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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その336

b0083728_1544786.jpg個人的経験:
前回、カーティス指揮による、
ヘンデルのオペラ、
「アリオダンテ」の
意欲的な録音を聴いた。
それは、ヘンデルが省略した部分も
復活させたものであった。
今回聴くものは、
そのような学究的な行き方とは、
ひょっとしたら違うかもしれないが、
実際にも日本でも演じられたもの。


シューベルトの歌曲でも、
印象的な名唱を聴かせてくれた、
アン・マレイがアリオダンテを演じている、
ということで、聴いてみたくなったものである。

FARAOというレーベルであるが、
エジプト製ではなく、ドイツ製である。
中世の戦士を表したようなシンプルな表紙デザイン。

2000年1月にミュンヘンで行われたライブ録音。
拍手どころか、舞台上で起こっている諸雑音も、
しっかり収録されている。

決闘シーンなどは、それゆえ、
かなりの臨場感がある。

アイヴォー・ボルトン指揮の
バイエルン・シュターツオパーの演奏。
ブックレットには、数多くの舞台写真が収められている。

たっぷりした現代のオーケストラの響きは、
序曲から余裕があるが、
残念ながら、ジネヴラを歌うジョージ・ロジャーズが、
最初のアリオーソを歌い出すと、
その声量が、ちょっと追いついていないような感じを受けた。
さすがにライブ録音で、万全とは行かなかったようだ。

解説は、この時の演出をした、
デヴィッド・オールデンが書いているが、
作品から、彼が勝手に妄想したことを書いているように見え、
彼の解釈であって、作品の解説ではなさそうだ。
が、逆に、創意豊かな演出家なら読み取れる、
この作品に込められた可能性のあるもの、
として読めば、今日深くもある。

「ヘンデルの『アリオダンテ』が私を惹き付けるのは、
作品の素晴らしく明解な構成である。
第1幕では、楽園の明るい日中が描かれ、
第2幕では、暗い夜の闇に溶け込み、
人々が口論し、互いに争うぞっとするような、
第3幕の1日に目覚めるようである。
それら全ての区画を見終わった後、
何世紀もの時間が過ぎたように感じる。
中世の戦争に明け暮れる無法の世界から、
ヘンデルの音楽は我々を旅に誘う。
かけひきや、恋の取引や悪戯で象徴される第1幕の後、
深いロマン的な苦悩を経て、
最後に在りし日の騎士道の日々に至る。」

ということで、この演出家の妄想が、
幾世紀も飛翔して、演出の霊感になったことが分かる。

が、前に聴いた、カーティス盤を振り返ると、
第1幕は、英雄アリオダンテと王女ジネヴラの愛、
第2幕は、悪役ポリネッサが王女の侍女ダリンダと共謀して、
恋人たちの仲を裂くのに成功する部分。
第3幕は、絶望したアリオダンテがその侍女と遭遇、
真実を知って、いろいろあるが、めでたしめでたしとなる。
確かに、こう見ると、第3幕にドラマが集中している。

「一見して妖精物語のようだ。
王様の娘が若い騎士と恋に落ち、
彼もそれに応える。
王様は全てに満足である。
王女ジネヴラと騎士アリオダンテは、
お互いの完全な愛情の保証からの恋路である。
しかし、その世界は理想郷を後にすると、
単なる見せかけであったことが分かる。
嘘やエロティックな陰謀が宮廷に渦巻く。
それは、あたかも、それぞれの鏡が真実を映さない、
ぎらぎらしたヴェルサイユの鏡の間の
ミニアチュアのようである。
例えば、明らかに無垢で、
貞淑で分別あるダリンダは、
ポリネッサの悪のかけひきに荷担してしまう。
彼女は恋に恋して、
ルルカーニオとの関係もそこそこに、
悪い男を選んでしまう。
彼女はポリネッサのような男を、
どうしても追いかけてしまうように見える。
彼女は、傷つけられるのを好み、
彼女を破滅させるような男を求めている。
彼女は、このように、常に二人の男に心を裂かれ、
オペラの最後では、ポリネッサの事を思いながら、
ルルカーニオに向かう。」

ダリンダは、単にうぶであったがゆえに、
ポリネッサに手玉に取られたと考えていた普通の聴衆には、
この解釈は強烈である。

が、確かに、何故に、ダリンダのような人が、
あえて、いかにもヤバいポリネッサと共謀したかは、
永遠の謎ではある。

この演奏では、ダリンダは、
ジュリー・カウフマンという人が歌っている。

ライブ録音のせいか、どの歌手も、
いくぶん、危なっかしい歌を聴かせる中、
前半は比較的安定してきれいな声を響かせている。
が、第3幕になると、明らかに限界を超えて、
絶叫みたいな表現で美感を損ねている。
かなり拍手はされているが。

ネットで調べると、ベルリン音楽大学教授とある。
出身はアメリカだという。

「ポリネッサは単に純粋な野望で動いている。
彼は、王女への愛からではなく、
スコットランドの王位ゆえにジネヴラの手を取る。
ポリネッサのような男が恋などしていられようか。
明らかにあり得ない。
私は、例えば、悪魔がマリアを愛したとしても、
彼は、無実だと云うと思う。
しかし、彼は明らかに、
王位も王女も手に入れられない。
少なくとも、彼はその破壊を望む。
それが、ポリネッサがここでやったことである。」

このあたりの解釈も面白い。
すくなくとも、物語は、第2幕までは、
彼の思うとおりになっている。
成功の当てもなく、単にケチをつけたかっただけ、
という解釈だという。

「アリオダンテとその兄弟、
ルルカーニオの出自も我々にはよく分からない。
彼等はこのスコットランド宮廷に来て、
若く、繊細でこの未知の世界にあまりにも不慣れで、
それゆえに、宮廷の陰謀の前ではあまりにも脆い。」

このあたりに通じた者であったなら、
簡単に、ポリネッサの陰謀など見抜けた、
と言わんばかりであるが、
もしそうだとすれば、ハッピーエンドの後、
どんなもめ事が待っていてもおかしくはない。

ポリネッサは、この演奏では、
クリストファー・ロブソンという
カウンターテナーが受け持っているが、
いかにも悪賢い声を聴かせ、印象に残る。
写真でみると、いかつい禿頭で、
とてもぴったりな感じである。

「アリオダンテは、愛に対してもあまりにも盲目で、
彼の単純な若さは第1幕にも象徴的に表されている。
彼は、慣れない宮廷の危険な世界で、
子供のように振るまい、
悪意や野望があることを想像もしない。
そうした幼稚さが、彼等兄弟を誤った方向に導いていく。
原理は単純。オテロと同じだ。」

ロッシーニのタンクレーディもそうだったが、
こうした英雄たちは、往往にしてお馬鹿に見える。

このアリオダンテをマレイが歌っているが、
このベテランの味のある歌い口は、
しっとりした歌で、ぞんぶんに楽しめるが、
技巧の凝らされた部分では、
ちょっとおぼつかなさがあるような感じ。

兄弟のルルカーニオは、
ポール・ナイロンというテノールが受け持つが、
写真で見る限り、いかにも勇者という雰囲気である。

「このアリオダンテとルルカーニオの
心と目との盲目さ加減は、
ジネヴラ-アリオダンテ・ペアを、
理想的な愛から突き落とし、
アリオダンテは、激しい嫉妬地獄に、
飛び込むことになる。
彼は自殺さえ試みるのである。
そして、ジネヴラには、何故、
自分が売女と呼ばれなければならないかと、
問いかける苦悩が始まる。
彼女について言えば、
父親が恐ろしい淫夢に登場することになる。
彼女は牢獄に入れられる。宮廷中が敵になる。
彼女はほとんど、落ちぶれた偶像、
ジャンヌダルクのようだ。」

このあたり、演出にどう反映されているか分からない。

「オペラの開始部では、彼女の父の王様は、
人生における重要な決断に直面している。
彼は誰か自分より若い者に王冠を渡さなければならず、
彼は娘も手放さなければならない。
彼の娘との関係は緊密で強いが、
いとも簡単に害にもなる。
よく考えもせず、彼はジネヴラを拒絶する。
あるいは、このコンフリクトは、
深いトラウマに根ざしているのかもしれない。
後に第3幕では、父親になることを望むが、
彼はそれが出来ない。
宮廷がそれを許さないのである。
彼は娘に味方する強者を集めることが出来ない。
彼は弱虫である。
最後のシーンで、娘とアリオダンテの手を取らせる時、
彼は、娘も王冠も譲る準備がないことを感じる。
彼はアリオダンテが好きである。
信頼してもいる。
そして再び、彼は娘を強奪する、
そして遅かれ早かれ、彼の王国を統治する彼を、
殺したいと思う。
この王様は、ずっと不思議なキャラクターである。
実に徹頭徹尾。」

こんな物語だっけ?と私は、
再びあらすじを見て見たが、
そんな風には思えない。

この王様は、ウンベルト・キウンモというバスが歌っているが、
確かに、このブックレットの写真で見ると、
眼帯をつけた不気味な老人として表されたようである。

「最後に、ジネヴラとアリオダンテは、
奈落の底を直視することになる。
最後の宮廷でのダンスは、
魂の避難場所のようだ。
私は、ここにそれを凝集させたが、
それ以外、出来なかった。
これら二人の無垢の人物にとって、
世界というものは、その時から、
違ったものになるであろう。
彼等の目を通して、エンディングを見ることになろう。」

この解説は、オペラの会場で配られた
パンフレットの焼き直しではないか。
おそらく、では始まり始まり、という感じなのだろうが、
舞台上の仕草や表情などで盛り込まれた内容も多いと見える。

最後に近くなると、(CD3のTrack12)
素晴らしいアリオダンテとジネヴラとの二重唱がある。
「もし、私に千の命と心があるとして、
もし、私に千の心と命があるとして、
それらをすべてあなたに捧げます」
と歌う中、宮廷の広間では、
背景の階段は、大きな祝祭用に飾られている。

「徳を讃えよう」という合唱が始まり、
途中、短いロンドーが挟まれている。
いったい、ここで、この演出、何が行われたかは分からない。

このキャストによる公演は、日本にも来たくらいなので、
YouTubeにも画像が出ているかなと見て見ると、
やはりいくつかあって、雰囲気はそれなりに分かった。

何と驚くべきことに、
先の最後の二重唱は、アリオダンテが、
牢獄に繋がれたジネヴラを、
救出しながら歌う演出になっていて、舞台が実に暗い。

さらに、舞踏のシーンも、
闇の中のダンスになっていて、
不気味さいっぱいである。
確かに、この間、二組のカップルは、
抱き合って喜んでいるが、
何と、最後は、抱き合いながら、
恐怖に膠着するような表情で終わっていた。

このような情報があるのないのでは、
この演奏、というか、演出の楽しみ方はかなり変わる。
さぞかし、見応えのある舞台であっただろう。
また、雑音の原因が分かるし、
PCにイヤホンを挿して聴くせいだろうか、
CDで聴くよりも、音楽に膨らみが出ているようにすら感じた。

FARAOレコードは、創立10年ほどのベンチャーで、
「どうしても必要な録音とは何なのか」という、
基本に立ち返った活動を行おうとしているようだが、
芸術家たちの個性や持ち味の記録を一つの方針とすべく、
こうしたライブ録音などを有効に使って、
低コストで、長く聴き継がれる商品を出そうとしているようだ。

このオペラ、前のカーティス指揮のCD解説には、
「今日の偉大なヘンデル研究者たち、
ウィントン・ディーン、アンソニー・ヒックス、
ドナルド・バロウズらがすべて、
『アリオダンテ』を、
溢れんばかりに賞賛していることは注目すべきである」
と書いていたが、彼等がみな、
まさか、こんな穿った見方をしているわけではあるまい。

ちなみに、
「ヘンデル生前には、控えめな成功しかしなかったのに、
商業的に6番目の録音が出ることに対しては、
まったく驚くに値しない」と書いてあるから、
これを聴いても、まだ4つ以上の録音があるようだ。

今回のCDには、たいした解説がないので、
前回のカーティス盤のCD解説を頼りにしてみよう。

さきほど、「控えめな成功」とあったが、
初演時についても、こんな記載がある。
読めば読むほど気の毒である。

「1735年1月1日、ロンドン・デイリー・ポストと、
ゼネラル・アドバタイザーは、熱心にアナウンスしている。
『ヘンデル氏の新作のオペラは、今、
コヴェントガーデンの
シアター・ロイヤルでリハーサル中であり、
このために用意された舞台は、
これまでみたこともないほど素晴らしい』。
しかし、1月8日に行われた『アリオダンテ』初演は、
劇場の近くの家を含む、
たくさんの家屋を破壊した恐ろしい嵐の夜に当たり、
キャロリン妃も健康が優れず、
ジョージ二世や皇族の随伴者も減ってしまった。」

このように、ビジネスというもの、
というか人の営み一般は、
天災を前にすると、
何が何だか分からなくなってしまうのは、
今も昔も変わらない。

というか、ヘンデルといえども、
この手の状況には、黙って従うしかなかったということか。
が、やはりすごいと思うのは、
その時、彼は、大騒ぎせずに、
次の好機を待ったことであろう。

シューベルトは、自作のオペラがうまく行かなくなって、
これで何日損したとか、恨み辛みの手紙を残したが、
彼も、ヘンデルのように経験さえ積めれば、
下記のような態度でいられたはずだ。

とはいえ、シューベルトの絶望ぶりも、
私にとっては身近に感じられるものではあるのだが。

「オペラは11回の公演で打ち切られたが、
不屈のヘンデルは、4月16日初演の、
次の作品『アルチーナ』に集中し、
そして、より大きな成功を収めることが出来た。」

シューベルトの場合、
まるで公演の当てがなく、
2つしか本格的なオペラを書けなかったが、
ヘンデルの場合、次々に公演のチャンスがあったことも、
同列に語れない点であろう。

また、当時の演奏習慣に思いを馳せることが出来る、
一節が、この解説にはある。

「彼は、翌シーズンに、二回だけ『アリオダンテ』を再演、
このとき現れたソプラノ・カストラートの
ジョアッキーノ・コンティは、
カレスティーニのために書かれた、
タイトルロールのための音楽をほとんど歌わず、
彼がイタリアから携えて来た、
他の作曲家の手荷物アリアを歌った。」

私は、大がかりなオペラの上演が、
何故、二回だけなどで成り立つのかと思ったが、
外国から招いた名人の伴奏のような役割でなら、
ありだったのかもしれない。

先の続きで、この作品のすばらしさを、
列挙した部分としてこうある。

「近代の研究者は、『アリオダンテ』と聴けば、
すぐに、ヘンデルの特別なオペラの1つと考える。
音楽形式の驚嘆すべき変幻自在さは、
彼の他の最高級のオペラのどれよりも、
幅広く、予測不可能で、
オープニングから、スコアは並外れた技巧で、
祝福される中心の恋人たちを輝かせている。
そして、かれらの続く苦悩をも。
ずるがしこいポリネッサも、
(ナイーブなダリンダにとって、
彼の誘惑は実にもっともらしく見える)
勇敢なルルカーニオも、
立派な王様が、喜びから、
父親としての愛と、
王としての義務の板挟みになって、
彼と娘が嘆くことになる深い悲しみに陥る様も。」

このように、どの登場人物の性格描写も、
それぞれに素晴らしいということだが、
結局、主人公のために書かれたものが良いようだ。

「最も素晴らしい2つのアリアは、
共に、アリオダンテによって歌われるもので、
弱音器付きの弦楽と、
もの悲しいピアニッシモのバスーンが、
ジネヴラがポリネッサをベッドに受け入れたと信じて、
心が張り裂ける英雄を表す、
嘆きの『Scherza infida(不実なものよ)』(第2幕第3場)と、
結局、暗い感情から、輝かしい楽天性に帰り、
晴朗な喜びに満ちた『Dopo notte(暗い嵐の夜の後で)』
(第3幕第9場)の2つである。」

この「不実なものよ」などは、
先のYouTubeで、アン・マレイの熱唱が聴ける。
このように、技巧よりも情念勝負の楽曲では、
この人の歌唱はまことに素晴らしい。
バスーンの伴奏も印象的に響く。

ただし、解説にあったような無垢な青年騎士ではなく、
どうしても魔女にしか見えないのだが。
これは、CD2のTrack5に相当する。

また、CD3のTrack3に相当する
「暗い嵐の夜の後で」なども、
マレイの歌唱は英語版だがYouTubeで見られる。

このすがすがしく勇壮なメロディを持つ曲は、
たいへんな名曲のようで、
YouTubeにカサロヴァやキルヒシュレーガーや、
ディドナートの歌唱が揃っている。

「しかし、アリオダンテは、
この2つの賞賛されたアリアに尽きるものではない。
ヘンデルは、
ほとんどの登場人物が陽気な第1幕と、
苦しみと絶望と悪事に満ちた、
第2、第3幕のコントラストに、
劇場向けの力と繊細さを作り上げた。」

とあるように、今回のCDでも、
様々な歌の饗宴を楽しむことが出来た。
先のYouTubeにアップされたものでは、
ロジャーズが歌った、冒頭のアリオーソとアリア
(CD1のTrack2と3)や、
マレイが歌った技巧的なアリア「恋が愛情の翼に乗って」、
(CD1のTrack10)、
などが映像付きのものと比較しながら楽しめる。

映像の方を見ると、後者は、地べたを転げ回って歌っており、
これでは、十分な声は出ないと納得した次第。
そういうことを差し引き、演技も見ながら楽しめば良い。
何とも、難しい鑑賞をしなければならない時代になったものである。

もっと言うと、ネット上で見られるものは、
英語で1996年の記録のものらしく、
厳密に言うと、CDと同じ音源ではない。
つまり、4年の歳月が経っており、
マレイのようなベテラン歌手には、
声に衰えが生じているのかもしれない。

また、CD1のTrack15の、
合唱がついた、恋人たちのデュエット、
「あなたの愛を祝いましょう」などは、
実に意味深な演出がなされている。

恋の成就に喜ぶような場面であるが、
映像の方を見ると、
ジネヴラの方はウェディング・ドレスを着ているのに、
(このように見ると、ロジャーズのジネヴラは美しい)
主人公のアリオダンテは目隠しされており、
空中に手をひらひらさせて困惑して彷徨っている。

最初に読んだ解説には、
盲目的なというフレーズが目立ったが、
こうした演出に繋がっているのであろう。

このCDでも、この幸福な合唱の合間に、
バレエ音楽が収められており、
ヘンデルが取り入れたフランス趣味が聞き取れる。
それにしても、女性二重唱に合唱が加わり、
そしてバレエ、もう、眩惑的な世界と言って良い。

ポリネッサのアリア、CD3のTrack4は、
「義務、正義と愛」も生き生きとして、
悪役が歌うながら、ヘンデルらしい爽快な音楽である。
頭を剃った巨大入道が、
カウンターテナーの声を張り上げるのも、
目で見て納得の世界である。

このあたりから、決闘のシーン(Track8)を経て、
アリオダンテが、勇壮に、
「暗い嵐の夜の後で」(Track9)を歌い上げ、
(やはりネット上のマレイの方が、声は伸びている。
ただし、甲冑を着けた姿はカマキリみたいだ。
ダリンダは美人が演じている。)
最後に二重唱(Track12)まで一気に聴かせるのが、
このオペラの推進力である。

YouTubeの他の画像では、
第1幕の終わりのダンスの途中に、
王様が、女性とお戯れになるシーンがあり、
これが、解説者(演出家)のAldenが言っていた事だろうか。

いずれにせよ、どうも、このボルトンの演奏は、
かなり昔から上演されて来たようだ。
日本公演があったようだが、これは2005年の秋、
先の英語版が1996年と、10年ものロングランである。

このCDも、よく見ると、バヴァリア州立オペラと、
英国ナショナル・オペラ、そしてウェールズ・ナショナル・オペラの、
共同制作とある。
もともと英国でやられていたものを、
バイエルンが横取りしたものであろう。

ネット検索すると、このバイエルンの演奏が来た時、
日本では数万円の出費を強いたというので、
投資対効果は相当なものである。
2000年の時点で、かなり、声に衰えのある歌手もいて、
2005年の日本公演は出がらしではなかったのかと、
ちょっと心配になったりする。
聴けなかった者のひがみ根性であろう。

得られた事:「『アリオダンテ』不発の後のヘンデルの不屈。」
「恐るべしYouTube、CDでは妄想していた部分を補う映像有り。」
[PR]
by franz310 | 2012-07-08 15:45 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その335

b0083728_16582515.jpg個人的経験:
前回、ヘンデルのオペラ、
「アリオダンテ」全三幕の、
前半の2つを聴いたので、
今回は、第3幕を聴いて行こう。
演奏は、カーティス指揮の
イル・コンプレッソ・バロッコ。
2010年の1月に
イタリアのロニーゴ、
ヴィラ・サン・フェルマで録音され、
初回生産限定盤とある。


昨年の今頃、発売されたのだが、
まだ残っていて、3枚組ながら、
この特別価格が採用されて、
かなり安く購入することが出来た。

ディドナートがタイトルロールを歌い、
王女ギネヴラは、カリーナ・ゴヴァンが担当している。
彼女らの声は、英雄的かというと、
ちょっと違うかもしれないが、
よくコントロールされて、激烈なアリアなども、
美しく歌いきるところがすごい。

といった事が、前半を聴いてのこの演奏の印象である。

このオペラは、ヘンデルがルネサンス期の、
イタリアの大詩人アリオストの詩作に曲付けしたものの1つで、
私は、むしろ、その原作の方が気になって、
このオペラに辿り着いてしまった。

この原作、「オルランド・フリオーソ」には、
このヘンデルを始め、ヴィヴァルディなどの同時代人から、
下ってはハイドンなども曲付けしているからである。

この「アリオダンテ」は、
この「オルランド・フリオーソ」の、
主要キャラクターはいっさい登場せず、
大作の中の一挿話みたいなのが拡大された感じ。

1734年8月12日に書き始められ、
アリオダンテに、有名なカストラート、カレスティーニ、
ジネヴラに高名なソプラノ、ストラーダなどを想定していた。
典型的な、イタリアオペラ軍勢によるロンドン侵攻である。

解説を読むと、
ヘンデルはどこだかわからないが、
田園地方にて、第1幕を書き始め、
8月28日に、ロンドンに戻って第1幕を完成したとある。

そんな事を読みながら、
冒頭の王女ジネヴラのアリアを聴く。

「チャーミングな物腰や
愛嬌のある微笑みが、
恋人の心をとろけさせるのよ」とあるが、
極めて解放的な空気を感じる。
ヘンデルが、田園風景に、
そうした物腰や微笑みを感じたかのようである。

やはり、こうした風光明媚な場所で、
解放的になると、霊感は受けたであろうが、
反対に、実作業の方には、
集中出来なかったのかもしれない。
完成がロンドンというのも納得できる。

シューベルトの「ます」の五重奏曲も、
シュタイアーという美しい土地で、
楽想を得たと言われるが、
近年は、そこで一気に完成させたのではなく、
ヴィーンに戻ってから完成させたという説をよく読む。

改めて解説に戻ると、
第2幕は同年9月9日に完成、
それまで、ルルカーニオ(アリオダンテの兄弟)のパートは、
カストラートのCarlo Scalziを想定し、
ソプラノのために書かれていたが、
若いジョン・ビアードのテノール用に変更した。

この歌手については、
少年合唱団に属していた時から目をかけていて、
ヘンデルは、彼が合唱団を抜けたので、
はなむけにこの役柄を与えたのであろう。

しかし、自分が出るものと思っていた方には、
辛い措置だったかもしれない。

10月24日には、さらなるトラブル発生。
アルト用に書かれていた侍女ダリンダのパートが、
ソプラノのセシリア・ヤングのために書き直された、とある。

本当にトラブルかどうかわからない。
これ幸いと変更したのではないか。
ビアードもヤングもヘンデルの子飼い連中である。
ちょっと、えこひいきが過ぎる感じである。

ヤングのためには、新しいアリアを書き、
ビアードのためのアリアは、拡張されて、
ヤングと二人による優しいデュエットになった。

この新しいアリアというのは、
「Il primo ardor (最初に私が受けた炎)」で、
第1幕の第11場で歌われるもの。
軽快で敏捷でありながら、明朗に広がるもので、
メロディラインによる声の美感と同時に、
適度な技巧を披露できるようになっている。

これは、ヘンデルのローマ時代のカンタータ、
「Sei pur bella, pur vezzosa(お前は美しく)」から、
楽想を持って来ていて、
これは、実は、ラインハルト・カイザーという作曲家の、
ドイツ語カンタータによるものだという。

また、優しいデュエットとは、
「Dite spera, e son contento(唇は優しい口調で)」
で、第3幕、第10場の、
このオペラの大詰めで歌われるものである。

このオペラを通してずっと、
ダリンダを愛していた優しいルルカーニオに対し、
彼女がようやく愛を感じた時、
感情の爆発のように歌われる。

ということで、今回は、この曲あたりを楽しみに聴き進めよう。

第3幕は、解説者によれば、
「最後の情景は、単に幸福が回帰して来ただけでなく、
真実の英知と、より深い幸福感を表しているように見える」
と書かれている。

さて、このCDの表紙は、月光に照らされた、
夜の森であるが、これはまさしく、
これから聴く第3幕のシーン。
アリオダンテが死にきれずに
彷徨っていた背景の情景であろう。

物語を振り返ると、相思相愛の王女と英雄が、
悪者に騙されて、別れ別れになり、
英雄アリオダンテは自殺を図る。

王女ジネヴラは汚名を着せられ、
まさに処罰が決まる。

そんな中、アリオダンテは生き延びて、
森の中で会った、王女の侍女から、
陰謀の全貌を聴くという場面が、
第3幕のはじめである。

侍女ダリンダは、事件に共謀したので、
全てを知っているがゆえであろう、
追っ手に追われている設定であるようだ。

第3幕は、CD3である。
「森の中、アリオダンテ、その後から、
二人の暗殺者から逃げているダリンダ。」
というシーンにふさわしく、
Track1.は、沈鬱なシンフォニアから、
アリオダンテのアリオーソに続く。
あらすじに、「アリオダンテは生きていた」という部分。

「これはあなたの憐れみか、
千の死を我が身に、
何故、私はまだ生きている」
と、重苦しい歌である。
自殺を図ったのに、さすが主人公、
へいちゃらであったと見える。

Track2.では、中から、
ダリンダが出て来るようである。
「野蛮な悪者!」と叫びながら逃げてきて、
アリオダンテと鉢合わせになる。

「不幸な考えに苛まれながら、
森を彷徨っているうちに、
彼は、ポリネッサに雇われた、
二人の刺客に狙われたダリンダを救う。」
というシーンである。

「生きているの」とダリンダは驚く。
「ダリンダは、アリオダンテが、
生きているのを見て驚き、
すぐに、彼が騙されていることを説明し、
ジネヴラは不実ではなく、
むしろ、ダリンダがうっかり、
ポリネッサのよこしまな計画に乗ってしまった、
と説明する。」

Track3.
アリオダンテは死ぬ意味が全くなくなった。
裏切られたと思いこんでいたのに、
ジネヴラは無実だったのだ。

ぎくしゃくした奇妙な伴奏部による、
しかし、声楽部はやたら引き延ばされた、
アリオダンテの6分半に及ぶ嘆き節も当然であろう。

「アリオダンテは、自分がジネヴラへの信用が、
簡単にぐらついたことを後悔する。」
とあるが、
「夜影の紛らわしい影よ」と、
夜の暗さに八つ当たりしている。

闇夜に忍び会っていた女が、
ジネヴラではなく、
ダリンダが変装していたことを知ったから、
こんな台詞が出るのである。

Track4と5.
「ダリンダの目は、ようやく、
ポリネッサが悪者であることを見定め、
天の怒りが彼の上に降りかかり、
アリオダンテと共に宮殿に向かう」というシーン。
Track5.では、
怒り狂ったアリアが聴ける。
「復讐の空のかんぬきはどこにある」と、
ヒステリックなまでに声を張り上げる。

ちょっと、不自然なタイミングである。
刺客に狙われた時点で、真相は分かっていたはず。
アリオダンテに出会ったから、
急に心の余裕が出来たものと思われる。

Track6.
第3場で、宮殿に王様、オドアルドが、
王女について話をしていると、
ポリネッサがやって来る。

「オドアルドは、ジネヴラが最後に、
父親の手にキスしたいという希望を
王様が受け入れるよう嘆願する。
しかし、王様は彼女に支持者が出て来ない限り、
彼女には会わないという。
ポリネッサは、自分がその役を引き受け、
自分の娘として認めるように願う。」

Track7.は、ポリネッサが、
調子に乗って歌うアリア。
「正義と愛、そして義務は一緒になって、
栄光への渇望が心にみなぎる」
と、勝ち誇り気味の歌唱。
ちやほやと伴奏も賑やかである。

Track8.は、再び、王様とオドアルドの二人。
「よし、娘を連れて来い」と王様が言う。
Track9.は、ジネヴラが、王様に会って歌うアリア。
おどおどした、切れ切れの歌。

「尊いお手にキスします。
辛いけれど甘く、でも、不当なこと。
私には、でも、親愛な。」

Track10.
「彼の心は、娘を見て和らぎ、
ポリネッサが、彼女のために戦う、
と言っていると告げる。
天は、彼女が無実なら、
彼を勝利させるだろう、と言う。
ポリネッサに守護されるくらいなら
むしろ死を選ぶという。」

レチタティーボで、ジネヴラが叫ぶ。
それは、私の意志なのだ、という王様。

Track11.は、通奏低音の深さ、
リコーダーのひなびた響きも心のこもった、
王様のアリア。
ここでは、王様は、
「お前を心に迎えよう。
ああ、しかし、別れの時だ」と、
ジネヴラとの別れを歌っている。

まだ、ポリネッソが勝つとは、
決まっていないからであろう。

第2幕で、兄の名誉のため、
ジネヴラ処刑を、
王様に言い寄ったのが、
剣客ルルカーニオであった。
アリオダンテの兄弟で、
アリオストの原作でも、
この男が、王女の命をなきものにしようとした。

つまり、ポリネッソは、ルルカーニオに、
勝つ必要がある。

マシュー・ブロックのバスが、
甘く、慈愛に満ちた声を響かせる。

「ジネヴラは残され、
死を恐れることなく、
栄誉を持って死ぬと祈る。」

Track12.
警護をつけられたジネヴラである。
「何という運命」と嘆き、
Track13.では、瞬発力を見せる、
勇壮な楽想のアリア。
「私は死ぬが、この運命も道連れに」という内容。

Track14、15.第7場で、
トーナメント会場である。
護衛に守られ、王冠をつけた王様がおり、
オドアルド、ルルカーニオは武装し、
ポリネッサもまた武装している。

「トーナメント会場の野原。
ルルカーニオは、ジネヴラの守護者を、
やっつけると宣言し、彼等は戦う」
とあらすじにあるとおり、
ブラスを中心とした勇ましい交響曲に続き、
ルルカーニオとポリネッサの口上の後、
戦いが始まる。
ルルカーニオは高名な剣客なので、
という設定によるせいか、
ほとんど戦闘の時間なく、
いきなり、「やられた」となっている。

オドアルドが、ポリネッサを支え、
会場から運び去る。

しかし、ポリネッサは、こんな簡単に負けてしまって、
どこかに勝算があったのだろうか。

ルルカーニオは、他に、守護者はいないか、と言い、
王様は、「誰も現れないなら、自らが戦うのみ」と言って、
王冠を外す。

「ポリネッサ致命的な傷を負い、
ルルカーニオは、第2の挑戦者を募り、
誰も応答しないのを見て、
王様自身が、娘と王冠にかけて立ち上がる」
と書かれたシーンである。

そこに、アリオダンテが登場。
「お座り下さい、無実は他のものが」と、
かっこう良く口上を述べ、
「我こそは守護者」と名乗りを上げる。

ルルカーニオが、「剣を取れ」というと、
アリオダンテは、「私は、罪を犯したくはない」と、
お面を上げると、一同に驚きが広がっていく。
非常に鮮やかなシーンである。

解説のあらすじにも、
「ミステリアスな騎士が現れ、
ジネヴラを守護すると言う。
彼は面を外すが、全員は、
それがアリオダンテと知って驚く」とある。

「ポリネッサの悪巧みに、
知らずに荷担したダリンダを許して欲しいと、
まず、王様に頼み、
オドアルドもまた、
ポリネッソが死ぬ前に、それを白状したと請け合う。
暗い悲劇の雲は晴れた。」

Track16.
この最後の言葉は唐突だが、
アリオダンテが、7分22秒もかかる、
「暗い嵐の夜の後で、朝の光はよりまぶしい」
というアリアを、高らかに歌い上げるからである。

ディドナートの声は、英雄的な太さには欠けるが、
しっかりと線が張っているように鮮やかに響く。
かなりの技巧を要し、聴き応えがある。

「アリオダンテ」を代表するアリアである。

オーケストラの晴れやかな伴奏も美しい。
しかし、このような勇壮な曲になると、
少人数のオーケストラの繊細さが、
いくぶん弱さもあることから、
ことさら痛感される。

「王様はジネヴラに、幸福な知らせをしに急ぎ、
アリオダンテは、嘆きと悲しみが終わることを願う。」

Track17.は、ルルカーニオとダリンダの会話。
「ルルカーニオとダリンダは、二人残され、
ルルカーニオは一貫した愛を告げる。」

ルルカーニオは、
「兄が生きていたので、再び炎が燃え上がった」と言い、
ダリンダは、「そんな栄誉は素晴らしすぎます」と答える。

そう言えば、この二人、いろんな経緯がある二人だった。
つまり、ルルカーニオは、ダリンダを愛していたのに、
かつて、拒絶されたのである。

Track18.は、先に、解説でも特筆されていた、
ルルカーニオとダリンダの二重唱。

まず、ルルカーニオが、親しげに歌いかけ、
ダリンダが後悔の念を口にして、
微妙な陰影となる。

「ダリンダは彼を受け入れ、ポリネッサへの、
過去の熱中を悔いる。」

この優しい感情に満ちたデュエットは、
さながら、古い時代のイギリスの歌を思い出させ、
ほんのりと暖かい感情と共に、
二人の関係が、あたらめてうまく行った事を実感させる。

Track19.ジネヴラ監禁のための室内。
ハープのぽろぽろが、
今なお、悲しみに沈んでいるジネヴラの状況を告げる。
「閉じ込められた部屋で、
ジネヴラは、死に対する恐れと、憧れを持って、
運命を待っている。」

Track20.は、
そうした心情を歌う彼女のアリア。
すると、楽しげな、希望に満ちた音楽が聞こえて来る。
「水上の音楽」にそっくりである。

Track21.王様、アリオダンテ、ダリンダ、ルルカーニオ、
みんなが集まる。
「ドアが開き、彼女を解放しにみんなが現れ、
間違った判断をした許しを乞う。」

Track22.他の人たちは気を利かせ、
ジネヴラとアリオダンテを二人にする。
「命が千あれば、みんなあなたに上げる」
「心が千あれば、みんなあなたに上げる」
という、メロメロの二重唱である。

喜びに旋回する弦楽の活発な動きが、
彼等の喜びを表している。

Track23.
「宮殿の広間で、王様、アリオダンテ、
ジネヴラ、ルルカーニオとダリンダ、
そしてオドアルドは、騎士や淑女らと一緒に、
歌い踊り、幸福な結末を祝いながら、
階段を下りて来る。」

木霊の効果も朗らかな、爽やかな管弦楽に続く合唱曲。
「正しい美徳を讃えよう」というもので、
トランペット付きの華やかな合唱にもエコーがある。
しかも、フーガ的な展開すら見せる。

Track24.はガヴォット、
いかにも宮廷での喜びの機会に演奏されそうな、
単純で上品なもの。55秒。
Track25.はロンドーで、58秒。
中間部にひなびた木管合奏がある、ちょっと小粋なもの。
Track26.はブーレ、
込み上げる喜びの感情をみなぎらせ、
推進力のあるもの。
以上、管弦楽によるバレエ組曲である。

Track27.には、再び合唱曲。
これは、勇ましく行進する感じののもので、
「誰もが、これを讃えずにはいられない」という、
推進力のある混声合唱で、
この歌劇を締めくくっている。

ヘンデルは、このオペラで、
合唱やバレエという新機軸を使ったが、
さすがに各幕の最後にならないと、
これを見ることは出来ない仕掛け。

聴衆は、最後まで見ないと帰れないように出来ている。
が、バレエ団や合唱団は、ずっと公演中、
出番を待って退屈かもしれない。

などと考えていたが、解説をよく読むと、
実際の演奏時には、これらのバレエは、
演奏されなかったようでもある。

「楽譜の再調査によって、初演の前までは、
各幕の終わりにダンス組曲があった事が分かった。
このバレエ音楽は、『アリオダンテ』のリハーサル前に、
『クレタのアリアンナ』や、
パスティッチョ『オレステ』の再演時に使われ、
これらのいくつかは他の曲で置き換えられたりした。
死罪となったジネヴラの抗争する夢を描いた、
第2幕の最後におかれた描写シーケンスのバレエが、
省略されてしまったのは何よりも残念であった。
彼女の楽しい夢と恐るべき悪夢が競い合って戦い、
最後に短い伴奏付きのレチタティーボで叫んで目覚める。
ヘンデルは、この素晴らしいシーケンスを使うのを止め、
代わりに、より慣習的な2つのダンス、
『Entree de' Mori』とロンドーで締めくくったようだ。
アラン・カーティスは、夢の流れと、
ジネヴラの強烈なレチタティーボを復活させて、
この録音を行った。」

得られた事:「ヘンデル屈指のオペラ『アリオダンテ』は、郊外での夏の休暇に着想され、ロンドンに戻ってから書き進められたが、簡単にはいかず、想定していた歌手を変更し、あちこちに、自分が可愛がっていた歌手のために変更した部分がある。」
「ヘンデルが残したスコアでは、非常に革新的な悪夢の描写音楽があったが、初演の時には外されてしまった。」
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by franz310 | 2012-06-30 16:59 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その334

b0083728_23341177.jpg個人的経験:
ヘンデルは、円熟期にあって、
中世の騎士物語、
「オルランド・フリオーソ」
にちなんだ題材にて、
3曲のオペラを作曲した。
その名もそのままの
「オルランド」と、
おなじみ魔女が登場する
「アルチーナ」には、
原作の雰囲気がある。


が、今回、ここに聴く、
「アリオダンテ」に関しては、
何故に、「オルランド」ネタなのか、
よく分からない。

が、このCD解説にも、しっかりと、
「この物語は、アリオストの第五巻を基にして、
個々の登場人物に激しい気性を与え、
音楽が表現力の可能性を広げられるように、
いくぶん変更が加えられている。」
と明記されている。

アリオストは、「オルランド・フリオーソ」を書いた
詩人の名前であることは言うまでもない。

前回、カーティス指揮の「アルチーナ」を聴いたが、
今回、取り上げる「アリオダンテ」も、
同様のメンバーによる演奏。
ただし、長い歴史を誇る古楽の雄、
アルヒーフからは、
このヘンデル・オペラ・シリーズは追い出されたようだ。

ここでも、前に聴いた「アルチーナ」(アルヒーフ盤)と同様、
ダヴィッド・ヴィッカーズが解説を書いているが、
貴族オペラとヘンデルという時代背景から、
詳細な成立史が書かれていて、
1734年から35年のシーズンでは、
ジョン・リッチが創設したコヴェントガーデンでの新機軸として、
ヘンデルが3つの特徴を打ち出していることが特筆されている。

1.若いイギリスの歌手の活用。
(ジョン・ビアードやセシリア・ヤングなど)
2.コヴェントガーデンの小コーラスの活用。
3.フランスのバレエ団との共演。
「ヘンデルは、これらによって、
貴族オペラが出来なかったような、
多彩でありながら、
統合されたスタイルを作り上げた」とある。

しかし、貴族オペラの方も、
1734年の秋は、ハッセ、ポルポラ、
ブロスキらの音楽のごった煮の「アルタセルセ」で成功、
ヘンデルの方は、この間、秘密兵器「アリオダンテ」を準備中で、
旧作でお茶を濁して踏ん張っていた。

ここから、アリオダンテの話が始まるので、
そこを見ていこう。
「アリオストのルネサンス叙事詩、
『オルランド・フリオーソ』を基にしており、
これはシャルルマーニュの治世の、
騎士道と幻想的な伝説を扱った46の歌からなり、
ヘンデルのオルランド(1733)や、
アルチーナ(1735)の原作となった。
第4-6歌は、
キリスト教の騎士、リナルドが、
いかにスコットランドの岸辺に吹き寄せられ、
修道院で歓待を受ける間に、
著名な剣客ルルカーニオからの非難による、
王女ジネヴラの不貞による死刑宣告の、
スキャンダラスな物語を聴いたかが語られる。
王は、娘の汚名を晴らすため、
擁護者を募る宣告を出したがうまくいかなかった。
スコットランドの法律の野蛮さに怒り、
リナルドは、王女を救うと決め、
王宮を目指して馬を走らせ、
殺されようとしていた王女を救う。
ジネヴラの次女、ダリンダは喜んで、
王女と相思相愛のイタリアの騎士、
アリオダンテの悲劇を語る。」

「アリオダンテ」の登場人物は、
あまり聴いた事がない名前だと思ったが、
ここにあるように、リナルドが活躍したという、
逸話の中だけの話が拡張されたものらしい。

「アリオストの物語は、リブレット作者の、
アントニーオ・サルヴィによって、
『スコットランドの王女ジネヴラ』
として、手際よく簡潔にまとめられた。
アリオダンテはジネヴラを愛し、愛されており、
彼女の父親も彼等を祝福し、
アリオダンテを後継者にしたがっている。
しかし、アルバニー公のポリネッサ
(Polinessoとあるのでポリネッソ?)は、
彼等の愛を妬み、ジネヴラも、王位をも望んでいる。
彼は無邪気に彼を愛しているダリンダを利用し、
アリオダンテに、ジネヴラが不誠実だと思わせる。」

こんな風に、台本作者は、オルランドの物語で重要な人物、
リナルドさえ、出て来ない物語にしてしまった。

では、あらすじの部分を読みながら、
Track1と2.の序曲から味わってみよう。
このような北国の
悲劇的な内容にふさわしく、
暗い情念にみなぎったもので、
切迫感がみなぎったもの。

カーティスの指揮は、
幾分、リズムを強調した、
生き生きとしたものだが、
もう少し、荘重な感じにしても良いような気がする。
イル・コンプレッソ・バロッコが演奏。

「スコットランド王は、一人娘ジネヴラを、
高名な勇士で特筆すべき手柄を立てたアリオダンテと
結婚させようとしているが、
よこしまな性格ながら誇り高い野心家ポリネッサは、
不正にも、この公認の結びつきを阻み、
これから見ていくようなやり方で、
自身が王位につこうと企てる。
舞台はエディンバラとその近郊である。」
というような背景を読みながら聴いた。

「ジネヴラは、鏡の前に座り、
アリオダンテに会うために、化粧をしている。」
とあるように、いきなり、
Track3.ジネヴラのアリオーソ。
ここでは、アルチーナではモルガーナを受け持った、
カリーナ・ゴヴァンが安定した、
美しい声を聴かせる。
給仕や娘たちもいるシーンで、
彼等を前に、
「愛らしい物腰で、愛嬌のある笑顔で、
愛する人の心を魅了するわ」
という、小粋な歌を披露する。

ここで、彼女は鏡を離れ、
給仕たちは出て行く。

Track4.ダリンダとポリネッソが現れる。
ダリンダは、サビーナ・プエルトラス、
ポリネッサは、コントラルトの
マリー=ニコル・ルミューが受け持っている。

「彼女は、侍女のダリンダに、
彼女の愛と、父も、それを歓迎していることを告げる。
アルバニー伯ポリネッサがやって来て、
彼の愛をジネヴラに告げる。」

Track5.は、これを聴いて、
ジネヴラが機嫌を悪くして、
声を張り上げるアリア。
かなり興奮して、リズムが激しく、
コロラトゥーラもこれ見よがしである。

「彼女は軽蔑したように、それを拒み、立ち去るが、
ダリンダは、ジネヴラはアリオダンテと婚約していると言い、
彼女自身がポリネッサを愛していることを告げる。」
唐突にも大胆な侍女である。

それにしても、ポリネッサも女性が担当。
マリー=ニコル・ルミューのコントラルトであるが、
カウンターテナーみたいな声である。

Track6.ポリネッサとダリンダの問答で、
ポリネッサは、王様も二人を認めていると知って驚く。
Track7.は、ダリンダが、
「目を開いて、しっかりと痛みを見て」と歌う。
ダリンダを歌う、サビーナ・プエルトラスは、
写真で見る限り、美人であるが、
声も、この無邪気な役柄にふさわしく、
清楚な感じがする。

Track8.
ポリネッサ一人のシーン。
「しばらくがっかりしていたポリネッサだが、
すぐにダリンダを使って、アリオダンテの好機を奪い、
自らがジネヴラと、
スコットランドの王位をものにする筋書きを考えつく。」

彼の激しい性格が良く出たレチタティーボであるが、
続くアリア(Track9.)は、
いかにも良いことを考えた、という、
躍動感のある嬉しげなアリア。
シンプルな弦楽の伴奏がついている。

Track10.
「アリオダンテは、宮廷の庭園でジネヴラを待っている。」

アリオダンテはいきなり、
「木々は揺れ、流れはさざめき、
愛の言葉を語っているように見える」と、
はればれとした、牧歌的なアリアを歌う。
ディドナートの声であるが、
この美人歌手が、英雄を担当しているとは、
このCDを入手した時には、正直、考えていなかった。
人気者にふさわしく、安定した歌唱で、
ヘンデルらしい、おおらかなメロディーを楽しませてくれる。

ジネヴラがやって来る。
Track11.
「彼は、自分が彼女に値しないと思うが、
彼女は、自分の愛情が、
二人の間のすべての障壁を取り除くと請け合う。」

Track12.恋人たちの二重唱であるが、
こうやって、ゴヴァンのソプラノと、
ディドナートのメゾ・ソプラノを聴いていると、
ロッシーニが女性二重唱を好んだ、
などと言われるのは間違っていて、
昔から、その伝統があった、と考えるべきだと思えて来る。

「運命がどうなろうとも、
私の愛は変わらない」と二人で陶酔していると、
いきなり、王様の声が割り込むのがすごい。
こんなシーンは見た事がない。
彼は、二人の手を繋がせる。

Track13.
「彼等はお互いに真実を誓い合い、
王様は、二人の結びつきを言祝ぎ、
アリオダンテを王位継承者にすると告げる。
彼は、ジネヴラに、明日、執り行う、
婚礼の準備をするように遣る。」

Track14.は、
嬉しいジネヴラのアリア。
「急いで、急いで」と、
いかにも駆け抜けて行きそうな、
さわやかな疾走感がある。

Track15.
「王様は、様々な祝宴の用意を言いつけ、
正式にアリオダンテに娘と王位を渡すという。」
Track16.は、王様のアリアにふさわしく、
勇壮なホルンが鳴り響き、
「喜ばしい空が祝福を告げている」と、
晴れやかな歌となる。
マシュー・ブロックが歌う。

Track17.王様は立ち去り、アリオダンテ一人。
「アリオダンテは喜びに圧倒される。」
Track18.は、どんちゃらした序奏からして楽しい。
ディドナートが歌うアリオダンテのアリア。
「不変の翼に乗った愛は、
高く舞い上がる」という歌詞のとおり、
華麗なコロラトゥーラの装飾に散りばめられたものだが、
これはたいへん難しそう。
この恐ろしい難局(難曲)を、
余裕を持ってコントロール出来ているが、
ここまで強烈な状況下では、
英雄の声として聴くと、
さすがのディドナートの声量にも、
少し、限界が感じられるようだ。

Track19.
「その間、ポリネッサは作戦を遂行中。
夕暮れが近づき、ダリンダが計画に乗ってくれれば、
ジネヴラの事は忘れ、彼の愛情は、
ダリンダに移るだろうと言う。
彼は、彼女にジネヴラが眠るのを待って、
その後、ジネヴラの服を着て、
彼が、部屋に入るのを招き入れて欲しいという。
ダリンダは躊躇うが、
愛する男の願いを拒むことが出来ない。」

このトラックで多くのことが企まれる。

Track20.
「私の心の傷を、あなたの真実の眼差しで癒して下さい」
と、ポリネッサは、いかにも色男の歌を歌う。
歌っているのは、女性のマリー=ニコル・ルミューであるが。

甘い、シンプルな歌ながら、
執拗なリズムを刻む伴奏が、
いかにも、彼の下心を感じさせて興味深い。

Track21.
いきなり、イケメン風の声が響く。
トピ・レーティプーのテナーである。
写真で見ても、貴公子みたいな雰囲気。

「彼女が立ち去ろうとすると、
アリオダンテの弟のルルカーニオが、
彼女への不動の愛を告白する。」

これまた、唐突な連中である。
「ダリンダは彼を拒む」とあるが、
当然の状況である。

Track22.
ルルカーニオのアリアは、恋する男の、
純情さ、心の傷つきやすさが、
もやもやして素晴らしい。

「どうして、明るい日の光の下で、
姿を見せてくれないの」と、
この緊迫した陰謀のシーンに、
ある意味、脳天気な、ある意味、場違いな歌。

Track23.
「ダリンダは、ひとり、ポリネッサへの愛に殉じると決める。」
Track24.
「私の心を捉えた炎は、いまだ、愛しい」
と、サビーナ・プエルトラスの愛らしい声が聴ける。

Track25.
美しい谷間、この素晴らしい土地を愛でる。
そこにジネヴラが現れるというシーン。
「アリオダンテは、美しい谷間を讃えながら彷徨い、
ジネヴラは、彼の許に来て、
愛を語らい、婚礼を楽しみにする。」

「ニンフや羊飼いたちが歌って踊って、
彼等の幸福を賛美する」と解説にあるが、
Track26.は、
何と、「田園交響曲」(パストラル・シンフォニー)と、
題されて、たった42秒であるが、
牧歌的で伸びやかな管弦楽曲が奏でられる。

Track27.は、この雰囲気を保ったまま、
恋人たちの二重唱となる。
「ニンフたちや羊飼いたちが歌って踊る」とあるように、
メヌエットのような、リズムが支配し、
遂には合唱が唱和して来る。

これはさぞかし壮麗なシーンだったに相違ない。
ヘンデルは、第1幕も大詰めになって、
秘密兵器を繰り出したというわけか。

合唱団と、バレエ団の使用は、
新機軸であったことはすでに説明した。

Track28~31.は、完全にバレエ音楽である。
Track28.は、男女の羊飼いたちの踊り、1分5秒。
Track29.は、テンポを落として、ミュゼット1、1分47秒。
Track30.は、リズムを激しくしてミュゼット2、54秒。
Track31.は、アレグロと題され、1分40秒と短いながら、
交響曲を締めくくる感じになっている。
中間部で、ひなびた木管合奏が、
いにしえの響きを立てる。

Track32.は、再び、Track28と同じ音楽。
「愛と真実よ永遠に」と、
恋人たちと合唱が、楽しげに歌い交わす。

CD2:
Track1.第2幕は、夜が更ける様を、
うまく描いた56秒の交響曲から始まる。
「夜のとばりが降りる。月が昇る。」

Track2.
「ポリネッサは、庭に出て、ジネヴラの部屋に向かう、
裏のドアの外にいる。」

「ダリンダの愛情によって、うまく行った」などと言っている。
「アリオダンテは、眠ることが出来ず、
宮殿の庭を徘徊し、ポリネッサは彼に話しかけ、
ジネヴラと結婚するつもりだ、などと言って驚かせる。
結局、彼女は私の女主人だなどと言う。
アリオダンテはこれに怒り狂い、剣に手をかける。
しかし、ポリネッサは、彼を説得し、
隠れて、証拠を見るように言う。
その間、ルルカーニオは、
兄が公爵と話をしているのを見て驚き、
何が起こるかを、これまた隠れて見守る。」

Track3.は、騙された馬鹿なアリオダンテが、
うるさく歌うアリア。
「お前か俺のどっちかが死ぬ」と騒ぐ。

「アリオダンテは、
ポリネッサが嘘をついていたら殺す、
もし、反対ならば自分が死ぬという。
ポリネッサは、庭のドアをノックし、
ジネヴラの服を着たダリンダが答え、
親しみを込めて招き入れる。
アリオダンテとルルカーニオが見守る中、
彼女は、ポリネッサを入れてドアを閉める。」

Track4.
ダリンダに呼びかけると、当然、
ジネヴラの服を着た彼女が、
ポリネッサと部屋に招き入れる手はず。
何と、この情景を、アリオダンテの弟の、
ルルカーニオも見ていて、アリオダンテ以上に騒ぐ。

Track5.は、
「あなたの命はあまりにも大きな犠牲」と、
ルルカーニオが、危険を察知して歌うアリア。
切迫感があるが、何やらロッシーニ風に騒々しい。
「アリオダンテは、自身の刃の上に倒れて死のうとするが、
ルルカーニオは、武器を取り上げ、
価値のない女のために命を粗末にしてはならない、という。」
そんなシーンである。

Track6.は、「私は、なおも生きるべきだろうか」
というアリオダンテの激しい独白。
「アリオダンテは、ため息と共に立ち去る。」

Track7.は、不安に満ちたアリオダンテのアリア。
「不実な者は、今や、みだらにも愛人の腕に」と、
完全に、術中に陥った情けない内容。
英雄も、簡単に心が折れてしまったようである。
管弦楽の伴奏も凝っていて、
様々な楽器の音色が、この危機的状況を盛り上げる。

ディドナートの真摯な歌いぶりは、
その張り詰めた声といい、
このシーンに緊張感をもたらして良い。
このあたりを聴くと、
これは、すばらしく質の高い演奏だと思える。

「夜明けが近づき、ポリネッサはダリンダの許を去る。
そして、計画通りになったのを満足げに眺める。」

Track8.は、ポリネッサが、
「彼は毒を飲んだ。切望に引き裂かれた。
うまくいったぞ」という独白で始まる。

Track9.は、ダリンダのアリア。
「私の愛を軽んじた時、
あなたは魅力的に見えたけど、
あなたが優しいと、何てさらに魅力的なのでしょう」
と、騙されたとも知らず、健気な内容。

Track10、11.は、ポリネッサが、
うまくいったと喜ぶアリア。

「宮殿内では、王様は、アリオダンテを、
後継者にするお触れの準備をしている。
しかし、オドアルドは、恐るべき報告をする。
アリオダンテは海に身を投げて死んだという。」

Track12.は、このようなシーンである。
Track13.は、王様が残酷な運命を嘆くアリア。
さすが王様のアリアで、大騒ぎをせず、
諦観に満ちた、パッサカリアみたいな荘厳さ。

「この状況の急転にショックを受け、
王様は娘にこのニュースを伝えに行く。
その間、ジネヴラは、説明できない不安に駆られ、
ダリンダが彼女を元気づける。」

Track14.では、激しい管弦楽に乗って、
ジネヴラが、「何故に、胸のなかで心臓が波打つの」という、
息も切れ切れのアリアを歌う。

Track15.は、ダリンダが慰め、
王様が入って来るところから始まるが、
下記のようなことが起こる長いレチタティーボ。

「王様がアリオダンテの死を告げると、
彼女はくずおれて、意識を取り戻させるべく、
別室に運ばれる。
ルルカーニオは、王様の哀悼の言葉を無視し、
同情からではなく、正義のため、
兄の死が破廉恥なジネヴラの罪を問えと迫る。」

いきなり朗読が入るが、ここでは、ルルカーニオが、
渡した手紙を王様が読み上げているのである。

「彼は彼女が愛人(ポリネッサとは書かれていない)と、
密会したことの報告を綴った手紙を渡し、
父としての許しよりも、
王としての法の遵守を願う。
そして、彼自身は、
ジネヴラのために戦う者があれば、
誰とでも決闘すると誓う。」

Track16.は、ルルカーニオが、
告発するアリアで、シビアな状況ながら、
誤解があるせいか、軽妙なものとなっている。
このあたり、ロッシーニの
「タンクレーディ」を思い出させる。
「あなたの胸に残酷な戦いが起こるだろう」
などと、意地悪な内容である。

Track17.も「タンクレーディ」そっくりである。
オドアルドは、「1日のうちに、いくつの悲劇があるのだ」
とか言っているし。
しかし、よく考えたら、大筋そのものが、そっくりだ。

・熱々の恋人がいとも簡単に引き裂かれてしまう。
・悪役が女を狙う。
・男は英雄のはずなのに、ころっと騙される。
・父親の王様は手紙を読んで、板挟みになる。
・恋人たちは、めそめそして、死のうとする。
そして、決闘など。

登場人物関係図を書いてみると、さらに同じだ。
()の中には、タンクレーディの登場人物を入れてみた。

            王様
       Love ↓(娘)
アリオダンテ  ←→  ジネヴラ    ←ダリンダ(次女)
(タンクレーディ)  (アメナイーデ)  (イザウラ)
            ↑
           ポリネッサ
          (オルバッツァーノ)

ここにルルカーニオは出て来ないが、
この役柄は、「オルランド・フリオーソ」で、
ちゃんと出て来ていた剣客で、
出典が明確な人物であることは、
最初の方に書いたとおりである。

「取り乱したジネヴラが運び込まれて来るが、
恥知らずの売女と言って王様は彼女を追い払う。
このような状況下、ジネヴラは正気を失い始める。」

このあたりも、「タンクレーディ」では、
さらに劇的なシーンとして拡張されていたが似ている。
そちらでは、前半を大きく盛り上げるフィナーレで、
特に聴かせどころとなっていた。

Track18.は、「私はどこにいるの」などと、
うわごとみたいなことを言った、
ジネヴラが、「もはや痛みも感じない」という、
絶望的なアリアを歌う。
カリーナ・ゴヴァンの歌は、びしっとぶれがなく、
強靱な感じで、この8分を越える大作アリアを歌いきっている。

「彼女は悲劇のどこを演じているのかも分からず、
慰めを求め、死を願って、悪夢にうなされた、
苦しみの眠りに落ちて行く」というのが、
第2幕の終わりである。
おそらく、「アルチーナ」の、
「ああ、わが心」に相当するものだ。

ここで、第1幕と同様、途中、バレエが挟まる。
この悪夢との戦いのような内容である。
これは、「アルチーナ」にも流用されたもの。

Track19.は、「喜びの夢への入り口」で、
妖精が手招きするような内容。2分26秒。
Track20.「破滅の夢への入り口」で、
おどろおどろしく、2分2秒。
Track21.は、「喜びの夢は驚く」で、
ちょろちょろした内容、44秒。
Track22.は、
「破滅の夢と喜びの夢の戦い」で、
勇ましくなって行く。1分18秒。

Track23.は、また、王女の狂乱が、
ぞわぞわと戻って、19秒の叫び。
「眠りの中にも安らぎはない」。

今回は、このあたりで終わりにし、
次回、第3幕を聴いて行きたい。

得られた事:「ヘンデルの『アリオダンテ』には、80年後のロッシーニの『タンクレーディ』を予告するような筋書きがたくさん。」
「ヘンデルの『アリオダンテ』は、オルランドの物語の挿話から取られたが、台本作者が、もともと重要だったリナルドを削除したため、出典が不明瞭になっている。」
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by franz310 | 2012-06-23 23:35 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その333

b0083728_23171881.jpg個人的経験:
ヘンデルは、名作オペラ
「アルチーナ」と同時期に、
オラトリオ「アタリヤ」を書き、
前者の音楽の一部を、
後者に流用さえしたという。
「メサイア」が有名であるように、
ヘンデルの活動では、
オラトリオの創作は重要だが、
「Athalia」と言われると、
そもそも何の事かも分からない。


ひょっとしたら、信心深い当時の英国の聴衆なら、
すぐにぴんと来たりしたのであろうか。

ヘンデルは円熟期にオペラを捨て、
オラトリオの世界を切り開いて行くが、
この曲あたりを聴くことによって、
そのあたりの事情を実感してみたい。

この作品、1733年の初演の際に大成功を収め、
ヘンデルが書いたオラトリオの本格的な作品の、
第1作となるようなものであるらしい。
それまでのものは、パスティッチョ的だったようだ。

さて、このCD、表紙の絵画も意味不明である。
「寺院から追い出されるアタリヤ」と題され、
深紅の衣装のいかつい女性が、
兜を被った兵士らに連れ出される所。
長老のような男性が中央にいて、
祭壇には、女と子供がすがりついている。

NAXOSのCDだが、その日本語の帯にも、
「神の力が邪悪な支配者アタリヤを放逐する物語」
と書かれている。
が、何も考えずに聴く限り、
清澄な独唱や合唱が織りなす豊かなハーモニーに満ち、
穏やかさが目立つもので、特に邪悪な感じはしない。

実は、調べてみると、英和辞典にも、
「Athaliah」とあって、
確かに、寺院からは追い出されるべき存在と分かる。
「イスラエル王AhabとJezebelの娘で、
ユダ王Jehoramの妃」とある。

これから、ダビデやソロモンが統治した、
古代統一イスラエル王国が、
北のイスラエル王国と南のユダ王国に
分裂(前928年)した後の話だとは分かる。

分裂した両国の王家に関わる女性として、
非常に重要な位置にいたことは間違いない。
しかも、その子供は、両王国の王の血を引き、
いにしえの栄光を取り戻すに
ふさわしい立場にあったと思われるのだが、
どうも、鎌倉幕府みたいにうまくは続かなかったようだ。

英和辞典の記述は、さらにこうある。
「その息子のAhaziahが死ぬと
王の一族を皆殺しにし、
6年間王位についた(前842-837)。」
とある。

この毒婦の治世も、当然、長続きはせず、
「しかし、Ahaziahの子
Joashはかくまわれて生き残り、
これを擁立した祭司Jehoiadaが謀反を起こし、
Athaliahは殺された。」
と、書かれている。

とにかく、血なまぐさいお話で、
魔女アルチーナの方がかわいいくらいではないか。
人間アタリヤは、血にまみれた女王なのである。

ヴァン・ルーンの「聖書物語」では、
ダヴィデ、ソロモンを扱った
第11章「ユダヤ王国」の後の、
第12、13章には、
「内乱」「予言者の警告」という2章が続き、
ここで、先のイスラエル王、
アハブ(Ahab)とイゼベル(Jezebel)
の夫婦が登場する。

まず、分裂した一方のイスラエル王国の話。

「イゼベルはフェニキア人の町の
シドン王エテバアルの娘であった。
フェニキア人は太陽崇拝の種族であったから、
イゼベルもまたバアル神の熱心な信者であった。
ふつうは、王妃は夫の国の宗教にしたがうものであるのに、
イゼベルにはまるでその気がなかった。
彼女はサマリアにやってくる時に、
自分の司祭を一緒につれてきて、
アハブの宮殿に身を落ち着けるやいなや、
イスラエル人の首都の真ん中に、
バアルの神殿を建てはじめた。」(角川文庫、村岡花子訳)

という具合に、とんでもない感じで聖書に登場するようだ。

一方のユダ王国の話もこんな感じで出て来る。

「とてもかしこい、もののわかった王」
「なみなみならぬ腕を持った外交家であり、戦略家」
として紹介されるヨシアバテが支配し、
「彼はイスラエル国と休戦条約を結び、
まず始めに、アハブとイゼベルの娘、
アタリアと結婚し、
次に、妻の父アハブと攻守同盟を結んだのである。」

そして、ヨシアバテのやり方はだいたいうまく行って、
「人々に深く惜しまれながら死んで、
ダビデの町にある代々の墓に
先祖と一緒に葬られた」と書かれている。

しかし、そこにも問題があって、
イスラエルでは、イゼベルが太陽神を強要し、
ユダでは、「その娘のアタリアが、
その夫と夫の国とを、
異教徒たちのいうままにあやつっていた」
という記述がある。

アタリヤ(アタリア)について、これ以上の記述はないが、
この章が、「予言者の警告」とあるように、
予言者エリヤの不思議な奇蹟の話などが紹介されている。
やがて、エレミヤの話なども続く。

このCDの解説によると、
「歴史的にはアタリヤは、
ティラ王とシドンの娘で、
アハブの妻で、フェニキアの宗教を好んだ、
ジョザベルの娘であると言われる。
彼女は母親の先例に倣い、
最終的に退位させられ、
BC837に殺されている」とあって、
だいたい、同様の事が書かれている。



いずれにせよ、こうした乱世に主題を取ったオラトリオである。

さて、このアタリヤは、このCDでは、
エリザベート・ショルという、
1966年生まれのドイツのソプラノが受け持っている。

この辞書に出て来た、母のJezebelは、
このCDにおけるJosabeth(ジョザベス)で、
また、Ahaziahの子Joashというのが、
このCDのJoas(ジョアス)であろうか。

これらはみんなソプラノだというのがすごい。
バルバラ・シュリックや、
フレデリーケ・ホルツハウゼンが受け持っている。

このCDには、他に3人の人物が出て来て、
ジョアド、メイサン、アブナーという人たちで、
アルト、テノール、バスに割り当てられた役柄である。

アネッテ・ラインホルト、マルクス・ブッチャー、
ステファン・マクレオドが受け持ち、
ヨアヒム・カルロス・マルティニという
1931年、チリ生まれのベテラン指揮者が、
フランクフルト・バロック管弦楽団を振っている。
合唱は、ユンゲ・カントライという団体で、
この指揮者の手兵らしい。

この指揮者の名前からネット検索すると、
かなり妖気のただよう風貌が見て取れる。
1996年の録音、この指揮者は65歳である。

ということで、いろいろ書いたが、
あまりにも予備知識がなく、
戸惑ってしまう。
が、だいたいの背景は分かった。

指揮者も怪しい相貌であるし、
とにかく、解説のSynopsisに従って、
勇気を持って聴き進めてみよう。

CD1は第1部。
Track1.はシンフォニアである。
このどろどろした物語とは相容れないような、
明るい色調と、時にアクセントを持つ、
しかし、少し単調な感じもする、
ヘンデルらしいおおらかな主部。
途中、緊迫感を持つ部分や、
泡立つような木管が期待感を高める部分がある。
約5分。

以下、第1場:
Track2―6.
「第1場は、エルサレムの神殿地区、
信心深いユダヤ人たちが、春の収穫祭で、
シナイ山での十戒の啓示を言祝ぐ、
祭りの週間である、五旬節が来るのを待っている。
暖かな牧歌的な地中海の気候で、
ジョザベスと若い少女たち、
信心深いユダヤ人が、
大地に花咲くことや、
万物の創造主たる神への賛美に酔いしれている。
誰もユダに災難があろうとは予想だにしていない。」

このあたりを聴くと、これが本当に、
上述のような血なまぐさい物語になるのか、
といぶかしんでしまう程、美しい音楽が続く。

ジョザベスの歌は、
華やかさに欠けるものの、
伸びやかで清潔感が溢れている。
残響の素晴らしい録音で、
虚空に消えて行く空気感に酔いしれる。

続く、精妙な女性合唱も、
不思議な陰影を持って美しく、
それは盛り上がって混声合唱となる。

「状況は進展して、
ジョザベスと合唱はこれに言及するが、
それは一般論の域を出ない。
権力の座にあるものたちが、
すべてを意のままにする神への賛美を
止めさせようとしていることを知ることが出来る。
ここでの音楽は、
すべての弾圧への抵抗などの力を表しており、
それは統治者にとって、
危険な現象であり、取り締まる必要があるものである。
暴政の象徴である役人アブナーが、
そこに加わり、神の怒りと共に、
専制はすぐに転覆されると断言する。」

アブナーって何者?という疑問が出て来るが、
解説の前の方に、
「オリジナルにはいないキャラだが、
王室の護衛官で、王宮とテンプル地域を自由に行き来する。
同時に、詩人の意図では、民衆反乱の指導者である」
とあって、かなり困ったさんだということが分かる。

第2場:
Track7-9.
「圧政について初めて明かすのはジョアドである。
ここで、アタリヤは、神に背き偶像を崇拝し、
その力を、
信心深い人々に神の崇拝から遠ざけるばかりか、
ユダの人々を迫害するのに使おうとしているという。」

アネッテ・ラインホルトが、
凛々しいが、幾分、陰気でもある声で、
嘆きの歌を聴かせる。
Track9も最後になって、
悲痛な合唱が、これに唱和する。

第3場:
Track10~20.
「王宮に情景は変わって、
アタリヤが悪夢を見たと言って、
取り乱して部屋から飛び出して来る。
恐ろしい状況で死んだ母親の亡霊が現れ、
彼女の来るべき死を予言したのである。
夢の中で、彼女は、また血まみれの犬たちが、
母親の死体の上で争っているのを見た。」

このあたりは、「聖書物語」にも出て来る。
このおぞましいシーンは、エリアによって予言されたもので、
その通りになった、という感じで紹介されている。

亡霊のようなオーボエの助奏に導かれ、
主人公アタリヤのショルが、
悲痛な声を上げると、
レチタティーボ風にメイサンがそれに応える。
続いて、アタリヤの恐怖に満ちたアリオーソの歌が続く。

それに続いて、明るい神を讃える合唱が響き、
この陰鬱な情景にコントラストを与える。
アタリアのレチタティーボ、
そして、再び、清澄な合唱。
しかし、「バール」という偶像崇拝の歌なので、
異教徒たちの祈りのようである。
ここで繰り返される合唱は、
シドンの人々(フェニキア人)によるものらしい。

これらの歌も、彼女の不安は消さず、
次のようなレチタティーボが、
恐ろしい予言を告げる。

「その夢は、祭りの装束の少年が、
突然、彼女の胸に短刀を突き立てて終わった。」

メイサンが、男らしい落ち着きで答える。
Track17.はメイサンのアリアで、
深いチェロのオブリガードが付く。

「エホバの司祭でありながら、
背教の徒であったと、後でわかる、
彼女の忠臣の一人、メイサンや、
他の廷臣たちは、女王を慰めるが甲斐なく、
メイサンは、彼女にしっかりするように忠告し、
神殿に行って、夢が本当かを調べて来るように言う。」

続くTrack18.は、反対に、
高音のヴァイオリンたちが、
精妙な音の綾を見せるアタリヤのアリア。
どんな優しい歌でも、私の心は和まない、
という、毒婦とは思えぬ弱々しさである。
ここでも、ヘンデルは、アルチーナと同様、
類型的な描き方はしていない。

「アブナーは、この状況を見ていて、
ジョザベスやジョアドに注意するようと決める。
この場は、正しい考えもなく、急いで殺しに向かう、
よこしまな男たちの混乱と共に、追っ手たちが歌う、
軽い調子のマドリガル風の合唱で閉じられる。」

メイサンやアブナーが、早く行って、
事情を調べよ、という声に、
合唱が軽薄に答えているが、かなり短い曲たちだ。

第4場:
Track21-25.
風雲急を告げるシーンであるが、
ほとんど独白みたいな感じで始まる。
「ジョアドとジョザベスは、
ジョザベスが王の息子を迫り来る死から、
救い出していると人々に告げることを決める。
殺人未遂が迫る雰囲気は述べられず、
この罪の先導者が女王であることも名指しされない。
アブナーは飛び込んで、
ジョアスの世話をしている人たちに、
アタリヤが来て、神殿を探り、
敵を殺そうとしていると警告する。
ジョザベスは完全に絶望し、
アブナーに慰められ、
ジョアドは、特に、神はユダの家は、
決して破壊されないと約束されたと保証する。」

このように、いろいろ書かれているが、
大部分がジョザベスの嘆きである。

「イスラエル人の合唱、アレルヤを打ち破ってまで、
暴君は動くことは出来ないと、
彼は挑戦的に述べ、
暗いニ短調の二重フーガが、
このシーンとオラトリオの第1部を終わらせる。」

最後のジョアドのアリアと合唱は、
比較的劇的なものである。

CD2:
第2部:
第1場:
Track1-5.
いきなり活力に溢れた序奏に続いて、
ど迫力、雄渾な合唱が始まる。
「我らが頼りにする力」と題され、
ジョアドもまた独唱者として唱和する。
神殿にて、ジョアド、ジョアス、ジョザベス、アブナー、
司祭たち、レヴィたち、イスラエル人たち、合唱。
「祝祭を祝い、神の力の反映である自然を讃える。
ジョアドは自然を果実を与える者として讃え、
ジョザベスは、自然の美しさを賛美する。」
Track2.はこのジョザベスのアリア。
澄んだ声だが、何度も書くが、華やぎはない。
エコーのようなリコーダーが伴奏で目立つ。
このアリア9分もかかってやたら長い。

「アブナーは短く、ユダがいかに、
アタリアのくびきに苦しんでいるかを述べ、
ジョアドは、アブナーに、
正統の王位の権利と、
王位継承者を守る用意があるかと、
国の将来をゆゆしくも尋ねる。
アブナーは躊躇無く、
ダヴィデの家系と王家への忠誠を明らかにし、
ジョアドによって、共謀への参加を勧められる。
この瞬間、女王が神殿になだれ込んで来る。」

このように、アブナーがいい者であると分かるのだが、
彼のアリアもまた長く、Track4は3分半もある。
ジョアドのレチタティーボが続く。

第2場:
Track6-11.
「これがアタリヤが神殿に足を踏み入れた最初である。
あまりの偉大さに、彼女はひるむが、
これをすでに夢の中で見たことに気づく。
ジョザベスとジョアスは待っていて、
アタリヤは、ジョザベスから少年の素性を知ろうとする。
ジョザベスは賢明にも、彼女の質問をはぐらかし、
アタリヤはジョアスに向かうが、
子供っぽい無邪気さに質問もそらされてしまう。」

Track7.では、遂に、
王位継承者、ジョアスのアリアが聴ける。

「そして、彼女は、彼等を王宮に招こうとする。
ジョアスがバール崇拝を悪として拒むと、
アタリヤは復讐と怒りで震え、
狂ったように飛び出し、ジョザベスは絶望する。
しかし、子供は、神を信じ、
彼女を慰め、自信を持って、
全ての苦痛からの解放をくれるものと、
共に神の気品を賛美する。」

Track10.は、このジョザベスとジョアスの、
4分半の敬虔かつ清澄な二重唱。

Track11.のジョアスのアリアについては、
「オラトリオ『デヴォラ』から、
ジョアスの性格をはっきりさせるために、
流用している」とあるが、演奏者の判断か。

子供が歌うにしては、妙に大人びた、毅然とした、
「エホヴァの恐ろしい予言」というアリアである。

第3場:
Track12-15.
「ジョアドが入って来て、ジョザベスに同情を示す。
これに勇気を得て、ジョザベスは、
今や、まさに神が彼女を導き、今後もそうであろうと確信する。」

このあたりの聴き所は、
Track13.のジョアドとジョザベスの、
6分半にわたる二重唱で、アネッテ・ラインホルトのアルト、
バルバラ・シュリックのソプラノが、最初は交互に歌い、
最後に唱和する。
この二人は、声に豊かさが欠けるが、
清潔さのある歌声に味がある。

「アブナーは、彼等に合流し、日暮れ前の再会を提案する。
若い3部からなる女性合唱が、
すべてが完全に変わることの布告をし、
ドラマの急展開を告げる。
そこに、同様に3部からなる
司祭やレヴィや、イスラエル人たちの
合唱が続き、神から敬虔な人たちに、
誇りが砕かれても、祝福があるだろうと宣言する。」

Track15.フーガ的な展開が凝集した雄大な合唱曲である。

第3部
第1場:
Track16-21.
この部分は、解説はやたら長いが、
全体で6分か7分しかない。

するどいアクセントのオーケストラの序奏に続き、
アルトながら、英雄的な声が、まことにそれらしい、
ラインホルト(ジョアド役)による
「聖なる恐怖が私の胸を揺らす」
というアリオーソになる。

「神の聖霊はジョアドの上に降り、
人々は彼のもとに集まって、
彼のヴィジョンを語るように訴える。」

Track19.は、
「エルサレムよ、汝はもはや」という、
ジョアドと合唱による劇的な音楽になる。

「ジョアドは、アタリヤの死を予言する。
ユダの人々は、この神のお告げに感動し、
アタリヤの暴政からの解放という、
神の恩寵が授けられることに感謝する。
王国の首長たち、聖職者や指導者たちは、
神殿に集結する。
刻限が近づくと、ジョアドは、再度、
子供を確かめ、確かに彼こそが、
ダヴィデの王位の敬虔な末裔であると確信する。
ジョアスは、賢明に神への愛や、
ダヴィデの英知を、確信を持って語り、
ジョアドはその足下にひれ伏し、
ユダの新しい王だと言祝ぐ。」

このあたりは、単純な会話のようなレチタティーボである。
(Track20.)

「若い少女や司祭、レヴィや兵士の隊長は、
歓声を上げて、群衆は叫び、若い王様に忠誠を誓う。」

Track21.は、ハレルヤ・コーラスのような、
「堅く結ばれた心で」という合唱曲。25秒しかないが。

第2場:
Track22-23.
オルガンの簡素な序奏、
メイサンとジョザベスのレチタティーボ、
「おお、王女よ、私は汝に近づき」。
「メイサンは、態度を変えて、
ジョザベスにへつらうが、
彼女は、友情の素振りに騙されず、追い払う。」
Track23.は、
思慮深いジョザベスの激しいアリアだが、
短く、この第2場は2分程度で終わる。

第3場:
Track24.
何と、18秒しかないレチタティーボ。
メイサンは、今度は、ジョアドに怒られる。
「メイサンは司祭であったくせに背教者であるがゆえに、
神殿に足を踏み入れようとするのをジョアドは怒る。」

第4場:
Track25-32.
ここでようやく、アタリヤが再び登場する。
「おお、大胆な先導者よ」と叫ぶ。
「神殿から反乱が始まり、街に広がり、
女王はジョアドが扇動者だと知る。
彼女は、ジョアスについて尋ね、
ジョアドはジョアスを新しい王として引き出す。
民衆は喜びの声を上げ、
神が王を祝福し、真実の信仰を賞賛する。」

Track26.は、
トランペットの伴奏も輝かしい合唱曲。
ジョアドの声がこれに続く。

Track27.が、「おお、裏切り、裏切り」
という、アタリヤとジョアド、アブナーのやりとり。
「アタリヤは、王宮の護衛隊長アブナーの方を向くが、
彼もまた、彼女を見捨てる。」
Track28.は、アブナーのアリア。

「メイサンも死の痛みを感じ、
もはや無力であると認める。」
Track29.は、
アタリヤとメイサンのレチタティーボで、
Track30.は、メイサンのアリアである。
アタリヤの手下たちのアリアは、
いずれも2分に満たないもの。

「彼女は負けを認め、退位しなければならないと悟る。」
Track32.は、アタリアが「永遠の暗闇へ」と、
最後の叫びを歌い上げるところだが、59秒しかない。
あっけないものだ。これで、アタリアは死んだのだろうか。

ぎざぎざのリズム、装飾音に溢れた声を張り上げる。
「反抗的な態度のまま、彼女は、
母親の誇り高い精神を呼び起こし、
暗い呪いを残して消える。」

第5場:
Track33-36.
「ジョザベスとジョアドは互いに、
深い相互の愛情を伝え合い、
祭りの喜びが彼等自身のものとなる。」

Track34.は、この二人の、
まことに小粋なマドリガルというか、
小唄風の、簡素な二重唱。
いかにも、ダウランドやキャンピオンのような、
英国のいにしえの作曲家が、書きそうな、
高雅な趣きを持った、美しい歌曲である。
通奏低音の伴奏に、優しい弦楽が重なる。

「アブナーは、ユダが、
選ばれた民のものとなるという、
神の意志を讃え、
全ての民は、喜ばしい祝福の声を上げ、
オラトリオを終結部に導く。」

Track35.アブナーの「おおユダヤよ、喜べ!」
に続いて、Track36.の大合唱がわき起こり、
輝かしい管弦楽と一緒になって全曲が結ばれる。
ティンパニが連打されて、壮大さを増すが、
2分半の小さな曲である。

ということで、とりわけ、何が起こるわけでもなく、
単に、女王アタリヤが悪夢を見て、殺戮を行おうとすると、
幼いながら正統の王が現れて、彼女は転覆されました、
みたいなお話である。彼女の夢は、正夢となった。

以上聴いたように、
ジョザベスは、ジョアスの親族で、敬虔な女性で、
ジョアドは予言者で英雄ということになるようだ。
最後は結ばれたということだろう。

以上、聴いて来たように、結局、女王の側近は、
すべて裏切り者となる、というすごいお話。
それを知って、改めて、このCDの表紙の絵画を見ると、
兵士たちが、女王を追い出そうとしている理由が、
ようやく分かったような感じになる。
兵士の親分はメイサンである。

最初、祭壇かと思ったが、どうやら違って、
何だかひょうたんみたいな中に収まっているのが、
正統の王、ジョアスであり、
彼を守ろうとしているのが、ジョザベスであろう。
真ん中の長老風はアブナーで、
ジョザベスの後ろで眼光鋭いのがジョアドかもしれない。

さりげなく、英国風の小唄のデュエットを入れたりしてあるし、
英国の聴衆たちは、勧善懲悪のヘンデルの音楽を聴いて、
何だか、すっきりと良い気分になったに違いない。

得られた事:「ヘンデルがオペラを盛んに書いていた時期に、本格的に書いた初のオラトリオとされる『アタリヤ』は、合唱曲の迫力を生かしながら、ドラマ性は気迫、アリアもシンプルで、単なる舞台のないオペラ、という感じのものではなかった。」
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by franz310 | 2012-06-16 23:19 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その332

b0083728_210167.jpg個人的経験:
ヘンデル円熟期の
最大のヒットオペラとなった、
「アルチーナ」は、
さすがに多くの録音が
残されており、
原作を同じくする、
同時期の「オルランド」
などの比ではない。
今回聴くCDもまた、
素通りすることが出来ない。


これは、非常に魅力的な表紙写真が印象的なものである。
恐らく魔女のアルチーナをイメージしたのであろう。
群青のノースリーブの上に赤いマントだかを重ねた仕草が、
闇の中に浮かび上がる色彩の対比と共に、非常にセクシーである。
もちろん、唇の赤を見のがすわけにはいくまい。
しかも、髪の毛の黒さが漆黒の闇のようだ。

Cover Photoには、
Vanessa Munozという名前が書かれているだけ。
女流写真家のようで、ホームページに、
洒落た写真が沢山載せられている。

2007年の録音。
CDケースに張られたシールにも、
「受賞歴も多い、アルヒーフの、
アラン・カーティスによるヘンデル最新作」
とあり、
「バロック界のスター、
ジョイス・ディドナートが、
ヘンデル最高のオペラの1つの、
超絶のタイトルロールでデビュー。」
と続き、
「ディドナートの活力ある個性が、
その表現やジェスチャーと共に、
ステージに華を添える」と、
最高級の賛辞がならぶ。

成る程、古楽の王様のごとき、
アルヒーフ・レーベルのヘンデルとあらば、
悪いわけではないが、
何となく、学究的なこのレーベルにしては、
表紙写真からして、破格である。

しかし、日本でも発売されており、
レコード芸術のような権威的な雑誌でも、
高い評価を得ている。

ディドナートは、
グラミー賞受賞のCDも出して人気の歌手で、
美人のようだが、このCDの配役には、
私には、ロッシーニの「試金石」で、
素晴らしい歌唱を聴かせた、
ソニア・プリーナが、
ブラダマンテを歌っているのが気になる。

カーティスの指揮は、
この人の音楽への眼差しが感じられるもので、
序曲からして、非常に丁寧に演奏されていて、
慈しむようなオーラが漂っている。

ただし、それが、いくぶん、
まどろっこしく感じられる人もいそうな感じ。
すかっとした爽快感は、
ハッカー、クリスティ、ミンコフスキなど、
これまで聴いたどれよりも弱い。

この表紙写真の、完成度の高さ、
ある意味、古典的な佇まいと、
あるいは相通じるかもしれない。

解説は、David Vickers
という人が、シンプルに、
「Handel’s Alcina」
というのを書いているが、
この録音には、
さらなる付加価値があることが記されている。

「18世紀の音楽史学者、チャールズ・バーニーによると、
『アルチーナ』は、
『ヘンデルが彼の敵を屈服させたように見えるオペラ』
である。
この競合というのは『貴族オペラ』で、
ヘンデルに不満を持っていて、
ロンドンにおける、彼のオペラの独占を嫌う、
イタリアの歌手とそのパトロンらによって、
1733年に創設されたものであった。」

このように書かれると、
ヘンデルが、あたかも既得権益にすがりつく、
悪者のようにも見えて来るが、
そんな見方をした人らは、
確かにいたということであろう。

「リンカーンズ・イン・フィールド・シアターで、
貴族オペラの最初のシーズンの後、
ハイマーケットのキングズ・シアターの
ヘンデルに取って変わり、
1734年から35年のシーズンの中頃、
センセーションを捲き起こしたカストラート歌手、
”ファリネッリ”と呼ばれた、
カルロ・ブロスキが、ポルポラの『ポリフェモ』で、
ロンドン・デビューを果たしている。」

このあたり、最終的にヘンデルが勝った、
という話で終わってしまうのだが、
ポルポラの作品など、どのように受け入れられたか、
非常に気になる。

「その間、ヘンデルはオペラ・プロジェクトを、
1400人もの聴衆収容が可能な、
1732年に莫大な費用で建てられた、
コヴェントガーデンのジョン・リッチの劇場に移した。
ダンサーであり、
洗練されたパントマイム作者であったリッチは、
新しい劇場を、スペクタクルな情景の描写にふさわしく、
それゆえに、音楽やダンスにとって理想的なものとした。
1727年の『The Rape of Proserpine』の
印刷された台本を前に、
彼は、ロンドンのこれからのオペラプロダクションは、
バレエなども含むことによって、
さらに多様で視覚効果たっぷりにして、
イタリアからの費用のかさむ歌手たちに、
依存しないようにすべきだとした。
リッチの示唆は、8年後の1734年から35年、
コヴェントガーデンにおける
ヘンデルのオペラやオラトリオによって、
非常に効果的に実現することとなる。
国内の歌手たちが
ヘンデルのイタリア・オペラ団の
重要な構成員となって、
小さな合唱団を導入して、
コヴェントガーデンでは、
これまでロンドンで見られたものよりも、
声楽のアンサンブルを、
さらに多様な『合唱様式』を可能とした。
そして、さらに顕著に分かることだが、
作曲家は、新作においても改作においても、
高名なバレリーナで振り付け師でもあった、
マリー・サレに率いられた
フランスのバレエ団と協業できた。」

このあたりの記述は、非常に興味深く、
いかに、テクノロジーの進歩が、
市場を操作するかを考えさせられる。

「ヘンデルは、こうした機会を利用して、
貴族オペラが予想もしなかった、
劇的娯楽性を持つ統合スタイルを確立した。
このシーズンの後半には、
彼の競争者らは、
ポルポラの新作『イフィゲーニア』が
ロンドンの公衆に、
まるで受け入れられないという事態に陥った。
ヘンデルの新作『アルチーナ』が、
彼の長いキャリアでも最大級の1つとなる、
勝利を得たにも関わらずにである。
それは最初のシーズンに
1730年代の彼のオペラのどれよりも多い、
18回の上演を記録した。」

このように、環境の変化もまた、
作曲家の霊感に作用したことも、
よく味わい問題である。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタが、
楽器の進歩によって進化したような事が、
果たして、シューベルトのような作曲家には、
起こったのかどうか。
イタリア・オペラの潮流に逆らって、
かなりのエネルギー・ロスはあったようだが。

「『アルチーナ』の物語は、
フェラーラの劇作家で詩人の
ルドヴィコ・アリオストの叙事詩
騎士道の幻想譚である
『Orlando furioso』によるもので、
シャルルマーニュ帝の治世のものである。
1516年に出版された詩は、
ヘンデルの1730年代の豊かな源泉となり、
オルランド(1733)、アリオダンテ(1735)は、
同様にその派生であり、騎士道と英雄伝の、
深いアイロニーの物語となっている。
ヘンデルの『アルチーナ』のテキストは、
1728年、ローマで、
リッカルド・ブロスキによって最初に作曲された、
作者不明のリブレット『L'isola di Alcina』の改作で、
これは、アリオストの詩の第6歌、第7歌を、
自由に扱ったものである。」

この「オルランド」は、
「ロランの歌」のロランに当たる人物で、
シューベルトのオペラにも、残像のように登場している。

「ヘンデルは、このテキストのコピーを、
1729年にイタリアに旅行した際に、
入手したのかもしれない。
しかし、彼のバージョン用に改作した、
イタリア人の協力者がロンドンにいたか、
作曲家自身がここまでやったかは分からない。」

前回読んだ資料にも、例えば、オベルトなどは、
ヘンデルが付け加えたキャラクターとあった。

「ヘンデルは、1735年4月8日に、
アルチーナの完成したスコアにサインして日付を入れた。
これは、彼のオラトリオ『アタリア』の
5回の公演の最中であった。
彼は、いつものハイペースでオペラを作曲したが、
自筆譜には、彼の自己批判による改訂の痕跡が見られる。
第1幕、第7場では、オリジナルでは、
ルッジェーロのレチタティーボに続いて、
超絶のアリア
『愛の喜びのだけために、僕は勝利を求める』
で締めくくられるが、
これは、実演時のスコアには書き写されなかったし、
プリントされたリブレットからも削除された。
ヘンデルは、このような音楽のヒロイックなスタイルは、
オペラでの、このような早い段階でのルッジェーロは、
まだ、このキャラは理不尽な束縛から癒されておらず、
ありそうにないと思ったのかもしれない。
または、この削除は、
もっと実際的な便宜によるものかもしれない。
彼は、1735年4月1日の
『アタリア』再演に際して、
これをジョザベスのアリア『一面に花咲き誇り』として、
これを挿入している。
彼は、結局、オリジナル・バージョンを演奏しなかったが、
このレコーディングでは、元に戻して演奏しているが、
カリスマ的な音楽なので、弁解の必要はあるまい。」

このルッジェーロのアリアは、
行進曲風に威勢の良いものであるが、
長大(6分45秒)ではあるが、
あまり、内容があるものとも思えず、
上述の理由は、2つとも納得できる。

このCDでは1枚目のTrack21で、
ルッジェーロ役のマイテ・ボーモンが歌っている。
スペインのメゾ・ソプラノで、写真で見る限り、
ボーイッシュな美人である。

「ヘンデルは、第1幕第2場の合唱、
『これぞ喜びの頂点』でも再考を行っており、
彼は最初、2つのホルンを使い、
長い管弦楽の序奏を用意し、
プレストの楽しい4/4拍子のヘ長調で作曲したが、
彼はそれを、同じ歌詞で、
より優しい『ラルゲット』にし、
ホルンもなくし3/4拍子でト長調にして、
序奏も控えめなものとした。
ここでもまた、ヘンデルは、
捨てられた音楽の再利用を行い、
同時期の『アタリア』の再演にて、
オルガン協奏曲作品4の4の冒頭楽章とした。
この場合、この変更は、『アルチーナ』に、
決定的な改良を施すこととなり、
劇的なムードをシーンに増すことになった。
最初の壮麗で外向的な合唱の性格ではなく、
より官能的でエロティックなものとして、
アルチーナの美しい宮殿をみごとに描写した。」

この部分(CD1のTrack6.)は、
けだるく優雅なもので、
モルガーナの無邪気なアリアの後、
(このCDでは、カナダのソプラノ、
カリーナ・ゴヴァンが、CD1のTrack5で、
超絶的なコロラトゥーラを聴かせ、
急に暗雲が垂れ込めたか、雷鳴が轟く)
あたかも、別世界に迷い込んだかのような、
不思議な効果を醸し出すのに成功している。
白昼夢が現出したかのようである。

また、この合唱の後に、例のバレエ音楽を挿入し、
アルチーナの宮殿のゴージャスさが強調される。

「ヘンデルの劇的な精巧さと美しさへの追求は、
第2幕第3場のルッジェーロのアリア、
英雄の不貞の自覚と、
ブラダマンテに苦痛を与えたことの後悔、
『僕は甘い愛に染められ』の自筆譜からも分かる。
当初、音楽に、さらに幅広い
オープニングのリトルネッロを用意したが、
もっと傷ついた心を表すのに直接的だとして、
ヘンデルは半ダースの小節を削除する事に決めた。」

「作曲家は、アルチーナの非常に魅力的な
ハ短調のラメント『ああ、我が心』(第2幕第8場)
の曲付けや構成においても、
小節を削除し、声楽部にもオーケストラパートにも、
何度も修正を入れて、パトスを最大化し、
さらに沢山の気遣いを示している。」

この部分は、CD2のTrack15.で聴けるが、
いくぶん、早めのテンポで切迫感を盛り上げている。
9分31秒で、ディドナートは歌いきっている。
美しい声であるが、その激しさでは、
これまで聴いてきた、
ネーゲルシュタッドやハルテロスなどの方が、
こぶしを効かせ、音域も広く、
声も太く、たっぷりとして、
強烈であったような気がする。
そう言う意味では、ディドナートの声は軽く、
魔女的ではない。

「オロンテの報告を聴いた反応で、
ルッジェーロが彼女の呪文から解き放たれ、
島から逃げようとした時、
『ああ、我が心』は、怒りのアリアではなく、
アルチーナが拒絶を受けた時の気づきや苦さに対する、
抗しがたい心理の把握であり、
精神の打撃として歌われる。」

このように書かれる程、ディドナートは、
打撃を受けていないようだ。
カーティスもボロが出ないように、
あっさり通り過ぎたように見える。

クリスティー指揮のフレミングは、
13分近くかけて、息も絶え絶えになって、
ヴィヴラートを施しながら進み、
さすがベテランの表現力を聴かせている。

「アルチーナが自制を失うと共に、
ルッジェーロは賢明に、啓蒙されていく。」

私は、このような解釈もあるのかと、少し驚いた程だ。
ロミオとジュリエットや、
トリスタンとイゾルデのように、
恋人たちが、同じ気持ちで沈んで行くのではなく、
反対の道を歩き始めるとは、何とも痛いオペラである。

「第2幕第12場のTrack19.
『青々とした草原よ、緑豊かな木々よ』では、
この島の悪の策略に対し、堂々として簡潔な音楽で
悲しい意見を述べる。」

確かに、「その美しさは失われるであろう」などと、
超越した感じの歌詞である。

この部分、平明な美しさで耳をそばだてて来たが、
弱々しく、別れを告げるアリアだと思っていた。
もっと決然と、胸を張って歌う、
英雄的な要素が必要なのかもしれない。

幸い、クリスティ盤のグレアムが、
しみじみとした別れの歌であるのに対し、
ここでのボーモンには、
決然とした趣きがあって良い。

「これは、第2幕のクライマックス、
アルチーナの複雑な、
慣習的でない伴奏付きモノローグ、
『ああ、残酷なルッジェーロ』や、
コロラトゥーラによる怒りのアリア、
『青白い影よ、聴いただろう』
に対し、明らかなコントラストを成している。」

このあたりは、CD2のTrack20.、21.
あたりで聴けるが、
複雑極まる管弦楽の色彩とリズムが駆使され、
ものすごく魅力的である。

しかし、先の解釈によると、
アルチーナの独り相撲は、あまりにも悲しい。

このような狂乱のシーンでは、
ディドナートの軽めでも、
敏捷な声では聴き応えがある。

「荒れ狂う伴奏の中、
彼女は、杖を使って、
魔の精の助力を召喚しようとするが、
沈黙と無力が訪れるだけである。」

霊的な伴奏を聴いていると、
すぐそこまで、霊が来ているような感じを受ける。

「ルッジェーロにも魔法の力にも拒絶され、
無力なアルチーナは、狂ったように復讐を誓うが、
怒りの中で、杖は折れ、捨て去ってしまう。
ヘンデルの大胆な音楽は、
『狂乱の場』ではなく、むしろ、
彼女の世界に歓迎できない現実が侵入した時の、
魔女の苦悩を表すものとなっている。」

私が狂乱のシーンと書いた後に、
このような解釈をされると困るのだが、
フレミングのCDなどでは、
アルチーナは、確かに、
現実の直視と戦うような表現で歌っている。

したがって、ここで第2幕が終わっても、
余韻が深い。
ディドナートの方は、狂乱が空中に残って、
終わった感じがしないのである。

「ルッジェーロとアルチーナの逆の運命は、
第3幕でも続いている。
2つ後の場でのアルチーナどん底のモノローグ
『涙だけが残った』に対し、
(CD3のTrack13.)
英雄として復活したルッジェーロのアリアは、
2つのホルンを目立たせた、
『岩場の虎』(CD3のTrack11.)
の平明なスタイルである。」

ルッジェーロを歌うボーモンは、
男らしく、自信に満ちている。

が、続くオロンテとアルチーナのシーンは、
ヒステリックに感情的である。
ディドナートの歌うアリアは、
均一な澄んだ声が聴き所だが、
余裕が少し足りない感じもする。

「この瞬間、彼女は百戦錬磨の魔女ではなく、
彼女がかつて要求した忠誠心や命がけの愛を失った、
捨てられた人間の女になっている。
ヘンデルの息を呑むような音楽は、
(嬰ヘ短調という得意な調を使い、
ヴァイオリンには驚くべし、
減五度が連続して現れる)
彼女の心中の打撃や予期せぬ弱さをさらけ出す。」

このように、恋人たちの運命の対比を、
これでもか、とえぐり出していたとは、
これまで、漫然と聴いていたのか、
あまり意識していなかった。

「他のキャラクターも魅惑的で、
彼等の音楽も一貫して第一級のものである。
ブラダマンテは第1幕で
ルッジェーロの冷淡さに苦悩し、
仕方なくモルガーナを騙して気を引く。
一方、モルガーナは、オロンテに対して、
時々、気を引き、時々浅はかに気まぐれを起こす。
唯一、偽善から離れたキャラクター、
オベルト少年は、アルチーナの悪行を、
唯一、正面から非難する。
彼のアリア、『バーバラ』(CD3のTrack16.)は、
すべての残りのスコアが完成してから、
ヘンデルが挿入したもので、
そのダイナミックなコロラトゥーラのパッセージは、
初演時のウィリアム・サヴァージが
ボーイ・ソプラノとして卓越した才能を持っていたことを示す。」

この少年は、このCDでは、
ラウラ・チェリチというイタリアのソプラノが受け持っている。

さて、私が気になるソニア・プリーナの歌う
ブラダマンテを重点的に聴いて見よう。
第1幕第5場(CD1のTrack19)、
「それは嫉妬というもの」は、
歌の内容からして、もっとオロンテを茶化すような感じが欲しい。
かなり、真面目くさって歌っている。
そういう解釈なのかもしれない。
彼女の得意とする小刻みなシフトチェンジがかかった
めまぐるしい歌い口には惹き付けられるが。

第2幕第2場(CD2のTrack5.)の
「偽りの心に復讐を」も、
同様に、すごい技巧を凝らして見事だが、
出だしに躊躇いがあり、ちょっと硬い。
すごいスピードで疾駆している反動である。
しかし、クリスティ指揮のクールマンなどよりは、
強烈な個性を感じさせる。
難しいものだ。

第3幕の第5場(CD3のTrack11.)
「真実の心に」では、プリーナの、
深々とした声の美質が味わえる。

第3幕第8場の素晴らしい三重唱
(CD3のTrack18.)
「これは愛でも嫉妬でもなく」でも、
三重唱のバランスを崩すほどに、
強靱な声の存在感を示す。

しかし、他の二人が、
なだらかな声の絡みの美感を披露する中、
びしびし打ち込まれるプリーナの声が、
アクセントになっているとも言えなくはない。
これは、実演で聴いたら、
かなり圧倒されるかもしれない。

「ヘンデルは巧みにテレマンやカイザー、
ボノンチーニといった他の作曲家の音楽着想から、
多くのアリアを作り出し、
彼自身の作品を重要なナンバーのベースとした。
第1幕を締めくくる、モルガーナの楽しげな
『私を優しく見つめて』(CD1のTrack29.)
は、27年前に彼がローマで作曲した、
カンタータ『Oh, come chiare e belle』が発展したもの。」

この明るいアリアは、少しゴヴァンにリラックスが必要だ。

「アルチーナの犠牲者が息を吹き返す、
合唱曲、『誰が助けてくれたのか』(CD3のTrack20.)
は、『La terra e' liberata』の中の、
ニンフのダフネが月桂樹になる変身の音楽が
基になっている。」

この曲も、たいへん印象的なものだが、
合唱の中から浮かび上がる、
犠牲者たち個々の声が魅力的である。

このように、他のキャラクターも魅力的だ、
と言いながら、たいした解説をしていないのが残念だが、
以下、初演時の話が続いている。

ここには、前にフレミングのCDの解説を読んだ時に、
書いてあった事と同様の事が書かれている。

前回、字数オーバーで掲載できなかったので、
それを、ここにくっつけてしまおう。
私には、この解説の最後の部分が、
ものすごく印象に残っていた。

「確かに、ヘンデルは、女性の主人公において、
これほどまで人間の弱さの深みに、
奥深くまで探究したことはなかった。
彼の親友ペンダーブス夫人は、
このことに、最初のリハーサルの時から、
よく気づいていた。
上述の手紙の中で、彼女は、
このように続けているのである。
『ヘンデルさんが、ハープシコードの前で、
自分のパートを演奏している間、
彼こそが、自身の魔法を操っている最中の、
魔法使いのように思わずにいられませんでした。』
それは作曲家の自画像であり、
悲劇的な女性版プロスペロー
(シェークスピアの『テンペスト』の主人公)であり、
芸術家は、その創造の中に自らをあまりにも投影し、
悪役のヒロインは最終的に我々の憐れみ、
我々の愛、我々の記憶を征服してしまい、
我々は、彼女に感謝すらしてしまうのである。」

このように、ヘンデルは、
主人公に自己投影することによって、
その存在感を圧倒的に真実味あるものにした。
いったい、ヘンデルの身の上に、
何があったのだろうか、などとすら、
考えさせられる内容だ。

このような深刻な状況で、
共感に満ちたタイトル・ロールを歌わせるとしたら、
よほど、信頼できる歌手でないと駄目そうだ。
「オルランド」のファリネッリように、
いい加減な感じの配役ではない。

もし、このような事を前提として考えるなら、
情熱ゆえに滅ぶアルチーナに対し、
ルッジェーロは何なのか、という事になる。
トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」のように、
ハンスやインゲのような健康な市井の人ということだろうか。
妙に考えさせられる内容である。

カーティスのCDの解説に戻って、
このオペラが初演時、
どのような賞賛やその他の反応を受けたかを、
紹介した部分を読んで見よう。

「ヘンデルの移り気な聴衆は、ある時、
他の公演の時にアンコールされた、
キューピッドを演じたサレのダンス中に、
シューっと言って不満の意を表した。
このオペラは批評家たちの賞賛を勝ち得た。
1735年5月8日には、
グルーブストリート・ジャーナルに載せられた詩では、
ヘンデルの音楽の魅力が、
魔女アルチーナの魅惑的な呪文に比較された。
7月5日(そのシーズンの最後の公演の3日後)には、
ユニバーサル・スペクテーターには、
道徳教育的な寓話として解釈され、
同時代人を魅了したかが書かれていた。
『アルチーナは若い情熱の暴力が、
理性の限界を超えさせることを教えてくれる。
友人の助言も、自身の追求が、
他人の苦しみになることも、
イメージの中の儚い喜びを追求する強情な若者を
止めることは出来ず、確実に、
猛烈な反省と遅すぎる後悔に導く。
アルチーナの美しさや浮気が、
すべての現世の喜びが短いことや、
到達するや失われることを示している。』」

このCD、全体の完成度も高く、録音も良い。
表紙写真も素敵で、言うことはなしのはずだが、
タイトルロールの情念の表出には、
他にも良い録音がある。

得られた事:「苦境のヘンデルに会心の一打を与えたのは、当時最先端の技術を駆使した新しい舞台芸術のあり方であった。」
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by franz310 | 2012-06-09 21:00 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その331

b0083728_15442585.jpg個人的経験:
ミンコフスキの指揮する、
ヘンデルの「アルチーナ」、
前回は前半しか聴けなかった。
前に見たハッカー指揮のものは、
DVD1枚であったが、
このDVDは、
バレエのシーンなども
収めているからであろう、
2枚組となっている。
単に長いだけではなく、
2枚目には、
Behind the Scenesという、
ボーナス・トラックがある。
その2枚目を聴く。


ここに掲載したのは裏表紙で、
モルガーナが、漂着者のブラダマンテたちを、
受け入れるシーンと、
ルッジェーロとアルチーナの幸福な日々が、
写真として載せられている。
ARTHAUSレーベルのもの。
サブタイトルにJapanはないが、
ちゃんと日本語字幕がついていた。

このDVDの舞台演出は、
ハッカー指揮の衝撃的なものではなく、
古風な衣装をまとって、
一見、ヘンデルの構想に近いものに見える。

が、鑑賞を始めてすぐに分かることだが、
ルッジェーロ救出の二人が、
気球で登場するなど、
ヘンデルが生きた時代とも異なり、
奇妙な感じがいっぱいであった。

そもそも、ヘンデルの構想では、
このオペラの舞台は、中世の魔法の島なのであるから、
こんなロココ風の衣装ではないはずなのである。

が、アルチーナ役のハルテロスなどは、
この衣装をつけて歌った事が、
とても良かったなどと、
例のボーナストラックでは語っていた。

このボーナス・トラックで、
ステージ・ディレクターの、
アドリアン・ノーブルが語っていることによると、
この舞台は、実在した貴族が催した、
余興における「アルチーナ」を、
現代に蘇らせたという設定になっているらしい。

しかし、この貴族が、実際に「アルチーナ」を、
上演したわけではないのがややこしい。
単純に、ノーブル氏の妄想の産物である。

何しろ、ヘンデルの「アルチーナ」は、
一応、ヒットはしたものの、
長らく忘却の淵に沈んだ作品なのである。

このあたりのことは、解説の、
アンドレアス・ラングが、
「デヴォンシャーの屋敷における劇」
という題で書いている。

いきなり、冒頭から、
カラヤンの名前が出て来たりして面食らうが、
これは、この公演が、
ヴィーン国立歌劇場で行われたものだからである。

「ヘルベルト・フォン・カラヤンは、
彼がヴィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた、
1956年から1964年までの間、
レパートリーが、
1760年以降に作曲された作品に限られ、
(確かに、その多くは、この建物にマッチしていたのだが)
数多くの傑作が意味もなく無視されていることに気づいた。
それゆえ、彼は、2つのバロック・オペラを、
演目に追加することに決めた。
クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペアの戴冠』と、
ジョージ・フリードリヒ・ヘンデルの
『ジューリオ・チェーザレ』である。
それから何十年かして、ドミニク・メイヤーが、
同じポストについた時、
彼も同様に、同様に無視されていた、
バロック・オペラの重要さに気づき、
いくつかの作品をヴィーン国立歌劇場の演目に追加した。
まさにその最初のシーズンに、
1735年にロンドンのコヴェントガーデンで初演された、
ヘンデルの『アルチーナ』を上演した。
2010年11月14日の最初の夜の成功は、
その決断が正しかった事を証明した。」

何十年かして、とあったが、
まさに、カラヤンの時代から半世紀が経過している。

「『アルチーナ』の素材は、アリオストの長大な叙事詩、
『オルランド・フリオーソ』の第6、第7歌から取られ、
知られざるリブレット作者によって、
もともとリッカルド・ブロスキのオペラ、
『アルチーナの島』のためのものであった。
この作品の初演時、ヘンデルは、
このイタリア語のリブレットを手にして、
オペラのプロデューサーとして、
たいへんな競争で格闘していた。
しかし、『アルチーナ』は、
作曲家が方針を変え、
一般的な喝采を得やすい『ブラブーラ』アリアなどを採用し、
音楽を単純にすることなく、
直接的な表現を用いたのにもかかわらず、
聴衆に対して、たいへんな成功を収めた。
オペラ中の個々の人物は、
生き生きとして情熱的で、
本当の感情を持った、
本物のキャラクターになっている。
ヘンデルは慎重に、
単純な使い古しを避け、
アルチーナを単なる魔女としなかったばかりか、
聴衆の同情を受けるに足る、
愛に絶望する人間として描いた。」

この解説では、こんな風に、
この作品の革新的な点をさらりと書いている。

「オルランド」において到達した前衛的な書法から、
「アルチーナ」では、一見、後退しているように見えるが、
実は、深化を遂げた作品である、
ということは、これまで読んで来た解説にも書かれていた。

が、このあたりの詳しい説明を、
ざくっと割り切って、この解説は、
むしろ、今回の新演出について書きたいようである。

「今回の新演出は、
イギリスの監督、アドリアン・ノーブルの、
ヴィーン国立歌劇場へのデビューを決定的なものにした。
ノーブルは何年も王立シェークスピア・カンパニーの監督を務め、
ニューヨーク・メトロポリタンや、
グラインドボーンやエクサンプロヴァンスなど、
世界中の有名オペラハウスで、
監督として成功していた。
彼は、『アルチーナ』を、
ロンドン・ピカデリーにあった
デヴォンシャーの屋敷の
巨大舞踏会場での出来事とした。
有名なデヴォンシャー公爵夫人、
ジョージアナ・キャヴェンディッシュは、
友人と共に、劇の上演を行っていた。
18世紀の英国貴族においては、
こうしたアマチュア上演はざらにあったので、
このような劇中劇のセッティングを取ることによって、
アドリアン・ノーブルは、歴史的に正確なものとした。
『大きな屋敷で』、とノーブルは、
リハーサルを始めるに当たり、こう言った。
『華美な娯楽が上演され、
そこでは、政治家や貴族自身が演じていた。
そこで、私は、18世紀のプリズムを通して、
アルチーナの物語を語ることを思いついた。
中心に、実在した、
間違いなく魅力的な、
デヴォンシャー公爵夫人を据えた。
彼女は当時の政治の中心にもいて、
恐ろしく金持ちであり、
複雑な感情の絡まりの中にいた。
だから、デヴォンシャー公爵夫人は、
友人たちと一緒になって、
金をばらまいて踊り手や音楽家を雇い、
アルチーナを演じた。』」

このように、私たちは、
この監督の妄想に付き合わされてしまうわけだ。

20世紀と言っても、戦争の世紀であった前半と、
バブル経済に突き進んだ後半では、
えらく違いがあるように、
18世紀と言っても、
ヘンデルの生きた前半と、
モーツァルトの同時代人で、
シューベルトの時代まで生きた、
デヴォンシャー公爵夫人の時代では、
かなり違うような気がするが。

戦前の白黒映画を、
カラーテレビで鑑賞するような感じだろうか。

とにかく、このデヴォンシャー公爵夫人は、
かなりスキャンダラスな人物ではあったようである。

「アドリアン・ノーブル演出の『アルチーナ』は、
バロック・オペラにおいて一般的な視覚効果を持ち、
トータルな劇場体験が出来るが、
さまざまな効果は、決して、それだけで終わるものではない。
それらはすべて、プロットから出て来たものであったり、
デヴォンシャー公爵夫人の娯楽に関するものである。」

ここに書かれているように、
「Synopsis」にも、
このデヴォンシャー公爵夫人が、
この舞台で、いかに重要な役割を演じているかが、
より、詳しく説明されている。
劇の中での関係を反映し、
下記のような構図になっているらしい。
「ロンドンのピカデリーにある、
デヴォンシャーの邸宅の大広間、
ジョージアナ・キャヴェンディッシュ、
デヴォンシャー公爵夫人は、
彼女の友人たちと劇を上演しようとしている。
彼女は、魔女アルチーナのタイトル・ロールを受け持ち、
配役を決めている。
彼女の妹のヘンリエッタ・フランスは、
アルチーナの妹のモルガーナを、
彼女の友人のエリザベス・フォスターは、
ルッジェーロを演じている。」

ここに出て来たエリザベス・フォスターは、
彼女の友人であると共に、実際には、
デヴォンシャー公の愛人でもあったようなので、
これは、かなりきな臭い演出である。

ジョージアナ・キャヴェンディッシュは、
比較的早く亡くなったので、
この人が、デヴォンシャー公の後妻となったようである。

「彼女の義妹のラヴィニア・ビンガムは、
ブラダマンテを演じ、
彼女の息子の
ウィリアム・ジョージ・スペンサー・キャヴェンディッシュは、
ハーティントン侯爵は、オベルトを、
彼女の愛人のチャールズ・アール・グレイは、
オロンテを演じている。」

このアール・グレイ伯爵は、実際に、
ジョージアナ・キャヴェンディッシュの愛人で、
二人の間には、子供もあったようである。

オロンテというのは、アルチーナが、
ルッジェーロに夢中になっているのを、
嫉妬する役柄なので、
かなり、真実味のある演技をしたはずである。

「英国の政治家のチャールズ・ジェイムズ・フォックスは、
メリッソを演じていて、
ジョージアナの夫の、デヴォンシャー公、
ウィリアム・キャヴェンディッシュは、
アストルフォを演じている。」

アストルフォは、ほとんど出番がなく、
単に、アルチーナに飽きられて、
獣にされてしまっている、元恋人の設定。
かなり、意地悪な配役である。

チャールズ・ジェイムズ・フォックスの考えに、
ジョージアナ・キャヴェンディッシュは、
共感していたと伝えられる。

ちなみに、水素を発見した人の名は、
キャヴェンディッシュだったそうだが、
それとこの上演で、
気球が出て来るのは、
何か関係がるのだろうか。

「2010年11月14日の、
この公演の初演では、ヴィーンの聴衆には、
さらなる新機軸が示された。
ここで、初めて演奏する音楽家も多数いた。
この新上演を指揮したのはマルク・ミンコフスキ。
1962年にフランスで生まれた、
『レジョンドゥヌール勲章』を受け、
ミンコフスキは、
様々な音楽分野の指揮者、音楽家として、
世界中から引っ張りだこであり、
特にヘンデルの解釈にすぐれ、
バロック音楽のスペシャリストとして名声を得ている。
オーストリアの新聞『Kurier』に、
ヘンデルへの特別の愛について尋ねられ、
彼は、こう答えている。
『私が彼の音楽を愛するのは、
その明晰さと純粋さにおいてです。
そして、それでいて、
驚くべき感情の幅を表現するという事実があります。
アルチーナはすべてが愛に関することです。
様々な形の愛です。
全員が誰かを愛しており、
それは、だいたい間違った人間です。
ヘンデルは、それを表現するべく、
超絶のアリアを書きましたが、
それらは独自の音楽的興奮を持っています。』
ヴィーン国立歌劇場での『アルチーナ』公演では、
ミンコフスキは、彼が20代の時に設立したアンサンブル、
ルーブル音楽隊を率い、
ヘンデルに初々しい生命を吹き込んだ。」

確かに、ミンコフスキは、ヘンデルのアリアとか、
カンタータなどの録音も多く受け持っていた。

「ミンコフスキと彼の楽団のみならず、
二人の声楽家がやはりそのヴィーン・デビューを果たしている。
ストックホルムで学んだメゾ・ソプラノ、
クリスティーナ・ハンマーシュトレームがブラダマンテを演じており、
アルゼンチンのソプラノ、
ヴェロニカ・カンヘミがモルガーナを演じた。
それに引き替え、
二人の主役、アルチーナとルッジェーロは、
ヴィーンの聴衆に長年おなじみの
暖かく迎えられている
オペラ・スターによって演じられた。
アニヤ・ハルテロスは、魔女アルチーナを演じ、
ヴァッセリーナ・カサロヴァが魔女の恋人である、
ルッジェーロを演じた。
テノールのベンジャミン・ブルンスと、
バス・バリトンのアダム・プラチャッカは、
ヴィーン国立歌劇場のアンサンブルの若いメンバーであり、
それぞれ、オロンテとメリッソを演じ、
独唱者のラインナップを固めた。」

ここは、各歌手についての概略であって、
一般には、別項として扱われるプロフィールである。

最後に、この公演の新聞レビューが紹介されている。

「このヴィーン国立歌劇場における、
最初の『アルチーナ』公演についての、
素晴らしいレビューの中から1つは、
お仕舞いに紹介する価値がある。
ドイツの新聞、『Die Welt』で、
ウルリヒ・ヴェインツェーリは、
このように書いている。
『ヴィーン国立歌劇場の監督、
メイヤーは大きなリスクを取ったが、
それは報いられた。
ヘンデルの『アルチーナ』の初演は、
聴衆に熱狂的に迎えられた。
それは勝利であった。
アドリアン・ノーブルは、
ロンドンの貴族の邸宅でこのオペラを、
アマチュアが演じたという趣向の、
彼のトリックによって、彼はその名前の期待に応えた。
これは豪華な衣装、優雅な大道具などにぴったりだった。
ドイツのソプラノ、アニヤ・ハルテロスの明晰な、
凝集した声と芸術的なフレージングには脱帽だ。
カサロヴァの魅惑的で曰わく言い難いルッジェーロは、
彼女のモーツァルト歌いとしての真価を発揮した。
しかし、アルチーナの妹を演じた、
ヴェロニカ・カンヘミのモルガーナと、
ブラダマンテ演じる、クリスティーナ・ハンマーシュトレームが、
良く知られたスターに、ぴったり張り合っているのは、
驚くべきことであった。
創設者のミンコフスキによって、
素晴らしく指揮されたルーブル音楽隊は、
編成こそ刈り込まれているが、
豊かなサウンドによってスコアに生命を吹き込み、
ステージ上の歌手たちに絡む時、
そのアリアもレチタティーボも、
まるで、声と楽器のデュエットのように聞こえたものである。」

DVDのボーナス・トラック、
「ビハインド・ザ・シーンズ」では、
歌手たちがコスチュームを着けずに、
練習していたりして楽しい。
彼女らの意見も聞ける。

今回の公演は、歴史的出来事のように感じる、
などと語っている
ハンマーシュトレームは美人で、
もっと出て来て欲しい。

カンヘミも、「アルチーナ」は素晴らしい作品で、
この公演に参加できて嬉しかったと、
素直に喜んでいる。

確かに聴衆の熱狂はすさまじいものがある。

また、冒頭から、監督のノーブル氏
(40代か50代だろうか)が登場、
「音楽とストーリーに合ったミザンセーヌの創出」
の重要性を説いているが、
Mise-en-scène はフランス語で、
演出に似た言葉であるが、
聴衆と音楽と繋ぐための活動のようなものらしい。

このミザンセーヌの1つの手段として、
彼は、デヴォンシャー公爵夫人の館を選んだ。
それによって、コロラトゥーラや娯楽の要素、
女性が男性を演じることなどを正当化したのである。

カサロヴァは、ミンコフスキを世界最高の指揮者の一人として、
彼の力によって、
ヘンデルの作品は単調になるのを防ぐことが出来た、
とまで言っている。
カサロヴァはこうした自然な服装でいる方が魅力的だ。

ルッジェーロの音域の広さは、とんでもなく、
モーツァルトやロッシーニの経験が、
たいへん役に立ったと言っている。

ハルテロスは、
アルチーナは計算ずくで共感を呼ばないが、
思い通りにならずに、狼狽する部分などは、
共感が出来るようなことを言っていて、
エロティックな要素を、
コルセットとつけた衣装や、
姿勢、動作によって強調されたので、
良かった、というようなことを言っている。

感覚的に、こうした衣装が音楽に合うと断言している。

こうした歌手たちに対して、
ノーブルも激賞していて、演劇的才能があること、
アリアがモノローグのような濃厚感を得るに至ったことを、
満足げに語っている。

前回は、「ああ、我が心」という、
クライマックスまで聴いている。

CD2のTrack4.シンフォニア。


Track5.このトラックは13分半の長いもの。
第3幕第1場である。
モルガーナとオロンテの痴話げんかのシーン。
モルガーナは、漂着したブラダマンテを、
若いハンサムな男性だと勘違いして、
恋人のオロンテに怒られている。

ノーブルの演出では、
ややこしいことに、
デヴォンシャー公爵夫人の恋人、アール・グレイ郷が、
公爵夫人の妹と、
やりあっているということになる。

まず、チェロの助奏も美しい、
モルガーナのしっとりした、
「許して」のアリア。
カンヘミの声は、弱音の部分も、
すっきりと通って泣かせる感じである。
チェロは、舞台上で演奏しており、
長大で親密な後奏を聴かせる。

このアリアの効果か、
オロンテの心はかなり揺れている。
アリア、「一瞬の幸せが過去の涙を忘れさせる」
というのが、オロンテによって歌われるが、
これは、ヘンデルらしい、
明晰でありながら、情感に満ちたものだ。
軽いアクセントが上品な推進力がある。

Track6.第3幕第2場。
ルッジェーロとアルチーナが鉢合わせするシーン。
ルッジェーロは、遂に、婚約者がいることを言ってしまう。

「義務と愛情と勇気」とか、
「名誉に目覚めた」とか言う会話が飛び交う。
アルチーナのアリア。
腰を振りながら、威勢良く、
「裏切り者」とルッジェーロを罵りつつ、
中間部では、戻って来てもいいのよ、
などとしなを作ったりもしてもいる。

Track7.第3幕第3場。
武装兵が島を包囲した、
という報告がメリッソから入って、
ルッジェーロは「洞窟の子連れのメス虎」の、
たとえのアリアを歌う。
包囲されたとしても戦うまでである。

カサロヴァは、魔法が解けたからであろうか、
ここでは、本来の自在さを取り戻している。
子供を救うか、血を求めるか、と二者択一を迫るもの。

これは、装飾音や音の跳躍を散りばめたもので、
カサロヴァが、ルッジェーロは、
たいへんな役だと言っていたのを思い出した。
大拍手である。

Track8.第3幕第4場。
ブラダマンテが、
「誠実に生きているものは」のアリアで、
この魔法の島を何とかしないといかん、
という歌を歌うが、歌いながら、
服を脱いで、女性の姿になっていく。

Track9.第3幕第5場。
オロンテが、アルチーナに、
ルッジェーロが兵士や獣たちを成敗して、
形勢不利だと報告に来る。
何とも、しょぼかったルッジェーロは、
さすが、英雄的な騎士だったのである。

「愛の当然の仕打ちです」とオロンテが言うのを、
アルチーナは呆然と聴いているが、
これは、デヴォンシャー公爵夫人が、
愛人のアール・グレイ郷から聞かされる言葉という設定。

彼女は、バロック時代の仕草で一人、ダンスをして、
「私にできることは気ままに泣くだけ」、
「天は耳を貸さない」という、
悲痛な歌を歌い上げる。

演出のノーブルが、ろうそくの光の効果を出したかった、
と書いたように、極めて絵画的な舞台になっている。
「石にでもなれれば苦悩は終わる」
などと言っている。
そして、召使いから酒瓶を受け取って、
何やら、そこに溶かし、飲もうとしている。

Track10.第3幕第6場。
明るい合唱がわき起こり、
草原から野獣が歩いて来る。
オベルトが、お父様が戻って来ると出て来る。
アルチーナが槍を持って来て、
野獣を殺せというが、
オベルトは、「これはお父様だ」と、
野獣を抱きしめ、
その前にお前を殺す、
とすごい勢いである。

勇敢なアリアに、
アルチーナもたじたじになっている。
彼等は、一緒に引き上げてしまうが、
すごい拍手がわき起こる。

この野獣に変えられたアストルフォは、
解説によると、これは、
ジョージアナが憎んでいた、
夫のデヴォンシャー公爵が演じたことになっていた。

子供のオベルトは、解説によると、
彼女の息子のウィリアム・ジョージだと言うことになっている。
こう読むと、「殺せ」、「いやだ」の台詞が、
何とも恐ろしい場面であったことが得心されよう。

Track11.第3幕第7場。
ブラダマンテを見て、アルチーナは、
ルッジェーロは死ぬ運命だという。
ルッジェーロはブラダマンテをかばって、
アルチーナを追い詰める三重唱となる。

デヴォンシャー公爵夫人の館だとすると、
夫人の前で、その友人と義理の妹が、
手を携えて歌っている構図になる。

Track12.第3幕第8場。22秒しかない。
何だろうか、オロンテがルッジェーロの前に跪いて、
いるが、ルッジェーロは、彼を許す。

Track13.第3幕第9場。13秒しかない。
ルッジェーロは魔法の壺を壊して、
みんなを釈放すると言うが、
アルチーナが飛び出して来る。

Track14.第3幕第10場。わずか4秒。
やれという意見とやめてという意見で沸き立つ。

Track15.第3幕第11場。
ルッジェーロはそれを叩き付けて壊す。
真っ暗になった舞台に、青空が広がり、
解放された人々が草原から帰ってくる。
アルチーナは、壊れた壺の破片を集め、
呆然とする中、
解放されたイケメンたちが、
半裸のダンスを踊り始める。

典雅なバレエが演じられる中、
アルチーナも立ち上がり、
円舞に加わっている。

そこで一緒に踊っているのが、
デヴォンシャー公爵が演じた設定の、
獣に変えられていたアストロフォである。
演出のノーブルは、ここでは、
デヴォンシャー夫人とその夫の和解を再現させて見せた、
ということであろうか。

「悪は善に変わる」という合唱がわき起こって、
壮大な大喝采がわき起こっている。
聴衆のハルテロスやミンコフスキに対する拍手は、
ものすごいものがある。

さて、今回、この演出の意図(ミザンセーヌ)も分かったので、
それを考えながら、最初の方を見直すと、
確かに、貴族の館の広間に、ろうそくが灯されていく、
という感じで幕が上がっており、
貴族の衣装を着た人たちが、その部屋に集い、
相談し、劇の服装に着替えて行くようなシーンが、
序曲の間に演じられていた。

得られた事:「ヴィーン国立歌劇場で公演された『アルチーナ』は、18世紀末にイギリスのデヴォンシャー公爵夫人が、自ら演じたという設定でのミザンセーヌ。」
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by franz310 | 2012-06-03 15:48 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その330

b0083728_18265313.jpg個人的経験:
これまで、ヘンデルのオペラ
「アルチーナ」を聴いて来たが、
フレミングやグレアム、
デッセイなどが共演したCDは、
映像がなかったし、
ハッカー指揮のDVDは、
映像はあっても演出が、
現代的でありすぎた。
もう少し穏やかななものは、
と思っていたら、
昨年、ミンコフスキのDVDが出た。
しかも、カサロヴァがルッジェーロを
受け持っていたりするし、
表紙写真からも期待が高まる。


恐らく、アルチーナの魔法の島であろう。
背景には美しい緑が広がり、
いかにも威厳ありそうなハルテロス演じる、
タイトルロールが、恋人ルッジェーロの肩に、
優雅に優しく、手をかけている。

このような状況であれば、
勇敢な騎士である割に意志の弱い、
ルッジェーロが、長逗留してもおかしくない。

実は、このDVD、解説を、
ドナ・レオンという、1942年生まれの、
アメリカの女流作家が書いている。

「ブルネッティ警視シリーズ」というのが代表作だそうで、
私は、同姓同名の別人かと考えたが、
ネット検索してみると、
メリーランド大学のユニバーシティ・カレッジや、
イタリアのヴィチェンツァで英文学を教えていたが、
バロック音楽などの研究執筆に専念しているとあった。
同じ人なのであろう。

そのせいか、読み慣れた、ヘンデルは1736年、
みたいな解説ではなく、いきなり、
プッチーニやシュトラウスと、
しかも、性的であるかどうかで比較されているのである。

「『アルチーナ』?、うん知ってるよ、
性的なやつじゃない?
しかし、考えて見ると、『蝶々夫人』にせよ、
『薔薇の騎士』にせよ、『ディドとエネアス』にせよ、
ほとんどのオペラがそうである。
これらのオペラでは、ありがちな虚構の中で、
性的な関わり合いがあって、
ひっついたり離れたりして、
年配の女性が若者に狂ったり、
男性のために身を引いたりしている。」

てな感じで、まるで、このヘンデルのオペラが、
20世紀の人気作と、変わらないような書きぶり。
が、下のように、このオペラ、ちょっと違うぞ、
という感じに導いて行く。

「『アルチーナ』はしかし、
たぶん、驚く人もいるだろうが、
いくつか、変わった点を持っていて、
これら3つの要素の変奏になっているのである。
まず第1に、彼女はそれほどのめり込んでいないのに、
確かに、深く別れに苦しみ、
魔法の島を統べる魔女の女王であるアルチーナは、
人間の恋人に飽き飽きすると、
彼等を岩や木や野獣に変えてしまい、
新しい恋人を探しに行く。
彼女が恋人たちに入れ込むのは、
明らかに単なる欲望のため、と感じられる。
愛は取引きの一部ではない。
オペラが始まると、しかし、アルチーナは、
深刻な感情に襲われている。
アルチーナは英雄ルッジェーロを心から愛していて、
しかも、彼の彼女への愛は、
もはや、確かではなさそうなのである。
恐ろしい対比だが、
魔女の方が人間的な感情の犠牲となっていて、
男の方は、愛してはいるようなのだが、
それは単に魔法の呪文によるものなのである。」

このような着眼点は、書き手が、
もう若くはない女流作家であるがゆえに、
これまた、私には痛い。

「マルシャリン同様、アルチーナは、
恋人よりも年配である。でも、どれだけ。
10歳?200歳?(彼女は魔女なのである。)
同様に、『そのとおり、私は彼女』と、
アルチーナは強くそれを意識していて、
マルシャリンとは違って、結果を受け入れることなく、
何も考えずに、日々を過ごして行こうとは考えていない。
真実の人間らしい愛が突然、海岸からやって来て、
アルチーナ最初のアリアの輝かしい幸福感は、
長くは続かず、アルチーナの感情の免疫システムは弱まり、
疑いと嫉妬の感染が始まる。」

このような分析的語り口も、
いかにも大学の先生風でアカデミックである、
と考えるべきか。

「多くのオペラ台本の弱々しいヒロインと違って、
彼女の魔法の力が、ある男性との失恋で、
封じられてしまったとはいえ、
アルチーナは愛に死するには強すぎた。
このようにありきたりな台本が明らかであるが、
オペラは登場人物たちに対する新しい見方を与える。
ヘンデルの『アルチーナ』はそうした好例である。
彼女の性的変遷は、若い男への偏愛は、
チョーサーのバースの女房に似ているが、
チョーサーにおいては、喜劇的人間的に扱われ、
女房を、アルチーナより、
もっと魅力的、好ましく見せている。
その女房は、まず欲望や結婚への願望に駆り立てられ、
その目的は幸福である。しかし、アルチーナでは、
愛の最大の犠牲者であるにもかかわらず、
悲劇的な喪失に向かっている。」

このチョーサーとは、「カンタベリー物語」のことであって、
そこには、5回も結婚した「バースの女房の物語」というのがある。

「性的に狂った年配の女が破滅する、
他の物語としては、お茶で誘うパイドラーの例がある。」

パイドラーは、ギリシア神話、テーセウスの妻である。
彼女は、テーセウスがアンティオペーに生ませた、
言うなれば義理の息子を愛して破滅する。

「男たちを波や枝に変えてしまう習慣があるという、
アルチーナの性的な罪は、
第2幕の最後のレチタティーボ・アコンパニャート、
『ああ、残酷なルッジェーロ』で最高潮に達するが、
ここで、彼女はすべてものが崩れ去って行くのを感じる。
彼女は悪魔の精を呼び、
彼女が、彼の愛情の衰えを感じて、
ルッジェーロの愛が続くことへの助けを求める。
彼女はそれ呼び寄せよう、呼び寄せようとし、
彼の愛が続くことを乞い求めるが、無駄である。」

これは、いろいろな魔物や道具類が並ぶ、
魔法の秘儀を行う地下室で、
アルチーナが、
「ルッジェーロはもはや私を愛していない」と叫び、
アーケロンの暗い岸辺より、
夜の娘たち、復讐の使いなどを召喚しようとするシーン。
続く、アリアも悲痛な美しさに満ちている。

「続くアリア、『青ざめた影よ、聴いているだろう』は、
彼女の黒い力は、彼女がそれを求めずには、
いられないことを知っていながら、
彼女の嘆願に耳を貸すことがないことを認めている。
力が失われてしまったことを受け入れながら、
彼女は、魔女の魔法の杖、『Verga』を取り出し、
今や、それを嫌い、すでに力ないことを理由に、
打ち壊すという。
今や、『Verga』は、第2の意味として、
男性器を表すことによって、
もはや女性が、
恋人をその気にさせることが出来ず、
その力がすでに尽きてしまった、
というシーンとなる。
オックス男爵や、
性の境を行き来するケルビーノである。
これはクリスマスパントマイムの悪戯のような、
女装版に見えないだろうか。
しかし、アルチーナは、
愛を失って凶暴化した、
単なる復讐の怪物ではない。
彼女は繊細な女性であり、
第1幕ではすでに、
ルッジェーロに対する彼女の力は、
色褪せ始めていることに気づき、
彼女は、
『もう、あなたの目にはかわいくも愛しくもない』。
弱まり続ける魅力の自覚が、
アルチーナは愛の残骸を喜んで受け入れる。
『もうあなたは、
私の愛を求めないでしょう』。」

このあたりの迫真性は、いったいヘンデルの、
どのような体験が背後にあってのものだろうか、
などと気になって仕方がない。

「第2幕においても、傷つけられた心を、
嘆く最中にあって、
アルチーナは突然、分別を取り戻し、
自分が結局、女王であることを悟る。
女王たるものが愛のために嘆くであろうか。
それはあり得ない。
恋人は戻るか、死ぬかしかない。
しかし、悲しげな『ダ・カーポ』によって、
印象的にそれが嘘であると鳴り響き、
真実は彼女から切り裂かれていく。
『裏切り者、こんなに愛しているのに』。」


「次の幕で、全てを失って、
彼女の信頼できる配下のオロンテも、
彼女がよくなることを願わなくなる。
諦観の中、アルチーナは、
『涙だけが私に残った』と受け入れる。
神もまた、彼女を支持することなく、
彼女の祈りに天も聴く耳を持たない。
『涙だけが残った』のである。
しかし、彼女の魔女の本性は残っており、
最後の三重唱で、彼女は、もう一つの試みをする。
すべての言葉は明白な嘘で、ルッジェーロを負かそうと、
愛情と敬意を込めて、
彼の恋人のブラダマンテにまずお世辞を言う。
ブラダマンテが、それを返した時、
彼女の魔女の本性が彼女を越えて、
苦痛と悩みが彼等に与えられるよう、
ルッジェーロとブラダマンテの繋がりを呪う。」

魔女のアルチーナが天に祈るというのも面白いが、
魔女の本性と、人間的な本性が、ぶ
つかり合っていると解釈されていることが面白い。

「ルッジェーロは彼女を拒み、
魔女の力の源である壺を壊す。
ここでの象徴性の可能性は説明するまでもないだろう。
世界は粉々に砕け、恋人たちへの呪文も解けて、
舞台上には、人間の形が見えて来る。
アルチーナと妹のモルガーナは、
彼女らの全面敗北を避けようとしない。
『私たちは負けた』と叫んで消え、
ルッジェーロとブラダマンテという、
人間の恋人たちのやり直しと喜びが舞台に残る。」

ドナ・レオン女史が書いた部分の解説は、
このように終わり、魔女の力の源についての解説も、
女性文学者ならではの説得力である。

さて、ここで、このDVDを見て、聴いて見よう。

といって、DVDを入れて気づいたのだが、
何と、ありがたい事に、このDVDにも日本語字幕があった。
しかも、ルーブル音楽隊の演奏ながら、
ヴィーンでの記録だとあって驚いた。

Track2.の序曲からミンコフスキ指揮の、
清潔でさっそうとした音楽が聴かれる。
Track3.は、その第2楽章であるが、
この小粋なリズム感は、何だろう。
どこかで聴いたような非現実性。
ここからは、第1幕、情景1となっている。

舞台上には、鬘をつけて正装し、
当時の風俗を反映した人々がたくさん参集している。

第3楽章になると、気球から降り立つ人もいる。
どうやら、彼等がブラダマンテとメリッソのようだ。

人がいっぱいいるのに、
この浜辺に辿り着いた、などと言っているのが不思議。

なお、気球の発明はヘンデルの死後、
モーツァルトの時代なので、
この演出の時代設定は、摩訶不思議である。

モルガーナは、アルチーナは「妹」だと言っている。
さっそく、男装したブラダマンテに見入り、
「笑っても、話しても、黙っていても、
あなたの気品ある顔立ちは」とアリアを歌いながら、
気球の重りを外して飛ばしてしまう。

この人が、バロックオペラで有名なカンヘミだという。

Track4.情景2で、いきなり雷鳴が轟き、
暗くなったかと思うと、表紙写真の草原が視界に開け、
お伴らのコーラスと共に、
草原を歩いてアルチーナとルッジェーロが現れる。
いかにも、幸福感溢れる夢の島にいることが分かる。
柔和な音楽である。

二人が手を取り合って腰掛けると、
楽しげなバレエが、
東洋風な衣装を着た男たちによって踊られる。
ここでは、アルチーナのバレエ音楽は、
恋人たちの牧歌的な日々の象徴として使われている。
ガヴォット、サラバンド、メヌエット、ガヴォットと、
ちょっとした管弦楽組曲で、
その間、恋人たちは寝転んだり、踊ったり、
シャンパンを飲んだりしている。

俄に日が陰ると、ブラダマンテたちがやって来る。
そして、客人を案内するように、
ルッジェーロに言付ける愛のアリアを歌う。
自分たちが愛し合った場所を案内せよとは、
ものすごく大胆な歌なのである。
ハルテロスという歌手が、
威厳と気品を保ちながらも、
極めて刺激的な愛撫を受けながら歌っている。
人気のカサロヴァが、すっかり腑抜け男になって、
陶酔的にいちゃついているのが不自然でおかしい。

Track5.情景3。
ここで、アルチーナは立ち去って行くが、
小姓のような感じで、
パジャマ姿であろうか、
子供のオベルトが出て来て、
父親のアストルフォを知らないか、
と尋ね、悲しげなアリアを歌う。

チェロとテオルボの伴奏が美しい。
この歌手は本当に子供で、
聖フロリアン少年合唱団のアロイス君だという。
とても純粋な声で切々たる思いが伝わる。

Track6.情景4.
メリッソが名声をどうするか、
ブラダマンテが恋人をどうするか、
と詰め寄ってもルッジェーロは、
すべてを拒絶する。
「キューピッドに誓って美しい人に尽くす」
というアリアで、せっかく探しに来た彼等を侮辱する。
ここで、カサロヴァらしい陰影豊かな声が聴ける。

Track7.情景5.は、
モルガーナを愛する家臣オロンテが、
いきなりブラダマンテに剣を抜くところ。
短く刈り上げた髪型が、
いかにも直情型の乱暴者の感じ。

Track8.情景6.は、
モルガーナが仲裁に入って、
ブラダマンテが「それは嫉妬というもの」という、
決然とした歌を歌って、モルガーナとの仲を仲裁する。
クリスティーナ・ハンマーシュトロームという歌手。

Track9.情景7。
しかし、モルガーナは、身分をわきまえて、
とむしろ、オロンテを嫌う発言をして去る。

Track10.情景8。
オロンテは同じ捨てられる者の運命として、
ルッジェーロに近づき、アルチーナの愛が覚めたら、
どうなるかを諭す。
オロンテは、「女を信じるだって?」というアリアで冷やかす。
この歌手は、ベンジャミン・ブルンスで、
さっそうと歌いきっている。

ルッジェーロは、かなり動揺している。

Track11.情景9。
ルッジェーロは、嫉妬を感じ、
アルチーナに突っかかっていく。
すると、アルチーナは、
「あなたの嫉妬は悲しいけれど、
まだ愛しているわ」と、口づけする。

Track12.情景10。
それでも疑うルッジェーロに対し、
いよいよ、ドナ・レオンが特筆した、
「私を愛さなくても、憎まないで」とか、
「もう、あなたの目にはかわいくも愛しくもない。
もうあなたは、私の愛を求めないでしょう」
と、寂しげな声を聴かせるアルチーナのアリアが始まる。

Track13.情景11。
ブラダマンテに向かって、
ルッジェーロは突っかかる。
Track14.情景12。
ブラダマンテは正体を明かそうとするが、
メリッソが引き留め、
ルッジェーロの方は、
ブラダマンテを冷やかすような歌を歌う。
何となく、エマニュエル・バッハみたいな音楽。

Track15.情景13。
ここで正体をばらしたらお仕舞いだと、
メリッソがブラダマンテをいさめていると、
まさしく、その危機を伝えに、
モルガーナが、駆け込んで来る。
Track16.情景14。
ここでは、ブラダマンテは、
自分が好きなのはモルガーナだと言って
その場を繕う。

モルガーナが喜びを歌い上げる軽妙なアリア。
オーケストラも活発に動いて、
「私の幸せは本物」と歌うカンヘミを盛り上げる。
ただし、今ひとつ、完成度に欠けるような気もする。
その間、どこから出て来たか、
紳士たちが背景を舞い踊っている。

Track17.第2幕、情景1。
「その眼差しが欲しい」と、ルッジェーロがいきなり歌い出す。
くよくよしている彼に、いかめしい音楽と共に、
メリッソが、師の教えを説きに来る。

真実の指輪をかざし、
ルッジェーロの指にはめてしまう。
恐ろしい事に、背景には、苦しむ男たちの姿が、
亡霊のように舞い踊っている。
ルッジェーロには、何か記憶が戻ったようである。

メリッソはさらに、ルッジェーロに、
師アトランテの言葉を告げると、
ルッジェーロには、ブラダマンテの愛が蘇る。

しかし、メリッソは、
あくまでアルチーナを愛しているふりをして、
狩りに行くと言って逃げろと忠告する。

さらに、曰く付きの怪しさのメリッソのアリア。
黒々とした色彩の伴奏に、いかめしい低音を響かせ、
「彼女の呻きや傷つけられた愛を考えて恐れよ」
とルッジェーロを追い詰める。
メリッソは、アダム・プラチェトカという人が歌っている。
「彼女のもとに戻って、慰め、
悲しませてはいけない」と、ごくまっとうな、
ごもっともな事を歌い上げている。

背景は満天の星空になっている。

Track18.情景2。
ブラダマンテとルッジェーロのレチタティーボで、
ルッジェーロはブラダマンテを、
彼女の兄弟だと考えて抱きしめる。
そして、ブラダマンテは、
自分は、ブラダマンテ本人だと打ち明ける。

すると、ルッジェーロはかえってうろたえ、
これはアルチーナの新しい魔法だと言って逃げる。

ブラダマンテはショックを受けて、
「残酷にも私を避けるの」と歌うが、
悲痛な中間部に、活発で超絶的な主部を持つ。

Track19.情景3。
どうしたら、真実と偽りが分かる、
と悩んでくよくよしたルッジェーロが、
技巧と叙情性を両立させた、美しいアリアを歌う。
カサロヴァは青い照明で、闇の中、
非現実的に浮かび上がっており、
ミンコフスキが、思い入れたっぷりの、
情感に富んだオーケストラを響かせ、
実に、見応えのあるワン・シーンになっている。

夜の草原を、アルチーナが歩みゆき、
二人の関係が、すでに後戻りできないような、
切なさをかき立ててくれる。

Track20.情景4。
アルチーナは、秘儀を執り行い、
ブラダマンテを亡き者にしようと天を仰ぐと、
怪しい煙が立ち上り、いかにもヤバい感じが盛り上がる。
そこに現れたのがモルガーナで、それを止めさせる。

この間、ルッジェーロは、もう、ブラダマンテを、
憎む必要はない、と口添えする。

Track21.情景5。
「彼は恋い焦がれて悩んでいる」という、
扇情的なヴァイオリン独奏の助奏を伴う、
アリアを歌う。
アルチーナには、
「彼は恋い焦がれているが、
それはあなたにではない」と、
ブラダマンテがルッジェーロの恋敵ではない、
ということを口添えする。
このあたりのカンヘミの歌唱は、自在さを増して、
非常に美しく感じられた。
これによって、ルッジェーロとアルチーナは、
再び抱き合うに至る。

Track22.情景6。
「以前と様子が違う」と訝しげなアルチーナに、
ルッジェーロは、「兵士の血が騒ぐ」と、
猟に行く許しを求める。

ここで、再び、アルチーナを抱きながら、
ルッジェーロが歌うアリアは、
リコーダ2本の助奏が印象的ながら、
ぐりぐりと推進力のある低音の効果も鮮やかで、
同時に残酷なものでもある。

「忠実を誓う」という情熱の後、
「でもあなたにではない」と添えている。
アルチーナは、何か難しい顔をしている。

Track23.情景7。
オベルトが、「父が見つからない」と、
今更のように飛び込んで来る。
アルチーナは適当な、
その場しのぎの言い訳をしたので、
オベルトは、元気になったアリアを歌う。
ボーイ・ソプラノの力強く澄んだ響きは印象的である。

まるっこくて女性的な顔立ちなので、
ソプラノにも見える。

Track24.情景8。
オロンテが飛び込んできて、
ルッジェーロ逃亡を告げると、
アルチーナは怒り狂って、
怒髪天を突くが、失神してしまう。
このぶっ倒れた状態で、
「おお、私の心よ、私は騙された」の、
大アリアが始まる。
「愛の神々」と呼びかけ、
「愛していたのに裏切られ見捨てられた」、
「神様どうして」と、魔女とは思えない、
苦悩に満ちた内容を繰り広げる。

アルチーナは、今度は座り込み、
やがて立ち上がって、苦悩を絞り出す。

ヘンデルの音楽は、繊細かつ情熱的で、
このアリアが、最近、よく歌われることが納得される。

「逃げるか死ぬか」という、
中間部の動きの激しい展開は、
それまでの苦悩が嘘みたいで迫力がある。
思わず、拍手してしまった人もいるくらいだが、
再び戻って来る主部のラメントは、
さらなる絶望感を感じさせる。

このあたりは、ドナ・レオンも、
「真実は彼女から切り裂かれていく」と書いて、
特筆した部分だ。
オーケストラもいっそう神経質な響きを散りばめ、
みごとに切迫感を盛り上げている。
チェロの独奏を強調して、すさまじい奈落を垣間見せる。

DVDの1枚目が、ここで終わって、
ブラヴォーがわき起こるのも意味があるのである。

情景9、10は省略したとある。

DVD2は、しかし、オーケストラの序曲で始まっていて、
どうやら、実際の上演
(2010年ヴィーン国立歌劇場)時も、
先の「私の命」を持って幕を降ろしたようである。

ブラダマンテが、オベルトを慰めるシーン。

Track2.第2幕情景12は、
ルッジェーロが現れて逃げる話をしている時に、
モルガーナがやって来て、
嘘つき呼ばわりする。

ルッジェーロのアリア。
「緑の草原」との別れを告げるもので、
ようやく、英雄らしい男らしい声を響かせる。
カサロヴァの真摯な声が楽しめる。
完全に、ブラダマンテとの仲を修復する部分。

Track3.第2幕第13場。
いよいよ、クライマックスとも呼べる、
アルチーナの魔法が効力を失うシーン。

ドナ・レオンは、解説で、
「アルチーナの性的な罪は、
第2幕の最後のレチタティーボ・アコンパニャート、
『ああ、残酷なルッジェーロ』で最高潮に達するが、
ここで、彼女はすべてものが崩れ去って行くのを感じる」と書いた。

その後のアリアで、彼女は壺を取り出し、
闇の力に様々な問いかけを行う。
次に、彼女は魔法のバトンを取り出し、
振りかざして歌い続ける。
これらは、解説者がよく書き込んだ象徴の道具である。

前回聴いた、クリスティのCDでも、
最後に、アルチーナは、魔法の杖を降ろしてしまう、
とト書きがある。

この演出(ステージ・ディレクター、
アドリアン・ノーブルとある。)
では、アルチーナはバトンを力なく、
放り投げている。

「見せかけの愛だった、でも私は愛している」、
「残酷なルッジェーロ」と怒り狂うアルチーナが、
いよいよ、秘儀を行って悪魔たちを招集する。
しかし、闇に問いかけても、それらは出て来ない。

この後、バレエ音楽が始まるので驚いた。
したがって、このトラックは16分にも及ぶ、
長いものとなっている。

ここでは、かなりバレエも象徴的に扱われ、
倒れたアルチーナを慰めるような、
全身タイツの怪しげな白装束が優雅に舞い踊る。
しかも、男性であるようだ。

乱暴なもの、活発なもの、神秘的なものなど、
ひっくるめて「Balletto」と表記されている。

その後、女性ダンサーが現れて、
アルチーナのバトンを持って踊り、
男性ダンサーを従えるが、
最後にそれをアルチーナに返却する。
しかし、アルチーナは、男性ダンサーに、
それを神妙に返すのである。

字数も尽きたので、今回は、ここまでの鑑賞とする。
第3幕は、次回楽しみたい。

得られた事:「錚々たる歌手陣を揃えた力作だが、『アルチーナ』のバレエ音楽による象徴性までを、十全に具現化した上演で、歌手だけを見ていてはいけない。」
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by franz310 | 2012-05-27 18:27 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その329

b0083728_151418.jpg個人的経験:
ヘンデルのオペラ「アルチーナ」の
CDのデザインは、二人の女性が、
恋人のように寄り添うものが多い。
これは、魔女アルチーナと、
その恋人、騎士ルッジェーロを演じるのが、
どちらも女性であるからだが、
「ロミオとジュリエット」のように、
デザインされているのは違和感がある。
何故なら、最後、ルッジェーロは、
自らの意志で別れて行くからである。


この3枚組CDでも、
人気歌手のフレミングとグレアムが、
非常に印象的なポーズを取っている。

ここに聴くCDの付録解説にも、
この二人の偽恋人については、
(with a false, inconstant love)などという、
あけすけな表現で語られている。

「同じ歌手たちのために書かれた
『アリオダンテ』同様、『アルチーナ』でも、
主要な5人の人物が登場するが、
彼等は、立派なバスに監視されていて、
1つの感情の鎖で繋がっている。
オロンテはモルガーナを愛し、
彼女はリッカルドを愛しているが、
実は、これは、ルッジェーロに捨てられた恋人、
ブラダマンテであり、
この人はルッジェーロを真実の愛で愛しており、
ルッジェーロは偽りの束の間の愛で、
アルチーナを愛している。」

というように、ルッジェーロの愛情は、
もともと不純だった、みたいな言いぐさである。
これでは、魔女とは言え、アルチーナがかわいそうだ。
確かに、ヘンデルは、むしろアルチーナの
味方のような音楽を書いているのだが。

「男と名誉の物語である『アリオダンテ』は、
悪のポリネッソの破滅によってハッピーエンドに至るが、
女と魔法の物語である『アルチーナ』には悪役はおらず、
すべての魔法の呪文が解けて終わる。
この場合、勝利の実感はなく、
ヒロインが消える時、
彼女と共に、彼女の狂気も、
彼女の美も、彼女の愛も、
彼女の痛みも、彼女の謎も、すべて消える。」

こんな痛々しい物語ゆえ、
このCDのようなラブラブの表紙写真は、
ある種の痛みを持って見るのが正しい。

そう考えると、アルチーナのフレミングは、
きっぱりと真実を見つめているが、
グレアムのルッジェーロは、夢想の中に佇んでいる。

この二人のみならず、ものすごい配役である。
パリ・オペラのライブで、拍手入りである。
1999年6月の録音で、
ラジオ・フランスが行っているが、
エラートがCD化したものである。

第1幕の冒頭から、いきなり歌を披露する
アルチーナの妹のモルガーナには、
ナタリー・デッセイが起用されている。

ラジオ・フランスなどが介入しなければ、
デッカのフレミング、ソニーのグレアム、
EMIのデッセイなどが一同に会することは、
困難だったかもしれない。

ちなみに新書館の「オペラ名歌手201」では、
グレアムの代表盤にこのCDが載せられている。
「特に『アルチーナ』は、
バロック・オペラの過剰な装飾をすべて排した
R・カーセンの大胆な演出が功を奏し、
W・クリスティの精緻を究めた指揮のもと、
グレアムの男役としての魅力が
いつになく鮮明な輪郭をもって
舞台に現出していた」と紹介されている。

このCDは、レザール・フロリサン結成20周年に、
ふさわしい名演とされてもいた。

冒頭、島に迷い込むブラダマンテは、
キャスリーン・クールマン、
一緒に現れるメリッソは、
ローラン・ナウリが担当。
解説にある写真で見る限り、
役柄にふさわしく、
細身ながら威厳のあるおっさんである。

クリスティー指揮のレザール・フロリサンの演奏は、
毎度のことながら、シルキーな軽やかさに満ち、
序曲からして、ヘンデルらしい骨太さよりも、
繊細で夢想的な雰囲気を醸し出している。
非常に上品な音楽である。
ヒロ・クロサキがリーダーを務めている。

また、合唱団が、別途用意されており、
時折、その豊かな響きを堪能できる。

また、前回、検討したバレエの音楽は、
ここでは、最後の最後、劇の余韻のような形で、
演奏されている。

では、解説を読み進めてみよう。
この解説は、登場人物ごとに、
初演時の歌手紹介を行い、
歌手と歌の関係が丁寧に語られている、
という特徴がある。

「『アルチーナ』をかなり書き進んでから、
ヘンデルは、知られざる詩人によって改作された、
題名のないリブレット
(これはもともと、1728年にファリネッリの兄、
リッカルド・ブロスキが作曲したもの)にはない、
7番目のキャラクターを書き加えた。
これは、魔女によってライオンに変えられた、
父親を助けに来た少年、オベルトである。」

このCDでは、ファニータ・ラスカーロという
ソプラノが歌っているが、
下記のように、少年の声を想定していたらしい。

「こうした奇妙なプロットへの、
追加の原因が考えられるとすれば、
オラトリオ『アタリア』でジョアスを歌って、
満場の喝采を浴びたばかりの、
まだ14歳の若いウィリアム・サベージを、
ヘンデルが発見したからに相違ない。
オベルトが表現する感情の幅は、
彼が示した可能性が、
『Chi m'insegna il caro padre?』の単純な嘆きから、
『Tra speme e timore』の勇敢さや、
『Barbara!』の怒りの噴出にまで至り、
これはステージ上の子どもの限界となる無邪気さを、
サベージが越えていたことを示唆する。」

このような、飛び入り参加は、
昨今の天才子役が、一度当たれば、
いろんな番組に登場するのに似ているので、
聴衆の方も楽しんだに相違ない。

単純な嘆きとされる
『Chi m'insegna il caro padre?』は、
CD1のTrack10.
「誰が、お父さんの居場所を教えてくれるの」で、
ラスカーロの声は、優しいお姉さんの感じ。
ネット画像検索で見ると、エキゾチックな美人である。
CDの解説書の写真からは分からなかったが。

『Tra speme e timore』は、
CD2のTrack14.
「鼓動は希望のため、恐れのため」で、
ラスカーロはそれなりに勇ましいが、
声が細いので、
父を捜す少年の胸の高ぶりというよりは、
少女のそれのようだ。

『Barbara!』は、CD3のTrack15.
「残酷な人だ」とアルチーナを罵るシーンであるが、
ちょっと優等生的で迫力はない。
ただし、すごい技巧が仕組んであるのを、
すいすいと進むのは爽快だ。

「アルチーナの『将軍』である、
オロンテは、元気の良い恋人で、
若いサベージより少し年上の、
ジョン・ビアードというテノールの声に、
ぴったりと合わされている。
やっかいな、『Semplicetto』や、
優しい『Un momento di contento』にも、
後に彼が、英国で最も有名なテノールとなる
片鱗が垣間見える。
ビアードの声を想定して、
ヘンデルは後にサムソンやベルシャザール、
イェフタの役柄を作曲した。」

この、少し性格の弱そうな役柄は、
ティモシー・ロビンソン

やっかいな、『Semplicetto』とあるが、
これは、CD1のTrack16.
「君は若くて分かっていない。
女を信用するなんて」と、
恋敵のルッジェーロをからかう歌。

ロビンソンは、爽やかな美声で、
まあ、いいんじゃないの、という感じ。
あまり、意地悪ないやらしさが出ていない。

優しい『Un momento di contento』
は、CD3のTrack5.

「一時の幸福は、本当に恋する人の
涙をも喜びに変える」と歌われ、
モルガーナの悲しみに同情する感じのもの。
ここでは、ロビンソンの優しい表現で良いのかもしれない。
典雅な伴奏が聴き所でもあろう。

「アルチーナの妹、モルガーナの役は、
1735年の時点で、もう一人の若い歌手、
ソプラノ、セシリア・ヤングに託された。
彼女は、2年後、作曲家のトーマス・アーンと結婚する。
彼女が、もはや彼の一座ではなかった時にも、
1740年代終わりまで、
ヘンデルの音楽の信頼すべき解釈者であり続けた。
バーニーによると、彼女は、
『美しい自然な声と素晴らしいトリル』に恵まれ、
『よく訓練されて、彼女の歌唱スタイルは、
同時代の英国の女性歌手を引き離していた』。」

なるほど、ここで、デッセイを起用しているのも、
肯ける程、初演時から期待されていた役柄であった。

「結果として、アルチーナは、いくつかの場面で、
そのパートナーのオロンテを、
輝かしさ(ヘンデルが1708年に書いた
カンタータを基にした、第1幕の花火のような声楽曲、
『Tornami a vagghegiar』は、彼の最も有名なアリアとなった。)
と、メランコリーの表現(優しい、物憂げな装飾と、
オブリガードのチェロを持つ『Credete al mio dolore』)
の両面で圧倒した。」

花火のような声楽曲と書かれた、
『Tornami a vagghegiar』は、
CD1のTrack22.で、
第1幕の終曲である。

単純で軽快な序奏は、まさか、そんな、
花火が上がるとは思えない展開であるが、
「早く来て、私を誘って」という情熱的なもので、
「私の真実の心は貴方を愛したくてたまらない」
みたいな内容で、軽快かつ敏捷なときめきが、
装飾を交えて歌われ、強烈なコロラトゥーラが聞こえる。

デッセイの歌は、澄んできれいであるが、
情念をかき立てるほどのものではない。
しかし、会場の大歓声はものすごいものがある。

オブリガードのチェロを持つ
『Credete al mio dolore』は、
CD3のTrack3.

これは、「ああ、あなたの怖い目、だけど、愛しい目、
あなたの愛に恋い焦がれています、思いやりを下さい」
と歌われるもので、胸苦しくなるようなアリア。

確かにチェロの効果が絶妙であるが、
ぱらぱらと鳴っているテオルボだか、
ハープシコードの音も切ない。

デッセイの声は迫力はないが、
ひたむきさが胸を打つ。
最後のコロラトゥーラの飛翔も、
あまりの悲しさに涙を誘うものがある。

次は、見るからに一癖ありそうな、
ローラン・ナウリ演じる、メリッソは、
やはり、特異な役柄であることが強調されている。

「バーニーは、バスのグスタブ・ワルツのスタイルを、
粗野で面白くないと感じたが、
これは、メリッソには1つしかアリアがないからであろう。
しかし、何というアリアであろう。
シチリアーノの『Pensa a chi geme D'amor piagata』は、
ホ短調で、理論家で一時、ヘンデルの同僚であった、
ヨハン・マッテゾンによると、
これは、『非常に物思いに耽り、深く、嘆くような、
悲しく、癒しへの希望』を感じさせるもので、
この幅広いフレーズのラルゲット・アンダンテには、
明らかに、単に『粗野な』ものを越えたものがある。」

この貴重なシチリアーノのアリア、
『Pensa a chi geme D'amor piagata』は、
真ん中の幕の最初で、
CD2のTrack4にある。

ここは、メリッソが、ルッジェーロの指に、
魔法を克服する指輪をはめるシーンである。
解説によると、かつて、アンジェリカが持っていたもの、
という注釈がある。
なるほど、こう書かれると、
「オルランド・フリオーソ」が原作であることが、
少し分かる。

指輪の効果によって、みるみる魔法が解けて、
部屋は荒涼たる荒れ地になる。

いかにも、それらしい雰囲気の序奏がついていて、
「傷ついた彼女を思ってやれ」と、
ブラダマンテのことを考えるように威嚇する。

確かに粗野なものではなく、
きわめて、感情に迫るように歌われるべきものである。
威厳のあるナウリの歌は期待に違わぬものである。

「『アリオダンテ』で、
悪役ポリネッソを演じた
ボローニャのコントラルト、
マリア・カテリーナ・ネグリは、
『アルチーナ』の『いい者』キャラ、
ブラダマンテを演じた。
ヘンデルは、性の反転という、
彼の嗜好をぞんぶんに活用している。
この拒絶された女性が、
オペラを通じて男性の兵士に扮しているのみならず、
トランペットと戦場の調である、
ニ長調の『E gelosia』や、
『Vorrei vendicarmi』の衝撃的な装飾は、
その婚約者で煮え切らないルッジェーロより、
ブラダマンテをいっそう男らしく見せている。」

クールマンの歌うブラダマンテ。
戦場風の『E gelosia』は、第1幕の中間部に当たり、
「それはジェラシー」よ、オロンテに、
「愛が強すぎるゆえ」と、モルガーナに歌いかけるもので、
CD1のTrack14.で聴くことが出来る。

ソプラノのよく通る声の中では、
すこしくすんだ色調のコントラルトであるゆえ、
いきなり声量に不足する感じもする。

衝撃的な装飾の『Vorrei vendicarmi』と書かれた、
「彼の不実な心に仕返ししたい」は、
CD2のTrack6.で聴ける。

クールマンの声は、どうも籠もった感じがして、
衝撃的な装飾に煌めきが少ないような気がする。

どうも、この時代のカストラートに張り合うような、
強烈な力感と声域の広さを夢想すると、
ちょっと、それほど衝撃的とも思えないのは困ったものだ。

さて、残るは、ヒロインとヒーローであるが、
この解説にあるように、同性として、
まことに恥ずかしくなるヒーローが、
このルッジェーロである。
人気のメゾ・ソプラノ、
スーザン・グレアムが歌っている。

「ルッジェーロに関して言えば、
このオペラの中で、アクティブな役回りでも、
ブラダマンテとアルチーナの感情の争奪戦に
捉えられている犠牲者でもなく、
そのヒロイズムだけで共感を得ることも不可能だ。
これはたぶん、バーニーによる、
当時、ファリネッリを除いては随一のカストラート、
(実際、アリオダンテの主役を務め、
ファリネッリと同格になった)
ジョヴァンニ・カレスティーニの予約で説明できよう。」

ということで、もともとは、
カストラート歌手のために書かれた役柄。
それなら、声が高いだけで性の倒錯はあまりない感じである。

「カレスティーニは、
生き生きとした創意豊かな
イマジネーションの才能に恵まれ、
ヘンデルに、第2幕の輝かしい
ホ長調のロンド、『Verdi Prati』を、
書き直すことを依頼した。
バーニーによると、作曲家は怒り狂って、
こう罵ったという。
『このとおりに歌わんとは、
あんたはわしがおぬし以上にわかっとらんと言うのか。
あんたがすっかりわしが書いたとおりに歌わんなら、
一銭も払わんからな。』
この逸話には、いささか当惑させられる。
確かに、ルッジェーロの役は、
特に、オベルトという人物の追加によって、
第1幕の壮麗な、『Bramo di trionfar』を奪われ、
『アリオダンテ』やアン王女結婚のための、
『パルナッソス山の婚礼』のような、
声の花火を楽しめるものではなかったが、
全オペラを通じて、ルッジェーロは、
沢山の喜びをもたらしていることは言うまでもなく、
ユーモア溢れる『Di te mi rido』や、
絶え間ないアクロバットを見せる『La boca vega』は、
簡単な役からほど遠く、
『Mi lusinga』は第2幕をこの幻影の島における、
決断も予期できない雰囲気で彩り、
粗野なホルンに勝ち誇ったアルペッジョによる、
『Sta nell'lrcana』は、バロックのベルカントの珠玉である。」

聴き所たくさんであるが、人気のカストラート歌手は、
これくらい働いて貰わないと困る感じか。

カレスティーニが書き直しを求めたとある、
第2幕のロンド、『Verdi Prati』は、その終わり近くで、
CD2のTrack20.で聴ける。

これは、このオペラの中では、
かなり詩情豊かなもので、
「緑の草原よ愛らしい木立よ、
お前たちもその美しさを失う」と歌われる。

超絶技巧を得意とする歌手には、
あまりに平易な表現でありすぎたのか。

先のオペラ「オルランド」でも、
草原から去って行くシーンがあったが、
ここも、その焼き直しみたいなもの。
これもまた、牧歌的な情緒に、
惜別の情が込み上げる美しい詩的な音楽であるのだが。

ユーモア溢れる『Di te mi rido』は、
第1幕のもので、CD1のTrack12.
ブラダマンテに向かって、
「君のおろかさに腹が立つ」と歌うもの。

ユーモア溢れるというには、
ここでのグレアムの歌は優等生的で、
あまり腹立たしく思っている感じがしない。

絶え間ないアクロバットを見せるという、
『La boca vega』もまた、第1幕のもので、
さすが人気者で何度も出て来る。
CD1のTrack20.で、
「彼女の愛らしい口元と黒い瞳」とある。

愛らしく凝った前奏に続き、
ブラダマンテは男装した女性であることを
知らずに歌う小唄。
グレアムもまた、男役にしては、
ちょっと非力な感じがしなくもない。

魔法の島の雰囲気を彩っているという、『Mi lusinga』
第2幕の最初の方で、CD2のTrack8.で聴ける。
「私の優しい感情が私を呪文にかけ」と、
確かに無責任な無力感いっぱいである。

これまた、名手カレスティーニが歌ったら、
もっと桃源郷に誘うような、
超俗的な響きが現出したであろうもの。
グレアムの歌は、悪くはないが、
現実に舞台上で歌っている感じに収まっている。

バロック時代のベルカントの珠玉と激賞された
『Sta nell'lrcana』は第3幕、
CD3のTrack9.にある。
ブラダマンテに、「ヒルカニアの石のねぐらでは、
怒り狂ったメスの虎が潜んでいて、
逃げるかハンターを待つかを考えている」
と、解放的に勇敢に歌うもの。

オーケストラもまた技巧的で、
パッセージの交錯、ホルンの雄叫びと、
非常に多彩なものである。

グレアムは、このような背景に、
安定した技巧を効かせながら、
素晴らしい推進力で聴く者を黙らせる。

さて、最後にタイトルロールである。
さすがにヘンデルは、ここには、
忠臣を配備している。

「1729年、キングズシアターのために、
ヘンデルに採用されたソプラノの
アンナ・ストラーダ・デル・ポーは、
ロンバルディア人であった。
1733年にポルポラと、
プリンス・オブ・ウェールズが、
彼の劇場と歌手たちを『サクソン人』から奪った後も、
ヘンデルに忠実だった、ただ一人の歌手であった。
その尊敬や見返りとして、
我々は、恐らく、彼女を、
『アルチーナ』のタイトル・ロール
として考えるべきであろう。」

下記のように魔女役が当たり役というのも、
どうかと思うのだが、激しい感情移入が出来たのであろう。

「いかなる時も、彼女の持ち役であった。
ヘンデルの魔女は、
『リナルド』のアルミーダ、
『テーゼオ』のメデア、
『アマディージ』の素晴らしいメリッサさえ、
ヘンデルの魔女は、悲鳴と憎悪でスパイスされていた。
『アルチーナ』は、
第3幕のある一瞬を除いて、
怒りに負けることがないが、
この『Ma quando tornerai』ですら、
恐ろしさより哀れさを感じさせる。」

ということで、ここでは、ストラーダにとっても、
新境地開拓のための試金石となったわけだ。
ここまで、歌手の特性を理解しながら、
さらに、その隠れた可能性までを引き出すような活動を、
シューベルトのようなロマン派の作曲家はしていたかどうか。

「キルケの孫であるアルチーナは、
倦怠感のある魔女である。
彼女は、あまりの快楽だけ、
ということは不毛であると自覚し、
彼女が征服せざるをえない男たちに退屈し、
自らの呪文にくたびれ、
彼女は自分の島にうんざりしている。」

この設定も、私には少なくとも、
かなり時代を超越したものに感じる。

「彼女の登場のアリア『Di,cor mio』から、
我々は、この魔女は、もはや、
気まぐれな恋人をコントロールできないことを感じる。
『美女と野獣』の物語のように、
(しかしあべこべであるが)
もし、ルッジェーロが真実の愛を宣言すれば、
彼女の杖は打ち砕かれ、
彼女の中の『女性』が『魔女』に対し、
勝利したであろう。
世界にあるすべての呪文は、
『Ah! mio cor』や、
『Ombre pallide』や、
『Mi restano le lagtime』
のようなアリアと、
比べられるレベルにあるだろうか。」

ヘンデルは、このかわいい協力者に、
これでもかこれでもかと花を持たせた感じであろうか。

登場のアリア『Di,cor mio』は、
CD1のTrack8.で、
「愛しい人よ、言ってあげて、
どんなに私があなたを愛しているかを」と歌われる。

このアリアは印象的なもので、
素晴らしく優雅な前奏に続いて、
優しげな歌が歌われるが、
前回見たDVDでは、
アルチーナはルッジェーロと、
抱き合いながら歌っていたものだ。

確かに、魔女が歌うには、
どこか儚げな気配があり、
諦念のようなものが満ちている。
フレミングは、格調高い歌を聴かせる。

『Ah! mio cor』は、
主人公が恋人を失うことを予感する
このオペラの最大の聴かせどころで、
全曲の中心に要のように置かれた、
12分42秒の大作。

CD2のTrack16.においてフレミングの絶唱が聴ける。
感情の綾を、様々な音色で聴かせ、
深々とした低音も豊かに、
心のこもった、没入感のある表現。
中間部では、「私は魔女よ」と急速になるが、
ここでも、破綻なくアクロバットを制している。
動悸の高鳴るオーケストラの繊細さも、特筆に値する。

他にも、魔術的なレベルに達しているものとして上げられた、
『Ombre pallide』は、同じく第2幕を締めくくるもの。
CD2のTrack22.で聴ける。

これは、ト書きによると、
「魔法を執り行う地下の部屋で、
いろんな人影や道具が見える」というシーンで歌われる。

魑魅魍魎がうごめくような前奏からして、
非常に怪しい雰囲気が出ている。

ルッジェーロの裏切りを嘆くもので、
「私の声が聞こえないの、何故、何故」と、
歌われるもの。
オーケストラの切迫した雰囲気も相まって、
フレミングの歌には、情念のようなものも、
見え隠れしていて好ましい。

『Mi restano le lagtime』は、
第3幕CD3のTrack13.にある。
オロンテとアルチーナの会話の中で出て来る。
「涙だけが私には残っている。
魂の全てを賭けて祈ります。」

切ない感じは前奏からしてみなぎっていて、
8分を越える長さで、ひたすら、
ラメントが繰り広げられる。

フレミングのような表現力勝負の歌い手には、
こうした、部分で聴衆を惹き付け、
圧倒することが期待される。

このような聴き方をして、
今回、特に痛感させられたのは、
当時のオペラにおいては、歌手によって出番の数が決まり、
それに応じてアリアが作られるので、
それに応じてドラマの進行が影響を受けるということである。
こんな作り方は、少なくとも、
ベートーヴェンやシューベルトにはなさそうだ。

今回、独唱の部分を中心に聴いてしまったが、
第3幕の最後(CD3のTrack17.)の、
ルッジェーロ、アルチーナ、ブラダマンテの三重唱の美しさや、
CD3のTrack19.のコーロの精妙さなども、
特筆しておく必要があろう。

上品な音楽を奏でる指揮のクリスティーに倣って、
どろどろ感は犠牲になっているものの、
総じて格調が高い演奏となっている。

得られた事:「ヘンデルには、まず活躍させたい歌手がいて、彼等の美点を見せつけ、彼等の力量を最大限発揮させるような曲付けを最優先に行った。」
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by franz310 | 2012-05-20 15:07 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その328

b0083728_222549100.jpg個人的経験:
ヘンデルのオペラ、
「アルチーナ」を聴いている。
前回は、およそ2/3しか
聴くことが出来なかった。
今回は、残りを聴くが、
それは、無言劇のような、
管弦楽の組曲から始まる。
人の声を必要としない楽曲を、
多く含むオペラであることは、
このCDからも知られていた。


「ヘンデル:『アルチーナ』~バレエのための音楽」
と題されたもので、ガーディナーが、
イングリッシュ・バロック・ソロイスツと録音したもの。

表紙デザインは、古代ギリシア風の男女が踊るもので、
中世に題材を取った、アルチーナとは関係なさそうだ。
他に、「テレプシコラー」や、「忠実な羊飼い」といった、
ヘンデルのオペラから取られたバレエ音楽が、
それぞれ5トラック分、8トラック分入っている。

このデザインは、古代ギリシアに題材を求めた、
これらに由来するものかもしれない。

佐藤章氏の解説によると、
「テレプシコラー」は、「忠実な羊飼い」が、
1734年に再演された時に加えた、
「フランス風のオペラ・バレエの様式による序幕」
だということである。

テレプシコラーは、ゼウスの娘である、
9人のミューズの一人で「舞踊と合唱の女神」だという。
Track16から20の5曲は、
プレリュードとシャコンヌという、
比較的長い優美な楽曲に、
(これがフランス風序曲なのだという)
荘重なサラバンド、
軽快に跳躍するようなジーグ、
粗暴、豪快なエア、
バッロという短い曲集からなる。
このように、ちょっとした、「管弦楽組曲」である。
ただし、終曲は、主にフルートのための楽曲となっている。

また、Track21以下は、
解説によると、「フランス風序曲」に続けて演奏されたとある、
「忠実な羊飼い」から、「ア・テンポ・ディ・ブーレー」など、
計10分強の舞曲集が並んでいる。

これらも、もともと、1712年にヘンデルが書いて、
ロンドンで上演していたオペラを、
何と22年も経って1734年に再演した時に、
付け足したバレエ音楽だということだ。

Track23のミュゼットが、
2分40秒で長めであるが、
この曲は、不思議なドローン効果もあって、
エキゾチックな、あるいは神話的な雰囲気が目立つ。

他の曲は、1分に満たないものも多く、
完全に踊りの伴奏のような感じ。

このガーディナーのCD、
1984年3月に、ロンドンで録音されたものだが、
サウンド・エンジニアとして、
後に、OPUS111を設立する、
ヨランタ・スクラの名前が挙げられている。

RVC株式会社から出された日本盤は、
前述のように、佐藤章氏が解説を書いているが、
もっぱら、何故、これらの管弦楽舞曲集が書かれたか、
という歴史的背景の記述に傾注している。

タイトルも、「舞姫マリー・サレとヘンデル」とあり、
いかにフランス人がバレエ好きであるかや、
18世紀に、肉体の躍動を表現したバレエ改革が、
どのように起こったかなど、詳しく説明してくれている。

マリー・サレ(1707-56)は、
「徹底した衣装改革をすすめ、
1729年には仮面をつけずに踊って
センセーションを捲き起こした」人と書かれている。
これまでの重い衣装の装飾的舞踏から、
踏み出した改革者なのである。

パリの生まれながら、
ヘンデルの作品には10歳の時から
出演していたとあり、
ここに収められた作品は、
すべて、彼女のために書かれた作品だとも、
書かれている。

このような資料的価値を求めた録音ゆえか、
あまり、オペラ「アルチーナ」の鑑賞に役立つものでもない。
やはり、情念をみなぎらせた、
人間の声の可能性追求があってこそ、
このオペラは輝くのだということが、
かえって痛感させられる。

このバレエ音楽の録音があった時代、
ヘンデルのオペラ全曲のレコードやCDなどを企画することは、
非常に困難だったに相違ない。
ヨランタ・スコラのような人は、
こんな状況を打破したくて、
自ら会社を立ち上げたのではないか、
などと考えてしまうCDである。

もちろん、Track1~3の充実した序曲に続いて、
12曲、約20分もの親しみやすい管弦楽曲が聴けるのは、
第2の「水上の音楽」が現れたような感じがしないでもないが、
やはり、「アルチーナ」と言えば、
「ああ、我が心よ」のような、
アリアの深い感情表現を期待したくなるではないか。

一応、Track4のト短調のバッロなど、
この調性から言っても、錯綜した感じからしても、
この悲劇の雰囲気を、かろうじて伝えてはいる。

しかし、Track5のメヌエットや、
Track6のガヴォットは、
一転して晴朗なもので、
「水上の音楽」を想起させ、
「アルチーナ」的では全くない。

以上は、第1幕からの舞曲だという。

Track7の第3幕冒頭のシンフォニアや、
Track8のアントレは、
DVDの上演でも演奏されて、
その劇的な雰囲気が、「アルチーナ」の世界を示すものだ。
Track9の太鼓連打付きの、
タンブランは、取ってつけた感じだが、
しかし、まあ、以上3曲はこれでまとまった感じはする。

解説によると、残りの6曲は、
本来、「アルチーナ」のための楽曲ではないという。
これでは、これらの組曲を持って、
「アルチーナ」を語れないのは当然であった。

Track10以下のの「夢のアントレ」シリーズは、
「アリオダンテ」のための舞曲集で、
「アルチーナ」第2幕の終わりの音楽として使われたとある。

「心地よい夢」、「不吉な夢」、「おびえた心地よい夢」、
そして、「不吉な夢と心地よい夢の争い」を表した、
これら4曲は、ハッカー指揮のDVDでも聴けたもの。
これらも、同じコンセプトで、なかなかまとまりが良い。

最後のTrack14、15の「モール人のアントレ」と、
「ロンド」は、完全に「アリオダンテ」の音楽で、
「アルチーナ」とは無関係だという。
一応、同様の楽曲として、続けて聴くのに不自然さはない。

録音もよく、ガーディナーの指揮も上品ではあるが、
やはり、突き抜ける声の饗宴がないという、
いじいじしたもどかしさが残るCDである。

さて、先に触れた4曲の「夢のアントレ」は、
ハッカー指揮のDVDにあったので、
ここから、再度、ARTHAUSのDVD鑑賞に移ろう。

Track46~Track50.
前述のように、これらの部分に歌はなく、
パントマイムのように訳者が静かに演技している。
ただし、本来のバレエではない。

優しい音楽と共に、
背景の額縁の中から、ルッジェーロと、
ブラダマンテのカップルが現れる。
Track47.
アルチーナの絶望のような音楽が激しく続く。
何となく優柔不断なルッジェーロの指に、
ブラダマンテは指輪をはめる。
Track48.
音楽は急速になる。
すると、ブラダマンテは、花嫁の衣装になり、
無理矢理、メリッソに挙式させられてしまう感じ。
Track49.
典雅な舞曲になる。
記念写真のように、全登場人物が額縁に納まる。
Track50.
雄渾な楽想になるが、舞台上は何やらヤバい気配。
このあたり全部、パントマイム風の演出で、
メリッソに好き勝手されているうちに、
何と、ルッジェーロは、頭から血を流して死んでしまう。
音楽はめまぐるしく変化するもの。

「夜が更けると、夢の世界が、
ます、希望を、そして恐怖が、
主人公たちを捉える。
しかし、お仕舞いには、
ルッジェーロもまた、近づいて来る戦争の犠牲となる、
ということが明らかになる。」

第3幕.
Track51.
またまた、切迫した音楽。
モルガーナは、ブラダマンテ(リッカルド)が
残していった服を手にして嘆いている。

Track52.
「オロンテはモルガーナの愚かさを嘲り、
彼女は昔の関係の安全に逃げる。」
何と、モルガーナは、オロンテに詫びている。

Track53.
ここで魅力的な音色を響かせる低音の弦楽器はガンバだろうか。
モルガーナが、「私に憐れみをかけて下さい」と歌う。
彼女は、ブラダマンテの残して行った服をくしゃくしゃにしている。
再び、オロンテに心が戻ったということであろうか。
いくら縛っても、はみ出してしまうのを、オロンテが手を添える。
なかなか憎い演出である。

Track54、55.
オロンテの仲直りのレチタティーボとアリア。
安らぎと温かさに満ちた音楽。

Track56.
出て行こうとするルッジェーロとアルチーナが出くわす。
「他の女のところへ」とアルチーナが言うのに、
ルッジェーロは、「僕の婚約者だ」と叫ぶ。
アルチーナは、泣き崩れそうに、
「それなら私のことは忘れてしまえるのね」と答える。
魔女どころか、かわいい女である。
「栄光」や「名誉」をルッジェーロは口にする。

Track57.
「恩知らず」と罵る、
アルチーナの怒りのアリアであるが、
音楽は、軽妙な感じで、
ルッジェーロよりも、アルチーナの方に分がある事を、
ヘンデルは示唆しているように見える。

「一度愛したゆえに、憐憫が起こる」
「仲直りしない」という
という切実な中間部を経て、
再度、最初の軽妙な音楽が始まる。
ルッジェーロも、頭を抱える始末である。
超絶の高音を放って、
アルチーナは思いの丈をぶつける。

Track58.
舞台上にホルン奏者が現れ、ホルンを高らかに鳴らす。
ルッジェーロのアリアは、
ルッジェーロが戦士に戻る様子を表したものであろうか。
歌いながら、ブーツを履いて、彼の心は決まったようである。
中間部、虎の親子の逸話が出て来るところに、
彼の心の揺らぎがある。
ものすごく長いアリアで、
アルチーナはその間、出たり入ったりして、
いろいろ考えているが、
6分半も歌い続けている。

「アルチーナとは違って、ルッジェーロは、
起こっていることにお構いなしである。
激怒し、恋情も覚めると、彼の自立性のなさに、
アルチーナは彼を去らせ、
それでお仕舞いにすることを保証する。
ルッジェーロは、もう戻ることは出来ないと気づき、
彼の唯一の道は戦場に行くことだと悟る。」

Track59.
アルチーナのアリア。
ルッジェーロを失うと共に、
自らの半生を振り返る感じ。
悲しみを切々とたたえたもので、
「Mi restano le lagrime」とあるように、
嫋々たるラクリメという風情。
中間部は、少し、諦念があって、
雲の隙間から射す光のような感じで美しい。
これは、すごく芸術性の高いものだと感じた。
「絶望して、アルチーナは、その愛情から一歩置く」
と解説にある部分である。

この後、アルチーナの後ろを、
大きな男が歩いて通り過ぎるが、
これは、オベルト少年の父親である。

Track60.
「すべての悲しみが喜びに変わる」とか言って、
オベルト少年が入って来ると、
アルチーナは、またも裏切られるとか言って、
拳銃を少年に渡し、あの男(野獣)を撃てと命じる。
しかし、少年は、アルチーナの方に銃を向ける。

Track61.
オベルト少年のアリアで、あれは、アルチーナに、
野獣に変えられた父の姿だと分かっている、と歌い上げる。
大男は、アルチーナを押さえつけるが、
少年は、アルチーナへの恩も感じたか、
銃を捨て、魔女に抱きついて、父親と出て行く。

「オベルトの父親は、アルチーナの宮殿に行く道を発見し、
息子の助けを受けて、彼女に依存させられた事に対し、
復讐を果たす。」

Track62.
追い打ちをかけるように、
ルッジェーロとブラダマンテのカップルが、
幸せそうに現れる。
「もう嘘を聴いては駄目よ」と言うが、
アルチーナは「嘘ではなく、同情で予言だ」という。
アルチーナは、ルッジェーロの死を確実視している。

Track63.
幸せそうにしているカップルに忠告するアルチーナを、
ブラダマンテとルッジェーロが二人してはねつける三重唱。
楽想は楽しげであるが、考えさせられる状況である。
中間部では、悲しい運命を暗示するかのように、
影が差すのだが。
ダカーポ形式で、再び繰り返される楽しげな楽想は、
かえって、人間の運命をあざ笑うかのように響く。
人間は、それでも頑なに思うがままに生きたがるものなのである。

「夢は現実となって行く。
ブラダマンテがルッジェーロの花嫁として現れると、
ルッジェーロの運命を警告し、
そして、彼の死を防ごうとする、
アルチーナの絶望的な試みも、
卑しい動機によるものとみなされる。
事実、アルチーナは悪意なしに、
カップルに言祝ぎ、無私の心配をするのだが、
それらは理解されない。」

Track64.
ルッジェーロは、アルチーナを撃って、
気の毒な人を解放すると宣言する。
メリッソは、早くやれというが、
入って来たモルガーナが、やめてくれと嘆願する。

「不釣り合いな恋人たち、
アルチーナとルッジェーロ、
モルガーナとブラダマンテが、
お互いと会う最後の時。
メリッソが、ぐずぐずするルッジェーロをせき立てる」
とあらすじにある部分。
あらすじは、これで終わっている。

何と、まさかの展開で、
お構いなしに、メリッソが直接、手を下す。
「これが最後」とアルチーナは息絶える。

Track65.
野獣だったオベルト少年の父親も加わって、
「闇の恐怖から自由を救ってくれた」という、
歓喜の合唱が、全員の口からわき起こる。
しかし、これは、何という、後味の悪い歓喜の歌であろう。
何だかくすんだ色調で、まるで楽しげではない。
ヘンデルは、何という音楽を書いたことだろう。

Track66.
音楽は軽やかな舞曲となり、
みんながそこらのがらくたを拾い上げては、
品定めをしているうちに、
アルチーナは、彼等の後ろを悠然と歩き回り、
高みの見物をしている。

Track67.
急速な舞曲調の合唱。
「最後には愛が勝つ」という、
野卑なまでの音楽。
アルチーナは、覚めた目で、
彼等の愛の様子を見つめている。
それで、いきなり真っ暗になって終わり。

アルチーナの愛の方が、洗練された愛ではなかったか。
彼女の何がいけなかったのか、
よく分からないといったエンディングである。

このように、非常に悩ましい心理描写に
重きを置いたオペラではあるが、
前述のように、バレエ音楽が重要な位置を占めていたことは、
例えば、他の「アルチーナ」のCD解説にも書かれている。

たとえば、Ivan A.Alexandreという人が書いた解説には、
こんな事が書かれている。
なお、この解説が収められたCDについては、
次回、取り上げる予定である。

「『何故、ハリー、私はお前を敵と呼ばなければならん、
最も親しい、愛すべき敵よ?』
(シェークスピア『ヘンリー四世』第一部)。
英国の王様は、自分の息子、
プリンス・オブ・ウェールズに、
こう尋ねたが、まるで、これは永遠に続くかのようだ。
15世紀であろうと、18世紀であろうと、
(もっと最近でさえも)しばしば、
英国は伝統的に王位の強奪を繰り返し、
それが、君臨する君主に対する当惑にも敬意にもなった。
ジョージ二世とその長男フレデリックもまた、
例外ではなかった。」

このような皇室の争いが、何故、
「アルチーナ」と関係があるのだろう、
と考えてしまうところだが、
これが、非常にありありというのが面白い。
しかも、バレエに関する記述も、
非常に自然に登場するので、乞うご期待である。

「しかし、1730年代からは、
その権威を笑い飛ばすフォルスタッフはおらず、
以来、洗練された作法とイタリア・オペラの時代となり、
皇室の口論は、劇場にて演じられることとなった。
1732年、若いプリンス・オブ・ウェールズ、
フレデリックは、新しいオペラ団を支援して、
父親に反抗した。
ジョージ二世がパトロンをして、
ヘンデルが10年以上監督を務めていた、
キングス・シアターのオペラ団を
浸食することを意図して組織されたものだった。
『我々のオペラは沢山の不和の種を抱えています』
とヘンデルの友人、
メアリー・ペンダーブスは、
ジョナサン・スウィフトに書き送っている。
『男性も女性も、深く関係していて、
下院の中でも討論は冷ややかなものでした。』
新しいオペラ団は、貴族オペラと呼ばれ、
流行の先端を行くものや、最新のものを狙っていた。
そこでのスターは、
新イタリア派の二人の技巧家、
ナポリの作曲家ニコラ・ポルポラや、
若いカストラート、ファリネッリで、
彼等は、すぐにヨーロッパの
ギャラント・スタイルを生み出した。」

ここでも、ファリネッリやポルポラである。
ヴィヴァルディが、ナポリ派の彼等にひどい目にあって、
ぞくぞくと対抗策を考えていたのを思い出す。
「バヤゼット」が演奏されたのが1735年、
まさしく同時期の話であることが分かる。

「バヤゼット」でどのような手を使ったかは、
かつて、このブログでも取り上げたことがあった。

「貴族オペラは、その創設時、1733年に、
小さなリンカーンズ・イン・フィールド劇場で
活動を始めた。
すぐさま翌シーズンでは、
ヘンデルから、オーケストラや、
多くの歌手たちを奪い取る形で、
キングズ・シアターに移ることに成功した。
ロンドン到着以来、
1711年の『リナルド』での勝利以来、
ヘンデルは、始めて、自分の劇場を失った。」

ということで、南ではヴィヴァルディが、
北ではヘンデルが、同時期に、この連中に、
苦渋を飲まされたことになる。
今では、ポルポラはほとんど演奏曲目に上がらないので、
完全に悪役みたいな感じになる。

ヴィヴァルディは、最終的に敗退した感じもあるが、
ヘンデルは良く留まり、逆に駆逐する形になる。

「しかし、彼が新しい劇場を見つけるには時を要さず、
ウェストミンスター教会の僧たちの
埋葬地の近くではあったが、
コヴェントガーデンであった。
1732年12月7日、
コンブレーヴェの劇でオープンした、
コヴェントガーデンは、
ロンドンにおける最新で最大の劇場であった。
その創設者でオーナーは、
その名前にふさわしくジョン・リッチと言った。
リッチは、まだ比較的若かったが、
彼の前の劇場において、1728年、
有名な『乞食オペラ』で一儲けしていた。
興行師の息子であり、義父でもあったリッチは、
生来の劇場の人であった。
彼は劇場を情熱的に愛し、
贅沢なスペクタクルを敬愛した。」

このように、ナポリ派との壮絶な緊張関係が、
ヘンデルが新しい境地を模索するきっかけになったのである。
アルチーナにバレエ音楽が多い理由はここにあった。

「従って、ヘンデルが、1734年11月、
この新しい建物に移ると、
豪華なセットや最新の機械、
(キングズ・シアターでは、
独唱者たちが演じなければならなかった)
小さな合唱団を用意し、
さらに有名なバレリーナ、マリー・サレたちの一団から、
最近、パリから到着したダンサーの一団を呼んだ。
ヘンデルは、『忠実な羊飼い』の再演と、
新作の『クレタのアリアンナ』に
バレエをつけることからから始めた。」

ということで、冒頭のガーディナーの
CD解説に書かれていたような所まで来た。

「すべて自作から取られた、
パスティッチョの『オレステ』が続き、
特にコヴェントガーデン用に作曲した、
最初の作品、『アリオダンテ』が最後に来た。」

このアリオダンテもまた、
「オルランド」関連のオペラだということだ。

「『アリオダンテ』最後の舞台と、
オラトリオシーズンまでの間、
おそらく、1735年の2月か3月に、
彼の13番目のイタリアオペラ、
『アルチーナ』の作曲が始まった。
1735年4月8日、スコアが完成、
1週間後、16日水曜日に、
『アルチーナ』はコヴェントガーデンで初演された。
12日には、マリー・ペンダーブスは、
嬉しそうに詳述している。
『昨日の朝、私と妹は、ドネラン夫人と、
”アルチーナ”の最初のリハーサルを聴きに、
ヘンデルさんの家に行きました。
私は、それが、彼が書いたものの中で、
最高のものと思いましたが、
あまりにも何度もそう思ったので、
それをきっぱり”最高のもの”と言うより、
”あまりにも素晴らしいので、それを言い表せない”
と言うべきでしょう。』
それはともかくとして、
貴族オペラなどとの危険な競争が、
作曲家を、壮麗であると共に、
すぐに成功を収める作品の作曲に駆り立てたのである。」

ヘンデルの生涯を見ていると、
こうしたピンチをチャンスに変える点が多く、
音楽家でなくとも、学ぶべき点が多い。

「7月2日、ライヴァルの一座が、
シーズンを終わって一ヶ月も経って、
『アルチーナ』は、18回目の公演を行っていた。
当時としては特筆すべき公演数であった。
1736年から37年のシーズンにも、
さらに5回の演奏がなされたが同様に好評だった。
それから、新しい領域を開拓した作曲家が書いた、
全ての他のイタリアオペラ同様、
貴族とオペラ・セリアの世界は、
ブルジョワとオラトリオの世界に取って代わられた。
『アルチーナ』は、2世紀にわたる忘却に沈んだ。
舞台にかける費用はなく、
魔法にかけられた場所も、
魔法の庭も、不吉な洞窟も、
回転して人に変わる岩も、
変化するシーンは、セットや機械式のアクションや、
魔法の力と共に、
『リナルド』や『テッセオ』や『アマディジ』など、
最初のロンドンでの成功の、
想い出の中のだけものだった。」

このように、ファリネッリたちも、
英国でのイタリア・オペラ熱の消失と共に
消え去ることになるが、ヘンデルの場合、
「メサイア」などに代表される、
オラトリオの世界で、
再び脚光を浴びることになることは有名な話。

その前に、この「アルチーナ」の解説に
書いてあることを続けておこう。

「リブレットは、全ての騎士ロマンスの中でも
最も有名な、『オルランド・フリオーソ』をもととした、
最後のものとなったが、
これによって、傑作三部作が完成した。
キングズシアターのための『オルランド』(1733)に、
新しい劇場のための『アリオダンテ』が続いた。
一方で、タイトルのヒロイン名は、
『アマディージ』の英雄を愛し、
彼に征服された凶暴な魔女、
メリッサの子孫にも見え、
また、男らしい『アリオダンテ』
(これらは同じ歌手のために書かれた)
の女性版とも見える。」

この後、この解説は、「アルチーナ」の
各配役について書かれた部分が続く。
ヴィヴァルディも「バヤゼット」において、
自身が集めた厳選された歌手たちを起用したが、
ヘンデルも同様に、このオペラでは、
多くの信用できる歌手たちを活用したようである。

さて、文字数も尽きた。
今回は、このあたりで終わりにする。

得られた事:「ヴィヴァルディは、ナポリ派オペラに対抗して、曲中に敵と同じものを取り込んで対抗したが、ヘンデルは、同様の状況で、フランスのバレエを取り入れて新機軸とした。」
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by franz310 | 2012-05-12 22:27 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その327

b0083728_19522080.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディのオペラ
「オルランド・フリオーソ」を
基準とするならば、
ヘンデルが書いた、
魔女が出て来ないオペラ、
「オルランド」などは、
変わり種に思えてしまう。

さらに、ヘンデルの場合、
オルランド物語の
重要な脇役であるべき、
魔女アルチーナは、
オルランドの物語とは別に、
単独でオペラ「アルチーナ」
として作曲されている。


前回、ヘンデルのオペラ「オルランド」(1733)は、
ダカーポ・アリアといった伝統的な手法から離れて、
実験的な試みを盛り込みすぎて、
失敗したというような話を読んだばかり。

が、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」(1735)の方は、
ダカーポ・アリアてんこ盛りみたいな解説を読んで、
のけ反りそうになってしまった。

「オルランド」より後の作品なのに、
退化しているようなイメージを持ってしまうではないか。

Robert Carsenといった人の書いた、
このオペラの解説を読むと、
こんな風に書かれていて、
いっそう混乱するのである。

「ディレクター的見地からすれば、
その生き生きとした心理的発展性ゆえに、
ヘンデルのオペラは、常にやりがいのあるものだ。
アリアの連続、アンサンブルの欠如といった、
構成から登場人物がどうなって行くかに焦点を当て、
効果を出すことが出来る。
A部に続き、短いB部が来て、再度A部が来る、
ダカーポ・アリアが、登場人物の心理を探索するのに、
高度に効果的で劇的な音楽形式かもしれないのは、
驚くべきことである。」

こんな風に、一本調子と思われたダカーポ・アリアが、
実は、全然、無味乾燥なものではない、
むしろ、「高度にドラマティック」などと書かれている。
そんな論調で始まっている。

「ヘンデルの『アルチーナ』には、25曲以上の、
ダカーポ・アリアがあるが、
ほとんどがダカーポ・アリアのオペラを聴くと、
登場人物を描くのにそれだけ時間をかけるという、
簡単な理由から、しばしば、理解がはかどる。
事実、『アルチーナ』の多くのアリアは、
5分以上を要し、それらの中でも、
『ああ、わが心』では、12分以上の時間を要する。
プッチーニの『ラ・ボエーム』2幕の最後ですら、
たかだか16分であることを思い出しても良いだろう。」

「オルランド」の解説者が、
ヘンデルは、そういった慣習的なものに反抗して偉かった、
みたいな語調だったのとは大違いである。

「いかなるヘンデル作品においても、
指揮者も歌手も音楽の中や、
その回りを飾る装飾の見せかけに騙されず、
感情のランドスケープを探索しなければならない。
行動を進めるレチタティーボに、
その行動に対する感情の反応を展開するアリアが続く
という連続パターンは、コンスタントに、
持ちつ持たれつで進化していく。
『アルチーナ』においては、
ほとんどのヘンデルのオペラ同様、
愛が基本要素であって、
それが登場人物と絡み合っている。
(オロンテは、アルチーナが好きな
リッカルド(ブラダマンテ)を愛する
モルガーナを慕っている。)
アクションがほとんどなく、
最初は戸惑うのだが、
登場人物の感情の要求を理解するに連れ、
どんどん、豊かに、満ち足りたものとなる。」

こんな感じで、ダカーポ・アリアの連続としての、
ヘンデルのオペラ「アルチーナ」を見ていこう。

ARTHAUSのDVDで、
表紙の色遣いがおどろおどろしく、
いかにも怪しい雰囲気たっぷりの写真が採用されているが、
この写真で顔を背けていては、中はとても
見ちゃおれんという代物。

ヨッシ・ヴィーラーと、セルジョ・モラビートという人が、
ステージ・ディレクターとして名を連ねている。
指揮はアラン・ハッカーで、
シュトゥットガルト州立管弦楽団の演奏。
1999年の公演記録である。

このDVD、解説部に署名がないが、
表紙裏に、先に、ステージ・ディレクターとして紹介した、
Sergio Morabitoという人が、あらすじを書いたとある。
舞台を受け持った人が書いているのだから、
ぴったりこの上演に沿った記述なのであろう。

かなり、野心的な演出ゆえ、原作と一致しているか気になるが、
これに沿ってDVDも見て、聴いていくことにする。

そもそも、3幕のオペラのはずが、解説では、
Part1、Part2の二部構成として書かれている。

Part1.
序曲と第1幕:
Track1~3.
序曲からして、この豊饒な音楽は魅力的だ。
三部からなるもので、小さな交響曲。
録音もすっきりとして素晴らしい。

アラン・ハッカーという指揮者は、
もじゃもじゃ頭に眼鏡のシューベルト風。
指揮姿も、ちょこちょことして、
神経を通わせている感じが、
これまたシューベルトを想起させる。

序曲の途中から、黒ずくめの、
スーツ姿の怪しげな二人組が、
不気味に荒れ果てた部屋の中に入って来る。

電灯や蛍光灯などが大写しにされるように、
現代のボロい家の中に入って来た感じ。

Track4、5.
「見知らぬ二人は道に迷い、
二人のうち若い方に興味を持ったモルガーナが、
彼女の姉、アルチーナの宮廷近くに上陸したのだと説明する。」

道に迷ったのではなく、難破した模様。
日本語字幕付きなので助かる。

これは戦士さん、とか呼びかけているが、
先に書いたように、ビジネスマン風である。
一方は明らかに女性であるが、
二人して黒縁眼鏡もかけている。

モルガーナも、薄っぺらなワンピースを着て、
場末のパブにでも、いそうな出で立ちである。
いや、買い物中に主婦だろうか。

いきなり、じゃれ合いが始まって、
笑顔も話し方も惹き付けるわ、
と、モルガーナが歌い出す。

Track6.
「何人かが集まって来て、
二人の来訪者が、この『地上の楽園』を訪れた事を歓迎し、
二人は、メリッソとリッカルドだと自己紹介する。
アルチーナは丁重にもてなし、
恋人のルッジェーロに、
お互いの愛の深さを告げるように求める。」

何人かが増えて、
「ここは快楽の国」という合唱が歌われる中、
アルチーナとルッジェーロが抱き合いながら現れる。

Track7.
このあたり、完全にラブシーンで、
舞台が気になって、音楽が良く分からない。
この恋人たちは、ねっとりと接吻しながら、
歌を歌っているのである。
ものすごい演出である。

アルチーナ役のキャサリン・ネーグルスタッドは、
1965年、アメリカ西海岸生まれのソプラノで、
DVDの表紙写真では、狂乱の風体だが、
ここでは、すらりとした美人である。

ルッジェーロは、
アリス・コーテという女性歌手が演じているが、
おもちゃにされるイケメン風を演じきって素晴らしい。

Track8.
「どんなに私が愛したか教えてあげなさい」
という、陶酔的なアリアを、
脱げたハイヒールを持ってアルチーナが歌う。

ルッジェーロは浮気者の本領発揮で、
誰にでもすりよりながら、その歌を聴いている。

やがて、見ちゃおれん、と言いたくなる、
寝転びながらの愛欲愛撫歌唱に移行するが、
この無理な体勢でも、ネーゲルスタッドは、
澄んだ声で、愛の喜びに満ちたアリアを歌い続けている。

Track9.
アルチーナが行ってしまうと、
レチタティーボが始まる。
「まだ年端もいかぬオベルトが
メリッソとリッカルドに、
彼の父親の行方を知らないか
という希望を持って近づくが、
甲斐はない。」

Track10.
オベルトのアリアである。
さっきどやどやと入って来た人たちの一人。

これまた、少年役だが、
クラウディア・マーンケという女性が演じている。
この人の歌唱も、破綻なくしっかりしたもので、
ヘンデルのオペラの豊饒感にマッチしている。

背景では、様々な愛欲模様が繰り広げられている。

Track11.
「二人がルッジェーロとだけになるや、
彼等は元戦友だと気づく。
リッカルドはすぐに、双子の妹のブラダマンテの
名誉を守ろうとするが、ルッジェーロは、
今や、アルチーナの虜である。
彼はかつて、リッカルドの妹と婚約していたのだが。
ルッジェーロにとって、過去との決別は、変更できないものだった。」

ルッジェーロは、ブラダマンテが変装しているのに、
リッカルドに似ているな、などと言っている。

Track12.
「モルガーナといちゃついたことによって、
リッカルドは、彼女のフィアンセである
オロンテの嫉妬をかき立てる。」

ということで、さっきのどやどやの一人は、
このオロンテだったわけである。

「彼は、競争者と決闘しようとするが、
モルガーナは、彼等の間に入り、
オロンテとは別れたいという自身の意志をはっきりさせる。」

「あなたを守ります」とモルガーナが立ちふさがるが、
何とも、暴力的な恋人で、
オロンテは、いきなり彼女を殴る。

Track13.
またまたゴージャスな音楽が始まり、
ブラダマンテが、「それは嫉妬というもの」という、
アリアを歌い始める。
いかにも、ダカーポ・アリアで、
前半、冷静だったブラダマンテは、
後半はいきなり服を脱ぎ出す狂乱ぶり。
それを、メリッソが止めている。

その間、この暴力で解決したがる、
先の二人は乱闘している。

Track14.
どうやら、彼等は身分が違うようで、
モルガーナは、「身分をわきまえよ」とか、
「貞淑をわきまえるかは、欲望が決める」とか、
すごいフレーズで、オロンテを棄てようとしている。

Track15.
オロンテは、同じように嫉妬している
ルッジェーロを掴まえ、
いろいろと入れ知恵をしている。

「リッカルドの脅しを受け、これを最後にと対決しようと、
オロンテはルッジェーロに向かって、
アルチーナはすでにリッカルドと関係を持っていると告げ、
さらに、アルチーナの過去にも触れる。
彼は、棄てられた恋人のコレクションは、
彼女によって、野生の動物に変えられてしまうと言い、
同時にルッジェーロこそ、次の犠牲者であると暗示する。」

Track16.
音楽が活気付き、オロンテのアリア。
ロルフ・ロメイという歌手は、部屋中のものに、
八つ当たりしながら、情けない嫉妬のアリアを歌う。

ここでも、この恋の犠牲者は服を脱ぎだして、
長髪をかきむしり、パンツ姿で寝そべって赤面もの。

Track17.
何と、ブラダマンテ(リッカルド)は、男装のまま、
アルチーナと宮殿を散歩しながら、仲良くしている。
「リッカルドのあいまいな言動は、
オロンテのほのめかしを裏付けるように見える。
アルチーナはしかし、ルッジェーロの嫉妬の爆発に、
当惑させられる。」
アルチーナの服装は、ちら見せ系である。

Track18.
アルチーナのアリア。ガンバの簡素な伴奏。
「私は変わらないのに、あなたの目に変わって見えるなら、
愛さなくなっても、私を憎まないでおくれ」とへんてこなもの。

ががーっと音楽が盛り上がり、
このへんてこな恋人たちの感情を高ぶらせる。
ものすごい効果だ。

ブラダマンテは、自分の婚約者と、
アルチーナがよりを戻そうとしている様子を、
一部始終見ている。

Track19.
ルッジェーロは、ブラダマンテをライヴァル扱いし、
怒ったブラダマンテは、下記のような行動を取る。

「この時点で、リッカルドは、ルッジェーロに、
実は、彼は、双子の妹のブラダマンテであって、
離ればなれになったルッジェーロを探し、
連れ戻すために男に変装していると言って、
自分の正体を明かそうと考える。
メリッソは、そんなに早まった
正体明かしをしないよう忠告する。」

Track20.
ルッジェーロのアリア。鮮やかな序奏。
ブラダマンテが男装しているのに、分からずに、
アルチーナが、裏切ったと騒ぎ立てる。
がらくたの中から銃を取りだし、
ブラダマンテに突きつける始末。
しかも、ネクタイとベルトを外して、
ぐるぐる巻きにしてしまう。

「ルッジェーロは、もはやアルチーナは、
信用できないと知って絶望し、
彼がライヴァルだと考えたリッカルドに向かって、
攻撃を加える。」

Track21.
メリッソが、ブラダマンテの軽々しい言動を叱る。
すると、モルガーナが、恋人よ、と助けてくれる様子。
まことにややこしい。

ここで、彼等の関係をまとめると、下記のような感じ。
     (ラブラブ)
アルチーナ ←→ ルッジェーロ
↑(姉妹)      ↑(婚約者)
↓          ↓
モルガーナ → ブラダマンテ扮するリッカルド
   (何となくラブラブ)

Track22.
モルガーナがブラダマンテ扮するリッカルドを思って、
初々しい思いを告げるアリアで、まことに華やかな音楽。

以上で第1幕は終わりである。

第2幕:
Track23.
アルチーナが、振り向いてくれないので、
悶々と悩むルッジェーロのアリア。

「彼は、アルチーナの元に飛び込み、
リッカルドを野獣に変えて欲しいと頼む。
モルガーナしか、今や、ブラダマンテを救うことは出来ない。
ブラダマンテは仕方なく、表向き、
男の愛情表現で、男性の人格を演ずる。」
というシーンはどこにあったのか。

Track24.
メリッソとルッジェーロの言い争いの部分。
「ブラダマンテの仲間のメリッソは、
自分の目的を遂行するのに忙しい。
彼抜きでは、差し迫った戦争で、民を守れないゆえに、
ルッジェーロに対し、戦士に戻って欲しいと望んでいる。
それゆえ、彼は、弟子として叱責できるように、
ルッジェーロの師匠であるアトランテを装う。」

Track25.
ルッジェーロのアリアの中で、
下記のような出来事が起こる。
「ルッジェーロは愛を棄てることが出来ず、
メリッソは、彼の指に、
内部の強さを断ち切る特別な力のある指輪をはめる。」

Track26.
ここで、ルッジェーロは、ブラダマンテのところに戻る、
とか言い出している。
「それによって、メリッソは、
ブラダマンテが気にしている、
ルッジェーロの不安定な良心に、
揺さぶりをかけることが出来るようになる。
彼は、こうしたモラル上のプレッシャーが、
再度、彼を戦士に戻すであろうと期待している。」

Track27.
このような状況下で、メリッソがバスで歌うアリア。
ミカエル・エベッケという歌手が、
マフィアのボスのような出で立ちで歌い。
ルッジェーロはがらくたの中から武器を探し出す。
ヘンデルの音楽は厳かに居丈高なもの。

Track28.
ブラダマンテが来て、正体を明かすと、
ルッジェーロは、アルチーナの罠だと感じ、
ピストルを撃つ。

「メリッソは、ブラダマンテが、
アルチーナの王国に来ていることも、
どんな危険にさらされているかも言わなかったので、
ブラダマンテがルッジェーロの目の前に現れても、
もはや、どう考えるべきかも分からない。
彼は、彼女を、彼の愛を試すために
変装したアルチーナだと信じる。」

Track29.
ブラダマンテのアリア。
混乱の極致の中で、彼の心は何とかならんものか、
みたいな内容である。
ルッジェーロがピストルを向ける中、
「いくらでも奪って行くがいい」と、
ブラダマンテはシャツをはだけて見せる。
これも、そうした中間部を持って、
冒頭のいらだたしい感じの音楽が戻って来る。

ヘレーネ・シュナイダーマンという歌手だが、
渾身の熱演である。アメリカ出身の歌手らしいが、
ずっとドイツで活躍している人だという。

Track30、31.
ルッジェーロは混乱し、
すぐに、悩ましい心を歌い上げるアリアが続く。
「ルッジェーロは一人、自分が、
自身のアイデンティティも目的も失っていることに気づく。」
情感豊かなヘンデルらしい音楽。

ブラダマンテの幻影が、背景を流れて行く様子が切ない。
これは名場面かもしれない。

以上が、あらすじではPart1となっている。

Part2.
Track32.
アルチーナの恰好は、ますます、
色情狂的になっている。
裸足で、食べ物の皿を、倒れているブラダマンテに押しやる。

「ルッジェーロとの関係を修復するため、
アルチーナは最後に、
リッカルドを野獣に変えることに同意する。
しかし、今になって、ルッジェーロは、
こうした事を進んですることが、
十分、彼女の不貞の恐れを払いのけたと説明する。」
モルガーナが、リッカルドへの思いを白状し、
姉に、この人を助けて欲しいと言う。
アルチーナはリッカルド(実はブラダマンテ)に、
これ以上、何もしないと決める。」

Track33.
美しいヴァイオリンの助奏付きの、
モルガーナのアリア。
技巧性や情感の豊かさから、
これは、ほとんどヴィヴァルディ風ですらある。
アルチーナはブラダマンテにちょっかいを出している。

Track34.
ルッジェーロが浮かない顔をしているので、
アルチーナは、悲しげに話しかける。
「メリッソの指示に続いて、ルッジェーロは、
アルチーナに狩りに行く許可を求める。」

Track35.
今度はリコーダ助奏付きのアリア。
ルッジェーロが、「崇拝する女性には貞節を誓う」と言いつつ、
「(しかし、それはあなたにではない)」と付け加える、
恐ろしい内容を歌うが、それにふさわしく、
不気味に黒々とした音楽である。
恐るべしヘンデル。愛の不条理を、ここまでえぐり出して。

素晴らしいリュートの弾奏を経て、
寝そべっているアルチーナにルッジェーロは跪いて抱き起こす。
ブラダマンテは、床に転がっていたホルンを持って、
一緒に狩りに行くということか。

「彼の情熱的な愛の宣言は、彼女の不安を十分に鎮めるが、
実際は、彼の本当の目的はブラダマンテであった。」

Track36、37.
オベルトが反抗的な少年として登場。
「アルチーナは、オベルトから父親について尋ねられて戸惑う。
彼女は、彼がすぐに父親に再会できると約束して、
その場しのぎをする。」
そして、アリア。アルチーナは、
彼をなだめようといろいろやっている。

Track38.
「オロンテがやって来て、
ルッジェーロが出て行く準備をしていると言うと、
アルチーナはたちまち、
恋人の行動の背後にある嘘を見抜き、
裏切りに直面して崩れ落ちるに至る。」

オベルト少年を投げ倒し、狂乱して行く。
音楽は恐ろしい事が始まる前触れのように、
緊張感を高めて行く。

Track39.
ネックレスを引きちぎり、
はだけた姿も痛々しいタイトル・ロールが、
体を張ったクライマックスである。

「お前は見捨てて行くのか」と、
感情を押し殺したようなアリアが、
情念の高ぶりを否応なく感じさせる。
これは10分にも及ぶ、長丁場で見せ場である。
これが、最初に書いた、大アリアの代名詞、
「ああ、わが心」である。
「私は女王ではないか」という激昂の中間部を経て、
ダカーポ・アリアの回帰部として、
前半の感情、壮絶な嘆きがより深まって行く。

Track40、41.
もちろん、ブラダマンテも行ってしまったので、
オロンテは、それもモルガーナに伝える。

「一方で、リッカルドを信頼する
モルガーナは揺るがない」と解説にあるが、
何と、ブラダマンテは正体を明かすようなアリアを歌う。

Track42.
「彼がルッジェーロと愛し合う場面を見て、
遂に、彼女も理解する。」
このようにあるように、下着姿で二人はいちゃつく。
「勇気ある乙女よ」などと、
ルッジェーロは調子が良い。

「裏切り者」と、モルガーナが絶叫するが、
おかまいなしに、音楽は優雅に流れて行く。

Track43.
ルッジェーロの哀歌調のアリア。
「緑の牧場よ」と、ヘンデルの「オルランド」同様、
別れのアリアは、美しい自然描写がなされる。
「ルッジェーロとブラダマンテは、
騙された犠牲者たちに別れを告げる。」

ブラダマンテもピンクの衣装で、
すっかり女性の姿となって、二人して消えて行く。
モルガーナの打ちしおれた様子が耐え難い。

Track44.
「残酷なルッジェーロ」と絶叫するアルチーナ。
激しいリズムに乗っての中間部。
ほとんどシュプレヒシュティンメだ。

Track45.
序奏からして、すごく繊細な感じ。
傷つきやすくなったアルチーナの
精神状態を見事に表現している。
「欺かれたアルチーナ、残されたものは何だ」と言って、
動き出す音楽の焦燥感。腰も砕けて立てない様子。
妹のモルガーナに抱きついて歌うアリア。
「アルチーナは、絶望のあまり、
愛の力や魔法を作り出すことに失敗する。」
とあるように、「杖に魔法が宿らぬ」と言っている。

ものすごく切実な物語になって来た。
主人公なのに、魔女なのに、
絶望のあまり、魔法が使えないなんて、
いったい、どういう事なのであろうか。
それだけ、彼女の愛の深さを感じてしまう仕掛けになっている。
素晴らしい絶唱が聴ける。

まだまだ、音楽は続くが、
字数の限界が来てしまった。
続きは次回にする。

得られた事:「ダカーポ・アリアを否定した、実験的オペラ『オルランド』の2年後、ヘンデルは、さらにダカーポ・アリアを深化させ、この形式を駆使しつくしたオペラ『アルチーナ』を書いた。これらは、同じ題材から着想されたものである。」
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by franz310 | 2012-05-05 19:54 | 古典