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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その67

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その67_b0083728_22223436.jpg個人的体験:
「後期ロマン派による
トランスクリプション」
というタイトルのCDから
脱線が脱線を呼んでいる。

前々回のCD、演奏や録音、
解説はともかくとして、
元の曲の作曲家名もなく、
内容が想像できるような
写真もないのには不満を感じた。

文句ばかり書いて、どんなのが良いかと言われれば、
先のようなタイトルの言葉から連想されるCDのジャケットとしては、
こういったのならどうか、という感じで取り上げてみた。

オンスロウの室内楽でお世話になった
MDGレーベルであり、それだけで、実はポイントアップ。
録音に温かみがあり、ナチュラルな豊かさを感じる。

このCDであるが、原曲はシューベルトの弦楽四重奏で、
表面には、ちゃんと作曲家名もあり、
裏面に、グスタフ・マーラーによる弦楽オーケストラへのアレンジとある。

ただし、これはこれで、問題がないとは言えない。
オリジナルバージョンではないと、
表紙からだけは読み取れないからである。

とはいえ、エゴン・シーレの絵画を持ってきて貰えると、
なんとなく、どろどろしたマーラー的な感じが遠まわしに醸し出され、
安易かもしれないが、題名も「死と乙女」で、それなりに曲を連想させる。
このようなジャケットだと、それだけを見ているだけでも楽しいし、
少なくとも私の購買意欲は、100倍くらい向上する。

「後期ロマン派のトランスクリプション」ならば、
こんなデザインなら良かったのに。
そう考えながら、このジャケットを眺めているうちに、
はたして、このマーラー編曲のシューベルトは、
トランスクリプションと言えるのだろうか、
という疑念が浮かんできた。
そもそも、このCDには、
「arr.for String Orchestra by Gustav Mahler」とあるが、
このアレンジ(arr.)とはトランスクリプションと同じと考えて良いのだろうか。

これ以上、この問題に立ち入ると、話がややこしくなるので、
ここでは、いずれにせよ、やたら分かりにくい横文字濫用だけは、
やめた方がいいのではないか、という感想に留める。
10人に聞いて「編曲」なら10人分かるとして、
「トランスクリプション」としただけで、何人が分かるのだろうか。
それだけ、市場規模を狭めているような気もするが。

あるいは、ロングテール理論で、
「トランスクリプション」で検索して買う人を狙っているのだろうか。

ということで、こうしたことを念頭において、解説を見てみる。
書いたのは、Dr.Michael Kubeという人だが、
ああでもないこうでもないといった感じの論理展開が面白かった。

ざっと見て、以下のようなことが書かれてある。
1. マーラーはシューベルトの作曲した主題は、「unelaborated」ゆえに、
まだ、発展させる余地があるが、
ベートーヴェンなら、徹底的に「elaborate」したであろうと考えていた。
(1901年の8月5日、マーラーの女友達、
N・バウアー=レヒナーが書き留めた彼の言葉である)

Elaborateとは、「精巧に作りこむ」という意味らしいので、
推敲不十分のシューベルトの音楽には、
まだ手を入れてもよいと考えていたのかもしれない。

2. 一方で、マーラーはシューベルトの音楽のみならず、
多くの音楽に手を入れていた。

シューベルトの大ハ長調交響曲のほか、
ベートーヴェン、ブルックナーの交響曲にも加筆をしている。

(ここでは、ヴィーン歌劇場のマーラーの後継者、
ワインガルトナーの回想(1929)の引用が面白い。
『偉大な音楽とほとんど我慢できないような平凡なものがミックスされた、
彼の作曲と同様、彼の精神の炎は、不可解な浪費によって燃え盛り、
改造熱に捉われるのであった。
彼の言葉によると、シューベルトのハ長調交響曲では、
スケルツォのトリオの崇高なメロディは、
三本のトランペットで増強されるべきであり、
驚くべきことに、ベートーヴェンの「第九」では、
終楽章の行進曲の部分では、ホール外のオーケストラが、
近づいてくる軍楽隊を模して演奏すべきだと言うのである。
一度、彼がそうしたアイデアに捉われると、
他人の意見や反対などに全く従おうとはしなかった。』)

3. しかし、こうしたアレンジは時代の流れの産物であった。
ワインガルトナー自身がベートーヴェンの、
「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を管弦楽曲化している点。
シューベルトに限っても、
リストによる「さすらい人幻想曲」、ヨアヒムによる「大二重奏曲」、
モットルによる「幻想曲D940」といったものがある。

4. マーラーは1899年1月15日にベートーヴェンの
作品95の弦楽四重奏曲の弦楽合奏版を披露しているが、
それに先立つ彼の著述が、非常に分かりやすくその特徴を語っている。

その弁明はこんなものである。
「弦楽オーケストラで演奏される弦楽四重奏!
このアイデアは君たちを狼狽させることであろう。
私はすでに、『親密さ』や、その作品の独立性として、
非難が起こることはわかっている。
しかし、君たちは間違っている。
私が計画していることは、理想の四重奏曲の再現に他ならない。
室内楽とは室内を想定したものだ。
そこで演奏してこそ楽しめるものであって、
譜面台を前にした四人の演奏家たちだけが、
聴衆となってその音楽を享受できるというものだ。
室内楽がコンサートホールに持ち込まれるや、
親密さなどはすでに失われてしまっているし、
それ以上に失われるものもある。
四つの楽器の音は聞こえなくなり、
作曲家が想定した力強さで語りかけることは出来ない。
私は各声部を強化することによって、潜在的なパワーを解放し、
音の翼を貸し与えたのである。
私は作曲家のために行動し、その意図から外れないようにした。
その最後の四重奏曲では、ベートーヴェンは、
小さな限界のある楽器という観点では思考していなかった。
彼は四声に巨大なおどろくべきアイデアを盛り込んだ。
…今度の日曜日の私たちの演奏は、
コンサートの歴史に新しい幕開けを告げることになろう。」
といった具合である。

ただし、聴衆や批評家から激しい非難と攻撃を受けており、
それによって、これ以上は、こうした編曲を続けるのをやめたようだ。
まったく他人の意見を聞かなかった人がやめてしまったのだから、
よほどの総スカンに会ったのであろう。

5. しかし、マーラーのこの手の編曲はすでになされており、
1894年11月19日の新ハンブルク予約演奏会で、
シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」の変奏曲を、
弦楽オーケストラ用にアレンジしていた。
(この時も、原曲の良さをすでに熟知していた聴衆には理解されなかった。)

従って、マーラーは全曲の編曲は完成しておらず、
弦楽四重奏曲のスコアに、
楽器や強弱法や表現法を音符につけたものを残しただけであった。

6. シューベルトは、1824年3月31日の友人宛の手紙で、
この作品を含め、いくつかの室内楽から、交響曲の世界を構想していると、
書いているので、こうした編曲は「歴史的正当性」もある。


7. マーラーはシューベルトの楽譜をほとんどいじっておらず、
コントラバスパートの追加が、中では最も大きな逸脱である、ということ。

マーラーは時折、この五つ目の声部で、チェロを強調し、
あるときは、音域を変えて、構造を明確にするようにした。

8. マーラーが最も注意を払ったのは、
各声部における強弱の階調表現であって、
楽器の増加にもかかわらず、
むしろ清澄さや効率の良さを追求している。

こうした考えは、しばしば論議を呼ぶ、楽器の拡張を伴う、彼の
ベートーヴェン、シューマンなどの交響曲や序曲の改編などにも通じる。

9. このようなことは、大作曲家が、
百年前の名曲をどう捉えていたかの参考となり、
マーラー自身の音楽の、テンポや強弱法の細かい階調表現、
特に表現上の指定にも通じる。
例えば、「第五」の有名なアダージェットなどでも、
感情や表現が刻一刻と変わる。

以上、まとめると、マーラーは、めちゃくちゃな編曲もやった人だが、
そんなことなら、この時代であれば、他の連中もやっていて、
むしろ、弦楽四重奏曲のオーケストラ化に関しては、ましなほうだ。

大ホールのコンサートにおいても、
作曲者の意図がよく聞こえるにと配慮され、
原曲を尊重したものであって、最小限の加筆に留まっており、
音が増強されたというよりも、マーラーの交響曲にも通じる、
繊細な表現に聴くべきものがある、
といったところであろうか。

こと、シューベルトに関して言えば、この曲を書きながら、
交響曲の構想を始めていたから、この曲にも、
それ並のスケールが込められているというのが評者の意見であろう。

ということで、シューベルトの後には、
前述のマーラーの「第五」からの、
アダージェットが録音されている。
これは、非常に濃厚な表現で、美しい演奏であるが、
解説者が書いていることと、演奏者の意図が一致しているかはわからない。

演奏は、ほとんど停止する寸前まで引き伸ばされたメロディが、
この世ならぬ黄泉の世界を暗示しているが、
解説者は、むしろ、マーラーと親交もあった指揮者、
メンゲルベルクのスコアにある書き込みから、これは死の音楽ではなく、
愛の音楽であると、強調しているのである。

ビスコンティの映画「ヴェニスに死す」のおかげで、
心ならずも、「死と変容」の音楽として聞いてしまうが、
むしろ、「Love and devotion」の音楽であると、
考えるべき証拠があると書いている。
(ただし、メンゲルベルクのスコアだけの話で、
これは、学者が証明したわけでもなく、
マーラーの妻、アルマも、そうは書いていないということも、
ちゃんと書いてある。さすがドクターだ。)

Roman Kofman指揮のキエフ室内オーケストラによる
シューベルトの演奏も、たいへん丁寧で、心のこもったものである。
特に「死と乙女」の主題によるアンダンテなど、
15分もかけて歌われており、マーラーが、
特に、この楽章を取り上げて演奏したというのも肯けるような、
繊細さと味の濃さを表出している。
この恐ろしい音楽であれば、こうしたどろどろ感も受け入れられよう。

このように読んでみると、マーラーのアレンジは、
なんとなく、トランスクリプションというイメージとはやや異なる。

とはいえ、トランスクリプションを辞書で引くと、
「筆写」、「書き換え」、「転写」とあるから、
大げさに楽器を変えたり、追加したりしてはいなくとも、
こうした範疇に入るかもしれない。

だが、マーラーの考えのように、杓子定規に室内楽を捉えると、
「ます」の五重奏曲などは、ピアノ協奏曲のようになってしまい、
この曲の持つ自発性や、軽やかさが減じるのは目に見えている。

いうなれば、マーラーの言葉通りにすると、
すべての音の強弱、テンポが指揮者に委ねられることとなり、
民主主義がすべて独裁政治になるであろう。

音楽には、そうした解釈を受け入れられるものと、
受け入れられないものがあると考えられるが、
「ます」などは、最も、受け入れられないものになろう。
「親密さ」のみならず、湧き上る喜びが、
各楽器から発散するような音楽なのだから。


得られたこと:「百年前のマーラーの時代ですら、室内楽の命は、親密さにありと聴衆は信じていた。それは、独裁への無意識の反抗だったかもしれない。」
by franz310 | 2007-04-21 22:35 | シューベルト
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