excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
以前の記事
2018年 05月
2018年 03月
2017年 10月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その150

b0083728_2254273.jpg個人的経験:
ベルリン・フィルの
シュヴァルベと、
ヴィーン・フィルの、
ヘッツェルは、
共に、
名コンサートマスター
として、学生時代の
私の脳裏に刻まれたが、
楽団員としてではなく、
彼らが独奏したCDもある。


シュヴァルベについては、
ヴィヴァルディの「四季」から、
リムスキー=コルサコフの、「シェヘラザード」、
さらには「タイスの瞑想曲」まで、
ほとんど独奏者のような録音もあるが、
純粋な協奏曲というのは、LP時代には、聴いた事がなかった。

今回、こうしたCDには、詳細な解説がついており、
彼らの略歴をも勉強することが出来る。

まずは、オルフェオ・レーベルが出した、
1984年8月19日のザルツブルク音楽祭からの、
実況録音のCDには、Clemens Hellsbergが、
ヴィーンのコンサートマスター、ヘッツェルの略歴を書いている。
「The Best in the Best Way Possible」
という一文である。

「ゲルハルト・ヘッツェルが不慮の事故で亡くなって、
10年が経つが、その悲劇によるショックは、
直接、それを体験したものにとって、
いまだ記憶から消えることがない。
そして、この10年は、
私たち、それに、当時からの音楽通の人々に、
ゲルハルト・ヘッツェルとは、忘れがたい、というのみならず、
もっと、かけがえのない存在だったということを、
改めて確信させたのである。
ヘッツェルは、1940年4月24日、
旧ユーゴスラヴィアのNeu-Werbasに、
医者の息子として生まれ、5歳からヴァイオリンを習った。
彼は、1952年、ルツェルンにて、ルドルフ・バウムガルトナーや、
その後、彼を教え導いたウォルフガング・シュナイダーハンと会う前、
まず、MagdeburgでOtto Kobinに師事した。
1956年から、1960年まで、
ヘッツェルは、ルツェルン音楽祭ストリングスで活動、
1959年から1970年までは、
ルツェルンのマスタークラスで、
シュナイダーハンの助手を務めた。
1963年から、彼はベルリン放送交響楽団のコンサートマスターを務め、
1969年9月1日のオーディションの後、ヴィーン国立歌劇場の、
コンサートマスターに就任、同時に、アソシエーションにも属することとなった。」

1969年と言えば、30歳になる前である。
29歳から52歳までの23年にわたって、彼はヴィーン・フィルの、
コンサートマスターを務めたということだ。
後で触れる、シュヴァルベの在任期間も28年だったが、
それに劣らず、長い期間、この人はヴィーンの顔だったのである。

しかし、ベルリンのシュヴァルベが、いろいろな賞を取っているのに、
この人にはそうした経歴はなかったようだ。

また、この解説には、オーディションで、
ヴィーンのコンサートマスターになったとあるが、
一説によると、カール・ベームが連れてきたともいう。

ということで、コンサートマスター就任の所から、
解説を再開させて引用すると、
「彼は、その後、理想のコンサートマスター、
そして輝かしい独奏者として存在感を示し始め、
ヴィーン、ボン、ザルツブルク音楽祭で、
ヴィーン・フィルと演奏した、
バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番では、
素晴らしい解釈を聴かせた。
1982年3月27日もまた、記憶に残る日で、
ミルシテインが定期演奏会のわずか2・3時間前に、
キャンセルをした時、オーケストラとのリハーサルもなしで、
ベートーヴェンの協奏曲のソロの代役を務めた。
ヴィーン・フィルの定期では、
以下のような作品の独奏者も務めている。
ブラームスの協奏曲、モーツェルトの協奏交響曲、
ベルクの室内協奏曲、シュナイダーハンとのバッハの二重協奏曲の他、
マルティヌーのフルートとヴァイオリンのための協奏曲。
彼の共演者は、フェレンチーク、ハイティンク、ドホナーニ、
マゼール、メータ、オザワなどである。
ヘッツェルはまた、管弦楽作品の独奏部でも、
非常に印象深い演奏を行い、それはしばしば至福の時を作り上げた。
見せ物になるのではなく、高いモラルの重視こそが、
ヘッツェルの音楽家としての目指すところであった。」
このCDのジャケット写真1つとっても、
そのような雰囲気が滲み出ていないだろうか。

そうした意味で、このジャケットは、
いつも、赤と金で適当な感じのオルフェオにしては、
比較的かっこいいものとなっている。

「難なく独奏者としても成功し、
室内楽奏者としても、国際的に最高の評価を得たが、
彼は人生を豊かにするためには、
彼が言うところの、安定性や忍耐力が不可欠な、
オペラや交響楽への参加も絶対不可欠だと考えていた。
こうした事全般へ彼がいかに関心を持っていたか、
思い出の中でのみ、推し量ることができる。」
ヴィーン歌劇場の、オーケストラ・ピットに入るような、
繰り返し作業にも、彼は同じ情熱とエネルギーを注ぎ、
模範的で、同僚たちの良き規範となった。
多くの最高級の指揮者たちが、
彼を世界最高のコンサートマスターだと考え、
また、レコード会社のマネージャーたちにとっても、
彼は、絶対的な音楽の権威であった。
オーケストラの同僚にとって、彼は、音楽家としてだけでなく、
一人の人間としても信頼できる存在だったので、
誰が言うというわけでもなく、いつしか高名となったこの権威には、
いつも喜んで従った。」
このヴァイオリニストは、このように、非常に有能なリーダーでもあった、
ということであろう。
これを読んだだけでも、この人を尊敬したくなってしまう。

「ヴィーン・フィルは、傑出した音楽家を失ったのみならず、
素晴らしいヒューマニズムと、広範な知識を併せ持った人材を、
失ったことになる。
『最高の事を、できるだけ最高の手段で』という、
楽友協会の産みの父たちの金言は、
まさに、ヘッツェルの生き様そのものであった。
彼は、おそるべき仕事量の最中、自らには最高を課しながら、
他の人には、寛容と暖かさを持って接した。
彼との交流は通常の友情といったものではありえなかった。
彼と個人的に近づきになった者は、
愛と感謝も持たずにはいられなかった。
23年もの間ヴィーン・フィルにとって、
そこでコンサートマスターとして過ごした彼は、
この上もない存在として記憶に残っている。」

ここで聴く、バルトークの最高傑作とも言える協奏曲の演奏からも、
以上、書かれていることが、まったくの真実であろうと、
確信せざるを得ないような演奏になっている。
マゼールもヘッツェルも音楽に没入し、有り難いオーラが発散している。

ヘッツェルの演奏も、澄み切って突き抜けるようなトーン、
まったく危なげのない技巧は、どのような難所にあっても、
まったく、乱れることはない。
高潔な人柄を、そのまま音にしたような演奏である。

バックは、マゼール指揮のヴィーン・フィル。
ティンパニの強烈な一撃などが目立ち、意欲的な表現力である。

しかし、この協奏曲、構想も雄大で、
独奏部も管弦楽も強烈、なおかつ長大なもので、
楽団との対決姿勢のようなものが必要と思っていたが、
こうした寄り添うような解釈もあり得たのである。

考えて見れば、この曲をバルトークに書かせたのは、
ゾルタン・セーケイであって、このハンガリーの名手は、
名門ハンガリー弦楽四重奏団を率いた室内楽の名手でもあった。
が、この人が初演した時の1939年の録音を聴くと、
ヘッツェルの演奏は、かなり特異なもののようにも思える。

とはいえ、解説にあったような、この素晴らしい音楽家の、
人となりをそのまま音にした音楽となっており、
これはこれで、非常に真実の音楽として聴くことが出来る。

CDの後半に、モーツァルトの喜遊曲が収められていて、
この重量級のコンチェルトの後で、
気持ちの良い開放感を味わえることを付記しておこう。


b0083728_2262665.jpg一方、ベルリンの
名コンサートマスター
として知られた、
というか、カラヤンの
片腕のような感じだった、
シュヴァルベの方は、
ビダルフという
弦楽器系に強い、
イギリスのレーベルが、
3曲もの協奏曲録音を
集めてくれている。

ジャケット写真は、これまた、ベルリン・フィルという、
大楽団のリーダーを務めた人に相応しいもので、
言うなれば、大企業幹部のような雰囲気を漂わせたものだ。

もっと言えば、ヘッツェルも含め、
どっちもメガネをかけたいかめしいおっさんで怖い。
とても、初心者は、欲しいと思わないであろう、
壮絶なデザインともいえる。

が、こうしたイメージとは違って、
ベートーヴェンとかショスタコーヴィッチといった、
重量級のものが演奏されているわけではない。

メンデルスゾーン、サン=サーンス、ヴィエニアフスキという、
どちらかというと、カラヤンが得意としたとは思えない曲目ばかり。
しかも、共演は、皆が期待するベルリン・フィルではない。

が、ヴァイオリン協奏曲としては、素晴らしい名曲揃いである。
スイス・ロマンド管弦楽団が放送用に録音したもので、
1960年から63年のものである。
拍手も入っており、実況中継のようなものだろうか。

メンデルスゾーンが1960年3月25日、
指揮は、Samuel Baud-Bodyとある。
また、サン=サーンスは「第三協奏曲」で、
1961年1月4日、指揮はFrederick Prausmitzとある。
私は、まったく知らない。
ようやく、ヴェイニアフスキの「第二」が、
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ。
1963年1月23日の録音。

ここでも、シュヴァルベの略伝がばっちり読める。
先に触れたが、ヘッツェルと違って、何だか、
コンクールとか成績を重視した書きぶりである。

誰が書いたかは分からないが、
何故か、日本のヴァイオリニストが関与した発売らしく、
スイスロマンド管弦楽団と、Joji Hattoriに謝意が述べられている。

「ミシェル・シュヴァルベは、その才能を、
絶対的な熟達の域にまで高めることが出来た、
数少ない神童の一人であった。
この若いヴァイオリニストは、早くから特別な才能を示し、
10歳にしてコンサートを開いている。
レオポルド・アウアーの門下で、後にそのアシスタントを務めた、
モーリッツ・フランケルの生徒だったので、
アウアーの流派と呼ぶことが出来る。」

アウアーは、どちらかというとスラブ系の人だと思うが、
それゆえに、ハイフェッツやエルマンが愛奏した、
ヴィエニアフスキが含まれているのだろうか。

が、どうやら、それだけではなさそうだ。

「ワルシャワの音楽院を卒業した後、シュヴァルベは、
パリでジョルジュ・エネスコとピエール・モントゥーの元で研鑽を積んだ。
そして、特にエネスコとの強い関係から、
自らの音楽を発展させるのに必要な多くの影響を受けた。
この時期、ワルシャワの国際ヴィエニアフスキ・コンクールで、
ヌブーやオイストラッフと並んで賞を得たことが特筆されよう。
フランコ-ベルギー楽派で、
パリの音楽院のマサールやマルシックの後継者であった、
偉大なフランスの名匠、Jules Boucheritが、シュヴァルベの演奏を聴き、
彼を招いて弟子にした。
このように、シュヴァルベは、この2つの楽派の奏法の良い点を合わせ、
Boucheritの指導の下、音楽院では、
念願のサラサーテ賞や特別な賞を受けるなど、
最高の評価を得て勉学を終わらせた。」
ということで、何と、フランスでも学んだようで、
こうしたことから、サン=サーンスが演奏されているわけだ。

以外に深い意味をもった選曲で、
改めて、この盤の貴重さに感服した次第である。
オイストラフの楽派とグリュミオーの楽派が、
一緒になった人をカラヤンが連れてきたというのも不思議である。

「『L’Art Musical』誌は、こうコメントしている。
『何人かの音楽家が、彼の演奏を見て、
まだその姿を生き生きと思い出すことが出来る、
サラサーテを彷彿させると言っている。』
ベルリン・フィルのコンサートマスターが、サラサーテというのには仰天した。

以下、このCDが、
何故、スイス・ロマンドで作られたかを暗示する内容が出て来て、
これまた驚いた。
「シュヴァルベの国際的キャリアの前進は、
しかし、第二次大戦によって中断された。
1944年、エルネスト・アンセルメは、
ジュネーブのスイス・ロマンド管弦楽団の、
第一コンサートマスターに招いた。
ジュネーブとルツェルンにおける、
このオーケストラとのブラームスの協奏曲の演奏で、
輝かしい独奏者としてのデビューをした後、
シュヴァルベは、このオーケストラの独奏者として、
レギュラー出演することになった。
彼は、スイス・ロマンドでの活躍に加え、
すぐにスイスで広範囲の活動を展開、
ルツェルン祝祭管弦楽団のレギュラーの客演リーダーとしても、
著名な指揮者、ワルター、フルトヴェングラー、
バルビローリなどと共演している。
彼はさらに、クララ・ハスキルとソナタを演奏し、
ジュネーブ放送のためには、パガニーニの奇想曲を、
ライブ中継したりした。」

1947年、フルトヴェングラーは、
ルツェルン祝祭管弦楽団と、ベートーヴェンの協奏曲や、
ブラームスの「第一交響曲」を演奏し、
その記録を聴くことが出来るが、この時、
コンサートマスターは、シュヴァルベだったのだろうか。

この時、ベートーヴェンのピアノを弾いたのは、
以前、ここでも紹介した、エッシュバッヒャーである。
このピアニストは、ケッケルト四重奏団との共演で、
シューベルトの「ます」のレコードを残している。

また、だとすると、ブラームスの交響曲、第二楽章で、
ヴァイオリン独奏を受け持ったのは、シュヴァルベだったのか。

これから、まるで、出世街道まっしぐら、といった感じの記述が続く。
「1948年、シュヴァルベは、
シュベニンゲンの国際音楽コンクールで一等賞を取り、
同年、ジュネーブの音楽院のシニアプロフェッサーに任命された。
それから彼は数年間、ヨーロッパ中を回って、
選ばれたオーケストラとソリストとして共演した。
1957年、カラヤンは彼を、
第一コンサートマスターとなるよう、
ベルリン・フィルに招いた。
彼のベルリンでのセンセーショナルなデビューは、
最高の予想を、さらに超えたものであった。
Der Abend誌のレビューは、
『シュヴァルベは、チャイコフスキーの協奏曲を、
エキサイティングなブラヴーラを持って演奏し、
パガニーニに比較したほどだった。』
シュヴァルベは、1957年、カラヤンとベルリン・フィルと共に、
最初の日本公演ツアーを行っている。
このツアーの間、NHK交響楽団と、協奏曲のラジオ放送を行った。
その後、極東に何度も訪れた彼の最初の訪問であった。」
改めて、日本との関係を強調しているのは、
先のスポンサー関係だろうか。


「1960年代初頭、シュヴァルベは、
ザルツブルク・モーツァルテウムの、国際サマーアカデミーの、
客員教授となり、彼はザルツブルク音楽祭に何度も登場し、
ベルンハルト・バウムガルトナー指揮のカメラータ・アカデミカと、
モーツァルトの協奏曲のいくつかを共演したりした。
1963年、彼はベルリンの芸術高等学院の教授のポストに就任、
1986年まで教鞭を取った。
彼は同時に、エリザベート妃コンクール、ジュネーブ国際コンクール、
パリのジャック・ティボーコンクールなど、
数々の有名コンクールの審査員を務めた。」

「彼はそのキャリアを通じ、世界中の批評家からも、
その音楽性と名技性の融合を賞賛された。
高名なフランスの批評家、ベルナルド・ガヴォティは、
フィガロ誌に、『喜びだけでなく、それは啓示でさえあった。
彼は要するに大家であって、そして、全てを持っている。
スタイル、素晴らしいテクニック、天才的な叙情性、
洗練、感情表現、さらに、輝かしい音色、
こんな人は世界に5、6人しかいない。』
シュヴァルベは、沢山の栄冠に浴し、
ベルギーでは、国王から勲章を受け、
ドイツでも十字勲章、フランスでレジョンドノールを受けた。
シュヴァルベの才能に感銘を受けた慈善家、
アクセル・スプリンガーは、『マキシミリアン王』という、
1709年のストラディヴァリウスを、
彼のキャリアにわたって貸与した。」

ここからは、先のヘッツェルの例と同様、
彼のコンサートマスターとしての業績が総括されている。
「彼は、1985年までベルリン・フィルと、独奏者、
コンサートマスターとして演奏し、1992年に演奏会からリタイアした。
彼は数知れないツアーと録音を、ベルリン・フィルとこなし、
彼の名前は、その輝かしいオーケストラの評価と一体となっている。
カラヤンを含め、多くの同僚から尊敬を受け、
事実、マエストロも、シュヴァルベに対し、こう語っている。
『私たちは素晴らしいひとときを共に過ごした。
私は、彼を思うとき、賞賛と深い感謝の念を感じずにはいられないだろう。』」

このように、ベルリン・フィルと、ヴィーン・フィルで、
私が学生時代に活躍していた二人のコンサートマスターの略歴を、
紹介してみたが、これらをまとめると、こんな感じになる。

シュヴァルベの生年は書かれていなかったが、
1908年生まれのオイストラフと同世代のようなので、
仮に1910年頃とすると、

            シュヴァルベ          ヘッツェル
1910年頃   ワルシャワ?に生まれる
         フランケルに師事。
         エネスコに師事。
         サラサーテ賞。
1940年                    ユーゴスラヴィアに生まれる。
1944年    スイス・ロマンドコンマス。
         アンセルメの初期の録音などは、
         ひょっとして、この人の独奏が、
         聴けるのだろうか。
1945年                    ヴァイオリンを習い始める。
1948年    シュベニンゲン一等
         ジュネーブの教授就任。
1952年                    シュナイダーハンに師事。
1956年                    ルツェルン合奏団で活躍。
1957年    ベルリン・フィルコンマス。
         カラヤンと日本ツアー
1959年                    シュナイダーハンの助手。
1960年代初頭 ザルツブルクで活躍。
1963年    ベルリンの教授就任。  ベルリン放送響コンマス。
1969年                    ヴィーン・フィルコンマス。

1970年代        両者、様々なレコード録音でも活躍。
               また、来日などでも存在を印象付ける。

1985年    ベルリン・フィルから離れる。
1992年    演奏活動リタイア。       山岳事故で死去。

このように、二人の経歴を見て分かるように、
この二人は親子ほど年が違う。
1970年代に、一方は、50代から60代の完成期にあって、
一方は、30代の上り坂にあって、我々を魅了してくれた、
ということが分かる。

この時代、カラヤン、ベームは、両横綱のような存在だったから、
この二人の率いていた団体のトップとして、
そのお気に入りが活躍していたという見方も出来るが、
下記にも書くように、この有名な指揮者と、
このヴァイオリニストたちとの間には、
あまり共通点が感じられない。

シュヴァルベのCDを聴くと、
最初、オーケストラも頼りない感じで、
録音もぱっとしないように感じるが、
さすがに、独奏者として鳴らした人だけあって、
破綻を気にせず、華のある演奏を行っていることが分かる。

逆に言うと、メンデルスゾーンなどは、
最初の方は、かなり音程のふらつきがあるものの、
最後には、ものすごい盛り上げ方で、
聴衆から盛大な拍手を引き出している。

サン=サーンスも、非常に情熱的で、
こんな人が、カラヤンの流麗な音楽に付き合わされていたのか、
と考えると不思議な気分になる。
呼吸が深く、破綻を怖れずに、激しく音をまき散らしている。
これは、例えば、典型的フランコ=ベルギー派とされる
グリュミオーのような美音ずくめの演奏とは、
だいぶ印象が異なる。

息遣いが深く、ものすごく鋭敏に曲想に反応している。
奔放とも言え、音も時折外れるが、熱気はすさまじく、
とても、目を瞑って、流麗な指揮をするカラヤンの子分とは思えない。

もちろん、ヘッツェルの演奏の最後も、すごい拍手である。
シュヴァルベと比べると、ずっと冷静で、音の乱れなく、
まるで、カラヤン指揮のオーケストラのような美音をまき散らしている。

これは、非常に不思議なことで、
極端に書くと、カラヤンの手兵である
ベルリン・フィルのコンサートマスターよりも、
ベームが好んだコンサートマスターの方が、
カラヤン的なアプローチなのである。

それにしても、バルトークのような土俗的な音楽を、
ヘッツェルは、よくもこのように洗練された音楽に出来たものである。

逆に、サン=サーンスのような洗練された音楽を、
シュヴァルベは、よくもこんな土俗的な音楽にすることが出来たものだ。

これらの録音、約四半世紀の隔たりがあるが、
一世代の差異がある彼らである。
共に四十代ころの、絶頂期の演奏が収められているわけだ。

また、指揮者に名匠、スクロヴァチェフスキを得た、
ヴィエニアフスキは、美しい木管の独奏など、
オーケストラも幾分、雄弁になった分、
独奏部の興奮もすさまじく、味わいも濃厚。
これは随一の名演と言えよう。
特に第三楽章で弾けきる技巧の切れ味。これは熱い。
感極まった聴衆は、曲が終わると、奇声を発している。

しかし、こんな暴れ馬のような人が、
大組織の長でいられるということも不思議。
ヘッツェルの方が、ずっと組織人として納得できる演奏と言える。
あるいは、ヘッツェルは、自分の属するオーケストラで、
シュヴァルベはよそのオーケストラだから、
という微妙な違いは影響するのだろうか。

得られた事:「コンサートマスターのヴァイオリン、一筋縄では論じられぬ。」
[PR]
by franz310 | 2008-11-23 22:08 | 音楽
<< 名曲・名盤との邂逅:1.シュー... 名曲・名盤との邂逅:1.シュー... >>