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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その50

b0083728_20554910.jpg個人的経験:
ここに、
ヴィーン・フィルの
楽団長を務めたこともある、
第二ヴァイオリン奏者、
オットー・シュトラッサーが書いた、
「栄光のヴィーン・フィル」
という本がある。

シュトラッサーは、
ヴィーン・フィルの
奏者たちで結成された、
四重奏団の
第二ヴァイオリンも
長く務めた。

レコードでは、バリリ四重奏団での活躍が特に印象に残っている。
このバリリ四重奏団は、
本格的な活動を開始してからは、バリリの腕の故障で解散するまで、
ヴィオラのシュトレンク、
チェロのクロチャックやブラベッツといったメンバーらと、
約15年の輝かしい活動を続けた。

同じく、ヴィーン・フィルの奏者たちからなった、
ヴィーン・コンツェルトハウス四重奏団と並び称された名四重奏団で、
コンツェルトハウスがシューベルトの全集を作れば、
バリリは、ベートーヴェンの全集を作るといった具合だった。

彼らは、まずレコードで全世界に知られ、
来日演奏もあって、日本では特に歓迎されたようだ。
57年に来日した時の記録がCD化されてもいる。
12月10日、羽田到着、11日にはさっそく公開録音、
12日からは全国ツアーが始まると同時に、
先の録音がラジオで流されたという。

このCDの解説によると、大戦中からバリリは四重奏団を組織していたが、
1951年、名ヴァイオリニストのシュナイダーハンが、抜けて空席のあった
四重奏団を引き継いで、急速に有名になった。
何と、このメンバーでのデビューは、「ます」だったという。
(後年、引退直前にデムスと録音したステレオ録音(58年)が、
同じく、シューベルトの「ます」だということも思い浮かべると感慨深い。)

さて、シュトラッサーの本に戻ると、
大筋は、往年の大指揮者とのヴィーン・フィルのメンバーとしての活動や、
さらに古い時代のこのオーケストラの歴史、
困難な戦時中の逸話などに当てられているが、
さすがに、この間、これらの団体と室内楽の活動をしていただけに、
多くの活動の記述が見られる。

シュトラッサーは、若い頃、音楽家としてオーケストラに属しながら、
同時に、物理学者をも夢見て勉強していたらしい。
何故なら、彼はずっと第二ヴァイオリンの末席にいて、
将来に不安を持っていたからだという。

だが、エンジニアとしての国家試験にパスした頃から、
音楽家としての経歴にも運が向いてきた。
それを、「人生の妙味」と表現しているが、
以下のような記述が続く。
「(指揮者の)クレメンス・クラウスが、
彼のオペラ劇場総監督時代に、私を末席から、
上席にまで引き上げてくれたのだ。
私は、前列の奏者の一人となり、
後にはもう一つ位が上がり『首席奏者』そのものになり、
それにより、公認の第二ヴァイオリン奏者になったのだ。」

「その後間もなく若いヴァイオリニスト、
ヴォルフガング・シュナイダーハンが自分の四重奏団を組織し、
私はその第二ヴァイオリンを受け持ち、彼のそばに坐り、
弾くことが出来るようになった。
このことは私に第二ヴァイオリンたるの喜びを与えてくれた。」

この四重奏団の創設は、1938年とされるので、
1901年生まれのシュトラッサーは、すでに37歳、
シュナイダーハンは15年生まれなので、23歳である。
彼があえて、「若いヴァイオリニスト」と書いている理由は、
こうした背景によるものだ。
それにしても、シュトラッサーは、
長い間、二足のわらじを履いていたものだ。

管楽器の奏者たちが、
ベートーヴェンの七重奏曲とシューベルトの八重奏曲の演奏会を
企画したとき、
シュナイダーハンが、
弦楽器の各主席奏者に声をかけた際に、
この四重奏団の活動が始まったのである。

後に、1951年に、バリリが引き継いだ時点で、
21年生まれのバリリは30歳、
シュトラッサーは50歳になっていたということになる。
さらに、バリリが抜けた後は、
09年生まれのボスコフスキーが61年に、
この四重奏団の第一ヴァイオリンの地位を引き継ぐが、
この時、シュトラッサーは60歳である。

さらに何年か活動を続けたので、
シュトラッサーの音楽家としての後半生は、
四重奏団の第二ヴァイオリンとしての活動で彩られた。

このような長い活動ではあったが、シュトラッサーにとっては、
最初のシュナイダーハンとの活動が、最も印象深かったようだ。
これは、38年から51年という活動期間が、
第二次大戦期に重なっていたからであろう。

この38年という年は、特別な意味がある。
二月二十日、オーストリア政府は、
ヒットラーの演説をラジオで流すことを許可、
「三月六日にはクナッパーツブッシュが、
フィルハーモニー・コンサートを指揮し、
その五日後には、オーストリア第一共和国は、存在することをやめた。」
このように、第十章は締めくくられている。

第十一章は、「ナチス大ドイツ帝国の出現」と題され、
すでにベルリン・フィルから聞き及んでいた「ユダヤ人粛清問題」、
当然の帰結としての、ロゼーやチェロのブックスバウムの
半強制的な定年退職の話題から始まる。

こんな困難な時期に誕生したのが、シュナイダーハン四重奏団だった。
「ヒットラーがオーストリア領内に侵入して十日後、
一九三八年三月二十二日、
私たちは、コンツェルトハウスの中ホールで、
将来のシュナイダーハン四重奏団の誕生を迎えたのである。」

「私たちは発足の最初から、重大な困難と戦わなくてはならない運命だった、
というのは、私たちのヴィオラもチェロも、
いずれもユダヤ人“特別許可”のもとに
オーケストラに残留を許可されているメンバーだったからである。」
ヴィオラはモラヴェッツ、チェロはクロチャックである。

こうして、ヴィーン・フィルとしても、12人のメンバーを失った。
さらに、戦禍も及んで来る。

「今日もまだ所有している当時の四重奏曲のプログラムを
よく覗いてみるが、あれは3月の22日だった。
こう記入してある。『午前中、ヴィーンに大空襲、
明かりがつかないため、コンサートは取りやめ。」とある。
この日、私は、デブリンクから、黒の正装をして、
学友協会まで歩いて行ったことを覚えている、
というのは、もはや市電は通っていなかったのである。」

戦争直後の描写などは、こんな具合である。
「毎年このコンツェルトハウスで演奏していた
私たちのシュナイダーハン四重奏団は、
自分たちの全パート譜をここの一つの部屋に預けておいたのだが・・、
しかし、この楽譜は惨憺たる有様になっていた。
ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルトの四重奏曲集は、
引き裂かれてあたりに散らばり、セレナーデ四重奏曲の
第一ヴァイオリンのパートは明らかにトイレット・ペーパーとして
使用されていたのである。」

さて、このような、ヴィーン・フィルの生き証人のような人は、
カンパー率いる、コンツェルトハウス四重奏団を、
どのように見ていただろうか。

カンパーの名前は、このような形でこの本にも登場する。
名コンサートマスター、ロゼーがロンドンに亡命した話の後に、
このオーケストラが、歴代、
数々の名四重奏団を輩出してきたことが述べられる。

「ローゼ四重奏団と並んで、他のいくつもの四重奏団も、
フィルハーモニーのメンバーによって結成されていた。」

それから、次々と四重奏団の名称が列挙されたあと、
このような一節が出てくる。
「アントン・カンパーを第一ヴァイオリンとする
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団は、
中でも名望があり、成功を博していた。
この四人のフィルハーモニーのメンバーからなる四重奏団は
ウィーン・コンツェルトハウスにおいて演奏活動を行い、
国際的にも広く知られるようになった。」

私が悩ましく思うのは、その後に続く文章であって、
シュトラッサーが何を言いたいのかが、よく分からない。
彼は、こんな事を書いている。

- ロゼーはずっと、ベーゼンドルフザールで演奏していたが、
ここが解体されたので、
コンツェルトハウスでコンサートを行うようになった。
それは、会長へラーがそういった取り決めをしたからだ。 -

「コンツェルトハウス協会自身はこれに反して、
この協会の名をとって命名された
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団と契約を結んだ。
このアンサンブルは、1930年代の始め以降、
ほとんど三十年の長きにわたって四重奏団のシリーズを
演奏していった。」

ここで、カンパーたちの経歴を思い出してみよう。
彼らは、もともとヴィーン交響楽団(フィルハーモニーではなく)
のメンバーであったが、37年から38年のシーズンに、
ヴィーン・フィルにメンバー全員が移籍したとある。

何故、この時期に全員が移籍したのか、いや、できたのか。
そんなことを考えると、上述の歯がゆい文章に、
勝手な憶測が成り立ちはしないだろうか。

コンツェルトハウス四重奏団のメンバーは、
この本の中で2回しか登場しない。
しかし、シュナイダーハン四重奏団の流れを汲む、
モラヴェッツ、クロチャックらの名前は、各々、4回、8回と登場し、
バリリ時代のブラベッツの名前も5回出てくる。

得られること:「ヴィーン・フィルもまた、当然のことながら、会社と同様、いやそれ以上に人間臭い組織である。」
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by franz310 | 2006-12-24 21:10 | 音楽
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