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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
ICELANDia
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その391

b0083728_22293623.jpg個人的経験:
シューベルトの
6曲の初期交響曲は、
いずれも、ハイドンや
モーツァルトに倣った
一律に素朴な作品として、
一括して語られる場合が多い。
しかし、そうした傾向は、
比較的、近年になっての
認識のようで、
20世紀も前半は、
各曲の違いも、今よりも
良く認識されていたようだ。


碩学アルフレート・アインシュタインは、
たとえば、「第6交響曲」などの、
いくぶん変な感じを指摘しながら、こう書いている。

「『悲劇的』シンフォニーや
親しみのある変ロ長調シンフォニーならば
甘んじて取り上げるような
指揮者たちのあいだでさえも
ひどく嫌われている。
それもふしぎではない。
このシンフォニーは
彼らに反感を起こさせるのである。
それはどんな型にも当てはまらない。」

「甘んじて取り上げる」という表現が、
シューベルト・ファンには苛立ちを禁じ得ないが、
確かに、アインシュタインがこの本を書いた、
1940年とか50年という時点では、
シューベルトの交響曲の受け入れられ方は、
微妙なまだら模様の分布であったと思われる。

まず、「甘んじて取り上げる」指揮者の一例、
に見える(実際にはそうではないと思う)
のがバルビローリである。

彼は、1936年から43年に、
トスカニーニの後任として、
ニューヨーク・フィルを率いたが、
その正規のスタジオ・レコーディングの中に、
シューベルトの「交響曲第4番」が含まれている。

このCDは、若き日のバルビローリの、
ぱりっとした蝶ネクタイ姿が載っているだけの、
あまり凝っているとも思えないデザインのものだが、
時代を感じさせるフォントで書かれた曲名や、
赤と白と黒でまとめられた印象は、
そこそこかっこいい。

「ビクター・レコーディングズ」と、
右下に書かれていて、
1938年から39年のものが入っている。

バルビローリによるシューベルトの「第4」は、
ベートーヴェンの同じ「第4」並みに、
ゆっくりと演奏された神秘的な序奏からして、
聴くものの心を捉えてやまないものだ。

Track7.第1楽章:
ハイティーンの若造が、
しかめっ面して書いたような、
青臭い音楽として片づけられるような、
この部分に、全身全霊を傾ける指揮者を、
いままで聴いたことがあっただろうか。

主部に入ってからも、
様式的な「疾風怒濤」ではなく、
バルビローリは、細部にまで血を通わせて、
ものすごく説得力のある演奏を繰り広げている。

ポルタメントをかけて舞い上がる、
めくるめくメロディに、
襲いかかる低音の迫力は、
実演で聴いたら、卒倒しそうな生々しさがある。

Track8.
第2楽章の美しい田園風景の中の安らぎも、
何で、こんなに切なく演奏するのか、
と言いたくなるくらいに心を揺さぶられる。

ニューヨーク・フィルのメンバーも、
神妙に、その音楽を奏で、
聞き入るほどに、
恐ろしい喪失感すら感じられてしまう。

中間部の木管の呼び合う様も、
まるで、ベルリオーズの交響曲さながらである。
慟哭するような低音弦の存在感もすごい。

繰り返し戻って来る主要主題が歌われる時の、
カンタービレの切々たる風情は、
他で聴いたことはなく、
あるいは、戦争によって、
消えてしまった様式かもしれない。

録音時間の制約が大きかったであろう、
この時代の録音なのに、
たっぷりと引き伸ばされたこの音楽は、
録音技師を困らせなかっただろうか。

Track9.第3楽章:
軽妙な音楽で、マーラーさながらに、
グロテスクな舞曲となっている。
確かに、このように演奏されると、
バルビローリがこの曲を演奏する必然性まで、
納得されてくるではないか。
トリオは、特別、特徴はないが、
このような速いテンポで、
ごつごつと演奏されるメヌエットは、
マーラーが、この交響楽団に伝授したのではないか、
などと考えてしまうほどである。

Track10.
この終楽章も個性的な音楽である。
耐え忍んで、透徹に突き進む音楽で、
「悲劇的」など何のその、
と言わんばかりに、
ものすごくダンディで、いかしている。

青白いインテリ青年の、
妄想の文学趣味みたいな書かれ方をしてきた、
別の意味で「悲劇的」なこの交響曲に、
決然とした意志が見て取れる。

そこここに明るさを増してくる、この終楽章に、
きらきらと祝福するような音が飛び交うのに、
見向きもせず、ひたすら突き進む潔さに、
この時代のバルビローリの決意を見るような気がする。

最後の和音も、それを確認するかのように、
どーんどーんと打ち付けられている。

シューベルトの他に、チャイコフスキーの
「フランチェスカ・ダ・リミニ」(Track1~3)と、
ドビュッシーの「イベリア」(Track4~6)が、
このCDには収録されている。

チャイコフスキーは、美しいところと、
騒がしいところが、雑然とした作品で、
あまり録音も多くないと思うが、
バルビローリの演奏は、
起承転結がしっかりしている感じで、
どんどん聴かされてしまう。

しかし、1938年の録音と言えば、
マーラーの「第9」を、
ワルターがウィーンで演奏した記録が有名だが、
曲の違いで当然というべきか、
さすがアメリカの録音だということか、
妙に、明るい音色なのが印象的だ。
第2部の嫋々たるカンタービレが泣かせる。

ドビュッシーの「イベリア」は、
色彩感勝負の曲で、
この時代の録音はきついはずだが、
よくぞここまで粒の立ったリズムの空気感まで捉えた、
と言いたくなるくらいに、聞きやすく復刻されている。

バルビローリの息づくような音楽づくりで、
わくわくするような高揚感が得られる。

チャイコフスキーも、
ダイナミック・レンジからすれば、
絶対、無理のはずなのに、問題なく楽しめた。

それにしても、
ニューヨーク・フィルのシューベルト!

これは、ワルター晩年の「未完成交響曲」に、
酔いしれた経験のあるものなら、
ことさら、感慨深いものではないだろうか。

そのワルターの「未完成」と同様に、
このバルビローリの「悲劇的」は、
確固とした存在感で、私の中に刻み込まれた。

ワルターは、彼のための録音用のオーケストラ、
コロンビア交響楽団とのステレオ録音の
LPシリーズが有名であったが、
その中にあって、何故か、「未完成」だけが、
名門ニューヨーク・フィルとの演奏であった。

今回聴いた結果、
ひょっとすると、
ワルターのシューベルトというより、
ニューヨーク・フィルのシューベルトが美しいのではないか、
などと思えるほどである。

ワルターの「未完成」よりも、
20年も前の戦前の、
ニューヨーク・フィルではあるのだが。

まだ30代であった、若いバルビローリは、
この楽団にも、聴衆にも、期待されたのであろう、
常任指揮者となって、すぐに、
多くの録音が残されている。

ただ、戦争の時期に重なってくるため、
ほとんど、これらの録音は、CD化されるまで、
日本で知られることが少なかったものだ。

1970年代に出された、「レコード芸術」付録の
「オーケストラWHO’S WHO」
でも、この楽団について、
1922年からのメンゲルベルク時代、
1928年からのトスカニーニ時代を、
「第1期黄金時代」と呼んでおり、
37年から42年までのバルビローリ時代、
43年から47年までのロジンスキー時代、
47年のワルターの音楽顧問、
49年からのミトロプーロスとストコフスキー、
51年から57年のミトロプーロス時代をすっ飛ばし、
58年からのバーンスタイン音楽監督時代を、
「第2期黄金時代」と書いてあるほどである。

これでは、バルビローリが、この名門オーケストラを、
へなちょこにしてしまったような感じばかりが残る。

が、私が持っているもの(()以外)だけでも、
バルビローリ協会は、この楽団とこの指揮者の、
出会いの幸福さを象徴するかのように、
多様な録音群をCD化している。

バルビローリが、着任早々、
かなり着目されて、ライヴ録音までが、
ばんばん出された(放送された?)事、
さらに、後半の関係悪化と共に、
こうした録音が激減しているということがわかるドキュメントだ。

しかし、シューベルトの「第4」の
位置づけは、凄いではないか。
彼が正式にビクターにスタジオ録音した交響曲は、
何と、このシューベルトだけだったということになる。

ダットン(DUTTON)レーベル
(とバルビローリ協会)からCD化され、
良い音で復刻されたのは、
まことにこの指揮者を見直すのに歓迎すべき事である。

もしも、これがなかったら、
ちょっと堅苦しいEMIの録音ばかりで、
(あるいは、盤質に疑問のあったパイの録音で)
バルビローリを語らなければならなかった。

解説は、Paul Brooksという人が書いている。
バルビローリ協会のVice Chairmanらしい。

「フィルハーモニアに引き抜かれたバルビローリ」
というタイトル。

この解説は、バルビローリの、
着任早々の快進撃をうまく描きだしているが、
予想もできないような、
ぞっとするような結末で書き終えていて、
非常に考えさせられ、
味わいのあるものだ。

「これは、1936年4月8日のニューヨーク・タイムズ
の見出しで、
『比較的この国では知られていない36歳の指揮者、
ジョン・バルビローリは、
フィルハーモニック・シンフォニー協会の
次のシーズン最初の10週の
指揮をするように選任された』とある。
アメリカの音楽会の聴衆には、
あまり知られていなかったかもしれないが、
レコードの世界では、
良く知られたアーティストであった。
1936年までに、
バルビローリが指揮をして共演した
独奏者の名簿は、
ヤッシャ・ハイフェッツ、アルフレッド・コルトー、
エドウィン・フィッシャー、グレゴール・ピアティゴルスキー、
アーサー・シュナーベル、ウィルヘルム・バックハウス、
アルトゥーロ・ルービンシュタイン、
それに、ミッシャ・エルマンがいた。
彼の声楽曲録音も忘れがたく、
フリーダ・ライダー、レナート・ザネッリ、
フローレンス・オーストラル、ペーター・ダウソン、
ヨーゼフ・ヒズロップ、フェードル・シャリアピン、
ローリッツ・メルヒオール、フリードリヒ・ショル、
ベニアミノ・ジーリらである。
この印象的な録音のリストが、
フィルハーモニック協会の議会と、
議長のAuthur Judsonに、
若い指揮者に、まず関心を向けさせた。」

残念ながら、この頃から、日本は、
やばい国内情勢によって、
世界から孤立して行くので、
残念ながら、
バルビローリのニューヨークでの活躍は、
日本人が知らない間に起こった感じになった。

あらえびすの「名曲決定盤」でも、
トスカニーニがニューヨーク・フィルを、
辞任したところまでで、
情報が途絶えている。

「1936年10月28日、
ニューヨーク・タイムズは、
『フィルハーモニックのため、
バルビローリはここにいる』と報告、
インタビューで、避けられない質問を受けている。
『トスカニーニの足跡に続くことを、
あなたはどう感じているか?』
バルビローリは驚いたように、
質問者に尋ねるような表情をした後、
微笑んで、こう言った。
『私は、巨匠の足跡を辿るつもりはありません。
彼が刻したものは、このオーケストラの、
一つの時代の終わりなのです。
しかし、私自身が感じているように、
音楽は先に行かなければなりません。
私は、単純に音楽を熱狂的に愛している男にすぎません。
私は音楽に仕えるだけです。
アメリカの皆さんが、私を好きになってくれますように。』
バルビローリは、さらにトスカニーニには、
2度会ったことがある、と続けた。
最初の機会で、近視のマエストロは、
彼の顔をまじまじと見て、こう言った。
『君は、ロレンツォ・バルビローリと
関係があるのかね。ヴァイオリニストの。
私は、彼を良く知っているよ。』
ロレンツォは、実際、バルビローリの父親で、
祖父と共に、スカラ座で、トスカニーニの下、
ヴェルディの『オテロ』の初演時に演奏していた。」

これで、トスカニーニとの遭遇編の話は終わって、
次に、続くニューヨークでの成功の話となる。

「最初の演奏会の後、バルビローリは、
この後、すぐに妻になる、
イブリン・ロスウェルに、こう書き送った。
『私の最初の一週間は、すさまじい成功で、
Judsonは大喜びだ。
彼は、私の来年のスケジュールが、
完全にフリーか知りたがっている。
彼は、私をオーケストラの
常任指揮者にしたがっている。
ロンドンでは、明らかに、
サージェント、ヘワード、ランバートと、
同列にさえなれないのにね。』」

私は、これまで、
こざっぱりとしたサージェントの方が、
何となくヨレヨレ感のあるバルビローリより、
若いと思っていたのだが、
バルビローリより4歳年上の、
1895年生まれであった。

しかし、バルビローリのような、
神格化された仙人のような指揮者が、
こうした生々しい手紙を残しているとは知らなかった。

「彼はイブリンに、
『オーケストラは神々しく私に付き従い、
外部からは、連中は私に夢中だと聴かされている』
と告げている。」

晩年には仙人のようになる、
この名指揮者の若き日の、
前途洋々たる高揚感を伝えてやまない。

「1936年12月11日、
ニューヨーク・タイムズは、
バルビローリが、3年契約になった事を報じた。
フィルハーモニック協会が出した声明は、
『次の年は、1920年から21年のシーズン以来、
初めて、フィルハーモニックは、
全シーズンを務める常任指揮者をもつことになる。』
同月その後で、ニューヨーク・タイムズは、
S.J.Woolfによる、
大がかりな記事を載せた。
『バトンが振りあげられると、
彼の左手も、警告のようなしぐさで上がる。
バトンがスタンドを打つと、機嫌よく、
指揮者はテンポを速めるようにと求める。
指揮者の体が揺れる。
彼は金管に注意を促し、
ヴァイオリンにはさらなる困難を要求する。
異なる音色を音楽に導くように、
その表現力豊かな手は、
そのストップを引きながら、
まるで、巨大なオルガンを操るかのようだ。
暗いストレートの髪は逆立ち、
明るいグレーのアルパカの上着はよれよれだ。
襟は首のところで開かれ、
ネクタイは結んでいない。
楽譜を輝かせる光は、
彼の顔を照らし、
高い頬骨や突き出た鼻を際立たせる。』
リハーサルの後で、バルビローリは椅子に座り、
最近、レジャーの時間が増えている傾向について、
また、それを人々がどう使うかについて語り始めた。」

何とも、時代を感じさせる逸話ではないか。

「『音楽が、その一つの答えです。
新しい余暇に、それは楽しい娯楽になるでしょう。』
眼を輝かせながら、彼は、こう付け加えた。
『さらに、良いオーケストラの音楽を聴くと、
男はへとへとになって、やばい事をする気もなくしますよ。』
再び、椅子の背もたれに寄りかかり、
ライム・ジュースをすすると、
英国における音楽家の境遇を心配する。
彼らはますます解雇の危機に直面している。
『重要な映画館は、かつて、
大きなオーケストラを抱えていました。
今や、彼らはお払い箱です。
多くのレストランしかりです。
今や、すべてラジオですからね。』
彼自身、ホテルや劇場や映画館で演奏していた。
『それは、音楽家が知るべき、
人生のよい勉強になったから、
後悔なんかしていないよ。』」

これは、非常に考えさせられる言葉である。
巨大なシステムの中で、
ごく限られた玄人を相手にした、
コンクールの覇者などとは違い、
普通に暮らす人々に対して、
その心を動かすことのできる音楽を、
実地で試すことが出来たのだろうから、
バルビローリの音楽が、
機知に富み、熱いハートを感じさせるのは、
こんな原点があったのか、
などと感じてしまったわけである。

「1938年、バルビローリは、
ニューヨーク・フィルと、
最初の録音を行った。
2月7日の最初のセッションは、
ビクターのためのもので、
ドビュッシーと、バルビローリ自身の『パーセル組曲』
(これは、最初のフィルハーモニック・コンサートで、
取り上げられたもの)で、
2日後、彼は、極度に集中した劇的な、
『フランチェスカ・ダ・リミニ』、
レスピーギの組曲、
メニューインを交えての、
シューマンの『ヴァイオリン協奏曲』を録音した。
次のビクターのセッションは、
1月21日のシューベルトの『第4交響曲』、
2月21日のレスピーギの『ローマの噴水』、
シューベルトの『ドイツ舞曲とトリオD90』
で行われた。
翌年からは、バルビローリとオーケストラは、
コロンビアに録音することになる。」

コロンビアのシリーズは、
ベニー・グッドマンやカサドッシュの
伴奏のものなどがあったりして、
バルビローリは、いささか影が薄く、
ブルッフやモーツァルトの協奏曲のような、
よく知られた作品が録音されていたりするせいか、
このビクター録音の方が、
選曲がユニークなような気がする。

どの曲もメジャーなところを、
あえて外している感じがぷんぷんするが、
シューベルトの「ドイツ舞曲」など、
いったい、どうして録音しようと考えたのだろうか。

さて、このCD解説の最後は、以下のように結ばれている。

「フィルハーモニックとの最初の録音の前日、
彼は、明らかに彼を動揺させた、
いくつかのニュースを伝えている。
『A.J(Judson)と静かに食事をした。
長い会話をしながらね。
彼は、4000ドルのさらなる収益をあげ、
どっかに行こうと考えていたらしい。
僕が帰っていれば、
何も起こらなかったはずだ。
しかし、そうはならなかった。
私がいなくなると、
トスカニーニやロジンスキーの派閥が、
騒ぎはじめ、彼らがばらまく嘘や嫌味は、
信じられないものばかりだ。
こうした馬鹿話に、君が煩わされるのは嫌なんだ。
だけど、愛しい君、実際に戦いは続いている。
Judsonは、最後にこう言ったよ。
『僕たちは二つの失敗を犯したかもしれないよ。
私は君と契約したし、君は成功した。』」

最初の録音の前と言うのだから、
1938年頃の事であろう。
このように、着任早々に、
バルビローリ追い出しの陰謀が、
渦巻き始めていたということだ。

成功というものは、
かくも恐ろしいものだったようだ。

しかし、このような苦労を味わった人であっただけに、
晩年の栄光が巡って来たのかもしれない。

b0083728_2230336.jpgサー・ジョン・バルビローリが、
シューベルトの「第4交響曲」を、
好んで指揮していたことは、
別のCDの熱気に満ちた演奏によっても、
確認することが出来る。
これは、オーケストラも燃えに燃え、
バルビローリらしい
ジューシーな味わいに、
ドイツ的な立体的な構成感が素晴らしく、
聞き逃すことのできない名演奏だと思う。
よくぞ、出してくれたものだ。
録音もすっきりとして、とても美しい。


この表紙の写真がまた、
この指揮者が晩年に到達した境地を感じさせて、
味わい深いではないか。
音楽に没入しながらも、
何か、ものすごい自信に裏付けられた、
風格のようなものがあふれ出ている。

これは、最近出たもので、
ケルン放送交響楽団のライブ音源から取られている。

バルビローリが1969年2月7日という、
最晩年の境地で演奏した演奏会の一曲目が、
このシューベルトの「第4」なのである。

残念なのは、拍手まで収録されていないことで、
聴衆がどんな反応をしたのか、
非常に気になるのだが。

「ica」というレーベルのCDだが、
ブリテンの「セレナード」(Gerald English)
と、シベリウスの「第2」と共に2枚組で出た。

私は、タワー・レコードの店舗で、
偶然、これを発見して、考える間もなく、
購入して持ち帰り、すぐに聴いた。

とにかく、古典期の「疾風怒濤」様式の、
亜流ですよ、みたいな音楽ではなく、
素晴らしい生命力で鳴り響くマスターワークになっている。

すごいスケールの音楽になっていると思ったが、
演奏時間は28分弱と、
それほど、ビクター録音とは変わっていない。
第2楽章が速めになっていて、
他の楽章は、わずかながら遅くなっているが、
そのようなバランスゆえに感じられることなのかもしれない。

Raymond Holdenという人が書いた解説は、
「バルビローリは、最後の10年、ドイツでは、
いささか、カルト的存在であった」、
という、すごい書き出しである。

「しかし、多くの音楽愛好家が見逃さないのは、
中欧の文化の中に育まれたこの放送交響楽団の、
眼を見張る演奏の質の高さであろう。
バルビローリにとって、
ケルン、南ドイツ、バイエルンの
放送交響楽団との契約は、
常にそのスケジュールで優先度の高いもので、
彼は、これらの合奏能力が世界最高であることを、
事実として隠すことはなかった。
ケルン放送交響楽団(現在は、ケルンWDR交響楽団)は、
1947年に創設され、たちまち、
全ドイツを代表する楽団の一つになった。
1969年2月7日の、
バルビローリとこの楽団の演奏会は、
ドイツ、オランダの演奏ツアーの一環で、
彼が、5日間だけ、
ロイヤル・アルバート・ホールで、
ロンドンの4つの音楽大学の学生たちと、
ヴェルディの『レクイエム』の演奏をするため、
英国に戻った中断があっただけで、
アムステルダム、シェヴェニンゲン、
アルンヘム、シュトゥットガルト、ハンブルグ、
バーデンバーデン、ベルリンと回った。
多くのケルンでの彼の曲目は、
聴衆にとって親しみやすいものではなく、
シューベルトの『第4』は、
いくらか知られていたかもしれないが、
シベリウスの『第2』や、
ブリテンの『セレナード』は、
ドイツでは明らかに知られていなかった。」

ということで、CD化された、
このバルビローリの演奏を、
各地で聴いた聴衆に交じることが出来た光栄を感じる。

次に、このシューベルトのブログにとって、
非常に重要な一節が出てくる。

「バルビローリは、そのキャリアのスタート時期から、
シューベルトに献身的な解釈者であった。
1933-37のスコットランドのオーケストラの
音楽監督時代には『第4』は指揮しなかったとはいえ、
ニューヨーク・フィルを1937年に率いた時から、
彼は少なくとも8回、この曲を演奏している。
この曲の謎に満ちたクオリティが、
明らかにバルビローリに合っていたようで、
1939年1月21日には、
アメリカの楽団と初めて録音する交響曲として、
この曲を選んでいる。
クライマックスと活力はバルビローリのセンスで、
いかにもバルビローリならではのアプローチが、
この演奏からも明らかに感じられる。
この指揮者は、
構成とテンポの相互依存について、
熱い信念を持っており、
1938年には、こう書いている。
『指揮の芸術を特徴づける二つの基本原則は、
1.オーケストラに正しいテンポを授けること、
2.『メロス』を発見すること、
つまり、線を統合して作品に形式と様式を与えることです。
これらの二つのクオリティを与えることが、
もちろん、最高の指揮者の仕事です。
私たちの人生のほとんどは、
まず、これらのクオリティを
獲得しようとするために、
費やされなければなりません。』」

ここに書かれたように、
精妙なブリテンの「セレナード」も、
恐ろしく威厳のあるシベリウスの「第2」も、
緊張感と美しい流れを兼備した演奏で、
要所要所で、激しく高鳴り、盛り上がり、
きわめて、堂々とした光輝を放っている。
生々しい録音が、それを完全に捉えている。

得られた事:「バルビローリにとって、シューベルトの『第4』は特別な交響曲で、アメリカのメジャー・オーケストラの初めての交響曲録音や、晩年の大掛かりな演奏ツアーで取り上げるような作品であった。」
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by franz310 | 2013-10-13 22:33 | シューベルト
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