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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その453

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その453_b0083728_20062395.jpgクルシェネクの初期のオペラ、
「影を跳び越えて」のCD。
無名の指揮者、
知らないドイツの地方都市の
劇場での公演のライブ、
などと軽く考えて聞いていては
いけなかった。

同梱されたブックレットには、
クルシェネクの自伝メモあり、
ウォルフガング・ロッゲの
「時代の子」という紹介文も
掲載されている。



このロッゲという人は、
昔、みすず書房から出ていた、
「アドルノ・クルシェネク書簡集」
の原編集者で、
いわば、わが国のクルシェネク研究の
源流のような存在である。

この訳書がなければ、
おそらく、日本では、
クルシェネクは今以上にマイナーだったはずだ。

ということで、まずは、
ここに書かれていることを紹介しよう。
「時代の子、時事オペラ」と題され、
ブックレットの3ページ分ある。

「エルンスト・クルシェネクは、
『自分で書いたいささか若気の至りのテキストに付けた茶番の笑劇』
と、彼のニューオペラ『影を飛び越えて』について後になって、
書き表している。
彼は、『ツウィングブルク』を書いた同じ年にこれを書き、
一年後、1924年に、
これをフランクフルト・アム・マインの
市立歌劇場で初演した。
実際、内容はオペレッタ風である。
貴族の代表、退廃、上流クラスの社会が、
催眠術師によってあしらわれていく。
彼らは、古い慣習の影を飛び越えようとするが、
その退廃の中にあって、
見かけだけの宮廷革命が行われる。
しかし、テキストやその内容の軽さは、
この時代を表す作品としての
歴史的意義によって相殺される。
これはいささか大胆な影の飛び越えで、
オペラの存在する権利についても、
その若さから来る無頓着さゆえに、
その時に起こっていたすべての議論を飛び越えている。
当時の社会の上っ面の形式が、
最新手法のジャズ音楽の伴奏と、
舞台上で結び付いている。」

このように、彼は、時代が生み出した、
しかるべき作品として説明している。
廃位された王子の妃の浮気の話なので、
それもジャズ風の仮面舞踏会の最中の密会とあれば、
いかにも、納得せずにはいられない。

「しかし、それ以外の部分に関しては、
社会的な音響世界が、
本質的に不協和な精密さにさらされながら、
ロンド形式、パッサカリア、
フーガといった形式と対立する。
このように、時事オペラは次第に効果を現し、
人々の感情を強引に掻き立てていく。
シェーンベルク以来の新音楽につきものの、
不協和音の衝撃的効果は、
この混乱の時代のオペラ演奏に、
直接的に同調している。」

新ウィーン学派を受け継ぐ、
濃密な情念の渦が、同時に、
この混乱の時代の記録としての作品を、
より説得力ある語法で魅力あるものにしている、
と意訳してよいのだろうか。

「革命、機械化、幻滅、
そしてグロテスクなカリカチュアもまた、
外側から不協和を明らかにする。
時流(ミリュー)と行動(アクション)との間の
関連性をさらけ出すことによって、
不協和による表現力がその辛辣性を失う、
というリスクがありながらも、
オペラが時代ごとに存在する決定的な価値判断基準である。」

ここでは、何を言っているか難しいが、
この人の文章の最後のあたりが、
それを明確にして言い直されているのかもしれない。
以下、私たちが面食らう主人公の一人、
ベルク博士についての解説があるが、
ものすごい力のいれようである。

「ジャズ音楽に加え、
催眠術がこのオペラを、
1920年代の産物として特徴づけている。
オペラの中のアクションは、
催眠術や精神交感(テレパス)を職業とする
ベルク博士の陰謀のほの暗い世界の中で行われる。
私たちは、彼がその同業者の
害のない代表だということは分かる。
彼は、クルシェネクが良く使う言葉としての、
単に狂言回しとして働き、
混乱したアイデンティティで
騒動に動きを与える。
それは融和的な無邪気さが明らかだが、
同時代の映画に登場する
催眠術の大物たちに反応した結果である。」

ということで、
何故、このようなキャラクターが創造されたかを、
いろいろ例示しているのがものすごい。
ちなみに、掲載した写真は、
おそらく、このベルク博士の交霊術サークルの様子。
立っている女性はレオノーレである。

「ここで、我々は、
ベルリンの芸術家グループ、
『シュトルム』のセットによる
1920年のウェルナー・クラウス監督による
『カリガリ』や、
ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』による
1922年の『ノスフェラトゥ』や、
ノーバート・ジャケの小説を元にした
『狂人マブゼ博士』を想起する。
この混乱したオカルト世界の中で、
影は、『影をなくした男(ピーター・シュレミレール)や
シュトラウス-ホフマンスタールの『影のない女』の
おとぎ話の域をはるかに超えている。」
正直言って、ここでいきなり、
映画の歴史が例示されるとは思ってもみなかった。
が、クルシェネクのような好奇心旺盛な若者が、
当時の様々な文化行事に精通していたとしても
まったくおかしくはない。

「こうしたものは、1922年の映画、
アルトゥール・ロビソンの
『おののく影』(サブタイトル、夜の妄想)
に見られる。
クルシェネクのオペラは、
この流れに近いところにあるが、
フランス人が呼ぶところの
『カリガリズム(カリガリ博士風)』には
陥っていない。
むしろ、彼の『影を跳び越えて』は、
はこれらの影を超えたと言いたくなる。
同時に、心理学のおかしな扱いは明かで、
ベルク博士の催眠術でしか、
役者は影の飛び越えに成功せず、
彼自身は、オペラの最後に告白するように、
この離れ業をなすことが出来ない。」

カリガリズムは、ドイツ表現主義にも
連なるということだが、
確かに、クルシェネクの作品は、
「メリー・ウィドウ」の世界から、
それほど離れてはいないような気がする。
劇中、私たちは、
ベルク博士が、王女と詩人のカップルのそれぞれに、
(王女は第1幕で、詩人は第2幕で)
この「影の跳び越え」を促して、
余計なお世話をするのを見てきたが、
過去との決別は、一跳びでできるわけはなかったのだ。

「演じられるアクションの
オペレッタのような性格は、
間違ったアイデンティティが
いささか混乱していることで形作られる。
夜中に捕り物が行われる舞踏会や、
新奇な小道具としての電話が
縦横無尽に使われ、
しかし、当時の批評家たちが言ったように、
こうした事が、これを理解不能にしているわけではない。
最後に全てが才気あふれるテレパス、
ベルク博士に依存することになる。
王子の宮殿では、彼は探偵マーカスだと思われている。」

探偵マーカスは、私が見たところ、
存在意義が今一つ説得力に欠ける。
ベルク博士の友人以上の働きをしていないが、
作品の最初に出てきて、忙しげな電話で、
二十世紀のビジネスシーンを伝え、
作品の最後にも出てきて、
ベルク博士を冷やかして終わるだけの役柄。
ただ、王様が依頼して王宮に呼びつけるには、
ふさわしい職業なのだろうか。

「これはこれ見よがしの新奇さを盛り込んだオペラなのだ。
今日においては、これらの新奇性が、
もはや、このままでのはらはら感が、
感じられないことは確かである。
裁判官たちや、
詩人ロウレンツ・ゴルドハールに劣らず、
貴族の代表など、オペラの登場人物も、
社会批判のカリカチュアの一片である。
電話の効果すら
『ジョニーは演奏する』で、
標準時計を導入したのと同様、
当時のオペラハウスにとっては、
新奇なアイテムだったと言える。
テクノロジーが巧妙な方法で、
物語の劇的な進行の小道具として連ねられ、
電話が他ならぬオペラの提示部を物語る。」

こうした小道具の効果が薄れたから、
このオペラが忘れられたわけではあるまいが。

「間違ったアイデンティティのすべての場合が、
シーンからシーンへと受け渡される。」
この「ミステークン・アイデンティティ」
というのは、この解説で前にも出てきたが、
「影の跳び越え」などしなくてよいのに、
催眠術で増長されている、というニュアンスだろう。


「第2場では、ビーダーマイヤー期の画家、
カール・シュピッツヴェーク風の牧歌が戯画化され、
ロウレンツ・ゴルドハールの屋根裏部屋に誘われる。
ゴルドハールの嘆き(CD1のTrack5)は、
プロコフィエフの『三つのオレンジへの恋』の
王子の描写における苦悩の表現を想起させる。
ゴルドハールは、
『ああ、ああ、大空が全力を上げながら、
太陽の最後の光線の燃えるような色が、
僕を包み込む時が、僕の日々の嘆きの時だ』
と不平を言う。
この三文小説風の表現は
ただ無調で絶え絶えに歌われるという事実によって、
我々は、陳腐なテキストを味わうことができる。
ゴルドハールの言葉は、
彼の嘆きがレオノーレ王女への思いであるがゆえに、
避けられない衝突の状況をほのめかすが、
同時に詩人は、『僕の影は僕の弱点、
だから、影を飛び越えるなんてできはしない』
と断言する。

これは、このオペラのテーマの最初の言及である。
ここで音楽は後から出てくるダンスソングの
『アメリカの黒人の小僧、自由の国』と、
オペラの最後のパッサカリアのモチーフが伴奏に出てくる。」

「このシーンにすぐ続いて、聴衆は、
騒々しいジャズとフォックストロットのリズムと共に
1920年代の仮面舞踏会
マブゼ博士とおぼしきベルク博士を目撃する。
キャッチーなリズムにゆがめられたメロディの
『ヒット曲』や、
パロディの要素たっぷりに強調された
高度に不協和の結合である。
その一方で、しかし、
ジャズは、理想的な解放を表現し、
『荒々しいダンスの旋回をすれば、
あなたの心は軽くなり自由になる。』
ジョニーというキャラクターが、
有名な言葉、『アメリカには、自由の国、
そこにはかつて黒人の少年が住んでいた』
と言う前の事である。
催眠術がジャズの音響の中では笑劇となり、
マブゼ博士とカリガリ博士の深みから浮かび上がる。」

おそらく第1次大戦のあとの、
モラルのよりどころがなくなった世界で、
新技術や新大陸の音楽などが、
何か、新しいものを運んでくれる、
と皆が妄想した時代だったのだろう。
以下、今回聴く、第3幕の要約となっている。

「オペラの二つの終幕シーンでは、
社会批判から、政治領域に移る。
そこから、影を跳ぶことは、
共和制への移行だと理解される。
しかし、影を跳び越えれば、
必ず、明るい未来になるのだろうか。
この問いかけは、
跳ぶことが、暗示の力で強制されるがゆえに、
心理的なレベルで置き去りにされる。
そして政治的には、この影を飛ぶことは、
進歩の印には見えないのである。
民衆が新しい大統領を歓迎する、
まさにその時、テキストにはこうある。
『ほら、彼らが飛び越えた事を確信するには、
時間がかかるし、そこにはまた古い影が見えている。
彼らは無様な恰好で小走りしないとね。』」

何だか、他愛ない馬鹿騒ぎと思われていたことに、
妙に、本質に切り込む力が込められていた、
という感じにも見える。

クルシェネクが、必死になって完成させたのにも、
こうしたシリアスな部分が残っていたからであろう。

「意識の変化が起こらない時、
これらはすべて予想しうることである。
グロテスクなダンスの間、
全員が彼ら彼女らの影を跳び越えようとしている。
シグナルの警笛や車のクラクションを伴う
ジャズ音楽が自由の幻を創り出す。
しかし、誰一人、彼ら彼女らの
影を跳び越えはしない。
『その夕べ、もちろん私は
未来のパロディや、いつの日か、
本当の事になる何か、
もう一人の楽長メシューゲ(狂気)が
死の舞踏を指揮しているなどを、
垣間見たとは気付かなかった。』
(ジョージ・グロスがジャズに出会った時のコメント)」

「自由の幻」とは、うまく言ったものだ。
この軽歌劇は、それを讃えながら暴く舞台であったか。
先ほど、書かれていた、
「時流と行動との間の関連性」が垣間見えた。
また、これをげらげらと笑いながら見れば、
「不協和による表現力がその辛辣性を失う」、
ということになるのだろうか。
名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その453_b0083728_20124299.jpg
以下、CDに耳を傾ける。
CD1は第1幕、CD2前半は第2幕、
第3幕はCD2の後半である。

第1幕は、仮面舞踏会に、
こともあろうか王子の妃が潜入し、
それを追って王子もそこに登場、
詩人のゴルドハールとの密会をしようとした
王子妃の思惑とは裏腹に、
部屋係のブランディーヌが
当の詩人に惚れ込んでしまう。
しかも、ベルク博士だと思い込んでいる。
仮面をしているので、何がなんだかわからない世界だ、
ブランディーヌの女中のオデットも、
結構楽しんでいて、
たまたま入ってきた王子をおちょくる。

第2幕は、真夜中の暗い宮殿の柱の間で、
またまた訳の分からない混乱がある。
ゴルドハールは、ブランディーヌに、
夜中に来いと声をかけられていたので、
のこのことやってきて、
ベルク博士の後押しもあって、
この広間に入って罠にかかる。
ベルク博士は、王子妃レオノーレを愛しており、
邪魔者を排除したかったのである。
それにしても、ベートーヴェンの歌劇では、
貞女の鏡であったレオノーレという名前が、
完全に正反対の人格にされており、
ベルク博士というのも、作曲家のベルクを思わせる。
新音楽の危険な誘惑者ということか。

しかし、1924年という時期には、
ベルクはまだ「ヴォツェック」も発表しておらず、
クルシェネクがどれほど意識していたかはわからない。
ただし、このオペラを、ベルクは称賛したらしく、
特にオーケストレーションを褒めた、
と伝えられる。
また、一方で、この頃、アドルノは、
作曲を学ぶためにベルクに師事していた。
彼はフランクフルトからウィーンに移ったのではなかったか。

第3幕:
CD2の
Track8.
「牢獄にあっても、ゴルドハールは、
遠く離れたレオノーレを恋焦がれる。」
という部分も、
Track9.の
「彼女は、彼のところに下りてきて、
彼の『詩人の夢は現実になる。』
彼とレオノーレは最終的に抱擁の中で自由になる。」
という部分も、
シュプレヒシュティンメ風の歌唱が延々と続く中、
おどろおどろしい管弦楽が、
不気味な魑魅魍魎のように響くばかり。
聞き流していると、管弦楽は落ち着かないし、
色調もほの暗く、恋人たちのデュエットとは思えない。
ただ、よく聞くと、レオノーレが歌いだす、
『私はあなたのところに、愛する人、
あなたの心に、曇りはない』という部分、
ゴルドハールが、
『夢だろうか、錯覚ではないか、
どうやって、この牢獄に来たの』
と答える部分は、実は、陶酔的なメロディになっている。
抱擁の前に、
ゴルドハールは、
『僕は最後の影を跳び越える』
と歌うが、伴奏するオーケストラは、
あーあ、やっちゃった、という感じ。
祝福はしていない。
やがて、レオノーレも、
『私も影を跳び越えて、
夫から自由になるのよ』と、
絶叫のような声まで張り上げる。
一幕の仮面舞踏会のような、
あの開放的なジャズ風味はどこに行ったのか。
クルシェネクの使徒、ロッゲ氏が書いた、
「間違ったアイデンティティ」とか、
「革命、機械化、幻滅、
そしてグロテスクなカリカチュア」
という言葉が思い出される。

主人公たちは、抱擁の必然性を、
勝手に作り出しているように見え、
作曲家自身、それに共感をしていない。

というか、台本を書いたのもクルシェネクなので、
いったい、どう表現すればいいのか。

「不協和による表現力がその辛辣性(edge)を失う」
ともあったが、このシーンは、それに相応するのか。
不協和は、まったく自然に受け取られてしまう。
そして、ご親切にも、
ト書きには、二人の歌の間に、
完全に真っ暗になる、とある。
暗闇の中を暗示する間奏曲が始まる。

Track10.
は、3分半ほどの間奏曲で、
前半はどんちゃんどんちゃん、
中間部のフルートの脱力感、
後半は弦楽がきいきいときしんで
この間、二人がどうなったか、
を妄想させる危険な音楽。
はたして、この舞台では、
どのような演出がなされたか、
推して知るべしだが。
クルシェネクのオペラ間奏曲集でも作ったら、
意外にヒットするのではないか。

Track11.
4人の審判が登場し、そこは法廷だ。
「ゴルドハールは
申し立てによれば、
王女が影の飛び越えを
引き受けることに導いたペテンの罪で、
法廷に引き立てられる。
ベルクは彼を守るために、
法律家を装って現れる。」
とあるが、法廷も何もあったものではない。
ギャラリーのコーラスもいるので、
ざわざわ感が妖怪の巣窟の様相だ。

Track12.
裁判官は、どれくらい黒魔術を使った、
テレパシーか、などと、
ゴルドハールを詰問するが、
当然、彼は否認する。
第2幕で、ブランディーヌが、
ゴルドハールを見て、
「私の愛、催眠術師のベルク博士!」などと叫んだから、
本来の悪者がすり替わっているので、
会話がまるで成り立たない。
しかも、私立探偵マーカスが、
ベルク博士が交霊術を行っている危険人物だと、
漏らしたという展開である。
やばくなった、ベルク博士は、
法廷にマーカスを呼んでくれ、と叫ぶ。

Track13.
これは、ベルク博士の想定外の展開だったのだろう。
マーカスが来る前に、彼としては、
事を片付けたいということか。
筋書にはこうある。
「探偵が目撃者として現れるはずなので、
彼は勝負に売って出て、
王女の婚姻関係を終わらせることを求める。
王女がだまされた以上、
これは革命を避けるための唯一の方法である。」
これはまた、めちゃくちゃな提案であるが、
なぜか、これが皆の共感を得て、
最後は、ずんちゃかとダンスになる。
観客もこれに共感したのか、
楽しんでいる様子の拍手で場面転換を寿いでいる。

Track14.
ここからは、宮殿の一室で、
何だか緊張した空気を伝える、
点描風の音楽の中、
レオノーレとクーノが会話しているが、
クーノはオデットと一緒になりたいので、
簡単にゴルドハールを釈放し、
レオノーレが出ていくと、
すぐに二人でいちゃつき始める。
マーラーの交響曲の響きがあちこちに聞こえる、
きわめて色彩的なワルツとなる。

「王子クーノは
ゴルドハールを自由にすると約束して、
王女の非難を退け、
宮殿でオデットと遊ぶ。 」
というシーン。
ト書きには、
「彼らは一緒に踊り、
オデットはクーノの膝に乗り、
彼はオデットにキスする。
外の喧騒が聞こえ、
ドアを開けると、
ベルク博士が見え、後ろに民衆がいる。」

Track15.
いかにも急展開しました、
という人を食った序奏を経て、
ベルク博士が進んで、
「民衆は王子を一目見たいと思っているな」
と語りだす。
「騒ぎの中、ベルクと群衆が現れる。
革命を阻止するどころか、
彼は革命を求め、
民衆に影の跳び越えを説く。」
というシーンだが、
彼は、ひたすら、民衆に催眠術をかけようとする。

「『共和国万歳』と、
群衆の一人が叫ぶ。
王子クーノとオデットは逮捕される。
ベルクは、今やレオノーレは
彼のために自由になったと考えるが、
ブランディーヌは、
彼女は、別名詩人のゴルドハールであるベルクと
すでに立ち去ったと伝える。
ベルクは落胆して笑う。
マーカスが現れ、
彼を助けようとすると、
最後に、自分もまた、
自身の影を飛び越えられなかったこと、
誰もそれはできないと認める。」

最後に舞踏会のシーンの楽しい楽想が
一瞬回想されるなど、凝った音楽である。

Track16.
「そしてベルクが大統領であると宣言し、
同じ古いゲーム、 影を跳び越えるで皆を導く。」
とある最後のシーン。
羽目を外しまくった管弦楽による終曲である。

車のクラクションのような音が連発され、
フレンチカンカンみたいなリズムや、
花火、ホイッスルがさく裂する中、
終曲に向けて、ダンスが気違いじみて加速する。
ト書きには、ゴルドハールとレオノーレ、
クーノとオデット、マーカスとブランディーヌが
カップルになって、皆をグロテスクなダンスに導くとある。

そして、それぞれが、影を跳びこそうとして失敗する。
最後はギャロップで退場するらしい。
目に見えるようなバカ騒ぎであるが、
さぞかし、楽しい舞台だったはずだ。

一夜にして各地の王政が崩壊したような第1次大戦のあと、
いかに影を跳び越える(過去を振り払う)かは、
重要なテーマだったはずだが、
この作品初演の場で、
クルシェネクが未来の哲学者アドルノと出会い、
二人して、いかにして影を跳び越えるかを、
何十年にもわたって協議したものが、
先の、「書簡集」として結実した感じだろうか。
クルシェネクは24歳、アドルノは3歳年下である。

作曲家の方は、前年、すでに巨大な「第2交響曲」で、
大スキャンダルを経験している。
まったく怖いものなしの若造たちの姿を想像すればよかろう。

「影を跳び越えて」というオペラの出来栄え、
私は、最初に聴き始めた時は、半信半疑であった。

このCDに記録されているように、
ビーレフェルトの公演に来た聴衆も、
序曲では、拍手がまばらであった。

が、最後はかなり盛大なものとなって、
歓声や口笛までが収録されている。
最後は会場も一体となった成功の舞台だったのだろう。

なお、このCDには、この曲を作曲するときに
参考にしたジャズについての作曲家自身の言葉も載っている。

「ジャズの表現力の可能性には甚大なものがある。
真のジャズオペラはダンスが挟まれ、
それに応じた音楽がついているといった以上のものだ。
それは、基本、広汎にジャズの要素に基づきながら、
何か基本的に楽しく、しかも怪異である、
とされるジャズの概念を
自分自身から取り除いたときにだけ書かれるものなのだ。
聴衆はもはや、良い趣味には、もはや導かれず、
それでいて、ある部分は二次起源で誇張された楽器を使った
アメリカのダンスを少し知っているだけである。
アメリカの黒人の
スピリチュアルや伝統的な歌の中に、
力強く悲劇的な民族の感情が、
素朴に包み隠さず全てが、
驚くべき集中力をもって、
ヒューマニティとして知られる
陰影となって表現されているのを知っている人は、
ジャズを単なる娯楽の
愉快な形式以上のものに感じるだろう。
今でこそ、その反対の側面、
つまり、現在の人々のニーズへの大きな適合性と、
妥当性が前景を占めるとしても、
それが嵐のように世界を巻き込む力こそが、
ジャズの他の側面となっている。
エルンスト・クルシェネク」

得られた事:
「音楽の自律性というのが、クルシェネクの特徴を表す良い言葉のような気がする。アドルノは、クルシェネクを謎の作曲家と呼んでいた。このオペラが、この強烈な二人の出会いのきっかけになったということにも、妙な歴史的必然を感じる。」
「第1次大戦後の大革命の時代の申し子としてクルシェネクを位置付けてもよく、それは新技術の登場とオカルト映画の流行の中でとらえるべき現象ともなっている。」
「この時代の不安を快楽で乗り切ろうという風潮を、きわめて冷静に分析した作品が、『影を跳び越えて』と言え、ピアニストのシュナーベルが捉えた以上に、何かシリアスな側面がある。」

# by franz310 | 2019-10-19 20:15 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その452

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その452_b0083728_20305834.jpg前回、クルシェネクの
問題の軽歌劇というべき、
「影を跳び越えて」の
CDの一枚目(第1幕)を
聞いたが、
ビーレフェルトという
街で上演された時の
舞台画像も載っていて、
かなり参考になる。




「影を跳び越えて」の
「影」とは、因習というか、
行動の限界というか、
何らかの決まりのようなもので、
クーノ王子の妃が、
果たして浮気相手の平民と結ばれるか、
といった感じの下世話ネタである。

喜歌劇で、コミカルな、
いささか間抜けな王子の話にも見える。

この間抜け王子の方も、
夜中にごそごそする王女(妃)の行動を怪しんで、
この仮面舞踏会の場に現れる、
という危なっかしいシーンであるが、
お互いが仮面をつけていて、訳が分からない。

ここで掲載した意味不明な画像は、
ラッシ・パータネン、ディアナ・アモス、
トーマス・ブリューニングの画像と
写真の下に書かれてあるから、
王子の従者、オデット、および、クーノ王子
ということになる。

三人の名前しかないのに五人いるし、
仮面をつけたり、仮装していることもあって、
誰がどれだかわからないものの、
CD一枚目最後から二番目の
仮面舞踏会のシーンで、
王子が、妃の小間使いの女中(オデット)に、
こけにされているシーンだと思われる。

オデットは、魅惑的なソプラノで、
きっと、それなりの魅力的な女性のいでたちのはず、
この写真には、それに相当する人物は
写っていないのではないだろうか。

おそらく、変な筒のようなものを顔に巻いて、
前で倒れているのが、
クーノ王子で、後ろの黒人のピエロは、
主人が倒れたので驚いている従者(が変装したもの)だと思われる。

オデットとダンスを踊りながら、
王子が小突かれ、
後ろで、オデットの騎士たちが、
それを笑う場面がある。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その452_b0083728_20311839.jpg第1幕の最後は、やはり仮面舞踏会の続きで、
さっきのオデットの主人、
ブランディーヌ伯爵夫人が、
詩人のゴルドハールに言い寄る
という場面があるが、
解説書にある写真に、
彼らに相当する、
スーザン・マクリーンと、
イエルク・デュルミュラー、
とされるものがある。


ゴルドハールも、
二人の女性に言い寄られるので、
にやけていると、
そこに、意中のレオノーレ王女が現れ、
さらにオデットまでも登場、
混乱の様相となって、
怒った王女は出て行ってしまう。

しかし、ブランディーヌは、
なおも、ゴルドハールを、
自分の恋人だと信じて、
「小さな薔薇を、今夜、持ってきてね」
などと言っている。
ここで第1幕は終わる。

このきわめて珍しいオペラの貴重な録音は、
ビーレフェルド市立劇場合唱団
ビーレフェルド・フィルハーモニック管弦楽団
指揮、ダヴィド・デ・ヴィラーズ
と歌手陣によって行われた劇場公演を
収録したものらしい。

地図で調べると、
ハノーファーとデュッセルドルフの真ん中あたりで、
山を越えて南下するとフランクフルトがある。
有名な街に囲まれて損した都市に見える。
人口32万人。

オーケストラの演奏は、
珍しい演目だということもあって、
冴え切ったものではないが、
おそらくオペラの伴奏などで、
場数を踏んだ楽団なのであろう、
ポイントを押さえて悪くはない。

南アフリカ生まれという
ヴィラーズという指揮者も
あまり録音に恵まれてはいないが、
1944年生まれ、録音当時45歳という俊英であったはず。
ドイツで学び、
フランクフルトでギーレン時代の
第2指揮者を務めていたこともあるようだ。

フランクフルトとなると、
このオペラ初演の地であるから、
クルシェネクやこの作品にも
関係がある土地だったのかもしれない。
ビーレフェルドのカペルマイスターを
84年から91年まで務め、
クルシェネクもこの録音のもののみならず、
「Ausgerechnet und Versailles op.179」や
「Die Zwingburg」も手掛けたようだ。

配役を見ると、
・廃位された王子、クーノ:トーマス・ブリューニング
・王女レオノーレ:リンダ・ケメニー
・ブランディーヌ伯爵夫人、その侍女:スーザン・マクリーン
・その女中、オデット:ダイアナ・アモス
といった、第1幕の終わりに出てきたキャラクターの下に、
・催眠術師、ベルク博士:ジョン・プフリーガー
・マーカス、私立探偵:ウルリヒ・ノイヴェイラー
というのが来るのが、
このオペラのいかがわしさを掻き立て、
クルシェネクの怪しさを伝えている。

特に、ベルク博士というのが曲者で、
催眠術を操って、「交霊会」なるものを開き、
いろんな女性を集めては誘惑している
ということがわかる。

探偵マーカスとベルク博士は仲が良く、
マーカスは、クーノ王子から、
妻の浮気調査を依頼されるのである。

ちなみに他に出てくる登場人物は、
・詩人、ロレンツ・ゴルドハール:イエルク・デュルミュラー
・独奏者、ディアナ・アモス
・弦楽四重奏団、キム、カールソン、シュヴァーツ、ブリック
・王女の従者:ラッシ・パータネン
・護衛隊長:イオン・ブリック
・四人の裁判官:パータネン、シュヴァーツ、ロック、ブリック
・群衆の一人:ヘイコ・ゴーベル
・ウェイター:マティアス・ハレ
とある。

さて、今回は、
CD二枚目の第2幕を
聴いてしまおう。
ちなみに、第3幕は、
CD二枚目の後半である。

CD2の
Track1.
第2幕:
「王子クーノは、傷ついて宮殿に帰って来て、
レオノーレにかまって欲しがるが、
彼女はパーティーに行っていることを知る。 」
と解説に書かれたシーンで、
惨めなオーボエの音色に続き、
いろいろな管楽器が意味ありげな音形を、
つぶやくように奏で、
弦楽のうねりもまた暗い情景を表して秀逸である。

「私は傷だらけだ。私にとって、
美や金や豪華さとは何なのだ、
私の妻は何をやっている」と騒ぐと、
従者は、彼女ならパーティーで見た、
とさらりと言う。
その時、ベルク博士が入ってくる。

どうやら、あらすじを読む限り、
ベルク博士は、探偵マーカスのふりをして
入ってきたようだ。
マーカスが悩んでいるというのは、
レオノーレが実際に浮気していることを、
言い出せないという事であろうか。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その452_b0083728_20313686.jpg解説に写真が出ているか、
ここでは、ベルク博士の
ジョン・プフリーガーと、
クーノ王子の
トーマス・ブリューニング
の名前が出ているが、
左の人はルーペを手にし、
探偵風のいでたちをしている。
こちらは決して王子ではなく、
右側でえらそうな勲章を
つけている方が王子であろう、
と推測することができる。


Track2.
「探偵マーカスは悩んでいるが、
ベルク博士は彼に成りすまして、
催眠術師が彼女に影を飛び越えることを教えた、
と王子に言う。
まず、クーノは完全にかっとなって、
ベルクは牢獄に叩きこむ、
ということになる。 」
とあらすじにあるが、
クーノ王子の怒りをたたきつけるようなリズムから、
高音の弦が緊張感をたたえて流れ、
あるいは波状の音形が繰り返される中、
管楽器が注釈するような、
意味ありげな音色を響かせ、
実に、新音楽風である。

Track3.
「ちょうど入ってきたブランディーヌは、
レオノーレの秘密を語らねばならない。 」
という場面で、クーノ王子は影に隠れている。

まず、ブランディーヌは、
ベルク博士が化けていることにも気づかす、
「探偵さん、あなたのアドバイスが欲しいの。

王女様が入れあげている催眠術師に、
恋焦がれているの、助けて頂戴」
などと、スプレヒシュティンメなのか、
単なるレチタティーボなのか、
情念を込めた声を聴かせ、
めちゃくちゃストレートである。

出てくる音形を受け継いで、
ベルク博士は、それはお気の毒に、
と同情を見せる。
彼女は、門のところに、薔薇を持って彼がくるから、
連れてきてほしいともいう。

彼女が立ち去ると、
クーノ王子が出てきて、
「ここはピックアップバーか?
しかし、ちょうどいいから罠にかけろ」
と言って立ち去る。
ベルク博士は、これをチャンスに詩人を罪人にして、
レオノーレを独り占めする計画を立てる。

あらすじには、
「彼女はしかし、
ゴルドハール(彼女はベルクをそう思っている)
を宮廷に呼んでほしいと言う。
ベルクもまた、召喚するべきだと言う。
クーノもまたそれに賛成する。
結局のところ、
城はピックアップバーではなく、
薔薇を持って現れた男は、
罰せられることになった。」
とあるが、これでは、
何が起こっているかわからないが、
この場面で、ベルク博士は、たくらみを思いついたのである。

Track4.
「レオノーレは、一見して価値のない、
ゴルドハールへの愛の悲しみを表す。 」
ここではレオノーレの嘆きが聞かれる。

部屋係のブランディーヌが、
裏切って、愛するゴルドハールを誘惑した、
と、怒っているが、ところどころ、
メロディーの要素がにじみ出るレチタティーボ調、
伴奏の音楽は暗い情念を控えめに補足している。

うつろな木管のアンサンブルが、
彼女の心に空いた穴のようなものを表し、
時折、情緒的になって高まる。
クルシェネクの音楽の変幻自在を味わえる。
最後に意味ありげな音形が余韻となる。

Track5.
この場面の音楽は、
いかにも冒険を犯しているような、
緊迫感をリズムに乗せている。
第2場で、場外の門の橋のあたりで、
夜なので、ランプが灯っている。

ゴルドハールが行きつ戻りつして、
「悪魔の導きで、恐ろしいところにきてしまった」
と嘆いている。
この状況にふさわしく、
時折、音楽は渦を巻いて混乱の様相を見せる。

Track6.
あらすじに、「ベルクが彼を見つけた時、
ベルクのために、 自分が連れて行かれるよう、
おべっかを使われていることに気づいていない。
彼はゴルドハールに、影を飛び越えさせて、
宮殿に入れてしまう」というシーン。

ベルク博士はゴルドハールを見つけて、
こいつが自分の身代わりにしようと、
城の中に導き入れようとする。
二人の駆け引きの部分は、音楽も軽妙である。

しかし、彼らの行動をせかすかのように、
ラッパが鳴ったり、小太鼓がぱらぱらしたり、
リズムは落ち着かない。

詩人は、そんな大それたことはできない、
と抗うが、ベルク博士は、
また、「影を跳び越える」ことの重要さを説き、
二人して宮殿に入っていく。
なんと、このあたりは、軽やかな舞曲調も響かせる。

Track7.
第3場にして、第2幕の大詰めで10分弱の大曲。
薄暗い中、お互いがよく見えない状況のようで、
そんな状況下で関係者がそろって、
きわめてスリリングな駆け引きが
繰り広げられる。

約1分の前奏曲のような音楽も
湿っぽいような空気感を漂わせている。
そこは、円柱の立ち並ぶ宮殿内の広間で、
クーノ王子とオデットが出くわす。
オデットはブランディーヌを待っていた。
王子は、君はパーティーにいたね、と問いかける。
ここも、駆け引きのようなやり取り。
低音でのピチカートなどが緊迫感を高める。

こともあろうか、なぜか、
王子がオデットを口説くシーンになっている。
その時、ベルク博士が走って入ってくる。
もうすぐ女たらしが来ますよ、
と王子や守衛隊長に告げる。

音楽が控えめなので、
どたばたという足音が効果的である。
すると、ブランディーヌも、
誰かの足音がした、と現れるが、
ベルク博士に、あれは、風の反響だとごまかされ、
柱の陰に隠れるように言われる。

このシーンは暗くて、柱の陰が見えないという
状況下で展開するようだ。

ここでクーノ王子は、
ブランディーヌの前に来た男を
逮捕するように守衛隊長に言いつける。

ブランディーヌとベルク博士とクーノ王子の三重唱。
「私はここで辛抱強く待つ」までは同じだが、
一人は「愛する抱擁」、一人は「罠にかけること」、
一人は「罠にかかること」を待っている。

ややこしい事に、
ここにレオノーレまでが、
夢遊病状態で現れるという、
はちゃめちゃなシーンである。

そこにレオノーレの声が響き、
ブランディーヌの柱に向かうが、
ブランディーヌはほかの柱に逃げてしまう。

そこでベルク博士に合図を送るが、
ベルク博士は気づかない。
ソプラノの美しいベールがかかる中、
浮かび上がる管楽器の奇妙な音形、
ピチカートなどが変化を加え、
キャラクターの会話やレチタティーボが、
濃密な空間を生み出している。
彼女は、「私の心に安息はない。
悲しみでいっぱい、どうして、
ここにきてしまったのだろう」
などと言っているので、
ベルク博士の催眠術であろうか。

こうした緊張感みなぎる
女声のデュエットの中、
音楽は苛立たしく高まっていく。
ここで金管群が軽妙な音を発するのは、
のんきにゴールドハールが現れるからである。

テノールで、さえざえと、
血も凍り、骨が震えるが、ここに来てしまった、
と歌う。
ベルク博士は、彼を驚かせないようにいざない、
ブランディーヌに引き合わせようとするが、
そこにはすでに入れ替わってレオノーレがいて、
恋人たちは一瞬、夢のような状況となる。

ベルク博士は、間違ってブランディーヌの柱のところに行くと、
先に出て行っていた女中のオデットが入ってきて、
奥様は二階にいないし、男もいません、
とクーノ王子に報告をする。
そんなこんなで、
ソプラノももはや絶叫にまで高まるが、
最後は、軽妙な音楽に代わる。

あらすじには、以下のようにある。
「クーノとブランディーヌとレオノーレは、
ゴルドハールだかベルクだかをそこで待ち、
ベルクとオデットが彼らに加わる。
そこにいる彼ら彼女らは
それぞれの理由を抱えている。
全力を尽くしている間、
ベルクは、
ゴールドハールについてマーカスが言った
話のために連れて行かれるが、
最後、詩人は捉えられ、
牢獄に入れられてしまう。」

ここにあるように、めちゃくちゃなのだが、
ブランディーヌの前にいたのがベルク博士だったので、
守衛隊長がやってきて、お前がベルク博士だな、
逮捕する、と連行しようとしたりして、
物語の進行はやたらスピードを増す。

最後は、ブランディーヌが、ゴルドハールを見て、
「私の愛、催眠術師のベルク博士!」などと叫ぶので、
守衛隊長に詩人ゴールドハールは連行されてしまうのである。
強烈に複雑怪奇なのだが、これもクルシェネクの持ち味なのだろう。

前にも前半を読んだが、CDに掲載されている、
クルシェネクの「記録」の続きを読んでしまおう。

「当時、十二音音楽というものの名前が聞かれ始めたが、
私は、伝聞や
エルヴィン・スタインの参考にならない記事以上の事は
知らなかった。
それにもかかわらず、私は、
ユニバーサル・エディション年鑑に、
掲載されたような、
それについてのやや無礼な意見を
講義で話すほどに怖いもの知らずだった。
今日、その一節を読むと、
それほど害のあるものでもなく、
あながち否定すべきものでもなさそうである。
しかしながら、それはシェーンベルクを激怒させ、
彼は風刺の序文に、
『平凡な人がからかいながら言ったように』
と言葉を連ねて、この報酬をした。」

クルシェネクはアドルノとの書簡でも、
シェーンベルクについては好意的に書いてあったと思ったので、
この逸話は意外であったが、
十二音技法が自分の発明だと自負していた、
シェーンベルクらしい反応にも思えた。

「このことは別にしても、
彼が死に際して残した論文には、
私の意見に反駁するために多くのページが割かれている。
のちに私は誤り、
立場の違いをまるく収め、
40年代にはアメリカで、
親しい言葉を交わすようになった。
スイスでは、わずかの間、
エルンスト・ゲオルグ・ヴォルフの影響を受けた。
彼を作曲家として重視したわけではないが、
音楽理論のスペシャリストとして、
私の先生になってくれ、
当面の私にとって急務であった
音楽の自律性について講義してくれた。
ある種、難解な彼の理論の組織化に、
恐る恐る従ってみると、
この恐ろしく博識で才能があり、
熱意とウィットを持った人との議論は、
いつも楽しいものとなった。」

ここで、突然、ほとんど忘れられている、
音楽学者ヴォルフを挙げたことには、
なんとなく唐突な感じもする。
が、音楽の自律性というのが、
クルシェネクの特徴を表す、
というのは、なんとなくありそうな話で、
クルシェネクの音楽の謎は、
アドルノが繰り返し賛嘆したものでもあった。
これが、アドルノとの運命を分けたひと言、
と言ってもよいかもしれない。

「私の個人的な、『新しい単純さ』への回帰は、
こうして行われた。
私は、古い材料でもオリジナルの感覚を、
神秘的に原体験することで、再構築が可能である。
とりわけテオドール・アドルノとの関係が深く、
原体験の事が判明し、
これが不可能だと認めなければならなかったとき、
私は12音音楽を、
当時入手可能な作品を解析するという方法で
主に学び始めた。
私はいかなる正規の指導を、
友人であったシェーンベルク、ベルク、
あるいはウェーベルンから受けることはなかった。
12音音楽の問題は、
ハルモニアへの情熱ゆえに、
学校時代に惨めな無視を決め込んだ学科、
数学への興味を掻き立て、
アルバン・ベルクの弟子で、
主題に対する学術的トレーニングを受けていた
ウィリ・ライヒに多くの指導をしてもらった。
私は、デヴィッド・ヒルベルトの
『幾何学の基礎』とそこで展開されている公理に魅了された。
のちに、この理論は、私の音楽素材や
それに基づいて作曲する上での総合的なビジョンの中心要素となり、
1936年以来、これを公式化して記載することを試みている。」

クルシェネクが黒板に数字を書いている写真を見たことがあるが、
想像するだに、その授業は受けたくなる類のものではないだろう。

「私は、『作家』を第2の職業として挙げているが、
1929年ころから、私の音楽作品と一緒に
私が文字で書いたものが、
重要で意味深い役割を演じていることで、
正当化できると考えている。
私は台本をこの前から自作していたが、
スイスの友人で、フランクフルト新聞の学芸欄の編集者、
フリードリヒ・グルバーが、
その新聞に定期的な寄稿をするよう、
依頼してきた。
この新聞が1933年の野蛮行為の犠牲になってから、
1938年まで私はウィーン新聞で私は仕事をつづけた。
多くのエッセイや記事や、
数百の本のレビュー、
様々な時事への注釈は、
当時の私の仕事の証言となっている。
私は口述筆記の必要性への忍耐は免れている。
私が成人してから、
私は短編小説は一つしか書いていない。
『アントン・Kの三つの外套』を、
1938年の亡命中の夏に書いた。
私はゲーテが、すべてのノヴェレは
必ず一つの解けない謎を含むべしという示唆を忘れなかった。」

さらりと書いてあるが、亡命時期に、
金のかからない時間つぶしをしていたのではないか、
などと考えてしまった。

「私は12音技法での作曲を通じて、
国会図書館にあった
リヒャルト・S.ヒルの記事に出くわした。
彼は全音階の7音のシーケンスを発表し、
調性の世界での特徴的な結合と進行が特徴的で、
それを、『機能モード』と名付けた。
なぜなら、それと同じようには長調、短調は、
調性の世界で尊重すべき基礎として理解はできず、
機能モードからの純粋な統計的派生物として理解できるから、
と書いてあった。
さらに彼は、
一つかそれ以上の12音機能モードは、
調性の世界でもうまく使えるのではないか、
という問題提起をしていた。
私は、ヒンデミットがフローレンスで考え付いた
新しい理論に同調できなかったこともあって、
これは私の性格にある秩序志向に響くものがあったので、
短時間、これを研究した。
私のアメリカにおける最初の生徒の中に、
ゲオルグ・パール(これは、作曲家として、
そして、アルバン・ベルクの研究家としてのペンネーム)
が、機能的12音モードというシステムを開発した。
しかし、我々は、それが生産性がよいものではない
と分かったので、すぐに放棄した。
私は次第に順列入れ替えの異なる技法を手に入れた。
これは、私の後年のセリー技法の
予備段階であったとみなすことができる。」

正直、ここに書いてあることは、
よくわからないが、
クルシェネクが、なぜ、
このような記述をしなければならなかったか、
ということには思うことがある。

現状に甘んじることなく、
音楽の新しい姿の追求に身も心も捧げた人だったのだろう。

「アメリカの図書館訪問によって、
バッハ以前の音楽の歴史についても
知ることができた。
この分野の研究にシュレーカーが、
私に興味を持たせてくれなかったので、
名前や年代以上の事は何も知らなかった。
グレゴリオ聖歌の定旋律の技法や、
アルス・ノヴァのイソリズミック効果に、
私たちが追求してきた思考の流れの
モデルやプロトタイプを認めることができた。
私は、それを模倣したと非難されたが、
新音楽を中世の音楽の模倣で
正当化しようという思いはなかった。
私は、しかし、
西洋音楽の歴史を通じて、異なる形で現れる
構造的な原理を発見する仕事に魅了された。
かくして、オケゲムは私の最も好きな作曲家の一人となり、
彼の詳細な研究に熱中した。」

この一節も興味深い。
アメリカの方が、様々な西洋音楽の源流の研究が進んでいた、
ということだろうか。
というか、ドイツ・オーストリアが遅れていたのであろう。

以下の部分に、クルシェネクが、
自分たちより若い世代に、
ないがしろにされたという悔しさと、
開き直りが出ているが、
本当に、第二次大戦後、クルシェネクは、
不当に評価されてきた作曲家であった。

「ここでは個人的な事の議論はここでは必要ないが、
私が生活のために1950年ころに書いた機会音楽には、
多大な時間を要した。
これらの芸術上の価値を下げる気はないが、
いくつかの作品はある種の生命力を保っており、
私がポスト12音技法時代を展望する可能性を見失わせた、
と述べることにためらいはない。
私のヨーロッパでの短い滞在と、
その活動の忙しさは、それを変える事が出来なかった。
ケルンの電子スタジオでの仕事を通じ、
オリヴィエ・メシアンの時間モードの論文を見てから、
ようやく音楽要素のニューメレーションや
メンシュレーションについて知ることとなり、
私はセリーでの作曲を始めた。
すでにその手法で作曲を始めていた
同僚たちは、私を、遅れてきたジョニーと呼び、
彼らが新しい手法に走ったのに、
私がこの手法に取り組んでいるのは、
遅れてきたジョニーが泥沼にはまった、
という独特の印象を与えたことだろう。
これを私は、『新しい単純さ』に非常な興味を持った
何人かの若い友人から聞き、
それは、私が1920年代に置いて来たものだと、
率直に考えた。
それゆえ、私は、私のその後の日々を、
『古い複雑さ』の中にとどまることを良しとした。」

こんな事以上に、悲劇的なのは、
メシアンには、名曲とされて、
数多くのレコードがある作品が多いのに、
クルシェネクには、それが簡単に見いだせない点であろう。

これは、音楽の潮流に乗っているかいないかとは、
また異なる問題ではないか。
彼のこうした承認欲求は極めて、
身につまされるものがあり、
彼が書いた文章の最終段落でも、
いよいよ、その趣が高じていく。

「私は記録として、私がアメリカの市民でありながら、
いまだ、アメリカの作曲家とみなされていないことを述べた。
この神聖なる地位は、
そこで生まれたか、
イエール大学でヒンデミットに学ぼうとも、
少なくとも、
そこの学校に通ったものでないと得ることができない。
創造的な芸術家は、その作品が生まれた地によって
分類されるのであろうか。
ベートーヴェンが低ライン地方の作曲家なのか、
ウィーンの作曲家なのかは、あまり重要な事ではない。
私はウィーンで生まれ、
合衆国で作曲をしているが、
チェコの作曲家なのだろうか。
これはチェコの人々には驚きだろう。
ブラームスはハンブルクの作曲家なのか、
ウィーンの作曲家なのか。
スメタナはチェコの作曲家なのか、
オーストリア=ハンガリーの作曲家なのか。
私の住む町で75歳の誕生日を祝って貰った時に、
上述の理由で、私はアメリカの作曲家と
認められることはないだろう、と私の友人たちに、
悲しみを述べた。
しかし、私は、ローカル紙で、
『パルム・スプリングの作曲家』
として祝われるので満足であった。
まあ、少なくともそれは何らかのものでしょう。
そのようなものとして、
私は、私の音楽学の友人が行う生体解剖のために、
自分自身を推薦する権利があります。」
以上、クルシェネク80歳の時の自己紹介である。

得られた事:
「クルシェネク自身、自身が難解な作曲をしていることを自覚していたが、1920年代に作曲したものは、単純さを志向したものがあり、この『影を跳び越えて』などは、そうした方向に努力したものであろう。」
「それでも、『影を跳び越えて』の音楽には妥協は感じられず、音楽は自律的で活力に満ち、高度な思考と技法に彩られている。」
「クルシェネクは音楽の最前線にいることを誇りにしていたが、50歳の頃書いた作品にはうまく行ったものもあったため、その間に若い世代に置いていかれた、と気づいた。が、さらに若い世代は、『新しい単純さ』を標榜し始めたので、流行にむなしさを感じたのか、『古い難解さ』の路線で行くことにした。従って、わかりやすいクルシェネクを求めるなら、彼の二十代の作品を探るしかない。」

# by franz310 | 2019-10-14 20:44 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その451

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その451_b0083728_16213857.jpg哲学者アドルノが、若い頃の才気と努力で打ち込んだ
「弦楽四重奏」など作曲の成果を、
私が今回、いくつか見てきたのは、
クルシェネクという作曲家と、
この人が長年、文通していたからで、
彼らの難解な往復書簡集を読んだ経験からである。

実は、私は、もっぱら、
クルシェネクの方に興味があったのだが、
彼ら二人の運命の出会いは興味深いとも思う。

アドルノには、事実上、作曲の道を断念させたし、
機知にとんだクルシェネクだったのに、
彼には、ことさら難解な音楽を追求させることになって、
クルシェネク人気の低落を後押しし、
結局、生涯にわたって文通した二人にとって、
ろくなことはなかった、という感じもする。

そもそも、文通の中身を見ても、
やってる本人たち自身、
その意味に懐疑があったようにも見えなくはない。
敵に回したらやっかいなので、
自分のサイドにおいておこう、
という感じ、
あるいは、もっとも手ごわそうなのに、
まずは、同調してもらおう、という感じか。

もっとも、第2次大戦という、
めちゃくちゃな嵐を食らって、
二人とも、人生な重要な局面で、
生活の基盤レベルから翻弄された、
というのもあるだろうが。

ちょうど、この時代、
フランツ・シューベルトの音楽が再評価され、
私は、その側面で必要性に駆られて読み進めたのだが、
期待通り、
アドルノがシューベルトの評伝を書いた話
(1935年3月10日の「アドルノからクルシェネクへ」)や、
クルシェネクがシューベルトの未完成のピアノ・ソナタを
補筆完成した話(1932年9月30日の「アドルノからクルシェネクへ」)
などが出てくるのは、私にとっては、
現場に居合わせたような興奮があった。

こんな妙な側面や、
彼らの亡命の顛末や新大陸での生活など、
大戦間の歴史なども含めて、
面白い、という見方をしないと、
あまり楽しめる内容ではない。

一方で、以下のような意地悪な見方もできる。

戦前は、空前の大成功を収めたクルシェネクに対し、
作曲家としてぱっとしなかったアドルノが近づいた、
という見方もあろう。

あるいは、戦後はナチスを糾弾して、
花形社会学者となったアドルノの方が、
ずっとネームバリューが出てきて、
若い世代からも受けがよく、
この公開書簡の発表で、
得をしたのはクルシェネクの方かもしれない。

そもそも、アドルノが1969年に憤死した後、
1974年にこれは刊行されている。

クルシェネクは、もう前の時代の生き残りみたいな扱いで、
まったく、時代遅れの象徴としてあしらわれていた頃だ。
この時代に、私たちは、ろくろくわかりもせず、
シュトックハウゼンやヘンツェやブーレーズといった、
気鋭の作曲家たちを現代音楽の代表と思っていたが、
クルシェネクが、同様に、
現代の音楽家という立場で論じられるとは、
考えたことすらなかった。

実際は、作品番号を200番を超えて数えながら、
まだまだ作曲活動を行っていたようだが、
話題になったことなどなかったと思う。

そんな中、唯一、この本がクルシェネクを忘却から
救い出しているようにも思える。
アドルノは、クルシェネクを「最も謎めいた作曲家」と位置づけ、
いくつかの作品を体系的に紹介してくれてもいる。
1934年の手紙では、アドルノは、
「第2交響曲」と「ピアノ曲作品39」が大好きだ、
とクルシェネクに報告していたりする。

「ほかのだれよりも、シューベルトを思い出させる音楽となり」
という文脈では、
「オーストリア・アルプスからの旅日記」などが紹介されている。

一方、日本で深田甫氏が訳したのが1988年。
よくこんな仕事を引き受けたものだと思う。

「怠惰で手がつけられなかった」とあとがきにあるとおり、
また、250ページほどの書簡に、
いくつかの論文など100ページが合わさって、
注釈だけで30ページもあるような代物。

簡単な仕事ではなかっただろうし、
クルシェネクの知名度からすると、
みすず書房も思い切ったことをしたものだと感じてしまう。

しかし、当時、マーラーの音楽はようやく、
全曲演奏会などが盛んになった頃なので、
マーラーの伝記を書き、
第10を補筆したクルシェネクの名を、
私などは意識したことはした。

そういえば、クック版のマーラー「第10」が、
広く聞かれるようになったのは、
サイモン・ラトルが1980年に録音したあたりからで、
1987年に若杉弘が都響で振った実演を私も聞いた。

が、そもそも、作曲家クルシェネクと言っても、
その音楽を聴く手立てはほとんど皆無に等しかった。
オペラの歴史には、必ず出てくる「ジョニー」すら、
日本でレコードが出ていたかわからない。

したがって、当時、この往復書簡を読んだとしても、
取り上げられている作品は、興味をいくら持とうとも、
すくなくとも日本では、
絶対に耳にすることは不可能という状況だったはずだ。
しかし、それから30年して周りを見回すと、
かなりの数のクルシェネク作品を鑑賞可能になっている。

さて、彼らの往復書簡を読むと書いてあるのだが、
彼らの邂逅は、今回、取り上げるオペラの上演をきっかけとしていた。
アドルノが60歳になる1963年に、記念のために、
クルシェネクが「公開書簡」として雑誌に掲載したものに、
下記のようなことが書いてある。

「記憶にまちがいがなければ、わたしたちふたりが知り合ったのは、
およそ40年ほどまえになるかと思います。
『影を超えて跳ぶ』のフランクフルト初演がきっかけでした。」

ただし、この曲がよかったとか、成功したとか、
一切、書かれていないので、
私も含め、多くの人は、あっそ、で済ませられるかもしれない。

一方で、クルシェネクは、お互いの影を飛び越して、
いろいろやってきたが、
あなたの方が、上手に跳んでいた、などと、
書いているので、ここでの「影」は、
いろいろと考えさせられるものなのだ。

が、ドイツの奇特なレーベルCPOが、
録音してくれており、これがまた、無視するには惜しいものなのだ。

このきわめて珍しい録音は、
ビーレフェルド市立劇場合唱団
ビーレフェルド・フィルハーモニック管弦楽団
指揮、ダヴィド・デ・ヴィラーズ
と歌手陣によって行われたものらしい。

上演そのものが、
かなり意表を突くものであったのではないか。
CDを聞いてもわかるが、
ライブなのに、最初の拍手からまばらで、
いきなり聞き始めてテンションが下がるCDでもある。

それもそうだろう。
クルシェネクのオペラと言えば、
前述の「ジョニーは演奏する」(作品45)が
群を抜いて有名であり、
それ以前の作になる(作曲家は23歳の時の作品)
「影を跳び越えて」(作品17)など、
あまり文献でも取り上げられることがないのだから。

とはいえ、最初におさめられた、
約6分の序曲からして
プロコフィエフの初期のバーバリズムを髣髴とさせる
思い切った斬新さや、人を食った挑発的なメロディ、
ショスタコーヴィチを先取りしたような軽妙な楽想、
またまた、物憂げな神秘的な雰囲気も織り込まれ、
飽きさせることなく耳をそばだたせる音楽に満ちている。

彼ら二人の中間の世代に当たる人なので、
そんなものであってもおかしくはないのだが。
ただ、戦争が始まると、
プロコフィエフやショスタコーヴィチとは、
異次元の世界まで飛んで行ってしまった。

さて、このCDについている、
この曲の解説を読んで、
全体像を把握してみたい。

「紹介ノート」
「『影を跳び越えて』は、
ユーモアと懐疑をもって、
社会の治癒の形を提示している。
ここではすべてのものが、
それがかつてあったもののままで、
王子は退位しているが、
大統領は変わらない。
国家は、その影、つまり、抑圧されていたものから
跳び越えようとしている。
この企てもまた異常なもので、失敗に帰する。」

とあるから、第1次大戦で、
多くの国が王政を廃したから、
その流れのお話ということになりそうだ。

このCDで素晴らしいのは、
解説が豊富であることで、
その中に、1980年に書かれた
クルシェネクの自伝のようなものが掲載されていることで、
これによって、
彼がどういう人だったかを知ることができる。

「記録のために:
名前:エルンスト・クルシェネク
生まれ:1900年8月23日、ウィーン生まれ、
それから低地オーストリア。
住所:合衆国、カリフォルニア州、パルムスプリング、
チーノ・キャニオン・ロード623
市民権:1945年からアメリカ
職業:作曲家で作家。

私の苗字からして問題を抱え、
しばしば、議論の対象となってきた。
『Křenek』のもともとの発音は、
『ř』についている発音差記号に従う。
(チェコではハーチェク「小さなホック」と呼ばれる)
私は、合衆国移住後、このマークを使うのをやめた。
というのも、印刷やタイプライターでは消えてしまい、
電話で外国の発音の正しい文字を伝えるのが、
時間の無駄に思えたからである。」

この「ř」は、やはり作曲家の
ドヴォルザーク(Dvořák)がこだわったことで
日本でも知られているが、改めて調べると、
世界で最も難しい発音とされるようだ。

「私の父親は、プラハの南の小さな町、
キャスラブで生まれ、父親の系統は純粋なチェコ人であった。
私の祖父は、トルホヴァー・カメニツェの女中の子、
パトレ・インチェルトと呼ばれた婚外子であった。
男性の部屋係が侯爵の家系を永続させ、
女性の使用人が侯爵のために子供を産むと、
新しいアップパースペクティブが開ける、
などと言われることがあるが、
これは音楽の歴史の話では重要なことではあるまい。
私の母親の先祖の源流はチェコとドイツであった。
時が経つにつれて、ザウアースタインという苗字でも、
ユダヤの先祖だったかどうかはわからなくなるものだ。
私の系譜については、ウィーン市の歴史美術館の
シェーニー博士が非常な苦労をして調べてくれた。
私の父親は、
帝国にして王国オーストリア・ハンガリー陸軍の将校で、
1890年代からウィーンに駐留していた。
こうして、私は自分のことを、
古いタイプのオーストリア人、
古い帝国を記憶していて、
かつ、急速にいなくなった人たちの一人で、
ウィーンに住み着いた住民の二世だとみなしている。
私がしゃべるウィーンの方言が受け売りで、
私のもともとの言葉は、オーストリア高地ドイツ語で、
たくさんの外国語が混ざったものだった。
私が11歳になるまで、祖母とはチェコ語で会話しており、
現在でも簡単な会話なら
この言葉でコミュニケーションができる。」

このようにクルシェネクは、
オーストリア人のアイデンティティを持っていたようだが、
グレン・グールドなどは、
クルシェネクのソナタを紹介するときに、
チェコの作曲家と言っていたりする。

「私はカトリック系の小学校に入り、
ウィーンの18ギムナジウムに通った。
こうした事実で、今世紀の危機の時代、
三十年代の私の考え方を説明することができるかもしれない。
学校では、私はラテン語、ギリシア語、
文学、歴史に熱中するよい生徒であって、
数学には弱かった。
私は、中部ドイツ語が嫌いで、
スポーツを軽蔑していた。
私が好きなキャラクターは、
自作の小説の主人公、アルシビエーズで、
ワレンシュタインの死のオバースト・バトラー、
ハムレットに、カール五世であった。」

このような経緯を見ると、
クルシェネクが、自分の職業を、
「作曲家、ライター」と書くのも、
こだわりがあることがわかる。
また、のちに、最高傑作とされる
オペラのタイトルが「カール五世」であることも、
納得できたりもする。

「私はサッルスティウスを愛し、
アテネとスパルタを模した、
フィクションの大陸にある、
二つの共和国の歴史の記述を、
彼のスタイルで書き始めた。
これらの国の地図を描き、
そこに鉄道を引く計画を立てた。
このことから、私の性格の
実際的な気質が見て取れるかもしれない。
6歳からピアノのレッスンをはじめ、
先生と一緒に古書の楽譜で束で買える、
すべての印刷された四手のためのピアノ曲を弾いた。
1918年、数か月の兵役を経て、
重砲兵隊の『自由志願フォアマイスター』に昇格した。
そしてその時、戦争に負けた。
関連する二つの出来事は、
同時にうまくいくことはない。」

うっかりしていたが、
クルシェネクは、第2次大戦のみならず、
こうした形で、前の大戦にも影響を受けていたのである。
そうは書いていないが、前線に飛ばされずに済んだ、
ラッキーな世代ともいえるだろう。

「1916年に私はウィーン国立のアカデミーで
フランツ・シュレーカーに対位法を学び始め、
先生は、毎週3回、4時間のセッションの、
弟子の指導
(ヨハン・ヨゼフ・フックスのメソッドを、
何らかの形で簡略化したベレマンの教本をもとにした)
に、非常に慎重にかつ忍耐強く、
想像力豊かに、ユーモアを持って熱中した。
また、副の授業としてピアノのクラスを取らねばならず、
シェーンベルクの作品19の小品を弾いたが、
特に何の特別な印象も、明らかに私に残さなかった。
シュレーカーはシェーンベルクの無調の冒険に、
それほど高い評価をしておらず、
レーガー、ドビュッシー、スクリャービンに
最高の評価をしていた。」

資質が違いすぎるので、師匠も弟子も、
どうも座り心地が悪い関係になっていった感じだろうか。

「私はクラスの本棚に、一冊の本を見つけた。
おそらくシュレーカーは書評を求められていたが、
うっちゃっておいたものだ。
エルンスト・クースの『線形対位法の基礎』で、
私はこれを借りて、熱中して没頭した。
エネルギーが流れ出すネットワークのような法則の、
自律的な実在としての彼の音楽理解が、
後年、ベルリンにて、誰にも教わったことのない、
無調による作曲スタイルをとった時の
私に決定的な影響があったことは疑う余地がない。
クース自身の地平はブルックナーどまりで、
何年かして、私が彼をベルンに訪ねた時、
彼の理論に対する私の解釈には、
何の関心も持たなかった。
その時、私はアメリカの軽音楽を集中して聞いていた。
間違ってジャズと呼ばれていたものが、
ポール・ホワイトマンの楽団やその他のコンボによって、
広められていた。
時々、私は同様の軽い音楽を、
商売抜きで作曲してみていた。
アルトゥール・シュナーベルは、
非常に親米的であったが、
この種の回り道については危惧を抱いていた。
彼は、自分たちの水準を下げるべきではない、
という考えだったが、それは、
これらが軽音楽だったからである。」

ここでシュナーベルが出てくるが、
この大ピアニストは、その回想録、
「わが生涯と音楽」(私が読んだのは、和田旦訳、白水社)
に、当時のクルシェネクらの動向を書き留めている。
ちなみに、この和田旦という人が、
同じ慶応の教授であった深田甫氏に、
「アドルノ=クルシェネク往復書簡」を訳するよう、
持ちかけたようである。

さて、シュナーベルの自伝を見ると
シュレーカーがウィーンから連れてきた数人の弟子の中に、
クルシェネクがいたが、
自作の交響曲第1番をピアノで聞かせてくれて、
「圧倒的で感銘深い作品」だったと紹介をはじめ、
親交を結んで、いまだ継続している、
と書いている。

このシュナーベルがクルシェネクの軽音楽接近を
警告したわけだが、このことは、
シュナーベルの本では、このように表現されている。

クルシェネクとエルドマンは、
「ある日のこと私に向かって、
いつも作曲している重苦しいタイプの音楽によるよりも
速く金をもうけるために、軽歌劇を書くつもりだ、
といいました。
私はそれが失敗するに決まっていると感じたので、
彼らにやめるように忠告しました。」

しかし、この後できた作品は、
専門家に聞かせたところ、
「クルシェネクさん、あまりにも立派すぎますよ」
と悲鳴を上げた、ということだ。

CDに出ているクルシェネクの「記録」は、
まだまだ続くが、ここらで、
実際にCDの続きの第1幕を聞いてみたい。

第1幕:
Track2.「私立探偵マーカスのオフィスの電話が鳴るが、
彼はいかなる要件も無駄に終わらせたことがない。
その友人、催眠術師のベルク博士は、
不機嫌に待っていて、「そうだった、それはその」、と
溜息をつく。」

リブレットを見ると、
「マーカスは机にあって、連絡をしている」
という説明の後、
台詞に「13番、14番、15番・・・」
などとあったあと、
「テレグラム、はいはい」と言った後、
自分が探偵である事を名乗る。

「私はたくさんの大人の美女を捕まえました、
彼女たちの旦那は、 彼のライバルの
違法なお遊びの略奪品を没収しました」
などと言っているので、
たいした探偵ではなさそうだ。

Track3.
ベルク博士は長椅子に座って、
そのやりとりが終わるのを待っていて、
「恐ろしいやつだな、全部、俺が絡んだ件じゃないか」
などと言っているが、こちらはバスかバリトンなのか、
少し声の質としては地味である。

マーカスは、
「いや友よ、
みんな向こうからやって来たのですよ、
あなたは催眠術の詐欺師、
いや魂のたかりなんです!
おっと、電話だ電話」
とか言っているから、
共謀した悪の連中ということだろうか。

電話ではなく、トライアングルだ、
などと言って、
ベルク博士がオーケストラを指さす、
など、クルシェネクも手慣れたものだ。

あらすじに戻ると、
「実は、彼はそれに対して、
それほど身が入っておらず、
『千人の魂を誘惑した』と言っても、
実は退屈になっている。
事実、マーカスがある異常な依頼を受けている間、
彼はこうも認めている。
『人生、世界、その他の全て、
これらはみな、私にとってはゲームなのだ。
そこに目的など見つけられないね』。」

いかにも大戦間のデカダンな空気が読みとれる。

Track4.
「退位された王子、クーノが、
彼の妻、レオノーレ王女を調査して欲しいという。
彼の疑惑は、彼女が、
こっそり彼の催しに参加しており、
ベルク博士と恋に落ちているのではないか、
ということであった。
ベルクは、その反対が真実だと言う。
彼の方がレオノーレを愛しているらしい。」

このあたりも、若き日のクルシェネクを苦しめたテーマであろう。

「『それなら、彼女に一緒になろうと言えばいい』
とマーカスは、『私には、彼女の感情を動かす力はないね』と、
認めざるを得ない友人をからかう。
そのくせ、彼がマーカスに代って、
王子に会いに行こうかと言う。
彼は費用は払うと言い、
とにかく好きな人の近くにいたいのだ。
マーカスは、『代金が貰えればね』という。」

いきなり探偵事務所でのやり取りのシーンで始まるオペラなどは、
なかなか想像できるものでもない。
活気のあるオーケストラをバックに、
二人の男の会話が中心の展開なので、
聴衆は、ここで拍手をするが、どうも、途方に暮れた感じ。

Track5.
「詩人のロレンツ・ゴルドハールは
離れたところにいて、
彼もまた、レオノーレ王女を遠くから愛しているが、
会える見込みはほとんどない。
『私の影が弱点なのだが、それを跳び越えることができない。』 」

ここで、このオペラの主題である、
「影を跳び越える」という表現が出てくるが、
「影」は、この意味では、「身分の差」とか、
「社会的な因習」といったものになり、
「自分で設けた限界」とも読める。

Track6.
この精妙なオーケストレーションは、
次のシーン「ベルク博士のサロン」にも続き、
前奏のような部分は、非常に精妙。
合唱がゲストの声を表すが、
歌っている内容は、いかがなものか。

ベルク博士のサロンで交霊会では、
この霊に、すべてをゆだねるのだろうか。
「私たちはマゾヒスト、
苦痛だけが喜びをもたらす、
ご主人様に挨拶をして、彼の意志が固まると、
それが、私たちの法となり標準となる。
自分をなくすということはスウィートね」
などと、このころ出現した「大衆層」を、
小馬鹿にした内容をものものしく歌っている。

Track7.
ベルク博士はレオノーレが長椅子にもたれているときに、
彼女に近づいて、目を見ろとか、自分ができることを信じろ、
とか、口説くような、言い寄るようなそぶり。
彼女は仮面舞踏会に行きたいので、
『行かなくちゃ』とは言うものの、
それは出来ない事であった。
『私の影は、私の夫で、彼を跳び越えることなど出来ないわ。』
彼女から彼女を抑止するものを取り除き、
軽蔑的な娯楽を克服できるように、ベルク博士は催眠術をはじめる。」

Track8.
催眠術のシーンだろう。
怪しく騒がしい合唱の中で、
ベルク博士とレオノーレの声が響く。
「主人に従え、影を跳べ、
大胆に、魂を揺すぶれ」
とあるので、ここでの交霊は、
本能への服従ということか。

「彼女が夢見る詩人ゴルドハールに
パーティで、何とか会えることを願い、
『私は影を飛び越えるわ』と、彼女は決める。
パーティはジャズバンドのホットなリズムの
最初の盛り上がりに達する。」
と解説にあるが、Track7.から、
9.にかけての内容だろう。

Track9.
この仮面舞踏会のシーンの音楽は素晴らしい。
合唱とソリストが、豪華で豊かな色彩に、
楽しいリズムが気分を盛り上げる。

「オーラララ、オーラララ、
ホットなリズムにもっと聞きましょう。
ジャズバンドがヒット曲を奏でるよ。
フォックストロットだ。
アメリカは自由の国」などと合唱が盛り上げ、
ソリストは、「荒々しいダンスの輪に入れば、
心も軽く自由になれる」などと、
浮かれた声を張り上げる。

このような音楽を書くことを、
おそらく、若き日の野望に満ちた
クルシェネクは狙っただろうし、
少し年配のシュナーベルからすれば、
馬鹿な話だと思っただろう。

Track10.
怪しげな伴奏は、詩人の心のためらいを表している。
先ほど、見事な二重唱を聞かせた
レオノーレもゴルドハールも仮面をしていて、
なかなか見つけることができなかったという設定。

「彼は、まだ影を飛び越えることが出来ず、
彼の歌どおりに自由に生きることが出来ない。
『私は彼女を傷つけるだろう。愛した女性を』と言って、
溜息をつく。
レオノーレは彼が言っているのが
自分のことであることがわからず、
パーティに来た仮面の群衆の中に消えてしまう。」

Track11.
王子はグロテスクな仮装で、
従者と現れるが、寝室に行ったはずの妻がいないことを、
怪しんで、この舞踏会に現れたようだ。
舞台の写真を見ると、
王子と言いながら、禿げた中年の設定のようだ。

従者に私が誰に見えるかな、
と聞いて、従者が王子です、
と答えて、黙っていろ、という茶番も、
クルシェネクの考えたものだろう。
解説には、こうある。
「王子クーノは、従者のいる群衆から抜け出し、
自分が見たのが自分の妻であるかを疑い、
また、自分の存在が誰にも分らないと確信する。
いかに、それが間違っていたか。」

Track12.
ここに、女中のオデットが来て、
「誰、あの太った年寄りは」などとからかいながら現れ、
ダンスに引き込んでしまうシーン。

「彼は宮殿から追いかけてきていた
女中オデットを味方にしようとするものの、
彼女は彼を手玉にとって熊のように踊る。 」

オデットの役のダイアナ・アモスも、
声量はないが、すっきりして気持ちがよい声。

「『ジャズは良い解毒剤』と、彼女はあざけるように言い、
クーノは陽気な成り行きの中、
喜劇的な犠牲になる。 」
伴奏は不細工なワルツ風で、
嘲笑するような楽句が飛び交う中、
彼らは舞台から消える。

Track13.
このシーンは、なんだか倒錯した部分。
いきなり、妄想に取りつかれた侍女が、
メゾソプラノで、情念に満ちた音楽を拡散しはじめる。
濃密な闇を思わせる雰囲気たっぷりで、
後期ロマン派の行きつく先、あるいは表現主義か。
クルシェネクの魅力は、このあたりにもありそうだ。

「王女の侍女でもある侯爵夫人ブランディーヌは、
本来とは違うアイデンティティに捕らわれ、
レオノーレに言われたように、
催眠術師のベルク博士を探し、
ゴルドハールをベルクと間違える。
ブランディーヌは、彼が彼女を愛していると、
自らに言い聞かせ、
ブランディーヌにも
ゴルドハールにも失望したレオノーレに見つかる。」

危ういシーンであるゆえに、
きわめて陶酔的な三重唱に発展し、
さらに音楽が高揚していくあたり、
クルシェネクの筆も冴えている

「ランディーヌはゴルドハールを
ベルクだと思い込んだまま、
バラを持って宮殿の門に
夜になる前に来るようにという。」

これで第1幕は終わるが、序曲では、まばらだった拍手が、
かなりの共感がこもったものになっている。

得られたこと:
「作曲家のクルシェネクと哲学者アドルノは、音楽を共通の話題として生涯にわたって文通をしていたが、彼らの書簡集の発表が、あるいは、クルシェネク再発見のきっかけになったのかもしれない。」
「彼らの共通の興味にシューベルトの音楽があった。シュナーベルやエルドマンなど、シューベルト再発見の功労者たちも、クルシェネクの交友範囲にあった。」
「クルシェネクは、ジャズをヒントに新しいオペラを書こうと考え、『影を跳び越えて』という軽歌劇を書いたが、シュナーベルからは反対された。が、これが初演されるや、アドルノとの付き合いが始まった。」
# by franz310 | 2019-10-13 17:10 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その450

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その450 _b0083728_21212322.jpg個人的経験:

シューベルトの音楽を

再評価した先達、

T.W.アドルノは、

クルシェネクとの文通でも

日本では知られていて、

自らの作品についても、

熱く語っている。

しかし、哲学者アドルノの

音楽を収めたCDは多くない。

とにかく、完成作品が少なく、

作品の規模が小さいので、

それだけのアルバム作成は

難しいのだろう。




ただ、時折、他の作曲家の作品と、

抱き合わせで取り上げられることはあり、

同様に新ウィーン楽派に心酔した、

作曲家、アイスラーの作品と、

一緒に収められたCDが、

cpoレーベルにある。

表紙絵画は「ハムステッドの夕食」という、

ゲオルグ・アイスラー(作曲家の息子)のもので、

「ハムステッド」とはロンドンの高級住宅街らしい。

彼はナチスを逃れて、かの地に在って、

ココシュカに師事したとある。

ココシュカ風の線や色を感じるが、

ここにも、父親同様の社会批判があるかは分からない。

このCDで演奏しているのが、

ライプツィヒ四重奏団であるが、

現代曲で鳴らした団体ながら、

同時期に、かつ、違うレーベル(M+DG)に、

シューベルトの弦楽四重奏曲全集も

録音しているのが面白い。

ちなみに、彼らは、「ます」の五重奏曲も

このM+DGレーベルに1998年に録音している。

T.W.アドルノの本を読むと、

彼は、自分より五歳年上の

ハンス・アイスラーが作曲した

ブレヒト歌曲の作曲技法に、

批判的だった、

などという文章が見えるが、

このアイスラーのものと並べられて、

同じCD内に自作が収められると、

考えたことなどあっただろうか。

その文脈で聴くと、

極めて皮肉なカップリングのようだが、

解説を書いている人は、

大真面目に、

彼らを似た者同士として扱っている。

「ハンス・アイスラーとテオドール・W.アドルノ

弦楽四重奏曲集」

ハンス・アイスラーとテオドール・W.アドルノの弦楽四重奏曲は、

彼らが指示した芸術上の理想に対し、

ある種変わった角度からの立ち位置としている。

1938年に作曲された、

アイスラーのただ一つの弦楽四重奏曲と、

アドルノの中で最も成熟した弦楽四重奏作品、

作品2となる1925/26年の「二つの小品」は、

20世紀音楽の偉大な革新者、

アーノルト・シェーンベルクに明らかに負うていると共に、

彼ら自身の道を行ったものである。

彼らは1920年代初頭に創出された12音技法に則り、

これら二つの二楽章からなる弦楽四重奏曲は、

シェーンベルクの作曲美学上の中心にあった

変奏曲の形式をはっきりと利用している。

この二つの弦楽四重奏曲は、

互いにほとんどもう一方を補完するようなもので、

アドルノの場合、展開を行う第1楽章に、

変奏曲の楽章が続き、

アイスラーのものは変奏曲で始まって、

「終曲」と題された第2楽章が続く。

哲学者のテオドール・W.アドルノの包括的な

作曲作品が、ハインツ-クラウス・メッツガーと、

ライナー・リーンが推し進めた多大な努力によって、

公衆の前にスポットライトが当てられたのは、

ごく最近のことである。

アドルノが、若いころ、作曲家になろうと、

真剣に考えたのは明らかで、

1925年にはアルバン・ベルクに、

作曲の弟子にしてもらえないかを、

手紙で問い合わせている。

この手紙で、それまでの勉強の成果を、

以下のように書き連ねている。

『おそらく、あなたは私の事を覚えておられるでしょう。

1924年、フランクフルトでの音楽芸術家祭で、

シェルヘンにあなたに紹介してもらっており、

私はあなたと一緒にウィーンに行きたい、

という希望を述べました。

その計画は今や実行可能な状態で、

私を連れて行くことについて、

あなたがどうお考えかお教えください。

私が受けたこれまでの教育についての要約です。

私はフランクフルトで1903年に生まれ、

1921年にそこで中等教育を終えました。

1924年に認識論の研究で、

フランクフルト大学で哲学の博士号を受けています。

私は子供のころから音楽に関心がありました。

最初、ヴァイオリン、それからピアノを学びました。

同時に早くから最初の作曲を試みもしています。

和声学は独学で学び、1919年に歌曲と室内楽を学ぶべく、

ベルンハルト・ゼックレスの門を叩き、

以来、彼のもとで勉強しています。』」

アドルノが先の手紙を書いたのが1925年なので、

1919年から25年という数年間は、

ベルクの直接的指導前の時期ではあるが、

決して独学でやっていたわけではなく、

ゼックレスという先生の影響は受けて、

作曲も行っていたのであろう。

このCDは、アドルノの作品が

三曲も入っているので期待したのだが、

ほとんどその全てが

アドルノの二十歳前後の若書きなのだ。

ここに収められたアドルノの三つの作品の中、

1920年の「弦楽四重奏のための6つの習作」と、

翌年の「弦楽四重奏曲」は、

ベルクに師事する前、

ゼックレス門下にあった時代の作品だということだ。

「ベルクはこの将来あるアドルノを弟子として受け入れた。

アドルノはベルクに捧げる最初の作品、『変奏曲』を

極めて短時間で書き上げた。

第二次ウィーン楽派の見地からすれば、

芸術上の規律、豊富なものからの均衡、

集中という意味で、変奏曲ほど、

学習、評価に適しているものはなかった。

しかし、これはアドルノにとって

最初の弦楽四重奏の試みではなかった。

私たちは、彼は、このころすでに、

第二次ウィーン楽派の自由な無調の作品に

かなり没頭していたと考えるべきである。

何故かと言えば、性格的にも、簡素な語法的にも、

和声や音色の凝縮から言っても、

この変奏曲は明らかに

シェーンベルク楽派の要点を押さえているからである。

1920年に17歳のアドルノが作曲した

弦楽四重奏曲のための6つの習作は、

暗い光のきらめきに満ちている。

1921年にゼックレスに捧げられた

弦楽四重奏曲には、

ベルンハルト・ゼックレスによる導きが明かである。

その4つの楽章(Massig、Sehr langsam、Presto、Ruhig)

後期ロマン派の調性と和声の解放の境界を

思い切って大きな形で超えている。

この四重奏曲は、

芸術のイニシエーションを受けた若者の、

特筆すべき到達点とも見える。

『弦楽四重奏のために2つの小品 作品2』は、

何をベルクがアドルノに教授したかが、

強調されて開陳されている。

主題群は明らかに定式化され、

何よりも、モチーフ群の厳格な処理において、

大きな進展を見せている。

四重奏の音色はベルクの『抒情組曲』や

シェーンベルクの『弦楽四重奏曲第3番』で、

大きく宣言されていたものがヒントになっている。

言うなれば、皆が同じものをまさぐっており、、

アドルノの作品にも、

彼が少なくとも部分的に

セリー技法に抱いていた疑惑も

また明瞭に聞き取れる。

自由な処置の要素への

彼の擁護は明らかである。

また、反復構造を持つ

変奏曲を決定する

変奏主題の構造も、

規範を満たすと同時に、

変奏の一つとなっている。

ベルクは性格的な展開の形式の

包括的な設計に決定的な影響を及ぼしており、

シェーンベルクへの手紙でも、

この四重奏曲を大いに称賛している。

『ヴィーゼングルントの極めて難しい四重奏曲の演奏は、

コーリッシュ四重奏団の演奏会における

大きな爆弾でした。

メンバーたちは8日も研究し、

明解な答えを提示しました。』

私はヴィーゼングルントの作品は、

とても良いものと思いますし、

いつか、あなたがそれを聴くことを望むとすれば、

あなたも喜んでくれると思います。

いずれにせよ、全体の構成における、

その厳格さと簡潔さ、

そしてとりわけ妥協のない純度によって、

(他ならぬ)シェーンベルク楽派の作品と

言って良いものです』。」

ここでは、アイスラーの方が、

後に紹介され、実際、その作品も、

時代的には、アドルノより後のものである。

しかし、CDでは最初にこのアイスラーの作品が収められていて、

冒頭のチェロ、訴えかけるような不機嫌な音型から、

陰鬱なイメージが漂う。

この作品は1938年の作品とあるから、

戦争が始まりつつある時代の

不吉な情勢を読み取って良いのだろうか。

「アイスラーの美学の

政治的に実用的な方向性は、

室内楽においては、

まったく異なる重みを与えたということになる。

弦楽四重奏曲に2年先立つ記事、

『音楽における社会的機能』(1936)

の中で、アイスラーは『大きな音楽形式』

(ソナタ、四重奏など)の

新しい目的について表形式で表した。」

以下、ぶつ切りで示されている文章は、

この表形式を抜き出して書いたからであろう。

「『学習曲、映画音楽、等々

といったタイプの主題を検討するに当たって。

それに加え:

政治集会のための、

機能的音楽は、もっとわかりやすく、

慣習的な考え方からもっと離れて、

それを破壊しなければならない。

場所:コンサートホール。』

こうした見地からすると、

アイスラーが、すでに1920年代に

シェーンベルクに師事しながら、

師と対立しなければならなかったか、

が容易にわかる。

(シェーンベルクは、彼に、

「何が作曲家に最良の事をさせるか」を説いた。

それは、「ひたすら音楽を書くこと」だ。)

作曲の技術を研ぎ澄ましながら、

心地良さに傾きがちな音楽鑑賞の習慣の土台を

浸食することがアイスラーの目標だった。

これらのことが刻印されているのが、

彼の『弦楽四重奏曲』である。」

確かに、多くの作曲家は、

教育用音楽(シューベルトにおいては、

エステルハーツィ家における教育用音楽)、

映画音楽(シューベルトにおいては、

オペラ以外にも「劇への付随音楽」などがある)、

に手を染めてはいるが、

これらをわざわざ表形式にして、

違いをまとめて説明したりはしていない。

したがって、近年に至るまで、

何故、この曲は作曲されたのか、

はたして教育用なのかコンサート用なのか、

などという議論があったりもする。

ここでは、弦楽四重奏曲の話をしているので、

シューベルトに当てはめると、

初期の作品は家庭で演奏されるためのもので、

後期のものは、演奏会を意図した、

と普通に論じられていたりする。

が、シューベルト自身がそう言ったわけでもなく、

だから、このような違いを設けた、

などと宣言しているわけでもない。

演奏の困難度や楽想の込み入り方や規模によって、

後世の研究家が、そうだと言っているだけである。

アイスラーに戻ると、

四重奏というものは厳格なもので、

心地よさを求めるのとは異なる美学で

書かれねばならないということだろうが、

多くの作曲家は、そこまで割り切っておりはせず、

心地よさもバランスを取っているような気もする。

アイスラーが書くように、

ここで聞かれる弦楽四重奏曲は、

極めて、個人的な独白のような感じがする。

勢い余って極論を書いてしまうと、

飲み屋でくだを巻いている酔っ払いの

愚痴を聞かされているような気がしなくもない。

第1楽章の変奏曲からして、

気が滅入るような雰囲気の音楽だ。

こうした意図が織り込まれたものだったようだが、

一人で自問自答していればよい、

と切り捨ててもよいかもしれない

途方に暮れたような表情に、

ごつごつ、ぎくしゃくした音型と、

ほとんど聞き取れないような独白、

何かを希求するような喘ぎがある。

たった2つしか楽章がないので、

第2楽章が、「終曲」となるが、

軽快、軽妙なリズム感で控え目に始まるものの、

やがて、熱狂的な盛り上がりを見せ、

そこここに挑発的な音型が散りばめられている。

戦争と関係があるのか、

それに触発されたアイスラー個人の、

いらだちの表現なのだろうか。

下記のように、亡命先での作品であれば、

それがないとは考えられないが。

「アメリカで亡命者として暮らし、

彼はドイツにおける

彼の音楽のへの直接的な扇動的要素の

入れ込みから切り離されてしまった。

『ドイツ交響曲』や『レーニン』という、

偉大な交響的オラトリオ作品の作曲家は、

弦楽四重奏曲を、

おそらく厳格な自己規律とも言える

純粋な作曲の実践作業と捉えていた。

1935年に一度、それを放棄していたのだが、

1938年に彼はニューヨークで、

作曲を教えることを再開させていた。」

この作曲の教授の再開は、

この曲とどう関係するのか、

このエピソードは尻切れトンボのように感じる。

ライプツィヒ四重奏団の演奏は、

共感に満ちている、というべきか、

非常に闊達に、極めて思索的とも言えるこの曲に、

雄弁な推進力を与えている。

それだけに、この唐突な終わり方に、

拍子抜けしたような感じを受ける。

アイスラーは、亡命先で、

まず、先立つものがなく、

見回すと、何の当てもなく、

とにかく生計を立てる必要もあったはずだ。

そんな中で、

基本に立ち返るための作品を作ったという事だろうか。

「二つの楽章は緻密なポリフォニックなテクスチャーと

主題展開の重視によって区別できる。

12音技法が基本となって導き、

2つの楽章は同じ音列が元になっている。

構成要素は常に明瞭に聴き取れ、

音楽の設計は、建築学的に関連性のある

一連の実験の表出が強調されている。」

Reinhard Schulzという人が書いているが、

いくら読んでも、この曲の核心には迫れそうにない注釈で、

頭が痛くなってくる。

「それにもかかわらず、

彼自身にとって本物であると思える音を主張している、

私たちは、この曲の人工的なリズムの中、

徹底的なスピーチのような感触の中、

そして2つの楽章を顕著に駆り立てる不安感の中に、

こうした音を感じることができる。」

わからなくもないが、

彼が生きた時代、その環境に興味があれば、

この時代を生きた芸術家の心情吐露は十分味わえる。

なんだか尻切れトンボ的な終わり方で、

結局、何だったの?

という感じを増幅しているが、

それもある意味、挑発なのだろうか。

「彼の作品で、最も知られざる、

純粋な室内楽でさえ、

扇動的な傾向なしではない。

4年前、1934年に

アイスラーは、緻密で集中力の高い

『BACHによるプレリュードとフーガ』

という弦楽三重奏曲を作曲した。

これは亡命生活の始めの時期で、

ここでもまた、

展開の技術的水準の熟考に焦点が当てられている。

バッハはアイスラーのこの作品にとって、

最良で最も美しい規範であった。」

この曲は、1分半のプレリュードと、

約3分のフーガからなるが、

簡潔な主題から目を見張る解放感があり、

いささか理詰めにも思われる後者でも、

最後に冒頭の主題が奏でられて、

首尾一貫した印象を与える。

得られた事:

「アドルノは確かに早熟な才能を示しており、ベルクの肝いりで、新音楽の旗手として紹介された。アドルノは、その期待に沿う事で、袋小路にはまり込んだのかもしれない。『妥協のない純度』などとほめそやされたら、だんだん、筆が重くなっても仕方がないような気もする。」

「アイスラーは、『ひたすら音楽を書くこと』を諭す師匠のシェーンベルクを、弟子の立場から否定、積極的に音楽鑑賞の習慣の土台を浸食することに専念した。社会的な事象に個人的な思惑が複雑に絡まる妙な路地に転がり込んでいる感じもする。」

「新ウィーン楽派の次の世代は、第二次大戦の影響をもろに受けつつ、故郷を失い、師匠筋との断絶にも四苦八苦したという事であろうか。純度を語るには、あまりにも混沌とした時代だったとも言えるだろうし、混沌としていたがゆえに、純度や侵食やらが重要だったとも言えそうだが、そんな体験をCDで追体験するという行為にも、何やら後ろめたいものを感じる。」


# by franz310 | 2019-08-13 21:26 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その449

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その449 _b0083728_17355809.jpg個人的経験:

アドルノは、極めて音楽に精通し、

生前から称賛されながらも、

「そんな口をきく勇気を

あなたはどこで得たのですか?」

と詰問されたりもしている。

こんな事まで言われる

傲慢不羈な音楽評論家は

めったにいるまい。



そんな事から、

この人自身が書いた音楽を集めたCDを聴いてみた。




現代音楽の録音が多い、

ドイツのWERGOから

「テオドール・W.アドルノ音楽作品集

という一枚が1990年に出ている。

1988年9月17日、

フランクフルト旧オペラ座での録音で、

カバーは、今回もカンディンスキー。

「コンポジションⅣ」(1911)である。

以下の曲が集められて、

沢山、聴けてお買い得盤だとまずは思った。

弦楽四重奏のための2つの小品作品2(1925/26)

ブッフベルガー四重奏団

6つの短い管弦楽曲作品4(1929)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

無伴奏女声四部合唱によるテオドール・ドイブラーの3つの詩(1923-1945)

ハンス・ミヒャエル・ベウエレ指揮フランクフルト室内合唱団

マーク・トウェインによる計画されていた音楽劇「インディアン・ジョーの宝」

からの2つの管弦楽伴奏歌曲(1932/33)

マキシミリアン・キーナー(トム・ソーヤー)

ホルガー・ナイザー(ハックルベリー・フィン)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

小管弦楽のためのロベルト・シューマンの作品68からの

6つの小品「子供の年」(1941)

ベルティーニ指揮フランクフルト歌劇場・博物館管弦楽団

解説はシークフリート・シブリ(W.リチャード・リーヴス英訳)。

このシブリ氏(アドルノの作曲家としての創造活動の研究家)

が、1988年9月、シンポジウムに合わせて、

フランクフルト旧オペラ座で開いたでのコンサートの記録。

この時、「作曲家アドルノ」というブックレットが出版され、

プログラムとして提供された。

さすが、哲学者の作曲した作品であるだけ、

いきなり、難しい事が書いてある。

「テオドール・W.アドルノは、

哲学者のヘーゲルと同様、

芸術作品は知識の形であると考えていた。

このことが、アドルノの立場を、

芸術は、世界を写し、

それゆえ、知的な興味から引き離された鏡にすぎない、

とする同時代の多くの他の思想家の立場と異ならせている。

最初から頭が混乱する。

芸術とは何か、という問いに対し、

「知識の形」

「世界を映す鏡」

のいずれであるか、

などと考えてから、

五線譜に音符を並べて行ったわけではあるまい。

以下、こんな事が解説されている。

「それゆえ、アドルノの芸術作品を

単なる余暇の活動と分類するのは間違っているのだろう。

特に、彼は『趣味』の概念を厳しく批評してもいるのだから。

例えば、彼は、その最後に完成させた

書籍『キャッチワード』に見られる

『レジャータイム』というエッセーで、

『私には趣味がない』と書いている。

『自分がやらなければならないこと以外のことで、

自分を追い込む意味がわからないという程には、

私は仕事中毒ではありません。

しかし、私が普段努力している以外の分野についても、

こうした活動を趣味と呼ぶのかもしれませんが、

例外なく、私は行っていることについて真剣に考えています。

これらは比較的無意味な、時間を無駄にする活動で、

非常に不愉快なものであって、

現在では、一般に受け入れられている

この野蛮な風習の現れに対しても

寛容になるような体験にはなりませんでした。』」

これまた、頭が痛くなるロジックである。

「真剣な余暇」はない、ということか。

「それが出来るように、

アドルノの生涯にわたる生産性と比較しても、

19歳にして野心的な重要作品をすでに書いており、

1969年に亡くなるまで作曲を続けていたため、

作曲が人生の中で補助的な役割を果たしたことは明らかである。

郷里のフランクフルトで、

まず、最初はプライベートで、それから、ホッホ音楽院で、

ベルンハルト・ゼックレスやエドゥアルト・ユングに就いた。

1925年、16歳のアドルノ

(訳注1925年なら22歳のはず、

16歳なら1919年のはず)は、

すでにシェーンベルクの楽派が

音楽の進歩の方向を示していると確信し、

アルバン・ベルクや

エドゥアルト・シュトイアマンの下で学ぶために、

ウィーンに旅した。

アドルノの「ミニマ・モラリア」の回想140番によれば、

ゼックレスは、それは、『過去のもの』として、

『ウルトラ・モダンな』無調の音楽を書くのを、

諦めさせようとして失敗し、

アドルノには、郷愁という汚名が付けられていた。

ベルンハルト・ゼクレスは、

指揮者でもあったハンス・ロスバウトや、

イタリアの作曲家でピアニスト、

カゼッラの師匠らしいので、

そこらのおっさんのアドバイスではなかったようだ。

「アドルノの音楽作品をよく研究した人の一人、

ディーター・シュネーベルは、1970年に、

『同時代の他の作品に比べると、

アドルノの作品に何か時代遅れのものがあることは確かで、

そこには、シェーンベルク、ベルクや、

ウェーベルンが20年も前に作曲したものを超えるものがない。

それらは形式的に新ウィーン楽派の伝統のもので、

偉大な作曲家たちがすでにそのような形式を放棄したときに、

それでもそれらは書かれている。

第一次世界大戦以前の音楽の精神を思い出させ、

アドルノの音楽には、何か、郷愁のような質感が感じられる。

それは、新音楽の偉大な英雄時代への憬れを表現している』。」

この「第一次大戦前の音楽」というのは、

妙に生々しいイメージを感じさせる。

そうであるなら、確かに欧州各国の帝政時の音楽、

ということになり、時代遅れに違いあるまい。

「このフォームは歌曲、弦楽四重奏の楽章、

女性合唱のための作品、管弦楽作品にも及んでおり、

1980年にハインツ・クラウス・メッツガーと

ライナー・リーンによって出版された二巻からなるアドルノ作品集、

1980年のミュンヘンシリーズ版のテキスト、

批評 でも確かめられる。

このコレクションは作曲家としてのアドルノにまず注意を引き、

アドルノ自身が認めた作品(メッツガー、リーン)のみを含む。

これは、あるいは、この録音もまた、

アドルノが、明らかに、もっと重要な作品が出版されるまで、

世に出すつもりがなかった他の作品は含まれていない。

こうした他の作品にはそれぞれ一曲ずつの

弦楽四重奏曲、弦楽三重奏曲、弦楽五重奏曲、

それにピアノ作品集がある。

ピアノ伴奏つきの歌曲は、アドルノの『作品集』の

最大の部分を占めている。

シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンと同様、

作品1と作品7のテキストとして使ったステファン・ゲオルゲの詩や

『表現主義の時代』からの同時代の抒情詩に

作曲することを好んだ。

これらの難解な作品の作曲年代は奇妙で、

作品1が1920年代に書かれているのに対し、

作品7は1944年まで書かれていない。

アドルノの芸術歌曲は、

作曲技法に関する限り、統一されたグループとなっていない。

作品3の3のトラークルの詩による『In Venedig』のように

快活で朗々とした作品(これはアドルノは最もベルク風と呼んだ)や、

作品7の4のゲオルゲの詩による『Kreuz der strasse』など、

もっと不安定なウェーベルン風のもの

(ここでは描写的な瞬間が、全体的に抑制されているわけでなく、

全体構造に非常に微妙に織り込まれている)がある。」

確かに、これらの作品は、

精緻に書き込まれているという感じがする。

しかし、第一次大戦は、続く大戦と共に、

あまりにも多くのものを消滅させてしまった、

という事になろうか。

アドルノは、ナチスのような全体主義に異を唱えたし、

ナチスを生んだのが、

第一次大戦の余韻であるかもしれない、

とは言いながら、その前に戻ればよい、

というものでもないだろう。

「彼の論述の中で、12音技法を(彼の主張を要約すると)

『自由な無調』からの回帰として批判しているのは、

おそらく興味深いことで、例えば作品6のバガテル集のように、

彼は自身の作品でしばしば12音技法を使いながら、

新しいテクニックの創造性は活用しつつも、

それを自動的な作曲方法として悪用することはなかった。」

この解説の腹立たしいのは、

作品3だ6だと書きながら、

これらの曲は、このCDに入っていない、

という点である。

「『新ウィーン楽派』は難解な『芸術のための芸術』しか

生み出していないと一般的に考えられているが、

実際には機能的で政治的に関わる音楽の例さえある。

アドルノの公開された作品でもベルトルト・ブレヒトの

プロパガンダの2つの詩に作曲したものがあるが、

これなどはおそらく、

ハンス・アイスラーのプロテスト歌曲に対する、

語法の創造性を批判が意図されたものであろう。

他の声楽作品にはテオドール・ドイブラーのテキストによる

3曲の女声合唱曲があり、1923年に書かれ、

1945年に作曲者自身によって改定された。

クリタス・ゴットヴァルトは

これらのドイブラー合唱曲に関して、

このように書いている。

彼は全てが決定論的な芸術作品に、

自動的に意味があるだろうかと疑った。

しかし、この1923年の作品では、

彼はそう単純に言い切れるか満足できなかった。

またまた、難しいお話となる。

「決定論的な作品」とはなにか。

予定調和的ではいかん、なら分かるが、

「あらかじめ原因があるかどうか」

という議論をするとなると、

誰かの詩に曲を付けただけでダメ、

ということにならないか。

「アドルノは全体的な決定論に代わるものとして、

調性も色彩主義も、全音階主義も無調律も排除されず、

意味あるように構成された音楽のビジョンを提供した。

この一節も難しい。

最初から、こうやって書こう、

と構想しないということか。

決めないで、何でもありにしようということか。

それは、いちいち哲学する必要があるのか。

真面目に五線譜に向かえ、

と言いたくなる人はいなかったのだろうか。

「アドルノの音楽劇への唯一の試みは、

マーク・トウェインを原作とした、

『インディアン・ジョーの宝物』のジングシュピールで、

このリブレットと二つのオーケストラ伴奏歌曲が残されている。

このプロジェクトの直接的な放棄の理由は、

アドルノの友人、

ワルター・ベンジャミンのからの批判であった。

アドルノが子供の世界を使って、

非常に深刻なもの、

特に恐怖の現象を表現したいと望んでいたところ、

ベンジャミンは台本から

すっかり牧歌的なものが削られていることを見て取った。」

これで、筆が止まったのなら、

ベンヤミンの言葉は図星だったということか。

ボーイ・ソプラノで歌われる

「猫の死の歌」 を聴くと、

声の質感も美しく

音楽は巧緻極まるが、

ベルクの音楽との違いは分からず、

「トム・ソーヤー」を題材にする意味が分からない。

「ハックのパフォーマンスの歌」は、

より軽妙だが、前の曲同様、楽器の扱いも巧妙。

だが、たかだか1分半の音楽なので、

全体がどのように構想されていて、

どれだけの規模の作品になる予定だったのかまでは分からない。

まさか、数十分で終わる作品だったのだろうか。

そうだとしたら、とにかく、全部書いてくれ、

という感じもする。

「器楽曲もいくつか残っていて、

1920年代のアドルノとしては、

複数楽章や循環形式など古典的原則を避けた、

弦楽四重奏のための2つの小品が書かれ、

1921年にはすでに弦楽四重奏に高く手を伸ばしていた。

一曲目は『動きをもって』と記され、

もう一曲は変奏曲である。

これは、アドルノの師であったベルクの精神を含み、

また、シェーンベルクの音楽の激しい音響効果や形式の厳格さがある。」

この弦楽四重奏の小品は、何とか、

このCDに収められていて「作品2」とされている。

最初の曲は、約7分で、

この規模で4楽章揃えば、立派な弦楽四重奏曲になる規模である。

「動きをもって」とあっても、せわしないものではなく、

きわめて優しげな表情の序奏から始まり、

アドルノの哲学の辛辣な舌鋒は感じられない。

やがて、何かを求めて焦るかのように、

音楽は、大きく揺れ動く。

時折、序奏の表情に和ませられるが、

何か皮肉な色合いが混ざることもある。

ベルクの四重奏に似ている、と片付けることも可能だろう。

二曲目の曲は5分で、変奏曲にしては短い。

この曲の冒頭も、妙に思索的、内省的。

何でもかんでも吐き捨てるように言い切るアドルノの文体ではない。

音楽は、いくぶん、悩まし気に、探りを入れながら進む。

最後は、それも諦めたかのように沈黙していく。

この後、いきなり大編成の音楽が、

しかも、やかましく始まるので、

雰囲気がぶち壊されるのが、

このCDの困ったところである。

「1929年にはアドルノは作品4として、

6曲の管弦楽用の小品を書いた。

これは明らかにシェーンベルクやベルクの

管弦楽曲を想起させるが、ずっと短い。

二つは密度高く構成されたミニアチュアで、

たった12小節の長さしかなく、

きわめてデリケートな解釈を求める。」

これは3曲目と5曲目のことだろうか。

3曲目は、目まぐるしい音楽の流れの中に、

いろいろな楽想が浮かんでは消える。

5曲目も同様にせわしない感じのもので、

「ワルツ」とあるが、めちゃくちゃな旋回で、

ざわざわした音楽。

ヴァイオリン独奏が、ぴゃーっと鳴って終わる。

どの曲もあっと言う間に終わるので、

これまた、次の女声合唱曲が始まる感じ。

ドビュッシーの「夜想曲」みたいな感じになるが、

単に、別の曲が始まっただけである。

「夕暮れ」も、「冬」も「時々」も、

二分未満で、それぞれの曲を、これはこう、これはこう、

と論じようと思う前に音楽が終わってしまう。

実際には、「夕暮れ」にせよ、「冬」にせよ、

そのタイトルにぴったりな雰囲気があるのだが。

「アドルノはまた、すぐれたピアニストでもあったので、

自作の歌曲の伴奏のみならず、

ロベルト・シューマンの歌曲の伴奏をすることを好んだ。

『子供時代から(子供の年)』の6曲は、

シューマンの『43の子供のための小品』から抜粋され、

小オーケストラのために編曲されたものである。

オーケストレーションは、

アドルノのアメリカ亡命時代になされたようだが、

何がきっかけになったかは知られていない。

シューマンのトランスクリプションは、

社会学者であり哲学者としてより知られた一人の芸術家による

小品でありながら高度に洗練されたもので、

自身、作曲家として単にディレッタントとしては

留まることを許さないような特異なものとなっている。」

これらは40秒台で終わってしまうが、

他の4曲も、一分半くらいのものなので、

6曲合わせても7、8分で終わってしまう。

これでは、演奏会で前座すら務められないではないか。

そもそもこのCD自体が短すぎる。

シューマンの編曲は、

エルガーの小品を聴いているような感じ。

したがって、聴いていて気持ちはよい。

アドルノが何をしたかったのかは、

さっぱりわからない。

私は、このCDを10回以上聴いたが、

時間の無駄だったような気もしている。

得られた事:「アドルノは立派な作曲家であったかもしれないが、早くから、『郷愁男』などと揶揄されていたように、先人の影響を受けすぎていた。」

「ただし、その先人が、当時、まだ一般的な存在でなかった新ウィーン楽派であったために、何だか現代音楽っぽく感じられるだけ。」

「このCDで聴く限り、どの曲も短くて、いかなるコンサートで取り上げられても、印象を残さず終わると思われる。」

「人を非難する言葉が饒舌な割には、音楽は簡潔で、印象も薄い。おそらく、書けば書くほど、自分の言葉にとらわれたのであろう。そういう意味では誠実である。」



# by franz310 | 2019-06-16 17:38 | 現・近代