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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その208

b0083728_0323326.jpg個人的経験:
シューベルトの時代の、
ヴィーンの宮廷楽長、
アイブラーは、
クラリネット協奏曲では、
知られた人のようだが、
この曲もCDで聴くことが出来る。
先に聞いた交響曲以上に、
この協奏曲は、
同時代のモーツァルトのものから、
かなりぶっとんだ作品と言える。


このCDは、表紙が、
前回の交響曲のものより好ましい。
猥雑な下町風景ではなく、ここに見られる、
「ヴィーンの学士院本館とイエズス会教会」のような、
風景の方がアイブラーにはぴったりである。
1850年の作者不明の彩色ペン画とあるが、
すっきりとした見通しの良さも、
この人の作風にふさわしいと思われる。

CAVALLI RECORDSという、
日本ではあまり知られていないレーベルのもの。

このCD、パウル・アンゲラー指揮、
コンシリウム・ムジクム・ヴィーンの演奏。

アンゲラーと言えば、おそらく50年代末、
駆け出し時代のブレンデルの伴奏をしていた人
という印象しかない。

CDの略歴を見ると、ヴィーン生まれ、
ヴィーン音楽院に学び、1952年から57年は、
ヴィーン交響楽団の主席ヴァイオリニストだったとある。

その後、ボン、ウルム、
南西ドイツなどのオーケストラを率いたようなので、
これでは、日本では知られることはなかったわけだと得心。
さらに、作曲もし、音楽学校の教授などもやって、
勲章などももらっているので、
多才で多面的な活躍をしたのであろう。
この道のりは、私が生きてきた時代に起こった事なので、
妙に、気になってしまった。

器楽奏者であり、指揮者であり、作曲家で教授とくれば、
このようなCDを出すのはお手の物であろう。
解説も自身が担当し、演奏している曲の、
楽譜の解説まで踏み込んだものとして、
非常に興味深いものとなっている。

最初にミヒャエル・ハイドンによる、
6楽章の「カッサシオン」ニ長調があり、
続いて、アイブラーの1798年作曲の「クラリネット協奏曲」、
最後にプレイエルの1790年の「大交響曲ヘ長調作品27」が、
収録されている。

このM.ハイドンの作品からして、ややこしい作品であることが、
以下のような解説から読み取れる。

「この作品のオリジナルのタイトルは、
M.ハイドンによる、
2つのヴァイオリン、2つのクラリネット、2つのホルン、
2つのオーボエ、ヴィオラ、バッソのためのカッサシオとある。
手稿には、『パステルヴィッツ記』とあり、
クレムスミュンスターの修道院の楽譜保管庫にあった。
ローター・ヘルベルト・パーガーの
『ミヒャエル・ハイドンの器楽曲の主題カタログ』によると、
この作品は『Cassatione』の題名で、
作品89とされている。
チャールズ・H.シェルマンの『年代順主題カタログ』によれば、
作品171であって、『ザルツブルク(?)1770-1772』
という注釈がある。
両方ともこの作品の第4楽章アンダンテに、
フルートが登場することは見のがしているが、
当時、オーボエ奏者がフルートも受け持つのは、
よくあることであった。
(ヨーゼフ・ハイドン、モーツァルトにも例がある。)」

このように、素人には、そこから何を読み取るべきか、
よく分からない解説があるが、
単に、ペーガーやシェルマンより、
俺は偉いと言いたいだけかもしれない。
あるいは、1770年、なるほど、33歳頃の作品か、
作品171というと、えらく沢山の曲を作ったんだなあ、
などと思えばいいのだろうか。

「手稿は大変読みやすく、写譜したのは、
とりわけ弦楽のページめくりには気を遣っており、
各楽章は2ページ見開きの横書きである。
このことからして、
1767年からクレムスミュンスターの修道院の合唱指揮者だった、
ゲオルグ・フォン・パステルヴィッツ(1730-1803)が、
これを作ったと見る人もいる。
さらに、300曲以上の作品ゆえに、
18世紀のオーストリアの作曲家の中で、
彼は最も多産な作曲家とされる。
写譜屋として、彼は、アーカイブにある作品を、
自分の趣向に合わせて彩色している。
しかし、どこから、
パステルヴィッツが写譜したかは明らかでない。
たくさんの間違いや不明瞭なパッセージがあるゆえに、
ミヒャエル・ハイドンのこのカッサシオンは、
演奏されずに終わったかもしれない。
あるいは、各パートに何も修正がないことから、
非常に経験豊かな人が、
演奏しながら修正したのかもしれない。
第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは、
たびたびユニゾンとなるが、
これはミヒャエル・ハイドンの作品でも、
よく見られることである。
しかし、第1楽章の第2部の『序奏』では、
第2ヴァイオリンは、第1ヴァイオリンと並行して進む。
スコアにすると、全体が見渡せ、修正は容易である。
ヴィオラと第2ヴァイオリンを、第1部に従って修復した。」

このように、ややこしい仕事からアンゲラーは始めて、
CDにまでしてくれたということだ。
普通、こんな事から解説してくれることはない。

そして、さらに、本質的な問いかけが来る。

「これは本当にヨハン・ミヒャエル・ハイドンの作品なのだろうか。
メロディーの展開や主題の構造、
最初のアンダンテの装飾の繰り返し、
調性の選択(最初のアンダンテは変ホ長調、
第2アンダンテはフルートを伴いロ短調)など、
沢山のことがハイドン的である。
フィナーレもチャーミングで、9小節の序奏があり、
第2部でもこれが現れる。」

かなり、一所懸命、聞き所を紹介してくれているが、
まるで、我が子を慈しむかのようだ。

6楽章、25分ほどの作品だが、
全体的に、のどかで開放的な音楽。

第1楽章は、序奏とアレグロ・アッサイからなり5分半。
弾け出すような威勢のいい序奏であるが、
アレグロ部も屈託なく突き進む。
オリジナル楽器を謳っているが、
もっと、ふっくらとした音色で聞きたいような気もする。
前にも書いたように録音の癖かもしれない。

第2楽章は、兄ハイドンの作品にもありそうな、
何となくもの思いに耽るようなアンダンテ。

第3楽章のメヌエットは単純明快で、
2分半と短いが、続く第4楽章は、前述のように、
ロ短調という悲しげな調性で、5分半と長い。
フルートのか細い響きの重なりが、
何となくはかなさを感じさせる。
アンゲラーは、このことを言いたかったのだろう。

第5楽章は、第2のメヌエットである。
これも2分半と短く、メヌエットにしてはテンポが速く、
せかせかしているが、もっとゆっくり演奏しても良さそう。
中間部では、ピッチカートに木管が絡んで牧歌的である。

第6楽章の終曲は、前述のように、
ラルゴの序奏を持つが、
威勢よく、竹を割ったように爽快なアレグロ・アッサイが続く。
しかし、このメロディーは楽しげで、ほほえみが溢れ、
アンゲラーが書いたようにチャーミングである。

モーツァルトの初期交響曲もまた、
決して、突発的な天才のひらめきではなく、
こうした土壌あってのものということがよく分かる。

ということで、アイブラーの話から、
ミヒャエル・ハイドンの曲になってしまった。

シューベルトもミヒャエル・ハイドンを深く敬愛していたので、
ここで、この作曲家の略伝の部分を読んでみるのも良いだろう。
アンゲラーもM.ハイドンが好きなのか、
1ページにわたって書いており、
カッサシオンの説明も含めると、全体の半分を占めている。

「1737年、9月14日、
低地オーストリアのローラウに生まれた、
ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは
車大工の親方、マティアス・ハイドンと、
妻アンナ・マリア(旧姓コラー)との間の
6番目の子供として生まれた。
ハインブルクとヴィーンのシュテファン教会の合唱校で、
オルガン、ハープシコード、ヴァイオリンを学んだ。
1757年ハイドンは、Ghymesの
Paulus Forgash主教によって、
グロスヴァーデンの合唱指揮者に任じられ、
1763年8月14日には、シュラッテンバッハ大司教によって、
ザルツブルクの宮廷音楽家、コンサートマスターとして、
役人の食堂で食事付き月給25グルデンで雇われた。」

ちなみにモーツァルトの父、
1719年生まれのレオポルドが、
ザルツブルクの宮廷楽団に入ったのが1743年、
M.ハイドンは18歳年下で、
入社は20年も後ということになる。
ハイドン入社の63年2月に副楽長になっているが、
息子を楽旅に連れ歩いて不在がちな、
とんでもない上司だったに違いない。
そもそも、ハイドン入社時、彼はドイツ・ベルギーに、
子供を連れ歩いていた。

後年、M.ハイドンは兄ヨーゼフからの求めで、
新しい就職先を紹介されながら、
ザルツブルクを出ようとはしなかったのは、
この20年先輩の勝手な出歩き活動を反面教師にした、
なんてことはないだろうか。

海外駐在員も、日本に帰る時の席がないことを恐れるものである。

「1768年8月17日、
ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは宮廷歌手の
マリア・マグダレーナ・リップと結婚、
1770年には一人娘を設けるが、
その年のうちに亡くしている。
1777年、彼はトリニティ教会のオルガニストになり、
1781年には、W.A.モーツァルトの後任として、
宮廷および大聖堂のオルガニストとなり、
ザルツブルクの合唱校でも教えた。」

この時、彼は44歳。
ちなみに、ヴォルフガング・アマデウスとは、
これまた20歳くらい年が離れている。
20歳年少の若造の後釜に就いたわけである。
コジェルフなどは、この申し出を断っているが、
いずれにせよ、モーツァルトは、それほど、
才能を無視されていたわけではなさそうだ。

モーツァルトは、この地位に、パリ楽旅の後、
23歳でついているが、パリでの成功は求められず、
旅先で母を失い、失恋の打撃も受けた、
あの悲惨な旅行も意味があったということか。

「ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは、1806年8月10日、
ザルツブルクで死去、聖ピーター教会の共同墓地に葬られた。」

アンゲラーがあえて、共同墓地と書いたのは、
モーツァルトと同様、という事や、
M.ハイドンが、結局、認められなかった
という事を言いたいのであろう。

宮廷音楽家として、高い地位にあったという記述はない。

とはいえ、このザルツブルクの墓(共同墓地?)を、
後年、シューベルトが墓参したがっていたのは、
有名な話である。
その作品は、明らかにシューベルトを引きつけていたのである。

また、M.ハイドンは、
モーツァルト、シューベルトとは
異なる側面を持った作曲家だったようだ。

「ハイドンは、ベネディクト会の聖ペーター修道院、
ミヒャエルバウエルン修道院と親しく付き合い、
アーンスドルフの牧師P.Werigand Rettensteinerが親友であった。
このレッテンシュタイナーや同僚の司祭のために、
4声の無伴奏合唱曲を作曲し、これはザルツブルクの名物となり、
シューベルトに影響を与えた。
ヴィーンとアイゼンシュタットに、
兄ヨーゼフと同じく兄弟のヨハンを(この人は声楽家)、
2回訪ねている。
彼はアイゼンシュタットの副合唱指揮者の地位に、
エステルハーツィ公によって招かれたが、
これを断っている。
ヴィーンでは、フランツⅡ世の名の日のために、
妃から委嘱されたミサ曲を、マリア・テレジア妃自身が、
ソプラノ部を歌った。
ヨハン・ミヒャエルの興味と自己研鑽は、
ラテン作家の作品研究に加え、
自然科学や歴史研究にも及んだ。
彼は天候を20年にわたって観察し、
正確な記録を残した。
絵画、音楽関係の商人であった、
友人、ベネディクト・ハッカーとは、暗号で文通している。」

ということで、極めて多角的な人生を送った模様。

「彼の作品は生前、あまり出版されていないが、
その楽譜の写譜は抜け目なく、金目当てで流通していた。
その作品は教会音楽、舞台作品、声楽曲、46曲の交響曲、
独奏楽器の協奏曲、数曲のセレナーデ、ディヴェルティメント、
様々な編成のための室内楽曲に及んでいる。」

非常な文化人であると共に、
静かな生活を愛した人、ということが分かる。

さて、M.ハイドンの作品に続いて、
アイブラーの「クラリネット協奏曲」が収録されている。

ここでも、解説から見ていく。

「ヨーゼフ・レオポルド・アイブラーは、
1765年2月8日、ヴィーン近郊のSchwechatに、
教師、合唱指揮者の息子として生まれた。
(1843年に、皇帝によって、彼は爵位を与えられた。)
彼の音楽的才能は早くから認められ、
6歳の時には、国家官僚、ヨーゼフ・ザイツァーの計らいで、
ヴィーンの聖シュテファン教会の聖歌隊の学校に送られた。
ここは、ヨーゼフ・ハイドンやミヒャエル・ハイドンが、
教えを受けたところであった。
彼は、ヨハン・ゲオルグ・アルブレツベルガーの生徒となったが、
彼が法律を学んでいた神学校が閉校になると、
彼は作曲を学び始めた。
彼はハイドン、モーツァルトと交友し、
『コシ・ファン・トゥッテ』では、歌手に練習をつけたりもした。
モーツァルトの死後、コンスタンツェは、
『ジェスマイヤーに良い感情を持っていなかった上、
モーツァルトがアイブラーの方を買っていたので』、
まず、『レクイエム』の完成をアイブラーに依頼した。
1792年、カルメル派修道院の、
1794年にはスコットランド派修道院の、
合唱指揮者に就任。
1801年には、皇室の家庭教師となり、
1804年には宮廷副楽長、
1824年にはサリエーリの後任として、
宮廷楽長に就任した。」

ここまでは、これまでも読んできたとおりだが、
火事の事は書かれていない。

「1806年、彼は、下部オーストリアの森林監督官の娘で、
王妃の部屋係をしていた、テレジア・ミュラーと結婚した。
1833年2月23日、モーツァルトの『レクイエム』指揮中に、
卒中に襲われた。
彼は、ヴィーンのスコットランド派修道院に、
1846年7月24日に亡くなるまで家族と一緒に住んでいた。
彼はヴァーリング墓地に埋葬された。」

このように、皇室関係の人脈がないと、
宮廷楽長になどはなれない、といった風にも読める。

「アイブラーは、32曲のミサ曲、一曲のレクイエム、
教会音楽、歌劇『魔法の剣』、クラリネット協奏曲、
ピアノ曲、ヴィオラ・ダモーレを含む、
二曲の五重奏など、様々な編成による室内楽を作曲した。」

前回取り上げた交響曲については書かれていないし、
協奏曲も室内楽も、何とも言えない編成である。
ソナタや弦楽四重奏など、コンヴェンショナルな編成に、
注力したシューベルトなどより、自由な感じである。

「オリジナル・タイトルでは、
『ジュゼッペ・アイブラー作曲のクラリネット協奏曲、
1798年2月』とされ、
ヴィーンの国立図書館の収蔵品に、
手書きのスコアと手稿がある。
スコアは美しく正確で、フレージングの指示も明確である。
強弱記号や付点なども明瞭で、
修正や変更も明瞭に読み取れ、
最初のバージョンは改作されたようで、
第2版も第1楽章とロンドの独奏部は、
同様に改作の後が見え、
追加があり、上下に記号が書き込まれている。
アイブラー自身によって改訂された、
これらの名技的な楽章の修正であることから、
演奏上の便宜を図ったものと考えられる。
非常な高音のパッセージもまた変更された。
こうした変更はルイ・シュポーアや、
フランツ・タウシュの協奏曲にも見られることである。
この録音の独奏者ペーター・ラブルと私は、
両バージョンを合わせた版を使った。
アイブラーによって抹消された小節や、
様々な変更はあるにしても、
手書きの管弦楽の用法は、
すっきりとして、ほとんど欠点がない。」

第1楽章は冒頭から、
爽快なメロディが奏でられるが、
そのメロディの続きみたいな部分が、
急に盛り上がって、打楽器、金管楽器もめざましく、
壮大な主題が現れる。
さらに、大空を仰ぐような美しい主題が出るが、
これは、第2主題だろうか。
この間、クラリネット独奏が、
どうなっているのかよく分からない。
この後、すーっと入って来るが、
それほど、名技的なものではなく、
その前にも様々な木管の音色が聞こえていて、
あまり独奏楽器に華やかな感じがしない。

そう思っていると、非常に難解なパッセージを吹きまくり、
さらにオーケストラが軍隊調の壮大な主題展開を行い、
続いてまたまた独奏が様々な音域で技巧を駆使する、
という感じで突き進んでいく。

モーツァルトの諦観したような協奏曲を想像すると、
まったく違う種類の音楽である。
壮大で、交響曲的であり、独奏にはそれほど華はない。
というか、曲全体が大輪の花のようにきらびやかである。

この独奏者のPeter Rablという人が、
地味な人なのかもしれない。

この華麗壮麗な12分にわたる第1楽章に比べ、
6分ほどの第2楽章は、いったい何なのだろう。
ゆっくり静かな低音のピッチカートの上に、
ヴァイオリンがさざ波のような音型を、
延々と繰り返す上に、様々な管楽器が、
虹色の和音をちりばめる構成。
独奏楽器の奏でるメロディーの息がやたら長く、
単に音色を響かせているだけのように思える。
極めて独創的な世界が、なだらかに広がっている。
小春日和の孤独といった風情。
交響曲第2番でも聞き取れた、
アイブラーならではの詩情ある田園風景といえば良いか。

第3楽章は、完全にじゃんじゃか調で、
金管や打楽器も賑やかに、
軍隊調の音楽が奏でられる中、
クラリネット独奏は、縦横無尽にして、
豊かな音域に音色をちりばめる。
7分ほどの曲である。

モーツァルト、ハイドンの同時代人の音楽とは思えないが、
前にも書いたようにベートーヴェンとも違い、
シュポアなどよりがっしりとしている。
1798年というと、シューベルトの生まれた翌年ということだが、
モーツァルト亡く、ベートーヴェン登場前に、
音楽史は、こうした晴れやかな世界を一旦は垣間見せた、
という感じがする。

最後にプレイエルの「大交響曲」が収録されているが、
21分ほどの曲で、ここに収められた音楽の中では、
最も短い。
そうはいっても、堂々たる交響曲で、
ハイドン風であるが、さらに敏捷な音楽といった感じ。
1789年の作品とある。

「イグナーツ・ジョセフ・プレイエルは1757年6月18日、
低部オーストリアの街ルッパータールに、
教師マルティン・プレイルと、
未亡人のアンナ・テレジア・フォースターとの息子として生まれた。
名字の「エ」は、イグナーツが後からつけたものである。
ヴァイオリンとオルガンを弾けるようになると、
父によって、ヴィーンのフリーの作曲家で音楽教師であった、
ヨハン・バプティスト・ヴァンハルのもとに送られた。
1772年、ラディスラウス・エルデーディ公がイグナーツに会うと、
エステルハーザのヨーゼフ・ハイドンに作曲を習うよう、
200ルイスドルを毎年贈られることになった。
このようにして、イグナーツは音楽家として成功するための、
必要なものすべてを得たのである。
1776年、オペラ『妖精Urgele』はヴィーン国立劇場で演奏され、
冬にはエステルハーザの人形劇劇場で演奏された。
翌年、プレイエルは、エルデーディ公によって、
その領地エベラウのオーケストラの
チャペル・マスターに任じられた。
エルデーディ公は、さらなる修行のための、
二度のイタリア旅行の費用も出してくれた。
1783年頃、プレイエルは、シュトラスブルク大聖堂の、
副楽長、1789年には楽長となった。
1788年には、絨毯商人の娘、
フランツィスカ・ガブリエレ・レフェブールと結婚した。
この年、ヨーゼフ・シュテファン・カミールが生まれたが
この人が1839年パリに高名なサル・プレイエルを建てるが、
ここは今日もコンサート・ホールとして残っている。
フランス革命が勤勉な大聖堂楽長の人生を中断させた。
1795年、プレイエルはパリに移り、
1800年には、ヴィーンへの途上、
フランス市民になっていた彼は、
オーストリア入国を拒まれた。
1797年、パリに出版社を建て、
後に印刷工房や楽器営業室を併設した。
1807年からピアノ、ハープの工場を始め、
今日においても、エラールに続く、
フランスの重要なピアノ製作所であり、
ラジオやテレビも作っている。
1824年にプレイエルはリタイアし、
1831年11月14日、パリ近郊の領地で亡くなった。
彼の墓は、メユールやビゼーやケルビーニが埋葬された、
有名なPere Lachaise Cemeteryにある。
プレイエルは二つのオペラを始め、
賛歌、交響曲、協奏交響曲、協奏曲、ピアノ曲、
様々な楽器のための室内楽を作曲した。」

この人生もすごいものがある。
会社の創設者であるから、実業界では超大物である。
他の作曲家とではなく、ビル・ゲイツや、
スティーブ・ジョッブスと並べて語るべき人だったりして。

ただし、ここでは、師匠ハイドンと、ロンドンで、
人気取り合戦をした経緯については語られていない。

続いて、曲について。

「ベルリンの州立図書館にある、
1790年ヨハン・アンドレ・オッフェンバッハによる出版譜では、
『ヘ長調の大交響曲作品27の2』(Benton140)とされる。
印刷は非常に魅力的なものであるが、
比較的容易に修正できる多くの誤植を含んでいる。
プレイエルはこの交響曲を1789年、
彼がシュトラスブルグの大聖堂合唱長に就任した年のもの。
『アンダンテ・コン・ソルディーニ』の始まりは、
1802年にプレイエルがハイドン作曲として出版した、
ホフマイスター(1742-1815)の
6曲の弦楽四重奏曲の第5番の『セレナーデ』に似ている。」

え、解説はこれだけ?
沢山あるプレイエルの交響曲から、
どうしてこの曲を?と聞きたくなるが、
アンゲラーが、ベルリンで発掘したのだろうか。

アンゲラーにとっては、楽譜がどうで、
演奏する際にどんな問題があったかの方が重要みたい。

第1楽章は、アレグロ・アッサイ。
ハイドンの弟子だけあって、ハイドン的に直裁的で明解。

確かに、第2楽章(CD裏にはアダージョとある)の最初は、
「セレナード」そっくりである。
もっと悲しげな音楽に変容するが。

第3楽章は明るく楽しいが、トリオは木管とホルンの合奏で牧歌的。

第4楽章もハイドン的で、楽しげな音型が、
忙しく動き回るヴィヴァーチェの終曲。
第2主題はのどかで美しい。

ここに聞くような曲が、シューベルトの生まれた頃に、
盛んに演奏されていたのだろう、などと考えながら、
瀟洒な表紙の絵画や、解説にある各楽曲の楽譜を改めて見つめた。

ミヒャエル・ハイドンのものは、大げさな飾り文字が面白く、
アイブラーのものは、この人の性格が読み取れるのか、
とてもさらりとした筆跡。
プレイエルのもののみ、枠までついて、とても豪勢に見える。
さすが、有名企業の創業者である。関係ないか。
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得られた事:「忘れられた作曲家の音楽は、その楽譜そのものの研究からして、好学家を燃えさせ、修復によって愛情がいや増すように見える。」
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by franz310 | 2010-01-10 00:39 | 古典
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