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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その101

b0083728_18525836.jpg個人的経験:
前回は、
シュレーゲル兄弟の、
兄、アウグストを
取り上げたが、
今回は、
引き続き、
例のG・ジョンソン
の解説から、
弟フリードリヒの
略伝を見てみよう。


うまい具合に、「夕映え歌曲集」をまとめて歌っている最新CDも入手した。
これは、NAXOSレーベルが体系的にシューベルト歌曲を、
その詩人別に集めて企画している、
「シューベルト・ドイツ語歌曲全集」の第24集である。
ここでは、「ロマン派の詩人による歌曲集 第一集」として、
真ん中に、この知られざるシュレーゲルの歌曲集が集められ、
前後には、クライガーの「若い尼」や、ウーラントの「春の想い」、
リュッケルトの「君こそは憩い」などの傑作が散りばめられている。
有名、無名、取り混ぜて、この前のハイペリオン盤よりは、
楽しい選曲と思われる。

しかも、ここでは、全曲を通して、
ソプラノのボルヒェルトが通して歌っていて、
「夕映え」歌曲集も、非常に説得力のある歌曲集に聞こえる。
もちろん、第一曲「夕映え」や終曲の「茂み(藪)」などは、
ゲルネの方がずっと意味深く聞こえるが、あちらは歌曲集と考えるには、
少々無理があった。
二曲目に「蝶々」を持ってきたのも成功している。
ゲルネは、重々しい第一曲に、続けて「山々」という、
手ごわいのを持って来て、人間世界を睥睨するような厳しさが、
聴き手を拒絶し、なかなかこれらの詩に入り込めない感じを、
醸し出していた。

ソプラノのか細い響きでは、こうした曲などは苦しそうだが、
曲集の一貫した感触は得がたい。最後の「星」、「茂み」といった、
崇高な歌曲になると、このひたすらな歌唱が、
祈りのような高みに至るかと思わせる。

ただし、この廉価レーベルの常として、ジャケットはしょぼい。
このぽっちゃり系シュレーゲルの肖像を見て、
「これはいかにもロマンティックだな」と感じて、
聞きたくなるユーザーがどれくらいいるだろうか。皆無であろう。

だが、解説は、このフリードリヒ・シュレーゲルを取り上げていて、
予想をはるかに超える話題で、我々を異空間に運び去ってしまう。
なんと、このシリーズも、一貫して、ピアニストのアイゼンロールが、
伴奏を務め、かつ、解説も書いてくれている。
(Ulrich Eisenlohr、英訳は、Keith Anderson)。

ということで、今回はまず、このNAXOS盤の解説にある、
異様なエピソードから。

「1825年、3月20日のこと、
ヴィーンで、シューベルトの友人、
画家のルートヴィヒ・シュノア・キャロルスフェルトの家で、
奇妙なイベントが執り行われた。
霊界との交信の集い(telepathic séance)で、
文学でのドイツロマン派の指導的パイオニア、フリードリヒ・シュレーゲルと、
最初の『ロマンティックな』ドイツ語圏の作曲家で、
歌曲分野での比類なき世界の創始者、フランツ・シューベルトが、
ここで出会ったのである。
シューベルトは、おそらく、奇妙なオブザーバーとして居合わせ、
そればかりか、この霊的なイベントで、
自身の音楽で伴奏したりもしたようだ。」
ちょっと待った!という始まり方である。
いったい、シュレーゲルもシューベルトも何をやっているのか?
霊的なイベントの伴奏???

これ以上の内容は分からない。
「残念ながら、この交霊会の進行の完全なレポートはなく、
シューベルトが演奏した音楽やこの二人がこの時のみ会ったのかなど、
我々は知ることが出来ない。
しかし、これ以前にすでに、
この二人が『ロマン派』文化の一時代の発展に対し決定的な貢献をし、
歌曲作曲家としてのシューベルトに、
シュレーゲルの詩が数年前に霊感を与え、
新境地を拓かせたことは事実なのである。」
このあたりのことは、前々回取り上げた、
ハイペリオン盤にも書いてあった。

「これらのシュレーゲルの詩が、1818年から1823年の、
彼の『ロマンティックな歌曲』のフェーズに強い衝撃を与えた。
この時期以前は、文学上名声の確立した古典的なシラーやゲーテ同様、
とりわけ多感主義の詩人たち、マッティソン、クロプシュトック、
ヘルティその他が、シューベルトの作曲時の飢餓感を満たしていた。
続いての詩の調達者として、
まずマイヤーホーファー、そしてショーバーその他、
というふうに、シューベルトの友人たちが現れた。
『ロマン派』の詩人への付曲は、1819/20年に集中的に行われ、
結果として350曲以上の歌曲が作曲された。」

私は、この時期が、シューベルトのロマンティックな歌曲のフェーズだとは、
これを読むまで知らなかった。
そもそも、そんなことを書いた評伝があっただろうか。
全部と見なおす気にはならないが、最新の、
作曲家◎人と作品シリーズ「シューベルト」を見ても、
最初のリート公開演奏や、何曲かの大曲を作曲した年、としか書かれていない。

「フリードリヒ・シュレーゲルは、1772年にハノーヴァで、
ルター派の牧師の息子として生まれ、ゲッティンゲンやライプツィッヒで、
法律、数学、哲学、医学、古典文献学を学んだ。
1796年、彼は、兄のアウグスト・ウィリアムらが作り、
ノヴァーリスやティーク、シュライヤーマッヒャーが参加していた、
ロマン派のサークルに合流した。
彼らは、ハイネによって、ロマン派の創設者と見なされた。
1797年、ベルリンにて、シュレーゲルは、
10歳年長で、銀行家の妻であったドロテア・ヴェイトと出会った。
1798年から、彼は彼女と暮らし始め、
1804年にようやく、彼女の離婚の後、結婚することが出来た。
彼の小説『ルチンデ』は、その状況に基づいており、
二人の平等でよく釣り合った人間の自由で、
『ロマンティックな』愛をテーマにしていたが、
文字通りのスキャンダルになり、
それによって小説は、衝撃的な成功となった。
1802年から1804年まで、シュレーゲルは、
パリでペルシャとインドの語学と文化の研究に熱中した。」
これはいかにも、リアルとバーチャルの連動で、
最高のプロモーションになっただろうと思われる一節。

「1802年から1804年までは、ヴィーンに住居を定め、
重要で広く知られた講義を行った。
おそらく、シューベルトの詩人の友人は、
彼の歴史、文学、審美学の見解を耳にし、
それについて議論したはずである。」
む、この部分、どうもおかしい。
パリにいたか、ヴィーンにいたか分からないではないか。
そもそも、シューベルトの世代はまだ、1802年の時点では、
幼稚園児であろう。1812年だろうか??それでも中学生くらい。
ナポレオンの時代に、ちょっと相応しくないような気もする。
1822年ならば話は合ってくるが、この時期になると、
シュレーゲルは、前述のようにヤバい分野に突入していて、ちょっと、遅すぎる。

「また、シュレーゲルの詩集『夕映え』もまた、
この友人たちのサークルで読まれ、
彼の『ロマンティックな歌曲』の時代の中心となる、
これらの詩をシューベルトもまた知ったと思われる。
22の詩集から、シューベルトが曲を付けたのは11曲である。
これらの歌曲を1919年から23年の間の、
数回に分けて書いたという事実ゆえに、
これらは音楽的チクルスに計画されたのではないと推測されている。
しかし、作曲上のスタイルからは、これらの曲は統一されている。
民謡風の単純な詩は、
形式の明確さ、簡潔な和声、
素朴で気取りなく、それでいて、
神秘的で、さりげない音楽の完璧性に支えられた、
分かりやすいメロディ書法とからなる、
明晰、かつ、ほとんど古典的なまでに優雅な傾向の、
作曲スタイルで付曲されている。
これは、他のものの中にあってとりわけ、
詩と音楽からなる『ロマンティックな音』の、
典型的な形象である。」


さて、フリードリヒ・シュレーゲルについて、
興味も沸いてきたので、先の、ハイペリオン盤の、
解説の続きを読んでみよう。
前回は、枚数オーバーで、ここまで書けなかったが。
「フリードリヒ・シュレーゲルは、
7人の子供たちの末っ子である。
この兄弟の早熟さの基準からすると、彼は大器晩成型で、
両親は彼がなんの才能を示さないのを嘆いた。
15の時に、シュレーマンという名の銀行家の実習生として、
ライプチヒに送られ、彼は、ここで、未熟な眠りから覚めた。
この時から、すべての兄弟の中で、
最も絶え間なくエネルギッシュな存在となった。
彼はまずプラトンとギリシャの文学に心酔し、
言語学、歴史、哲学を学ぶために、
兄とゲッティンゲン大学で合流した。
学生として、彼は、細部にも驚くべき精通を見せ、
歴史や思想の小さな流れを、大きな意味を持つ、
一見して、迫真性ある論理的な一つの流れに総合するという、
生涯を貫く能力の兆候を見せた。
シュレーゲルは、
ギリシャ文学におけるヴィンケルマンとなることを目指し、
偉大な歴史家が、古代の芸術を蘇らせるのと同様に、
古典の作家を詳説した。
彼はさらにライプチヒに行き、そこで、非常に深い印象を与えた、
フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(ノヴァーリス)と会った。
互いに尊敬し、ノヴァーリスにこう書き送った。
『私はあなたのような人を見たことがない。
エレウシス(アッティカの都市)の高僧であった。
あなたを通じて、私は天国と地獄を学んだのだ。』
だが、4年後、ノヴァーリスはシュレーゲルの著作に対し、
より批判的になっていた。
『それらは、満足のできない魅惑であり、
我々が最も高く調和しようとすると、
まさにその時になるとはぐらかさせるといった、
無限の期待とほのめかしにすぎない。』
この早い時期にあっても、シュレーゲルの賛美者は、
彼の常にアクティブな頭脳をもってしても、
その努力が結果として、さらに偉大な到達点として、
花咲かないことを残念に思っていた。」
むむう、大器になりそうな書き出しだったが、何だか雲行きが怪しい。

ここから、例のハイペリオン盤にも出ていた事が詳説される。

「ベルリンにおいて、フリードリヒ・シュレーゲルは、
ヘンリエッテ・ヘルツとラヘル・レーヴィンのサロンを訪問した。
こここそが、彼が、モーゼス・メンデルスゾーンの娘で、
まだ生まれていない作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンの、
将来の叔母であるドロテア・ヴェイトと出合った場所であった。
8歳年長のドロテアは、夫を捨て、シュレーゲルに走った。
その関係は、反ユダヤ主義のシュレーゲルの父の怒りを買った。
彼女は彼の生涯の伴侶となり(彼らは1804年にやっと結婚する)、
彼の最も情熱的かつ辛抱強い伝道師となった。」
兄シュレーゲルは、結婚で大変な目に会ったが、
こっちの弟シュレーゲルは、結婚を前に大変な目に会ったのだ。
いずれにせよ、女性によって、大変なことになった。

「フリードリヒは、兄と協業し、
より壮大なプロジェクト、アテネウム創刊を果たした。
1798-1800の六回の刊行で、初期ロマン派の才能を集めた。
フリードリヒ・シュレーゲルは理論家であり、哲学者であって、
アウグスト・シュレーゲルは言語学者で批評家であった。
フリードリヒ・シュライヤーマッヒャーは、
ロマンティックな学派の、モラリストであり、神学者であった。
ルートヴィヒ・ティークはそのストーリーテラーであり、
ノヴァーリスは難解な神秘主義者であった。
アテネウムのコアは、ノヴァーリスの『夜への賛歌』
(そのいくつかは1820年にシューベルトが作曲している)や、
フリードリヒ・シュレーゲルの『イディーン』と題されたアフォリズム、
そして、彼の『詩についての対話』であった。
彼の思考の流れは、大部のノートに書き連ねられ、
有名な『批判的断章』となり、
これはリヒテンベルクの皮肉によって拡大され、
Chamfortの箴言的なスタイルから、ドイツ文学へと昇華された。
断章形式のからかうような捉えにくい芸術の中に、
熟達したシュレーゲルの小形式の最高の表現が見出せる。
チャールズ・ローゼンが『ロマンティック・ジェネレーション』で、
指摘しているように、断章は、文学のみならず、
音楽においても、後に、ロマン派そのものの中心となる。」
いずれにせよ、錚々たるメンバーが集まって、
その中核にいたのがシュレーゲルだったわけだ。

「シュレーゲルは、こう書いている。
『我々の詩歌には古代人における神話のような焦点がない。』
彼の新しい時代の新しい神話を探すことにあった。
新しい言葉は、詩が、『幻想と愛』によって美化された、
ヒエログリフのような自然の表現になるべき言葉が発明された。
彼の神秘主義と象徴的表象の意味の再定義によれば、
シュレーゲルは、ニーチェやフランスの象徴主義者の、
初期の作品を導く道を拓いたといえる。
このシュレーゲリズムは、花びらは、電気火花と対をなし、
女性のフォルムは木の花が対をなし、
また、あるときは、宝石は『ミネラルの花』であるなど。
ノヴァーリスとシュレーゲルは、
不思議な物理的な混沌の融合と非融合が起こる、
『Symphilosophie』を計画していた。
これは、ジョンソン博士が定義した、
シュレーゲルが書いたフモールが反映される。
『これは、異なるイメージのコンビネーション、
または、明らかに異なるものに、
オカルト的な類似を見つけること』で、ここでは、
『最も混成のアイデアが暴力によって繋がれる』。
ロマン派のサークルは、すぐに、イエナのアウグストの家を中心にした。
1799年9月、フリードリヒもそこに入り、
ドロテアも続き、兄弟に見出されたともいえるティークも続いた。
彼の素晴らしい訳、セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、
アウグスト・シュレーゲルのスペイン文学の関心から生まれた。
彼らは哲学者のシェリングとも交わり、
これが、アウグストの結婚の解消へと繋がり、
シェリングはフリードリヒ同様、初めて、突然、抒情詩を書くようになった。
共に不器用な詩人であったが、ここで詩は目的ではなく、
むしろ、アイデアの媒体であった。
シュライヤーマッハーは、フリードリヒにこう書いた。
『超越が彼に充満し、永遠は終わりの始まりであり、
世界は彼のただ一つの不滅の愛』。
シューベルトが作曲したシュレーゲルのテキストの大部分は、
この活気ある日々のものである。」
ロマン主義は、闇を愛するがゆえに、暴力とかオカルトとか、
物騒である。が、それが、あの不思議な会合に繋がっていったのだろうか。

「シュレーゲルの『無限なるものへの憧れ』は、
彼は初めて宗教的、汎神論的な記述で、
これこそが、『夕映え』の詩を結ぶ糸でもあり、
シューベルトは、このにわか詩人に不朽の音楽的肉声を与えた。
シューベルトのサークルのメンバーは、
ブルッフマンが、その自叙伝で書いたように、
シュレーゲルのよく知られた小説、
1799年に登場して以来、ドイツ語圏にあまねく知られた、
『ルシンデ』のコピーを、手に入れていた可能性はあるかもしれない。
今日の目から見れば、ほとんどショックではないが、
特に、著者が当時、人妻と親しくなって以来、
当時はわいせつなものと考えられていた。
(ドロテアは、この最も不適切な時期に、
その出版に耐えなければならず、
しかし、彼女は自らのプライドより、
フリードリヒのキャリアを優先した。)
ルシンデは性的な自由を主張し、
ありもしない見せ掛けの純潔を馬鹿にして中傷していた
シューベルトの世代をひきつけ、
そしてそれは、女性を責任ある多感な性的な存在として、
新しい光で照らした。
それは、性的役割の取り交わし、両性の愛の理解の答弁であった。
露骨なエロティシズムは、シュレーゲルの汎神論の描写の一部に見え、
これがまた、作曲家、そしてその友人たちの、
シュレーゲルへの熱狂を起こさせたと思われる。」
なるほど、シュレーゲルの示唆した、
新しい両性の関係が、まず、シューベルトたちを惹き付けたということか。

「この時点でシュレーゲルはゲーテの領域では、
居心地の悪い客人であった。
彼らのシラーに対する敵意は、この偉大な人物を当惑させていたが、
フリードリヒはゲーテの詩こそ、真の芸術と純粋な美の日の出だとたたえ、
ヴァイマールの獅子も、文学世界における彼の立場を、
兄弟が賞賛していることを知らないわけではなかった。
事実、シュレーゲル兄弟は、単に『ゲッツ』や『ウェルテル』の作者である以上に、
ゲーテの名声を紹介し、イタリア旅行から帰ってからの出版作品、
とりわけ、『ウィルヘルム・マイスター』を文学の最前線として位置づけていた。
ゲーテはそれに応えて、フリードリヒの劇作への努力を激励し、
カルデロンに影響を受けた『アラーコス』を、
1802年、ヴァイマールで受け入れた。
しかし、この類音の脚韻を散りばめた実験は、
鎮静化にゲーテが非常な努力をしたにもかかわらず、
観客に笑い飛ばされた。
これを別にしても、シュレーゲルから、
『親父さん』と呼ばれていたゲーテは、
彼を『扇動者』、『トゲイラクサ』と見なすようになり、
これ以上の個人的な共感は生まれなかった。
このエッセイの目的のために、
残りのシュレーゲルの話は、ささっと切り上げよう。
『アラーコス』の完全な失敗の直後、
シュレーゲルはドロテアと共にパリに行き、
この地をベースに講義を行い、
若いスコットランドの学者アレキサンダー・ハミルトンと共に、
サンスクリットの研究に邁進した。
この時期、厳しい努力で、芸術と建築の歴史に通暁し、
この東洋との出会いに関しては、
彼の素晴らしい研究、『インドの言葉と格言』に結実する。
この点、彼は驚くべきそしてシリアスなヨーロッパ共同体のヴィジョンを得た。
これらは今日、驚くほどモダンに見え、現在のフランス・ドイツ枢軸も、
新しい発想ではないことを思い出させる。
ステファン・ツヴァイクやロマン・ロランもまた、
同じ世紀の終わりに同様の着想をしている。
シュレーゲルはさらにケルンに行き、
彼が得意とするドイツ文学の歴史をベースにした、
読書のシリーズを催した。
(兄弟は、のちにリストがピアノ・リサイタルで、
巻き起こしたような騒動を起こしたようだ。)
ここに来て彼はドロテアと結婚し、この宗教上の手続きと、
旧式の信仰と美学のニューエイジを確立しようとする試みが、
彼の生涯の次の決定的転換の合図となった。
1808年4月、フリードリヒとドロテアはカトリックに改宗した。
この出来事は、『ルシンデ』の出版と同様のスキャンダルを巻き起こした。」
こう見てくると、エネルギッシュではあるが、
どうも方向の定まらない人生で、この人は、何の専門家なのだろうかと、
だんだん、分からなくなって来た。

「このすぐ後、二人は、
アウグストが講義シリーズを受け持っているヴィーンに向かった。
兄を出し抜くというわけではないが、フリードリヒは、1810年、
ヴィーンの新しい歴史の講演シリーズを企画、
保守性や反動主義傾向を強める新聞の出版者として、
また、社会的な花形として、彼はそこでの地位を固めていった。」
こうあるので、シューベルトの友人が、シュレーゲルを見たとすれば、
このあたりのことと思われる。

「彼はアイヒェンドルフに会い、この偉大な詩人の小説のタイトルを、
『予感と現在』とするよう提案した。
彼はそれにつれて、社会的な虚飾を好む傾向を強めた。
ナポレオンをきっぱりと拒否し、
オーストリア愛国者としてのスタンスを身に付け、
1809年にはハンガリーで広場でのキャンペーンに登場、
そこにいる時にはその国の言葉や文学の研究にも余念がなかった。
彼はメッテルニヒ自身と知り合い、民間奉仕にも手を広げた。
(間違いなく、ゲーテ中年時代のヴァイマールでの、
政治活動に張り合うことを狙ったものだ。)
ヴィーン会議では裏方外交で活躍した。」
このように、体制派になってしまうと、
何がロマン派かわからなくなってくる。
フリードリヒの人生は変節の人生であった。

「これは特に記憶すべきだが、秘密警察は、
シュレーゲルの言動を監視しており(メッテルニヒは誰も信用していなかった)、
可愛そうな探偵は、シュレーゲルのよく変わる宿泊施設や、
時には、一日14回も入る飲食店に関する、
長いレポートを書かなければならなかった。
彼はたくさん食べ、それがかっぷくが良いというレベル以上の外見に反映された。
また、ある種のヘビー・ドリンカーであった。
彼はオーストリア政府にいかなる重要な地位を占めることはなかったが、
彼の自信は計り知れなかった。
1808年になると、彼は精力的に以前の信念を取り消しはじめ、
『この美学的な白昼夢、臆病で汎神論的な不正、そして公式の弄びは、
すべて終わりを告げた。それらは、この偉大なる時代には無価値で、
もはやふさわしいものとは言えない。』
我々は、このように、シューベルトがシュレーゲルの汎神論を見出す、
はるか以前に、シュレーゲル自身、そしてヴィーンの街自身もまた、
これをすでに放棄していたという事実に直面する。
同様に、シューベルトが1814年に『ファウスト』を発見した時、
すでにゲーテは西オーストリアの国政に関与しており、
読者はその著者の最後のアイデアをキャッチアップするには、
時間がかかることが分かる。
1809年まで、シュレーゲルはメッテルニヒの昔なじみで、
Papal Oeder of Christのナイトであり、
ヴィーン芸術アカデミーの会員であった。
彼は親戚の中で最も高い爵位を手にし、1815年、
貴族の「von」を授けられた。」
あちゃー、といった感じ。
シュレーゲルのファンはがっかりだったはず。
ここに来て、兄、アウグストの方が見直されることになる。
長生きしたのも兄の方だった。

「もはや誰も、アウグストのうぬぼれなど反応しなくなった。
彼はリベラルに止まり、フリードリヒのコンコルディア誌における、
宗教的な記事を読んで激怒した。
ゲーテはフリードリヒ自身の口から語られる転向を聞いて、
懐疑的に額にしわを寄せた。
彼は後に、『この種の男は』、単に、『もっともっと低級に』なると書いた。
ハイネは、フリードリヒの『個人的な宗教上の言い逃れ』について、
軽蔑をこめて言及した。
フリードリヒ・フォン・ゲンツは、
シュレーゲルのファミリーネーム(シュレーゲル=太鼓のばち)にあやかって、
こう書いた。
『何年かのあいだ、彼の宗教的、または偏狭な熱中は、
彼をずっと笑いものにしてきて、その妻がまたそれに大きく貢献している。
現在、この兄弟の違いは大きいが、私はアウグストの方に全面的に味方したい。
彼は確かに虚栄心は強いが、活力と才能がある。
フリードリヒは鉛のばちにすぎないが、
同じ太鼓のばちでもアウグストのは鋼鉄である。』」

ざっと、フリードリヒ・シュレーゲルの、なんとも変化に満ちた、
生涯を、グレアム・ジョンソンに教えて貰った。
あまり、好かれるタイプではなさそうである。
実は、さらに、このエッセイ、シューベルトたちとの関係にも触れている。
それは次回に回すこ1とにする。

得られた事:「弟シュレーゲルは、派手な行動とスキャンダラスな小説で、時代の寵児となり、進歩的な若者を強烈に痺れさせた。シューベルトも1819年頃、この詩人?によってロマンティックな時代に突入した。」
by franz310 | 2007-12-15 18:54 | シューベルト
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