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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その190

b0083728_15363441.jpg個人的経験:
ピアノとヴァイオリン、
チェロからなる
ピアノ三重奏団が、
二人メンバーを加えて、
ピアノ五重奏曲を
演奏することがある。
前回、ボーザール・トリオが、
そうした形態で
演奏したものを聴いたが、
今回はトリオ・フォントネである。


すでにモーツァルトのピアノ三重奏曲で、
これらの世代も異なる団体(師弟関係もある)を聴いたが、
「ます」の五重奏曲では、どのような聴き比べが出来るだろうか。

解説には、演奏者について、
下記のようなことが書かれている。

この団体は1980年に、
ハーデン、ミュッケ、シュミットによって創設され、
彼らが会ってリハーサルしたストリートの名称から、
この名前を採用した。

二人の弦楽奏者の楽器は、
18世紀の指導的な製作者によるもので、
ミュッケのヴァイオリンは、
1780年Piacenzaのガスパール・ロレンツィーニ作、
シュミットのチェロは、
1752年ミラノのバプティスタ・グァダニーニのものである。

このCDの共演者の今井信子は、
彼女の故郷東京の桐朋音楽大学を出て、
イエール大、ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。
彼女はフェルメール四重奏団と長年共演し、
ベルリン・フィル、コンセルトヘボウなど、
著名なオーケストラと共演し、
ヴィオラ協奏曲を献呈した武満徹ら、
多くの作曲家が彼女のために音楽を書いている。

特にヒンデミットの音楽に傾倒して、
それを紹介、1995年には作曲家の生誕100年を記念して、
ロンドンのウィグモア・ホール、ニューヨークのコロンビア大学、
東京のカザルス・ホールの3ヶ所で、
ヒンデミット音楽祭を主催した。
デトモルトの高等音楽院で長年教え、
カザルス・ホールの芸術アドヴァイザーを務め、
1996年にはサントリー音楽賞を受賞している。

Chi-chi Nwanokuは、アイルランド人の母と、
ナイジェリア人の父を持ち、
膝の怪我をするまでは、
英国屈指の陸上競技選手として知られていた。
18歳の時、ダブル・ベースをはじめ、
ロイヤルアカデミーで学び、
ローマではフランコ・ペトラッチに学び、
ロンドン・モーツァルト・プレーヤーズの
主席ベーシストとなった。
彼女は同様の地位をイングリッシュ・バロック・ソロイスツ、
エイジ・オブ・エンライトメント、
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズでも、
同様の地位にあって、独奏者としても活躍している。
彼女はリンゼイ、ブロツキー、エンドリオン四重奏団と共演し、
バロックから現代に到るレパートリーを誇っている。
トリニティ・カレッジの教授でもある。

何だか、すごい経歴の人である。
が、今回の演奏では、
それほど存在感があるとも思えなかった。

b0083728_154036.jpgということで、演奏風景の写真には、
トリオの男性と交互に女性が入って、
一人はアジア系、
もう一人はアフリカ系で、
非常に多彩な
顔ぶれという感じがする。

それにしても、私は、
魚の背びれではなく、
こちらの写真が表紙なら、
もっと欲しくなったかもしれない。


私は当初、こうした写真ゆえか、
単なる思い込みからか、
ピアノ三重奏部とその他二人が、
出自や性別の差異ゆえに、
分離しているのではないかと思っていた。。

イケメン軍団と共演しているのが、
どう考えても、従来、別のジャンルの人として、
ずっと私の頭の中では分類されて来た今井信子である。
このような大家であれば、何の問題もないのだろうが、
出来れば、何かとんでもないことが起こって、
発見があって欲しいものだ、などと思ったりした。

しかし、これまで聞いて来たとおり、
古典派において、ピアノ付き室内楽と、
弦楽四重奏曲では、どうやら発想の根幹が異なる模様。

そもそも、ピアノ三重奏のようなものから発展した発想で、
この五重奏曲が書かれているのか、
はたまた、弦楽四重奏にピアノを加えた発想で書かれているのか、
などと考えて見ると、
どうも後者ではなさそうという感じがして来ている。

弦楽四重奏のような均質な楽器が織りなす、
緊密な世界の発想からは、
この曲のような解放感は生まれにくいように思える。

しかし、実際のところは、有名なレコードは、
弦楽四重奏曲を核とする組み合わせにて成り立っていて、
プロ・アルテ、コンツェルトハウス、
ブタペスト、スメタナ、アマデウス、
アルバン・ベルクといった大物合奏団が、
巨匠ピアニストと一緒になって録音するといったパターンが多い。

ピアノ三重奏のさらに豪勢なバージョンとして、
ボーザール・トリオのような老舗や、
次の世代の雄たるトリオ・フォントネなどが、
「ます」を録音するという考え方も不思議ではなかったのである。

さて、このテルデックのCD、
1997年にベルリンで録音が行われている。

Teldec Digital Audioとして、
20/24-bitレコーディング採用。
録音の上でも楽しみである。

カバー・デザインはBettina Huchtemannとあるが、
これはかた、生々しい魚体である。
魚の特徴であるヒレの大写しで、
顔も写っていないというのは見たことがない。
赤いぽつぽつ斑点が彩りを加えているが、
こんな模様、本当にあるのだろうか。

このようなデザインは斬新ではあるが、
非常に即物的であって、何の夢も呼び覚まさないので、
私はあまり欲しいと思わなかったのは事実。
まだ、前回のフィリップスの廉価盤の方が好きである。

解説は、Annette Oppermannという人が書いてある。
「何と引き替えても失いたくない音楽」という、
ものすごい題名で、私のこのブログの趣旨にあっていて、
大変、嬉しい。

どんな事が書いてあるのだろうか。

「過去の大作曲家は誰も、
一つのジャンルのみに専念したい
などとは考えなかったのに、
19世紀は、各ジャンルにチャンピオンを作り、
時として、一人の作曲家に一方的な見方を押しつけた。
このようにハイドンは弦楽四重奏曲の父となり、
モーツァルトは近代オペラの創始者となり、
ベートーヴェンは交響曲をその絶頂に導いた巨人と見なされた。
そして、シューベルトは芸術歌曲と同義語になってしまった。
これはもちろん600曲以上の歌曲の作曲家に対して、
十分に正当なことであるが。
しかし、こうしたレッテルは、シューベルトの器楽曲の、
公平な評価を妨げ、シューベルトを時として、
間違って捉えてしまうこととなる。
つまり、大きな交響曲形式への、
沢山の障害を克服しなければならなかった、
小さな形式の巨匠は、素晴らしいメロディは書けても、
ソナタ楽章を正しく書くことは出来なかった、というような。」

このようなレッテルを貼りたがった19世紀の風潮が、
どんな背景から出て来たのかが、
知りたくなるような書き出しであるが、
ただ、そういった事があった、という内容に留まる。
シューベルトの器楽曲はなかなかポピュラーにならなかった、
ということが書かれているのみ。

「こうした間違った認識は、今日、
大幅に修正されている。
シューベルトはすでに交響曲作曲家として名誉を回復し、
室内楽も古典的名作として歓迎されている。
しかし、ここに来て再び、
背後から『歌曲作曲家』という先入観が忍び寄り、
彼の最も愛されている作品は、
未だに、歌曲に関係した、
『死と乙女』四重奏曲、『さすらい人』幻想曲、
『ます』の五重奏曲なのである。
この室内楽と歌曲の内的な関係が、
この家庭的な場で演奏される二つのジャンルを、
シューベルトの時代にそこから解放し、
公開演奏に相応しい形式へと発展させた。」

この指摘は、解釈が難しいが、
私は勝手に、きれいなメロディを口ずさみながら
公会堂から立ち去っていく新興階級の男女を想像した。

ここから、「ます」の話が続くものと普通期待するだろうが、
いきなり、歌曲の話とは無関係な、
「アダージョとロンド・コンツェルタンテ D487」の話となる。
CDのトラック6以降、この曲が併録されているからであろう。

「それにひきかえ、1816年の
ピアノ四重奏曲D487のような初期作品は、
その最も良い意味において機会音楽である。
これらはシューベルトが家族と、
友人を交えて演奏するために書かれたものだ。
実際、これらの音楽は、
直接、パート譜として書かれており、
インクが全部乾く前に演奏されたかもしれない。
四重奏曲D487の自筆譜には、フランス語で、
『グロープさんのために作曲、シューベルトより』
と書かれており、その献呈相手のみならず、
作曲の経緯までが分かる。
シューベルトは、『若いテレーゼの愛らしい声と、
ピアノを特によくした彼女の弟の、
ハインリヒの音楽的才能に惹かれていた。』
グロープ家によく通ったシューベルトは、
テレーゼについては、声だけに興味を持っていたわけではない。
しかし、彼女は若い作曲家ではなく、
お堅いパン屋の親方と結婚した。
この一家と一緒に、たくさんの音楽を演奏することは、
自然なことであった。
そして、この『アダージョとロンド』の初演時、
ピアノの前には、ハインリヒ・グロープが座っていただろう。
ここで言う『ロンド』は、
形式的な側面から言うと、
このアレグロ楽章の一部にのみ当てはまり、
第1主題で始まり、和声的にだけ変化がつけられた、
二つの似たようなセクションからなる。
『リフレイン』はこのように一度きりで、
これでは、正確にはロンドとは言えない。
シューベルトはここでは、
『ロンド』を単に、協奏曲的な意味で使っており、
『アダージョとロンド』は、当時、
短い協奏曲に慣用的に使われる指定であった。
ピアノパートは、名技的な要素に満ちていて、
このタイトルに則している。
四重奏の各パート譜の導入部は、
この曲が本来、より編成の大きな弦楽群のために
書かれていたことを示唆している。」

このように、さりげなく、
シューベルトの初恋のエピソードを交え、
従来、特に印象を残さなかったこの曲に、
最高のスポットライトを当てている。

是非とも、その音楽会に招かれて、
シューベルトが、どんな顔でテレーゼを見ていたかを、
見て見たいものだ。

この曲は、かつてバドゥラ=スコダのCDでも聴いたが、
やはり、ピアノ以外の楽器の出番がなく、
単に伴奏に終始していて、こうした猛者の演奏で聴くと、
彼らに申し訳ないような気もしてくる。

どこのどの音が今井信子らしいかなど、
とても書き出せるようなものではない。

最初のアダージョの部分、
ジャーンと弦楽器の合図に続いて、
ピアノがぽろぽろんと出て来て、
だんだん、主題を形成していくあたり、
「ます」のひな形のような一面も垣間見える。

その時、もっぱら、ピアノと唱和するのは、
ヴァイオリンのみで、他の楽器は、
ぶんぶんぶんぶんとやったり、
じゃん、じゃん、じゃんとやったりしているだけ。
しかし、その音の重なりには、確かに、
シューベルトならではの繊細さを感じる。

重々しい幻想を奏でるアダージョの後の、
ロンドの部分は、明朗すぎる主題を元に、
ピアノが名技的な楽節を聴かせながら、
時折内省的な色調となる。

ピアノ独奏時の寂しげな風情なども愛らしい。

1816年、
中間部で、だんだん演奏が白熱して来て、
交響的な広がりを呈して行くところなどは、
ふと、後年の「大ハ長調交響曲」の終楽章の、
推進力を思い出してしまった。

こうした効果的な盛り上がりは、
シューベルトの音楽の中でも、
なかなか類例がないものかもしれない。
音楽の友社の作曲家別名曲解説ライブラリーでも、
この曲については一項を割いていない。
15分程度の作品で、ソナタ楽章がないなど、
本格的室内楽と呼ぶには抵抗もあろうが、
19歳のシューベルトが、
あの美しい「第5交響曲D485」のあと、
すぐに着手した作品と思えば、
さらに味わいを増すものと思われる。

後にシューベルトがどんどん発展させる事になる、
様々な要素の萌芽を感じる作品である。

ただし、今回の演奏、室内楽としては素晴らしいが、
ピアノ小協奏曲と考えるには、弦が先鋭で立派すぎると、
書いてもいいかもしれない。

バドゥラ=スコダのCDを出して来て、
1965年に、彼がAngelicum Orchestraを振りながら、
ピアノを受け持った演奏を聴いてみると、
弦楽は合奏になっていて、その色調の差異からしても、
ピアノをしっとりと包み込んで引き立てる感じ。

しっとりとした空気感があって、
バドゥラ=スコダはカデンツァなども入れて、
ピアノの名技性を強調し、
協奏曲としての体裁を整えている。

スコダもかっこいいし、
こうして演奏されると、ピアニストが目立てる曲、
であるということがよく分かる。
フンメルとかウェーバーのピアノ曲を思わせる。

おそらく、グロープ家の音楽会では、
こんな風に演奏されたのではないかと思った。
グロープの兄貴を持ち上げておけば、
テレーゼも胸を打たれたことであろう。

さらに、このクライマックスは、
演奏者の力量のみならず、
作曲家自身の、素晴らしい前途を、
この上ない効果でプレゼンテーションできたはずである。

低音の楽器が、強烈なドライブをかけて素晴らしい。

では、メインの曲の解説に移ろう。

「それから何年かして、『ます』の五重奏曲D667が書かれ、
これもまた、中産階級の家庭向きの音楽として現れた。
シューベルトの友人アントン・シュタッドラーによれば、
1819年に作曲家はシュタイアーで夏の休暇を過ごし、
音楽サロンを開き、かなりの腕でチェロを弾いた、
街の官吏で尊敬されていた人物、
ジルヴェスター・パウムガルトナーと出会った。
パウムガルトナーは、シューベルトの歌曲『ます』を好み、
この『愛らしい小さな歌』をもとに、
五重奏曲を作曲してくれるよう頼んだ。
この作品はピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、
チェロとダブル・ベースのために書かれたが、
ダブル・ベースの利用は珍しく、
チェロが、低音保持の役割から離れ、
高音域でメロディを奏でることを可能としている。
チェロ奏者のパトロンが確実に喜ぶように、
最初の楽章の第2主題、
アンダンティーノの第5変奏において、
これを広い音域で使用している。」

前の曲では、ピアノを弾く人のために書いて、
協奏曲のようになってしまったが、
この時は、チェロの人が依頼してくれて良かった。

また、街の有力者のために書いた、というのもミソであろう。
有力者は、自分だけが目立つような頼み方をしたであろう。
私は、ここまで想像して、背筋が寒くなった。
まさしく、民主的な精神が、この曲には宿っていると思われた。
王侯貴族なら、自分の関係者だけが目立てば良い、
と言った考えをしそうである。

シューベルトのこの作品は、
パウムガルトナー氏が、こんなアドバイスをしたかもしれない。

ピアノは、ヨゼフィーネが楽しめるように、
ヴァイオリンは、シュタッドラー君の見せ場も頼む、
そうだ、コントラバスは、わざわざ何々某にお願いするから。
もちろん、ヴィオラのパートでは、
シューベルトさんの美音を聞かせてくれよ、
などと。

貧乏だった晩年のモーツァルトが、
ピアノ三重奏の名品を残せたのも、
プフベルクという商人相手に、
個人的な交流を念頭においたからかもしれない。

ハイドンが女性のパトロンのために、
最後まで三重奏を書き続けたのとは、
少々、成立事情が異なるようである。

「この作品の特異な点は、
楽器編成に留まらない。
作品はドラマティックに始まるが、
当時の聴衆の期待の裏をかいて、
ソナタ形式の第1主題は、楽器の対話の中で、
次第に導き出される、
その最後の形を取るまでに20小節以上を要する。」

このCDの序奏は、じゃん、が少し長めで、
さすが押しが強い感じを与える。
さらに、演奏のテンポが飛ばし気味で、
第1主題が出て来るまでのわくわく感を、
十分堪能できずに、さっと先に進んでしまうのが残念だ。

第2主題のチェロも、非常に明瞭に聞こえるが、
ちょっと口当たりはあっさりしたものである。
ヴァイオリンは、やたら伸びやかで、
室内楽らしからぬ、即興性で、明るい歌を歌う。

私が注意して聴いた女性二人も、
まったく音が調和していて、
一群となって、邁進していく感じである。
反対に異種混合のスリルはない。
さすがベテランと書いては単純化しすぎであろうか。

ソナタ楽章の起承転結も素晴らしい。
構成的には強固で、説得力ある演奏であるが、
情緒的には、少し、私の心象風景から外れるものもある。

「第2楽章は、D487と同様、二つの部分から作られている。
ここで興味深いのは、第1の部分で、
まったくの自然さを持って、最も離れた調で、
次々に連続して現れる旋律的な要素が、
第2の部分で、異なる和声で繰り返されるという事実である。
一見、単純で形式的なレイアウトが、
後にシューベルトを有名にする、
こうした創意溢れる和声を気づきにくくしている。」

こうして書かれるとよく分からないが、
先に触れた名曲解説ライブラリーには、
前半部(A(ヘ長調)-B(嬰ヘ長調)
-C(ニ長調)-結尾(ト長調))
-後半部(A(変イ長調)-B(イ長調)
-C(ヘ長調)-結尾(ト長調))という2部分からなり、
後半部は結尾を除いて前半部を
短三度上に移調したものとなっている」
とあって、具体化されている。

単純な繰り返しではなく、繊細な計算がなされていて、
この解説を読んで、この楽章の味わい方を、
少し変えてしまった。

同じメロディーを繰り返すにせよ、
僅かに変化を生じている。

精妙な弦楽器たちが紡ぎ出す和声の綾が、
どのように色調を変えるのかと耳を澄ませ、
何故、シューベルトが本当に歌いたかった歌は、
前半と後半のどちらの歌だったのだろう、
などと考えてしまった。

後半が先で、前半が後である場合は、
あり得たのかどうか。

私は、最初にシューベルトが、
着想したのは前半のものであって、
それが単純に繰り返されないことで、
むしろ救われているような感じを受けた。

前半で、思い詰めた内容は、
実は夢だったのだ、というような、
安堵感を持って後半は始まるからである。

しかし、それは、実は夢などではなく、
もっと切実な問題だったのだ、という、
認識の変化までもが、
ここには語られているように思えた。

これは恐ろしくシリアスな音楽である。

また、この前半、後半の各三つの部分は、
それぞれ、何を意味しているのか。
一つ欠けたりすることは可能だったのか、
不可能だったのか。

最初のもの(A)は、まどろみのようなもの、
その子守歌の中に、憩いがある。
この演奏におけるヴァイオリンは無邪気なまでに、
美しく無垢に響く。

が、次の部分(B)では、何か、
そこでは安住できないような不安感、予感が高まる。
それは、半分は憧れによって突き動かされる

最後の部分(c)は、優柔不断に、
どうしてよいか分からぬままに、
時だけが過ぎていくような鼓動の音が目立つ。

結尾は、高じきった切迫感が、
すこし、収まっていくような感じであろうか。

上記Bの部分では、
チェロとヴィオラが素晴らしい調和で歌を歌うが、
この時にも、完全に一体となった演奏が楽しめた。

第3楽章については、解説には何もないが、
トリオ・フォントネの演奏は、一糸乱れぬアンサンブルで、
録音もあってか、個々の奏者の音が明快で、
非常にスケールの大きな音の構築が出来ている。

ピアノのきらめきも特筆に値する。

ただし、かなり力学的な演奏で、
音の立ち上がりや、終止のさせ方に、
少々、神経質なものを感じた。

あるいは、出自や、
バックグラウンドの異なるメンバーが集まれば、
こうした所に演奏の重点が落ち着くのかもしれない。
余白の部分をそぎ落とせば、
共通認識が可能になるからである。

「第4楽章の変奏曲の主題展開も突飛なものであり、
歌曲を特徴づけるピアノ伴奏の『小川』音型により、
『ます』のメロディは最後になってようやく姿を現わす。」

この指摘は、すでに他の解説でも読んだことがある。
しかし、この演奏、ここでも素晴らしい美音で、
推進力を持って進んで行くが、
各変奏の間の余韻もなく、
ここから、清らかな流れに遊ぶ、
美しい魚の姿を探すのは容易ではない。

非常にメリハリがあって、ダイナミックレンジも広い。
すべての瞬間は、明瞭に聴き取れる各楽器のバランスによって、
満足させられるが、かなり機能的な側面が目立つ。

第4変奏で、パウムガルトナー氏が聴かせた、
美しいチェロも、しっかりとその存在感を示しつつも、
「ます」のメロディを愛したという、
パウムガルトナー氏のような、愛おしむような弾き方ではない。

この美しい楽章が終る名残惜しさなどは微塵もないが、
こうした演奏であっては、当然なのかもしれない。

なお、ボーザール・トリオの演奏が8分以上を要したのに、
この演奏では7分半未満で演奏を終えている。

「『ます』の五重奏曲は、形式的には慣習から逸脱しているが、
巨匠の筆致であって、
シューベルトの作曲技法成熟過程の一里塚と考えられる
たくさんの理由を有する。
最初の公開演奏においてすら、
すでに臨席した通人によって『傑作』と宣言されていた。
後の世代の音楽愛好家も、形式的な逸脱に気付きながらも、
それを認めざるを得なかった。
『この作品は何ものにも代え難く、
いくつかの形式的な問題にも関わらず、
音楽の魔法がすべての不満を吹き飛ばしてしまう。』」

このように、終楽章の解説はないが、
この演奏は、こうしたリズムが明快な楽章では、
それを強調しすぎてしまう嫌いがある。

バーンという総奏や、ばばばっと言う合いの手が、
強烈で、最後の盛り上げも壮絶だ。
演奏会で聴けば、物凄い巨大な効果を発揮しようが、
家で、青春の響きに思いを馳せようとすると、
ちょっと強引な演奏に聞こえる。

前回のボーザール・トリオの演奏は、
これに比べると、非常に呑気なもので、
まるで夢遊病のような演奏にも聞こえる。

トリオ・フォントネの演奏では、
各楽器が神経を尖らせており、
全てのことが明々白々に覚醒している。

各部分が精密に設計されており、
歌うべきところは歌い、
盛り上げるべきところは盛り上げて、
決して見通しをあいまいにすることはない。
さすがと思わせる。

あるいは、こんなところにも、
カザルスホールの芸術アドバイザーの意見が、
反映されているかもしれない。

この終楽章が、この演奏では、
もっとも私に合っている。

主要主題が模倣されていくところでは、
しっかりと、我らが今井信子が内声部から、
浮かび上がって来るのが聴きものである。


得られた事:「異なる文化のメンバーが集まったアンサンブルは、共通理解可能な、正確さや力強さ、美音や推進力などによってのみ成り立つ演奏に行き着く恐れがある。」
by franz310 | 2009-09-06 15:44 | シューベルト
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