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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その144

b0083728_1193067.jpg個人的経験:
前回書いたように、
私が最初に出会った
「ドン・キホーテ」
は、カラヤンが、
フルニエを招いて
演奏したものだったが、
改めてこの解説を
読み直すと、
なるほど、
と思うところも多い。


30年以上も放置していたお詫びに、
まず、ここに、内容を訳出してみよう。
ハインツ・ベッカーという人が書いているが、
シュトラウス作品の初期の受容について、
なるほどと思う所があった。

まさしく、最初の聴衆は、
私と全く同じ反応をしていたということだ。

「彼の『ツァラトゥストラ』の神秘的な混沌に対し、
まだ大いなる物議が続いていた時に、
リヒャルト・シュトラウスは、『ドン・キホーテ』によって、
再び、聴衆に当惑と誤解のもとを提供した。」

まさしく、この二作品こそが私自身が耳にした最初のシュトラウス作品であり、
内容に関しては、何だかさっぱり分からなかった。
独グラモフォンの英文解説を読み解いてまで、
知りたいという気持ちはあったかもしれないが、
中学生にはなかなか難しい難問だった。

当時、この解説のこうした冒頭を読んだとしたら、
どのように感じただろうか。

しかし、すでにシュトラウスはレコードでは人気の作曲家であり、
ポリドールなどは、「管弦楽を聴くならリヒャルト・シュトラウス」
などといった宣伝を打って、純真な思春期の心を幻惑したものである。

そもそも、「管弦楽を聴く」とは何ぞや、
と当時から、この宣伝には反感を感じていた。

シューベルトやベートーヴェンの交響曲は管弦楽ではないのか。
仮に、これらは「交響曲」であって、「管弦楽」でないとして、
例えば、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフらの管弦楽曲は、
管弦楽を聴いたことにならないのか。
こちらの方が、はるかに甘味で分かりやすいのに。

が、確かに、オーケストラを勝手気ままにちょん切って、
まるで、それ自体が目的であるごとく、
寄せ木細工のように継ぎ接ぎしたのは、
いかにも、シュトラウス的であると思った。

音楽を聴くより、各楽器を聴け、と言わんばかりの細部が目立つ。

例えば、「ツァラトゥストラ」にしても、冒頭部が終わって、
しばらく、オルガンが持続する意味は何なのか。
これがないと伝わらないものがあるのかないのか。

だいたい、この曲など、うるさい所と聞こえない所の対比が大きすぎて、
聞こえないところでは、何が起こって、どの楽器が鳴っているのかすら、
よく分からない。

これで、「管弦楽を聴くなら」などと、よく言えたものである。
「管弦楽の鳴ってない所を聴くならリヒャルト・シュトラウス」
というキャッチ・コピーにして欲しい。

やはり、何だかぼそぼそと鳴っているだけのオーケストラというのは、
まことに気持ち悪い。何が言いたいんだ、と叫びたくもなる。
あまり良いオーディオ装置も持っていなかった時代、
これは致命的な欠陥と思えた。
作曲家は手練手管を繰り出して、びっくりさせようとしているようだが、
それがどうした、となるわけである。

おそらく、このコピーを作った人も、
会社の宣伝上、仕方なく、
シュトラウスは、「管弦楽法の大家」と言われている、
その事実からだけ書いているだけではないか、
などと考えていた。(今も考えている。)

このような、曲の作りに加えて、
内容は意味不明と来ているものだから、
「ふざけるな」と言いたい所だが、
変な楽器が出て来たり(「ツァラ」のオルガン、
「ドン・キホーテ」のウィンドマシーンなど)、
いろいろな音色が面白い部分もあり、
時折、非常に甘味な音楽が出てくる
(「ツァラ」の「現世に背を向ける人々について」の後半や、
「ドン・キホーテ」の「第3変奏の後半」など)
ものだから、
まあ、仕方ない、となるわけである。
そうしているうちに、ちょっと慣れて来る、
といったたぐいの音楽であった。

「ふざけるな」の頂点に立ったのは、それから、
セル指揮の「ドン・ファン」、「ティル」、
裏面に「死と変容」の入ったレコードを買った時で、
どの作品もまったく面白くなかった。
今でも、ほとんど面白いと思わない。

独りよがりもここまで来たら、犯罪だと思った。
しかし、この組み合わせのレコードは非常に多く、
フルトヴェングラーのような神様のような指揮者ですら、
「ツァラトゥストラ」や「ドン・キホーテ」は録音していないのに、
何故か、これらの曲は馬鹿みたいにたくさん録音している。
恐らく、私の理解がまるでできていないものと思われる。

このカラヤンの「ドン・キホーテ」の解説にも、
やはり、「ティル」と「ドン・キホーテ」は違う、
というようなことが描かれてあった。

「1898年3月8日にケルンのギュルツニッヒ演奏会で、
フランツ・ヴュルナーの指揮で初演されたこの交響詩において、
シュトラウスは、初期の作品との違いを狙って、
古典文学に則して書かないというルールを破っている。
しかし、初期作品は単にアイデアを拝借したものだったのに対し、
ここで、彼はセルバンテスの細かい音楽的描写を行っている。
『ティル』は、もし必要とあらば、
音詩のタイトルが十分な手がかりとなって、
標題なしにも理解可能であろうが、
『ドン・キホーテ』に至っては、
この捉えがたい音楽語法を完全に解釈するには、
セルバンテスを読む必要がある。」

私にはどっちもどっちである。
だいたい、「ドン・キホーテ」も、名場面集にしかすぎないではないか。
(・・と、今回、聞きなおすまでは思っていた。)

また、むしろ、前述のように、「ティル」の方がつまらない。
マーラーなどが、長大な交響曲で試行錯誤している時に、
一丁上がり、とばかりに15分程度の技巧誇示音楽をひけらかした感じである。

恐らく、シュトラウスは楽想を展開させるには、
何やら具体的なイメージが一番、信じられるものだったのだろう。
現代人の煩悩、物質至上主義が分かりやすくて良い。

「最初、シュトラウスは、この作品に標題なしに出版したが、
おそらくこれがまず、聴衆に広く受け入れられず、
広く論争された原因である。」

解説にここまで書いてある曲を、
よくも私は、一所懸命に聴いていたものだなあ、
と感嘆もし、自分をほめてあげたくなった。

「そのため、シュトラウスは、後付けのように、
作品の内容の概要を加えたのであった。」

とんでもない経緯である。
ひょっとしたら、シュトラウスが、
勝手に変えた内容もあるのではないかなどと、
いぶかってしまうような書きぶりではないか。

以下にプログラムが続く。
しかし、この解説では、あらすじが書いてあるというより、
二言三言書いてあるメモに過ぎず、全体的に何だかよく分からない。
が、何もないよりは助かる。

「The programme:
序奏:騎士の武者修行の読書が過ぎて、
ドン・キホーテの脳みそが混乱してくる。」

この序奏はかなり難物である。
前半は妄想、後半は主人公二人の主題提示である。
幸い、カラヤンの66年盤のCDでは、
「導入」と「主題」として、トラックが分けられている。
(ケンペのライブ盤もそうだった。)

まず、とにかく混乱した脳みその中味を表す部分なので、
音楽も様々な楽想が錯綜し、弦楽が動き回って、もやもやが増し、
様々な楽器がパッセージの切れ端を投げつけて、
妄想も発散しながら増大化というか肥大化してくる過程が描かれる。

ここでは、ハープの伴奏に導かれ、
美しいオーボエで、ドゥルチネア姫の主題が出ること、
ファンファーレが鳴って、主人公の頭に騎士道の憧れが、
こみ上げて来ることにも、注意が必要であろう。

続いて、ヴァイオリン独奏が、かなり長い間、
混沌の中を歌い継ぐが、これはドゥルネシア姫への、
空想のセレナードであろうか。

が、この強烈な吸引力は、ドン・キホーテが、
本の世界の中に没入していく様子が、
憎いほど見事に表現されている。

カラヤン&フルニエ盤では、ねっとりと媚びるような、
粘着型の美音が多く、みょうにおおらかに、
この対位法の部分を演奏しているので、
例えば、ケンペの演奏に比べると、
本の中に強引に吸い込まれる感じのリアリティに欠ける。

これが、今回、かなり気になった部分である。

しかし、改めて聞き直してみると、
この序奏の前半が最難関である。
理解されない所以でもあろう。

この後は、ドン・キホーテを表す鷹揚なテーマが、
独奏チェロによって、歌い出される。
たしかに田舎の親分といった風情がよく出ている。
何かに憧れる様子が独奏ヴァイオリンに伴われつつ醸し出され、
クラリネットを伴って、憎めない様子も暗示される。

続く、何だか呑気な、
木管楽器のもこもこした音型がサンチョ・パンサである。
この音楽は、後半、ちょこまか動き回る独奏ヴィオラとなって、
このキャラクターのちゃめっけや、おしゃべりを暗示する。
木管の剽軽な様子は抜け目なさを示すものだろか。

さて、ここからは変奏曲になるが、
多くの変奏は、2、3分のものが多く、
短いものは、比較的理解が容易である。
第3変奏はやたら長く、第7、第10変奏は倍くらい長い。

「第1変奏:馬に乗って騎士はさっそうと出かけ、
風車と格闘する。」
ここでは、前半は出発の出で立ちが描かれるが、
もちろん、馬はやせ馬のロシナンテである。
が、夜空に浮かび上がる、思い姫、ドゥルチネアの主題は、
非常に美しい。

後半、騎士は、風車を巨人と間違って突撃するも、
羽根の回転で、地面に叩きつけられる。
勝負はすぐにつき、この時、
突撃や叩きつけられる様子が眼に見えるようである。
独奏チェロのたどたどしい様子からして、
何とか、地面から立ち上がる様子を聞き取ることもできる。

「第2変奏:アリファンフォロン皇帝との軍勢への勝利。
ここで、弦楽のトレモロや弱音器のブラスが、
羊のメエメエ鳴く様を描写する。」
これでは何のことか分からないが、
ドン・キホーテは、羊の群れを上記皇帝軍と勘違いしたのである。
ドン・キホーテの突進は、3本のチェロのユニゾンで強烈。
逃げ惑う羊の様子がありありと描かれる。

「第3変奏:騎士と従者の対話。」
これだけで表すにはこの変奏曲は長大で、9分近くかかる。
ここでは、チェロよりも、独奏ヴィオラのおしゃべりに、
独奏ヴァイオリンが受け答えするような感じで始まる。
いかにも室内楽的なオーケストレーションである。

「第4変奏:行列との遭遇と敗北。」
これだけでは、何のことやらわからないが、
慈雨の恵みを求める、祈りの行進に突撃する狂人騎士の描写である。
従って、聖歌調のメロディに怪しげな呟きが混じる。
ここでも彼は誘拐犯だと思って、反対にぼこぼこにされる。
チェロは息絶え絶えである。

「第5変奏:騎士の寝ずの番。ドゥルチネアの夢。」
長いチェロの独奏が悶々として、ハープの彩りを伴って、
ドゥルネシアの主題を歌うが、時々、夜風が舞い上がる。
地味な部分であるが、音楽も中盤まで来て、
間奏曲のような意味合いを持つ。
何故、寝ずの番をしているかと言うと、
それが騎士になるための風習だからである。
もちろん、ドン・キホーテの場合、勝手にやっているのである。

「第6変奏:偽りのドゥルネシア。(ボレロのリズム、タンバリン)。」
えっ、これだけ?と思うが、CDと違って、
レコードやテープなど曲の切れ目が分からない時代、
このリズムや楽器の指示はありがたかったに違いない。
ドゥルチネア姫に会いに行くが、誰だか分からないので、
(実在もしないし)、勝手に農民の娘を姫だと思い込む、
というだけの話。1分ちょいで終わる。

「第7変奏:空中騎行。(半音階のフルートのフラッタリングのパッセージ、
ハープのグリッサンド、ウィンドマシーン、オーケストラの持続音。)」
これまた、何だか分からないが、
ドン・キホーテは空を飛んでいるのである。
単に、目隠しされて、風を吹き付けられているだけであるが、
そう信じ込まされている。
これまた1分ちょい。

「第8変奏:ボートの旅、故障と浸水。(バルカロール)」
空の次は水である。
ボートに乗っての冒険も、浸水して終わり。
二人の体から落ちる水滴が独奏楽器のピッチカートで表される。
これも2分弱。


「第9変奏:実際は貧乏な坊さんである二人の魔術師との戦い。
(2つのバスーンによるコラール風テーマ)。」
これも1分ほどの変奏で、大騒ぎのキホーテと、
とぼけたバスーンの響きの対比のみ。
続けざまに第10変奏に突入するが、
第6から第9までの変奏は、破れかぶれで、
エピソードのコラージュみたいになっている。
姫、空中、川と坊さんで、その間の関係は、
まったく無視されて繋がっている。

このようにめまぐるしい展開は、
おそらく、交響曲におけるスケルツォ的発想であろう。
このように考えることで、シュトラウスが、
当初、標題を付けなかった理由が分かるのである。

おそらく、彼は、通常の交響曲の変形として考えれば、
純音楽的に楽しめるはずだと考えたものであろう。

「第10変奏:青月の騎士との一騎打ちと帰郷。」
この展開はうまい。勇敢な楽想がトランペットで盛り上がり、
引き延ばされたチェロの絶唱に、ティンパニの連打が絡み、
悲痛に金管楽器が吹き鳴らされる。
完全に失意の男の足取りである。
羊飼いになると言う夢も見て、混乱は絶頂に達するが、
次第に、妄想が晴れていく。

「終曲:断念とドン・キホーテの死。」
ここは、以上の説明で十分であろう。
独奏チェロによって、完全に演じきられなければならない。
ドン・キホーテの冒険は、単なる変人の迷惑行為でしかなかったのか、
それとも、理想を追い求めるものの、止むにやまれぬ情熱の形だったのか。

さて、この解説は、通常のものと違って、
曲の内容を細かく列挙した後、かなり重要なことが書いてある。

「この作品にシュトラウスがつけた副題、
『騎士の性格を持つ主題による幻想変奏曲』
は、通常の二人劇のなかで扱われるような、
2つの主題を使っているように誤解を招きやすいが、
これら2つの主題は、性格によって違いが与えられているだけでなく、
音色によってもコントラストが付けられている。
痛ましい姿の騎士のメロディはチェロが担当し、
サンチョ・パンサのお茶目な田舎者の動機は、
バス・クラリネットとテナー・チューバによって、
そして後にはヴィオラが受け持つことになる。」
サンチョ・パンサは単に、ヴィオラで表されると書かれている解説が多い中、
これは親切である。実際、ヴィオラ独奏はすぐには登場しない。

以下の文章を読むと、この作品が、下手物、まがい物ではなく、
鑑賞に足る芸術作品である旨がにじみ出して来て、
ようやく安心する。

「シュトラウスはセルバンテスの物語から、
社会風刺の部分は取り上げずに、
その内容を普遍的な人間性の問題に翻案した。
自分が、騎士道時代の華麗な騎士であるという、
主人公の滑稽な妄想をアイロニカルに意訳しているものの
彼は変奏曲形式に悲喜劇的なニュアンスを盛り込んだ。
2つの主題は慣習的なマナーでは変奏されず、
変わり続ける状況の中で、異なった視点で描かれていく。」

確かに、変奏曲というのは、
主題そのものが変わって行くが、
ドン・キホーテの場合、主題を取り囲む環境が変わるのであって、
主題があまり変わりすぎると、主人公がどこにいるのか、
分からなくなってしまう。

「標題楽的なベースに相応しく、
シュトラウスは主人公の性格や、
様々な空想上のシチュエーションにおける、
彼の行動を調べ、自身になぞらえた。
シュトラウスは後期ロマン派の大オーケストラを使いながら、
膨れあがった鈍重さに縛られることなく、
常に柔軟なテクスチュアを見せている。
彼はニーチェから音楽は苦労であってはならないと学んでいた。
このように、オーケストレーションの複雑さにもかかわらず、
室内楽的な繊細さを持って考慮されてスコアリングされた部分が多い。
羊の鳴く声や、実際は主人公が地上にいることを表す、
低音持続音を伴う空中騎行のウィンドマシーンの使用など、
リアルな管弦楽の効果にもかかわらず、
シュトラウスは小手先におぼれたりしておらず、
主人公の性格の深みを強調している。」

深みまでを表しているかは疑問であろう、
下記の結論には納得できるものがある。
「終末にかけて、華やかなチェロのカンティレーナは、
ドン・キホーテの死のシーンに導いていくにつれ、
この男は馬鹿だったのか、それとも、
不滅の価値を持つ賢者だったのかという、
疑問が頭をもたげてくるのである。」

ちなみに、この録音はもちろん、CD化もされていて、
オリジナルズのシリーズで発売された。
これは、オリジナルのデザインが踏襲されていて、
非常に好ましいシリーズだ。

ただし、ここでは、以上のような詳細な解説はなく、
リチャード・オズボーンが、
「シュトラウスの天才にとって、
セルバンテスの『ドン・キホーテ』以上に、
相応しい小説はないだろう。
素晴らしく描かれたキャラクターたち、
楽しいこといっぱいの物語、
高尚なロマンスから地に足付いたリアリズムまで、
きらびやかなスタイル。
そこには、彼の求めていた全てがあった」
と書き始められる、概要的な文章が載っている。

ただし、彼は、ハインツ・ベッカーのような、
問題提起風の書き方ではなく、
「シュトラウスの交響詩の中で、もっとも高みにあって、
間違いなく最も洗練されたもの」、と言い切ってくれている。
初心者には、このような解説の方が安心できる。
ベッカーの解説では、いきなり不安になってしまうのである。
中学生が月1枚程度、ようやくレコードが買えたような時代、
これは、傑作だ、聴かないとダメだ、と言ってくれる解説の方が、
ありがたかったであろう。
読めなくてよかった。

また、このオリジナルズの解説では、
「シュトラウス自身の指揮で、
1933年に録音したチェリストのマイナルディが、
カラヤンがこの作品を1939年1月4日に、
最初に、アーヘンで演奏した時のチェリストだったこと」、
「『騎士道的で華麗に』始まる音楽が、
貴族的なビーチャムやクラウス同様、カラヤンに相応しい」
などと書いて、この演奏に対する期待を高めてくれている。

また、ドゥルチネア姫を示すオーボエが、
名手、ローター・コッホによって優美に演奏されており、
カラヤンとフルニエは騎士道風の理想に即しているとも書いている。

そして、カラヤンが年を追うごとに、この曲を愛し、
ドン・キホーテの終曲が、シュトラウスの書いた終曲では最高だ、
と語ったことに触れている。
「私は戦い、間違いも犯した。
しかし、私は私が可能だった、世界で最高の人生を生きた。
そして今・・。」
カラヤンは、これに激しく動かされたのだという。

「この録音は1966年になされ、
カラヤンとフルニエはコーダを気高く演奏している。
そこには偉大な気品と静けさがあり、
ドン・キホーテの少し錯乱した心の最後の高まりの中で、
悲劇の苦痛が突き刺さる。
この演奏によって、喜劇の主人公ではなく、
ドン・キホーテは、聖なる愚者、
理想への殉教者と考えられるのである。」

まさしく、このように解釈されてこそ、
リヒャルト・シュトラウスは真価を発揮するのであろう。

いくら、カラヤンがこの曲を愛していたと言っても、
前回取り上げたケンペだって、その後じんを拝するものではなかろう。
カラヤンがベルリン・フィルを演奏して録音する前から、
ケンペはこの作品をいち早く録音しているのだから。

しかし、改めて演奏時間を眺めて見て驚いた。
カラヤンが録音したのと同時期(カラヤンは65年12月)、
ケンペのバイエルンのライブ盤(66年12月)は、
35分で終わっているが、カラヤンは44分もかかっている。
そもそも、序奏からして、めまぐるしく変転する楽想が、
ケンペの場合、めくるめく変転していく。

35÷44=80%
何と、2割も時間が違う!
カラヤン盤は、なんだかぬめぬめした感じに聞こえる。
一瞬の間とか、音符ののばし方など、すべてが思わせぶりに長い。
その分、ケンペが、せかせかしているとも言える。
第1変奏など、ちょっと早すぎる。
ライブということなので、早く終わらせたくて、
急いだのだろうか。

前回、コンサートマスターを比べたが、
カラヤン盤は有利である。弾き終わるときの音ののばし方で、
美音をアピールできるからである。
第3変奏の大きなうねりの中では、
こうした要素を全開にしてムードを高めている。
すばらしく雰囲気豊かな録音が、これをかなり助けてもいる。

ケッケルトは、せかされて、余韻に浸る暇はない。
が、これまで聴いて来たように、硬派のケッケルトは、
ケンペの指示なくとも、このように弾いたような気がする。
あと、ずどんと来る低音などは、ケンペは荒々しいが、
カラヤンは妙に丸まって角が落とされている。
ケンペの方が、肺腑を突くような音だ。

このように書いただけで、これらの演奏の違いは明らかであろう。
オーボエがいくらコッホであろうとも、
ケンペの盤はカルムスだ。(明記していないが。)
演奏者の質の高さは、互角と考えてよかろう。

はたして、フルニエに対するトルトゥリエはどうか。
何と、終曲の聴かせどころでは、トルトゥリエの方が、
急にテンポを落として、大見得を切っているではないか。
あるいは、ケンペのテンポは、この最後を生かすために、
取っておいたと言わんばかりである。

「ドン・キホーテ」と言えば、トルトゥリエのデビュー曲である。
この時、彼は52歳、対する、チェロのプリンスは59歳。
いずれも大ベテランである。

それぞれの素晴らしい夕暮れが広がっていく。

しかし、改めて、この曲の最後は難しいと思った。
単に死ぬのか、満足して死ぬのか。あるいは後悔して死ぬのか。
明らかに、若きシュトラウスは、そこにまで思いを馳せている。

これらのCDでは、
フルニエの方がすうっとうまく息を引き取っていて、
カラヤンはその延長で終わっているが、
トルトゥリエは、ぽっくり逝っていて、
ケンペはそれを悼むような表情を見せているように聞こえた。

得られた事:「『ドン・キホーテ』の難しさは、冒頭からの野心的なスーパー対位法、戯画的な中間部を経て、最後には、それぞれの人生を如何に総括するか、という事にある。」
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by franz310 | 2008-10-12 11:15 | 音楽
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