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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その382

b0083728_14264059.jpg個人的経験:
これまで多くの
日本の音楽ファンが、
バルビローリの指揮する音楽に、
非常な信頼感を持って、
接し続けて来た事は、
私も良く知っているつもりであった。
1970年の万博の際、
待ち望まれていた名指揮者のうち、
ジョージ・セルは来日して亡くなり、
バルビローリは来日を前に亡くなった。
このCDの表紙の写真に捉えられた、
白黒報道写真風の
情熱的な指揮ぶりも素晴らしい。


確かに、こうした演奏を聴くことができたなら、
などと、妙な感慨が湧き起って来た。

しかし、調べてみると、この二人の亡くなったのは、
同じ1970年の7月29日と30日だった。
セルは5月の来日でセーフだったのであり、
セルの死後も万博は続いていたという構図である。

万博は半年もやっていたのだから、
バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の公演は、
秋に予定されていたのだろうか。

写真に見るバルビローリの目が良い。
楽員を優しく見つめながら、
何か、遠いものを見ているような、
不思議な目つきである。

このような激しい身振りや、表情も、
何となく、ライブならではないか、
という気がしなくもない。

バルビローリは、多くの近代英国音楽を紹介し、
エルガーやディーリアスに、
素晴らしい録音を残してくれており、
私も、バルビローリがいなかったら、
これらの音楽に親しむ事はなかったかもしれない。

が、バルビローリはまた、
30代でニューヨーク・フィルの
首席指揮者を務めた本格派でもあって、
ブラームスやマーラーの演奏も名演奏とされていた。

しかし、実は残念なことに、私の経験の中で、
バルビローリのブラームスやマーラーで、
感動した経験は一度もないのである。
一言で言うと、ハートのある指揮者ではあるが、
締まりのない、立体感に不足する演奏をする人、
というレッテルをいつしか貼ってしまっていた。

が、今回、改めて、
ジャネット・ベイカーを独唱者にして演奏した、
ベルリオーズの「夏の夜」などを聴くと、
何だか印象が大きく違う。
細部を彫琢しつつ、
ドラマティックな起伏にも欠けてはいない。

そして、そのジャネット・ベイカーつながりで、
いろいろ物色していて、
巡り合ったのが、
今回聴いた、
マーラー「第2(復活)」のライブである。

一聴して感じるのは、やはり、1音1音の勢いというか、
気迫のようなものである。
すごい推進力で、ぐいぐいと聞かされてしまう。
ベルリン・フィルの重心の低い、
パンチの利いた音の立ち上がりが、
この演奏の説得力を高めている。

マッシブな量感が、
バルビローリの、情に流されて、
うすっぺらになりがちな音楽に、
立体感を与えることに役だっているような気がする。

ベルリン・フィルは、先に書いたように、
バルビローリが振るマーラーの「第9」を聴いて(弾いて)、
感動した楽団だが、バルビローリは、そのほかにも、
ベルリンでマーラーを演奏していて、
聴衆に深い感銘を与えていたようだ。

今回のCD解説には、そのあたりの事を、
アラン・サンダース(Alan Sanders)という人が、
非常に詳しく、よく書いてくれていて、
ものすごく勉強になった。

「ジョン・バルビローリが、
最初にマーラーの音楽に遭遇したのは、
1930年4月、
彼が第4交響曲のリハーサルに参加した時だった。」
と、
何と、バルビローリのマーラー受容史から、
説き起こされているところが素晴らしいではないか。

「指揮者はオスカー・フリート(1871-1941)という、
マーラーの取り巻きの一人であった。
フリートの1924年の『復活交響曲』の録音は、
マーラーのすべての交響曲の初録音であり、
この作曲家の音楽に対する素晴らしい解釈を、
垣間見せたに違いない。
しかし、バルビローリは感動せず、
友人にこう書いた。
『楽想はうすっぺらで、
オーケストラの音響に関して言えば、
ベルリオーズやワーグナーの方が、
ずっとうまくやるだろう』。
しかし、わずか9か月後、
ロイヤル・フィルハーモニック・コンサートで、
偉大なリート歌手、
エレーナ・ゲルハルト(1883-1961)
のために、
『子供の死の歌』を指揮し、
初めて、バルビローリは、
マーラーの音楽との直接的な遭遇をする。、
1930年代、まだ、英国では、
マーラーはめったに演奏されなかった。」

1930年4月の9か月後ということは、
1931年の初頭のことであろう。
ゲルハルトは、大昔の歌手という感じがするが、
当時は、まだ、48歳くらいであったということか。
ちなみにバルビローリは1899年生まれなので、
まだ、31か32といった若造であった。

「国内の、ハミルトン・ハーティや、ヘンリー・ウッド、
エイドリアン・ボールトといった国内の音楽家によって、
たまたまやって来た外国の音楽家が、
ほとんど忠実で、しかし、理解していない演奏に
突っ込まれることはよくあることだった。
マーラーが生きて仕事をしていたヴィーンでのみ、
あるいは、強力な支持者メンゲルベルクのいたアムステルダム、
ニューヨークといったある土地でのみ、
彼の音楽に対する信奉が残っていた。
そして、ヨーロッパでは、
ナチスの台頭とともに、それは後退が見られた。
まず、ドイツでマーラーの音楽は禁じられ、
そしてオーストリア、それから、
第2次大戦中の占領地で禁じられた。
1930年代にバルビローリは、
第5交響曲のアダージェットを2回演奏したが、
彼が、ハレ管弦楽団の音楽監督になって2年後、
マンチェスターにおける1945年から6年のシーズンで、
『大地の歌』を取り上げるまでそれが全てであった。」

これは、バルビローリのこと、
イギリス楽壇のことを越え、
そのままマーラー受容史とでも言える内容になっている。

「大地の歌」はなかなか初演されなかったりして、
不遇の交響曲だと思っていたが、
どうやら、バルビローリが指揮した最初のマーラーは、
「大地の歌」だったようだ。
あとから出てくるカラヤンも、
「大地の歌」だけは早くから振っていたようである。

「1952年にマンチェスター・ガーディアンの
音楽評論家でマーラー擁護者であった、
ネヴィル・カーダス(Cardus)(1889-1975)が、
1930年、ハーティがハレ管弦楽団を振って行った、
マーラーの『第9』の演奏の回想を記事にした。
『この作品はバルビローリにこそふさわしいものだ。
彼はなぜ、ここ数年、それに惹かれないのだろう。』
プライヴェートな会話で、カーダスは、
この問題をサー・ジョンと語り合い、
マーラーの交響曲は、あなたのための音楽で、
あなたのオーケストラは、それにぴったりの音が出せる、
英国で唯一のオーケストラだ、と言った。
バルビローリは後に、
マーラーの音楽に魅了され、
研究するようになったのは、
カーダスの影響だ、と認めている。
そして、最初にアプローチしたのが、
『第9』であった。
彼は1943年、アメリカから英国に戻って以来、
偉大な同時代の英国音楽を入念に研究し、
演奏するようになった。
そして、未だ知られざる、
偉大な音楽に、もっと注意を向けるべきだと感じた。」

バルビローリがベルリンの聴衆を、
『第9交響曲』で熱狂させたのも、
かなりの歴史があったのである。
1930年、ハーティが演奏した事実までを、
彼は背負い込んだ形である。

「すべての新作に対してするように、
彼は時間をかけて『自分の血肉になるまで』
スコアを勉強した。
彼は、マーラーの音楽が浸透しないのは、
常にムードが変化し、すべてのものを、
大きな統一の中に導く必要があるからだと考えた。
1954年2月、50時間近くのリハーサルを経て、
彼は『第9交響曲』をブラッドフォード、
そして、マンチェスター、その他で初めて演奏した。
翌年、彼は『第1』に注意を向け、
この作曲家に対するリアクションが無関心で、
ある時は冷淡ですらある環境下、
すぐに英国における指導的なマーラー支持者となった。
不屈のバルビローリは、着実にマーラーのスコアを、
自身のレパートリーに加え、
次第に、『第8』を除く、全交響曲を指揮するようになった。
1966年4月、彼はマンチェスターとロンドンで、
サー・ネヴィル・カーダスのジャーナリズム50年を祝い、
演奏会を指揮した。
マーラーの『第5交響曲』を含むプログラムだった。」

「第9」の後、「第1」というのは意外であるが、
「第5」となると、今でも愛聴されている録音がある。

「おそらく、この頃、マーラーの演奏会は、
ベルリンよりマンチェスターの方が多かっただろう。
1920年代、30年代初めには、
フルトヴェングラーがベルリン・フィルで、
『第1』、『第3』、そして『第4』を振っているが、
戦後の時代になると、彼は実質的にマーラーの全作品を無視した。
彼の後任のカラヤンは、
1960年から『大地の歌』を取り上げていた他は、
比較的キャリアの後期になるまで、
同様にマーラーに無関心であった。
バルビローリがベルリン・フィルと、
最初に契約したのは1949年で、
エディンバラ音楽祭の一部として、
3つのコンサートでこのオーケストラを振った。
指揮者と楽壇員との親密さは強烈かつ瞬時であった。
8か月後、1950年4月、
バルビローリはベルリンに飛び、
ロッシーニ、ディーリアス、ルーセル、
ブラームスの『第4』といった多彩なプログラムを指揮した。
ベルリン・フィルは、その時、
ルーマニアの指揮者チェリビダッケが、
ナチスの時代に縮小されたレパートリーを
拡大しようというポリシーを持っていたので、
慣れていない作品への適応力があった。」

このような文章を読むと、
ベルリン・フィルって世界最高のオーケストラ、
というより田舎の最高のオーケストラじゃないの?
などと皮肉な感想を持ってしまう。

「ベルリンっ子たちは、バルビローリの再演を望んだ。
しかし、様々な理由から1961年までは、
それが妨げられた。
それ以来、オーケストラは、
再び伝統的なドイツ音楽偏重へと変えられていた。
1952年にチェリビダッケは去り、
1954年にフルトヴェングラーが亡くなり、
アンサンブルは、1955年に音楽監督となった、
カラヤンによって改造されていた。
彼らの総支配人、ヴォルフガング・シュトレーゼマンは、
すぐれた管理者で外交官であるばかりか、
洗練された音楽家であった。
1937年から43年に、
バルビローリがニューヨーク・フィルの首席だった時、
彼はアメリカにいて、
それがサー・ジョン招聘にも働いた。」

こういう話を読むと、人生は、度重なる努力の上にあるのだ、
ということが妙に実感される。

「1961年の最初のコンサートでは、
バルビローリはシベリウスの第7、
バックハウスを独奏者にしての、
ベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲、
ブラームスの『第2』を指揮した。」

ここまで読んで、サー・ジョンが、
若い頃、伴奏指揮者的な扱いを受けていたことを
ふと、思い出した。

確か、名手クライスラーや、
ハイフェッツの協奏曲の伴奏をして、
バルビローリの指揮が残念、
と書かれるのが、落ちであったと記憶する。

しかし、そんな苦労も報われてか、
1949年には叙勲されて、
サー・ジョン・バルビローリとなっていた。
したがって、最初に、ベルリン・フィルと仕事をした時は、
ちょうど、叙勲の頃だったわけだ。

「彼は初歩的なドイツ語しかできなかったが、
サー・ジョンとオーケストラは、
親密な理解に至り、何人かの楽員が、
シュトレーゼマンに英国の指揮者の再度の招聘を願い出た。
次の10年は、バルビローリはBPOにレギュラー出演し、
オーケストラ、聴衆、批評家から愛された。
彼の暖かい、コミュニケーティブな
感情豊かなスタイルの指揮は、
明らかに、卓越しているがコントロールされた、
一段構えたカラヤンの音楽づくりと、
際立った対照を示した。」

カラヤンがどう思ったかも、
何か情報が欲しくなってしまう。
同様にマーラーを得意にした
バーンスタインに対しては、
並々ならぬ敵意を見せたとされる人である。

「1963年1月、サー・ジョンは、
ベルリンで初めてマーラーを指揮した。
『第9』である。
ベルリンではめったにマーラーは演奏されなかったし、
嫌われてもいたので、
BPOがこの曲を一緒に録音したい、と言うほど、
オーケストラと聴衆に大きな印象を残した事は、
バルビローリにとって、特別な勝利であった。
1964年1月、これは実現した。
これは、彼らが録音した最初のマーラーの交響曲であり、
英国の指揮者によってのセッションも、
1937年のビーチャム指揮のモーツァルト、
『魔笛』のHMVへの録音以来であった。」

このように、バルビローリ指揮のマーラーの『第9』は、
単に名演というばかりでなく、
ベルリンにおいて、ようやくマーラーが需要されたという、
記念碑的なものであったことが理解できた。

当然、今回のこのCDも、
このような大きな流れの中に位置するものだということだ。
実演の記録ゆえ、第9のスタジオ録音より、
生々しく伝えるものがあるだろう。

いや、実際、あるのである。

私は、そもそもマーラーの『第2』を、
進んで聴きたい方ではなかった。

パリ万博で、この曲をマーラーが自作自演した時、
当時のフランスの作曲家たちは、
第1楽章で帰ってしまったというが、
私も、おそらく一緒に帰る口だったかもしれない。

やたら長い第1楽章は、このCDでも1枚目に単独で入れられ、
残りの4つの楽章がCDの2枚目に入っている。
そして、CDの裏面には、
「マーラーのスコアには、第1楽章演奏後、
少なくとも5分の中断を入れろ、と書いてある」
と注釈がある。
これは事実だが、いちいち、裏表紙に、
こんな事を書いたCDは初めて見た。

おそらく、この5分を使って、
フランス人たちは、あほらし、と帰ったのであろう。

が、彼らが言ったとされる、
「シューベルトみたいなものだから関係ない」
とかいう一言には疑問を呈したくなる。

まず、どこがシューベルトみたいなものなのか、
すぐには分からない。

仮に、オーストリアの民謡風なものを基調としていて、
その意味でマーラーは、
シューベルトみたいなものかもしれないが、
だからと言って、
「関係ない」というコメントはないだろう。

どちらもワーグナーを信奉し、
その体験を経て出て来た世代ではないか、
などという感じがしなくはない。

が、第1楽章で、もうたくさん、となる気持ちは良くわかる。
この演奏でも22分もかかる長い楽章で、
何だか、騒いだり、沈黙したりして、
むやみにやかましく退屈な印象である。

CD1のTrack1.
しかも、最初から出る弦の思わせぶりな大言壮語が、
うすっぺらで、月並みで青臭い。
ラッパが重なって来るのも、
妙に悲愴味を掻き立てる伴奏音楽のようである。

ここまでのどれもが、シューベルト的ではない。

そこでそのまま、一度、頂点を築いて、
今度は、いかにも憧れに満ちた弦楽のメロディがあふれ出す。
あるいは、ここはシューベルト的であろうか。

これだけ書いただけで、
うんざりするような交響曲であるが、
バルビローリの指揮で聴くと、
この安っぽさに、妙なリアリティと、
心からこみ上げる情念が加わる。

カラヤンの指揮の下、
こうした安手の普請に対して、
覚めた美学で付き合っていたベルリン・フィルも、
明らかに、そう来たか、そうだよな、
と納得して演奏している感じがする。

第6交響曲のカウ・ベルも出て来そうな、
高原の情景のような部分では、
心から打ち震えて、
新鮮な大気を吸い込んでいるような感じがする。

弦のトレモロ一つとっても、
入魂の演奏であり、感情の裏打ちがあることが、
生々しく伝わってくる。

すべてのフレーズの立ち上がりが、
思い入れたっぷりであって、
それが、ばねのように弾けながら、
前へ前へと突き動かしてゆく。

こうした、ある意味、人工的な力学も、
あまり、シューベルト的ではないが、
あるいは、弦楽に木管が重なって鳴り響く、
その色調自体が、シューベルト的な匂いを発しているのか。

フランスのオーケストラ曲は、
確かに、色彩的には、ここで繰り広げられる、
内向きで粘着質のブレンドよりも、
外向的で発散するような美観を重んじているようであるが。

マーラー自身、第2交響曲以降は、
このぐじゃぐじゃ感を整理して、
もっと伸びやかな、
個々の楽器の主義主張を生かす作風に
変わっていったような気がする。
特に、展開部以降、本当に、この曲には、
マーラーの多くの交響曲の
萌芽のようなものが感じられる。

それだけ内容充実とも言えるが、
未整理の習作といった風情もある。
そして、確かに、シューベルト的に長大である。

しかし、重厚で長大は、ダンディの「第2」、
デュカスの「ハ長調」とて同様である。
が、マーラーの曲は、同じ調子で長く、
第1楽章の終わりも、作為的で低俗である。

ということで、このように私は、
この交響曲は第1楽章からして苦手だったのだが、
この演奏に漲る熱気にほだされて、
かなり聞かされてしまった感じがある。

以下、解説はほとんど終わりである。
バルビローリのマーラーのレコードが、
振り返られ、この演奏の記録が、
いかに重要かということが描き出されている。

「バルビローリは1957年6月に、
パイにハレ管弦楽団と『第1』を録音しており、
今や、『第2』をベルリンで録音すべき時だと思われた。
しかし、この提案はEMIによって蹴られた。
すでに、クレンペラーが指揮したものが、
コロンビア・レーベルで入手可能であったからである。
そして、1965年には『第7』の、
ベルリンでのレコーディングが提案されたが、
これも実現しなかった。
バルビローリはさらに2つのマーラーの交響曲を、
商業録音している。
1967年8月の『第6』、
1969年7月の『第5』であるが、
しかし、2つとも、
フィルハーモニア・オーケストラの共演であった。
1960年にカラヤンがEMIから去ったので、
この会社は、バルビローリが、
自身のオーケストラにこだわらなかったら、
彼を誘ったのではないかと思われる。
幸いなことに、サー・ジョンが振った、
すべてのマーラーの交響曲は、
ライブ録音があって、
そこには、ベルリン・フィルとの、
『第2』、『第3』、『第6』が含まれる。」

ここにあるように、このCDと同じレーベル、
TESTAMENTから、
「第3」も「第6」も入手できるようだ。

「最終的に1965年にBPOとスケジュールを組まれたのは、
『第2』で、6月の初めに3回演奏された。」

ここでの録音は6月3日とされ、
独唱者はジャネット・ベイカーであるが、
約3か月後、8月30日には、バルビローリとベイカーは、
ロンドンで、エルガーの『海の絵』を録音するという流れである。

「1966年1月13日、14日には、
モーツァルトの『34番』と共に、
『第6』を指揮しており、
1969年3月8日と9日に、『第3』を指揮している。
彼は、ベルリンで多くの作曲家の作品を取り上げたが、
そのいくつかはBPOにとって初めての作品であった。
しかし、最大のインパクトはマーラーの交響曲紹介であり、
それゆえにベルリンでは長く記憶された。
カラヤンがバルビローリの死後2年たって、
1972年に『第5』を演奏するまで、
マーラーを演奏しなかったのはその証拠に見える。」

CD2のTrack2.
これまた、私の苦手とする楽章で、
勝手に付き合わされた、
第1楽章の阿鼻叫喚のジェットコースターの後、
緊張感をほぐしてくださいと用意された、
甘ったるい甘味どころである。

私は、この楽章がなくても、
マーラーの重要性はまるで変わらないのだが、
これが好きな人もいるらしいので、
あまり書かないようにしたい。

バルビローリの指揮で嬉しいのは、
強力な低音部隊で、
この豊かなずずんずずんに浸っているだけで、
不思議な充足感を感じてしまう。
しかみ、バルビローリならではの、
入魂の彫琢が加わり、
この平明な音楽が息づいている。

後半に現れる弦のピッチカートの部分のみ取っても、
驚くべき表情の豊かさであり、
交錯する弦楽の綾を愛でているうちに、
かなり充足したひと時を味わった事に感謝してしまった。

CD2のTrack2.
第2楽章を「繋ぎ」として、
ここからが、この交響曲のもう一つの目的が現れる。
これは、もっと素朴で、
民謡に眠る太古からの感情の呼び起こしみたいなもの。

フランスの作曲家たちは、ここまで聞いた場合は、
もっと怒って帰ったかもしれない。

作曲家で評論家の柴田南雄氏は、
これは舞踏会の情景であると解釈しているが、
確かにそんな音楽でもある。
シューマンに倣った、
失恋した相手の舞踏会の情景という説も面白い。

確かに、この無限に旋回するような広がりは、
名作、第5交響曲のひな形みたいに、
聴こえないこともない。

しかし、途中、拍子木みたいなのが入ったり、
最後に爆裂したり、呼び起こされる感情は、
それよりは原始的で破天荒である。
このあたりの生き生きとした生命力に、
バルビローリならではの美質を聴いた。

この楽章はしかし、放っておいても楽しいので、
バルビローリは緊張をいくぶん緩めているような気がする。
それでも、ベルリン・フィルの重戦車風の機動力に圧倒される。

CD2のTrack3.
「子供の魔法の角笛」の「原光」から取られた、
へんてこな割り込み楽章。
完全に歌曲であり、5分程度の短編である。

「おお、深紅の愛らしい薔薇よ」と、
いきなり、歌いだされるので、
かなり感動的な部分であるが、
「薔薇」は、ここで出てくるだけで、
尻切れトンボ風の要素を持っている。

「人間は大きな苦悩に閉ざされ、
むしろ、私は天国にいたいと思う 」
と言って、後半は、
「天使がそうさせないようにしたが、
私は、神のもとに行って、
永遠の喜びの生命で照らしてもらう」
といった感じの内容をしみじみと歌う。

ここでベイカーが登場するが、
もっと聴いていたいくらいに、
味わいのある声を聴かせ、
すぐに終わってしまう。

CD2のTrack4.
これまた、第1楽章の「大げさ編」再開といった音楽で、
太鼓連打あり、金管の爆発あり、鐘ががらんがらん鳴り、
ぶった切れた楽想の羅列。
合唱あり、オルガンも出て、疲れ切ってしまう部分。

フランスの作曲家たちは、最後までいなくて良かった。
この独りよがりの音楽に、最後まで付き合わされたら、
途中で、もっとひどい妨害工作にでも出たかもしれない。

が、この演奏は凄い。
解説にもあったように、
マーラーの弱点も知り尽くしたバルビローリならではの、
交通整理が周到にされていて、
バルビローリが唸りまくって、
オーケストラをドライブする様は、
手に汗握るものがある。

マーラーが最後の審判を表現しつくそうと空回りして、
長すぎてうんざりした頃、
ようやく平穏な楽想が広がるが、
ここからも長い。
楽章が始まってから20分も経過して、
ようやく、この交響曲が「復活」と題された理由である、
「お前は蘇るだろう」と、
クロプシュトゥックの賛歌が歌われるのだが、
チョイ役ながら、往年の名ソプラノ、
マリア・シュターダーが出ていて、
美声を聞かせているのが嬉しい。

バルビローリが操るベルリン・フィルの音色も、
水も滴るように美しい。
ベイカーが出ると、バルビローリは、
愛娘が心配でならないのだろうか、
唸り声が止まらなくなっている。

バルビローリが導く、強引とも言える、
気持ちの良いドライブ感と、
ベイカーとシュターダーの声の綾が美しい二重唱を経て、
オーケストラと合唱がさく裂する最終局面に移って行く。

「私は生きるために死のう!」とあるように、
これは、結局、キリストの復活にあやかった、
換骨奪胎の個人的音楽であり、
俺は関係ない、と帰るのもありかもしれない。

ベルリンの聴衆の拍手が収録されているが、
半分は戸惑いがあったようだ。

得られた事:「有名なバルビローリとベルリン・フィルの伝説を実感できる貴重な白熱の記録で、『復活』アレルギー患者対策効果あり。」
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by franz310 | 2013-06-16 14:33 | 現・近代
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