名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その370 |
個人的経験: シャンティクリアの グレゴリオ聖歌のCDには、 MYSTERIAという タイトルが付いていたが、 このCDの表紙にも、 「PASCHALE MYSTERIUM」という、 似たようなタイトルが、 キリストの磔刑図の上に、 ばばーんと出ている。 しかし、このCDの場合、下に、 「Holy Week」と書かれているし、 ドイツ語で「Die Heilige Woche」 ともあるので、明らかに「聖週間」である。 では、「PASCHALE」は「週間」、 「MYSTERIUM」は、「聖」 ではないか、などと思ってしまうのだが、 ネット上で調べると、 「Pascha(パスカ)」は、 「復活祭、イースター、過越」 と出て来るし、「Mysterium」は「謎」と出てくる。 「過越の謎」という意味なのだろうか。 この「過越」と言う言葉は、 聖書関連理解に重要な単語で、 災禍を逃れるために戸口に印をつけるように言われ、 イスラエルの民は、この印ゆえに災いが通り過ぎた、 という言い伝えによるものだ。 この災いをイエスの受難に重ね、 キリスト教では、最後の晩餐から磔刑、 イエスが墓に入って過ごすまでの日々を、 「過越の3日間」と呼んで、 特別視する。 確かに、この後、イエスは復活するので、 災禍は過ぎ去ったと言えるのかもしれない。 一方、聖週間は受難週とも呼ばれ、 イエスが、みすみす、あるいはのこのこと、 エルサレムに入城してからの1週間を差し、 パスカは、その最後の3日ということになる。 ということで、このCDの表題は、 「過越の謎」か「聖週間」なのか、 良くわからない。 これ以上、深追いすると、ラテン語勉強会になるので、 もうやめておくが、どうも、グレゴリオ聖歌のCDには、 やたら「ミステリー」関係のタイトルが多い。 今回のCDは、古楽で鳴らした セオン・レーベルから出ていたもので、 指揮はコンラート・ルーラントが受け持っている。 録音は1976年の1月である。 セオンは、レオンハルトのブランデンブルク協奏曲、 ブリュッヘンのヘンデルのソナタなど、 バロック期名曲の決定盤とされる名盤を数多く出していたが、 プロデューサーのヴォルフ・エリクソンは、 ソニーにヴィヴァルテ・レーベルを興したので、 消滅したのではなかろうか。 このCDは、BMGビクターが、 1994年に出た日本盤だが、 LP時代のセオンはポリドールから出ていたと思う。 さて、このCDが、聖週間の音楽なのか、 過越の謎なのかが気になるが、 収録されているのは、以下の15曲である。 解説は吉村恒という人が書いている。 このCDは、「聖週間のさまざまな聖歌が ほぼ典礼の順を追って収められています」とある。 Track1.「されど我ら誇るべし」(入祭文) は例外らしく、本来は聖木曜日のもので、 Track2.の 「天使と子供らに声を合わせ/詩篇第24(23)篇(交誦)」 からは、「枝の主日」のためらしいので、 一応、「過越」の3日のみならず、 「聖週間の音楽」となっているようだ。 Track1は、 「十字架によって、われわれは救われた」 という内容の歌であるから、 まさしく、この受難こそが、 身を潜めて過越を待つのと同様の事件であったことが、 この短い入祭文からも象徴的に伝えられる。 なおこの曲は、大ヒットを記録した、 シロス修道院の 「グレゴリアン・チャント」第2集の冒頭を飾ったもの。 シロス盤は、ずっと合唱が分厚い。 以下、枝の主日の音楽。 Track2は、アンティフォナと詩篇で、 アンティフォナの本来の役割がよくわかる収録となっている。 本体の詩篇23(24)は、「主の聖殿への入堂」で、 「門よかしらを上げよ、古き扉よ、あがれ」 という、シャンティクリア盤(Track4)でも歌われていた。 この詩篇の前に、補足するような、アンティフォナがあって、 「天使と子供らに声を合わせ、ホザンナ」 という呼びかけのような部分が30数秒、 その後、詩篇が歌われる。 詩篇の後もアンティフォナ。 シャンティクリア盤とは、 アンティフォナが異なる。 改めて見ると、シャンティクリア盤は、 「ダヴィデの子にホザンナ」が、 アンティフォナとして歌われているが、 これは、何と、シューベルトの、 「枝の主日の6つのアンティフォナ」D696の、 第1曲ではないか。 ということは、シューベルトのアンティフォナは、 これ独立で歌われるよりも、 詩篇23(24)と一緒に歌われるべきものなのだろう。 そもそも、アンティフォナは、そうした機能を持つもののはず、 改めて、サヴァリッシュ指揮の宗教曲集から、 この「ダヴィデの子にホザンナ」(約44秒)を聴いて、 さっと、シャンティグリア盤のTrack4を聴いてみると、 共に斉唱で歌われる無伴奏合唱曲だし、 何となく、雰囲気が合っているような気もしなくはない。 ちなみに、ルーラント盤のアンティフォナの、 「天使らと子供らに声を合わせ」という歌詞に、 シューベルトのアンティフォナの第5番が似ている。 「死をも治める方にホザンナ」と、 「死に勝ちたもうた御方に呼ばわらん」は、 同じと考えてもよいだろう。 Track3.「めでたし我らの王(交誦)」は、 アンティフォナでありながら、 間に挟まれる聖書の一節部(ヴェルスス)は、 ここでは、なしで、これだけで2分半。 何と、こちらのアンティフォナの後半が、 「ダヴィデの子にホザンナ」という歌詞になっている。 前半は、「預言者が犠牲としての救い主を告げ、 みな、それを待っていた」という、 かなり説明的なもの。 10世紀からのものとあるが、 大きく伸ばして歌いだされるメロディは、 いかにも古風で、遠くに思いを馳せるような感じになる。 以下、まさしく過越の三日の音楽となる。 「パスカ」の音楽である。 聖木曜日。最後の晩餐に関係するものが3曲。 なお、同趣向のシャンティクリア盤では1曲、 スコラ・アンティクァ盤では5曲歌われていた。 Track4.「これは汝らのための我が身体(聖体拝領誦)」 まさにそのままである。 最後の晩餐で、イエスは、 「食すごとに、 わが記念としてこれをおこなえ」と、 パンやブドウ酒を差して言ったのである。 短い音楽で、言い聞かせるような感じで、 あまり、メロディ的ではないが、 神妙な感じである。 Track5.「慈しみと愛情のある所(交誦)」 「いつくしみと愛情のあるところ、 それは聖なるものの集い」という、 心温まる歌詞に相応しく、 包み込むような音楽である。 「弟子らに範を示し給う、 かれら互いに足洗わんがため」という、 これまた、最後の晩餐の一コマで、 シャンティクリア盤では、 別の歌詞によって、別の音楽(アンティフォナ)であった。 ルーラント盤のものは、 アンティフォナともイムヌスとも考えられるようだ。 Track6. 「我らを一つに集め給えり/詩篇第133(132)篇(交誦)」 もまた、アンティフォナとヴェルススの形だが、 一分ちょっとの小品。 「キリストの愛はわれらを一つに集め・・ いつくしみと愛のある所、 そこに神は在す」というアンティフォナに、 詩篇は、「むつましさ」を歌ったものの、 2行ばかりを使っている。 「されどそは、いかによく、美しきことかな、 はらからたちの親しみ睦み合いてともに住むは」 という、武者小路実篤みたいな内容。 この部分は特に美しく、心にしみるメロディである。 詩篇132(133)の残りは、 「かしらに注ぐ価い高き香油のごとく」 といった、難しい比喩になるので、省略は正解。 以下の3曲は、聖金曜日の音楽。 シャンティクリア盤では、3曲、 スコラ・アンティクァ盤では、7曲が、 この日の音楽として取り上げられていた。 解説にも、「聖なる三日間のなかでも ひときわ荘厳なのが聖金曜日です」とあるとおり、 聖木曜日は、弟子たちとのかりそめながら、 仲睦まじいひと時や絆が切り取られていたが、 ここは、受難当日で、厳しい内容のものが増える。 解説にも、この日にはミサは行われず、とあるが、 これは私の肉である、という聖体拝領すべき本尊が、 十字架上なので、その余裕はあるまい。 「午後には。9世紀以来の古い儀式 『主の受難の祭儀』が行われる」とある。 Track7.「ヨハネによる我らの主イエス・キリストの受難」は、 そのクライマックスらしい。 それぞれの歌手に「配役」があり、演劇的、 と解説にあるとおり、 「ピラト官邸に入り、イエスを呼んで言う、 『汝はユダヤ人の王なるか?』 イエズス答え給う、 『我が国はこの世のものならず』」という、 緊迫した劇的な情景が描かれる。3分40秒。 ピラト(ピラトゥス)は、ローマの総督で、 イエスをさばいた人である。 曲は、最初、「ヨハネによるイエスの受難」と、 いうタイトルも歌われる。 ピラト役は甲高い宦官みたいなイメージ。 対するイエスは、深々と、威厳あるメリスマを聴かせながら、 落ち着き払って、しかし、悲しみの色もたたえて答えている。 「すべての真理に属する者は我が声を聴く」。 不遜な態度にピラトは鞭打ち、祭司長も、 「十字架につけよ」と叫ぶ。 いうまでもなく、福音書の引用であるが、 かなり簡略化もされている。 福音書では、ピラトは、「何の罪も認められない」、 と言ったりもしているが、後戻りできないほど、 ユダヤ人たちが興奮してしまったのである。 このドラマティックなシーンを描いた、 この音楽、先の二つの盤には収められておらず、 「グレゴリオ聖歌」というイメージを越えている、 この受難曲が収録されているのが、 このCDの最大のメリットかもしれない。 Track8.「見よ十字架を(賛同)」 「世の救いは十字架にある」という、十字架賛歌。 独白のように始まるが、 これは有名なもので、 スコラ・アンティクァ盤にも収められていた。 最後には、さえざえと、 「えっけええええ、りいいいぐぬむ」という、 特徴的なメロディが流れる。 プロポーショナル・リズムを売りにする、 スコラ・アンティクァ盤(Track8)では、 「エッケえりいいいいぐううぬむ」と、 単語を明確にしようという努力が見える。 解説によると、「十字架開帳、奉挙」の時の聖歌らしい。 Track9.「インプロペリア;我が民よ/汝の十字架を」 これも、有名なもののようで、 シャンティクリア盤(Track8)や、 スコラ・アンティクァ盤(Track9) と聞き比べが出来る。 8分にわたる長大な音楽で、 「わが民よ、われ汝に何をなせしや?」 という問いかけや、 「おお聖なる神よ・・・我らを憐みたまえ」 という民衆の祈りが交錯する。 何とこの部分は、「トラスハギオン(三聖唱)」と呼ばれ、 ギリシア語とラテン語で交互に歌われているらしい。 解説によると、これは、 司祭が3度ひざまずきつつ、 口づけするために十字架に近づくときの歌らしい。 このような状況下だとすると、 静かな伴奏音楽であるべきだが、 スコラ・アンティクァは、 アジテートが気になるし、メリスマが強烈だ。 ただし、トラスハギオンの緊迫感はすごい。 さすが、言葉本来の力を信じる連中、 いや、方々である。 シャンティクリアは、持続音まで出て、 完全にムード音楽になっている。 そんな中で、ルーラント盤は、 最も、それらしく普通に聞ける。 インプロペリアは、 「不信の民に対するキリストの『とがめ』」だという。 その意味では、ルーラント盤は、「とがめ」より、 悲しい色合いが強いかもしれない。 なお、最後に短いアンティフォナがあるが、 続けて、切れ目は分からない。 Track9.「予言者エレミアの嘆きが始まる(読誦1,聖木曜日)」 ここで、私は大いに混乱する。 もう、聖金曜日まで来ていたはずなのに、 何故か、聖木曜日の音楽になっている。 そして、解説には、 「聖土曜日は『大安息日』とされ、 やはりミサが挙げられません。 聖なる三日間では、 夜中に行われる聖務日課、 朝課(読書)はさらに3つの宵課に分かれていて、 詩篇、レクツィオ、それにこたえるレスポンソリウム 各9編などが唱え、あるいは歌われ、 音楽的にも充実していました。」 と、急に、朝課の話になっているのである。 よく分からないのだが、 おそらく、この部分も、最初のトラック同様、 曜日ごとの「まとめ」から切り離された部分で、 朝課としてひとまとめにしたのであろう。 これには、それなりのメリットはあり、 先に説明があった「レクツィオ」(聖書朗読)は、 異常繁殖をして、様々な名曲を生み出すことになる。 それの先駆けとしての、 グレゴリオ聖歌を、ここでは、 クローズアップしたかったのであろう。 たとえば、Track10を聴くと、 2分ちょっとの独唱で、 「預言者エレミアの嘆きが始まる」というところや、 1、2、3という、アレフ、ベート、ギメルと、 章番号までも歌われているが、 これは、伝統として引き継がれることになる。 クープランなど、のちのフランスの作曲家が、 大好きになるジャンル「テネブレ」である。 かつての栄光のエルサレムの廃墟を嘆く歌が悲しい。 第1宵課で、こうした「読書」をするのは、 悲しい事が起こることに、 心の準備をするためななのだろうか。 Track11.「我らが牧者は去り給えり(応唱4)」 第2宵課でのレスポンソリウム。 分厚い合唱で歌われ、 金曜日に対応するのか、 前半は、「太陽、光を陰らせり」と寂しい歌詞。 「今日、死の門とかんぬきを われらが救い主はともども打ち砕く」 と、後半は復活を予告し、 独唱者はさえざえと、 「主は冥府の防塁をこわし」と、声を上げる。 Track12.「予言者エレミアの祈り(読誦9,聖土曜日)」 これは、ようやく聖土曜日の音楽。 9分半に及ぶ、このCDの最大作品。 独唱が、残響ゆたかに響かせながら、 エレミアの哀歌の第5章(最後)を、 歌い継ぐが、これまた悲しい内容で、 エルサレムの荒廃を訴えて行く。 タリスやゼレンカは、「エレミアの哀歌」を書いたから、 その大元のような音楽。 「われわれの嗣業は他国の人に移り」 と、まるで家電大敗の我が国の現状を嘆くかのよう。 まだ、「家は異邦人のものとなった」 という事態にはなっていないが、 津波のものになった家は多い。 「何とてかくも永くわれらを忘れ われらをかく久しく捨ておき給うや」 という歌詞が泣ける。 Track13.「主よ憐れみ給え/主よ願わくば顧み給え」 などと書かれると、何かと思われるが、 歌詞の冒頭は、ミサ曲に採用される「キリエ」である。 これは、ものすごく単純ながら、 エモーショナルなメロディで、 有無を言わさぬ力を感じる。 シャンティクリア盤やスコラ・アンティクァ盤にも、 「キリエ」は収録されていたが、 これらとは違うメロディである。 が、このギリシア語の歌詞が繰り返される中、 いろいろラテン語でも歌われている。 ドミニコ会の典礼では、これが朝課を閉じる曲だという。 キリエの間に「信徒への手紙」から、 の一節が挟まれているという。 最後は、「キリストは・・十字架の苦しみを受けるを いとい給わざりき」という朗読がある。 Track14.「この日/讃句;主なるキリストは甦り給えり」 何と、キリストの蘇りが、朗読され、 「神に感謝し奉る」という、 強烈なメロディが、 独唱と合唱で叩きつけられて終わる。 これともう一曲は復活祭の聖歌だという。 Track15.「アレルヤ/詩篇第117(116)篇/栄誦」 は、喜ばしい「アレルヤ」の中に、 詩篇の「主のまことはとこしえに留まりしゆえ」が、 ありがたく挟まれる。 この詩篇116(117)は、「讃美歌」とされ、 4行しかない。 前半は、「もろもろの民よ、主をたたえまつれ」で、 後半に上記詩句が出る。 エンデルレ書店版では、 「そのおん慈しみはわれらの上に固く、 そのまことはとこしえに及べばなり」と、 まことにありがたいものである。 復活祭に相応しいものだが、 これは、聖週間というより、パスカの軌跡、 というような内容に収束しているようだ。 このCDの歌詞対訳は磯山雅氏が担当していていて、 参照して、歌われている内容がよくわかった。 得られた事:「ルーラントのグレゴリオ聖歌のこのCDは、同様のタイトルのシャンティクリア盤、スコラ・アンティクァ盤よりも、聖週間の儀式を想起させる選曲で、受難曲から、インプロペリア、さらには朝課でのレクツィオ(聖書朗読)まで扱っている。」 |
by franz310
| 2013-03-16 20:00
| 古典
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