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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その322

b0083728_23112593.jpg個人的経験:
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」は、
200年前の欧州を、
席巻したにも関わらず、
その後、急速に忘れられ、
二十世紀も残り少なくなって、
ようやく、再評価された。
この素晴らしい作品の
再発見に力あったのが、
マリリン・ホーンである。


ありがたい事に、この傑作を、
この偉大な歌手が、1983年に録音したCDを、
我々は手にすることが出来る。
しかも、ライブである。
聴衆が、真剣に聴き入り、
熱狂的な拍手で応えている様子が、
手に取るように分かる、生々しい記録でもある。

黒を基調にした渋いデザインは、
何だかシンプルかつストレートで強烈だ。

例えば、相澤啓三という評論家が書いた、
「オペラの快楽」(1992、JICC出版局)では、
ロッシーニのオペラ・セリアの代表作として、
「セミラーミデ」、「マホメット二世」などと共に、
この作品を挙げ、さらに、ホーンのCDを挙げ、
「圧巻」と書いている。

「ホーンのリズム感溢れる華やかで生き生きした
コロラトゥーラはその堂々たる騎士振りを目にすれば
ますます圧倒的な迫力を発揮する」といって、
ホーンの舞台を映像記録したものがあることも示唆しているが、
これはどうすれば手に入るのであろうか。

それはともかく、かつては、
CBSソニーから国内盤も出ていたこのCD、
なかなか再発売されないので、
中古で見つけて来たのだが、
私の入手したものは、
1985年のオーストリア盤である。
イタリアのFONIT CETRAが、
CBSと共同制作したと書かれており、
権利関係がややこしいので、
再発売されないのだろうかと考えた。

アメナイーデにはレッラ・クベルリが入り、
アルジーリオは、エルネスト・パラッチオが歌っている。
ラ・フェニーチェ劇場のオーケストラを、
ヴァイケルトが振っている。

マリリン・ホーンと言えば、
文字通り警報のような声を連想していたが、
もっと、ひしゃげたような感じで、
高く舞い上がるような声ではない。
それが第一印象。

登場の「おお祖国よ」や、
アリアの「ディ・タンティ・パルピティ」でも、
上から圧力がかかっているような感じで、
狭い隙間から絞り出されるような質感だ。

声の質に微妙な陰影を持っていることもあり、
その技巧による声の密度が、
きわめて凝集された感じを与える。

登場時はあまりそうした事も感じなかったが、
だんだん、物語が進行し、声にも熱を帯びて来る。
特に、私は、アメナイーデとの二重唱での、
纏綿たる濃密な声の絡まり合いには、
我を忘れて聴き入ってしまった感じである。

クベルリは、コッソットがタンクレーディを歌った、
フェッロ(フェルロ)指揮のものでも、
同じ役柄を担当していた。

コッソット盤は、スタジオ録音だったのだろうか、
それに比べると、何だか火照ったような緊張感がみなぎり、
この録音、そんな意味でも鬼気迫って圧巻である。
コッソットのものは、もっと古典的な明晰さを持っていた。

序曲の序奏からして、フェッロの指揮は、
落ち着いて粛々と事を運んでいる感じだが、
こちらのヴァイケルトは、叩き付けるような気迫がある。

リズムの刻みも、アタックが激しく、
このオペラの内容にふさわしく深刻な感じである。
スワロフスキー門下で、オーストリアの人らしい。

この序曲について、スタンダールは、
「騎士タンクレーディの名にふさわしい音楽」として、
「優美と繊細に満ちている」と書いた。
この序曲は、しかし、「試金石」の転用品である。

さて、スタンダールの論評に従って、
このCDを少し聴き進んでみよう。

この文豪にして音楽評論家は、
序曲には感心しているが、
続く合唱については、
耳に快いが、「力強さ」には不足する、として、
中世の騎士の感じがしないことを指摘している。

「血気盛んな中世の感じがするだろうか」
と書いているが、当時の感覚も、
我々とそう変わらなかったのだろうか。
これは私も感じる点ではある。

が、このCDの演奏は、
かなり力が入っているせいか、
他の演奏よりも血気盛んな感じがする。

続く、アメナイーデ登場のシーンについては、
スタンダールは共感していて、
「騎士道が華やかな時代の若い王女にふさわしい、
高貴で飾り気のない優雅さを、
彼以前の音楽がこれほど完璧に表現したためしはない」
と書いている。

このCDの演奏は、きびきびとして、
緊張感を保ちながら進んで行く。

しかし、このフランス人はうるさいのである。
続く、アメナイーデのカヴァティーナ、
「なんと快くわたしの心に」は、
装飾音がこぎれいすぎるだの、
憂愁に欠けるだの、小姑のようにうるさい。

が、スタンダールが言う、
「追放されて今はいない恋人を想うのだから」
という観点からは、
十分、納得できる見解である。

しかも、スタンダールは、さらに、
悲しい音楽だとお客が退屈するとか、
憂愁を伴う愛情を描くには若すぎた、
という、分析まで行っているのである。

このCD、クベルリの歌は、
よく通る美しい声で、ほれぼれする。

しかし、「悲しい音楽を書くとお客が退屈する」
という意見はいかがだろうか。
明らかに、フェラーラ版では失敗する、
という当時の雰囲気を表していないだろうか。

スタンダールは反対に、
タンクレーディ登場のシーンには、
好意を持っていたようである。

到着シーンを、
「オーケストラは『劇的なハーモニー』でもって
壮大に盛り上げる」と書いており、
続く、「おお祖国よ」のレチタティーボを、
「崇高で心を打つ」と書いている。

先にも書いたように、
このCDでのホーンの歌は、
英雄らしく高らかに舞い上がるものではなく、
押し殺したように、渋く押し出される歌である。

スタンダールは、アリアなどに使われるフルートを、
「悲しみのまじった喜びの表現に合っている」
と書くばかりか、
「絵の中で着衣の大きな襞が
ウルトラマリンで表現された場合に似ている」
と妄想をふくらませている。

ホーンの歌うアリアは、声の質からして、
派手な感じはしないのだが、
小刻みに装飾を神経を使って施しており、
すこし、危なっかしい感じすらするが、
これがロッシーニらしさという事であろうか。

コッソットのCDでは、
この「ディ・タンティ・パルピティ」は、
朗々と滑らかに歌われ、
まるで、歌のお姉さんのように聞こえ、
ホーンのギアチェンジを繰り返しながらの、
アリアとは別物のように思えて来た。

だから、コッソット盤の解説を書いた、
高崎保男氏は、
「ヴァレンティーニやホーンほど華麗な
カント・フィオリートを用いていない」と書き、
相澤啓三氏は、
「コッソットはロッシーニ歌いではない」
と書いているのであろう。

確かにここまで聴いて来ると、
何となく、コッソットの歌では、
炭酸が抜けたロッシーニのように思う聞き手がいても、
おかしくはないと思った。

聴き所である、アメナイーデと、
タンクレーディの二重唱
「貴方を取り巻くこの大気は」
(CD1のTrack12)などでも、
ホーンのCDで、高揚感を持って、
凝集する音楽に眩惑されたのは、
こうした点で大きな違いがあったのである。

声が持っているエネルギーの密度が違う感じである。
3分すぎの、「私には何と辛いことだろう」なども、
糸と糸の寄り合わせ方が全く異なる。
ジグザグのラインが織り合わされている感じが、
ホーンのCDでは感じられ、
コッソットのものでは、
二つの声のラインが並列で並んでいるだけである。

さて、このホーンのCDは、3枚組かつ箱入り仕様で、
かさばる割には、解説にはたいしたことは書かれていない。

しかし、聞き所をびしっと書き連ねていただき、
そのあたりは、かなり具体的なので嬉しかった。

シカゴ大学のフィリップ・ゴッセットが書いている。
「1813年2月6日、ヴェネチアの、
ラ・フェニーチェ劇場で初演された『タンクレーディ』は、
ヨーロッパに旋風を巻き起こした。
スタンダールは、このオペラをロッシーニの、
最高の到達点とした。
この作品の人気は、半世紀後のヴァーグナーが、
『マイスタージンガー』の仕立屋の合唱に、
タンクレーディの伝説のカヴァティーナ、
『ディ・タンティ・パルピティ』を選ばずにいられなかった。
『タンクレーディ』は、
1810年頃のイタリア・オペラの
伝統の枠から、決定的に出てはいなかった。
それが、実際に革命的になったのは、
ロッシーニが、初演の数ヶ月後、
フェラーラで再演させた時に、
悲劇的フィナーレを加えたからであるが、
この版での初演後、彼はオリジナルの、
ハッピーエンドに戻してしまった。
伝統を破るアリオーソは、
ヴォルテールの原作の劇に従ったもので、
アメナイーデの無実を知りながら、
静かな弦楽の伴奏を伴って、
タンクレーディは傷によって死ぬものである。
フェラーラの聴衆は、
この例外的なエンディングに当惑し、
もともとのエンディングにすぐに戻された。
10年にもならないが、
イタリア統一運動の愛国者であって、
文学者であり、タンクレーディを最初に歌った、
アデライーデ・マラノッテの愛人でもあった、
ルイジ・レッキの後継者が、
レッキの書類の中から、ロッシーニの自筆譜を発見した。」

このあたりの話は、これまでも読んで来た通りである。

「様々な意味で『タンクレーディ』は、
ロッシーニの同時代者に衝撃を与えた。
音楽的、ドラマ的な効果を導く、
確信と、正確さ
目的に向かう絶対的明晰さを、
彼等は、この作品の中に見た。
オーケストレーションは簡素で、
時に室内楽的で、楽器の効果が正確に計算されている。
セッコ・レチタティーボがなおも、
形式的にオペラを分割しているが、
各ナンバーは緊密で、内容的にも、
優美な叙情と強いドラマティックなアクションが、
巧妙にバランスされている。
メロディラインは、声の機敏さを示しつつ、
純粋な美しさをブレンドしている。
他の作曲家たちも同様の方向に向かっていたが、
これらの性向と、
新しいイタリア・オペラが新しい力を得ることとなる
確立されたモデルが、
魔法のように調和したのが、
この『タンクレーディ』であった。」

これまでも様々な解説を読んできたが、
このように、タンクレーディが決定的な傑作であることを、
ここまで明記したものはなかったのではないか。

「『タンクレーディ』は、古典的な純粋さと
バランスを持ち、声がその効果を発揮しながら、
すべてを圧倒することはない。
誰も予想しないような状況で、
素晴らしく感動的な瞬間が訪れる。」

このように書きながら、
より具体的な聞き所が紹介されていく。

あとで使いやすいように、番号を付けて見てみよう。
聴き所1.
「第2幕で騎士たちは、
タンクレーディが
オルバッツァーノを倒したことを
デリケートな合唱、
『人々よ勝利者に喝采を』
(CD3のTrack4)で祝う。
まずそれは、木管だけで始まり、
群衆が集まって来ることを暗示して、
全オーケストラが入って来る。
タンクレーディが入って来ると、
ムードが変わる。
彼は、弦楽の伴奏に乗って、
愛らしいフレーズ『栄光への賛美は』で、
複雑な心情を歌う。
この進行は彼を勝利へと推し進めるが、
これは一面でしかなく、もっと精緻なもので、
誇張なしにオペラの世界で、
劇的に音楽的な真実を扱っている。」

聴き所2-1.
「同様に感動的なのは、
第1幕のフィナーレのアンダンテ
(CD2のTrack6)で、
アメナイーデに対しての、
非難の合唱が小さくなる中、
四つの独唱者と木管が和音を保持している。
そして、同じ和音が、
デリケートなアンダンテ、
オーボエ、クラリネットと、
二つのバスーンで軽く伴奏された、
独唱者による四重唱によって、
真実のパトスのパッセージを導く。」

「多くの細部が、このフィナーレでは、
賞賛に値する。」
とあるように、このフィナーレは聴き所満載である。

聴き所2-2.
「ロッシーニによって、その音色が、
少しずつ変えられて繰り返される
オーケストラのフレーズと共に、
アメナイーデの激しい嘆願(CD2のTrack5)。」

聴き所2-3.
「最後のストレッタに先立つのは、
突然、スタッカートの弦楽と、
オーボエとクラリネットの虚ろな響きで伴奏され、
(バスはピッツィカート)関係短調で現れる、
美しい『これまでに、こんな恐ろしい苦痛を』
(CD2のTrack6の4分あたり)である。」

この部分、アメナイーデとタンクレーディのデュオに続き、
アルジーリオとオルバッツァーノのデュオが現れ、
素晴らしい緊張感で聴かせるが、
ピッツィカートの効果は強烈である。
また、クラリネットたちは、
最初のデュオでは現れない。

「異常なほどの『タンクレーディ』の
プリマドンナの離れ業をもって、
オペラ全体を貫く驚嘆すべき、
ロッシーニの芸術性を見失ってはならない。
また、ロッシーニが、ベル・カントを、
この最初の成熟したオペラ・セリアの中心に
持って来なかった、というのも間違いである。
『タンクレーディ』は、
リアリスティックなドラマではなく、
そう判断するのも間違っている。
二つの長いデュエットをもってしても、
アメナイーデが、恋人に、
無実を説明できないことは、
論理的に受け入れられるものではない。
(この問題は、ヴォルテールからある。)
しかし、彼のオペラでは、
特にこれらの二重唱では、
緊密なドラマティックなロジックを追い求めてはいない。
彼は、自身の音楽で、
効果的に息を吹き込めるキャラクターを求め、
そのように、アメナイーデの苦しみを描き、
恋人の騎士のほろ苦い感情を描いた。

聴き所3-1と3-2.
「彼等のデュエットは、このオペラのハイライトに属する。」
(CD1のTrack12、CD3のTrack7、8)。

前者については、コッソット盤と先に比較して書いたが、
また、私が、このホーンのCDで最初に陶酔したのも、
ここであった事を繰り返しておきたい。
ライブのせいかもしれないが、
ジグザグに織り合わされた声の織物の見事さもあって、
ものすごい高揚感である。

クベルリの声が落ち着いて来たせいか、
ホーンとの二重唱が、妙に均質な織物に仕上がっており、
その質感が妙に上質に思えるのである。

後者も、前半は高揚感とは異なる切り口であろうが、
沈潜するような幻想的な無重力感がぐっと来る。
後半は、解放的な表現となるが、歌が進むに連れ、
凝集力が増してすごい迫力になっている。

「このスコアの最大の栄光は、
確かに、第2幕の、
アメナイーデとタンクレーディの
二つのグランシェーナである。」
とあるから、これらもそれぞれ聴き所であろう。

聴き所4.
「アメナイーデの牢獄のシーンは、
ロッシーニが書いた最も深い音楽に思え、
特に、オープニングのシェーナ
(その精巧な感動的なオーケストラの前奏によって)、
(CD2のTrack13)
オープニングのカヴァティーナ、
『いいえ、死は決してそんなに』
(CD2のTrack14)で、
この中で、彼女は、
恋人を裏切ることよりも、むしろ死を願う。
ロッシーニは、メロディを、
イングリッシュ・ホルンの強烈な独奏で伴奏させた。」

ひしひしと迫り来る死をぞくぞくと暗示し、
冷たい牢獄の湿っぽい空気まで感じさせる、
素晴らしい描写となっている。
このCDのクベルリの澄んだ声も、
緊張感を孕んで、空気を切り裂いて行く。

しかし、これより5年早い時期に録音された、
同じクベルリが歌ったもの(フェッロ盤)の方が、
さすがに声そのものの瑞々しさでは有利である。

聴き所5.
「しかし、素晴らしいのは他でもない。
素晴らしいのはタンクレーディの、
『グランシェーナ』である。
もっとも単純にして、
その英雄の感情に深く探りを入れ、
ソラミールを確固と(華々しく)戦場で倒した後、
くっきりと忘れがたいメロディを与えた。」
(CD3のTrack22.)

私は、このフィナーレが、
確かに実験的であることは認めるが、
そんなに感動的とも思えないのだが、
マーラーの交響曲のような、
壮大な日没のようなものを期待しすぎであろうか。

「これら二つのソロのシーンで、
誰でも、このオペラが当時のヨーロッパの
音楽シーンに与えた威力を理解することが出来る。」

「二つの美しいアリアにもかかわらず
(内的な葛藤の後、娘を断ずるシーンが特に忘れがたい
第2幕のオープニング)、
アルジーリオは、いくぶん、造形に欠ける。」

聴き所6.
「彼の輝かしいタンクレーディとの二重唱
(CD2のTrack17、18)は、
しかし、このスタイルの好例で、
ベッリーニが『清教徒』の『ラッパの響き』が、
その高まった一例となっている。」

アルジーリオは、このホーンのCDでは、
少し存在感がないような気もする。
それを補って余りあるのが、
マリリン・ホーンの声の超絶的な装飾で、
天高く龍のように舞い上がっている。

「これらの音楽では、声楽の技巧は、
単に、それに注意を惹き付けるためだけではなく、
感情表出に使われている。
ロッシーニがオリジナルで書いた音符以外にも、
一緒に仕事をした歌手たちのために、
カデンツァや変奏を書いたのは事実である。
現代の歌い手が、ロッシーニの装飾をそのまま歌うか、
自身の版を歌うかに関わらず、
それは感情表出でなければならない。
それが適切に適用された時、
重要で絶対に権威的な次元を、
ロッシーニのスコアに付け加えたことになる。」

このような事まで考えて、このCDの演奏者たちは、
公演に臨んでいるのであろうか。

「後年、ロッシーニの音楽は、
『湖上の美人』の初期ロマン主義や、
『セミラーミデ』の新古典主義の壮大さ、
『ウィリアム・テル』の歴史主義に、
彼を誘う。
これら全てを通じ、
『タンクレーディ』の古典芸術へのノスタルジアは、
スタンダールの言う、
『処女の素直さ』の一例である。
『タンクレーディ』は、
『青春』、『感傷』、『活力』を示しており、
ロッシーニはこうした前代未踏の境地を、
再び完全に捉えることは出来なかった。」

聴き所は、結局、登場シーン以外の、
タンクレーディとアメナイーデの重唱と、
大きなソロの部分ということになりそうだ。

得られた事:「ロッシーニの声の装飾によって、デュエットの高まりが上質な織物のような得も言われぬ効果を発揮する。」
「ロッシーニの時代、悲しい音楽は退屈だと思われていた。」
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by franz310 | 2012-03-31 23:12 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その321

b0083728_22432826.jpg個人的経験:
スタンダールは、
その著書「ロッシーニ伝」
の第一章「生い立ち」に続き、
第二章として、「タンクレーディ」
を持って来ている。
この章は、冒頭から、この作品が、
ヨーロッパ中で知られている事を記し、
読者の方々は、すでに、
みんなこれを知っているだろう、
などとも書いている。


これくらいに、この作品は成功を収め、
スタンダールの文章でも、
これが、絶妙なバランスの上に
成り立っていることが強調されている。

彼は、「泥棒かささぎ」を引き合いに出し、
そちらは、オーケストラがうるさすぎで、
もっと歌を聴きたくなるとしながら、
「ロッシーニが『タンクレーディ』の
完璧な楽譜を書いたときには、
この欠点を免れていた。
豊富と過剰のちょうど中庸を行ったのだ」
と書いた。

「美を隠さずに装い、損なわず、
ごてごてした余分な飾りを付けなかった。
騒々しすぎる音楽や、
逆に単純すぎる音楽に退屈したときは、
いつでも『タンクレーディ』の
うっとりさせる作風に戻るべきだ。」
(みすず書房、山辺雅彦訳)
という傾倒ぶりである。

さらに、この本では、
当時の聴衆の意見も、
スタンダールが共感したものは、
ありがたいことに、
引き合いに出されている。

「ロッシーニの音楽は、
大胆なのが最も特徴的で、
性格もそのとおりです。
ところが、『泥棒かささぎ』や
『セビリャの理髪師』を聴けば、
その大胆さに度肝を抜かされ
夢中にさせられるのに反し、
『タンクレーディ』には
そういう個所は少しも見あたりません。
ひたすら簡素で純粋な音楽が流れるばかりで、
飾りっ気はこれっぽっちもない。
無邪気そのものの天才といったところでして、
こういう言い方が許されるなら、
あれはまだ生娘の天才です。
『タンクレーディ』には
ぞっこん惚れこんでいるので、
何曲かのアリアに見られる
どことなく古めかしい感じまで
好きなのです。」(ゲラルディの意見)

「完璧な楽譜」、「純粋な音楽」。
ここに書かれていることは、
ロッシーニが数々のヒットを飛ばしていた時代の
代表的な意見なのであろう。

また、この本には、
「これ以上よく歌われたアリア、
これ以上、様々な土地で歌われたアリアも
他にあるまい」として、
「リゾット・アリア」として知られる、
「多くの苦しみの後で」成立のエピソードが、
書かれている。

ロッシーニは、まず、ヴェネチアの公演用に、
主役タンクレーディが登場するときのために
大アリアを書いたが、
美貌と才能の絶頂にいた歌手から、
「気にくわない」と言われたとのこと。
ロッシーニは、主人公登場で、
やじられでもしたら台無しになると、
物思いに沈みながら安宿に帰ったところ、
一つのアイデアが閃いた、というのである。

この本では「リゾット・アリア」とは書かず、
「米のアリア」と書いている。

ロンバルディア地方では、
夕食は必ず米の料理で始まるが、
あまり煮すぎないように4分前に、
料理人が「米を料理いたしましょうか」と
聴くのだそうだ。

「ロッシーニが絶望して戻って来ると、
ボーイはいつもの質問をした。
米が火にかけられる。
できあがる前に、ロッシーニはもうアリア、
『多くの苦しみの後で(Di tanti Palpiti)』
を書き上げていた。・・・
この見事なカンティレーナについては、
どう言えばよいものか。・・・
それにヨーロッパでまだ知らない人がいるだろうか。」

このように、全ヨーロッパで
知られたアリアであるから、
様々な作曲家が、
「ディ・タンティ・パルピティ」の
メロディにあやかった作品を残している。

例えば、ヴァイオリンの鬼神パガニーニも、
変奏曲を使っている。

今回聴いた、西シベリア出身のヴァイオリニスト、
ヴェンゲーロフのCDでは、
何と、「イ・パルピティ(I Palpiti)作品13」
と書かれている。
多くの場合、この曲は、
「『こんなに胸さわぎが』による変奏曲」と呼ばれているが、
単に「パルピティ」!

どうやら、この単語は、「苦しみ」になったり、
「胸さわぎ」になったりしているようだ。
「鼓動」という訳も出て来る。

これまで見て来たように、このアリアは、
タンクレーディが追放された祖国に潜入し、
恋人アメナイーデに会う期待を、
「大いなる不安と苦しみの後に、
恋人よ、君から報われると期待しているのだ」
と、歌い上げるものであるから、
「胸さわぎ」という感じではない。
祖国追放の「苦しみ」だと思われる。

が、曲想からしても、「苦しみ」という感じはない。
「胸さわぎ」かどうかも疑わしいが、
翻訳としての情緒性からすれば、
「胸さわぎ」がそれっぽい。

さて、このCDについて書いておくと、
近年、腕の故障で引退宣言も伝えられる、
1974年生まれの名手が、93年、
つまり未成年のときに、
ベルリンで録音したものである。

テルデック・レーベルへの録音で、
ピアノのゴランを共演者にしての、
ヴィルトゥオーゾ作品集である。

多くが数分程度で終わる小品で、
12曲が収められているが、
この「苦しみ」作品13だけが、
10分を越える規模。

しかし、スタンダールが、
騒々しくもなく、単純すぎもしない、
「完璧な楽譜」から生まれた音楽にしては、
何と、複雑な大曲であろうか。

このヴェンゲーロフというヴァイオリニストは、
渡辺和彦という辛口批評で有名な音楽評論家を、
2000年の来日公演で、
「口をきけなかった」ほどに、
圧倒しつくしたことで知られる名手である。

この人の記事によると、
その十年前の15歳だかの年での来日公演で、
このパガニーニを演奏したとあり、
さらに、このCDについても、
音楽之友社の「ヴァイオリン/チェロの名曲名演奏」で、
「後の世まで残るだろう」と激賞している。

Track1.と3.がヴィエニャフスキで、
「華麗なるポロネーズ第一番」と「伝説曲」が聴ける。
私は、ヴィエニャフスキの濃厚ロマンティックが好きで、
特に「伝説曲」の中間部の濃厚メロディには、
常に胸を熱くしてしまうが、
この演奏、ぎゅうぎゅうと涙を絞り出される感じ。
19歳という年齢で、
このようなコブシが効かせられるのだなあ、
などと妙に関心してしまった。

「ポロネーズ」の方も、切れ味が鋭く、
それでいて柔らかい美感にも優れ、
恐ろしい若者であったことが分かる。
先の渡辺氏が、思わず拍手したと、
などと書いていることも肯ける。
曲の隅々にまで、
オリンピック競技で問われるような完成度が光っている。

Track4.、8.と10.は、
クライスラーで、「美しきロスマリン」、
「中国の太鼓」と「ウィーン奇想曲」。
このあたりになると、
別にヴェンゲーロフで聴く必要は感じないが、
それでも、様々な音色で彩られた
クライスラーという感じで聴かせる。

Track5.のブロッホ「ニグン」になると、
この奏者の集中力と情念のようなものが圧倒的である。
それから、スタミナというべきであろうか。
扇情的な表現が、これでもかこれでもかと、
聴く者の神経に迫って来る。

中間部の祈りのような表現もたいへん激しい。

Track6.と7.は、チャイコフスキー。
「懐かしい土地の思い出」から、
「スケルツォ」と「メロディ」。
凝集力の高い作品の後、
これらのいくぶん伸びやかな作品を挟んでくれて、
とても選曲配置も良いCDだ。

Track9.は、メシアンの「主題と変奏」。
作曲家の24歳の作品で、
若くて活きが良く、神秘的でありながら、
晦渋でないのが嬉しい。
ヴェンゲーロフのような演奏では、
とにかく音が輝かしく、あれよあれよと、
7分半を一気に聞かされてしまう。

Track11.はサラサーテの「バスク奇想曲」。
いきなり情熱的なピアノが意気高揚と発動し、
ヴァイオリンが同様の激しさで入って来る。
この曲に関しても、先の渡辺和彦氏が、
このCDの演奏を賞賛している。
様々なヴァイオリンの技巧による変奏曲といった感じである。
特に左手のピッツィカートのきらきら感に目が眩む。
ヴェンゲーロフは、このような曲では、
その完成度と集中力でオーラを発する。

Track12.バッツィーニの「妖精の踊り」。
ものすごい快速で、かつ鋼鉄の正確さといった趣き。

ということで、このCDの解説は、
Cristian Kuhntという人が書いている。
「過去においても、好都合な環境の影響なくしては、
ヴァイオリニストは、ヴィルトゥオーゾとしての、
輝かしいキャリアを望むことは出来なかった。
音楽に興味のある両親がいて、
まだ初期の段階にある幼い才能に、
この芸術の喜びを伝えることが好ましい。
8歳くらいで、小さなコンクールで、
1位を取って、
サラサーテやヴィエニャフスキ、
クライスラーのように、
例えば、パリのコンセルヴァトワールの
マスタークラスに入る資格を得るべきである。」

めったにヴァイオリンの名手になることは出来ない、
という論調で始まり、そこから、
いったん、名手になるとどうなるかが、
こんな風に語られる。

「または、二、三時間の指導の後、
パガニーニがそうだったように、
独学で楽器を学び、
地方のオーケストラと共演するとか。
もっとマイナーな開催地は言うに及ばず、
パリ、ロンドン、ミラノ、ベルリンや、
ヴィーン、ブダペスト、モスクワのような、
コンサートの場に、トランクいっぱいに詰めて、
出かけて行くことになる。
さらに、ぎっちょで、
不気味な外見であれば、
その芸風も合わせて、
悪魔的で特殊な存在とされ、
成功は請け合いだろう。
彼等は、すべてが重なって、
『魔術師』、『魔法使い』、
『悪魔』、『天使』となる。
演奏会はスペクタクルとなり、
厳格な芸術の楽しみと娯楽の境が曖昧になる。
聴衆は熱狂にさらわれる。
1829年にベルリンで開かれた
パガニーニの演奏会の後、
『Vossische Zeitung』紙の批評家は、
こんな事を書いて、そのイメージを伝えている。
『公衆が加わり出し、
(こう表現するしかないのだが)
弓によるため息や息遣いが、
1000の喉からの、
かすかな呟きによって伴奏された・・。
淑女たちは喝采を見せようと、
桟敷席の手すりから乗り出し、
男たちは、椅子の上に登った・・。』」

何だかよく分からない解説だが、
下記のように、こうしたヴァイオリニストたちが、
作曲活動をも行って来たことが語られる。

「その演奏会曲目を豊かにするために、
多くのヴィルトゥオーゾが独自の作品を作曲したが、
当然、その多くは、その楽器のためのものだった。
ある場合は、しかし、
バッツィーニのオペラのように、
あるいはクライスラーのオペレッタのように、
特別にジャンルを超える場合もあった。
しかし、大部分の作曲活動は、
作曲家の能力に合わせて繕われ、
ヴァイオリンが独奏楽器として、
特別な難易度を克服するような方向を目指していた。
他の作曲家の作品が、
多くアレンジされたことも特筆できる。
イタリア・オペラからの主題を利用するのを
パガニーニは好んだが、そうした中に、
ロッシーニの『タンクレーディ』の、
『何と多くの悲しみ』の主題による
変奏曲からなる『苦しみ』作品13がある。」

私は、この作品の成立の物語などを期待していたが、
やはり、この手のCD解説から、
それを求めるのは無茶だったということか。

しかし、この手の企画は、もっぱら、
演奏家の技巧に酔いしれる事を目指しているだろうから、
永遠に、パガニーニや、サラサーテなどの生涯が、
身近になることはならないような気がする。

このCDの解説は、この後、
サラサーテやクライスラー、
さらにヴィエニャフスキらが、
民族音楽をもとにローカル・カラーを打ち出した事、
チャイコフスキーのものも同様に、
旅で生まれた小品であることを記述。

最後に、ブロッホとメシアンが、
20世紀の作曲家であることに触れている。
このあたりになると、
ヴィルトゥオーゾヴァイオリニストの作品、
という話からずれて来るのは、
やむを得ないのだろうか。

さて、肝心の、パガニーニ作曲、
「こんな胸騒ぎが」による変奏曲であるが、
Track2.に入っているが、
いきなり始まる序奏のピアノの絢爛たる雰囲気や、
続いて高音で歌われるなだらかなメロディが、
ロッシーニの作品とかなり違うことに驚く。

この明るく澄みきったメロディは、
ピアノの簡素な伴奏で歌い継がれるが、
これは至福の時間である。

急に、暗雲が垂れ込めるようになって、
風雲急を告げると、
あの懐かしいロッシーニの音楽が現れる。

これは、まず、快速なテンポで畳みかけられ、
次に、リズムが強調され、装飾音も増し、
強奏されてカプリースみたいに、
重音やスタッカートなどが駆使されて、
名技性を増して興奮していく。

なだらかな部分では、
異常な高音域が駆使されるが、
こうした難所難所を、
ごく普通に聴かせて行き、
かつ、凝集力を感じさせるところが、
ヴェンゲーロフのすごいところであろう。

ヴァイオリン協奏曲のような音の跳躍など、
アクロバティックな表現を絡めつつ、
名残惜しいような音楽になって行く。

最後には、煌びやかなピッツィカートを絡めた、
力強い部分が出て、音楽は勢いを増して、
テンションを高めた後、
だんだんだんだんとアタックを繰り返して終わる。

これは、ロッシーニの音楽が、
一瞬だけ出て来るパガニーニの大奇想曲、
といった感じの音楽である。

リトアニア生まれのイスラエルのピアニスト、
ゴランの美しくシャープなピアノも聴きものである。

さて、前回、書ききれなかった、
ゼッダ指揮のオペラ「タンクレーディ」(ナクソス盤)
の第2幕も、ここで、ざっと続きを紹介しておこう。

CD1のTrack17.
ここからが、タンクレーディの第2幕:
レチタティーボで、
「アルジーリオの居城のバルコニー・シーンから、
第2幕の最初のシーンは始まる。
そこには書き物机と、豪華な装飾の椅子がある。
オルバッツァーノは、アメナイーデが彼を軽視し、
裏切ったことに腹を立てている。
イザウラは、父親に動かされている、
アメナイーデの運命に同情し、
騎士たちにも二つの感情が交錯している。
イザウラは、アルジーリオに、
アメナイーデが実の娘であることを思い出させるが、
彼は、アメナイーデを勘当する。」

ここでは、オルバッツァーノ役のオルセンと、
イザウラ役のディ・ミッコの会話が中心となり、
裏切りを見たか?といった緊迫した状況。

Track18.レチタティーボ。
不安なオーケストラの効果が卓抜である。
「アルジーリオは、出来事に苦悩する。」

Track19.アリア。じゃじゃーんと、
音楽が気分を盛り上げ、この複雑な状況を、
打開しようとするアルジーリオが声を上げる。

「ある者は慈悲の嘆願をし、
あるものは彼の愛国心に訴える中、
アルジーリオは、しぶしぶ、
オルバッツァーノの要求を呑み、
アメナイーデの死刑を宣告する。」

アルジーリオ役のオルセンの声は、
いささか威厳に欠けるが、悩める様子をよく表し、
最後には、少し細く危なっかしいが、
十分に輝かしい声を聴かせている。

この部分では、合唱とのブレンド感も美しい。
ファンファーレが鳴り響き、オーケストラも、
裏切り者の娘を、自ら罰しなければならない、
悩ましい父親の状況をサポートして、
魅力的な音楽を奏でる。

以下、CD2となる。
CD2.
Track1.レチタティーボ。
「アルジーリオと他の人たちが立ち去った後、
イザウラとオルバッツァーノが残る。
彼女は、彼の残忍さを責める。」
ディ・ミッコの声は、メゾなので、威厳がある。

Track2.アリア。
「オルバッツァーノが去ると、
イザウラはアメナイーデのために、
神の助けを求める。」
クラリネット助奏付きのアリアで、
美しいものだが、もう少し、歌手には、
切れ味があってもよいような気もする。

Track3.
「シーンは変わり、門に警備がいる牢獄である。
アメナイーデは繋がれており、
なおも、彼女の不実を疑わない
タンクレーディのために死ぬ運命を嘆く。」
スミ・ジョーの歌は、線は細いが、
良く伸び、危なげもなく、
この状況下での嘆きをびしっと決めている。

Track4.カヴァティーナ。
「愛のために死ぬのは、残酷な運命ではない。
いつか、タンクレーディは真実を知るだろう。」
アメナイーデの聴かせどころの、
美しいアリアである。
装飾音も余裕でこなしながら、
スミ・ジョーの声に浸れる部分。

スタンダールも、この部分を、
「第2幕はのっけから心地よいフレーズがある」と書いた。

Track5.レチタティーボ。
騎士たちに護られたオルバッツァーノは、
正義を求め、この時点で、誰が、
アメナイーデを護ろうとするか、
というと、タンクレーディが割って入り、
彼女の罪は認めるが、アメナイーデを救うと言う。
彼は、長手袋をオルバッツァーノの前に投げ、
彼はその挑戦を受ける。
アメナイーデは、無実を主張するが、
タンクレーディは信じない。
彼は、単に、懲らしめに来たのである。」

Track6.レチタティーボ。
「アルジーリオは、この未知の騎士を抱き、
正体を知ろうとする。」

Track7.二重唱。
「アルジーリオは、
娘を擁護しようとする者の正体を知ろうとする。」
このあたりは、非常に心に残るシーンで、
メロディも美しく、声の強力さを味わえる場面でもある。
スタンダールは、「深い憂愁で始まる」と書いた。

「トランペットが鳴り、タンクレーディは戦いにのぞみ、
アルジーリオは祝福を与える。」
意気高揚とした中、ポドゥレスの野太い声を味わえる。
スタンダールも、
「いかにも中世にふさわしい感動的な熱狂」と書いた。
「きわめて巧妙な」トランペットに関しても、
「巨匠の芸」と絶賛している。

しかも、タンクレーディが剣を抜く瞬間のメロディを、
「高貴・真実味・斬新さは非の打ち所がない」とある。

Track8.レチタティーボ。
「イザウラから状況が変わった事を知ったアメナイーデは、
守護者に対する神の加護を祈り、
タンクレーディが戻って、無実を知ることを求める。」

Track9.アリア。
この合唱付きアリアもその感情の起伏と、
素晴らしく散りばめられた装飾ゆえに聞き所である。
「アメナイーデは助けを乞い、
タンクレーディ勝利のニュースが来て、
アメナイーデと支持者は喜ぶ。」

Track10.合唱曲。
「広場に街の人々が集まり、兵士や騎士が行進してくる。
人々に付き添われ、タンクレーディは戦闘馬車に乗り、
トロフィーのように、オルバッツァーノの武具を見せる。
人々は歓喜する。」

Track11.「タンクレーディは勝利に酔いつつも、
シラクーザを離れ、どこか異郷で死ぬと決意する。」

Track12.レチタティーボ。
「アメナイーデは彼に近づくが、彼はなおもその誠実さを疑い、
不実だと信じている。」
以上は、特に声の見せ場がない緊迫したシーンだが、
以下に、強烈な見せ場が来る。

Track13.デュエット。
「タンクレーディは彼女の言葉を聞こうとせず、
それなら殺してと、彼女は説得を試みる。」
別れの二重唱である。切実な感情が美しく歌われる。
コーダでは、激しい感情が炸裂し、
これまた素晴らしいシーンだ。
「彼等が去るとき、タンクレーディはロッジェーロに来るなという。」

Track14.レチタティーボ。
「ロッジェーロはボスから離れられず、
しかも、イザウラから、アメナイーデの無実は、
証明できると聞かされ、タンクレーディに希望があると知る。」

Track15.脇役に終始していたロッジェーロのアリア。
レンディという人が上品に歌っている。
「ロッジェーロは、アメナイーデが無実なら、
タンクレーディが安らかに暮らし、
愛の松明が再び輝くと考えて喜ぶ。」

Track16.「渓谷とアレズラの泉の滝が見える、
山嶺のシーン。遠方にエトナ山が見え、太陽は西に傾き、
海を照らしている。洞窟があって、その前で、
タンクレーディは、ある人が忘れられない悲しい運命を嘆く。」
ここも、ポドゥレスの暗めながら強い声が、効果を発揮している。

Track17.合唱。
「シラクーザの騎士たちが、
ソラミールに対抗する闘志だとしてタンクレーディを探す。」
この前聴いた、ロベルト・アバドの版では、
ハッピーエンド版は、この合唱が敵軍の合唱だとされていた。

Track18.レチタティーボ。
「アルジーリオとアメナイーデ、騎士や兵士らが、
その正体をアメナイーデが暴いた、その英雄を探し出す。
タンクレーディはしかし、アメナイーデの無実が信じられず、
シラクーザのために戦って死ぬことを求める。」

Track19.ロンド。
「タンクレーディは戦いの中で死ぬという。
そして戦いに駆り立てられる。」
ここでも、ポドゥレスの宿命を感じさせる音色に惹かれる。
主役の最後の聴かせどころの7分近い大曲である。

Track20.レチタティーボ。
「イザウラとアメナイーデは戦いの行方を待つ。
勝利の声が上がり、アルジーリオは、
ソラミールを倒した、タンクレーディを連れ帰る。
ソラミールは、アメナイーデの無実を保証していた。」

この2分の間に、都合良く、すべて解決してしまう。
アメナイーデが悩んでいるのは30秒程度だ。
こりゃ不自然だと考え、ロッシーニが、
フェラーラ版を書きたくなったのも分からないでもない。

Track21.第2幕フィナーレ。
「恋人たちは、再び結ばれ、アルジーリオとアメナイーデは、
喜びを表現し、タンクレーディと分かちあう。
そして、イザウラとも。彼等は大団円を言祝ぐ。」

そうはいっても、このフィナーレは簡潔に、
喜ばしさを表現していて楽しいものだ。

得られた事:「同時代者であったスタンダールらは、ロッシーニの『タンクレーディ』を、『完璧な、純粋な音楽』として捉え、パガニーニもそれにあやかった音楽を書いている。」
「ゼッダ指揮の『タンクレーディ』はハッピーエンド版ながら、タンクレーディを探す合唱は、サラセン人ではなくシラクーザの人々になっている。」
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by franz310 | 2012-03-24 22:45 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その320

b0083728_1440493.jpg個人的経験:
ロッシーニの「タンクレーディ」は、
ややこしいことに、
2種類の結末を持つことで有名で、
両方の版を収録したCDもある。
しかし、多くの場合は、
20世紀の後半になってから
発見されたフェラーラ版による
悲劇的結末の録音が多いようである。
やはり、ヴォルテールの原作に、
近い方が自然であろうという判断か。


音楽之友社から出ている
河合秀朋著のONブックス、
「オペラ・アリアの名曲名演奏」(1995)では、
このオペラのためにも、
一章を設けた貴重な入門書であるが、
「ロッシーニは何度も改訂、
三八種の版があるといわれ、
タンクレディが死ぬ悲劇版もある。」
と書いていて、
むしろ、ハッピーエンド版が普通でしょ、
という書きぶりである。

実際、悲劇で終わるフェラーラ版は、
失敗作とみなされて、
歴史的には、いったん姿を消していたわけで、
ハッピーエンド版がそもそもオリジナルなのである。

というわけかどうか分からないが、
この「悲劇版」全盛の時代に、
すかっと、「ハッピーエンド版」を聴かせるのが、
スペシャリスト、アルベルト・ゼッダ指揮による、
1994年録音のNAXOS盤である。

しかし、今回のこのCD、
この混乱した版の状況に、
拍車をかけるのを狙ったかのように、
表紙デザインが意味不明である。

「ロッシーニの『タンクレーディ』のためのスケッチ」
と題されており、
1952年にBruno Cagliという人が描いたようだ。
不気味な黒ずくめの人物が、
剣を持ったギリシャ風の戦士と握手しているが、
スケッチと言われるだけあって、
全てが不明瞭である。

何とはなしに、不気味な、
不吉なイメージは伝わって来る。
「悲劇版」にこそふさわしいようなデザインである。

が、1952年ということであれば、
ハッピーエンディング想定の絵画だということだ。
(悲劇版は、1974年まで発見されなかったようなので。)

ということで、表紙は不気味だが、
内容はハッピーエンドという、
矛盾した様相を呈した商品となっている。

いくつかの舞台収録DVDを見たので、
この絵画が表しているのは、
おそらく、タンクレーディが、
恋人アメナイーデの父親アルジーリオに対し、
サラセン軍打倒に手を貸そうと、
歩み寄ったシーンではないかと類推できる。

イル・ド・フランスのポワシー劇場における収録とされ、
コレギウム・インストゥルメンターレ・ブルジェンセ
という聴いた事のない団体による演奏である。

ただし、帯には、
「ナクソスのオペラ録音でも最高の成果と絶賛される名演」
とあり、アメナイーデには、
人気の韓国の歌手、スミ・ジョーが起用されている。
また、表紙にもなったアルジーリオには、
アメリカのスタンフォード・オルセン、
タンクレーディには、
ポーランドからエヴァ・ポドゥレスが当てられている。

この人たちを束ねた指揮者ゼッダは、
そもそも、フェラーラ版が発見された時、
これぞ、幻のフェラーラ版とお墨付きを与えた、
ロッシーニの専門家なのである。
それでも、ハッピーエンド版を選んだ。

嬉しい事に、このCD、
安いナクソスの流通価格にもかかわらず、
解説がしっかりしていて、
「この録音の際、ロッシーニの音楽の本質の分析と、
『タンクレーディ』のようなオペラの解釈について、
アルベルト・ゼッダに行ったインタビュー」
として、
この指揮者の言葉も読むことが出来る。

さすが、スペシャリスト。
一言、言わずには居られなかったものと見える。
「ロッシーニの古典性:
芸術の現実的なコンセプトのもとに作られた、
ロマンティックなオペラとは違って、
歴史的や物語の真実らしさに関しては欠落があり、
ロマン派にとって大切な心理的な細部や、内省を嫌った、
ロッシーニの音楽は感覚の理想化に偏りがちである。
本質的で逸話風でない主人公を、
情念から解き放つべく、
ロッシーニは、詩人が単語を操るように、音符を操り、
彼等の直接的な感覚の後ろにある真実に到ろうとする。
ベッリーニやヴェルディのような
ロマン派の作曲家が与えたメロディの優位性は、
ロッシーニにおいてはない。
彼の音楽的語法はシンプルで、
偉大な内省的なメロディも、
主題の長大な展開もない。」

味わい深い示唆である。
メロディよりも重視すべき「真実」があった、
とは、驚嘆すべき論旨である。

「ロッシーニのフレーズは、
非常に短いメロディのいくつかの小節からなる、
マイクロ・セルから組み立てられており、
しばしば、キャラクターを引き立て、
例えば、『セビリャの理髪師』の、
中傷のアリアのように、同じような動きで、
何度も繰り返され、ほとんど頭から離れなくなる。
こうしたリズムの繰り返しは、
単なる偶然ではまったくなく、
非常に厳密な計算に基づいている。
こうした形式的な組み立て、
短いメロディの断片、繰り返し、
単純で力強いリズム、均衡の取れた構成、
極めて単純な和声、主音と属音の交錯が、
ロッシーニを形式的には古典的な作曲家としており、
同時代者からも、彼はそう思われていた。」

「ロッシーニにはメロディの優位性はない」と、
談じているあたり痛快であったが、
マイクロセルの集合体という考え方も、
非常にストレートに私には響く。

これまで、私は、ロッシーニには、
うっとりするようなメロディはなく、
それが、彼の音楽を難しくしていると思っていた。
私も、実は、代表作「セビリャの理髪師」などのアリアを、
単独で楽しんだことはなかったのである。

しかし、初期の短いファルサから親しんで来て、
ようやく、彼の語法に慣れ、
そうした要素とは別の所に、
彼の音楽の強烈な魅力があることを、
学ばされることとなった。

まだまだ、ゼッダの解説は続く。

「ロッシーニの音楽のに二律背反性:
同様の理由から、ロッシーニの音楽は、
一般に鑑賞しやすく感じられるが、
この第一段階の鑑賞法は、
彼のドラマチックなオペラでは十分ではない。
これらの作品は、音符そのものは表現を生まず、
『トラヴィアータ』や
『蝶々夫人』のようなオペラとは異なり、
メッセージは隠されたものになっている。
一般にロッシーニにおいては、
同じ作品が、全く反対の深い意味を持っていたりする。」

こりゃまた、かなり難しいところまで書いている。
確かに、例として上げられたものはすべて、
感傷的で、そこで語られている情念が全てのような作品だ。

そこからすると、「試金石」にしても、
初期のファルサ群にしても、
何か、人間の営みの虚しさみたいな、
文明批判があるとも思える。

「解釈者の自由と責任:
こうした条件から、
もっと現実的な作品においてでなくとも、
どうすれば同様に、
真実に到ることが出来るであろうか。
彼は、事実、演奏者と聴衆とさえの、
能動的な協力関係を求める。
その言葉や内容以上に、
一般的な感情の雰囲気である
『アフェット(魂の揺さぶり)』が、
ロッシーニのアリアを特徴付けている。
このコンセプトは、バロックの伝統に遡り、
驚異、驚愕、驚嘆の美学から生じたものである。
ロッシーニの声楽の書法は、
並外れた声楽家の技巧に依存しており、
全てが『アフェット』を目指している。」

とにかく、魂が揺さぶられること、
と訳すと、トラヴィアータや蝶々夫人の世界になる。
ゼッダは、別の事を言いたかったはずで、
行間から妄想するしかない。

「このような理由から、ロッシーニは、
繰り返しのパッセージにおいて、
音楽表現をモディファイすることを、
演奏者の自由に任せている。
導入のカデンツァや変奏において、
彼は歌手にドラマティックな状況に応じた、
表現力を持ち込むことを認め、
その音域や能力の最大到達点で、
その声を駆使できるようにしている。」

以上がゼッダの言葉であろう。

アフェットゥオーソという音楽記号があるが、
「愛情をこめて」と訳されるが、
「驚愕」とか「驚異」とあるから、
もっと、ぶるぶるしなければなるまい。
それなら、ちょっと分かるかもしれない。

この記事はインタビューとあったが、
最後に、こんな難解な一言が添えられている。

「まさにこの点で、
正確な特徴に対し創造的研究が求められ、
タンクレディの今回のバージョンで、
アルベルト・ゼッタが実践した、
カデンツァや変奏は、
こうした現代的な実践の精神に寄っている。」

ということで、ゼッダが、
何故に、ハッピーエンド版を選んだかは書かれていない。
(ハッピーエンド版だと、CD2枚で収まるから、
とかではないだろうな。
CD1が75分、CD2が72分で、計150分に満たない。
悲劇版では、160分以上かかったはずだ。)

が、先ほどの解説を素直に解釈すると、
ロッシーニにおいては、
聴衆と心がぶるぶるするのが共有できればいいので、
リアリズムは二の次である、という解釈にて、
この明解な方の版を選んだと考えることも可能だ。

このような文章の先入観からか、
このCDの魅力は、
ゼッダの骨太の音楽作りにあることが痛感され、
歌手たちもそのコンセプトによく従っていると思う。

さて、このナクソスのCDにも、
「タンクレーディ」の版のことは、
下記のように簡単に解説されている。

「1760年のヴォルテールの悲劇をもとにした、
ロッシーニの『タンクレーディ』は、
1813年2月6日、
ヴェネチアのフェニーチェ劇場で初演されたが、
タンクレーディが生き残って、アメナイーデと結ばれる、
というバージョンによるものだった。
同じ年の四旬節、タンクレーディの第2版が上演されたが、
この時は、ヴォルテールのオリジナルの悲劇的結末に変更されていた。
ミラノでの新しい劇場での1813年の上演でもさらに修正が加えられた。
今回のものはオリジナルのハッピーエンドである。」

かなりあっさりしたものである。

カロリーネ・ポリカーペ女史が書いた解説を読んでみよう。

「タンクレーディとロッシーニの音楽:
ロッシーニのコミック・オペラの成功は、
彼のシリアスなオペラの作曲家としての重要さを、
追い払ってしまった。
良く知られた大成功の後、
作曲家の生前から、この作品はたちまち忘れ去られた。
特にロマン派オペラの誕生など、
音楽芸術に重大な変化が起こった時期にあって、
『泥棒かささぎ』が、彼の晩年に再演された時、
当時の批評家は、
『40年もたって、昔の愛人に会ったみたいだ』、
と表現した。
このことは、ロッシーニの作曲スタイルから、
いかに時代の精神が変化したかを示しており、
何故、彼のシリアスなオペラが、
事実上、レパートリーから、
消え去ったかの理由がわかる。
スタンダールがロッシーニの傑作と考えた、
『タンクレーディ』においては、
イタリアオペラにおいて生じていた問題に対して、
作曲家は新しい解決を見いだしている。
19世紀の最初の何年かは、実際、
新しい性格やドラマ的状況を導くリブレットに、
新しい主題を入れ込むことは、
すでに存在したオペラ・セリアの伝統に、
別の表現手段や劇的なアクションを要求した。
『タンクレーディ』には、
それゆえ、当時の伝統からは例外的な、
フェラーラのために用意された、
悲劇的終曲だけでなくとも、
叙情的表現と劇的アクションの総合を実現する、
新様式に新手法が見られる。
ロッシーニはここに達するために、
『タンクレーディ』のなお伝統的な形式
(レチタティーボが挟まる並列ナンバー)にもかかわらず、
瞑想的なパッセージとより劇的な部分を交錯させる
巧みなアリアの挿入や、
レチタティーボに独特の処理、
オーケストラの表現力豊かな活用を行った。」

このような特徴は、何となく分かる。
明確に対比された楽想の交錯や、
詩的なオーケストラは、随所に見受けられるものだ。

今回のCDの聴きものは、
ゼッダの指揮もさることながら、
タンクレーディ役の
ポドゥレスの魅力に負うところが大きいと思う。

解説を見ると、ワルシャワに生まれ、
1982年から国際キャリアを歩み、
チャイコフスキー・コンクールなどで賞を取っているらしい。
ヴァレンティーニ・テッラーニや、
マリリン・ホーンの伝統を受け継ぎ、
輝かしいトップCに到るコントラルトの声だとある。
1993年には、スカラ座で、このタンクレーディを歌って、
成功したとあるから、かなり自信と気迫に満ちた、
声を響かせて、まことに溜飲が下がる。

また、最後に戦場に向かう、
「なぜ平安を乱す」(CD2のTrack19)なども、
圧巻の名唱である。

「こうした処置は、ソロのアリアのみならず、
二重唱、第1幕最後の重要なアンサンブルなどをも、
特色づけている。
『タンクレーディ』においてロッシーニは、
ドラマ性、叙情性、音楽的要素の完璧な熟達を見せている。」

第1幕のフィナーレなどで、
この素晴らしいアンサンブルの効果が、
作品としては、我々の度肝を抜く。

アンサンブルとなると、ポドゥレスのたくましい声に対し、
スミ・ジョーやスタンフォード・オルセンの声は、
透明度が高く、やや異質な感じがしないでもない。

例えば、第1幕のフィナーレなど、
やはりアメナイーデの半狂乱が重要で、
聴衆をアフェットさせるだけの魂の底からの迸りが欲しい。

が、このような小さな点を、
ことさら強調する必要があるかは疑問で、
よどみなく流れる音楽の力に酔いしれ、
最後の第2幕フィナーレを歌い出す時の、
スミ・ジョーの晴れやかで澄んだ、輝かしい声を聴くと、
かなりの不満は吹き飛んでしまう。

あらすじ:
1005年、シラクサで起こった事。
CD1.
Track1.序曲。
正統的で充実した響き。単色系で色彩感に欠けるが、
ストレートな表現で良い。

Track2.動入曲、「平和、名誉、忠誠、愛」。
「議会のリーダーであるアルジーリオの宮殿の群衆。
彼と一緒にイザウラ、彼女の従者たち、騎士たちがいる。
二人の従者が、白いスカーフの入った銀の杯を運んでくる。
他の騎士たちが到着し、お互いに赤青のスカーフを、
白のスカーフに交換する。」

これは、赤い派閥と青い派閥があるからと思われ、
白に変えて和睦を象徴しているのだろう。
これまで、二つのDVDを見たが、このように、
スカーフを交換するような演出じは見た事がない。

「騎士たちは、アルジーリオとオルバッツァーノという
リーダーの下に集まった派閥間の抗争の終結を祝うことになった。
二つの派閥は統一されたのである。
アルジーリオは、二つの派閥が和解してシラクサは平和だと宣言する。」
合唱に、アメナイーデの友人のイザウラが絡むが、
ここでは、アンナ・マリア・ディ・ミッコが歌っている。
アルジーリオを歌う、オルセンと共に、解説では、
わざわざ、若い歌手だと書かれている。

検索してみると、いずれも舞台映えしそうな二人だ。

その後、頭目のアルジーリオや、
オルバッツァーノが声を合わせて行くが、
後者はスパノーリで、ロッシーニを得意としているらしく、
声量はないが安定した感じ。

速いテンポで、どんどん進んで行く感じが良い。

Track3.レチタティーボ、
「さあ、ところで、勇敢な騎士たちよ。」
アルジーリオは、ムーア討伐のリーダーに、
オルバッツァーノを指名する。
オルバッツァーノはしかし、
特に、追放されたタンクレーディなど、
内部からの裏切りが出ることを警告し、
イザウラはうろたえる。
アルジーリオは娘のアメナイーデを呼ぶ。」

Track4.合唱とカヴァティーナ、
「晴れ上がったこの佳き日に」。
「アメナイーデは、調和と愛の勝利の歌と共に、
従者と共に現れる。
彼女は、そこに喜びを加え、彼女のもとに、
密かに呼び寄せておいた愛するタンクレーディが、
いないことに一人、不安を感じる。」

これまた、快適なテンポによって、
合唱とオーケストラが朗らかな響きを聴かせる。
続いて、スミ・ジョーの登場シーンであるが、
澄んだ声が美しいが、押しつけがましさも欲しい。

Track5.レチタティーボ、
「おお娘よ、もう既に決まったことだ」。
「アルジーリオは、アメナイーデに、
オルバッツァーノと結婚するよう告げる。
オルバッツァーノは、彼女に愛を告げ、
結婚の約束を父親とした事を告げる。
彼は、すぐに婚儀を迫るが、
彼女は1日待って欲しいと言う。
皆がいなくなると、イザウラは一人、
すでにタンクレーディと誓った、
アメナイーデの境遇を嘆く。
『不幸なアメナイーデよ、
何とあなたにとって恐ろしい日でしょう。』」

Track6.レチタティーボとカヴァティーナ。
「おお祖国よ、大いなる不安と苦しみの後で」。

いよいよ、主人公の登場シーン。
オーケストラの繊細な情景描写も出色であるし、
後半は、このオペラで、最も有名なアリアが出る。

「シーンは変わって、宮殿の心地よい庭園。
庭は海岸と海に面し、船が近づいて来る。
ロッジェーロがまず下船し、
タンクレーディと手下たちも続く。
彼はまだアメナイーデの手紙を受け取っていなかったが、
生まれ育った街を外敵から守り、
愛するアメナイーデと再会することを決めている。」

ポドゥレスの登場であるが、
最初は、祖国への厳粛な挨拶なので、
彼女の底力は秘められている。
「彼は祖国に挨拶し、アメナイーデの事を考え、
彼の行いで彼女が苦しんでいることを詫び、
ただ、再会を願う。」
オーケストラの合いの手が入るあたりから、
ヴォルテージがアップして行き、
有名なアリアへと続く。

この人の声には、何か濁ったところがあって、
それが、妙な迫力を感じさせ、
装飾音が入ると、この魅力が倍増する。

Track7.レチタティーボ。
「ここがアメナイーデの住んでいる館だ。」
「彼は忠臣ロッジェーロにメッセージを持たせ、
アメナイーデのもとに走らせ、
不安の中でロッジェーロを待つ間、
見知らぬ戦士が都市の警備に遣わされて来たことを、
騎士たちに告げる。
タンクレーディが去って、まだ、声が聞こえる距離にいる時、
アルジーリオとアメナイーデが庭園にやって来る。
アルジーリオは、手勢の騎士たちに、
友人達を正午からの娘の婚礼に招くことを命じ、
彼女には服従を求める。
騎士たちが去ると、アメナイーデは、
婚礼を延ばして欲しいと願い出るが、
しかし、アルジーリオは、シラクサは危機に瀕していると告げる。
彼女に求婚している敵の指導者、ゾラミールが、
都市を包囲しており、タンクレーディが帰還したという噂から、
復讐を狙っている。
議会はいかなる反逆者も死をもって罰すると決め、
ムーア軍に対してシラクサ軍を率いる
オルバッツァーノと彼女は結婚しなければならない。」

Track8.レチタティーボとアリア。
「アルジーリオはアメナイーデに、
議会はいかなる反逆者にも死を宣告すると告げ、」
Track9.「彼は、彼女に、
自分の娘であることを思い出させる。」

ここでは、オルセンの歌う高らかな宣言が聞かれるべきだが、
統治者の厳格さよりも、リリカルな感じがするのが惜しい。
このあたりの音楽の冴えた感じは、
しかし、ロッシーニの青春の輝きと言うべきか。

Track10.「何て早まったことを!」。
「アルジーリオは出て行き、
アメナイーデは、差し迫った危機から、
タンクレーディを呼んだことを後悔する。
タンクレーディがその時現れ、彼女は狼狽する。」
せっかくの恋人同士のひとときを、
運命が狂わせて行く部分。

Track11.レチタティーボと二重唱。
「ああ、最悪の時を選んだのね。」
「アメナイーデは、タンクレーディに逃げるよう告げ、
彼の愛の言葉に冷たく接する。」

Track12.「あなたを取り巻くこの大気は」。
「まさに彼が息をするごとに危険は迫る。
彼等は、別れの必要を感じながら、お互いの状況を嘆く。」
二重唱であるが、スミ・ジョーの軽快な声と、
ポドゥレスの声のアンサンブルの対比を楽しむことが出来る。
ロッシーニの音楽もたいへん美しく、
恋人たちのアフェットな情感を盛り上げている。
スミ・ジョーの可憐な声が、これに貢献していることは確かで、
ポドゥレスもここでは脇役になりがちで分が悪い。

Track13.合唱。「愛よ降りて来い、喜びよ降りて来い」。
ファンファーレを伴う行進曲調の楽しい音楽である。
「続くシーンは、市の広場で、
ゴチックの壮麗なカテドラルに続く、
城壁が見える。古代のモニュメントが飾られ、
婚礼を見ようと人々が集まっている。
貴族たちは愛と喜びを述べ、
兵士と騎士が入場、位置に付く。」

Track14.レチタティーボ。
「友よ、騎士たちよ、教会へ行こう」。
「アルジーリオは参加者に挨拶し、
この婚礼がシラクーザの争いを和解させると述べる。
アメナイーデが、オルバッツァーノと結婚して裏切ったと思い、
変装したタンクレーディは、
忠誠をアルジーリオに誓い、敬意を表する。
アメナイーデは、命と引き替えにでも反抗し、
いよいよ、父の言いつけを拒む。
タンクレーディは、それを聴いて喜ぶが、
入って来たオルバッツァーノは、
アメナイーデの不忠を聴き、証拠を持って怒り狂う。」

Track15.「誰から?何故。」
「オルバッツァーノはアメナイーデが、
タンクレーディに書いた手紙が手に入ったのを見せ、
これは、秘密の恋人ソラミールを、
市中に引き入れ市を占領させようと、
彼に送ったものと考え、この背信は死に値するという。
アルジーリオは手紙を読み、
彼とタンクレーディは失望を口にする。」

Track16.
第1のフィナーレ。「神よ、何ということを。」
「アメナイーデは偽りの告発を嘆く。
そこにいた人々は恐怖をもって、この暴露に反応する。
アメナイーデは父に向かうが勘当され、
タンクレーディに向かうが、ここでも拒絶される。
オルバッツァーノは仕返しをする。
イザウラ以外はすべて手のひらを返す。
アメナイーデは、すべてが嘆きに変わる中、
牢獄へと引かれる。」

これまでのDVDで、ここで、アメナイーデが、
牢獄に入れられたものはなかった。

この部分は、このオペラの最大の見せ場と言ってもよい。
アメナイーデを中心に、
3人の男性(タンクレーディは女性が担当するが)と、
イザウラのアンサンブルが、合唱を背景に、
ぞっとするような状況を盛り上げて行く。

アメナイーデの懇願のテーマが美しく、
輝かしい一条の光となって、
この混乱の音楽を照らして行くが、
ことごとく粉砕されてしまう。

アメナイーデが、次々に嘆願をするので、
ここでは、スミ・ジョーの声が、
澄んで冴えているのが効果を上げている。
が、最初に書いたように、
音楽作りがストレートで、
あまり、陰惨な感じがしない。

これで第1幕は終わり。
第2幕以下を書くスペースがなくなってしまった。

得られた事:「ロッシーニは、アリアにメロディよりも重要な事があると考えた。それは、『魂が揺さぶられる』ような真実を目指す事であった。」
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by franz310 | 2012-03-18 14:48 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その319

b0083728_0275517.jpg個人的経験:
前回、ジェルメッティの
指揮によるDVDで聴いた、
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」。
ヴェネチア初演版
ハッピーエンドも、
聴ける企画かと思ったら、
基本は、フェラーラ版で、
アンコールの一部に、
それが使われているだけだった。


しかし、今回取り上げる、ロベルト・アバド指揮、
主役にゴージャスな二人、カサロヴァとメイを揃えた、
BMG盤は、二つの版の相違の比較をコンセプトにしており、
3枚組で、収録時間が205分に及ぶ画期的代物である。

これは、日本盤も発売されたはずで、
この素晴らしく豪華なイメージの表紙を、
店頭で見かけた記憶もあるが、
買う機会を逃し、
私が持っているのは同じデザインの輸入盤である。

カサロヴァが英雄らしく剣を持ち、
メイは王女にふさわしい威厳を持って表されているが、
ショートカットなので、当時は男役かと思っていた。
バックの壁紙のテイストも冴えている。

65年生まれのカサロヴァは90年代に出て来て、
私は、ベルリオーズの歌曲集などを買った記憶があり、
69年生まれのメイは少し遅れて出て来たイメージ。
この録音が1995年なので、
彼女らのデビューしたての時期の録音。
メイに至っては20代前半ということになる。

メイの歌唱は、第1幕の最初の方(Track4)から聴けるが、
第一印象としては、まだ若いということか、声が細い。

この事は、CD2のTrack9の、
決闘の結果を待つ「神よ護ってください」でもそうで、
きれいな熱演ながら、もっと迫力が欲しい感じもする。

カサロヴァは続いてTrack6で登場。
この人も30歳かそこらであったわけで、
そのせいか、美しい声と技巧ではあるが、
それほど、英雄的な声が出ているわけではない。

Track11の二重唱などでは、
彼女らの技巧を駆使した声の綾を聴くことが出来る。
非常に上品で美しいものである。

Track16の第1幕の終曲で、
アメナイーデの嘆願のシーンがあるが、
このあたりも、
若いメイの可憐さはよく出ているが、
カサロヴァの声には、今ひとつ、
年季の入った威厳に欠けている。

しかし、このあたりは、王女の威厳も何もなく、
哀れを誘うシーンであるから、
表紙写真のメイは、もう少し、
優しそうな顔をしても良かったと思う。

アメナイーデは、特に王女として、
英雄的な行動を取るわけではなく、
運命の食い違いに、
単に翻弄されているばかりの役柄にも思える。
それに耐える、耐えるという点でのみ、
英雄の恋人にふさわしい。

この第1幕のフィナーレ、ロベルト・アバドの指揮も、
非常に見通しが良く明解で、
すべての登場人物の声が織りなす音響の魅力を、
心底味合わせてくれている感じだ。
54年生まれなので、この人も41歳の時の記録。

また、CD2のTrack12にある、
戦場に向かうタンクレーディと、
アメナイーデの別れの二重唱でも、
このメンバーらの、透明な質感、
洗練されたアンサンブルを聴くことが出来る。

第1幕がすっぽりとCD1に収まっているのも嬉しい。
また、第2幕も主要部分はCD2に収まっている。

もう一人の重要人物、
ヒロイン、アメナイーデの父アルジーリオも、
ラモン・ヴァルガスが歌っているが、
この人も1960年生まれなので、
録音当時35歳で、統治者としての威厳よりも、
ピュアな若者の声を聴かせている。

CD2のTrack7で、アルジーリオと、
タンクレーディの涙に溢れる二重唱があるが、
ここでも、ヴァルガスとカサロヴァは、
みずみずしい声を聴かせ、若者同士の場面に聞こえる。
いや、声が低い分、カサロヴァの方が、
落ち着いた年配者に聞こえる。

実際に決闘に趣くのはカサロヴァの方なのに、
ヴァルガスの方が血気にはやっている。

後で、解説に、ロッシーニの「タンクレーディ」を、
若々しくてピュアな音楽という賛辞が出て来るが、
この録音は、そんな作品にふさわしく、
全体的に若い音楽家たちによる、
新鮮で、伸びやかな、すっきりした演奏を記録したものと言えよう。

2000年に出た新書館の「オペラ名歌手201」では、
カサロヴァの代表盤になっていて、
この手の書籍には珍しく、「在庫僅少」と書かれている。

何と、この録音、改めて見ると、
ミュンヘン放送管弦楽団の演奏で、
合唱はバイエルン放送の合唱団。
改めて、ドイツ人がロッシーニに熱いことを感じた。

しかし、さすが、世界レーベルBMGで、
「ヴェネチアからフェラーラへ、喜びから悲しみへ」
という解説は当時シカゴ大学教授であった、
フィリップ・ゴセットという人が書いている。
19世紀イタリアオペラの権威である。

「作家であり、最初のロッシーニの伝記作家であった、
スタンダールにとって、
タンクレーディは、ロッシーニの素晴らしい到達点であった。
19世紀の最初の何十年かのヨーロッパの聴衆にとっては、
イタリアオペラの方向を決めるような作品であった。
ヴァーグナーは、この方向は軽蔑を持って妬んだが、
タンクレーディは、
単に『大いなる不安と苦しみの中で』
のような曲があるだけであるとして、
マイスタージンガーで、
やがて、それをからかうようになる。
一世紀にわたって演奏されなかった
ロッシーニのシリアスなオペラは、
ここ25年ほど聴かれるようになっている。
タンクレーディは興味をそそるもので、
その歴史からも興味深いものである。
英雄が死んで終わる劇が、
オペラでは、ハッピーエンドとなっている。
作曲家はこれを改訂し、悲劇の終結を書いたが、
聴衆は喜ばず、元に戻すことになった。
悲劇的終結の伝説は残されていたものの、
イタリア貴族がその私設アーカイブで、
ロッシーニの手稿を見つけるまでは、
音楽は失われたと思われていた。
彼等はペーザロのロッシーニ協会にこれを知らせ、
学者たちは、それがタンクレーディの
悲劇的フィナーレであると認めた。
そしてロッシーニ・ルネサンスの主導的歌手であった、
マリリン・ホーンがその悲劇的終曲を採用して舞台にかけた。」

ということで、
これまでも読んで来たような事が書かれている。
ただし、以下には今回のこの録音の重要さが書かれている。

「この録音は、タンクレーディの全ての音楽を収めたという、
通常の録音を越えたものである。
まず、1813年2月6日のヴェネチア初演の、
タンクレーディの第2登場アリアを含む
ハッピーエンド版をすべて収めている。
また、ここには、悲劇的終曲を持つ、
同年3月の終わりにフェラーラで再演された、
新しい音楽もすべて収めた。」

ということで、前回のジェルメッティ盤のように、
フェラーラ版に、ちょろっとヴェネチア版を、
垣間見せたものではない。
この「all the music」を繰り返すのが圧巻だ。

「ヴェネチア:
スタンダールのメモには、
ロッシーニのタンクレーディの
『処女作の素直さ』があると書き、
『タンクレーディの音楽で心を打つのは、
その若々しさゆえである・・・
すべてはシンプルで純粋だ。
ここには過多なものが一切なく、
その素朴さ故に天才的である。』
これは文字通り、また、象徴的にその通りで、
まだ21歳の誕生日も祝っていない若者が書いたもので、
タンクレーディはロッシーニの
最初の重要なオペラ・セリアなのである。
1810年から1813年のはじめまでは、
作曲家はそれほど忙しくなかった訳ではなく、
9曲もオペラを書いている。
ヴェネチアのサン・モイーゼ劇場のために、
5曲のファルサ(一幕ものの喜劇または感傷もの)を書いたが、
この街はこうした活動の中心地であった。
しかし、ロッシーニが名声を確立し、
全欧州に飛躍するキャリアの出発点は、
タンクレーディをフェニーチェ劇場で上演した時であった。
ガエターノ・ロッシのリブレットは、
1760年パリで上演された悲劇、
ヴォルテールの『タンクレード』によるものだった。
ヴォルテールの劇の悲劇的終結部は、
台本作家にもイタリアの聴衆にも、
当時のイタリアオペラにはふさわしくないものと思われた。
そこで、ロッシは、タンクレードの終末部のために、
ハッピーエンドを持って来た。
タンクレーディはヴェネチアで好評を博した。
素晴らしいメロディの才能と、
形式の明解さへの類い希なるセンス
(そして、それが、幅広く技巧的な装飾を可能とした)
オーケストラの創意に富む陰影
を統合したのが、
ロッシーニの新しいスタイルだった。
ロッシーニは美しいパトスの動きと、
エネルギーと情熱を対照させたシーンを作り、
セクションを組み立てた。
恋人たちに二人の女声を使ったことで、
(評判の悪いカストラートの声に代わって、
メゾソプラノに英雄役を当てた)
ロッシーニはベルカントオペラの中心となる、
女性たちのアンサンブルの手法を完成させた。
その成功にも関わらず、
ヴェネチアでのタンクレーディの公演は、
問題がなかったわけではない。
聴衆はいろんな事を目撃した。
本来のタンクレーディ役、
アデライーデ・マラノッテの病気によって、
第2幕の最後に行く前に、
初演のカーテンを下ろさねばならなかった。
オペラの全曲が演奏された時でも、
グランシェーナでの、
タンクレーディのオリジナルアリア(No.16-iii)は、
明らかにヴェネチアの聴衆の満足は得られず、
レビューは沈黙していた。
そして、ロッシーニの手稿には、英雄役のために、
二つの異なるカヴァティーナ(登場のアリア)がある。
『大いなる不安と苦しみの中で』は、
より、手の込んだ作品であって、
『愛の甘い言葉』は、おそらく、
オリジナルのカヴァティーナがいかに有名になるか、
分からなかったマラノッテの
リクエストで書かれたものであろう。」

いきなり、「愛の甘い言葉」とは、なんぞや、
と思われるのだが、
タンクレーディ登場シーンには、
もう一つのアリアが用意されていたようで、
実は、このCDには、この曲も、
CD3の最後(Track16)に収められている。

これは、ヴァイオリン独奏の技巧的なオブリガードを持ち、
パガニーニのヴァイオリン協奏曲の中間楽章みたいな感じ。
主役のワガママは、こんなところまで及んだのだろうか。

9分41秒の大曲で、導入部や、繋ぎの部分は、
ほとんどヴァイオリンが主役、
この楽器で盛り上げた後で、
英雄登場という計算だったのだろう。
なだらかで美しいが、大人しく、
『大いなる不安と苦しみの中で』のようなドラマはない。

カサロヴァの声を堪能できるが、
ど迫力を繰り出すたぐいのものではない。
というか、カサロヴァが、その気を持っていないのかもしれない。
最後もヴァイオリン助奏が盛り上げる。

以上で、「ヴェネチア」と題された部分は終わり。
いよいよ、問題のフェラーラのお話。

「フェラーラ:
ヴェネチアのシーズンが終わると、
ロッシーニとマラノッテは、
受難節の間、このオペラの新版を上演した、
フェラーラに移った。
このリヴァイバルのための変更は、
ある意味、意味があるもので、
ブレシアの文人一家の一人で、
マラノッテに愛情を抱いていた、
作家のルイジ・レッチの存在があった。」

このフェラーラとブレシアの位置関係を、
ここで整理しておくと、
右にミラノ、左にヴェネチア、
そして下にフィレンツェを点にした逆三角形の、
ミラノとヴェネチアの間がブレシア、
ヴェネチアとフィレンツェの間がフェラーラである。

また、下記フォスコロは、
近代イタリア最初の批評家と言われている人である。

「フォスコロや多くの文学者の友人であったので、
レッチが、おそらくヴォルテールの、
より筋の通った悲劇的結末に、
タンクレーディを戻すようアドバイスしたのだろう。
あるいは、ヴェネチアでの、
アリア『どういうことだ、どう答える』の、
良くも悪くもない反応のせいかもしれない。
ロッシーニが最終的にオペラの終結部を決めたのであろう。
この環境もあって、新しいフィナーレを持つ、
フェラーラ版は、ロッシーニの作品にとっても、
イタリアオペラにとっても、特別な重要性を獲得した。
1970年代中頃まで、この再演については、
たった二つのドキュメントしか残っていなかった。
印刷されたリブレットと、
フェラーラでのオペラ失敗を、
ヴェネチアで広めようとして、
3月27日にヴェネチアで出版された、
短い辛辣な記事である。
これらから、フェラーラ版を再構築することができた。
第1幕のアメナイーデとタンクレーディの
デュエット(No.5)は削除され、
そこにオリジナル第2幕の
デュエット(No.14)が挿入された。」

ここで書かれていることは、
筋がめちゃくちゃになりそうで、
かなり理解に苦しむが、
おそらく、歌詞からだけだと、
どんな状況か分からず、
どうにでもなったのかもしれない。

No.5のデュエットは、
戻ると殺される時に、
タンクレーディが戻ってきて、
アメナイーデが狼狽するもの。
No.14のデュエットは、
サラセンとの戦闘を前にした二人の別れの歌である。

いずれも、困った恋人たちの歌、
であることに変わりはないということか。

「第2幕の最初の2個所が変更され、
アルジーリオのレチタティーボとアリア(No.8)が省略され、
アメナイーデのカヴァティーナ(No.10)が、
新しいもの『ああ、私が死んだら』に変更された。
この部分は、フェラーラにおけるアメナイーデ、
フランチェスカ・リッカルディ・パイアのためのものだろう。」

ということで、このCDでは、この曲も聴ける。
CD3のTrack15である。

この曲は、3分ほどの感傷的な小唄で、
時折、高い声やコロラトゥーラを聴かせるが、
ドラマから切り離された感じで、
いかにも追加で書かれた感じがする。

「新しい悲劇的フィナーレを導くために、
ドラマ的に筋を通すために、
オペラの最後により重要な変更が加えられた。
ヴェネチア版では、タンクレーディは、
サラセン軍と遭遇する、
エトナ山の麓の寂しい場所から、
彼のグランシェーナを始める。
サラセン兵は、
勝利がすぐであることを告げるので(No.16-ii)、
タンクレーディは、彼等から、
それほど遠くないところにいることが分かる(No.16-iii)。」

何と、この部分、ヴェネチア版の方が自然である。
やはり、この部分のコーラスは、エキゾチックで、
サラセンのものだったのだ。
フェラーラ版では、同じメロディで、
仲間たちの捜索の音楽にされている。
(CD3のTrack2「騎士の歌」と、
Track10「サラセンの歌」で比較できる。)

この歌は聞き慣れたものと歌詞が違うが、
「ササリア、ササリア」というのが耳に付く。
「攻撃、攻撃」と言っているようだ。
それ以外は、このヴェネチア版も大きな違いはない。
が、以下のCD3のTrack11あたりから、
違いが目立って来る。
アルジーリオが一緒になって、
娘のアメナイーデの味方をしているからである。

「アメナイーデとアルジーリオが、
彼を捜しに来ると、
タンクレーディはアメナイーデが、
ソラミールのところに来たと非難する。
しかし、アルジーリオが、
アメナイーデは、罰せられたタンクレーディの名前を、
語る勇気がなくて行動したと説明する。」

CD3、Track12で、だんだん、
怪しいサラセンのどんちゃん音楽が聞こえて来る。

「英雄は、サラセンの戦士たちの、
戦闘的な音楽が聞こえて来ると、
ほとんど、それを信じ始めているが、
サラセンの兵士らは、
アメナイーデをソラミールとの結婚を、
平和の証にしようと騒ぐ。」

サラセンの兵士を表すコーラスと、
タンクレーディが、交渉している感じが面白い。

「これによって、改めて、
アメナイーデがワルであることを
確認したタンクレーディは、
彼女をそのアリア
『どういうことだ、どう答える』(No.16-iv)で拒絶する。」

なお、このフレーズ、前半は、
アルジーリオに対しての暴言であり、
後半は、アメナイーデに対する詰問である。
CD3のTrack12、
1分40秒あたりである。

3分あたりでは、合唱が、
シラクーザは陥落するから、
恐れるがよいと叫ぶ。

すると、いきなり、タンクレーディが、
「これが、あなたが約束した信義だというのですか」
という抒情的なアリアを歌い出す。

そこにサラセンの兵士たちが、
「ソラミールがやっつけるぞ」と、
大騒ぎを差し挟む。
サラセンと一緒にタンクレーディ一党も行ってしまう。

「そして、サラセン軍に向かって、
ソラミールとの戦いを仕掛ける。」
と解説にある部分か。

CD3、Track13.
この緊迫した状況下、「行っちゃった」とか、
アメナイーデとアルジーリオとイザウラは、
いくぶん、呑気なレチタティーボを歌っている。

「アルジーリオもそれに続き、
アメナイーデとイザウラが
遠くの戦闘の響きを聴いている間、
いなくなっている。」

ここに遠くの戦闘とあるが、
チェンバロがぼろぼろぼろんとやっているだけである。

しかし、このように、戦闘中に女たちが、
そわそわするシーンは、
シューベルトの「フィエラブラス」でも見られた光景。
それにしても、シューベルトが若い頃に受けた、
ロッシーニ体験は、
かくも大きな影響を残したということだ。

「二人の英雄はすぐに戻ってきて、
タンクレーディはソラミールを倒し、
死に行くソラミールは、
アメナイーデの無実を語り安心させていた。」
とあるが、あっけない程、
このレチタティーボですべて解決している。

CD3、Track14.
解説にあるように、
「ハッピーエンドが続く。」

このあたりからは、この前、
ジェルメッティ盤で見たアンコールに相当するのだろう。

アメナイーデ、アルジーリオ、そしてタンクレーディが、
「すべての取り巻くものが、
喜びと幸福を言祝いでいる」と楽しげに歌い上げる。
このメロディは、合唱やオーケストラの興奮もあって、
非常に爽やかなものだが、
いくぶん、常套的でパンチが欠ける。

第1幕の長大な劇的フィナーレの後では、
この3分ほどのお座なり音楽では、
いかにもバランスが悪いのではなかろうか。

しかし、ヴィーンの人などは、
こちらの版を楽しんでいたはず。
シューベルトもこれを聴いて、
フェラーラ版があることなど、
知らなかったかもしれない。

シューベルトの「アルフォンゾとエストレッラ」でも、
フィナーレが軽すぎるような気がしたが、
シューベルトにとって、ある意味、
このタンクレーディ(ヴェネチア版)などが、
理想の形として映っており、
それを、何とか真似したいと思っていた可能性はある。

とにかく、以上が、
ヴェネチア版最後の部分のあらすじ。
これはたまげた。
ソラミールが死にながら語った事を聴くまで、
タンクレーディはハッピーエンド版でも、
アメナイーデのみならず、
アルジーリオをも疑っていたということだ。

ソラミールが倒される時、
あんなにいたサラセン兵は、
何をしていたのだろうか。

「新バージョンでは、サラセン人たちは、
タンクレーディの正体を知った
シラクーザの人々に置き換えられている。
彼等は、タンクレーディをサラセン対抗のため、
指揮を執って欲しいと願う。
コーラス(No.16-iia)の後、
アメナイーデとアルジーリオが現れる。
タンクレーディはオルバッツァーノを倒してから、
初めて恋人と会う。
(もともとのデュエットNo.14が、
第1幕に動かされていることを思い出して戴きたい。)」

しかし、これまで聴いたフェラーラ版の演奏は、
どれも、ここまでは改変していなかったのではないか。
コッソットの盤でも、第2幕に歌われている。
そもそも、ここでは、タンクレーディは、
命を救ってやった、とか言っているはずだ。

「そして、彼女を、
ソラミールのキャンプに行かせようとする。
彼女の言葉も虚しくタンクレーディは遮る。
彼は、彼女の国を護るが、
これ以上、彼女と一緒にしたいことはないという。
彼の新しいロンド(No.16-iiia)
『何故、私の心を乱すのか』では、
彼は、何故、この裏切り者の女が、
かくも深く、自分を動揺させるのかを問う。
アメナイーデの涙に動かされながらも、
彼は、兵士らと戦場に向かう。」

確かに、どう考えても、こちらの展開の方が、
ドラマ的には筋が通っている。

「新しいフィナーレでは、
アルジーリオは一人戻って、
シラクーザの人々は勝利したが、
タンクレーディは命を失うほど、
傷ついたと報告する。
合唱と共に、英雄が運び込まれる(No.17a)。
苦痛の中で、タンクレーディはアメナイーデの名を呼ぶ。
アルジーリオは、アメナイーデの手紙は、
彼に宛てたもので、ソラミール宛ではない、
彼女はずっとあなたを愛していたのだと説明する。
タンクレーディに死が近づくと、
恋人たちの結束がアルジーリオによって祝福される。
そして、妻に別れを告げながら(No.18a)、
彼は息絶える。」

これまで聴いた演奏は、いずれも、この版であったが、
このCDは、このバージョンが、
まずCD3の最初(Track1~8)に入っている。
これまで、ずっとこれで聴いて来たせいか、
この流れの方が、オリジナルではないか、
と思えるくらい自然である。

「悲劇的フィナーレの発見は、
フェラーラ版の再構成を可能とした。
これによって、傑出して、
いろいろな意味で思いもよらない
ロッシーニの音楽的個性の見方が分かった。
フェラーラ版への彼の変更は、
タンクレーディにすぐ続く、
彼の最初のオペラ群を支配していたものとは違って、
ドラマトゥルギーへの傾倒があることを明らかにした。
ルイジ・レッチ、そして、
彼が属していた、新古典的な文化圏との出会いが、
この新しい方向が決定的に影響した。
ヴェネチアでの寸評によれば、
このフェラーラ版の悲劇的終曲は、
フェラーラの人たちに好まれなかったようである。
明らかに、こうした実験に耐えるには、
イタリアはまだ十分に熟していなかった。
現代の上演では、しかし、フェラーラ版の
美しさや大胆さを明らかにしている。
そして現代の録音技術の栄光は、
タンクレーディの二つの終結の、
喜びと悲しみを、共に、我々に経験させてくれる。」

それにしても、貴重な録音であった。
異稿も含めての「タンクレーディ」2版、
聞き分け企画、非常に楽しめた。
表紙も格好良いし、演奏も透明度が高く、
スタイリッシュだ。
もう少し、野卑な感じが欲しいような気がするほどに。

得られた事:「シューベルトのオペラの印象的な部分の源泉が、この『タンクレーディ』(ヴェネチア版)のあちこちに見える。」
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by franz310 | 2012-03-11 00:30 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その318

b0083728_1452725.jpg個人的経験:
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」は、
ハッピーエンドの版と、
悲劇的結末の版の二つがある。
これは生真面目な見方をすると、
極めていい加減な創作態度の
決定的証拠にも見えなくもない。
最後がどのような結末になるかで、
最初の一音から
そこに向かって動き出すべきだ。


例えば、ベートーヴェンの第5交響曲など、
小節数まで厳密に計算されて、
精密に作られているとする研究家もいる。

が、そのようなストイックな考え方は、
ひょっとすると、芸術の不文律でも
なんでもないのかもしれない。

例えば、シューベルトの「未完成交響曲」。
シューベルトは終楽章のイメージまで持って、
作曲を始めたかどうか怪しいものである。

さて、ロッシーニの「タンクレーディ」は、
もともとのヴォルテールの原作にふさわしく、
悲劇的結末の方が主流になっているようである。

が、その流れに対し、
ハッピーエンドと悲劇的結末を、
両方、味わって貰おうという取り組みも多い。

1992年のシュヴェツィンゲン音楽祭で収録された、
今回の映像は、指揮をしているのが、
ロッシーニの一方の権威である
ジャンルイジ・ジェルメッティであるのも嬉しい。
しかも、このDVD、日本語字幕付きである。

パイオニアから出ていたものだが、
表紙の画質に関してだけは問題があり、
海賊版に思える程に劣悪である。

いかめしく武装した男たちがうろついており、
左下に倒れている人も見える。
解像度が低すぎて、
何がどうなっているのか、よく分からない。

一応、断っておくと、DVDそのものの映像は、
何ら問題ないものである。
前回見た、DENONのバルチェッローナ盤より、
もとの舞台自体が美しいような気がする。
が、ヒロイン、アメナイーデの父親、
アルジーリオは、先の盤と同様、
ヒメネスが受け持っている。

このアメナイーデ役には、
人気のマリア・バヨが当たっており、
タンクレーディは、
ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサが歌っている。

このバヨもディ・ニッサも、
新書館の「オペラ名歌手201」の、
PLUS68の歌手に入っていて、
前者後者とも、この92年の「タンクレーディ」で、
「絶賛された」とか「見事な役を果たした」
みたいな紹介がなされている。

このDVD、日本語解説も読み応えがあり、
永竹由幸という人が書いている。
(昭和音大教授の前に、
ANFコーポレーションなどの社長もやっていた、
実業界出身の人らしい。)
つまり、
1.原作者ヴォルテールと「タンクレディ」
2.ロッシーニの音楽の魅力
3.では何故19世紀後半から忘れられ百年後に復活したか?
という3部からなり、
主人公はヴォルテール自身だという事や、
王朝批判が、この劇の目的だという説なども肯ける。

ロッシーニは、オペラ・セリアの伝統のカストラートではなく、
似た音色の女性低音歌手にタンクレディを歌わせ、
アメナイーデはソプラノとして、
「天国的な美しい二重唱を作曲した」としている。
アリアもリズミックでなじみやすい音楽になっているという。

ロッシーニの音楽は装飾が華美な、
無内容の音楽として忘れられたが、
ワーグナーの音楽が軍国主義と重なり、
戦争の後、ロッシーニが復活した、というのである。

この解説を書いた人は、実際に、
シュヴェツィンゲンでこの上演を見たらしいが、
その王宮劇場を「美の極致」と書いて、
視聴者を羨ませがらせ、
「タンクレーディ」がフェラーラ版で死んで終わった後、
オリジナルのヴェネチア版のエンディングも、
何と続けて上演された事を報告、これを、
「遊び心を持つ人にしかわからない美の極致」
と評している。

このシュヴェツィンゲンでのロッシーニと言えば、
1989年5月の「結婚手形」、「ブルスキーノ氏」、
1990年5月の「絹のはしご」(ハンペ演出)が、
LDにあって、以前、ここでも紹介したが、
同様にロッシーニ音楽祭のものとされる、
ジェルメッティ指揮の
1992年5月の「なりゆき泥棒」もDVDで出ている。

同じ1992年、同じシュヴェツィンゲンのロココ劇場で、
これらより大きなオペラが、
同じ指揮者、同じオーケストラ(シュトゥットガルト放送響)で、
収録されていたということだ。

こちらは、ハンペではなく、
何と、この前のバルチェッローナ盤と同じ、
ルイージ・ピッツィの演出である。
だから、タンクレーディは、ここでも赤い装束なのか。
タンクレーディ登場の部分の演出も、
1幕最後に主役級がどんどん前に集まって来る部分なども、
そういえば、前に見たDVDに似ている。

ちなみに、バルチェッローナ盤は、
フィレンツェ歌劇場で2005年の記録で、
13年が経過している。

ただ、この92年版の方が、
由緒ある劇場の格調の高さや場の力ゆえか、
いっそう凝った感じで、同様に暗めの場面基調ながら、
色彩が豊かで陰影や深みがある感じがする。

年を経て、予算の関係もあるのだろうか、
もともとシンプルな舞台で有名だった彼が、
単純化の方向に向かっているような感じはする。

演技の方も、92年版の方が動きも多く、
ダンスやパントマイムも多用され、
ごちゃごちゃとした豪華な感じが醸し出されている。

ちなみに、映像があるとどうも気になるが、
イザウラ演じる、カタルツィーナ・バックという人も美人だ。
イザウラの衣装ひとつ取っても、
2005年は、まるで古代ギリシアの衣装のように、
白い簡素なものであるが、
1992年のものは、中世風というか、ベルサイユ風というか、
生地のたっぷりした、重そうな青い服を着ている。

そもそも11世紀のお話にしては、
彼やアルジーリオがつけている襞襟(ラフ)は、
このあたりの時代考証を気にする人には、
違和感があるかもしれない。
その意味では、フィレンツェ版の方が、
兵士も王族もそれらしいシンプルさで説得力がある。

先のイザウラ役のスタイルは良かったが、
アメナイーデが演じるマリア・バヨもほっそりとして、
楚々とした感じで、三人の男から言い寄られ、
運命に翻弄されるヒロインにはふさわしい感じである。

が、ひときわ高いところから現れて登場する、
フィレンツェでの演出のアメナイーデも威厳がある。
こちらの方が誇り高い王女の感じが出ている。
同じ演出家でも、登場人物の性格描写が、
揺れ動いている感じがした。

登場シーンでは、アメナイーデは、
みんなに語りかけるような部分と、
心に秘めたタンクレーディへの思いを交互に歌うが、
このような複雑な内容を歌うには、
新版演出のシンプルさが好ましい。

ただし、第1幕の終わり近くで、
アメナイーデが、自分の無実を、
父、恋人、求婚者の順に訴えていく場面では、
「もはやお前の父ではない」
「恥を知り死ぬがいい」
「恐怖に震えて死ぬのだ」と、
まず言われる。

コーダで盛り上がって行く所でも、
再度、合唱が盛り上がる中、同様の懇願があるが、
ここでは、
「立ち去れ」、「無理だ」、「死んでしまうがいい」と、
次々に見放されるシーンがあるが、
1992年のシュトゥットガルト版では、
華奢なイメージのバヨが、
よろめきながら見放され、妙に心を打つ。

舞台の色彩や陰影の深さ、
テンポ感もカメラワークも良いのかもしれない。

最後にイザウラだけが、彼女を抱いて受け入れるが、
シュトゥットガルト版のバックの歌はいかにも弱く、
フィレンツェ版のディ・カストリが、
「あなたの味方、どんな運命にあろうとも」
と、力強く訴える所はぞくぞくした。
この部分は、一瞬であるが、やはり、体勢批判としては、
たいへん重要なポイントに思える。
難しいものである。

音楽としては、オーケストラも、
フィレンツェのものの方がしなやかで軽く、
今回のシュトゥットガルトの方が、
メリハリが効いて推進力もパンチもあるが、
これは、ジェルメッティの指揮によるところが大きいだろう。

序曲のロッシーニ・クレッシェンドも、
じゃんじゃか豪勢で、テンポも壮快だ。
とはいえ、第一部の大詰めなども緊迫感があるが、
フィレンツェでのフリッツァの指揮も、
色彩感と解放感があって悪くない。

あと、これらのDVDでは、トラック割もかなり異なる。
第1幕が、DENONの方は、20部分に分けられているが、
パイオニアの方はわずか8部分にしか分かれていない。

では、各トラック順に見ていこう。
Track1はオープニングで、
シャンデリアが大写しになって、
スポンサー名などが出ている。
Track2.で序曲。
ジェルメッティが指揮を始めるところから写され、
各楽器のソロの部分が順次見せてもらえる感じ。
全体的に黒々とした集団ながら、
肩を出したフルートの女性が気になる。
ネット検索したところ、
タティアナ・ルーランドという人と判明。
日本にもよく来ている感じ。
http://www.tatjana-ruhland.de/

Track3.第1曲、導入。
舞台は、背景に海が見える暗い室内。
「平和よ、栄光よ、忠誠よ、愛よ」は、
合唱とイザウラのメゾによるシラクーザ内、
内紛和解の音楽。
バックの声は、ドラマチックではないが、
落ち着いて上品な感じ。

そこに二人の権力者アルジーリオと、
オルバッツァーノが現れ、
期待通りの力強い歌唱を聴かせる。
音楽はテンポを速め、共通の敵である、
ムーア人(サラセン)との戦いを予告する。

彼等は祖国のために力を合わせると誓う。
ここで、タンクレーディもやっつけるべきだ、
とオルバッツァーノが言っている点がポイント。
彼等は、後で決闘することを暗示している。

Track4.第2曲、合唱とアメナイーデのカヴァティーナ。
「この良き日、空も晴れ渡る」では、
まず、合唱が和解の日にふさわしい、
朗らかな声を聴かせ、舞台上では、
優雅なダンスが始まる。

実際、舞台を見た人は、そのゴージャスさに、
思わず目を光らせたはず。

アメナイーデが父に手を引かれ登場。
「喜びに沸く我が胸」と歌って、
マリア・バヨの澄みきった声が堪能できる。
彼女は、ここで、こっそり、
「愛しき恋人よ、いつ戻るのですか」などと、
タンクレーディの事を考えている。
悲劇が暗示されている。

後半は、オペラ・ブッファ的なリズム、テンポになって、
一気に音楽を高めていく。

しかし、何と、いきなり、父アルジーリオは、
アメナイーデに、このオルバッツァーノと結婚せよと言い、
相手の方ものりのりである。
が、アメナイーデは一日、結婚を伸ばして欲しいという。

Track5.第3曲、タンクレーディの
レチタティーボとカヴァティーナ。
「おお、我が祖国よ」。
小舟からタンクレーディが小舟で降り立つ。
ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサが、
祖国やアメナイーデを思う。
「輝ける魂と愛」などと美化しすぎていて、
裏切られた時のショックが大きくなるようになっている。

フルートの独奏と共に、
「大いなる不安の日々は去った」として、
再会に胸ときめかせるアリアが歌われる。

これは、前回、紹介した、リゾット・アリア。
ロッシーニがリゾットを注文し、
待っている間に書いたものとされて、
ヴェネチアで大ヒットしたもの。

ディ・ニッサのりりしい表情で歌われる、
この名曲は、その声の豊かな響きもあって、
かなり満足度の高いものだ。

それから、ロッジェーロに、
アメナイーデへの言伝を頼む。
そして、シラクーザの義勇軍として参加する事を、
仲間に告げる。

その間、アルジーリオは、アメナイーデに、
明日は戦いだから、さっさと結婚だ、
と告げている。
タンクレーディなどは帰って来たら、
殺されるだけだ、と言っている。

Track6.第4曲、アルジーリオのレチタティーボとアリア。
「元老院は祖国の敵には死刑を下す」。
ここでは、ベテラン、ヒメネスの安定した声がききものだ。
音楽は、様々なテンポやメロディで移ろい、
「祖国と父を思え」と、高らかにアメナイーデ説得を試みる。

ここで、アメナイーデは、タンクレーディに手紙を書いた事を悔いる。

Track7.第5曲、レチタティーボと二重唱。
「最悪の時に戻ってしまったのよ。」

ここがややこしくなる始まり。
アメナイーデは、現れたタンクレーディに驚き、
素直に喜ばないで、「時が変わった」とか言って、
さっさと自分の心を伝えない。


タンクレーディが愛を語るのに対し、
アメナイーデは、「父の命令を」とか嘆くばかり。
二重唱は、解説にあった、ソプラノとアルトによる、
美しいものであるが、これでは、気持ちはすれ違うばかり。
「悲嘆にくれて生きるのね」と、嘆くばかり。
「話してくれ」、「脅さないで」と応酬があって、
「神様、この恋心は報われるのでしょうか」などと、
二人で情報を共有して、
対策を協議するような前向き指向にはならない。

Track8.第6曲、合唱。
「愛と歓喜、甘美さ、そして心からの忠誠よ」は、
戦場に向かうオルバッツァーノを讃え、
アルジーリオは、教会で結婚式だ、とか言っている。
そこにタンクレーディが、
義勇軍として参加する旨、申し出る。
それを受け入れるアルジーリオは、
しかし、婚礼の事ばかり考えている。
アメナイーデは、不幸な結婚をさせないで、
と懇願する。

Track9.ここからが第7曲。
オルバッツァーノが、アメナイーデが出したとされる、
手紙を持って来て、彼女を裏切り者だと宣告する。

彼は、サラセン軍の誰かに出したものだと誤解しているが、
よく考えると、タンクレーディに出したものだと、
よけいにオルバッツァーノはむかつきそうだ。

Track10.音楽が俄に緊張感を増し、
第1幕の終曲になだれ込んでいく。

このあたりについては、先に、情報を出した。
かなりいろんな声が交錯するが、
バヨの声が、この混沌の中にも響くのが嬉しい。
全編を通じて、バヨの存在感が際だったシーンである。
ロッシーニの音楽も冴えており、
雄渾なアメナイーデ嘆願のメロディが、
縦横無尽に駆け回り、
素晴らしい効果を上げている。

コーダの手探り前進の部分は、
圧倒的に音楽が盛り上がり、
何度見ても見飽きることがない。

以下、第2幕である。
Track11.レチタティーボ「君は見たか」。
オルバッツァーノとイザウラの論争。

Track12.アルジーリオのレチタティーボとアリア。
「神よ、残酷にもとまどいを感じている。」

アルジーリオが娘の死の宣告に署名するシーン。
このパイオニア盤の方が、
父親がくよくよと悩むのが克明に描かれている。
「手が震え、恐怖に凍る」という、
アルジーリオの様子が、これでもかと描かれる。
「父親としての愛情がすすり泣く」とか、
ヒメネス効かせどころの歌唱を、
合唱が、静かに、相反する二つの声を補助する。
「慈悲をこえ」、「祖国のためだ」と。

「恐ろしくも娘はもうすぐ死ぬ」と繰り返す様子から、
「裏切り者は皆殺しだ」という錯乱したアリアとなる。
後奏のオーケストラも盛り上がり、拍手喝采である。

このあたり(第8曲)は、
DENONのフィレンツェ盤では、
省略されていたのではないだろうか。

再び、イザウラとオルバッツァーノの論争を経て、
Track13.第9曲、イザウラのアリア。
「希望は哀れなるものに力を」。
クラリネット序奏を持つ美しいものであるが、
このバックという歌手は上品に歌い、
声量にも限界を感じ、ドラマティックな歌い手ではない。

Track14.第10曲、導入~
アメナイーデのシェーナとカヴァティーナ
「ついに私の不幸な人生は終わりを告げるのね」。
パントマイムで、アメナイーデが、
友人たちに別れを告げている。
暗くてよく見えないが、牢獄となる。
音楽が強烈な音詩となって、雄弁な前奏曲を奏でる。

バヨがレチタティーボを歌い始めるが、
ソプラノながら影のあるこの人の声は、
なかなか強く訴えるものがある。

「死など怖くない、愛する人のために死ぬのですから」
とアリアでは、歌っているが、
彼女は単に誤解されて死ぬのであるから、
実際は、こんな心境にはならないような気がする。
とはいえ、音楽は、甘美に、
「いつかは分かってもらえる」、
「涙を流してもらえるでしょう」と殊勝な点を捉えている。

Track15.レチタティーボと二重唱
「アルジーリオ、抱擁を」。

悪役オルバッツァーノが死刑を急ぐ中、
かっこよくタンクレーディが決闘を挑むシーン。
タンクレーディをアルジーリオがかき抱く。
このマンカ・ディ・ニッサのタンクレーディ、
私は、深さを持っていて、なおかつ澄んだ声といい、
颯爽として毅然とした表情といい、
私は、たいへん満足している。

バルチェッローナは丸々と恵比寿顔で、
ちょっと、緊迫感では不利である。
ただし、彼女の方が、声量と伸びがあるのであろう。
このシーンなどでは、テノールと張り合っている感があった。
が、マンカ・ディ・ニッサには、声に澄んだ張りがあって、
声量ではなく音色の多彩さで、
この重要な二重唱に対応している感じであろうか。
ただ、舞台的には、フィレンツェの方がすっきりしている。

Track16.第12曲、
アメナイーデのレチタティーボとアリア。
「神よどうか、勇敢なるものをお守り下さい。」
このバヨも同じような感じであろうか。
細身ゆえ、ばばっという圧倒感はないが、
繊細な声の操りで聴かせる。

決闘の結果を待つこの悩ましい部分から、
歓喜に到る素晴らしい効果を持った部分、
ロッシーニは、合唱も巧みに織り交ぜながら、
オーケストラも雄弁にドライブして、
「試金石」同様の愉悦に誘ってくれる。

バヨの歌唱にも大きな歓声が上がる。

Track17.第13曲。
合唱「皆の者よ、勝者に喝采を」。
タンクレーディの凱旋であるが、
合唱の豊かさが耳をそばだたせる。
タンクレーディは、何と木馬に乗って現れ、
それに応えるが、陰影のある歌声が、
男声合唱に、微妙なコントラストをなす。

Track18.第14曲。
レチタティーボと二重唱「一体なぜ来たのだ。」

タンクレーディは、早くもこの地を離れ、
次の戦い(サラセンとの決戦)に向かうことを決意している。
アメナイーデが現れて、引き留めるが、
ややこしい事に、まだ誤解が続いている。
「誘惑するなら、別の男にしてくれ」とか、
ひどい言葉ばかり聞かされる。

ここからが、解説者も書いた、
天国的なソプラノとアルトの女声二重唱であるが、
これは、ペルゴレージの
「スターバト・マーテル」で聴いたような美学であろう。
ロッシーニは、この二重唱を慈しむような、
ピッチカートと木管による繊細な伴奏を付けている。
夢見るようなひとときから、
激烈な別れの二重唱に入り込むが、
ここでは、ロッシーニの音楽は何故か、
聴衆の期待を裏切って、軽妙なリズムを採用。
軽さによる推進力を高めながら、
「あなたはひどい人」で終わる、
二重唱の醍醐味を味合わせてくれる。

ここでタンクレーディの従者、友人か、
ロッジェーロが現れる。

Track19.この人のアリア。
「愛の光よ戻ってきておくれ」。
マリア・ピア・ピシテッリという美人ソプラノが、
独特の曇りのある声を聴かせる。

Track20.第16曲の導入、
タンクレーディのシェーナとカヴァティーナ。
「私は今どこに」。
ここでも、ディ・ニッサの深みとこくのある声が嬉しい。
タンクレーディは、森の中で逍遙しているのである。
しかし、「今どこに」と言いたいのは、
こっちの台詞である。
サラセン軍に斬り込んだのではなかったのか。
洞窟みたいなところにいる。

Track21.合唱、
「この街は恐怖に溢れている」は、
サラセン軍に攻囲されているからである。
英雄タンクレーディがいれば何とかなる、
と彼等は主人公を捜す。

Track22.タンクレーディのシェーナとロンド。
アメナイーデが、タンクレーディを探し当て、
再び、恋人たちのややこしい状況が蒸し返される。
「汚れた不貞の行いを悔いるがよい」とか、
マイナスオーラが飛び散る台詞ばかりが連呼され、
耳が汚れそうだが、これがオペラなので仕方がない。

「さあ出陣だ」と合唱が叫び出すので、
タンクレーディのアリアも熱を帯び、
「試金石」を思わせる幾分朗らかなメロディで、
「誰が知るだろう、熱い恋の苦しさを」と熱唱した後、
テンポが速まり、「勝利へ向かい兵を進めよ」という、
コーダへと滑り込んでいく。
サラセンを攻撃するため、
「出陣だソラミールを倒そう」という合唱と、
「恋の苦しみ」が交錯し、タンクレーディは退場。

アメナイーデは泣き崩れて倒れている。
続いて、父アルジーリオも飛び出して行く。
戦闘が始まったというイザウラの言葉と共に、
何故か、アルジーリオが戻ってきて、
勝利はしたがタンクレーディは倒れた、という。

Track23.合唱、「勇敢なる勝者の最後だ」と、
「海のごとく血を流した」タンクレーディを運んでくる。

タンクレーディは舞台中央に寝かされている。
アメナイーデが駆け寄る。
「私が分かりますか、その眼差しを向けて」というと、
まだ、タンクレーディは、
「私を裏切った女よ」とか言っている。
しかし、アルジーリオも一緒になって、
アメナイーデの愛を保証すると、
いきなり、反省する。

Track24.タンクレーディのレチタティーボと
カヴァティーナ・フィナーレ。
「わたしはそなたを置いて去る」。
息も絶え絶えに、
自分は死ぬが、「祖国と妻を置いていく」という。
しかし、まだ音楽が終わっていないのに、
鳴り始め出す拍手はいかがなものだろうか。

長い拍手シーンが収められているが、舞台の高い所でお辞儀、
さらに前面に降りてきてお辞儀という感じ。
さすが、ダルカンジェロ、ヒメネス、
バヨ、ディ・ニッサは拍手が大きい。

Track25.
登場人物と共に、ジェルメッティも舞台に上がるが、
舞台の横で、「ハッピーエンドもロッシーニは作っている」
と説明した後、その場所から指揮を始め、
楽しい別フィナーレが始まる。

アメナイーデ、アルジーリオ、タンクレーディに、
イザウラも交えての、
「溢れる歓喜と幸福」に溢れた明るい終曲が、
約3分、アンコールのように演奏されている。

という事で、このDVDも、決して、
二つの版を収めたものではなかった。

正確に書くと、フェラーラ版を演奏した後、
ヴェネチア版の最後をアンコール形式で紹介した、
という感じであろうか。

得られた事:「『タンクレーディ』のハッピーエンド版を、アンコール風に利用した上演の記録。主役二人の声に満足。」
「戦争に勇者を送り出す前に、娘を差し出す父親という切り口は、シューベルトの『アルフォンゾとエストレッラ』と同じだが、ヒロインは、恋人と力を合わせることなく、悲劇が進行していく。シューベルトのオペラでは、恋人同士は、協力している感じである。」
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by franz310 | 2012-03-04 15:00 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その317

b0083728_21263370.jpg個人的経験:
前回、バルチェッローナが
タイトル・ロールを歌った
ロッシーニの「タンクレーディ」を、
映像で鑑賞したが、
これによって、私の作品理解は、
それなりに進んだような気がする。
実は、この作品、
私は、ずっと気になっていて、
前から、ここに挙げる
1988年にCD化された録音も、
以前から持ってはいたのである。


この「タンクレーディ」というオペラについては、
シューベルト・ファンなら、
耳にタコが出来るくらい聞かされているはずだ。
が、あまり録音もなく、シューベルトの愛好家が、
必ずしも、このオペラを聴くとは限るまい。

私が最初に読んだシューベルトの評伝にも、
この曲は出て来るので、
何故、シューベルトが、これに惹かれたかを、
何時かは考えなければならないと考えていた。

ただし、中学生だった私は、
「タンク」に戦車を連想し、
どんなレディかと思っていた。

また、バブル期に、タンクトップという、
服装があることを知ってからは、
タンクトップを着た淑女かとも妄想した。

が、ちょっと調べれば分かるが、
戦車でもタンクトップでもなければ、
そもそもタンクレーディの性別は男性だったのである。

しかし、混乱に拍車をかけているのが、
主人公タンクレーディは男性であるが、
オペラの中では、女性が歌い演じるということ。

このCDでも、表紙写真で、
いかめしい兜を着けた人は、
どう見ても女性である。
しかも、「戦車」を想起してもおかしくはない。

このCDは、伊フォント・チェトラ・レーベルのものを、
株式会社ANFコーポレーションという所が
製造、販売していたもので、
私は、ずっと純正イタリアものかと思っていた。

もともと、78年の録音だったようだが、
いかなる経緯か、10年も経って、
日本語解説や対訳もばっちり入って、
忽然と現れたCDであった。

しかし、今回、改めて見直してみると、
CD自体も「Made in Japan」となっている。
実に、今となってはお宝級の商品である。

2幕の作品なのに、
「タンクレーディ」全3幕と書かれていたり、
シラクサ軍の将軍級のオルヴァッツァーノ
(ここでは、ニコラ・ギュゼレフが歌っている)を、
「シラクサの敵」と、
たぶん間違って記載していたりする。

一方で、
「原作:タッソーの叙事詩『エルサレムの解放』
及びヴォルテールの悲劇『タンクレード』」と書かれ、
「時・所:1005年。シチリア島、シラクーザ」
と厳密性を徹底した素振りの表記があったりもする。

とにかく、3枚組であったり、
取っつきにくいという事では、
この上ないこのCDを、
ようやく鑑賞できる素地が出来たような気がするので、
改めて聴き進めることにしたい。

このCD、タンクレーディは、
この表紙写真のメッゾ・ソプラノ、
フィオレンツァ・コッソットが歌っており、
かなり格調高い歌いぶりで特徴がある。

また、配役をよく見ると、恋人のアメナイーデは、
美人で有名で、人気も高かった、
レッラ・クベルリが歌っているのが嬉しいではないか。

私は、イザウラという登場人物は、
いきなり冒頭から父アルジーリオと出て来るので、
アメナイーデの母かと思っていたが、
ここでは、アメナイーデの友人と書かれていることを発見。

その父の役を歌うのはウェルナー・ホルヴェーク。
イザウラはヘルガ・ミュラーが歌っている。
こちらは、前に、「試金石」のCDで歌っていた人だ。

バルトリの歌うオペラで指揮をしていた、
ガブリエレ・フェッロ(フェルロ)が指揮をして、
カペラ・コロニエンシスという団体が演奏をしている。

変な団体名であるが、解説によると、
「イタリア・チェトラと西ドイツ放送局の共同制作によって
ケルンで録音されたこのレコードは、
新しいクリティカル・エディションによる
『悲劇的フィナーレ』をもつ『タンクレーディ』の
最初の全曲録音であるばかりでなく、
このオペラが作曲された
19世紀初頭の時代のオリジナル楽器を用い」
とある。
コロニエンシスは、ケルンの団体ということであろう。
合唱団も、ケルン放送合唱団とある。

私はこれまで、ずっと、
イタリア勢による録音だと信じていたが、
むしろ、ドイツ勢による録音ということが分かる。

このフォニト・チェトラというイタリアのレーベル、
今回も、一筋縄ではいかない作戦で出ているようだ。

1976年に「悲劇的フィナーレ」の自筆スコアが発見され、
翌年、さっそく蘇演したのが、
今回の盤の指揮者フェルロだったようである。

また、「全曲録音」とあるように、
バルチェッローナのDVDの演奏では省略されていた、
友人のロッジェーロが、タンクレディに、
アメナイーデが結婚するという知らせを伝えるシーンも、
CD2のTrack3として聴くことが出来る。

しかし、ドイツでの録音ということで、
妙に納得できる演奏となっている。

アンサンブルが美しく、水も滴るオーケストラが堪能でき、
歌手の歌いぶりにも、適度な抑制のようなこのがある。
ロッシーニにしては大人しいかもしれず、
解説には、
「ヴァレンティーニやホーンほど
華麗なカント・フィオリートを用いていないが、
それも現代的」などと書いている。
カント・フィオリートとは、装飾のことであろう。

この他、この解説は、第一人者、
高崎保男氏によるものであることが嬉しい。

ロッシーニはオペラ・ブッファで有名であるが、
実際は、ブッファやファルスは37曲のオペラの、
約1/3を占めるにすぎないとして、
オペラ・セリアからフランス・グランド・オペラに対して、
重要な役割を果たしたことが書かれている。

「18世紀ナポリ派の伝統を継承し、
これにさまざまな改革や新しい独創的な表現の工夫と試みを加えた」
としている。

そして、この「タンクレーディ」を。
ロッシーニの大規模なオペラ・セリアの最初の作品で、
最も重要な出発点であると書き、
文豪スタンダールも、
「無限の賛嘆と愛着を捧げて惜しまなかった」
として補足している。

1812年9月のミラノでの「試金石」の成功によって、
ヴェネチアの名門、ラ・フェニーチェ劇場から、
新作を委嘱された、と書かれているが、
DENON盤DVDには、
1812年6月に委嘱されたので、
これは、「試金石」の成功とは無関係としていた。
この20年の間に研究が進んだのであろうか。

初演は大成功ではなかったが、
数回の上演を繰り返すうちに、
タンクレーディの登場のアリア『Di tanti palpite』が、
大人気になったというエピソードを紹介している。

このアリア、ロッシーニは、
ヴェネチアのレストランでリゾットを注文して、
待っている15分の間に書き上げたので、
「リゾットのアリア」として知られたらしい。

貴族からゴンドラ漕ぎまでが口ずさんだ
一大ヒットとなったからこそ出来た愛称だったのだろう。

先に、この作品の原作についても、
タッソーの名前が並記されていたが、
解説は、この物語のソースとして、
さらに、中世フランスの神秘劇や、
16世紀イタリアの詩人アリオストの、
「Orlando furioso」までを挙げ、
それだけに飽きたらず、
ド・フォンテーヌ夫人の小説、
「サヴォア伯爵夫人」までを挙げている。

極めて単純な筋に思えていたが、
ここまでソースが必要なのだろうか。
例えば、オルランドは、ヴィヴァルディのオペラでも聴いたが、
魔女退治の話だった感じが強く、
この「タンクレーディ」のような、
恋人同士の誤解が誤解を生む
ややこしい状況があったかは思い出せない。

ロッシーニがヴォルテールを
好きだったとは知らなかったが、
「マホメット二世」や「セミラーミデ」も、
このフランスの文筆家のものを、
原作に利用しているらしい。

ただし、ロッシが書き直したリブレットでは、
原作の登場人物の熱血な性格が弱まっているとある。

この後、このオペラの物語についての解説が続くが、
シラクーザはアルジーリオ家と
オルバッツァーノ家の対立構図にあって、
後者が権力を握った際に、
アルジーリオは、妻と娘のアメナイーデを、
ビザンティンの宮廷に避難させていたとある。

このとき、ビザンティンでは、
シラクーザから追放されていたタンクレーディがいて、
この時、アメナイーデは、彼と恋に落ちたのである。
何と、母はこの地で亡くなり、
その臨終のベッドの傍らで婚約したとある。

そして、ややこしい事に、
このビザンティンの宮廷に、
何故か、後にサラセンの将軍となるソラミールがいて、
アメナイーデは、彼の求愛も受けていたという設定である。

私は、前回見たDVDでは、確かに、
何故、ソラミール(DVDではソラミーロ)が、
アメナイーデを愛したのか分からなかったが、
シューベルトの「フィエラブラス」同様、
異郷の地で会っていたということであった。

また、今回のCD解説では、
タンクレーディは、ノルマンの後裔で、
オルバッツァーノは、外来者を敵視して、
土着貴族らと共謀して、彼の一族を追放し、
財産も奪い取ったと書かれている。

また、驚くべきは、先ほど、
このオペラの原作は、
タッソーやアリオストと関係していることが
書かれていたことを紹介したが、
何と、フェラーラは、
この文豪たちが活躍した街だとあった。

何と、ロッシーニは、彼等に敬意を表した形で、
ハッピーエンドで作り上げていたオペラを、
オリジナル通りに悲劇的結末に書き換えたように見える。

彼等に敬意を表したかはともかく、
そうした文芸の街である事などが、
何か、ロッシーニに霊感を与えた可能性はあるだろう。
ある種のパワースポットとして機能したのだろうか。

さて、このフェラーラ版であるが、
北イタリア、ブレッシャの
レーキ伯爵家の文書館から、
自筆スコアが発見されたとあり、
このレーキ伯爵は、
改訂版フィナーレの歌詞を書いた人の
子孫なのだそうだ。

このルイージ・レーキ(1786~1867)
という人は、何と、歌手のマラノッテの愛人だったらしく、
マラノッテは、初演時の主役だという。

という事で、このCD3枚を聴いて見よう。
165分の長丁場である。

Track1.の序曲の助奏からして、
いくぶんほの暗い色調を帯び、
喜劇「試金石」と同じ序曲とは思えない程、
堂々とした風格を見せる。
主部に入っても、丁寧な音楽作りで、
オペラの前座としての序曲の華やかさよりも、
音楽そのものの充実を求めたような演奏になっている。

Track2.のアルジーリオの宮殿で、
シラクーザの連合がなった事を祝う合唱も、
とても堅牢な感じ。
「更に親密な友情で結ばれますように」と、
イザウラが和睦を言祝ぐところも、
派手さはないが、きれいな色調を放っている。

Track3.で、二人の指導者、
アルジーリオとオルバッツァーノらが、
「我々全員が祖国への忠誠を誓おう」と、
歌い交わすのも威厳があり、堂々としていて良い。
アルジーリオを歌うホルヴェークのテノールも、
良く通って指導者風で良い。
この人は、1936年生まれであるから、この時、
50歳くらいで油が乗りきっていたと思われる。
ただし、2007年には亡くなっているようだ。

Track4.アルジーリオとオルバッツァーノが、
サラセンに共に当たる事を語る。

Track5.の合唱の、
かっちりしたリズム感も、
今回、読んで来たように、
ケルンの合唱団ということであれば、
妙に納得が行く。
歌詞は、「晴れ上がったこの佳き日に」
というもので、「愛と調和が勝利を得た」と続き、
シューベルトを歌ってもおかしくはない、
ロマンティックな響きである。

「この心も喜びにわいています」と、
アメナイーデが登場し、
クベルリの颯爽とした登場も美しい。
オーケストラの軽快なはずのリズムも、
しっかりと踏みしめられるように刻まれる。

クベルリは45年生まれなので、
この時、まだ33歳の若さであったわけだ。

Track6.は、
アルジーリオがアメナイーデに結婚を迫るので、
彼女がイザウラと一緒にうろたえるシーン。
チェンバロのような伴奏が付くが、解説には、ピアノとある。

Track7.素晴らしく詩的なタンクレーディ登場のシーン。
オーケストラは、繊細な色調を駆使し、完璧なまでに、
一幅の音の絵画を描きあげる。
解説には、
「アルジーリオの宮殿の中の素晴らしい庭園。
奥には花の咲き乱れた海岸や、
波に洗われる城壁、並木道、彫像、鉄格子の門、
等々の壮大な風景が望まれる」とある。

そんなところに、タンクレーディの帆掛け船が現れるが、
そのまま、それを音だけで描き上げた感じである。

コッソットのタンクレーディは、
極めて落ち着いたもので、
英雄というより、厳格な女教師のようだが、
丁寧に破綻なく、声のラインを美しく繋いでいる。

解説にあったように、
装飾はあまりやらないので、
イタリアオペラの主役という感じは弱いかもしれない。

Track8.「大いなる不安と苦しみの後に」が来る。
また、改めて、この部分のメロディが、
「リゾットのアリア」として有名になった理由を確認した。
リズミカルで軽妙で明解。

Track9.
ここではタンクレーディが友人のロッジェーロに、
アメナイーデへの伝言を頼むシーン。
それから、アルジーリオが、
サラセンの軍隊が街を包囲してきたので、
結婚を急ぐようにと、
アメナイーデをせき立てるシーン。

Track10.ここは、ホルヴェークの、
安定感あるテノールを味わうことが出来る
高らかに美しいメロディのアリア。
「お前のその優しい愛情を
愛する夫に捧げるのだ」と歌い、
途中からは推進力を増して、
オーケストラが威力を発揮するのも聞き所であろう。

Track11.タンクレーディが
シラクーザに来るのは危険だと察知した、
アメナイーデのところに、
何と、ちょうどタンクレーディが現れる。
恋人なら喜ぶべきを、アメナイーデは、
あまりにも理性的な応対をしてしまう。

この辺りから、タンクレーディは、
恋人を疑うようになってしまう。

Track12.素晴らしく雄渾なメロディが出て、
恋人たちの屈折したやりとりが歌われる。
二人の先行きを暗示するような不気味な低音が現れる部分と、
牧歌的な木管群が囀る部分が、
二人の運命と再会の喜びを玉虫色に暗示する。

このような部分を聴くだけでも、
ロッシーニが、手段を選ばず、
不安定にメロディを使い捨てにしながらも、
展開の切迫感の持続を重視したことが聞き取れる。

シューベルトなら、もう少し、じっくり歌い上げたかもしれない。
しかし、このような緊迫した二重唱の醍醐味を、
シューベルトもロッシーニから、よく学んでいたと思われる。

この演奏の、華美になることを
避けたような性格にもよるのだろう、
何となく、この部分を聴きながら、
シューベルトの音楽に繋がって行く要素をも、
ついつい感じずにはいられなかった。

以上で、CD1は終わる。

CD2は、ロッジェーロのレチタティーボ。
彼は、オルバッツァーノが、
アメナイーデを奪うことになる事を知ってしまうが、
タンクレーディには内緒にしておこうと語る。

Track2.婚礼の喜びの合唱。
合唱が多用されて、壮麗さを引き立てているのも、
この作品の特徴かもしれない。

Track3.
ロッジェーロは、タンクレーディに、
彼女を忘れ、ここを去るように忠告する。
ところが、彼は、アルジーリオの前に出て、
シラクーザの防衛を手伝うことを申し出る。


Track4.オルバッツァーノが怒って現れ、
アメナイーデが出した手紙を手に入れたと言う。
アルジーリオが、その手紙を読み上げるシーンは、
不気味な伴奏のついたメロドラマ風である。

Track5.は、
「何ということをしてくれたのだ」という、
迫力のある六重唱。
オーケストラは、切迫感のあるリズムを刻み続け
恐ろしい運命の前兆を暗示しながら、
それぞれの人物の思いのたけがぶつけられる。

Track6.
晴朗な素晴らしいメロディが現れ、
アメナイーデの無実の心と、
が哀願する様子を表すが、
断固としたオーケストラの総奏が、
それを押しつぶして行く。

このあたり、レッラ・クベルリや、
ウェルナー・ホルヴェークの存在感がありすぎて、
主役のタンクレーディを歌う、
コッソットの存在感はあまりない。

合唱が、「死刑になるのだ」と叫ぶと、
「こんな女のために、私はこれまで、
愛情を捧げてきたのか」と、
アルジーリオ、オルバッツァーノ、タンクレーディが、
自問自答する中、
アメナイーデが「神よお守り下さい」と唱和する、
無伴奏の四重唱が始まる。
シンプルに声の綾を聴く部分。

Track7.怒り狂う合唱、
他のソリストらの前に、
いくら、アメナイーデが嘆願してもダメダメの部分。

ただ、イザウラだけが、彼女の味方で、
二人の二重唱と、その他の者らの唱和が美しい。

そして、1幕のフィナーレとなる、
ロッシーニらしい短い動機を連ねたような、
軽快かつシンプルな音楽の推進力と、
声の饗宴の圧倒的な効果が素晴らしい。
「死の足音が心を凍らせる」、
「このような日の終わりはどうなるのだろう」と、
これから起こることに戦慄しながら幕となる。

ここからが第2幕。

Track8.イザウラとオルバッツァーノの論争。
後は、アルジーリオの署名で、
アメナイーデの処刑は決まると言う。

アルジーリオは、「最悪の極致」と苦悩する。
父親が娘の死刑判決に署名するのだから当然。
このあたりは、DENONのDVDでは、
省略されていたような気がする。

Track9.アルジーリオが署名する部分である。
「署名しようとしても、どうしても駄目だ」と
延々と悩みながら、合唱が、
「慈悲を乞え」という言葉と、
「掟に従うのだ」という言葉を発する。

決然とアルジーリオが声を高らかに、
「もはや判決は下された」と歌い上げ、
彼が署名すると、合唱は、「祖国の父」と、
威勢の良い声を上げる。

が、アルジーリオは、なおも悲痛な声で、
「なんと恐ろしいことだ」と嘆き続ける。
このあたりも、バルチェッローナのDVDにはなかった。

軽快なリズムと共に、合唱は、
「正義感と栄誉の誇り」などと盛り上げる。

Track10.は、イザウラが、
オルバッツァーノを非難する部分。

Track11.は、そのイザウラのアリア。
「つらい苦しみの中、強固な意志を与えて下さい」。
クラリネットの助奏を伴う優雅な曲調で、
実力者、ヘルガ・ミュラーの声を堪能しよう。
この人は48年生まれなので、まだ30歳だった!

Track12.は、アメナイーデの牢獄。
このシーンの音楽も素晴らしく絵画的で、
冷たい牢獄の恐ろしげな雰囲気や、
わびしい情景が、眼前に現れるようである。

クベルリの美しく、冴え冴えと豊麗な声が、
自らの運命を嘆く。

Track13.も親しみやすいメロディで、
クベルリの声を味わうことが出来る。
「死は決して恐ろしいものではありません」という
諦観の歌で、愛らしい木管群の合いの手が微笑ましい。

Track14.は、いよいよ処刑のため、
アメナイーデを、父と、オルバッツァーノが連れに来る。
その時、颯爽と現れるのが、タンクレーディ。
さすが、主役だけあって格好良い声で聴かせる。
「お前は誰だ」というのに対し、
「お前が倒れた時に分かるであろう」という決め台詞。

CD3は、この緊迫した場面から、全てが収束するまで。
Track1.アルジーリオは、
娘のために決闘をしてくれる、
謎の騎士に感動して、優しい声をかける。
Track2.
この上なく愛情に満ちたメロディに、
「きっと私が誰か分かる日が来るでしょうが、
憎まないで下さい」という泣かせる内容の、
タンクレーディの声も重なって、
音楽はますます優美になって行く。
最後は、決闘に向かうので、勇壮な行進曲になっていく。
コッソットの声も、このあたりになると、冴えに冴えている。

Track3.解放されたアメナイーデとイザウラ。
アルジーリオが決闘が始まって、
逃げて来た事を告げる。

Track4.はアメナイーデの祈りの歌。
この清純な祈りの部分から、
Track5.の決闘の結果が
合唱で聞こえて来る場面も、
素晴らしい劇的効果がある。
シューベルトも、このような効果に関しては、
十分、理解していたはずで、
「フィエラブラス」でローラント脱出のシーンを、
私は思い出さずにはいられない。

DENONのDVDの演奏よりも、こちらの演奏の方が、
がっしりと踏みしめながら音楽を進展させている。
クベルリのコロラトゥーラも聴けて、
全曲の聞き所の一つである。

Track6.タンクレーディ凱旋の合唱と、
自省するようなタンクレーディの歌。

Track7、8、9.すでにタンクレーディは、
シラクーザの地を離れる決心をしている。
アメナイーデの言葉にも耳を貸さない。
やがて、テンポが変わり、
こじれてしまった恋人たちの美しいが歯がゆい二重唱となる。
最後は、急速になって、ロッシーニ的な展開になだれ込む。

Track11.ロッジェーロが、
アメナイーデの言葉を信じる歌を歌う。

Track12、13.このあたりも交響的音画。
タンクレーディは、さすらって、大自然の中にいる。
崖の下の滝、そうした豪壮な自然を背景に、
タンクレーディは失恋を歌う。

Track14.合唱曲で、騎士たちが、
タンクレーディさえいれば、サラセン人に勝てると歌う。

Track15、16.アメナイーデとアルジーリオらが、
遂に、タンクレーディを探し当てる。
こじれた恋人たちは、ややこしくなる一方。
「タンクレーディは貴女にとっては死んだのだ」と、
彼はいじけた歌まで歌い出す始末。
ここは、タンクレーディ役は声の可能性を開陳すべき所。
コッソットの歌は、妙に端正で思慮深そうで、
表紙写真のイメージそのままである。
熱血に駆られて行動するタンクレーディに似つかわしいかどうか。

Track17.
タンクレーディはサラセン軍に斬り込んだ設定である。
アルジーリオも参戦し勝利するが、
タンクレーディは脇腹を刺されたと戻って来る。

Track18.悲劇的結末である。
この場面こそが、ロッシーニが、
どうしても挑戦したかった部分であろう。
瀕死のタンクレーディが五分間、
「私は花嫁を得て去って行く、あなたは生きて下さい」
などと息も絶え絶えに歌い続ける最終場面。

このようなシーンでは、コッソットのような、
厳粛な歌いぶりが生きて来るという感じか。
簡素で悲しげな管弦楽をバックに、
祈るような歌唱が胸を打つ。

得られた事:「真面目すぎるコッソットの歌唱は、表紙そのまま。クベルリの声の輝きが嬉しい。」
「ロッシーニの『タンクレーディ』。要所要所に現れる交響的絵画のような管弦楽部分の美しさ。」
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by franz310 | 2012-02-25 21:37 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その316

b0083728_21514127.jpg個人的経験:
前回、アレッサンドロ・スカルラッティの
オペラ・アリア集で、
バルチェッローナという歌手の
圧倒的な歌唱を堪能したので、
この人が得意としている
ロッシーニ作曲のオペラ
「タンクレーディ」を、
その勢いを借りて聴いてしまおう。
このメゾ・ソプラノは、
大きな体躯で、男性役を得意とし、
前回のCDでも、
甲冑に身を包んだ出で立ちで、
ジャケット写真に収まっていた。
今回も、実際は男性である英雄役、
タンクレーディを歌い上げ、
表紙写真からも、
たいへんな迫力を感じさせる。


この表紙からも、「タンクレーディ」を聴きましょう、
という構図ではなく、
バルチェッローナを堪能できますよ、
という切り口であることを感じさせる。

前回のCDでは青い感じのデザインであったが、
今回のDVDでは、深紅のコートのようなものを着て、
右手を握りしめ、苦悩に顔をゆがめている。

DENONから昨年(2011年)出た、
DVD解説でも、
この映像は、2005年のフィレンツェでの
ライブの記録であるが、
もともと、このピッツィによる演出は、
1999年にペーザロでの、
ロッシーニ音楽祭で制作されたものと書かれ、
「そこでタンクレーディを歌ったダニエラ・バルチェッローナが、
一夜にしてスターになったという伝説的なもの」の、
再演であることが特筆されている。

繰り返しのようだが、「出演者プロフィール」でも、
「『タンクレーディ』のタイトルロールを歌い
センセーションを巻き起こす」とか、
「柔らかくイタリア的美感を湛えた声と
大柄な体格から、男装役としての人気が高い」
と書かれている。

バルチェッローナは、「タンクレーディ」を歌わせて、
当代一の歌い手だと考えて良いのであろう。

確かに、シラクーザの統治者、
アルジーリオとの二重唱などでも、
名手ラウル・ヒメネスのテノールに渡り合って、
しなやかさのある美声を聴かせて、
素晴らしい声の饗宴を生み出している。

このオペラは、
哲学者ヴォルレールが書いた悲劇が原作となっており、
(彼の書いたものでは、日本では、『カンディード』が有名)
状況こそややこしいものの、
筋は、それほど複雑なものではない。

ややこしい状況とは、
イタリア半島の先端の島、
シチリア島(四国と九州の間の大きさとされる)の
歴史に基づくという点が、
我々にとってはまるで親近感がないという点である。

この島は、地理的な特徴から、
古くから、東のギリシア人が植民したり、
南のカルタゴから狙われたりしていたようだが、
10世紀頃、イスラムの支配も受けたようである。

この後の話なのか、
二大勢力アルジーリオの一族と、
オルバッツァーノの一族が、
この島の都市シラクーサで小競り合いをしていて、
さらに、サラセン軍が、
シラクーサ攻略の時を伺っている状況。

タンクレーディも、
この島の重要な貴族であったようだが、
ビザンティウムに亡命していて、
裏切り者と考えられている。

このような状況下、上記アルジーリオの娘、
アメナイーデが、その地を訪れた際に、
恋に落ちていた、という設定である。

このような関係を図示すると単純、
ややこしさはアメナイーデに集約される。

             オルバッツァーノ(父の政敵)
                ↓(和睦の証)
  タンクレーディ ← → アメナイーデ
        (両想い)   ↑(シラクーサもろとも渇望)
             ソラミーロ(イスラムの暴君)

恐ろしい四角関係である。
ここで、アメナイーデが、タンクレーディに、
手紙を送ったのが、間違いのもと。
この手紙は、イスラムのソラミーロ宛てのものと誤解され、
アメナイーデは裏切り者とされてしまい、
タンクレーディもまた、彼女を誤解してしまうことになる。

訳も分からぬまま、タンクレーディは、
決闘でオルバッツァーノを倒し、
サラセン軍に斬り込んで死んでしまう、
という話である。

という事で、このあらすじを見ただけでも、
シューベルトが残したオペラと同様の設定が、
たくさん見つかった。
この作品は、シューベルトが感動したオペラの一つとされ、
多くの学者が、その影響を語っているのである。

父親が決めた相手との結婚を娘が拒む点で、
「アルフォンゾとエストレッラ」が、
イスラムとの戦いの話である点や、
若者たちが旅先で恋に落ちているという設定で、
「フィエラブラス」が思い出される。

シューベルトが円熟期にあってなお、
若い頃に見た「タンクレーディ」の世界を背負っていたことが、
妙に実感されてしまった。

この「タンクレーディ」こそが、
ロッシーニの世界展開の先鋒であって、
この作品によって、彼は、遠くヴィーンにまで進出し、
大成功を収めることが出来たのである。

つまり、シューベルトのみならず、
この作品に、当時の聴衆は屈服した。
これは1813年の作品で、
感心したシューベルト同様、作曲したロッシーニもまた、
21歳という若輩者であったのであるが。

立風書房の「オペラの発見」でも、
「オペラ・セリア」の最初の秀作であり、
叙情表現とドラマの展開という相反する要素を
たくみに融合してこのジャンルの後世の作品に
大きな影響を与えた」と書かれ、
「タンクレーディ」の重要さが特筆されている。

今回取り上げるDVDでも、
吉田光司という人が、解説で、
ロッシーニの出世作であり、
「19世紀初頭で最もヒットしたオペラの一つ」
と紹介している。

「偉大な芸術家が初めて才能を開花させた
『出世作』だけが持つ魅力に溢れている。」
という言葉でくすぐってくれてもいる。

さて、このあたりで、今回のDVDにて、
このオペラを最初から見ていこう。

155分という長丁場であるが、2幕ものである。
オーケストラはリッカルド・フリッツァの
フィレンツェ5月音楽祭管弦楽団。
合唱団にも同じ名前が付いている。

Track1.序曲は、よく知られているように、
悲劇的な序奏から、軽快なアレグロに進む、
「試金石」序曲を流用したもの。
ロッシーニ・クレッシェンドが出ることで、
当時の多くの聴衆を魅了した。

このDVDでは、演奏風景の前に、
配役のクレジットなどが出る。
演奏風景はピットの中なので暗めで、
映像も解像力が低く、
楽想に見られる愉悦感が実感できないが、
「試金石」とは違って、悲劇なので、
こんな感じで良いのかもしれない。

演奏は、自由にテンポを動かして、
盛り上げ方もうまく爽快感がある。

Track2、3.暗闇の中で、白服の群衆と、
黒服の群衆が集まって合唱を繰り広げる。
これは当然、シラクーサの二つの勢力の
内戦を終わらせた祝福の音楽である。

そこに、アルジーリオ一族の妻、
イザウラが入って来る。
続いて、アルジーリオ。
バルバラ・ディ・カストリの声が、
冴え冴えと男性合唱に加わり、
白い衣装のヒメネスのテノールが、
さっそうとシラクーサの繁栄を祈る。

さらに、紺色の出で立ちで、
かつての敵方の大将オルバッツァーノが現れる。
マルコ・スポッティのバスも交えて、
合唱の中に、織り合わされていく。

このような手法は、「試金石」の、
冒頭のパーティ・シーンの焼き直しであり、
シューベルトの「アルフォンソ」の祝福シーンでも、
繰り返されるものである。

Track5、6.アルジーリオとオルバッツァーノの会話で、
亡命したタンクレーディが正統な王家であって、
その財産をオルバッツァーノが奪った事や、
政略結婚の話も決めている。

Track7.ついに、アメナイーデも現れ、
美しいアリア「何と優しく、私の心へと」を歌う。
ダリーナ・タコヴァのソプラノ
ロッシーニらしい軽快なリズムの合唱が絡み、
なめらかなコロラトゥーラが縦横無尽に跳躍して、
聞き所になっている。

アメナイーデ役のタコヴァは横顔は美しいが、
前から見ると、縦横比がいかにもオペラ歌手である。

Track8.ここでは、結婚の話を聞かされ、
アメナイーデは混乱する。

Track9、10.は、ロッシーニが得意とした、
精妙な自然描写で、
夜明けと共に、タンクレーディが、
祖国に、こっそり帰って来た状況が描かれる。
「おお祖国よ」のカヴァティーナが続く。
問題のバルチェッローナの表情が存分に味わえるが、
大柄ではあるが、魅力的な人である。

「アメナイーデ、甘美な想いよ」
と歌われる所の、繊細な序奏は、
まるで、シューベルトの音楽の一節を聴いているようだ。

が、ロッシーニの場合は、このような楽句を、
十分に展開するようなことはしない。

「僕の願いを叶えておくれ」という力強い歌、
「僕の運命は幸せだ」という感情豊かな歌へと変転し、
どんどんと楽想を変えながら、
推進力のあるドラマにしている。

「君の眼差しに浸るんだ」といった
憧れに満ちた部分などは、
「試金石」でも聴くことのできた
ロマンティックなテイストで、
観客は興奮して大拍手を送っている。

Track11、12.ルッジェーロという部下に、
タンクレーディは、アメナイーデへの言伝や、
匿名の騎士が援軍に来た事を告げるよう命ずる。

街が包囲されているから、
さっさと結婚式を遂行すると言って、
アルジーリオはアメナイーデに迫る。

Track13.「よく考えよ、私の娘だということを」
というアルジーリオのアリアで、
アメナイーデを脅しすかす。

このヒメネスは、「試金石」のDVDでも歌っていたが、
その美声で、すぐに、そのことを思い出した。
ロッシーニを得意としているのだろう。
白いマントをたなびかせて立ち去る。

Track14.アメナイーデは、
タンクレーディに手紙を出した事を後悔する。
すると、タンクレーディが現れるが、
「何故、帰って来たか」、「過酷な運命が待っている」
と、アメナイーデは喜ぶ前に、警告し、
「今日は最悪の日」とか、「早く逃げて」とか連呼する。

Track15.不気味な低音の音型が響く中、
「恐ろしい運命から逃れて」と、
アメナイーデは悲痛な声で訴え、
「愛しい人は僕だと言ってくれ」とか、
タンクレーディは嘆願し、
「運命に愛は勝利する」と説得の応酬が繰り広げられる。
ひしっと抱き合い、
音楽もしっとりとなって、
「ずっと涙と苦しみに生きるのか」という
声を合わせて歌う部分が続く。

しかし、このあたりは、
闇に紛れてのシーンだから必然性があるが、
この舞台、ずっと暗い中での出来事という演出。

「お発ちになって」、「残して去れと」いう切迫した部分から、
「いつになったら愛する心は平安を望めるでしょう」という、
しっとりした部分が交錯して、緊張感が保たれている。
ロッシーニ、さすがである。

ロッシーニの音楽は、このような不連続な短い部分の、
巧みな交錯が、劇に推進力を与えているのだろうか。
シューベルトなら、どっぷり浸ってしまう所であろう。

Track16.まだ暗い。
合唱で、「愛の神々よ、降りてきてください」。

Track17.合唱が「栄光、勝利」と、
トランペットが軽快に鳴り響く中、
オルバッツァーノを
後半は、舞曲調でテンポを速め、

Track18.アルジーリオが、
「寺院へ参ろう」と呼びかける中、
タンクレーディが現れ、援軍を申し出ると、
女たちは、何と大胆なとささやき合う。
アメナイーデは、結婚に同意できないと、
「結婚より、死を」とか言っている。

Track19.オルバッツァーノが、
「そうだ死だ」と言って、
ソラミーロ宛の手紙
「シラクーサで会いましょう。
あなたの敵を倒して下さい」とあるので、
タンクレーディ宛だったそれを、
全員が、仇敵イスラム軍の大将宛と誤解してしまう。

Track20、21.「私は不幸」というアメナイーデに、
「心は怒りに満ちて」と、タンクレーディも含めて、
主要なメンバーがそれぞれの思いを口走る、
壮大な合唱が始まる。
「もうお前の父親ではない」とアルジーリオが、
「不埒な女め、恥辱に死ね」とタンクレーディも、
めいめいにめちゃくちゃな暴言を
アメナイーデにぶつける。

緊張感溢れるリズムが支配する部分と、
推進力のあるメロディが交互に現れ、
劇的な状況を高めていく。

合唱も暴言を吐く中、
ホルンやオーボエの簡単な助奏を伴って、
誤解した恋人たちの、祈りの歌が痛々しい。
それを押しつぶす合唱の中、
アメナイーデが歌い上げる音楽は、
力強く英雄的である。
このような部分も、シューベルトはしびれたに相違ない。
何故なら、彼のオペラでも、こうした英雄的なメロディが、
混乱の中、現れるからである。

金管が鳴り渡り、ティンパニが轟いて、
オーケストラの炸裂し、
最後の合唱が盛り上がって行く。
手に汗握る迫力で、時間が凝縮し
音楽の推進力は最大になっていく。
以下、第2幕である。
Track22.オルバッツァーノは、
ヒロインの母親に詰め寄り、
父親も怒り狂って、
死刑の署名をしてしまう。
「同情するものは共犯者だ」と残忍な、
オルバッツァーノの性格が表れる。

Track23.母親イザウラのアリアで、
「不幸な者を慰める優しい希望よ」。
このアリアでは、クラリネットの助奏が登場して、
シューベルトの時代、
このようなスタイルが好まれていたことを思い出す。
比較的シンプルな曲想なイザウラの歌を、
牧歌的な色彩で彩っていく。

シューベルトは、18歳の時、
1815年のオッフェルトリウムD136で、
同様の手法を取り入れていて、
これについては、前に聴いたことがあった。

Track24.ここでも、先ほどの
恋人たちの二重唱で出て来た、不吉な音型が現れ、
今度は動転して落ち着かないヴァイオリンの音型に、
冴え冴えと木管が不安な感情をかき立てる。
時折、オーケストラは爆発して、
テンションを高めて、劇の状況を、ぐいぐいと押し込んで来る。
アメナイーデのアリアが始まるが、
「私は死にます、タンクレーディ様」と、
ほとんど、メロドラマ風のレチタティーボで、
オーケストラの方が雄弁である。
素晴らしい一篇の音の詩である。

舞台は、また黒々としていて、
アメナイーデは、牢獄の中でもんもんとしている。

シューベルトの「フィエラブラス」でも、
フィエラブラスが夜陰に紛れて
恋敵の行動を見ているシーンも、
こんな感じだったような。

Track25.
一条の明かりが見えたように木管群が囀ると、
「愛のために死ぬのであれば」という、
いくぶん救いのある歌を歌い上げる。
これは、先のシーンで、緊張感を高めた後だけに、
とても清涼な効果を持つ。
コロラトゥーラの美しさも、存分に発揮される。

ブラヴォーが当然のようにわき起こっている。

Track26.
何と、オルバッツァーノと共に、

レチタティーボ
「この女のために私と戦う騎士はいない」という、
オルバッツァーノの言葉尻を捉え、
タンクレーディが、「私が、彼女の守護者だ」
と名乗りを上げる。かっこいいシーンである。

「私は無実なのです」とアメナイーデが言っても、
タンクレーディは聴く耳を持たない。

このような展開は、救済オペラというものに似ているのであろうか。

Track28.
彼等は決闘することになる。
ここで、娘を助けてくれたということで、
アルジーリオが、タンクレーディを抱擁して、
「苦しむ私を助けてくれ」と歌う。

それに対し、タンクレーディも、
自分が幼い頃から苦しんできた事を歌い上げ、
「私の正体が分かっても憎まないで下さい」という。

「恥ずべき女を憎みたいが、
憎むことが出来ない」という共通の気持ちが、
切々たる音楽に唱和される。
すると、トランペットのファンファーレが聞こえて、
決闘に向かう行進が始まる。

ロッシーニの真骨頂が発揮され、
声の饗宴の中、おどけたようなリズムが、
時を前へ前へと進むように促して、
ドラマがどんどん展開していく。

Track29、30.イザウラとアメナイーデのレチタティーボ。
決闘の結果を祈るように待つシーンで、
「自分の死よりも、誰の死への不安かわかるでしょう」
と、天に向かって語りかけると、
Track31.では、楚々とした、簡素で敬虔なアリアが始まる。

「公平な神様、あなたを恭しく崇めます」という、
清楚な語りかけは、次第に、遠くからの合唱に続き、
アメナイーデ様、安心して下さいという力強い歌声は、
ヒロインの心を軽くすると共に、
彼女の歌声を解き放ち、素晴らしいコロラトゥーラとなる。

湧き上がって、泡立つ音楽の軽快さ。
このあたりの音楽は、「試金石」にも出て来そうな、
盛り上がりが何度も波を打って現れ、
合唱の中、力強いソプラノが舞い上がる。

ここでも大拍手である。当然だろう。

Track32.合唱、「皆で勝利者を」は、
軽妙な音楽で、オペラ・セリアであることを忘れさせる。

このあたりの音楽は、「試金石」の、
軍隊招集のシーンを彷彿させる。

タンクレーディの運命も、ここが最高点なので、
この後の展開が、かえって怖いくらいである。
彼は、「栄光はいつも嬉しい」とか言っている。

Track33、34、35.
タンクレーディはすでに立ち去ることを決め、
アメナイーデが誤解を解こうとするのを、
「君の言葉は聞かない、説得しようとしても無駄だ」
と言い放つ。
しかし、このような、もっともシリアスな部分でも、
音楽は、おちゃらけの要素で響き、
ロッシーニは高みの見物で、
シリアスな主人公たちの人生を
からかっているような感じである。

Track36.アメナイーデが、懇願するのを聴いて、
遂に、音楽はしっとりとした雰囲気に一転する。
「あなただけを愛していました」と言うアメナイーデの声に、
やさしくピッチカートが寄り添って、
タンクレーディも遂に声を合わせ、
愛の絶唱へと高まって行く。

Track37.「私を棄てるの」という言葉に耳も貸さず、
「死んで終わりにしよう」というタンクレーディの決意。
これに対して、ロッシーニは、完全に冷やかしの音楽で答える。
「あなただけが苦しみの原因」と罵り合う恋人たちに、
活気のある、勢いのある音楽を付けて、
木管も弦楽も、馬鹿みたいな装飾でからかう。

Track38、39.カウンターテナーのマルケジーニがようやく、
聴かせどころを得る。
タンクレーディの部下だか友人で、
「気の毒な人だ」というレチタティーボと、
「喜びが報いますように」という
祈りのアリアを歌い上げる。
タンクレーディの仲間だから、
おそろいの赤色の装束である。

Track40.このあたりから、
物語は大詰めになるのであろう。

それにしても、ずっと舞台は暗いままである。

タンクレーディが現れるが、その前に、
素晴らしい管弦楽の助奏があって、
その気高い英雄的な心を讃えたかと思うと、
あまりにも固い頭を冷やかすような楽想が続く。
「タンクレーディの大シェーナ」と題され、
遠い異郷の地に入り込んだ状況を歌い上げている。

Track41.「忘れることが出来ない、
僕を裏切った女を」という、
ひたすら勘違いの女々しい音楽が、
深々と苦悩に満ちた情感で歌われる。

Track42.音楽は軽快であるが、
怪しい状況で、舞台上には剣を持った人々が集まっている。
とにかく暗い舞台で、よく見えないのである。

サラセン人たちの合唱と書いてあるが、
「町は恐怖に支配されている」と歌われるので、
イスラムの街の警護連であろうか。

「タンクレーディは悲しみに死んでしまうのか」
などと歌われ、「彼の武勇が我々の心に火をつける」
とあるから、シラクーサ・サイドの兵士のようだ。

よく状況が分からないので、解説を見ると、
みんながタンクレーディを探している状況とあった。

Track43.いったいどういう事か、
よく分からないが、変なところに隠れている、
タンクレーディをアメナイーデらが発見する。

Track44.「どうしてこの心をかき乱すのか」と、
タンクレーディは歌いだし、
素晴らしい声を聴かせながら、
恨み辛みを吐き出していく。しつこい男である。
「不実な女め」と罵り始めるが、
もう分かった、という感じがしなくもない。

おそらく、みんな同じ感情なのか、
遂には、合唱が、「戦場へ」と勇ましく叫び、
「我々を勝利に導いて下さい」などと、
彼を駆り立てて行く。

その間にも、「愛に燃え上がらない者には、
僕の苦しみは分からない」などと、
タンクレーディは悶々としている。
そして、「戦場へ、ソラミーロを倒そう」と言って、
軍隊を率いて行ってしまう。

このあたり、バルチェッローナは、
かわいいお姉さんの顔をしていて、
見た目としてのリアリティはないものの、
声は素晴らしい。

Track45.すると、アルジーリオも、
一緒に戦うと言って、出て行ってしまう。
戦闘が激しいわ、とか言っている。
すると、「勝利の犠牲は大きかった」、
「脇腹を刺され重傷だ」とか、言いながら、
さっき出て行ったばかりのアルジーリオが戻って報告する。

このあたりの戦闘報告のシーンも、何となく、
シューベルトのフィエラブラスの終幕を、
思い出してしまう。
必ずしも、ロッシーニばかりから学んだ訳ではあるまいが、
シューベルトは、いろんな影響を
時代から受け継いでいるのである。

Track46.葬送行進曲のような音楽で、
タンクレーディが運び込まれて来る。

Track47~49.
ひっそりした中、寂しくチェンバロがぽろぽろと鳴る中、
恋人たちの最後のシーンが始まる。
「愛ゆえに間違いが生じた」と、
アルジーリオは評論家する。
「アメナイーデ、僕を愛しているのか」と、
ぶっ倒れたままのタンクレーディが歌い始める。
「君を残したまま、僕は行かなければならない」と、
泣ける台詞を続ける。

オーケストラは、静かに、悲しい情感のみを単純な音で彩る。
「どうか手を重ねて欲しい」と、
タンクレーディは、アルジーリオに頼む。
「僕の思いはすべて遂げられた」、
「君は生きるんだ」と、長々と、死の場面が演じられ、
音楽はひっそりと終わる。

大歓声である。確かに見応えのある舞台だと実感した。
どの歌手にも不足はなく、オーケストラや合唱の演奏も良い。
録音もうまく劇場の感じが出ている。

ただし、残念ながら、全編、暗がりでの演技であって、
陽光溢れるはずのシチリアを舞台とした作品を見た、
という実感はあまりない。

得られた事:「シューベルトの円熟期に繋がる元になるものを、早い段階からロッシーニから受け継いでいた。」
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by franz310 | 2012-02-18 21:57 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その287

b0083728_23293374.jpg個人的経験:
マドリッド王立劇場で、
2007年4月に
上演された
ロッシーニのオペラ、
「試金石」の記録。
今回は第2幕を
視聴してみよう。
指揮のゼッダも、
演出のピッツィも、
入魂の作品と知った。


特にピッツィのこだわりというか、
これに対する思い入れはものすごく、
舞台となるアシュドルバーレ伯爵の邸宅は、
懐かしい別荘を再現したものだという。

ここにブックレット掲載の写真を拝借したが、
テーブル、パラソル、椅子なども、
「Castel Gandolfo」にあるピッツィの家に、
見られるようなものを配しているらしい。

ピッツィが愛してやまないように見える、
このカストロ・ガンドルフォという土地を、
ネットで検索すると、
教皇の夏の離宮がある場所、
イタリアで最も美しい街とある。

アルバーノ湖を見下ろす、
美しい風景の画像も出て来る。

このような土地であるならば、
南国の太陽はまぶしいだろう。
恐らくは青空の広がる夏の午後などには、
どうしようもない気怠さの中に、
意味のない快楽を求めたくもなるだろう。

このDVDに見られる舞台においても、
登場人物たちは、プールに浸かってみたり、
美味そうなオレンジジュースを飲んだり、
暇つぶしにしか見えない遊びをしたりしている。

何よりも醜悪なのは、
女たちの上げる嬌声である。
何が、そんなに楽しいのか、
実のところさっぱり共感できない。
が、それは、そのまま、我々の人生の、
実態のような感じがしないでもない。

このDVDは二枚組で、
一枚目には、第1幕の他、
各場面の画像と共に、
劇の進行がテンポ良く解説され、
これを見れば、ほんの5分で、
このオペラの内容が分かる仕掛けになっている。

とはいえ、このオペラの魂とも言うべき、
パキュービオやマクロビオの脱線アリアについては、
何も語られていない。
まあ、当然か。

さらに、演出家のピッツィの、
このオペラに対する思い、
指揮者ゼッダの思いもインタビュー画像として、
この一枚目のDVDに収められている。

ピッツィに関しては、前回紹介して感銘を受けたが、
ゼッダの方はどうであろうか。
彼はピットに入っていると、
照明の加減か、白髪の東洋人にも見える風貌だが、
YAMAHAのピアノの前でインタビューを受ける様子では、
やや西洋人である。
芸術家というよりも、通勤電車で出会いそうな感じ。

彼は、この作品こそが、
ロッシーニが書いた最初の本格的なオペラであるとし、
自身の語法や美学を駆使した独創的なものとして紹介している。

リアルな物語に抽象的な言葉を散りばめ、
不思議な効果を出し、喜劇とドラマを奇跡的に結合させた。

みんな、この作品を喜劇だと言うが、
これは基本的にシリアスな問題作だと言うのである。
そこで描かれるのは、無為の世界、時間つぶしばかりの、
非常に近代的な世界で豊かな世界だという。

このあたりの考え方が、ぴったりピッツィに一致したのであろう。
このインタビューで参考として紹介される舞台シーンは、
いずれも、その言葉にぴったりな雰囲気である。
身振りも激しく、だみ声でまくしたて、
言いたい事がいくらでもあるという風情。

R・シュトラウスが言ったような、
何も起こらない問題の作品だと力説している。
二つのへんてこなシーンがあり、
ロッシーニは、それをまったくもっともらしくは描いていないという。

彼はこれを、幻想や狂気の世界の勝利だと言う。
善からも悪からもロッシーニは中立で、
それが社会諷刺や重要な真実味になっている。

これは、後期の「ランスへの旅」に似ている、
と力説しているが、このあたりは、
このDVDのブックレットに書かれた文章と同じである。

20歳で書かれたオペラの、
何という幸福、自然さ、創造力、活気、新鮮さ、青春性、
と、列挙しているが、
音声を聴くと、「デデデ、デデデ」と、
何やら興奮しまくったコメント。
そこまで興奮させていいの、
という感じだが、私にも、この気持ちは分からなくもない。

インタビューでは、第2幕からの映像引用が目立った。
非常に華やかな世界である。
最後がどんなにニヤリとさせるかを、
ここで紹介されてしまうのがちょっと残念だったが。

では、DVD2を見て聴いてみよう。
こちらの方が収録時間が短いのだが、
こっちは、特別映像は付いていない。

ここから第2幕であるが、
演奏はかなり乗って来ている感じ。

Track1.ゼッダが指揮をする前から、
舞台上から笑い声が響いて来る。
男声合唱がゲストたちを表すのだが、
男ばかりでは具合が悪いので、
彼等に対して向き合う形に、
つまり、後ろ向きのモデル風の女性たちが配され、
腰をくねらせている。

ドンナ・フルヴィアとアスパージアの声が、
明るく響き、伯爵への復讐を口にする。
マクロビオとパキュービオは、
伯爵にまとい付いて、言い訳をしている。
アスパージアなどは、マクロビオに、
謝らないで、仕返しをしろなどとけしかけている。
マクロビオは、アスパージアの、
中国風の服を褒め、
新聞で取り上げるなどと言って、
ご機嫌を取ろうとしている。
確かに、丹前のようなものを着ている。

ジョコンドもドンナ・フルヴィアに、
謝ったのは見せかけで、決闘する、
などと言って強がっている。

そんな不穏な雰囲気を察したのか、
伯爵は、近くの森に、狩りに行こうとみんなを誘う。
アスパージアは、さらにマクロビオをけしかけている。
狩りの後でね、とマクロビオ。

Track2.
サファリのような出で立ちで、
ライフルを持ったゲストたちが合唱する。
ここでもモデル風の女性たちは、
短パンで長い足を誇示している。

Track3.
すると、急に空が暗くなり、
激烈な嵐の音楽が始まる。
照明は稲妻を模してぴかぴかしている。

みんなからはぐれ、
ライフルもなくしたパキュービオが大騒ぎする。
この部分などは、よく考えると、メロドラマの手法であろうか。

嵐が去ると、のどかな爽やかな音楽が始まる。
このあたり、指揮者ゼッダが好きな部分であるからか、
たっぷりと愛情を込めたオーケストラが聴かれる。

薄明の中で、伯爵への友情と、
クラリーチェへの愛の板挟みになった、
ジョコンドのアリアが歌われる。
非常にナイーブなもので、
何だか、シューベルトの「フィエラブラス」の、
1シーンでも見ているかのような錯覚に襲われる。
第1幕には、アカペラの部分があったが、
メロドラマの活用といい、
どうも、10年後のシューベルトのオペラなども、
意外に、ここから近いのではないか、
などという感想を持ってしまった。

「ああ愛よ、それに値するなら、
哀れんで欲しい、率直で昔からの忠誠を。
その美しさを忘れることが出来ない」などと、
他愛ないことを歌っているのだが、
ピッチカートに木管のアンサンブルが、
ロマンティックな情感を盛り上げて行く。

次第に、ロッシーニ一流のテンポの魔術で、
軽快になり、べったりとせず、
むしろ爽やかな詩情で彩られていく点が素晴らしい。

ここでの拍手はかなり心がこもっている。

Track4.クラリーチェが現れ、
南部鉄瓶みたいなもので、お茶を入れながら、
ジョコンドを慰める歌を歌う。
テーブルを囲んでの親密なデュエットである。

二階のバルコニーでは、
マクロビオがこれに気づき、
伯爵も、女はやはり女だな、と語り、
アスパージアも、マクロビオも、
怪しんで盗み聞きする感じである。

それに気づかず、ジョコンドは、
愛の言葉を続けているから、
非常に微妙な状況の五重唱となる。

どうも、この演奏には伸びやかさが欠ける、
などと思ったこともあったが、
このあたり、絶妙のアンサンブルである。

そこに、伯爵が直談判するかたちで、
大股で現れ、あいまいな事ばかり言う女よ、
ずるくて狡猾だ、などと言って、
状況が緊迫すると、
狩りに出ていた人たちが戻って来る。

マクロビオは、これは新聞ネタだと呟き、
クラリーチェも、「何という侮辱」とお怒りである。
が、早口言葉による強烈なカリカチュア化で、
困惑する人たちと、人の不幸を見て喜ぶ人たちの五重唱と、
合唱が一体になって、
シリアスなシーンを明るく締めくくる。

ジョコンドはクラリーチェの無実を、
伯爵に訴えるが、
そこにクラリーチェの謀略が始まる。
彼等に手紙を見せ、
兄が帰って来て、彼女を連れて行くというのである。

Track5.ここでの演出は、
ドンナ・フルヴィアが油絵を描き始めるというもの。
パレットを手に持ち、カンバスに向かっている。
モデルはパキュービオである。

しかし、ここでフルヴィアが歌っているのは、
復讐の歌であって、明るく歌っている内容は、
「彼がみんなの前で私を傷つけたのだから、
みんなの前で彼を罰しないとね」と穏便ではない。

この後、マクロビオが、何故、決闘をしなければならないか、
と大騒ぎする中、ジョコンドは、ピストルを渡し、
「私がするように、君の番が来たら、私の方を撃ちたまえ」という。
マクロビオは、「いつも君の事は新聞で良く書いている」と答えても、
「それだけで十分な理由だ。すぐに君を殺す」と興奮している。
伯爵も、「君に勇気がなくても、俺はやるぞ」と剣を振りかざす。
そのうち、どっちがマクロビオをやるかで、
ジョコンドと伯爵が決闘を始める。

Track6.これは強烈な三重唱である。
まずは、君たちがやれ、とマクロビオが歌い出す。
ジョコンドは、私がやる時は、彼の下卑た心を切り裂く、と言うと、
伯爵は、私がやる時は、彼を天国で散歩させてやる、と答える。
この魅力的な音楽に乗って、
剣を振り回したり、間合いを取ったりと、
歌いながらも大変な重労働である。
そのうち、伯爵が倒れ、
ホストはゲストに上席を与える、というので、
今度は、ジョコンドはマクロビオをちゃんちゃんばらばら始める。
降伏する、それが簡単だ、とマクロビオ。

伯爵は条件は、まず、臆病と認め、金の亡者と認めよ、
馬鹿な洒落者、生きている中で最も無知な人間、
と小学生なみの条件でまくし立てる。

マクロビオが屈服すると、
ジョコンドは喜んでピストルを手に、
踊って歌おう、とダンスを始め、
伯爵とマクロビオは剣を持って、それに続く。

ロッシーニの微笑みに満ちた音楽が旋回し、
すばらしい興奮の渦が巻き起こる。
彼等は、ずっと動き回って、
見ているだけで、へとへとになりそうだ。
この演出はオーソドックスかもしれないが、
登場人物の歌は上手で、演技も巧妙でとても面白い。

Track7.クラリーチェが軍服姿になって、
兄になりすまし、ようやく祖国の地を踏んだ、などと歌う。
軍隊は、どんな爆弾も我々を止めることはなかった、と答える。
後半は、「この大胆な男らしい変装によって、
私は、希望が帰ってくるのを感じる、
優しい鼓動に、心は熱く燃えて来る」
と、情緒豊かな歌に変わり、
合唱は、「何と美しい顔、溌剌として気品に満ち」
と、さっきとは勝手の違うことを歌っている。
ここでのトドロヴィッチの歌唱は、まさしくそんな感じだ。

オーケストラも奮い立って、合唱も勇ましく、
素晴らしい盛り上がりに暖かい拍手がわき起こる。

アスパージアとマクロビオは、
全く同じ顔だ、などと噂する中、
伯爵が出て来て、クラリーチェへの愛を訴える。

Track9.は伯爵のアリアである。
「目覚めることが出来ないなら、
あなたの胸で哀れんで下さい」という言葉に、
クラリーチェの表情が穏やかなものに変わって行く。

伯爵は、白のジャケットに蝶ネクタイだが、
ポケットに手を入れての懇願である。
不遜であると見ていると、テンポが速くなって、
伯爵は倒れてネクタイを外し、音楽は焦燥感を募らせて行く。
ついに、死ぬ死ぬと騒ぎ出す絶唱となって、これまた拍手。

軍服姿に惹かれたアスパージアとフルヴィアが、
クラリーチェ本人とも知らず近づいて来る中、
召使いのファブリッツィオが書類を持ち出し、
結婚を認めるサインを申し出ると、
軍人は、伯爵の口に、いきなりキスをするので、
周囲は騒然となる。
「私はクラリーチェよ」という単純な一言で、
大団円が近づく。

Track10.は、「今できるのは、喜ぶことだけ」という、
みんなが許し合う最後のアンサンブルになる。
アスパージアとマクロビオ、フルヴィアとパキュービオも、
いつの間にかカップルになっている。
コーダでは、オーケストラも合唱も白熱した興奮を見せ、
そんな中、カップルは二人だけの部屋に入って行き、
軍人たちも、それに手を振って終わり。

カーテンコールでは、さすがパキュービオ、マクロビオに歓声、
そして、ジョコンドには、敬愛の拍手がわき起こった。
これらの役は、パオロ・ボルドーニャ、ピエトロ・スパニョーニ、
ラウル・ヒメネスが担当した。

伯爵やクラリーチェにも相応の拍手だが、脇を固めた3人の手堅さ、
そして何よりも指揮者ゼッキに賞賛が送られたのが良く分かった。
斬新なステージでの洒落た演出ではあるが、
全体として手堅く、温かい血の通った名演奏だった。

さて、このDVDのブックレットに載せられた解説は、
このように最大の拍手で報われたゼッダ自身が手がけているので、
それをここで紹介して終わりにしよう。

「1812年9月26日、
ミラノのスカラ座で初演された『試金石』は、
当時、文化の発信地とされていたオペラ・ハウスから、
彼が委嘱された最初のオペラであったがゆえに、
ロッシーニのキャリアに重要な段階を刻んだ。
当時、ロッシーニはわずか22歳であり、
1811年10月26日ボローニャで初演された、
『ひどい誤解』というたった一つのオペラ・ブッファと、
共にヴェニスのサン・モイーズ劇場で上演された、
1810年11月3日の『結婚手形』と、
1812年1月8日の『幸せな間違い』という、
二つのオペラ・ファルサしか書いたことがなかった、
ということもあり、この依頼は大きな衝撃であった。
『幸せな間違い』の成功を受けて、
1812年5月9日、サン・モイーズ劇場で上演された、
『絹のはしご』は、スカラ座から委託を受けた後のものであった。
彼の友人、モンベッリのために書いた
『デメトリオとポリビオ』が、
1812年5月、ローマで上演されたが、
これも、スカラ座との契約にサインした後であった。
ミラノのオペラ座からの招聘は、
明らかに、これらの初期オペラの真の成功に寄るものであるが、
そのシーズン、主役を歌うようスカラ座と契約していた、
クラリーチェを歌ったマリア・マルコリーニ、
アシュドルバーレを歌ったフィリッポ・ガーリという、
ロッシーニを崇拝する友人でもあった二人の偉大な歌手たちの、
助けもまたあった。
マルコリーニ夫人は、ボローニャで、
『ひどい誤解』で当たりを取っており、
ロッシーニは彼女のために、
兵士の姿で歌う、『en Travesti』というアリアと共に、
エルネスティーナという重要な役割を与え、
彼女はそれが気に入ったので、
新しいオペラでも、それを変えることなく使うことを頼んだ。」

「試金石」の最も奇想天外な筋は、
単に、「遠くに行かなければならない」と、
伯爵を騙せばいいだけのクラリーチェが、
いきなり軍隊を率いて登場する場面であるが、
何と、このような裏話があったということか。

「フィリッポ・ガーリは、ロッシーニの歌唱スタイルに優れ、
正当派のオペラ歌手がファルサなどのまがい物など、
通常、検討する価値もないとした時代、
ヴェニスでの『幸せな間違い』の男爵の役を引き受けた人である。
この傑出した出演者の能力が、
明らかに恋するアシュドルバーレがバス、
(もう一人の恋人のジョコンドがバランスをとってテノール)、
もちろん、女性の恋人役にはコントラルトを選ばせた。」

成る程、『幸せな間違い』の男爵も、
何か、かっこいい感じの役柄であった。
ガーリはイケメンでもあったのだろうか。

「作曲家としての彼の将来にとって重要なこの契約によって、
期待と責任感がわき起こり、
ロッシーニは恐ろしい自信喪失と警戒感に襲われた。
これは、1815年『イギリス女王、エリザベッタ』によって、
ナポリ王立劇場の監督の任命を受けた時や、
傑出した『ウィリアム・テル』によって
アカデミーで栄光を掴むのに先立って、
『コリントの包囲』や『モーゼとファラオ』によって、
パリで同様の任命を取った時などなど、
他の重要な契約時にも、表面化したことであった。
ロッシーニは、完全に新しい音楽を作曲するよりも、
リブレット作者の許可を得て、
彼の意見によれば、大きな芸術的価値を持つ、
前に書いた作品のページを追加することによって、
自身の最高の証明書として提出したがった。」

何と、ロッシーニの流用癖が、
こんな観点から理由付けされるとは思っていなかった。
スタンダールの本にも、
「ロッシーニは自作を再利用しすぎるか」という一項があるが、
スタンダールは、退屈させるよりは、
この方がマシといった言い方で弁護している。
「息つく暇の与えない」、「居眠りすることだけは決してない」
と書き、34曲のオペラ合わせて100以上の人気曲がある、
と書いている。他の作曲家では、1曲のオペラに、
人気曲が一個あればいい方だ、と書くのである。

「『試金石』には、それゆえ、
『エリザベッタ』に『パルミーラのアウレリアーノ』や、
初期のオペラから抜粋された、もっと多くのページがあるように、
『ひどい誤解』からの、多くの抜粋が含まれている。
『コリントの包囲』や『モーゼとファラオ』など、
パリのために書かれた厳格なオペラは、
すでに、ナポリのために書かれていた『マホメットⅡ世』や、
『エジプトにおけるモーゼ』のオーセンティックな改作となっている。」

なるほど、これらは、単に、フランス語版というわけではなく、
さらにパワーアップしているというわけだ。

「抽象的で意味のない言葉にも音楽を付け、
それが何度も繰り返され、模倣される語法は、
ロッシーニならではのものであるとはいえ、
しかし、この方法は意味がないものではない。
これらの借り物が多い、
イタリア・オペラ、フランス・オペラでは、
はじめから終わりまで聴衆を夢中にさせる、
『セミラーミデ』、『泥棒かささぎ』、『シャブランのマティルデ』、
『ウィリアム・テル』のような偉大なオペラが持つ、
完成度や劇的なリズムは少ないことに気づくだろう。
これは、作曲家として、
ロッシーニの慎重なあいまいさが、
笑いと涙、喜びと悲しみといった、
両方の感情を呼び起こすように、
同様の音楽語法を使わせたことにより、
音楽的なアイデアが不適切になった、
ということではなく、
天才と素晴らしい技法によって、
ロッシーニが獲得した、
『aurea proporzione(金色の割合?)』を
不鮮明にするといった、
多くの異なる目的のため作られた、
構造の組み合わせによってもたらされた、
不連続話法の感覚によるものである。」

この部分、1センテンスが長すぎて、
何を言っているか分かりません。
どなたか解読お願いします。

「リコルディが有する『試金石』の自筆譜のスコアは、
各曲の並びや最終的な構成が、
オリジナルの順序とは異なることを示している。
しかし、これは、作曲家の乗った気分を妨げるものではなく、
こっけいなテンポ表示がスコアに見られる。
ジョコンド、マクロビオ、
アシュドルバーレの気まぐれな決闘を描いた、
協奏する曲のためには、『分解するように』という表記、
無伴奏合唱が、ピッチを維持するのが難しいので、
四重唱の独唱には、『調整されたアンダンテ』という表記がある。」

こうした洒落た表記は、ベートーヴェンの後期や、
シューマンの専売かと思っていたら、大間違いであった。

「『試金石』は歌手に、非常に多くを要求するために演奏が困難である。
クラリーチェのコントラルトには、正統的なコントラルトなのに、
実際にはあり得ない程の異常な高い声を要求する。
ロッシーニの女声の偏愛は固有なもので、
あらゆる声域で、甘さ、劇的緊張、技巧的な軽快さの表現を求めた、
ロッシーニの愛人、イザベッラ・コブランが女主人公になる、
ナポリ時代のドラマ作品には必ず見られる。
また、男声主役、アシュドルバーレも、
高音、低音ともめざましいパッセージが要求される。
これはフィリッポ・ガーリには容易であったが、
19世紀のバッソ・ノビレが、
バスからバリトンが分かれる傾向にあり、
どちらを使うか、
あるいは、両方がうまく行くとは限らない
バス・バリトンを使うべきかで、
今日、歌手や興行主たちの心配の種となっている。
他の役も副次的と見なすことができず、
非常に重要かつ、優れて高い能力のプロが要求される。
事実、その音楽的、ドラマ的な価値に見合うだけ、
『試金石』は上演されて来なかった。
こうした要素が、スカラ座の聴衆にはよく理解できたので、
ペーザロから来た若者を、
当時のオペラ界の疑うべくもない支配者と考え、屈服し、
53回もの公演を要求した。
最後の公演では7曲がアンコールされるほどの成功で、
リブレット作者のルイジ・ロマネッリによれば、
しゃくに障るほどのものであった。」

「テシトゥーラの自然さの困難さ以外にも、
ロッシーニが、常に複雑さを増す、
劇場界に常に身を置いていたゆえの、
特別な経験なしでは、あり得ないような、
オペラの技巧のアクロバティックさを組み合わせた、
実現不可能なヴォーカル・ラインがある。
いつも演奏家たちと共に働くことが、
彼が求めるドラマ表現の目的のために、
際限なく人の声の可能性をフル活用しようとする、
彼の要求を減らすことはなく、
彼はブレス・コントロールや、
コロラトゥーラ・パッセージの交錯を学び、
それゆえ、ヴォーカル・ラインは、
困難や負担なく、より自発的で自然なものとなった。
同様に『試金石』の器楽パートは、
この管弦楽法の大家の通例通り、輝かしく透明だが、
ヴォーカル・フレーズゆえに、他のオペラよりも複雑である。
それは、特別な自由さやアゴーギグの柔軟さをもって伴奏され、
表記にも容赦がない。」

何だか、人間の声研究所みたいなイメージである。
「歌曲王」、シューベルトであっても、
その生涯において、こんな風景を想像することは出来ない。
パガニーニやリストが器楽でやったのと同様の試みが、
声においても、なされていった感じだろうか。

得られた事:「ロッシーニとシューベルトの、歌に対する姿勢の違い。ロッシーニは、オペラ歌手たちと、日夜、声による表現力拡大を実験していた。」
「ロッシーニは、ここぞという大一番では、過去の成功作を流用して保険をかけた。」
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by franz310 | 2011-07-30 23:30 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その286

b0083728_10153225.jpg個人的経験:
私としても、
いい加減にしたいのだが、
アシュドルバーレ伯爵の
快適な邸宅のパーティから、
なかなかお暇できずにいる。
何と言っても、
ロッシーニの権威として、
日本でも人気の高い、
ゼッダ指揮のものがあるとすれば、
無視して素通りすることが出来ない。
マドリッド王立劇場2007と、
銘打たれたDVD二枚組。
セットが立派で、美男、美女のモデルを、
あちこちに配したこの演出は、
晴れ渡った南国の別荘のようにも見え、
さらに快適な空間を生み出している。


登場人物は、一階二階を自由に行き来して、
庭で寛ぎ、テーブルで飲み食いし、
プールに浮かんで、まざしく夏のバカンス。
こんな邸宅に泊めていただけるなら、
是非、私もアシュドルバーレ伯爵のお友達になりたい。

オペラ「試金石」(ロッシーニ作曲)の今回のものは、
マドリッド王立劇場管弦楽団、合唱団の演奏。
2007年4月のライブ。
ゼッダの指揮のロッシーニでは、
すでに、この前のオペラに当たる、
「ひどい誤解」を聴いたが、
あれは、2001年の収録であった。

このDVDの解説は、ゼッダ自身が書いているが、
前に聴いたナクソスのCDの
Bernd-Rudiger Kernという人同様、
スタンダールへの反論がしっかり書き付けられていて、
ちょっとがっかりした。

「この作品が、ロッシーニのオペラ・ブッファの最高傑作とした、
スタンダールの熱狂に賛成することは難しい。」
と、解説の中頃に書かれているのである。

私は、偉大な文豪の言葉通りに、
ロッシーニの傑作と信じて、満足して聴いているのに、
何故、これらの解説を書く人は、
わざわざそれを否定して、
私の聴く気をなくさせようとするのだろうか。

が、良く読んでみると、今回のものは、ちょっと違うようである。

「また、『オペラ・ブッファ』という言葉にも、
賛成することは困難である」と、
続けて書かれているからである。

そう来たか。
どうやら、ロッシーニの傑作であることに、
異議を唱えているわけではないようだ。
スタンダールの「オペラ・ブッファ」という表現が、
この指揮者には気に入らないようなのだ。

では、その言い分を聞いてみたい。

「確かに主題はコミカルだが、伝統的なイタリアの、
オペラ・ブッファとは全く異なるものだ」とある。
ゼッダは、もっと雄大な視点で、
この作品を捉え直そうとしているようだ。

「コミック・オペラには、
ステレオタイプの登場人物がいて、
少ないバリエーションの月並みな喜劇を演じ、
その本来の、
人々を楽しませ、明るくするという目的に対し、
疲弊しきっていた。
それがロッシーニによって新しい生命を得て、
『絶対のコメディ』というコンセプトに向けて、
息を吹き返した。」

ということで、何だかよく分からないが、
壮大な論点である。
この無名のオペラに、新しい光が投げかけられた感じ。
が、その新コンセプトとは何なのか?

「それは、モラルの抑圧なき逸脱の夢
(アルジェのイタリア女、新聞、オリー伯爵)や、
潜在的に破壊的な社会諷刺の練習
(試金石、イタリアのトルコ人、チェネレントラ、
セビリャの理髪師、ランスへの旅)で、
喜劇のテーマに、シリアス、またはセミ・シリアスな糸が、
素晴らしい結合によって結ばれている。
どたばたのユーモアから甘い優しさまで、
辛辣な皮肉から真に高貴な感傷まで、
すべてのものがロッシーニの奇蹟の天才によって、
絶妙なハーモニーの中に溶け込んでいる。」

とにかく、ゼッダは、この作品を画期的なものと捉えているようだ。

「『試金石』は、伝統的な笑劇カリカチュアで、
(アシュドルバーレが変装した、
怪しげなトルコ人が『シジララ』を繰り返し、
耐え難く下手な詩人パキュービオが登場するなど)
高尚な感傷(友人、ジョコンド)、
気まぐれな女性達(ドンナ・フルヴィア、バロネス・アスパージア)、
そして、仕事熱心ながら、
無遠慮な金銭目当てのジャーナリスト(マクロビオ)などと、
結合されている。
女性の主役、クラリーチェは、
これまでのオペラ・ブッファにおける、
迫力のないお転婆娘とは異なる、
知性と落ち着きで演じている。」

確かに、ここに出て来る登場人物が、
非常に生き生きとしていることは、
私も認めるし、彼等が大きな枠組みの中で、
これらの複雑な要素がしっかりと
まとめられているのも魅力である。

ゼッダは、「試金石」は、
単なる「オペラ・ブッファ」ではなく、
時代を進めた革命的ドラマである、
と言っているのである。

「天真爛漫な基本プロットと、ほとんど3時間に及ぶ、
もっと複雑な状況にも耐えるような陶酔的活力、
豊かな音楽の見事な構成のアンバランスについても、
考えてみるべきであろう。」

これについては、私も何も否定しない。
こんなにも沢山の演奏を聴いたが、
やはり、音楽に勢いと独特の美しさがあるのが魅力だ。
どのナンバーを聴いても、心ときめく瞬間があるが、
それは、ある時は楽しく、ある時はシックに響く。

以下、ちょっと、脱線したような解説が続く。

「『試金石』というタイトルは、
昔、金を分析するのに用いられた、
酸にも耐える固い石フリントのことである。
オペラの中では、
クラリーチェのアシュドルバーレへの誠実さをテストする意味で、
パトロンを失い、主人が貧乏になるというニュースである(第1幕)。
第2幕では、アシュドルバーレの、
クラリーチェへの愛の堅牢さをテストする企みの計略で、
結婚の最終拒絶をアナウンスしに帰って来ている、
クラリーチェが男装して演じる架空の兄が現れる。」

このあたりの解説は何度も読んだが、
クラリーチェの兄は架空だったのか。

「この理由からトルコ人に変装したアシュドルバーレの登場は、
純粋なコメディア・デ・ラルテの過度の笑劇風で、
筋の現実的なトーンと強烈なコントラストをなす。」

確かに、第1幕では、このあたりが強烈な山場であろう。
他愛ない会話の連鎖のようなものに、
ここで、いきなり大きなドラマが現れる。
あるいは、ここに来て一斉に、
これまで勝手にやっていた個性的な主人公たちが、
同じ運命に遭遇する、という感じであろうか。

「一方、クラリーチェとアシュドルバーレの愛の戦いは、
コミック・オペラに出て来る、多くの結婚嫌い同様、
優雅に飾り立てられた戦いであって、
誠実な感情に自信のある女性は、
ゴルドーニの良く知られたコメディの、
状況やキャラクターを想起させる。」


このように説明されると、この「試金石」というオペラ、
単純に「オペラ・ブッファ」の代表作と考えていた事が、
非常に恥ずかしくなって来るではないか。

この解説は、先のオペラの題名列挙もそうだったが、
別の作品に脱線する欠点がある。
以下の文章も、もともとはコンマが一つしかなく、
分かりにくかったのを、二分割して見た。

「『試金石』の構成とセミ・シリアスなアプローチは、
音楽劇の中のオリジナルなジャンルの最初のものである。
部分的に補足されてフランス語がつけられ、
『オリー伯爵』と改作された、
ロッシーニの最後のイタリア語オペラ、
『ランスへの旅』に奇妙なほど似ている。」

ということで、ここでも、ここから、
「ランスへの旅」の話に行ってしまっているが、
それよりも、この「試金石」の特徴が書かれた部分が読みたいので飛ばす。

「ハッピーエンドは、主役の女性が、
短い簡潔な句を発するだけでロッシーニ・スタイルである。
『ルシンドは帰っていません。私はクラリーチェです。』
同様に印象的なのは、アシュドルバーレのリアクションで、
『今まで、女性を良く思ったことはないが、
今日、私は、彼女らを尊敬することを学んだ。』」

確かに、この簡潔な言い回しは、
シャトレ座の演奏でも、妙に心に残っている。

ここから、解説は、このオペラの見所集みたいになっている。

「パキュービオのアリア、『ミシシッピの尊大な影』
(取り立て人に扮したアシュドルバーレのシーンが、
彼が取り当てを強要する時の発音で、
オペラを『シジラーラ』と命名し直したのと同様、
ミラノで勝利を収めた)は、
100年にも及ぶロッシーニのオペラの忘却を生き延び、
今日までしばしば言及されて来たものである。
同様にポピュラーなのは、木霊と共に登場する、
クラリーチェの入場、
それから、第2幕の雷雨で、ロッシーニの初期の作品から見られ、
何度も何度も、シリアスなものでも、コミカルなものでも使われた。」

どのシーンも、すぐに目に浮かぶような、
極めて印象的なものだ。
しかし、これらのシーンによって振り回される感情の幅は、
確かにゼッダが言うように、
新しく生命が吹き込まれたコメディと言うにふさわしい。

楽しいシーン、優美なシーン、
迫力のあるシーンを、ここでゼッダは取り出している。

「『試金石』は、さらに、レチタティーボ・セッコの、
拡大された利用によって特徴付けられ、
アシスタントに任せた後年のものとは違って、
これらはほとんどロッシーニ自らが書いた。
(第1幕の大部分は彼自身のもの。)」

何と、では、「試金石」の第1幕は、
かなり貴重な例ということになる。

「初演のため、物語の説明の補助用で、
リブレット作者に送られた、
ミラノで印刷されたリブレットは、
いくぶん多くの詩句を含んでいる。
豊かで寛大なホストにたかって、
彼らの余暇時間を楽しむ、
登場人物たちの間の会話による、
些細なストーリーを補強説明するために、
テキストが多く必要になっている。」

確かに、このオペラは、強烈な個性のバラバラの楽曲を、
強引に寄せ集めた作品という感じがある。
マーラーの交響曲みたいな感じだろうか。

そう思うと、ゼッダは別の例を挙げて来た。
マーラーのライヴァルで盟友でもあった、
リヒャルト・シュトラウスである。

「つまり、『試金石』は、『問題のオペラ』のはしりであり、
特に、今日、有名になった、
『カプリッチョ』と『インテルメッツォ』によって、
R・シュトラウスが、彼の最高のサポーターとなるような、
そうした新しいオペラの祖先である。」

以下、この解説の締めくくりはまことに力強い。

「もう一度言おう。ロッシーニは、未来を予測し、
過去の扉を、何の惜しみもなく、一度に締め切ったことで、
我々を驚かせるのである。」

こうした解説を読んで、今回、再発見したことがあったとすれば、
ロッシーニは強烈な革命児であったということだ。
前回の解説では、それを戯画化という言葉で、
矮小化していたかもしれないが、
今回の解説では、そうした要素は、
もっと大きな世界観の一部として読み直せる。

後年のロッシーニはかなり謙虚な振る舞いが目立ったようだが、
マーラーと同様、20歳のロッシーニは、
私のオペラには全てが書き込んである、
とでも言うかもしれない。

さて、このDVD、表紙を見ても明らかだが、
演出は、プール付きの豪邸が舞台という、
現代風でかなり洒落たものだ。

パリ、シャトレ座のものも、
プール付き豪邸であったが、
あれは、2007年1月のものだった。
演出を手がけたピッツィは、
3ヶ月前のシャトレ座の演出を見てどう思っただろうか。

ピッツィのインタビューも、
このDVDには特典映像として出て来るが、
見たところ、ゼッダと同様、かなりの年配である。

頭ははげているのか、かなり短く刈り込み、
口ひげとあごひげが白い。

が、この人は、この道のプロであるばかりか、
ロッシーニについての意見も熱いのでびっくりした。
「1812年はロッシーニにとって重要な年でした」
などと語り出す演出家は想像していなかった。

シャトレ座の演出のソランが、
僕はよくクラシックは分からない、
と言っていたのとは正反対である。
まあ、それゆえに、ロッシーニの革命的な作品に、
ふさわしい演出が出来たのであるが。

それとは違ってピッツィはかなり語る。
ゴルドーニの影響についても言及し、学究肌と見た。
当時のスカラ座はリアリティを重視したが、
ロッシーニは、そこに、
アイロニーと詩的センスを付加したと言っている。

このあたりで、ようやく演出上の話に入る。
いろんな事が起こるが何も起こらないゲーム、
スペクタクルを演出効果にしなければならない、
と書いている。

登場人物は、みな、何をしていいかわからない、
「無為」の人たちだ、とまで言っている。
しかも、我々が日常で出会うような人々だと言うのである。
シューベルトの時代が、妙に身近になるような発言である。

ゼッダ同様、この人もまた、ロッシーニに現代を見ていた。
だから、こうした演出は必然だったのだなあ、と感心。
食べたり飲んだりするだけの押しかけ客。

マクロビオが最も興味深い人物として上げられており、
現代にもいるような人として、再創造されている、という。

確かに、彼等のすることは、すべてが無目的だ。
これは、どうやら、シャトレ座の方も気づいていたようで、
内容を見てみると、テニスのラケットを振り回すシーンもあり、
食卓を囲むシーンもあり、気になる共通点がある。

しかし、実際に水に入る点でも、
かなり大がかりなセットを用意したという点でも、
こちらの方が本格的である。
何と、彼は、こんな感じの別荘を、
実際に何年か持っていたというのである。

ピッツィは、70年代に作られたヴィラを想定し、
当時見たことのある人を思い出しながら、
彼等がロッシーニの主人公に似ていると考えた。
「試金石」が演じられるのに、
理想の大道具は1970年代の別荘だというのである。
「Roman Dolce Vita」、何も計画せず、カジュアルなスタイル。
「Castel Gandolfo」にある、ピッツィの家にも、
見られるようなものを配しているらしい。

成る程、だから、何となく、既視感を感じてしまうのかもしれない。
何と、小道具まで、彼が持っているものだというこだわりだ。
衣装もまた、記憶にあるものだという。
ピッツィは、それを楽しみ、わくわくしながら再構成した。

それにしても、1970年代とは、
イタリア人にとってどんな時代だったのか。
我々、音楽ファンにとっては、アナログがデジタルになる前、
そう考えると、イタリア人も、
日本人同様、昭和の感じを持っている可能性がある。

シャトレ座のものは、DVD1枚に、
2幕すべてが入っていたが、今回は2枚に分かれている。
まず、1枚目から聴いて見よう。

Track1.ロッシーニを紹介して、日本でも好評を博している、
ゼッダの指揮姿は、序曲から確認することが出来る。
非常にオーソドックスな感じで、指示は克明。
テンポも悠然としている。

Track2.アシュドルバーレ伯爵のプール付き邸宅。
客人が、庭のテーブルで飲み食いしたり、
プールサイドで遊んだりしている。

成る程、ピッツィは、これを40年前の光景として再現したのか。
確かに私にも、懐かしい風景だ。

二階のバルコニーから、ガウンを着た伯爵が姿を現す。
ポロシャツで短パンのパキュービオ(パオロ・ボルドーニャ)が、
自分の詩を披露して歩くと、みんな難を逃れて行く。
パキュービオは、表紙のずぶ濡れの人である。

Track3.アスパージアはブリオリ、
ドンナ・フルヴィアはビッチーレという歌手が受け持っているが、
声はそれほど期待を裏切らなくてよかった。
フルヴィアはかなりふくよかである。

Track4.マクロビオとジョコンド登場。
ここで、二人は白い運動服か、
いきなりテニスラケットが持ち出される。

これも無為の人たちが、
いかにもしそうな行動の典型とされた。

マクロビオは、幾多の詩人も、
新聞の記事で簡単に吹き飛ばされる、
と歌い上げる。
吹き飛ばす動作がラケットの一振りなのである。

新聞を開きながら、こんなものは、
何の関心も起こさない、とジョコンドは反論する。
マクロビオは白髪混じりのスパニョーリという歌手、
ジョコンドは、何となく好青年である。
ヒメネスという歌手が受け持っている。
テニスをしながら、いろいろ論争している。

ここまで聴いて思ったのだが、
会場のせいか録音のせいか、
声に伸びやかさが足りず、いくぶん、
広がりに欠ける音響である。

あるいは、歌手の実力であろうか。

Track5.美しいホルンに導かれ、クラリーチェ登場。
トドロヴィッチという人だが、ぴらぴらの付いた、
ピンクの花柄のワンピースを着たベテランという感じ。
もう少し若い方が良いに決まっているが気品はある。

木霊の役のアシュドルバーレは、二階で健康器具を使っている。
このあたりから、ひねくれた二人の恋人の駆け引きが始まる。

Track6.いきなりアシュドルバーレ伯爵は、
上半身裸になって、二階でカヴァティーナを歌い出す。
マルコ・ヴィンコという人。なかなか渋い顔をした人。
プールサイドで、クラリーチェが聴いている。
後半では、ゆったりしたパジャマみたいな服を上半身に羽織って、
庭で歌い出す。
何とレチタティーボでの二人の会話は、電話越しである。

Track7.彼等のデュエットは、
そのまま電話の受話器を持って行われる。
オーケストラが、軽妙なリズムでドライブする。
ようやく乗って来たのか、
クラリーチェは、受話器を持ってごろごろしながらも、
悩ましい声を響かせて良い。

電話ごしという演出、
素直になれない、二人の関係を暗示していて、
妙に生々しい感じもしてきた。
いきなり夜になったのだろうか、
邸宅は闇に覆われ、両サイドにいる、
恋人たちだけがスポットライトを浴びている。
もどかしい感じが良く出ている。
歌い終わって拍手の時は、
また、明るくなって、プールに人が戻って来ている。
憎い演出だったということか。

しかし、DVD1では、この部分の詩情が際だっている。
コード付き電話がまた、おそらく、ピッツィのこだわりと見た。
懐かしい昭和、いや、1970年代へのオマージュであろう。

Track8.これは、表紙になったシーンで、
このふくよかな女性は、ドンナ・フルヴィアだったのである。
シャトレ座のラウラ・ジョルダーノを見た後では、
イメージが違いすぎるが、
主役はパキュービオのボルドーニャである。
プールに入ったドンナ・フルヴィアの前で、
さまざまな声色を駆使して、
有名な「ミシシッピの歌」を歌う。

「ミシシッピの尊大な小さな影よ、
恥ずかしがらないで、しばしとどまって下さい。
できません、いやです。
影が答える。
私は赤いボラ。それで十分でしょ。
すると、他のが答える。
君はカマスだボラじゃない。
そこで騒ぎが生じ、あるものは泣き、あつものは騒ぐ。
お嬢さん、あなたはカマスだ。
いや、ボラよ。
小さな影よ、しばしとどまって下さい。
ちょっと、そこにいて下さい。
そんな風に言わないで。」

ボルドーニャは、こうした詩の、
会話の内容に合わせ、声色を変えながら、
プールの回りを踊り歩いて、
フルヴィアを楽しませ、
最後は、プールに墜落して拍手喝采となる。

Track9.ジョコンドとクラリーチェの会話に、
マクロビオや伯爵が入って来るレチタティーボ。
シャトレ座の演出ではテーブルを囲んでいたが、
ここでは、果物が置かれたテーブルの横で、
四重唱が繰り広げられる。

何だか箸みたいなものを束ねたり、
ばらばらにしたりしているが、
占いであろうか。
みんなオシャレなカジュアルな服装で、
豪華な邸宅の庭に寝そべったりして、
いかにも気楽なひとときを演出している。

ここからは、伯爵がみんなをペテンにかけるシーン。
そこに、イケメンのファブリツィオ(伯爵の召使い)が現れ、
謎の手紙を置いて去ると、
伯爵は青ざめ、他の3人は、神妙なアカペラを歌う。
このあたりのロッシーニの指示については、
解説にも少し出ている。

伯爵はショックのあまり、
オーケストラ・ピットのあたりまで歩き回り、
家の中に飛び込んでしまう。

Track10.拝金マクロビオのアリアである。
オーケストラが楽しげな伴奏を奏でる中、
マクロビオが汚職の数々をおもしろおかしく歌うので、
きわどい服装の女達の嬌声が響きわたる。

この嬌声も、妙に空虚だ。
心の中では、笑っていない感じ。
ピッツィの演出が、こうした点にも生きているのか、
何をして良いか分からず、
とりあえず笑っておこうと、
閉塞感さえ感じさせる。

指揮者から棒を取り上げたりして、
スパニョーリは頑張っているが、
ちょっとテンポに緊張感がない。

シャトレ座の演奏の方が勢いがあって、
一気に聴かせる感じだった。
これは、ゼッダのせいか。

Track11.合唱団が、伯爵が出て来ない事を心配する。
このあたりに群衆として登場するモデル風の女性がゴージャスだ。

合唱団としては男性合唱を想定しており、
彼女らは歌わないので、悩ましく長い素足を見せた、
後ろ姿だけが点景のように使われている。

ピッツィは、この作品を本当に愛しているに違いない。
こうしたこだわりには、過ぎし日に、
遠い眼差しを向ける彼の表情が見えるようだ。

Track12.伯爵の友人、ジョコンドと、
クラリーチェが語り合っているのを見て、
マクロビオが、アンジェリカとメロードの歌を歌う。
それに合わせて、ジョコンドたちは踊り出す。

すると、テンポが変わって、
アスパージアとドンナ・フルヴィアたちが、
伯爵が財産を失ったことを騒ぎ出す。
私は、取り立てが「日本から来たのでは」と、
パキュービオが言うシーンが好きだ。

トルコ人に変装した伯爵が、
ナチスの親衛隊みたいなのを引き連れて、
あちこちを歩き回って、すべてを差し押さえろ、
(シジララ、シジララ)と歌う有名なシーン。

Track13.各部屋が親衛隊に差し押さえられる中、
クラリーチェが優しい歌を歌う。
先ほどまでの、馬鹿騒ぎの後で、
ジョコンドが、これこそ「試金石」と歌う。
おしゃれな服を着て現れた伯爵は、
親衛隊に見つかり、
校舎の裏ならぬ、木立の向こうに連れ込まれ、
身ぐるみ剥がれて、パンツ一丁になってしまう。

ジョコンド、クラリーチェ、伯爵が、
小さく身を寄せ合っている中、
騒々しい女たち、マクロビオ、ジョコンドは、
いそいそと出立の準備をして、
いかにも冷たく軽薄な感じである。

ただし、持ち物はきらびやかで、
彼等の唱和する声の美しいこと。

Track14.召使いのファブリツィオが、
証書を見つけて来て、すべて解決のシーン。
伯爵はようやく服を返してもらい、それを着て、
客人たちも、召使いたちも集まって来る。

ロッシーニらしい、早口のアンサンブルが素晴らしい効果を上げる。
ようやく、演奏者達のエンジンもかかって来た感じであろうか。
舞台全体の視覚効果も美しい。

得られた事:「ゼッダが現代につながる『問題のオペラ』と位置づけたこの作品に、演出家は、おそらく高度成長期、1970年代へのオマージュを捧げた。」
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by franz310 | 2011-07-24 10:20 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その285

b0083728_219565.jpg個人的経験:
ロッシーニの初期の成功作、
オペラ・ブッファ「試金石」は、
強烈なシャトレ座公演の影響で、
私の頭の中では、
大変カラフルで、
オシャレな作品として刻まれたので、
今回のデズデーリ盤を、
店頭で発見した時には、
表紙を見て、かなり驚いてしまった。
かなり、シリアスな決闘シーンである。


この決闘シーンは、第2幕で、
主人公の伯爵と友人のジョコンド、
そして、汚職まみれの新聞記者のマクロビオが、
訳も分からず始めるもので、
ほとんど、エピソードみたいなものである。

こうしたオペラでは、スタジオ録音などは、
リスクが高すぎるのであろう。
ここでも、拍手入りの記録である。

ヤバいライブ録音で名を馳せた、
イタリアのヌオーヴァ・エラから出ている、
1992年、モデナのテアトロ・コミュナーレでのもの。
オーケストラも、カメラータ・ムジカーレと、
聴いた事がない団体である。

イタリア製ながら音は良いものの、
トラック表示には、期待通りのいい加減さが見られる。

例えば、CD1のトラック14は、
たった、0分39秒で終わることになっている。
また、CD2のトラック17には、()内に書くべき、
登場人物が抜けている。

いったい、どういう事だろう。
国民性なのか、こうしたいい加減な所しか、
生き残れないような経済システムになっているのか?

1992年は、ロッシーニの生誕200年に当たり、
各地で記念行事が行われたものと思われる。

指揮をしているデズデーリは、1943年生まれ、
4月9日生まれとあるから、
この公演中に40代最後の誕生日を迎えた計算になる。

クラウディオ・デズデーリを日本語でネット検索すると、
歌手としてばかり出て来るが、
指揮者でもあるらしい。

1969年に、「ブルスキーノ氏」でデビューしたとあるから、
ロッシーニには、格別の思い入れがあるものと思われる。
スカラ座、コヴェントガーデン、ザルツブルク、グラインドボーンで活躍、
第2のキャリアを指揮者として過ごしているらしい。
画像検索すると、立派な白い頬髭の紳士が出て来る。

このCDには、デズデーリの文章も載せられている。
20歳で書かれたこの作品、音楽や登場人物が、
後年のロッシーニ・オペラの前触れになっていて、
ロッシーニ一流のグランドフィナーレが聴かれ、
『エンジョイ』と『プレイ』がキーワードになっている、
とある。

ロッシーニの音楽を、
クリエイティブなファンタジーの爆発であり、
パガニーニの器楽曲のように技巧が楽しげであると、
要約している。
彼によると、モーツァルトにおいては、
リハーサルやスタジオ・セッションの度に、
魂の喜びと深い痛みと共に幸福を感じるが、
ロッシーニの場合は、そうであって欲しいような、
本当に劇場の外にもあるような幸福を感じる、
と書いている。

歌手は、クラリーチェにヘルガ・ミュラー・モリナーリ、
どう見ても、ドイツ系の名前。
48年生まれということだが、
75年からはスカラ座で歌っているらしいので、
本場で認められた実力派なのであろう。
カラヤンの指揮のCDにも出て来る。
この演奏では、彼女は、44歳ということか。

さすがにベテランらしく、格調高く、
安定した歌唱で安心できる。

アシュドルバーレ伯爵には、ロベルト・スカルトリティ、
この人も、アラーニャ、ゲオルギューの名盤、
「愛の妙薬」にも出ている。
1969年生まれとあるから、こちらは若い。
92年の時点では、23歳の新進ではないか。

これもまた、若々しく、
張りのある歌で好感が持てる。
第1幕のデュエットなど、
すっかり聞き惚れてしまう出来映えである。

パキュービオの「ミシシッピの歌」も面白いが、
パオロ・ルメッツという人が歌っている。
ライプツィヒの歌劇場などで活躍している人らしい。

また、悪い新聞記者を歌っている、
ヴィンセンツォ・ディ・マッテオも、
かなりの拍手を受けている。

また、ドンナ・フルヴィアとアスパージアのコンビも、
大変、魅力的な声を唱和させる。
前者は、ノセンティーニ、後者はトロヴェレッリという人らしい。

ということで、
古いが小都市であるイタリアのモデナで、
上演された、超一流ではないが、
かなりの実力者たちの共演と考えれば良いだろうか。

前回のナクソス盤は、指揮者が冴えた演奏を聴かせていたのに、
歌手たちがもたつき傾向であったが、
今回のものは、序曲からしても、指揮者は安全運転気味であり、
むしろ歌の方が耳を惹き付ける。
とはいえ、この指揮者の丁寧で、
愛情のこもった演奏の美感は、
時に、印象的な響きで浮かび上がる低音や、
各楽器の表情豊かなソロによっても聞き取れる。

また、第1幕フィナーレの、
ふつふつと盛り上がって行く興奮も特筆すべきであろう。
声のアンサンブルも速いテンポに巻き込まれつつも、
波が寄せるように高まって行く。

このCD、こうした演奏家については、
まったくインフォーメーションがないのに、
ロッシーニの作品に関しては、
力作の解説が載っている。

Rubens Teseschiという人も気になるので、
ネット検索してみたが、
ロシアやイタリアのオペラに関する本を出していた。
この道の第一人者と考えてよかろう。

ただし、Timothy Alan Shawの英訳のせいか、
いや、たぶん、原文がそうなのであろう、
とても難しい。

すでに、我々は、ロッシーニのデビューの経緯を、
見てきてはいる。
それを繰り返す形になのが多少、残念。

「若いロッシーニに栄光をもたらした石」
という題名のもので、6ページもある。

「人生も終わり近くなってから、
質素な衣服に身を包み、
『小ミサ曲』を神に捧げたロッシーニは、
全能なるものに向かって、
『私はオペラ・ブッファのために生まれました。
すこしばかりの技量と心情、それが全てでした』
と告白した。
これは、ベートーヴェンが考えていたことそのままで、
1822年に、このイタリアからの客人を迎え、
彼は率直に、『コミック・オペラに専念しなさい。
もし、他のジャンルで成功を収めようとするなら、
あなたは、自分の道を推し進めるべきです』と言った。
この評価は、ロッシーニがワーグナーに伝えたもので、
1860年のエドモンド・ミショットの本に出ている。
これが本当かどうか分からないが、
ロッシーニが、オペラ・ブッファのために生まれた、
と言いながら、反対のジャンル、
ファルサから悲劇まで無頓着に、
エネルギーを費やした。」

ベートーヴェンやワーグナーが出て来る開始部は、
少なくとも私には斬新であった。

「彼の劇場作品のデビュー作は、
2幕のオペラ・セリア『ドメトリオとポリビオ』で、
これを書いた時、彼は14歳であった。
テノールで有名な役者であった、
友人のドメニコ・モンベッリの助力を受け、
モンベッリの夫人ヴィンセンツァと、
二人の娘、家族以外で、他から引き抜かれたバス、
たちからなる一流の劇場仲間と、
ロッシーニはチームを作った。
ヴィンセンツァは、
プリマドンナであると共に、リブレット作者であった。
『ドメトリオ』のために彼女が書いたリブレットは、
特別個性的なものではなく、
若者を巡って、二人の父、
パルティア王とシリア王の間に争うというものだった。
アリアを提出されると、
その能力を発揮して、
期待通りにオーケストレーションし、
作曲を任されたジョアッキーノは、
テノールである興行主が、
ステージで見せる以上の熱意で、
音楽を付けていった。
事実、モンベッリが1812年に、
ローマのデラ・ヴェッラ劇場で、
この作品を上演するまでに、6年が必要だった。」

この作品が後になって演奏されたのは、
ロッシーニの人気が出て来たから、
というのが真相ではいか。

「この遅れによって、
ロッシーニの劇場キャリアは、
ヴェニスのサン・モイーズ劇場で、
ファルサ作曲家として始まった。
この劇場と契約していた作曲家が、
最後の最後で契約を破棄したので、
誰に頼って良いか分からなかった興行主が、
ロッシーニの家族の友人であった、
ローザ・モレーリの推薦にしたがったのである。
ジョアッキーノは迷わずヴェニスに到着、
数日で、ガエターノ・ロッシの一幕もの、
『結婚手形』を作曲、
40クローネという、
それまで、見たこともなかった金額を受け取った。
こうして、1810年11月3日、
18歳のロッシーニは、
コミック・オペラの作曲家としてキャリアをスタートさせた。」

うまい解釈である。
本来、オペラ・セリアでオペラ作曲を開始したのに、
運命の悪戯か導きによって、
喜劇からのスタートとなった。

「翌年、彼は、『ひどい誤解』で次の一歩を踏み出したが、
プロットに問題が多く、3回の上演で禁止になった。
当時、政治や宗教以外に関しては、
検閲はそれほど厳格ではなかったが、
恋人のしっぺ返しで、ライヴァルを騙して、
彼を、性転換した男性だとしてのは行き過ぎだった。
しかし、彼のキャリアに不都合を起こすことはなく、
一過性の事件にすぎなかった。
逆に、3ヶ月後には、
途切れることなき活動が開始する。
サン・モイーズ劇場は、別のファルサのため彼を呼び戻し、
1812年1月8日に初演された、
『幸せな間違い』は、シーズンを通して演奏された。
スタンダールは、ロッシーニの心に浮かぶ行き過ぎも突飛も少ない、
ロッシーニ初期の作品を好み、
自身を、『1815年のロッシーニアン』と呼んだが、
この青春の作品に熱狂した。
『この作品のいたるところに天才が火花を散らしている。
経験豊かな目で見れば、
この音楽家のさらなる幸運を開く、
後年の拡張された作品に使われた、
少なくとも、15か20もの、
アイデアの母体が見て取れるはずだ』と書いた。」

スタンダールは、モイーズ劇場での、
ロッシーニの一連の作品を知らなかったかと思ったら、
この「幸せな間違い」については知っていたようである。

「約束されたスタートから、最初の躓きは、
3月14日、フェラーラの聴衆から、
『バビロニアのキュロス』が、
四旬節なのにシリアスな主人公が出て来たゆえに、
ブーイングされたことで、
ロッシーニは、後に、
『これは私の完全な失敗だった』と認めている。
『事実、私がボローニャに戻ると、
友人達が軽食に招いてくれ、
アーモンド菓子の菓子屋に、
『キュロス』と旗に書いた船を作ってもらった。
それは、マストが壊れかけ、
帆は破れ、船は一方に傾き、
クリームの海に沈むように見えるものだった。』
以来、この作曲家は失敗を笑い飛ばすようになる。」

この一節は気に入った。
いかなる場合も、ロッシーニのように前向きに行きたいものだ。

「この埋め合わせは、5月9日にすぐ訪れ、
幸多きサン・モイーズにて、
新作の喜劇『絹のはしご』が上演され、
その月の間、繰り返された。
この場合も、ロッシーニは、
歌手達に推薦されている。
マリエッタ・マルコリーニ、フィリッポ・ガーリが、
声を使いすぎない彼を好んだ。
さらに、彼の才能を、
イタリアで最も重要な劇場、スカラ座に売り込んだのも、
このマルコリーニとガーリで、
ここでは、新しい天才を発見するために、
すべてがお膳立てされていたと言ってもよいだろう。」

成る程、歌手の協力もなく、
勝手にオペラを書いていた、
円熟期のシューベルトとは、このあたりが決定的に違う。

「ミラノは、イタリアにおけるナポレオン帝国の首都で、
彼の継子であったウジューヌ・ド・ボアルネ総督に支配され、
華々しくも不満に満ちた街だった。
スタンダールはこの街を愛したが、
ロッシーニ伝では、誤って実際以上の言葉を使った。
『ロンバルディアでは、全てが幸福に息づく。
新しい王都のミラノは、輝かしく、
王への年貢が近隣より低かったことから、
すべての活動が財産や楽しみに直結していた。』
実際は、ナポレオンは、彼のうぬぼれに見合った義務を強い、
その支配した土地からの重税に見合った支出はしていなかった。
フランス人を解放者として歓迎する牧歌は、その輝きを失い、
ミラノの人々は、物価の上昇や、
増税、強制的な徴兵に不満を言い始めていた。
横暴な警察も、その不満を取り締まることは出来なかった。
しかし、有名な建築家によって壮大な建物が建てられ、
芸術がその反抗精神にヴェールをかけた、
その美術、文学、科学のサークルによって、
外部の者からは、繁栄して見えた。
そして、その中で、当然、
スカラ座は第1の地位を保っていた。」

ロッシーニのオペラには、中産階級の人たちが多く出て来るので、
その経済活動には、興味があったが、
こうした難しい時代の政治的状況も教えてもらって参考になった。

「困難でないことはなく、
パイジェルロやチマローザの作品の上演繰り返しに加え、
1812年のシーズンは、
カゼッラ、ジンガレッリ、ゼネラーリ、オルランディ、
モスカ、パヴェージといった、無害な職人の作品が過剰であった。
これらの作品の価値は、もっと強烈な刻印を感じさせる、
天才の不在を印象づけた。
思うに、誰も、この天才こそが、
質素な鞄に四つのファルサと失敗したオペラ・セリアを入れた、
20歳のロッシーニであると考えたものはいなかっただろう。
ショックという以上の驚愕であった。
1812年、9月26日、『試金石』は、
彼を、舞台における首長として王冠を授けた。
オペラは、期間の常識を越え、
53回の繰り返し上演され、
勝利を確かなものとした。
53回目の上演では、まだ満足しない聴衆は、
7つの曲を繰り返させた。
上手に自身の体験を語るロッシーニは、
スカラ座における月桂冠のおかげで、
兵役を免れ、
惨めに死ぬ兵士ではなく、
芸術家として生きられたことを感謝した。」

このような閉塞感、不満に満ちた状況下で、
かくも新機軸にあふれた抱腹絶倒のオペラが上演された場合、
どのような事が起こるかを、じわじわと解説したこの文章、
ついつい、いろんな事に思いを馳せた。
「バビロニアのキュロス」で、
空気を読むことを痛感したロッシーニ、
ここでは、ミラノの社会に底流していた不満を、
忘れさせる作品を飛ばすことに成功した。

あり得ない展開、意味不明な言葉へのこだわり、
硬直した社会は、こうしたものに飢えているだろう。

「潤色された多くのロッシーニ伝中の一つである、
こうした逸話はともかく、
ウィットに富んだ、ルイジ・ロマネッリのテキストに、
いくばくかの成功の原因はあるとはいえ、
この成功は、すべてが音楽家に負う疑うべくもない成功であった。
ロマネッリはこの分野では決して初心者ではなく、
1799年から1816年までスカラ座付きの詩人で、
若い女性のためのロイヤル・カレッジの教師、
60もの音楽に詩を提供し、
これらは8巻の書物に収められており、
感謝する生徒達によって出版された。
『試金石』で明らかなように、
熟達した詩人で、古典に忠実であった。
これらのモデルでは、二重の変装がよく行われた。
最初の変装は、
疑い深い独身者のアシュドルバーレ伯爵によって、
彼のご機嫌を取る三人の女を試すためになされ、
彼は、彼自身の財産を没収するトルコ人に変装する。
伯爵の変装の後、
彼を愛するクラリーチェによって、
変装がなされ、彼女は、
兄の士官に化け、制服で現れ、
伯爵から引き離し、彼女をどこかに連れて行こうとする。
伯爵が彼女を失う前に、
彼は、彼女こそがふさわしいと気づき、求婚する。
プロットは、明らかに伝統的な、
ファルサのフレームワークを取るが、
ロマネッリは、ゴルドーニ風の引用を取り込んだ。」

ゴルドーニって何?
1707年、ベネチア生まれイタリアの喜劇作家。
写実によるコメディア・デラルテの改革者。
パリでフランス語の喜劇でも成功した。
1793年に亡くなっている。

「忠実な友人でありながら、クラリーチェを愛する登場人物が、
裕福な主人公にたかりながら、彼の破滅を知ると身をかわし、
トリックが分かるとすぐに戻って来る、
四人の厄介者のグループに入って活動する。
ベッドと金庫を分け合おうと、
伯爵につきまとう二人の女性を含む四重唱では、
愚かな詩人と金目当てのジャーナリストの男性二人が、
文学の世界から、聴衆がよく知っている現実を引き出している。
構成は、皮肉でセンチメンタルな戯画で、
それほど個性的なものではなく、
ガルッピやパイジェルロ同様、
田舎の哲学者や、
文学的、科学的気まぐれに捕らわれた、
気立ての良い狂人、
そして、別れたりひっついたりする恋人たちが、
オペラやファルサの世界を、
田舎の休日の静かな喜びの中を満たす。
1812年の9月に、
これらの陳腐なキャラクターたちが、
突然、興味深く見えて来たのだとしたら、
みんながよく知っている状況に、
スパイシーな音楽が加わったからである。」

成る程、さきほど、いくばくかの成功原因が、
台本作者にあったとはいえ、ロッシーニこそが、
勝利の原因だとあったのは、このことだったのだな。

シューベルトの場合も、
ゲーテの古典的な詩に、いきなり、
生々しい血を注ぎ込んで、音楽界に踊り出たが、
ウィットという点では、彼は不得意であった。

「最初から、我々はパキュービオの、
メスタージオのイミテーションのばかげた詩を聞かされる。
彼は、『悲劇的で喜劇的な言葉』を唱え、
彼のごちゃ混ぜの小唄は、
『Ombretta sdegnosa - Del Missipipi
- Nor far la ritrosa - Ma resta un po'qui』
というものだ。
何が新しいのか。
恐らく、風変わりなシナリオではなく、
悪戯っぽく、『ミシピッピ、ピッピ、ピッピ』と、
メロディやリズムを打ち付ける音楽の発案で、
それはさらにオッフェンバックの世界にまで、
我々を突き抜けさせる。
18世紀の優美さは、こうした、
陽気なカリカチュアに道を譲り、
フォガッツァーロの『去りし日の小世界』に出て来る、
有名な小唄にまで生き延び、変容している。
もはや、メスタージオのパロディではなく、
作者不明の小唄を、年配のおじさんが、
膝の上の姪に歌ってやるようなものである。」

ということで、フォガッツァーロって何?
どうやら、イタリアの作家(1842-1911)みたいで、
先の作品は、オーストリア支配下における、
理想主義の夫婦の日常を描いたものだという。

「さらにもう一歩、マクロビオの場合は、
さらに戯画化が辛口で、彼は、
『Mille vati al suolo io stendo - Con un colpo di giornale』
と言う。」
という風に、肝心の部分は英訳されていないので、
分かりにくいが、
おそらく、自分の新聞記事の影響が大きいことを言ってるのであろう。

「しかし、嘘に嘘を重ね、彼は決闘することになる。
彼のきわどいやり方は失敗し、彼は、
『il fior degli ignoranti, in versi e in prosa』と告白する。」
ここも何のことか分からない。

何度も、我々は、典型的にばかげた状況になる。
180年前のミラノ人は、この状況に、
痛烈なものを感じ、
マクロビオを、オーストリアの警察に守られた、
お役所仕事を見ていた。
こうした対比は、
単身で当局やテレビに、
自分を売り込むジャーナリストがいないので、
今日、見つけることは困難だが。
政治の滑りやすいスロープから離れ、
さまざまな創意の噴出によって、
ゲームを楽しみながら操るロッシーニを、
私たちは、賞賛せずにはいられない。
決闘したくないマクロビオは、
彼を殺すことを楽しみにする、
挑戦者の伯爵とジョコンドと三重唱を始めるが、
これは最初はシリアスな響きだが、
すぐに、カーブだらけの道を滑り落ちるカートのように、
アクロバティックな跳躍で、
英雄的喜劇の『con quel che resta ucciso - io poi mi battero』
から、ぴょんと跳ねて止まる、
『Del duetto inaspettato - si consola il maledetto』、
そこから、変形、
『il padrone della casa - ceder deve al forestiero』、
目も眩むように旋回する、
『fra tante disfide - la piazza e gia resa』での終結。」

前回は、第1幕を聞き込んだので、
このCDの表紙にも取り上げられている
第2幕の決闘シーンを、聞き込んでみよう。

三重唱は、「はじめに武器を手にしたあなた方が」
という部分であるから、CD2のトラック12である。
チェンバロ伴奏で始まるが、
このCDのチェンバロは、かなり魅力的な深い音を聞かせる。
演奏者名は書いてない。

まず、ブックレットから、この部分の歌詞を眺め、
上記、『con quel che resta ucciso』を探す。
これは、決闘のレチタティーボの後、
大分、会話が進んでから現れる。
それから、
『Del duetto inaspettato』であるが、
おいおい、リブレットでは、
『Del duello inaspettato』となっている。
どっちが本当だ?と、ナクソス盤を見ると、
リブレットが正解だった。
英訳した人(Shaw)がいい加減と見た。

さて、最初の部分、確かにモーツァルト風で古典的ある。
が、この『Del duello inaspettato』のあたりから、
すこしずつ脱線していく感じである。
戯画化と書いてあったが、まさしくそんな感じだ。

確かに途中までは、荘重なものを楽しげに焼き直したものだが、
どんどん、リズムが変わって悪ふざけが乗りまくり、
最後は早口のぺちゃくちゃの声に、
木管楽器の剽軽な音色や、
打楽器のどんちゃんが加わって、
まったく異次元の領域に突入してしまっている。
成る程。

このCDの表紙を飾る部分であるが、
この写真に明らかなように、
サーベルがかちゃかちゃ鳴りながら進行する。
伯爵はバスでドスが効いていて、
伯爵としての威厳に満ちている。
バリトンのマクロビオは、時に、果敢な声であるが、
しばしば情けない声になるのが面白い。
こうした決闘シーン、「結婚手形」も面白かった。

「状況はお決まりのものだが、
彼自身のアイデアを盛り込んで、
ロッシーニはそれを磨き上げた。
20歳の音楽家には、節約という感覚はなく、
伝統的なファルサの要素を追いながら、
それを変容させて行き、
彼は、自身にも、私たちにも一瞬の休息をも与えない。」

ここまでで、まだこの解説は2/3しか進んでいない。
しかし、もうページも尽きて来たので、
このあたりで終わりにしたい。
残りの部分では、ロッシーニが、
スカラ座のお抱え詩人の作品を自由に編集していること、
因習的な第2幕にも、第1幕同様の、
豊かで気の利いた音楽を付けていることの賞賛などが印象に残った。

決闘シーンの後、クラリーチェの変装シーンや、
伯爵の愛情表現のシーン、
大団円のフィナーレなどが続くが、
最初の繰り返しになるが、歌手たちの出来映えも傾聴に値する。
オーケストラも愛情たっぷりの深い音色になっている。
スピノージのオリジナル楽器にはなかったものだ。
何度も書くが、チェンバロの音色がまた素晴らしい。

得られた事:「シューベルトがゲーテの詩に新しい魂を吹き込んだように、ロッシーニは、慣習的な物語にスパイシーな音楽で息を吹き込んだ。必殺業はリズムによる戯画化である。」
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by franz310 | 2011-07-17 21:11 | ロッシーニ