クロメダカちゃん、亡霊の声を聴く |
その時、まるで、地底の底から、 水槽全体に響き渡るが如き声が、 どこからともなく聞こえてきた。 「我らに、平安を与えたまえ。」 次に、何だか、のんびりとした声が続いた。 「ああ、やっぱり、そうだったんだな。 悪いことが、行われていたんだな。」 いったい、何事かと、僕が振り返ってみると、 あの、恐ろしい、人喰いのぬめぬめが、 不気味な渦巻きの甲羅を背負って、 にゅるにゅると、水槽を這い上がって来るところだった。 ゆっくりとした動作ではあったが、 僕は、あのメダカの仲間たちのように、 その恐ろしい管の口先で溶かされて、 骨の髄まで、しゃぶりつくされてしまうのではないかと身構えていた。 「検死官が来たようですね。」 「そうなんだな。解ったんだな。」 驚いたことに、ベアトリーチェは、 そのぬめぬめにゅるにゅると、 当たり前のように、会話しているではないか。 「あとは、この亡霊に語らせるんだな。」 すると、検死官と呼ばれたぬめぬめの、その甲羅が光り始め、 ああ、なんと言うことだろう、その中から、さきほど平らげられてしまった、 オスヒメダカの姿が、浮かび上がって来たではないか。 ベアトリーチェは、それを指差して、こう告げた。 「彼の肉体は滅びましたが、 あの検死官の貝殻の中に、霊がしばし宿り、 最後の言葉を聴くことが出来ます。 クロメダカちゃんも、心して聞いてください。」 私は、耳を澄ませた。 やがて、先ほどの地底からの声が、 厳かに響き渡った。 「北極星が北の空に光る頃、 南半球では、サザンクロスが、 大海原の上に浮かぶであろう。」 僕は、霊界を越え行く者の、 自由になった霊魂が、空を飛翔し、 この世の全ての苦しみから解放された様子を思い描いた。 そして、彼の善良なる魂が、天上において、祝福されることを心から願った。 「冬の天上を大きく彩るオリオンのごとく、 また、夏の夜空に輝く白鳥座のごとく。」 いよいよ、モバイル・メダカ計画という、 メダカ史上最悪のスキャンダルの実態が、 今、ここに明らかにされるのである。 果たして、メダカの運命に未来はあるのか、 その審判が、今、下されようとしていた。 「夏の大三角には、アルタイルあり、 冬の大三角にはおおいぬ座に、シリウスが光るが如く。」 如く、何なのだ、と思ったのだが、 死してなお、使命をまっとうしようとする英雄の言葉に、 何ら口を差し挟めるものではない。 ひたすらに、その荘厳なパイプオルガンの響きに、耳を傾けるばかりである。 余計な事を思案していて、肝心なところを見逃してしまうのが、 サッカーの試合の嫌なところだ。 「夕暮れの渚にあっては、夜光虫の如く、 初夏の清流にあっては、舞い踊る蛍の如く。」 だんだん、集中力も限界になりそうだった。 一度、肉体を失ったものは、すっかり、この世の時間感覚から貝抱、 いや、解放されてしまうのかもしれない。 「かくのごとく、明らかであったああああああああ。」 おお、「その時、宇宙の天体が鳴り響くのです」と、マーラーが語ったように、 オスヒメダカの声には、大きなクレッシェンドの記号がついていた。 僕はその音響の渦に、思わず、耳をふさぎたくなったほどだ。 でも、耳がどこにあるかも分からないし、 ふさぐにも、ヒレでは、ちょっと役不足ではなかろうか。 ひときわ高く、その声が響き渡ったかと思うと、長い長い余韻を残して沈黙が訪れた。 ただ、水槽の中には、ぶくぶくポンプの音が鳴り響くだけである。 「オスヒメダカは、やむなく、敵の凶刃に倒れましたが、 やつらの耐震偽装については、突き止めることが出来たようです。 捜査官として、本当によくやりました。」 ベアトリーチェの長い睫毛の間から、止め処もなく、涙が流れ出していた。 「耐震偽装・・。」 僕も、よくわからなかったが、 どう考えても、偽装はまずいだろうと思って、一緒になって泣いた。 見ると、貝ちゃん検死官の貝殻は元に戻り、 そこに、ヒメダカの姿はすでになかった。 彼の魂が祝福されようがされまいが、どうでもいいような気持ちだった。 シリウスの輝きの前では、そんな事は、小さなことのようにも思えてきたのである。 ずずずっ、ずずずっと、検死官は、水槽に付着した汚れの掃除に余念がなかった。 「この辺が、ちょっと汚れているんだな。」 |
by franz310
| 2006-06-07 00:23
| どじょうちゃん
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