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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その177

b0083728_10463396.jpg個人的経験:
ハイペリオンが出している、
「シューベルトの友人と、
同時代者の歌曲集」という、
3枚組のCD、
一枚あたり10人もの作曲家が
取り上げられていて、
一枚聴き通すのに、
かなりの覚悟がいる。
意を決して連休に一枚目を聴いたが、
ようやく二枚目にチャレンジする。


前回、ベートーヴェンなどは省略したが、
今回も他の機会に聴ける作曲家は省略したい。
省略対象は、ピアノ曲で有名なトマーシェク、フンメル、
ヴァイオリンのシュポア、そして作曲家のウェーバーである。

また、ゲーテとの交友で有名なトマーシェクは前々回取り上げた。
ごめんなさい、ノイコム、クロイツァーは、別のCDに回させてください。

それでも、エバーワイン、ディートリッヒシュタイン、
クラフト、べーガー、ワイラウフ、ゼヒターは、
是非とも聴かなければならない。
6人もいる。

特に、シューベルトとブルックナーを繋ぐ、
名教師として知られるジーモン・ゼヒターは気になる。
が、解説を読んでいると、べーガー、クロイツァーが、
隠れた大物のような感じである。

おそらく、企画した人も、
同様の取捨選択をしたものと思われる。
シュポア、フンメルのような一世を風靡した人たちが、
一曲ずつしかないなか、
ベーガー、クロイツァーは7曲が収録。
解説を読んでみると、
シューベルトの「美しい水車小屋の娘」と、
「冬の旅」は、彼らと共に語られるべきものであるらしい。

改めて、このCDのデザインを見ると、
二枚目の解説は、女性の冬のお出かけスタイル。
馬車が待っているあたりがブルジョワ感に拍車をかけている。
コートのあちこちにふわふわが付いていて、
帽子もいろいろ付いて重そうである。

左手に持っているのは、手を温めるマフであろうか。
劇場に観劇にでも行くのだろう。
マフに手を入れているのは見たことがあるが、
ナマコのようなものをぶら下げている絵は初めてだ。

さて、急いで取りかかろう。
Track1、2はトマーシェクで、すでに聴いた。

Track3 エバーワインである。
肖像画からしてふてぶてしい面構え。
ハンサムなベートーヴェンといった風貌だ。
ゲーテにオペラを書きたいと申し出て、断られた逸話が出ていたが、
当然、そんなことは無視しそうな感じ。

シューベルト円熟期の1826年、
ゲーテの『魔王』を含む5曲と共に作曲したとされる、
『憩いなき愛』が歌われる。
メンデルスゾーン風のピアノ書法の伴奏が聴けるとあるが、
まさしく、無言歌の一曲といった感じ。
焦燥感のある楽想が影を宿しながら、突き進んで行く。

解説にはこうある。
「MAXIMILIAN WBERWEIN (1775-1831)
ゲーテはエバーワインの名前を、
Alexander Bartholomaus Eberwein(1751-1811)が、
町の音楽責任者であったことから、
1775年ヴァイマールに到着した時から知っていた。
その二人の息子がマキシミリアンとカール(1786-1868)で、
ゲーテの息子アウグストの学友となったのは後者で、
いっそうゲーテとの関係が深く、
ベルリンに出てツェルターに学び、
ほとんど毎日のように詩人と会い、
ファウストのための音楽さえも書いている。
彼の夫人はヘンリエッテ・ヘスラーといい、
様々な機会にゲーテ家で歌ったりしている。」
父と弟とその嫁は、密接にゲーテと関係があったということだ。

「一方、マックスは早くから息苦しいヴァイマールを離れ、
パリ、ナポリ、ヴィーン、ベルリンと渡り歩き、
弟より優れた、より個性的な音楽家になった。
彼はルードルシュタットの地位を引き受け、
多数のオペラを作曲、ゲーテが禁じたにもかかわらず、
ゲーテの『クラウディーネ』を完成させている。
作曲家の名声に寄与するのに有力な、
音楽雑誌がこの町の音楽状況を取り上げなかったので、
そこでの成功はあまり知られていない。
そのせいで、彼の作品は流通せず、印刷されたものも少ない。
この時期の素晴らしい作品は大量に失われた。
各町、各宮廷は各々、自分たちの楽長を抱えていて、
そこで生まれたもの以外を演奏する機会も少なかった。」

こんな人の作品が、発掘されだしたら、
などと想像するとわくわくしてしまう。
風貌に相応しく、歌曲もまた陰影に富んだものだ。

しかし、シューベルトにもこうした選択肢はあったのだろう。
放浪の音楽家として、ヴィーンを離れたら、
彼の音楽はどうなっていたのだろうか。

Track4は、ディートリヒシュタインの『悲しみの喜び』。
この人などは、シューベルト愛好家は、
特に、よく耳を澄まさなければならない。
この人はこの作曲家の恩人なのである。

ゲーテの詩によるもので、
「涸れないで涸れないで永遠の愛の涙よ!
なかば涸れた目にはこの世は死んで見える」と歌われる。

当時の立派な貴族の例に漏れず、
すぐれた作曲家であったディートリヒシュタインは、
1811年に16曲のゲーテ歌曲を出版。
詩人から丁寧な返事ももらっている。
それは技巧的なものではないが洗練されているが、
ベートーヴェンの同曲(1810)を思わせるという。

解説には、この人を賞賛する文章が連ねられている。
「MORITZ VON DIETRICHSTEIN (1775-1864)
小説家のアンソニー・トロロープの母親、
フランシス・トロロープが書いた、
1838年の『ヴィーンとオーストリア』の中で
彼は大変、賞賛されているが、
その理由はわからないでもない。
彼は最も強力で影響力のあった役人であり、
愛嬌があって教養もあり、非常に知的、
いつも判断力優れて他人を助けた。
当時のエドワード。マーシュのようなものである。」

このように書き始められるとわけがわからないが、
いずれにせよ、女性には大変モテモテだった可能性はある。
権力があり、太っ腹で、肖像画もハンサムである。

「彼はナポレオンが二度目に結婚した時の息子、
シェーンブルンで監視されていた、
Duc de Reichstadtや、
シューベルトの『夜と夢』の詩人である、
マティアス・フォン・コリンの家庭教師であり、
さらに、ディートリヒシュタイン監督下にあった、
若い囚人は全部、彼が教育していた。
シューベルトはディートリヒシュタインに、
最初にアンゼルム・ヒュッテンブレンナーを通じて、
学校時代に知り合っており、その頃、様々な機会に援助もうけ、
彼には感謝しなければならない。
公務員であったのに、権力のある人はめったに持ち得ない、
本能的な予知能力でシューベルトの天才を見抜いていたようだ。
1821年1月24日の、彼のシューベルトに対する保証書は、
『生来の天才』と褒めそやすものであり、
彼はレオポルド・ゾンライトナーと共に、シューベルトの歌曲が印刷され、
出版されるのに協力した。
この傑出した人物に、シューベルトは、作品1の『魔王』を献呈した。」

彼が作曲したものも、素朴だが、誠実な歌曲で、
こういう曲を書く人が、賛嘆したならシューベルトも嬉しかったはず。
ただし、この歌曲そのものは、あまり印象に残るものではない。

Track5は、クラフトの「君よ知るやかの国」である。
ディートリヒシュタインの歌曲が、地味な曲想だったのに対し、
この曲は、レモンの花咲く国への思いを描いて、
さっと周りが明るくなるような効果がある。
ピアノのシンプルな伴奏ながら、メロディーが憧れに満ちて舞い上がる。

解説によると、この詩には、
1810年にベートーヴェンが作曲して出版しているが、
これとは違って、幅広いハ長調の魅力的な歌曲と書かれている。
クラフトは明らかに、ベートーヴェンの御影石のような伴奏より、
浮遊するトリプレットの、女性的な伴奏を好んでいたとある。

「NIKOLAUS VON KRUFFT  (1779-1818)
シューベルトにとってこの人が重要なのは、
彼が同様にヴィーン人であって、1818年まで活躍し、
その地域のもっとも身近な歌曲作曲家のモデルであったということ。
シューベルトとは違って、ニコラウスはかなりの資産を持つ、
貴族の家に生まれたことである。
当時、作曲の教師としてはサリエーリのライヴァルとされた、
アルブレツベルガーに学んだ。
彼は作曲を教会音楽、かなりの量の室内楽、
ピアノ独奏曲、歌曲に限定した。
彼はヴィーンの音楽雑誌を共同創刊し、38歳という若さで死去した。
彼の早い死は、当時の死亡記事によれば、
彼が夜昼かまわず、ミューズに捧げ、過労で死んだとされているが、
こうした不明瞭な書きぶりは、
彼がシューベルトを蝕んだ病気にかかっていたことを示唆する。
1798年、19歳の時にクラフトの最初の歌曲集が印刷され、
ここに収められた歌曲は1812年ヴィーンで出版された、
17曲の歌曲集「Sammlung deutscher Lieder」からのものである。
これはシラー、コッツェブー、マッティソン、ヴォス、ヘルティ、
ザリス=ゼーヴィス、ゲーテ、そして女性親族の詩による。」

歌っているのは、Stella Doufexisという人だが、
いかにもミニヨンを思わせる可愛らしい歌声が忘れがたい。
ここには悲劇の気配はなく、大空に舞い上がる情感のみが残る。
ピアノ伴奏も簡素ながら効果的である。

Track6以下は、
ベーガーの歌曲、「美しい水車屋の娘」から7曲が続く。
Mark Padmoreという男性が歌っている。

まず、このシューベルトの歌曲で有名な詩集の成立と、
この作曲家が、いかに密接な関係にあったかを、
CDの解説から学ぶ必要があろう。

「LUDWIG BERGER (1777-1839)
ベーガーはかなりの暮らしぶりの家庭に生まれた。
ベルリンでの音楽修行中に才能を示し、
20代にしてプロの音楽家となった。
ドレスデンに移ってからは
画家のフィリップ・オットー・ランゲと親交を結んだ。
その後、すぐにクレメンティに出会って師事し、
ペレルスブルグに楽旅に出かけ、そこでピアノ教師として成功、
1808年、幼なじみと結婚した。
しかし、10ヶ月で妻は亡くなり、ナポレオンのロシア侵攻によって、
ペテルスブルクを去る必要が生じ、
以降、忌まわしい運命がベーガーにつきまとい、
みすぼらしい人物となりはてていく。」

ものすごく運の悪い人という感じ。
このような人生だってまた、シューベルトにもあり得た可能性はある。

「彼はロシアを去り、スウェーデン、そしてロンドンに至り、
そこで彼はピアノ教師として働きながら、
クラーマーやサミュエル・ウェズレイと出会う。
彼は腕に大きな怪我をしてベルリンに戻り、
1814年、最後の公開演奏を行った。
24年間にわたる彼のピアノ指導中、
フェリックス・メンデルスゾーンのような弟子もいた。
1816年、彼自身の38歳という年よりは若いグループと交わる。
ベルリンのバウホッフシュトラーセの、静かな室内、
詩を真剣に趣味としていた役人、
フリードリッヒ・アウグスト・フォン・シュテーゲマンの家では
定期的サロンが開かれていた。
アキム・フォン・アルニム、シャミッソー、フケーらが集い、
客人として、ファニー・メンデルスゾーンと結婚することになる、
傑出した芸術家のウィルヘルム・ヘンゼルや、
デッサウから来た22歳の詩人、ウィルヘルム・ミュラーがいた。
ヘンゼルとミュラーはナポレオン戦争の時の同僚であった。
従軍して帰ったばかりの、
批評家で詩人のルートヴィッヒ・レルシュタープもいた。」

落ちぶれた人は、ここでようやく居場所を見つけたのだろうか。

「女性のメンバーでは、ミュラーが愛した、
ヘンゼルの妹のルイーゼと、この家の16歳の娘、
ヘドヴィッヒ・フォン。シュテーゲマンがいた。
当時、人気のキャラクターとして、
水車屋の美しい娘があったが、
これは、パイジェルロのオペラが大流行し、
この主題で、ゲーテ、リュッケルト、アイヒェンドルフまでが、
詩を書いていて、
『少年の不思議な角笛』のような
有名なアンソロジーが生まれることになった。」

まさに新しいドイツ文学勃興の中、
年配の音楽家がどんな役割を演じたのかが、
非常に気になるではないか。

さて、「水車屋の娘」についてである。
パイジェルロのオペラとの関係は不透明ながら、
改めて、下記のような市民たちによる、
自分たちで演じられる舞台作品が成立したということか。

「粉ひきの少年が美しいが不誠実な水車屋の娘を巡って、
ライヴァルと競争するというものである。
このグループの若者たちは、『美しい水車屋の娘』を主題とした、
歌物語を作ろうと計画した。
ヘドヴィッヒは水車屋の娘の役割を想定され、
おそらくその名字からであろう、ミュラーが、その求婚者となった。
ヘンゼルは狩人、他の沢山の求婚者もアサインされていた。
キャストのメンバーのほとんどが自ら詩を書き、
ルートヴィッヒ・ベーガーは作曲を依頼された。
ミュラーの作詞は明らかに他者よりも優れていたが、
ベーガーは当時、ミュラーの詩をぶしつけに非難していた。
しかし、シューベルト愛好家にも親しい5つのミュラー詩に作曲、
他のキャストからの詩にも5つ作曲している。
しかし、それはミュラーがベルリンから離れてだいぶ経ってからで、
ミュラーは1821年、1816年からのスケッチをもとに、
プロローグとエピローグ、さらに23の詩を作って作品を仕上げた。
これこそがシューベルトが出会って、
1823年に出版した歌曲集の詩となったものである。」

ものすごく長い話で、ベーガーよりミュラーの方が主人公に見えるが、
以下、ベーガーにフォーカスされた話が続く。

「ベーガーの歌曲は単純で、あきらかにアマチュア向けである。
しかしながら、一見して感じるよりも、
これらは、非常に効果的で、洗練されたものである。
『小川の歌』のみは例外で、通常とは異なるピアノ書法が、
何か深いものを感じさせる。
我々が予想するものよりも感動的なものである。
ここにはシューベルト愛好家が知らない詩が2つあって、
シューベルトの歌曲では不気味に何も言わない
狩人用が歌う『Am Mainengfeste』と、
単に説明されるだけの水車屋の娘が歌う『Rose』がそれである。」

これらは後で書くが、ものすごくあからさまな歌で、
シューベルト歌曲愛好家は、びっくりしてしまうだろう。

「このCDでは、1818年、作品11として出版された、
10曲のベーガー歌曲から、7曲が録音されている。
3つの他の歌は、他の求婚者の庭師が歌うもので、
詩はルイーゼ・ヘンゼル、ウィルヘルム・ヘンゼル、
ヘドヴィッヒ・フォン・シュテーゲマンのものである。」

こんな感じで解説は終るので、ベーガーがその後、どうなったのか分からない。
また、知識人たちが片手間で楽しもうとした曲の成立からして、
ミュラーが、シューベルトの歌、伴奏共に難しい歌曲を、
果たして認めたかどうかも疑わしい。

Track6は、「粉職人のさすらいの歌」。
シューベルト版では、第二曲「どこへ」である。
小川のざわめく音がピアノで表わされながら、
歌のメロディーも魅惑的なシューベルトの前では、
木訥すぎて、とても同じ歌とは思えない。
そもそも、このぽつぽつしただけのピアノは何なんだろう。
が、素人集団なら、こうしたもので十分満足したはずである。

「これはぼくの行く道なのか」と歌われる時の、
胸の締め付けも、ここでは素通りされてしまっている。

Track7は、「粉職人の花」、シューベルトの9番。
シューベルトの聴き所は、
ピアノの間奏曲と歌の密接な繋がりによる、
しなやかなメロディラインであろうが、
ベーガーのものは、それには欠けるかもしれないが、
「あのひとの窓のすぐ下にこの花を植えよう」
「忘れないで、僕のことを」というナイーブさは出ていて、
まったく同様の悩み深い情感を描き出している。

Track8は、ヘンゼルが作詞したもので、
「狩人が娘に近づく」。
シューベルトには比較対象がないが、
14曲の「狩人」がそれに相当するだろう。
狩猟ホルンを模したピアノの音型だが、
童話の中のかわいい感じ。
歌もおとぎ話の世界でかわいい。

Track9は、「粉職人」と題されているが、
ミュラーの詩で、シューベルト版の17曲「いやな色」である。
いらだちがよく表わされ、焦燥感で空が真っ暗な感じである。

Track10は、「ローズ、水車屋の娘」で、
Stagemannの作詞、シューベルトは曲をつけておらず、
しかも、ここは娘役の歌がからだろう、女声での歌唱になる。
Susan Grittonが歌っている。

ミュラーの詩、あるいは、
シューベルトの歌曲ではほのめかされていただけの事が、
大胆に歌われている。

「鳥のように飛んで森に行きたい。
私は緑の色が好き」と告白している。
「狩人の笛が聞こえるかしら」と、あまりにも直裁。

Track11は、「しぼめる花」で、ミュラーの詩。
シューベルトの18番。
ベーガーもしっかり、この詩の喪失感を描き出している。
簡素なピアノも効果的で、これくらいなら、
素人でも歌えるだろうというシンプルさながら、
「そのとき咲き出でよ、すべての花よ咲き出でるのだ」
という終曲も、ほのかな色調で染められている。

Track12は、「小川の歌」で、ミュラーの詩。
シューベルトの20番、終曲である。
ここでは、小川はごろごろと水音も騒がしく、
女声によって、悲劇的な子守歌が響き渡る。
叙事詩的なところまで行っており、
最初の方の曲の明朗さが嘘のようである。

これはこれで、すごい効果で劇を彩ったかもしれない。

先ほどの解説を再読して驚いた。
確かに、この曲は別格の高みに引き上げられている。
ベーガーさすがである、という結論。
苦労人が本領を発揮した時は、こうあって欲しいものだ。

Track13以降のフンメル、ノイコム、クロイツァーはパス。

Track26は、フランツの歌曲。

「STEPHAN FRANZ (1785-1855)
この12歳ばかりシューベルトより年長の作曲家は、
ヴィーンの多忙なプロのヴァイオリニストにして、
指揮者、作曲家である。ハンガリーの出自。
彼の名前はシューベルトの文献に二度登場する。
1826年、12月28日、フランツ・フォン・ハルトマンの日記に、
シューベルトの『若い尼』が演奏された、
ムジークフェラインのイブニング・コンサートに参加したとある。
ハルトマンが『退屈な』ヴァイオリン協奏曲と書いたのが、
フランツのヴァイオリン変奏曲で、
その生徒のKarl Durrが演奏したものである。
この時、フランツはこのブルク劇場の
オーケストラのリーダーであった。」

この解説はこまったものである。
フランツの作品は「退屈」と書かれているようなもの。
しかし、聴いてみると、そこそこ楽しめるので先案じしないように。

「1827年4月22日、宮廷劇場のコンサートで、
シューベルトの『ノルマン人の歌』が演奏された時、
作曲家は伴奏を務めたが、
この時、ベートーヴェンの『エグモント』序曲でコンサートは始まり、
指揮がステファン・フランツであった。」

「1813年、ヴィーンへの別れ」という、
2分ばかりの小品が収められている。
いかにも愛国詩人、テオドール・ケルナーらしい内容。

「さらば、さらば、
鈍い鼓動と共に、君を迎え、義務を果たそう。
ひとしずくの涙が眼から溢れ出す。
何故あがく必要があろう、涙は恥ずかしいか。
ああ、安らかな小径にあっても、
死が血みどろの花輪を砕こうとも、
君の甘い愛らしい姿は、
いつも僕を愛と憧れで満たすことだろう。」
題名や内容どおり、しみじみと聞かせる。

「1813年、ケルナー(1791-1813)が、
ヴィーンを訪れた際、彼はシュパウンによって、
16歳のシューベルトに紹介されて、二人はしばらく話をした。
ということで、この詩はシューベルト自身の人生における一こまとも関連し、
前線に発つ前に、ケルナーが、
ヴィーンにおける彼のファンの前で別れを述べたものだ。
シューベルトはその場で友人になったが、
おそらくステファン・フランツも個人的にケルナーを知っていたのだろう。
ライプツィッヒの戦いの二・三週間後、
ケルナーの若くしての死去は、
たくさんの伝説を生んだ。
シューベルトの17曲のケルナーの歌曲のほとんどは、
1814年出版の愛国的な詩集『Leyer unt Schwert』から採られ、
作曲家の喪失感を物語っている。
ケルナーには深い音楽センスがあり、
いかに家族が反対しようとも、
シューベルトに音楽の道を続けるよう激励した。
(詩人の両親はゲーテ、シラーに親しく、
若いテオドールはここから影響を受けた。)」

このような若き英雄からのアドバイスもあって、
シューベルトは音楽の道に専念していくことになる。

「ステファン・フランツのこの歌曲は、
『テオドール・ケルナーの6つの詩による歌曲集』という、
1814年の歌曲集の最後に収められ、
ベルリンのものとは異なり、
完全にヴィーン風である。
彼はノイコム同様、
モーツァルトのオペラ・アリア風を、
歌曲に持ち込むことや、
ピアノを活躍させて、感情移入させ、
ラプソディックに扱うことを怖れなかった。
他の5曲は、すべて、シューベルトによっても、
1815年に作曲されている。」

このようなケルナーの絶唱と思って聴くと、
また味わい深く、フランツによるこの歌曲も、
それに応える内容となっている。

Track27のウェーバーもパス。

Track28は、ワイラウフの歌曲。
いきなりフランス語でのけぞる瞬間である。

このシックで美しいメロディーは、
まさしくシャンソンの雰囲気たっぷり。
解説を読んで、びっくり仰天の名曲である。
ただ、詩の内容は、死者との別れでロマンティックなものではない。

「この歌曲との関係以外、ワイラウフの事はほとんど分かっていない。
この曲は1835年頃、パリで『アデュー』という題名で出版された。
タイトルページには、『F・シューベルト氏の作曲』と、
Belanger氏によって印され、シューベルト歌曲の普及に貢献した、
テノールのヌリ氏への献辞が印されている。
この歌曲は1824年からあって、作曲家のワイラウフによって、
『Nach Osten』と題され、自家出版されている。
詩はWetzel作という。
ワイラウフがこの偽造に関係していたのか、
本当の作者なのかどうかは分からない。
この曲は1843年、シューベルトの名前のもとで、
ピアノ曲としてドイツで再版されている。
シューマンですら、この曲をシューベルトのものと考えた。
有名であるがゆえに、1873年のシューベルト・エディションでも、
この曲は、『シューベルト作ではない』という注記付きで、
第六巻に含められた。
偽のとはいえ、シューベルト作曲とされた唯一のフランス語歌曲で、
カヴァティーナと呼ぶに相応しい叙情性を持ち、
何度も演奏され、否応なしにシューベルトの名前が使われた。
この曲の息の長いメロディーはグノーを予告し、
フォーレの『夢の後に』のように花咲く、
フランス歌曲の先駆けとなった。」

Track29はゼヒターの歌曲、「おやすみ」。
文字数オーバーの警告が出たので、これまたパスするしかない。

得られた事:「シューベルトには、インテリになる道もあったが、解放戦争の時代、ケルナーのような闘士の影響もあって、二足のわらじどころではないと、音楽に邁進したのかもしれない。」
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by franz310 | 2009-06-07 10:56 | シューベルト
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