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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その463

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その463_b0083728_21470295.jpg個人的経験:
クルシェネクは、
ナチスの嫌がらせを受けて亡命、
定職があるわけでもなく、
「預言者エレミアの哀歌」といった、
十二音技法と旋法を融合した
実験的作品を作ったりして、
いわば、コロナの自粛での
外出しての仕事が困難な状況よろしく、
ああじゃこうじゃと考えていた。


1942年6月、彼はアドルノに書いた書簡にて、
9月以降は、ミネソタ、セントポールのハムリン大学に
住所が移る旨、連絡しているが、
彼らの書簡集ではこれに先立つものは
1941年8月のものとなり、
そこでは、「芸術百科事典」の執筆の分担について、
無調と十二音技法について協同で論じられないか、
などとやり取りがなされている。

書簡の中で、彼は、「無調」は「調性」や「旋法性」と
相互関係にある事などを論じているので、
クルシェネクは、改めて、音楽史の中で、
「十二音技法」を捉えようとしていたようである。

彼がミネソタを選んだのは、
そこに、現代音楽に理解の厚かった
指揮者のミトロプーロスがいたこともあるが、
それというのも、
ミネアポリスというミシシッピ川に恩恵を受けた、
小麦産業の大都市があり、
音楽を愛好する市民階級が多数いたのであろう。

ミネアポリス交響楽団の
ミトロプーロスの前任はオーマンディ、
後任はドラティ、スクロヴァチェフスキと、
日本でもレコード録音で有名な指揮者が招かれ、
商業録音でも早くから成果を出していた。

オーマンディ時代にも
1934年にシェーンベルクの「浄夜」、
1935年にブルックナーの第7、
マーラーの第2交響曲「復活」
といった、直接、クルシェネクに繋がる路線の、
野心的なレコード録音がなされていた。
これらは、日本でも、早くからあらえびすが紹介していた。

このような交響楽団を有するミネアポリスを
いわば双子都市として持つセントポールであれば、
自分のぶっとんだ音楽も、
理解されるはずと
クルシェネクは踏んでいたのであろう。

実際、彼はそこそこ暖かく迎えられたのであろう、
赴任して2年半後の1944年の9月には、
アドルノ書簡で、
「ミネソタの厳しい天候も
学校の内外の仕事のおかげで
まあまあ補償されている」
などと書いており、
学生たちも面白く、刺激を与えてくれるとも書いているし、
ミトロプーロスが「第2交響曲」を取り上げた事、
グールドが愛奏することになるピアノ・ソナタ第3番や
新しい弦楽四重奏曲の完成についてまでも報告している。

後期ロマン派の大交響曲の
スーパーモダニズム版みたいな
第2交響曲が演奏された、という事自体、
ものすごいことではないか。
セントポールは、その名の通り、
宗教的な街であろうから、
この神をも恐れぬ音楽が、
何なく受け入れられたりしたのだろうか。

Stewartの評伝では、
オーケストラ運営サイドは、
演奏するに当たっての使用料支払いを拒んだらしい。
しかし、ミトロプーロスの折衝のかいあって、
25ドルという使用量が入ったらしい。
当時のドルの価値はよく分からないが、
一説には当時の1ドルが現在の4000円とあり、
10万円くらいであろうか。
こうした話を読むと、
日本では評価が低いミトロプーロスを見直さずにいられない。

こうした理解者のみならず、
さらには、自らの奉職先の大学でも、
そこの合唱団が優れており、
自作を演奏してくれた事なども考え合わせると、
作曲家として認められたかったアドルノが
羨まないか心配なほどである。
こうした彼のセントポール時代が、
確かに恵まれていた、
ということが分かるCDがあった。

ハムリン大学の合唱団が録音したもので、
「The Robert Holliday Years 1942-1971」
と題されたものである。
また、ネットで見ると、この合唱団は、
まさしく、「預言者エレミアの哀歌」も演奏したことがわかり、
52年の録音が一部であれ聴けるようである。
(残念ながら、このCDには入っていない。)
スチュワートのクルシェネクの評伝でも、
この人こそが、「エレミアの哀歌」に挑戦した、
最初の合唱指揮者だと特筆している。
ただし、このCDは、全部がクルシェネクの作品ではなく、
バード、タリスから、アイヴス、ハリスまで、
かなり様々な時代の作品の寄せ集めになっている。

とはいえ、クルシェネクが2曲聴けるのは嬉しい。
TRACKS:
1. FETLER April
2. KRENEK The Seasons
3. W BYRD Ave Veru Corpus
4. H SCHUTZ Christ to Thee be Glory
5. A HEILLER Credo & Benedictus
6. E CARTER Heart Not so Heavy as Mine
7. R HARRIS It Was Beginning Winter
8. C IVES 67th Psalm
9. A GRETCHANOFF Our Father
10. C IVES Christmas Carol
11. A SCARLATTI Exultate Deo
12. T TALLIS If Ye Love Me
13. E KRENEK 5 Prayers (#3-by Women's Chorus)
14. D BUXTEHUDE Kyrie & Gloria (St Paul Chamber Choir)
15. Basque CAROL Bailero (Dialogue of the Shepherds) (arranged by Canteloube) (by St Paul Chamber Choir)
CDの解説を読み解くと、こうした事が書かれている。

「ユニークな合唱の伝統」というタイトルだが、
著者だか制作者だか、として、
合唱団に所属していた10人が連名で出ている。
デイヴィット・W.ジョンソン ‘61
リチャード・クラウス ‘50
ウェンディ・ストーン・マヌソン ‘61
ネヴァ・スティーブンス・ピルグリム ‘60
ディック・ポンティネン ‘55
デイヴィッド ‘64 とジュディ ’67 リヤン
エドゥワード・サヴェージ ‘48
リチャード・シュヴォーベル ‘53
リンダ・ボワーズ・スミス ‘69
1997年9月とあるから、
もう四半世紀前に書かれたものである。

「この記念コレクションに収められた
合唱作品は、1940年代半ばから1975年まで、
ロバート.D.ホリデイ教授と1930年のクラスが
ハムリン大学アカペラ合唱団、女声合唱団、そして、
セントポール室内合唱団を指導して録音したものである。

アレック・シンプトンとジョン・クイパースらによって
始められて以来の
強力な合唱の伝統の上に、
ロバート・ホリデイはアカペラ合唱団を
美しいサウンド、卓越した音楽性、
そして、現代音楽の演奏によって、
独特の大学の雰囲気を持つ
素晴らしい合唱グループに発展させた。

この録音に含まれる合唱作品は、
ロバート・ホリデイの十八番ばかりで、
現代の作曲家の作品への彼の嗜好が顕著で、
これらは何年にもわたってしばしば演奏された。」

このCDの裏面を見ると、
最初の12曲が「アカペラ合唱」とあり、
次の1曲が「女声合唱」となっていて、
最後の2曲が「セントポール室内合唱団」
となっているが、
そのことに触れている説明が続く。
「それらはアカペラで録音された作品で始まり、
(時代順の逆になっている)
それにほかの2つのグループの録音による
代表的な小品が続く。
女声合唱団とセントポール室内合唱団である。」

年代順に逆行とあるから、最初の曲の録音が
一番良い、ということになるが、
それでも約50年も前のものである。

「1967年に米国務省は、
この無伴奏合唱団を10週間、
13か国のラテン・アメリカ・ツアーに選抜した。
このツアーの時、
パウル・フェトラーの『四月』、
エルンスト・クルシェネクの『四季』、
ウィリアム・バードの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』
の三曲が録音された。
ハインリッヒ・シュッツの
『マタイ受難曲』から、『栄光、なんじにあれ』は、
1966年から67年のアルバムからのものである。」

録音場所などが書かれていないが、
ツアー・レコーディングとは、ツアーの記録であろうから、
どこか、南米での収録なのだろうか。
アルバムから、という表現も気になる。

彼らは、定期的にアルバムを出していたのだろうか。

そもそも、礎を築いた、Alec Simpsonとか、
John Kuypersという人々も、
何者か気になるが、調べ切れていない。

Track2.15曲も収めたCDの中で、
クルシェネクの作品「四季」は、
8分14秒の比較的長い時間を使っている。
1925年の作品で、作品番号で35に当たる。

すでに表現主義的な大作で
センセーションを巻き起こした後ながら、
まだ、ロマンティックな作風から、
完全に脱却する気のなかった時期
ということであろうか、
ハムリン大学に戦時中に赴任した時には、
すっかり捨て去っていた、わかりやすさがある。

まさしく、シュレーカーの弟子としての
クルシェネクを堪能できるという感じで、
繊細な音の重なり合いの感触が、
季節特有の香気を放っているようである。

クルシェネクは、よく歌詞も自作する人だが、
ここでは、百年ほど前を生きた
ヘルダーリン(1770-1843)を選んでいる。
この人は、後半生を狂気半ばした状態にあったといい、
晩年には、「四季」を扱った詩は多くあるらしく、
どのような内容か聞き取れないでいた。

今回、思い切って、ハムリン大学に問い合わせてみたところ、
音楽学部のGeorge Chu博士から、丁寧な返事をいただいた。
それによって、以下のような内容のものであることが分かった。

春、夏、冬は8行の詩で、単純なことしか書かれていない。
秋のみが16行あって、クルシェネクの楽想も暗く深刻な感じ。
各季節、一分半から2分ずつくらいで、秋だけ3分くらい、
という配分になっているから、全曲が8分14秒で終わるのである。
(なお、教授には、この楽曲の楽譜も
アマゾンなどで購入できることをも示唆していただいた。)

春:開放的な春の野山の風景を前にして、
新鮮な大気に人は日々の悩みを忘れる。
谷が広がり、丘に寄り掛かるように家や塔が見える。
クルシェネクの音楽もヴォーン=ウィリアムズみたいな、
ある種、民謡調とでも呼べそうな感じのものだ。

夏:春の花が終わると夏で、それは一年の折り返し。
山は壮麗に広がり、一年がしばし留まるかのようで、
自然のイメージが消え去る。
この部分は、夏らしく、
音楽は大きく盛り上がるような表現が施されているが、
世捨て人のヘルダーリンらしい、何か、虚無感もある。
ふと、ディーリアスを思い出したりした。

秋:夏はすぐに秋になるが、人はこの憔悴の時から学ぶ。
もはや、かつての光景は消えてなくなるが、
収穫の満足の中、一年の完結した形が見える。
低いうなり声のような、沈鬱な表情で始まるが、
途中、収穫の状況では、それにふさわしく、
晴れやかな安らぎに満ちた情感が広がる。

冬:嵐や雨の季節として表されている。
まさしくヴィヴァルディの「四季」のような、
凍えたような表現が聞こえる。
が、それも、再び春が訪れることを賛美して、
充実した終曲部が用意されている。

ハムリン大学のGeorge Chu博士からの情報によると、
クルシェネクの再婚相手は、この大学の出身の女性だということだ。
このグラディス・ノルデンストローム・クルシェネク
(Gladys Nordenstrom)は、
作曲家志望の学生としてクルシェネクと知り合っている。

クルシェネクの死後も、オーストリアのクレムスに
クルシェネク・インスティテュートを創設したり、
様々なCDを監修したりして、クルシェネクの音楽の普及に
力のあった人である。

2016年に亡くなったそうだが、
ひょっとすると、私は、この人(クルシェネク第3夫人)
の手のひらの上で踊らされるように、
クルシェネクを聴いているのかもしれない。

さて、CDの続きを聴いてしまおう。
「このツアーのずっと前に、
ロバート・ホリデイは1963年から64年の
アントン・ハイラーの『ミサ・ブレヴィス』から、
『クレドとベネディクトゥス』を含む新しい作品の
レコーディングによって、
国内では名声を確立していた。」
ここでも何やらアルバム的なものがあった事が示唆されている。

Track5.
しかし、アントン・ハイラーというのは、
オルガン奏者としては知られていたが、
こうした宗教曲も作曲していた、
ということを知って、妙に嬉しかったりする。
かつて、フィリップス・レーベルから、
彼が演奏したバッハなどがLPになっていたが、
今度、これを中古などで見つけたら、
ついつい手を伸ばしてしまうかもしれない。
昔からそんなにスター扱いされていなかった人が、
実は、立派な音楽家だったと知ることは、
人生を考えるうえで味わいが増すものである。

オルガニストでもある作曲家というと、
デュリュフレなどが思い浮かぶが、
ここで紹介されている作品も、
清潔な詩情の溢れる作品である。
6分強の「クレド」は浮き立つようなリズムで、
「我は信ず造り主を」という部分を歌うのだが、
中盤の十字架での死の部分は神妙になる。

「アーメン」の部分も立体的な効果で、
思わず、襟を正したくなるような雰囲気でうまい。
「ベネディクトス」は続けて演奏されている。
7分46秒くらいで終わる。

「アメリカ音楽遺産保存協会は、
1959年から60年に録音され、
1961年にリリースされた、
20世紀のアメリカ合唱音楽というシリーズの全アルバムを
このアカペラ合唱団とハムリン・シンガーズに録音させることにした。
このアルバムはエリオット・カーターの
『胸の重さは』や
ハムリン大学の作曲家、
ラッセル・ハリスの『冬の始まりの事だった』や、
チャールズ・アイヴズの『詩篇67』は、
このアルバムを音源としている。」

ここまで書いた事もあり、
これら三曲のコピーライトは、
上記協会にあることが注記されている。

Track6.カーターの曲は、
日本でも好きな人が多い、
エミリー・ディキンソンの詩によるものである。
が、この人の象徴、暗喩に満ちた詩は、
簡単に読み解くことはできないと思われる。
「Heart, not so heavy as mine
Wending late home
As it passed my window
Whistled itself a tune 」
夜なかである。
家の前を口笛を吹きながら通る男。

私の心のようには重くないとあるが、
それほど、お気楽な節ではなかったのだろう。
最後の節には、また、明日も夜が来るでしょう。
とあって、この男が、また、通りすぎるのを待っている。

「Tomorrow, night will come again
Perhaps, weary and sore
Ah Bugle! By my window
I pray you pass once more.」

曲は、このような状況にふさわしく、
ぬばたまの夜のような色調である。
が、感情がどんどん盛り上がって、
再び、沈潜していくような展開は、
そこそこ説得力があるように思える。

Track7.ラッセル・ハリスの
「冬の初めのことだった」は、
前衛的な実験が盛り込まれた作品。
この合唱団の高い適応能力が分かる。

Track8.アイヴズの「詩篇67」は、
「神様が私たちをあわれみ、祝福しますように。」
といった、詩篇の中ではシンプルなもののせいか、
妙にスイングするような曲調で不思議な感じがする。
2分半ほどの音楽。

「1958年から59年には、
合唱団はアレクサンダー・グレチャニノフの
『われらの父』を録音した。
ハムリン・シンガーズは何十年も、
チャールズ・アイヴズの
『クリスマス・キャロル』や、
コンサート開始の定番、
アレッサンドロ・スカルラッティの
『エクスルターデ・デオ(神を讃えよ)』
が何度も何度も演奏されたのを思い出すだろう。
これらは1957年から58年の録音から取られ、
60年のアイヴズの独唱は、
ヘレン・ヒア・ペダーセンが受け持っている。
1956年から57年の合唱団からは、
トマス・タリスの『If ye love me(汝らわれを愛さば)』
が選ばれている。」

これらは、Track9から12に相当し、
1960年前後の録音だが、鑑賞に不自由はない。

グレチャニノフはチャイコフスキーの影響を受けた
ロシアの作曲家で、平明な曲調。

アイヴズの「クリスマス」は、
雰囲気たっぷりのハーモニーを背景に、
素朴で美しいソプラノが浮かび上がって美しい。

A.スカルラッティは、ナポリ派の大物だが、
演奏された時代ゆえか、あまりバロックの感じはない。
かなりせっかちな合唱という感じがする。

タリスはさらにさかのぼって
ルネサンス期のこれまた大家だが、
これも普通に教会などで歌われていそうな現代風。

ここまで読んで、ようやく、
この1956-57といった表現が腑に落ちた。
大学の合唱団なので、生徒がその学期に合わせ、
年をまたいで活動した、ということだろう。

Track13.クルシェネクの作品97である。
「ジョン・ダンのテクストによる無伴奏女声合唱曲、
『5つの祈り』」の第3曲ということらしい。

約1分半に満たない曲なので、よく分からないが、
「四季」などよりは、「哀歌」に近い。
音の跳躍といい重なりといい、かなりの難曲と見た。

女声合唱ながら、低い声も使っている。
1944年の作曲なので、当時は最新作だっただろう。
Stewartの評伝についているディスコグラフィにも掲載されていない。
が、楽譜は入手可能なようだ。

このジョン・ダンについては、
シェークスピア時代の傑物のようなので、
改めてよく調べたいが、
この作品97の全曲を取り上げた
RIAS KammerchorのCDが
ハルモニア・ムンディから発売されている。
全曲でも12分程度の作品である。

ここでの解説(ROMAN HINKE)によると、
「ルネサンスのポリフォニーと、新ウィーン学派の12音音楽という
強力な影響を受けた二つをコンバインし、
親密なミニチュア研究の効果を直線的なスタイルで表現した
女性の声のための作品」ということになる。

「これらをリンクさせる要素は、
ラテン語の『主の祈り(Pater Noster)』の12音の定旋律で、
曲の最初と最後ではユニゾンで唱え、
4声部を横断しながら、
非常に複雑な作曲構造の中を移動し、
音列は連なる糸の如く、
私たちを共通の知的基盤に戻るよう導く。」
などと書かれているが、
確かに、最初と最後は非常にシンプルな斉唱であるが、
途中の曲は、その音の流れがほぐれて、
複雑な変容を見せて行く、という感じ。

これは、合唱する方も、
かなりのやりがいを感じる合唱曲かもしれないが、
ハムリンの女声合唱団は、かなり、積極的な、
前のめりの歌いぶりである。

今回は、総じて、クルシェネクの
セントポール時代が、
良き理解者、良き弟子などに囲まれ、
作品もいろいろ生まれた時代、
比較的恵まれた時代だったと書きたかったのだが、
当然、この時代、異国から来た芸術家が、
正しく理解されるはずもない、
という記載もある。

先のRIAS合唱団のCDの解説より
さらに引用すると、
「この抽象的なプランで、
表面的な『ピクトリアリズム(絵画主義)から遠く離れ、
この作曲家は、聴衆にかなりの挑戦をしている。
多くの同時代人、特に、保守的なアメリカ人は、
これをあまりに非人間的で、
芸術における厳格な数学的概念の産物と見た。
彼らは素材の概念が自己目的であるとし、
算数博士としてクルシェネクを侮辱し、
彼の作品を全体主義の思考のルーツと
12音法の技法にリンクさせたりもした。」
とあり、
かなり危険人物とみなされた感じもある。

しかし、解説者は、この「5つの祈り」に関して言えば、
「非常に深い宗教的な雰囲気に満ちた、
説得力のあるリリシズムと、
音響的にも楽しめるものと弁護している。

しかし、この項を書き収めるのにふさわしい、
クルシェネクの「アメリカ日記」からの引用があった。

これこそが、私たちが、クルシェネクが
戦時下において書かざるを得なかった、
実験的な創意に満ちた「哀歌」や「祈り」を聴きながら、
その向こうに見えるように感じていたことではないだろうか。

「私は恐るべき暗いうつ状態を通ってきた。
すべてが私の上で崩れ落ちる。致命的な苦痛。
私に何ができるだろうか。神よ救い給え。」

今回取り上げたCD、「Holiday Years」での、
このクルシェネク作品の録音は、
さすがに、サーフェス・ノイズも激しいが、
戦時中、もしくは戦後すぐの録音であれば仕方あるまい。

むしろ、よく復刻してくれた、という感じである。
この時代であるから、作曲家が臨席していた可能性もあろう。
彼が聴いたのと、同じ演奏を、こうして聴けることは、
レコードという技術のすばらしさ再確認する瞬間でもあろう。

ハムリンのCD解説には、こうある。
「エルンスト・クルシェネクの
『Five Prayers,#3』は1945年の
ヴィンテージ78回転録音で、
ほとんど男性がいなかった、
第二次大戦中に創設された、
女声合唱団の演奏から。
彼女らは、ハムリンの
コンポーザー・イン・レジデンツであった。
クルシェネクの多くの作品を録音しており、
論争を巻き起こした、『戦時下のカンタータ』を初演している。」

ここまでで、「A Cappella Choir」と
「Women’s Chorus」の演奏は終わり、
残りは、「ST.Paul Chamber Choir」の演奏から
2曲が収められている。

「1971年にハムリンをリタイアした後、
ロバート・ホリデイは、多くのハムリン大学の卒業生を含む
セントポール室内合唱団を創設した。
1974年と75年の録音が音源で、
それらはそれぞれ、
ディートリヒ・ブクステフーデの
『ミサ・ブレヴィス』より『キリエとグローリア』と、
バスク地方のキャロル、
『バイレロ(羊飼いの対話)』を、
ヨゼフ・カントループが編曲したものを、
69年のリンダ・バウアー・スミスのソロと
64年のデイヴィッド・リャンと
65年のマーガレット・ブーツのデュエット
を交えて演奏したものである。」

Track14.ブクステフーデは、
バッハも尊敬していたドイツの巨匠。
このCDの中では、これはかなりの大曲で、
12分ほどを要している。
1970年代と急に新しいものになるが、
ものすごく録音が良いわけではない。
ただ、ついつい耳を傾けてしまう、
人の声の美しさが印象的だ。

独唱と合唱が綾なすが、
独唱を受け持つ人たちの声が素敵で、
かつ、何かひたむきな凝集感がある。
こんなこともあって、卒業してからも、
こうして恩師を慕って集まって来たメンバーの、
ひたすらな思いにまで想像が膨らんでしまう。

Track15.
カントループが編曲した「オーヴェルニュの歌」は、
LP時代からダヴラツの名唱で日本でも愛好家が多いが、
その中でも特に人気の高い「バイレロ」である。

よく聴かれるオーケストラ伴奏の女性独唱曲ではなく、
独唱と合唱が織りなすバージョンで、私は初めて聴いた。
分厚いハーモニーもさることながら、ものすごい残響を伴う録音で、
何だか桃源郷のようである。
独唱も素直な感じで好ましい。

しかし、これはキャロルなのか。
CD解説の最後は、こう結ばれている。
ぜひ、ハムリン・シンガーズには、
クルシェネクとの縁を最大限に利用してもらい、
彼の作品をこれからも取り上げて欲しいものだ。

「ロバート・ホリデイの伝説は、
プロ、アマに関わらず、
彼の歌唱、指揮における洗練された基準を受け継ぐ、
これらの歌手と共にあって、
ハムリン・シンガーズの将来の世代にも、
影響を与え続けるであろう。」

得られた事:「クルシェネクを迎えた米セントポールのハムリン大学は、優れた合唱の伝統を持っていたが、彼らは果敢に様々な時代の合唱曲に挑戦し、学生たちが残した録音のアンソロジーをCDで聴くことができる。この大学の卒業生の一人が、クルシェネクの妻となり、彼の作品の普及に尽力した。」
「セントポールの双子都市のミネアポリスには、当時、現代音楽の理解者、ミトロプーロスがいて、身体を張ってクルシェネクを紹介したが、多くの同時代人は、クルシェネクの音楽を聴いて、全体主義の算数博士(Rechenkünstler)と呼んで侮辱した。」
「クルシェネクが1925年に作曲した、『四季』(作品35)は、ヴォーン=ウィリアムズやディーリアスといった英国の田園楽派といった風情の作品に似ていて、単純な言葉でありながら難解とされるヘルダーリン晩年の詩に、無理せず寄り添っている風情。メロディも美しく、楽譜も入手可能であることを確認した。」
「戦時下にあって、クルシェネクは、すべてが崩れ落ちる感覚の中、あえてルネサンスと前衛を結びつけるという実験的な合唱曲に取り組んだ。『私に何ができるだろうか。神よ救い給え』という当時の日記が残っている。」
「問い合わせに応じてくださったハムリン大学音楽学部のGeorge Chu博士のサポートに感謝したい。」

# by franz310 | 2020-06-14 21:57 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その462

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その462_b0083728_20570949.jpg個人的経験:ナチスドイツによって、
退廃音楽家の烙印を押された
クルシェネクが、
亡命先で孤独と向き合いながら
作曲した混声合唱曲の大作、
「預言者エレミアの哀歌」は、
オケゲムなど中世音楽と
12音技法の研究の中から
生まれ出た20世紀の傑作である。



現在、新型コロナ肺炎感染対策の自粛によって、
世界中の多くの人たちが自宅に閉じ込められているが、
みんなで、「今しかできないこと」を真剣に考えているのに、
極めて類似した状況下に作曲当時のクルシェネクはいた。

この曲にはほぼ同時期に録音された、
二つのCDが入手可能だが、
内省的な作品であるせいか、心が落ち着き、
自粛生活を慰めてくれて、非常にありがたい。

グロノスタイ指揮オランダ室内合唱団の
GLOBEレーベル盤と、
クリード指揮RIAS室内合唱団の
ハルモニア・ムンディ盤である。

比較すると、前者の方が立体的にメリハリがあり、
後者の方が無重力空間に浮かぶような異次元感覚がある。

これは、今回、聴きなおしてみると、
前者の方が男声に積極性を要求しているから、
あるいは、言葉を伝えることを重視しているから、
という感じにも思えた。

クリードの方は女声の透明さと滑らかさで、
男声のごつごつした部分にヴェールをかけている感じ。

ちなみに、ハルモニア・ムンディ盤は、
工場内に立つ十字架というドキュメンタリー風のものから、
がらっとデザインを変えた形で、再発売されたようだ。

そのデザインにある異教風のライオンのレリーフが、
当初、私には、何を意味するのか分からなかったのだが、
いくつかの古代イスラエル関係の書籍を見たり、
気になるところを検索したりしているうちに、
あっと、目に飛び込んできたのが、
古代バビロニア帝国の首都、
バビロンにある、紀元前575年に作られたという、
「イシュタール門」である。

つまり、この表紙デザインは、
古代ユダヤ人の最後の王国、
ユダ王国を消し去った敵方、
バビロニア王国由来のものであった。

この門を作ったのが、ネブカドネザル2世
(紀元前634年 - 紀元前562年)で、
2度にわたり、エルサレムを破壊し、
ユダヤの民をその都度、バビロンに連れ去った。
放っておくと、すぐ集まって反乱を企てるからである。

この王様の生涯はかなり劇的で、
隣国のメディアからは妃を迎えて憂いを無くし、
南の由緒ある強国、エジプトのネコ2世
(在位紀元前610年 - 前595年)と死闘を演じた。

また、バビロンと言えば、
のちにアレクサンダー大王が征服し、
没した場所としても有名だ。
また、ネブカドネザルの息子とされる
ペルシャザールが豪華な饗宴を開いた
堕落の街のような印象もある。

ユダヤ人はバビロンに紀元前580年くらいまで
何度か送られたので、ユダヤ人たちは、
この壮麗な門が作られて行くところを目にしたであろう。
この壮麗さを見る都度、いにしえのイスラエル帝国の
栄華の伝説に思いを馳せたであろうか。
あるいは、圧倒的な国力の差に愕然としたであろうか。

いずれにせよ、支配者の国が栄えるにつれ、
荒廃したエルサレムの姿が、
厳しい現実として突き刺さって来た事であろう。

この合唱曲で、繰り返し歌われる、
「エルサレムよ、主のもとに帰れ」というフレーズは、
イシュタール門や、そこに続く大通り、
「行列大通り」を装飾していた、
ライオンその他の動物レリーフの
いかにも威嚇的、異教的な力に屈しないよう、
自らに言い聞かせた呪文だったのかもしれない。

青い瓦に金色の瓦が織りなす幻惑的な存在感が、
聖書が繰り返し危険視して説く、
「偶像」そのものに見えたとしてもおかしくはない。

その魔力に屈した、というか、
同化してしまう人たちがいてもおかしくはなく、
イスラエルの失われた10部族だかが、
消失してしまったように見えても、
まったく不思議ではないのである。

特に、このコロナ禍の中にあって、
衣食住がままならぬ状況が現実になっている。
こんな中、単に、首が絞められるように
自粛しているのと、
華々しく経済活動をしているのとでは、
いったい、どちらの社会が
魅力的に見えるか、という事で、
あてはめて考えることが出来よう。

舵取り次第では国が亡びるような状況、
それが、このコロナの日々の恐ろしさであり、
だらだらと自粛をして、
先の見えない未来を提示するリーダーに託す、
というのが日本人の選んだ道であった、
という歴史にはしたくないものだ。

ということで、このバビロンの栄華を伝える
レリーフを用いたCDのデザインは、
意外にも、我々に、深い洞察を促すものであった。

そもそも、エレミアという予言者の言葉は、
気が滅入るばかりで、なんだか灰色の世界なのだが、
この壁画のような煌びやかさを対比して初めて、
理解できる世界だったのか、と感じ入ってしまった。

ハルモニア・ムンディの企画をしているメンバーに、
改めて敬意を表したい。

さて、「エレミアの哀歌」に戻ろう。
旧約聖書には、様々な時代に預言者が書いた
歴史や反省や洞察の言葉が溢れかえっているが、
エレミアはその預言者の一人である。
彼らは見た幻を神殿などで語り、
弟子たちがそれを口承で語り継ぎ、
特定の時期に聴きとって記述された。

アジアとアフリカをつなぐ
(ただし、メインルートではない)
位置にあった、イスラエルの人々は、
南北に強大な帝国があったため、
それらの盛衰によって、
国が脅かされ、強制連行されたりして、
常日頃から不安的な危機の中にあったのだろう。

長谷川修一著の「聖書考古学」によると、
聖書はヘブライ語という、
たった22文字からなる言語で書かれたとされ、
それは、メソポタミアの楔形文字や、
エジプトの絵文字とも異なり、
その隙間の海洋民族、フェニキア由来だということである。

つまり、彼らは狭い場所ではありながら、
独自のアイデンティティを持ち、
危機と隣り合わせの時代にあって(紀元前8世紀頃とされる)
伝えられたものをひたすらドキュメント化したのであろう。
(「聖書考古学」では、アッシリアが力を弱めた間隙をついて
聖書編纂が進んだと仮説を立てている。)

簡単に書くと、困ったときは肥沃なエジプトを頼ったが、
そのうちに奴属させられてしまった。
当然、そうなるとムカついて出国することになるが、
今度は、北からアッシリアやらバビロニアといった、
より、機動的・戦闘的な遊牧民由来の連中とも
うまくやって行く必要が出てくる。

このような状況下、南北に国が分裂したりしていては、
おいおい、そんな事で大丈夫かよ、
と考える、野党代議士、政治評論家ならぬ、
預言者が出てきてもおかしくはない。

文庫クセジュにある「旧約聖書」では、
ジャコブという人が、
(白水社では「予言者」としている)
1.アッシリア帝国の最盛期の予言者たち
2.ユダ王国(南王国)最後の予言者たち
3.捕囚の予言者たち
4.捕囚後の予言者たち
といった分類をしていて、
完全に危機のさなかにあっての予言であった事がわかる。

エレミアは、ユダ王国最後の予言者とされている。

彼は、アッシリアが力を失っていた時、
北王国領土を再併合しようとした、
ヨシア(ヨシヤ)王の時代の人で、
長谷川修一氏の本によると、
この時、南北合併のプロパガンダ的に、
宗教が使われた、のだという。

が、この積極政策(紀元前640年頃)が裏目に出て、
勝手な事をやっていたヨシア王はエジプトに殺され(紀元前609年)、
その後はアッシリアを滅ぼしたバビロニアに、
エルサレムは二度にわたって破壊されてしまう
(紀元前597年、586年)。

つまり、チャンスと思って行動したら、
わずか、40年くらいで、
思わぬ方向から、めちゃくちゃにやられてしまった、
という感じである。
王様は南のエジプトにやられ、
王国は北のバビロニアにやられた。

まさしく、踏んだり蹴ったりで、
誰も助けてはくれず、
全員が敵みたいな状況であった。
これは、太平洋戦争末期に四面楚歌になった、
我が国と同じであるが、どちらも、
最悪の事態を想定できず、
最終的な落としどころを検討しなかった、
という点が似ているのかもしれない。

今回のコロナ・ウイルスの騒動でも、
民衆は、自分たちが選んだくせに、
政治家が悪いと言い、
政治家は責任回避しか考えておらず、
真の着地点の目指し方を指し示し切れていない。

自粛の責任を国民の意識の問題にすり替え、
政府は責任を取らない、と言っているようにも見えるらしい。
あるいは、そのとおりかもしれぬ。
が、現実には、意識や意見や環境が異なる人たちが、
個々に全体で折り合いをつけよう、
というのも難しく、
開店しているパチンコ店に集まって来た人に眉をひそめたり、
県外ナンバーの車に石を投げるくらいしかできないのかもしれない。

結局は、各個々人の現状理解のレベルと、
個人的な嗜好に対する欲望、要求の強さと、
その場しのぎの言い訳によって、
勝手な事を始めることを始めてしまうだろう。

ここをいかに理性で抑制するか、
ということに、
世の中が論理的な後押しをどれだけできるか、
という感じになるが、
これがSNSなどで出来てしまうほどには、
人間は強くはないのだろう。

何らかの強制力お願い、
みたいな意見も聞こえてくるとすれば、
やはり、政治家の発言が国が総力を挙げた結果としての
総意、指針であってほしい。

さて、こんな時代に生きている我々であれば、
北のアッシリアやバビロニアとどう付き合うか、
南のエジプトとどう付き合うべきか、
様々な意見が飛び交う状況下で、
神の声を聴くべき使命を帯びたのがエレミアのしんどさが
かなり身近に感じられるのではないか。

経済優先で、死者はやむを得ないという派閥と、
生命あっての経済で、とにかく今は都市封鎖だという派閥と、
どちらをも満足させる預言などできるのだろうか。

実際、エレミアは、即答が出来ず、
10日も神のお告げを待った、
などと書いてある部分もある。

エレミアといえども最初のうちは、
これは危なっかしくないか、とか、
将来を案じる(予言する?)程度の言葉だったろうが、
恐れていた事がことごとく、
その通りになっていくところで、
ますます神を実感していったかもしれない。

神のお告げ以前に、
積極政策がいけなかったとか、
そもそも、南北分裂がいけないのだ、
と、
何かが起こるたびに、
いくらでも反省する材料があったはずだ。

旧約聖書と新約聖書が一冊になった「聖書」で読むと、
字が小さいので、1982年に講談社から出ていた
「憐みの大預言者」(エレミアの書・哀歌)によって、
64年に口語訳を完成されたバルバロ師の訳を眺めて、
我々が参考にするための反省点があるのか考えてみた。

基本的にエレミアが、こう語った、みたいな内容で、
最初は自分の出自などが書かれている。
これによると、ヨシア王の治世13年目に、
主のみことばが「彼に下った」とある。

ヨシア王の治世からして換算し、
紀元前627年とかに、
世界史はどのような情勢かを確認すると、
アッシリアの最後の名君が死去したり
(アッシュールバニパル王、627)、
そのアッシリアを滅ぼすことになる
メディア王国やバビロニア王国が勃興したりしている
(キュアクサレス2世、ナボポラッサル王、625)。

このような下剋上、
風雲急を告げる状況下であろうから、
預言者でなくても、なんだか、
妙にきな臭い世の中である、
ということくらいは言えたはずである。
遊牧民がうろうろしているような土地でなくとも、
近隣の動向を伝える者はいくらでもいたはずだ。

アッシリアは、エジプトまで一時は占領した、
オリエントの巨大帝国だったので、
そこの御用達の商人たちが、
盛んにアラビア半島の付け根あたりを
うろちょろしていたはずである。

アッシリアもメディアもバビロニアも北に位置する。
そんな中、みつどもえになった強国を見て、
こりゃラッキーと考えたのがヨシア王であって、
エレミアが、わざわざ、
「北から災いが襲いかかる」と言ったとしても、
それは承知の上の行動だったはずだ。

エレミアの自己紹介は、
「ヨシア王の子、セデキアの治世の初め、
主からエレミアにみことばが下った」とか、
「セデキア王の十年目、
その時、バビロン王の軍隊はエルサレムを囲み、
エレミアは宮廷内の牢の入り口に閉じ込められていた」
たびたび現れるので、
何十年にもわたって何度も行ったエレミアの演説を、
そのたびごとに書き留めたものを集大成し、
あるいは追記したものであることがわかる。

このような状況下、
政策の対立みたいな事件などもたびたびあったようで、
アナニアという預言者が威勢よく、
バビロン王はやっつけられる、
という予言をしたのをエレミアが現実を見て退けた、
(実際にはそうはならなかったが)
という報告もある。
ほとんど国会中継の報告書ではないか。

エレミアはセデキア王に、
バビロニアへの降伏をすれば、
「平和に死ぬことが出来る」と、
いささか甘言のような予言をした。

実際には、その反旗の翻し方が徹底していたのか、
王様は両目をえぐられてバビロンに連れ去られたという。
その前にその子供たちは目の前で虐殺されている。

紀元前586年にエルサレム陥落。
エレミアは、牢に繋がれたりしながら、
627年から56年も預言者をやっていた、
ということだろうか。

ここで、注釈として、セデキア王には、
決断力がなかった、と書かれているが、
これもまた、エレミアの告発するところなのだろうか。
だとすると、今の日本の政治家にも、
ぴったり当てはまる反省点ではないか。

主はたびたび、エレミアに、
「誰がエジプトからお前らを連れ出してやったか」
と言って、ヤハヴェの事績を思い出させ、
敬うべきことを告げたりしているので、
「出エジプト」という出来事が、
彼らの重大な歴史認識だという事が改めてわかる。

多くの研究所が、この事件がエジプト側の歴史に出ていない、
ということで首をかしげているが、
ユダヤの人には、これは存在の根本にかかわるのだろう。

「生きる命の水である私を見捨てた」
と言って、
主は、イスラエルの民が、
むしろ水桶を掘ることばかりやっていたことをなじっているが、
ここでは、エルサレムが籠城に耐えられるように、
実際に水路工事があった史実などが思い出される。

また、主は、イスラエルがいろんなものを得るために、
無節操にいろんな神様や他の国々に身を任せた、
と書いて戒めているが、これは、
食料自給率の事も考えず、効率だけを考えて、
他国に依存している我が国なども
一緒に糾弾されているようにも見える。

また、北王国のイスラエルが離れていく事を、
南王国のユダが傍観していた事も、主は怒っている。

こうした事すべてを指して、
「町が壊され」、「荒地になった」、
「帰りたい国に帰れない」理由として上げ、
「主に背いて罪を犯した」と神は総括し、
その必然を呪いのように説いているのである。

「律法を捨てた」とあるが、
具体的に列挙すると、
「がんこ」、「迷うばかり」、「悪意がある」、
「悔いない」、「律法を偽りに変えた」、
「顔を赤らめることを忘れた」、
「だまし、たぶらかし、讒言する」、
「悪に慣れて善が行えない」など。

また、「公正と正義を守れ」、
「異国人と孤児とやもめを虐げるな」、
「罪のない人の血を流すな」という具体的な命令もある。

結局、普通の道徳の話をしているだけで、
これらの「弱さ」をすべてクリアすることは、
普通の人間には無理である。

さらには、バビロニア王に屈した方が良い、
という忠告に続いて、
そうしないと「流行り病」が襲う、
などとも書かれている。
このコロナ禍にあって、
妙に気の滅入る忠告でもある。

当時、風前の灯であったユダ王国衰亡の原因を、
ざっくり言って、「悪を改めない」という抽象的な警告で、
ひたすらエレミアは語り続けた。

「エレミア書」の中盤は、
エレミアの生きた時代の事実の補足説明のようになっていて、
セデキア王が、攻囲された城を抜け出したところを捉えられ、
残酷な目にあった事、イスラエルの民がバビロンに捕囚された事、
などが説明されている。

「エレミア書」の最後の方になると、
イスラエルの民以外に対する予言となっていて、
あまり、今回の考察とは関係がないようだ。

荒廃したエルサレムの街を見て嘆く、
旧約聖書の「哀歌」の章は、
エレミアが行ってきた反省の延長、
あるいはエコーのような歌が集められた章になっており、
状況を見ると、どう考えても、
もっと後の時代の作品であるはずなのだが、
「エレミア」の「哀歌」と、
ひとくくりにもしたくなるのである。

演奏不可能も想定して極めて実験的に書かれた合唱曲ながら、
二つの演奏のCDによって、
音楽的に美しく響かせる事が出来る曲であることが実証された。

二千数百年までにエレミアが体験した傾国の絶望感を、
悠久の時間を超えた預言のように伝えるには、
バロック時代に多く書かれた「ルソン・ド・テネブレ」より、
現代においては、クルシェネクの方に親近感を感じる。

亡命先での自粛生活で、彼が、この仕事に着手したことに感謝したい。

得られた事:「エレミア書は旧約聖書にある預言者エレミアの言葉の集大成で、弟子たちが集め、補足した内容となっている。首都エルサレムのみならず国の行く末を憂え、実際にその滅亡と荒廃までを見届けたため、後の人が書いた『哀歌』と呼ばれる部分も、彼が書いたことにされ、『エレミアも哀歌』として多くの作曲家にインスピレーションを与えた。」
「エレミアは、古代イスラエルのユダ王国末期、ヨシア王の北進計画に対しては警告を発し、その子、セデキア王の対バビロニア籠城戦にも反対し、疎まれて牢に繋がれたが、今から見ると、当然とも言える現実把握によって政策論議をつづけた長老代議士みたいな感じにも見える。」
「ハルモニア・ムンディのクリード指揮の『預言者エレミアの哀歌』(クルシェネク作曲)の再発売盤は、エルサレムを破壊し、ユダ王国を消し去ったバビロニアの王様の栄華を伝える豪奢なレリーフで飾られている。このデザイン、かなり考えさせられるもので、エレミアのように祖国を失ったものが、こうした敵国の栄華を目の当たりにしたら、という想像力を揺さぶる。自らの来し方や行く末を考えた時、『エルサレムよ、主のもとに帰れ』という絶唱に繋がった事が、妙に胸に迫る。」
「もし、今後、コロナの対処で我が国が二分して対立した場合、あるいは経済が立ちいかなくなった場合、早く先にコロナを克服した国々の繁栄を目にしながら、『昭和に帰れ』、『平成に帰れ』と言いたくなるようなものだ。あるいは、東京オリンピックが私たちのエルサレムになるような事にしてはなるまい。」
「クルシェネクの『預言者エレミアの哀歌』は亡命先の自粛生活の最中、生み出された。彼にとっては、『オーストリアよ、神聖ローマ帝国に帰れ』、と叫ぶには、あまりにも祖国は遠いところ(第三帝国)にまで行ってしまっていた。」

# by franz310 | 2020-05-04 21:06 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その461

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その461_b0083728_21094657.jpg
個人的経験:
クルシェネクが祖国、
オーストリアを偲びつつ、
亡命先の孤独の中に書いた
「エレミアの哀歌」。
盟友アドルノとの書簡の中でも、
「わたしのほうからは
ここ何年来、
音楽の作品を
お見せもしなければ
お送りもしないでいるのを
心苦しくおもっています。」
と書いた1942年の手紙で、
「このあいだの冬には」、
ようやく、
この曲を書き上げた事を
報告している。


1941年末の冬と言えば、
12月8日に真珠湾攻撃があって、
アメリカに亡命したオーストリア人にとっても、
極めて暗澹たる状況だったと思われ、
そうした事がまた、この「哀歌」を、我々にも引き寄せる。

この手紙でクルシェネクは、
ミネソタのセントポールにある
ハムリン大学の学部長を受け入れて、
職探しについてはひと段落した、
とも書いているが、
逆に言うと、それまでは、
かなり不安定な、やばい状態だったと推察される。

ハムリン大学はプロテスタント系のメソジスト派の大学らしいが、
当然、戦争ともなると、学生がまともに集まるわけもなさそうだが、
大学の歴史を見ると、女子学生が看護学を学びに集まったとある。

このような地を選んだ背景として、現代の音楽紹介に積極的だった、
指揮者のミトロプーロスが、セントポールの双子都市である、
ミネアポリスにいた事も影響していたようで、
クルシェネクにとっても、
理解者のそばに行くことが心強かったようだ。

ミトロプーロスも同様に亡命組で、
当時、ミネアポリス交響楽団の首席指揮者だった。

彼の大学への着任記念講演は、
「音楽の楽しみについて」というタイトルだった。

Stewartの評伝によると、
ミトロプーロスの紹介で登場したクルシェネクは、
いくぶん保守的な聴衆を焚きつけるように、
「音楽はそれ自身がすべてであるから、
『音楽的な経過』に耳を傾けるように」
と語りかけたらしい。

「なぜ、皆さんは新しい映画や劇や本を見たがるのに、
新しい音楽だけは聴きたいと思わないのでしょうか」
と問いかけながら、
「毛嫌いをなくすには、新作を二回、聴いてみる事です。
二回目には、どこでどのように何が起こるかが予想できます。
そして二つのランドマーク間で起こる事に関心が行くでしょう。
あなたはそれを結ぶ線を見つけ、
その必要性とプランにおうじて起こる事を認識し始めます。
言い換えれば、あなたはその進行のロジックを体験し
そこからあなたの楽しみが始まるのです。」
といった事を説明したらしい。

Stewartは、クルシェネクの「哀歌」や「第6弦楽四重奏曲」を
楽しむためには、これ以上の説明はないだろう、
と補足している。

なお、「ハムリン大学」と「クルシェネク」で検索すると、
ハムリン大学アカペラ合唱団がクルシェネクの「四季」(作品35)
という合唱曲を録音したことがあった事がわかる。

また、クルシェネクが生きた時代や場所の記録として、
1941年12月8日の真珠湾攻撃の日の少し前、
ミトロプーロスとミネアポリス交響楽団は、
メンデルスゾーンの「スコットランド交響曲」や
ボロディンの「第2」、ラヴェルの「クープランの墓」
などを録音している(ように見える)ことが、
イメージを膨らませるために参考になる。

DOCUMENTSレーベルの
10枚組劇安ボックスCDに、
これらの録音が含まれ、
12月6日、7日録音とある。
この時代の空気、あるいは当時のミネアポリスの寒気を感じる、
すこしざらざらした温かみに欠ける音色である。

さて、前回に続き、
コロナによって、決して、東京を廃墟にしないための何かを、
「エレミアの哀歌」から、我々が、学ぶことが出来るか、
を検討してみたい。

今回、読んでみたのは、
中公新書から2013年に出た、
長谷川修一著「聖書考古学」というもので、
当時40代の気鋭のオリエント史学者の
より科学的なアプローチによる見解が参考にできる。

この著者が「まえがき」で書いてあるように、
「講義を聞いたクリスチャンの中には
『背教的』という感想を寄せた人もいる」
という部分に勇気づけられた。

信者でもない者が、
他所の家の庭先だか玄関先だかで何をやっているか、
という気分になる人にとっては、
「背教的」にも見えるかもしれないが、
歴史から何か学べるか、という視点で、
聖書を紐解いて頭を悩ませることは、
「古典」として敬っているつもりなのだが。

前回は、メツガーというドイツの学者の、
「古代イスラエル史」というのを読んで、
「たまたま一緒の境遇にいた人たちの
共同体意識のシンボルとして王都エルサレムが作られ、
その共同体が破綻した時(南北王国分裂)のことを、
離反されたサイドの人(南王国ユダ側)が、
見るにつけ思い出す腹立ちの象徴」
こそが、エルサレムだった、という感想を得た。

が、今回の本でも、いきなり、
第1章から「聖書はなぜ書かれたか」で、
「神の律法に従わないのであればユダも
北イスラエルのように滅亡する」というメッセージが、
旧約聖書には込められている、と、
ドイツのマルティン・ノートらの説を紹介している。

さらには、一度、滅亡した北イスラエルの失地を、
南王国が再度、取り返そうとした時の、
正当化プロパガンダの部分もある、という。

確かに、現在、北朝鮮における将軍様の動静が怪しいと
日々、コロナのニュースに混じって聞こえてくるが、
もし、北朝鮮の体制に何かがあった場合、
ここに介入するには、何らかの大義名分が必要となるだろう。
(そんな事よりも、権力の空白の中で、
ミサイルのスイッチを誰が管理しているのかが重大問題で、
果たして、日本政府はそうした事態を考慮しているかが気になるが。)

さらに、この南王国が滅びた後に、
ここで問題にしているエレミアが登場するので、
この段階で分かった気になってよいか心配だが、
エレミアの哀歌において、
「エルサレムよ、主に立ち戻れ」と
繰り返される言葉の意味が、
この解釈で、かなり明確になってくる。

もし、政治的プロパガンダだとすれば、
昔は一緒だったことを思い出せよ兄弟、
だから、俺たちを受け入れろよ、という感じで、
エルサレムという町の意味が理解できる。

この路線を追求すれば、
確かに背教的な部分が際立ってくる。
「主」なるものが、
口実にすぎなくなってしまうからである。

前回読んだ本では、
「共同体意識のシンボルとして王都エルサレム」
というイメージを得たが、
この共同体の実体としての古代イスラエル統一王国が、
本当にダビデ王、ソロモン王によって確立されたか、
などと言うことも、この「聖書考古学」では、
検証が試みられている。

が、その部分は、今回の考察に直接は関係ないので
最後の方の、第5章「民族の栄光と破滅」という部分から、
私が教えてもらった事を抜き書きしたい。

先の南北再統一を試みた、
南王国ユダのヨシアという王様の行動は、
旧北イスラエル王国の領域から、
それを滅ぼした北の強国、
アッシリアの影が消えたからであった。

「エルサレムへ、主のもとに返れ」
というシュプレヒコールと共に、
この王様は、アッシリアの弱体化に乗じて、
そこにあった神殿などを破壊して歩いたようなのだ。

この破壊の正当化の言葉が、
「偶像崇拝反対」であった。
が、この時、アッシリアが苦しんでいたのは、
新しくバビロニア王国が出てきて、
これをどんぱちやっていたからだった。

が、アッシリア同様、昔からの大国、
エジプトが南にあって、これが、新興バビロニアに対抗すべく、
アッシリアと組んだ、という情勢の大変化があった。

北朝鮮の核施設に対して、
米中が共同路線を取ったような感じの中、
韓国が、勝手にその施設を押さえてしまったようなものだ。
当然、ユダヤの王ヨシアはエジプト王に制裁される。

さらには、新興バビロニアの強大さは増し、
アッシリア、エジプトをも退け、
エルサレムまでが、めちゃくちゃに壊されてしまったのである。

「エルサレムに返れ」、「偶像崇拝反対」の旗印は、
急転直下、エルサレム壊滅の象徴とまでなってしまった。
さすが、聖書考古学である。

この本は、そうした説を紹介しつつも、
「この時代の大火の痕跡のある厚い堆積層が発見された」
と詰めをすることを忘れていない。

また、この後、ユダヤ人たちはバビロニアの首都、
遠く離れたバビロンに連れていかれてしまう。

そんな中、エルサレムはますます美化され、
彼らの心のよりどころとなった。
著者は、「ユダヤ教が本当の意味で誕生したのは、
ユダの人々がその神殿を失い、
民族存亡の危機に直面したバビロン捕囚以後」
とまで書いてある。

第二次大戦後、荒廃した日本の都市を見ては、
聖書が繰り返し嘆いたエルサレムの破壊を思い出し、
「主のもとに立ち戻れ」という信仰に入った人もいる。

クルシェネクの「預言者エレミアの哀歌」では、
聖週間の三日分の哀歌が、それぞれ三つの部分に分けられ、
その最後、つまり9回も、この「立ち戻れ」が歌われる。

それも、この12音音楽の中では、
とりわけ清澄な響きで扱われているのである。

「イスラエルの共同体に立ち戻って王国を再統一したい」、
という、昔の人の夢から離れても、
「今の状況はおかしいぞ」、
という警告、
「頭を冷やさないといけないぞ」、
という祈りとしては、
クルシェネクが直面していた、
祖国オーストリアには言えるかもしれない。

ヒトラーを大多数の国民が歓呼して受け入れた。
が、この新型コロナ・ウイルスの攻撃は、
誰も歓迎をしていない。

こうした中にあって、クルシェネクならではの、
極めて無機質な「祈りの声」は、
何となく、この自粛ムードの中、私の胸に響く。

人間を超えたものの攻撃を受けて、
我々は、未知のものに直面し、当惑しているが、
この音楽には、ちょうど、それを暗示するようなものがある。

自粛して、部屋で自問自答する日々に、
何となく寄り添ってくれる、
押しつけがましさのないBGMのような感じもある。

ずっと昔のバロックの時代に、
たくさんの類似楽曲が生まれているが、
あまりに物乞い調で、被害者意識丸出しのものもあり、
演奏者と聴衆と神様が「三密」状態であったりする。

それに比べるのも無茶苦茶な話だが、
このクルシェネクの作品は、
作曲家自身の孤独を反映してか、
そうした感じがなく、今日的である。
そして、「どこに立ち返るべきか」という問題を、
改めて考えるきっかけにもなろう。

マスクが何時まで経っても手に入らない国、
政府が支給したマスクに不良品が混じる国、
これらを見ただけでも、
どこかに立ち帰るべき規範があってもよさそうだ。

得られた事:
「クルシェネクは、現代の音楽は、繰り返して聴くことで、何がどうしてこのように変化するかの音楽的経過(ミュージカル・プロセス)を楽しむものだと言っている。」
「クルシェネクの『預言者エレミアの哀歌』は、異郷における作曲家の孤独の中から生まれたせいか、多くの宗教曲が持つような、聴くものと演奏者と神様の間の『三密』がなく、いかにも、自粛して自問自答するコロナの日々を悩むのにふさわしい曲想である。」
「『聖書考古学』という本からは、大国の外交政策に翻弄された小国の姿が浮かび上がる。小国の言い分としての『エルサレムよ、立ち返れ、主のもとへ』は、外交政策失態時のプロパガンダであったが、その失敗の代償ゆえに、より強固な結束の護符となった。」


# by franz310 | 2020-04-26 21:16 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その460

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その460_b0083728_22020736.jpg個人的経験:
クルシェネクの
「エレミアの哀歌」という
合唱曲を聴きながら、
このコロナとの日々を
悶々と過ごしている。
荒廃したエルサレムの街を見て
嘆き、怒り、悶えた
預言者エレミア
のような気分である。
ぱったりと人がいなくなった
東京の街を見て、
何と嘆き、
何と反省するべきだろうか。



まず、私が嘆きたいのは、すでに米中韓台と、
すでに「コロナ収束」を語り始めたのに、
我が国だけは、遅々として感染の勢いが止まらないことである。

すでに非常事態宣言が出たわけであるから、
これは、個人の行動履歴を監視しますよ、
という宣言でも良さそうなはずだが、
中韓に倣うのは嫌なのか、
まったくそのような流れになるわけでもなさそうだ。

各県の知事は、そろって、ただ、被害者面をしている。

リーダーシップを発揮しないやつは、
次回、落選だぞ、という気概が国民サイドにも感じられない。

政府のやり方はおかしい、と叫ぶ声も、
あまり聞こえない。
終結までのシナリオがまるでないのは、
先の大戦と同じであり、
廃炉がいつになるか
さっぱり分からない福島と同じである。

この時点で、おかしいではないか、
と何故、誰も言わないのか。
ここはみんなで頑張りましょう、
という妙な脳死状態になっていないか。

預言者エレミアも、何となく、
そういった、普通の事を言っただけなのに、
誰からも相手にされなかったようだが。

ただ、エルサレムについてよく分からないままに、
こうした曲を鑑賞するのも、ちょっとまずいかと思い、
マルティン・メツガーというドイツの聖書考古学者
の書いた「古代イスラエル史」(山我哲雄訳、新地書房)
という本を読んでみた。

1963年に第1版が出て、77年の第4版の訳で、
1983年に日本で出版されたものである。

この書は、ばーんと表紙に、
エルサレム(復元図)というのが飾られている。
遠くに山並み、手前に森、城壁に囲まれ、
何やら庁舎のようなもの、競技場のようなものが見える。

「ローマ時代の」とあるから、
エレミアが追慕した姿とは別のものかもしれないが、
特別に壮麗という感じでもない。

ローマ時代はイエスの時代なので、
エレミアの時代からは600年も700年も経過している。

現代の日本の奈良や京都から、
平城京や平安京を想像するのが、
困難なのと同じなのかもしれない。

この日本語訳についても、
原著者が前書きを書いているのがうれしい。

このメツガー博士が、
「古代イスラエル史における特殊な問題は、
王国以前における
『イスラエル』という集団の
本質にかかわるものであります。」
と書いてあるように、
本質的にこのイスラエルの都の歴史は、
悩ましいもののようだ。

また、訳者が、あとがきに、
「古代イスラエルは、
その精神と宗教によって
人類の歴史に巨大な足跡を残したが、
その歴史的政治的存在は、
ダビデ・ソロモン時代の
わずか八十年の栄光を除けば、
古代オリエントという
巨大な文明圏の辺境に存した
とるにたらない群小民族にすぎなかった」
とあるように、
エルサレムの街が、
彼らを取り囲んだアッシリアや、
エジプトの地方都市以上のものであったとは思えない。

こうした本の分かりにくさとして、
イスラエルのあたりは地図が出ているが、
それが、世界地図のどこかわからない、
という問題がある。

学生時代に読んだ
聖書関係の本で、
「死海文書」の話が
延々と続くものがあったが、
死海と言えば、塩分濃度が高くて
体が浮く湖として有名で、
それが、何故、聖書と関係があるのか、
結局、よく分からなかった記憶がある。

が、今回の本には、
このような記載がある。

つまり、ダビデ王は、
イスラエルとユダという独立国家を
統一したのではなく、両者の王を兼任し、
ユダの地のヘブロンから都を移すことにして、
摩擦を和らげようとしたというのである。

「すなわち彼は、死海北岸西方約20キロの
ユダ山地の高所にあるエブス人の都市国家エルサレムを、
自分自身の傭兵隊によって征服し、
そこを王都と定めたのである」とある。

また、「神の箱」なるものを、
エルサレムに安置し、
両国家共通の祭儀的中心地にした、
とある。

このような記載は、
(サム下五6-9)と注記されているように、
「サムエル記下」の第5章を見ると、
「王と従者たちとはエルサレムへ行って、
その地の住民エブスびとを攻めた。」
と確かに出てくる。

こんな理不尽ともいえる記録を記した書物を、
「バイブル」と呼んで、
三千年も「聖地」を敬っている宗教も
なんだかなあ、と思うとともに、
「こうしてダビデはますます大いなる者となり、
かつ万軍の神、主が彼と共におられた」
と言い切ってしまうところが、
そのアイデンティティなのだなあ、
と背筋が寒くなるのを感じたりもする。

さらには、「古代イスラエル王国」
という本を書くということは、
聖書の記述を整理することに他ならない、
聖書を読めば書いてあるのか、
という発見にもなる。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その460_b0083728_22054834.jpg改めて、
エルサレムの位置を、
昔の教科書から
ぱくって来て確認する。
吉川弘文館の
「標準世界史地図」に、
都合の良い部分がある。


この地図から明らかなように、
巨大国家に囲まれた
古代イスラエル王国が、
何らかのアイデンティティなくして
単独で成立できる意味があるはずはなく、
そのアイデンティティが、
先に触れた、「神と共にある」
ということになる。

メツガーの本で、面白かったのは、
イスラエルの祖先たちは、
巡礼の途中で
(アラバの東側のセイルの山地の?)火山の噴火を目撃し、
「神ヤハウェのすさまじい力として体験した」ようだとして、
これを体験した人たち(おそらく、必ずしも同族とは限らない)が、
何らかの運命共同体意識を持ったとしている点である。

彼らは半遊牧民で荒野を回遊していたが、
旱魃の時に、肥沃なエジプトに出て行き、
洋の東西を問わず起こりうることだが、
安価な労働力となり、
奴隷のような扱いを受けた。

それが、モーゼの「出エジプト」に繋がるのだが、
そこで、エジプトの追跡部隊を混乱させた、
何らかの自然災害が起きたのでないか、
などとも書いてある。

海底地震による津波や砂嵐を、
メツガーは例示している。

当然、エジプトを逃れたとは言え、
住む場所はないわけであるから、
まずは、山岳地帯に潜伏した。
この時、平地には、「鉄の戦車」があったので、
すぐには土地取得できなかった、
ということまで、聖書には書いてあるらしい。

「死海文書」は、
第2次大戦の戦後すぐに、
ベドウィンの(確か少年の)羊飼いたちが、
山中の洞窟で発見したというが、
イスラエルの民たちにとっては、
こうした山岳地帯こそが、
まずは与えられた故郷だったということか。
そもそもベドウィンは遊牧民であろう。

一度、エジプトで定住生活をしてしまっていたから、
元の遊牧民族としてのノウハウは失っていたのであろう。
その意味でも、特殊な人々ではあったということになる。

しかし、この時、平地にはすぐには進出できなかった。
「鉄の戦車」があったので、と書かれている。
このような事から、鉄器時代に入ってからの話なのだろう。

また、こういう記述からして、
「聖書」は、かなり戦闘的な意識を持った
民族の歴史だったこともあることもわかる。

そもそも、メツガーは、「イスラエル」という名は、
神の体系の至上神「エル」に由来するとし、
「エル、戦い給う」を意味するとしている。
この「エル」がそのうち、ヤハウェになったようだが。
神の名前で戦うというのが、
これまた恐ろしいアイデンティティだと思った。

こうして、何らかの同志意識を持った人たちが、
それなりの結束を誓い合うために、
「呪いの儀式」が始まったのだという。

そこで全員の意志を確認して唱和した、
「然り」という言葉が、
「アーメン」だというのも、ものすごい話ではないか。

かくして、力づくを前提とした、
弱肉強食世界の人々であるから、
やがて、北のアッシリア、南のエジプトが、
国内に余裕を持ってくると、
たちまち分裂してしまうことは、
いわば、必然とも言えた。

そして、ヤハウェの神を離れた者らを非難、
ヤハウェの神さえ信じていれば、
といった恨み言にもつながった。

こうした事は、
多くの民族、国家にとってもあり得ることだが、
彼らは、何度かの奇跡を見て自信を得て、
また、何らかの意識からどんどんこれらを文書化し、
何から何まで、自分事化してしまったのである。

メツガーも、
「イスラエルが自己の過去について語る場合、
それは傍観者的に距離を保ったものでも
中立的な『客観性』をもったものでもなく、
彼らは直接的な当事者としてそれを語った」
と書いている。

「彼らは、現在と関連を持たないような仕方で
過去について語ることが出来なかった」
と、何となく、呆れた感じで書いている。
日本人は「水に流す」という言葉を美徳としているが、
少し、このあたりの性向を学ばないと、
世界の常識から置いて行かれる可能性がある。

あの時、「関ヶ原でしてやられたから」を、
ずっと、恨んでいた薩長士族などはかわいいものなのかもしれない。

クルシェネクの「エレミアの哀歌」を聴いていて、
ついつい、脱線してしまった。

得られた事:「ユダの人々を含め、イスラエル部族の人々は、何らかの理由で、過去の一切を語り継ぎ、あるいは書き留めて、それを現在の自分たちの体験として同一視するという、特殊な性向を持った人たちであった。彼らは、決して同族ではなく、共同体意識のシンボルとしてエルサレムを王都とし、『神の箱』をその神殿に納めた。」
「死海は南北に伸びた湖で、その南北に王国があり、南のユダの地方から出たダビデ王が北のイスラエル王を兼ね、その継ぎ目の位置に力づくでエルサレムを建設した。かろうじて息子のソロモン王までは、南北が足並みをそろえたが、これらの王が亡くなるとたちまち分裂し、なおかつ、ユダ王国だけが取り残される形となった。したがって、この段階で、エルサレムの意味も宙に浮いてしまったが、ユダの人々が、エルサレムを見るにつけ、裏切られたと考えたとしてもおかしくはない。」

# by franz310 | 2020-04-19 22:08 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その459

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その459_b0083728_21152486.jpg
個人的経験:
その復活を
実証することによって、
真の救済者であることを
証明するべく、
イエスは一度は
死ななければ
ならなかった。

その経緯などは、
バッハの「マタイ受難曲」
などに詳細に描かれ、
我々異邦人も、
音楽で学ぶことが出来る。


私は、先だって、メンゲルベルクの指揮の
有名な録音を聞き直してみたりしたが、
イエスの前に立ちふさがる理不尽や、
弟子たちの貢献や裏切りも生々しく、
これが2000年も前の「お話」
とも思えず、むしろ、
これを2000年にもわたって、
ああじゃこうじゃと解釈し、
こねくり回していた
教会なるものに、
恐るべきものをむしろ感じた。

キリスト教の世界では、ここはこう解釈すべき、
という教条主義が脈々とあって、
かつて、私は、勝手な解釈をして、
信者の方に叱られた事があった。

従って、勝手に、クルシェネクの曲といえど、
ここは、こう聴こえる、などと感想を言えば、
怒られてしまうのかもしれない。

しかし、クルシェネクだって、
「哀歌」のこの部分は、こういう解釈だから、
などと考えて作曲したのではあるまい。

おそらく、哀歌の亡国の嘆きと、
そこに含まれる教訓が、
妙に心に響いたから、作曲をしたのであろう。

だから、彼は、「教会用ではない」と断言しているのである。

私も、同様の立場で、自分に響く言葉を、
心に留めていく作業を行った。
信者の方々には、気分を害される方もおられるかもしれない。

とはいえ、いずれにせよ、お話は単純で、
こうした自問自答の受難の後に復活の奇跡があることが、
おそらくキリスト教の
信者たちを力づけて来たものであったはずだ。

2020年の復活祭は、しかし、まったくそれどころではない。
世情にて喪に服した状態である。
日々の感染者は、日本では増加の一途であるし、
海外からは、日本の政策は手ぬるい。
そんな事では日本はもうだめだ、
という声も寄せられている。

これを書いている段階で、
復活祭の季節にまでなってしまったが、
その受難を耐え忍ぶ音楽が、少なくとも私には、
この自粛の日々にふさわしい。
実は、クルシェネクの難解な音楽が、
妙に心に染みるのである。
まったく情感に訴えることを期待せず、
ただひたすらに、音楽を音の規則として扱った、
このきわめて数学的な音の配置が、
図らずも、人智を超えた、異次元に私を誘って止まない。

最初にこのCDを手に入れた時には、
最後まで聞きとおさずに、棚にしまい込んでいたのだが、
この事態を前にして、妙に聴きたくなって、
聴きこんでいるうちに、好きになってしまった。

この言葉を信じてCDを購入する人がいても、
まったく責任は持てないし、
誰かに推薦して、同様の共感が得られるとは、
まったく思えないのであるが。

ただ、歌詞を読んで、
驕り高ぶりはいかん、という気持ちは、
妙に掻き立てられる。

このコロナ禍に対して、
自分は気を付けているから平気だ、
という気持ちの裏には、
自分以外なら、かかっても仕方ない、
というエゴの感情がうごめくのが、
気になってきたりする。
自分は大丈夫というのは、
ユダヤ人の「選民思想」と何が違うだろうか、
というような気持ちにもなる。

この問題は、世界が平らかに収まらなければ、
決して、元の状態に戻るものではない。

人間と人間のきずなを断ち切る、
バベルの塔の災いのような問題である。
「選民思想」があれば、たちまち、
この問題は後に禍根を残すであろう。

前回は、オランダ室内合唱団で聴いた、
クルシェネクの「預言者エレミアの哀歌」。
今度は、RIAS室内合唱団の演奏で聴いてみたい。

ほぼ、同時期の録音だが、演奏時間は、
こちらの方が10分以上長く、
録音もすっきり感じられる。
マークス・クリードという英国出身の指揮者が、
1948年に創設されたベルリンの合唱団を指揮している。

表紙写真は、ドイツの写真家、
グンドゥラ・シュルツェ(Gundula Schulze)の
白黒の作品で、
「ポーランド1980」とある。
工場と十字架が対置されたものであろうか。
現代社会における宗教の在り方を問う作品なのだろうか。

ハルモニア・ムンディから出ているドイツ盤だが、
エバ・シアマッヒャー(EBBA SCHIRMACHER)
という人が解説を書いている。
ただ、この名前でネットで検索してもよく分からない。

1995年に出たCDであるから、
「エルネスト・クルシェネク、私たちの時代の一人の人間」
というタイトルになっているが、
これは、20世紀のことだ。

「私たちがクルシェネクの名を心に思い描く時、
いかなるスタイルの統合としても分類することが不可能な、
様々な作品群に当惑することになる。
しかし、それらを次々に並べて行くと、
我々の時代の音楽史の例がシリーズで読み取れるようにも思える。
従って、彼が、20世紀の音楽的、音楽美学的、
哲学的、歴史的な出来事について意見を表明する中、
人はクルシェネクと、その240曲もの作品にアプローチする時、
偏見のない心で接する必要がある。
1900年にウィーンで生まれ、
他の芸術家の誰とも違って、
多岐にわたる音楽語法で世紀を生き抜いた。」

以下、シュレーカーの影響を受けた、
初期の表現主義の作風から、
マーラー風の「第2交響曲」、
新古典主義の「コンチェルト・グロッソ」、
アメリカの軽音楽の影響を受けた「ジョニーは演奏する」、
といった作風に進んだ話が出てくる。

「実質はロマンティックな作品であったが、
それは『ジャズ・オペラ』というお決まりの誤解を受け、
その大ヒットによって大金を手にする一方で、
一方で、同僚たちからは、
軽音楽のレベルに自分を下げた、という非難も受けた。
それ以上に、国家社会主義者に『退廃音楽』の作曲家という、
烙印を押されて、将来のキャリアに広範囲な影響をもたらした。
黒人のジャズバンドのヴァイオリニスト、ジョニーは、
社会に対するその傲慢な態度によって、
まさしく堕落した芸術のまさにシンボルとされた。
この苦境を脱し、まだ12音技法を受け入れる前に、
あからさまに実質的にロマンティックな語法で、
クルシェネクは最後のエッセイをものした。
明らかにシューベルトに霊感を得た、
『オーストリアアルプスからの旅日記』(1929)で、
クルシェネクは過去に決別し、
新しいものを模索していることが感じられる。
それは、19世紀に失われた語法を続けるように見せかけるとともに、
11音の音列の世界に初めて足を踏み入れている。
これらの歌曲集の中で、
帝国と共に没落するオーストリアに優しい追悼を行い、
故郷から離れる予感が音にされている。」

このような流れの中に、十二音技法による、
オペラ『カール五世』が書かれた。

「1933年にナチスが力を持つと、
クルシェネクの音符は一音も演奏が許されなかった。
彼は真剣によく考え、作曲家をやめ、作家を職業とした。
1938年に合衆国に最終的に移民するまで、
彼は試みに、作家として何年か何とか生計を立てる活動をした。
ここでクルシェネクは多くの同僚と同様に、
芸術家の仕事からまず第一に身を引き、
生活費をレッスンで稼がざるを得ない状況となる。
が、教師としての刺激もあり、
ヨーロッパの音楽から遠く離れた制約もあって、
音楽史の勉強を始め、とりわけオケゲムの音楽に興味を持った。
1941年12月に、
彼の『預言者エレミアの哀歌』作品93を作曲した時、
クルシェネクは目の前に精神的に暗い時代を見ていた。」

このように暗い時代見つめた音楽。

「ヨーロッパから数千マイルも離れ、
将来の可能性はすべて不透明で、
友人も、知的な会話の相手もおらず、
アメリカは戦争の準備をしており、
何より彼の生活費を得る仕事は不確かであって、
この亡命は犠牲を要求した。
クルシェネクは聖なる街の没落に寄せた、
これらの預言者の絶望の嘆きを
この作品が本当に演奏できるかどうか
この音楽がおそらく演奏されることも、
歌われることもないないかもしれないという
心配もあったけど、これに臆することがなかった。
作曲したテキストはクルシェネク自身が
エレミアの哀歌から集めたが、
カトリック教会が
テネブレのお務めで使うのと同様のものであった。」

以下、この前の回でも紹介した言葉が出てくる。

「彼はそれを教会で使うことは考えなかったが、
しかし、テキストの流れは、
『ナチス支配のドイツが私の祖国を破壊行為で脅かし始めたので、
私が生まれ深く関与した教会の権威が聖別したもの』を選んだ。
テキストは、9つの聖書朗読から組み立てられる
その都度に三つのグループに分けられ、
それぞれが、エルサレムの嘆願、
救いの祈り、神への回帰、で締めくくられる。
お務めは一声から九声で作曲され、
八声はダブルコーラスに統合される。
小節線はなく、
テキスト単位も表すリズミカルな数字は、
モーダルボーカルのように、均一な音価で構成されている。」

このように作曲された、「エレミアの哀歌」であるが、
今回は、この現状のコロナの惨状に即して、
「何故、エルサレムが荒廃したのか」
を、歌詞から妄想してみたい。

エルサレムを遠い昔の都と考えると、
他人事になってしまうので、
ここでは、「東京」と呼び変えて、
我々にこれらの音楽を身近に引き寄せてみよう。
この旧約聖書の「哀歌」から取られた歌詞は、
前述のように9つのコンテンツからなる。

これを三日でお務めするので、
1日目から3日目まで3つのコンテンツが並ぶ。

ざざっと、まず1日目の内容を概観する。
ここでは、エルサレムが泣きぬれる
といった感傷的な部分は無視して、
いかに、エレミアが、エルサレムの過去を反省しているか、
という部分にのみ注目する。
1日目の第1ルソンには、
「敵がはびこることを許した」
とある。

これなどは、まさしく、クルシェネクが逃げ出した当時の、
オーストリアの姿であって、まったくもって、
3000年前の物語ではない。
神妙に歌いだされる最初のいくつかの音は、
グレゴリオ聖歌そのものらしいので、
すっと、教会の雰囲気に吸い寄せられる。
うまく、この流れに乗れるかで、
この曲に浸れるかどうかが決まる。

1日目の第2ルソンは、
「罪に罪を重ねた」、「恥が暴かれた」とある。
恥ずかしい事が隠ぺいされるのは世の常であるが、
隠ぺいしてしきれると思うのが腐敗の姿であろう。
第1曲とは異なり、
吸い寄せられるよりは、
ヴェールが下りてくるような感じ。
無伴奏の合唱が、この人間不信の世情のせいか、
音楽が無機質であってもなぜか心地よい。

1日目の第3ルソンは、
「宝物に敵が手を伸ばした」とあるから、
敵が欲しくなるものを持っていた事が悪い、
とも読め、
敵に渡してはならないものまで、
売ってしまったとも読める。
第3曲は、暗中をかき分ける感じの音の連なりである。
ここで、「哀歌」の背景となる「歴史」を振り返る。

極めて単純化した構図によると、
まず、ダビデ王、ソロモン王が築いた、
栄光のイスラエル王国があって、
それらが紀元前900年頃、南北に分裂、
北王国はアッシリアに征服される。
南王国がエジプトと組もうとすると、
アッシリアをすでに支配していた
バビロニアがムカついて
これを攻め滅ぼしてしまった、
という感じである。
この南王国の首都がエルサレムである。

このようにみると、そもそも、
何故、国が二つに分かれなければいいじゃん、
となるわけだが、
ソロモン王が何とか防いでいた分裂が、
王の死で起こってしまった、
というのは、よく聴く話である。

うまく行っているときは、問題もたまっているが、
それが目に見えないので、何かが起こると、
簡単に思わぬことが起こってしまう。
また、民主主義の世界では、
それぞれ思いついた言いたい事を言えばいいので、
これは実は容易に起こりうることである。

今回も緊急事態宣言を国が出すのが、
遅いという人が異を唱えているし、
都の定める規制の対象がどうかということで、
ああじゃこうじゃと国を二分する論争がある。

まだまだ、米中のような死者が出ていないので、
何とか理性を保っていられるが、
まさしく目の前に死体が累々と並び始めると、
実力行使で、町を封鎖する動きが出てきてもおかしくはない。

当然、封鎖した町は立ちいかなくなるが、
そこに某国から支援物資でも送って来た日には、
もはや、国が分断されたといってよい事態になっているわけである。

実は、首相が補助をどこに出すとか出さないとかで、
すでに国の分裂の危機が始まってもいる。
つまり、見捨てられた業界は、
海外の資本の下に入って行く可能性がある。

夜の店には、すべて他国の裏社会が絡んでいる、
といった未来像は恐ろしくて想像したくもないのだが。

「宝物に手を伸ばした」というテキストは、
このように、気づかぬうちに、
国内産業を見殺しにしている
我々自身の価値観にも突き付けられた課題である。

まったくもって、他人事ではない。
音楽で言えば、クルシェネクはアメリカに取られてしまった。
ヨーロッパはユダヤ人の音楽家なども多く失った。

同様に、この災禍の後、
自分のお気に入りのレコード屋が、
営業を再開できるかと言えば、難しい場合も多かろう。

その時、ああ、あれは、この町の宝だった、
などと思い出しても後の祭りになり兼ねない。
そうならないようにするために、どうすればいいのか。

第2日の第1ルソンは、
主に、ひどい目に会った事を嘆く部分が多い。

反省なのかどうかわからないが、
事実として、
「律法を教える者は失われ」とあるが、
これは自責か他責かよく分からない。
音楽は、なんだか分裂気味の、
当惑気味なもので、
律法がないのであるから、
そうなってもおかしくはない。

第2日目の第2ルソンは、
子供が飢えて死んでいくシーンが何よりも強烈だが、
後半には、
「罪をあばくべき預言者が偽りの言葉を吐いた」
とある。

これは、まったく情報開示が進まない状況に似ていて、
極めて現代的な課題である。
何故、これだけ犠牲者が出ているのに、
「テレワークの人とそうでない人の比率」とか、
「酒飲みと酒を飲まない人の比率」とか、
「スーパーでレジ待ちした人としてない人の比率」ぐらい、
整理して公開できないのであろうか。

音楽は悲し気で、無力感に溢れたものだ。
ほの暗いオランダ室内合唱団の演奏より、
RIASの演奏の方が、突き抜けた感じがある。

第2日の第3ルソンには、
「死者と共に闇の奥に住ませる」、
「助けを求めても誰にも届かない」
といったフレーズが、
今まさに、我々が直面しかねない
医療崩壊後を思わせ、
完全に他人事ではない。

オランダ室内合唱団は、
この切迫した状況を叫ぶように訴えた。
RIASは、そうした人間の感情を抜きに、
ゆっくりと、説明しているように聞こえる。
この曲あたり、かなり、二つの演奏で、
解釈が分かれているのかもしれない。

クルシェネクはユダヤ人ではなかったが、
彼の時代のユダヤ人は、
この状況を暴力的に体験した。

ただ、ここにも、
「道を曲げてわたしを惑わす」とあるように、
惑わされている事に対しての自戒があるとも読み取れる。

第3日の第1ルソンには、
「望みを置いて尋ねる魂を救う」とあるから、
我々も、未来を模索しなければならない。
音楽は、無限の宇宙空間を漂う宇宙船のような感じ。
ものすごく美しいともいえる。

第3日の第2ルソンには、
「聖所の石が打ち捨てられている」とあるが、
これは原因か結果かわからない。
ただ、「美食」や「華美な衣」にも触れられているが、
これが罪なのかはわからない。
私たちがこれまで、意識せず大切にしてきた価値観が、
このコロナ旋風の後、瓦礫のようになっている可能性があり、
ここに書かれていることは、ある意味、非常に生々しい。

音楽は、うらぶれた響きを醸し出し、
これまで価値のあったものが、
さげすまれ、打ち捨てられている様子だろうか。

第3日の第3ルソンには、
「エジプトに手を出し、
パンに飽こうとアッシリアに向かった」
という点が罪として明記されている。
つまり、独立の気概より、
実益にのみ走った感じが描かれている。

このフレーズの解釈は、
どこかにオーソライズされているのであろうか。
この国際社会において、隣国と、
何らかのかかわりを持つことは当然なのだが。

古代イスラエル王国が滅びたのは、
「偶像崇拝」がはびこったから、
などと、
当時のロジックに引っ張られて考えると、
単純に意味不明となって終わってしまう。

しかし、これを、仮に、「グローバリズム崇拝」とか、
もっと身近には、「五輪崇拝」とか「経済崇拝」とか、
現代風にアレンジして考えることは可能なのか否か。
クルシェネクのオーストリアも、
結局、99%だかの賛成率で、
ヒトラーを崇拝して滅びたわけである。

とにかく、「崇拝」が入ると、おそらく、
無条件で「考えなし」になるのであろう。
この「奴属状態」では、指示待ちしかできなくなり、
「思考停止」となって、
「俺は言われたからやっただけだ」
という方向に流れていく。

世界中で起こっている事を、
分析することもなく、
「お上が禁止してないから、俺は7時までなら飲んで騒ぐぞ」
といった発想にもなりうる。

そもそも、日本企業は、言うことを聴く人間が大好きで、
学校教育から同じ価値観を信奉するのを良しとする傾向がある。
つまり、それだけ、偶像崇拝は起こりやすい環境と考えられる。

企業というものも、常に、「利益率」とか、
「成長率」という偶像に近いものを拝んでいる。
拝んでいる、と書かざるを得ないのは、
今回のような「コロナ禍」は、
そもそも「想定外」として捉えるだけであって、
事業計画上は、「起こらない事」を祈るだけだからである。

中国が3億人もテレワークしているのに、
日本では、テレワークが9%しか行われていない、
と聞いただけで、
ほとんど、日本人が竹やりで戦車に向かうように、
「祈るだけ」で、出勤している姿が目に浮かぶ。

このように、ほとんど綱渡りのような、
我々の日々の実態を、
今回のコロナ問題はあばきだしている。

クルシェネクの「エレミアの哀歌」の
最後の音楽は、
この曲の冒頭の回想のような音楽で、
最後は、ブラックホールのようなものの中に、
吸い込まれていく。

そもそも締めくくりの歌詞も、
「人妻はシオンで犯され、
おとめはユダヤの町々で犯されている」
と凄惨なもので、こんなものを、
修道院などで歌っていた連中は、
いったい、何なのだ、という気持ちも沸いてくる。
最後は、「立ち帰れ神の許へ」の祈りが続くのであるが。
全体として、
まるで永遠の悔悟の連鎖のようになっている。

おそらく、我々は、しばらく、
このポスト・コロナの問題に
向かい合わなければならないのであろう。

「中世の音楽の研究に啓発され、
常にメロディの発展に意識を払い、
クルシェネクは12音の音列を旋法的にアレンジ開始し、
展開の中で協和やオクターブを避けた。
彼は12音を相補する6音のグループに分解、
ローテーションの原理で扱った。
ヘキサコードの最初の音は、
新しい6音のグループの最後に現れるので、
新しい12音音列は、構造的、語法的に
オリジナルに類似なものになり、
耳には再構成されたように聞こえる。
これはカール五世でも試みられていたが、
まだ、体系だってはいなかった。
彼は、セリー音楽が十分に知られていない以前に、
自身でその構造原理を構築した。」
このように、亡命先の極限状況にあって、
生み出された新境地であったが、
クルシェネクは、若い世代から無視されてしまう。
「1950年以降、クルシェネクは規則的にヨーロッパに戻り、
ダルムシュタットにも招かれたが、
シュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノといった、
新しい世代の作曲家たちの関心を引くことはなかった。
クルシェネクは、自身を確立された作曲家と思った事はなく、
過去の実績の名声に浸ることなく、
新しいものを受け入れ続けた。
『すべてのゴールは新しい出発点だ』、と、彼は、
彼の旅行記に書いているので、彼が電子音楽のスタジオで
働いた事は驚くに値しない。
いかに興味が掻き立てられようと、
彼はヨーロッパに永住することはなかった。
何十年か前に予想したように、彼は家無しの感覚で、
カリフォルニアの砂漠の中に隠棲した。」

クルシェネクの後半生は、このように、
ある時は時代を追い越し、ある時は、時代遅れとみなされ、
結局、私たちから、いまだ、遠くにいる。

得られた事:
「コロナ感染拡大の最中、2020年は復活祭を迎えた。長い長いレントの期間となった気分であるが、クルシェネクの音楽がこんなにも身近に感じられるとは、この災禍なしにはあり得なかったような気もする。」
「この長い内省の時期にあって、我々自身の価値観が崩壊していってもおかしくはない。在宅勤務で社を離れてみて、何とくだらない事に、これまで、血眼になっていたのだろう、などと考える人は多かろう。また、同時に、見捨てられた商店の中には、再開することなく消えて行くところもあるだろう。それが、自分にとって、大切な場所だった、と気づいた時には、何も手立てはなくなっているのだろう。」
「クルシェネクは、完全に音のロジックのみで、聖書のテキストに音楽をつけたが、これがなんともいえぬ、超俗的な空間を作り出して、恐るべきコロナウイルスですら、入る事の出来ない、安心な領域を想起させている。」
「意味不明の写真が表紙に使われていると思ったが、有名な写真家が捉えた現代における宗教の在り方とみれば、この殺風景さにもありがたさが感じられる。社会主義の名残か、工場と十字架が並んでいる。」
「クルシェネクは自分が感じた聖書のテキストへの思いに忠実でありたいがゆえに、『教会用ではない』と断って、この曲を書いた。そうでなくては、勝手な解釈は許さんというう教会サイドのちゃちゃが入ったかもしれない。クルシェネクのこの態度ゆえに、我々、信者以外の人も、この聖書の中の当惑と反省に、自問自答しつつ身を委ねることが許されるような気がする。」

# by franz310 | 2020-04-12 21:28 | 現・近代