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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その132

b0083728_1235097.jpg個人的体験:
レーガーの弦楽四重奏曲を、
順次、聴き進めているが、
前回、「第4番作品109」を聴いて、
今回は、遂に、最後の作品。
「弦楽四重奏曲第5番作品121」。

ボヘミア四重奏団との出会いが、
「第4」を書く契機になったが、
この「第5」は、その名四重奏団に、
捧げられているという。
それは、どのCD解説にも出ている。

私は、cpoレーベルの、レーガーの「弦楽四重奏曲全集」は、
演奏はともかく、解説の点では、どうも、物足りなくて、
結局、名作の「第4」と「第5」については、
新たな解説を求めて、MDGレーベルのものを買い求めてしまった。

演奏しているのは、マンハイム四重奏団。
何しろ、前回、超横綱級の、ブッシュ四重奏団を聴いた後である。
第一印象は、何だか、弱々しい団体に思えたが、
何度も聞いていると、これはこれで、共感に満ちた演奏のように思えて来た。
cpoのベルン四重奏団も透明感のある、過不足ない演奏であるが、
こちらは少し荒削りながらも推進力があるような気がする。

ベルン四重奏団は、1971年に創設され、
1940年代生まれの奏者からなり、
現代の作品を得意としている。

一方、マンハイム四重奏団も、1975年創設で、
同時期結成のベテラン団体である。アマデウス、ラサール、メロスといった、
名四重奏団に学んでいて、モーツァルトゆかりの街を名前に戴きながら、
古典から現代まで幅広いレパートリーに定評があるようだ。
各奏者の経歴はないが、写真から見ると、
ベルン四重奏団より一回りくらい若いかもしれない。
が、ベルンよりは扇情的な音色も響かせ、古風な面もある。

こうした傾向は、演奏時間にも表れていて、
「第4」の例で言うと、
叙情的な第3楽章以外は、すべて、マンハイム盤の方が速い。

一方、緩徐楽章は、マンハイム盤は11分24秒をかけ、
ベルンの9分40秒より長く、全体としては20秒ほど早く終わっている。
が、改めて見ると、前回聞いたブッシュ盤は、
このマンハイムのどの楽章よりも、
ゆっくりと演奏している。ブッシュがこれら二曲を演奏したら、
一枚のCDに入らないかもしれない。

このマンハイム盤、ただし、
CDのデザインはちょっとレーガーのイメージではない。
画家シュミット・ロットルフの、DangastのGutshof(農園)とある。
Dangastは地名だろうか。

確かにカラフルなジャケットは悪くなく、
ブッシュのCDの、古色蒼然よりお洒落ではあり、
見ていて嬉しくなるが、ちょっと違うでしょ、
という気持ちがわき起こって来る。
このCDのプロデューサーは、レーガーをこんな風に
捉えているのだろうか。

この画家は1884年生まれなので、レーガーより一回り若い。
私のイメージは、レーガーの音楽には、
こうしたフォービズムみたいな感じはない。
一部のオルガン曲などには、こうした感じがあるかもしれないが、
特に、この四重奏曲集については、古典の精神が満ちあふれていて、
もう少し、平明なものを指向した作品と思える。

しかし、「恐るべき子供」だったはずのレーガーが、
何故、そうしたものを指向したのかは、
よく分からない。

このMDG盤の解説は、Michael Kubeが書いている。
ところが、英訳はまたまたスーザン。
これは、cpo盤と同じ、Susan Marie Praeder。
レーガーといえば、この3人の名前ばかり見るような気がする。
日本で、歌曲の解説を見ると、
喜多尾道冬ばかり出てくるようなものか?
これだと、その人以外の見方が出来なくなるではないか。

ところで、この翻訳家は両方のCDを聴いたか?
どっちが良かったのか?
ちなみに、cpo盤は92年から94年の録音。
MDG盤は、98年の録音。もう10年も経っている。

解説は、CDを買って開けてみないと分からないが、
少しは期待に応えてくれている。
まず、レーガーが病的とも言える、
脅迫的な作曲衝動をいつも感じていたことが記され、
それが、彼をついには死に追いやったことが書かれている。

「『作曲!神様、それを考えると時間がない。
時間、時間。しかし、待てよ。
私は休暇には、対位法地獄のような四重奏曲を書かなくては。』
1890年7月6日、レーガーはすでにアーダルベルト・リントナーに、
慢性的時間不足、その後、彼の全生涯を決定し、
次第に肉体的に蝕むものについて嘆いている。
レーガーの制御不能の創造力の噴出、
芸術家としての使命による、
ほとんど度を越した異常な内的テンションの高さは、
数え切れないほどの、ほとんど毎日の演奏会出演にも反映されている。
彼はそれと同じ衝動で、
彼をへとへとにした、演奏旅行中に用意したスケッチから、
一年の残りの二、三週間で、毎年、作品を作り上げた。
1890年にはレーガーは四重奏曲を完遂できなかったが、
1909年、作品109の四重奏曲を書くときには、
同様な衝動に駆られることとなった。」
このように、レーガーの日常というか、気質が説明される。
読んでいるだけで、消耗してしまいそうな、病的なまでの活動力が、
思い描かれる。が、こういった情報は、私は欲しい。

こうして、「第4」についての解説が始まる。
前回、cpo盤の解説が不満だったので、これも読んでみよう。
ここで、著者は、この作品が約30分と見積もられた事を特筆している。
数ヶ月前に出版された、
作品101のヴァイオリン協奏曲が約1時間、
作品108の「交響的プロローグ」も壮大であって、
作品106の詩編100がモニュメンタルな作品であるのに対し、
作品107の「クラリネット・ソナタ」と、
この作品109の弦楽四重奏曲が、伝統に回帰しているというのである。
しかし、野心的な作品74の「第三弦楽四重奏曲」と同時期に、
セレナードとトリオ作品77が書かれていることを思い出している。
作品109も、批評家には、『変異』が生じていると言われたという。

「古典的抑制」とか、
「フレキシブルで豊かに展開されたアイデア、
奇抜な音のコンビネーション」とシュトゥツガルトでは、
好意的に評価されたらしい。
Susanne Poppの解説と違って、
以下の記述があるのが嬉しい。
細かい分析ゆえ、完全には追い切れないが、
何となく、曲を聴く時の注力ポイントは分かる。

「第一楽章は、明快な形式感と、
個々のセグメントの明確さによって、
クリアな楽章」と書き、
「カンタービレの第一主題が、突然のいらだちのような、
アジタートの一声で遮られる」とあるので、
懐かしさに満ちた、冒頭のメロディが、
第一主題だと説明してくれている。

「いくぶん遅く登場する第二主題に先だっては、
大きなリタルダンドがある。提示部は、二つのフレーズの、
コンビネーションによって主題が回想されて終わる。」
このように、複雑な音楽を、
何とか可視化してくれようとしてくれているのはありがたい。
しかし、どう聴いても、あのアジタートの主題の方が、
やたらと活躍しているように聞こえる。

ここで、「各主題が、明快なアウトラインの上で、
伝統的な位置にあるにもかかわらず、
よく見ると、厳格な主題発展と和声の変化の中で、
まるで、離れ小島のように見える」と書かれている。
この表現は微妙。とにかくうねうねと動き回っている中、
どれが主題かよく分からないというのが率直な感想。

「拡張された変形の中で、展開可能な素材から、
その推進力を得ている」というのも、
直訳では何のことかよくわからない。

「これと同様なことが、
より拡張された3部分からなる緩徐楽章についても言える。
この楽章の中間部では、第一楽章の第二主題が、
第一ヴァイオリンの反進行に伴われながら現れる。」
しかし、これは「第二主題」なのか?
第一主題の後半ではないのか?

この楽章では、さらにこのあと、ピッチカートにのって、
先の主題が歌われるところも美しい。
このように、あそこがよい、ここが聴き所、
と分からないうちは、どうも入り口に立ったような気がしない。

「これに先だって、スケルツォ形式の、
もっと自由に作られた間奏曲があって、
レーガーは、『すべての重力から解放された、
空気のような。ただひらひら舞うだけの』と表現した。」
この記述などは、私の印象に一致。うれしいではないか。
Susanneの解説は、こうした具体性を欠くので不満なのだ。

「対位法による終楽章は、
リラックスして緩んだ主題であり、
アダージョの第二主題が出てからは、
素晴らしい最後の盛り上がりに入る。」
こうした説明だけでも、大づかみにするにはありがたい。
このあたりを意識していないと、
ブッシュの演奏が盛り上がって来るときに、
それを待ち構えることが出来ないではないか。

しかし、「第3」から、「第4弦楽四重奏曲」への、古典的回帰については、
もっと説明が欲しいところだ。
が、cpo盤の、引用だらけの解説よりは、百倍ありがたい。

さて、続いて、レーガー作曲、
「弦楽四重奏曲第5番嬰へ短調作品121」の解説だが、
まず、ここでは、cpoの全集版の解説に戻って、
こちらを先に読んでみよう。
これまで、ずっと読み続けて来たので、最後の曲だけ、
とばすのも気持ち悪い。

「1911年の2月、レーガーは、
その年の12月からの、
マイニンゲンの宮廷管弦楽団監督の就任の依頼を引き受けた。
ハンス・フォン・ビューロー、フリッツ・シュタインバッハ、
リヒャルト・シュトラウスがこのオーケストラを指導し、
長く、豊かな伝統を持っていた。
以来、レーガーの興味はオーケストラ曲に移るのだが、
その前に、ボヘミア四重奏団との友情をより緊密にするような、
最後の四重奏曲を作曲する時間を見つけた。
『心からの友情を込めて、ボヘミア四重奏団へ』
献呈された、『弦楽四重奏曲嬰へ短調作品121』は、
その証として残された。
新しいポストへの期待に胸を膨らませつつ、
作曲と推敲は3月から7月の初めまで行われた。
夏に印刷され、献呈されたメンバーによって、
1911年の10月11日、
コンサートシーズンの最初に初演された。」

このような背景の解説はありがたい。
新しい、しかも責任感を感じる仕事への期待は、
想像するだけで、心躍らせるものだっただろう。

が、冒頭に紹介した、レーガーのキチガイ強迫観念からして、
こんな大役は、最初から無茶だった可能性がある。

ということで、このマイニンゲンでの激務から、
レーガーが体をこわし、そこからの復活のために、
シューベルトの歌曲の編曲が行われたことは、
以前、このブログでも紹介したとおりである。

復習すると、オーケストラの指揮者になって、
オーケストラの伴奏で歌える声楽曲が必要となった。
彼は、その実用的な意味から、シューベルト歌曲を取り上げ、
激務にぶっ倒れてからもそれを継続したのであった。

「レーガーがこの曲を四重奏団の友人に献呈したのは、
彼がアンサンブルに捧げた唯一の曲であることを思うと、
特別の意味を感じる。
彼は、以前の四重奏曲を、出版者(No.1をSpitzwegに)、
ジャーナリスト(No.2をSeidleに)、彫刻家(No.3をGosenに)、
法律家(No.4をWachに)に捧げている。
この四重奏曲は、弦楽四重奏曲の最高の規範となっており、
特に第1楽章には修正が散見され、自己批判の証拠を物語っている。
この四重奏曲の形式は、外観上、明確であるが、
動機の扱いは曖昧で素描風である。
この曲はより穏和な前作の変ホ長調より、
全体的に、表現が大胆である。」

このように、この曲は、曲の長さも構成も、
前作と類似点が多いのは確か。
マンハイムの演奏では、前者が36分6秒なのに対し、
後者は36分29秒と、30秒も違わない。
しかも、各楽章も、順に、
約12分、約4分、約11分半、約8分半と、
ほとんど差異がない。
「第3」のような英雄的性格というより、
「第4」のような、平明かつ深淵路線である。

が、類似点より、違いも見なければレーガーに失礼だ。
「小節ごとに変化する和声、半音階を超え、調性の限界寸前まで行っている。
主調はたびたび曖昧になり印象主義風の色調の魔法を思い出させる。
たびたび、どっちつかずの調性になるのと同様、
非対称の構成が強調点をヴェールに覆っている。
終楽章の『アレグロ・コン・スピリート』は、
レーガーの対位法の手際の良さを示し、
輝かしい作曲技法を例証している。」

という風に、この曲は印象派風の、
模糊とした作品のように書かれているが、
具体的な話が出てこないところが歯がゆい解説だ。

その傾向は、こんな感じで延々と続く。
そもそも、終楽章で対位法のどの部分が輝かしくて、
手際が良いのか?
全体的に、歯切れが悪い。

「この四重奏曲の、曖昧で霞んだ、
批評家が言ったような、『最も独特な創造力の霧』によって、
同時代者には理解困難なものであった。
彼らは、色彩的な混合を進歩的とも思わず、
適切な統合の欠如と見なした。
『レーガーは議会の評議員になったのだ。
それこそがこの四重奏の背景にあるに違いない。
評議員はせわしい名声の渦巻きに捉えられている。
我々は、新作の四重奏曲や彼の最近の大部分の作品に、
それを感じずにはいられない。
急場しのぎで性急で、ごちゃごちゃの生煮えのものが、
前面に押し出されている。
新しい四重奏曲もたいした努力もなされてなく、
対立する調がぶつかり合って、時折、二三の断片が、
一つの楽器の独奏で、完全に離れた二つの調性の間に、
橋を架けるみたいに奏される。(ドレスデン初演のレビュー)』」

こうした当時の人々の言葉の引用が、この解説のあちこちに、
ちりばめられているが、そうした悪意ある解説にも、
一理あるという考えだろうか。
それだけ誤解されたものでも、自分は正しく理解しているという、
自己顕示であろうか。
いっこうにこの作品が何なのかが見えて来ない。
ここからラストスパートのようになるが、
いよいよ訳が分からなくなる。

「ここで改めて、リーマンの音楽観を。
作曲とは、有機的な成長を伴うイデーであり、
展開の進行が不可避である。
これは多くの音楽学者の信ずるところであり、
おそらく音楽というものがある限り、
語られることであろう。
レーガーはしかし、そうした学者に敬意を持つことはなかった。
『私はまだ、私の嬰へ短調の四重奏を聴いていないのだが、
とても素晴らしい音楽家を含め、
すでに聴いた人によると、確かに素敵に響いたらしい。
ドレスデンから来たうすら馬鹿は、
その欠点をあげつらい、
いかにもドイツ的な偏見を断言した。
しかも、終楽章をフーガと言いやがった。
私の生徒たちは、それを聴いて笑い転げたよ。
(1911年11月4日、出版社のC.F.Peters宛)』」

この言葉を引用したということは、虚心に聴けばよい、
ということなのであろう。

最後に、唐突に、このSusanne Popp女史は、
全四重奏曲の解説をこう締めくくっている。
もう、第5四重奏曲の解説は終わり?

「音楽環境の説明による作品評価は、
多くの場合、偏見となりがちで、我々を笑わせたり嘆かせたりする。
レーガーの弦楽四重奏曲群は、
決して偶然の産物ではなく、
激しい、あふれ出るような創造力のたまものである。
表現力の増大こそが、彼の作曲の不文律であり、
これが伝統的な主題労作を超える原動力となった。
作曲家のニュアンスに富む指示に従った、
霊感に満ちた解釈なくしては、
レーガーの四重奏曲の真価を発揮することは出来ない。」

Susanne女史には悪いが、私は、音楽環境の説明からの、
作品評価をもっと聴きたいと思うし、
どうも、この解説は、具体性を欠き、
この意欲的なアルバムの重責を満たしていない。
特に、日本では、これらの曲のまともな解説を見たことがないのである。

では、MDG盤の解説には何が書いてあるだろうか。
ここでは、「第4」の成功によって、
昔の野心作、「第3四重奏曲作品74」も、
演奏されるようになったことも書かれている。
もちろん、ボヘミア四重奏団のエピソードも。
「1910年2月5日、出版者の
Henri Hinrichsenにレーガーはこう書き送った。
『ヨーゼフ・スークは、今、作品74を、
夢中になって研究していると言って来た。』」
このスークこそが、現代の名ヴァイオリニストで、
スーク・トリオのヴァイオリニストである人の、
祖父で作曲家、
ボヘミア四重奏団の第二ヴァイオリン奏者を務めた人である。
こうした流れもあって、翌年の弦楽四重奏曲第5番の献呈に到る。

余談かもしれないが、
この解説では、ライヴァルのフィッツナーの、
「弦楽四重奏曲ニ長調作品13」の
地位を奪ったようなことも書かれていて面白い。
どうも、「第4」の前までは、「第3」は、
フィッツナーのこの作があるゆえに拒絶されていたようである。

また、壮絶な推敲の後が多いことについても書かれている。
しかし、ここで、友人のシュトラウベがちゃちゃを入れて、
レーガーはスランプになったようなことが書かれている。

この後、曲の分析に入る。
cpo盤には決定的に欠けていたものである。
「作品121の第一楽章は、作品109のそれと同様、
重々しいが、明快な構成で、
しかもさらに複雑に織り込まれたテクスチュア、
解釈者を苦しめる4部分からなる。
三つも主題があって、明快に組み立てられ、
著しく表現の性格が異なる。
しかし、動機的、リズム的に、
徹底的な展開がなされるというより、
内部に向かう凝集力を高めて行く。
拡張され三つの部分からなる展開部は、
テーマ材料から全力を尽くそうとする、
レーガーの意志が感じられる。
ワルツ風のテーマが何度か中断する以外は、
厳粛なトーンが一貫して、それは全曲に渡って、
全曲を感情的に統一している。」

第一楽章は、このように複雑に入り組んでいるが、
何となく、身を委ねていればいいような気もする。
「作品109」のような、強引な中断がないし、
変化に富むので聞きやすい。
ただし、どこにドラマの頂点があるかはわかりにくい。
まさしく、迷子になるような音楽だが、
迷いながらも周りの風景には、暖かな日差しが満ちあふれている。

「ニ短調のスケルツォは、半音階の前奏曲が付き、
楽しい雰囲気さえあって、中間部はコントラストあるトリオではなく、
展開部の性格を持つ。」
この楽章の執拗な跳躍などは、まさしく、
ショスタコーヴィッチそのものである。

「続く楽章は、アダージョで、
やっかいな重量感を持っており、
この曲の実質、中心であることが分かる。
強く引っ張られた、音楽的描写と、
スローモーションのようなテンポは、
レーガーがスコアに、
沢山のアゴーギグ指示を書き込んでいなければ、
拡張された表出力のあるルバートを使いたくなる部分。」
この楽章は、「作品109」と違って、苦み走っている。
解説のように、終始、抑制された表情が、深いというより妙に不気味。

次の終楽章が始まるとほっとする。
「フガートで始まるフィナーレは、
楽しげなピッチカートやスタッカートの指示があって、
気楽な軽さを出さなければならない。」

この困難な曲は作曲上の厳格さゆえに、
レパートリーに取り入れられ、ヒンデミットが属していた、
アマール四重奏団などが取り上げたようだ。
この曲については、レーガーの批判者であった、
ワルター・ニーマンのような批評家も、
真価を認め、「ドイツのというだけでなく、最高の四重奏曲」
と表現した模様。

得られた事:「Kubeの解釈では、レーガーは壮大なものと簡素なものを、同時に志向する傾向があった。」
その2:「レーガーはフィッツナーに敵対心を持っていた。」
by franz310 | 2008-07-20 12:02 | 音楽
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