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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その172

b0083728_1915319.jpg個人的経験:
少年シューベルトが、
ドイツ語の歌曲創作に熱を上げるのを、
イタリア語こそが音楽的な言葉と
疑わなかったサリエーリは、
あまり良く思っていなかった、
というのが通説であるが、
それは単純化しすぎた話かもしれない。
師のヴィーン在住50年を祝って書いた
「祝いによせる曲」D441は、
事実、ドイツ語で書かれている。


また、サリエーリ自身がドイツ語の歌曲を作ったことも事実のようで、
ハイペリオンから出ている
「シューベルトの友人と同時代者の歌曲集」には、
一曲だけとはいえ、サリエーリのドイツ語が収録されている。

このCDは、まず、シューベルティアーデの有名な絵画をあしらった、
素敵なデザインで眼を引く。
モーリッツ・フォン・シュヴィントという、
シューベルトの親友の描いた絵画なのも嬉しい。

収められた作品の点でも、
この3枚組CDは、恐ろしく貴重なもので、
ライヒャルト、ツェルターら、シューベルトの先人から、
ハイドン、ベートーヴェンといった巨匠、
トマシェック、ツームシュテークのように影響を与えた人、
サリエーリ、ワイグル、ゼヒターら、シューベルトの師匠筋、
フンメル、ロッシーニ、ウェーバー、レーヴェといったライヴァルや同僚、
メンデルスゾーン、シューマン、リストなど後継者たちばかりでなく、
フォーグル、ヒュッテンブレンナー、ラッハナーなど、
シューベルトの伝記を賑わす友人たちの作曲までが収められている。

「シューベルトの時代を生き、活躍した、
40人の作曲家による81の歌曲」というすごい題がついている。
これは、ハイペリオンの巨大プロジェクト、
シューベルト歌曲全集の補遺をなすものであろう、
グレアム・ジョンソンがピアノを受け持って、
なおかつ、シューベルトが同じ詩につけた歌曲がある場合には、
それも参照できるような解説がつけられている。

まさしく百科全書的仕事であろう。

サリエーリは「第一巻」に登場し、
このような解説がついている。
「アントニオ・サリエーリは、
この可愛そうな作曲家が、
墓に入ってすぐの時期、
1826年に書かれたプーシキンの
『モーツァルトとサリエーリ』でこきおろされた。
これは後年、リムスキー=コルサコフのオペラとなり、
近年のピーター・シェーファーの劇でも取り上げられた。
無関係であったモーツァルトの死は別にして、
サリエーリのヴィーンでの成功の連続は、
彼の偉大な同時代者のことを、
必要以上に考える必要はなかったように思われる。
いずれにせよ、彼が劣等感にさいなまれるようなことがあれば、
彼はもっと偉大な作曲家になっていたかもしれない。
彼は17歳の時、この街に来て、
崇拝する師グルックを手本とした。
『アスクール』や『ダナイード』のような作品で、
オペラ作曲家として国際的な成功を収め、
1791年、宮廷楽長に任命され、36年もそのポストにあった。
サリエーリ自身の死の1825年までの間に、
モーツァルトはヴィーンでは神格化され、
生き残ったイタリア人は、様々な程度の感謝を感じる、
数え切れない程の教え子たちを教えた。
シューベルト以外に、ベートーヴェン、ヒュッテンブレンナー、
フンメル、リスト、マイヤベーア、ラントハルティンガー、
ゼヒター、ワイグル、カロリーネ・ウンガーがこのCDに含まれる。
シューベルトは、1816年6月、
サリエーリのヴィーンに来て50年の、
祝典に参加して、その機会にいくつかの作品を残した。
彼はさらに作品5のゲーテ歌曲集を先生に捧げている。」

伝説のように、サリエーリがドイツ語歌曲が嫌いだったとしたら、
わざわざゲーテの歌曲などを捧げたりするだろうか。

なお、作品5とは、「憩いなき愛」、「恋人のそばに」、
「釣り人」、「はじめての失恋」、「トゥーレの王」の5曲である。
このうち、「憩いなき愛」については、
このCDの解説で、後で、いろいろ語られるので、
乞うご期待である。

また、このCD、サリエーリの歌曲としては、
マティソンの「想い」が選ばれている。
言うまでもなくドイツ語である。

これは、シューベルトが1814年4月にD99として書いたものと、
同じ詩に基づくものである。
石井不二雄訳ではこうなっている。
何だか、5W1Hの練習みたいな、
粋なのか、単純な問答の内容である。

「私はあなたのことを想います。
林の中にナイチンゲールの合唱が響く時に!
いつあなたは私のことを想って下さるのでしょうか?

私はあなたのことを想います。
夕方の明るさがたそがれる光の中で、
蔭になった泉のほとりで!
どこであなたは私のことを想って下さるのでしょうか?

私はあなたのことを想います。
甘味な苦しみをもって、
不安な憧れと熱い涙を持って!
どのようにあなたは私を想って下さるのでしょうか?

おお、私のことを想って下さい、
よりよい星のもとで
一緒になれる時の来るまで!
どんなに遠いところにいても
私はあなただけを想っています!」

このCDの解説はさらに続いている。
ここが、そもそも、今回、このCDを取り上げた理由の部分である。
「ヨーゼフ・フォン・シュパウンによると、
彼は、これもシュパウンによると、
ゲーテやシラーに個人的に面識があったという事実にもかかわらず、
(ゲーテは確実にサリエーリのオペラの賛美者であった)
サリエーリはドイツ語を、作曲に適した言葉としては評価していなかった。
彼はいくつかのジングシュピールを、
もちろん、ドイツ語で書いており、
晩年、シラーの詩を取り上げようともしており、
生徒のシューベルトには、練習用にいくつかの詩を勧めてもいるのである。」

ということで、何やら、サリエーリが、
シューベルトのドイツ歌曲嗜好を、
快く思っていなかったというのは、
半ば、伝説にすぎないのかもしれない。

「ここに収められたマティソンへの付曲は、
1825年9月の『芸術、文学、劇場、モードのためのヴィーン時報』
の付録として出版されたもので、
作曲家自身は同じ年の5月に亡くなっていた。
これは彼が生前、出版をためらっていたもので、
レッスンの時に話題になったであろう、
シューベルトの『想い』より前の作曲か、
後の作曲かは知るよしがないが、
ヴォーカルラインには、
ソプラノ記号があって旧時代の作法を見せ、
おそらく、1810年出版のベートーヴェンの、
『想い』と同時代のものと考えられる。」

さて、このサリエーリの「想い」は、
ハイドン、ライヒャルトの後、
トラック7に入っている。

また、シューベルト自身の作曲の「想い」は、
ハイペリオンのシューベルト・エディションの、
12巻(CDJ33012)に収録されている。
ここにある解説によれば、
「シューベルトはたぶん、
フリードリッヒ・フォン・マティソンの詩を、
ツームシュテークやベートーヴェンの歌曲から発見した。
サリエーリもこの詩人の言葉に作曲している。
巨大なバラードや、それよりは短めの叙情詩に真剣に取組んでいた頃、
マティソンは同時代の詩人としてシューベルトの射程圏内に入って来た。
マティソンは、Magdeburgで生まれ、ハレで学んだ。
ビュルツブルク公の庇護を受けて、
安静な心地よい生活を送った。
彼の詩は19世紀初頭に流行したが、今では、
単に器用なものと思われている。
彼は古典を賛美して、その韻律はしばしば、
無意識なパロディーにも見え、
クロプシュトックのような崇拝していた先人に比べると、
力強さに欠ける。
彼の時代にあっても、シラーには手厳しくこき下ろされ、
シュレーゲルのサークルには拒絶された。
彼の作品が時代の産物であったとはいえ、
その優美さと、繊細さは、1814年の春と夏、
シューベルトの目的にかない、
その年の秋のゲーテ発見への道筋となった。」

シューベルトの歌曲は、男声テノールで歌われている。
1分40秒の小品。
さざ波のような伴奏に乗って、
爽やかな、希望をいっぱいに含んだメロディで歌い出される。
終始シンプルに、前に進む曲調である。
再会の希望に夢想する、若者の歌である。
歌唱は、アドリアン・トンプソン。

グレアム・ジョンソンが解説すると、こんな風になる。
「ピアノの4小節の序奏は、木管アンサンブルを想定したのであろう。
フルートとクラリネットを想起させる。
モーツァルト風の木管合奏が、全曲の単純で楽しい性格に続いている。」
私には、ピアノの音が、ぶっきらぼうに、
五つ鳴っただけにしか聞こえないが。

「D97の『Trost An Elisa』が、説明調のレチタティーボであるのに対し、
この曲は純粋で単純なメロディである。
『アデライデ』と違って、自然の模倣も行わず、
ナイチンゲールの歌もトリルなどは使われず、
愛の甘い痛みと、憧れの涙も、短調で彷徨うこともない。
波打つ伴奏で、甘く分かりやすいメロディが繰り返され、
詩にある光景は反映されない。
第二節は8分音符になって、夕暮れの光を反映するが。
各節の終わりの属音7度のカデンツは、
切望する感じに相応しい。
最後の節で、『よりよい世界への旅立ち』は、
和声とヴォーカルラインの装飾を少し変える。」
ということで、あまり、焦りはなく、
楽天的な若者像を描き出す。

一方、サリエーリの方は、女声で歌われている。
アルトのアン・マレイが担当。

シューベルトの場合とは異なり、
歌に含まれるナイチンゲールのせいか、
玉を転がすようなピアノ伴奏が雄弁で、
途中から、妙に陰影を増し、後奏も立派である。

イタリア人の作品ということか、
妙に一言一言に、しなを作ったような所がある。
「どこであなたは私を想うのでしょう」と、
詰め寄られている感じがする。
何だか、したたかな女性を思わせる。

「甘味な痛み」を、時が解決するのか、
あるいは、最後のあがきが必要なのか、
それぞれの解釈であろう。

しかし、どちらがドラマティックであるかと言えば、
百戦錬磨のサリエーリかもしれない。
シューベルトの「魔王」などが、劇性が天才的だとすれば、
ここでは、そのような側面は見られない。
むしろ、シューベルトには、等身大の心の震えがある。

いろいろ書かれたマティソンの詩も、分かりやすく、
こうした比較するにはもってこいであった。

このように、同時代の作曲家と、
シューベルトを比較も出来る、
まことに興味深いCDである。

心して取りかかる必要があろう、
解説を頭から読んでみよう。
ピアニストのグレアム・ジョンソンによるものと思われるが、
いつもの博覧強記の話題が、
シューマン、ブラームス、シェイクスピア、
ゲーテ、ツェルターと縦横無尽に錯綜するので、
ご注意頂きたい。
まずは、シューマンとブラームスから。

「『新しき道』(1853)と題された記事の中で、
シューマンは若い知られざるブラームスを、
ジュピターの額から戦闘準備した出で立ちで飛び出した、
女神ミネルヴァになぞらえたが、
これは、俗物たちと英雄的に戦う者として、
シューマンがブラームスを捉えた比喩であった。
これは、我々が、普通のことを軽視して、
神がかった衝撃を強調したがる、天才への賞賛であるが、
才能ある生徒が偉大な芸術家になるためには、
日常というものが容赦なく影響するものである。
アイドルを語る時、合理的なことより奇跡を好むのが、
我々の習性なのである。
音楽界へのブラームスの到来は、青天の霹靂のように、
病気がちではあれ精神は寛大であったシューマンを打った。」

シューマンは、この後、精神を病むので、
この表現が正しいかは疑問である。
とにかく、ここで、シューマンの話は終わり。

これを導入にして、シューベルトの登場の話。

「軍隊に入るには身長が足らず、
武装して動くには太っていたにもかかわらず、
音楽的伝承によれば、
シューベルトの登場もまた、
それに劣らず衝撃的なものであった。
事実、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、
グレートヒェンは、
ニ短調で旋回する糸車で武装して、
音楽を身にまとって作曲家の額から飛び出した。
歴史の教科書の重要な日付は、1814年10月19日、
『糸を紡ぐグレートヒェン』は、それまで存在しなかった、
歌手と伴奏者という職業を一撃で生み出し、
稲妻の閃光のように、ドイツ歌曲、リートが生み出された。
この時点でリートが生まれたというのは、
ある点でだけ事実であるが、歴史を単純化している。」

「シェイクスピア主義者は、
田舎からぽっとでのシェイクスピアが、
いきなり、実験的で素晴らしい腕前で、
衝撃的な傑作を書き始めたと思っている。
シェイクスピアの名を知っていて、
彼と同時代人全てを取るに足らないと思う人たちは、
楽しみのない殺風景な、悲しげで活力のない、
不景気で、救済を待って息を潜めていたロンドンに、
若い詩人がやってきたと考えているかもしれない。
こうしたシナリオは、英雄登場にはもってこいであろうが、
現実はこうしたものではない。
シェイクスピア以前、ロンドンは、芸術活動で騒然としており、
もう一人の天才がその作品によって、それをより豊かにするのを、
待ち構えていたのである。」

「シューベルト以前にこの皇帝の街が、
例外的な音楽の中心であったことは言うまでもない。
この若い作曲家が幸運だったのは、
両親が生まれたシレジアの町ではなく、
このヨーロッパ最高の芸術中心にて育ったことだった。
彼が生まれた1797年、
ヴィーンは、ハイドンやベートーヴェンの街で、
前者は二度目の勝利のロンドン訪問から帰ったばかりで、
後者は、初期のピアノ独奏やチェロのソナタで成功を収めていた。
『そう、そう』と、歌曲ファンが答えるのを聴く。
『シューベルト以前にも、もちろん、
交響曲、弦楽四重奏、ピアノ・ソナタ、オペラだってあった。
しかし、歌曲はなかった。』
閉じかけた眼を開いてみよう。
モーツァルトのたくさんの美しい歌曲、
ハイドンのカンツォネッタ、ベートーヴェンの初期の歌曲、
これらはシューベルトの特殊性を犯すものだ。
我々は彼の交響曲、四重奏が彼の先人たちに、
多くを負っているのを知っている。
しかし、歌曲は新しい始まりを告げたのだ。
『糸を紡ぐグレートヒェン』や『魔王』はその証拠である。
この3枚組のCDの1つの目的は、シューベルト以前、
そこに事実、歌曲があったことを示すためである。
それが、彼が、まさしく彼になることを助けたのだ。
彼の友人であれ、同時代人であれ、
その時代にあって、彼はそうした人たちに形づくられている。
もちろん、『グレートヒェン』も『魔王』も、
とりわけ賛美されるべきである。
シューベルトの天才は疑うべきもない。
特に、衝撃的な音の刻みを聴く時、
この音楽は稲妻の閃光のようにも思える。
実際、ろうそくの光での勤勉と努力が、
その独創的創造の重要部分のように思えるが、
若い作曲家の到達は、偉大な先人の作品の消化を含む、
長くつらい、見習い期間あってのことだった。
ハイペリオンによる、年代順のシューベルト歌曲全集では、
『グレートヒェン』はようやく4枚目のCDで現れ、
『魔王』は10枚目に登場する。
これらの作品におけるゲーテの役割は決定的であるが、
最初の作品からして、シューベルトの言葉に対する感性は、
並外れたものである。」

ここから、このようなCDを作った背景が語られる。

「これらの有名作品を注意深く聴く時、
それらはもっと大きな絵画の中の一部のように見えてくる。
もっと見る点を広げると、そのパノラマは見えて来る。
当時、ゲーテの詩に付曲したのは、
音楽界の活気に溢れるヴィーンだけを見ても、
シューベルトだけではなかったし、
文化不毛の地ではないベルリンでも、
当地の作曲家たちは10年も前からゲーテに着目していた。
我々は、ヴィーンは南方の土地で、
ベルリンよりイタリアやイタリア文化に近いことを思い出す。
このオーストリアの首都では、
ゲーテのグレートヒェンの悲劇同様に、
グルックのイピゲーニアの偉大さがあった。
そして、音楽の練習として、
メスタージオのオペラ台本の断片に作曲させようとした、
アントニオ・サリエーリによって教え込まれた、
シューベルトによるイタリアのベルカントの感覚なしには、
『糸を紡ぐグレートヒェン』は、決して生まれえなかった。」

この部分、なかなか泣かせる一句である。
サリエーリが、やはり、重要な役割を果たしたわけだ。
まさに、天才シューベルト産褥期にあって、
産婆のような役割を担って付き添っていたのがサリエーリなのだから、
当然なのだが、イタリアなしに、グレートヒェンはない、
なんていう表現は、何と明快であろうか。

以下、別の作曲家についても話が続く。

「長い間、どういう訳か、シューベルトの音楽の先人は、
何か冗談のようにあしらわれていた。
疑いなく、若い作曲家に決定的な役割を及ぼした、
ハイドン、グルック、モーツァルト、
ベートーヴェン以外のことを、私は言っているのである。
私は、言うところの、みすぼらしい一群、
シューベルト以前に歌曲を作曲した、
浅はかなBチームについて語りたい。
何度、ライヒャルトを、そして同様にZの頭文字を持つ二人、
ツームシュテーク、ツェルターがけなされるのを聴いただろうか。
偉大なシューベルティアン、ジェラルド・ムーアは、
この三人の引き立て役を笑いものにした。
我々がそれを否定できようか。
私たちのお気に入りの作曲家が、
ただの闇であった歌曲の世界に、
光明をもたらしたとされてきた。
英国における歌曲の最高権威のエリック・サムズでさえ、
ツェルターをツームシュテーク(いつかそのうち)に、
研究する余裕があればなあと、冗談を言った。
イギリス人の耳には、初期バロックのシュッツ、シャイト、シャイン
にはかなわないとはいえ、ライヒャルト、ツームシュテーク、ツェルター
というと、何だか、コミカルな感じがする。」

「ツェルターの場合、特に、ゲーテが、
シューベルトがヴィーンからヴァイマールに送ってきた、
長くてお堅い手紙を受け取らなかったという事から、
信用できないことになっている。
この時期(歌曲の小包は1816年4月に送られ、送り主に戻された)、
詩人は、ベルリン在住のツェルターと近い関係にあった。
近い友人というだけでなく、この作曲家は音楽アドバイザーであった。
ツェルターはしばしば、シューベルトを無視した責任を問われている。
我々の知る限り、まだ、詩人とその友人が若いヴィーンの作曲家について、
一言でも交わした形跡はない。」

以下、ゲーテ事件の真相が、いくつかの方面から考察されている。

「シューベルトの場合、
おそらく、この小包についていた手紙の、
作曲家の友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンの名前が、
その叔父でゲーテの敵対者であった、
フランツ・ゼラフィウス・シュパウンを思い出させ、
一見して『フォン・シュパウン』と見えたことが、
ゲーテが小包を無視させた原因になったのかもしれない。
もう一つ、私がこれまで知らなかった可能性がある。
作曲家のMaximilian Eberweinにあてた
(シューベルトが小包を送った6週間ばかり前の)
1816年2月24日の手紙に、
彼の劇『Des Epimenides Erwachen』の上演に際しての、
ある作曲家の無礼なふるまいゆえに、
彼は自分のテキストによる新曲の作曲は当面許さない、
という誓いを立てたというのである。
この事件は、事実上、ヴァイマールで、
自分の台本によるオペラを上演しようとした、
ゲーテの積年の努力を終わらせてしまった。
彼は、それによって何も得るものもなく、
作曲家の才能を知っていながら、Eberweinによる、
『ヴィッラ・ベッラのクラウディーネ』の計画を許さなかった。
ベルリンからベルンハルト・アンゼルム・ウェーバーが来て怒るまで、
この誓いを守っていたかは分からないが、
二、三ヶ月後、見知らぬオーストリアの作曲家から、
歌曲のつまった楽譜がドア口に送られてきたのは、
明らかに、悪いタイミングだった。
ゲーテは行ったことのない土地に興味を持つことはなく、
ヴィーンといえば、陰謀の街として有名だった。
彼は、さらにこの時期、妻の病気に悩んでおり、
(彼女は1816年6月に亡くなる)
有名な人がそうであるように、この老詩人のもとにも、
大量の頼んでもいない手紙が舞い込んでいた。
伴奏ピアニストの私のもとにも、
知らない作曲家からの期待に満ちた小包が届くが、
それらすべてに返答するのは不可能なのである。
当時、どれだけの量の作曲家たちが、
彼のところに歌曲を送ってきたのかは分からないが、
歴史からなんの咎めもなく、
99パーセントは適当に処分されている。
Eberweinへのゲーテの説明を信ずるならば、
シューベルト作品の拒絶は、彼に認めてもらうおうとした、
全ての作品の無視といった暗黙のポリシーの履行の一部にすぎず、
すくなくともしばらく続いた、こうした独断的措置は、
この詩人がよくやる事であった。」

「熟練した音楽家でも、読んで、頭の中で鳴らせただけでは、
その作品を間違って評価してしまうことはよくある。
ゲーテ自身はこうした事は出来なかった。
もし、誰かに頼んで聴かせてもらっていたなら、
彼は退屈したりしなかったことは明らかだ。
この貴重な郵便物を、彼が、不躾に、うかつに扱ったことに対して、
非難は出来ようが、これは計算ずくの俗物嗜好ではなかった。
彼がその歌曲集にざっと眼を通し、
グレートヒェンや魔王による、その詩句を眺めていたら、
彼が歌曲はこうあるべきだという理想からして、
複雑すぎる事が分かったという事も言えるかもしれない。
しかし、私はゲーテがシューベルトの音楽そのものによって、
感情を害したとも思えない。
『憩いなき愛』は、ライヒャルト、ツェルターによっても作曲されており、
これはディスク1に収められていて、
ゲーテへの小包に入っていた、
シューベルトの『憩いなき愛』の方が、
それらに比べて、むしろ穏やかであることに、
リスナーは気づくであろう。
よく知った、尊敬さえしていたこれら作曲家の作品を、
ゲーテが受け入れていたとすれば、
彼はシューベルトから送られてきた歌曲の中のあるものは、
それほど大きな違いはなく、
異議を申し立てることはなかっただろう。
シューベルトの作品は、先人たちにない天才を示しているが、
一般に思われている以上に、
先人たちとの共通点も多かったのである。
それを知るためには、当時流通していた同時代の音楽を知るべきだが、
シューベルト信奉者でそこまでやる人は少ない。
ライヒャルトやツェルターによる『魔王』への付曲が、
シューベルトと同じではないとしても、
それらは、退屈でも、取るに足らないとも言い難い。
これらは聴衆の心を掴むにたる素晴らしい作品である。
こうした歌曲は疑いなく、
シューベルト自身の関心をも引いたに相違なく、
いわゆるベルリン楽派などと呼ばれる、
無味乾燥なものからは遠く離れている。」

このように、シューベルトの先達の作品も、
立派な歌曲であるというのが結論となっている。
この後、各作曲家の略歴や、
シューベルトとの関係が書き出されている。

得られた事:「グレートヒェンの熱唱は、イタリアの影響なしには成立しなかった。」
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by franz310 | 2009-05-02 19:07 | シューベルト
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