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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その178

b0083728_23365575.jpg個人的体験:
ジーモン・ゼヒター。
シューベルトとブルックナーを結ぶ、
ミッシングリンクのような存在。
前回、この人の歌曲にも
言及しようと思ったが、
字数オーバーでアウトになった。
ただし、シューベルトは、
結局、この名物教師からは
一度しかレッスンを受けていない。
シューベルトの生命が尽きたのである。


一方、ゼヒターは、ブルックナーには、
どのような影響を与えたのであろうか。
そのあたりもちょっと気になって、
ブルックナーの初期の作品を集めた、
CDを聴いてみたくなった。

これは、交響曲作家として高名な人の、
ほとんど知られざる一面を示して、
大変、興味深いCDであるが、
ブルックナーにこだわったレーベルとも思えない、
スウェーデンのレーベル、BISのもの。
World premiere recordingsとあって貴重と思えるものの、
何故、弾いているのがfumiko shiraga?

1967年日本生まれだが、6歳で両親とドイツに渡っており、
日本人が何故、という質問は不要なのかもしれないが。
解釈にすぐれ、色彩的で繊細でありながらすごい集中力がある、
という批評が紹介されている。

室内楽演奏で、リンツのブルックナーハウスに招待された、
とあるから、こうしたことがこの録音に関係しているのか?
こうした推測を勝手にすると、違うと言われそうだが。

ソナタの断章、舞曲、幻想曲など小品が10曲、
1. ト短調ソナタからの第一楽章(1862)
2. 「秋の夕べの静かな想い」(Stille Betrachtung an einem Herbstabend)(1863)
3. シュタイエルメルカー(Steiermarker)(1850)
4. ランシェ・カドリル(Lancier Quadrille)(4曲)(1850)
5. 小品 変ホ長調(1856)
6. 幻想曲 ト長調(1868)
7. Erinnerung(回想、追憶)(1868)
が収録されている。

そして、最後に「第七交響曲」からの長大なアダージョが、
26分40秒かけて演奏されている。

が、このCDのデザインは、
何とかならないのだろうか。
ピアノの弦のクローズアップだが、
まるで、集積回路のワイヤーボンディングを見ているようで、
何だかイライラする。
しかも白黒。ピントも合ってるか、合ってないかわからん。

ただし、今回、ざっと聴き通して言えたことは、
ブルックナーの成長過程はそれなりに聴き取れるということ。
この変人巨匠の評伝を読んだことのある人なら、
楽しめるかもしれない。

舞曲調で単純なものは楽しく明るい。
また、小品はトマーシェクなどから続く即興曲風とも言えよう。
さらにベートーヴェン風の緊張したものがあり、
1868年くらいの作品になると、ブルックナーの交響曲の、
長大な幻想が羽ばたき始めるのが感じられる。

特に、最後のErinnerungの恍惚とした高揚感などは圧巻である。
まるで、第八交響曲のアダージョではないか、これは。
最後のぴらぴらぴら、といった感じは、
あの大交響曲のハープそっくりである。

Rudiger Herrmannという人が解説を書いている。

「広く一般聴衆にとって、
交響曲と宗教曲の大家として知られるブルックナーの、
ピアノ曲が知られていないのは決して不思議なことではない。
しかし、ブルックナーのピアノ曲を知ることは、
単に音楽的にどうかということを離れても、
音楽史に特異な位置を占めるこの作曲家の芸術が、
どのような変遷を見せたかという興味をそそる。
音楽上の規範、様々な作曲技法、感情や心情の表出、
作曲した当時の状況までもが明らかになり、
ブルックナーの個性のイメージを満たし、
音楽発展の軌跡を見ることができる。」

ということで、今回、このCDを取り上げた事と、
完全にマッチする内容が書かれていることが分かった。

「1850年から1868年に書かれた、
ブルックナーのオリジナルのピアノ作品を見る時、
まず、ロマン派の性格小品、抒情小品、『無言歌』
のような規模の小ささに我々の関心は寄せられるが、
それが作曲された場所についても注意するべきである。
つまり、それは聖フローリアンの修道院か、
または、聖堂の街、リンツか。」

ブルックナーは、ちょうどこの時代、
ジーモン・ゼヒターに教えを請うている。

「1845年9月、ブルックナーは、
かつて自分が少年聖歌隊として参加していた、
聖フローリアンの商業寄宿学校への採用が決まった。
10年の間、まずは補助教師として、そして上級中学の教師として、
この学校で教え、1850年からは修道院のオルガニストも務めた。
学校での業務に加え、聖歌隊で声楽やヴァイオリンも教えながら、
さらに彼はピアノのレッスンの時間も作っていた。
彼は、友人でパトロンであった修道院の書記フランツ・ザイラーの死後、
譲り受けた新しいベーゼンドルファーでレッスンを行った。
彼の教え子には、秘書のマーベックの3人の子供たちや、
教区の行政官リュッケンシュタイナーの娘や、
彼の前任の教師ミヒャエル・ボーグナーの娘、
アロイジア・ボーグナーがいた。
彼女は、ブルックナーのピアノ曲の中で、
残っているもののうち最古のもので、
その手稿には指遣いまで書き込まれた教則用の、
『Lancier Quadrille』を献呈されており、
この若い将来の巨匠は明らかにこの生徒を愛していた。
この4楽章のコントルダンスは、作曲家の世俗音楽への愛情と、
彼が実際にダンス音楽も担当しただろうということを明らかにする。
作曲のテクニックはモンタージュであって、
1840年頃、リンツで舞台にかかった、
ロルツィングやドニゼッティのオペラの中のメロディを繋げ、
序奏と、中央部のメロディ変容部、終結部のコーダを追加している。」

ということで、Track4から7は、この曲が入っている。
とても楽しいダンス音楽で、シューベルトのワルツ集に、
紛れ込んでいてもおかしくない長さ(1分半から4分程度)で、
長大重厚なブルックナーらしさは皆無である。

このような音楽を彼はダンスの伴奏を行ったのだろうか。
そのピアノの席から、見つめていたと思われるアロイジアとは、
いったいどんな女性だったのだろうか。

いずれにせよ、シュトラウスのワルツやポルカと同じ土俵のもので、
気楽に楽しめるという点では、録音されるに値する。

シューベルト的という意味では、
もっと繊細なのが、Track3のもの。
物憂げな情緒はまさしくシューベルト的だ。
そのことは、この解説にも書いてあって驚喜した次第。

「『Steiermaker』は、様式化されたレントラーで、
同様に1850年頃の作品。
やはりアロイジアに捧げられるはずだったこの作品は、
4つの8小節が繋がって楽しい舞曲となっており、
上部オーストリアの民謡『Dirndal,merk’dir den Bam』の引用があり、
シューベルトの舞曲の影響が見られる。」

これは非常にロマンティックなもので、
『初恋のワルツ』とでも命名してもよさそうだ。

「手稿にある献辞は、最終的に×印で消されており、
彼がかくも愛した生徒から拒絶された事を示唆している。
そして、これは、おそらく彼の確実だった音楽的成長を遅らせ、
彼が愛した第二の故郷への失望を募らせた。」

ちなみにこの話はブルックナー・ファンには有名な話なのか、
新潮文庫の土田英三郎著「ブルックナー」にも、
かなり詳しい記述がある。
シュタイエルメルカーとは、「シュタイエルメルク州の人、舞曲」を表わす、
と楽譜のコピーまで載っているのでびっくりした。

なお、春秋社から出ている田代櫂著
「アントン・ブルックナー、魂の山脈」にも、
このような記述がある。
「恐らくこのアロイジアが、
ブルックナーの少女崇拝の発端だったのであろう。」

なお、ブルックナーは21歳で正教員になる以前は、
クロンシュトルフという小村の補助教員をしていたが、
この街はエンス河のほとりにあって、
シューベルトが「ます」の五重奏曲を作曲した、
シュタイアーの街は、その上流にあった。

この春秋社の本によれば、
そこを訪れたブルックナーは、「シューベルトの最後の女友達」
と言われた、カロリーネ・エバーシュタラーと知り合ったとされている。
カロリーネと言えば、エステルハーツィ伯爵家の息女を思い出されるが、
エバーシュタラーはノーマークであった。

「彼女を通じてシューベルトの世俗音楽に触れたといわれる」
と書かれているが、聖フロリアンには、シューベルトの宗教曲が、
あったのだろうか。
「聖フロリアンの図書館には、すでにシューベルトの生前から、
写譜や楽譜のコレクションがあった」と書かれているのが気になった。

なお、この本にはさらに、
「歌曲では『冬の旅』の第一曲『おやすみ』を
特に好んだといわれる」とあり、
歌曲の他に、ピアノ・ソナタ第16番と第21番の
楽譜を、ブルックナーは所有していたとある。

この本掲載の地図を見ると、
このシュタイアーの街のさらに上流には、
シュタイアーマルクの記載があり、
おそらく、これが、先の舞曲「シュタイエルメルカー」であろう。
このエバーシュタラーさんとの交流の中で得られたものであろうか。

ブルックナーの初期作品が、このように、
「ます」の五重奏が生まれた風土の中から生まれた事の方が、
ゼヒターを介しての繋がりより重要なような気がしてきた。

しかし、エバーシュタラーという名前は、
「友人たちの回想」には出て来ないようである。
この女性はブルックナーより長生きしたとあるので、
「最後の女友達」というのは、
「最後まで生き残っていた女友達」という意味ではなかろうか。
シューベルトは、シュタイアーで歓迎された時、
泊まっていた家の8人の美人娘について言及しているが、
その友達として、エバーシュタラーさんがいたとしてもおかしくはない。

CD解説に戻る。
「収税官吏の娘、アントーニエ・ヴェルナーへの求婚に対しても、
否定的な返事を返され、彼の失望は、その芸術家としての野望の発展、
社会的地位の改善に関しての努力を潰えさせた。
孤独と自信喪失と修道院からの援助の不足が、
フローリアン時代の最後の5年、
個人的、芸術的な危機の時代を招来させた。」

確かに、これらの後、このCDに入っているのは、
1856年の一分半に満たない「小品」があるだけで、
あとは1860年台のものとなっている。
したがって、若い頃の作曲の記録とはいえ、
かなり離散的な記録となっているのである。

「大聖堂と教区の教会のオルガン奏者となり、
学校教師を辞めて、1856年から1868年のリンツ時代に、
職業の点ばかりか芸術的にも飛躍があった。
ブルックナーは社会的地位を向上させ、市民社会の中で、
プロとしての、芸術上の名声を獲得し、
雇い主大司教フランツ・ヨーゼフ・リューディガーの援助や激励も得、
何よりも、収入も増やすことが出来た。
彼のたくさんの時間を費やす業務、教会音楽の用意、
演奏会での演奏、オルガンのメンテと改修、合唱指導、
音楽理論や対位法の徹底的な勉強の合間を見つけ、
リンツでも個人的なピアノ教授を続けていた。」

危機の時代は去った。
さて、どんな曲が書かれたのだろうか。

「たった18小節の、非常に短いピアノ小曲変ホ長調は、
1856年に書かれ、ブルックナーのリンツ時代の、
おそらく最初のピアノ作品であろう。
彼の手による指遣い、フレージング、ダイナミックスのマークが、
この作品が彼の音楽レッスンに使われたことを示している。
歌うようなメロディの扱い、音楽素材の扱いは、
メンデルスゾーンの雰囲気を漂わせ、
教材に使っていた『無言歌』からの影響があるかもしれない。」

この曲(Track8)もそれほど個性的ではないが、
とても親しみやすいもので、
後年の大交響曲群のブルックナーに怖れをなす必要はない。
シューベルトから、規範はメンデルスゾーンに移ったようである。

「メンデルスゾーンのスタイルへの通暁は、
1863年10月10日に書かれた、
性格小品『秋の夕べの静かな想い』にも明らかである。
この作品は、思索にふけるムードが強調され、
1857年から63年にかけて、毎週教えていた、
ブルックナーの生徒、エンマ・タンナーに捧げられ、
彼女の証言によれば、『恋人の望みのなさ』が、
この作品に底流しているという。
調性、テンポ、リズムや技法がメンデルスゾーンの、
『ヴェネチアの舟歌』作品30の6と明らかに類似しており、
さらに3部形式という形式上の外観も、
ブルックナーが規範として、
『19世紀のモーツァルト』を採用したことを示している。
しかし、その模倣を越えて、ぎっしりと書き込まれたカデンツァが、
ブルックナーの執拗さを示しており、
オットー・キツラーの元での修行を終え、
1863年6月には『赦免』されていて、
『自由な創作』の個性を感じさせる。」

ここでは、何故か、キッツラーの名前しか出ていないが、
この間、ブルックナーは、冒頭で話題にした名教師、
ジーモン・ゼヒターに学んでいる。

こう見ると、ブルックナーは、
危機の時代をメンデルスゾーンで克服し、
続いて、ゼヒターに学んでいる間に、
シューベルト風からメンデルスゾーン風になってしまったようにも見える。

確かに、ゼヒターが、シューベルトはいいよ、
シューベルトに倣いなさい、などと言ったとは思えない、
ような気もする。

とすれば、ジーモン・ゼヒターを、
シューベルトとブルックナーを繋ぐ、
ミッシングリンクなどと考えるのは、
まったく間違いであったと言わざるを得ない。

ここで、ゼヒター自身の作品も見て見よう。
前回、取り上げた、「シューベルトと同時代者の歌曲集」に、
ゼヒターの歌曲「おやすみ」が収録されている。

ブルックナーが好きだったシューベルト歌曲と同じ題名??

対位法教師の作品ゆえ、もっと異質な世界を期待したが、
単純で穏やかな世界が広がっている。

内容は、「お母さんがおやすみを言うと、優しいベルが鳴るのです」
という感じの子守歌風。
解説を見ると、
「驚くべき事に、ここには対位法的なものはなく、
ビーダーマイヤー風の歌曲で、まったく複雑なところがない」
と、私がびっくりがっかりしたのと同様のことが書かれている。

「SIMON SECHTER(1788-1867)
ゼヒターはボヘミアに生まれ、
ヴィーンにて同郷のコジェルフに学び、
Gumpfendorfの盲人施設の音楽教師となった。
1824年、宮廷劇場のオルガニストとなった。
1851年の晩年になってようやく、
ヴュータンやブルックナーを教えることになる
音楽院のスタッフとなった。
彼はラモーのグランド・バス理論を担当し、
これを彼の理論書の最初とした。
シューベルトは1824年になると、
おそらく、ラッハナーか誰かの薦めで、
ゼヒターに学びたいと思ったが、
ゼヒターの堅苦しい音楽がうつることを怖れた、
他の友人に忠告を受けてやめている。」

1851年といえば、まさしく、ブルックナー危機の時代。
また、ゼヒター自身は63歳の高齢ではないか。

「シューベルトは仲間の作曲家のヨーゼフ・レンツと、
1時間のフーガのレッスンのために、
1828年11月4日に遂にゼヒターを訪れた。
これはちょうど死の2週間前であり、
シューベルトはD965bのフーガの練習を残したものの、
二度目のレッスンの機会はなかった。
彼がゼヒターに入門しようとした理由としては、
正式な地位に就くためには、
こうした修行が必要という示唆があったからかもしれない。
また、晩年のベートーヴェンのように、
ヘンデルやバッハの音楽に惹かれたからかもしれず、
あるいは単純に複雑な対位法を手中にしたかったのかもしれない。
この問題に対しては、近年のレンツの研究結果が待たれる。
このゼヒターの歌曲は、
1835年の雑誌への付録である。」

ゼヒターが残したシューベルトに対する手記は、
非常にそっけないものであるが、
(1857年8月21日のものとある)
今回、改めて読み直すと、
「天才シューベルトとわたしとの関係に対し、
わたしには、わたしたちがたがいに尊敬し合っていたが、
あまり会うことはなかった、とだけ申し上げるしかありません。」
と書いている。
シューベルトの前に、「天才」とあるのは、畏敬か皮肉か。
「ハ短調フーガ」という作品を、彼は、
「天才」の死後、シューベルトに捧げているともいう。

一方、先の新潮文庫でゼヒターとブルックナーの関係を読むと、
「1855年7月に始まるゼヒターの指導は足かけ6年に及んだ」とある。
この間、ゼヒターは、シューベルトの思い出を書いている。
30年近く昔の話で、ゼヒターは70歳近い高齢ではないか。

「ゼヒターはボヘミア生まれの音楽理論家で、
当時ヴィーンの宮廷オルガニストと楽友協会音楽院の
和声法・対位法の教授を務めていた。
彼は理論の古典的な伝統を継承し、
特に和声論の分野では十九世紀中葉を代表する人物のひとりだった。
大変な多作家でもあり、毎日必ずフーガを一曲書いたという。
教育家としても多数の優れた弟子を持ったが、
フランツ。シューベルトが死の少し前に
彼に教えを請うた話は有名である。」

こう書かれると、シューベルトに一曲くらい捧げても、
日記の切れ端にしか見えないではないか。

「ゼヒターの教育は57年の秋から本格的に開始された。
ブルックナーはゼヒターが教えることのできるすべてを吸収した。
・ ・1861年3月26日、カノンとフーガの修了証書をもって、
ブルックナーはゼヒターのもとでの勉学を終えた。
ゼヒターは弟子の修業期間中の作曲を禁じていたので、
リンツに移ってからこの時点までの作品は10に満たず、
しかもそのほとんどはピアノの弟子のための小品とか、
聖フローリアンやフロージンのための機会音楽的作品である。」

と読むと、シューベルトは、つくづく、
ゼヒターの弟子にならなくて良かったと思う。

しかし、もう一曲、ゼヒターから巣立ってすぐに書かれた、
「ソナタ楽章」がこのBISのCDには収録されている(Track1)。
冒頭におかれている。

この曲は、シューベルトの16番のソナタにも似た、
ほの暗い情熱に満ちた作品で、シューベルトの未発見の作品、
といっても良いような情感を持った力作である。
決して断片ではなく、7分47秒の規模。
4楽章あれば、30分くらいの大作になったかもしれない。

「ソナタ楽章ト短調は1862年6月に書かれ、
おそらくスケッチか作曲練習のためのものである。
リンツ劇場の指揮者で、ブルックナーの管弦楽法の師匠、
オットー・キツラーのための練習帳に記されているので、
明らかに習作だが、ブルックナー自身の手で、
形式的な質問や、作曲技法上の問題が書き込まれ、
第三者によって、修正の長所やアドバイス、指示が書き込まれている。
ベートーヴェン、シューベルトへのスタイル上の近接、
あまりにも尊敬していた先人と格闘によって、
純粋で直感的な霊感ではないが、
ブルックナーの精神で古典形式に魂が与えられている。」

このように、メンデルスゾーンの他、
ソナタのような厳格な世界では、ブルックナーの眼は、
ベートーヴェン、シューベルトに向かっていたようだ。

ただし、この場合、ゼヒターよりキツラーに負うところが多い模様。
このあたりの経緯も、新潮文庫には詳しい。
「キツラーは46年にヴァーグナーの指揮で、
ベートーヴェンの『第九』を歌い、
翌年にはシューマンの『楽園とペーリ』の初演に参加するなど、
若い頃から貴重な体験を積み、ヴァーグナーをはじめ、
当時の新しい音楽に傾倒していた。
実践的かつ進歩的な音楽家であり、
その意味でも厳格な理論家ゼヒターとは対照的な人物だった。
ゼヒターの純理論的なきわめて限定された教育に
物足りなさを覚えるようになったブルックナーは、
61年の秋から自分よりも10歳も若いこの青年に師事することにした。」

キツラーの練習帳は有名らしく、多くの習作が、
ここに埋もれているらしい。

さて、この新潮文庫によると、
ピアノ用の「幻想曲」が、リンツ時代の最後の作品、
と紹介されているが、
これもまた、このCD(Track9)で聴くことが出来る。

CDの解説にはこうある。

「二つの楽章からなる幻想曲は、
強烈なコントラストをなす、明らかに繋がりにくい、
ダ・カーポの二つの音楽を並べたものである。
最初の部分は、『ゆっくりとよく感じて』とあり、
リストやショパンの息がかかっているように見え、
第二のセクションでは、アルベルティバスに特徴があり、
古典的、ロココ風がモデルになっている。
両方の中間部は、ブルックナー風の語法が見える。
最初の方は、大きなインターバルとブルックナー風のリズムで、
二番目の方は模倣の連続と大きな転調である。」
この解説のとおり、「愛の夢」のようなまどろみが、
疑似古典の楽しいリズムのスカルラッティ風の音楽と組み合わされている。

何だか奇妙な作品である。
これはこれでブルックナー風とも思える。

さて、続く、Track10は、
最初に私が言及した作品。
「『回想』は、ブルックナーの最初に出版されたピアノ作品であり、
ヴィーンのドブリンガーから死後、1900年に印刷されたが、
当時44歳の作曲家の最も重要な作品とみなされている。
メロディが中声部でオクターブで発展したり、
右手が低音の輝かしいサウンドを模倣するなど、
ここには明らかに交響曲からの影響がみられる。
同様に伴奏の幅広いアルペッジョもハープを思わせる。
詳細な表現指示も、オーケストラ風で、
これはブルックナーの管弦楽へのアプローチを示すものである。」

ちなみに1868年の作曲とされている。
新潮文庫には、1860年とあったが、この違いは大きい。
1868年なら、最初の交響曲群が書かれているが、
60年では、まだ、ゼヒターやキツラーに教えを請うている段階である。
しかし、この曲、もっと後年の作品
と言われてもおかしくない魅力を持っている。

このように、この「回想」があることで、このCD、
みごとにブルックナーの音楽発展が描き出される事になった。
ピアノの先生としての1850年の小品、
失恋の危機をメンデルスゾーン風に乗り切って、
今度は、ゼヒター、キツラーの指導を経て、
ソナタのような大曲が現れ、
交響曲の作曲を反映しながらのピアノ作品は、
今度は晩年の交響曲を示唆するような響きを持つに到る。

この「回想」が、死後まで出版されず、
いまだ、よく知られていないのは、不思議というしかない。
手軽にブルックナーのエッセンスを味わえる、
貴重な逸品のようにも思えるのだが。

最後にこのCDは、ブルックナーが最初に栄光を手にした、
「第七交響曲」の、しかも、もっとも賞賛された「アダージョ」の、
ピアノ編曲版で閉じられる。
この長大で崇高な曲想を、ピアノのきらきらとした響きで聴くのも、
格別な体験だろう。
確かに集中力の高い、聴き応えのある演奏であった。

得られた事:「ジーモン・ゼヒターは作曲家としてはビーダーマイヤー風で、シューベルトとブルックナーを繋いだわけではない。」
「ブルックナーが愛した楽器の一つが、ベーゼンドルファーであり、彼は、数多くの愛をこれで語った。最初期のものはシューベルト風であった。」
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by franz310 | 2009-06-14 00:04 | シューベルト
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