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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その371

b0083728_102111.jpg個人的経験:
いつもより早い、
桜の開花宣言があって、
鳥の鳴き声も楽しげな、
暖かい気候が続いている。
今年は、まだ四月まで、
一週間もあるというのに、
関東ではあちこちで
花見が始まっている。
ひのきの花粉も始まる
というから微妙な季節。


やはり早い春というのは感慨が薄いのか、
どうも、待ちわびた感がなく、
あるいは心の準備が出来ていない感じ。
桜の花が雲のようになっているのを見ても、
今年は、例年ほど、
感慨が沸かないのはいかなることだろう。

とはいえ、春分は過ぎている。
キリスト教の教会歴では、
ややこしいことに、ここに月の要素が入って来て、
満月を越えれば、イースターとなる。

今年は次の満月が、3月27日の水曜日であるから、
その次の日曜日、3月末日が復活祭(イースター)である。

その一週間前に、イエスは、エルサレムの街に入り、
様々な強引な行為や説教を行って、
十字架にかけられる。
このエルサレム入城の日が「枝の主日」である。

今回、聴きたいのは、
プロポーショナル・リズムを主張する、
スコラ・アンティクァの、
「枝の主日のためのグレゴリオ聖歌」
というCDである。
オワゾリールのレーベルが付いているが、
96年に英デッカが出した再発盤である。
何故かドイツ製。

このCDは、彼らの「聖週間の音楽」に、
続けて出されたものであるが、
キリスト教会歴では、順番が逆で、
枝の主日に続くのが聖週間である。

この録音、我が国の音楽史研究で、
指導的な役割を果たした、
皆川達夫氏に、実は、
「まったくのイカサマ」と一蹴されたものなので、
歴史的信憑性を考えながら聴かなければならない。

「枝の主日」にフォーカスしたCDとして、
珍しいので取り上げる。

さて、イエスの最後になだれ込む聖週間であるが、
八木谷涼子著「キリスト教歳時記」には、
「聖週間は、十字架に磔にされた
イエス・キリストの受難と死を悼み、
その喪に服し、悔恨するための一週間である。」
と書かれている。

「西方教会では、イースターの七日前に当たる
枝の主日から始まる。」とある。

さて、そうした信者の行動とは別に、
イエスが迎えたこの日は、
こんな感じであった。

山室静著の「聖書物語」(現代教養文庫)の
「エルサレム入城」の冒頭は、
「ガラリアやエルサレムの野にも、
白いオリーブのかおりがたちこめてきた。」
という簡潔で魅力的な一文から始まっている。
「春がやって来たのだ。」
まさしく、この季節に相応しい。

しかし、マルコ福音書第11章、
マタイ福音書第21章、
ルカ福音書第19章、
ヨハネ福音書第12章を飛ばし読みしたが、
オリーブの香りについては書かれていない。

が、ネットで調べると、
オリーブの花はキンモクセイのような小さな花で、
確かに良い香りがするようである。

このような花が付いた木の枝を、振って、
子供たちはイエスのエルサレム入城を、
歓迎した、というのが、
これまでの私のイメージであった。

が、改めて詳細に見てみると、
「花が付いた木の枝」を振ったわけでもなく、
子供たちが喜んだわけでもなさそうだ。

何故、私が誤解したかというと、
シューベルトの合唱曲に、
「枝の主日の6つのアンティフォナ」
D696というのがあり、
ここに、
「ヘブライの子供たちは
オリーブの枝を振りかざしながら叫ぶ、
『ホザンナ!』」という歌詞が出てくるからである。

この、エルサレムに入るに際し、
イエスは、救い主に相応しく、
ロバに乗って入城したという。
これは、旧約聖書のゼカリア書第九章の、
「託宣」にあやかったものである。

「シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。」
という詩句に、
「柔和であって、ろばに乗る」王が来る、
と書かれているのである。

さて、このエルサレム入城を、
各福音書ごとに見て行くとしよう。

岩波文庫の「福音書」では、
マルコ福音書では、
「大勢の者は着物を道に敷いた。
野原から小枝を切ってきて敷いた者もあった。」
とあって、
「“ホサナ!
主の御名にて来られる方に祝福あれ。“
来たるわれらの父ダビデの国に祝福あれ。
いと高きところに“ホサナ!”」
と群衆が出迎えた様子が描かれている。

マタイ福音書では、
「木の枝を切ってきて道に敷くものもあった。」
とあり、
「ダビデの子に“ホサナ!
主の御名にて来られる方に祝福あれ。“
いと高きところに“ホサナ!”」
と歌われたとある。

枝の主日の枝は、オリーブなのかどうか分からない。
そもそも、ここには敷かれたとある。
私は、枝は振られたのかと思っていた。

まあ、この二つは大方同じである。
面白いのは、後の二つの比較で、
ルカ福音書では、枝に関する記載すらない。

「“主の御名にて来られる”王に、
“祝福あれ。”
天には平安、
いと高き所には栄光あれ!」
という歌は、
弟子たちが歌ったとあるのに対し、
ヨハネ福音書では、下記のように。
わざわざ民衆が町から出迎えに来て、
叫んだとされているのである。

「祭に来ていた大勢の群衆は、
イエスがエルサレムに来られると聞くと、
手に手に棗椰子の枝を持って、
町から迎えに出てきた。彼らは叫んだ。
“ホサナ!
主の御名にて来られる方に祝福あれ、“
イスラエルの王に!」

何と、椰子だというからびっくりである。
椰子に枝などあるのだろうか。

確かに、道に敷くには、椰子の大きな葉の方が良かろう。
が、どこからオリーブの話が出て来たのだろうか。

先の「キリスト教歳時記」には、
枝の主日の解説で、
「英語ではパーム・サンデーというが、
パームとは手のひらのことで、
葉の形が開いた手に似たヤシ科の植物の総称でもある。」
と書かれていた。

このCDの表紙を見ても、
その葉の形は明らかで、
ヤツデの葉っぱみたいなものが振られている。
フランスのシャンティィ城にある、
コンティ美術館の持つ、
1210年の詩篇歌集の細部である。

ということで、いろいろ調べてみたが、
2013年は3月24日の日曜日が、
この「枝の主日」であるが、
枝が何であれ、何に使われたのか、
などはともかくとして、
二千年前にイエスがエルサレム入城し、
民衆が、これに期待して出迎えた日なのであった。

が、イエスには敵も多く、
結局、なだれこむように、
十字架にかけられることとなる。

山室静著「聖書物語」では、
「たぶん、わたしは、祭司やパリサイ派の人たちの手にかかって、
命を失うことになるであろう。」
とイエスは語っていたとされる。

そんな事を考えながら、
今回のCDを聴けば良い。
CD1から、マタイによる福音書21の9、
「ホザンナ」が聴ける。
これは、このまま、
シューベルトのアンティフォナ第1曲と同じ歌詞である。

なお、アルヒーフ・レーベルから出ていた、
「グレゴリオ聖歌―その伝統の地をたずねて」
というシリーズにも、
「枝の主日のための聖歌集」というのが含まれており、
その冒頭もこの曲であった。
(CD2のTrack1)

これは、ドイツのベネディクト派の修道院が歌ったもので、
残響の豊かな教会で、ゆったりと分厚い合唱で歌われている。
(ミュンスターシュヴァルツァハ修道院聖歌隊。)

それに比べ、スコラ・アンティクァ盤は、
ソロ(アレキサンダー・ブラッキレイ)が、
独唱で、言葉の一つ一つを強調するように、
さらにゆっくりと、かみしめるように歌っている。

特に、ホザンナの後の「ベネディクトゥス」まで、
急発進、急ブレーキというか、
頻繁なギアチェンジというか、
一瞬たりとも注意を散漫にしない歌いぶりは面白い。

「イカサマ」とされたCDであるが、
1000年にもわたって、
各地に発散していった聖歌であるから、
このような解釈が、遠い新大陸で発生しても、
許容してしまうような感じがしなくもない。

シャンティクリア盤では、
詩篇24(23)と共に歌われていた。

この詩篇は、入城を表すもので、
「枝の主日」に歌われることが多かったようだ。

シューベルトの合唱曲は、
サヴァリッシュ盤で聴く限り、
堂々たるもので、
このような歴史的瞬間に思いを馳せた
作曲家の思いが偲ばれる。

うねるような高揚感があって、
声高らかに、歓迎する様子が目に浮かぶ。

シューベルトのアンティフォナ第2曲は、
「オリーブ山でイエスは神に祈った」というものだが、
これは、少なくとも、このグレゴリオ聖歌集には、
見つけることはできなかった。

イエスは、「最後の晩餐」の後、
オリーブ山のゲッセマネの園で、
「父よ、もし出来る事なら、
この時を過ぎ去らしてください。」
と祈ったとされるから、
これは「聖木曜日」のイベントであろう。

シューベルトのアンティフォナに、
この内容の詩が入ったのは、
ちょっと不思議である。

しかし、オリーブつながりで、
この話に飛んだのかもしれない。

この曲は、イエスの入城を寿ぐものではなく、
その胸中の複雑な感情を静かに、
その葛藤を吐露するように描いたもの。

シューベルトがこれらの作品を書いたのは、
兄フェルディナントが、
アルトレンフェルト教会で合唱指揮をしていたからとされ、
さすがに、この時期の作品のようだ。
ドイッチュ番号676とあるから、
1819年頃かとは思っていたが、
年が明けて、1820年のもの。

このような曲が混入したことは、
今回のスコラ・アンティクァ盤を聴き進めることで、
次第に理解が深まったことは、
後で記載することになるだろう。

シューベルトの第3曲は、
「サンクトゥス」で、このCDでは、
Track15に、
「枝の主日のミサ」(Track10-17)
の中の一曲として収められている。

シューベルトの音楽は、
「聖なるかな」の部分は、
「主の栄光は天地に満つ」の部分での、
盛り上がり前に、嵐の前の静けさ的表現。

「ホザンナ」が、決然と歌われる。

スコラ・アンティクァ盤は、
「聖なるかな」の部分は、
シューベルト同様、静かに盛り上がって行く感じ。

不思議な揺れを伴いながら、
ひしひしと盛り上がって行き、
そして、最後の「ホザンナ」のところで、
合唱がわずかな音程ずらしの効果で、
控えめながら頂点を築く。

シューベルトの第4曲では、
例のヘブライの子供たちが出てくる。
「ヘブライの子供たちは
オリーブの枝を手に持ち、主を迎える」
という内容のもの。

今回のスコラ・アンティクァ盤のTrack3が、
まさしく同じ歌詞で、
「グレゴリオ聖歌」からして、
聖書とはちょっと違う内容を歌っていたことが分かる。

これも、独唱。エリック・メンツェルという人が歌っているが、
かなり楷書風の、かくかくした音楽で、
キレ味が良い感じ。

が、説明しているだけであって、
子供らの歓迎の様子が音で描かれているわけではない。

なお、Track4も、同様の歌詞で、
最後に、「平和に向かってわれらを導きたまえ」
といった詩篇部が挟まる。

シューベルトの音楽も、
「主を迎え、喜びの声をあげる」などと言う感じではなく、
終始弱音で、神妙に説明している感じの音楽である。
さすがに、シューベルトは、
古来の作法を尊重したとも考えられる。

キリストの入城であるから、
子供時代、合唱団に属していたシューベルトにも、
グレゴリオ聖歌が印象に残るものだった、
などと考えることはできないだろうか。

シューベルトのアンティフォナ第5番は、
「天使と子供たちとともに」という内容で、
これまた、かなり喜びの感情を押し殺したもの。
天使の参加で、かなり晴れやかなトーン。
ただし、ホザンナでは堰を切って感情が飛び出す。

これは、前回聴いた、ルーラント盤に、
やはり、詩篇24(23)と合わせて収録されていたもの。
ルーラント盤で聴くこの曲も、
微笑みをたたえた音楽に聞こえる。

このスコラ・アンティクァのCDには入っていないが、
アルヒーフ・レーベルの
「グレゴリオ聖歌―その伝統の地をたずねて」
というシリーズには入っていた。

これも、分厚い合唱を教会で聴くようなものであるが、
基本的に、祈りの中にも、愛らしいものへの眼差しを感じる。
ルーラントで聴いていたので、この表現は、
すこし、軽やかさがほしくなる。

シューベルトのアンティフォナ第6番は、
「主が聖なる町に入られたとき」
というもので、この枕詞の後は、
「ヘブライの子供たちはオリーブの枝を」
と、第4曲と同様の歌詞が続く。

これと同じ歌詞のものは、
アルヒーフ・レーベルから出ていた、
「グレゴリオ聖歌―その伝統の地をたずねて」
に入っていて、ヨッピヒ神父が指揮を担当。

ただし、一分未満で歌われるアンティフォナではなく、
3分かかるレスポンソリウムとなっている。
これも、単に、状況を厳かに説明するだけのもので、
この音楽自体で、その時の様子を、描写するものではない。

シューベルトの作品はアンティフォナで、
59秒で終わってしまうが、
これも、単に静かに、主が入ってきた時は、
こんなでしたーっという感じで、
尻切れトンボ的でさえある。

が、これは、アンティフォナの本来の機能、
つまり、藤本一子氏が解説に書いているように、
「テキストを明確に語ることが意図されている」
ことが重要なのであろう。

ということで、シューベルトの理解が、
グレゴリオ聖歌をもとに進んだと期待したいが、
これでは、今回のこのCDを鑑賞し、
それが、いかに受容されたかの説明が、
なされているとは言い難い。

R.ジョン・ブラックレイの書いた解説は、
前に、スコラ・アンティクァのCDを紹介した時に、
書いたものと同様の記述で、
あまり、枝の主日については触れられていない。

「この録音における枝の主日のための音楽は、
詩篇のためのアンティフォンやレスポンソリウムを続け、
イムヌス、「グローリア、賛美」と、
最後に、典礼文(通常文)と、
特定の祭日用の部分(固有文)からなるミサで閉じた。
プロポーショナル・リズムによる聖歌は、
キリエとサンクトゥス、アニュス・デイは、
リズムを再構成したが、
主に、930年のLaon239という
写本をもとにしている。」
という感じで、まったく、枝の主日そのものの説明はない。

ただ、有名な「ダビデの子にホザンナ」も、
この写本に普通に載っているのか、という感慨はある。

Track1と3、4は聞いたが、
残っているTrack2のレスポンソリウムは、
イエスの敵の様子を描いたもので、
何となく、裏声みたいな絶叫まで使って、
宗教劇みたいな感じがしなくもない。

「祭司やパリサイ派の人々は、評議に集まり、
『あの多くの奇跡を起こした男をどうするか』
と語らった。
我らが彼を行かせれば、
みなが彼を信じるであろう。」

最初のCollegeruntという言葉だけでも、
ものすごい長さに引き延ばされて、
ひとりは歌い、次の単語を合唱でつなぐ。
5分かかる長編。

Track5はアンティフォン。
まさしく、マタイ伝21章で、
イエスが弟子たちにロバを借りてくるよう命じ、
それに乗って行くと、ホザンナの叫びが起こる。
4分半の長編。

Track6もアンティフォン。
ここでは、出典が明らかでないが、
エルサレム入城のイエスに、
人々がパルムの枝を振り、
子供たちが「救世主が来てくれた」と叫ぶシーン。
これも4分を越える。

Track7も同様に出典不明な歌詞のアンティフォン。
受難の6日前、主がエルサレムの街に入った時、
子供たちはパルムの枝を振り、
「ホザンナ」と叫んだ、という内容。

何だか、同じシーンがいろんな方法で、
繰り返し、歌われている感じ。

Track8も同様のアンティフォン。
ここでは、子供たちではなく、
群衆が喜んで、
声を限りに神を讃えながら集まってくる。

Track9は、イムヌスで、
グローリア、ラウス(賛美)。
4分半、「救い主、王、子供らの唇から、
ホザンナの輪が連なる」という内容から始まり、
天使も集まってきて寿ぐ、という感じ。
これは、ほとんどお経的。

ということで、前半は、ほとんど、
エルサレムの救世主歓迎のテイスト。

が、CD後半の内容は、
そうしたお気楽路線ではないことが分かった。

Track10からは最後のTrack17まで、
「枝の主日のミサ」と題された音楽が続く。

ミサには、年間を通じて使われる通常文と、
その日だけの固有文があるから、
ここでは、「枝の主日」用の固有文が、
どんなものであるかが気になる。

この固有文を見て行くことで、
この日が、どのような意味を持つかが分かるわけだ。

Track10は、入祭の儀。
まず、この部分で、「枝の主日」の意味が表明されるはず。

3分半かかるものだが、
あまり、エルサレム入城を寿ぐ固有文的とは言えず、
主よ、私の近くで、ライオンの牙、
一角獣の角からお守り下さい、
と言っている。

詩篇21(22)の20、22、2句と書かれている。

私の「聖書」では、ししの口、
野牛の角から助けて、とある。
いずれにせよ、自分の弱さをさらけ出し、
神頼みで何とかしようとする音楽。

ということで、いきなり冒頭から、
ハッピーな内容ではなく、厳しく戒めを求められる内容。
「キリスト教歳時記」でも、
「レントの最終週に当たり、この時期の節制が、
歴史的にもっとも古くから守られてきた。」
とあるから、あくまで、
「受難週間」の最初の日という位置づけなのであろう。

Track11は、「キリエ」。
これは、さんざん出てくる通常文だが、
キリエとエレイゾンの間の
「エ」が、えええええと延ばされて、
この部分だけで音楽になっているような音楽。
主よ、あわれみたまえ、という感じは出ている。

金澤正剛著「キリスト教と音楽」の、
「ミサについて」によれば、
以上が、「入祭の儀」であるということだ。

次に、聖書朗読がなされる
「ことばの祭儀」になる。

Track12は、グラデュアル(昇階唱)。
聖書朗読の間に歌われるもの。
詩篇72(73)、24と1-3
これはまた、自分の弱さばかりを数え上げるもの。
歌は地味で、のたうち回っているだけのような感じだが、
実際、自分が躓くばかりであったり、
ねたんでばかりであったりと、
情けないことを告白している。

この詩篇は、
「いつの世にも栄える者は悪人であり、
苦しむものは義人である」と歌う、
ちょっと変わり種として知られるもの。
(浅野順一著『詩篇』より)

枝の主日には、こうして、神様に、
恨みつらみをするのもOKなのだろうか。

Track13は、詠唱。長大で11分近くかかる。
再び詩篇21(22)から、今度は、
2-9、18、19、22、24、32の詩句。

この聖歌の歌詞には出てこないが、
この詩篇は、
「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」
という冒頭から、
イエスの最後の恨み節のように語られる部分が出てくる。

岩波新書の「詩篇」(浅野順一著)によれば、
この詩篇21(22)は、
「忘れんとしても忘れ得ざる痛ましい詩」ということになる。

この聖歌も、もう嘆き節以外の何ものでもない。
低音から、おおおおおと慟哭のような音楽が、
低周波で脈動する。

「わが神よ、昼に呼ばわっても、答えられず、
夜に呼ばわっても、平安を得ません」という内容。

このような内容の詩篇が固有文として選ばれることは、
実は、この日のミサは、ますます、
かなりキリストの胸中を考えるべき機会として、
捉えないといけない感じがしてきた。

Track14は、「オッフェルトリウム」
とあるから、ここからが「感謝の祭儀」。
奉納唱、奉献唱と言われるだけあって、
教会に対する献金タイムの音楽だという。

これは固有文で、ここでは、詩篇68(69)が、
選ばれて音楽になっている。
21-22、2、13-14という詩句が採られている。

これまた、おどろおどろしい内容で、
惨めに落ちぶれた者への、
いじめがねちねちと列挙されている。

「彼らはわたしの食物に毒を入れ、
わたしのかわいた時に酢を飲ませました」とか、
「わたしは門に座する者の話題となり、
酔いどれの歌となりました」とか。

音楽も、哀願するような痛切な調べに満ちており、
ニーチェが、キリスト教を、
「ルサンチマンの宗教」ととらえたことが、
実態としてわかる感じ。

Track15の「サンクトゥス」は、
通常文としておなじみのもの。先に聞いたもの。

次に、これまた、通常文、
「アニュス・デイ」が収められているが、
このTrack16からは、「交わりの儀」であるという。
ここで、キリストの肉体の象徴であるパンが裂かれる。
この部分の音楽も、神妙な儀式を想起させる。

Track17は、「コムニオ(聖体拝領唱)」。
ここで、聖体であるパンを信者が受けとるのである。
これは固有文で、マタイ伝から26の42が取られている。
これは、ゲッセマネのシーンで、
かなり感動的なクライマックス。
音楽は簡素なものだが。

「お父様、出来ることなら、
どうかこの杯がわたしの前を通り過ぎますように。
しかし、わたしの願いどおりではなく、
お心の通りになればよいのです。」(塚本虎二訳)

どうやら、「枝の主日」は、こうした、
イエスの逡巡もまた、重要なテーマなのであろう。

最後に「閉祭の儀」があるようだが、
司祭の挨拶だけらしく、ここでは、演奏はない。

こうした、「枝の主日」の性格を考えると、
シューベルトの「枝の主日のアンティフォナ」の表現は、
きわめて教会の目的に合致した内容であったと断言可能である。

得られた事:「シューベルトのアンティフォナの歌詞は、グレゴリオ聖歌とほぼ変わらず、その控えめな表現も、『枝の主日』に相応しい。」
「枝の主日は、イエスのエルサレム入城という点ではなく、理不尽に向けて歩み出す、イエスの心のベクトルでこそ捉えられるべき『受難の主日』であった。」
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by franz310 | 2013-03-24 10:03 | 古典
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