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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その260

b0083728_072898.jpg個人的経験:
今回の報告は、前回とおなじ演奏。
何となく、
禁断の報告のような気がしないでもない。
無駄な買い物をしている感じが、
かなり後ろめたい。
私も最初は、同じ録音に、
二組のCDセットを持つことに、
大いに抵抗感があった。
また、それをここで告白して何になるか、
という感じはしていた。


が、これらが、同じ録音をネタとした、
全く異なる商品という感じがする!
というのが今回のミソである。

HMVのサイトで検索しても分かるが、
名匠スウィトナーによる、シューベルトのオペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」は、
前回、傾聴した日本盤のみならず、
ベルリン・クラシックからも発売されている。

では、何がどうかというと、まず、見た目が別。
日本盤はデザインが地味な白黒だったが、
ベルリン盤はカラフルで、かなり対照的である。
おなじ曲とはとても思えない。

ただし、いずれを取っても、
意味不明であることに、
何ら変わりがあるものではないのだが。

日本盤のデザインは、誰がやったか分からなかったが、
このドイツ盤も、いろいろ解説書をひっくり返しているが、
やはり、デザイナー名がない。
黄緑色の背景の下部に、紫の線が横に伸び、
その上に大きな赤い五角形のようなものがあって、
さらに濃い山吹色の、石碑状のものが重なっている。
何なんだこれは。

さらに、このCD解説、日本盤と違って、
かなり作品に対して前向きな事が書かれている。

「ショーバーのリブレットは、あまりに類型的、稚拙に過ぎ、
しばしば現れるシューベルトの素晴らしい音楽でも
救われることなく終わってしまう」、
「全体がメルヘンチックで牧歌的な
間延びした”うた物語”になっている」と、
語り尽くされた事が書かれているのが日本盤であるのに対し、
さすがドイツ盤は、新しい切り口を提示している。

解説は、Bernd Krispinという人が書いている。

「『アルフォンソとエストレッラ』の素性は、
シューベルトの作品群の中では異色のものである。
1821年の秋の初め、彼は台本を書いたショーバーと共に、
当時のオペラの伝統から、
明らかに離れた意図を持つこの作品を書くような、
いかなる公式な約束もないままに、
平安で静かなザンクト・ペルテンに逃避した。
彼等の手紙から察するに、
二人の男たちは、驚くべき共同作業を行ったが、
それゆえに、シューベルトが無批判に、何の下書きもなく、
友人の書いた言葉に曲を付けて行ったという非難がある。」

という風に、これまで言われて来た事を、
否定してくれる期待が高まる。

以下、この作品が、生まれた環境ゆえに、
不遇だった事が説明される。

「生前には、付随音楽ロザムンデの初演時に、
序曲のみが、公式に演奏されたが、
当時のヴィーンの劇場における事情ゆえに、
シューベルトは全曲が舞台にかかるのを、
見ることが出来なかった。
成功への重責から、
両宮廷劇場の監督、ドメニコ・バルバーヤは、
聴衆が必ず有頂天になるロッシーニや、
あるいはウェーバーのように
評価の定まった名前を取り上げるのを好んだ。
しかし、ヴィーンからの依頼で書かれた、
後者の『オイリュアンテ』が完全な失敗に終わると、
バルバーヤは、まだ駆け出しだったドイツ・オペラを、
支持するために、さらなる努力をすることに対し、
すっかり興味を失ってしまった。」

このように、シューベルトでなくとも、
この時期、ドイツ・オペラ上演が、
極めて難しい状況だったことが語られている。

「シューベルトにとって、もう一つの障害は、
影響力のある友人たちが、
バルバーヤのやり方に抗議して、
劇場から手を引いてしまい、
しかるべき所に声が届かなくなってしまった。」

これは、フォーグルが引退した事などを
示唆しているのだろうか。

「ヴィーン外での演奏は、まだ当てがあった。
が、ドレスデンでの上演は、
『オイリュアンテ』をシューベルトが否定したのを、
よく知っていたウェーバーが、支援をする気がなくなって失敗した。
ベルリンでの上演は、
エストレッラの役が不適切だと思った歌手、
アンナ・ミルダー=ハウプトマンの異議によって
キャンセルされた。
三度目のグラーツにおける試みも、
オーケストラがその技術的困難さを克服できないと感じ、
上手く運ぶことはなかった。」

以上のうち、最初の二つの話は有名であるが、
グラーツでの上演が、そんな理由で流れたとは知らなかった。
たしかに、この作品、オーケストラの雄弁さは、
特筆すべきものがあろう。

「シューベルトの死後、
このオペラはこの作品自身ではなく、
作曲家に敬意を表したフランツ・リストが、
アルフォンソとエストレッラを擁護するまで、
忘却の中に消えていた。
パリで、完全に新しいリブレットこそが、
上演には欠かせないと感じていた彼は、
1854年6月24日のヴァイマールでの初演のため、
最終的に作品をかなり短縮させてよしとした。
リストは、物語を引き締めて進行させるべく、
独白部を主に取り去った。」

シューベルトの友人で台本を書いたショーバーは、
何と、リストの秘書をしていた事があり、
その影響でリストがこの作品を初演したのだと思っていたが、
リストが、リブレットにケチをつけていたとしたら、
ショーバーはさぞかし、面目を失ったことであろう。
シューベルトに密着していた友人であるのにも関わらず、
この人が、あまり、シューベルトについての、
回想を書き残していないのは、
そうした経緯もあるのではないかと思った。

「ヴァイマールでの初演は、数十年に一度の機会であった。
ヴィーンの宮廷劇場の音楽監督フックスが、
複雑な筋を単純な進行に変えてこの作品に挑戦する、
1880年代まで、この作品の上演はなかった。
しかしながら、それでもなお、
フックスは、音楽自体に音楽と、
自作の言葉や他の曲からの言葉を組み合わせて、
徹底的な変更を施して、
それがオリジナルのメロディを改変するまでに至っている。
1881年3月、カールスルーエでの改作初演に、
カッセル、ヴィーン、ベルリン、
マンハイム、ハノーヴァーでの公演が続いた。」

このフックス版「アルフォンソ」も聴いてみたいものだ。
が、現状でも、筋がそれほど込み入っているとも思えない。

「20世紀になると、『アルフォンソとエストレッラ』は、
様々な放送局によって企画されたコンサートで、
時に部分的にではあれ、聴かれるようになり、
1977年と1991年には全曲が舞台にかけられた。」
さらなる怪しげな改作として、
このオペラとシェークスピアの
『テンペスト』との類似性ゆえに、
クルト・ホノルカによって、これらが結合され、
2幕のオペラ『不思議な島』が作られて、
1958年にシュトゥットガルトで初演された。
この改作に対する最大の問題点は、
シェークスピアの言葉とシューベルトの音楽が、
コンテクストからして乱雑に切り離されている点である。」

20世紀も後半になってから、
このような不思議な扱いを受けていたというのも面白い。

「劇場がシューベルトの『アルフォンソとエストレッラ』を、
完全に無視していた事実は、
シューベルトについて書く人が、
何世代にもわたって、この作品に、
『上演不可能』というレッテルを貼って、
しばしば、シューベルトが、
単に劇的なオペラを扱うことができなかった、
と断言したことに起因している。」

という風に、この解説を書いたクリスピン氏は、
あくまで、先入観から離れようとしている姿勢を見せる。

「何十年もの間、批評家は、
ショーバーの台本に焦点を合わせ、
音楽自身については、本質的な議論をなおざりにしてきた。
シューベルトのオペラ作品については、
劇作家のアンチテーゼとされる彼の一般評価が、
間違っていると暴かれるまでは、
厳密な評価はなされなかった。」

このあたり、初期の長大なバラードなどに見られる、
すばらしいドラマ性がクローズアップされるようになって、
大きく肯きたいところだ。

しかし、生誕200年の1997年に出た、
朝日選書「シューベルト」でも、
「表層的な効果ばかりを狙って人物像が生きてこず、
ドラマとしての求心力に欠け、
日常生活とおなじ平凡なリズムに陥っている」と、
書かれているように
シューベルトのオペラはまだまだ、
クリスピン氏のような意見は少数派である。

私は、今、このスウィトナー盤のCD3の、
Track3のあたりを聴いているが、
アルフォンソによるエストレッラ救出のシーンの、
素晴らしい迫力に息を呑んでいる。
が、Track5で、敵将アドルフォが消えると、
確かに、いきなり、日常的な愛の歌になる点には、
戸惑いがないわけではない。

ということで、このような意見は、
両方とも、嘘ではないような気がする。
しかし、Track6で、再び、緊迫感が高まり、
シューベルトは、あえて、叙情的な音楽で、
メリハリをつけたような感じもする。
シューベルトは、やろうとすれば、
何でも出来たような気がする。

結局、このクリスピン氏も、
このあたりを結論としていて、
下記のように、このオペラの背景にあるものを、
探りだそうとしている。

「シューベルトとショーバーは、
単なる騎士のロマンスになることを、
この世ならぬ響きによって上手く避けて、
二つの美学論を模範的に結びつけた。
それは、イグナーツ・フォン・モーゼルの
『劇的音楽美論試論』(1813)と、
クリスチャン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトの、
『音楽美学理念』(1806)である。
前者は、グルックによって確立された
パースペクティブの美学の上に立ったもので、
物語の進行や、使われるべき材料の選択、
劇音楽の機能、オーケストラの扱い、
リブレットにおける朗唱法、
アリアの継続性など、
詳細な指示を含む。
シューバルトは、彼の役割として、
これぞれの調性の個性の重要性において、
極めて主観的なものであった。」

つまり、シューベルトとショーバーは、
気まぐれに作品を書き進んだのではなく、
所定の美学理論を実践しようとした、
ということであろう。

これは、先の朝日選書に、
「台本の重要さは知ってはいたが、
専門の台本作者や台本を厳選するよりは、
友人たちの書いた台本で済ませることが多かった。
それらが自分の音楽のイメージと合うかどうか
一行一行厳密にたしかめ、
彼らと一字一字とことん議論したという話は聞かない」
とあるような、適当なイメージとはほど遠い見解である。

ショーバーもシューベルトも、
何か高い理想を求めて、奮闘していたように見える。
そもそも、一行一行、一字一字議論した、
などという話は、ベッリーニの「ノルマ」の、
ヒットナンバー、「清き女神」で特筆されるような話で、
めったに出て来るものではないような気がする。
いきなりハードルを上げて、飛び越せないからダメダメ、
と意地悪を言っているように見える。

なお、ヘルトリングの小説では、
「聴いてくれ、ショーバー。
こんなのはどうだろう。」(富田佐保子訳)
と、二人が一行一行論議している光景が、
描写されている。

ということで、いろいろ言いようや、
妄想もあるようだが、
このCDのクリスピン氏の結論は、
下記のようになっている。

「『アルフォンソとエストレッラ』は、
これらの美学標準の古典的な解決の一例で、
これを極限まで拡張し、
それによって、各エピソードは独立して扱われる傾向にあり、
叙情的な部分の挿入によって、進行が遅くなる傾向にある。
シューベルトの音楽は、進行に沿って流れるが、
拡大されたレシタティーボと、
情景の絶妙の彫琢に眼を見張るものがある。
この作品は、かくして、オペラの世界において無類のもので、
この録音によって、再び生命を宿すことを期待するものである。」

確かに、バラバラな曲集にも見えるが、
これは、彼等が意図した美学であるということ、
さらに、これはこうした路線の希有の成功例である、
というのが、この解説の要点であるように見える。

1994年の商品なので、解説は少なくとも、
この時点では書かれていたはず、
日本盤は、97年のものであるから、
これより先に進んだ内容があって欲しかった。

このように、デザインのみならず、
解説の方向性も、まったく違うものになっているのである。

しかし、これだけだと、輸入盤と国内盤で、
よく起こりうる違いにすぎない。
国内レコード会社は、パッケージだけ変えて、
別商品にしたいからである。

が、今回のCDは、もっと大きな違いがあるような気がする。

実は、国内盤には、
SBMとか、PDLSという
高分解能技術や、編集上の改善技術が使われているとあって、
大変期待していたのだが、
音が固いのが気になっていた。

このベルリン盤は、No Noise-Systemという、
何だか、古くさい名前の編集システムが書かれているが、
何と、こちらの方が聞きやすいのである。
私は、アルフォンソがエストレッラと出会う、
第二幕から聞き始めたのだが、
いきなり、フロイラの歌における
ハープの響きに陶然となってしまった。

何だか、オーケストラの花園が、
眼前に広がっているような錯覚を覚えたほどである。
アナログ的な空気感、自然な減衰感に驚愕した。

そんなはずはないと、技術を誇示した、
日本盤を再度取り出して聞いてみると、
どこが、というのは難しいが、
やはり、何だか寸詰まり感がある。

はたして、これは日本の技術過信なのか、
あるいは、原盤の質の悪いのが回された結果なのか、
どっちか分からないが、何だか、
後者の可能性も感じる。
この業界のことは良く分からないが、
あるいは、価格交渉時に値切って、
しょぼい盤を回された可能性もあろう。

ということで、各楽器の分離や、各々の美質、
合唱の広がりや迫力、ビッグな歌手たちの声の張りなど、
どうしてもベルリン盤で聴きたくなる。

冴え冴えとしたCD1のTrack7、
アルフォンソのアリア冒頭のフルート、
Track10の角笛に続く女声合唱のみずみずしさ、
Track11で登場するマティスの声の清純さ。
枚挙にいとまがない。
こうした繊細さの違いは、
CD2のTrack4、エストレッラの心の高鳴りに、
アルフォンソが重なって来る心理描写にも影響する。
何とすばらしい音の絵画であろうか。

また、弱音系だけが救われているのではない。
低音でうごめくリズムの絶妙さ、
迫力に満ちたCD3の冒頭から最後まで、
音の凝集に窮屈さがないので、すごい迫力を感じる。
特に大団円の合唱、エストレッラの声がひっぱって行く所も、
こんな演奏を目の前で聴いたら、
しばらく放心状態になるのではないか、
などと考えてしまった。

前回、この演奏は、教科書的に杓子定規な感じがする、
と書いたりもしたが、どうやら、音質のせいであった、
などと弁解したくなる。
そこからどこまで、文句なく立派な演奏である。

つまり、今回のベルリン盤の音質差の発見によって、
作品そのものの魅力そのものが、
かなり変わってしまったのである。

これを聴くと、歌の連なりのような前半も、
眼をうるうるさせて聞き惚れてしまい、
前に書いた短縮処理など、しなくて良い、
この作品は、これで充分、という気持ちになってしまった。
演奏ばかりか、作品までが文句なしになった。

それにしても、これは商品の本質に関わる困った事だ。
日本盤で良いのは、歌詞対訳が付いていることだけになってしまった。
だから、私は、冒頭で、禁断の報告になると書いたのである。

こんな事を書いたら、日本のレコード会社の商品を、
買いたくなくなってしまうではないか。
いくら、24ビットとかすごい技術を駆使しようとも、
元にする原盤がボロだといかんともし難い。

さて、何となく、この作品の、
汲めども尽きぬ魅力が分かって来たところで、
この作品が、これまで、
どのように扱われて来たかを概観しておきたい。

1957年に書かれた、
シュナイダーの「シューベルト」では、
シューベルトのオペラで今でも上演される可能性があるのは、
「家庭騒動」だけである、としながらも、
「アルフォンソ」についても、
合唱は心地よく、各曲の組み合わせ、
楽器法についても特筆されている。

1965年のブリュイールの「シューベルト」では、
「劇的天才であったシューベルトには、
演劇的天才が欠けていた」とされ、
ちょっと、関心が後退した感じである。

1985年の渡邊學而著「フランツ・シューベルト」では、
「このオペラの音楽は、シューベルト特有の叙情性に加えて、
劇的な性格も充分発揮されている第一級のもの」とされており、
うまくいかないのは、ショーバーの台本のせいとしている。

おそらく、今回のスウィトナー盤の登場によって、
ようやく、この作品の全貌を把握した言及がなされた感じであろうか。
が、ショーバーには責任あり、ということか。

同年、オズボーンが書いた、「シューベルトとウィーン」は、
私の好きな著作であるが、このオペラは、ほとんど無視されている。

いよいよ生誕200年の年、1997年になると、
ヒルマー氏の書いた「シューベルト」において、
ショーバーは、「当時のジングシュピールにおいて人気のあった
感傷的な牧歌と、英雄的な騎士オペラのいわば混血児」を、
この作品の骨格とした、という表現が見られてくる。

ようやく、いい加減に作られたり、
才能の欠如による失敗作ではなく、
もともと、彼等の意図に沿った作品である、
という見解が出て来た感じだ。
ショーバーも、よく考えた、という感じだろう。

2004年の作曲家・人と作品シリーズの、
「シューベルト」では、再評価の機運が高まっている、
という報告に留まっているのが歯がゆい。

そんな中、1992年にナツメ社が出した、
クラシック名曲・名盤辞典では、
集中的にシューベルトのオペラが取り上げられていて、
今回のスウィトナー指揮の国内盤解説を書いた小林氏が、
気を吐いているのが印象的であった。

得られた事:「『アルフォンソとエストレッラ』は、ショーバーとシューベルトが熟考して、思惑通りの結果を得た、素晴らしい仕上がりの作品である。」
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by franz310 | 2011-01-16 00:10 | シューベルト
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