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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その166

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その166_b0083728_1055521.jpg個人的経験:
今回は、チェルニーのお勉強。
前回、ベートーヴェン作品の、
メトロノーム指定によっても、
後世に多くの悩みを残した、
チェルニーについて触れたが、
彼自身が、どんな人であったかを、
知ることが出来るCDがあるので、
これを聴いて見たい。
まず、曲名を見て驚嘆する。
交響曲第二番作品「781」!


作品番号が一桁違うでしょ。
ブラームスの場合、交響曲第二番は、作品73だった。
では、この人はブラームスの10倍すごいのだろうか。
確かに、無数の子どもたちが、
チェルニーのピアノ練習曲を日夜弾いている。
恐らく、ブラームスを弾くまでピアノの稽古を続ける人は、
そのうち、10人に一人くらいになるかもしれない。

ということで、演奏の回数、頻度では、
チェルニーはブラームスの10倍くらい行ってる可能性がある。

ただし、ブラームスの交響曲のように日夜、
1000人以上の聴衆を前に、演奏されている曲目が、
チェルニーにあるかいうと、どうも実感がない。
今回の交響曲も、Signumという、
珍曲、あるいは知られざる名曲発掘系の、
ドイツレーベルが出したものである。

このように、子どもたちを悩ませるので高名であることは、
このCD解説(Peter Rummenholler)も、冒頭からしっかり書いている。
「チェルニーと言うだけで、今日でも多くの子どもたちをぞっとさせる。
この名前は、5本の指の運動、音階、練習の機械的訓練の同義語であり、
Grete Wehmeyerは、その著書でチェルニーを、
『孤独なピアノの監禁者』と適切簡潔に述べている。」

そんな微妙な位置づけの音楽家を表わすのに、
恐ろしい教条主義を表わすような、
サイケなデザインで表現した、
このCD、妙にはまっている。

立派な人格者にしか見えない、
この音楽家の肖像に、
怪しげな虫眼鏡状の光学部品を配置し、
気味の悪い暗雲を
カラフルな絵の具の滲みでバックにあしらって、
完全にどっかいかれた人という先入観を
みごとに植え付けてくれる。

デザイナーは、ひょっとすると、幼い頃、
この先生に散々な目に合わされた人なのかもしれない。
アートワーク、Thomas Christenとあるが。
このデザインが特異かつ、
やたら気になるという点では、
これまでここで取り上げたものの中では、
かなり高得点である。

ただし、聴かれる音楽を表わしているかと言うと、
まったく違うような気もする。
まず、最初に収められているのは、
「4手ピアノとオーケストラのための協奏曲ハ長調作品153」。

ピアノ連弾の親密な快活さと、
オーケストラの豪華さが味わえ、
まったくもって健全な音楽。
清新な楽想に満たされ、楽しく親しみやすい。
この表紙の絵のような、
マッドサイエンティストの風情はない。

モーツァルトとウェーバーの間みたいな感じの明朗な音楽で、
序奏から壮大さや、華麗さを求めているが、
より誠実さのような美徳に重きを置いたもので、
中間部では、ピアノの深い響きが、
シューベルトのような内面の声を響かせる。

第二主題なども叙情的で美しいが、
ピアノの見せ場を作るためか、
曲想がめまぐるしく変転するので、
何だか作り物めいた感じがつきまとうのは残念だ。

第二楽章も、ショパンのノクターンを思わせるような、
アダージョ・エスプレッシーヴォ。
口当たりよく、きらきらと輝くピアノの美観も美しい。
しかし、高音でさえずるピアノの安っぽい囀りを聴いていると、
何がやりたいかが見え見えで、
ともすると、底の浅い音楽に聞こえてしまう。

終楽章は、ポルカ風のロンド。
良い子が先生と仲良く楽しく弾く感じ。
連弾用のピアノ協奏曲というのは初めて聴いたが、
そういった目的のものなのかもしれない。

解説を見ると、
「作品153は、オーケストラと、
二人のピアニストが一台のピアノを弾く、
珍しいケースである。
バッハやモーツァルトのような、
2台のピアノのための協奏曲は、
各楽器が互いに張り合うといった
さらに競争的な要素を付加するが、
チェルニーの4手のための協奏曲は、
一人で出来る以上のことを二人のピアニストが行って、
協力して、あたかも巨大なピアノのように振る舞う。」

なるほど、そうした見方も出来ようか。
繰り返して聴いて見ると、
先に、書いた博覧強記のピアノ技巧の開陳に、
彼の独自の位置づけがあるのかもしれないと、
考えてしまった。

「すべての音域に向かって名人芸が行き渡り、
コンサートグランドピアノの鍵盤から火花が飛び出る。
ハ長調という調性、終楽章のRondo alla Polaccaなど、
ベートーヴェンの作品56にうわべは似ていると思えるだろうが、
パワーと名技性の奔流が、
一台のピアノの前の二人の独奏者のためのショーピースとして、
チェルニーの協奏曲を特徴付けている。」

ということで、解説者は、
「ショーピース」と片付けているようにも見える。
内容はない、ということであろうか。
私は、今回、何度もこれを聞き直しているが、
もうたくさん、という感じはなく、
そこそこ楽しんでいる。

この時代、パガニーニや、ジュリア-二が、
それぞれの楽器の見せ場を基軸にした協奏曲を作ったが、
彼らの作品を否定する気はまったくない。

しかも、時折、師匠の面影が現れるところも興味深い。
コーダのリズムなど、確かに、ベートーヴェンの、
「トリプル・コンチェルト」とそっくりである。
そう言えば、出だしの所は、まるで、
「皇帝」のようにも聞こえないだろうか。
パロディーなのか??

チェルニーにとって、ベートーヴェンは神様、
と後の解説にもあるので、理想を見つめているうちに、
そうなってしまった、という感じであろうか。

ピアノ演奏は、上海出身の女流Liu Xiao Mingと、
ベルリン出身で、室内楽で鳴らしたベテラン、Horst Gobelが担当。
指揮は、Nikos Anthinaosで、主席指揮者を務める、
フランクフルトの州立オーケストラを振っている。
演奏は集中力の高いもので、録音も美しい。

続いて収録された交響曲は、
壮大な序奏部を持って開始される。
壮大というか長大、あれかこれかと、
様々な楽想が3分以上にわたって現れては消える。
ベートーヴェンの序曲みたいな感じである。

主部は、生きの良い楽器の鳴りっぷりによって、
推進力が生まれ、これまた、ベートーヴェンやロッシーニの、
劇場のための音楽みたい。
それが、春の日差しを思わせるのどかな日差しを持って進む。
第一楽章からして、かちっと気持ちよい。
何やら、威勢の良さではベートーヴェンの第二のようであり、
執拗に刻むリズムに、様々な楽器の音型が明滅する様は、
後期のシューベルト風でもあって、16分もかかる。

第二楽章は、初期のシューベルトと、
オペレッタの幕間音楽の合体形のような、
いかにもビーダーマイヤー風の間奏曲。
それにしては長く11分弱。

第三楽章も聞きやすい。
「スケルツォ」とあるが、何となく、「第九」のそれのぱくり風。
だが、そんなに巨大ではなく、かつて貴族が楽しんでいた、
メヌエットの踊りを、市民が真似をして、
優雅に楽しんでいるようにも見える。

聴きようによっては、
すっかり仕事を忘れた休日の遊園地のような感じがする。
何故、ここまで、日差しが明るいのだろう、
などと反対に訝ってしまう。
6分弱。
チェルニーという人は、いったい、どこで楽想を練ったのだろうか。
暗い書斎で、先人の業績を睨み付けながら、
ふと、屋外の平凡な日常を夢見たら、
どうしても、それは書き割り風になってしまった、
という感じであろうか。

終楽章は、アレグロ・ヴィヴァーチェで、約9分。
これまた、ゴージャスな始まり方で、
めまぐるしく動く弦楽の音型は、力強く、
低音がリズムを刻み、管楽器が吹き鳴らされながら、
シューベルトの「グレート」のように、
うねっては消え、うねっては消えの生命力を漲らせていく。

その微妙な陰影が、何だか、不思議なことに、
シューベルトの絶筆となった、
『第十交響曲』に酷似した印象も持ってしまう。

メンデルスゾーンのような、異界への憧れも、
シューマンのような幻想の世界もないが、
ヨハン・シュトラウスのような豪華さまで行くと不健全、
といった格調の高さを保持している。

これは知られざる傑作だ、という程ではないが、
さぞかし、こんな夢を見ながら、
当時の人たちは生きていたのだろう、
といった風情。

器用さゆえに、いろんな名作に似てしまうが、
志は低くないようで、ついつい耳を澄ませてしまう。
悪くはない。

アベック・トリオのCDの解説で、
シューベルトの音楽は、
絶対に悪くなっていく世の中にあって、
その時間の流れを見つめたもの、
などと書かれていたが、
そんな音楽は、とても、
将来ある子どもには聴かせられない。

その点、チェルニーの場合、ちゃんと、彼の練習曲に耐えたら、
こんなに素晴らしい世の中が待ってるよ、
とコンセプト的に一貫しているようである。
が、そこまでチェルニーが考えていたかどうかは分からない。

チェルニーという人が、
そうした健全な価値観に支えられていたと思える。
もしも、それを演じているだけだったとしたら、
このCDの表紙同様に不気味なのだが。

で、この交響曲の解説を読んでみると、こんな事が書いてある。
「作品781は、ハイドンのロンドン交響曲の古典形式に従って、
ベートーヴェンやクレメンティ風の語り口が現れる。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンではしばしば、
またクレメンティでは、常にあった、ゆっくりした序奏が、
チェルニーにとっては、古典交響曲として不可欠のもので、
これがソナタ楽章を先導し、
相反する性格の第一、第二主題を使って、
徹底的にテーマ、動機の展開がなされ、
作曲家の対位法の技術が披瀝される。」

私の記憶に間違いがなければ、クレメンティの音楽は、
そんなに美しいものではなかったと思う。
しかし、チェルニーが、
自らのオリジナリティーを誇示したとすれば、
ここにあるような、技術の披瀝にあった可能性は高い。
それは、ともすると、
リストが非難されていたことを先取りしている。

「その4楽章形式もまた古典形式への志向を表わしている。
チェルニーは古典的なメヌエットに代えて、
ベートーヴェン風のスケルツォを使っているが、
ベートーヴェンのような破格を狙ったものではない。
(例えば、『第九』で、緩徐楽章をスケルツォを入れ替えたように。)
エネルギーに満ちた終楽章が交響曲を締めくくるが、
これは、無視された作曲家になってしまったチェルニーが、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが確立した基準に則した、
素晴らしい成果となっている。」

かなり狂信的な古典主義者だったが、
その基準からすれば、素晴らしいという感じだろうか。
かつてここで取り上げた、オンスロウの交響曲などと同様の扱いと言える。

この曲も、耳には快く、演奏会で聴くとどうなるか分からないが、
CDで聴く限り、いろんな事を考えながらも、
楽しむことが出来る。

これらの解説、いずれの作品も、
いったい何時書かれたのかの記載がないのには困った。
どこに位置づけるべきか分からない。
出来れば、初演は何時で、その時はどう書かれたか、
などという情報も欲しいものだ。

以上の解説は、曲の解説の部分を抜き出して来たものだが、
このCD、さすがに、チェルニーが何者であったかを、
概観しようとする姿勢も見せていて、
そちらが解説のメインとなっている。
「彼の実像を捉え直す好機にあり、
ベートーヴェンの弟子であり、
リストの教師であるといった立場は、
もっと音楽界の、そしてピアノ技巧、
19世紀前半のピアノ指導の中央に、
彼が位置していたことを意味する。
作品番号で861を数え、おそらく1000曲以上ある、
彼の器用な作品群は、時折、生前から軽く見られていたが、
(シューマンは、『尊敬すべき作曲家には引退していただき、
その価値相当の年金を与えよう。そうすれば書かなくなるだろうから。』
と書いた。)
ベートーヴェンのピアノ奏法に関するお目付番であり、
さらに、ベートーヴェンの作品解釈のみならず、
チェルニーの専門書によって、管弦楽的なピアノ奏法を確立した、
リストへの影響に到るまで、
生前にチェルニーが果たした重要な役割を見失うべきではない。」

チェルニーはまさしく、ことピアノに関する限り、
当時のメインストリームであったということであろう。
以下、いろいろ書かれているが、
これが繰り返されているだけとも読める。

「ヴィーンに生まれたチェルニーの生涯は、
モーツァルトの死の年の1791年から、
ロベルト・シューマンの死の翌年である、
1857年にまで及び、花咲く19世紀の偉大な、
古典、ロマン派のピアノ音楽の時期を正確にカバーしている。
チェルニーが置かれた位置づけと、
彼の時代に即した創造力は、
彼を理想的な記録係としている。
ボヘミア出身の父親によって、この利発な少年は、年少ながら、
最高のテクニックの権威、ベートーヴェンのもとに送られた。
1847年に書かれた、彼の『生涯の思い出』には、
1800年、彼が父親に連れられて行った様子、
いかに、ベートーヴェンの住まいが乱雑であったか、
すでに耳が悪くなっていた作曲家が黄色い液体を染みこませた、
詰め物を両耳にして暮らしていた様などが、
生き生きと描かれている。
巨匠はこう言った。
『あなたの息子には才能がある。
私が自分で教えましょう。
彼を週二回寄こして下さい。
最初に、エマニュエル・バッハの、
ピアノ演奏の正しい技法に関する指導書を使うので、
それを持って来させて下さい。』
このことから、ベートーヴェン自身の伝統的な立ち位置と、
そこに若いチェルニーを導き入れようとした意図を知ることが出来る。
カール・フィリップ・エマーニュエル・バッハは、
大バッハの有名な次男であり、
彼の、『Versuch uber die wahre Art』は、鍵盤楽器の技法のみならず、
音楽美学にも同様に触れたものであった。
最初から、正しい演奏姿勢から指使いや音階に到るまで、
ピアノ演奏の考えを教え込んだ。
これは、ベートーヴェンがその名人時代に賞賛された、
話しかけるような表現方法である、新しいレガート奏法と、
対位法の演奏に集中したものであった。
大バッハの『平均律』を後にチェルニーは出版するが、
これは、この『音楽の旧約聖書』をベートーヴェンが、
どのように演奏したかを伝えるものである。」

前回聴いた、アベック・トリオの演奏が、
チェルニーの表記を重視する理由もこのあたりにあるのだろう。
チェルニーは、こんな子どもの頃から、
ベートーヴェンと一緒にいたのであるから、
その影響力が甚大だったことは分かる。

ちなみに、このチェルニーの文章は、
音楽之友社から出ている柿沼太郎編の、
「ベートーヴェン回想」でも読める。

「チェルニーはまだ年少でありながら、
ヴィーンで最も有望なピアノ教師となったが、
後には、ベートーヴェンのピアノ作品の解釈で賞賛された。
彼は、有名な第五ピアノ協奏曲の
ヴィーンにおける初演者(1812)であり、
当時の記録によると、
32曲のベートーヴェンのピアノソナタのレパートリーから、
巨大な『ハンマークラヴィーア・ソナタ』(1820)について、
非常に印象深い演奏を行ったとされる。」

確かに、「大公トリオ」は、「皇帝」と同時期の作品であるから、
アベック・トリオが、チェルニーの表記を信奉して、
この三重奏曲を演奏したのを、論理的に否定することは難しい。

「主要作である、
『完全なる理論と実践のピアノフォルテ楽派』作品500など、
主に教育的な作品の価値によって、彼は有名になり、
ベートーヴェンの教え方や演奏方法を抽出した、
『ベートーヴェンのピアノ作品の正しい演奏について』
などを書いた。
今日の我々にとっては、
『ピアノフォルテの即興に関する系統的指導』作品200は、
特別の意味を持ち、長らく絶版であったが、
Ulrich Mahlertによる優れた新版が出た。
チェルニーのガイドは、
選んだ仕事を正確に遂行できる有能な人間と、
音楽的な表記だけではあまりにも貧弱であった、
当時の演奏に対する記述の課題との幸福な出会いであった。」

何だかよく分からないが、チェルニーは著作にも、
作品番号を「通し」で振ったのであろうか。作品200とか、
作品500とか、切りの良い番号をあてがっている点からして、
計画的な所行であろう。
おそらく、遂に作品も500近くなったぞ、
ここらで、すごいものを作らなあかんな、といった乗りで、
力作に傾注していったのであろう。

「ピアニスト、ベートーヴェンは、その即興能力ほどには、
他の作曲家の解釈については知られていない。
パガニーニやリストのような楽器の名人は、
書き留められた完成作品とともに、
即興演奏に対するこだわりを固守していた。
チェルニーのガイドは、19世紀前半の、
当時の演奏習慣に対する情報の宝庫である。
ベートーヴェンの弟子であるチェルニーが、
リストの先生となったという事実がまさしく象徴的で、
チェルニーは伝統を新しい世代に伝えたのである。
チェルニーはその自伝の中で、
少年期のリストを指導した時の事を、
いかにもという誇らしさを持って記述している。
『彼は小さく弱々しい子どもで、
演奏中には酔っぱらいのようにぐらぐらし、
時折、床に倒れるのではないかと心配した。』
また、彼は、いかにして、この世界的なピアニスト、音楽家が、
彼の所から巣立ったかを書き進めた。
『もう一人のモーツァルトが彼に宿るのを見て、
世の中というものはそんなに悪いものではないと思った。』」

これまで、シューベルトを普及させた大きな存在として、
リストについても、何度か取り上げて来たが、
チェルニーがこれほどの存在とは全く意識していなかった。
やはり、彼の作品を収めたCDを聴きながら、
この解説のように、これでもかこれでもかと、
その業績を繰り返しているのを読み、
しっかりとその実在を実感しなければ、
なかなか意識の真ん中には来ないところだった。

チェルニーが、リストにシューベルトの作品をも手渡した可能性も大きい。
ただし、シューベルトの文献で、チェルニーが登場するものはそう多くない。

さて、このCDの解説も最終コーナーである。
「チェルニーの作品は数え切れないし、
その大部分はアレンジやトランスクリプションである。
それに加えて、ベートーヴェンの交響曲を含む、
立派なピアノ・スコアがあり、
当時のポピュラーなアリアに基づく、
効果的な序奏付きの華麗な変奏曲やロンドがある。」

何だか、リストの伝記を読んでいる感じだが、
リストは師のチェルニーを規範とし、
その学究的な所は真似せず、
さらに演奏家として、大規模な活動をした、という感じであろうか。

編曲ものまでを全て数えて行けば、確かに、作品は千にもなろう。
彼は、66歳まで生き、
シューベルトの何倍もの活動期間があったのだから。

「これらは当時の嗜好に合ったもので、
当時の同業者たち、ヘルツ、ヒュンテン、カルクブレンナー、
タールベルクらが書いた作品に劣らず、
しばしばそれ以上のものであった。
ストラヴィンスキーが、『チェルニーは根っからの音楽家だ』と、
刺激的な見解を述べたのは、しかし、オリジナルの作品で、
作品178の四手のソナタ ヘ長調などを弾いた事のある人は、
熱情ソナタに似た点を愛さずにはいられない。
ベートーヴェンは、疑いなく、
チェルニーの最も尊敬した作曲家であったが、
この主神の他にも、
ベートーヴェンより扱いやすい古典的モデルとしての、
少し劣った神々もいた。
クレメンティ(1752-1837)はその一人で、
彼のピアノソナタや交響曲は、ヴィーン古典派の精神を伝え、
さらに、今一人、フンメル(1778-1837)は、
モーツァルトの弟子として高名で、ヴァイマールの楽長、
名声のあるピアニストでもあった。」

このように、チェルニーは、非常に精力的に音楽家として、
信じる道を邁進した人であったようだ。
が、こう読んでみて不満なのは、くそまじめな古典主義者、
という側面は見えて来るが、やはり、どんな感じの人か、
ということはよく分からない点である。

書斎に閉じこもっていた人なのか、
リストのように、音楽界を沸かせた人だったのか。
少なくとも、このCD表紙のような、
マッドサイエンティストではなかったようだが、
ここまで猛進する人を端から見れば、
どこか狂気を孕んでいるように見えたとしても不思議はない。

そもそも、その作品番号こそが証拠で、
この数字は狂気以外の何ものでもあるまい。

得られた事:「チェルニーは、ベートーヴェンの世代と次の世代を結ぶ重要な輪であって、その音楽には、シューベルト風の香りも立ち上っている。」
by franz310 | 2009-03-22 10:04 | 音楽
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