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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その149

b0083728_12485220.jpg個人的経験:
私が最初に聴いた
シュトラウス作品は、
ベームの指揮による
ベルリン・フィル盤
だったが、そこでの
ヴァイオリン・ソロは、
シュヴァルベであった。
この人は、カラヤンの
名盤でも、再び、
妙技を聴かせていた。


この名コンサートマスターは、1957年にカラヤンに招かれたようなので、
1958年のベーム盤の独奏は、ほとんどお披露目だったわけだ。
1985年まで、ベルリンのコンサートマスターを務めたとあり、
28年も一線にて活躍したことになる。

シュヴァルベは、ポーランド出身アウアーの流派で、
ルーツ的には、ベルリンとは微妙な関係であったようだが、
世代的には1世代若いが、同時期にヴィーン・フィルの
コンサートマスターを務めていたのが、
ユーゴスラビア出身のゲルハルト・ヘッツェルだったというのが面白い。
日本から見れば、どちらも東欧出身者が、
この2つの名オーケストラを率いていたことになる。

シュヴァルベは、退団後も、92年頃まで演奏を続けていたのに対し、
ヘッツェルは、転倒事故で50歳の時、1993年に、
そのキャリアを中断された悲劇でも知られている。

また、ベルリン・フィルに対する、このヴィーン・フィルは、
マーラーの時代のロゼーから、シュナイダーハン、ボスコフスキー、
バリリなど、名コンサートマスターが四重奏団を結成し、
同様に、名手の名前が、我々愛好家の脳裏に刻まれることとなった。
そんな意味でも、この人の独奏には耳を澄ませてみたかった。

このヘッツェルのヴァイオリンが聴きたくて入手したのが、
カラヤン盤のそっくりデザインの、プレヴィン盤CDである。

カラヤンのものが、右下に光点があるのに対し、
このプレヴィン盤の表紙は、光点がほぼ右にある天体。
光輪がカラヤンのものより赤くくっきりしているが、
日蝕の瞬間を捉えたような画像は、
ほとんど著作権侵害の域にまで達している。

中を見ると、Art Directorとして、
Ray Kirschensteinerという名前が出ているが、
Cover illustrationには、A.I.R.Studioとあり、
Cover Graphicsには、Ramba Designとあるので、
責任の所在が不明確である。
が、レーベルが、テラークであることは確か。
1987年11月の録音とある。
カラヤンの73年から15年も経たずして現れた競合盤である。

このCD、聴いてすぐ驚くのは、ベーム、カラヤンらで聴いて来た、
冒頭部が、非常に素っ気ない所であろう。
が、さすが録音で鳴らしたテラーク。
非常に雰囲気のある音である。

この雰囲気には、あの表紙デザインの光輪の色のような紫色が、
感じられなくもない。
カラヤンのものは、青白く、また、冷たい。

プレヴィン盤では、ヴァイオリン独奏も、
それに倣ってか、先入観からか、
語り口は非常に洒落ているが、音色としては地味で、
その分、オーケストラの中に溶け合っていて暖かい。

また、英文解説はかなり充実していて、
この曲における納得の出来る解説に、
ようやく、巡り会ったような気がしている。
なぜなら、各部の標題を無視していないからである。

ところが、付録の日本語解説は、標題のみならず、
この貴重な解説を無視して、
相変わらず、
「原作の内容を標題音楽的に扱ったものではなく、
あくまでも、この曲の持つ詩的な気分を音楽的に表現したもの」と、
いつもの論調を、「あくまでも」繰り返している。

「R・シュトラウスは、この交響詩の中で、
ツァラトゥストラの太陽の賛歌を
歌い上げようとしたのだった」とまで、
言い切っているのである。

仮に、「太陽の賛歌」を歌い上げているとしたら、冒頭部だけであろう。
こんな解説に振り回されていたら、みんなシュトラウスを嫌いになるはずだ。
なぜなら、冒頭部を過ぎると、辛気くさい音楽ばかり続くからである。
これのどこが、「太陽への賛歌」なのか?
そもそも、ニーチェの著作は、そんなことだけを言うだけのために、
あれだけの大著になっていたのだっけ?

こんな認識で、どうして、解説を書いた人が、
この曲を鑑賞できていたのか摩訶不思議である。

また、別の本で、諸井誠が、この曲を、
「自然の力」と「人間の渇望」の二つの主題による、
ソナタであると断言しているのも読んだ。

第一の展開部は、
自然との対決のために、人間が生み出した科学が、
反対に人間を圧迫するときの葛藤。

第二の展開部は、「人間的な幸福感の表明とその増大」、
終結的展開部が「舞踏の歌」であるとしていて、
これはこれで、すっきりした解釈である。

しかし、ニーチェの著作がそんな内容かについては、少し疑問も残る。
両大戦の前に、科学が人間を圧迫する、とまで書いているのだろうか。

結局、キレイな女性と、楽しくダンスがしたかっただけなのだが、
それじゃ、あんまり破廉恥だから、長い長い前置きを書いたのでっせ、
という感じがしないでもない。

岩波文庫の「ツァラトゥストラはこう言った」
(氷上英廣訳)を見ると、
「舞踏の歌」というのが、第二部にある。

森の中の静かな草地で、少女たちが踊っている。
「わたしの歌は重力の魔を嘲る舞踊の歌だ。」
と言って、ツァラトゥストラは、「生」という女性と、
「知恵」という女性を比べる歌を歌う。
生と認識の関係を歌ったものだと解説にある。

終曲の「さすらい人の夜の歌」については、
本当に訳が正しいのかと英訳を見ると、
「Sleep-Walker’s Song」とあった。
これは、夢遊病の歌ということなので、
ニーチェの著作のほぼ最後の「酔歌」ではないかと当たりをつける。

見ると、真夜中の鐘も出て来る。
これこそが、終曲に相応しい。

夢遊病のようになったツァラトゥストラは、
「ついて来なさい、ついて来なさい、真夜中は近づいた」と言って、
真夜中の鐘に聞き入る。
「おまえ、老いた鐘よ、太古の祖先の苦痛が込められている。」

「終わってくれ、しかしまた戻って来てくれ!」
「すべての喜びは永遠を欲する!」
などとある。
まさしく、「永劫回帰」であろうか。

と、こんなことまで考えていたのだが、
今回、プレヴィン盤の解説を読んで、
だいぶ、すっきりしたような気がしている。

このCDでは、「死と変容」が併録されていて、最初に、
ツァラトゥストラが演奏され、後から、これが演奏される形。
が、「死と変容」の方が先に書かれているので、
解説は、こちらが先になっている。

「『死と変容』の主人公が芸術家であったとしても、
音楽そのものは自伝的ではない。
この作品の初演の後、シュトラウスは肺炎の悪化で、
危うく死に至るところであった。
その療養中に、シュトラウスは、最初のオペラ、
『グントラム』を手がけたが、ここには、
1896年に完成される『ツァラトゥストラはかく語りき』の
種子を見いだすことも出来るだろう。
『グントラム』のリブレットを書いている間、
シュトラウスはニーチェの著作に没頭してしまった。
『グントラム』の持つ宗教的雰囲気にも関わらず、
形式的な宗教に対するニーチェの攻撃に惹かれた。」

こう書かれるまで、私は、あまり注意したことはなかったが、
最初のオペラ、「グントラム」は、彼に似つかわしくなく、
宗教的な題材で、彼自身が台本を書いたものなのである。

また、こうした中、シュトラウスが実際に、
病気で危機に瀕していたというのも興味深い。
「ツァラトゥストラ」の中核をなすのは、
「病から回復に向かう者」という部分なのだ。

「シュトラウスはそもそも若い頃から、
そうした形式的な信仰などは軽んじていた。
シュトラウスの主人公グントラムと同様、
ニーチェの予言者ツァラトゥストラは人間世界から離れ、
孤独の中に叡智を求めていた。
山の中の洞窟に一人あって、彼は人間の諸相を見つめ、
新しい優れた人種である、『超人』到来の必然性を得た。」

ニーチェの著作が難解なのは、「太陽賛歌」を書いたからではなくて、
訳の分からない「超人」を予言したからである。
日本語解説のような音楽であったとしたら、
シュトラウスも、こんな複雑な音楽にしなかっただろう。

この後書かれている内容と、
この「超人」到来の説明によって、
何となく、この曲が、「人類の起源から」などという解説を、
シュトラウスが残した意味を垣間見ることが出来る。

シュトラウスの脳裏にあったものを図式化すると、
おそらく、こうなるのであろう。
人間発展の歴史:
「人類の起源→宗教(迷信)を学ぶ→科学(自然)を学ぶ→超人の到来」。
「→」の部分は、前のものがうまくいかなかったという事である。
最後の部分を予言したものとして、ニーチェの賛歌となっている。
「太陽の賛歌」と書いてある意味は、冒頭部しか聞いてない人の言葉であろう。

もしも、超人の到来、というか、科学の限界がなければ、
この曲は成り立たなかったということが分かる。

もし、ニーチェが書いたように、
「人間のままでは何やってもダメダメ、超人じゃなきゃね」
という部分がなければ、
科学万能、万歳、という音楽になってしまう。

これまで見てきたように、
この曲の場合、途中の「科学について」は、
極めて皮肉な扱いを受けていることからも、
むしろ、その後のワルツの部分が全体の大部分を占めることからも、
ニーチェの思想なしには、まるで成り立たない音楽であることが、
ようやく理解できるのである。

では、続きを見て見よう。
「シュトラウスは、哲学の音楽化は不可能と気づいたが、
『原初からの人間の進化と、発展の様々な諸相、
科学や宗教からニーチェの超人思想までを音楽で伝え、
ニーチェの天才への賛歌としたかった』という。
作品は、ニーチェの各章のタイトルを持つ、
8つの連続した部分からなり、
人間と、それを超越した自然の根源的な抗争を描いている。」

確かに、以上の説明は、これまでの解説にも出ていたが、
各部標題との関係を解釈しないことには、
何を言っているのか分からず、
各々が、どのような発展の諸相か納得不可能であった。

多くの場合、このCDの日本語解説のような、
適当な言葉の羅列に陥って行ってお茶を濁されるのが常であった。

先に書いた中核となる
「病から回復に向かう者」の日本語解説を例にとると、
「ここでは、トロンボーンと低音弦によるフーガの主題と、
木管とヴァイオリンによる『嫌悪の主題』の変形したものが
奏されたあと、『自然の主題』が力強くあらわれ、
壮大なクライマックスを築き上げる」と書かれている。

私たちの脳みその中には、虚しく言葉が流れ去るだけである。

今回の英文解説は、そんなことはなく
各部が、先の人間の進化と一緒に説明されている。

「この作品のスコアには、10年の瞑想の後、
予言者が社会に戻ることを決意する、
プロローグの部分が掲げられている。」

何故か、英文にこのプロローグは引用されていないが、
幸いなことに、日本語解説には、丁寧に、
しかし、誤解を生じるように中途半端に記載されている。

「ツァラトゥストラ齢30のとき、
故郷と故郷の湖を去って、山に入った。
ここに、彼はみずからの精神と孤独を享受して、
10年にして倦むことを知らなかった。
さあれ、ついに彼の心は一転したのである。
ある朝、彼は暁の朱とともに起き、
太陽の前に歩み出て、かく語りかけた。
『なんじ大いなる天体よ!
もしなんじにして照らすものなかりせば、
なんじの幸福はそもいかに?・・・」

実際は、この後、2/3ばかり残っていて、
太陽に問いかけるのみならず、こんな事も言っているのである。
岩波文庫(氷上英廣訳)を見ても、
「この十年というもの、あなたはわたしの洞穴をさして
のぼって来てくれた。
もしわたしとわたしの鷲と蛇とがそこにいなかったら、
あなたは自分の光にも、この道すじにも飽きてしまったことだろう。」
と続くことが分かる。

これを補うだけでも、シュトラウス理解には繋がり、
さきの日本語解説が大嘘で、誤解も甚だしいことが理解できよう。
ニーチェは、太陽に、俺がいるから、お前があるのだ、
と対等、並置関係の言葉を吐いているのである。
「太陽賛歌」などではないことは一目瞭然。

シュトラウスも、この対立姿勢を全体のトーンにしているのだから、
この曲解は、非常に多くの誤解の種を巷に垂れ流したと言える。

また、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の翻訳そのものも、
今回、いろいろあって、悩ましいことを発見。
岩波文庫には、この続きは、
「しかし、わたしたちがいて、毎朝あなたを待ち、
あなたから溢れこぼれるものを受けとり、感謝して、
あなたを祝福してきた。」
と訳しているが、
音楽之友社のスコアでは、
「しかし、私たちは汝を毎朝、待ちうけ、
汝のあり余る光を受け取り、感謝した。」
と訳してあり、不遜さが異なる。

つぎの部分などは、決裂したのか、和解したのか、
よく分からない状況に陥る。
つまり、
岩波文庫:
「見てください。あまりにもたくさんの密を集めた蜜蜂のように、
このわたしもまた自分の貯えた知恵がわずらわしくなってきた。
いまは、知恵を求めてさしのべられる手が、わたしには必要となってきた。
わたしは分配し、贈りたい。
人間のなかの賢者たちにふたたびその愚かさを、
貧者たちにふたたびおのれの富を悟らせてよろこばせたい。」

音楽之友社スコア:
「見るがよい。私はおのれの知恵に、密を集めすぎた蜜蜂のごとく、
うんざりとしている。
いまや、差し伸ばされる手を私は必要としている。
私は贈り、分け与えたい。
人々のうちの賢者がおのれの愚かさを、
貧者はおのれの豊かさを喜ぶにいたるまで。」

こう比べると、ニーチェは、太陽の限界を喝破し、
自分も太陽と同格である、と言っているようにも見えるし、
太陽に倣って、自分も行動する、と言っているようにも見える。

いずれにせよ、太陽は、いまや、信仰の対象ではなくなったようだ。
さらに、知恵を集めること(科学すること)の限界についても、
ここには、さりげなく織り込まれていたのである。

このようなニーチェの冒頭部を読むと、有名な冒頭部は、
プレヴィンのように素っ気なく演奏する方が正解にも思えて来ないか。
太陽は、惜しみないエネルギーで、人間を圧倒し去る存在でなく、
対等というか、幾分、無関係な存在として捉えられよう。

「シュトラウスの音楽がツァラトゥストラに決心を促した、
日の出の描写にも似て。
原初を表すオルガンペダル音の上に、
トランペット群が鳴り響く。
人間の不完全さに対し、自然の単純な声明が絡み合うように、
この華麗なファンファーレは、ハ長調とハ短調の間を揺れ動く。」
と、解説にあるが、とにかく、人間に対し無機質で、
つっけんどんなのである。
ベームもカラヤンも、作為に満ちて、はなはだ人間的な太陽であった。
ニーチェがその限界を見切る以前の太陽と言えるかもしれない。

「この『自然の動機』は、作品を通じて現れ、最初のセクションである、
ツァラトゥストラが『人間が作った狂気』と見なす神に、
慰めを見いだす、素朴でナイーブな人々、
『背後の世界の人々』の重要な音楽的アイデアとなる。
(ドイツ語で、この『背後の世界の人々』は『田舎者』に発音が似ている。)」
こうして、太陽が簡潔に雄大であるのに対し、
当初、人間存在は、じめじめと煮え切らなくて、
何もかも、太陽とは正反対である旨を示すには、
このような曲想が必要であったことが初めて理解可能となる。

私は、この辛気くさい音楽が、嫌であったが、
まさしくシュトラウスの思う壺だったようだ。
彼は、当初、人間は、こうした惨めな存在だったとして描いたのである。
宗教にすがって、何とか生きてきたという感じであろうか。

レスピーギの「カタコンベ」みたいなものを思い出す。

「この部分と、続く3つのセクション、
「大いなる憧れについて」、「歓喜と情熱について」、
「墓堀の歌」を通じて、原始的で狭量な存在であることを、
人間は克服しようと悪戦苦闘する。
彼の奮戦は、一方では普遍的な自然、
もう一方では、シュトラウスが、
クレド、マグニフィカトを引用によって強調された、
盲目的な宗教を通って行く。
この闘争をシュトラウスは、自然を根源的なハ長調で、
人間はそれに近いが和音的には不調和のロ長調/ロ短調で描き、
日の出のファンファーレと対比させ二律背反的に表現した。」

ようやく、これらの部分で、人間は、何やら自信を持つに到り、
自然を克服してやろうといった、ローマ帝国の退廃のような、
野望と権勢への欲望に満ちた時代を経過して来たということか。
が、この解説にはないが、「ああ、もうたくさんだ」といった感じの、
「倦怠の動機」が出て、「墓場の歌」では、かなり疲労困憊している。

それは、やはり、中世の錬金術のような怪しい実験室から、
科学の萌芽が生まれ、ルネサンス期の再度の自信回復のような一章が続くと、
勝手に解釈するのも悪くないかもしれない。
このように聴くことで、先の「人間の進化の歴史」が把握され、
曲の表記にも、論理的なつじつまが合って気持ちよくなる。

解説にも、こう書かれている。

「第五の部分「科学について」で、人間は自らの卑小さを、
知性を通じて克服しようとする様が、
自然の主題を元に、ハ長調、ロ長調を混ぜながら、
最もアカデミックな音楽形式であるフーガで描かれる。」

ニーチェがいなければ、この科学礼賛で終わっても良いわけだ。

以下が、先に書いた、「病から回復に向かう者」の解説で、
人、ツァラトゥストラは、再度、これでもないと限界を感じるわけである。
まだ、現代人も、これについては、ツァラトゥストラの域に達していないので、
ここからは、単に人間の歴史ではなく、その延長への失望と、
未来像が予見された、幻視の音楽になっていかなければならない。

「フーガは、次のセクション『回復期の人』の中で、
まるで、ツァラトゥストラが落胆の重さに崩れ落ちるように最高潮に達する。
自然のモチーフが響き渡ると、
ツァラトゥストラは、人間の唯一の望みは、超人の出現であると悟る。」
この、落胆については、上記、転換点に当たるため、
かなり、劇的であるべきだが、
プレヴィン盤より、ベーム、カラヤンのこけおどしが懐かしい。

以下の部分は、若干、安易な感じで、解釈に疑問がないわけではないが、
うまく、つじつまが合うようになっている・
「この喜ばしい発見は、『舞踏の歌』にて、
幾分、シュトラウスにはアイロニカルに、ヴィンナワルツを変形させ、
ここで、ここまで聴かれたほぼすべての動機は、次第に一律化されて行く。」
いずれにせよ、何か、違う価値観の中に、
あるいは、まったく異なる自然観の中に、
万物が調和する幻想が描かれているようだ。

「幻想」と書いたのは、最終的に、これが打ち破られるからである。

このような、理想の未来像、
あるいは、ツァラトゥストラの空想の楽園を描いているので、
プレヴィン盤のヘッツェルの、やや、くすんだ、
しかし、癖のある、えもいわれぬ色調が、
シュヴァルベの、突き抜けるように澄んだ、
反面、俗っぽい美音よりは好ましいような気がする。

「ワルツがすさまじいクライマックスを形成すると、
深夜を告げる鐘が、『夜のさすらい人の歌』のセクションを導く。
この時点で、著者と作曲家は、別の道を歩む。
ニーチェのツァラトゥストラは、超人の時代の到来の宣言を、
自らの使命としているのに対し、シュトラウスは、
人間と自然の対立は永遠だと信じている。
最も謎に満ちた瞬間の1つが、自然のハ長調と人間のロ長調は、
まったく並列して進み、最後の言葉は自然となっている。」
この解説は、味わい深い。
ニーチェの天才への賛歌、と作曲家自身が書いているのにもかかわらず、
ニーチェの否定が、シュトラウスが最後に書いたことだと言うのである。
言うなれば、「ニーチェさん、面白い夢を見せてもらってありがとう」
という感じであろうか。
とにかく、「舞踏の歌」が、やはり、ニーチェの哲学を、
垣間見せた音楽の本質ということになろう。

が、スコアについている解説などを見ると、
ここでの鐘の音は、正しく、ニーチェの著作に準じているとある。
岩波文庫(「深夜の鐘の歌」)では、
「一つ!
ああ、人間よ!しかと聞け!
 二つ!
深い真夜中は何を語る?
 三つ!
『わたしは眠りに眠り、
 四つ!
深い夢から、いま目がさめた。
 五つ!
この世は深い、
 六つ!
[昼]の考えたよりもさらに深い。
 七つ!
この世の嘆きは深い。
 八つ!
しかし、よろこびは-断腸の悲しみより深い。
 九つ!
嘆きの声は言う、[終わってくれ!]と。
 十!
しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ、
 十一!
- 深い、深い永遠を欲してやまぬ!』
 十二!」

この12の鐘については、楽譜では、
876小節から、最初はフォルテッテシモで、
最後は消えるように、間隔をずらしながら確かに12回、
打ち鳴らされている。

この鐘の音色は、実は、プレヴィン盤はあまりよく聞こえない。
古い録音のベーム盤は、録音はずっと劣るながらも、
この部分、忘れがたい音色を響かせていた。

岩波文庫には、「酔歌」の部分に、
「鐘よ、甘い竪琴よ!私はお前のひびきが好きだ。
お前の酔いしれたヒキガエルのような声が好きだ!」
という部分があって、まさしく、ベーム盤は、このような音色なのだ。

かつて、どこかで、この鐘の音の間隔の引き延ばしが、
永遠に繋がっていく、と書いてあるのを読んだような気がする。
こう考えると、この部分、永遠回帰を指向しているようにも思え、
あながちニーチェ不賛成とも言えないような気もする。

シュトラウスがクローズアップした、人間と自然との永遠の対立すら、
その文脈で捉えられるような気もする。
とにかく、この謎のエンディングには、そのような永遠の謎を、
封じ込めなければならないということだ。

この最後の部分、消え入るような、
独奏ヴァイオリンが聴きものであるが、
カラヤン盤などでのシュヴァルベの音は輝かしく、
自信満々で、人間が自然を征服して黙らせた感じがするが、
まさしく、これは超人の到来かもしれない。

が、ここは、ヘッツェルのように、やや陰影を持たせ、
神秘的に謎が提示されていく方がシュトラウス的であるかもしれない。

「うわべの不賛成にも関わらず、人はシュトラウスが、
いかにツァラトゥストラに同化しているかに驚かずにはいられない。
『死と変容』と同様、人生における精神の旅を、ツァラトゥストラの主人公も、
短い時間に圧縮している。
高尚な主題を扱いながら、これら両作品は、
標題音楽の枠組みの中で、若いシュトラウスは、
自身の内面を描き出している。」

ということで、このプレヴィン盤、
いろいろなことを考えながら楽しむことが出来た。
カップリングは、私個人としては、別の曲がよかった。

得られた事:「日本盤CDの解説は、時として、海外版解説と反対の趣向、解説を含むことがある模様。」
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by franz310 | 2008-11-16 13:10 | 音楽
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