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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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カテゴリ:シューベルト( 129 )

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その65

b0083728_19545440.jpg個人的体験:
インフルエンザにかかって、
高熱を発して三日間、
全身、節々の痛みで寝込んでいた。
その間、目を使うと、
目の奥が痛み出すので、
目を瞑って
出来ることと言えば、
CDウォークマンで
音楽を聴くことだけであった。

そんな環境で、
オンスロウの交響曲を聴くうちに、
シューベルトの事を思い出した。
オンスロウの交響曲第三番は、
原曲は、「弦楽五重奏曲」である。

そもそも少ない編成で演奏できるものを、
大編成にするというのは、
何となく水増ししているみたいで抵抗がある。
レコードがない時代、大編成の曲を、
ピアノや室内楽、あるいは管楽合奏などに編曲して、
普及させる習慣は、ハイドンの時代からあったようで、
私は、そうしたレコードはかなり好きである。

家庭の狭い環境で、大交響曲のレコードを再生するより、
スペース的には理に適っているような気がするし、
多くの楽器の色彩で覆い隠されていた音楽の実態が、
こうした編曲によって垣間見えて来るという面白さもある。
もちろん、油彩をデッサンで楽しむような趣も渋い。

とはいえ、ラヴェルがムソルグスキーのピアノ曲を、
管弦楽演奏できるようにした場合のように、
デッサンに油絵の具を塗りたくって、
華やかな音響の渦に浸れるようになった場合はないわけではない。
特に、市民階級が大娯楽を求める時代になってからは、
そうした例がいくつか出てくる。
沢山の演奏家が一体になって鳴り響かせる大音響の渦の陶酔は、
まさしく筆舌に尽くしがたい効果を上げるからであろう。

晩年のシューベルトが、
「もう歌はやめた。交響曲とオペラだけにする」と語ったのは、
ベートーヴェンやロッシーニ、ウェーバーなどの成功を、
意識した言葉であろうが、ひょっとするとこうした歴史的な展望の中で、
捉えられることが出来るかもしれない。

シューベルトと同じ頃、オンスロウも同じ気持ちを抱いたと思われる。
1820年代の中ごろにはオペラを1830年には交響曲の作曲を開始した。
シューベルトはその間に亡くなったが、交響曲もオペラも、
成功しなかったり、演奏されなかったりで、結局、最晩年を飾るのは、
いずれ至宝の如き、室内楽曲やピアノ曲、そして歌曲であった。
シューベルトが、先の言葉に固執しなかったのは、
大変、良いことであったと、考えることも出来よう。

これらの大規模な作品の仕事に専念するということは、
オンスロウのCD解説にもあったように、
作曲以外の事務仕事に忙殺されるからである。
それによって、シューベルトの最後の2年を飾る傑作群の、
どれが書かれなかったと考えるだけでも、恐るべき損失であろう。

イギリスを代表する作曲家のベンジャミン・ブリテンなどは、
音楽史で最も実り豊かな一年は、1828年であったと言っている。
いうまでもなく、名作群を立て続けに完成させていった、
シューベルトの最後の年のことを指している。

しかし、先の言葉にあるように、交響曲を想定したような、
壮大な構成が晩年の諸作を彩るのも事実であって、
その編成に収まりきらないような豊かな、
空間的、時間的な広がりが、晩年のシューベルトの作品を特徴付ける。
また、交響曲も、歌劇も、最期までシューベルトの構想にあって、
これらのスケッチの残骸が、その草稿の中に沢山残されていた。

長命だったオンスロウも、交響曲とオペラへの熱中から、
室内楽の作曲家に戻って行くことになるが、
シューベルトが長生きした場合、どのような作品群が残されたのであろうか。
あるいは、1828年がピークで、あとは昔の作品の焼き直しみたいなのが、
ぞろぞろと作られるだけになった可能性だってあるだろう。
こう考えると、失敗の連続こそが、
シューベルトの絶えざる発展を生み出したとも言える。

それにしても、最期の年に、シューベルトが、
こうした高度なレヴェルに達した作品の作曲に専念できたというのは、
素晴らしいことであった。
例えば、前の世代のモーツァルトも、
後の世代のマーラーやR・シュトラウスも、
必死に演奏会や家庭教師によって収入を確保しながらでないと、
作曲などをすることは出来なかったのである。

シューベルトは、最後の年に、自作のみの演奏会を企画し、
成功を収めているし、そこそこ、楽譜も売り出せていたから、
短命ではあったが、道を究めることが出来たのであろう。

とはいえ、意欲的な作品ほど、出版社は難色を示した。
それによって、シューベルトが方向転換して、安易な作品ばかりを、
売り込むように、なったりしなかったのもよかった。
だが、長生きしていたら、
そういった誘惑に負けることもあったかもしれない。

ということで、シューベルトの作品は、
演奏されず、出版もされず、といった扱いになる場合があり、
識者の中で、これを何とかしようと考えるようになる人が出てきた。
ピアノの名匠フランツ・リストは歌曲をはじめ、
「さすらい人幻想曲」の管弦楽化などでシューベルトの普及に努めた。
ベルリオーズなども歌曲「魔王」の伴奏を管弦楽化した。
さらにヨアヒムは、ピアノ連弾のソナタを交響曲にしてしまったし、
ついには、日本人が最晩年の大作、「弦楽五重奏曲」を、
交響曲に編作してしまった。

私は、この曲の存在を何年か前に知って、こうしたものが、
まさか実演されると思っていなかったのに、
何年か前に、新宿でこれを聴くことが出来た。
その時の印象は、非常に地味なものであったが、
一番安い席で聴いたせいかも知れない。

最近、その時の指揮者、高関健が、
同曲を録音したCDが出たのを知っていたが、
その時の印象もあって、特に入手する機会がなかった。
それが、今回、病床にあってオンスロウの交響曲を聴いているうちに、
チェロ二つの弦楽五重奏曲の最高作とされるシューベルトの作品を、
どうしても、改めてオーケストラ版で聴きたくなってしまった。

動けるようになって何日かして、あちこちのレコード屋を、
探し歩いたが、少し遠出して、ようやく発見した。
「シューベルトの五重奏曲をオーケストラ用に編曲したものを探している」
と言うと、たいていの店員は、
そんなものは聞いたことがないという顔をする。
仕方がないので、指揮者の名前を言っても、ぴんと来ないらしく、
逆にレーベル名を聞いて来たりする。
こちらも、そこまでは知らないので、
日本のレーベルだと答えると、相手はますます訝しげな表情となるので困った。

出てきたCDを見て狂喜したが、
何とかならないのだろうか、このデザイン。
指揮者が大写しになっていて、編曲者の写真が、
その上に並んでいる。
題名も、「後期ロマン派に於けるトランスクプリプション」!
何じゃ、これは??
完全に、「分かる人だけ分かれば良い」といった装丁なのである。
シューベルトの「シュ」の字もないので、
これはどんな愛好家を想定した商品なのであろうか?
と悩みこまずにはおれない。

(なお、ここにはもう一曲、マーラーが編曲したバッハの「組曲」という、
超キワモノが収録されている。もちろん、バッハの「バ」の字も、
表紙には書かれていない。
これは、あまりにも奇妙な作品で、ここで語り出すと、
止まらなくなって、文章が終わらなくなってしまう。)

購入して帰りの電車で解説を読み、
解説は、編曲した近衛秀麿自身の言葉、
再演した高関健の言葉が十数ページにわたって記されているのには、
大変満足した。
前回、コンサートで聞いたのは、1998年の2月だったようだ。
オーケストラは新日フィル、東京オペラシティのオープニングシリーズとある。
近衛の生誕100年を記念しての演奏だったようで、
今回の群馬交響楽団との演奏が、同じ年、6月、群馬での演奏だったらしく、
ライブ録音とある。
近衛秀麿は、ドイツの大指揮者フルトヴェングラーとも親交があった、
日本指揮界の草分け的存在で、
その交友と指揮姿から、「振ると面食らう」と呼ばれていた人、
あるいは、雅楽をオーケストラに編曲した人、
というくらいしか知識がなかった。

したがって、単に、珍しい自分のレパートリーを増やすために、
いろいろ行った編曲のうちの一つであろうと、勝手に思いこんでいた。

しかし、この解説を読むと、近衛は、この五重奏曲を、心から愛していたようで、
「正直なところこの一曲は、
僕がかつて音楽的に受けた最大の感銘であったといえる。
当時、まだ音楽に対して去就を決し兼ねていた僕は、
この一曲に音楽を生涯の仕事とすべき理由を見出した。」
とさえ書いているのである。

ちなみに、大ピアニストのルービンシュタインも、
この五重奏曲から、生涯最大の感銘を受けたということを、
どこかで書いている。

また、この曲の構想の大きさゆえに、弦楽五重奏だけで演奏するには、
無理があって、管弦楽化でそれが補われると、ブラームスも言っていると、
その編曲の正当性を論じている。
シューベルトが楽長の職に就いていたら、
おそらくこれを管弦楽で演奏することを考えたはずだというのが、
近衛の意見である。

晩年のシューベルトの書法を、「枯淡の筆」、「孤独で内省的」と書き、
「イ長調(ます)の五重奏曲(一八一九年頃の作)と比すと、
その心境の変化の甚しいのに驚く他はない」とも書いている。

十数年にわたり、五回も書き改めて、シューベルトの様式に、
極力近づけたので、編曲者の個性は出ていないはずだということだ。
オーケストラの楽器もシューベルトが使った編成のものに抑えたという。
題して、「弦楽五重奏曲による大交響曲」である。

指揮をしている高関は、
「木管楽器やホルンに多くの旋律が振り分けられ、
また複数の音色のブレンドにより
柔軟でほのぼのとした響きを得ることに成功している。」
と評価している。

これは、早く聴きたくなるではないか。

私は、帰宅すると、疲れ果て、横になって、
再びポータブルCDプレーヤーにて、これを鑑賞した。
やはり、原曲から大きな逸脱はなく、管楽器や打楽器の補助によって、
響きの豊かさを増しただけという感じ。
(そういえば、もう一つの代表作「越天楽」も、
雅楽をそのままオーケストラに移したような音楽であった。)

私は、オンスロウの交響曲第三番
(こちらは作曲者自身による弦楽五重奏曲からの編曲)
の時にも感じたが、それと同じ印象。
交響的幻想曲の感触である。

やはり、金管楽器が、朗々とファンファーレを奏するような部分がないと、
オーケストラ曲として、ちょっと渋すぎるような気がする。
そもそも、原曲が、チェロの響きを効果的に響かせるべく、
特殊な編成で書いた曲なのであるから、低音の動きが活発になりがちである。
当然、地を這うような、かまぼこ型の音楽となる。
ちょっと類例のない管弦楽曲である。
しかし、要所要所で、ティンパニが轟き、管楽器が吹き鳴らされて、
突き進む様は勇壮であると共に、様々な彩りを添えられて歌われる夢は、
非常に豊かな広がりを持つこととなった。

心が豊かに満たされていって、疲れを忘れ、
この大曲を一気に聞き入ってしまった。

b0083728_19554595.jpg最近、うまいことに、
近衛秀麿に関しては、
評伝が本になっている。
(大野芳著、
「近衛秀麿 
日本のオーケストラを
つくった男」(講談社))。
ようやく、
本を読んでも
頭痛がしなくなった頃、
私は、
これを一息に読んでしまった。

これを読んでも、この曲が、この音楽家の活動の中で、
重要な役割を果たして来たことが分かる。

特に、1933年、何と、本場ベルリン・フィルの演奏会で、
この作品をお披露目したという部分が圧巻である。
大作曲家のR・シュトラウスも臨席して行われた、
この音楽界は大成功で、翌日の新聞には大きく報じられ、
その夜の夜会では、フルトヴェングラーが待ち受けていたとある。

「案の定、僕のシューベルトの管弦楽化が話題になり、
賛否が半ばしていた」とある。
「文筆家は室内楽の管弦楽化に難色を示し、
演奏家や作曲家は興味を持ったようだ。
「なかでもクライバーの激励には感動した。」
とか、
「日本でもレコードで有名なウィルヘルム・ケンプが
額に青筋を立てて擁護論を弁じてくれたのは愉快だった。」
とあるから、この音楽は本場の大物たちをも唸らせたものと見える。
クライバーもケンプも、シューベルトに関してはうるさかったはずだ。

近衛は、戦争中もヨーロッパで指揮者として活発に活動していたが、
このあたりはナチスの治世下のことゆえ、多くの人が忘れようとして、
いろいろなことが、不明確な状況となっているようだ。

この本は、宰相、近衛文麿の弟でもあった、
大指揮者の波乱万丈の生涯を取り上げて、
非常に参考になった。
「近衛を超える指揮者はまだ日本に出ていない」とされる巨人が、
いかにして、狭い日本の風土では阻害され、忘れられていったかが、
これを読むとよくわかる。

得られたこと:「せっかくの意欲的な企画も、店員がぱっと思いつかないような商品作りでは、ないも同然の扱いとなる。」
by franz310 | 2007-04-08 19:57 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その63

b0083728_2326202.jpg個人的経験:
オンスロウを表わすのに、
適当な絵画としては、
ここに紹介したような、
18世紀イギリスの
絵画なら、
まだ、許容範囲にあると
言えよう。

ゲーンズボロの名作、
「公園での歓談」は、
1746年の作とあるから、
オンスロウは貴族だということだし、
彼のお爺さんの世代なら、
こんな感じだったかもしれない。

ゲーンズボロは、肖像画家として高名で、
イギリスでは第一人者と言われた人であるが、
ここでも、画中の人物の表情は味わい深い。

これまで、シューベルトと同時代を生きた、
知られざる作曲家、オンスロウを集中的に取り上げてきたが、
このCDは、解説に、その出自について、特によく書いてあるから、
ちょっと、ここで、概観してみよう。
書いたのは、Bert Hagelsという人である。

CDに録音されているのは2曲で、作品44と作品77。
この77は、作品77bとして、
私の耳に初めて入って来たオンスロウ作品の原型である。
前に聞いたのは、オンスロウ晩年の栄光を象徴する
華麗な音楽だったと記憶するので、
元の形が聞けるのは、私にとっては大変喜ばしい。

とはいえ、何故、弦楽五重奏曲作品44が、
それに組み合わせられているのかは、さっぱり分からない。
聴いてみるとかなりの力作である。
何しろ、ハ短調である。調性から受ける印象通りに、
凝集力ある傑作と見た。
ここでも、コントラバスの入った五重奏として弾かれている。

この解説は、丁寧で得るところが多いが、
何しろ長大なので、このCDは2回に分けて、
後半に納められている作品44を書いた頃までの生涯を、
まず、教えてもらうことにする。

「ジョルジュ・オンスロウは、フランスの音楽史において、
あらゆる見地から見ても、ひとかどの人物であった。
19世紀前半において、フランスの作曲家が、
もっぱら器楽曲のみに専念するということは、
困難なことであったが、さらに、同時代者によると、
その器楽作品も、専門家の小さなサークルでしか演奏されず、
また、パリのサロンの主な嗜好に対して譲歩することもなく、
ただ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、弦楽五重奏曲といった、
器楽の領域に自らの活動を限定した。」
これは、これまでのCDでも、必ず触れられていたことである。

「同時代の音楽活動は完全にオペラに支配されていて、
メユール、ボアエルデュー、オーベール、エラールといった作曲家は、
ピアノや室内楽アンサンブルのために、そのキャリアの初期に、
聴衆への売り込みのために書いたにすぎない。
その機会が訪れるや、彼らは早々に、そこから離れて、劇場に向った。」
これもそう。だが、ここでは、オンスロウが、
歌劇の世界から離れていったことを、以下のように説明している。

「オンスロウが劇場のために書くことを、
好まなかったということはまったくない。
何しろ、彼のペンからは三つのオペラが書かれ、
その時には、手紙の中で、器楽曲に飽きたとさえ、書いているのである。
しかし、彼は田舎貴族としての人生を、
最長六ヶ月もの期間をパリで過ごすオペラ創作に必要な
てんやわんやの落ち着きのなさのために交換する覚悟は出来ていなかった。」
確かに、貴族の静かな思索には、このような世界はふさわしくなかろう。

「構想を練っては、音楽をつけて欲しい台本を、
作曲家に割当てるという、歌劇場の強力な音楽監督と共謀することで、
歌手や舞台係と口論し、検閲など、日々のレビューに悩むというものである。
これらのことは、彼を年がら年中、パリに縛り付けるものだ。
しかし、オンスロウの研究家Viviane Niauxの専門書の副題によれば、
彼は、紳士であるとともに、作曲家でもあったので、
どちらかの偏愛ゆえに一方を捨てることは出来なかった。」

つまり、歌劇の作曲家というのは、単なる芸術家としてだけでなく、
やたらの事務処理をこなすビジネスマンでなければならんということで、
オンスロウには、そんな暇はなかったということだ。
そんなのは領地経営で飽き飽きする世界であろう。

また、確かに、どの時代でもオペラに成功した人は、
その他の作品は、恐ろしく限定されてしまう傾向がある。
ウェーバーも、ワーグナーもそうだった。(モーツァルトのみが例外か?)
シューベルトは、オペラで成功しようとして、何年かをそれに注力したが、
こう見てみると、成功しなくて良かったと思う。
もしも、「アルフォンソ」なり「フィエラブラス」なりが、
大成功していたとしたら、後期の傑作群はどうなっていたことであろうか。

それにしても、Vivianeにここで再会するとは思わなかった。
この人は、別レーベル、MDGのオンスロウシリーズの解説を書いている人だ。

「彼のフランスでの音楽生活と同様、
オンスロウの家族の歴史も、異常なものである。
それはスキャンダルで始まった。
オンスロウ男爵の四男であった彼の父親のエドワードは、
1780年頃、英国国会のメンバーに新たに当選し、
輝かしい政治的キャリアが用意されていた。」

ここから、ありそうでなさそうな話となる。
「しかし、彼のキャリアは、
Phelim Macartyという男に、
同性愛のアプローチをしたという噂で、
突然、予期せぬ結末を見ることとなった。
この情報は、ロンドン中を沸かせるスキャンダルとなった。
そこには真実の核心も含まれていたのであろう、
なぜなら、エドワード・オンスロウは、フランスのオーヴェルニュ亡命という、
切迫した試みを選択しているからである。
以来、彼は両親から十分な資金を受け取り、
やがて、土地の紳士階級のサークルから招待を受けるようになる。
ある訪問の際、
彼はMarie-Rosalie de Bourdeilleに紹介され、
恋に落ちた。
彼女は、先祖が8世紀まで遡ることのできる特別な家柄の娘で、
美貌で知られていた。」

同性愛の次は美貌の令嬢との恋愛である。
小説の主人公さながらの活躍である。

「彼女の両親は、最初は英国のプロテスタントとの結婚に反対したが、
エドワードはオーヴェルニュに腰を落ち着けること、
フランス市民となることを約束し、結婚が承認された。
彼らは1783年3月7日にパリで婚礼を挙げた。
新婚の二人はクレルモントに落ち着き、
1784年7月27日に最初の息子が生まれ、
Andre-George-Louisと名づけられた。
翌年、娘が生まれたが、すぐに亡くなり、
続いて、3人の息子たちが生まれた。
1789年の5月、革命の直前に、
一家は、クレルモント・フェランに近いMirefleursの
Charendrat城を購入した。」
家族構成までの、細かい解説は初めて読んだ。
この調子で行くと、この長命な作曲家の紹介に、何ページかかるのか心配になる。

「従って、1793年に家族の生活に革命が影響を与えなかったら、
ジョルジュの幼年期も青春期も、その地所で過ごされたに違いない。
新しいフランス共和国の地方官にとって、
エドワード・オンスロウは、二重に怪しかった。
まず、馬や武器やいくらかの領地を取り上げられたが、
さらに、『イギリス人』という単純な理由で、
1793年10月には、逮捕までされてしまう。
一ヵ月後、そのかわりとして家での軟禁状態となり、
すぐにこれも解除された。
このような騒乱は、若いジョルジュの教育には、
ほとんど影響しなかったように見える。」

確かにフランス大革命期に重なっており、
私も、こうした事態までは、想像力を働かせていなかった。
確かに、貴族には、恐ろしい運命が待ち受けていたことであろう。
しかし、これくらいで済んだのだろうか。
以下、もう、このCDの作曲家の神童期のエピソードとなる。

「1796年の初めに、父エドワードは、
11歳半の息子について、
彼はすでに、地理や神話について熟知していて、
歴史についての勉強や、英語の読み書きを始めたと書いている
それにもかかわらず、彼の主たる才能は音楽にあって、
彼の年齢にしては、非常にピアノをよくしたが、
彼の父のエドワードが絵画をしたのと同様、
これらに専念することは、若い人を馬鹿な考えから遠ざけ、
無駄な時間を過ごさないようにすることが出来るということから、
役に立つし、また、楽しむことのできる娯楽になると考えられた。
こうした田舎の田園生活は、一年後に突然、終わりを告げた。」

波乱万丈である。

「エドワードは王党派の地方財務官、会計係を委託されていたが、
英国のピット首相へのスパイ容疑(彼は必死で否定したが)
で告発されたのである。
1797年の九月、彼は国を離れなければならなかった。
彼のさらなる亡命をもっと楽しいものにするために、
マリー-ロザリエと3人の年少の子供たちが、
フランスに留まったのにもかかわらず、
長男ジョルジュは、父と同行することとなった。」

作曲家のオンスロウより、父親の話が多いが、
それだけエピソードの多い人だったのであろう。
しかし、こうした経験が、次のステップに繋がっていくところが、
人生の面白さかもしれない。
何かをすれば、何かが起こるのである。

「彼らは最初、アムステルダムに行き、
1798年の最初に、ハンブルクに移った。
この北ドイツの港町は、故郷から離れていたにもかかわらず、
少なくとも、ジョルジュが、当時最も有名であったピアノの名手
チェコ出身のJ・L・ドゥセック(1760-1812)から、
レッスンを受けることが出来たという好都合があった。」

このドゥセックも、面白い人である。こう書かれている。

「1799年の初頭、ドゥセックは、
ロンドンにおける彼の出版社が倒産した際、
彼の債権者たちから逃れてハンブルクに来て、
ピアノのレッスンとコンサートで生計を立てていた。
しかし、ドゥセックのオンスロウへのレッスンは、
そんなに長くは続かなかった。」

さて、この貴族の一家も、すぐに楽しそうな日々に戻る。

「オンスロウ父子が、何時、オーヴェルニュに戻ったか、
正確には知ることが出来ないが、おそらく1800年の7月に、
追放が解除されてすぐのことだと思われる。
以来、時折、秋から冬の何ヶ月かを、パリで過ごす間、
もちろんのこと、家族はオペラを鑑賞した。
1933年にスケッチされた自伝によると、
17歳のジョルジュの音楽への情熱を一度にたきつけたのは、
メユールの作品であった。
それは、ヘ短調の陰気な音楽で、Stratoniceというオペラの序曲。
和声上、器楽法上の大胆さ、ダイナミックに対立する音響、
要するに、イタリア由来のオペラのメロディ主体に対し、
心理的感情の音楽描写が優位に立つグルック派の音楽であった。」

これからまた修行の話が始まる。
「若いジョルジュの両親は、彼が、1803年から5年にかけ、
数回にわたって受けたクラーマーのレッスンを
楽しんでいることから、その才能を明らかに確信した。
クラーマーはピアノ教育の分野で、ドゥセック以上に、
ヨーロッパを代表する権威と目されていた。
彼は、短い期間師事したクレメンティの近代的テクニックと、
ベートーヴェンなどの最新のピアノソナタの知識に加え、
J・S・バッハの対位法的ピアノ作品を伝える以上のことをした。
オンスロウは、これら二人の先生への感謝を公にするべく、
作品3のピアノ三重奏曲をドゥセックに、
作品11のヴァイオリンとピアノの二重奏曲をクラーマーに捧げている。」

さて、フランス革命などなかったかのように、
若様の充実した教育は続いていく。
「彼のロンドンにおける修行期間の後でさえ、
オンスロウは独自に音楽を練習する喜びを自ら見出した。
室内楽は、特にChalendrat城で育まれたように見える。
オンスロウの手になるハイドンや、
ベートーヴェンの作品18の四重奏曲の写譜が残っている。
一人の友人、後に行政の高官となったHippolyte de Muratの奨励によって、
彼も作曲を始めた。
その時まで作曲に関するレッスンを受けたことはなかったので、
パリ音楽院のCatel教授の「和声に関する論文」という教材をおそらく使って、
独学によって、和声の理論の知識を得た。」

さすがにこの若様は、このように、恐ろしく勤勉な若様なのである。

「彼は1806年に最初の作品、
Les Deux Onclesと題された、未出版の1幕のオペラを書いた。
彼はこの曲の序曲を気に入っており、その導入部を、
ほぼ25年後に書いた交響曲第1番の序奏部に理想的な形で再利用している。
彼はさらに、三つの弦楽四重奏曲と一曲のピアノソナタを、
同じ年に作曲しており、1807年にパリで作品1と2として出版した。
これらの作品に明らかなように、首都パリでの一般的な受けなどに
従うつもりはなかった。
ドゥセックやクラーマーから学んだものや、
さらにChalendrat城における室内楽の集いから、
確かに、彼自身の結論を導いている。
彼の作品1のモデルは明らかにモーツァルトとボッケリーニであり、
ピアノソナタ作品2は、その4楽章構成からも、
ベートーヴェンが初期のソナタで開拓したような
ヴィーンのスタイルをモデルにしている。」

完全にパリとヴィーンの流儀を身につけたコスモポリタンである。
こんな作曲家が、果たして、いままでいただろうか。
モーツァルトはそうだったが、もっと意志を持って取り組んでいる。

「すぐ後にかかれたピアノ三重奏曲作品3も同様に、
パリではまだ慣習的だった、
ヴァイオリンやチェロ伴奏のピアノソナタよりも、
むしろハイドンやベートーヴェンを偲ばせる。
彼の3曲の弦楽四重奏曲作品1は、オンスロウにとって、
とりわけ重要だったようで、彼は、のちの新版では、
徹底的な改作を行っている。
ほぼ同時期に、彼はまた最初の一連の弦楽四重奏曲で、
パリ風の協奏四重奏曲のスタイルに、このジャンルにおける
ベートーヴェンやハイドンの作品で知るようになった
主題労作を試みてもいる。
同様に、1813年と14年の日付を持つ、
続く作品8、9、10の弦楽四重奏曲シリーズでも、
彼は繰り返し改訂を行っている。
彼自身のこうあるべきという要求を満足させることが出来ない経験は、
最初の三つの四重奏曲が出版されたときより、
彼に、いくつかのレッスンを受けさせることを試みさせる元となった。
先生に、後にパリ音楽院で、ケルビーニと並んで、
最も重要で影響ある先生の一人となる
選ばれた作曲家で教師でもあった、
アントン・ライヒャを選択したことは幸運だった。
しかし、そのレッスンは長くは続かず、おそらく、
1808年の終わりから、1809年の最初の6ヶ月だけだった。」
恐るべき努力家である。
すでに出版されたものに、改訂に改訂を重ねながらというのも、
ブルックナーやプロコフィエフを先取りしている。

「しかし、続く年には、音楽は第二段階に進んだ。
1808年の夏、オンスロウは結婚し、帝国の最後の年月には、
二人は深刻な財政問題に直面した。
ナポレオンによって税金は急騰し、イギリス諸島との経済交換を、
大陸封鎖が妨げ、英国の親類からの援助も不可能となって、
オンスロウの財産の減少を招いた。
1815年にナポレオンが最終的に流刑になり、
ブルボンの統治による王政復古がなり、
フランス貴族にとって安定した状況になると、
この状況は急速に改善された。
オンスロウは毎年数ヶ月を親族と過ごし、
残りをパリかクレルモンド-フェランかChalendrat城で過ごした。」
新婚の話と、政治の混乱の話が重なって、
まさしく読み物としてもやめられないではないか。

「オーヴェルニュで室内楽は演奏されており、
オンスロウは手紙の中で、たくさんの音楽的なリソースはないが、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンやボッケリーニ以外の
作曲家に頼る必要もないと、誇らしげに告白している。
オンスロウ自身もチェロ奏者として参加していた。
ほぼこの時代、彼はそれでもやはり激しく大きな創作上の危機に苦しんでいた。
そして、1817年には、出版社のカミール・プレイエルに、
すでに彼のミューズは死んでしまった、
前進するより後退していると嘆いている。」
すでにオンスロウ33歳。
すでに若様ではないが、こうした人のピンチは深刻であろう。

「おそらく、このような告白は、先立つ年には、
生涯のどの時期よりもピアノ曲作曲に専念していたのにもかかわらず、
ピアノソロ作品に、長くて最終的な別れを告げることになった
ヒントになるものと考えられる。
1810年に、彼はスコットランドの歌による変奏曲作品5や、
トッカータハ長調作品6を書き、
1817年には、作品12と13のピアノ変奏曲を書いている。
このあと、彼は1824年に作品28の英国の歌による変奏曲と、
作品番号を持たない、いくつかの小品を書いたのみである。
彼は、1819年、作品14のピアノ三重奏曲と、
共に、1819年の作品15のピアノとヴァイオリンの二重奏曲、
作品16のピアノとチェロの二重奏曲を経て、
弦楽のみによる純粋な室内楽に戻ってきた。
1832年までに、彼は、明らかに、
弦楽五重奏曲を書くことに、さらなる重みをおくことにした。
後に、3年間、彼は、ベートーヴェンの後期四重奏曲から、
議論の余地ある影響でチャレンジされて12曲の弦楽四重奏曲
(作品46の1-3、47-50、52-56)を書いた。」

これだけ書くのも大変だったが、
こんなに沢山の作品を概説してくれて、大変参考になった。
この間、作品44も書かれたということであろう。
しかし、いきなり、スランプが克服されているが、
何があったかもっと知りたくなってしまう。

「1820年代の間、オンスロウは、初めてオペラに手を染め、
1824年8月10日にドラマリリックがパリのオペラコミックで初演された。
それは、熱狂的に歓迎されたわけではなかったが、
批評によると、それは、むしろ、台本のせいであった。
1827年、11月22日、3幕のオペラコミックが続き、
同様に、オペラコミック劇場で上演された。
これは、経験豊かな、劇作家Eugene de Planardによって書かれた台本により、
よりよい成功を収め、タイトルも「行商人」とされて、ドイツの大きな劇場で、
たびたび上演された。
1830年頃、オンスロウは、最初の2曲の交響曲を、
短い期間に書き上げている。」
とても、スランプがあったとは思えない快進撃である。

さらに、公的な名誉も、続くことになるが、
このCDの解説書の順番を入れ替えて、作品44の弦楽五重奏曲の解説部に移ろう。

「弦楽五重奏曲第19番ハ短調作品44は1832年に書かれ、
先に述べたように、このジャンルに彼が専念した、数年の終わりにかけて書かれた。」
1832年といえば、すでにベルリオーズの「幻想交響曲」が初演されている。
しかし、ここでの音楽は、そうした喧騒とは無縁の、
より、内省的な側面を注視した音楽のようである。

「第一楽章は、抑えられた各パートと、
付点リズムによるゆっくりした導入で始まる。
この序奏は、また、広い和声で際立ち、
ベートーヴェンやフランス革命期の音楽で、我々にも親しい、
ハ短調のアレグロのタイプを示す、
和声的な音の塊やドラマティックな対比の性格を推進する
アレグロ・スピリチュオーソを準備するための緊張感を生み出している。」
CDでは、これだけの解説だが、序奏部の悲しげな表情からして、
このCDの表紙の絵画の、陰影深い緑の奥行きにも似て、味わい深い。
やがて登場する主部は一転して推進力を持った音楽で、
多様な技法が駆使されて、息をつく暇もない展開の妙が冴える。

「表現力に富む性格とテンポにおいて、
スケルツォと呼ぶ方が相応しいメヌエットは、
少し前に書かれた、交響曲第二番のメヌエットの導入フレーズを持つ。
しかし、それはそこから、室内楽の奏法でしか可能でない、
対位法や目の詰んだ構造を繰り広げる。
それはまるで、オンスロウは、
作曲上不可欠な変更な動機から、
どのような配合が発展させられてくるかを、
デモンストレーションしたいかのように見える。
しかし、類似は、しかし、最初に見られるだけである。
トリオは2回奏されるが、ヴァイオリンとチェロが、
長いメロディラインを演奏する、カンタービレの機会を提供する。」

まさしくメンデルスゾーンのシリアス版みたいなスケルツォで、
幻想性と緊張感を兼ね備えている。解説にあるように、
ピッチカートを伴って現れる中間部のメロディも素晴らしい。
その展開も、優美なワルツのようで胸をわくわくさせるものを持っている。

第三楽章は、このように来ると、ゆっくりとした楽章になりそうだが、
妙に即物的な無骨ともいえる楽想が始まって、正直、最初は、
ついに、霊感が尽きたのではないかと思った。
しかし、いきなり、嵐のような楽想が吹き荒れ始め、
これが、本来のスケルツォであったかと気づかされる。

解説にはこうある。
「第三楽章で、オンスロウは、
スケルツォの開始部の中間に出てくるドラマティックな動きを、
何度も登場させて、循環統一を形成することを試みる
主部は、ほとんど大またの行進曲のような厳格なホモフォニーで、
構成上の対比を見せる。」
中間楽章に緩徐楽章がなく、それぞれがコントラストの激しい
楽想に満たされているというのも、何か野心的な試みと見える。

続く終楽章も、解説にあるように大変な創意工夫を盛り込んだ、
疾風怒濤の楽章で、この作品もまた、オンスロウらしい傑作と確信するのである。
「ソナタ形式のフィナーレは、最終的に二つの音楽的着想の上に描かれる。
最初のものは、ある時は、声部を変えながら、常に動き回る永久運動のように、
ある時は、この楽章の展開を、トレモロの中に神経質に隠すような、
16分音符の動きの継続である。
第二のものは、次第に下降する半音階的進行であり、
これがこの楽章の、事実上の主題材料を形成する。
この常動の楽章は、エピソードのような、
二分音符の同音のコード進行による第二主題でのみ短く中断される。
しかし、これは、すぐに、神経質に興奮した十六分音符の動きに、
かき消されてしまう。」

しかし、オンスロウ生涯編と、この曲との関係は不明。
意欲的な作品であり、是非とも、どんな経緯で、
この作品が生まれてきたのかを、もっと詳しく書いて欲しかった。


得られたこと:「あまりに詳細な作曲家の生涯の記述だけでは、収められた作品に対しては物足りない。」
by franz310 | 2007-03-24 23:41 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その62

b0083728_18331217.jpg個人的経験:
MDGレーベルの
オンスロウのシリーズに、
はまったので、
先に紹介した作品34、35の
五重奏曲(コントラバス付き)
に先立つ作品33と、
ずっと後の作品である作品74が
収録されたものも、
結局、入手してしまった。


オンスロウの室内楽を、このレーベルに録音している団体は、
これまで紹介した、ライプツィッヒとハレの音楽家たちからなる
Quintett Moment Musicaleだけではないようで、
Ensemble Concertant Frankfurt
という団体がこの録音を担当している。

前者は、上記各都市のオーケストラの
首席奏者の集まりで、
ハレのマルティン・ルター大学で
教鞭を取る人たちだということだが、
後者は、フランクフルト放送交響楽団の
メンバーで結成されているようで、
高く評価された五重奏団であるらしい。

この人たちの紹介のページには、
シューベルトの「ます」についても
特筆されていることを発見した。

「公のコンサートで採用されている、
流行を追い駆けたり、
純粋主義者的なアプローチによって、
忘却の中に大きく落ち込んだ室内楽に、
アンサンブルのメンバーが、
特に専念したいと感じるのには、
理由がないわけではない。
『シューベルトの、“ますの五重奏曲”と、
ボッケリーニ、リース、エイブラー、ゲーベル、
そしてオンスロウによって作曲された作品の
新しい連環が必ず、いま、明らかになるはずだ』
と、彼らは感じている。」

リースとリンマーのピアノ五重奏曲のCDを出していた
オランダのネポムーク・フォルテピアノ五重奏団が、
シューベルトの「ます」の五重奏曲用の編成で、
同様の試みを行っているのに対し、
フランクフルト合奏団の方は、ピアノは含まず、
弦楽四重奏+コントラバスという編成で、
「時折、ピアノや管楽器を招きながら、
18世紀と19世紀の良く知られた古典派、ロマン派の作品のみならず、
何よりもまず、同時代の知られざる傑作を広く聴衆に紹介している」
ということである。

ヴァイオリンは、Pete Agostonと、Klaus Schwamm。
ヴィオラはWolfgang Tluckで、チェロは女性で、Sabine Krams。
コントラバスにTimm-Johannes Trappeという編成で、
「ます」を意識しながら、ピアノは含んでいないというのが面白い。
この曲をやりたいとあれば、弾きたいピアニストは、
無数にいることであろう。
シューベルト弾きと言われたピアノ奏者は、
これまでも見てきたように、何度もこの曲を録音し、
なおかつ、弦楽部は別の団体が担当することも多かった。

いずれにせよ、ヨーロッパでは、オンスロウに限らず、
このあたりの研究が、盛んであることが分かる。

前回取り上げた演奏家、Quintett Momento Musicaleの解説には、
バロックから20世紀の作品をカバーするとあり、
失われた輪の発見といた野望については書かれていないが、
各地の音楽祭で、有望なピアニストや、
フルーティストと協演しているとあって、
特殊な編成ながら、同じような考え方をして、
フレキシブルに対応していることが分かる。

さて、フランクフルトの団体が、2003年に録音した、
このCDでは、シューベルト最晩年の不滅の傑作とされる、
「弦楽五重奏曲」と同時期に、オンスロウが作曲した、
弦楽五重奏曲第11番作品33が収められている。

「彼は、人生のこの時期までに、
ピアノを含む室内楽の大部分を書き上げ、
15の弦楽四重奏曲と2曲の歌劇を書いていた。」

13歳年下で、死期を迎えていたシューベルトは、
さらに大量の歌劇を書きまくって失敗し、
やはり、十五曲の弦楽四重奏曲を書いていたが、
未完成のものもあり、公開演奏されたり、出版されたりしたのは、
たった、1曲だけという状況であった。
そして、最後にして最大の室内楽として、
生涯唯一の弦楽五重奏曲を作曲するが、
結局、これも出版することは出来なかった。

それに加え、
すでに10曲もの五重奏曲を書いていたオンスロウは、
この時期、どんな音楽を書いたのだろうか。
解説を見てみよう。

「彼の作品33は、1823年から28年の間パリに住み、
その地でオンスロウと会う機会のあった、
ピアニストで作曲家の、
ヨハン・ペーター・ピクシス(1788-1874)
に捧げられた。」
何故、ピアノを含まない作品を、ピアニストに捧げたのかは分からない。
いずれにせよ、オンスロウ自身、ピアノの名手であったにも係わらず、
すっかり、ピアノ曲を書くのをやめていたのだが。

「第1楽章の語法は主題の点では、非常に地味であるが、
それを扱う手腕は非常に個性的である。
彼は第1主題への配慮は制限し、
リリシズムよりも、チェロによる小さな導入の萌芽に、
リズム上、和声上の句読法を加えることが出来るかや、
それを展開する方法に興味をおいている。
また、同時に、第二のものは、
単純な提示で非常に歌に満ちた主題となっているが、
オンスロウは、それに頼ることはない。
短い展開と高度に精巧な反復の中で、
明らかなフガート書法を使用して、
作曲家のはっきりと古い時代への愛着を示している。」
確かに、このアレグロ・コン・ブリオの楽章は、
モーツァルトの作品のように明るく快活で、明朗に推移しながら、
後半を過ぎると、さっと、劇的な影を宿して、
強烈な対位法的な語法が駆使され、
各楽器が高みを目指して駆け上がる効果が素晴らしい。

「アンダンテ・マエストーソでは、
最初の部分の、濃密な和声による宗教的な性格と、
中間部の第1チェロと第1ヴァイオリンが互いに交錯させる
感情的なアルペッジョの応答による、
より大きく、ドラマティックな表出力を持ったパッセージが対比される。」

この楽章の中間部などが、ひょっとすると、
オンスロウとシューベルトの接点であろうか。
この解説の言葉を借りると、シューベルトの音楽は、
ずっとdramatic expressivenessであるとも、
言うことが出来るかもしれない。
だが、オンスロウだって、そうした音楽は書けたのである。
もう余生がないような人生と、まだまだ、
これまでの倍以上の弦楽五重奏曲を書く時間を持った人では、
音符の使い方が違ったとしてもおかしくはない。

「三部形式からなるメヌエットでも、
その中心で同様の対話は見られ、
中間部で、二つの楽器は、活発にではないが、
リリシズムを保持して張り合う。」
このあたりの憧れの感情も、ロマンティックであるが、
シューベルトよりも、現世的で、
安穏としたものへの憧れであるような気がする。

「この作品は、同時代のコンチェルト様式を見せ、
特にフィナーレにおいて、ヴァイオリン独奏が、
時折、名技性の高みに駆け上がる。」
わずかに興奮した楽章で、細かいパッセージを振り撒きながら、
明日への希望が模索される。

この曲はベートーヴェン、シューベルトの死の年の成立であったが、
このCD、もう一曲収められた作品は、その20年後のものである。
今度は、ピアニストではなく、ヴァイオリニストに捧げたとある。

「さらに後の作品で、ずっとロマンティックな表出力を持つ、
1847年作、弦楽五重奏曲第30番作品74は、
疑うことなく、もっと前者より直接的に魅惑的な作品である。」

「これは、ジャン-ピエール・モウリン(1822-1894)という、
若くて才能あるヴァイオリニストで、
彼はちょうどその頃、
オンスロウの家でリサイタルを開いたりして、
その指導を受けて、室内楽の研鑽を積んでいた。」

「印象的なアレグロ・グラツィオーソは、
興味深い和声的な工夫で開始される。
A♯のパッセージによって、
Eの属音に向い第二ヴァイオリンが前進する間、
半音階で、バスラインが激しいトリル(E-D♯)で下降し、
すでにホ短調を確立しているヴァイオリンを
減五度(C♯-E-G)でサポートする。
この大規模な第1楽章は、
二つのくっきりと対比された主題要素を発展させる。
堂々として密集した力を持つ第一主題に対し、
第二主題は、リリシズムと豊かなハーモニーを有して対比され、
その開始部のトリルは、後に、イマジネーション豊かに高まり展開される。
最終的な主題要素は、単純なコーダという以上に、
この巨大な主題提示部の終結を豊かにするものだ。」
この楽章は、エモーショナルな衝動と、
目まぐるしい技法の展開が高度に結びついて素晴らしい。
確かに、20年の間に新しい領域に踏み込んで、
なにやら危機感のようなものを孕んで、痛々しい。
これは、シューベルトの晩年にも通じそうな勢いである。
この苦悩は空中分解寸前であるが、強引な技法が、
かろうじて、作品を成立させている。

「メヌエットの最初の部分は、オンスロウが好んだ付点リズムで、
話法に活気づける機会を与え、中間部では、作曲家は、
音楽的な詩興を羽ばたかせて、彼のスタイルの特徴を完成させる。
それは、固有の和音を生かしたメロディで、
ヴァイオリンが楽しく旋回する。」
不機嫌で無骨なメヌエットで、非常に不気味なメヌエット。
中間部のヴァイオリンソロは、かろうじて天上的な光が射し込む様を思わせる。
オンスロウは、この時、何か、危機に陥っていたのだろうか。

「アンダンティーノ・グラツィオーソは、
オンスロウのピアノのための六つの小品の第一曲からの改作で、
違う楽器に移し変える時の、彼の楽しみが感じられる。」
作曲家は、昔の楽想を懐かしく編曲したかもしれないが、
ちょっと長閑すぎるか。ひょっとしたら、過去への現実逃避を図ったのかもしれない。

「終曲は、喜びや、上機嫌、アイデアの明快さ、
イマジネーション豊かな、音と和声、和法の対称、ダイナミズムといった、
オンスロウの音楽の性格を要約したようなものである。
作曲家が生涯にわたって執着した堅苦しい古典様式にもかかわらず、
これらは、この二つの素晴らしい作品の成功に役立ったものである。」
この終楽章も、多くの苦悩を背負ったもので、
行方も知れぬ未来を暗示して不気味である。
作品番号70番というと、もう、さすがのオンスロウも、
残すところ、数曲という時代である。

ただし、少し集中力が発散気味であり、今回の二曲は共に、
第1楽章展開部の迫力ある高揚が聞き物かもしれない。

あるいは、演奏家が、前半で力尽きたのだろうか。
特に、作品74は、多くのものを背負った音楽であり、
技巧的にも、常に緊張感を要求する恐ろしい音楽であった。
確かに、こうした危機的な音楽を、古典様式に盛り込んで書いた人としては、
まず、シューベルトを思い出すが、オンスロウは、その路線を歩き続けており、
その後の世代には受け継がれなかったような気がしてきた。

さて、ジャケットデザインであるが、
担当する演奏家は変わっても、MDGレーベルのオンスロウは、
いつも同じ、ファン・ダイクで、ちょっと、これには、時代的にも、
地理的にも違和感があり、抵抗を覚えるのは前述の通り。

しかも、作品34、35のCDと同じ、チャールズ一世の子供たちで、
ちょっと、工夫が欲しいところである。

得られたこと:「シューベルトの“ますの五重奏曲”と、ボッケリーニ、リース、エイブラー、ゲーベル、オンスロウの作品には、何らかの関係がある。」
by franz310 | 2007-03-18 18:36 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その61

b0083728_1081849.jpg個人的経験:
前回、オンスロウの
ピアノ五重奏曲が、
最後に、「風のそよぎ」
などという標題音楽の
楽章をおいた事に、
奇異な感じを受けたが、
この人は、
自分の身に降りかかった
悲劇までをも音楽に
してしまうらしい。

狩猟中の事故で、顔に弾丸を受け、
その体験を、五重奏曲にしている
ということなので、どうしてもそれが聞きたくなった。

シューベルトの「ます」からは離れてしまうが、
オンスロウと言えば、いつも、この事故が語られるので、
ちょっと、それがどんな事件であったのかを、
確認しておきたい。

実は、この曲、昔、日本でも発売されたようだが、
今回、入手できたのは、ドイツのMDGレーベルから、
昨年出されたばかりのものである。

このレーベルのものは、すでに作品34と35で取り上げたが、
今回は作品38と67のコントラバス付きの五重奏曲で、
その続編のような感じである。

演奏家も、Quintett Momento Musicaleで、前回と変わらない。
しかし、前作から2年を経て、オンスロウの研究が進んでいることが、
感じられる解説になっている。

「生前、『室内楽の巨匠』とみなされながら、
ほとんど忘却の淵に落ちた作曲家による二つの作品を、
今回のレコーディングは紹介する。」
というのが、前回の解説で、いかにも、忘れられた作曲家を、
恐る恐る取り上げている感じがするが、今回は、
こんな力強い書き出しになっていることからも分かる。
「近年、ジョルジュ・オンスロウの音楽に対する、
興味が広がり、大きくなっている。
研究結果が彼の作品の広がりや美しさを明らかにして、
それらの多くが出版され、録音されている。」

日本では、どのような実演がなされているかは知らないが、
欧州では、なにやら、進展しているのであろう。

「モーツァルトやベートーヴェンの
弱々しい後継者としての長い過小評価の後で、
オンスロウは今、強い芸術的個性、才能ある音楽家、
19世紀前半のフランス及びヨーロッパの音楽シーンにおける
大きな存在として受け入れられている。
明らかに、この考え方の変化は、
彼の作品群を調査し続けている
近年の器楽奏者たちの才能に負うている。」

「オンスロウの作品は難しく、骨の折れるものなのだ。
それは正確さと、何よりもヴィルトゥオーゾのテクニックを要求する。
作曲家は、こうした思いやりを、少ししか意に介していない。
第一楽章は、息切れするようなテンポで急き立てられ、
完璧な指と弓による豪華なパッセージが要求される。
それに加えて、彼の和声や旋律のコントラストは、
しばしば付いていくのに容易ではない。
最後に、古典に根ざし、ポスト・ロマン主義を、
予兆すらしない力強い音楽話法を満喫するには、
単なる名技性を越えて、
演奏者たちがこのスタイルを理解していなければならない。」
これは大変な音楽家である。
難解な曲を理解したあとに、
さらに難技巧の関所が設けられているというのだから。
確かに、シューベルトの最後の弦楽四重奏曲なども、
こうした側面から、かなり最近まで、
等閑視されてきたのではなかったか。

「オンスロウの音楽的言語は、
フランスがエキサイトした世界主義的芸術観や、
外国の演奏家を聞くためにコンサート会場に聴衆が群がり、
フランスの出版社が作品を輸出入し、
革新的楽器製造が最高潮に達した、
19世紀前半の文化的雰囲気を反映したものだ。」
確かに、この時代、パガニーニを初めとする、
超絶技巧の演奏家が輩出され、一般市民たちを、
興奮の坩堝に叩き込んだ時代でもあった。

「オンスロウのバイオグラフィー研究は、
すでに細部まで詰められている。
ただ、このオーヴェルニュ人に、付け加えることがあるとすれば、
ほとんど排他的にオペラ流行に身を捧げた国において、
古典的器楽曲の遺産を継承するという
困難な仕事を一身に引き受けた、
心底からのヨーロッパ人であったということである。」
ますますもって、この解説者は、
オンスロウの研究の価値を信じているようだ。
解説者は、前回、Cordura Timm-Hartmannという人だったが、
Viviane Niauxという人に替わっている。
こういった文章を読むと、このように研究が進展している、
同時代に生きられたことを幸福に感じずにはいられない。

「サブタイトルに『弾丸』とある、
オンスロウの弦楽五重奏曲作品38は、
作曲家の生涯のドラマティックな
エピソードと関連付けられている。」
という具合に、まさに、今回、知りたかったことが、
明らかにされていくのもぞくぞくする。

「それは、狩猟中のアクシデントであって、
1829年、Chateau-sur-Allier近くの
セント・オーガスティンという別荘に滞在中に起こった。」
シューベルトの死の翌年。オンスロウは45歳。
この人は69歳まで生きたから、
人生はまだ1/3残した時の事故だったということだ。

「オンスロウは夜明けのずっと前から呼び出された。
その五重奏曲はその時のすべての時間や思考を語っているが、
作曲家は、まずこの申し出を断った。
しかし、友人はそれを聞き入れず、
友人が気分を害することを恐れて、
彼は集まりに参加することを承諾した。
彼らは森の中に集まった。」
すでに、嫌な予感がする書き出しである。

「オンスロウはイノシシの通路と思われるところから遠くない、
小さな土手の上の木の傍らに陣取った。
しばらくして、犬たちが、
野生のメスイノシシが走って来るときに吠え立てたが、
オンスロウは撃ち損じた。
すぐ続いて、友人が立っている場所から銃を放つと、
オンスロウの左頬を打ち抜いた。
彼は地面に落下し、ハンターの一人が飛び降りて助け、
上向けにしないと窒息死するところだった。
彼は、セント・オーガスティンに連れ戻されたが、
彼の頭部は血まみれの包帯でぐるぐる巻きにされていた。
その夜、彼は「精神錯乱」という楽章を構想した。
作品38の五重奏曲の、1830年版のタイトルページには、
ずばりこう書かれている。
『深刻な事故の後、作者は、彼の苦痛や、
回復、復帰をこの五重奏曲のメヌエット、
アンダンテ、終曲で表現しようと試みた。』」
大事故に遭遇しながら、すぐに、それを音楽化しようとした、
そういう風に読み取れる。恐ろしい執念である。

「この作品は、チェロの名手でパリ音楽院の教師であった、
ルイ・ノーブリンに捧げられている。」
この曲も、コントラバスが最低音を担当するが、
やはり、チェロを重視するとき、
この大きな楽器が必要だということだろうか。
このシリーズ、コントラバスが、しっかりと聞こえて、
素晴らしい低音の安定感に身を委ねることが出来る。

「これは、第一チェロパートの重要性を考慮したもので、
それはアレグロ・モデラート・エ・エクスプレッシーヴォの主題を
直ちに提示する。
ハ短調の主調、拡張された減七度のアルペッジョと
アクセントをつけられた半音階動機、
二つの下降線を伴う第一主題の暗く劇的な性格、
これらすべてが、このドラマティックなハンティングのエピソード以前に、
すでにオンスロウが深い表現を持つ作品を構想していたことを示唆する。」
この部分、注意を要する。
オンスロウのこの曲、非常に深刻な曲想だが、
最初の楽章は、「弾丸」とは関係ないようである。

「熱っぽいメヌエット、「嘆き」が、緻密に構成されたアレグロに続く。
オンスロウは、際立った効果を求め、
彼の苦しみを明確にするために、対照的な要素を利用した。
始まってすぐに、オクターブで重ねられた第二チェロによる長い音は、
突然、二つのヴァイオリンパートによるダブルストップによる
減七度の和音に乱暴に割り込まれ、音響の塊を対立させる。
フォルティッティシモとピアニッニシモが互いに続き、
ほとんど息継ぎのできない連続となる。
非常に素早いテンポで、叩きつけるような、
忘れられない性格の音形が繰り返される。
そして、ヴィオラの短い、ほとんどトリルのような動機と、
チェロの半減七度の威厳のあるフォルティッティシモで、
半音階的な要素が散りばめられ、ドラマティックな雰囲気を盛り上げている。」
確かに、この第二楽章、楽器の動きも音量も、激変して、
切羽詰ったものを表現しようと、異常な熱っぽさ、
精神錯乱の様子が、よく描かれている。
フランスからは、やがて、次の世代のベルリオーズの手によって、
「幻想交響曲」が現れるが、その下地は、
創作の上でも、聴衆のサイドからも、
十分、出来上がっていたという感じである。

「次の楽章、「回復」は、安息に満ちた子守唄のように優しく揺れる。
楽器はそれぞれの中音域内に留まっており、
この楽章の静かな、ミュートされた音は、「嘆き」の大騒ぎとは、
際立った対照をなす。
そこにはダイナミック記号は限られ、
メロディラインは、緊密な和声のテクスチャーで静かに流れる。」
この楽章、美しいのに、4分もかからないのが惜しい。
ベートーヴェンなら、もっと長く癒してくれたであろう。
これからという時に、喜ばしい終楽章がやってくるが、
ちょっと、類型的なくらいに、明るい終楽章だ。
ベルリオーズだとしたら、こんな解決は有り得ない。
やはり、旧世代、「田園交響曲」的な無邪気さである。

「長いヴィオラのトリルが、「回復」の楽しいハ長調の終曲を導く。
すべてのパートが沢山の事を言い、
特に、第一ヴァイオリンと第一チェロがそうだが、
後者のエコーが前者の急旋回の名技的なアラベスクを模し、
ベートーヴェンの作品132にも比較されてきたこの五重奏曲の、
表現力に富む性格を明確に現している。」
大事故でありながら、完全に立ち直っている。

いずれにせよ、この曲の深い感情表出力は、忘れがたいものである。
しかし、このレーベルのオンスロウ。
またまた、古風な絵画のデザインで、
オンスロウの時代(ベルリオーズ前夜)を、まったく示唆しない。
さらに言えば、「弾丸」の内容に似つかわしいとは思えない。
シューベルトの「ます」のような、標題音楽ではないような曲でも、
それらしいデザインがあしらわれて、聴く者の心を音楽に誘っていることは、
すでにいろいろと例示したとおりである。
もうすこし、曲の内容やオンスロウの時代を示して欲しい。
こうしたイメージ作りから、忘れられた作曲家像の構築は、
始める必要があるのではないだろうか。

このCDの二曲目は、作品67で、同じ編成の作品。
1843年の作というから、60歳近くの円熟の作品である。
これも、ハ短調で、オンスロウが特別な思いを持っていたもの。

ものものしい序奏からして深刻で恰幅の良い音楽である。
第1主題は、チェロがニヒルに歌う。
この曲では、終楽章まで、この高貴な気分が継続し、
全体の完成度という意味で、作曲家の腕は明らかに上達している。
相変わらず、同様の音楽を書いているような感じもするが、
こうした熟成味に身を委ねるのは、ロマン派の時代にあっては得がたい雰囲気。

途中、第二楽章は、メンデルスゾーン的な妖精のスケルツォであるが、
単に幻想を追ったものではなく、抜き差しならない緊張感が横溢している。
中間部のメロディはフンメル的だが、安直ではなく、統一感がある。
第三楽章のカンタービレも美しく、非常に高潔で清澄な気配に満たされている。
癒されるに十分な規模の点でも申し分ない。
途中で乱入するエピソードがあるが、次第に、この清らかな歌の中に浄化される。

ひょっとすると、安定感のあるまとまりと、構成のすわり心地の良さ、
深々とした音響の豊かさから、私は、オンスロウでは、
この曲が一番好きかもしれない。

素晴らしい演奏と録音で、この曲を届けてくれたことに、
MDGレーベルには、深く感謝したいぐらいである。
ただし、ジャケット絵画は、何とかならないものだろうか。

この後、晩年の作曲家は、ピアノという楽器にも立ち戻って、
より色彩的な世界を切り開いていくことは、
このシリーズの脱線「オンスロウ編」の最初の解説に見たとおりである。
改めて、恐るべき怪人であると認識し、感服した。

得られたこと:「作曲家や作品のイメージを明確にするためには、徹底したイメージ戦略が重要であろう。」
by franz310 | 2007-03-11 10:08 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その60

b0083728_20324869.jpg個人的経験:
フランスの作曲家オンスロウが、
シューベルトの「ます」と、
同じ編成の作品を
残しているという情報から、
ネット上で探していて
見つけたCDがこれである。

もう数年も前のものなのだが、
入手できてよかった。

Signumは、珍しい作品を出してくれるので、
貴重なレーベルである。

ピアニストのホルスト・ゲーベルがプロデュースしており、
自演を集めたものだが、2曲の録音時期が、
何と20年も離れている。
2曲目は1977年の録音であり、ドイツラジオ放送局の録音から、
持ってきて収録したようだ。
1曲目が、この期待の五重奏曲だが、1999年のデジタル録音で、
このピアニストの執念の結晶みたいにも思える。
30年も前から、オンスロウを手がけていたわけである。

さて、このCDであるが、ジャケットは、現代風で洒落ている。
ただし、どこから、この作曲家の音楽を想像すればいいのか、
悩ましいところではある。
まあ、いやみもなく、すっきりしているからいいか。

下に示したように、解説など(録音データ、演奏者の紹介含む)
もしっかりしていて、演奏も自発的で、録音もよい。

「ジョルジュ・オンスロウ
-A SINGULAR MAN (非凡な男)」
というのが、解説の題である。

何故、そんな題名なのかが、下記のように書き出される。
「十九世紀中盤において、
最も影響力を持っていた作曲家であり、
また、同時代者から批評家、著述家として賞賛された、
ロベルト・シューマンによって、彼はそう呼ばれた。
ジョルジュ・オンスロウは、このように、
独特な個性を持っているとみなされ、
彼の年代の派生的な音楽思考とは別種のものと
捉えられていた。」
「派生的」ではなく、「個性的」なのだ。

「今、また、我々は当時の音楽学者たちの評価とは
まったく矛盾する評価に遭遇する。
次の二つの環境が災いして、
特にフランスでは、オンスロウの作曲能力について、
相変わらず最低の評価がなされている。」

果たして、その環境とはなんなのか?
「a)オンスロウは室内楽以外を書かなかった。
この点で、19世紀の後半にいたるまで、
フランスでは関心を持たれることは極めて困難であった。
b)オンスロウは、イギリス貴族の血を引いており、
この事実は、彼をフランスでポピュラーにすることに対し、
まったく不利であった。
オンスロウ自身は、
オーヴェルニュのクレルモント・フェランドの生まれで、
ジョルジュと洗礼名を与えられ、
父もフランスに移住し、フランスの貴族の一人と結婚していたのに。」

これらは、すでに他のCDでも読んだとおりであるが、
次の逸話は面白い。
「『ON SLOW』という風に描かれている、
その家紋からも、英国風ユーモアが見て取れるが、
これは船乗りの専門語では、「ゆっくり行こう」である。
同時にこの言葉は、
『ゆっくりと確実に』という意味もあるだろう。
この家族がそれに沿って生きてきた積極的なモットーは、
作曲家オンスロウの中にも生きており、
最初期の作品を除くと、
出版されたすべての作品は『完成された』質感を誇っている。」

「知識ある聴衆には、彼の個性的な語法は、
ただちに明らかになり、個性は、全作品を通じたものになっている。
これは、ラフマニノフほどではないが、
ドイツ風の室内楽に、フランスの香水を一滴垂らしたといった以上のもので、
チャーミングでユニークな転調が現れる以上のもの、
あの手この手の繊細なタッチが現れたりする以上のものである。
これがたぶん、オンスロウの音楽が、
一般に大陸の聴衆にしか受け入れられず、
上品なサークルでしか、ほとんど全く理解されなかった理由であろう。」
何故、ラフマニノフが出てきたか、唐突な印象を受ける。
まあ、一生、懐古的な価値観を持っていたということであろうか。

「パリのサロンでは、熱狂的に受け入れられ、
彼が、いつも冬のシーズンに街に戻ってきて、
最新の作品を持って、仲間や友人たちと論議する際には、
いつも、オンスロウの音楽に出会うことが出来た。
しかし、このようなサークルにあってすら、
彼の作品は真の意味での普及を見ることはなかった。
これらの作品の技術的要求は、最高の演奏者によってしか、
満たすことが出来なかったからである。」
なるほど。演奏が非常に難しいという側面もあったのだ。

「オンスロウは、自身の領地にいて、独立した生活を送っていたが、
しばしば主張されていたように、隔絶されていたわけではなかった。
彼はロンドンで、ヒュルマンデルやクラーマーにピアノを学び、
彼の文化的憧れの地、ドイツ、オーストリアでも、2年間勉強した。
パリではライヒャに作曲と理論を学び、
ロンドンのフィルハーモニックソサエティで、
メンデルスゾーンやオーベール、マイヤベーアと共に、
最初のメンバーの1人となっているし、
後にパリの学士院では、ケルビーニの後任に就いた。
孤独ではなかったが、オンスロウは確かに、
例えば、後のフランスのベルリオーズと同様、
ファンに囲まれることなき、一匹狼であった。
室内楽の偉大な作品は、群集をひきつけることはないが、
音楽に最高の瞬間をもたらすものである。
専門家は、オンスロウの重要さをきちんと認識していた。
シューマンの評価や、彼が受けた栄誉から離れても、
フランスの作曲家仲間も、事実、多くの言葉を残している。
例えば、ベルリオーズは、1830年に父親に宛てた手紙の中で、
『ベートーヴェンの死後、器楽の王者は彼であることが分かるでしょう』
とオンスロウのことを書いている。
また、シューマンもケルビーニの四重奏曲へのレビューの中で、
『メンデルスゾーンやオンスロウが四重奏曲の大家に含まれる』
と書いている。」

「時代が忘れようとしたのか、自然に忘れられたのか。」
こんな命題が、改めて提示される。
忘れられた作曲家、オンスロウのCDでは、必ず、この問題が触れられる。

「いくつかの重要な記事で、音楽史に貢献した、
有名な19世紀の学者ウィルヘルム・ハインリヒ・リールは、
エッセイの中で、こう書いた。
『英国の作曲家に加えるべきではない。
オンスロウの作品はドイツの音楽史の一部以上のもので、
ドイツ人は特に、この外国人の思い出を、
芸術家として、我々の文化の一部として、賞賛する責任がある。』」

このCDでの趣旨は、英国生まれで、フランスで活躍し、
ドイツ風の音楽を書いたオンスロウの国籍不明性に焦点を当てている。
たしかに、オンスロウの死後、これらの国々は、何度も戦争をしたので、
こんな、芸術的に根無し草的な人物は、胡散臭いと思われたとしても、
まったくおかしくはない。

「このCDでは、オンスロウの後期の作品より、
ほぼ同時期の、二つの大規模な作品を特集した。
ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのための、
大五重奏曲作品76と、
ピアノ、フルート、クラリネット、バスーン、
ホルンとコントラバスのための大六重奏曲作品77bである。
五重奏曲では、ライプツィヒのクリスナー社の第一版を使用、
六重奏曲は、1851年版を1972年にパリのHeugel社が、
シュミットの校訂によって再版したシリーズのものを使用した。」

オンスロウは膨大な室内楽を書いたようだが、
私が持っているCDと、二曲目が重なっている。
できれば、せっかくなので、他の曲も聴いてみたかった。
ざっと聴いた感じ、
前のユボーらの演奏より、一本気な演奏かもしれない。

「ト長調の純粋な音楽美を示す、
作品76の五重奏曲の第一楽章は、
序奏部と、ラルゴ-アレグロの部分を有し、
主題の材料は、一見、聞きなれたもののようで、同時に、何か新しいもので、
輝かしく作り上げられていって、完全に提示される。
楽章全体は、叙事詩的であり、
しばしば、オンスロウの音楽の中で出会う、
叙事詩、抒情詩混在の『バラード』調で語られる。」

私は、この楽章には、大きな感銘を受けた。
思いのたけをぶつけるような序奏部から、
暗い情念を秘めた音楽で、求心力もあり、聴き応えがある。
ピアノと弦楽も高い次元で調和して、互いの応酬が、目まぐるしい。

ヴァイオリンで提示され、チェロに受け継がれる第二主題は、
美しく、かつ、深い意味を感じさせて、胸を打つ憧れの音楽となっている。
叙事詩的、バラード風というのも、分かるような気がする。
また、ここに突然、リズミックな楽想が割り込んでくる場面など、
あくまで、深刻になりすぎない趣味人オンスロウの面目躍如としたものである。

この演奏のヴァイオリンの、練り絹のような響き、自発性にも好感が持てる。
演奏はベルリンドイツ交響楽団のソリストとあるが、
Hans・Maile、Igor・Budinstein、Andre・Saad、Akira・Akahoshi
という名前が並んでいる。コントラバスは日本人である。
(解説によると、N響や桐朋で教えたベテランで、ドイツ在住とある。)
さすがコスモポリタン作曲家。

前述のように、ピアノはHorst・Gobelで、プロデューサーを兼ねている。
(したがって、二曲めも同じピアニストであるが、協演は異なり、
ベルリンフィルのオーケストラアカデミーの人たちとの演奏である。)

積極的で推進力あるピアノ、ヴァイオリンの美音に加え、
時折、チェロも、甘味で量感のある音色を響かせるのも、オンスロウ的だ。
前回、書いたように、これが魅力であることは言うまでもない。
ただし、せっかくのコントラバスの存在感はまるでない。録音のせいか。
ドラゴネッティが怒る。

「続くスケルツォは、下属音のハ長調、
6/8拍子のアレグロ・ヴィヴァーチェであるが、
中間部の歌に満ちた部分も8分音符で満たされている。
愉快なアクセントと、弱いビートが効いている。」

先ほどまでの、深刻な雰囲気は一掃され、
妙に気ぜわしい、軽妙な音楽である。
ここでは、ピアノと弦楽が対立的に扱われていて、
ブラームスのピアノ協奏曲の軽量版みたいな趣きである。
改めて、考えてみれば、第一楽章の主題は、
ブラームスの第一ピアノ協奏曲そっくりだ。

「アンダンティーノ・モルト・カンタービレの冒頭部を持つ、
第三楽章、ホ長調の『ロマンス』は、
オンスロウのずっと早い時期の作品の流用で、愛好家を面食らわせる。
それは、彼の最初の四手のピアノソナタ・ホ短調作品7であって、
ここでも『ロマンス』と呼ばれていた。
これら二つのバージョンの顕著なテンポの違いは、
もっぱら違う楽器を使うことによるものであり、
最後の15秒だけが違っている。
また、そこには違ったサプライズが用意されている。
チェロが五重奏曲の最初と最後で壮麗な効果を上げているのに、
中間部ではオンスロウはドラマティストになりきれなかったのであろう、
そのピアノソナタでは、考えられる限り、民謡的な傾向を示している。
五重奏曲では、恋人たちが口論しているような間に、今にも喧嘩が始まりそうだ。」

この楽章、序奏は、ショパンのピアノ協奏曲のようにロマンティックだが、
いきなり、唐突に、奇妙にリズミックで劇的な音楽が始まる。
男女のやりとりを模したサロン的性格など、ウェーバーを思い出した。

「アレグロ・アニマートに導かれる
五重奏曲の終楽章は、フランスの標題音楽の最初の一例であろう、
『風のそよぎ』という標題を持ち、
ピアノと弦楽は、順番に幾分、効果的な風の音を作り出す。
さらに自然を描写したような部分が続き、
我々は音楽的な田園詩の世界を通って、
必然的なハッピーエンドに至る。」

ちろちろ、どろどろと、細かい音形が繰り返され、
弦が、びゅーっと引き伸ばされて、何となく戯画的な音楽。

どうして、ブラームス、ショパン風のシリアスな調子から、
このような展開になるのか、理解に苦しむ。
あるいは、趣味の作曲家の、余裕のなせる業であろうか。
ブラームスも、第二ピアノ協奏曲では、軽やかな終楽章を用意したので、
あるいは、これもまた、何か思惑があるのかもしれない。

ということで、各楽章に工夫が凝らされ、
非常な力作であることは確か。一聴の価値も、二聴の価値はある。
何度も書くが、第一楽章など、とても良い。
終楽章は、それを支えていない感じ。

得られたこと:「オンスロウのピアノ五重奏曲は、確かにシューベルトと同じ編成。ただし、内容は異なる。ブラームスの元ネタ風のシリアス音楽であるが、最後にハイドン風になる。」
by franz310 | 2007-03-03 20:55 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その59

b0083728_2134556.jpg個人的経験:
ここで、CDの内容に戻り、
さっそく、オンスロウ中期の
音楽に耳を澄ませてみよう。
CDをかけると、
冒頭から深々と歌われる
チェロの歌の
しみじみとした味わいに、
しばし陶然としてしまう。
録音も良いのだろう。

今回、ピアノがはじけ回るのとは、
まったく異なるオンスロウを初めて聴いたが、
これは素晴らしい収穫であった。
前回のCDで、
『今回、録音された二つの作品は、
オンスロウの最後の作曲時期に含まれるものである。
1846年、彼は20年にも及ぶ空白のあとピアノに戻ってきた』
などと書かれていたが、このCDは、この傑物が、その間、
何をしていたかが理解できる資料でもある。

CDの解説には、この曲はこう書かれている。
「作品34のイ短調の弦楽五重奏曲の
第一楽章(アレグロ)ではチェロが主題呈示を行い、
第一ヴァイオリンが引き継ぎ、これを完結する。
チェロは第一ヴァイオリンとほとんど等しい地位で主題呈示し、
オンスロウのチェロへの愛を示し、
ダブルベースによる支持によって、
通常の低音機能というものから
楽器を切り離して自由にすることに成功している。」
オンスロウのチェロへの愛情はかくのものであった。
ぶっきらぼうな始まり方ではあるが、非常に深々とした息遣いが、
大変印象的である。

「第一主題の展開から派生した半音階的な動機が、
直接、第二主題を導き、柔軟なチェロのカンティレーナが、
並行三度とオクターブで4小節を広げていく。」
確かに、さきほどのぶっきらぼうな印象から流れ出すメロディは美しく、
夢見るようなチェロの歌が美しく、
ヴァイオリンが同格で受け止める展開は、豊かな幻想性を感じさせる。

「続く部分では、各楽器のきらびやかなパッセージが、
テーマの展開につれて交錯する。」
この色彩的で、いくぶん気まぐれな印象が、
後年の作品と共通し、オンスロウの個性として認識できた。

「メヌエットは、4小節のユニゾンで始められ、
スタッカートの動機、点描風の進行によって特徴付けられる。
トリオの部分では、いろいろな楽器ペアによって、
民謡風のメロディが導かれ、メヌエット部と対照を際立たせる。」
これまた、渋さと平易さが混在する楽章である。

「ヘ長調のアダージョ・エスプレッシーヴォは、
声部交代の技巧の模範例である。
ヴィオラが感情表出力のある8小節の主題を奏し、
ダブルベースのピッチカートに支えられながら、
低い音域で第二ヴァイオリンとチェロが伴奏する。
次の変形では、第一ヴァイオリンが上の声部を歌って、
チェロの主題提示を彩る。」
ゆっくりした優美な楽章で、
ここでも、愛するチェロは別格。
ついつい美しいメロディが、飛び出して来るといった感じだ。

「終楽章は、異常に長く、
またしても、チェロによって提示され、
第一ヴァイオリンによって続けられる明るく技巧的な主題が、
ピッチカートによって、魅力的にサポートされる。
ホ長調の第二主題は、楽章の進行に従って、
陽気な技巧の連続によってかき消されてしまう。」
奇妙な表現であるが、確かに、せっかく出てきた美しい主題は、
ぺちゃくちゃしゃべるヴァイオリンや、フーガ的な展開によって、
どこかに行ってしまう感じである。
6分しかないので、異常に長いとは思えないが、
ちょこまか動き回る感じがくどいということなのであろうか。

いずれにせよ、この曲を聴くことによって、
オンスロウが「室内楽の巨匠」であることも、
チェロの美しさを表出するのに、卓越した手法を繰り広げたことも、
よくわかる。
コントラバスの下支えによって、これが可能になったのである。

では、次の曲(作品35)はいかがであろうか。
「作品35の弦楽五重奏曲ト長調における、
オンスロウの主題の取り扱いは、少し違ったものである。
アレグロ・スピリチュオーソ・アッサイの開始部は、
作品34の五重奏曲の地味な主題の複合体とは対照的に、
小さなほとんど断章のような動機群から成っている。
技巧的な動機が繰り返され和声的に変奏されて、
主題の展開の代わりを務める。」
メロディアスというよりも、技巧的なパッセージが、
表情を変えながら積み重なっていく感じの曲であるが、
ヴァイオリンやチェロが、断片的に意味深い会話を交わすあたりなど、
とても、耳の心地良い。

「ゆっくり、のっそりしたト短調のメヌエットは幾分軽いものだが、
ト長調のリリカルなトリオ部はもっと活気があって、優雅である。」
確かに、トリオ部の優美なメロディは、うっとりするように、
チェロで歌われるが、主部は切迫してあわただしい。

「大きく弧を描く、面白いリズムのチェロのメロディが、
変ホ長調のアンダンテ・カンタービレを開始する。
チェロと第一ヴァイオリンが楽しげに交互に主題を運ぶが、
各楽器の独奏の役割への分配が、
テクスチュアを緩くしてしまうオンスロウの傾向をよく表わしている。」
なるほど、やはり気まぐれなところが、
集中力を欠くといった感じであろうか。
アンダンテ・カンタービレというには、
あまりにもちょこまかと動きすぎる感じはするが。
主題は特徴的であり、小技は利かせられるが、
大きな流れにまで発展しないのが問題といえば問題か。

「終楽章のプレストは、第一楽章の内的混乱を引き継ぐ。
同時代のレビューによると、
『短く、無駄なく、からかうようで、奇妙な』、
と主要主題を表現している。
一方で、ダブルベースとヴィオラの古風な伴奏が、
民族的なクオリティの副主題を導く。
派生した3連音の動機が展開部で支配的な役割を果たす。」
この楽章も、極めて快活で、ハイドン的なアイデアに満ち、
どこに向っているかわからないような錯覚を覚える。

「19世紀の保守的な批評家から賞賛を勝ち得たのは、
オンスロウが、ヴィーン古典派の形式を信奉し続けたからである。
弦楽五重奏曲の形式は、
楽器間のソロの交錯、様々な声部のグルーピング、
楽器の役割の入れ替えなどを含む、多様な作品の変容の道を開いた。
古典形式の枠内の可能性を創造的に活用することによって、
音楽に豊かな創意に富んだメロディを吹き込むことによって、
オンスロウは19世紀のこのジャンルで重要な代表的人物となったのである。」
古典形式を使いまわして、
その限界まで使い尽くした作曲家であったが、
結局、枠から外れることがなかったということであろうか。
確かに、この中期の作品と、前回取り上げたCDの後期の作品の間で、
際立った違いは楽器編成だけといった感じがしなくはない。
20年も隔たりがあるにもかかわらず、オンスロウは、
才能に溢れた、よき趣味人であり、
ベートーヴェンのような革新者でも、
シューベルトのように、
音楽に全てを捧げた啓示的存在でもなかった、
ということであろう。

生涯を貫く太い流れがあって、
そこに明らかな発展があるという大作曲家ではなかったかもしれないが、
心が豊かに満たされる音楽を書いた人であったということが、
このCDからも教えられるのである。
確かに、このCDに収められた作曲家の肖像からも、
趣味人の余裕のようなものが感じられないだろうか。

得られたこと:「チェロが活躍するためには、コントラバスの導入が効果的である。」
by franz310 | 2007-02-25 21:06 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その58

b0083728_2043651.jpg個人的体験:オンスロウという名前を、
例えば、
音楽学者のアインシュタインが書いた
「シューベルト」(音楽的肖像)
などで調べると、
「ます」の五重奏曲ではなく、
同じ五重奏曲でも
晩年の大作、
「弦楽五重奏曲」の説明のところに
名前が挙げられている。

シューベルトの傑作五重奏曲は、
二曲とも、編成でいつも物議をかもす。
ピアノ五重奏曲では、コントラバスの使用が問題となり、
弦楽五重奏曲では、何故、チェロが二挺使われるかが論議となる。

アインシュタインは、後者のモデルは、
オンスロウが模範でないかと書いている。
同様の編成で五重奏を書いた先達にボッケリーニがいるが、
これを否定した上で、
「むしろ、ジョルジュ・オンスローの多数の五重奏曲の一つが
模範だった可能性の方がはるかに多い。」
「第二チェロは本質的には音の支持であって、
このことは再び、五重奏曲の一部において第二チェロの代わりに
コントラバスを使用することを許したオンスローとの関係を示唆する。」
と書いているのである。

こんな事を書かれると、オンスロウの作品を、
特に五重奏曲を聴きたくなってしまった。
オンスロウの作品などはろくに日本では発売されないが、
うまい具合に、ヨーロッパでは再発見の機運が高まっているようで、
ドイツのMDGレーベルが、
2004年に発売した輸入盤を発見することが出来た。
しかも、ちょうどアインシュタインが書いた、
コントラバス利用の演奏であるのが泣けるではないか。
Quintett Momento Musicale という若手の団体が演奏していて、
録音は優秀で演奏も冴えている。

CDの表紙の絵画もきれいだが、
1673年のヴァン。ダイクが書いた肖像画である点、
いったい、オンスロウと何の関係があるのだろうか。
五重奏曲だから、子供5人ではあるまいな。
犬は何だ?コントラバスの象徴か?

しかし、解説書は、まさしくかゆいところに手が届く内容だ。
これはうれしかった。

「際立った天才たちの存在を無視することなしに、
マイナー作曲家の作品にも、先入観なく客観的な方法で、
アプローチする必要を、今日の学者も音楽家もが認めている。
その結果、音楽愛好家たちは、興味深く、
また、各ジャンルの発展という歴史的な重要度もある
作品たちに親しめるようになってきた。
生前、『室内楽の巨匠』とみなされながら、
ほとんど忘却の淵に落ちた作曲家による二つの作品を、
今回のレコーディングは紹介する。」
まるほど、「a master of chamber music」というのが、
オンスロウの評価であったわけである。

「ジョルジュ・オンスロウは、1784年、
7月27日、オーヴェルニュのClermont-Ferrandに生まれた。
彼の父親は、古い英国貴族の家系で、1781年にイギリスを離れ、
母親もオーヴェルニュの立派な家系の出身であった。
オンスロウは英国でよい教育を受け、
ロンドンにおけるヒュルマンデル、
ドゥセック、クラーマーらの指導によって、
若くして評判のピアニストになった。」
なるほど、前のCDにはなかったが、彼はピアノの名手だったのだ。
それなのに、何故、弦楽五重奏なのか。

「それからおそらく1798年に、彼はオーヴェルニュに戻り、
そこで、親交を結んだアマチュアの室内楽奏者たちによって、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンやボッケリーニの作品に親しみ、
チェロを習うに至った。」
ちゃんと、私の疑問にも答えてくれているではないか。

アインシュタインは、シューベルトとボッケリーニの、
直接的な関係は否定したが、シューベルトが影響を受けたとした、
オンスロウはボッケリーニに親しんでいたわけだ。

さらに、オンスロウが、ピアノとチェロを弾いたというところが、
なんとなく「ます」の五重奏曲の成立事情を想起させはしまいか。
そう、あの作品は、アマチュアのチェロ奏者の求めに応じて、
作曲されたのであった。

「同時代の室内楽への徹底的な係わり合いが、
オンスロウの作曲への関心を目覚めさせた。」
何と明快な話であろうか。

「以前、信じられていたオンスロウのベートーヴェン訪問は、
どうやら作り話だと証明されており、むしろ、オンスロウは、
生涯を通じてベートーヴェンに対して、特に後期の作品に対して、
アンビバレントな感情を抱えていたようだ。」
これも分かりやすい。

この前のCDは、オンスロウの後期の作品のものだったので、
何だか時代遅れの変人作曲家といった面が強調されていたが、
これを読むと、野人ベートーヴェンに対し、
貴公子オンスロウといったプロフィールが、非常に鮮明となり、
二十歳かそこらの小僧にしては、かなりませた、
また高踏的なハンサムガイであったような気がしてきた。

「オンスロウの最初の作品は、
三つの弦楽五重奏曲作品1で、1806年頃、出版されている。」
22歳である。いきなり、五重奏曲というのもすごい。
ハイドン、モーツァルトの四重奏曲に、無理やり、
好きなチェロを持って乗り込んだ形であろうか。

「ピアノソナタ作品2、三つのピアノ三重奏曲作品3、
最初の弦楽四重奏曲作品4がすぐに続いた。」

1806年といえば、「英雄」と「運命」にはさまれた、
若いベートーヴェンの飛翔期であり、
シューベルトは、まだ10歳にもなっていない。
こんな時代から活動を開始してさらに半世紀の活動を続けたのであるから、
一代の傑物としか言いようがない。

「ここに至り、彼は、音楽の正式な基礎教育の必要性を感じ、
パリで、アントン・ライヒャ(1770-1836)という
傑出した先生に出会った。
ライヒャは、ヴィーンでハイドンやベートーヴェンを囲むサークルに入り、
自らを鍛え、理論的な知識を獲得した。パリ音楽院の教授として、
リストやベルリオーズ、フランクらを教えた。」
次世代のホープたちの先輩に位置するというわけである。

「室内楽はオンスロウの作品群の中心をなし、
彼も次第に、それに身を捧げ、
他のジャンルは事実上排除してしまうこととなった。
彼の三つのオペラはパリで注意を引いたけれども、
その4つの交響曲と同様、室内楽と同じような賞賛を得ることはなかった。」

「1842年、彼はケルビーニの後任として、パリの学士院の会員となった。」
もう、ベートーヴェン、シューベルトの死後、十数年が経過していて、
改めて、その音楽的生命の長さに驚嘆する。
さらにこの後、彼には十年以上の寿命があった。

「彼は、イギリス、オーストリア、ドイツでもさまざまな名声を博した。
彼はパリでの熱狂的な音楽生活を避け、
オーヴェルニュの比較的人里はなれた場所で、一年の大半を過ごし、
ここで創られた作品を冬になるとパリのサロンで発表した。」
このあたりは、前のCDにも出ていたことである。
「彼は病気がちな身体と、狩りでのアクシデントによる後遺症によって、
残りの人生を苦しめられ、同時期には、彼の作品が次第にフランスの音楽界との
関係を失っていくという状況に立ち会うことともなった。」
前回のCDでは、晩年まで歓迎されていたようだが、この狩りでのアクシデントは、
たぶん、これらの作品が出版された頃起こったものと思われるから、
(続く作品番号の作品で、オンスロウはこの事故を扱っているらしい。)
かなり長いレンジでの話である。

「室内楽の親密な喜びは、グランドオペラや交響詩のファッショナブルなテイストに、
大きく道を譲ることとなった。ジョルジュ・オンスロウは、1853年10月3日、
クレルモント-フェランドで息を引き取った。」

「オンスロウの初期、中期、後期の作品は、
その生涯における特定の領域への好みの変化の強さによって、
識別してもよいだろう。
中期は彼の弦楽四重奏、五重奏への愛情が大きく影響しており、
フランスとドイツで、その名声の基盤となった36曲の四重奏曲、
34曲の五重奏曲が書かれた。
彼の室内楽は明らかに、
ボッケリーニに代表されるイタリアの伝統にルーツを持ち、
五重奏曲ではヴィオラ一挺チェロ二挺の構成を引継ぎ、
19世紀の作曲家たちの主流から一線を画した。」
このように見ると、
パリのサロンで、ピアノの技巧と、管楽器の様々な音色を、
撒き散らして賞賛を受けた作曲家といった、
前回のCDの印象から打って代わって、真摯な求道者としての、
オンスロウ像も形成されてくるのである。

「彼はヴィーン学派が好んだヴィオラ二挺チェロ一挺の構成には
最後の五重奏曲である作品78、80、82まで戻らなかった。
実際、作品32の五重奏曲以降、オンスロウは二挺のチェロの一つを、
ダブルベースで代用することを好み、
この録音でも、その代用が選択されている。」
「ます」でも、常に問題となるコントラバスの利用が、
オンスロウでは、普通に起こっているわけである。

ここから、ついに、コントラバス利用でも良いという、
不思議な編成の誕生の秘話が語られる。
「ダブルベースを利用するというアイデアは、
どうやら、ロンドンでのあるイブニングに端を発しているようだ。
オンスロウは作品32の五重奏曲をある夜会で披露しようとしたが、
第二チェロ奏者が現れず、たまたま居合わせた、
有名なベーシスト、ドメニコ・ドラゴネッティが即興で、
チェリストの代役を務めたのであった。
もともと懐疑的だったオンスロウに、彼の演奏は深い感銘を与えた。
以降、彼は、チェロか、アドリブでダブルベースでもよいと書くようになった。」
これも、ぶっとぶような偶然ながら、
コントラバス利用の効果が発揮された瞬間を物語って、
妙にリアリティがある記述である。

ドラゴネッティは、確か、シューベルトの「ます」の、
コントラバスパートを褒めていたのではなかったか。
この人のことを調べると、イタリア出身のコントラバス奏者で作曲家であり、
1794年以降、ロンドンにあって半世紀を過ごし、
何度か大陸を渡り、ヴィーンではハイドン、ベートーヴェンとも、
親交を交わしたとある。
何と、30曲以上の弦楽五重奏曲はコントラバス入りだという。
後に出現する、ドヴォルザークのコントラバス入りの弦楽五重奏曲もまた、
珍奇な楽器編成で話題になるが、ちゃんとルーツはあるようだ。
とにかく、その楽器の名手たるもの、標準編成に加え、
自分の楽器を持ち込みたがるものと見える。

「作品33の弦楽五重奏曲や、
作品36の3つの弦楽四重奏曲とともに、
1829年3月にライプツィヒで出版された、
この録音の二つの弦楽五重奏曲(作品34、35)は、
オンスロウ中期の作品である。
すべてのオンスロウの五重奏曲と同様、
第二楽章がメヌエットである4つの楽章からなり、
両端の楽章はヴィーン学派の不文律たるソナタ形式で構成されている。」
1829年といえば、シューベルトの死の翌年。
つまり、大傑作とされるシューベルトの「弦楽五重奏曲」の翌年。
オンスロウは作品82まであると書かれていたから、まだ、途半ば。
シューベルトの生涯の疾走と、
シューベルトの初期と後期に置かれた、
たった2曲の五重奏曲が、どのような時間軸で書かれたかを、
改めて痛感させられた。
オンスロウが、ゆっくりと自己の道を模索している間に、
短命のシューベルトは、その時点の音楽界での、
最良の成果を取り入れながら、
火花のような作品を刻んでいったという感じである。

それにしても、ライプツィヒで出版とは、
ロンドンで勉強し、パリで活躍した人にしては、
かなりの国際的知名度ではないだろうか。
シューベルトは亡くなる数年前から、ヴィーンの出版社に失望し、
様々な出版社と交渉を試みていたが、ライプツィヒの出版社からの対応は、
以下のようなものであったとされる。
ペータース社:「偉大な作曲家の出版で手一杯である。」
プロープスト社:「もっとわかりやすい作品を希望する。」
ただし、プロープストは、結局、シューベルト晩年の傑作である、ピアノ三重奏曲作品100を出版しており、前述の弦楽五重奏曲も、結局出版されなかったが送付したようだ。

得られたこと: 「オンスロウはフランスの作曲家であるとはいえ、国際的な知名度も高く、シューベルトに何らかの影響を与えた可能性は大きい。」
by franz310 | 2007-02-17 20:06 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その57

b0083728_2112911.jpg個人的経験:「シューベルトの
『ます』五重奏曲の編成は、
当時としては特殊ではなかった」と、
フォルテピアノ、ヴァイオリン、
ヴィオラ、チェロ、
ダブルベースのメンバーで
結成した常設五重奏団、
ネポムーク五重奏団の
次のCDは、ネットで見る限り、
オンスロウ、ドゥセックらの
作品が収められているらしいが、
某大手輸入CD屋に問い合わせたところ、
カタログに見つからないという。

悔しいので、オンスロウのCDで、
ピアノが入った室内楽を買ってきた。
ワーナーの廉価版シリーズにあったので、
安く入手できた。

「大六重奏曲、作品77b」は、ピアノ、フルート、クラリネット、
バスーン、ホルンとダブルベースのための作品で、
次に収録された、「大七重奏曲、作品79」は、
それにオーボエが追加されている。

フンメルの作品74の七重奏曲の続きのような、
作品番号であるが、編成は少し異なっている。
フンメルにはヴィオラとチェロがあるが、
こちらは、それがなく、代わりにクラリネットと、
バスーンが含まれている。

いずれも、「Grand」と書かれているとおり、
4楽章形式、30分を越える作品である。
ニールセン五重奏団と、Marc Marderのダブルベース(コントラバス)に、
何と、フランスの大家、ジャン・ユボーがピアノで加わっている。
ニールセン五重奏団は、管楽五重奏団なのであろう。

オンスロウは1784年生まれ。
ベートーヴェンとシューベルトの間の世代で、
フンメルより6歳若い。
確かに、こんな人であれば、「ます」に似た作品を、
残しているかもしれないと期待が高まる。

名前だけは聞いたことがあったが、
今回、初めて聴く作曲家である。
何だか北欧的な名前だと思っていたが、
どうやらフランス人で、CDをかけた瞬間に、
「これは、フンメルではないかっ」と、
のけぞってしまった。

とにかく、解説が読んで見たい。
廉価盤ながら2ページばかりではあるが、
解説があるのが助かる。

「フランスでオペラが隆盛していた時、
当時リーダーであった作曲家が、
オーベール、アレヴィ、ボアエルデュやマイヤベーアであった頃、
オンスロウは一人、長い生涯にわたって室内楽への敬愛を持ち続けた。」
確かに、長らくフランスでは器楽の芸術は、
理解されず、ベルリオーズなどが孤軍奮闘していたことを思い出す。

「イギリスの家系でオーヴェルニュに生まれたオンスロウは、
70からの弦楽四重奏曲、五重奏曲だけでなく、
ピアノとその他の楽器による様々な組合せの作品からなる、
膨大な作品群を残している。」

「今回、録音された二つの作品は、
オンスロウの最後の作曲時期に含まれるものである。
1846年、彼は20年にも及ぶ空白のあと、
ピアノに戻ってきた。その時期から、彼は死ぬまでの間、
二つの五重奏曲(作品70と76)、六重奏曲(作品77b)、
一つの七重奏曲(作品79)がピアノのパートを持って書かれた。
さらに作品81の木管五重奏曲とともに、たくさんの弦楽四重奏曲が、
この時期の重要な証言となっている。」

1846年?これは、ベートーヴェンや、
シューベルトの死から20年近く経った時期。
フンメルも亡くなり、もう、シューマンやショパンら、
次の世代の活躍すら終わろうという時期ということとなる。
改めて、その没年を見ると、1853年とある。
62歳の作曲家が、70歳近くまでに書いた作品ということになる。
だいぶ、先にあげた大作曲家の生涯のパターンからは、
かけ離れた異才であることが分かる。恐ろしい創作意欲で、
晩年まで満ち溢れていたようだ。

1853年といえば、もうショパンは死んでおり、
シューマンがライン川に投身する前年である。

「六重奏曲作品77bは。1849年のもので、
実際、この作品は、前年に書かれ、アルバート公に捧げられた
弦楽と木管五重奏曲のための『九重奏曲作品77』の編曲である。
アルバート公自身、そこそこの作曲家であって、以前、オンスロウに曲を捧げ、
その印刷された楽譜をオンスロウに贈ったことがあった。
この賞賛に感激したフランスの作曲家は、
最も成功した作品である九重奏曲を、
プリンスの合奏団に敬意を込めて送った。」

オンスロウは、すっかり忘れられた作曲家であるが、
当時は、かなり、高位の人の知遇もあったようだ。

「九重奏曲を六重奏曲に編曲するに際し、
実質には何も変えていないとオンスロウは述べている。
弦楽のパートはピアノに置き換えられ、
木管の部分は控えめにオーボエを追加しただけなのである。
詳細に作品の分析をしてみると、古典的で、
デリケートで、磨き抜かれた楽器の使い方に支えられた、
バランスよい形式であるにもかかわらず、
霊感の豊かな鉱脈を見つけることが出来る。」

さすがに、弦楽パートから書き改められただけあって、
ピアノの名技性は、巨匠フンメルのものに比べるとおとなしいが、
悲愴味を帯びたり、のどかになったりと、
移ろいやすい気まぐれな楽想の展開が、
フンメルの作品74と酷似している。
フンメルの作品も大ヒットしたらしいが、この曲も、
いかにも時代の空気にマッチしたものを感じる。

第二楽章も、メヌエットと書かれているが、
フンメルの曲は、「メヌエット、スケルツォ」とあったが、
これまた、神秘的な、「悲しいワルツ」といった風情。
類似品ながら個性的である。

第三楽章は主題と変奏、これまた、フンメルと同じである。
これは、ずいぶんのんびりした主題である。

第四楽章は、深刻な曲想で、なかなか聴かせるメロディである。
第二主題は、ほのかに立ち上る香気がかぐわしい。
ここは、ハンガリー舞曲風に、
勢い良くまとめたフンメルとは違う展開である。
シューベルトのように、どこかに運ばれていくような終曲。

「1849年にベルリーブ城で書かれた、
『七重奏曲作品79』は、
掻き立てられた情熱、
はっきりとした霊感の新鮮さによって、
非常に魅力的な作品である。
モシュレスの七重奏曲作品88のように、
明らかにピアノが支配的な書かれ方で、
その様式が作品を協奏曲的なアプローチのものにしている。
それにもかかわらず、オンスロウは七重奏曲の開始部から、
他の楽器にも大きな広がりを持たせ、
ソロとしての輝きのチャンスを与えた。」

確かに、さまざまな楽器が、即興的な楽句を、
特有の音色で思い切って吹き鳴らし、
次第にモチーフが明確になっていくところなどは、
非常にスリリングで魅力的である。
序奏に続く主題は、ピアノでたっぷりと歌われる優美なもので、
続いて、各楽器が、それを歌いついで行く際にも、
あざやかな名技がまばゆい効果を上げている。
警句的なフレーズが緊張感を高めると、
憧れに満ちたピアノのメロディが戻ってきて、
聴くものの心を優しく包み込む。

第二楽章も緊張感溢れるスケルツォで、名技的なパッセージが飛び交い、
素晴らしい効果を上げている。
第三楽章は、ホルンが美しく呼びかけるアンダンテ。
朝の澄んだ空気を思わせる佳品である。
ブルリーフとは、こうした新鮮な緑の香りする場所なのだろうか。
第四楽章は、のどかな木管合奏で始められ、
快活にピアノが駆け巡るフンメルを思わせる終曲。
ここでは、ちょっと、凝集力に欠ける気がする。

「19世紀の中盤の作品であるには関らず、
これら二つの作品、現代の聴衆は、
古典的な形式の形跡が残ることで驚かされる。
確かに、オンスロウは最期の時まで、
ハイドンやモーツァルトの時代の遺産に忠実で、
構成にアカデミックなアプローチを残している。」
確かに、不満があるとすれば、作曲年代からして、
時代遅れ的な印象があることであろうが、
この人の寿命が長かっただけであり、
生年からすると、このような作風でもやむを得ない。

「ロマン派の精神に対する免疫がなかったとはいえ、
その和声やメロディの半音階的書法は、
ドラマティックというよりもリリカルな
形式上の着想、最後にある種の感情的傾向からして、
彼を、シューマン、ウェーバー、シュポアやメンデルスゾーンなどの
初期ドイツロマン派の仲間に位置づける。」

「オーヴェルニュの地所の広大な背景のもとで、彼は作曲を行った。
そして、毎年、冬の4ヶ月、彼は聴衆に、
その最新の努力の結果を聴かせるべくパリに行った。」
オーヴェルニュといえば、美しい民謡で有名な、風光明媚な高原の地と聴く、
「ます」の五重奏曲が、シュタイアーの大自然から生まれでた事を、
思い出した。
オンスロウを聞きながら、オーヴェルニュの自然に思いを馳せよう。

「彼の友人で、パリ音楽院のピアノ教授であるアントニー・マーモンテルは、
これらの機会について、こう記述している。
『オンスロウの名声は、力強い演奏者たちの協力もあり、高まり続けている。
毎冬、Baillot、Tilmant、Urhan、Kreutze、Vidal、Louis Norblin、
Alard、Sauzay、Cuvillon、Dancla、Franchomme、Gouffe
たちが出演するよう要請された。』」
(12人もいる!)
こんな人たちが、入れ替わり立ち代り、
俺も俺もと演奏に参加していたとしたら、
いろいろな編成のものが、しかも、各楽器が印象的に活躍するものが、
生み出されないわけがなかったのだ。
シューベルトの名作「ます」の五重奏曲もまた、
よき友人、信奉者の手で温められて生まれてきたことを、
改めて思い出した次第である。

「一般的に、オンスロウの作品は、作曲家の友人の家で初演され、
演奏者たちは手稿から初見で演奏した。
作品77bの六重奏曲に対する、熱狂的な賞賛は、彼のさらに早い時期の
1825年に書かれた作品30の六重奏曲の異常な成功を、
さらに確かなものにした。」
1825年といえば、ベートーヴェン、シューベルトの晩年にあたる。
先に、20年もの間、ピアノ音楽を書かなかったとあったが、
これら大家が亡くなった頃、オンスロウはピアノから別れ、
再び、そこに戻って来たということになる。
タイムカプセルみたいな音楽に聴こえなかっただろうか。

「これらの六重奏曲の中の楽章の一つやいくつかを、
オンスロウの友人たちが演奏した晩の数を数えることは不可能である。
これらはまた、二つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、
ダブルベースとピアノのために編曲されてもいる。」
この編成だとすると、ヴァイオリンを一つ取ってしまえば、
シューベルトの「ます」と同じ編成になる。
この記述からも、シューベルトの採った編成は、
決して特殊ではなかったことが分かる。
また、楽器を増やしたり、減らしたりがお手の物だった
オンスロウが「ます」と同種の編成の作品を書いているとしても、
全く不思議ではない。
この作品30といい、弦楽のための編曲といい、
機会があれば、聞いてみたいものである。

「作品79の七重奏曲は、この作品のピアノ編曲を献呈された、
シャルロッテ・デ・メルヴィルによって初演されている。
彼女は、数ヵ月後には、今度は、オンスロウによるピアノと、
ダブルベースを含む弦楽五重奏のための編曲版をも演奏した。
また、最近の研究では、この編曲版は、
大家タールベルクの名前を、パリで高めたものである。」
とにかく、ヒットはする、編曲はされて著名な演奏家に演奏されるなど、
恐ろしく充実した晩年だったようだ。
これは、ベートーヴェンやシューベルトの晩年とは、
少し、違ったものであったようだ。

廉価盤ゆえか、この解説は、各楽章までは記述がなく、
演奏家についても触れられていないが、これまで読み、
また、このCDで聴いてきたとおりの感想で、締めくくられている。
「これらの作品を聴くと、何故、生前は高名でありながら、
今日、ほとんど演奏されない理由が理解できない。
19世紀の大作曲家の一人とまでは言えないとしても、
オンスロウは、その魅力的な作品群が再発見されるに相応しい
この時代のフランスの室内楽の
輝かしい代表者であることは間違いない。」

もうすぐ、ブラームスらが活躍するという時代にあって、
確かに、この人の作風は回顧趣味的で、フンメルなどからすれば、
30年くらい遅れているような気もするが、楽想は魅力的だし、
友人たちにいろいろと口出しされて書いたのであろう作品たちは、
楽器の魅力を発散している点では、フンメルを制した。

晩年まで友人や理解者に囲まれ、自然の中で楽想をはぐくんだ、
この知られざる作曲家に今回、出会えたことは、
非常によかったと思う。

得られたこと:「よき友人たちの存在が、室内楽の表現力をより豊かにする原動力となる。」
by franz310 | 2007-02-10 21:02 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その56

b0083728_112226.jpg個人的経験:
このCDの後半には、
さらに長大な作品が
収められている。
前半のリースは、
ベートーヴェンの弟子として、
文献には必ず登場し、
CDもいくつか出ているのを
知っているが、
Limmerという名前は初めて知った。


解説を読み解いてみると、こんなことが書いてあって、
非常に感銘を受けた。

「フランツ・リンマー
(1908 ヴィーン - 1857 ティミソアラ)
早い時期からリンマーの天分は明らかであったので、
両親は、ヴィーンの音楽院に入学させ、
そこで彼は他の教科とともにチェロとクラリネットを学んだ。
最終試験に合格し、卒業証書とともに銀のモーツァルトメダルを得た。
しだいに、彼は和声学、作曲、管弦楽法を学んだが、
彼の先生は他ならぬ高名なヴィーンの作曲家であり教育者であった、
イグナツ・リッター・フォン・サイフリードであった。」

リースもエリート肌だったが、リンマーもすごい。
いかにも将来を嘱望される大器である。

「初期のリンマーの作曲家としての仕事は、1824年に編纂された、
40の新しいワルツに見られる。
ベートーヴェン、ヨーゼフ・ベーム、ヨーゼフとカール・ツェルニー、
ヘルメスベルガー、イグナツ・リッター・フォン・ザイフェルトの
短い作品に続いて、リンマー作のワルツが見られる。
ここに彼の作品が見えるということが、
たった16歳の作曲家の持つ才能のほどを示している。
へ長調のワルツは、16小節の中に多くの転調や半音階を含み、
大胆かつ、ザイフェルトから学んだすべてを具体化した成功した試みである。」

おっしゃるとおりで、いきなりベートーヴェンと並んだわけである。

「他の初期の作品としては、17歳のときのニ長調のミサ曲がある。
これはヴィーンのオーガスティン教会で初演されたが、批評家は、
作曲家を、『音楽の天空に現れた輝かしい流星』と賞賛した。
残念ながらこの作品は残っていない。
しかし、この作品は、1872年の新聞記事に見られるように、
リンマーの死後もティミソアラの聖堂で演奏されている
荘厳ミサ曲第一番になったのかもしれない。」

ベートーヴェンもシューベルトも、その最後の高みに、
駆け上がろうとしていた時代であるが、
同じ街にいた彼らはこの評判を聞いたであろうか。

「1830年、イグナツ・フランツ・カステリは、リンマーの弦楽四重奏曲作品10を、
彼の雑誌の中でレビューした。
彼はこの作品を聞いて喜んだ。しかし、この作品は
完全に理解するためには、勉強と練習を要するとも言っている。
そのたった1年後に、リンマーの4つのチェロのための四重奏曲が出版された。
この作品は、同じ年に続いて現れた3つのチェロのための三重奏曲と同様、
批評家からは大変高く評価されて受け入れられた。」

かなり変わった編成の音楽を書いたようだが、
このあたりまでは、エリート街道まっしぐらである。

「当時、ティミソアラのドイツ劇場の監督をしていたテオドール・ミュラーは、
ヴィーンの若い音楽家に着目し、1834年に指揮者の地位を提供した。
リンマーはそれを受け入れ、第二の故郷となるティミソアラにやってきた。
この時、南東ヨーロッパの小ヴィーンは経済的にも文化的にも繁栄していた。」

Timisoaraなどという地名は、初めて聞いた。

「ここでは、リストやシュトラウスのような有名な巨匠たちが、
熱狂的な音楽愛好家の群集の前で演奏を披露していた。
毎年、ベートーヴェンの「フィデリオ」やヴェルディの作品を含む、
15ものオペラが都市劇場で上演されており、リンマーもまた、
上司のアレクサンダー・シュミットの台本によって唯一のオペラ、
「アルペンヒュッテ」を作曲している。
この総譜は復元されておらず、ピアノ二重奏に編曲した序曲が残されているのみである。

この時代の作品としては、ト短調のヴァイオリン・ソナタと、歓喜の序曲と題された序曲が、他の作品とともに書かれた。」

いずれにせよ、地方の文化都市での活動が始まったが、
ここの劇場などで、華麗な活動を続けたわけではないことが、
以下に書かれている。

「1835年、リンマーはティミソアラの聖堂の合唱指揮者に任命され、
この教会のために、最もしられた作品である
作品14のオッフェルトリウム(ソプラノ、ヴァイオリン独奏、
オルガンとオーケストラのための)を書いた。
この作品は、オーストリア-ハンガリー帝国内の多くの教会で演奏された。」
これは、完全にシューマン、ショパン風の活動とは一線を画したものだ。
もちろん、ベートーヴェン、シューベルトとも、全く違ったもので、
あるいは、ブルックナーのような活動なのだろうか。
シューベルトなどにも、このような生涯という選択肢があったのだろうか。
シューベルトも最初は、ミサ曲などで認められたのだから。

「聖母マリアの賛歌や、来たれ聖霊など、
リンマーの他の教会音楽は、20世紀の前半まで
ティミソアラ地方で演奏され続けていた。
1842年作のレクイエム変ロ長調やヴェスプレなど、
リンマーの大規模な礼拝用の音楽は、つい先年まで、再発見されていなかった。
1955年の10月31日に、
前者はティミソアラの聖堂で再演された。」

シューベルトがもし、このような道を選んでいたら、
リンマーと同様、その土地に愛され、その土地を愛し、
幸福な生涯を送り、音楽史からは消えていったかもしれない。

「1957年1月19日のリンマーの死後、
レオポルド・アレキサンダー・ツェルナーは、
ヴィーンの雑誌に故人略伝を載せた。
『ザイフェルトの弟子リンマーは、素晴らしい音楽化で、
思慮深い指揮者であり、才能ある作曲家であった。
彼は、いくつかのよく書かれたミサ曲を含む、たくさんの教会音楽、
数曲の交響曲、特に特別の演奏能力を持っていた
チェロのためのものを含む多くの室内楽を書いた。
聖歌集や、奉献歌、それに室内楽など、
その作品のいくつかは出版されている。
その4つのための四重奏曲は当時、
とても成功したものである。
率直で陽気な人物であったリンマーは、
人をひきつけるマナーを持ち、
音楽の専門家である以上に、教養人であった。』」

彼が選んだのは、その地方に根ざしての誠実な活動であり、
天空を駆ける流星とは違う人になってしまったようだが、
これはこれで、心打たれる生き様ではなかろうか。
この地で、結局、リンマーは49年の生涯を閉じている。

ティミソアラとはどこにあるのだろうか。
改めて地図をめくると、何とルーマニアにあった。
ハンガリーとの国境近くではあるが、
故郷から遠いことに変わりはなかろう。

さて、ここからが、曲の解説である。
「フランツ・リンマーは、ニ短調作品13の五重奏曲を、
出版者であるレイムンド・ヘルテルに捧げている。」

出版者のヘルテルといえば、シューベルトの「魔王」を拒絶した、
ゴットフリート・クリストフ・ヘルテルが有名だが、
息子か何かだろうか。
いずれにせよ、シューベルトの場合は、出版社から、
「修行中の作曲家の仕事は引き受けない」とか、
「シュポアやフンメルの作品の出版を引き受けているので、
それどころではない」などと、憎たらしい扱いを受けていたが、
リンマーの場合は、それはなかったのだろうか。

作品14が1835年の作曲であるとあったから、
この時代の作品であろう。シューベルトはすでに世にないが、
同じ編成で書かれて、唯一音楽史の金字塔になった、
「ます」の五重奏曲が、ここに影響を与えているとは思えない。
むしろ、ピアノ協奏曲と室内楽の複合形のような、
フンメルの延長のもので、精神的には、
ショパンとシューマンの中間のような音楽である。

いずれにせよ、作曲家は、まだ26歳。
「ます」が書かれたのも、シューベルト22歳の年、
同様に青春の香り高い大曲と呼んで良かろう。

「オリジナルのタイトルには、ピアノと弦楽伴奏による大五重奏曲、
とあり、第一楽章のアレグロ・コン・エネルジーコは、
簡潔な4小節の主題の総奏から始まり、
徹底したピアノの超絶技巧の小節が続く。
しかし、この部分は弦楽が不明瞭になってはいけない。
第二主題はシューベルトを想起させ、まず、ピアノに聞こえ、
メインテーマと共に、弦楽が組み合わされる。」

確かに、心に染み入るような曲想は、シューベルト的とも
呼べるかもしれないが、さかんに飛翔しようとする、
ピアノの運動感は、むしろショパンの協奏曲を想起させるものだ。

「展開部は、弦楽によって第一主題がフーガのような処理をされ、
力強いテーマが戻ってくるまで、
ピアノが伴奏にまわって、絶え間ない技巧を聞かせる。
第一楽章を通して、ピアノは、ほとんど16分音符と三連符に満たされ、
これをピアノ協奏曲と呼んでも良いほどである。
「伴奏付きのピアノのための」というタイトルにも、
そのような視点が反映されている。」

冒頭から深刻であるが、わざとらしくない楽想が、
適度な緊張を孕みながら、展開されていく。
ショパンやシューマンの時代の人だけに、
前者の華麗なピアノへの傾斜も、
後者の深いロマンへの憧れも、
その両方が聴こえる音楽で、
この楽章だけでも16分もかかる。

さすが将来を嘱望されたエリートだけに、
要所にはフーガのように錯綜した技法も散りばめ、
この長大さを活かしきっている。
このひたむきな推進力で、先の二人の著名な同時代人と同様、
音楽で稀有の高みを目指そうとする姿勢が好ましい。

「スケルツォは、アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイと記されているが、
その性格は、シコペーションの主要動機と、
ぎこちない輪郭線、ピアノと弦楽との絶えまない競演によって、
もっとドラマティックなものになっている。

トリオにおいては、ヴィーン人であるリンマーが前面にでて、
ヨハン・シュトラウス父への明らかな類似が見出せる。
初期のリンマーのワルツと同様、大胆な転調が現れる。」

まさしく、何かを模索するようなスケルツォで、
変化に富み、非常にデリケートな感情の高ぶりが、
ロマンティックである。ただし、トリオは、
どちらかというとフンメル風に聴こえる。
気まぐれな安逸さが少し気になるが、
ひたむきな曲想のこの曲の中にあって、これも気分転換になっている。

「第三楽章では、ピアノソロのオープニングに続き、
弦楽が超著してためらうように、先導するメロディに寄り添ってくる。
いくつかのカデンツァのようなピアノのパッセージと転調が、
弦楽を伴奏にしたピアノの独白に続く。
この夢見るような楽章は、表題の『モルト・コン・エスプレッショーネ』
のとおりに閉じられる。
メロディアスな第一ヴァイオリンの主題が巧妙に他の弦楽に伴奏され、
弱音ペダルを伴ってピアノのアルペッジョが演奏され、
ため息のように消えていく。」

ピアノが華麗なパッセージを駆使するが、
嫌味でなく、それが妙に心に訴える、美しい緩徐楽章で、
弦楽の合いの手も深いメロディで音楽を彩る。

「アラ・ブラーヴェの終楽章は、聴衆にとって、いくらかやっかいなものである。
この複雑な音楽の中には、先立つ楽章での多くの特色が聞き取れる。
演奏者に高い演奏能力を要求し、トリッキーなリズムの参入、
たくさんのメロディックなパッセージ、巧みなポリフォニー、
無限の想像力を駆り立てるイマジネーション。
それに加え、彼の作品のいくつかで見られる
ピウ・ストレッタ(さらに速く)で、リンマーはクライマックスを築く。」

まさしく、ここに書かれているとおり、複雑な工夫が散りばめられた楽章で、
12分を要し、この大曲を壮大にまとめようとする意気込みが、
随所に感じられる。
まさしく、襟を正すべき、シリアスな作品で、
音楽に対するひたむきな姿勢を感じずにはおれない。
ただ、あまりにもひたむきなので、シューベルトの「ます」ような、
天真爛漫な世界を期待すると、その精神も技法も、あまりにも、
かけ離れた世界かもしれない。
シューベルトは、アマチュアのために書かれたがゆえに、
各楽器に存分な見せ場を作ったが、この曲では、ピアノは英雄的な
活躍をするが、弦楽部は、それを援助する補佐役に留まっていて、
名技的なピアニストがコンサートで、その技術を披露するに、
相応しい仕組みになっている。

「音楽の空に輝く輝かしい流星といみじくも呼ばれた
若い作曲家によって書かれたこの五重奏曲は、
全体として、どのように見ても、
この種の音楽の中で、最高の作品の一つなのである。」
などと、解説は結ばれているが、全く否定することはできない。


得られたこと:「シューベルト以降も『ます』と同じ編成の作品は書かれたが、それは、むしろフンメルの延長に位置づけられる。」
by franz310 | 2007-02-03 11:32 | シューベルト