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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その147

b0083728_13472033.jpg個人的経験:
前回、テスタメントの
CDの解説を読んで、
シュトラウスの
「ドン・キホーテ」
録音史を勉強したが、
ケンペ指揮、
ベルリン・フィル
のレコードは、
史上初のステレオ盤
だったという。


これが、1958年6月のもので、
2年後の1960年の9月に発売されると、
4ヶ月後にライナーの対抗盤が出て来たとあった。

ライナーのCDを見て見ると、確かに1959年4月11日録音とある。

EMIに録音した、ケンペの方が、発売だけでなく録音も早く、
一般には、EMIはステレオの時代に乗り遅れたような書き方が、
なされることが多いが、こんな風に先行していたこともあったようだ。

とはいえ、前にも触れた、「カラヤン帝国興亡史」には、
「1958年1月、アメリカのレコード会社RCAは、
それまでのイギリスのEMIとの提携関係を解消した。
・ ・EMIは技術力でも販売力でも劣る会社になってしまった」とあり、
いろいろな意味での激動期であったことが分かる。

このような背景下、ステレオで登場したライナー盤、
表紙は、ドーミエの、ドン・キホーテを題材にした、
絵画があしらわれ、格調も高い。
(ボストンのコレクションとある)
ただ、何となく、心をときめかす華がないのが残念だ。
(なるべくオリジナルの装丁に従ったとある。)

上に書かれた、「LIVING STEREO」の、
黒い背景に白抜きの文字が、私を一番、引きつけた、
というのが正直な感想である。ここだけは、
いかにも、RCAのものだという存在感が、びしっと決められている。

b0083728_13494891.jpgちなみに、このCDの
真っ赤な盤面も、
私には、妙に魅惑的に感じられる。
銀色のケンペ盤よりは
凝った感じがする。

私は、
フリッツ・ライナー指揮の、
「くるみ割り人形」の録音を
ずっと愛聴していたので、
この指揮者を
軽んじるわけにはいかない。

前回、ケンペ満面の笑みの写真のCDを紹介したが、
一方のライナーと言えば、恐怖の独裁者である。
オーケストラの楽員であれば、ケンペの指揮の下でこそ、
打倒ライナーで、張り切って欲しいものだ。

1960年9月に発売されたケンペ盤は、
その年末のクリスマス商戦に間に合っただろうが、
4ヶ月遅れでは、ライナーは商戦を逃しているはずだ。
初年、販売枚数ではケンペが勝てただろうか。

が、おそらく、日本のレコード評論界では、
ライナーが圧勝したようだ。
1960年の「レコード芸術」推薦盤として、ライナーは出ているが、
ケンペの名前はない。
ライナー盤は、「全体的にキビキビした現代風感覚で、
ところどころにライナー独特の冷たさが顔を出すが、
各変奏の情景描写の巧妙さは無類といってよい」、
と書かれている。

また、昭和49年(1974)の、
「レコード芸術」付録の最新レコード名鑑でも、
このレコードは、カラヤン盤の次に推薦されている。

この冊子では、かろうじて、
「管弦楽全集」のところに、
ケンペのものが「現在進行中」とあり、
ドレスデンとの盤がこのように紹介されている。

これを読むと、
「『ドン・キホーテ』も立派な仕上がりだが、
トルトゥリエのチェロが上品すぎる上、
全体にユーモアが欠けるのが残念だ。
この曲にはもうひとつ遊びが欲しい」とある。
おまけに、「ケンペのまじめな性格が、
かえってマイナスになってしまったのだろう」とまで書かれている。

確かに、この時期、ケンペと言えば、
「不器用」、「まじめすぎ」のレッテルがまかり通っていた。

と言うことで、
にこやかに指揮をしていたケンペが、実は、まじめすぎ、
独裁者のようなしかめっ面のライナーは、
本当は、不真面目、ということになりそうだが、
まずはともあれ、この演奏を聴いてみたい。

が、いきなり、結論じみて恐縮だが、冒頭から、
主人公を妄想の世界に誘う、独奏ヴァイオリンは素っ気ないし、
先入観のせいか、全体的にくそまじめなのは、ライナーの方だ。
そんなに描写に凝っているとも思えず、ユーモアを讃えているとも思えず、
かなり、純音楽的と言えるのではなかろうか。

これはこれで、非常に純度の高い、ライナーの、
鋼鉄の意志の結晶を想起させるもので、
はちきれんばかりの音楽の充実を感じさせる。
名盤だとは思う。

チェロ独奏に抜擢されたヤニグロは、1918年、
(トルトゥリエの4歳年少)
イタリアに生まれ、パリで学んだチェロ奏者であるが、
技巧と繊細さを兼ね備えた人とされる。
1959年に、ライナー指揮の「ドン・キホーテ」で、
アメリカデビューを果たしたとあるから、やはり、
この曲を得意としていたのであろう。

しかし、ヤニグロと言えば、
後にザグレブのオーケストラの指揮者になった事で知られ、
古典派の作品で、良いレコードを沢山残していたことで記憶される。

ライナー盤は確かに爽快に一気に聴かせるが、
オーケストラの団員は、かなり、緊張しまくっており、
やることだけは、きっちりやらせて頂きます、という感じ。

ヤニグロのチェロも、特にオーケストラに溶け込みがちで、
「良い」とするには、特に後半は存在感が薄い。
上品か下品かと問われれば、奥ゆかしい感じで上品である。
とはいえ、第三変奏の、チェロとヴィオラの会話などを聴くと、
むしろ、ヴィオラのPrevesの方が張り切っている。

b0083728_13523824.jpgさて、今回、
この盤を取り上げた、
さらに決定的な要因は、
このCDの解説にある。
非常に面白いもので、
挿絵もいっぱい。
音楽を完全に物語として
解釈している点が徹底されている。
クリスマス商戦に、
間に合わなかったとしたら、
大変、残念なことであった。

しかし、こう見ると、アメリカのレコード会社は、
ヨーロッパよりこの点有利である。
欧州では、英語以外の言語も用意する必要があり、
その分、内容が薄くなってしまう。
アメリカ盤は、英語しか考えてないので、長文対応が可能となる。
これくらい書いてもらわないと、最初にこの曲を聴く人には理解が困難だと思う。

解説はこんな風に始まる。
「ラ・マンチャのある村に、棚の中に槍を、
また、小楯や、やせた馬、すばしっこいグレーハウンドを
持っているような紳士の一人が住んでいた。
『彼はだいたい50歳くらいで、逞しい体格、
しかし、しなびていて、容貌のやつれた、
早起きの狩猟愛好家だった。
彼は余暇には(長い間そうだったが)、
騎士道の本を読みふけり、
すっかり狩りや家事を忘れ去っていた。
彼の想像力は、読んでいた本から、
魔法、反目、戦闘、挑戦、負傷、求愛、恋愛、苦悩、
そしてその他の不合理といった、沢山の妄想を膨らませていた。
遂に、彼は完全に思考力を失い、
誰も考えたこともないような、異常な幻想の世界に陥った。
彼は、彼自身の名誉、そして国家への忠誠のため、
馬に乗って、鎧を身につけ、冒険を求めて、世界中を放浪する
騎士となることが必要だと考えた。」
すばらしい。
これこそが、この小説、交響詩の大いなる前提であって、
まず、ここをこう書かねば、単なる頭のいかれたおっさんということになる。
貧乏だが読書家。
こう書かれると、多くの人(すくなくとも読む人)は、この人物が、
自分とは無関係ではないと感じるはずである。
明日は我が身、あるいは、ひょっとして、これって俺?
のような感覚が前提とならなければ、
この作品を完全に味わうことは出来ないだろう。

「『ドン・キホーテ』は、他のどのスペイン文学の主人公より、
音楽の中で扱われている。
Victor Espinosによると、リヒャルト・シュトラウスの他、
パーセル、テレマン、マスネ、ファリャ、そしてロドリーゴなど、
世界中の50人の作曲家が、この主題を取り上げている。
『ドン・キホーテ』は、シュトラウスの交響詩の6番目のもので、
彼による、セルバンテスの小説の音楽的解釈であり、
『騎士的性格の主題による幻想的変奏曲』と題されている。
この作品は1897年、ミュンヘンで作曲され、
1898年3月8日、ケルンで初演されている。
作品は序奏、主題と、10の変奏曲、及び終曲からなる。」
この部分は、すでに多くの解説で見たとおり。

また、ライナー盤の解説は、
次のように、序奏を要約してくれているのが良い。
「序奏は、ドン・キホーテの性格と、騎士道への憧れをほのめかし、
続く主題は彼の理想の女性を表し、
次第にここに、ドンの冒険への憧れが絡んでいく。
彼の旺盛な読書の結果として、騎士の心には混乱が生じる部分が、
オーケストラで表され、ドン・キホーテの心は、
まるで伸びきったバネのように、クライマックスでぷつんと切れてしまう。
騎士の冒険の旅が始まろうとしているのは明らかである。」
この対位法を駆使した、複雑怪奇な音楽は、
このような背景が分からないと、あまりに唐突すぎて混乱してしまう。
後半がフーガとなるのは、バッハ以来の伝統だが、
最初からこうした技巧が繰り広げられ、その後になって、
比較的平明な部分が来るというのは、心の準備も何もあったものではない。

混乱を生じる部分がオーケストラで奏され、とあるが、
この部分、ファンファーレや甘味な独奏ヴァイオリンが、
妄想を膨らませていく点も注記が欲しい。

しかし、「ぷつんと切れてしまう」という表現、が気に入った。
ティンパニが連打され、金管が咆吼する序奏の最後がそれであろう。

この難所が、私の意見では、もっとも難しい部分で、
カラヤンなどは、まるで、この妄想のけん引力が弱い。
鉄の意志のライナーであるから、妄想には屈しないと思われるが、
逆に、ここでは、妄想側に荷担して、強烈に、あっちの世界に連れて行かれる。

演奏にかけた時間は、6分4秒で、ケンペの6分5秒とは大差なく、
同様に、きびきびと仕上げて、妄想への転落をうまく表している。

が、ケンペには、さらに、ここに微笑みがあるような気がする。
節回しのちょっとしたポルタメントに、そんな余裕というか、
オーケストラ・メンバーの乗り具合を感じる。
また、時に、テンポを落としてメンバーを放任しているような場面もある。
こうした部分を是とするか否かで、ケンペの評価は変わってこよう。

技術力で劣った会社とされたEMIであるが、
遜色は感じない。むしろ、雰囲気豊かな広がりを感じるのは、
EMIを原盤とするケンペ盤である。
よく言われることであるが、アメリカ録音は、
色彩的であるが、空気の感触は少ない。
が、眼前で鳴っているリアルさはさすが。
かつて、硬めに感じた質感も、丁寧なマスタリングによって、
かなりジューシーになって、第三変奏のクライマックスなど、
はち切れるカリフォルニアの果実のようである。

こうした美学の差異も、演奏に関係しているかもしれない。

さて、音楽は、この後、チェロが本格的に歌い出すが、この時は、
すでに威厳正しく、騎士になってしまったおっさんなのである。

このように聴くと、本当によく出来た音楽だったと思われるのである。
このチェロの主題は、基本的に冒頭の主題と同じだが、
最初は、剽軽な田舎の親父風だったのが、すっかりそれらしくなりきっている。
「できあがってしまっている」という感じが重要である。

この部分、確かに、ヤニグロはうまく騎士になりきっている。
剛毅なはずのトルトゥリエは、少し、ニヒルな二枚目である。
先の批評でまじめすぎ、というのも分からなくはない。
室内楽的な演奏で、はったりのようなものに欠ける。
内省的で、読書家であった、主人公は、こんな風かもしれない。
が、ぷつんと来た後の、キホーテは、
確かに、別人格に変身している必要があるやもしれぬ。

b0083728_13562842.jpg「色彩的な変奏曲を通じて、
ドンと、従者の対称的な主題は、
共にあって、騎士の主題は、
独奏チェロでアナウンスされ、
サンチョ・パンサは、
バス・クラリネットと
テノール・チューバによって、
さらには、
独奏ヴィオラによって表される。」


「このロバに乗りながら、
みすぼらしいやせ馬、
ロシナンテにフル装備で乗った主人を追う、
太鼓腹の、ラ・マンチャの農夫を忠実に描いている。
それぞれの変奏は、それぞれの冒険を描く。」
最初の変奏の前半で、さっそうと旅するドンの姿は、まことに爽快である。
チェロがひっきりなしに歌っている。

「まず、ドンは、農地で、風車を威嚇するような巨人と勘違いする。
彼の戦闘準備の中で、ヴァイオリンと木管の響きに、
彼の理想の女性、ドゥルチネア・デル・トボソの主題を聴く。」
私は、この解釈は賛意しかねる。
戦闘準備で、思い姫が出るというよりも、旅そのものが、
姫の導きといった感じを受ける。

「ドンは巨人に突撃し、前方の最初の風車の羽を槍で突く。
風が吹いて、その槍が耐え難い勢いで風車を回したので、
騎士と馬は地面に転げ、我々は、加工するハープのグリッサンドと、
重々しい太鼓の響きに、彼らが落ちる様子を聴くことが出来る。」
このどすん、は、ケンペのが気に入っている。
力尽きそうになると、ドゥルチネアの主題がチェロに出て、
彼が、姫への愛情によって復活する様が描かれて憎い。

この後、ライナーの解説の描写は憎い。
音楽は無視して、完全に独立した文学になっている。

「突然、ドン・キホーテは、近づいて来る、
もうもうと上がった土埃を見た。
振り返って、サンチョに、
『あの土埃を見たか、サンチョ。
数え切れないほどの強大な混成軍が向かって来るものと見える。』
ロシナンテに拍車を当てると、
彼は丘を、稲妻のように駆け下りたが、それは結局、
羊の群であった。弱音器付の金管が動物の鳴き声と、
ドンの頑強な意志を表し、特攻で7頭を地面に葬り去った。
羊飼いは乱入者に投石し、彼は、この試練で3、4本の歯を折って、
再び地面に投げ出される。」
ただし、この最後の部分は、一般には、音楽では省略されている。

「第三変奏は、ドンと従者を表すチェロとヴィオラの対話である。
サンチョは、主人が、理想の愛に啓示を受け、
穏やかに哲学的なムードだったり、
情熱的に栄光について論じたりする中、
ぺちゃくちゃ、落ち着きなくしゃべる。
その独白は、騎士の大志の広がりと共に、
フル・オーケストラに広がっていく。
サンチョは彼を現実に引き戻そうとするが、
騎士は憤慨して黙り込むばかりである。」
前述のように、この部分、ライナー盤のオーケストラの広がりが素晴らしい。


「ドン・キホーテが、異教徒と間違った悔悟する者たちの行列が、
変奏曲4では、バスーンと弱音器をつけた金管によって描かれる。
彼は、彼らを攻撃するが、聖母像を担いでいた一人に、
家畜を追う熊手で強打され、ぐうの音も言えなくされる。
ここでは、巡礼が進んでいくような聖歌を聴くことが出来る。
キホーテは次第に意識を取り戻し、サンチョはようやく、
主人が生きていたことを確信し、彼の近くで眠る。」

しかし、以下の部分は、この書き手は、通常解釈とは異なるようだ。
第五変奏は、ドン・キホーテは、寝ずの番の儀式をしている場面とされる。
が、単に、眠らずに姫のことを考えていた、とする下記解説でも、
別に問題はなく、物語の進行上は、これでも良いような気もする。
瞑想的なドンの前に、冷たい夜風が引き抜ける感じが重要なだけだ。

「が、セルバンテスはこのように書く。」
と、あるところも面白い。

「『ドン・キホーテは、彼の思い姫、
ドゥルチネアのことを考えて、眠らないでいた。』
ホルンがドゥルチネアの主題を呼び戻す。
独奏チェロのためのラプソディが、
ハープとヴァイオリンのカデンツァに装飾されて、
ドンの心を支配する法悦を表す。」

この法悦という意味では、ヤニグロよりトルトゥリエであろう。
この奏者の内省的な良さが滲み出たモノローグとなっている。
ヤニグロは、録音のせいか、少し音色が単調で損をしている。
トルトゥリエほどの存在感は、ここではない。
あるいは、ケンペは、自由にやらせたが、
ライナーは、睨みを利かせていた可能性もある。
独白はしているが、法悦に到った感じはない。

「ドンが、ドゥルチネアの住む、エル・トボソに到着するや、
サンチョは、最初に合った百姓の娘こそが彼女であると、
信じ込ませようと企んだ。
この偽のドゥルチネアを描くのが変奏曲6で、
理想の女性の音楽的パロディである。
彼の従者の主張にもかかわらず、キホーテは苦しみ、
それを信じようとせず、悲しげにこう嘆いた。
『何故、魔法使いらは、我が身をたぶらかすのじゃ。
彼女に相応しい出で立ちの我が貴婦人を見る幸せを奪おうとしよる。』」

このあたり、何が起こったか、
これではよく分からないが、
岩波文庫などで見ると、キホーテも、一応、
ドゥルチネアと信じた模様。
ただし、どうしてもそう見えないのは、幻術師が、
彼をかどわかしていると信じて、姫はそっちのけで、
幻術師を憎む、ということになっている。

この変奏の如く、さっと明るく開放的な部分になると、
はるかにケンペは魅力的である。
楽員の自発性で、さっと日が差して来たような暖かさを感じる。

「ドンとサンチョは、魔法の木馬に目隠しをされて乗り、
騒音のような音で扇がれる。
彼らは強風で空を飛んでいると思い込むが、
我々はそれをオーケストラで聴くことが出来る。
(初演でセンセーションを巻き起こした、
有名なウィンドマシーンのひゅーひゅー音。)
それからバスーンの持続音を伴う、
ドラマティックな休止があって、乗っていた者たちを現実に戻す。」

b0083728_14203832.jpgこの部分も、
ライナーの力任せより、
ケンペの方が楽しい。
絶対、ライナーの方が
くそまじめである、
と確信するのは、
これらの変奏曲に
おいてであった。



「ある苦しんでいる騎士を救うための、神の導きと信じて、
ドン・キホーテはエブロ川の川岸にあった、櫂もない小舟に乗る(変奏8)。
二人の出航がドンのテーマがバルカロールになることによって示される。」

b0083728_1424515.jpg「彼らは下流に漂って、
水車の方に向かうや、
ドン・キホーテは、それを、
騎士が監禁された要塞と信じる。
彼は、水車の水路に行く船を
留めようとした水車番を、
剣で斬りつけるが、
船は転覆し、二人は川に落ちる。
彼らは助かり、再び丘に上がるが、
窮地からの脱出を感謝して、
レリジョーソで管楽器が奏でる。」


この変奏もライナー盤は、あまりにテンポが速く、
弾き飛ばしている感じがする。

「次に、二人の冒険者は、道で、
馬丁を伴った、馬車と一緒の、
大きなラバに乗った二人の僧侶に出会う。
キホーテは、王女を誘拐する魔法使いだと思い、
彼らを攻撃すると、連中は逃げ去る。
最後の変奏曲は、ザラマンカ大学の芸術学士で、
ドン・キホーテの隣人であり仲間である、
サムソン・カラスコについて語る。
彼は、この老人を家に連れ帰り、正気に戻そうとする。
彼は『白月の騎士』に変装し、
バルセロナにドンを追う。
彼らはそこで出会い、決闘に及ぶ。
彼はキホーテを落馬させ、敗れた方は、
一年、 家に戻るという、勝者からの条件を受け入れる。」

このあたりの、ライナーの表現は雄渾かつシンフォニックで、
最後の聴かせどころという気迫が漲っている。
下記の部分も合わせ、変化の大きい部分だが、
かなり、先を急いでいる感じがする。
「彼の不幸な敗北からの憂鬱と、苦々しい反省を胸に、
ドン・キホーテは、サンチョの後に従って家に戻る。
ここは、小説でも交響詩でも、悲劇的なクライマックスであり、
主人公の悲劇のみならず、主人の栄光からの失墜を見た、
彼の忠実な従者の嘆きを描き、それと共に、
彼の偉大であろうとした希望は煙のように消える。
イングリッシュ・ホルンは、羊飼いのエピソードを再現し、
羊飼いになって、森や野山を、サンチョと駆け巡る、
というドン・キホーテの幻想を描く。
変奏曲は、このように穏やかに終わる。」
このような、詩的な思索を含む部分であるが、
ライナーは、一気に終曲になだれ込ませることで、
緊張感を高める作戦に出たと見える。

ここは、ケンペの方がはるかに多彩な情景を息づかせている。
各楽器が悲痛な叫びを発し、全員の共感を見た欧米の批評は、
さすがに懐が深いと感じた。
羊飼いになりたい希望の部分が、
壮絶なティンパニ連打で打ち砕かれるところなど、
ライナー盤より、ずっと痛々しい。

「終曲は、ドンが自宅の別途にいる描写で、医者は、
彼の憂鬱が彼を死に導くことを述べ、
平和に満ちた音楽が、死の床にあって、
正気に返り、賢明になった騎士の断念を反映する。
チェロは、音楽が死に行くように、彼の最後の言葉を語る。
『彼は息を吐き、
彼の太陽のような、朝露のような魂を受け取る。』」
ここは、全曲のもう一つの聴かせどころであるが、
ライナーのものも、夕映えのような情感を広げて素晴らしく、
ヤニグロのチェロもそれにしっかり寄り添っている。
したがって、オーケストラの楽器の一部として、
終曲になだれ込んでいく。
したがって、最後の弔いと昇化されていく表現にも隙がない。
これはこれで、立派な解釈と言える。

ケンペは言うまでもなく、ここでは、
トルトゥリエに最高の舞台を用意して上げている。
ということで、颯爽と現れたヤニグロが後半、存在感を失って、
最後はオーケストラと一体になったのとは対称的に、
ここでは、トルトゥリエの高潔な人格がドン・キホーテの最後の境地に、
一対一で照らし合わされることになる。
ライナーは強烈な夕映えに力点が置かれ、
その中にある人間を語ったのはケンペである。
いずれも、最後の敬虔、崇高な雰囲気を外していない点がさすがである。
どちらの解釈が良いかは、人それぞれ、聴く状況によっても変わろう。

なお、以上、このライナーのCDの解説は、
ウォルター・スターキー(Walter Starkie)という人が書いている。

この後に、
「ウォルター・スターキーの『ドン・キホーテ』の翻訳より引用。」
とあるが、どういうことだろう。
ひょっとしたら、音楽畑の人ではなく、文学畑の人だろうか。

ライナー盤は、2曲目に、1954年の「ドン・ファン」が収録されている。
5年の歳月は明らかで、録音鮮度が落ちる。

しかも、ライナーはこの5年の間に、ヴァイオリンの両翼配置をやめたので、
これら2曲は第二ヴァイオリンの音の位置が異なる。
ステレオなので、それが分かるだろう、と親切な注釈まであって、
抜群に、情報量の多い満足すべき商品となっているのはさすがである。

得られた事:「新興アメリカの教養主義台頭というべきか、リビング・ステレオのシリーズの解説の充実に仰天。」
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by franz310 | 2008-11-02 14:10 | 音楽
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