名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その141 |
個人的経験: ケッケルト四重奏団の、 モノラル録音の方の 「ます」は、 25cm版のLPでも、 発売されていて、 そちらには、 水彩画風というか、 陶器への焼き付け風というか、 素朴な魚の絵画が、 あしらわれている。 これは、ジャケットの大きさが、 一辺5cm小さくなって、 面積では、3割ほど 迫力がなくなったのを、 補ってあまりある。 やはり、これだけ視覚的効果でくすぐられると、 いろいろな空想の翼が広がる。 上半分の緑の部分の色合いも素朴で深く、 魚の上部が赤いのも面白い。 下側は、群青でさっと勢いがある。 ただし、シューベルトの音楽の若々しさは、 ちょっと捉えられていないかもしれない。 が、人間のどろどろとした世界から、 少し、超越した作品であることは伝わって来る。 誰が書いたかはよく分からない。 裏面のPrinted in Germanyの記載の後ろに10/60とあるから、 ひょっとしたら60年の発売であろうか。 ステレオ再録音の5年前に当たる。 ここでもすでに取り上げたが、 このレコードのレーベル、 ドイツ・グラモフォンは1959年に、 デムスのピアノに、アントン・カンパーら、 ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団らを起用して、 ステレオで、この「ます」を録音している。 最新のステレオ録音がありながら、 1960年に、改めて、 このケッケルトのモノラル盤を、 再発売した理由は、何だったのだろうか。 廉価盤に落としての再発売か。 確かに25cmになって、かなり紙面もコンパクトになり、 解説は、ついに、裏面だけに4カ国語、 ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語がひしめく有様である。 当然、曲について、下記のような簡単な記載があるばかりで、 演奏家の紹介などはなくなっている。 「ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとコントラバスのための、 『ます』のニックネームを持つ、イ長調の五重奏曲は、 作品166のヘ長調の八重奏曲に次いで、 もっとも明るく、分かりやすい室内楽作品である。」 前回、同じ曲、同じ演奏での「ます」の解説の方が良かった。 何故、唐突に、ここで八重奏曲の名を出すのか理解できない。 そもそも、八重奏曲は、交響曲への準備と、 作曲家が語っているように、同列に語ってよいものやら。 八重奏曲のレコードも売ってやろうという下心か、 「ます」が好きでないかのどちらかではないか。 「この作品は、作曲家が友人の歌手フォーグルと、 上部オーストリアを抜けていった夏の旅行の年、 1819年に作曲された。 彼が嫌だった教師の道を捨て、予測不能な音楽キャリアに進む、 ほんの2年前のことであった。」 なるほど、これは面白い書き方だ。 シュタイアーの街では、ひょっとすると、 「作曲家のシューベルトさんだ」と紹介されず、 「教師のシューベルトさんだ。作曲の腕も一流なんだ」 などと紹介された可能性もあるというわけか。 「『やっかいな教師の仕事から逃れ』、 と、友人のバウエルンフェルトはその『回想』に書いている。 『若い芸術家は、再び自由に呼吸することが出来た。 彼は、終わることなき天職に、情熱的に身を捧げ、 友人たちの重要なサークルの中で、新しい霊感を得た』。 このような『シューベルティアン』の一人、 アルベルト・シュタッドラーは、フォーグルの生まれた街、 シュタイアーに在住し、ここが彼らの旅の目的地だった。」 フォーグルが故郷に連れて行ったというよりも、 シュタッドラーに会いに行った、と読めるが、 一般には、フォーグルの故郷に、たまたまシュタッドラーがいた、 とする解説が多い。 「これは、シューベルトの人生の中で、最も幸福なひとときとなり、 シュタイアーのアマチュア音楽家、 ジルベスター・パウムガルトナーに依頼されて書かれた、 このイ長調の五重奏曲は、この幸福感を完全に反映したものである。」 この説明、「完全に反映」というところが力強くて良い。 「二つの興味深い特徴が、1817年作曲のシューベルトの歌曲、 『ます』の変奏曲を持つ、この室内楽を特徴付けている。 通常とは違って5つの楽章からなり、これは、 しかし、パウムガルトナーの望みを尊重しただけのことで、 シューベルトは最後から二番目にこの楽章を挟み込んだ。 もう一つのポイントは、特筆すべき楽器の選択である。 シューベルトはこの音楽をピアノと弦楽のために、 新しい楽器法のコントラストを求めており、 これは、5年後、八重奏曲にて、新しい管楽器と弦楽器の組み合わせを、 模索した時に、繰り返された。」 どうも、この解説者(誰か不明)は、「八重奏曲」が好きみたいである。 コントラバスが使われていることは、何も書かれていない。 だいたい、「八重奏曲」は、ベートーヴェンの「七重奏曲」に似たのを、 と頼まれて書いたものであって、シューベルトが、 楽器編成を工夫したとすれば、ヴァイオリンを一丁追加した点、 と思われていただけに、そうかなあ、という思いが強い。 続いて、こんな一言で、さらに「八重奏曲」を聴かせようとしているが、 いったい、どうしたことであろうか。 「この『ます』の五重奏曲から八重奏曲へと続く発展の道を、 アインシュタインは、『室内楽のためのセレナーデ』と呼んだ。」 うーん、出だしはまあまあだったが、 結局、よく分からない解説であった。 これで、さあ、「ます」を聴こう、とは思わず、 これは「八重奏曲」の前座なのかな?と思うユーザーもいそうである。 余計な心配であるが、グラモフォンレーベルでは、 1965年になって、ベルリン・フィルハーモニー八重奏団による、 「八重奏曲」が録音されるが、 この時期、ユーザーが、この曲を聴きたいと言った時に、 このレーベルは、これを聴いて下さいと、何か答えられたのだろうか。 ということで、この録音、 30cmLPの時の解説が、読み応えあったのに、 25cm化されたことに伴って、かなり解説がいい加減にされてしまった。 ジャケットには色気が出て来たのに、残念なことである。 前回、曲の詳細解説部は、省略しようと思ったが、 何だか、貴重な解説だったように思えて来た。 改めて、30cmLP盤の解説の続きを読み直しながら、 このレコードを堪能してみよう。 幸いなことに、このLPは、中古で買ったが、 盤面がとてもきれいで助かった。 この前の初期盤は、ノイズの海だったが、 これは針飛びなしで聴けた。 が、さすがに、盤が小さいせいか、 二番煎じで、録音が劣化したか、 音の生々しさのようなものはいくぶん、後退し、 この前のインパクトは押えられた感じがしないでもない。 気のせいかもしれないが、初期盤マニアがいることを考えると、 実際、そうなのかもしれない。 そもそも、この前のものと、 重さがまったく違う。 ターンテーブルに乗せる時の、 心の持ちようから、まったく異なる体験となる。 軽い。 が、小さい分、取り扱いは容易。 この中に同じ演奏が入っているとは思えない。 ということであるが、 とにかく今回は、 これを聞きながら、 30cmLPについていた、 楽曲分析の部分を、以下に紹介しよう。 「『ます』の五重奏曲の第1楽章は、 ソナタ形式のアレグロ・ヴィヴァーチェ。 ピアノによる性急なアルペッジョに続いて、 弦楽に第1主題が出る。 この着想は拡張され、短く展開され、第2主題を出す代わりに、 作曲家は第1主題をさらに魅力的な形で繰り返す。」 この部分、いきなりわかりにくいが、 魅力的な第1主題が、活き活きとしたヴァイオリンを中心に繰り返され、 印象的なチェロの大きな歌いぶりにも聞き惚れながら、 同じ主題から派生したとも意識しないままに、 我々は、この新緑の世界に迷い込むわけである。 「短い経過のあと、明るく活き活きとした短いメロディで、 第2主題がまずピアノで出る。」 たんたんたん、という部分である。 「ピアノで出る」と明記されているので、 見失うことはない。 こうした解説はありがたい。 (しかし、ものの本には、この主題は第2主題Bとし、 先のチェロを第2主題Aとするものもあって、混乱は混乱を呼ぶ。 いろんな解釈があるということだろうか。) 「その陽気さははかないものだが、 各楽器に模倣され、素晴らしいひとときを形成する。 これは、短く明るい、コデッタの開始の少し前に起こる。」 はかない陽気さというよりも、 私には、幻想的、陶酔的な心情を思い起こさせる。 特に、ケッケルトらの旧盤の演奏は、こういったところが印象的だ。 何か、音に身を委ね、次第に沈潜しながら、 底にある深いものに触れようとしているかのようだ。 ステレオ盤の方は、すこし、テンポが速くなって、 この深いものに触れる前に、水面に上がって来ているのかもしれない。 「展開部は、非常にオーソドックスで、 オープニングの主題のより熟した利用によって明らかである。」 オーソドックスか分からないが、この緊張した空気の気配は効果的。 劇的であることは確か。 この幸福の象徴ともされる音楽が、 こうした内省や葛藤を伴って出て来たことを痛感させられる部分。 そんな中、各楽器のめまぐるしい使い分けが、 実に冴えに冴えている。 「ここで独創的なのは、再現部の導入が、 サブドミナントのニ長調になっていることである。 この元気溌剌とした楽章は、明るく終わる。」 ニ長調になっていて、サブドミナントとは意識していなかったが、 確かに、こうした色調の変化が、この楽章を味わい深いものにしている。 同じ調で、最初から繰り返されるような音楽なら、 かなり薄っぺらいものになっていたであろう。 最初とは違って、少し大人びたシューベルトが、 ここには立っている。 本当に、シュタイアーで、彼は、どんな体験をしたのだろうか。 改めて、そんなことに思いを馳せた解説であった。 「第2楽章は、叙情的な開始部をもつアンダンテ。 この楽章の穏やかな美しさで、 アインシュタインが、マジャールやスラブの香りを嗅ぎ取っているのに対し、 ある批評家などは、そこにベートーヴェンの魂が宿るのを感じている。」 私は、このどちらも感じたことはなかったが、 いったいどういった点に、これを聴くのであろうか。 「この楽章は三つのセクションからなっており、それが繰り返される。 第一主題は、ピアノによって語られ、 すぐにヴァイオリンに代わられる。 この材料はさらに引き継がれ、発展させられる。」 まずは、高原の朝の大気のような爽やかさであるが、 この楽章、解説を読みながら聞くと、実に手が込んでいる。 最初の爽やかさは、次第に消え、 ふと気がつくと、自分は一人っきりではないか、 それに気づかされるような音詩となっている。 「弦に現れる単純なコードは、 ピアノのアルペッジョが強調しつつ、 嬰ヘ短調の第二のセクションに導く。 これは短い静かなパッセージで、 ヴァイオリンが小粋な音型を奏でる中、 ピアノのさざ波に乗って、ヴィオラとチェロが呟く。」 ここは、実に、幻想的な部分である。 ヴィオラとチェロが、たがいに耳を澄ませ合うような、 二重奏では、ヴァイオリンが単純な音型を繰り返し、 はるか草原の彼方を見つめるような趣きもある。 スラブの香りとは、こうした点に聴き取れるのであろう。 こうした部分、ケッケルト四重奏団の、 面目躍如といった感じがする。 「この後すぐ、ずっと情熱的で装飾的な主題が、 ピアノによって導かれ、すべての楽器によって、 順次、取り上げられる。」 情熱的とあるが、がちゃがちゃと興奮するものではなく、 ふつふつとこみ上げるものである。 ピアノの孤独な和音が、胸を打つ。 こうした点は、やはり、エッシュバッヒャーの方が、 エッシェンバッハより、深いものに触れているような気がする。 こうした、秘めた熱情というのは、確かに、ベートーヴェンを想起させる。 「このセクションの終わりで、突然の転調を伴って、 再現部が開始される。 ここでは、第一主題は変イで、第二主題はイ短調で、 第三主題のみがもとの調で復帰する。」 第二主題の二重奏も、何か、うつろな感じになっているが、 こうした儚さのようなものが、この曲に素晴らしい陰影を与えていたのだ。 第三主題は、もとに戻るので、ようやく、 元の場所に戻って来た感じがする。 もともとが、何やら危機を秘めているので、 胸が締め付けられるような感じが残っている。 「最もシューベルトらしく、小さく、嵐のような第三楽章は、 リズムの強調と、叙情性のコントラストによって、 力強さと輝かしさを兼ね備えたスケルツォとトリオである。」 この一文、最初、抵抗があった。 スケルツォがシューベルトらしい、という感じがなかったからである。 「未完成交響曲」も、スケルツォで中断したではないか。 「明るく陽気なスケルツォ部は、三部構成で、 最初の主題は、ピアノとヴァイオリンが交互に奏し、 第二セクションでもそれが繰り返させる。」 この第二セクションこそ、スラブ風の異国情調が感じられないか。 「トリオ部には二つの非常に美しい主題を含み、 最初のはヴァイオリンとヴィオラでアナウンスされ、 第二のものはピアノに割り当てられる。」 この解説もわかりやすい。 「ロザムンデ」の音楽の一こまを思い出させるような、 遠いお伽の国に遊ぶような感じがする。 そう言われてみれば、こうした音楽は、 シューベルトにしか書けないような気がして来た。 「習慣通り、全スケルツォ部は、トリオの後で、 繰り返される。」 とあるが、短いのに、強烈な印象を刻み、 かつ、分解してみても忘れがたい情緒を秘めている。 「第四楽章は、 シューベルトのもう一つの特質である、 天真爛漫な歌曲、『ます』のメロディによる、 6つの変奏曲からなる。 歌曲の精神と一致して、これらの変奏曲は単純でありながら、 大幅に華やかさが増している。 まず、これは素朴に弦楽で奏される。」 ここまでは、ピアノは出てこないが、 以下、ピアノの色彩が新鮮に導入される。 このレコードでは、エッシュバッヒャーが、 満を持して美しい音色を奏でる。 「第一変奏では、ピアノがわずかな装飾でメロディを奏で、 他の楽器は、練り上げられた伴奏を行う。」 「第二変奏では、ヴィオラとチェロがメロディを受け持ち、 時折、そこにピアノが絡む。」 とあるが、この演奏では、むしろ、 ケッケルトのヴァイオリンが舞い上がり、 その装飾音系のつややかさが目につく。 「第三変奏では、時折、チェロにアシストされるダブルベースが、 メロディを発し、ピアノが金銭細工のような音響を響かせる。」 このダブルベース、絶対に30cmLPの方が、 迫力のある音を響かせている。 ケッケルトが熱演しているかも、心許なくなって来る。 以下、楽器が書いてないのは不親切だが、 いきなり、激しい音楽が現れ、それが繰り返されるので、 第四変奏は分かりやすい。 「第四変奏では、トニック短調が色彩に変化をもたらし、 変ロ長調の第五変奏では、架橋するパッセージのようで、 休みなく、おそらくは最も明るい最後の変奏に続く。」 第五変奏は、チェロがロマンティックな歌を歌うところである。 架橋するパッセージという表現はよく分からないが、 おそらく、変奏曲の一章というより、発展があるためであろうか。 「ここにきて音楽はその美しさの全貌を現わし、 ピアノがオリジナルの歌曲の伴奏を奏でる中、 ヴァイオリンとヴィオラが、交互に歌う。 この陽気な波打つような音型は、用心深い鱒が、 水の中に滑り込み、漁師の釣針から逃れた描写にぴったりである。」 この楽章など、30cmLPで聴いた時の方が、 きれいな音に思えた。ピアノの響き方なども違う。 ちょっと平板になっていないか。 「この五重奏曲のフィナーレは、特にハンガリー風の香りを持ち、 重要な二つの主題を持つ、伝統的なソナタ形式をとっている。 第一主題は、いくつかの小さな音型と共に、この楽章を支配するものである。」 この解説、さっきまでは良かったのに、 どれが第一主題でどれが第二主題か書いていない。 力尽きたのであろうか。 たんたらたんたんと軽快なのが第一主題、 シンコペーションの上でチェロが歌うのが第二主題であろう。 いくつかの小さな音型というのは、 第一主題の前奏のように付随するものが、 確かに沢山あるので、これを指しているのであろうか。 しかし、展開部なく提示部が繰り返されており、 伝統的、慣習的なソナタ形式とは思えない。 「この楽章の重要な目的は、快活で、唐突なエンディングを、 この全体を通じて、喜びに満ちた作品にもたらすことである。 シューベルトの『ます』の五重奏曲は、 深いシューベルトではないが、愛さずにはいられないシューベルトである。 このような作品は、室内楽が無味乾燥で、人を寄せ付けず、 近づき難いものだと主張する人が、 間違っているということを、まさしく証明するものである。 『ますの五重奏曲』以上に、人を引きつけ、 楽しみやすい作品を思い出すのは難しい。」 この「愛さずにいられないシューベルト」というのは、 アインシュタインのぱくりではないか。 得られた事:「25cmLPでの再発売品は、ノイズはないが、音が薄くなっている場合があるようだ。」 |
by franz310
| 2008-09-20 21:56
| シューベルト
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