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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その164

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その164_b0083728_0344227.jpg個人的経験:
前回、ハイドンの
ピアノ三重奏曲を
演奏した、
アベッグ・トリオの
演奏を取り上げた。
彼らの演奏した
シューベルトの
三重奏曲も聴いて、
また、丁寧な解説も
読んでみたくなった。

ここでは、第一番、変ロ長調のトリオ作品99、D898と、
D897の「ノットゥルノ」変ホ長調が収められており、
ハイドンの時と同じ、目の粗い紙に、
ホルスト・ヤンセン(Horst Janssen)が描いた、
スケッチ風の肖像画が表紙を飾っている。

ハイドンの場合同様に不気味で、
とてもシューベルトとは思えず、
貧相ではないシントラーという感じである。
そもそも31歳で亡くなった作曲家とは思えない。
意地悪でひねくれた中年の顔となっている。
ごめんなさい。

このABEGG TRIOという団体、
ビーツのヴァイオリンは、1741年のクレモナ、
美人のエリクソンのチェロは1725年のやはりクレモナ、
ツィッターバートのピアノはベーゼンドルファー・インペリアルという。

残念ながら、CDブックレット裏の、
この人たちの写真は前回のものと同じ。
シューマンの作品1の「アベック変奏曲」にあやかった団体で、
シューマンの生き様や運命に共感して命名されたということだ。

が、よく読むと、創設は1976年、
ハノーヴァーで、とあるが、
きっとここに出ている写真は、
ずっと昔のものであるのだろう。
その時、20歳であったとしても、
1999年のこの録音時には、それから23年が経過している。
(チェロを持つビルジットは、とても若く見える。)

解説を書いているジャン・ライカウ(Jan Reichou)は、
幸い、期待通りの博識と難解さを披露してくれている。

このTACETレーベル、まったく、人に媚びない、
硬派レーベルという感じがしてくるではないか。

とはいえ、解説は、「美しい世界を求めて」という、
いかにも、シューベルトを語るに相応しい題名である。

まず、シューベルトを見る時の聴衆の反応のトレンドを二つ紹介している。
・ シューベルトは通常思われているような単にナイーブな作曲家ではない。
・ シューベルトが早死にしたように、その音楽には死の奈落が覗いている。
しかし、後者は、結構、否定されている。

まず、前者は、ベルクの例が上げられている。
「シューベルトは、パイオニアであったのに、
単に無害な作曲家として軽視するのはおかしいという意見が、
コンサートの幕間での意見のトレンドとなっている。」
ハイドンの時も、そのピアノ三重奏に対する、
コンサートゴアーの偏見を語っていたが、
ここでは、この意見が否定されるわけではない。
「シューベルト死後100年に際して、
アルバン・ベルクがすでにこの基調をなす発言をしている。
『シューベルトの名において普及している見方と、
私がその音楽を聴いた時に感じるもの差異は、
ヨハン・シュトラウスとシューベルトが同時に語られるのを聴く時、
いっそう明確になる。
ヴィーンのどこでも、こんな風に語られるばかりか、
この『音楽の街』は、シュトラウスとシューベルトが、
不滅のメロディを書いたヴァイオリンがつるされた、
天国の一部とされている。』」

また、二番目の意見は、アルバン・ベルクのように古い人ではなく、
何と、現代のピアニスト、
レコード、CDでおなじみ、
ヴァレリー・アファナシェフや、
アルフレッド・ブレンデルが登場して語られる。

「同時にシューベルトの3拍子は、薄い氷上のダンスのようで、
三度下への転調は、底知れない死の予感とするような、
憑かれたような解釈がファッションとなっている。
例えば、アファナシェフは、
その素晴らしいト長調ソナタ(D894)の録音と共に、
地獄の劫火を見るようなコメントを寄せている。
彼が聴かされるこのソナタはその着想を越えて美しいが、
明らかにそうしたものではないと書く。
それが放射するものは、苦しみの結果であって、幸福感ではない。」

次も、シューベルトには一家言持つブレンデルの登場。

「ブレンデルは、D960の変ロ長調ソナタに、
『生からの乖離の記録』を聴く、
作曲家のディーター・シュネーデルの意見に反対している。
「『受難者のようなシューベルトは、
みじめな現実の運命の認識とコントラストをなす、
健康や熱狂、熱烈な幸福感、満足を、
実生活からではなく想像によって、
音楽に盛り込むことが出来たというのは、
本当だろうか。
憂鬱な性行で、作曲活動によって、
より深い絶望に陥ったのではなく、
そこから救われることが出来たことは言うまでもない。』
シューベルトのソナタに対するこの特筆すべきエッセイの、
最後の2節において、ブレンデルは、
あやまったドラマ化に陥ることなく、
恐らく真実を衝いている。
『シューベルトが最後の時になるまで、
時折、楽天的であったのは良かった。
しかし、シューベルトが、
31歳で亡くなるという運命の皮肉について、
同意できるものではない。』」

ここから著者は、シューベルトが生きていたら、
音楽史が変わったかもしれないことを強調している。
何故なら、モーツァルトの先はベートーヴェンが引き継いだが、
シューベルトが亡くなったのは、ベートーヴェンの死から、
20ヶ月しか経っていなかったから、
後続走者がいなかったというのである。

このピアノ三重奏曲と関係ない方向に突き進んでいるが、
これまた、面白い論が紹介されていて、
読み込まずにはいられない。

「200年後の誕生日にあっても、
彼の死を悼むことには意味がある。
ペーター・ギュルケは、こうした注意喚起を行っている。
『シューベルトの早い死は、音楽史における大惨事であった。』
我々は心に留める必要があろう。
『彼は70歳でトリスタンが聴け、
80歳でブラームスの『第一』が聴けたはずだが、
彼が生きていれば、それは違ったものになっていただろう。』」

なるほど、そう来たか。
さすがに、100歳まで生きたら、
マーラーやレーガーが聴けた、とは書かなかったが、
からかうわけではなく、非常に面白い論法だと思った。

「ベートーヴェンの後、シューベルトはそこに何かを付け加え、
音楽界の意識は偉大な器楽曲の分野で、
また違った意識をもって発展したかもしれない。
しかし、それは何十年も引き出しにしまわれてしまった。
モーツァルトは、さらに35年をベートーヴェンが引き継いだが、
シューベルトはその20ヶ月後に亡くなったので、
次の世代が一緒に亡くなってしまったのだ。
この20ヶ月は恐るべき生産性を発揮し、
二つのピアノ三重奏曲もこの時期に書かれた。」

ひょっとして、ライカウは、シューベルトが、
この時期に作曲したシリアスな作品群が、
実は、その後の音楽を変えたかもしれないのに、
それがなされなかったがために、
ここに聴く三重奏曲が、ものすごく貴重で、
独創的だと言わんとしているのだろうか。

「ベートーヴェンの後、
死の予感もあってか、
彼は、1828年3月26年、
楽聖の死の翌年には最初でたった一度の、
公開演奏会を開催している。
その演奏会は満員で好評だったそうだが、
パガニーニの方がトレンディで、ヴィーンの新聞からは、
何ら反響を得なかった。
しかし、ライプツィッヒの音楽時報は、
ヴィーンの音楽界の紹介とともに、
ベートーヴェンの後継者とさえ呼んで、
シューベルトに讃辞を送っている。」

さすが、シューマンの町、
と言いたいが、
ライプツィッヒは、なかなか、
曲者だったはず。

「この機会にシューベルトは、
作品100の変ホ長調のピアノ三重奏曲を初演し、
これがすぐに出版の運びとなると、
シューベルトは駆り立てられて、
変ロ長調(作品99)を作曲した。
アーノルド・フェイル(Feil)によると、
1828年の4月後半から、5月にかけてのことである。
結局、1836年まで出版はされなかったのだが。」
これまで、この二作の作曲時期は不明とされていたが、
第二番、変ホ長調の後で、この第一番変ロ長調が書かれたと、
このようにはっきり明言されたのは初めて読んだ。

ここから驚くべき事に、
1ページ半にわたって、この8分ばかりの小品の解説が続く。

「同時期に変ホ長調のアダージョが書かれ、
それは1846年にディアベリ社から出た時、
『夜曲』、後に『ノットゥルノ』と呼ばれた。」
これについては、前に、
ケッケルトの演奏の時にも触れた。

「この楽章の自筆譜には、
日付もサインもない。
これはもっと大規模な作品の一部と思われ、
恐らく変ロ長調の一部だった可能性があるが、
それはより偉大な奇跡に取って変われている。
この小品の驚くべきは、
規則正しいリズムであり、幸福な三拍子の楽曲でありながら、
何度も繰り返し演奏されても陳腐化しない。」

ここで、また、お得意の連想ジャンプ。
「弦楽五重奏曲のアダージョは、思えば、
時間が静止するかと思われるまでに、
鼓動が止まるような魔法を開発している。
彼はこうした音楽を気張らしとしては書けなかった。
聴く者をはっとさせる何かがある。それはいったい。
そこにはとりわけ、かすかな変化で、
優しい『何か永遠の回想』を、
起こすようなものがあり、
この楽章が始まると、希望が広がり、
いつしかそれがあって、シューベルトは、
それが素朴に解釈されすぎないように、
アダージョに、『アパッショナート』という指示を入れた。」
この後、楽曲がどのように変転するかの詳説があるが、
ここは省略する。

何故なら、ライカウ自身が、こう書いている。
「このように曲の手順を書くと、
極めて人為的な作品に思われるかもしれないが、
この作品に魅了されたものは、そんな事は感じない。
幸い、こうしたものの音楽的認識は、
言葉による表現とは異なるものだが、
パワフルにコントラストをなす部分が始まる時、
聴く者は、いったい何が起こったのかと考え、
何故、もっと夢見させてくれないのかと思う。」

このお話が、次のようなところに飛躍するのが最高!

「フランスの毎晩のラジオ放送では、眠りを妨げないために、
この曲をテーマ曲にしながら、この部分の前でフェードアウトされる。
下記のような説明をするしかあるまい。
偉大な音楽は、優しい夢を運ぶものではなく、
聴く者に、何か変化を起こさせる過程を体験させるものなのだ。
また、それは我々に、恙なき夢よりも危険の方が、
より起こりうるということを思い出させる。」
飛躍しつつも、こんな風に、
なかなか味わい深い言葉である。

演奏は、楽器名を強調しているだけあってかどうか、
非常に響きの美しさを感じさせるもので、
ぴちぴちと生きがよい感じがする。
冒頭のピッチカートからして、印象深い。
「アパッショナート」の指示があると初めて知ったが、
文字通り、中間部は情熱的でありながら、格調が高く、
そこからの沈潜していく過程が、これまた美しい。
各楽器のバランスに、神経を遣っている様子が分かり、
最後に名残惜しく消えていく部分にも音楽への愛情が溢れている。

「傑出したロシアのピアノ教師、ハインリッヒ・ネイガウスは、
生徒たちがよりセンシティブになるように、
時折、彼らに作品を一小節ずつ言葉で説明させたという。
他の作曲家より、こうしたやり方はシューベルトには必要だ。」

このように、シューベルトの音楽は、
一小節一小節に細かい意味があることを説明されるが、
何と、ここから議論が飛躍して、まったく関係がない歌曲の話が始まる。
これは約1ページに及ぶ。

先に、往年の名手ネイガウスまで出て来たが、
今度出て来るのはずっと若い世代、
まだまだ中堅のような、
シュタイアーやプルガルティエンが招き入れられる。
彼らのCDについては、すでに、このブログでも取り上げた。
そう考えるとこの脱線は、極めて歓迎すべきものであろう。

題材はシラーの詩に付曲した、
シューベルトの歌曲「ギリシアの神々」で、
そのCDにも収録されていたものである。
ちなみに、この曲は、古代ギリシアを理想郷と捉え、
すでにその理想郷が失われてしまった事を歌っている。
「この小品は、悲劇的なイ短調の切望する哀歌と、
歌の王国にしかあり得ない、
実在しない架空の時間を可視化したイ長調の間を揺れる。
シューベルトがこれを重要だと考えていたことは、
イ短調D804の弦楽四重奏曲に、
引用されていることからも明らかである。」
などという言葉も引合いに出しながら、
この「失われた世界」というのが、これから、後半の、
解説の重要ポイントとなる。

実は、これから4ページ分の解説が残っている。
まだ、ライカウの解説は、半分来たばかりである。
杓子定規にすべて書いていくと、時間がなくなってしまう上、
きっと文字数オーバーになってしまうので、
ここらは、ざっと概観して済ませた。

「どのような世界が失われ、どのような世界を探すのか。
シューベルトはシラーの全ての詩を理解していたと思われるが、
これは、当時、最もトレンディな話題で、
世界から神が奪われ、労働の分業によって、
ニュートンの機械の原理に置換えられるという問題を扱うものであった。」

彼は、シューベルトが病人だったから、
こんなものを書いたわけではなく、
実は、非常に分別ある人間であったことが、
友人や兄弟にあてた手紙からの引用で証拠立てられていく。
ショーバーへの1824年11月の手紙には、
「恐ろしく寂しいが、このみじめな世界で、
理性ある人間なら当然のこと。」

兄、フェルディナントへの同年7月の手紙には、
「何でも栄光に包まれて見えたあの時代は帰ってこない。
みじめな現実の運命の認識は、想像によって美化できる。」

ギュルケは、このような喪失感は、
現代に共通するものと言い張る。
遺伝子工学、コンピューター技術、メディア、仮想現実、
こうした勇ましい新世界では、今、ここにある聖なる憧れは、
不要なものになってしまう。

シューベルトはシュパウンにあてて、
「全てが陳腐化し、人々は満足すらしながら、
ゆっくりと深淵に落ちていく」といった手紙を書いているという。
(1825年7月21日)

このような共通性から、
現代の作曲家は、シューベルトの音楽が、
世界を詩のようにするものと考え出した。

このような流れで、いよいよ、
ピアノ三重奏曲第一番の解説となる。
「テーマや形式上のセクションも、明瞭に結合されて、
それらの扱いや有機的結合は、
スコアを詳細に検討しなくても、聴いていて分かりやすく、
ベートーヴェンとは違った行き方の典型的な例となっている。
シューベルトは、十分にそうした事の芸術的な価値を認識していた。」
と言う風に、曲が本能や無意識の産物ではないことを詳説している。

具体的には、その主題が、少しずつ、伸びたり縮んだりして、
また、テーマはブロックとして扱われ、推進力を獲得しているという感じ。
小さなフラグメントが繰り返され、テーマに含まれる動機が、
強調されたりして音楽が膨らまされ、
「ます」の五重奏曲の終楽章のように、
一つの持続音の停止から、主題が始まったりする。

ライカウはこう書いている。
「こうしたことはすべて、シューベルトが、
時間現象の深さを掘り当てようと企てたもので、
容赦ない時間の流れをしばらくやり過ごしたり、
ピアノの和音を鼓動のように響かせたりして、
他の作曲家には見られないようなやり方で時間に対処している。」
これらは、モーツァルトは単に厳格さを表わし、
ベートーヴェンでは、クレッシェンドを形成するためのもので、
「より良い世界に我々を運ぶ、神聖な芸術」という、
シューベルトのような視点はなかった。

それにしても、ハイドンの時代から、30年ばかりの間に、
何と、恐ろしい世界認識になってしまったことだろう。

ライカウは、ハイドンの解説では、
その機転に満ちた即興性と幻想について、
賛美していればよかったが、シューベルトにおいて、
音楽は世界を捉えるための重大な認識方法となるまでに発展している。

最初にライカウは、ベルクが、ヨハン・シュトラウスについて、
シューベルトとはまったく違う、と言ったことを引用したが、
最後に、改めて、ベルクの話題に戻って来ている。
憎い演出である。

こうした、シューベルトの音楽の持つ時間からの超越性が、
ヴィンナ・ワルツにもあって、
それは、
「単調な日々の生活から、遊離するような感覚」
を生じさせると書いている。

シューベルト自身、450曲もの舞曲を即興で書いていて、
そうしたものが大曲にもきらめいていて、
このピアノ三重奏曲の終曲にもそれがあると言うのである。

私は、最初にベルクの話があって、まさか、そこから、
このピアノ三重奏曲に繋がるとは思いもしなかったので、
正直、驚いた。一本取られた感じである。

しかし、ベルクの冒頭の言葉は、こうした意味で言った事ではないだろう。
あげ足取りも良いところであるが、冗談なのであろう。
「ベルクに文句を言ってやろう」などと、ふざけた口調を挟んでいる。

ギュルケも、この時間感覚には、
「河床」という言葉で触れているらしく、
「その音楽には、時間の川の流れがとどろいている」と、
その著書の中で書いているらしい。

先ほども、この三重奏曲の解析は難しくないとあったが、
スケルツォのリズムは、終楽章のロンドのリズムに変容し、
スケルツォのトリオ部と緩徐楽章のテーマには、
内的な関連があると解説されている。
確かに、この曲のスケルツォは、何だか機械的な感じがするが、
こうした重要な接続機能があったというわけだ。

最後にギュルケの本に、Alexander Berrscheが書いた序文からの引用がある。
「変ロ長調の緩徐楽章を聴きながら、
その主題について、何か明らかにしてみようとする。
その時、そのカンティレーナは、
何か幸福や羞恥の感覚を想起させ、
沈黙を強制し、心の耳に鳴り響く。
そして、それ以上のことは出来なくなってしまう。」

演奏は、冒頭から、幾分、ためらいを含みながら、
大きく歌う時には、余裕を持ってふくよかな感じが好ましい。
各楽器の音も魅惑的であり、技巧的にも音色的にも鮮やかな感じがする。
特に、緩徐楽章のように、憧れに満ちた部分の、
遠くに手を差し伸べるような表現には、大きな魅力がある。

が、この解説に連動しているのか、非常にシリアスな音楽となっている。
第一楽章の展開部など、何だか憑かれたような一途さが、
鬼気迫る緊張感を垣間見せている。

このCD、きっといろいろな示唆があるだろうと期待していたが、
このように、満足できる内容であった。

三ヶ国語の解説なのに、おのおの、
10ページ近くある解説というのは、
あまりお目にかかれないもので、
こうした研究と演奏がタイアップした商品というのは、
何か、畏敬の念すら覚えてしまう。

その手づくり感は、ジャケットにも現れているが、
ただし、ハイドンの時と同様、ちょっと怖い。

得られた事:「何事もないように見える日常が、暗黒の淵に向かっている事にシューベルトは気づいたが、その危機感を共有する後継者はいなかった。」
by franz310 | 2009-03-08 00:43 | シューベルト
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