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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その449

b0083728_17355809.jpg個人的経験:

アドルノは、極めて音楽に精通し、

生前から称賛されながらも、

「そんな口をきく勇気を

あなたはどこで得たのですか?」

と詰問されたりもしている。

こんな事まで言われる

傲慢不羈な音楽評論家は

めったにいるまい。



そんな事から、

この人自身が書いた音楽を集めたCDを聴いてみた。




現代音楽の録音が多い、

ドイツのWERGOから

「テオドール・W.アドルノ音楽作品集

という一枚が1990年に出ている。

1988年9月17日、

フランクフルト旧オペラ座での録音で、

カバーは、今回もカンディンスキー。

「コンポジションⅣ」(1911)である。

以下の曲が集められて、

沢山、聴けてお買い得盤だとまずは思った。

弦楽四重奏のための2つの小品作品2(1925/26)

ブッフベルガー四重奏団

6つの短い管弦楽曲作品4(1929)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

無伴奏女声四部合唱によるテオドール・ドイブラーの3つの詩(1923-1945)

ハンス・ミヒャエル・ベウエレ指揮フランクフルト室内合唱団

マーク・トウェインによる計画されていた音楽劇「インディアン・ジョーの宝」

からの2つの管弦楽伴奏歌曲(1932/33)

マキシミリアン・キーナー(トム・ソーヤー)

ホルガー・ナイザー(ハックルベリー・フィン)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

小管弦楽のためのロベルト・シューマンの作品68からの

6つの小品「子供の年」(1941)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

解説はシークフリート・シブリ(W.リチャード・リーヴス英訳)。

このシブリ氏(アドルノの作曲家としての創造活動の研究家)

が、1988年9月、シンポジウムに合わせて、

フランクフルト旧オペラ座で開いたでのコンサートの記録。

この時、「作曲家アドルノ」というブックレットが出版され、

プログラムとして提供された。

さすが、哲学者の作曲した作品であるだけ、

いきなり、難しい事が書いてある。

「テオドール・W.アドルノは、

哲学者のヘーゲルと同様、

芸術作品は知識の形であると考えていた。

このことが、アドルノの立場を、

芸術は、世界を写し、

それゆえ、知的な興味から引き離された鏡にすぎない、

とする同時代の多くの他の思想家の立場と異ならせている。

最初から頭が混乱する。

芸術とは何か、という問いに対し、

「知識の形」

「世界を映す鏡」

のいずれであるか、

などと考えてから、

五線譜に音符を並べて行ったわけではあるまい。

以下、こんな事が解説されている。

「それゆえ、アドルノの芸術作品を

単なる余暇の活動と分類するのは間違っているのだろう。

特に、彼は『趣味』の概念を厳しく批評してもいるのだから。

例えば、彼は、その最後に完成させた

書籍『キャッチワード』に見られる

『レジャータイム』というエッセーで、

『私には趣味がない』と書いている。

『自分がやらなければならないこと以外のことで、

自分を追い込む意味がわからないという程には、

私は仕事中毒ではありません。

しかし、私が普段努力している以外の分野についても、

こうした活動を趣味と呼ぶのかもしれませんが、

例外なく、私は行っていることについて真剣に考えています。

これらは比較的無意味な、時間を無駄にする活動で、

非常に不愉快なものであって、

現在では、一般に受け入れられている

この野蛮な風習の現れに対しても

寛容になるような体験にはなりませんでした。』」

これまた、頭が痛くなるロジックである。

「真剣な余暇」はない、ということか。

「それが出来るように、

アドルノの生涯にわたる生産性と比較しても、

19歳にして野心的な重要作品をすでに書いており、

1969年に亡くなるまで作曲を続けていたため、

作曲が人生の中で補助的な役割を果たしたことは明らかである。

郷里のフランクフルトで、

まず、最初はプライベートで、それから、ホッホ音楽院で、

ベルンハルト・ゼックレスやエドゥアルト・ユングに就いた。

1925年、16歳のアドルノ

(訳注1925年なら22歳のはず、

16歳なら1919年のはず)は、

すでにシェーンベルクの楽派が

音楽の進歩の方向を示していると確信し、

アルバン・ベルクや

エドゥアルト・シュトイアマンの下で学ぶために、

ウィーンに旅した。

アドルノの「ミニマ・モラリア」の回想140番によれば、

ゼックレスは、それは、『過去のもの』として、

『ウルトラ・モダンな』無調の音楽を書くのを、

諦めさせようとして失敗し、

アドルノには、郷愁という汚名が付けられていた。

ベルンハルト・ゼクレスは、

指揮者でもあったハンス・ロスバウトや、

イタリアの作曲家でピアニスト、

カゼッラの師匠らしいので、

そこらのおっさんのアドバイスではなかったようだ。

「アドルノの音楽作品をよく研究した人の一人、

ディーター・シュネーベルは、1970年に、

『同時代の他の作品に比べると、

アドルノの作品に何か時代遅れのものがあることは確かで、

そこには、シェーンベルク、ベルクや、

ウェーベルンが20年も前に作曲したものを超えるものがない。

それらは形式的に新ウィーン楽派の伝統のもので、

偉大な作曲家たちがすでにそのような形式を放棄したときに、

それでもそれらは書かれている。

第一次世界大戦以前の音楽の精神を思い出させ、

アドルノの音楽には、何か、郷愁のような質感が感じられる。

それは、新音楽の偉大な英雄時代への憬れを表現している』。」

この「第一次大戦前の音楽」というのは、

妙に生々しいイメージを感じさせる。

そうであるなら、確かに欧州各国の帝政時の音楽、

ということになり、時代遅れに違いあるまい。

「このフォームは歌曲、弦楽四重奏の楽章、

女性合唱のための作品、管弦楽作品にも及んでおり、

1980年にハインツ・クラウス・メッツガーと

ライナー・リーンによって出版された二巻からなるアドルノ作品集、

1980年のミュンヘンシリーズ版のテキスト、

批評 でも確かめられる。

このコレクションは作曲家としてのアドルノにまず注意を引き、

アドルノ自身が認めた作品(メッツガー、リーン)のみを含む。

これは、あるいは、この録音もまた、

アドルノが、明らかに、もっと重要な作品が出版されるまで、

世に出すつもりがなかった他の作品は含まれていない。

こうした他の作品にはそれぞれ一曲ずつの

弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲、弦楽五重奏曲、

それにピアノ作品集がある。

ピアノ伴奏つきの歌曲は、アドルノの『作品集』の

最大の部分を占めている。

シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンと同様、

作品1と作品7のテキストとして使ったステファン・ゲオルゲの詩や

『表現主義の時代』からの同時代の抒情詩に

作曲することを好んだ。

これらの難解な作品の作曲年代は奇妙で、

作品1が1920年代に書かれているのに対し、

作品7は1944年まで書かれていない。

アドルノの芸術歌曲は、

作曲技法に関する限り、統一されたグループとなっていない。

作品3の3のトラークルの詩による『In Venedig』のように

快活で朗々とした作品(これはアドルノは最もベルク風と呼んだ)や、

作品7の4のゲオルゲの詩による『Kreuz der strasse』など、

もっと不安定なウェーベルン風のもの

(ここでは描写的な瞬間が、全体的に抑制されているわけでなく、

全体構造に非常に微妙に織り込まれている)がある。」

確かに、これらの作品は、

精緻に書き込まれているという感じがする。

しかし、第一次大戦は、続く大戦と共に、

あまりにも多くのものを消滅させてしまった、

という事になろうか。

アドルノは、ナチスのような全体主義に異を唱えたし、

ナチスを生んだのが、

第一次大戦の余韻であるかもしれない、

とは言いながら、その前に戻ればよい、

というものでもないだろう。

「彼の論述の中で、12音技法を(彼の主張を要約すると)

『自由な無調』からの回帰として批判しているのは、

おそらく興味深いことで、例えば作品6のバガテル集のように、

彼は自身の作品でしばしば12音技法を使いながら、

新しいテクニックの創造性は活用しつつも、

それを自動的な作曲方法として悪用することはなかった。」

この解説の腹立たしいのは、

作品3だ6だと書きながら、

これらの曲は、このCDに入っていない、

という点である。

「『新ウィーン楽派』は難解な『芸術のための芸術』しか

生み出していないと一般的に考えられているが、

実際には機能的で政治的に関わる音楽の例さえある。

アドルノの公開された作品でもベルトルト・ブレヒトの

プロパガンダの2つの詩に作曲したものがあるが、

これなどはおそらく、

ハンス・アイスラーのプロテスト歌曲に対する、

語法の創造性を批判が意図されたものであろう。

他の声楽作品にはテオドール・ドイブラーのテキストによる

3曲の女声合唱曲があり、1923年に書かれ、

1945年に作曲者自身によって改定された。

クリタス・ゴットヴァルトは

これらのドイブラー合唱曲に関して、

このように書いている。

彼は全てが決定論的な芸術作品に、

自動的に意味があるだろうかと疑った。

しかし、この1923年の作品では、

彼はそう単純に言い切れるか満足できなかった。

またまた、難しいお話となる。

「決定論的な作品」とはなにか。

予定調和的ではいかん、なら分かるが、

「あらかじめ原因があるかどうか」

という議論をするとなると、

誰かの詩に曲を付けただけでダメ、

ということにならないか。

「アドルノは全体的な決定論に代わるものとして、

調性も色彩主義も、全音階主義も無調律も排除されず、

意味あるように構成された音楽のビジョンを提供した。

この一節も難しい。

最初から、こうやって書こう、

と構想しないということか。

決めないで、何でもありにしようということか。

それは、いちいち哲学する必要があるのか。

真面目に五線譜に向かえ、

と言いたくなる人はいなかったのだろうか。

「アドルノの音楽劇への唯一の試みは、

マーク・トウェインを原作とした、

『インディアン・ジョーの宝物』のジングシュピールで、

このリブレットと二つのオーケストラ伴奏歌曲が残されている。

このプロジェクトの直接的な放棄の理由は、

アドルノの友人、

ワルター・ベンジャミンのからの批判であった。

アドルノが子供の世界を使って、

非常に深刻なもの、

特に恐怖の現象を表現したいと望んでいたところ、

ベンジャミンは台本から

すっかり牧歌的なものが削られていることを見て取った。」

これで、筆が止まったのなら、

ベンヤミンの言葉は図星だったということか。

ボーイ・ソプラノで歌われる

「猫の死の歌」 を聴くと、

声の質感も美しく

音楽は巧緻極まるが、

ベルクの音楽との違いは分からず、

「トム・ソーヤー」を題材にする意味が分からない。

「ハックのパフォーマンスの歌」は、

より軽妙だが、前の曲同様、楽器の扱いも巧妙。

だが、たかだか1分半の音楽なので、

全体がどのように構想されていて、

どれだけの規模の作品になる予定だったのかまでは分からない。

まさか、数十分で終わる作品だったのだろうか。

そうだとしたら、とにかく、全部書いてくれ、

という感じもする。

「器楽曲もいくつか残っていて、

1920年代のアドルノとしては、

複数楽章や循環形式など古典的原則を避けた、

弦楽四重奏のための2つの小品が書かれ、

1921年にはすでに弦楽四重奏に高く手を伸ばしていた。

一曲目は『動きをもって』と記され、

もう一曲は変奏曲である。

これは、アドルノの師であったベルクの精神を含み、

また、シェーンベルクの音楽の激しい音響効果や形式の厳格さがある。」

この弦楽四重奏の小品は、何とか、

このCDに収められていて「作品2」とされている。

最初の曲は、約7分で、

この規模で4楽章揃えば、立派な弦楽四重奏曲になる規模である。

「動きをもって」とあっても、せわしないものではなく、

きわめて優しげな表情の序奏から始まり、

アドルノの哲学の辛辣な舌鋒は感じられない。

やがて、何かを求めて焦るかのように、

音楽は、大きく揺れ動く。

時折、序奏の表情に和ませられるが、

何か皮肉な色合いが混ざることもある。

ベルクの四重奏に似ている、と片付けることも可能だろう。

二曲目の曲は5分で、変奏曲にしては短い。

この曲の冒頭も、妙に思索的、内省的。

何でもかんでも吐き捨てるように言い切るアドルノの文体ではない。

音楽は、いくぶん、悩まし気に、探りを入れながら進む。

最後は、それも諦めたかのように沈黙していく。

この後、いきなり大編成の音楽が、

しかも、やかましく始まるので、

雰囲気がぶち壊されるのが、

このCDの困ったところである。

「1929年にはアドルノは作品4として、

6曲の管弦楽用の小品を書いた。

これは明らかにシェーンベルクやベルクの

管弦楽曲を想起させるが、ずっと短い。

二つは密度高く構成されたミニアチュアで、

たった12小節の長さしかなく、

きわめてデリケートな解釈を求める。」

これは3曲目と5曲目のことだろうか。

3曲目は、目まぐるしい音楽の流れの中に、

いろいろな楽想が浮かんでは消える。

5曲目も同様にせわしない感じのもので、

「ワルツ」とあるが、めちゃくちゃな旋回で、

ざわざわした音楽。

ヴァイオリン独奏が、ぴゃーっと鳴って終わる。

どの曲もあっと言う間に終わるので、

これまた、次の女声合唱曲が始まる感じ。

ドビュッシーの「夜想曲」みたいな感じになるが、

単に、別の曲が始まっただけである。

「夕暮れ」も、「冬」も「時々」も、

二分未満で、それぞれの曲を、これはこう、これはこう、

と論じようと思う前に音楽が終わってしまう。

実際には、「夕暮れ」にせよ、「冬」にせよ、

そのタイトルにぴったりな雰囲気があるのだが。

「アドルノはまた、すぐれたピアニストでもあったので、

自作の歌曲の伴奏のみならず、

ロベルト・シューマンの歌曲の伴奏をすることを好んだ。

『子供時代から(子供の年)』の6曲は、

シューマンの『43の子供のための小品』から抜粋され、

小オーケストラのために編曲されたものである。

オーケストレーションは、

アドルノのアメリカ亡命時代になされたようだが、

何がきっかけになったかは知られていない。

シューマンのトランスクリプションは、

社会学者であり哲学者としてより知られた一人の芸術家による

小品でありながら高度に洗練されたもので、

自身、作曲家として単にディレッタントとしては

留まることを許さないような特異なものとなっている。」

これらは40秒台で終わってしまうが、

他の4曲も、一分半くらいのものなので、

6曲合わせても7、8分で終わってしまう。

これでは、演奏会で前座すら務められないではないか。

そもそもこのCD自体が短すぎる。

シューマンの編曲は、

エルガーの小品を聴いているような感じ。

したがって、聴いていて気持ちはよい。

アドルノが何をしたかったのかは、

さっぱりわからない。

私は、このCDを10回以上聴いたが、

時間の無駄だったような気もしている。

得られた事:「アドルノは立派な作曲家であったかもしれないが、早くから、『郷愁男』などと揶揄されていたように、先人の影響を受けすぎていた。」

「ただし、その先人が、当時、まだ一般的な存在でなかった新ウィーン楽派であったために、何だか現代音楽っぽく感じられるだけ。」

「このCDで聴く限り、どの曲も短くて、いかなるコンサートで取り上げられても、印象を残さず終わると思われる。」

「人を非難する言葉が饒舌な割には、音楽は簡潔で、印象も薄い。おそらく、書けば書くほど、自分の言葉にとらわれたのであろう。そういう意味では誠実である。」



by franz310 | 2019-06-16 17:38 | 現・近代