名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その195 |
![]() 前回、コジェルフの大作、 「エジプトのモーゼ」を聴いたが、 前半で力尽きた。 今回は、後半を続けて聴いて見よう。 ユダヤの同胞を率いて、 隷属していたエジプトから、 モーゼが出立する前に、ファラオと、 モーゼの育ての親で王女のメリームが、 邪魔立てしようとして神の怒りを買う。 天変地異が起こり、えらいことになった。 そこで、全能の正しき神ならば、 いっそ、ファラオもメリームも亡き者にすれば良かったのに、 第二部でも、この分からず屋たちは相変わらず、 敵対してモーゼの前に立っているようである。 そもそもモーゼは、ファラオの許しだけでなく、 ファラオに信心まで求めたので、話がこじれたのである。 キリスト教圏の人がみな、 こうした思考だとすれば、 とても、まともな交渉など出来はしない。 二枚組CDの二枚目を始めから聴いて行こう。 ちなみに、解説によると、こんな内容である。 「第2部の最初の部分で、 改めてイスラエルの民は自由を求める。 これまでにファラオは、 これ以上の抵抗はしないと決めている。 メリームは別れを言わねばならぬことで悲しむ。 1790年のヴィーンでの2回目の上演時に作曲された、 情景とアリア、 『何を見るのか、何を怖れるのか』(CD2のトラック6)は、 1787年の初演では、ここに置かれていた、 ことわざのアリア、 『風の強いひと吹きが』(CD2のトラック5)よりも、 音楽的にもスタイルの点でも近代的である。 こちらの方が母の愛をさらに感動的に表わし、 印象的な人間的感情を加える。 今回の録音では、 二つのバージョンを聴き比べられるように、 どちらも聴けるように並べたが、 演奏会で並べられたことはない。」 私は最初、このような事情を知らずして、 このCDの二枚目を聞き流していて、 延々と続くメリームの歌に辟易したが、 ちゃんと解説は読まないといけないと痛感。 トラックのみ見ていても、 そこまでは書いてない。 何しろ、Track1とTrack3の合唱が、 そもそも繰り返しなので、 Track4に来た時点では、 かなり、うんざりした精神状態になっているので、 この攻撃はかなり耐え難いものであった。 しかし、このように、 Track4、5(計9分)と、 Track6(7分19秒)は、 どちらかを聴けばよいということが分かった。 このCDの二枚目は、聞き流してはいけない。 さて、続き。 「モーゼは神に嘆願し、助力を嘆願する。 アーロンが、人々の出発の準備が出来た事を知らせると、 メリームは虚しく息子に留まるよう再度願う。 ファラオは自らの気違いじみた憎悪と戦う。 アーロンはメリームに、父王に、 良い印象を与えるようにとアピールし、 虚しくも、彼女が神の善性を確信するように試みるが、 彼はモーゼを『危険な魔法使い』と考えている。 王女が、モーゼはそのミッションを捨てることはなく、 すでに、なすすべがないと気づくと、 彼女は理解を示さず、怒りに身を任せ、彼を完全に拒絶する。 モーゼとしては、結局、民と共に去っていく。 モーゼとメリームという、 二人の主役の間の確執が、第1部より目立ち、 モーゼにとっては、神の指示と養母との関係の矛盾となり、 メリームにとっては、息子への愛情と、 同時に、彼の行動への悲劇的な理解しがたさが矛盾となる。 彼が与えられた責務を果たすには、 自らが根無し草となって、そして母をも捨て、 自由になるしかなかった。」 こんな内容のオラトリオであるが、 いったい、ここに何を我々は読み取ればいいのか。 コジェルフも、台本作家も、いったい、 どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。 結局、話し合っても無駄、みたいな教訓しか私には感じられない。 モーゼが行ったのは、神が言うから仕方がないんだ、 という狂人のロジックでしかなく、 隷属状態からの解放には、力ずくでやるしかない、 ということであろうか。 フランス革命を前にした当時の人々の感覚とは、 こんな感じだったのだろうか。 で、それをコジェルフは代弁して見せたということか。 ナポレオン戦争を経て、第一次大戦に突き進む思想の萌芽を、 ここに見るべきなのだろうか。 このような意味でも、 聖書を傘にしたこのドラマを、 我々が正しく鑑賞するには、 かなりのハードルがあると言わざるを得ない。 CD2を順番に聴いて行こう。 はたして、分からず屋たちは和解したのだろうか。 Track1:合唱。 「知られざる神の強力な手が、 我々を打ち崩し、破壊した。何が起こるのだろう。 隷属のイスラエルの民を自由にし、 我らの惨めな境遇を終らせよ。 モーゼを解き放て。」 静謐なクリスマスの夜に奏でられるに相応しい、 晴朗なメロディーの美しい合唱だが、 内容はちょっと、いや、かなりヤバい。 このような清純な音楽にする必要が、 どこにあったのかはよくわからないが、 これが、当代とっての人気者たる所以であろう。 Track2:ファラオのレチタティーボ。 「もういい。 残った連中をここから去らせ、 多くの災いの種を追いやってくれ。 哀れなエジプトよ。 最後には一息つけるだろう。 私はこの怒り、憎しみ、憤怒をぶちまけ、 復讐できればいいものを。」 この怒りに満ちたレチタティーボ、 36秒しかないが、おそらく、 先の合唱に変化をつけるために挿入されたもの、 あるいは、この怒りを理由に、 それを慰撫するような合唱を置く理屈をつけた、 と考えてしまうほどだ。 Track3:合唱の繰り返し。 後半に入って、コジェルフの悪い所が顔を覗かせる。 このメロディーが気に入ったものと見え、 コジェルフは何度も繰り返して、 いつか読んだ、コジェルフは似たような繰り返しが多い、 という当時からの評判を思い出した。 そもそも、天変地異が起こったので、 1から3の、何も起こっていないような、 意味のないトラックは省いても良いのだ、 何故なら、次に、メリームがもっと恐れおののいた歌を、 次に歌っているからである。 前述のように、以下、 メリームのレチタティーボとアリアが続く。 以下は、トラック6と差し替えてもよい。 Track4:メリームのレチタティーボ。 「どこに行けばいいのだろう。 どこに隠れればいいのだろう。 この凶暴で残忍な野獣の住む恐ろしい場所で。 この恐ろしい夜、エジプトの民たちをなぎ倒したのは誰。 この国の動物たちに、ここまで冷酷に出来るのは誰。 誰がこの血を流させたのか。 可愛そうな哀れな母よ。どんな神が、 あなたがたを、その力の的としたのか。」 このレチタティーボは、 先の天災に対する恐れをダイレクトに表わして、 私は悪くないと思う。 人々の動揺を示す、伴奏の動きも説得力がある。 Track5:メリームのアリア。 「風の猛威。 よくしなる藻のついた蘆はそのままに、 大きな古いオークの木をなぎ倒すつむじ風。 抵抗するものを苦しめ、 屈する者を許す寛大な心。」 確かに、この内容、比喩が多く、評論家的である。 ただし、音楽は、高らかなファンファーレに続き、 壮麗である。それだけに形式的にも聞こえるのかもしれない。 妙に英雄的で、話の筋としては、ファラオにでも歌わせたいものだ。 Track6:メリームのレチタティーボとアリア。 こちらが再演時のメリームの担当分である。 音楽も葛藤を表わし、メロディーも精妙で心に染みる。 さらにそれが、快活なリズムになだれ込んで、 まるで、オペラの情景のように、鮮やかな印象を与える。 これは、全曲でも屈指の部分であろう。 コジェルフは1790年まで、その実力は健在であった。 「私は何を見るのか。何が私を圧倒するのか。 私はモーゼを見ることが出来ない。 心の中に起こったこの戦い。 彼が去り、別れを言わねばならぬというのに、 私の血は氷のようだ。私の心は引き裂かれた。」 登場人物の心理描写という点では、 まるで、モノローグのようで秀逸。 「臆病な恐れによる声ではなく、 私の恐れは理由なきもの。 たぶん、私の不運な、なおも愛する息子は死ぬでしょう。 私は私が死ぬのも分かる。 そして涙が溢れる。 この涙は、息子よ、たぶん、これで最後でしょう。 この別れの言葉、愛する息子よ、これも最後でしょう。 心の苦悩。もはや、神よ、慰めはありません。 何と言う瞬間。 恐怖に満ちた永遠の神よ。 私の苦痛は大きいのに、まだ、こうして生きて呼吸している。 神よ、かくも恐ろしい運命を前に、 この心をどうすればいいでしょう。 母の純粋な愛が、せめて、あなたの同情となることを。」 それにしても、天変地異で、 回りがめちゃくちゃになっている時に、 この人たちは、何の働きもせず、 ただ、何の助けにもならぬ自分の感想を言い続けているところが、 完全に大企業病である、というのは皮肉にすぎようか。 そういった意味で初演時の歌の方が、 筋としては通っている。 Track7:モーゼのレチタティーボ。 「至高なる神よ。 あなたの叡智と力をへりくだってあがめます。」 モーゼは主人公なのだから、 周りを助ける働きをして欲しいものだが、 洪水の後は、なすすべもないのか、 まるで、他人事であるのが悲しい。 これまた、自分の世界に浸った歌で、 マルクス・シェーファーの内省的な声も、 この緊急時とは思えぬ敬虔なもの。 「イスラエルの民を罰する恥ずべき鎖は、 遂に打ち砕かれた。 神よ、許し給え、罪ある民衆を。 人の心をよく知る神ならば、 彼らの自責と後悔は分かりましょう。 彼らを良きものにて守りたまえ。 信頼と愛と希望と。」 Track8:モーゼのアリア。 「苦く恐ろしい自責の念を心から感じ、 愛を求め、あなたからの助けを請う民には、 慈悲を受ける価値がある。 彼らは一度は裏切ったが、 その盲目を恥じています。 このような愛情を見て、 彼らの不動の信頼が、 失われることはないでしょう。」 明朗な歌唱を、木管が優しく彩る。 このような歌が続く際、前のアリアは、 初演版は、動と静の対比という意味では自然であり、 再演版は、心理と心理の対比という意味で興味深い。 意外に、初演版が正解のような気がする。 神の怒りをまの当たりにした人々の歌としては、 少しリリカルにすぎる。 Track9:アーロンとモーゼのレチタティーボ。 これから出発の時。 何度も書くが、何故か女声のアーロンが使者となってくる。 しかし、アーロンを担当するぴんと張り詰めたものがあって、 ペリッロの声は至純で、急を告げる感じはよく出ている。 また、レチタティーボとは言え、伴奏のメロディは素敵だ。 これなどもシューベルト風としか言いようがない。 「アーロン:王女様、兄弟、すべての民の準備は出来ました。 民も家畜も、自由を味わっております。 母の腕にあってまだ自由の贈り物を知らぬ赤子とて、 喜びの様子を明らかに見せています。 すべては整いました。 後はリーダーを待つのみです。」 ピアノフォルテのぱらぱら音に続いて、 モーゼの歌が始まる。 「モーゼ:長く待ち焦がれていた贈り物を、 虐げられた民が喜んでいる。 行こう。 何が命じているか、 言わば、聖なる炎が、 シナイの山頂でくびきを断って、 それが、彼らの導きとなると、 そしてそれが、すべての過ちを厳しく報いると伝えよう。」 このあたりの流れは自然なものとして受け入れられる。 葛藤の後、使者が来てそれが中断され、 その後、再度、分かれの状況が盛り上がっていくわけだ。 Track10:メリーム、アーロン、モーゼの三重唱。 「メリーム:ああ、息子。もはや、あなたを見ることもない。 モーゼ:愛しいお母さん、 私をあなたから引き離すのは運命なのです。 アーロン:この厳しく不確実な状態で、 私はどうすればよいか分からない。 モーゼとアーロン:ああ、別れ。 メリーム:ああ、やめて。 アーロンとモーゼ:駄目です。義務がそれを許さない。 3人:理不尽な運命よ、 苦痛に満ちた心に安らぎを。それでようやく、呼吸ができる。」 この場面も、穏やかな曲調に、三つの声が響き合って、 牧歌的なものを感じさせる。 一幅の絵画のようだ。 アーロンの声が重なって来るところは、 非常に美しい。 Track11:ファラオとモーゼのレチタティーボ。 「ファラオ:モーゼはどこだ。 あの危ない魔術師はどこに隠れた。」 ヤバい展開である。 また、前半の、「ああだ、こうだ」が、繰り返される兆候あり。 「モーゼ:陛下、魔法などではありません。 あなたが目にしたのは大いなるもののなせる不思議。 その力を、あなたの頑迷さも、最後には受け入れ、 すべてをなだめ、無礼を服従させる、 神の手腕を知ることになります。」 モーゼがしゃべる度に繰り出されるのは、 ほとんど気違いの論理で、私には耐え難い。 ゲーテのプロメトイスも気違いだったが、 こうした無礼者が当時の人たちは、 大好きだったのだろうか。 音楽も、これまでの静謐、穏和なものから、 やけに人を苛立たせる挑発的なものに変る。 「ファラオ:全能の神! ファラオであっても、王であっても、 あえて、その力を試すほどに、 かくも弱いものなのか。 私はこの胸の中になおも持つ不敬を試し、 エジプトに対して何が出来るかを確かめようとする。」 Track12:ファラオのアリア。 「私の前から離れ、視界の外に消えてくれ、 我が苦痛、我が恥辱。 見せかけの神の外見には騙されない。 稲妻はまだ続いている。」 この興奮したアリアに続き、 メリームも、もう、正気の沙汰ではなくなっている。 Track13:アーロンとメリームのレチタティーボ。 この会話は、ソプラノが二人だが、 アーロンは自信満々で、 メリームは動揺しているので、 混乱することはない。 「アーロン:メリーム、王女よ、 あなたしかいません。 王様の心を変えられるのは。 メリーム:この大きな不幸が、 エジプトを傷つけているというのに、 私に何ができましょう。 あなたの神に? 血と死を好み、人々が苦しむのを、 喜んでいるような異教の神に?」 メリームがこうして取り乱すのも、 私には当然と思える。 無茶な要求を出す、 テロリストにしか見えないはずだから。 「アーロン:神をそのように言ってはなりません。 神はその力をいつかお見せになり、 私たちに永遠の利益で満たすのです。 王女様、あなたも帰依すれば分かります。」 Track14:アーロンのアリア。 「心から神を信じるなら、 感謝をもって神を見るなら、 神は苦しみを楽にしてくれ、 良いもので満たし、苦痛をなくすでしょう。」 Track15:モーゼとメリームのレチタティーボ。 「モーゼ: 王女様、王様は私が立ち去るよう催促しています。 もはや出立を遅らせるわけにはいきません。 常に私の味方であったあなた。 まだ若くか弱い、お母さん。 メリーム:黙って。母という聖なる言葉を使わないで。 あなたがヘブライの民であるなら、 もう、ここに留めおかれることはありません。 何があなたを駆り立てるのです。 モーゼ:私を常に導く、 大いなるものの手によって。 メリーム:行って、恩知らず。」 最後は、「away、you monster!」 この曲の結論のような緊迫に再度向かう、 序章のようなやり取りである。 Track15:メリームとモーゼのデュエット。 「メリーム:恩知らず、行って。 そしてもう二度と、 私のことは言わないで。 決して予期さえしなかった、 こんなむごい行い。 モーゼ:その哀しげな目を、 開けて、恩知らずなどと言わないで。 あなたの所に留まれないのは、 私のせいではない。 メリーム:母のことは忘れて、愛を破壊して。 モーゼ:そんなことは出来ません。 二重唱:(ああ、何故偽りを。) (あなたの不幸)可愛そうな。 正義の天空が、この瞬間、 私の苦痛は混乱を起こす。 私の義務が分からなくなってきた。」 あの憎しみあったレチタティーボの後で、 この二重唱は割と落ち着いて、結構、良い感じである。 ここでは、少し、モーゼの方が、 折れそうになるのが良いのだろうか。 いたわるような優しい歌で、 これならメリームの心も癒されたかもしれない。 伴奏も、別れの歌を、さざ波のような音型で、 優しく包み込んでいる。 後半の加速でも、二人のデュエットは大変、美しい。 Track17:モーゼのレチタティーボ。 「私はこのしがらみを断つ。 最終的に、この楽しからぬ場所を去る。 家畜を連れて、 種族を率いていく。 至高の神に、 すべての思いは向かい、 空は感謝の賛歌が響き、 解放者に対して、 かつては辛く、 いまや幸福になった人たちの、 歌声が響く。」 何だか分からないが、 メリームは捨てられて、モーゼは決心する。 この決意が述べられると、爆発するように、 人々の声が響き渡って、全曲は結ばれる。 Track18:合唱。 「最高の力によって、苦役のくびきは外された。 我々を苦しめるものはもはやない。 あなただけが、ただ一つの真の神。 栄光は神のもの。力は神にあり。」 Track19:合唱フーガ。 「あなただけがただ一つの真の神。」 低音で管弦楽が唸る中、 混声合唱の荘厳なフーガが舞い上がる。 ラッパが鳴り響き、ティンパニが轟き、 これはなかなかの聴き所であるが、 ファラオもメリームも、みんな消えてしまった。 何だか知らないが、フランス革命と関係はあるのだろうか。 王様は悪く、民衆は正しいという雰囲気が後半の全編を覆う。 「エジプトのモーゼ」の名を借りた、 革命賛歌といった感じがする。 啓蒙君主、ヨーゼフ二世の治世でなければ、 不可能だったような出し物ではなかろうか。 シューベルトの時代、反動的なフランツ二世が、 ヴィーンを統治したが、 コジェルフ、モーツァルトの時代と、 シューベルトの時代では、おそらく、時代を覆う空気自体が、 違っていたのではないかと実感できるほどだ。 例えば、この王女メリームは、 民族施策が穏和であったマリア・テレジアであり、 ファラオはその子で、 かなり厳格だったヨーゼフ二世とすれば、 モーゼは誰だか分からないものの、 民衆は、ハプスブルクに支配されていた諸民族と、 見えなくはないではないか。 もちろん、コジェルフはその諸民族の地、 ボヘミアの出である。 コジェルフは、こうした急進的な思想の代弁者だったのだろうか。 しかし、そんな危険人物を、宮廷作曲家にするとも思えず、 これは単に私の妄想しすぎないものと思われる。 以上、聴いて来たように、 コジェルフの大作「エジプトのモーゼ」は、 聖書に題材を取りながら、何だか、換骨奪胎して、 別の思惑に当てはめたような作品に思える。 アーロンも、単なるモーゼの代官、あるいは伝令にしか過ぎない。 ただし、そうした裏のストーリーは別にして、 このオラトリオは、変化に富み、 前半最後の天変地異から、後半最初の聖歌調、 後半に向かっての心理劇の緊迫、 最後の壮麗なフーガなどなど、 かなりの力作となっているのは確か。 ただし、主人公のモーゼの人間像には少々抵抗が残った。 また、メリームもファラオも、結局、置き去りのままである。 このあたりの後味の悪さが残る。 ポーランド分割の時、 最初は反対していたのに、 結局は、署名して承諾したマリア・テレジア。 プロイセンのフリードリヒ大王は、 こういったと伝えられる。 「彼女は泣きながらも受け取る。」 メリームの嘆きから、その余韻を感じたりもした。 書き忘れたが、指揮は、 解説によれば、ドイツ古楽研究の大御所とされている、 ヘルマン・マックス。 合唱は、プロの歌い手を集めたとされる、 Rheinishe Kantreiで、 オーケストラは、Das kleine Konzertという手兵。 得られた事:「コジェルフの『エジプトのモーゼ』は聖書を題材にした、何だか別の思惑の話。ここで高らかに歌われる自由思想は、おそらく、モーツァルトの時代とシューベルトの時代を大きく隔てるものだ。」 |
by franz310
| 2009-10-11 16:04
| 音楽
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