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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その417

b0083728_221652100.jpg個人的経験:
NBC交響楽団と
ベートーヴェンの
交響曲全曲演奏会という
大業を果たした後、
トスカニーニは、
休暇を取って
グランド・キャニオン
に向かったという。
1939年の12月、
この大自然の威容を前に、
トスカニーニは心打たれ、
感動を手紙に認めている。


「愛しいアーダ、私は美に酔いしれている。
グランド・キャニオン以上に、
これ以上に幻想的で超越的な脅威を、
見つけることは不可能かもしれない。
昨日の夕暮れ時、今日の日の出、
この自然の奇跡による感情に、
私の目から涙がこぼれた。
このあたりの人々、
カリフォルニアの人たちも、
良い人たちだ。
私が崇める君がここにいて、
手を取り合って、静かに、
神、自然、時の流れが、
何百万年もかけて作り上げた
この荘厳な、壮大で、
畏敬すべき奇跡を、
共に愛でることが出来たなら・・。」

アーダは、イタリアにいたはずなので、
まだ、直接の戦争には至ってはいないものの、
それどころではない状況だったはず。

米国に亡命状態のトスカニーニ自身も、
戦火のヨーロッパに戻る日が来るとは、
72歳という年齢から言って、
信じていなかった可能性もある。

トスカニーニは、そうした事にも思いを馳せて、
涙を流した可能性がある。

このトスカニーニが指揮した、
「グランド・キャニオン」組曲、
BMGジャパンが1997年に発売したCDは、
オリジナル・LPデザインを銘打っていただけあって、
楽しくノスタルジックな表紙が素晴らしい。

トスカニーニが吠えるばかりの、
彼の録音の中で、これは、出色の逸品ではないか。

しかも、非常に良い演奏で、
トスカニーニの逞しい緊張感と、
感動的な歌心がマッチして、
多くの人が、通俗名曲に数えている、
このカラフルなメロディの集合体を、
一幅の交響絵巻として繰り広げている。

私は、正直、この録音には、
まったく何も期待していなかったのだが、
これはどえらい収穫で、
台風がたくさん来たせいか、
この夏、いちばん聴いた音楽かもしれない。
戦後すぐの録音ながら、
独奏楽器の音色も美しい。

1945年9月10日という、
旧連合国側が、対日勝戦記念日(VJデー)
と呼んでいる9月2日の終戦記念の後、
すぐの録音である。

第1楽章「日の出」から、
新しい朝が来た気分が横溢し、
まるで、平和への感謝の歌のように、
どんどん高揚していく音楽に、
多くの聴衆が涙を流したのではないか、
などと妄想が湧き起る。

民間人であれば、何事もなく
戦争を終えた人もいたかもしれないが、
何十万人もの兵隊が、
アメリカでも命を落としている。

第2楽章の「赤い砂漠」も、
清冽な歌には、いささかの甘味もなく、
ただ、澄んだ情感がたちこめるが、
虚無の世界に沈んでいく。
他の指揮者では、こうはならないのではないか。

第3楽章の「山道を行く」は、
楽しくロバが行くが、
中間部で、風の流れのように鳴り響く音楽は、
はるかかなたを見つめる眼差しを感じずにはいられない。

第4楽章「日没」は、
第1楽章「日の出」と対をなす楽章であるが、
神秘的な弦楽の音色が、
単なる効果音楽としてではなく、
超俗的な雰囲気にまで高まっている。
そして、後ろ髪をひかれるようなメロディで、
痛切な響きを増し、やがて消えて行く。

このあたりがプッチーニ的な哀切を感じさせるのは、
さすが、トスカニーニならでは、と感じ入る次第。
戦争が激化する前に、グランド・キャニオンで、
アーダを思った日の事を、彼は、思いだしただろうか。

第5楽章「豪雨」は、入魂の楽章であり、
変化に富んで、一番長い楽章である。
起承転結としては、
「日没」で終わってもおかしくないのだが、
この盛り上げる終曲があって良かった。

もちろん、基本は劇伴音楽的なのだが、
危機を乗り切った後の解放感には、
カタルシスのような効果がある。

しかし、このように有名な音楽であるが、
グローフェが、どのように、この曲を作曲したかを、
書いた本を私たちは読んだ事があるだろうか。

リッチなホテルから眺めた風景なのか、
実際に山道を歩きながら見た風景なのか。
今回の試みは、ネット上に、
もう少し情報が落ちていないか、
探し出すことである。

なお、この曲のみならず、
2曲目に入っているガーシュウィンの
「パリのアメリカ人」も、
同じ意味で素晴らしい。

張り詰めた真剣勝負の雰囲気が、
聴くものの心を、どんどん吸い込んでいくような、
忘れがたいガーシュウィンである。

ただし、解説は、
どこにでも書いてあるような事しか書いていない。

b0083728_221743100.jpgちなみに、曲順は異なるが、
RCAビクターが出していたCD、
トスカニーニ・コレクション
にも、同じ音源が使われている。
この指揮者が、
大峡谷を訪れた時の写真があるし、
Made in USAの
商品ということで、
私は、きっとこの解説は、
マシだろうと考えていたが、
読んで見ると、
これまた、
たいした事は書かれていない。

「大戦中に、アメリカの音楽を沢山取り上げたが、
最も、実り豊かなものは、1945年録音の、
ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』であろう」
とか書いてあって、
トスカニーニによるガーシュウィンの演奏が、
意外に良い、ということは強調されている。

しかし、グローフェについては、
以下のような事しか書かれていない。

「1924年、ガーシュウィンは、
ポール・ホワイトマンの楽団によって初演された、
ラプソディ・イン・ブルーによって、
コンサート作品の作曲家として、
最初の大成功を収めた。
それまで、ガーシュウィンは
ミュージカルのすぐれた作曲家ではあったが、
こうした劇場のものと同様、
オーケストレーションは、
他の人に任せていた。
ラプソディに関しては、
ホワイトマンの楽団のチーフ・アレンジャー、
グローフェに委ねられた。
グローフェには当然、
自身作曲のコンサート作品があり、
最も有名なものは、
『グランド・キャニオン組曲』である。
トスカニーニは、これを1943年と
1945年に演奏している。」

たった、これだけである。
せっかく、グランド・キャニオンと、
マエストロの写真が出ているのに、
彼が、その風景の前で、どうしたかなどは、
まったく触れられていないのである。
(なお、冒頭に紹介した手紙とは違って、
この写真は11年後の1950年に撮影されたものだ。)

音としても、BMGジャパン盤の方が、
少し良いような気がする。

さて、この指揮者が、
遠く離れた恋人に手紙を書いた、
20年以上も前になるが、
マエストロの身分とは大違いの、
若くて、たいした定職もない、
流しのピアニストが、これまた、
グランド・キャニオンの日の出を見ようと、
アリゾナ砂漠をジープで横断していたという。

「私がそれ(グランド・キャニオン)
を最初に見たのは、夕暮れの中でした。
そこで前の夜から、
キャンプしようとしていたのです。
私は、その静寂の中で
魔法にかけられたようでした。
明るくなるにつれ、
鳥たちの囀りが聞こえ、
自然が命を取り戻すかのようでした。
そして突然、ビンゴ!となりました。
日の出です。
私は言葉を失いました。
何故なら、言葉は無力ですから。」

これが、作曲家グローフェ自身の回想である。
アメリカを代表的する管弦楽曲、
組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」を書いた大家が、
「ビンゴ!」などと言うとは知らなかった。

このグランド・キャニオンのキャンプは、
1916年の事だそうなので、
グローフェが24歳の頃の話となる。
こじつければ、22歳のシューベルトが、
訪れたシュタイアーの街で、
「天国のように美しい」自然に触れたのと、
ちょっと似ていて、
ちょうど100年後くらいに相当する。

ちなみに、シューベルトは、すぐに作曲したが、
グローフェは、1929年まで、
「グランド・キャニオン組曲」は作曲しなかった。

そして、さらに10年して、1939年、
トスカニーニがこの峡谷を訪れたわけだが、
1945年に戦争が終わるまで、
トスカニーニは、この曲を録音しなかった。

グランド・キャニオンの悠久の歴史に相応しく、
彼らの体験が音となってほとばしるまでには、
それなりの年月を必要としたようである。

さて、ほとんど、
この曲一曲しか知られていない、
作曲家グローフェは、
1892年に、ドイツ系の家庭、
ヴァイオリン弾きの父と、
ピアノやチェロを弾くの母のもと、
ニューヨークに生まれた、
などと書かれている伝記は多い。

その後、これは、よく知られた話であるが、
彼は、前例のないようなキャリアを積み上げていく。

14歳で学業を放棄、
牛乳配達や製本や劇場の案内係から、
歓楽街のヤバい店のピアノ弾きなど、
へんてこな仕事で糊口をしのいでいる。

しかし、もともとは、
大変、教育熱心な家庭の出だったようで、
グローフェが8歳の時に、夫が亡くなった後、
母親は彼を、何とライプツィッヒに連れて行き、
作曲を含む、様々な音楽の勉強をさせたというのである。

私が、「グランド・キャニオン」を初めて聴いたのは、
もう、40年近く前のことだと思うが、
オーマンディの廉価盤LPが出た時であった。

ただし、この曲については、
野呂信次郎著の「名曲物語」(現代教養文庫)で、
それよりずっと前から知っていて、
実際のグランド・キャニオンの眺めの紹介から、
音楽の内容の紹介までを読みつつ、
果たして、どんな曲であろうかと、
妄想を膨らませたものであった。

手軽に入手できるオーマンディのシリーズが出ると、
一番に手にしたのがこの曲であった。
恐らく、かつて渋谷にあった、
東急文化会館の中のレコード屋で購入したはずである。

「グローフェは『私の音楽は、私を育ててくれた
アメリカの生活や風物をキャンバスに音で描き出しています』
と言っていますが、組曲『大峡谷』は
見事にグランド・キャニオンの美しさを描いた音画です」
と、「名曲物語」では紹介されている。

改めて読み直してみると、
母親はライプチヒ音楽院でチェロを学んだ、
とあり、
再婚した義父が音楽を嫌ったので、
家を飛び出した、ともある。

結構、この本は、いろんな情報が
詰まっていたことに驚いた。

が、改めてウィキペディアを見ると、
父親は喜歌劇のテノール歌手とあり、
ヴァイオリニストではなかった。
一方、母親の方は、遥かにすごく、
母の父はメトロポリタンの
オーケストラのチェロ奏者、
兄弟は、ロサンジェルス・フィルの
コンサートマスターであった。

こんな一家の母親が、本当に、
音楽の嫌いな男と結婚したのかが気になるが、
この母親の名前、Elsa Johanna Bierlichで、
ネット検索しても、
彼女はロサンジェルス交響楽団の最初の女性団員になったとか、
指揮者ウォーレンシュタインの音楽の先生だったとか、
そんな話題ばかりが出てくる。

しかし、JAMES FARRINGTONという人が書いた、
フロリダ州立大学の論文がたまたま見つかった。
ほとんど、グローフェの前半生がよく書かれている。

さらに、グローフェの生い立ちのあたりを見て仰天した。
彼の母親だった女性は、かなりの人物のようなのである。

「グローフェの祖父、ルドルフ・フォン・グローフェ博士は、
音楽家ではなく、ハイデルベルク大学の化学の教授だった。
化学の分野の功績でカイザーから勲章をもらっている。
父親のエミールは、ドイツのグラウンシュバイクで生まれ、
アメリカへ移住して、ボストン市民になり、
少しは知られた喜歌劇場の歌手および俳優になった。
彼およびグローフェの母親も。
アマチュア画家でもあり、よく文章を書いた。
しかし、彼は、グローフェによると、
大変な大酒のみで、よい夫ではなく、
彼女は彼のもとを去った。
その時、グローフェはまだ生まれて数か月であったが、
その後、父親と会うことはなく、
やがて、彼が、1899年に、
ハンブルクで死んだことを知った。」

という具合に、グローフェの人生は、
生まれて数か月して、いきなり波瀾万丈だったようだ。
そもそも、実の父親もかなり問題がある。

「グローフェの母親、エルザ・ジョアンナは、
熟達したチェロ奏者で、ヴァイオリン、ヴィオラ、
さらにピアノを演奏した。
彼女の父親ともどもドイツ語、フランス語、
イタリア語、スペイン語、英語の五言語を流暢に話し、
ニューヨーク在住中は、野外ガーデンの女性オーケストラで、
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを演奏し、
1892年にカリフォルニアに、家族と移住、
ロサンジェルス女性交響楽団のチェロの首席奏者となり、
その後、ロサンジェルス交響楽団の名誉会員となった。
彼女はチェロ教室を始め、
生徒には高名なアルフレッド・ウォーレンスタインがいた。」

さらに、グローフェの生い立ち
についての記載も重要だ。

「グローフェは、1892年3月27日、
ニューヨークの第1ストリート、
第1アヴェニューと第2アヴェニューの間で生まれた。
彼の母親は、カリフォルニアに出て、
ショーンメーカー氏と結婚したが、
実家のビーアリッヒ一族も一緒に、
1892年にロサンジェルスに移った。
1900年、彼女は、その人と別れ、ドイツに移り、
自分と息子の名前をフォン・グローフェとした。」

祖父がそれなりに高名な人物だったので、
酔っ払いの方の名前を選んだのだろうか。
注釈にも、何故、旧姓に戻さなかったのか謎、
と書かれているが、「フォン」が付いた方が、
特に、ドイツでは、絶対にかっこよかろう。

「彼が五歳になると、母親は、ヴァイオリン、ピアノ、
および基礎的な楽譜用記号を教え始めた。
グローフェは音楽が好きで、レッスンを楽しみ、
リサイタルを開いたりもした。
しかし、その年齢の子供らしく、
他の事で簡単に練習は邪魔された。
彼が練習をするように、
母親が部屋に閉じ込めても、
彼は窓から逃げて、
近所の子供と遊びに行ってしまったりした。
彼は、音楽を始めてすぐ、
聖ヴィンセント・カレッジに入った。
1900年3月、エルザは、ライプツィッヒに行き、
チェロの大家、ユリウス・クリンゲルに学んだ。
彼女はグローフェを連れて行き、
夏には、ビュッテンブルク近郊の
特に温泉で知られる小さなリゾート・タウン、
ウィルドバットの親戚に預けた。」

地図を見ると、ドイツ南西部で、
フランスと接する、バイエルンの西であった。

「彼はそこのプライベート・スクールに入り、
ヴァイオリンを学び、鍵盤、和声を、
オットー・レオンハルトに学んだ。
後に、グローフェは、この鍵盤、和声の勉強を、
『指先で正しい和声を探れる』
と高く評価している。
1902年の秋、彼らはアメリカに戻り、
母親は、知られざる理由で、
ニューヨークに行ってしまったが、
グローフェはすぐにロサンジェルスに戻った。
結局、彼女もカリフォルニアに戻り、
1904年に3回目の結婚をしたが、
おそらく職業的な理由から、
名前を変えることはなかった。
彼女の新しい夫、ジェームズ・B.メナスコは、
前の結婚で、
2人の息子と2人の娘の4人の子供連れであった。
グローフェは新しい家族とうまくやれず、
1906年の4月、祖父母の家に移った。
彼は、この時、第7グレードを終える直前に、
学校に行くのもやめてしまった。」

ということで、
先に述べた、いろんな伝記の切れ端は、
かなり修正が必要であることが分かった。

私は、ライプツィッヒから逃げたと思ったが、
単に、よくある話で、家庭の事情で、
不登校になったということだろう。
有能な音楽家であった、
祖父の指導も受けられる立場であったわけだ。

が、興味深い事実も、
この論文には出ていた。

「グローフェは、祖父の家で、
ピアノの練習だけはさせて貰えなかった。
祖父は、非常に繊細な耳を持っており、
ピアノの狂った調律に耐えられず、
特に高音が、彼には激しいストレスになった。
そこで、グローフェは、
近くの、ジュリーおばさんの家に行って、
ピアノを練習した。
その家の皆はアマチュアの音楽家で、
しばしば即興で合奏をしたし、
ユリウスおじさんは、
素晴らしい楽譜の蔵書を持っていた。」

つまり、祖父母のみならず、
一族を上げて、助けられた感じであろう。
これは、恐ろしく恵まれた環境だった、
と言わざるを得ない。
1908年頃、つまり、16歳頃から、
作曲を始め、ジュリーおばさんの家で、
自作の室内楽を演奏していた。

が、母親は、グローフェが、
絶対、父親同様、アル中になると信じていて、
彼が、エンジニアになるように望んでいたという。

しかし、祖父の指導もあって、
彼は、オーケストラのヴィオラ奏者としても活動、
母親の教室で教えるようなこともしたようだ。
その間、ピアノの勉強もして、劇場で弾いたりもしている。

グランド・キャニオンでキャンプした頃、
1916年の彼の一日が紹介されていて、
いかに、彼が活動的な音楽家であったかが、
紹介されている。

「朝:交響曲のリハーサル
 ランチタイム:ブルーバード・インで演奏
 午後:映画館で演奏
 夕食時:ゴッドフライ・カフェで演奏
 9時から:クラブで演奏。」

だが、ここには、残念ながら、
グランド・キャニオンでのキャンプの話はない。

1915年に彼は、ダンサーと結婚し、
1917年には、インフルエンザの流行で、
ロスでの仕事がなくなり、
仕事を探しに、アリゾナに行ったりしている。
彼は、演奏家としてだけでなく、
編曲でも稼ぐようになり、
ポール・ホワイトマンとの仕事を始め、
1920年にはガーシュウィンと初めて会っている。

ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を
委嘱、初演したことで有名な、
ポール・ホワイトマン・バンドであるが、
この論文では、彼らのが、成功し、
ものすごい社会現象になったことを詳述している。

例えば、「シンフォニック・ジャズ」といった、
「批評家が、どう呼んで良いか分からないような、
個性的な音楽」(グローフェ)の確立などに、
グローフェがいかに重要な役割を演じたかが分かるが、
(たとえば、ラプソディー・イン・ブルーには、
グローフェのアイデアがたくさん入っていることなど)
97ページの大著を読み込んでいては、
なかなか、トスカニーニの話にならないので、
非常に面白いのだが、どんどん読み飛ばす。

グローフェ自身、トスカニーニが、
「グランド・キャニオン」を振った時が、
人生のハイライトの一つだと語っているが、
トスカニーニは、何故、これを取り上げたかを聴かれ、
「音楽には、良いのと悪いのと、二つがあって、
これは良い音楽なのです」と答えた、
というエピソードが記されている。

この論文では、グローフェが大峡谷を、
初めて訪れたのは、1916年ではなく、
1917年だとしている。

そして、グローフェが、
上述のアリゾナに行く際か、
そこから帰る際に立ち寄ったのではないか、
と書かれている。
一緒にいたのは、
郡の保安官(シェリフ)だった友人だとある。

「あるインタビューでは、グローフェは、
この曲の作曲を、1922年に、
アリゾナのキングマンで、
休暇を取っていた時に思いついたという。
グローフェは後に、
グランド・キャニオンをもとにした作品は、
ホワイトマンが英国に行っている間の、
1926年の休暇に、最初に思いついた、
とも言っている。
それにも関わらず、作品のスケッチは、
1929年まで、紙に残されることはなかった。
グローフェは当初、
峡谷の日の出から日没を描いた、
4楽章の作品にしようと構想した。
ある楽章は、「ホピ族のインディアン」と題され、
他の楽章は、赤い砂漠や、石の森といった、
峡谷を囲む、他の自然の驚異を描くはずだった。
『山道を行く』は、グローフェ自身は、
歩いた事はなく、
コロンビア・レコード、
ホワイトマン担当録音マネージャーの、
エディー・キングから、
グローフェが提案されたものである。
『日の出』は、1929年の秋、
グローフェがハリウッドにいた時、
次に書かれた楽章は『日没』で、
翌年の夏に書かれた。
この楽章のアイデアは、
グローフェが、ニュージャージーの、
ハッケンザック・ゴルフ・クラブの、
第9ホールにいた時に見た日没から着想され、
彼は、その場で書き下ろした。」

「『赤い砂漠』が、何時書かれたかは、
正確には分からないが、
ホワイトマンが作品完成を促した後、
『山道を行く』と共に、
1931年の夏に書かれた事は明らかである。
終楽章の『豪雨』は、
11月22日の演奏会の2週間前まで、
着手されていなかった。
ホワイトマンのアドバイスで、
グローフェは、ウィスコンシンのティペア湖に、
チャーリー・ストリックファーデンと、
作品を完成に専念するために2、3日滞在した。
彼はすでにプログラムを構想しており、
シュトラウスの『アルプス交響曲』や、
ベートーヴェンの『第6』、
ロッシーニの『ウィリアム・テル』など、
オーケストラによる
様々な嵐の情景を研究していたが、
まだ、何も書いていなかったのである。
彼らが、湖に着いた日、
嵐が起こり、最終的にグローフェに、
この特別な情景への霊感を与え、
コンサートの6日前に、
スコアを仕上げることが出来た。」

この後、グローフェはホワイトマンの楽団を辞め、
「グランド・キャニオン」のシカゴでの演奏計画に、
横やりが入るなど、確執を深める様子が語られるが、
気が滅入る内容である。

このあたりで、この論文は終わっているが、
グローフェは、これから40年も生きているはずだ。
そして、この時、グローフェは40歳だった。

これまで読んできた感想としては、
仕事人間グローフェという感じである。

「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれた、
華のあるホワイトマンと別れ、
夭折の天才ジョージ・ガーシュウィンが亡くなり、
グローフェの人生は、
何となく、無味乾燥なものになったように見える。

あとは、自作の指揮や教育の仕事ばかりである。

なお、戦前のアメリカの音楽界で、
重要な役割を演じた、この二人の隙間風には、
ポール・ホワイトマンの当時の奥さん、
マーガレット・リビングストン
(無声映画時代の女優)
が絡んでいたようだ。
彼女は、楽団の運営に口出しし、
グローフェのやり方にも干渉を始めたのである。

なお、このCDには、バーバーの「アダージョ」の、
しみじみとした演奏があって、
スーザの行進曲など騒がしい音楽が続く。

得られた事:「音楽には、良いものと悪いものの二つがあって、『グランド・キャニオン』は良い音楽だ、とトスカニーニは考えた。」
「この曲の演奏には、この指揮者の強みとなった表現力の魔法が圧縮されており、第二次大戦終結直後の激しい感情の振幅までが記録されているようだ。」
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by franz310 | 2014-09-27 22:20 | 現・近代
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