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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その231

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その231_b0083728_12564537.jpg個人的経験:
シューベルト20歳の
6曲のソナタ群は、
未完成のものも多く、
取り扱いが悩ましい。
しかし、これまでのように、
各曲を見て来ると、
モーツァルトの6曲にあやかって、
「ハイドン・セット」とか、
「ベートーヴェン・セット」とか、
格好良く呼びたくなって来る。


それほどまでに、
シューベルトは集中して研鑽し、
多岐にわたる研究を尽くした。
今回のCD解説にもあるように、
過去の巨匠をよく研究して、
独自の色彩を加えた、
多様な性格を誇る曲集と思えるのである。

モーツァルトの6曲の四重奏曲もまた、
ハイドンに学びながら、
彼独自の美学を掘り起こした傑作となり、
「ハイドン・セット」と呼ばれながらも、
決して、ハイドンのまねごとだと考えている人はいない。

さて、この頃、シューベルトは教職を離れ、
父親の了解を得られぬ生活をしていたが、
そうした牧歌的な日々が、
やがて終わりを告げる予感かもしれない、
などと考えてもいたが、
今回のCD解説にも、
興味深い見方が紹介されている。

前回も取り上げたヴァリッシュの演奏のものだが、
さらに、ここでは、これまで実体がよく分からなかった、
ソナタ第12番嬰ハ短調D655も聴くことが出来る。

このCDのメリットを、まだまだ上げれば、
この分野の処女作、第1番のソナタを、
演奏者自身が、高く評価している点、
壮大なトルソである、第15番「レリーク」の、
あまり演奏されない第3、第4楽章を、
収録している点などが上げられる。

このようにして初めて、
この幻のスーパーソナタの構想が明示され、
改めて、私は言葉を失ったのである。

前回、このヴァリッシュの未完成ソナタ集のCDは、
ナクソスが落ち穂拾い的に始めたのではないか、
などと書いたが、前回のCDが、
2002年11月の録音だったのに対し、
今回のものは、2005年12月21日、22日と、
録音日時が書かれていて、
3年も準備して臨んでいることが分かる。

ただし、前回のプロデューサーが、
アンドリュー・ウォルトンという人だったのに、
今回のものは、マイケル・ポンダーという人に
代わっているのは何故か。

前者はエルガーの第3交響曲のプロデューサーで、
後者はグリーグの管弦楽曲集のプロデューサーで、
どちらも変わった領域を攻める人のようだが。

単に、出すか出さないかで、
もめた結果の3年だとしたら、
ヴァリッシュがかわいそうである。
その間、ナクソスのロゴも、
青地に変化しているではないか!

しかし、このCDの表紙絵画は、
前回のものと同様の雰囲気で、
見ると画家は同じジルマーのもの。

不安げな空の風景画で、
この梅雨時にふさわしいし、
さらには、シューベルトの危機の時代、
あるいは、ロマンティックな感情をかき立てるものとして、
私は歓迎したい。

こうした格調高い絵画をあしらったCDは、
特に大手レコード会社の
スターミュージシャン売り出し路線では、
なかなかお目にかかれない。

題名は、「慈悲深いサマリア人の怪我をした人の救護」
と書かれているが、善きサマリア人は、
こうした、窮地にある人を、
損得をか顧みずに救う有徳の人である。

山賊に襲われて身ぐるみ剥がれた人を、
通りがかりのサマリア人が介抱しているが、
作者にはもちろん、そんな事は口実にすぎず、
むしろ人里離れた大自然の方を描きたかったに相違ない。

これを見ていると、私も、どこか、
人里離れたところに行ってみたくなった。

さて、今回の解説も、
ピアニストのヴァリッシュ自身が、
「ピアノソナタ集1815-25
スケッチ、断章、未完成作品集」
というタイトルで書いている。

読み応えのあるものなので、
これを読みながら、各曲を見ていくことにしよう。

「この録音はフランツ・シューベルトの
ピアノソナタ作曲の広い範囲にわたるものだ。
最も早いソナタに始まり、
中期の3つのソナタの断片が続き、
コンセプトも野心的で、
驚くべき進化した作品である、
最後の未完成ソナタで閉じる。
シューベルト最初期のソナタ群は、
実験する喜びに満ちている。
変化に富み、一部断片のもの、
単独の楽章のみ残存する
と言う形で伝わっている。」

実験する喜びに満ちた作品を聴くのもまた、
発見の喜びに満ちている。

さて、冒頭で、
私も同様の事(当時のシューベルトの境遇)に
思いを馳せていた事に触れたが、さすが、
ヴァリッシュは、さらにそれを検証している。

「作曲の機会に関する情報も、
当時の演奏の記録もないので、
1815年から1817年の
シューベルトの生涯の環境を
ここで垣間見てみることは有意義である。
1815年2月、17歳のシューベルトが、
彼の最初のソナタを作曲した時、
ヴィーンで父親の学校で、
彼は助教員として働いており、
粗末なピアノと一緒に
狭苦しい部屋で暮らしていた。
(友人の詩人ヨハン・マイヤーホーファーの回想)」

確かに、ヴァリッシュ君の言うとおり、
何となく、そんな環境下で、
ピアノ曲の実験をしていたか、
と思い描いてしまった。

あるいは、シューベルトに出来たこと、
それは、狭い部屋に閉じこもって、
ピアノと戯れることだけだった、
などと空想する。

最近のたとえで言えば、
TVゲームに打ち興じていた、
と読み替えてもよいかもしれない。
そのうち、彼は新しいゲームの
プログラムにも興味を持つようになるだろう。

以下のように、公式には、
声楽曲の訓練しか受けていないので、
いっそう、ピアノ曲には、
現実逃避の余地が残されていたとも考えられる。

「アントーニオ・サリエーリが、
作曲の無償授業を授けており、
同時代の証言によれば、
声楽曲の書き方によるもので、
独立した器楽曲が入り込む余地はなかった。
シューベルトは明らかに
サリエーリの弟子である事を誇りにしていて、
いくつかの作品の最後には、
『サリエーリ閣下の弟子』と書き入れている。」

また、3楽章のソナタなのに、
1番のソナタが未完成とされ、録音されている理由は、
下記のように、前回の5番のソナタと同様である。

「最初のソナタ、ホ長調D157は、
ロ長調のメヌエットとトリオを終楽章に持つ、
3つの完成された楽章からなる。
終楽章のメヌエットが
そこそこ効果的に締めくくっているとは言え、
基本の調であるホ長調でないがゆえに、
この作品は未完成作品とされている。
シューベルトはこの作品に集中し、
数カ所の書き直しも認められる。
第1楽章は弦楽四重奏を手本にしたようで、
独奏声部と音色の交錯で特徴づけられる。」

第1楽章は、軽快な明るいメロディで始まり、
確かにシューベルトの解放的な喜びが満ちている。
弦楽四重奏風とあるが、これを頭の中で、
弦楽合奏に置き換えて聴くと、
闊達に動き回る
第1ヴァイオリンの活躍の様が目に浮かぶようだ。

「ホ短調のゆっくりとした中間楽章は、
驚くべき深さと成熟を示している。」

この習作のようなソナタに、
こうした見解を示すピアニストは、
何と頼もしい存在であろうか。

私が聴き始めの頃、
シューベルトの交響曲第1番などは、
演奏されるたびに、
「ここが習作風だ」という論調で、
埋め尽くされていたが、
様々な指揮者の努力によって、
最近では希有な作品と認められつつある。

こう見ると、このソナタ、そこそこの規模を誇り、
全曲演奏するのに20分近くかかっている。

さて、この第2楽章、憂いを秘めた佇まいが詩的で、
下記のようにヴァリッシュが書くのも当然と思えた。

「そこでシューベルトは、
内向的な主要主題を、
ト長調の温かい叙情的な主題や、
ハ長調のリズムに創意があって、
生き生きとした中間部と対比させている。
ここでのシューベルトの熟達は、
驚くべきもので、
幅広いアーチと大きなメロディーラインで、
形式を広げたりバランスを崩したりすることはない。」

憂いを秘めた楽想は、
ひっそりと可憐な花が咲くようなメロディに変わって、
これがまた美しい。
こうした音画的な楽章は、
彼の1817年のソナタにはあっただろうか。
リズミックな部分も胸の高鳴りを覚える。

「しめくくりのメヌエットは非常に急速で、
この形式には珍しい
アレグロ・ヴィヴァーチェと記され、
生の喜びとエネルギーが火花を散らしている。」

これまで、単なる習作と思われていた、
この曲が、演奏家自身によって、
ここまで激賞される解説がついているだけで、
このCDは「買い」ではなかろうか。

終楽章はスカルラッティ風の典雅なもので、
これまた楽しいが、
終曲としては落ち着きがないかもしれない。

幻の終楽章はあったのだろうか。

とりあえず、この曲は、
こんな風に、一応、各楽章に関しては、
尻切れトンボ部はなく、すっきりと聴ける。

次に第8ソナタが収録されている。

下記のように書かれた、
1817年のシューベルトの境遇も、
妙に想像力をかき立てるものである。

「1816年の4月、シューベルトは、
ライバッハの音楽教師のポジションに応募し、
失敗に終わった。
同月、彼はゲーテに、その詩に付曲した、
『野ばら』、『さすらい人の夜の歌』、
『魔王』などを含む、
一冊の歌曲アルバムを送ったが、
これはコメントもなく送り返されて来た。
この年の秋、ヴィーン中心に住み、
明らかにずっと良いピアノのために、
家を見つけた。
これに勇気づけられ、
1817年8月にかけ、
6曲のピアノソナタを書いた
(D537、557、566、567、571、575)。」

前田昭雄著の「シューベルト」(新潮文庫)では、
藤本一子による「シューベルトはどこにいたのか」
という表が巻末にあるが、
これを見ると、1816年の秋というと、
「トゥーフラウベンのショーバーの家」となっている。
裕福な家に転がり込んだということか。

「ひょっとすると、彼は、
すでにその時代は過ぎ去っていたのに、
ハイドン、クレメンティ、またはモーツァルトといった、
伝統的な古典ソナタと考えていたのかもしれない。
これらの作品はしばしば、
強い舞曲との類似性が認められる。
半分以上の作品は、三拍子で書かれている。」

前田昭雄氏も、第7ソナタを「舞曲調」と書いていたが、
全体にわたって、こんな特徴があったということだ。

また、ショーバーの家なら、
こうした昔の作曲家の作品集も揃っていたかもしれない。

第1番に比べ、第8に関しては、
ヴァリッシュはいささか辛口で、
以前、ここで取り上げた、
バドゥラ=スコダなどとは大違いである。

「シリーズの最後から2番目の嬰ヘ短調ソナタは、
フラグメントとして残されている。
ここで、シューベルトがモデルにした、
ベートーヴェンの影が濃厚である。
特に、第1楽章と終楽章に、『月光ソナタ』との、
強い親近性が見て取れる。
現存する第1楽章の141小節は、
聴衆を、対比もドラマもない、
遠い憂愁の世界に運び去る。
これはもっぱら、シューベルトが、
単一主題の原理で書いているからである。
主要主題は、特に叙情的で、
ソナタの第1楽章の文脈における、
弁証法的集中に不十分だからである。
この楽章は、まさに予想される再現部直前で終わっている。
ベートーヴェンとの類似にも関わらず、
シューベルトは、
その『幻想ソナタ』の形式に則ることにも、
自身の形式的解決を見いだすことにも成功しなかった。
このソナタはベートーヴェンの圧倒的な類例ゆえに、
未完成のまま残されたのだろうか。」

スコダがシューマン、ブラームスを例に挙げて、
この曲のオリジナリティを強調したのに対し、
ヴァリッシュは、猿まねの失敗作として片付けている。

「このソナタの4つの楽章のうち、
3つは、元々別々に伝えられ出版されたが、
オリジナルのページの紙質の解析や、
調性の選択から、
それらが4楽章のソナタを構成することが、
現在、確かな事とされている。
よりよい楽章間の結合のため、
私はこの録音で、第1楽章の中断部分から、
直接、ニ長調のスケルツォD570を続け、
それにイ長調のアンダンテD604を続けた。
これら2楽章は、シューベルトは完成させている。
嬰へ短調のアレグロD570は、
まさしく第1楽章と同様、
再現部の前で中断されているが、
このソナタを終わらせるための、
終曲の性格を明らかに備えている。」

が、演奏はかなり情緒を重んじたもので、
クリアなタッチが輝いて美しい。
この曲の場合、尻切れトンボ部が2箇所あるが、
ヴァリッシュは、続く部分を活かして、
うまく連続感を出している。
ただし、終楽章はそういうわけにもいかず、
かなり、唐突な感じ。
しかし、続く2曲に比べると、
かなり書き込まれているので、
堪能した感じはある。
そういう意味では、スコダ説のように、
あとは機械的に仕上げられるから、
後回しにして放置したのだ、
という意見にも納得できる。

問題は、多くのソナタ全集も割愛している、
第12番嬰ハ短調であるが、
これは確かに、どうしようもない代物で、
下記のように提示部があるに過ぎない、
という感じで、展開部も再現部もなく、3分に満たない。

「シューベルトの次なるソナタの試みとして、
主題や、より大きなひらめきと、
展開の可能性と格闘していた、
1819年から1823年にかけての、
非常に短い、嬰ハ短調D655と、
ホ短調D769a(以前はD994と呼ばれていた)
が認められる。
これらがこんなすぐに
中断してしまった事を
説明することは出来ない。
テンポ指示のない嬰ハ短調の作品の場合、
2つの対照的な主題が結合された
提示部が残されている。
ここでシューベルトは、
新しい表現の可能性を求め、
非常に珍しい嬰ハ短調と変ト長調を使っている。
しかし、作品は73小節後、
2つの小節と繰り返し記号の後、
中断されて、この作品の残りについての
一切の指示は残されていない。」

ここに書かれているように、
かなり緊密に書かれているようにも思え、
まったく、これでやめにする必要はない。
冒頭こそつっけんどんだが、
これは、「第16番」のソナタなどにも言えることである。

様々な魅力的楽想が現れては消えて行く。
終わった後、上記、2小節部が、
覚え書きのように演奏されているのが興味深い。

この動機で、もう一度、トライしようという、
メモのようにも思える。

次の断片も、開始部は憂いを秘めて、
この作品もその中で興味深い色彩を放つ。
が、1分で終わってしまうというのが痛ましい。

「ホ短調のフラグメントもまた、
ソナタ・アレグロ楽章のための
単純なスケッチと言われている。
わずか38小節の中で、
提示部の最初部のように、
シューベルトは、ホ短調の三和音の伴奏を、
ところどころに記譜している。
先立つソナタと比較すると、
小さな部分ですら劇的な対比を行うこと、
それに主題に明確な輪郭を与えることに成功している。
この最も短い断片は、
1958年に初めて出版された。」

開始部30秒で、早くも激高し、
50秒以降、跳躍をしようとして失敗した、
という感じだろうか。

あと一晩考えれば、
初期のソナタと同様のものは出来たであろうが、
シューベルトの野心はもっと大きかったという事だろう。

この1819年から23年といえば、
器楽では、「ます」や「未完成交響曲」が知られるが、
もっぱら劇音楽の年であって、
様々な努力がなされている。

さて、最後に収録された「レリーク」(聖遺物)ソナタに関しては、
再び、ヴァリッシュの最大限の称賛が読み取れる。
作品の収録時間も30分を超えて長大だが、
解説も全体の40%は、この作品にあてられている。

この作品は「未完成交響曲」のように、
完成された2楽章のみ演奏される事が多く、
全集を完成させないピアニストでも愛奏しているが、
2つの楽章では語り尽くせないところがあるのも事実のようだ。

「この録音最後の、そして間違いなく最も偉大な作品、
ハ長調ソナタD840は、
シューベルトのソナタ作曲において、
2年の空白の後、新しいスタートを切ったものである。
1825年の春、このソナタは、数ヶ月のうちに書かれた
3つのソナタ(D840、845、850)
を含む新しい創造ステージにの最初に立っている。
すでに1824年3月、
シューベルトは、よく引用される、
友人のクーペルウィーザー宛の手紙で、
弦楽四重奏や他の室内楽を通じて、
大交響曲への道を拓きたいと言っているが、
1822年作曲の『未完成交響曲』によって、
すでに何かを掴んでいたと思われる。
『レリーク』と呼ばれる、
4楽章からなるハ長調ソナタは、
第1、第2楽章のみ完成で、
未完成に終わっているとはいえ、
この道のりにおける大きな一歩であった。
ピアノ書法は管弦楽的で、
個々の部分や形式構成において、
この時点では知られざる交響曲の特徴を持っている。
注意深く耳を澄ませば、
ハ長調大交響曲D944の予告が聞こえる。
特に第1楽章モデラートでは、
オーケストラの色彩やニュアンスを
直接的に取り入れたピアノ書法で、
シューベルトは新しい音響領域に乗り出している。
この楽章における特別なピアニスティックな挑戦は、
巨大な構成を取り扱う点と、
個々の楽器の音色をピアノに移している点にある。
この楽章の叙事的な息の長さと、
多くの魅惑的な和声は、当時の音楽の限界を超えていて、
ブルックナーのサウンド・カテドラルを想起させる。」

西欧では、ブルックナーの交響曲は、
すでに、「音響聖堂」などと表現されているのだろうか。
初めて聴いたが、いかにもぴったりである。

そして、シューベルトのこのソナタが、
それに例えられるのも分からなくはない。
全編に神聖な動機が鈴のように鳴り響いている。

「ハ短調の第2楽章アンダンテは、
形式的に第1楽章よりずっと把握しやすく、
厳格に四声で書かれている。
バラードの性格を持ち、
その展開におけるクライマックスは、
まるで両楽章を通じての終結部とも言える、
拡張されたコーダにある。
『未完成交響曲』のように、
これらの驚嘆すべき最初の2楽章の後で、
シューベルトが作品を、
続けて完成させる気にならなかったか、
完成できなかったのではないかと考えることもできる。」

ヴァリッシュ君のこのような表現は、
他の人からも聴けるので、
是非、「この曲は第2楽章まででは、
まったく理解された事にはならない」
などと書いて欲しかった。

が、この訥々とした音楽が、
コーダになって、やおら、
大きなアクションを見せるのは事実。

また、ヴァリッシュも、
下記のように、続く楽章も、
かなりの意欲作であることを強調、
期待に応えてくれている。

「しかし、4楽章の伝統的な形式原理に従って、
彼は続きを書いている。
完成されたトリオ変ト短調を有する、
変イ長調のメヌエットも、
ハ長調の終曲と同様、
まさに展開を始めようというところで中断している。
メヌエットにおいて、シューベルトは、
イ長調から変イ長調の主題の繰り返しへの、
無骨な転調を避けようとした。」

このメヌエットもまた、第1楽章同様、
神聖な動機が鐘のように鳴り響いて、
大きくこれが呼吸する様が圧倒的で、
いかにも巨大な構想を想像させる。
トリオ部は完成しているということで、
不連続に演奏されているが、
「楽興の時」のように、詩的である。

しかし、終楽章の構想を下記のように書き出されると、
シューベルトでもなくとも、その野望の大きさに、
眩暈を感じる程である。

「終曲では、
この楽章では、解決されるべき、
少なくとも3つの主題が提示されており、
非常に複雑な展開部が必須だったろう。
主題の数や、
最初の238楽章が残された、
野心的なこの終楽章のプロポーションからして、
この終楽章が、指示されたように、
ロンドとして意図されたか、
ソナタ・アレグロとして構想されたかはわからない。」

よく言われるが、この15番を中断して、
仕切り直しで16番のソナタを完成したシューベルトであるが、
16番の終楽章は5分程度の疾風で終わっている。

それに比べ、何と、第15番の終楽章は、
モニュメンタルなソナタ形式なのかもしれず、
主題提示だけで、5分弱を要しているのである。
まさしくブルックナー級の大ソナタだ。

「シューベルトの死から2、3年して、
シューマンは、熱狂的に、その作品の紹介を開始した。
1839年、シューマンのヴィーン滞在中、
シューベルトの兄、フェルディナントによって、
このハ長調ソナタの全手稿はシューマンの手に入った。
同年3月、シューマンは、ライプツィッヒにて、
大ハ長調交響曲の初演をアレンジするのに成功し、
そのすぐ後、この未完成ソナタの第2楽章を、
共同事業していた定期刊行物『新音楽時報』
の中に載せた。
シューマンの死後、最初のシューベルト全集のために、
原稿は使われ、1861年にライプツィッヒで出版された。
編集者は、間違って、
『シューベルトによる最後の未完成のソナタ、レリーク』
と呼ばれ、これが、このソナタの通称のもととなった。」

このように、碩学シューマンは、
この曲の全容を知っていたようだが、
果たして、彼はこのスケッチをどう捉えたのだろうか。

「作曲者自身が未完成のまま放置したソナタを集めた、
この録音が、聴く人をいらだたせることはないだろう。
むしろ反対に、これら断片は、
我々をシューベルトの感情に、
直接的にアプローチすることを可能とし、
彼やその作品を全体的に捉えることを可能とする。
最も忠実なシューベルトの友人の一人、
シュパウンは、こう書いている。
『シューベルトをよく知る人は、
いかに深く彼が作曲に熱中し、
いかなる苦しみの中から
作品が生まれたかを知っているだろう。
一度でも、彼が、
朝作曲しているところを見た人は、
目を輝かせて顔を火照らせて、
夢遊病者のごとき、その様相を、
忘れることは出来ないだろう。』
これらの断片作品は、
特別神秘的な詩情を時に息づかせる。
それらはシューベルトの創造過程、
音楽的思考を同時に、完全に示し、
彼の探究と検分を、我々に生き生きと蘇らせる。」

シュパウンの回想の引用は言わずもがなだが、
確かに、このようなCDの存在価値を、
強烈に感じさせる1枚になっている。

得られた事:「良いピアノと部屋ゆえにかき立てられた創造意欲。」
「第12ソナタは、他の20曲と比べ、あまりにも断片すぎる。」
「恐るべし、カテドラル・サウンド。」
by franz310 | 2010-06-20 12:57 | シューベルト
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