエール・モントゥーの元で研鑽を積んだ。
そして、特にエネスコとの強い関係から、
自らの音楽を発展させるのに必要な多くの影響を受けた。
この時期、ワルシャワの国際ヴィエニアフスキ・コンクールで、
ヌブーやオイストラッフと並んで賞を得たことが特筆されよう。
フランコ-ベルギー楽派で、
パリの音楽院のマサールやマルシックの後継者であった、
偉大なフランスの名匠、Jules Boucheritが、シュヴァルベの演奏を聴き、
彼を招いて弟子にした。
このように、シュヴァルベは、この2つの楽派の奏法の良い点を合わせ、
Boucheritの指導の下、音楽院では、
念願のサラサーテ賞や特別な賞を受けるなど、
最高の評価を得て勉学を終わらせた。」
ということで、何と、フランスでも学んだようで、
こうしたことから、サン=サーンスが演奏されているわけだ。

以外に深い意味をもった選曲で、
改めて、この盤の貴重さに感服した次第である。
オイストラフの楽派とグリュミオーの楽派が、
一緒になった人をカラヤンが連れてきたというのも不思議である。

「『L’Art Musical』誌は、こうコメントしている。
『何人かの音楽家が、彼の演奏を見て、
まだその姿を生き生きと思い出すことが出来る、
サラサーテを彷彿させると言っている。』
ベルリン・フィルのコンサートマスターが、サラサーテというのには仰天した。

以下、このCDが、
何故、スイス・ロマンドで作られたかを暗示する内容が出て来て、
これまた驚いた。
「シュヴァルベの国際的キャリアの前進は、
しかし、第二次大戦によって中断された。
1944年、エルネスト・アンセルメは、
ジュネーブのスイス・ロマンド管弦楽団の、
第一コンサートマスターに招いた。
ジュネーブとルツェルンにおける、
このオーケストラとのブラームスの協奏曲の演奏で、
輝かしい独奏者としてのデビューをした後、
シュヴァルベは、このオーケストラの独奏者として、
レギュラー出演することになった。
彼は、スイス・ロマンドでの活躍に加え、
すぐにスイスで広範囲の活動を展開、
ルツェルン祝祭管弦楽団のレギュラーの客演リーダーとしても、
著名な指揮者、ワルター、フルトヴェングラー、
バルビローリなどと共演している。
彼はさらに、クララ・ハスキルとソナタを演奏し、
ジュネーブ放送のためには、パガニーニの奇想曲を、
ライブ中継したりした。」

1947年、フルトヴェングラーは、
ルツェルン祝祭管弦楽団と、ベートーヴェンの協奏曲や、
ブラームスの「第一交響曲」を演奏し、
その記録を聴くことが出来るが、この時、
コンサートマスターは、シュヴァルベだったのだろうか。

この時、ベートーヴェンのピアノを弾いたのは、
以前、ここでも紹介した、エッシュバッヒャーである。
このピアニストは、ケッケルト四重奏団との共演で、
シューベルトの「ます」のレコードを残している。

また、だとすると、ブラームスの交響曲、第二楽章で、
ヴァイオリン独奏を受け持ったのは、シュヴァルベだったのか。

これから、まるで、出世街道まっしぐら、といった感じの記述が続く。
「1948年、シュヴァルベは、
シュベニンゲンの国際音楽コンクールで一等賞を取り、
同年、ジュネーブの音楽院のシニアプロフェッサーに任命された。
それから彼は数年間、ヨーロッパ中を回って、
選ばれたオーケストラとソリストとして共演した。
1957年、カラヤンは彼を、
第一コンサートマスターとなるよう、
ベルリン・フィルに招いた。
彼のベルリンでのセンセーショナルなデビューは、
最高の予想を、さらに超えたものであった。
Der Abend誌のレビューは、
『シュヴァルベは、チャイコフスキーの協奏曲を、
エキサイティングなブラヴーラを持って演奏し、
パガニーニに比較したほどだった。』
シュヴァルベは、1957年、カラヤンとベルリン・フィルと共に、
最初の日本公演ツアーを行っている。
このツアーの間、NHK交響楽団と、協奏曲のラジオ放送を行った。
その後、極東に何度も訪れた彼の最初の訪問であった。」
改めて、日本との関係を強調しているのは、
先のスポンサー関係だろうか。


「1960年代初頭、シュヴァルベは、
ザルツブルク・モーツァルテウムの、国際サマーアカデミーの、
客員教授となり、彼はザルツブルク音楽祭に何度も登場し、
ベルンハルト・バウムガルトナー指揮のカメラータ・アカデミカと、
モーツァルトの協奏曲のいくつかを共演したりした。
1963年、彼はベルリンの芸術高等学院の教授のポストに就任、
1986年まで教鞭を取った。
彼は同時に、エリザベート妃コンクール、ジュネーブ国際コンクール、
パリのジャック・ティボーコンクールなど、
数々の有名コンクールの審査員を務めた。」

「彼はそのキャリアを通じ、世界中の批評家からも、
その音楽性と名技性の融合を賞賛された。
高名なフランスの批評家、ベルナルド・ガヴォティは、
フィガロ誌に、『喜びだけでなく、それは啓示でさえあった。
彼は要するに大家であって、そして、全てを持っている。
スタイル、素晴らしいテクニック、天才的な叙情性、
洗練、感情表現、さらに、輝かしい音色、
こんな人は世界に5、6人しかいない。』
シュヴァルベは、沢山の栄冠に浴し、
ベルギーでは、国王から勲章を受け、
ドイツでも十字勲章、フランスでレジョンドノールを受けた。
シュヴァルベの才能に感銘を受けた慈善家、
アクセル・スプリンガーは、『マキシミリアン王』という、
1709年のストラディヴァリウスを、
彼のキャリアにわたって貸与した。」

ここからは、先のヘッツェルの例と同様、
彼のコンサートマスターとしての業績が総括されている。
「彼は、1985年までベルリン・フィルと、独奏者、
コンサートマスターとして演奏し、1992年に演奏会からリタイアした。
彼は数知れないツアーと録音を、ベルリン・フィルとこなし、
彼の名前は、その輝かしいオーケストラの評価と一体となっている。
カラヤンを含め、多くの同僚から尊敬を受け、
事実、マエストロも、シュヴァルベに対し、こう語っている。
『私たちは素晴らしいひとときを共に過ごした。
私は、彼を思うとき、賞賛と深い感謝の念を感じずにはいられないだろう。』」

このように、ベルリン・フィルと、ヴィーン・フィルで、
私が学生時代に活躍していた二人のコンサートマスターの略歴を、
紹介してみたが、これらをまとめると、こんな感じになる。

シュヴァルベの生年は書かれていなかったが、
1908年生まれのオイストラフと同世代のようなので、
仮に1910年頃とすると、

            シュヴァルベ          ヘッツェル
1910年頃   ワルシャワ?に生まれる
         フランケルに師事。
         エネスコに師事。
         サラサーテ賞。
1940年                    ユーゴスラヴィアに生まれる。
1944年    スイス・ロマンドコンマス。
         アンセルメの初期の録音などは、
         ひょっとして、この人の独奏が、
         聴けるのだろうか。
1945年                    ヴァイオリンを習い始める。
1948年    シュベニンゲン一等
         ジュネーブの教授就任。
1952年                    シュナイダーハンに師事。
1956年                    ルツェルン合奏団で活躍。
1957年    ベルリン・フィルコンマス。
         カラヤンと日本ツアー
1959年                    シュナイダーハンの助手。
1960年代初頭 ザルツブルクで活躍。
1963年    ベルリンの教授就任。  ベルリン放送響コンマス。
1969年                    ヴィーン・フィルコンマス。

1970年代        両者、様々なレコード録音でも活躍。
               また、来日などでも存在を印象付ける。

1985年    ベルリン・フィルから離れる。
1992年    演奏活動リタイア。       山岳事故で死去。

このように、二人の経歴を見て分かるように、
この二人は親子ほど年が違う。
1970年代に、一方は、50代から60代の完成期にあって、
一方は、30代の上り坂にあって、我々を魅了してくれた、
ということが分かる。

この時代、カラヤン、ベームは、両横綱のような存在だったから、
この二人の率いていた団体のトップとして、
そのお気に入りが活躍していたという見方も出来るが、
下記にも書くように、この有名な指揮者と、
このヴァイオリニストたちとの間には、
あまり共通点が感じられない。

シュヴァルベのCDを聴くと、
最初、オーケストラも頼りない感じで、
録音もぱっとしないように感じるが、
さすがに、独奏者として鳴らした人だけあって、
破綻を気にせず、華のある演奏を行っていることが分かる。

逆に言うと、メンデルスゾーンなどは、
最初の方は、かなり音程のふらつきがあるものの、
最後には、ものすごい盛り上げ方で、
聴衆から盛大な拍手を引き出している。

サン=サーンスも、非常に情熱的で、
こんな人が、カラヤンの流麗な音楽に付き合わされていたのか、
と考えると不思議な気分になる。
呼吸が深く、破綻を怖れずに、激しく音をまき散らしている。
これは、例えば、典型的フランコ=ベルギー派とされる
グリュミオーのような美音ずくめの演奏とは、
だいぶ印象が異なる。

息遣いが深く、ものすごく鋭敏に曲想に反応している。
奔放とも言え、音も時折外れるが、熱気はすさまじく、
とても、目を瞑って、流麗な指揮をするカラヤンの子分とは思えない。

もちろん、ヘッツェルの演奏の最後も、すごい拍手である。
シュヴァルベと比べると、ずっと冷静で、音の乱れなく、
まるで、カラヤン指揮のオーケストラのような美音をまき散らしている。

これは、非常に不思議なことで、
極端に書くと、カラヤンの手兵である
ベルリン・フィルのコンサートマスターよりも、
ベームが好んだコンサートマスターの方が、
カラヤン的なアプローチなのである。

それにしても、バルトークのような土俗的な音楽を、
ヘッツェルは、よくもこのように洗練された音楽に出来たものである。

逆に、サン=サーンスのような洗練された音楽を、
シュヴァルベは、よくもこんな土俗的な音楽にすることが出来たものだ。

これらの録音、約四半世紀の隔たりがあるが、
一世代の差異がある彼らである。
共に四十代ころの、絶頂期の演奏が収められているわけだ。

また、指揮者に名匠、スクロヴァチェフスキを得た、
ヴィエニアフスキは、美しい木管の独奏など、
オーケストラも幾分、雄弁になった分、
独奏部の興奮もすさまじく、味わいも濃厚。
これは随一の名演と言えよう。
特に第三楽章で弾けきる技巧の切れ味。これは熱い。
感極まった聴衆は、曲が終わると、奇声を発している。

しかし、こんな暴れ馬のような人が、
大組織の長でいられるということも不思議。
ヘッツェルの方が、ずっと組織人として納得できる演奏と言える。
あるいは、ヘッツェルは、自分の属するオーケストラで、
シュヴァルベはよそのオーケストラだから、
という微妙な違いは影響するのだろうか。

得られた事:「コンサートマスターのヴァイオリン、一筋縄では論じられぬ。」
by franz310 | 2008-11-23 22:08 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その51

b0083728_22205818.jpg個人的経験:
前掲の書、
「栄光のウィーン・フィル」
によると、名指揮者の、
エーリヒ・クライバーが、
戦後ヴィーンにやってきて、
最初にヴィーン・フィルの
楽長に発した質問は、
「いったいいくつの弦楽四重奏団が、
オーケストラ内に存在するか」
ということだったという。


五十年代の四重奏団として、
コンツェルトハウスと、
バリリ四重奏団の二つが有名であるが、
このうち、バリリ四重奏団は、
コンサートマスターの
シュナイダーハンが率いていたのを、
バリリが受け継いだものとされ、
そのシュナイダーハン四重奏団創設の
逸話もまた、
先の書物には詳述されている。

つまり、ヴィーン・フィルには、吹奏楽団(管楽合奏団)があって、
彼らが、1938年から9年のシーズンの最後に、
シューベルトの八重奏曲をプログラムに乗せ、
それを演奏するために、弦楽の四重奏団の参加を、
シュナイダーハンに依頼したというのである。

「シュナイダーハンは、
各弦楽パートから首席奏者を選んだ。」
この一文からも、
この四重奏団がエリート集団であることが分かるし、
第二ヴァイオリンに選ばれた、この本の著者でもある、
シュトラッサーの誇りとか気負いのようなものを、
私などは感じてしまう。

この吹奏楽団とは、いったい誰なのであろうか。
1948年から49年にかけて、シュナイダーハン四重奏団
(シュナイダーハン、シュトラッサー、モラヴェッツ、クロチャック)が、
コントラバスのリュームに加え、
クラリネットのヴラッハ、ホルンのフライベルク、
ファゴットのエールベルガーらと、
コロンビアに残した録音がCD化されているので、
この人たちがその吹奏楽団だったのかもしれない。

彼らは、各々、28年、32年、36年に、
ヴィーン・フィルの首席奏者におさまった人たちなので、
おそらく、間違いはあるまい。

オーストリアの批評家、ハンス・ヴァイゲルの書いた、
「ウィーン・フィルハーモニー賛」という本にも、
この楽団のすべての名手の名前を連ねることは断念するが、
次の人たちだけは、という表現で、この人たちの名前が紹介されている。

「そういうわけで私の賛歌は過ぎ去った時代の達人に捧げられることになる。
ウィーンはいつもそのオーケストラを愛したばかりか、それと並んで、
とくに偉大なホルン奏者カール・シュティーグラー、
その甥のゴットフリート・フォン・フライベルク、…
ヴィオラのエルンスト・モラヴェッツと才子アントーン・ルーツィッカ、
チェロのフリードリヒ・ブクスハウムとリヒャルト・クロチャックと
オットー・シュティーグリッツ…
クラリネットのヴィクトル・ポラチェクとレーオポルド・ウラッハを愛した。」

このように、このレコードは、弦も管も、
まさに決定盤に値する顔ぶれによってなされていたことが分かる。

ところが、この管楽器の首席奏者たちは、
そのわずか2年後に、ウェストミンスターに、
同じ曲を録音していて、
現在では、こちらの方がはるかに有名なレコードとなっている。
しかも、協演した弦楽四重奏団は、
シュナイダーハン四重奏団の後継たるバリリ四重奏団ではなく、
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団であった。

ウェストミンスターの売りは、
LPに相応しいテープ録音である。
細切れに録音されて、
SP盤用のシュナイダーハンらのレコードは、
演奏の質の如何にかかわらず、早晩、忘れられる運命にあった。
個々の楽器に対する録音の生々しさからも、テクノロジーの差異は明瞭だ。

ただし、ウェストミンスターが、ベートーヴェンの七重奏曲を、
3年後に録音したとき、このエリート木管グループには、
より相応しい相手が選ばれた。
シュナイダーハンの後継者、バリリらのアンサンブルである。
弦楽器群も再び、すべて首席奏者で固められたわけである。

とはいえ、コンツェルトハウス四重奏団のチェリスト、
クヴァルダは、一目置かれる存在だったようだ。
シュトラッサーの著作でも、「大ドイツ帝国」に編入された
ヴィーン・フィルが、実質的に若返ったという証拠として、
シュナイダーハン、ボスコフスキー、バリリの、
3人のコンサートマスターを得たこと、
若い3人のソロ・チェロ奏者を得たことを特筆している。

「エマニュエル・ブラベッツ、フランツ・クヴァルダは、
リヒャルト・クロチャックと共に、そのランクにおいて、
知識において、私たちの最良の時代同様のソロ奏者たちだった」
と書いているからである。

コンツェルトハウス四重奏団が、57年に、チェロのクヴァルダを失ったあと、
ウェストミンスターは、当然のように、「ます」のステレオ再録音に、
バリリ四重奏団を選んだ。

グラモフォンがカンパーらを使った時、コンツェルトハウス四重奏団としてではなく、
シューベルト四重奏団という偽名のようなものを使ったのも、
すでに、「格下」という扱いが働いていたのではないだろうか。

そもそも、コンツェルトハウス四重奏団を率いたアントン・カンパーは、
ヴィーン・フィル内で、どのような立場にあったのだろうか。
シューリヒトが指揮台に立っている写真などを見ると、
ヴァイオリンの前から三番目くらいに坐っているのが、
カンパーではなかろうか。コンサートマスターからは遠い席である。

このカンパーらの「ます」(すでに紹介済みのデムスとのステレオ録音)と、
栄光あるコンサートマスターであり、ソリストとしても大成した、
シュナイダーハンの独奏によるヴァイオリンのソナチネの一曲を、
組み合わせて出したドイツ盤LPがある。

私は、シュナイダーハンの弾く、シューベルトのソナチネ3曲のレコードを、
中学生の頃より愛聴しているので、
このようにそこから一曲だけ切り貼りしたようなレコードにも、
複雑な気持ちを禁じえない。

また、かつて、SP期からLP期の変わり目で、
八重奏曲をめぐって因縁あったヴァイオリニストたちが、
同じ盤面に演奏を刻んだ形になったが、こう書いてくると、
この盤に対しての複雑な心境はさらに深まる。

編集の都合で、演奏者の意志とは無関係に出来上がった製品であろうが、
偶然のことながら、想像以上に意味深な製品ということだ。

ここでは、カンパーの名前は、一切、あがっていないのも象徴的。
クヴァルダが参加していたら、こうはならなかっただろう。

そんなことを考えながら聴くと、チェロのバインルの存在感が、
いまひとつなのも、勝手にうなずけてしまう。
そもそも、録音技師が、それを拾う気がなさそうだし、
録音に対して、ふざけるなと、言えるだけの経験がなかったかもしれない。

こうした時は、カンパーが、若い奏者に代わって、
ふざけるな、というべきだったかもしれない。
が、それも出来なかったかもしれない。

それを推し量って、デムスが、注文を出せばよかったのだろうが、
ピアノとヴァイオリンはクリアであるし、ステレオ初期の実験段階でもあり、
そこまで意識が働かなかったかもしれない。
たびたび来日しているデムスであるから、
早く、どなたか、このあたりの秘話を聞き出して欲しいものだ。

第五楽章が終わると、
シュナイダーハンの演奏(ピアノはクリーン)が始まるが、
非常に説得力のある、陰影に満ちたシューベルト。
聴きなれているせいもあろうが、前半の曲目より、私のシューベルト像に近い。

ジャケットのデザインは、ある絵画から一部を切り出したもので、
廉価盤ならではの、可もなく不可もないものと言えよう。

得られる事:「大組織における格付けは、様々な側面で影響を及ぼす。」
by franz310 | 2007-01-01 22:13 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その38

b0083728_1953257.jpg個人的経験:
アレクサンダー・シュナイダー
の演奏を聴いていると、
いろいろな事が、思い浮かぶ。
そもそも、このヴァイオリニストは、
いろいろな顔を持つ。

チェロの神様、
カザルスと共演したレコードも有名だし、
スターンやランパルと、四重奏した時には、
ヴィオラを弾いて登場する。

何よりも、名門、ブタペスト四重奏団の、第二ヴァイオリンとして、
レコード愛好家の中では、有名であろう。

かつて、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲といえば、
ブタペスト四重奏団という時代があり、
レコード屋で、LPをあさっていると、必ず、彼らの顔が、
ジャケットの写真に飛び込んできたものである。
その中でも、シュナイダーは、一番高い位置にいることもあってか、
妙に目を引く風貌である。

この四重奏団のチェロ奏者は、アレクサンダーの兄、ミッシャである。
もともと、メンバー交代につれ、ブタペストとは無関係な団体に、
なっていたわけだから、この兄弟の名前をとって、
シュナイダー四重奏団という命名も可能だっただろう。

もちらん、第一ヴァイオリンのロイスマンを差し置くわけにはいかないだろうが。

また、不思議なことに、アレクサンダーは、この四重奏団から、
10年だけ姿を消している。1945年から54年の間は、カザルスと、
プラード音楽祭を主催していたりして、自分の可能性を模索していたようだ。

弦楽四重奏団の第二ヴァイオリンといった、
立場に収まりきらない人物だったのだろう。
1908年の生まれというから、
三十代の後半から四十代の後半までの壮年期、
束縛から離れ、思いっきり羽を広げてみたわけだ。

このようなパーソナリティの人が録音したレコードは、
いろいろな問題を孕んでいるのではないだろうか。

まず、ブタペスト四重奏団員として出来なかったことが、そこには、
込められているはずである。

シュナイダーが抜けていた、1946年の実況録音で、
ブタペスト四重奏団による「ます」のCDが発売されている。
アメリカのレーベル、ブリッジが発掘したもので、
驚いたことに、ピアノは指揮者として有名なジョージ・セル。

この四重奏団は、ワシントンの国会図書館付きの四重奏団だったので、
「Great Performances from The Library of Congress」
というシリーズにある。マイナーレーベルながら、面白いものを発見したものである。
ソニーは、大量のブタペスト四重奏団の録音を持っているはずだが、
ほとんど、有効活用せず再発売しないので、非常に嬉しい企画である。

M・キャンベル著「名ヴァイオリニストたち」には、
第一ヴァイオリンの、ロイスマンを評して、
「信じられないほど優雅な演奏家」と書いてある文が出てくるが、
この演奏などを聴いても、かつて、日本で信じられていたほど、
この四重奏団は四角四面の演奏家たちではないことが分かる。

ただし、断わっておくべきは、
意外に聴きやすい録音だが、変なノイズが乗っているところもあるということ。
何といっても、60年も前の実況録音である。

演奏時間は、どの楽章も、シュナイダーの盤よりも短いことが興味深い。
しかし、決してせかせかした演奏ではなく、小粋で内省的な演奏である。
のちに、この四重奏団は、ホルショフスキーのピアノで、この曲を再録音するが、
この時の演奏も、少しゆったりとしたものになっているので、
あるいは、暴君として知られたセルの息がかかっているのかもしれない。

冗談として描けば、セルは、実際に、ブタペスト生まれなので、
まったくブタペストとは、無関係だった、この四重奏団員だけの演奏より、
「ブタペスト」らしい演奏になっていると思われる。

このセルとの演奏と、ホルショフスキーとの演奏では、
録音のこともあり、後者の方が優れていると思うが、
セルのピアノがきれいなのと、このきびきびとしたテンポの中で明滅する、
各声部の立体的な美感は、得がたい魅力となっている。

シュナイダーの「ます」などは、この演奏から、
さらに20年を経たものであり、もちろん、単純な比較など出来ないが、
こうした。いわば「小粋な」シューベルトではなく、
雄大な、推進力に富むシューベルトを、彼は夢見ていたのではないかと、
ふと、考えた。
思い切って違う世界に、羽ばたいていたシュナイダーにとって、
これはこれで、自らの音楽を託しきった音楽になっていたのかもしれぬ。

ブタペストの演奏を聞きながら、別の演奏のことに、なぜか心が行ってしまう。

枠の中から飛び出して行って、やりたいことをやった姿には、
やはり、何か敬意を表したくなるのである。

それに加え、このCDの後で聞けば、少し硬いように思われた音質だと思ったが、
シュナイダーの盤は、文句のつけようもなく、美しい音で聞こえる。

とはいうものの、このブタペスト盤の陰影の深い、ためらいがちな演奏の方が、
シューベルトの心に近いような気がするのも確か。
こくとか、深みとかは、さすがに、
国会図書館付きの権威ある団体のものと得心させられる。

さらに言えば、最年長のセルですら、四十代の録音である。
この稀代の名団体の、若き日の息遣いを聞くには、かけがえのない記録であろう。
白黒で、ピシッとコントラストの高いジャケットの写真も渋く、
解説も、この四重奏団に興味のある人には、興味深いものである。
もう、このような骨董品的価値の録音は、愛好家であれば、
いかような角度からも、鑑賞が可能で、味わうことが可能である。

格調高いジャケットに往時を思い、少しノイズがある中にさえ、当時の空気をかぎ取り、
改めて、解説をめくって、彼らの業績をしのぶ。
それが、また、他の演奏家たちの生き様などにまで、思いを馳せるきっかけとなる。

これまた、レコード芸術の至福であろう。

得られる事:「地元マイナーレーベルに、知られざる音源発掘の勝機あり。」
by franz310 | 2006-10-01 19:59 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その32


b0083728_13291011.jpg個人的経験:
両面見開き
ジャケットの
「ます」。
ただし、
2枚組ではない。

このLPの
恐ろしい点を、
箇条書きに
してみよう。


・ゴールドベルク、プリムローズといった、超ド級の演奏者が、
「フェスティバル四重奏団」という、しょぼい名前で一括されている。
(これでは、集客効果ががた落ちではないか。)

・演奏が、巨匠の演奏だからか、超ド級に遅い。他の演奏の一割増の感じ。
それを片面に押し込めているところが、音質的にかなり苦しい。
(1枚の中に、大曲が二曲。A面に「ます」、B面に「死と乙女」。)

・ジャケット写真が見開きで完成するが、
全体的にしらっちゃけていて、薄っぺらな印象を与える。
画像の大きさでは迫力ものだが、
売られている時は、半分ずつしか見えず、
特に、日本語で、「ます/死と乙女」と書かれた方は、
陰の部分が少ないので、どうも落ちつかない。

といったところであろうか。

先のあらえびす著、「名曲決定盤」を読んで、
戦争の影響について述べたが、
この本の中で、さらに涙をさそう演奏家が、
ゴールドベルクではなかろうか。

「シモン・ゴールドベルクは、
ベルリン・フィルハーモニック管弦団のコンサートマスターとして、
若さに不相応の名声を馳せたが、そのユダヤ人の血の故におわれて、
先年は日本までも演奏逃避旅行にやって来たほどである。」
と、いきなり、シリアスな話題から記述が始められ、
「今は米国あたりに楽旅を続けていることであろう。」
などと、こんな時代には、何があってもおかしくはないわ、
といわんばかりの書かれようなのだ。

「若さと聡明さ」、「冷たく鋭い美しさ」、「埃もとどめぬ玲瓏たるもの」と、
その音楽は激賞されているが、ヴァイオリニストとして最盛期には、
さらにひどい目に会っている。

米国あたりの楽旅だけでなく、アジアにも足を伸ばしていた彼は、
ジャワで日本軍に捕まり、拘束されて終戦を迎えたのである。
終戦後は再度、音楽家としての活動を再開したが、
指揮者や指導者としての活躍が増えていった。

しかし、晩年の彼は、再度、光輝を取り戻したので、
私たちの世代の日本人にとっては、
非常に近しい、偉大な音楽家の一人となった。

デッカにレコーディングしたモーツァルトやシューベルトの作品群は、
70歳の巨匠の至芸を披露したものとして、驚きをもって迎えられた。

さらに日本の大学でも教え、日本女性と結婚したことによって、
終焉の地は日本であった。波乱にとんだ一生であるが、
壮年期には、オランダ室内管弦楽団の指揮者として、
また、アメリカはコロラド州の避暑地アスペンでの音楽祭で活躍していた。

この録音は、アスペンに集った仲間たちによる演奏である。
四重奏団というが、弦の二人がずば抜けて有名で、後の二人は知られていない。
ヴィオラのプリムローズは、バルトークが最後の作品を献呈していて、
トランプラーなどと並ぶ、名手であった。
この人も、ヨーロッパからアメリカに本拠地を移した人である。

だが、ピアノのバビン、チェロのグラウダンについては、私は何も知らない。
コントラバスのサンキーについても同じ。

見開きジャケットを使っていることもあって、解説は丁寧だ。
シューベルトの生い立ちから始まって、
「オーストリアの美しい景勝を音楽で描いたような清新な感じが全曲を満たしています」
と締めくくられる「ます」の解説も、悪くない。
ただし、独Die Forelleは、「ます」よりも「あゆ」と訳してもよい、などとあり、
見開き分のスペースがなければ書かなくてもよかったのではないか、
などと考えてしまった。

演奏は、先に述べたように、妙に遅い。
名手が集まって、十分練習しないで臨んだら、こうなったとも思えるし、
結局、二大巨頭の暴走に終始したようにも思えるし、
どう聞いていいか分からない謎の解釈である。
何度も気になって聞きなおしたが、各奏者の技量は申し分ない。
無名軍団も力演である。

「抒情的な美感と力強さと清冽さを見事に生かして演奏しています」
と解説にはあるが、どれも当てはまらないような気がする。

私のイメージでは、ピアノがしっかりと幹になって、全曲をまとめようとしているのに、
弦楽器が枝葉のように歌いだすと、
追われた地、ヨーロッパへの憧れであろうか、
綿々と美音を綴るので、遂に収拾がつかなくなってしまった、
という感じである。

日本には、ゴールドベルクのファンが沢山いるので、
ぜひとも、この録音の背景を調査して欲しいと思う。
ゴールドベルクは、「冷美」とあったが、その持ち味が、
ほとんどぶっ飛んでしまっている演奏のように思える。
確かに、他の録音だけを聴いていれば、それはそうだと思える。
だが、この演奏は珍妙なのだ。

そもそも、遠いコロラド州などで録音するから、
ゴールドベルクの望郷の感情が、
かくも、翼を広げて、羽ばたくのを、抑えきれなくなったのであろう。

一方、もう一人の別格、プリムローズは、何をやっているのか。
あまり、存在感がないのは残念極まりない。

LPは、音が貧弱で、私は十分に聞き取っていないのかもしれない。
ぜひとも、よい音で復刻して欲しいものである。

得られること:「演奏を団体名で語るだけでは分からない。蓋を開けると各奏者には、予想外の名手あり。ただし、名演奏であるかは、これまた話は別。」
by franz310 | 2006-08-20 14:53 | 音楽