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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その394

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その394_b0083728_21123042.jpg個人的体験:
バルビローリは、
シューベルトの音楽を、
実際、我々が知っている以上に
大切にしていたようである。
「コロンビア・マスターズ」として、
まとめられた1940年前後の、
彼の録音集にはないのだが、
コロンビアでの録音を始める前の、
「ビクター・レコーディング」には、
その「第4交響曲」があって、
「ドイツ舞曲」D90も、
別のCDだが聴くことができる。


10分に満たない小品集ではあるが、
バルビローリは、この曲が好きだったようで、
ニューヨーク・フィルで、
「シューベルトの夕べ」を特集した時は、
この曲で始め、「大ハ長調」で閉じている。

「ビクター・レコーディング」の、
このCDの表紙は、前回、紹介した、
シューベルトの「第4」が入ったものと、
あまり大きくは変わらないデザイン。
前のが黒基調に赤だったのが、
赤基調に黒になっただけの感じ。

ただし、The Victor recordingsと書かれた、
メダル型のアイコンが付いている所が違う。
ただし、こちらの方は、やっぱり出そうか、
という感じで付け足しで出て来たものに見える。
製品番号が19も離れているし、
発売時期も3年も違う。

ここでは、おそらく、レスピーギの
「ローマの噴水」がメインの曲目であるが、
表紙には堂々と、それに並んで、
シューベルトの名前が見える。

あと、付け足し的に見えるのは、
最後にクレストンとメノッティという、
アメリカの作曲家の作品が、
こっそり収められているからで、
1939年までに行われた、
一連のビクター・レコーディングとは、
明らかに違う出所のもので、
1942年あたりの録音、とあって、
バルビローリのニューヨーク時代最後期であるらしく、
データ的にも心もとないものである。

「何となくミステリー」と書かれていたりする。
バルビローリ協会のメンバーが持っていた、
78回転シェラック
(当時のレコード素材で虫から取ったとされる)
からの復刻で、アメリカ戦争情報局が、
海外派遣された軍人用に作ったものとされる。

受け入れられやすい音楽が選ばれたようで、
Track17.ポール・クレストンの「哀悼歌」は、
静かなゆっくりとした、10分半の、そこそこの規模の音楽。
この時代に相応しい悲しさとはかなさと安らぎが感じられる。
途中、泣き節や、打楽器による緊張感もあって、
バルビローリに相応しく、かなり聴きごたえがある。
ハープが刻む終結部もおしゃれである。

Track18.メノッティの「老女中と泥棒」序曲は、
3分ほどの小品だが、題名に相応しく
楽しく、リズミカルな音楽で、爽快である。
バルビローリが同時代の作曲家を大事にした証拠。
これらの作品が聴けることも、
このCDの価値を上げている。

Track1~4は、レスピーギの「ローマの噴水」。
むしろ、トスカニーニが得意にしていそうな音楽だが、
これがまた、まったく悪くない。

1939年2月録音という、
ものすごく昔のものであるが、
多少、ざらざら感のある経年劣化は、
仕方ないが、このレスピーギのみずみずしさには、
妙に心を引き寄せられる。

ぴちぴちと弾ける楽器群の心のこもった雰囲気、
バルビローリならではの、優しさが感じられる、
丁寧かつホットな語り口のおかげであろう。

Track4の「黄昏のヴィラ・メディチ」の噴水の、
忘れがたい寂寥感のあたりまで来ると、
黄昏を追い求めるように、
この演奏が終わらないで欲しいという感じになる。

Track5.レスピーギの「古代のアリアと舞曲」、
第3番より、第2曲「宮廷のアリア」の、
たっぷりとした情感も美しく、
ここでは、弦の優秀さがよく分かる。

この昔日の回想の念は、バルビローリにぴったりで、
まるで、エルガーの音楽を聴くようだが、
「ローマの噴水」ともども、復刻されて良かった。
しかし、何故、全曲録音してくれなかったのか。

Track6-11は、
バルビローリ編曲のパーセルに基づく、
「弦楽、ホルン、フルート、コールアングレのための組曲」。

この手の古い音楽の編曲ものは、
バルビローリが実演でもよく演奏していたもので、
「エリザベス朝組曲」など共々、多くの録音がある。

これまた、懐旧の音楽で、ものすごい慟哭のような、
低音弦から始まる。

Track6.情念の弦楽の渦に、ホルンが気高く響く。
「ほどかれたゴルディウスの結び目」という劇音楽の序曲。
バルビローリは、これでもかこれでもかと、
マエストーソの地鳴りを引きずり、
主部の壮麗なアレグロに続けるが、もとは、
アレキサンダー大王の故事に由来する劇らしい。

Track7.「高潔な妻」という音楽からの
メヌエットで、フルートのひなびた響きが印象的だが、
悲しい情緒に満たされている。

Track8.「アーサー王」からの、
アンダンティーノで、物思いにふけるような音楽。

Track9.「アブデラザール」の「エア」による、
アンダンティーノ・ジョコーソで、
ようやく、楽しげなリズムになるが、
雲が晴れることはない。

Track10.3分半もかけ、
ものすごくゆっくりと奏される
「ディドとエネアス」のラメント。
「ラルゴ」と題され、コールアングレが、
喪失感たっぷりの響きで立ち上がって来る。

Track11.「アーサー王」からの「アレグロ」。
いかにもバロック期の組曲で、
弦楽や金管が活発に活躍する対位法的な終曲。
が、1分ちょっとで、ばーんと盛り上げて、
名残惜しそうに終わる。

この曲は、ハレ管弦楽団との、
ステレオによるスタジオ録音があるが、
これは1969年という
録音の良さも相まって、
広がりや空気感に満ちた、
ものすごく雰囲気豊かな名品となっている。

バルビローリの最晩年ということもあって、
必聴の名演であるが、この時期の、
張り詰めたバルビローリの心境を、
1938年のニューヨーク盤に聞き取るのも、
あながち間違いではなさそうな気がする。

前回の「コロンビア・マスターズ」のCD解説は、
素晴らしく充実しているが、
そのため、前に紹介した部分は途中までであった。

今回は、このビクター・レコーディングスについて、
関係しそうな内容も出てくるので、
残りの部分を紹介しよう。

その解説は、「桂冠指揮者、バルビローリ」という、
1971年の本から採られた内容で、
2003年に著者ケネディが書き直した模様。

まだ若かったバルビローリが、
神格化されつくした巨匠、
トスカニーニの後釜として、
ニューヨーク・フィルの指揮者になったのは、
彼が考えていた以上に恐ろしい責務だった。

様々な陰謀があって、いろんな噂が飛び交う中、
彼は、追い詰められていく。
そんな話の途中であった。

「彼のいつもの不安の中、
長く何もできない期間の後、
バルビローリはようやくシーズンにこぎつけた。
『最初のリハーサルを待ちわび、
私に残される音楽があるのだろうかと考えると、
いつも心配でたまらない。』
彼は、落ち込みの周期的発作にかかっていた。
『しかし、僕はこの仕事の中に慰めを求めた』。
このシーズンを通して彼は不眠症に悩み、
その手紙はしばしば朝の3時と記され、
6時に書かれることもあった。
眠れない時間、指揮の練習をしたり、
スコアに書き込んだりして過ごした。
『コンサートには有り余るエネルギーがあるが、
僕は精神的に疲れ果てた』と、
イブリンに書いている。
ホワイトハウスにおける、
ルーズヴェルト大統領との夕飯や、
ピアストロ、コリアーノ、
プリムローズらとの四重奏で、
アメリカで最初にチェロの腕を披露した、
ニューヨークの紳士会、ロータス・クラブでの、
12日節の前夜祭で彼の栄誉をたたえる晩餐会など、
楽しいものもあったが、社交界での活動が多すぎた。」

このあたりも、かなり、私としては、
読んでいるだけで、彼が気の毒になった部分である。

はたして、このような、いかにもチャラい世界に対し、
気難しい老人だったトスカニーニは、
どう接していたのだろうか。
あるいは、バルビローリは、
それよりはまだまし、という感じで、
ちやほやされることもあったかもしれない。

「彼は、ほとんど何も言っていないが、
トスカニーニとNBC交響楽団に対し、
ライヴァル意識を常に持っていたはずである。
特に、共にベートーヴェンの『第5』を、
連続して演奏するようになったシーズンの初めにおいては。
批評家のハーバート・ラッセルは、
バルビローリを賞賛したが、
ミュンヘンを意識して、こう付け加えた。
『英国にもまた、こうした勝利がどうしても必要だ。』
バルビローリのすぐあとに、
トスカニーニが同じ作品を指揮することは、
よく言われることであった。
フィルハーモニックのプログラムは、
当然、NBCの十分前に決められて印刷されていた。」

これなどは、何じゃこりゃの裏話である。
いくら、バルビローリにその気がなくとも、
トスカニーニ(というか、NBCの経営層)側が、
こんな事をしかけて来たのなら、
自然と、世の中は、そういった目で見るようになるであろう。

「こうした陰謀は続いたが、
ジョンには効かなかったように見える。」
と、解説は続くが、
そこまであからさまであったのかは、
疑問を持っても良いかもしれない。

「彼は、何よりも、オーケストラと聴衆と良好な関係にあり、
そして2月、次の年の契約が始まると共に、
彼は、イブリンに書き送った。
『昨日、重役会議で満場一致で、
私の契約が終わっても、
さらに何年かの再契約となることに、
熱狂的な賛同を得た。
A.J.は、5年契約にも出来た、
と言っていた。』
マージョリーとの離婚届は、
1938年12月5日に承諾されていて、
翌年の6月に実効となり、
イブリンをニューヨークに呼び寄せての
結婚生活に向けて集中することが出来た。
『僕は自分にたくさん欠点があることを知っている』
と彼は書き、
『しかし、僕が考えているある事が分かれば、
時々、気難しくなる事も分かって貰えると思う。
誰かを傷つけることも恐れている。
僕は公的な生活の中で一種のサイの皮で自分を武装し、
悪意や無知や羨望の矢を受け止めて来た。
しかし、それらはすべて痕を残しているんだ。』
彼は、そのオーケストラについても付け加えている。
『僕は、Tや他の人たちに指導されて、
こんなにも冷酷になっていたアーティストたちが、
今や、その才能と人間性に輝いていることを、
誇りにも思う。
後世の人が、僕の音楽家としての価値を判断するだろう。
しかし、むしろ、僕がここに来たことで、
彼らの演奏の基準を保つのみならず、
彼らに優しさや幸福の感覚を与えられたことを、
僕はむしろ感謝しているのだ。』」

このように、バルビローリは、
トスカニーニを意識し、さらには、
巨匠との違いを、
「a conception of kindness and happiness」
だと認識して、言葉にしている点に驚いた。

我々が、何となく考えている、
音楽に対して、一点もゆるがせにしない、
妥協なき暴君、トスカニーニのイメージは、
当時のものとあまり変わっていない、
という事であろう。

もし、若手の指揮者が、そんな先輩に対抗するとすれば、
やはり、「優しさや幸福感」を、
そこに追加して差を出そうとするだろう。

が、冒頭に書いたように、
このような戦略のせいか否か分からないが、
歴史解釈は、トスカニーニ以降の時代を、
ニューヨーク・フィルの低迷期と位置付けた。

オーケストラの楽員の幸福感は、
もろ刃の剣でもある。
うまくすれば、それが音楽に現れて、
聴衆をも幸福にするだろうが、
うまく行かない時には、
単なるぬるま湯体質の温床となる。

「優しさ」などとなると、さらに危険である。
「厳しさ」の欠けた、甘い団体になってしまうと、
せっかくのトスカニーニの遺産を台無しにしてしまう。

もちろん、バルビローリの後、
トスカニーニ路線の再来のようなロジンスキや、
振り子が戻るように、音楽の殉教者、
ミトロプーロスの時代が、
ニューヨーク・フィルにはあった。

「1939年3月、シュナーベルを独奏者として、
オーケストラをボストンでの演奏会に率いて行った。
『ボストン・ポスト』は、この指揮者に率いられた、
フィルハーモニックを祝福した。
『安心感、安定、揺るぎなく、全般的に満足を、
今や、人々は彼の中に感じる』。
これは、ダウンズが、3月23日に、
エルガーの『第2交響曲』に対して、
『長くて壮大でブルジョワ風。
それは、ソファーカバーや、婦人帽の、
ポークパイ・ボンネットの時代の、
満足と退屈を反映したもので、
後期ロマン派の大げさなオーケストラ様式と、
センスの悪さに突き動かされたものだ』。
もし、バルビローリに、
ダウンズを嫌う理由がなかったとしても、
これだけで十分だっただろう。
ダウンズは、ニューヨーク万国博覧会の
音楽監督であって、ジョンはイブリンに、
喜んで報告している。
『4月30日、日曜日、
万博オープンをオーケストラで飾ったが、
(前日のコンサートで疲れていたが。)
これは嬉しかった。
ダウンズの野郎は、
ストコフスキーとフィラデルフィアで
やりたかったみたいだからね。』
ダウンズがバルビローリに宛てた手紙は、
一つだけ残っていて、
万博のためのプログラムのもので、
最後に、『あなたの完璧なバトンさばきに』
とお世辞で終わっている。
それ以上のことはなく、
彼は、おそらくそう感じたのだろう。」

この1939年の春の出来事に先立って、
バルビローリは、ビクターへの最後の録音を行っている。

1939年2月21日のレスピーギとシューベルトである。

「彼は、6月に英国に戻って、7月5日、
ホルボーン・レジスター・オフィスで結婚式を挙げた。
ジョンは39歳、イブリンは28歳だった。
花婿付添人はトミー・チェーザムで、
スコティッシュ・オーケストラの、
ランカスターの同僚だった。
セレモニーの後、
ゲストはパガーニのエドワード7世の部屋で昼食をとり、
ロッティンディーンで一夜を過ごした後、
ノルマンディーへの新婚旅行のため、
ニューヘブンからディエップに渡った。
5年後には、血なまぐさい戦闘が繰り広げられる街を、
彼らは訪れ、滞在したが、そこで、何よりも、
カルバドスというリンゴ酒の効用を発見した。」

このあたりは、あまり、音楽とは関係なく、
地名も列挙されてややこしいが、
1939年の7月を挟んで、
前のシーズンには、先のCDに収められた、
ビクターへの録音があり、
その年の秋、11月には、
チャイコフスキーの「第5」などの録音がある。

ここでトスカニーニとの関係を思い出せば、
トスカニーニは、チャイコフスキーは、
交響曲でいえば、
「悲愴」と「マンフレッド」しか、
興味を示さなかったと言われている。

「彼は、その頃、ヴェネチアの指揮者、
ジョルジオ・ポラッコと親交を結んでおり、
彼がコヴェントガーデンにいた時、彼らは初めて会い、
ポラッコは、国際シーズンのレギュラー客演であった。
バルビローリが『蝶々夫人』のリハーサルをしていると、
偶然、ポラッコが居合わせて、
この若手の仕事ぶりに感銘を受けて、
最後まで聞きとおしていた。
ジョンの方は、ドビュッシーのペレアスを指揮する
ポラッコに魅了され、それを理想とした。
今回、シカゴでの仕事を引退して、
ポラッコはニューヨークに来たので、
彼らは再び交友をはじめ、
コンサートの後はイブリンとジョンと3人で、
イタリアレストラン『ママ・ブロンゾズ』で、
演奏について論じるのであった。
ポラッコは、必要な時には、
決して無批判ではなかったが、
ジョンを勇気づけ、自信を取り戻させた。
他に、信奉者のような友人としては、
テオドール・スタインウェイとその妻など、
ピアノ会社を運営していたスタインウェイ家があった。」

このあたり、かなりのバルビローリ気違いでないと、
どうでも良い内容であるが、
傑出した先輩指揮者が、バルビローリの若い頃から、
一貫して、バックアップしてくれていた、
ということは、覚えておいても良いかもしれない。

ポラッコは1875年生まれというから、
バルビローリより24歳年長で、
1939年といえば、64歳。
トスカニーニより10歳若いが、
引退してもおかしくない年の大先輩にあたる。

「ジョンは、ニューヨーク在住の
チェコの作曲家、ワインベルガーが、
(バグパイプ吹きのシュワンダの作曲家)
献呈してくれた新作の研究にも没頭していた。
これは、『古い英国の歌による変奏曲』で、
ジョージ6世がボーイ・スカウトで、
『大きな栗の木の下で』という歌を、
ジェスチャーを交えて歌っていた
ニュース映画を見て、霊感を受けたものであった。
『10月8日、午後10時45分:
私は、ワインベルガーのフィナーレに、
チューバを加筆したところだ。
金曜日に会った時に、
彼にこのことを言うと、
どんな風に響くか知りたいと言った。
それから、ちょうど、
明日、オーケストラに言うべき言葉を思いつき、
それを書きつけたところだ。
私たちはいかなる国籍、信仰にあろうとも、
太陽の下に生きている。
音楽を奏でるという、
ただ一つの目的のために、
カーネギーホールにいる、
ということが分かって欲しい。
そこでは、いかなる政治的な議論も許さない。』
『変奏曲』は、10月12日、
第98回フィルハーモニック・シーズンの
オープニングに初演された。
ハワード・タウブマンによれば、
『新鮮に、否応なく乗せられる、
アクセントと輝かしさで演奏された。
聴衆は歓呼した。』」

このワインベルガーの曲は、私は聴いた事がない。

さて、1939年の秋冬の話となる。
下記のようにあるから、
バルビローリのニューヨークでの
正式契約は、1937年からのようだ。
1936年にトスカニーニが辞任し、
その秋からは、前に紹介した、
モーツァルトやベートーヴェンの
交響曲の録音が残っているが、
これは、正式契約前と言うことになる。

「バルビローリの当初の契約の、
第3シーズンは、多彩な魅惑的な、
今日では、垂涎ものの演奏会が並んだ。
アメリカ作品が再び前面に出て、
バーバーの『弦楽のためのアダージョ』の、
フィルハーモニックにおける最初の演奏、
バーナード・ハーマンの
カンタータ『白鯨』初演は、
作曲家と指揮者の長い友情の始まりとなり、
マクダウェルのピアノ協奏曲第2番、
フライハンの『協奏交響曲』、
サンダースの『小交響曲』、
ギルバートの『ニグロの主題によるコメディ序曲』、
その他があった。
他に珍しいもの、または知られざる作品では、
ウォルトンの『ポースマス・ポイント』、
カステルヌオーヴォ=テデスコのピアノ協奏曲、
ディーリアスの『ブリッグの定期市』、
ブリスのダブル協奏曲、
ヴォーン=ウィリアムズの『ロンドン交響曲』、
ショスタコーヴィチの『黄金時代』バレエ組曲、
ドホナーニの『女道化師のヴェール』バレエ、
交響的小品集作品36などがあり、
このシーズンの他のハイライトとしては、
『シューベルト・コンサート』、
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第1、第2組曲、
ヘレン・トローベルとの『ワーグナー・コンサート』、
これは、9月に亡くなった批評家、
ローレンス・ギルマンの思い出に捧げられた。
ドビュッシーの『サクソフォン・ラプソディ』、
イベールの『サクソフォン協奏曲』、
フランチェスカッティの弾くパガニーニの協奏曲、
クライスラーは論議を呼んだ版による、
チャイコフスキーの協奏曲、
フォイアマンで、ハイドンのニ長調協奏曲、
メニューインでベートーヴェンの協奏曲、
シベリウスの第2交響曲
(1940年1月14日、
バルビローリはこの時、
チェロを右、全ヴァイオリンを左にした)、
ブルックナーの第7交響曲、
(ほとんどニューヨークの全批評家が完全に誤解した)
ラフマニノフを独奏者にしての、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。
この曲はラフマニノフが演奏した、
唯一のベートーヴェンのピアノ協奏曲で、
彼は、ジョンにこう言ったとされる。
『他のはピアニストにとって退屈だね。』
ミシェル・ピアストロを独奏者にしての、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、
イブリン・バルビローリの回想では、
素晴らしい演奏だった。
ブライロフスキーとのショパンの、
ホ短調ピアノ協奏曲、
ロザリン・テュレックとの第5協奏曲。
ホロヴィッツとのチャイコフスキーの変ロ短調協奏曲は、
ダウンズも完全に兜を脱ぎ、
ルドルフ・ゼルキンとは、ブラームスのニ短調協奏曲を演奏した。」

ということで、1939年のシーズンの、
一つの目玉のように書かれているのが、
「シューベルト・コンサート」である。

冒頭にも書いたように、
このコンサートの最初に演奏されたのが、
シューベルトの「5つのドイツ舞曲と7つのトリオ」D90
である。

バルビローリは、1939年にも
1月4日に、同様のコンサートをしていて、
この曲、「第4」、「第9(大ハ長調)」を演奏しているが、
何と、1月7日にも、この曲、
さらに「ペレアス」の組曲、
ブスタボ独奏で、シベリウスの協奏曲を連ねた演奏会があった模様。

1940年の1月21日が、この解説にあるコンサートだろうが、
ここでは、上記の演目のうち「第4」が、
シューベルトの「第2」に変えられたものが演奏されている。

バルビローリ指揮のシューベルト、
「第2交響曲」もあったのである。

さて、このCDのTrack12-16が、
「5つのドイツ舞曲」だが、
ドイッチュ番号が90とあるように、
シューベルトがまだ若い時期の作品。
トリオの数が多いのは、最初の舞曲などに、
2つのトリオが含まれているからである。

この曲、舞曲こそ、はつらつとしているが、
各曲に挟まれたトリオの気だるい情緒は、
典型的なウィーン風で、
これが、むせかえるような表現で、
むしろ、舞曲の部分は言い訳で、
トリオのねっとり、むらむらの情感が本質なのかもしれない。
いや、絶対、そうだ。
うっとりした男女の眼差しが見えるような音楽。
最後は、後ろ髪を引かれるような切なさで、
消えるように終わる。

こうした音楽は、シューベルトの若い頃の音楽として、
はやくから知られていたようで、
1831年のディアベリによる目録にも、
1814年の作品として整理されている。
1813年という説もあるが、
シューベルト17歳前後の作品で、
アインシュタインなどは、「考察外」と書いたが、
バルビローリはよく取り上げてくれた。

得られた事:「シューベルトが若い頃に書いたドイツ舞曲(D90)は、むしろ、トリオの悩ましい表情に青春の火照りが感じられる。」
「ニューヨーク時代、バルビローリの得意のプログラムにシューベルトの夕べがあった。」
「ニューヨーク・フィルとNBC交響楽団の関係は、ほとんど現代のビジネス書を読むようで、バルビローリは、トスカニーニ陣営の様々な攻勢に、不眠症になりながらも、仲間と一致団結し、音楽に集中した。」
by franz310 | 2013-11-23 21:15 | シューベルト
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