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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その242

b0083728_9452335.jpg個人的経験:
ボロディン四重奏団が、
リヒテルと録音した、
シューベルトの「ます」は、
長年にわたって名盤とされてきたが、
私は、あまり楽しめないでいる。
今回、リヒテルのシューベルト、
それから、ボロディン四重奏団の、
西側デビュー以来の歩みを追体験し、
改めて、彼等のシューベルトを
聞き直してみたい。


これまで聴いて来たところ、
ボロディン四重奏団の力感がありながら、
透明さを大切にしたアプローチは好ましいものに思ったので、
シューベルトでも、それは活かされて良い結果を生むはずだ。

さて、ここに取り上げるものは、
彼等が共演した最後の記録のようなCDで、
シューマンのピアノ五重奏曲である。
ライブ録音で1994年のもの。
6月16日、18日とあるが、
二日の公演のつぎはぎなのだろうか。

その前に収められた、
シューベルトの「死と乙女」が、
1995年8月のスタジオ録音である。

「何十年も同じメンバーで続いていた、
ボロディン四重奏団も、
最近、メンバーが変更になった。
このリリースは、コペルマン、アブラメンコフ、
シェバーリン、ベルリンスキーによる
最後のものである」と、解説にも書かれている。

この四重奏団、
第1ヴァイオリンとヴィオラが、
1996年に代わっている。

表紙デザインは、曲想を表したものではないが、
落ち葉に埋め尽くされたベンチ二つが、
彼等の長い来し方を表現しているようで味わい深い。

独テルデックレーベルのものだが、
カバー・フォトは、Mehlig/Mauritiusとあるが、
モーリシャス?
ロシアの音楽家が、
独墺の作曲家を演奏したものだが、
すごい落ちである。

しかし、ボロディン四重奏団は、
ショスタコーヴィチはメロディアやバージンから出たし、
シューベルトの「ます」はEMIから、
これはテルデック、
さらにこの後のメンバーのものは、
確か、シャンドスから出て、
様々なレーベルを変遷したアーティストたちだ。

特にシューベルトの弦楽四重奏の場合、
あちこちに分散していてややこしい。

この楽団は、西側に出た当初の、
透明で古典的な凝集感に、
第1ヴァイオリンがコペルマンに代わってから、
艶やかな広がりを加えた印象だが、
この「死と乙女」は、
その長所のとてもよく出た演奏だと思う。

死の影をもよせつけぬような、
美しい音色が放射されている。

このCDの解説は、
Bettina Fellingerという人が書いているが、
この解説は、以下に見るとおり、
死の想念を強調したものであるだけに、
ちょっと、内容の不一致が生じている。

また、このCDに収められた、
全く関係ないはずの2曲が、
何となく関連あるような書きぶりなのである。

冒頭に、歌曲、「死と乙女」の歌詞(クラウディウス作)
が上げられている。

「乙女:
通り過ぎて、通り過ぎて。
死の惨たらしい有様よ、
私は、でも、若いの。行ってちょうだい。
私に触らないで。
死:
あなたの手を出して、愛らしく優しい子、
友達だよ、責めたりはしない。
楽にして、乱暴はしないから。
私の腕の中で静かに眠るだけだよ。」

改めて書き出すと、
ものすごく気味の悪い内容である。

この解説によると、この四重奏曲は、
単に、この主題を借用したものではなく、
強烈にこの死に起因するものだと言う。

「フランツ・シューベルトの名前は、
ロベルト・シューマンのエッセイ『音楽と音楽家』の中で、
当時の作品を批評する際に、
数限りなく取り上げられている。
これは、彼が、その時代の作曲家の成功や失敗を、
ベートーヴェンやシューベルトを基準にしていたからである。
また、特別な作品に対する文章は、
歌曲王、シューベルトの芸術を祝う、
称賛の賛歌となっている。
シューマンはごく初期からシューベルトを崇拝し始め、
その感情はすぐに熱狂以上のものになった。
血気盛んな青年として、
彼は1928年のシューベルトの死に深く動かされ、
その報を聴いた際、
彼が一晩中むせび泣いていた事を、
隣人は回想している。
しかし、シューマンは、
必ずしもシューベルトの作品に、
無批判な態度を取っていたわけではない。
交響曲と歌曲については、
『新世界の創造者』として認めていたものの、
その室内楽の評価に関しては、
より慎重な態度を取っていた。
弦楽四重奏曲第14番ニ短調は、
彼が徹底的に是認した一握りの作品の一つである。
事実、シューマンはこの作品を、
ベートーヴェンの最初の子供の
特に成功したものと考えていた。」

シューマンが評価したシューベルト作品としては、
まず、大ハ長調交響曲があり、
室内楽で言えば、ピアノ三重奏曲などが広く知られるが、
「死と乙女」を激賞していた記憶があまりない。

しかし、この解説者は、その文学性ゆえに、
この作品をさらに高く評価していたように書いている。

「シューマンは恐らく、
『死と乙女』と題されたニ短調四重奏曲を、
音楽的でない意味合いを、
一般に室内楽に用いられる形式構成に、
入れ込むことができるかという、
完璧な例証と考えていた。
それが持つ詩的な想念が、
そのロマン的心情に訴えたものと思われる。
ハンス・ホランダーが述べたように、
この四重奏曲は、
『死と解放に関する永遠の主題の音楽的パラフレーズ』
なのである。
シューマンはシューベルトを、
その死の憧れゆえに、
詩人ノヴァーリスと対比しても良かっただろう。」

私は、この四重奏曲は、
第2楽章にたまたま、この主題を選んだものと考えていたが、
そのような考えは、厳しく叱責され、否定されるのが、
今回の解説の趣旨である。

また、このブログの主題たる、
「ます」の四重奏曲も、それになぞらえられている。

「シューベルトの音楽作品のいくつかは、
文学的着想から霊感を得ている。
ピアノ五重奏曲D667も、
彼の特に有名な歌曲『ます』(D550)の引用ゆえに、
不朽の成功を確実にした。
その5年後に書かれたニ短調四重奏曲でも、
再度、彼は歌曲からの一節を引用した。
1824年にこれを作曲する少し前、
彼は深刻な病気にかかっており(1823)、
この四重奏曲は、徹底的に個人的な作品となっている。
マティアス・クラウディウスの詩、
『詩と乙女』という、文学的なモデルを得て、
シューベルトは彼が実人生で経験した、
希望と死への恐れの対話を、
美学的な言葉に翻案することを試みた。」

ということで、この曲を作曲した時の、
シューベルトの心理は、
1.病気にかかった
2.こりゃまるで「死と乙女」の心境だな、と考える
3.四重奏曲を書こうとすると、「死と乙女」で溢れてしまう
という感じか。
さらに恣意的に考えると、
3’.四重奏曲を、この死の乙女の対話で埋め尽くそうと設計を開始
ということになる。

それを参考にすると、「ます」の場合、
1.シュタイアーの街で楽しかった
2.こりゃまるで「ます」の心境だな、と考える
3.五重奏曲を「ます」の気分で埋め尽くそうと設計開始
ということになるが、
実際は、歌曲「ます」が好きだった人に、
作曲を依頼されたのだった。

が、これが契機になって、
「ます」の歌曲が前半で歌う、
束縛のない自由さが、当時の解放感に調和し、
全曲にこの歌曲の気分がみなぎるように設計したとも考えられる。

「ホランダーは、
『歌曲に基づく変奏曲は、
深刻な性格だった作品に、
気ままに追加されたわけではない』と指摘する。
反対に、
『それは核に等しく、
全作品の詩的で象徴的な開始点なのである』。
シューベルトは、7年前に作曲した、
クラウディウスのテキストによる
歌曲の一節を利用した。
こうした、音楽的なほのめかしは、
アンダンテ・コン・モートの変奏曲楽章で明確で、
『楽にして、乱暴はしないから。
私の腕の中で静かに眠るだけだよ』の部分を引用している。
この動機の一部は、二つの続く楽章でも現れる
(この理由によって、フィッシャー=ディースカウ他は、
この曲を『死の舞踏』と呼んだ)。
終曲で、この曲は、
シューベルトの『魔王』(S328)の、
『お父さん、魔王が見えないの』を引用して、
スリリングなクライマックスに向かう。
今や、それが、1817年に書かれた歌曲の、
懐柔的な結末を注意深く避けようとした、
見識であるということに直面せずにはおれない。」

難しい言い回しだが、「死と乙女」の歌曲は、
激しい終結部を持たないがゆえに、
「魔王」のパワーを利用した、
ということだろうか。

「シューベルトのニ短調四重奏曲は、
内心の告白のようなもので、
作曲家が、自らの死すべき運命を見定めた結果と見える。
この曲のユニークな質感は、
救済と無慈悲な絶望のムードのイメージを
描いたことからもたらされている。
シューベルトは、
自身の最後が近づいていることを予期していた。」

ボロディン四重奏団の演奏は精緻で、
かつ、推進力に富んでいて美しい。

第1楽章の冒頭からして、
悲鳴のような音ではなく、
堂々としていて野心作が始まった、
という実感がある。
提示部の繰り返しもあって、
マスターワークであることが確認される。

第2楽章の変奏曲も、格調高く落ち着いている。
変奏によっては、素っ気ないほどの表情で進むが、
べたつきがなく気持ちがよい。
こんな点は、西側デビュー時からの、
彼等の美学と言えるかもしれない。

解説にあるような文学的な解釈は、
ここではまるで反映されていないようだ。
しかし、音楽の密度が次第に凝集していく様は、
さすがと言わざるをえない。

第3楽章のスケルツォも、
剛毅な主部に、繊細なトリオの対比が美しい。

終楽章も、楽譜のままを、
明晰に力強く演奏した、という感じで、
芝居がかっていないのが気持ちよい。
この曲の場合、ただでさえ、
息詰まるような緊迫感が負担になりがちだが、
この演奏では、むしろ勝利感すら漂う明るさがあり、
私にはありがたかった。
コペルマンのヴァイオリンの楽天的なカンタービレが、
そんな感じを強調している。

ただし、その分、他のメンバーが脇に追いやられ、
いくらか迫力不足のクライマックスかもしれない。
この解説にあるような、
どうしようもなさ、みたいなものまで追い込んでいない。

解説で触れられていた、「魔王」の、
「お父さん、魔王が見えないの」のメロディも、
むしろ耽美的に響いている。

「19世紀の室内楽において、
悲音楽的着想は一般的なものであり、
シューマンのこの分野の作品も、
絶対音楽と考えられることはなかった。
ピアノ五重奏曲作品44は、
チャイコフスキーのお気に入りの作品で、
典型的なロシア人の熱情で、
『情熱と魔法』の充満と考え、
緩徐楽章については、『愛する者の悲劇的な死』
を描いていると述べた。
事実、シューマンは1842年、
第3楽章に『シェーナ』と書いたスケッチを残し、
この種の詩的な着想の事実を仄めかしている。」

ということで、ここでも「死」が出てくる。
偶然のように組み合わされた二曲であるが、
ここでは、あたかも、「死」というテーマで選ばれた、
ロマン派の室内楽、といった感じでまとめられている。

しかし、ボロディン四重奏団の第2期メンバーの最後期と、
リヒテル晩年に録音された二曲は、
本当に最初から組み合わされる目的があったのだろうか。

ブックレットを見ると、
エクゼキューティブ・プロデューサーが、
シューマンがデッケンブロック、
シューベルトがケッチとなっており、
別企画が、かれらの死やメンバー交代によって、
無理矢理、合体したような感じである。

あるいは、シューマンはブラームス、
あるいは、ピアノ四重奏曲あたりと、
「死と乙女」は他の四重奏曲と、
組み合わされる予定があったのかもしれない。
メンバーが交代してしまい、
出来なくなってしまったこともあっただろう。

ちなみに、「ロザムンデ」の四重奏曲は、
1991年にすでにヴァージン・レーベルに録音してあるので、
組み合わせとして、これしかなかった可能性もないわけではない。

などつべこべと考えるのも面白い。

しかし、さすがボロディン四重奏団用の解説である。
彼等が得意とする、チャイコフスキーが唐突に登場するのが良い。
そこまで解説者は配慮したのだろうか。

とにかく、この解説では、
シューマンの五重奏にも、
死のイメージがあると言うが、
私は、これまで、そんな事を考えて聴いたことがなかった。

緩徐楽章は、第2楽章だと思うが、
第3楽章のスケッチの話も出てくる。
混乱するが、下記に大改訂の話もあり、
楽章が入れ替わったのかもしれない。

言われてみれば、第2楽章は、
悲しい音楽である。
しかし、この部分を聴きながら思ったのだが、
リヒテルのピアノは、妙に句読点を明確にしたがっているようだ。
重いし、神経質に音が打ち込まれる。
リヒテルは、この曲の中に、
何かそうしたものを見てしまったのかもしれない。

が、それはボロディン四重奏団の行き方ではない。
しかも、ピアノがややクローズアップされた録音が、
それらを調停させていない。

コペルマンはリヒテルのような大家の前に、
持ち前の楽天性を発揮しきっていないのではないか。

このような行き方は、
シューマンの沈鬱には対応していても、
シューベルトの「ます」などは、
喜びが舞い上がらないのであろう。

ちなみに私は、シューマンでも、
これは重すぎるのではないか、
と思った。

ボロディン四重奏団も興奮すると破綻する事があるが、
彼等は一歩引いているようで、
リヒテルは、それにお構いなく、
思うがままに振る舞って、
ボロディン四重奏団の透明感を濁らせているようにも思える。

先入観かもしれないが、
リヒテルのような音楽家は、
自分の考えを共有しようと努力することなど、
考えなかったのではないだろうか。

「この五重奏曲は、
シューマンの室内楽作曲期に書かれた。
1840年、ピアノ曲の作曲を離れ、
『歌曲の豊かな収穫』を開始した。
それから、続く年、
彼は注意を交響曲に向けた。
さらに翌年、
1838年から、
すでに弦楽四重奏のスケッチをしていたが、
遂に室内楽の世界の探究を始めた。
1842年7月、ハイドン、モーツァルト、
ベートーヴェンの室内楽を
3年の長きにわたって詳細検討した後、
シューマンは3曲の弦楽四重奏曲を連続して書いた。
続いて、ピアノ五重奏曲作品44と、
ピアノ四重奏曲作品47が書かれた。
後に、彼は五重奏曲に多くの修正を加えた。
これらの校訂のうち、最も特記すべきは、
変化に富む楽章が主題的に関連づけられたことである。」

これまた、初めて知った。
出版された後のことだろうか。
あるいは、初演の後のことだろうか。
主題的に関連づけるのが、後から出来るものなのだろうか。

「シューマンから、
最終稿をプレゼントされたメンデルスゾーンは喜んだ。
そして、初演に参加したクララ・シューマンは、
『素晴らしく美しく、活力と瑞々しさに満ちている』
と述べた。
後世は、メンデルスゾーンが正しいと証明した。
今日に至るまで、
この五重奏曲は、
ロマン派の室内楽のレパートリーで、
最も人気のあるものの一つである。」

ライブ録音ということだが、バランスはともかく、音質は悪くない。
リヒテルのピアノと、四重奏団の音色の重なりが、
非常に美しく捉えられている場面もある。

第1楽章などは、シューマン当時のピアノで聴きたい感じ。
どばーんと現れるリヒテルのピアノが装甲車のようだ。

ただ、第2楽章における弱音のピアノの向こうで、
ヴァイオリンとチェロが対話する部分など、
無限の幻想の広がりを感じる。
これは、リヒテルが作り出した舞台の上で、
四重奏団の各奏者が演技を強いられているかのような、
不思議な無重力感を感じる部分である。

解説にあるような、愛する者の死のイメージが、
喪失感として伝わって来る。

第3楽章は、スケルツォなので、
自由な飛翔を求めたい。
この楽章もトリオなどは、
ピアノが弱音で伴奏に回るので、
同様の効果が表出される。

が、主部のピアノのリズムに、
リヒテルは自らの感情移入、
もしくは夢遊病状態の陶酔に入り、
我が道を行っているように聞こえる。
おそらく無意識にそうなっている。

終楽章も、ぽつんぽつん、ぼんぼんといった、
ピアノの伴奏や弱音ですら、リヒテルの強烈な主張があり、
それが、最後は主導して引っ張っていくのだから、
いかに猛者ぞろいの四重奏団とはいえ、
ひとたまりもなく、この熱い渦に飲み込まれていくこととなる。

空中分せず、共に熱いだけ良い。

録音バランスがこれを強調しているかもしれないが、
シューマンに一家言持つリヒテルの前では、
妙にレパートリーが偏った四重奏団としては、
こうなるしかないかもしれない。

得られた事:「幻視者リヒテルが、古典的な四重奏団と共演すると、前者の幻想が、後者の美感をかき消してしまう。」
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by franz310 | 2010-09-12 09:45 | シューベルト
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