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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その300

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その300_b0083728_112198.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディのオペラ
「バヤゼット」のCDには、
DVD特典が付いていて、
演奏会形式で録音された際の、
各歌手の歌唱風景が収められていた。
ヴィヴィカ・ジュノーという歌手が、
めざましい技巧で目を引いたが、
「ファリネッリのためのアリア集」
というCDでは、カストラート並みの
表現力の新人として紹介されている。


ファリネッリという、18世紀初頭、
一世を風靡したカストラート歌手は、
ヴィヴァルディと活躍の時期を同じくしている。

例の「バヤゼット」の解説では、
アンサンブル重視のヴェネチアのオペラ界を、
この人が、スター重視のナポリ派的なやり口で、
くまなく席巻していった様子が、
おそらくは、図式化された形で強調されていた。

つまり、ヴェネチア派を代表するオペラ作曲家、興行師としての、
ヴィヴァルディのヴェネチアでの活躍を疎外し、
彼の人気が凋落していった時の主要因だというのである。

1740年代になると、ヴィヴァルディに待っていたのが、
窮乏の中での、野垂れ死にだったのに対し、
ファリネッリには、
このCDブックレットの絵画に出ているような、
栄華が待っていたようだ。

この絵画では、芸術の女神が、
血色この上ない、自信に満ちた眼差しの、
彼の頭上に月桂冠をかざしている。

左下にいる赤子はキューピッドだろうか。
背景の天使は、法悦状態にも見える。
彼の歌を聴いて卒倒したご婦人がたを代弁している。

このCDの解説によると、
スペイン王国が直々に、
ファリネッリを王室に向かい入れ、
彼はその側近として働いたとある。
老いてからは、ボローニャで隠遁生活をしたらしい。
物質的には満たされていたのだろう。

聴衆の婦人らは、
彼を「神」とさえ呼んでいたそうだが、
先の「バヤゼット」の解説によると、
ヴィヴァルディは、こうしたスーパースターに対し、
質の良い歌手たちによる包囲網作戦で臨んだようである。

ということで、これまで、その解説書から、
アンナ・ジロー(コントラルト)、
マリー・マッダレーナ・ピエリ(コントラルト)、
といった、ベテランがヴィヴァルディを支えてきた事、
新人、マルゲリータ・ジャコマッツィ(ソプラノ)
などを、ヴィヴァルディ自身が、
発掘してきたことについて読んで来た。

それだけでなく、ヴィヴァルディは、
様々な戦術で、ナポリ派全盛の中、
活路を見いだそうとしていた。
ファリネッリがヒットさせた音楽も自作の中に入れ込み、
逆に、ファリネッリの人気を逆利用しているのである。

確かに、敵のヒットナンバーまでを組み入れてしまったら、
スペック競争では負けるわけはなくなる。
アンサンブルを大事にする、という美学にも則っている。

いかにも、アップルをオープン戦略で包囲する、
グーグルの作戦のようにも見える。

一発勝負がカストラート王国だとすれば、
ヴィヴァルディ共和国は、
まさしく衆知を結し、総力戦で臨んだことになる。

が、その後、ヴィヴァルディが、
次第に追い詰められていくのは、
結局は音楽ではなく、
歌う人そのものが重要だという流れに、
抗しきれなかったということであろうか。

そりゃそうだ、という気がしなくもない。
やはり、ブランドが確立したものに人は弱い。
iPhoneを買いに来た人に、
エクスペリアはいかがですか、
といって寝返らせることは難しいだろう。

また一方で、
ヴィヴァルディの方も、
カストラート歌手たちの、
両性の魅力を合わせ持った、
力強く、音域が広く、均質に伸びのある声を、
利用しなかったわけではない。

この前の「バヤゼット」の解説でも、
先のソプラノやコントラルトに加え、
マンツォーリというカストラート歌手が取り上げられている。

その前に、マレスキという若いバリトンの事も、
ヴィヴァルディの育てた仲間として取り上げた後、
例の「バヤゼット」の解説では、
このように、マンツォーリについて書いた部分がある。

「『バヤゼット』の三番目の若い歌手は、
フィレンツェ人のカストラート、
ジョヴァンニ・マンツォーリで、
ヴィヴァルディ自身が全曲を書いた、
イダスペの技巧的な役割を与えられた。」

イダスペは、ヴィヴァルディのオペラ、
「バヤゼット」の中のギリシア王子、
アンドロニコの友人の名前である。

「この若い男性ソプラノは、
3年前にフィレンツェでデビューしたばかりで、
ここで、彼は喜劇的な役割を演じていた。
彼に著名な劇場でシリアスなオペラを歌わせたのは、
ヴィヴァルディであって、
このことが、1782年に亡くなるまで50年に及ぶ、
彼の長く輝かしいキャリアを保証した。」

このように、ヴィヴァルディは、
単に作曲をしていただけではなく、
プロのスカウトの目で、若い歌手を発掘した。
シューベルトなどは、その点を考えると、
呑気なもので、ただ作曲をしていて、
歌ってくれる人を待っていたような感じだ。

彼の場合、オペラ「アルフォンゾとエストレッラ」を作曲しても、
フォーグルに断られてがちょーんとなったり、
ミルダー=ハウプトマン夫人に楽譜を送りつけたりはしても、
君、これを歌ってみたらどうか、というような立場にはなかったし、
そういう事をしそうにもなさそうである。
そんな立場になる以前に、
若くして亡くなったのは確かだが、
長生きしても、オペラで成功するためには、
こんなにいろいろな事をしなければならなかったわけだ。

さて、解説に戻ると、驚くべきことが書かれていた。

「彼が『バヤゼット』に出演したことで、
彼は、ヴィヴァルディとモーツァルトを繋ぐ、
象徴的なリンクとなった。
彼はキャリアも終わり近くになって、
マンツォーリは、ミラノにおいて、
若いモーツァルトの『アルバのアスカーニオ』の
タイトル・ロールを歌ったのである。」

この記述は、非常に興味深く面白かった。
ヴィヴァルディは1678年生まれで、
1719年生まれのモーツァルトの父親、
レオポルドとも41歳も違う。

つまり、祖父と孫の関係より離れている感じなのに、
ヴィヴァルディの活躍期間が長く、
「バヤゼット」が60歳近くの作品で、
一方のモーツァルトが早熟で、
十代からオペラを書いたりしているがゆえに、
こうした事が起こりえたのである。

ヴィヴァルディとモーツァルトが逆だったら、
なかなかこうは行かなかっただろう。

なお、モーツァルトは、1756年生まれなので、
ヴィヴァルディとは、80年近く年が離れている。
「アルバのアスカーニオ」は、1771年の初演、
「バヤゼット」が35年だったので、
36年後にまだ現役だったということ。

これは、現代においては、十分あり得る話であるが、
18世紀においてはどうだったのだろう。

「アルバのアスカーニオ」は、
ハッセのオペラと並べて演奏されたもので、
15歳のモーツァルトが、長老ハッセを、
かすませてしまった逸話で知られるもの。

ハッセはナポリ派の技法を身につけた大家である。
ちなみにこのCDの表紙写真は、
ジュノーが、ハッセの「ソリマーノ」という
オペラを演じた時の出で立ちを撮影したものだそうだ。

このジュノーのCDでも、
ハッセのオペラからのアリアも一曲が、
Track10に収められている。
オペラ「アルタセルセ」より、
アリア「この心地よい抱擁で」というものである。

アルタセルセとは、ペルシャ王セルセの息子の名である。
このセルセは、部下のアルタバーノに殺され、
セルセの娘と自分の息子アルバーチェを結婚させようとするが、
その時、アルタセルセが現れる、という筋。

「この最後の分かれ、心地よい抱擁で、
私の理想である父よ、私を護りたまえ。
残酷な運命の影が私にはあるが、
この抱擁が安らぎと慰めになりますように。」

アルタセルセとセルセが抱き合っているのか、
アルバーチェとアルタバーノが抱き合っているのか、
よく分からないが、アルバーチェは、
アルタバーノにセルセ殺害の罪を着せられるので、
おそらくは後者の別れのシーンなのであろう。

いずれにせよ、別れのシーンにふさわしく、
しみじみとした感情に満ちたメロディが美しい。
しかも、ヴィヴァルディよりも、
モーツァルトの時代に近い感じがする。
装飾音も無理なく、効果的に使われている。

ハッセは、1699年生まれとあるので、
ヴィヴァルディと同時代とはいえ、
ひと世代若い。
どちらの音楽が新しいという感じではないが、
異なるファッションが浸透してきたのは確かだろう。

このオペラは、かなり人気があったのか、
追加で、ポルポラがアリア「今しもたれこめたこの暗雲は」
というものを書いていて、これも、このCDの
Track9に収められている。

題名にしては明るい、
ミュゼットというか楽しげな舞曲である。
確かに内容は、ちょっとおのろけ的に見える。

「あなたのきれいな睫毛から、
怒りの威嚇があふれるが、
私の愛する太陽よ、
それはすぐにかき消える。
あなたの魅力的な美しさで、
恐ろしい災害で天は私を罰するのだ。」

怒った女性の美しさを賛美するような感じだ。
解説のシュトロームは、これを、
「ハッピーエンドアリア」と呼んでいる。

女性が気を良くして、怒っていたのが、
スマイルになってハッピーエンドになるということか。

ポルポラは、もう一曲、
Track8の「心地よくさわやかなそよ風よ」
というのもある。
こちらは、オペラ「ポリフェーモ」から、
とあるが、解説のシュトローム氏は、
かなりお気に入りのようだ。

牧歌的な作品の中でも出色と書いている。
ポルポラは、ハッセとヴィヴァルディの間の世代だが、
確かに、メヌエット風の展開も優雅で、
モーツァルトの時代を感じさせる。

が、このような音楽になると、
何も馬力が売りのカストラートが、
特に歌う必然は感じられない。
むしろ、ジュノーのような、
繊細な歌い方で良いような気もする。

指揮をして解説も書いている、
ルネ・ヤーコブスは、
このCDの企画責任者のシュトローム教授によって
これらのアリアの原譜コピーを、
送ってもらえたことを喜んでいるが、
とんでもないオタクたちの企画だとわかる。

このCDは、アリア集の間に、
ガルッピ(1706-1785)の、
4声の協奏曲ハ短調という器楽曲が収められているが、
Track5.悲痛なグラ-ヴェで始まる魅力的な作品で、
明らかにヴィヴァルディの時代と、
モーツァルトの時代を結んでいる。

Track6.第二楽章のアレグロでは、フーガ的な展開が見られ、
「ジュピター交響曲」が出て来た、
土壌のようなものすら感じることが出来る。
非常にシリアスでありながら、
メロディと動感にあふれている。
興奮したヤーコブズが思わず唸る声も聞こえる。

この人はカウンターテナーとして鳴らした人であるが、
うなり声はテナーではない。

この協奏曲は、奇妙なことに、
Track7.ため息に満ちた、
いじいじしたアンダンテで終わる。
煮え切らない感じなのである。

ハイドンの「告別交響曲」の方が、
まだ、終わる感じがする。

このような中、ジュノーの声が立ち上がって、
先のアリアが始まるのは、なかなか泣かせる設計である。

さて、ポルポラ、ハッセ、ブロスキと並んで、
今回選ばれたオペラ作曲家は、ジャコメッリである。

この人も1692年生まれとあるので、
ヴィヴァルディより1世代とは言わないが若い世代。

この人になると、「新音楽事典」(音楽之友社)にも出ていない。
ブロスキも出ていない。
このような企画でなければ、
なかなか、日本では親しまれない人たちであろう。

Track4のシチリアーノ、
「神様、気が遠くなりそうです」は、
シュトローム教授によれば、
「哀切な表情が精彩」を放ち、
「シューベルト風の哀調を」備えたものである。

私は、こんな所でシューベルトに出会えて、
当然ながら、大変、満足している。
シュトローム教授の脳裏に、
どのシューベルト歌曲が浮かんだか分からないが、
確かにそんな感じがする。

「ファリネッリのレパートリーとしては珍し」い、
と解説(余田安広訳)にあるが、
確かに、これまた、パワフルな男性的肉体で歌われる必要はなく、
ジュノーのような、魅力的な女性が歌っても、
全く違和感がないものだ。

弦楽の伴奏によるラメントからして美しいが、
時に、木管が重なって色彩感を豊かにしている。
「シューベルト風」とあるが、
いかにも北方のバラードのような感じが、
語られているような感じすら漂う。

が、歌われている内容は、
恋人の別れが死ぬより辛いとか、
真実を語って欲しいなどと連呼しているだけである。

哀感を増すために、時折、オーケストラが、
合いの手を入れて劇的な雰囲気を高めている。

「愛する人よ、私はあなたから離れると、
気を失いそうになる。
恐らく、その苦さは、愛する心には、
死そのものより苦い。
私こそが、あなたの唯一の幸福、
あなたは私のために生まれ、
あなたは常にあなたと共に、などと言い、
真実を語らないならば。」

こうした、言わばドラマの切れ端のような詩には、
確かに、シューベルトも数多く作曲をしている。

オペラ「シリアのアドリアーノ」の中の、
パルティア王子、ファルナスペが歌うものらしい。
内容はよく分からない。

また、ジャコメッリの作品からは、
Track11.「恋するナイチンゲール」が選ばれていて、
このCDの最後を飾る14分の大曲となっている。

最初、リュートの伴奏による、
強烈なレチタティーボの悲痛な序奏から始まるが、
(この部分の歌詞対訳はないようだ)
1分もすると、ナイチンゲールのさえずりのような、
陽気な木管の音色が飛び跳ねる。
急に軽妙な音楽となり、
かつ、技巧の駆使が始まる。

あああと歌うと、ぴーひょろろーと木管の合いの手も入る。

驚くべきことに、このアリアの詩は、
わずか、6行しかない。

「木の葉っぱの中で、ひとり鳴く、
恋するナイチンゲールは、
運命のむごさを語る。
陰深い森で、彼女が、
それに答える哀れみ深い声を聴いたなら、
心も軽く、彼女は枝から枝に跳ね回るだろう。」

なんじゃこりゃの歌詞である。

そもそも、彼女とは、ウグイスか?
囀るのはオスなんですけど。

この、あああ、あああーのような部分も、
私が勝手に想像するカストラートは、
ものすごいスタミナで、
一気呵成に天に登るような声で、
聴衆を魅了したのではなかろうか。

ジュノーは、4分くらいまで来ると、
ちょっとへなへなしている。

シュトローム博士によると、
ジャコメッリのアリアにこのあああああを添えたのは、
ファリネッリであるような書き方をしており、
「恋する」、「歌う」、「むごさ」、「ナイチンゲール」にも、
コロラトゥーラを添えた、とある。

何と、このアリアが歌われるオペラは、
主人公の青年が母親から命を狙われている、
という内容だという。

何故なら、彼女は息子は殺され、
この青年が、その犯人だと思っているからである。

そんな悩ましい状況を描いたものだというには、
何と、間の抜けた音楽であろう、
などと考えてはいけないらしい。

緊迫した状況で、鳥の鳴き声を模して、
彼は、命を狙う母親の気持ちを、
どこかに逸らそうとしているのだろうか。

この解説を読んでから、改めて詩句を見ると、
母親をナイチンゲールになぞらえ、
自分も、その嘆きに同情します、と言っている、
ということだろう。
ナイチンゲールは、だから、
彼女でなければならなかった。

また、あえて、
軽妙に歌う方が、復讐に燃える、
母親の気持ちを、余所に向けることが出来そうだ。

「絶妙の手法で自然界のいとなみを表現する」と、
解説にあるが、
あるいは、この歌い手は、
ヴィヴァルディの「四季」のように、
さっと、この場に自然描写をすることで、
聴衆や、この思い込みの激しい母親の意識を、
いきなり音楽の力で屋外に連れ出そうとしているのか。

レチタティーボが妙に深刻なのは、
そんな状況の反映ということか。
成る程、だから、こんなにも、
わざとらしく明るく、陽気な音楽が、
十数分も繰り広げられるのである。

これは、ハッピーエンド・アリアになったのだろうか。

しかし、ナイチンゲールなど、ひとつひとつの重要単語に、
ナイチンゲええええええ、ええええええールといった、
装飾を加えているということになる。

あああああー、とか、ああっ、ああっ、
ああああああっ、とか言っている部分が、
やたら長すぎるので、
歌詞に比べて長い曲に思えるのだが、
歌詞を利用して、別の世界を表現しようとしているのだから、
仕方がないのだろう。

以上、聴いてきたように、
このジュノーのデビュー盤、
カストラートの歌手にあやかりながら、
ファリネッリの歌い方を再現しようとしたものではない。
より節度に満ちた、品格の高いものとも言える。

とはいえ、一部の曲は、
ずっと、あああ、ああああ、
とか言ってるだけの曲なので、
その節度がどれだけ必要かは分からない。

ただし、カストラートのための曲にも、
情感勝負の曲もあって、そうしたものには、
彼女のアプローチは適していると思われる。

得られた事:「カストラート歌手、ファリネッリは、歌詞にある重要な単語を強調して強烈な装飾を加えたが、それは単に声を披露しているだけでなく、言葉を越えた音楽による背景描写までを想定したものであった。」
「ハッピーエンド・アリア。歌の力で、相手の感情を変えてしまう。」
by franz310 | 2011-10-30 11:02 | 古典
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