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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その186

b0083728_21441112.jpg個人的経験:
古典時代の音楽を分類する際、
ピアノ三重奏もピアノ協奏曲も、
「室内楽」には分類せず、
「ピアノ曲」として分類する例があるが、
前回のライカウの解説を読むと、
なるほど、という感じがする。
もともと、ピアノを弾く女性がいて、
パートナーが、時折、唱和する、
という感じで発達したものだという。


確かに、モーツァルトが最初に書いた、
ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲(K.254)は、
書いた本人も、ピアノ三重奏だという感覚はなかったようで、
「ディヴェルティメント(喜遊曲)」などと題されているらしい。

この題名が、実はかなり、
話をややこしくしている。

この曲に第1番とつけるかどうかで、
後の番号が全部ずれるからである。

そんな事態を恐れたのか、
前回聴いたアベッグ・トリオのCDでは、
番号の記載はなく、
単に、その後の完成作も、
ト長調K.496、変ロ長調K.502、ホ長調K.542、
ハ長調K.548、ト長調K.564と、
極めて素っ気ない呼び方をしている。

この5曲に第1番から第5番の番号付けをした例もあるが、
その場合、「ディヴェルティメント」変ロ長調K.254は、
別ジャンルという扱いとなる。

ケッヒェル番号からも明らかに、
この曲のみが200番台で、
他のはだいたいが500番台であるから、
これはこれで、筋が通っている。

一方で調性で呼ぶにも問題がある。
どの曲かと指定するときに、
「ト長調」のものが、と書くと、
候補が二曲になってしまうのである。

3桁のK番号まで覚えるのは大変なので、
やはり「第1番」と呼んだりしたくなる。
実際、トリオ・フォントネのCDなどでは、そうなっている。

私の頭の中では、
この英雄的な曲想を持つ作品(ト長調K.496)は、
明らかに前作とは別格の趣きを湛えており、
「第1番」と呼びたいところなのだが、
話は単純ではない。

一方で、老舗ボーザール・トリオなどのCDでは、
何のためらいもなく、
K.254もまた、「ピアノ・トリオ」と記載されている。
この場合は、「ト長調K.496」は、
当然、「第2番」となってしまう。

さらに書くと、成熟期の5曲についても、
モーツァルト自身は、「ピアノ三重奏」とは思っておらず、
「テルツェット」という名称を使ったらしい。

長々と書いたが、このような理由もあって、
モーツァルトのピアノ三重奏曲は混乱しがち、
頭の中での整理が難しく、
なかなか人気が出ないのではなかろうか、
などと考えた次第である。

そう思っていると、
このボーザール・トリオのCDでは、
なかなか興味深い指摘によって、
これらの作品の性格をうまく表わしていた。

なお、このCDは、かつてフィリップスが、
「DUO」シリーズとして出していたもので、
廉価盤であるがゆえに、シンプルなジャケット。
デザインの絵は、「Helmut Ebnet,Milan」とあるが、
そこそこ優美で、上品でもあって悪くない。

ただし、よく見ると、
左上にCDの絵が二つ、
左下に「2CD」とあり、
右上には、「140min+」とあって、
右下には「DUO」とあるのは、いかがなものか。
割安であることを、ここまで訴える必要があるのだろうか。

さて、このモーツァルトの解説は、
ベルナルト・ヤコブソンという人が書いている。
題して、「ピアノ三重奏曲の成熟」。

多くの日本人の理解では、
成熟するのはベートーヴェンになってから、
という認識であろうが、是非、こうした論点で、
おそらく100年以上変わっていない認識を改めて頂きたい。

「ピアノ三重奏曲がその成熟に到ったのは、
モーツァルトと年長の友人ハイドンの作品においてであった。」

確かにそう書くのは簡単だが、
彼らの成熟期の作品の作曲年代を、
ここで整理してみると、下記のように、
必ずしも同時期のものではない。
(ちなみにハイドンのものも、
私の頭の中では番号の混乱がある。)

1786年:モーツァルト、2曲作曲
1788年:モーツァルト、3曲作曲

1794年:ハイドンの三曲出版
(M・T・エステルハーツィ夫人用)
1795年:ハイドンの六曲出版
(M・J・エステルハーツィ夫人、シュレーター夫人用)
1797年:ハイドンの三曲出版。
(バルトロツィ夫人用)

このように、ハイドンの成熟はモーツァルトの、
1791年の死後になってからであった。

ということで先を読むと、
「モーツァルトは8歳の時、
鍵盤と二つのメロディのために6曲を作曲したが、
これらは基本的にヴァイオリンかフルート、チェロの、
随意の伴奏を伴ったハープシコード・ソナタと言えよう」
とある。

普通、これは、モーツァルトが子供だったから、
未熟な作品を書いたと考えてしまうところだが、
どうも、そうした様式の時代だったと読むべきなのだろう。
何ともおそるべき小童である。

「ディヴェルティメント変ロ長調K.254は、
12年後の1776年に書かれたが、
このパターンを受け継いでいる。
厳粛で印象的な中心のアダージョでは、
ヴァイオリンが独立して、翼を広げるのが聴かれる。
しかし、第一楽章やメヌエットのテンポの、
フランス風ロンドの終曲を通して、
逆にヴァイオリンはピアノを伴奏するばかりで、
チェロはほとんど常にピアノの左手を補強しているだけである。」

プレスラーのピアノ、ギーレのヴァイオリン、
グリーンハウスのチェロからなる、
ボーザール・トリオの、この曲の演奏は、
ピアノの愛らしい響きと、
比較的控えめな弦楽の響きがマッチするのか、
落ち着いて楽しめる。

こんな感じで、さっと終っているが、
この「ディベルティメント」は、楽しい音楽であることは、
もっと強調されて良いような気がする。

しかし、アベック・トリオの推進力と、
表現意欲のある演奏に比べると、
ボーザール・トリオの演奏は、
あまりに典雅にすぎ、
前回、まるで英雄のように舞い上がった、
私の頭の中での「第1番」ト長調K.496などは、
少女の弾く、ピアノ・ソナタにすぎないような感じがして、
少々、ものたりない。

1967年とか70年の録音のようなので、
当時のモーツァルト観はこんな感じかもしれない、
などと納得できたりする。

これまで、このCDを聴くことがなかったわけではないが、
この曲あたりが最も印象が薄かったような気がする。
淡々としたボーザール・トリオのスタイルでは、
魅力を発掘され尽くしていないのだろう。

特に、グリーンハウスの表現意欲は、
あまり高くないような気がする。

解説も、下記のようなもので、
ピアノ・ソナタとの折衷的な作品という感じで、
改めて、この曲種に賭けるモーツァルトの心意気は、
どこからも感じられない。

「常に参加する、
重要な二つの弦楽パートを持つ、
本格的な室内楽スタイルへのシフトは、
10年後、1786年7月から
1788年10月の間に書かれた、
モーツァルトの最後の5つの三重奏に始まる。
K.496、ト長調のトリオは、
実際、作曲家は、手稿に『ソナタ』と書いているが、
ピアノ・ソナタのように開始する。
しかし、すぐにヴァイオリンもチェロも参加して、
より拡張された役割を演じ出す。
流れるような6/8拍子のアンダンテでも、
これらは対話を続けるが、終曲においては、
6つの変奏とコーダを伴う元気のよい主題が、
チェロは、モーツァルトのトリオで初めて、
強烈な個性を発揮しはじめ、
第4変奏では、他の楽器には真似できない、
力強く表現力豊かなメロディ・ラインで、
短調のテクスチュアを下支えしている。」

しかし、終曲に、変化に富む、
長大な変奏曲を持って来た、
この曲の特異な構成は、
ピアノ・ソナタの概念を遥かに超えており、
もっと、特筆されてもよさそうなものだ。

第一楽章のピアノの歌い出しばかり強調されている限り、
この曲の真の理解は深まらないような気がしている。

さて、次が、K.502の解説で、
アインシュタインなどはこの曲を最高傑作と考えた。

私も、実は、この曲の冒頭から聴かれる、
夢見がちな側面も併せ持つ、
わくわくするような楽想を聴いて、
そんな気がしていた。

しかも、妙にがっしりした構成感も持っていて、
各楽器が妙技を繰り広げる。
チェロの瞑想的な色調もばっちり活かされている。

しかし、モーツァルトのピアノ三重奏曲のややこしい点は、
このあと、三曲も続くところで、最高傑作に到達したら、
それで良いという世界でない点である。

解説にはこうある。
「チェロが古くからの従属的な役割から
解放されることはないのだが、
残りの四つのトリオは、ほぼ全体を通して、
真の楽器のコラボレーションとなっている。
1786年11月に完成された、
変ロ長調K.502のトリオは、
有機的形式構造の熟達の証で、
豊かな創意の好例となっている。
同じ6つの音符からなる、小さな音型が多用された、
第一楽章も、再びガヴォットの終曲も
協奏曲風の華麗さと、強烈に活動的な感覚を呼び覚ます。
華麗に装飾された中央のラルゲットもまた、
さらに壮大なモーツァルトの協奏曲の緩徐楽章に似ている。」

第二楽章もまた、歌謡性に満ちていて親しみやすい。
儚いような懐かしいような感じが漲っていて美しい。
第三楽章の弾むようなリズムも、
ぴちぴちしたピアノの流れも愛らしく、
まさしくピアノ協奏曲の小型版という感じである。

古くから名曲として認められていたのであろう、
ボーザール・トリオの演奏でも楽しめるのだが、
アベッグ・トリオのように浮き立つようなところがない。

が、しっとりとした味わいは、こちらでも良い。

私がかつて、古本屋で見つけたものに、
このボーザール・トリオが、
1969年に大阪で開いたコンサートのパンフレットがあるが、
当時は、「ニューヨーク・ボーザール・トリオ」
と呼ばれていたようだ。

「ボーザール(BEAUX ARTS)」が、
何のことかも書いてないが、
「1955年、ピアニストのメナヘム・プレスラー、
バイオリニストのダニエル・ギーレ、
チェリストのバーナード・グリーンハウスによって結成され、
『新鮮な肌触り』『一糸乱れぬアンサンブル』
『個人の謙虚な人格の反映』など、共通の好評を得ている、
アメリカの名ピアノ三重奏団」
とあり、最後の『謙虚な人格』というのが、
非常に印象に残る。

謙虚な人格が必ずしもモーツァルトの作品を演奏するのに、
相応しいとも思えないが、この演奏を聴いていると、
そんなものかもしれないと思う。

彼らについては、
「結成以降、北アメリカ、ヨーロッパ、イスラエル、
アフリカ、中近東等で約2000回の公演記録を樹立」と続く。

巨匠たちの讃辞に、
「感動の演奏、完全無欠のアンサンブル」
(トスカニーニ)
「久しく聴けなかったピアノ三重奏曲の醍醐味。
これこそカザルス、コルトー、ティボーの
ゴールデン・トリオの後継者だ」
(シャルル・ミュンシュ)
とある。

しかし、
「アメリカで聴いた最高のトリオ」
(ロベール・カザドシュ)
というのは、完全にルービンシュタインや、
ハイフェッツらへの当てこすりにも思え、
「恐くなるほど完全な芸術性」
(ジノ・フランチェスカッティ)ともなると、
ちょっと大げさにすぎるような気もする。

ちなみに、写真ではプレスラーがいちばん若く見え、
禿げたギーレは年配に見える。
しかも、ギーレはフランス生まれで、
エネスコやティボーに師事したとある。

トスカニーニが絶賛した理由もあるようで、
彼が結成したNBC交響楽団のコンサートマスターだという。

グリーンハウスはアメリカ生まれのようで、
奨学金を得て渡欧してカザルスの弟子になったとある。
これら二人の弦楽奏者は、共にストラディバリウスを使っているとある。

このモーツァルトを聴きながら、
そこまで聴き通せれば、かなり楽しいだろう。

このようなアメリカの星であるから、
当時からベートーヴェンやシューベルトの全集を作っていたとある。

さて、このモーツァルトのCDに戻ると、
実は、ここからが、この解説の面白い所なのである。

これらの三重奏曲をモーツァルトの大名曲、
三大交響曲になぞらえて、示唆される事が多い。

「次の二つのトリオで、最後の三大交響曲の時代に入る。
ケッヒェッルのモーツァルトのカタログで、
ホ長調のK.542は、交響曲第39番(K.543)の前に位置し、
ハ長調のK.548は、この曲と、
交響曲第40番(K.550)、
交響曲第41番(K.551)の中間に、
一つ違いの番号で位置する。
そして、ハ長調の三重奏曲は、
同じ調性の交響曲第41番『ジュピター』になぞらえられる。」

と、続く二曲は概観され、各曲の解説が始まる。

まさか、ピアノ三重奏が、
交響曲と一緒に論じられるとは思わなかったので、
この切り口は大変、新鮮である。
特に、私としては、39番の交響曲は、
本当に昔から聞いて来たものなので、
こうしたアプローチには胸の高鳴りを禁じ得ない。

さて、このK.542の三重奏である。
「1788年6月のホ長調のトリオと、
同時期の交響曲(39番)は、共に、
ゆっくりとしたアレグロの第1主題が、
3度にわたって、急速に上昇する音階によって変化し、
付随の主題は、優しくスラーで減衰する二音に消えていく。」

確かに、その格調の高さにおいて、
あの交響曲を思わせ、
激しく上下に駆け巡るピアノの音階や、
優美な第2主題などもどこか、
交響曲の第一楽章を思い出させる。

ボーザール・トリオのCDでは、
この曲が冒頭に収められるので、
関係者は、この曲、または演奏に自信があったと思われる。

「続く、アンダンテ・グラツィオーソは、
交響曲におけるアンダンテ・コン・モートの、
付点リズムで構成されている。」
何だか子守歌みたいな音楽だと思っていたが、
そう言われると、あの交響曲もそんな風に聞こえなくもない。

「三重奏曲は伝統に従って、
メヌエットを持たない点は、
これらの二曲の違いになっているが、
終曲のアレグロは機知に富むとはいえ、
交響曲の移り気なフィナーレよりも、
がっちりとしたものである。」

6分に満たない長さで、
急速に走り去る、あの魅惑の交響曲の楽想より、
確かに、7分近くかかるこの曲の終曲は、
虹色の色彩を放射しつつ、
途中、運命の動機まで登場させたりもして、
よりまじめで、腰を落ち着けたような感じがする。

確かにこの曲のように、かなりの出来映えでありながら、
不当にも無視された作品の場合、
こうした紹介のされ方は有効であろう。
交響曲第39番のファンは、ひょっとするとこの曲のファンに、
取り込めるかもしれないからである。

しかし、繰り返しになるが、
個人的には、この第二楽章は、
あまりに呑気な楽想に聞こえる。
第一楽章でかなりの高みにまで登った後ゆえ、
急に童謡みたいになるのが不自然である。
アベッグ・トリオは、そのあたりを心得てか、
少し、辛口のアプローチである。
そっけなく弾いて、中間部の激しい所に重心を移している。

「1788年7月14日に完成された、
ハ長調のK.548は、同様に、
二つの楽章に関して、対応する交響曲に類似している。」

これまた、すごいことである。
39番よりもずっと知名度の高い「ジュピター」に類似だと言う。

「大きな演奏会場では当然かもしれないが、
室内楽においては珍しい、注意を喚起するような、
序奏で、これらの作品は共に始まる。
共に、小さな半音階的楽節に満ち、
入り組んだ対位法が駆使されている。」

確かに、聴衆の注意を向ける、
狩りの角笛のような呼び声から始まるが、
これは、「ジュピター交響曲」を思い出すのは困難である。
その後の幽霊のような不思議なパッセージの連続もまた、
高度な技法と緊張感を湛えて独自の美感を持つが、
壮麗な交響曲とは別種の感じ。

急にスピードを上げて駆け出すあたりは、
一瞬、同様の雄大さを獲得するが、
すぐに、悲しげな断片的な音楽に入り込んでしまう。

「ジュピター」に似ているかどうかは別にして、
これはこれで、独自で孤高の音楽のようだ。

「そして、両作品とも、
幅広い、3/4拍子による、
アンダンテ・カンタービレの緩徐楽章を持つ。」

この第二楽章は、前の曲よりは私の心を打つ。
モノローグ風の楽想は沈鬱で、
作曲家の心に直に触れるような気がする。

途中で、絶叫するような楽想が乱入するのは、
いったい何事であろうか。

非常に清らかな境地に立ち入って行く様子が素晴らしい。
モーツァルトの三重奏曲の白眉と言えよう。

「ここでまた、三重奏曲の第三楽章、
つまり終楽章は、交響曲とは別の道を行くが、
かすかに狩りのロンドの雰囲気を持ち、
誇張ではなく、内的な類似性として、
下降するファンファーレは、
この曲の冒頭の上昇モチーフと対応している。」

ここに書かれているとおり、軽快な狩りの音楽。
先ほどの悲しみはどこに行ったのかという感じで曲を終える。

これはかなりの問題作である。

なお、この曲は、1969年の
ボーザール・トリオの来日公演でも演奏されたようだ。

彼らは、二つのプログラムを用意していて、
二番目のものに、モーツァルトも取り上げられているのである。
「第6番ハ長調K.548」とあり、
かなり混乱する。
偽作のK.442をカウントしたナンバリングになっている。

寺西春雄氏の解説によれば、モーツァルトのヴィーン進出から、
ピアノの発展史の後、ようやく曲に関する記述があり、
9行しか割かれていない。

当時のモーツァルト受容からして、
これが限界であったのだろうか。

「ハ長調K.548は、1788年7月に完成したもので、
経済的な苦境のさなか、
驚くべき多作ぶりをみせていたころの所産である。
明快簡潔、モーツァルトのみずみずしい音楽性は、
家庭的な演奏の喜びと共に、
この曲に寛いだ楽しさをもたらしている。
晴朗率直な第1楽章、
流暢に歌う叙情的な第2楽章、
軽快でロココ風の優雅さを示す第3楽章」。

別にこの曲でなくても成り立ちそうな解説で、
今日では何の役にも立たないが、
おそらくこうした解説は、
今でも、巷にあふれかえっていると思われる。

それはともかく、ボーザール・トリオが、
この曲を、モーツァルトの代表作の一つとして、
ベートーヴェンの「幽霊」や、
メンデルスゾーンの「第1」に先立って
演奏したことが分かる。

ベートーヴェンもメンデルスゾーンも、
彼らの代表作として長らくレコードでも聴かれてきたものである。

ちなみにもう一晩の方は、
ベートーヴェンの「作品1の3」、何と、ラヴェルのトリオ、
そしてシューベルトの作品99が演奏された模様。
曲目だけなら、迷わず、こちらに行くだろう。

しかし、プレスラーの清らかな軽めのタッチからすると、
この曲やメンデルスゾーンの方が向いているかもしれない。

なお、このCDでは、この曲は、一枚目の最後に収められている。
この曲の場合、アベッグ・トリオよりも、
ボーザール・トリオの演奏に惹かれるものを感じた。
アベッグ・トリオは、流麗なのだが、
何だか回想の音楽になっていて、
切迫するような寂しさが感じられなかった。

ボーザール・トリオの場合、
プレスラーが、噛みしめるような歩みを見せ、
ヴァイオリンもチェロも、何だかこらえきれないような表情で、
感情を押し殺した響きで、この曲を彩っている。

このCDの、「三大交響曲」との対比の解説によって、
グレート5曲のうちの「第3」、「第4」
(こう書くと、弦楽五重奏の名作のようだ)
の性格が明らかになったので感謝している。

さて、最後の作品は、K.564で再びト長調となる。
グレート5曲の「第1」と「第5」は同じ調性となった。

解説にはこうある。
「評論家は時折、このシリーズの最後の作品、
ト長調K.564が、前の作品群に比べ、
質的に落ちて来ていると言うが、こうした評価は、
モーツァルトのような巨匠に関しては、
少し危険である。
終楽章同士、6/8拍子の、
軽やかな狩りのリズムが似ている、
最後のピアノ協奏曲のように、
外見上は野心的な前の作品群に対し、
この素晴らしい一群を慎み深く締めくくる、
魅力に溢れた無垢な作品と見なすほうが賢明と言える。」

確かに、3年後の死の年、1791年作曲の
最後のピアノ協奏曲(K.595)の終楽章と、
この曲の終楽章はそっくりである。

ピアノ協奏曲は1月の作品で、
この曲は10月の作品なので、
2年ちょっとしか時期の差異はない。

「第1楽章は、牧歌的なミュゼット舞曲の効果を有し、
中間楽章は、巧妙な3/8拍子の主題と6つの変奏で、
5番目の変奏は短調である。」

第1楽章からして、まったく力の抜けきった音楽で、
緑なす田園風景の単純さに悲しみが交錯し、
不思議な魅力を湛えている。
このあたりになると、私の興味も、
どの楽器がどのように動いているかなどは、
もう、どうでも良くなってきている。

第2楽章は、厳かなメロディーによる変奏曲で、
ハイドンの「皇帝賛歌」に似ているが、
ハイドンの方が、10年近く後の作品である。

何だか、白昼夢のような感じで、生気がなく、
ボーザール・トリオの演奏も、操り人形のように、
力が抜けきっている。

しかし、この解説、もはや神品とも思える、
最後のピアノ協奏曲と比べるとは、憎い技である。
そんな作品だと思うと、
何だか、ものすごい名作なのではないだろうか、
と思えて来るではないか。

しかし、この曲は、単に以前の作品の編曲だと言う説もあるらしい。
ちなみに、この曲もボーザール・トリオは悪くない。
例のパンフレットによると、ピアノのプレスラーは、
モーツァルトのピアノ協奏曲第17番や、
第24番のレコードも出していたようで、
このあたりの様式は得意にしていたのだろうか。

逆にアベッグ・トリオの場合、
その持てる表現力を、最後の二曲ではどうしていいか分からん、
という感じになっている。

このように聴き進むと、
後期の5大トリオは、私の頭の中で、
1.聴きようによっては「英雄」風。終楽章は変奏曲。
2.ピアノ協奏曲風で最も、最も夢見がちなモーツァルト。
3.「交響曲第39番」風。第2楽章が子守歌風で残念。
4.「ジュピター」風。第2楽章は不思議な寂しさで白眉。
5.「ピアノ協奏曲第27番」風。第2楽章は「皇帝賛歌」風変奏曲。
という感じで整理された。

なお、この二枚組CDには、
クラリネット三重奏曲K.498も最後に収められている。
これはブライマーらの演奏で、
ボーザール・トリオとは関係がないので省略。

得られた事:「モーツァルトのピアノ三重奏曲の大部分はケッヒェル500番代で、最後の3曲は最後の交響曲や最後のピアノ協奏曲らと関連を持つ不思議な境地。」
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by franz310 | 2009-08-09 21:55 | 音楽
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