excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 10月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


タグ:中世 ( 3 ) タグの人気記事

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その445

b0083728_2036278.png個人的経験:
今回、取り上げる、
「ワン・ヴォイス」と銘打たれた、
キャサリン・ボットが歌った、
「中世トルバドゥール、
トルヴェールの愛の歌」
(1995年に録音されたもの)
などは、
解説の書きっぷりが、
特に私には気になるがゆえに、
「嘘じゃないか」と感じてしまう一枚である。
(原題:Sweet is the song)


解説を書いた、ジョン・スティーヴンスという人は、
Song, Narrative, Dance and Drama, 1050-1350
という副題を持つ、
「Words and Music in the Middle Ages」
という著作もあるので、
相当の研究家と思われる。

ただ、このCD解説において、
トルバドゥールの音楽が、
「言葉と音楽の関わりという点で
他に例を見ないものである」
という事を強調するあまり、
「ハイネの最も優れた詩を見つけるのに、
シューベルトの歌曲を調べたりしないだろう」
などという、書かなくてもよかったであろう
余計な一言を付け加えたがゆえに、
妙に、私の気分は害された。

それはそうかもしれないが、
ハイネとシューベルトの関係もまた、
「言葉と音楽の関わりという点で
他に例を見ないものである」というのと、
同様の賛美と崇拝が
繰り返し書かれてきたし、
私なども、当然そうだ、
と考えてしまうからである。

それに加えて、この人は、
器楽伴奏無用論をここで熱弁していて、
「高尚な様式」で書かれた歌曲の旋律は、
途中で旋法が変化を起こすので、
「和音を付ける」ことは、
それらを変形してしまうことになる、
と、器楽伴奏が付くことを否定しているのである。

さらに、スティーヴンスは、
グレゴリオ聖歌をオルガンで伴奏するのも、
同様のこととして否定しているが、
これは、よく言われる事のようである。
とはいえ、私は、オルガン伴奏のグレゴリオ聖歌には、
何となく、ノスタルジックな感傷を覚える。

それにしても、このキャサリン・ボットのCDは、
少なくとも私には評価が難しい。

グレゴリオ聖歌のような禁欲的な場ではいざ知らず、
基本的に宮廷という華やかな場で歌われた歌曲が、
本当に、一人の歌手だけで歌われたのだろうか。
しかも、スティーヴンスも、
舞曲の時には、器楽が登場したことは認めている。

b0083728_20451914.pngやはり、ワン・ヴォイスは、
無理があるのではないか、
などとも考えて、
当時の歴史を振り返るべく、
「十二世紀のルネサンス」
と歴史家が呼ぶ時代を活写した、
石井美樹子著「王妃エレアノール」
(十二世紀ルネッサンスの華)
(朝日選書)を読んでみた。

トルバドゥールの祖とされ、
十字軍にも参加した、
南西フランスのアキテーヌ公、
希代の傑物、ギョーム9世は、
このエレアノール(アリエノール)の
祖父である。

この本を読むと、フランス王妃でありながら、
英国王のもとに走った、
エレアノールという女性の生きざまが、
その時代と共に身近に感じられる。

改めて驚くべきは、
その行動力と活動の範囲で、
最初の夫、ルイ7世とは、
はるばるイェルサレムまで行動を共にし、
次の夫、ヘンリー2世とは、
英国から地中海を縦断する大帝国建設を夢見、
息子リチャード獅子心王が、
さらなる十字軍に参加する際には、
シチリアまで送り出しに行き、
スペインの孫娘を嫁がせるために、
ピレネー山脈を越えた時には、
80歳に近い高齢であった。

このように、一人の女性が、
いわば、地中海を庭のように動き回った時代、
当然、アラブの音楽などが、
巷に溢れていた事は疑う余地がなく、
その多彩な楽器の音色なしに、
華やかな宮廷ライフが営めたとも思えない。

何と、王妃は、来賓であるヘンリーの部屋に、
こっそり忍んでいくという描写もある。
このような状況下で歌われる恋歌であれば、
やはり、伴奏者を伴う事は出来まい、
などと、ワン・ヴォイスである理屈が見つかったりもする。

表紙に用いられた絵画は、中世の彩色写本風で、
男性が何かを、高貴な身なりの女性に手渡して、
そこそこ、このトルヴァドール的な世界を暗示している。

Track1.の
ボルネイユ作「栄光の王」からして、
前回聴いたデュオ・トロバイリッツのCDと、
曲目がかぶっていて、
日本語訳を眺めながら比較できる。

このタイトルから連想されるような、
栄光の歌ではなく、この曲は、
「恋する男の親友が『見張り番』の立場から歌う」
朝が来て、危険が迫ることを告げながら、
神様に友人を救ってほしいと、
祈っているような音楽で、
このボットの独唱で聴くと、
特に、非常に物悲しい詠嘆に聞こえる。

一方、デュオ・トロバイリッツのものは、
この曲をトリスタンとイゾルデの物語になぞらえ、
最後の詩節にヴィーン版なるものを採用、
「このような貴重な時に比べれば、
僕なら夜明けも昼も要らないだろう」
という部分も歌われていて、
ここは、トリスタンの独白だという。

つまり、見張りの親友の心配をよそに、
イゾルデの傍にいるトリスタンが、
「それがどうした」と言っているといった、
正反対の切り口の歌と解釈されている。

このデュオ・トロバイリッツ盤、
ハーディーガーディーの、
瞑想的な響きの伴奏もあって、
もっと、楽観的、耽美的な情景。

「母親から生まれたすべての女性の中で、
もっとも高貴な女性を胸に抱き、
気違いのような嫉妬も、
夜明けも知ったことではない」という、
何とものろけまくった、
ずっとけだるく陶酔的な音楽。

今回読んだ「王妃エレアノール」では、
フランス王との性格の不一致に悩む
王妃自らが、前述のごとく、
若い貴族の泊まっている部屋に、
足を運ぶ設定になっているが、
これまた、欲望の肯定というか、それがどうした、
という感じは、この本からも読み取れたイメージだ。

このように、貴婦人のもとで、
こっそり、愛を語りかけるのが、
トルバドゥールの歌だとすると、
鳴り物がない方がそれらしい、
と考えさせれた一曲である。

伴奏があるかないかは、二の次で、
このように、ボットの歌唱と、
デュオ・トロバイリッツの演奏とでは、
かなり、情感的にも違いがありそうだ。

ボットの声は、
あまり澄んだものでも、
色香があるものでもなく、
少しハスキーな要素があって、
この雑味が、逆に、中世的な奔放さ、
エレアノールの気丈な様子を、
なんとなく想起させて良い、
とも言えるかもしれない。

b0083728_20365682.jpgなお、この曲は、
トルバドゥールの
代表曲のような感じで、
入手しやすいNAXOSレーベルの
アンサンブル・ユニコーンと
アンサンブル・オニ・ウィタルスによる
「トゥルバドールの音楽」というCDにも
収録されている。

これは、1995年の録音である
ボットのCDの翌年の録音であり、
ジョン・スティーヴンスの説が、
必ずしも一般化していなかった事の証拠でもある。

実は、このNAXOSの盤などは、
アラブ風の味付けの最たるもので、
ボットの「ワン・ヴォイス」の対極として、
両方、聴いてみた方が良い。

何と、このCDでは、器楽曲として演奏され、
しかも、チャルメラでぴょろろーと、
鼻にかかったようにメロディを演奏するのみならず、
太鼓がどんどこ打ち鳴らされ、
大奥から影の支配者登場といった風情である。

おそらく、このCDを聴けば、
いや、いくら何でも、これは違う。
ワン・ヴォイスの質素も悪くないな、
と考えるに至るはずだ。

しかし、このNAXOS盤は、
聴くべき要素は満載で、
芝居の情景のようにばか騒ぎの中から、
歌が沸き上がるような演出の曲がある一方で、
敬虔な祈りの独唱もあって、
シンプルなハープの弾奏の中から、
ボットの声より挑発的に刺激的な声、
あるいは蠱惑的な声が浮かび上がる。

中世というより、
ずっと現代的な手法を感じるが。

NAXOS盤の解説の初めの方を読んで、
このトルヴァドールの音楽について復習すると、
以下のようになる。

「トルヴァドールの詩や歌は、
初期のヨーロッパ世俗音楽のレパートリーとなっている。
南フランスのオック語文化の伝統による詩人や音楽家を、
これは少し後に北フランスで花開いたものと区別し、
一般に前者をトルヴァドール、後者をトルヴェールと呼んでいる。
12世紀、13世紀のトルヴァドール自身は、
概して、19世紀に想像されたような、
放浪のミンストレルではなく、
国王であったり、王子であったり、
貴族であったり、しばしば高貴な身分で、
その地所を離れることもなかった。
これらの詩人に混ざって、
社会的身分の低いものもおり、
商人や交易業の息子たちもいた。」

これでは、まったく、
その音楽の特徴や
演奏が狙うものまでは分からないが、
確かに、この時代の音楽は、
教会音楽などが残っていることはあっても、
世俗曲が残っていることは少ないので、
レパートリー(演奏可能で現存するもの)
という書き方はなるほどと思った。

音楽史を研究するものでなくとも、
興味がそそられる分野とも言える。
いったい、当時の人たちは、
どんな音楽に、
日ごろ、心を動かされていたのか。

「しかし、彼らはすべて、宮廷の慣習や、
理想化された愛、その喜びや悲しみといった、
宮廷風の概念に影響されていた。
その他の主題も網羅されており、
政治的なもの、風刺的なもの、
悔やんだもの、みだらなものがある。
トルヴァドールの言語はオック語という、
地域の言語とそれに近い方言で、
これは、トルヴェールによって、
大きく変えられてしまった。
トルヴァドールの活動は、
カタロニアやイタリアにおよんだ。
多数のトルヴァドールの詩が残されており、
単声のメロディとリズムやパターンが、
詩句とセットになっている。」

ということで、ここまでは、あまり、
アラブの影響のような事は書かれていない。

しかし、Michael PoschとMarco Ambrosini
という人は、最後に、「解釈」という項を設け、
前に読んだ、セクエンツィアのバグビー同様、
以下のような釈明をしている。

前者はここで演奏している
アンサンブル・ユニコーンのディレクターであり、
後者は、共演している
アンサンブル・オニ・ウィタルスの創設者である。

「トルヴァドールの音楽や言葉は、
それらで表現されたものと共に、
何世紀もの歴史の中で重要さを失うしかなかった。
現代においては、
南フランスやカタロニアの音楽的、詩的文化にのみ、
その影響が、特に民謡などに見て取れるだけである。
このレパートリーの真の理解に、
理想的な解釈者となる人物を探す中で、
我々はマリア・ラフィッテを選んだ。
彼女は、カタロニア歌曲の最も重要な歌手の一人で、
古楽アンサンブルとの共演の長い経験、
地中海のロマンス語の分野への深い研究経験が、
その詩的表現法、解釈の深さに結びついている。」

これには驚いた。
何と、彼らは、自分で研究したというより、
一人の女性歌手を選んで、その解釈を頂いた、
という立ち位置だというのであろうか。

秘境から連れて来られた、
古老のような存在かと思ったが、
ネットで調べると、1902年に生まれ、
1986年に亡くなった、ハイカラさんが出てきて、
「スペインの貴族、作家、
美術批評家、女性の権利活動家、
および女性の社会学研究におけるセミナーの創立者」
とあった。

さらに不思議なのは、このCDで歌っているのは、
Maria D.Laffiteという名前の女性で、
先のマリア・ラフィッテの間に、Dが入った点のみが異なる。
同一人物ではありえない。
録音の辞典でさっきの大物の方は亡くなっているのだから。

この人も調べると、2008年に亡くなっていた。
非常に魅力的な声で魅了してくれていたのに、
残念なことである。

1949年生まれであるから、
60歳を前に若くして逝ったという感じだが、
年齢関係からして、本家の娘ではあるまい。

いったい、どっちのマリア・ラフィッテの解釈だと言うのか。
前者は世界大戦前の人で、いかにもと思わせる。
長命だったし、それっぽいが、都会人っぽすぎる。
そもそも音楽の筋の人ではない。

後者はオック語の伝統を受け継ぐにしては最近の人だ。
だが、完全に音楽関係者である。

解説から離れて、CDの音楽に耳を澄ます。
歌っている本人の勢いからして、
どうやら、後者の解釈と考えるべきであろう。

とにかく、こういった民族音楽的系統の解釈であることは、
CD内に明記されていたということになる。
続きを読んでみよう。あと、半分ある。

「この音楽は現在も生き続けている伝統
という信念のもと、
地中海音楽の継続している伝統と、
古楽のフィールドの要素からの、
解釈に行き着いている。
アンサンブル・ユニコーンと、
これら二つの流派のトレンドを代表した
オニ・ウィタルス・アンサンブルのコラボが、
非常に効果的なことが実証された。
良く検証された歴史的研究と、
即興の広範な自由さと、
様々な楽器と厳格なテキスト由来のアレンジで、
この録音には、詩的な豊かさと、
生き生きとした豊かな色彩が与えられた。」

このように、「アラブ的」ではなく、
地中海的という視点で演奏されており、
その視座から言えば、
「王妃エレアノール」が、
持っていたであろう世界観であろう。

これらの解釈は、ある意味、
ラフィッテの妄想の世界かもしれないが、
その彼女も亡くなってしまった今、
改めて、このCDは、
ここに書かれているとおり、
詩的かつ色彩的な音楽が充満した、
非常に価値あるものと思われる。

そもそもクラッシック界と民族音楽の
クロスオーバー的演奏が、
こうした形で出たとしても、
別におかしくないし、おかしいと思う方が、
何だかおかしい、と考えてしまった。
少なくとも、二つの楽団と、そのリーダー、
さらには、多彩な歌や語りを聴かせて、
年季の入ったその筋の歌手が、
それぞれの意見を持ち寄って、
至った結論がこれだとすると、
納得せざるをえないような気がしてきた。

ボットのCDの解説を書いた、
ジョン・スティーヴンスは、
こうした想像力の広がりを否定できるだろうか。

ちなみに、これらの楽団についての解説も見ておこう。
オニ・ウィタルスは、
中世、ルネサンス期の音楽と
アラブとトルコの伝統音楽を演奏するために、
オーストリア、ドイツ、イタリア、イラン、ハンガリー
イギリス、スペイン、アメリカからメンバーが集まり、
1983年に作られた団体で、
中世・ルネサンスの西洋の楽器や、
現代に伝わるアラブや東欧の楽器を駆使するという。
東洋と西洋、古楽と現代を結び付けようとしている。

創設者のアンブロジーニはイタリアに生まれ、
弦楽器や作曲を格式高い音楽院で学びながら、
ジャズの作曲家であり、演奏家であるとも書かれている。

また、アンサンブル・ユニコーンは、
新しい解釈で、中世、ルネサンスの音楽を演奏する団体で、
オーストリア、イタリア、ドイツからメンバーが集まった。
その演奏の技量で、歴史的に裏付けられた即興を得意とし、
楽団員自らが、研究を重ねているとある。
オーストリア政府からの援助もあるというから、
かなり期待された楽団のようだ。

主催者ポッシュは、1969年生まれのオーストリア人で、
やはり、厳格な音楽教育を受けた人で、専攻した楽器はリコーダー。
クレマンシック・コンソートや
コンツェルトゥス・ムジクスとも共演したらしい。

ヴィーンで古楽を教え、そこでのディレクターだとある。
とんでもない権威ではないか。

「栄光の王」の作者たるボルネイユの名では、
このNAXOS盤にはもう一曲あるが、
これとて、この演奏ならではで、
「歯の痛みを抑えられない」という題名のとおり、
とにかく大騒ぎしてやかましい。

Track2.
キャサリン・ボットのCDに戻る。
NAXOS盤に比べ、このワン・ヴォイスが、
すべて、そんな風に辛気臭いかというと、
そんな事はなく、2曲め、
ド・モーの「夫は嫉妬深くて」は、
田舎者の夫より、
「礼儀正しい陽気な恋人」が欲しい、
という、いかにも、という小唄。

まさしく、辛気臭いフランス王の元を去った、
エレアノールのような状況の若妻が喜びそうなもの。
これは、宮廷風民衆歌だとされている。

ただ、この作曲家(詩人)は、
13世紀の人とされていて、
エレアノール(1122-1204)とは、
少し時代がずれている。

Track3.は、
一人、遠くに思いを馳せる独白調、
なだらかな美しい曲なので、
無伴奏でも良いかもしれない。

リュデル作の「五月」という歌曲で、
この季節、遥かな恋が思い出される、
というロマンティックなもの。
「ああ、巡礼であったなら」といって、
感極まって舞い上がるメロディは、
まことに自然で内発的で美しい。
格調高く、解説に、
「宮廷風本格歌曲」とある理由が肯ける。

この曲は、NAXOS盤にも入っていて、
最後に置かれて、17分半もの大舞台を繰り広げる。
ボットのCDでは6分強の演奏時間である。
ラフィットの個性的な声が、
残響豊かな空間に広がり、
様々な楽器が恭しく登場する。

ヴィーンのW*A*Rスタジオでの録音とあるが、
いったい、どんな空間なのか。

歌はますます熱気をはらみ、
何だか、祈禱の場にでも
居合わせているかのような迫真のドラマに、
思わず、歌詞を読み直してしまった。

「神の愛により、遥かな恋を乞う時、
どれほど楽しいことだろう」などと、
確かに神に祈るような歌詞も見えるが。

ハチャトゥリャンのピアノ協奏曲に登場する、
フレクサトーンのような、
不思議な音色の楽器が導く間奏曲は、
かなり長大で、笛や打楽器によって高まり、
リズムの刻みも激しく、
再び、熱気をはらんだ祭典が続いていく。

さらには、語りも入り、
南フランスの古い歌というより、
古代地中海の秘儀といった雰囲気だが、
録音も良いし、何でもよいから浸ってしまえばよい。

ボットのCD、Track4.は、
ブリュレ作、「やるせない」も、
同様に、格調高い「本格歌曲」だが、
メロディに跳躍があって、
器楽伴奏があった方が歌いやすいと思われる。

「新鮮なメリスマ風旋律」とされているが、
「フランスで最も美しい麗人よ」と、
こんな節で歌い上げられたら、
高貴なご婦人も、ほほを染めるかもしれない。

この曲は、「本格」とされるだけあって、
6分とか8分とか、かなり長い曲で、
自分が夢中であること、不安であること、
友人が裏切ったこと、イエズス様に祈ること、
あまり核心的でもないことも含め、
いろんな事がつべこべ歌われている。

解説に、この人はトルヴェールだったとある。


Track5.のル・バタール作、
「真の愛は」は、小唄風で楽しいが、
「常套句が連続する」と書かれているように、
「フランスで最も麗しい人」に、
美辞麗句を連発したものだ。

Track6.に、有名な、
「雲雀が喜びのあまり」という、
ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの曲が来る。
この作者は高名であるがゆえに、
様々な演奏で聴けるが、
このボットの歌唱は、非常に物悲しい。
繰り返し、繰り返し、物悲しさが、
強調されて、気が滅入るほどである。

雲雀が陽に向かって夢中で羽ばたいて、
我を忘れて落ちるのが羨ましい、
という内容で、本格歌曲だけあって、
愛さずにいられない苦しさ、
無力さ、女性への恨み、
絶交だ、さすらいだ、と、
あらゆる恨みつらみが披瀝され、
6分半もかけて歌われる。

解説は、この曲に多くの分量を割いているが、
この繰り返しの厳格な様式を説明し、
かつ、同じ言葉を繰り返さない、
語り口で巧妙に変化するリズムなどと共に、
宮廷風の落ち着きのある拍子を特筆しながらも、
「変化が乏しい」ということは認めているようだ。

これらの歌曲は、「有節歌曲」であるが、
繰り返されることに意味があり、
旋律が言葉の響きを写しているわけではない、
などと、シューベルト歌曲では、
それではいかん、と書かれていたような事が、
むしろ特筆されているのが興味深い。

「それらは、ロマン主義的な意味における
ラヴ・ソングではなく、愛についての歌」
という、マーシャルという人の言葉が引用されている。

自問自答を聴き手と共有する儀式のような芸術、
という事であろうか。
妙に哲学的な解釈であるが、だとすれば、
器楽の伴奏など不要、禅問答のような世界なのだろうか。

NAXOS盤でも「儀式」という言葉を使ったが、
この時代、何らかの交流が行われるための力が、
音楽には求められていた可能性は高そうだ。
NAXOS盤のTrack6.
「鳥たちは歌っていた」(リュル)では、
壮絶な太鼓の連打が繰り返さるが、
この反復の中には、明らかに忘我の瞬間がある。
ただ、こうした音楽は、
どのような空間で鳴り響いたのだろうか。

ボット盤、Track7.作者不詳の「可愛いヨランツ」。
これは、シンプルな「お針歌」であるが、
ちょっと、戯れ歌にしては、
ワン・ヴォイスでは華やぎに欠ける。

裁縫をしながら女性が口ずさむ妄想の愛。
しかし、この歌では、恋する彼が本当に来て、
寝床にまで行ってしまう。

Track8.ディア伯夫人作、
女性の歌として珍しいらしい。
「宮廷風恋愛歌曲」の人気作、
「嫌なことも歌わなければ」という、
へんてこなタイトル。

嫌なら歌わなければ良いではないか、
という気持ちもあるが、歌詞を見ると、
「言いたくないけど、言わせてもらう」、
みたいな内容。
あなたの冷たさに傷ついていることを、
どうして、あなたは分かってくれないの、
と、手紙に認めている。
独白調のメロディもそれらしく真実味があり、
この曲などは、伴奏はなくても良い。

Track9.ナヴァール王作。
次々に、高貴な作者が現れるところが、
トルバドゥールたる所以だろうか。
この前に聞いた、トロバイリッツのCDは、
作者不詳が多すぎた。

この王様による、
「神はペリカンのようだ」という、
突飛なタイトルながら、
教会の偽善を描いた宗教的なものらしい。

確かに、きつい厳しい言葉が乱舞するが、
これなどは、ワン・ヴォイスでは、
いささか迫力不足ではないだろうか。
誰が聴く事を想定した歌なのだろう。

Track10.フルニヴァル作は、
「愛された時、愛しませんでした」という、
魅惑的なタイトル。
失った愛の後悔を切々と歌う。
これは、「ああ、わたしはなぜ生まれたのでしょう。
自尊心から恋人を失ったのです。」
といった結尾の句を彩る絶唱系が胸を打つ。
非常に繊細な言葉の抑揚が、
古からの身近な情感を駆り立てて美しい。

Track11.ボルネイユ作。
「もし助言を求めたら」は、
愛を巡っての助言を求める、
ギラウトとアラマンダの対話形式なので、
もっと鳴り物があってもよさそう。

Track12.ファイディト作、
「何とつらいことだろう」は、
獅子心王、リチャードの死に寄せる哀歌。
この曲は、非常に有名だが、9分半にわたって、
シャルルマーニュやアーサー王に比し、
異教徒を恐れさせた王の生涯を歌った演奏、
そして、何の伴奏もない例は、他に知らない。

「もはや聖地を奪回できる王はいない」と歌われ、
「勇敢なご兄弟、ヘンリーやジョフロワ」にまで触れ、
これは、まさに、
「王妃エレノアール」が最も愛した息子であり、
そして、まさしく、この兄弟争いから、
どんどん、帝国が崩壊していくさまを描き出し、
十字軍の最終的な失敗まで描き、
先にあげた物語を読んでから聴かなければ、
よく分からないような内容が、
ばっちりと描かれ歌われている。

得られた事:「伴奏なしが正しい再現とするボット盤、民族楽器も交えての激しい色彩感のNAXOS盤、共に、祈りと忘我があり、完全には否定しがたいトルヴァドールの音楽。これら両極端を聴いて、この中間のどこかにある、中世南仏に生きた人の感情の高ぶりを空想する。」
「トルバドゥールやトルヴェールの歌は、自問自答であるがゆえに有節歌曲であり、その反復の中から精緻な愛を聴き手と共有する禅問答であった。」
「ディア伯夫人作『嫌なことも』や、フルニヴァル作『愛された時』などは、愛への省察の細やかな語り口が、その言葉の抑揚と共に心を打つ。リュデルの『五月』では、二つのCDの差異の聞き比べに好適。」
[PR]
by franz310 | 2017-10-09 20:48 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その444

b0083728_20403555.jpg個人的経験:
「デュオ・トロバイリッツ」
という二人の女性音楽家による
「愛の言葉~
トルバドゥールと
トルヴェールの歌」
というCDを聴くまで、
南仏のトルバドゥールと
北フランスの
トルヴェールとの違い、
そもそも言葉まで違うなど、
あまり意識していなかった。


今回は、ざっと、
このトルヴェールの勉強をする。

当時の歴史を紐解くと、
フランスは分断状態にあって、
そこから、英仏百年戦争という、
時代に突入することも含め、
これらの違いは音楽史ではなく、
西欧史のスケールで理解される。

確かに、古株、セクエンツィアなどは、
これらをはっきり分けてアルバムを作っており、
「北フランスの宮廷の愛の歌、
C.1175-1300」と題して、
トルヴェールだけでCD2枚分収録している。

一角獣の絵は、
15世紀末フランドルのタピスリーが有名だが、
このセクエンツィアのCDの表紙は、
ずっと古拙で、
「ユニコーン」と題された、
大英図書館にあるとされる
「ロチェスター動物寓意譚」から。

1230年頃(から14世紀までの間?)
のものとされるので、
みごとに、このCDの音楽に合っている。

ユニコーンは処女を好むので、
この図では、それを囮にして、
狩人が、剣を突き刺しているが、
すでに、この伝説上の動物は、
息絶えているようにみえる。

この魔獣の角には、
様々な効能があったというから、
共犯の女の方も、
殺された獣に対する同情はなさそうだ。
そもそも、キリスト教の規則はあっても、
野卑なイメージが先行しがちな中世、
動物に対して、
どれぐらいの同情があったかは知らないが。

このセクエンツィアという団体は、
結成が、スイス、バーゼルで、1977年と古く、
多くの録音をドイツ・ハルモニアムンディから出していたが、
何故か、アメリカ人が作った団体で、
ベンジャミン・バグビーという、
1950年生まれのイリノイ州出身の男性
(ハープ、声楽、作曲、音楽学担当)と、
バーバラ・ソーントンという、
同年生まれのニュージャージー出身の女性との
カップルが中心であった。

だいたいの写真では、
さらに、マルグリエット・ティンダマンという、
オランダ出身の女性と3人で、
「セクエンツィア」とされて写っている。
このCDもそうだが、多くの場合、
さらに数人のメンバーが参加しているようで、
かなり変則的な活動が可能な団体のようだ。

「現代最高の中世の声」とされた、
ソーントンは、何と、48歳の若さで、
手術不能の脳腫瘍で苦しんだ末に亡くなっており、
もっぱら弦楽器系を担当した
ティンダマンも2014年に亡くなったので、
この初期の代表メンバーは、
もう、神話上のレジェンドになってしまった。

しかも、このCDなどは、1982年の録音、
彼らが30歳そこそこで録音したものなので、
CD解説などに残された画像は、
若々しく、永遠の青春を刻んだような形になっている。
どの音楽の解釈も、風通しがよく上品で、
中世ヨーロッパに憧れる、
新大陸の若者の生の心情が宿っているかのようだ。

こうした活きの良い若者たちだった彼らにも、
古いフランス語の問題が立ちはだかっており、
発音も再現不可能だったようで、
解説には、「厳格に科学的」ではない、
と断りを入れている。

逐一、文字に落とされているはずの
「詩」からしてそうなので、
「音楽」の方も、彼ら独自の解釈、
彼ら独自の再現となっているのだろう。

バグビーは、自らが信じた世界に浸りきって、
前面に立って、自らの声を響かせているが、
学者でありパフォーマーであり、
はったり興行師でもある、
といった感じだろうか。
多くのトルバドゥール、
トルヴェール系のCDが、
10曲程度で小ぢんまりとまとめてある中、
何と、2枚43トラックもあるのがすごい。

バグビー自身が書いた解説を読んでみよう。
これは、日本で発売された時には、
割愛された感じになっているが、
演奏者自身の言葉が読み取れて貴重だ。

「トルヴェール(『発見』とか『発明』に当たる、
trouverに由来)は、
12世紀から13世紀に活躍した
詩人/音楽家の総称で、
その詩は、南フランスのトルバドゥールの
オック語(オシアン)ではなく、
オイル語(今日、古フランス語として知られる)
で書かれている。
これらのシャンソニエのほとんどは、
そのうちの少なくとも1700に、
メロディが付けられた
何千もの詩が集められた、
詩集にある手稿をもとにしている。
これに加えて、
ポリフォニーの世俗音楽、
2部、3部、
場合によっては4部のものさえある、
モテットが含まれているが、
その多くはオイル語で書かれている。
この録音プロジェクトは、
『13世紀フランスの伝統と前衛』と
題された、
12世紀後半のトルバドゥールの伝統による、
初期のトルヴェールから、
1300年頃のパリの音楽シーンまで、
限られた時代の音楽スタイルを探求した、
コンサートのプログラムに、
端を発したものだ。
この録音は、このテーマを拡大し、
モノフォニック、
ポリフォニックな世俗音楽の両方にも、
重要な視点から選曲したものだ。
一見、同種のように見えるレパートリーに、
様々な音楽スタイルがあったことを、
デモンストレーションすることが、
目的の一つであった。」

このような目的ゆえに、
様々な音楽を集成する必要があり、
それが、2枚組、全43トラックという、
大きなプロジェクトに繋がったようだ。

「幾世紀もの時を隔て、
原典の情報不足もあり、
旋法のリズムとか、朗唱風のリズムなど、
名称のみで論争の種になっている揃いの音楽が、
もっと幅の広いものであって、
明らかに規定されたものであると推測する試みとなった。
あるいは、オック語という詩的な言語が、
多くの方言同様、地域性の強いもので、
もっと言うと、ある文化に根差していて、
音楽の演奏も地域密着で、
多種多様であったと思われる。」

恐ろしく冒険的なプロジェクトである。
一人の作曲家の作風の変遷や、
それが、どの音楽家によって、
どんな風に演奏されるか、
などという次元の話ではない。

どれもこれも誰も見たことも聴いたこともない、
千年近く前の音楽を、
その地域ごとに解釈するというが、
その地域の言語も文化も、
すっかり歴史の闇に霧散している可能性が高い。

「第1部は一人の作曲家に焦点は当てず、
初期トルヴェールの音楽活動の
多彩さをカバーしようとした。
もっとも初期のフランス語、
ラテン語のモテット、
クラウズラと器楽曲と共に、
下級の貴族が作った詩による
シャンソン・デ・トワルが含まれている。
ここには、女性視点での
編み物歌や糸紡ぎ歌があって、
女性が語る形のモテットを補足する。」

この第1部というのは、この2枚組CDの、
最初のCDのTrack12までが相当する。

なお、このさらっと書かれたクラウズラという曲が、
このCDには大量に収められているので、
これを確認しておく必要がある。

日本盤は金澤正剛氏の詳細な解説が貴重だが、
これによると、
9世紀に始まるポリフォニーは、
パリで発展し、聖歌の旋律に
対旋律を付けて発達。
それをオルガヌムと呼び、
その一部を修道士たちが楽しんで演奏して独立、
クラウズラという新しい音楽が出来、
何と、それに歌詞を付けて歌うと、
モテットになるのだそうだ。

モテットを単に、宗教的な歌曲と考えていたら
いかんかったという事である。

Track1.冒頭に置かれたベチューヌ作、
「あまりに愛したために」の、
豊饒、華麗な序奏からして、
ものすごく眩惑的な響きで、
聴く者の時間感覚、空間感覚をおかしくしてしまう。

いったい、これは、どんな場所で演奏されたのか、
と思うくらいに、
ハーディ・ガーディの音響の渦が押し寄せ、
あちこちでハープがきらきらと輝き、
まるで、洞窟か何かの中での、
超俗的な体験を経たような感じになる。
バグビーが歌う歌は、
しかも、妙に教訓的で、
愛の体験、特に苦しみを、
もっともらしく述べているだけのこと。

Track2.の器楽曲間奏を経て、
Track3.では、ソーントンが、
巫女のような声を響かせる。
「窓辺に座る美しいドエット」は、
トロバイリッツのCDにも入っていたもの。
ただし、セクエンツィアのCDでは、
曲想が盛り上がってくると、
女声3人が声を合わせて重なり、
ずっと、痛ましさが劇的となる。」

ドエットが窓辺で本を読んでいた時、
恋人の遺品が届けられるという内容のもの。

トロバイリッツのCD解説では、
こう書かれていた。
「Track10の
作者不詳『美しいドエット』と、
(トロバイリッツのCDの)Track5の
作者不詳『泉のそばの庭園で』は、
Chanson de toileの好例で、
物語の主人公が女性である。
このタイプのものは、
女性が糸紡ぎをしていたり、
窓の外を見ている時の恋人への夢想である。
『美しいドエット』は本を読んでいるので、
いくらか教養ある婦人である。
この非常に感動的な歌は、
魅力的なメロディを持ち、
痛々しい言葉によるもの。」

トロバイリッツのCDでは、
嫋々と弾かれるハーディーガーディーが、
まるで、中央アジアの弦楽器のような嘆き節を響かせ、
切々と歌われ、セクエンツィアよりアラブ風でもある。
セクエンツィアの盤では、器楽伴奏はない。

「本を読んでいるように見えるが、
心はそこにない。
トーナメントのために異国に行った恋人を思っている。
しかし、帰って来たのは、従者と、恋人の鞍袋」
という、悲劇を扱っているのだが、
「鞍が帰って来た」という、妙に生々しい記載も、
セクエンツィアの日本語解説の歌詞にはなさそう。

Track4.にモテット、
「私を眺めるなら」が来るが、
これは、「世俗的なシャンソンの旋律を
定旋律に用いた3声のモテトゥス」
と解説されているように、
おいおい、聖歌が定旋律ではないのか、
突っ込みを入れたくもなるが、
とにかく、しなやかにハーモニーをなす、
簡潔な戯れ歌という感じ。
「自分を眺めている男は眼中にない」
という、いかにも女子の会話を聴く感じ。

Track5.「定旋律『あたかもそのように』
にもとづくクラウズラとモテトゥス」という、
9曲の小品からなる楽曲で、
クラウズラは器楽曲、モテトゥスでは歌が入る。
しかし、これらのモテトゥスは、
定旋律が同じであるだけで、
いろんな歌詞が歌われる。
そればかりか、楽器や声楽の技法も様々で、
ものすごく面白い。

Track6.の少し長めのエスタンピー
(これまた、ものすごく豊穣なもの)を経て、
Track7.の「美しいヨラン」は、
またまた、糸紡ぎ歌である。
女声合唱的な扱いで歌われている。
これは、キャサリン・ボットのCDで、
ワン・ヴォイスで歌われているものだ。

Track8.「定旋律『栄えのみ子』にもとづく
クラウズラとモテトゥス」も、7曲の小品だが、
モテトゥスが、「海辺の三姉妹」とか、
「美しいアリス」とか、「花よりも美しく」とか、
いかにも歌詞からして雅なもので、
器楽のクラウズラを挟みながら、
とても楽しく聴ける。

Track9.ガス・ブリュレ作、
シャンソン「故郷への想い」で、
異郷にいる自分の立場の危うさを歌い、
十字軍遠征時のものとされる。
簡素ながらしみじみとした音色のフィデルを伴奏に、
遥かな故郷に向かって訴えるような、
ソーントンの美しい声が堪能できる。
遠く離れた妻に、誹謗中傷を信じるな、
と歌いかけるものなので、
本来は男性の歌なのだろうが。

Track10.の異郷風の器楽曲を経て、
Track11.ブロンデル・ド・ネル作のシャンソン、
「誰も歌ったことはない」。
これは、ハープの思わせぶりな序奏や、
とぎれとぎれな伴奏からも、
70年代の日本の歌謡曲を連想してしまう。
これは、ほとんど、この団体の創作なのではないか。
歌の方は、詠嘆するような、
とりわけ特徴もないものだが、
この伴奏によって得をしている。
ただし、この作曲者は、リチャード獅子心王を、
救出した伝説を持つらしい。

Track12.作者不詳の短いモテトゥスが、
早口で輪舞するように歌われる。
内容は、パリで、美しいイザベロにぞっこんになった、
という他愛ないものだが、
めまぐるしいポリフォニーの渦で、
新しい様式の到来を感じる。

「第2部は、ほとんど、
ある作曲家の抒情詩を中心にしている。
アダン・ド・ラ・アルについては、
近年の演奏家から、
3部のロンドーやモテット、
『ロビンとマリオンの劇』で知られているが、
モノフォニックな作品の方は、
見過ごされており、彼の膨大な作品は、
当時のあらゆる詩形を含んでいる。」

この第2部は、
CD1のTrack13~19と、
CD2のTrack1~12に相当する。
上述の解説のとおり、
アダンの作品から、ロンドーというものが、
たくさん出て来るが、
これらは多くはいずれも、
1分以内で終わってしまう小品である。
それに短い小粋な器楽曲が挟まって、
どんどん進行していく。

ロンドは一般にABAC・・と主要な部分を繰り返すが、
ここでは、ABaAababといった形式で、
CD13.「やさしい恋人が」などは、
まるでアジテーションしているだけのような感じ。

作曲家のアダン・ド・ラ・アルは、
1237年頃に生まれた人とあるから、
トルバドールの祖の孫娘とされた、
1122年生まれのアリエノール・ダキテーヌからも、
100年以上あとの人ということだ。
フランスの全土を回復した、
アリエノールの宿敵フィリップ征服王も、
亡くなった後の世代ということになる。

パリの人らしく、世俗歌曲に、
ノートルダム楽派のポリフォニーの技法を
取り入れた人だとある。

ナポリまで行って活躍したとか、
最初のオペレッタとされる
「ロバンとマリオンの劇」の作者として、
広く知られているらしいが、
私はよく知らなかった。

CD2のTrack.1
「生きている限り」からして、
デヴィッド・マンロウの
「ゴシック期の音楽」を思い出すような、
無重力感あふれる
精妙な響きが楽しめる。
「きみ以外の人を愛しはしない」と続き、
基本的に上述のような繰り返しの8行で終わる。

Track3.のモテトゥス、
「愛を賛美するものもいる」なども、
ロンドーのように簡潔ではない歌詞ながら、
同様に、短い楽句があぶくのように現れては消え、
他の声部が繰り返して、
不思議な上昇感に揺蕩ってしまう。

「第3部は、13世紀後期の、
都市中心から現れた、
『新音楽』を含んでいる。」

この第3部は、
CD2のTrack13~24に相当する。
意識しながら聴くと、これは確かに、
そこに、フレッシュな空気の流れがある。

ここでは、バラードというのが登場している。
有節形式で詩節の内部に
aabの繰り返しが現れたものだという。
必ずしも、シューベルトの「魔王」のような、
物語詩ではないようだ。
ネットで調べると、明確にトルヴェールが始祖とあり、
ゲーテが、このような詩を真似して、
物語性のあるものにしたように読める。

「不運な若いパリの聖職者、
ジョアンノ・ド・レスキュレル
(1304年、放蕩罪で絞首)
新しいメロディと和声のスタイルを、
目覚ましく発展させ、
比較的明快なリズム表記を編み出した。
彼の作品の一つ、
『やさしく甘いあなたに』
(CD2のTrack21.)は、
独特な3パートからなる版の他、
モノフォニック版が残されていて、
これらから私たちは、
彼の他のモノフォニック記譜の作品の
解釈を行うために
レスキュレルの独自の和声の語法を
理解することが可能となる。」

日本語解説にも、「美しい旋律の流れ」が特筆されているが、
ロンドーである、この曲も、無機質な泡立ち感よりも、
かなり、普通の人間が歌う感じに近づいている。

「理論家で作曲家であった、
ペートルス・デ・クルーチェは、
アミアンに住んでいたとされるが、
ゆっくりと動く構成的なパートの上に置かれた
雄弁な上声部に、
『新様式』の要素が見て取れる。
ペートルスは、
この雄弁なスタイルを書き表すのに、
必要な記譜法を発明したとされる。
レスキュレルもペートルスも、
トロヴァトーレの伝統の相続人であると共に、
14世紀のアルス・ノヴァの先駆者と
みることが出来る。」

ベートルスのモテトゥス、
Track23.「習慣で歌を作るものもいるが」
などは、ドビュッシーあたりが、
新曲として発表してもおかしくないほど、
かなり小粋なフランス歌曲に聞こえる。
歌詞の内容は、「素敵な女性を見つけた」という、
騎士道の世界の真っただ中にある。

「最後に器楽曲について一言。
私たちはすでに多くの器楽曲の演奏で、
もっとも一般的な形式の構成、
楽器のそのものを知っているが、
当時の楽譜で器楽曲が残っているものは少ない。
器楽曲は、プロのミンストレル
(ジョングルール)の領域のもので、
地方、地域の伝統の枠組に、
独自のスタイルやレパートリーを加え、
恐らく多種多様で、
ほとんど記譜されることはなかった。
我々はこの録音では、
13世紀北フランスのスタイルを参考に、
再構成を試みた。
メロディやトルヴェールの身振りなどが、
基本部分として残っていて、
そこに器楽的な慣用表現を加え、
始まりと終わりにリフレインを持つ、
エスタンピーのような形式にした。
これに加え、私たちは、
声楽曲を器楽で奏したり、
各楽器特有の演奏効果を取り入れたりして、
さらには、当時のプロの楽師が誰もが行ったような、
ポリフォニック、ヘテロフォニックな即興を交え、
様々な地中海的な器楽要素を入れた。」

この「当時の楽譜で残っているものは少ない」
というあたり、トロバイリッツのCDでも、
同様の事が書かれていた。

最後に、このセクエンツィアのCDの前に聞いた、
「デュオ・トロバイリッツ(DT)」のCDから、
トルヴェールについて書かれたところを書き出しておく。
以下、「DT」と書いたトラックは、
「デュオ・トロバイリッツ」のCDのものである。
なお、文章は、このデュオの二人が書いたもの。

「トルヴェールのパストレーレは、
トルバドゥールのパストレラと同様の主題で、
百姓の娘が騎士に遊びで誘惑されるというもので、
軽い調子のもの。
一般に騎士は娘にあしらわれるが、
今回取り上げたものでは、
彼はうまくやっている。
DT/Track7の作者不詳『森に入ると』。」

軽い歌というが、明るくて、
本当にすがすがしい歌声が、
心にしみわたる。
森の中で、羊飼いの乙女が、
一人歌っているのを見つけ、
若者は、そっと近づいて、
声を上げてはいけないよ、
と腰に腕を回してキスをする。

「そうして、恋人になりました」といった、
非常に屈託のないもの。

「DT/Track10の
作者不詳『美しいドエット』と、
DT/Track5の
作者不詳『泉のそばの庭園で』は、
Chanson de toileの好例で、
物語の主人公が女性である。
このタイプのものは、
女性が糸紡ぎをしていたり、
窓の外を見ている時の恋人への夢想である。
『美しいドエット』は本を読んでいるので、
いくらか教養ある婦人である。
この非常に感動的な歌は、
魅力的なメロディを持ち、
痛々しい言葉によるもの。」

確かに、嫋々と弾かれるハーディーガーディーが、
まるで、中央アジアの弦楽器のような嘆き節を響かせ、
切々と歌われ、いかにもアラブ風である。

「本を読んでいるように見えるが、
心はそこにない。
トーナメントのために異国に行った恋人を思っている。
しかし、帰って来たのは、従者と、恋人の鞍袋」
という、悲劇を扱っている。

「それとは反対に、『泉のそばの庭園で』は、
泉のところで、立ち止まっている女性の描写で始まるが、
ハッピーエンドで終わる。
冷酷な夫の描写もあって、
この曲は、『mal maree』のジャンルともいえる。」

男友達を思い、
夫に殴られるという
とんでもない内容のこの曲は、
どちらかというと、
モノローグのような曲調で、
あまりメロディアスではない。
そして、遂には語りまでが始まる。

「もっとも『mal maree』の典型は、
DT/Track1の『どうして夫は私を打つの』で、
ちょっとふざけた明るい歌で、
中世ならではのユーモアを知ることができる。」

特に、ユーモラスな音楽ではないが、
歌詞がとんでもないものだ。
「恋人を抱いただけなのに」
と妻は言っている。

「コラン・ミュゼ(c1200-1250あたり)
はシャンパーニュやロレーヌで活動した。
彼は、ジョングルール
(他の人が作った曲を演奏する下位の楽師)
として仕事をはじめ、
しだいにトルヴェール(詩人・作曲家)
の地位に上った。
このことが、
彼の分け前や施しに対して、
リアルで風刺に満ちた不満を漏らすなど、
何故、彼の歌曲の多くが、
低層の音楽家の視点によっているか
を説明している。
DT/Track9の『ミュゼのミューズ』は、
フィッドル弾きの経験に関し、
仕えている貴族の女性に恋するというもの。
辛辣でありながら、
同時に楽しく、
作曲家の名前、ミュゼになぞらえ、
ミューズ、ミューザー、ミュゼットなど、
抜け目ない駄洒落に満ちて楽しく、
それでいて、個人的なメランコリーもある。」

このトロバイリッツのCDもまた、
器楽曲の解説が、最後につけたしになっているが、
こちらも勉強になる。

「中世フランスの
純粋器楽作品の唯一の出どころは、
13世紀の『王の写本』で、
そこから、このCDの舞曲は取られている。
器楽の演奏はもっぱら即興であったことが、
この時代の器楽曲が少ない理由であろう。
『王の写本』の舞曲は、
エスタンピ形式で、
多くのセクションからなり、
始まりの部分が繰り返され、
エンディングで閉じられる。
こうした形式ゆえに、
無限に繰り返しが可能で、
私たちは、この中世の伝統に従って、
追加部分を補って、
楽譜の劣化ゆえ不完全な
DT/Track11の
『王のエスタンピ第1』や、
もともと、非常に短い
DT/Track2の
『Dansse Real』を拡張した。
DT/Track4の『La Tierche Estampie Roial』と、
DT/Track6の『王のエスタンピ第4』は、
その写本に従った。
1300年頃の
ヨハネス・デ・グロチェオは、
エスタンピ形式を難しいとして、
若い人は集中して、
固定観念から解放されるとして、
ハーディーガーディーで演奏すべきだ、
とした。我々も、その忠告に従った。」

得られた事:「トルバドゥールとトルヴェールは、12世紀と13世紀の時代的な差異の他、歌われていた言語が、オック語、オイル語という違いがあり、トルバドゥールが比較的急速にすたれたのに対し、トルヴェールは、200年の時代を変容しつつ存続し、様々な楽曲の実験場と化した。」
「モテットとかロンドーとか、古典の時代に活用された形式、あるいは、ゲーテやシューベルトの時代のバラードまで、トルヴェールの時代に発祥したものが多い。アダンのロンドーなどは、短い楽節が泡沫のように現れては消え、ポリフォニーの無重力感がたまらない。」
「セクエンツィアは、二人の若い男女が、遥か遠い中世に思いを馳せて結成した団体であったが、女性の方が早く亡くなった事もあり、こうした80年代のものは、永遠の青春の夢想に浮遊したようなアルバムとなっている。」
[PR]
by franz310 | 2017-08-06 20:42 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その443

b0083728_19591967.jpg個人的経験:
前回、ジャヌカンの合唱曲を聴き、
その歌詞に出て来る
フランソワ1世とか、
彼と奇妙な外交関係を繰り広げた、
ハプスブルクの傑物、
カール五世とかの関係から、
はるばる遠い西欧史に
思いを馳せてしまった。

そもそも、その戦いの根は深く、
彼らより400年も前に、
その火種があったともいえる。


フランス、ドイツとの関係の祖というか、
それが、実は、イギリス建国のどさくさも、
そこに関与していたなどとは、
まったく予想だにしていなかった。

12世紀、仏北西のアンジュー伯が、
イギリスに植民地を持つ、
ノルマンディー家と婚姻関係となり、
彼らの子息アンリがさらに、
南西フランスに領地を持っていた、
アリエノールと結婚したことで、
イギリス王ヘンリー2世となった。

さらりと書いたが、
イギリスから南仏まで縦断する大帝国である。
当然、フランスは面白くないし、
英国サイドも、自分もまた、
大陸出身の国王だというプライドもあるから、
こいつらはいつまでも戦争をした。
そんな中で出て来たのが、
新興勢力のブルゴーニュ家であって、
これがハプスブルクにもつながる、
といった三つ巴状態となった。

この四百年というのが、
これまた、芸術的には実り豊かで、
どこから手を付けてよいかわからない。
しかし、すべての発端とも見える、
ヘンリー二世の奥方のエピソードなどから、
当時に思いを馳せるのが、
当面、適当なような気もしている。

というのも、
このアリエノールという女性の行動は、
どう見てもありえなーい、
というとんでもないもので、
そんな事をやってのけたのも、
その出身地のみやび故、
などとされているのである。

佐藤賢一著「カペー朝」(講談社現代新書)には、
「アリエノールは南フランスの女である。
陽気な話好きだったというのも、
吟遊詩人が闊歩する華やかな芸術が栄えた、
文化的には先進地帯の生まれだったからである。」
と書かれている。

この女性は、そもそも、
フランス王家に嫁いでいた王妃である。
国王ルイ七世が辛気臭いという事で不仲となり、
さっそうと現れた地方貴族の小僧と引っ付いてしまった。

このような経緯から、
大陸での力比べが始まって、
英仏百年戦争になったというのだから、
吟遊詩人の文化というのも、
罪作りな文化ではないか。

音楽之友社から出ている
「地中海音楽絵巻」(牟田口義郎著)にも、
「トルバドゥール」の項に続いて、
「女公と女王・アリエノール」という、
お話が続いている。

ここでは、彼女は、
「最初のトルバドゥール」ギョーム九世の孫、
英仏三百年の紛争の火種となった女とされ、
「文芸擁護者としての彼女の存在によって、
トルバドゥール芸術は絶頂期を迎える」
などと描写されている。

このトルバドゥールというのは、
「吟遊詩人」などと訳されるが、
こうした言葉から連想される旅芸人ではなく、
作詩・作曲する教養人だったということだ。
彼らはジョングルールという歌い手を抱え、
自作の歌を歌わせたという。

十字軍の時代でもあって、
領土に領主が不在になりがちな中、
夫人が領土権を行使して女性の地位が向上、
かくて、宮廷の宴席で、女性賛美の歌が歌われた、
などともある。

こうして、リュートなどを伴奏に歌われる歌曲が生まれ、
「節なき詩は水なき水車」などという言葉が
出てきたというのである。

ちなみに、十字軍の話が出てきたが、
アリエノールが、最初の夫、
ルイ七世と決裂したのも、
1147年、第2回十字軍における、
作戦の考え方の不一致からだった。

アリエノールは1122年生まれ、
当時25歳だったわけだが、
ふと、一世代あと、1157年生まれの
「尼将軍」、北条政子の政治力を思わせる。
もっとも、政子に、みやびな気配はあまりないが。

なお、アリエノールは、英国国王妃であるが、
南仏ポワチエで別居生活を送り、
領地アキテーヌの宮廷文化を楽しんでいたため、
そこにベルナールのような天才詩人が集い、
彼女を崇拝した歌を作ったという。

つまり、アリエノールは「尼将軍」ではなかった。
また、息子がみなドラ息子だったために、
せっかくの大陸の領地は風前の灯となる。
が、彼女は、もっと女性らしいやり方で、
自分の血筋を後世に伝えた。

何と、娘たちが各地の実力者に嫁いだために、
神聖ローマ皇帝、カスティーリャ王、
フランス王などが誕生しているのである。
ちなみに、英国王としての後継者のリチャードは、
「獅子心王」、「中世騎士道の鑑」とされたが、
やはり十字軍で散々な目に会っている。

そんな事までを知識の下地として、
今回のCDを聴いてみたい。
「愛の言葉~トルバドゥールとトルヴェールの歌」
というもので、
フェイ・ニュートンが歌い、
ヘイゼル・ブルックスがヴィエールを担当する、
「デュオ・トロバイリッツ」
という女性コンビの演奏である。
イギリスのハイペリオンレーベルによるもので、
録音は2005年。
彼女らもイギリス人だと思われる。

トルバドゥールの女性形がトロバイリッツなので、
そのままの名称となっている。
さすが、教養人ということか、
解説もこの二人が書いている。

ヴィエールというのは、
このCDの解説の写真で見る限り、
原始的なヴァイオリンのような形をしているが、
ハーディーガーディーという名でも知られるもの。

シューベルトの歌曲集の最後で、
「辻音楽師」が手にしている楽器である。
シューベルトの曲では、
ライアーマンとされていて、
歌曲の最後は、
「僕の歌に合わせて、
あなたのライアーを回してくれるか」である。

つまり、この楽器、
弦をこする回転盤があって、
抱えるように持って、
取っ手をくるくると手で回して、
弦を鳴らすような作りである。

したがって、このCDも、
全編、この素朴な弦の擦れ音で満たされている。
このCDは、Track2、Track4、
Track6、Track11の4曲が、
歌なしなので、このかすれたような、
鄙びた残響音をとことん味わえる。

なお、トルヴェールは、トルバドゥールが、
北フランスに移ったバージョンである。
さらにこの伝統は、ドイツのミンネゼンガーにも、
受け継がれるというのだから面白い。

この楽器は廃れてしまっており、
大部分のシューベルト愛好家も、
ハーディーガーディーの音色など知らないで、
「冬の旅」を聴いているはずだ。

しかし、19世紀になってもなお、
こうして楽器も演奏家も描かれているのだから、
恐ろしく普及した楽器だったと言える。

さて、このCDには、
「トルバドゥールの中で最も型破りの詩人」
とされた、
ベルナール(ベルナルト)の曲も入っている。
この人は、
「心の底から生まれてこない歌は価値がない」
と、言っていたらしい。

まさしく、シューベルトの原型のような人である。

もう、このCDの表紙画像からして、
これまでの知識を全面的に受け止める感じではないか。

「女中たちと翼の生えたハートたち」
というタイトルからも、
群がる男たちを、
手のひらの上で転がす女たちの表象であることがわかる。
(ただし、時代考証的には、この絵画は、
もう少し後の時代のもの。)

では、解説には、何が書かれているか。

「報われない愛の痛み、
春の喜び、領主の妻に仕える騎士道、
この録音に収められた歌と共に、
私たちは、
トルバドゥールとトルヴェールの
詩と音楽で描かれた
愛を様々な切り口で探究した。
この時期の膨大な作品は、
一般に、『宮廷の愛の歌』と呼ばれるが、
実際には、多くの独特のジャンルが混在している。
13世紀の文献には、
恐らく、Jofre de Foixaの作とされる
『作詞の理論』と題されたものがあり、
トルバドゥールの様々な詩の、
最初期の記述が見て取れる。
著者は、canso、alba、dansa、planhと
名付けて簡単に区別し、
さらに詩のメロディについても言及し、
スタイルと、テーマ、役割、演奏上の流行
を関連付けて論じた。」

これらの詳細については、
ここでは書かれていないが、
語感からして、
歌とか踊りのようなものであろうか、
と推察できよう。

ちなみに、ネットで検索すると、
アルバ 、 夜明けが来て別れなければならない恋人たちの歌。
カンソ 、恋愛の歌。
ダンサ、踊りの歌。
Planh、嘆きの歌、とあった。

実は、この解説の後半は、
これらの種別について、
詳しく説明されている。

「宮廷の愛のコンセプトは、
12世紀に南フランスで開発された。
理想化された愛や性的な情熱を祝し、
洗練や貴族的なふるまいに発展した。
女性は、恋人に対して優位な立場にある
崇拝の対象として現れる。
淑女が主人となり、
主君が卑しい奉仕者となるように、
伝統的な役割が反転した。
トルバドゥールの詩では、
『我が主君』とはしばしば、
恋人の淑女を表し、
その望みは恋人への命令となった。
『トルバドゥール』とは、
言葉の上では『発見者』とか『発明家』である。
初期のトルバドゥールは、
12世紀への変わり目から、
アキテーヌ、ポワトゥーやオーヴェルニュなどの
宮廷を本拠地としていた。
旅芸人や吟遊詩人ではなく、
彼らはしばしば貴族の出で、
教養ある熟練した詩人、音楽家、歌手であった。」

このあたりはすでに読んだとおりである。
シューベルトの歌曲を広めた、
ミヒャエル・フォーグルなどは、
非常な教養人であったとされることが思い出される、
残念ながら貴族ではなかった。
なお、文庫クセジュの「中世フランス文学入門」によると、
トルバドゥールは、
形式面で多様性を追求した事が書かれており、
こうした背景から、「発明家」とされたのかもしれない。

「彼らは、南フランスのオック語、
またはプロヴァンス語で作詩した。
最初のトルバドゥールは、
ギョーム・ド・ポワトゥー(1071-1126)で、
アキテーヌの第9代の公爵で、
フランス王妃で、のちに英国王妃となる、
アリエノールの祖父であった。」

ということで、アリエノールは、
たまたまトルバドゥールがいた街に住んでいたのではなく、
はたまた、トルバドゥールを単に抱えていただけでなく、
その伝統の中心的存在であった、
ということであろう。

「もっとも一般的な音楽ジャンルはカンソで、
例の専門書によれば、
『愛の喜びを語るべきもの』であった。
それはしばしば、満たされぬ、
あるいは離れ離れの状況を扱い、
このCDでのカンソは、
Track3の『ナイチンゲールを聴いた』と、
8の『新鮮な野や木立』の2曲である。
これらは共に典型的に、
自然の喜びと詩人の嘆きが対比され、
夢と、嘆願と思い人への苦い思いに揺れている。
当時もっとも有名な作曲家であった、
ベルナルト・デ・ヴェンタドルン(c1130-c1190)
は、非常に多産であった。」

ということで、かなり早い段階で、
ベルナール(ベルナルト)の話になった。

よく見ると、トラック3と8の曲名の前に、
「canso」とちゃんと書かれている。

Track8がベルナルト作、
まず、弦楽器で、序奏があるが、
この段階では、何だか、物憂げで、
いろんな感情が交錯する。
さすが、「型破り」なだけあって、
巧緻な筆の冴えが感じられる。

「新鮮な野や木立、
枝には花が咲き誇り、
ナイチンゲールが声を上げ、
高く冴え冴えと歌い始める。
『あの人ゆえに楽しくて、
花々ゆえに楽しくて、
私自身ゆえに、それ以上に彼女ゆえに。
私はどこからも幸福に囲まれている。
これこそはすべてを征服する喜び。」

ソプラノが、入ってくると、
澄んだ声で、ナイチンゲール同様、
さえざえと天に向かうような声で訴える。
なるほど、このあたり、自然と一体となった祈りのようだ。

「私はあの人をこんなにも愛している。
そして、彼女をいとおしく思っている。
あの人を恐れ、あの人に仕えているが、
かといって、あの人が私のことを
どう思っているかを聴きたくはない。
そして、彼女の事を聴きたいわけでも、
何かを送りたいわけでもない。
でも、あの人は私が苦しみ、
嘆いているのを知っている。
そして、それをあの人は喜び、
それで私によくしてくれ、褒めてくれる。
あの人が喜ぶだけで、私は満足するから、
あの人は、何も咎める言葉を必要としない。」

こんな感じで、ナイチンゲールの歌は消え、
恋人の悩みと妄想がさく裂する。
ただし、特に楽想が激烈になるというわけではなく、
ただ、切々と訴えている。

「自らの望みを明らかにすることなく、
どうして私は耐えられるのだろうか。
あの女性を見かけ、見つめるとき、
あの人の美しい瞳は、愛らしく、
彼女のもとに駆け出しそうになってしまう。
恐れさえなければ、私はそうするだろう。
その見目麗しい、均整のとれた体つきゆえ。
その恐れは、愛の望みを躊躇わせ、
歩みを遅らせる。」

これを見ると、外見だけでも、
ものすごい高嶺の花であることが分かる。
ソプラノも澄んだ響きで、
高嶺の花への妄想もいや増すばかり。

「ああ、私は悲しみゆえにどう死のう。
あまりにも深く愛したので、
何もわからないままに、
私は簡単に盗み去られた。
神によって、愛よ。
それは防ぎようがない。
友もなく、他の主人もなく。
何故、あなたは、
私が完全に消耗してしまう前に、
一度でも、彼女に効力を発揮しないのか。」

ついに死ぬことまで言い出している。
ものすごく辛い状況に、
読んでいる私も心臓がばくばくする。

「彼女が一人でいるところを見たい。
眠っている時、いや、眠ったふりだけでもいい。
そうすれば、口づけを盗んでやるものを。
私は、それを要求するだけの存在ではないのだが。
神によって。ああ、あなた。
私たちは愛に関して、好都合なことは何もない。
時だけが流れ、良い機会は消えるばかり。
秘密の暗号を会話に混ぜたが、
ああ、大胆さが足りないとして、
機敏さだけが頼りなのに。」

これに続く、以下の最後の詩節は唐突だが、
後で解説があるように、
以上で詩は終わっていて、
以下は、これを伝令に渡すときの言葉らしい。

「伝令よ、行け。
私が直接行けないとしても、
私の事を忘れるなかれ。」

そうじて、作者の名声を疑うことが出来ぬ、
充実した曲と演奏で、途中の器楽の間奏も、
しみじみと聴かせる。

「伝えられるところによると、
ベルナルトは生まれは貧しかったが、
トルバドゥールとしての名声と人気は、
広く知られ、彼は最も高貴なサークルに入った。
それは、アキテーヌのアリエノールの宮廷も含まれた。」

ベルナルトの作品はこの一曲のみ収録、
以下、ガウセルム・ファイデットの話に移る。

「ベルナルトの作品はガウセルム・ファイデットなど、
次世代の詩人、作曲家に強い影響力を有した。
この人は、少なくとも13曲を、
ヴェンタドルンの子爵夫人、マリアに捧げている。」

ここで、曲名が出て来るが、
これは、Track3の
「愛の喜びのナイチンゲール」である。

「この曲では、彼女の名前を、
最後の短い詩節tornadaに入れ込んでいる。
ベルナルトのtornadaでは、
詩人は、あの方に渡されるべき、
書き上げた作品を伝令に手渡している。
ガウセウムのメロディは美しいが、
彼自身の歌はまずい事で知られていた。
それにも関わらず、明らかに彼は、
おいしい食事(それゆえに彼は太っていた)、
女性(彼は各方面で浮名を流し、売春婦と結婚した)、
さいころ遊びなど(彼は中流の出自ながら、
ギャンブルで全財産を失い、金のために音楽家となった)、
人生における良い点を楽しんでいた。」

太って歌が下手なギャンブル狂の歌は、
出だしこそ、非常につつましやかなものであるが、
絶唱ともいえる盛り上がりがある。
10分にもなる、このCDで一番の大曲で、
こんなあつ苦しい想いを切々と聴かされた、
領主夫人がどんな顔をしていたのかが気になる。

以上がcansoに関する話で、
以下、albaの話になる。

「alba(夜明けの歌)は、
トルバドゥールの一つのジャンルで、
夜明けによって、
恋人たちの逢瀬に邪魔が入るというもの。
ジョフレの論文によると、
もし、あなたがあの人に与えた喜びに、
夜明けが勝ったならば、
夜明けを祝福し、
もしも、夜明けに負けたのなら、
女性と夜明けを呪うalbaを作るが良い、
というもの。」

ちょっと鬱病気味のcansoより、
こんなalbaの方が、ずっと自然な感じがして良い。

「Track12の
ギラウト・デ・ボルネイユ作『光輝ある王』は、
おそらく、このタイプのもので、
もっともよく知られたもの。
最後の詩節は、ある人たちは、
間違っているというが、
詩をまったく新しい見地から見直すものとして、
私たちは、あえて、その部分も歌っている。」

この曲の歌詞は、
夕暮れ時から友がいなくなった、
探してください、という、
いささか遠まわしの歌。
最後から二番目の詩節では、
見張りを頼まれたのだが、
友達が戻ってこない、
という内容。

それに比べると、
確かに最後の詩節では、
「そんなにお楽しみなら、
僕なら夜明けも昼も要らないだろう」
と歌われているので、
しらばっくれていた友達が、
急に嫉妬を始めたような展開となっている。
しかし、解説では、もっと違う背景が、
以下のように説明されていて、私は驚いた。

「これはヴィーン版の手稿にのみあるもので、
これは、トリスタンとイゾルデのナレーションの
フランス語訳を含み、
ここにある複数の歌には、
この物語のキーポイントが散りばめられている。
この文脈から、隠れて逢瀬を楽しむ恋人たちは、
明らかにトリスタンとイゾルデで、
この歌は、もう立ち去る時間だと、
トリスタンに警告するために、
見張りをしている共謀者の歌である。
この最後の詩節は、トリスタンの反応で、
おそらく、物語に合わせるために、
追加されたものと思われる。」

確かに、中世フランスの文学を語る時、
このようなケルト伝説と切り離して語ることはできない。
しかし、こうして、CDで音楽として聴くと、
あるいは、歴史を紐解くと、
妙に、これらの文学書に書いてあった内容が、
生き生きとして実感されてくるではないか。

ハーディーガーディーが、
いかにも夜明けのような情感を表し、
見張りの警告の歌に相応しく、
朝日を睨みつけながら、
切迫した気分の歌が歌われる。

「宮廷の愛の規範は、
すぐにヨーロッパ各地の宮廷社会に広まった。
フランス内では、北フランスのトルヴェール派が、
初期のトルバドゥールの伝統から発展してきた。
アキテーヌのアリエノールが、
これに寄与していると考えられる。
彼女がフランスのルイ7世に嫁ぎ、
北上してパリの王室に入った時、
生きの良い南方の廷臣たちを引き連れ、
そこに音楽家たちも含まれており、
こうした形でこの様式が広まった。
独自の文字『オイル語』(中世フランス語)を使い、
既存のトルバドゥールの分野に適応させ、
独自の様式を開発した。
リフレイン付きの歌がより好まれ、
トルバドゥールの作品以上のものが、
トルヴェールの時代に残された。」

なんとなく、これまで聞いたトルバドゥールの歌は、
息苦しい感情の吐露が多かったような気がするが、
以下のトルヴェールものは、すこし、気楽に聞ける。

が、これ以上、書き進むと所定のページ数をオーバーしてしまう。
次回に回すことにしよう。

得られた事:「トルバドゥールとは、『発明家』という意味で、教養ある貴族が洗練された詩と音楽をものした。これは北フランス、ドイツへと伝搬して、宮廷の愛の歌が広がった。」
「仏王妃で後の英王妃という傑物、アリエノール・ダキテーヌ。その祖父こそが、トルバドゥールの始祖である。」
「当時、利用されていた楽器、ハーディーガーディーの音色がこのCDでは、とことん楽しめるが、この楽器は、シューベルトが『冬の旅』の最後で登場させたものである。」
[PR]
by franz310 | 2017-05-04 20:00 | 古典