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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その184

b0083728_2241481.jpg個人的経験:
コジェルフ対モーツァルト、
前回はピアノ協奏曲で、
モーツァルト圧勝
という感じだったが、
この分野は、ブラームスの言葉を
待つまでもなく、
モーツァルトの必殺技
のようなもので、
誰が束になっても
敵わないかもしれない。


とは言え、前回の聞き比べで、強調しておくべきは、
コジェルフの第二楽章の淡い夢想的な美しさで、
これを聴いた後では、モーツァルトの協奏曲は、
確かに美しいのだが、何だかごってり感さえ感じられた。

同じオーボエ2本、ホルン2本と弦楽の伴奏であっても、
モーツァルトの場合、ピアノの独白を許さず、
背景からひっきりなしに合いの手がかかり、
神経質なまでに空間を音で埋めていく感じである。

さらに言えば、この天才が、
ハイドンやベートーヴェンの後塵を、
拝している分野もあることを忘れてはなるまい。

それがピアノ三重奏曲であるが、
そもそもレコード録音も少なく、
私にとっても苦手分野となっている。
様々な演奏を聴いたが、どの曲が良いのかすら分からない。

また、モーツァルトのピアノ三重奏を、
擁護している解説もあまりない。

我々の世代が恐らく影響を受けた、
大木正興氏の著作でも、
「どういうわけかピアノ三重奏曲では
モーツァルトは特別目立つような
魅力あふれる楽想を生んでおらず、
このジャンルは彼の室内楽の中では
落ちくぼんだものになっている」
と、書かれている。

さらに、
「モーツァルトはどうもピアノを加えた多楽器の重奏は、
あまり好きでなかったようである」などともあり、
これでは、聴きたくなる方がおかしい。

こうした状況下で、コジェルフのピアノ三重奏曲。
このフンガロトンのCDは、痒い所に手が届く内容となっている。

というのは、この時代、
このジャンルのチャンピオンがコジェルフである事、
しかも、コジェルフには、私が前回指摘したような問題が、
昔から指摘されていた事が書かれていた。
我が意を得たりの解説とも言える。

この1996年録音のCD、
表紙の絵画は、水面に浮かぶ花を描いたものであるが、
解説には何も書かれていない。

私は、漱石が好きだった事で知られる、
有名な「オフィーリア」(ミレー)の一部ではないかと思っている。
むろん、コジェルフとは何の関係もなく、
旧共産圏特有の、知的財産権の感覚の麻痺、
手抜きであると言わざるをえない。

この絵を見ても、コジェルフの音楽はまったく想像できないので、
詐欺であるとも言える。

そうはいっても、このCDの解説、
まず、このジャンルについて、
結構、包括的な記述をしているのは有り難い。

Katalin Komlosという、いかにもハンガリーの姓を持つ人が、
解説を書いている。
コムローシュと言えば、
バルトーク弦楽四重奏団の親分の名前だったような。
それはここでは関係ないか。

「ピアノ三重奏曲は、ヴィーン古典派に特別なジャンルである。
18世紀後半には、パリとロンドンで、『伴奏付きソナタ』が、
軽いヴァイオリン伴奏付きの鍵盤楽器の作品を一般に意味していたが、
ヴィーン周辺地域では、三重奏がもっと好まれていた。
当時、『ヴァイオリンとチェロの伴奏付きの
ハープシコード、または、ピアノのソナタ』
と呼ばれていたが、
家庭用音楽と協奏曲の中間に位置するものであった。
鍵盤楽器の支配的な点、時に、名技的な演奏が求められたものの、
室内楽であって、小さなアンサンブルに伴奏された、
協奏曲といった趣きであった。」

ハイドンの後期のピアノ三重奏曲も、
女性のピアノ奏者を目立たせるための楽曲として、
この曲種が選ばれた事を思い出した。
協奏曲ほど大がかりではなく、
ピアノ奏者が華やかに映えるジャンルなのであろう。
いわば、室内ピアノ協奏曲のような位置づけか。

「18世紀の最後の20年に異常な豊作に恵まれ、
傑出した作品が、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの傍らで、
コジェルフ、ホフマイスター、ヴァンハル、プレイエルらから生み出された。
彼らの中で最も多産だったのがコジェルフであり、
63曲の作品をもって、古典期、このジャンルにおけるリーダーとなった。」

古典期、ピアノ協奏曲のチャンピオンは、
モーツァルトだったかもしれないが、
コジェルフは、別分野でリーダーだったとある。

以下、コジェルフの生涯の概略。
「レオポルド・コジェルフ(1747-1818)は、
ボヘミアの作曲家で、同郷人と同様、
帝都での職を求めて、1778年以降、ヴィーンに住んだ。
彼は優れた鍵盤楽器奏者であり、教育家であって、
その成功はめざましく、そして速くもあったので、
モーツァルトの後任としてザルツブルクの司教から、
スカウトされた程であった。
コジェルフはこれを断っている。
1784年にはコジェルフは自身の出版社、
『Musikalisches Magazin』を立上げた。」

前回、コジェルフのピアノ協奏曲は、
「Magazin der Musik」で批評されていたが、
何だか似ている名前である。

「1792年、彼は宮廷王室作曲家に任じられ、
名声ある名手であり、人気のある教師であった。
まさに成功に満ちたキャリアであった。
同時代の証言によると、新しい鍵盤楽器、
フォルテピアノに関しては、
モーツァルトよりコジェルフの方が、
より、引合いに出された。
『アマチュアの貴婦人には、
誰よりもコジェルフが最も適任なピアノフォルテ奏者』
と1788年の『豪華流行ジャーナル』の記事にはあって、
1796年の『ヴィーンとプラハの音楽年鑑』には、
長く詳細な、コジェルフの長所や、
ヴィーン音楽界における彼の役割が書かれている。
『フォルテピアノの普及はコジェルフに負う所が多い。
単調で、混乱しがちなハープシコードの音では、
彼の音楽が求める、輝かしく繊細な、
光と影の二面性を伝えることは出来ず、
フォルテピアノに興味を持つものしか弟子にしない。
鍵盤楽器の分野の嗜好を作り直すのに、
コジェルフは重要な役割を果たした。』」

ここで銘記しておこう。
ピアノを普及させたのは、コジェルフだ、
という強烈な評価があったというのである。

「この年鑑は、コジェルフの作品に関して言えば、
いくらか慎重な評価をしている。
『コジェルフのソナタは、
独奏用のものであれ、ヴァイオリン、チェロ伴奏用のものであれ、
大量に書かれ、一般には有名である。
我々はただ一つ不満に思う。
彼に似た作曲家が多すぎて、
模倣を続け、おなじみの部分をだらだらと繰り返す。
違った作品に似たようなパッセージが出現するのが、
彼のスタイルの特徴に思えるが、
古典的な作曲家は何らかのスタイルで特徴付けられるものだ。』」

まさしく、これこそが、
前回、私が、彼のピアノ協奏曲を聴いて感じた事ではないか。
しかし、どこかで聴いたような楽節をだらだら繰り返す、
何て、何て最悪な表現であろうか。
これがコジェルフ風?

「コジェルフは、大量の声楽作品、交響曲も作曲したが、
彼の最も価値ある作品は、鍵盤楽器分野のもので、
例えば、独奏ソナタ、トリオ、協奏曲である。
ここに収められたのは、1780年代の、
コジェルフのトリオで、最も重要なものである。
これらは、流ちょうな作曲スタイルで書かれ、
バランスのよい形式、独特の楽器語法で特徴付けられる。
コジェルフの鍵盤パートのアーティキュレーションは、
アクセントの付け方の豊かさ、
転がすようなパッセージの輝かしさ、
緩徐楽章の表出力は、フォルテピアノならではのものである。
このジャンルのヴィーンの伝統によって、
フォルテピアノが主導するが、ヴァイオリンは主題の役割を担い、
しばしば、チェロはピアノの左手の補強の役割を越えて活躍する。
無名の同時代の作曲家の穏和な表現に比べ、
コジェルフの作品の対位法的処理は傑出している。
何にも増して、冒頭楽章の提示部のカノンの模倣が目立ち、
主題の反行形、オリジナルのメロディーへの対主題は、
コジェルフの作品が、遥かに同時代の平均を上回っている。」

出来れば、その時代の「平均」と比べるのはやめて欲しい。
せめて、3巨匠の平均との比較、あるいは、
同時代の最高と比較しないと意味はあるまい。

それにしても、世界には名だたる三重奏団が、
たくさん存在するが、彼らのレパートリーの多くは、
ハイドン、ベートーヴェンを経て、
シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンらの二曲ずつ、
フォーレ、ラヴェルといきなり近代に飛ぶことが多い。

古典派のチャンピオン、コジェルフの存在は知っていたのか、
知らなかったのか。
例えば、スーク・トリオ、チェコ・トリオのような大御所が、
同郷のコジェルフを何故、録音しなかったのであろうか。
(彼らはそもそも、ベートーヴェン以前は興味なさそうだし、
この解説の冒頭にもあるように、ベートーヴェン以降のものと、
コジェルフ、モーツァルトらは、別のジャンルだという、
言い訳があったかもしれないが。)

とにかく、ここで、一般論は終り、各曲の解説に入る。

イ長調の曲は、作品12-2とあって、
二曲目に収録されているが、何故か、
最初に解説されている。

和音の後に、いきなりピアノが登場して、
どうも、室内ピアノ協奏曲と言いながら、
前回聴いたピアノ協奏曲とは印象がかなり異なる。

「トリオ イ長調 P.IX:8
1786年、3曲組で出版したものの一つ。
アレグロの第1楽章は、コジェルフの、
協奏曲的、フォルテピアノ式労作の典型で、
主題の二度の提示、提示部のテーマ間の遷移は、
名技的パッセージで埋め尽くされ、
楽章の締めくくりを前にカデンツのトリルが現れる。
叙情的に歌う第2主題は、
ヴァイオリンで奏され、
楽器間で装飾された模倣が繰り広げられる。
主題提示部の主題労作の出現は、
室内楽の典型的作法である。」

ヴァイオリンが朗々と歌い始めるところでは、
完全にヴァイオリン・ソナタである。
ハイドンなどのものより、ヴァイオリンの表情が大きいのは、
何か理由があるのだろうか。
このような瞬間のメロディは伸びやかで美しいが、
確かに、そのほかの部分ではピアノがめまぐるしく駆け巡っている。
チェロは、この曲ではブーン、ブーン、ジャッ、と鳴る程度。

第1主題は比較的地味で、
展開時にはここで登場した、
「タタタタタタ・ターラ」といった、
動機強調的進行が目立つ。
興奮してくると、「タタタタタ・タン」といった
感じになるが、曲想の変転は一筋縄でいかない感じで、
その点、後年のハイドンのトリオ風かもしれない。

第二楽章は一転して、悲しげな楽想である。
「『アンダンティーノ・コン・ヴァリアチオーニ』は、
シチリアーノ風の主題で始まり、テクスチュアによって変化に富む、
7つの変奏曲が続く。
ヴァイオリンとピアノが交互に主導権を握る、
通常の手法ではなく、次第にリズムが変化して、
ヴァイオリンと共にチェロパートが強調され、
第1変奏、第6変奏では、独立した動きを見せ、
フォルテピアノと弦楽二重奏の対話が、
同時代のトリオの中では進歩的。」
物思いに耽って、こみ上げる不安が、
このヴァイオリン、チェロの二重奏によって表わされているようだ。
ヴァイオリンは時として扇情的、時として装飾的で、
かなり変化に富んだもの。
この楽章では、チェロも独特の音色を深く味合わせてくれる。

前回、ピアノ協奏曲では、第五番の中間楽章が変奏曲であったが、
それよりはずっと変化に富んでいる。

「ロンド・フィナーレは、
今日、あまり知られていないのだが、
『ロンドの間奏曲には、ロンド主題の素材を使うか、
または、引用するのが好ましい』という、
当時の理論的命題
(Forkel,Musikalish-Kritische Bibliothek,Gothe,1778)
を思い起こさせる。
第三楽章の二つのエピソードは、
主題と関係のあるメロディー素材から組み立てられ、
この古典的傾向を明示している。」
2分10秒あたりから、間奏曲が始まるが、
闊達な主題が、いじいじした感じに変形されて登場する。

この三重奏団、ピリオド楽器を使っており、
「TRIO CRISTOFORI」と名乗っているが、
各奏者の経歴などは書かれていない。

とはいえ、ピアノは女性(Szilvia Elek)、
弦楽は男性(Peter Szuts、Balazs Mate)で、
どこかの洒落た邸宅の一室に集まって楽譜を見ている写真が出ている。

男性二人はひげ面、燕尾服。
金髪女性は真っ白なドレスに身を包んでいる。
中堅に見える。
さすがに、しっかりしたもので、
興が乗って、かなり霊感に富んだ演奏を聴かせている。

この楽章になると、前回聴いたピアノ協奏曲と同じ雰囲気を感じる。
(ピアノ協奏曲3曲はすべて終曲はロンドであった。)
おそらく単純な曲想なのだろうが、
緩急自在で、生命力を感じる。
さすが、コジェルフはピアノ三重奏のチャンピオンである。

さて、ここから、次の曲の解説が始まるが、
ここでちょっと困ったことが起こる。
というのは、残りの二曲をいっしょくたにして解説しているので、
どの曲を聴きながら読めばいいのか分からない。

しかも、大胆に一曲は短調、一曲は長調。
モーツァルトなら交響曲でも弦楽五重奏でも、
はたまた、ピアノ協奏曲でもあり得ない話である。

何故なら、モーツァルトの「ト短調」や「ニ短調」は、
「走り去る悲しみ」なので、まったく特別な音楽であって、
晴朗なだけで、何だか無害な「ハ長調」などと、
同列に語ってはならないのである。

が、コジェルフではそれが許されるらしい。
さすが、同じ音楽ばかりを書いた人である。

「トリオ 変ロ長調 P.IX:13
トリオ ト短調 P.IX:15
最初と最後が、これら変ロ長調と、ト短調である、
コジェルフが出版したトリオのシリーズの『第5冊』は、
作曲家自身による出版である。
このジャンルと作曲家の人気は、
これに先立つ曲集への類似性や、
この曲集もまた、数年して、
欧州主要出版社から、
再版されたことからも明らかである。」

という風に、これまた、この曲たちが、
まったく特別なものではなく、単に、二匹目のドジョウであると、
書き始められているのが悲しいではないか。

二曲が似ているだけでなく、
前に書かれたものとも似ているって、どういうこと?
まったく進化しなかった作曲家がコジェルフということ?
究極の二番煎じ男がコジェルフだったのか。
シューベルトは、そんな人の音楽を弁護したのか。

ただし、聴いてみると、それほど、同じ曲には聞こえない。
勇気を持って、先に進もう。

「ハイドンがそうしたように、コジェルフもまた、
フォルテピアノの音楽に特に人気があった、
ロンドンのいくつかの会社と直接のコネを維持したが、
この曲集は1788年にパリで、英国より早く出版された。
同時にドイツにおける音楽嗜好の変化は、
『Musikalishe Real-Zeitung fur das Jahr』の1789年9月号の、
この三曲のトリオのレビュー記事(Speyer)に明らかである。
これは、人気あるスタイルの支配によって、
作品の独自性を弱めていると述べている。
『作者のフォルテピアノの作品は、
ドイツ内外で知られすぎており、
一般の評価に反対して、
批評家があえて自論を述べたくない程に、
賞賛されている。
それでもなお、この作曲家は、時流を追う故に、
あまりにも多くのものを犠牲にしているように見える。』」

これを読むと、コジェルフの交響曲を演奏することになって、
ぶうぶう文句を言っていた、シューベルトの学友たちの姿が、
目に浮かぶようである。

弁護したシューベルトは間違っていて、
学友たちの方が正しかったのか。
勇気を持って進んだが、またしも、コジェルフの悪口が出て来た。

シューベルトが生まれる10年ほど前に、
コジェルフの国際的名声は頂点に達し、
すぐに、人気の下降、というか、馬脚を現わしてしまった、
という感じである。

完全に俗物扱いで情けない。

どれもこれも同じ曲で、流行を追うことだけが取り柄だとすると、
シューベルトたちが演奏した頃には、
すっかり時代遅れになって、
演奏する方も、「ああ、またか」となりそうである。
現存の宮廷王室作曲家の作品というよりも、
20年以上前の流行曲にすぎないと、
思われていたとしたらなおさらだ。

「変ロ長調のトリオの第1楽章で、
フォルテピアノとヴァイオリンのユニゾンによる第1主題と、
ヴァイオリン独奏による第2主題の大きな二つの主題を結ぶ経過句は、
コジェルフの対位法へのこだわりと才能をひけらかしたもので、
三つの楽器間の対位法は主題提示部で、
重要な役割を演じている。」

このようにあるように、
この曲はなかなか興味深い。
いきなり駆け出すように現れる第1主題も面白いし、
ユニゾンのぎざぎざした楽想もベートーヴェンを先取りしている。
第2主題は、伸びやかで美しく、まさしく、シューベルトの、
ヴァイオリンの「ソナチネ」を思わせる。

対位法的と言われればそうかもしれない。
そもそも、コジェルフは、シューベルトが尊敬していた、
対位法の大家、ブルックナーの師匠であるゼヒターの師匠なのだ。

日本にやたら多いブルックナー愛好家が、このような記事に便乗して、
コジェルフの悪口を書いたら、罰が当たるというものだ。
おそらく、評論家は、簡単にあっさり切り捨てるだろうが。

さて、もう一曲の方の第一楽章はどうか。
実は、これがこのCDの最初のトラックであるが。
この曲は短調だけあって、かなり押しの強い印象的な音楽である。
そもそも、ベートーヴェンの「運命」の動機が全編を支配し、
強弱の振幅も大きく、チェロもぶんぶん唸っている。
解説にはこうある。
「一方、ト短調トリオの、第一楽章のアレグロは、
むしろドラマティックな短調の音楽で、
提示部は、強烈に名技的なピアノフォルテ・パートに
支配されている。
この楽章は我々に、いくつかの意味で、
ト短調のモーツァルトを想起させる。
ハーモニーでは、K.456の変ロ長調の協奏曲の、
緩徐楽章の主題に類似しているにもかかわらず、
同様にアレグロ3/4拍子の
K.379のヴァイオリン・ソナタのリズムの動きを、
聴衆に思い起こさせる。」

ここで、K.456とあるのは、
パラディースのために書かれたと言われる、
1784年作の18番の協奏曲である。
私が、この悲劇的な第二楽章を聴いたのは学生時代だったが、
ピアノの哀愁に満ちた調べに、じゃじゃーっと入って来る弦楽が、
実に気味悪かった。
慟哭しているような音楽になる。
ブレンデルとマリナーの演奏だっただろうか。

また、K.379とあるのは、
作品2として出版されたヴィーンで最初に書いた35番のソナタで、
1781年の作。
楽章が二つしかないが、とても印象的な開始部を持つ。
この部分が荘厳なアダージョ。
続いて入って来るヴァイオリンの気高い楽想が見事だ。

コジェルフの作品は、こんな慟哭をしているわけではないが、
メロディは確かに同じと言ってよい。
が、モーツァルトには、
この作品の推進力を特徴づける「運命」の動機の強調はない。

が、ひっきりなしに動き回っているピアノといい、
高々と舞い上がるヴァイオリンといい、
ヴァイオリン・ソナタの概念に近い。
が、かなり雄渾な作品で、前回聴いたピアノ協奏曲より、
はるかに、演奏会受けしそうな気もする。

同じ曲集にある、夢見るような作品12の2とも、
対位法的と呼ばれた作品12の1とも、
同列には論じられない。
意外にコジェルフも同じ曲ばかりではない。

さて、ここからは、二曲が一緒くたに論じられる部分。
「両作品の中間楽章のアダージョは、
ト短調のトリオも、変ロ長調のトリオも、二部形式で、
ダ・カーポの記号でサイクルをなす。」

確かに両曲とも、静かにユニゾンで入って来るところなど、
同じような感じがしないでもない。
ただし、ト短調は5分ほど、変ロ長調は6分半と、
曲の長さには差異がある。

「前者の楽器用法は、見事に彫琢された
フォルテピアノのパートによって決定づけられ、
変ホ長調のこの楽章の第2の部分は、
減七度の変ニ長調で始まる音の構成が素晴らしい。」

第一楽章の緊張のあとで、
このアダージョは、少し寛いだ感じで気が休まるが、
中間部でせっぱくした表情を見せる。
ただし、ピアノパートのどこが超琢されているのかは分からない。

勝手に追加すると、この変ロ長調の方は、
ユニゾンでの、意味ありげな不思議な序奏のあと、
ヴァイオリンが、まさしく、モーツァルトの、
ヴァイオリン・ソナタのような美しい歌を歌うが、
聴き所はその後で、コジェルフが一世を風靡した楽器、
ピアノが、まさしく夢見心地の境地に遊ぶ。
まことに夢幻の味わいである。

こっちの曲の方が、ずっと彫琢されている印象。

前回のピアノ協奏曲第1番の第二楽章は美しかったが、
こうした、夢想の世界はコジェルフお得意である。
ここでも、何だか切迫した中間部が現れる。
その後も、再び、もとの雰囲気に溶け込んでいく。

さて、終楽章である。
「ロンドの終曲は、当時のコジェルフの独奏曲、
または室内楽曲の終曲を特徴付ける形式である。
いくぶん長いリトルネルロで、
楽章の終りの『ダ・カーポ』である。
これは二つのエピソードAとBと、
これらを短縮した中に現れる主題Cを結びつける。
両曲の終曲は、共に舞曲の性格を持ち、
変ロ長調のものは『Giga』と題され、
ト短調のものはまったく記載がないが、
明らかにブーレである。
これら二曲の終曲の、もう一つの共通の性格は、
ヴァイオリンがソリスティックに扱うエピソードの、
主題的関連である。」

これも二曲一緒にしてくれているので、
トラック3を聴いたり、トラック9を聴いたりしないといけない。

迷惑な解説である。

個々の曲に入るまでは、良い解説だと思っていたが、
曲の説明に関しては、少なくとも私には困った解説である。

変ロ長調の終楽章、気まぐれな楽想も盛り込みながら、
幻想的な一心不乱の舞曲で、
後半になると、何だか妙に情念のたぎりのような瞬間が現れる。
そうした事は、モーツァルトでは、
あまり見られない現象のように思えた。

ト短調の終曲は、一瞬であるが、
シューベルトのピアノ・ソナタ第16番を思い出す。
ぶつぶつと呟くような無窮動風で、
このまま駆け抜けると良いのに、
妙に寛いだ中間部が出て来て緊張が途切れる。

しかし、何だか民俗舞曲調のちゃらちゃらも出て来て、
「ロザムンデ」の四重奏のような焦燥感も交えつつ、
なんだかんだと考えているうちに風が吹き抜けて終る。
妙に様々なサービスが仕掛けられている。

このように見てきたように、コジェルフのピアノ三重奏曲、
さすが、ピアノ三重奏曲の王者の作品だけあって、
各楽器を操りまくって、自由自在な音楽をやっている。
こんな創意に満ちた楽曲は、ハイドンが最初かと思っていたが、
どうも、それより早い段階で、コジェルフはやっていたようだ。

得られた事:「コジェルフの必殺技は対位法であって、その妙技の赴くままに、自由な幻想の翼を広げて三重奏曲の新領域を開拓した。」
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by franz310 | 2009-07-25 22:11 | シューベルト
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