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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その165

b0083728_23103464.jpg個人的経験:
TACETレーベルから出ている
アベッグ・トリオのCD、
解説を書いている
Jan Reichow氏の博覧強記趣味、
非常に興味深く、
毎回、感心している。
今回は、最も有名な三重奏曲、
ともいうべき、
ベートーヴェンの「大公」を、
このシリーズで聴いて見たい。


いきなり文句で恐縮だが、表紙を見て、
ちょっと、何か言いたくならないか。

やはり、Horst Janssenのスケッチであるという。
30.9.87とあるのは、書いた日付であろうか。
ちょっと、いつもとタッチが違うような。

前回の意地悪な中年風、シューベルト、
前々回の犯罪現場のハイドンに比べ、
今回のベートーヴェンは、ちょっと格好良すぎないか。
ハートマークまで見えるが、これはどういうこと?

解説書の中を見ると、
Cover painting:ホルスト・ヤンセンとある下に、
○ の中に「c」マークで、Birgit Erichsonとあるのも気になる。
これは、版権所有者だと思う。

Erichsonは、このAbegg Trioのチェロの女性である。
ヤンセンとエリクソンとの関係は何なんだ。

ずっと、この表紙デザインには、これまで文句を言って来たが、
版権が彼女にあるとすれば、
美人チェロのエリクソンに怒られるかもしれない。
それは困る。

ざっと見て、今回のCDの特徴は、
楽譜例が満載ということであろうか。
ディアベリが出版した、ベートーヴェンの弟子のチェルニーによる、
「ベートーヴェンの全ピアノ作品の正しい奏法について」という楽譜の、
ファクシミリが3ページにわたって掲載されており、
これは、五線の間にびっしりと細かいドイツ語が書かれているもの。
チェルニーに関しては、後で、テンポの話で出て来る。

さらに、解説の中で触れられる楽節が、20も楽譜で出ている。
しかし、この楽譜はドイツ後解説に掲載、英語部には番号しかない。

解説を読むのが楽しみである。
はたして、今回も、何か面白い発見をもたらしてくれるだろうか。

その解説は、こんな風に始まる。
「『バーデン王女のお祝いの間、
あの方は指を痛めていたこともあり、
私は心して作品にとりかかり、いくつかの作品、
とりわけ、新しいピアノ三重奏曲が結実した。』」
あまりにも唐突ながら、音楽の完成を伝えているので、
おそらく、ベートーヴェンの言葉なのであろう。

「皇帝の子息でベートーヴェンの弟子でもあった、
ルドルフ大公は、この間、ピアノのレッスンを終えた可能性もある。
この1804年からのレッスンの進展については、
ベートーヴェンからのおびただしい数の、
キャンセルや詫びの手紙による記録が残されている。
それにもかかわらず、この18歳年少の、
巨匠の友人でパトロンだった人は、すぐれたピアニストになり、
第四と第五のピアノ協奏曲がすでに彼に捧げられており、
作品97の三重奏曲も、彼のためのもので、
彼は、新しい作品を手にするのを首を長くして待っていた。
ベートーヴェンは、彼に、注意を喚起しつつこう書いた。
『八方手を尽くしましたが、
私の家で写譜してくれる人を見つけられないでいたので、
原稿をそのままお送りします。
シュライマーに頼んで、信頼できる写譜屋を呼んで下さい。
ただし、盗難の危険は嫌なので、
是非、宮殿での作業をさせて下さい。』」

シューベルトの楽譜などは、
炊き出しに使われたなどという逸話の方が有名であるが、
ベートーヴェンくらいの大物になると、
楽譜の盗難にも用心が必要だったわけだ。

「前年からの詳細スケッチを経て、
3月3日から3月26日まで、きっかり24日間で、
ベートーヴェンは、彼の最後で最高のピアノ三重奏曲の
決定稿に取り組み、これを書き下ろした。
翌年の終わりまでに、彼は第七、第八の交響曲、
作品96のヴァイオリンソナタ、
それに愛らしいピアノ三重奏の断章WoO39を完成させている。」

ちなみに、このCDには、このWoO39も最後に収められている。
この5分ほどの変ロ長調の小品は、大家円熟期の作ということで、
非常に美しいもの。
昔から、エラートの廉価盤LPの余白に収められており、
これが、とてもチャーミングであった。
改めてひもとくと、チェンバロで有名な、
ヴェイロン=ラクロワがピアノだったが、
ヴァイオリンがロベール・シャンドル、
チェロがロベール・ベックスとある。
あまり聴いた事のない名前である。

今回、アベッグ・トリオで、久しぶりに聴いたが、
私の心の中のイメージよりごつごつしている。
ラクロワらの演奏は、もう少し優美だったような気がする。

また、この曲の解説は、
このCDには見あたらないようである。
このアベッグ・トリオのCDは、
ベートーヴェンのピアノ三重奏の全集を目指したのか、
このCDも、大公トリオの前に、非常に珍しい曲が収められている。

しかし、こうしたものこそ解説が欲しいのに、
何の言及もないことに、今、気がついた。

一曲目は、何と、1784年、つまり作曲家はまだ14歳。
そんな頃の変ホ長調の断章。Hess-Verz.No.48とある。
ベートーヴェンのファンならぴんと来るのだろうか。

このアレグレットの曲、子どもの作品としては、
ピアノのラインが錯綜しリズムが妙に凝っている。
わずか3分弱ながら、中断の多い単純な繰り返しの音楽で、
ヴァイオリンもチェロも、添え物にすぎない。
しかし、木訥単純に繰り返されると、思春期のベートーヴェンが、
夢中になって、新しい音の世界に耳を澄ませている様が見えて来る。
きれいな曲を書きましょう、といった風情ではない。
明らかに何か未知のものを手探りしている。

それから6、7年後に書かれ、ハイドンのロンドン時代に重なる時期に、
またまた変ホ長調のトリオが書かれたようで、これもこのCDにある。
WoO38とある。これも知らない作品、かつ、解説には一言もない。
この曲は各楽章が4~5分程度の3楽章作品。
しかし、緩徐楽章がない。真ん中は、スケルツォとある。
このスケルツォ、何だか、ディアベリの主題の変奏曲の、
あの主題みたいである。

よく、あの変奏曲は、凡庸な主題と言われるが、
この20歳の時期のベートーヴェンのものと、
そんなに違うとは思えない。

このあたりになると、ハイドンがこのジャンルで、
新しい領域を模索していた姿が重なってくる。
構成的にも、即興的なものを重んじた感じがある。
そこそこ面白い作品だと思う。
終楽章の主題も快活である。

しかし、多少散漫な印象を受けるのも確か。
ベートーヴェンは、この後、ハイドンの指導を受けるが、
指導を受けられてよかったね、という感じがしないでもない。

ということで、今回のCD、知られざる作品が満載の割には、
解説には、「大公トリオ」のことしかない、ということが分かった。
博覧強記趣味のライカウの弱点は、ひょっとするとこの辺りにあるのか。
有名な曲で、先人がいろんな言葉を残している作品に関しては、
それらを引用しまくって饒舌だが、こうした知られざる曲では、
言葉を失ってしまうのだろうか。

せめて、演奏者がどう思ったかなどを書いてくれればいいのに。

ということで、下記のようにこのCDの解説では、
すっと最後まで「大公トリオ」の事が書かれている。
1812年以降の事が、まず、触れられている。

「これに非常に長い危機の時代が続き、
事実、彼の創作力は永遠に尽きたかと思われた。
難聴の進行も明らかになって、
抱えた問題はさらにひどくなり、
ピアニストとしての活動は出来なくなってしまった。
作品97の三重奏曲のリハーサルを聴いた、
ルイ・シュポアはこう伝える。
『かつてはあんなに賞賛された名技性は、
難聴によってまったく失われていた。
フォルテのパッセージでは、強く叩きつけすぎ、
弦楽奏者はがたがたに乱れ、
ピアノの楽句では、あまりにも優しく弾いたので、
すべての音が消え去ってしまったため、
同時に楽譜を見ていなければ、
何が起こっているか分からなかった。』」

この話は、私も読んだことがあった。
そこで、いろいろ探して見ると、
音楽の友社の柿沼太郎訳編の「ベートーヴェン回想」にあった。

しかし、この本、シュポーアの項にはこうある。
「私が近づきになった当時、ベートーヴェンはすでに
公私ともに人前での演奏をやめていた。
それでもベートーヴェンの演奏を聴く機会は一度、
ベートーヴェンの家で行われた新しい三重奏曲(ニ長調)の
下稽古に思いがけず行き会わせた時だけである。」

このように、シュポアの聴いたのは、作品97ではなく、
作品70-1となっている。
しかし、「私が近づきになった時」というのは、
1812年頃とされるから、
新作としたら作品97の方が正しそうである。

シュポアは、この他、偏屈おやじ、変人としての
ベートーヴェン像を回想に残しており、そこからは、
このCDの表紙のようなナイスガイの風貌は想像できない。
Horst Janssen氏には、是非、これを読んで貰いたい。

元の解説に戻ると、この「大公トリオ」の初演の話が続く。
「この三重奏曲の初演は、1814年の4月11日で、
ベートーヴェンがピアニストとして登場した最後の演奏会で、
先の印象と共通しるものがあったが、
しかし、作品の効果を減じるものではなかった。
批評家は、こう書いている。作品は、
『あらゆる観点から、美しく独創的。』
しかし、演奏会は、
『巨大で長すぎ、楽想がめまぐるしく変転し、
玄人でない聴衆は、その美しさの氾濫に窒息しそうになった。』」
ここで何故か、譜例1。
冒頭のピアノのドルチェ主題が出ている。

この解説は、この
The “abundance of beautiful features”とその統一について、
一章を設けてある。

「August Halmは、我々に、
ベートーヴェンの形式についてこう喚起している。
メインの主題と、それが次第に消失する点。
(楽譜2、3が出ている)
メイン主題の分解、リズミカルな曖昧な遷移の後、
第二主題が形をなすが、
これはリズム的にもメロディ的にも簡素なもので、
ぴったりとした反進行を見せる。
(譜例4がある。)
この反進行のコンセプトが、(すでにメイン主題の最初の4小節で、
明らかであるが、)推進力となる。
(譜例5)」
なるほど、この「大公トリオ」、実質、第一楽章は、
冒頭の魅力的なメロディだけで成り立っていると言ってよく、
リズミックな第二主題は、それを分解して出来ていたということか。

「そこから、旺盛なカデンツの表現までが、提示部を終わらせ、
再現部の最初の部分のために備える。
展開部の終わりにかけて、反進行が見られ、その後すぐに再現部が来る。
(譜例6)

August Halmは、
『第一楽章の展開部は、有機的な必然性や生命力のためには、
その素晴らしいメイン主題の美しさを見せることには、
あえて注意を払わないといった風にそれを扱う。』と書く。
(チェロのドルチェの譜例7)
『自然には、チェロはそのまま弾くべきところだが、
主題にはそうした義務を負わせず、
聴衆のためといって、作曲家にも強いることなく、
ある作法に適合させようとしているのか。
このような美しいテーマは創作物ではなく、
形をなした生命であり、彼はこれを神秘のままに扱おうというのか。』
と書く。
(譜例8)
『もちろん、私たちは、自由に主題を切り出して、
移し替え、貼り付け、それらの主題を机上で分析する事は出来るが、
あたかも、様々な動機から生み出され、
分解され、さらに後で同様に組み立てられるといった、
こうした主題の現れ方や、動きの美しさによって、
一般のリスナーにも確信できよう。
誰も、ベートーヴェンも同様に、
煉瓦を積み上げるように、動機を組み立てて行ったとは思うまい。』
(譜例9)
『しかし、この主題が自然に成長するならば、
ゲーテの言葉での、『生きた被創造物』であれば、
ベートーヴェンのやり方は、
実際のところ、裁断やのり付けのようなもの、
あるいは、ある物が並べ、いろんな物を連想する、
小石を使った子どもの遊びのようなものと違うのか。』
(譜例10、11)
『みんなは、それは本当ではないと知っており、
事実、こうした比較は、彼の手法を解析する際の、
机上の空論でしかない。
ベートーヴェンを聴く人は、こうしたテクニックに疑問を抱いたり、
その着想を表現したりすることはないだろう。
それほどまでに全ては確信的に響く。
それゆえ、主題の生命力に現れる音楽の力は偽りなく、
ここで自ら形を得た、独自で、事実、活力のある音楽生命は、
完全に主題を否定し、単なる再構成ではなく、
完全な分解のための変容を求める。
この力、あるいはもう一つの音楽生命は、
我々が展開部と呼ぶものの発現、
形式以外の何ものでもない。
主題自身はそのまま完全に残ることを望み、
力強く、高雅な形でのそれ自身であること以外を望まない。
展開部では、しかし、こうした主題の要求は聞かず、
自らの要求のみによって、
独自の形を作るために小さな動機のみを必要とし、
生命の証を立てる。
ためらいなく主題を分解し、
再び形式が、主題をすべてを、完全に、
むしろ、より力強く、より輝かしくして、
立上げる、再現部と呼ばれる後方に、
何らかの確信を持って運んでゆく。
(譜例12)」

といった具合に、何と、「大公トリオ」についても、
第一楽章のことしか書いていないではないか。
私は、この曲の美しい第三楽章についてなど、
もっと知りたいのに。

よく考えれば、ライカウ氏は、ここでも引用ばかりではないか。

次に、このトリオの系譜について、
「The souls in affinity with the Archduke Trio」
といった一章が始まる。
「こうした構成や、『音』の響きの継続についての歴史を、
ここで強調しておく。
振り返ると:
弦楽四重奏曲ヘ長調作品59の1(1806)がある。
第一楽章の最初を『大公トリオ』と比較してみよう。
(譜例13)
ここにも反進行。
(譜例14)
作品97の反進行。
(譜例15)
作品59の1のスケルツァンドのリズム。
(譜例16)
作品97のスケルツォのリズム。
(譜例17)
作品59の1の補足リズム。
(譜例18)
作品97の補足リズム。
(譜例19)」
これらは、頭の中で思い描くだけで、
楽譜を見なくとも、何となく得心できるものである。

ということで、前方を見た後、
後方を見ると、我らがシューベルトが論じられている。
何とか、このブログのテーマの一端に触れることができて良かった。

「前を見ると:フランツ・シューベルト。
ベートーヴェンの作品97は、カール・ダールハウスによると、
『シューベルトに代表されるような範囲にまで及ぶグループに属し、
彼は、ベートーヴェンの『最後の言葉』から作曲を開始した。
すなわち、若い野心的な作曲家の音楽思考の状態は、
すぐそこにあった偉大な音楽に、
導かれるのを望んだかのように、
それを出発点とした。』
シューベルトは最後のピアノソナタに到るまで、
そのベートーヴェンが『大公トリオ』で掘り当てた、
ロマンティックな音色を持ち続け、また、彼は、
最後の小節まで全貌を現わさない叙情的形式を保ち続けた。」

ということで、Reichowは、「大公トリオ」の主題の生命力、
その展開部のすばらしさに加えて、
ロマン派の源流として位置づけているようである。

大公トリオについて、シューベルトが何か言っていないか、
そんな資料があればいいのに。
確かに、彼の巨大な二曲のピアノ三重奏曲は、
ハイドンやモーツァルト時代の常識からは考えられず、
ベートーヴェンのこの曲のみが、その先駆として、
肯けるものであろう。

そのほか、この解説には、別の章として、
「Appendix on tempo or : How time flies」
と題する一文が寄せられている。
演奏する時のテンポに関する見解であろう。

「1804年のこと、早晩、ヴィーンで最も有名なピアノ教師になる、
13歳の才能あるピアニストがリヒノフスキーの家で紹介された。
カール・チェルニーである。
3年前に彼はベートーヴェンにレッスンを受けており、
以来、彼はベートーヴェンの作品に疲れを知らず没頭し、熱愛した。
『私は、ベートーヴェンがピアノの為に書いた作品であれば、何でも、
暗譜で完璧に正確に弾くことが出来るという音楽的記憶力を持っている。
これは天与の才で、リヒノフスキー公の前で最初に演奏した時から、
彼は私に好ましい印象を持ってくれており、
ほとんど毎日のように私は彼が思いつくままの曲を数時間演奏した。』
こうした機会に、しばしば彼は、例えば、
出来たてほやほやのワルトシュタイン・ソナタなど、
目についた新作を演奏し、作曲家もそれを嬉しく思って、信頼し、
フィデリオのピアノスコアを用意する仕事を委ねた。
チェルニーの生涯の中心にベートーヴェンがあったことは理解でき、
ベートーヴェンへの尊敬は、メトロノーム記号付きの、
『ベートーヴェンの全ピアノ作品の適切な演奏について』という、
彼の知識を記録する試みに駆り立てた。」
むむ、何故、いきなりチェルニーが出て来たかと思うと、
そういった展開であったか。

ベートーヴェンの作品のメトロノーム表示は、
しょっちゅう、音楽界の話題となっていて、
どうも信用できないというのが、よく聴かれる意見である。

「何故、この忠実な伝道者の正確なテンポ指定が、
これまで実践として研究されずに今日まで来たのかは、
ミステリーである。
アベッグ・トリオは、これをシリアスに受け止め、
再発見されたテンポで特に最初のピアノ三重奏曲に、
新しい光を当てた。
緩徐楽章は遅くしすぎず、
速い楽章では、本当に速く演奏されるという、
こうした、互いのテンポの一般的な関係は、
新しく規定されるべきであるという事実は、
多くのクラシック音楽愛好家を驚かせるかもしれない。」
最初の三重奏曲のみならず、
どうせなら、最後の三重奏曲にも新しい光を当てて欲しいものだ。

以下、ひたすら、これでもかこれでもかと、
テンポの問題を攻撃している。
「現在、音楽学者ですら、
郵便馬車の時代には異なったスピード感があったという必然を、
音楽のスピードにも適応させるのが必要だと言わんばかりに、
古典的なテンポをほとんど半分にまで減速することに、
大変な努力をしている。
郵便馬車に旅の身を委ねたピアニストは、
アウトバーンを飛ばす時代のピアニストより、
指を速く動かせなかっただろうか。
彼らの心拍は違うものだったのか。
彼は、名技性や音楽的な華麗さの感覚を、
風景が流れ去るスピードに合わせるのか。」

「ヨハン・ウォルフガング・ゲーテが、
1786年9月5日の12時30分の昼日中、
郵便馬車に乗って、ミュンヘンに向かって、
レーゲンスブルクを後にしたが、到着は翌朝の6時であった。
長い、退屈な時間だったか。
今日の旅行者は、169kmを列車で15時57分に出て、
17時25分に到着できる。
しかし、彼はこの間、ゲーテの12倍の速さでしゃべれるだろうか。
そして、12倍速く、走れ、生きることが出来、愛し、感じ、
見て、考えることが出来るだろうか。」
こんな比較は蛇足であろう。
が、面白いことは面白い。

「時折、郵便馬車のテンポを速すぎるとも感じた、
1800年当時の人々に付いて行ければ、彼は満足だったのである。
『左馬の騎手があまりに速く馬を駆りたてるのには目眩がした。
そして、私はこの素晴らしい地域を、こんな恐ろしさで走り去るのを、
また、あたかも飛ぶように、夜中に行くことを悲しく思ったものの、
好ましい風が背後から吹き、私の望みのままに駆り立ててくれることを、
私は心の中で、喜んでいた。』
(1786年9月11日『イタリア紀行』)」
結局、テンポの話はこれで終わり。
少々、物足りない。
あってもなくても良いが、どうも、アベッグ・トリオの演奏は、
速めということであろう。

しかし、CDを聴く限り、この演奏がとりわけせかせかしている、
という感じはなく、出だしのメロディからたっぷりと美しく、
各楽器もいつものようにたっぷりと歌って、味わい深い。
13分という演奏時間は、代表的レコードとされた、
スーク・トリオの演奏より長い。

と安心するや、スケルツォは、やたら速い。
非常にせかせかした印象を受ける。
あれだけ、念入りにテンポについて、解説が書いてあるのだから、
これが、きっとチェルニーの指定ということなのだろう。
よく見ると、チェルニーの楽譜のコピーが掲載されていると書いたが、
2ter Satz.とあって、何と、まさしくこの曲の楽譜であった。
アレグロの横に、附点二分音符=80とある。

一分間の拍数が80ということだから、
3/4拍子の18小節の主題が、
60秒×18/80=13.5秒で演奏されているか、
というと、確かにそんな感じである。

同様に第三楽章の楽譜もあり、ここには四分音符=58とある。
第四小節までが載っているが、ここまでの演奏時間は14秒。
CDプレーヤーではすぐ分かる。3/4拍子なので、
60秒×4×3/38=12秒となる。こんなものか。
最初の音が四分音符なので、これが1秒程度、という計算も成り立つ。
まあ、そんな感じである。
演奏時間は10分46秒。スーク・トリオより、一分近く短い。
さくさく行く感じで、私などは、
ここで、じとっと粘ってくれた方が泣ける。
この人たちも、メトロノームを気にしすぎて、
十分、演奏を楽しむことが出来なかったのではなかろうか。
ふと、そんな心配もよぎる。
そう考えると、チェルニーも罪作りな人である。

とはいえ、それゆえか、非常に目の詰んだ表現が聴けるのも確か。
さすがアベッグ・トリオ、質感は悪くない。
だが、この楽章の深い深い後半など、
きっと、もっと沈潜した表現もしたかったに違いない。

第四楽章、アレグロ・モデラートは、
2/4拍子で四分音符が88とある。これも見にくいがコピー付き。
一小節あたり、60秒×2/88=1.36秒で行け、
ということなので、3小節で4秒。
軽妙な主題が2小節分なので、3回繰り返すのに8秒だ。
ぴったりそうなっている。
聴いているこちらが気になって疲れて来た。
この楽章のテンポは、すこし、ゆっくり目のような気がする。

ライカウが言い出したのか、アベッグ・トリオの提案なのか、
このベートーヴェン直伝とされる弟子のテンポ指示に忠実すぎるこの演奏、
演奏の質を語る前に、テンポ指示が最初から最後まで一貫しているのかとか、
妙なことばかりが頭に浮かぶではないか。
これでは、彼らの演奏を聴いているのか、
チェルニーの亡霊を聴いているのか分からなくなって来る。

このCDの解説、方針が間違っていないか。
むしろ、知られざる作品にまで光を当てた、この団体の意欲と、
それらの作品の詳細を語るべきであって、
頼むから、演奏の正統性を、チェルニーを、
そしてゲーテのイタリア紀行までを引合いに出して、
声高に語らないで欲しかった。

ベートーヴェンは、おそらく、チェルニー以外は認めません、
これ以外のテンポは許しません、とは言わなかったはずだ。

得られた事:「メトロノーム指示アレルギーになった。」
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by franz310 | 2009-03-14 23:15 | 音楽
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