excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 10月
2017年 08月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2017年 10月 ( 1 )   > この月の画像一覧

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その445

b0083728_2036278.png個人的経験:
今回、取り上げる、
「ワン・ヴォイス」と銘打たれた、
キャサリン・ボットが歌った、
「中世トルバドゥール、
トルヴェールの愛の歌」
(1995年に録音されたもの)
などは、
解説の書きっぷりが、
特に私には気になるがゆえに、
「嘘じゃないか」と感じてしまう一枚である。
(原題:Sweet is the song)


解説を書いた、ジョン・スティーヴンスという人は、
Song, Narrative, Dance and Drama, 1050-1350
という副題を持つ、
「Words and Music in the Middle Ages」
という著作もあるので、
相当の研究家と思われる。

ただ、このCD解説において、
トルバドゥールの音楽が、
「言葉と音楽の関わりという点で
他に例を見ないものである」
という事を強調するあまり、
「ハイネの最も優れた詩を見つけるのに、
シューベルトの歌曲を調べたりしないだろう」
などという、書かなくてもよかったであろう
余計な一言を付け加えたがゆえに、
妙に、私の気分は害された。

それはそうかもしれないが、
ハイネとシューベルトの関係もまた、
「言葉と音楽の関わりという点で
他に例を見ないものである」というのと、
同様の賛美と崇拝が
繰り返し書かれてきたし、
私なども、当然そうだ、
と考えてしまうからである。

それに加えて、この人は、
器楽伴奏無用論をここで熱弁していて、
「高尚な様式」で書かれた歌曲の旋律は、
途中で旋法が変化を起こすので、
「和音を付ける」ことは、
それらを変形してしまうことになる、
と、器楽伴奏が付くことを否定しているのである。

さらに、スティーヴンスは、
グレゴリオ聖歌をオルガンで伴奏するのも、
同様のこととして否定しているが、
これは、よく言われる事のようである。
とはいえ、私は、オルガン伴奏のグレゴリオ聖歌には、
何となく、ノスタルジックな感傷を覚える。

それにしても、このキャサリン・ボットのCDは、
少なくとも私には評価が難しい。

グレゴリオ聖歌のような禁欲的な場ではいざ知らず、
基本的に宮廷という華やかな場で歌われた歌曲が、
本当に、一人の歌手だけで歌われたのだろうか。
しかも、スティーヴンスも、
舞曲の時には、器楽が登場したことは認めている。

b0083728_20451914.pngやはり、ワン・ヴォイスは、
無理があるのではないか、
などとも考えて、
当時の歴史を振り返るべく、
「十二世紀のルネサンス」
と歴史家が呼ぶ時代を活写した、
石井美樹子著「王妃エレアノール」
(十二世紀ルネッサンスの華)
(朝日選書)を読んでみた。

トルバドゥールの祖とされ、
十字軍にも参加した、
南西フランスのアキテーヌ公、
希代の傑物、ギョーム9世は、
このエレアノール(アリエノール)の
祖父である。

この本を読むと、フランス王妃でありながら、
英国王のもとに走った、
エレアノールという女性の生きざまが、
その時代と共に身近に感じられる。

改めて驚くべきは、
その行動力と活動の範囲で、
最初の夫、ルイ7世とは、
はるばるイェルサレムまで行動を共にし、
次の夫、ヘンリー2世とは、
英国から地中海を縦断する大帝国建設を夢見、
息子リチャード獅子心王が、
さらなる十字軍に参加する際には、
シチリアまで送り出しに行き、
スペインの孫娘を嫁がせるために、
ピレネー山脈を越えた時には、
80歳に近い高齢であった。

このように、一人の女性が、
いわば、地中海を庭のように動き回った時代、
当然、アラブの音楽などが、
巷に溢れていた事は疑う余地がなく、
その多彩な楽器の音色なしに、
華やかな宮廷ライフが営めたとも思えない。

何と、王妃は、来賓であるヘンリーの部屋に、
こっそり忍んでいくという描写もある。
このような状況下で歌われる恋歌であれば、
やはり、伴奏者を伴う事は出来まい、
などと、ワン・ヴォイスである理屈が見つかったりもする。

表紙に用いられた絵画は、中世の彩色写本風で、
男性が何かを、高貴な身なりの女性に手渡して、
そこそこ、このトルヴァドール的な世界を暗示している。

Track1.の
ボルネイユ作「栄光の王」からして、
前回聴いたデュオ・トロバイリッツのCDと、
曲目がかぶっていて、
日本語訳を眺めながら比較できる。

このタイトルから連想されるような、
栄光の歌ではなく、この曲は、
「恋する男の親友が『見張り番』の立場から歌う」
朝が来て、危険が迫ることを告げながら、
神様に友人を救ってほしいと、
祈っているような音楽で、
このボットの独唱で聴くと、
特に、非常に物悲しい詠嘆に聞こえる。

一方、デュオ・トロバイリッツのものは、
この曲をトリスタンとイゾルデの物語になぞらえ、
最後の詩節にヴィーン版なるものを採用、
「このような貴重な時に比べれば、
僕なら夜明けも昼も要らないだろう」
という部分も歌われていて、
ここは、トリスタンの独白だという。

つまり、見張りの親友の心配をよそに、
イゾルデの傍にいるトリスタンが、
「それがどうした」と言っているといった、
正反対の切り口の歌と解釈されている。

このデュオ・トロバイリッツ盤、
ハーディーガーディーの、
瞑想的な響きの伴奏もあって、
もっと、楽観的、耽美的な情景。

「母親から生まれたすべての女性の中で、
もっとも高貴な女性を胸に抱き、
気違いのような嫉妬も、
夜明けも知ったことではない」という、
何とものろけまくった、
ずっとけだるく陶酔的な音楽。

今回読んだ「王妃エレアノール」では、
フランス王との性格の不一致に悩む
王妃自らが、前述のごとく、
若い貴族の泊まっている部屋に、
足を運ぶ設定になっているが、
これまた、欲望の肯定というか、それがどうした、
という感じは、この本からも読み取れたイメージだ。

このように、貴婦人のもとで、
こっそり、愛を語りかけるのが、
トルバドゥールの歌だとすると、
鳴り物がない方がそれらしい、
と考えさせれた一曲である。

伴奏があるかないかは、二の次で、
このように、ボットの歌唱と、
デュオ・トロバイリッツの演奏とでは、
かなり、情感的にも違いがありそうだ。

ボットの声は、
あまり澄んだものでも、
色香があるものでもなく、
少しハスキーな要素があって、
この雑味が、逆に、中世的な奔放さ、
エレアノールの気丈な様子を、
なんとなく想起させて良い、
とも言えるかもしれない。

b0083728_20365682.jpgなお、この曲は、
トルバドゥールの
代表曲のような感じで、
入手しやすいNAXOSレーベルの
アンサンブル・ユニコーンと
アンサンブル・オニ・ウィタルスによる
「トゥルバドールの音楽」というCDにも
収録されている。

これは、1995年の録音である
ボットのCDの翌年の録音であり、
ジョン・スティーヴンスの説が、
必ずしも一般化していなかった事の証拠でもある。

実は、このNAXOSの盤などは、
アラブ風の味付けの最たるもので、
ボットの「ワン・ヴォイス」の対極として、
両方、聴いてみた方が良い。

何と、このCDでは、器楽曲として演奏され、
しかも、チャルメラでぴょろろーと、
鼻にかかったようにメロディを演奏するのみならず、
太鼓がどんどこ打ち鳴らされ、
大奥から影の支配者登場といった風情である。

おそらく、このCDを聴けば、
いや、いくら何でも、これは違う。
ワン・ヴォイスの質素も悪くないな、
と考えるに至るはずだ。

しかし、このNAXOS盤は、
聴くべき要素は満載で、
芝居の情景のようにばか騒ぎの中から、
歌が沸き上がるような演出の曲がある一方で、
敬虔な祈りの独唱もあって、
シンプルなハープの弾奏の中から、
ボットの声より挑発的に刺激的な声、
あるいは蠱惑的な声が浮かび上がる。

中世というより、
ずっと現代的な手法を感じるが。

NAXOS盤の解説の初めの方を読んで、
このトルヴァドールの音楽について復習すると、
以下のようになる。

「トルヴァドールの詩や歌は、
初期のヨーロッパ世俗音楽のレパートリーとなっている。
南フランスのオック語文化の伝統による詩人や音楽家を、
これは少し後に北フランスで花開いたものと区別し、
一般に前者をトルヴァドール、後者をトルヴェールと呼んでいる。
12世紀、13世紀のトルヴァドール自身は、
概して、19世紀に想像されたような、
放浪のミンストレルではなく、
国王であったり、王子であったり、
貴族であったり、しばしば高貴な身分で、
その地所を離れることもなかった。
これらの詩人に混ざって、
社会的身分の低いものもおり、
商人や交易業の息子たちもいた。」

これでは、まったく、
その音楽の特徴や
演奏が狙うものまでは分からないが、
確かに、この時代の音楽は、
教会音楽などが残っていることはあっても、
世俗曲が残っていることは少ないので、
レパートリー(演奏可能で現存するもの)
という書き方はなるほどと思った。

音楽史を研究するものでなくとも、
興味がそそられる分野とも言える。
いったい、当時の人たちは、
どんな音楽に、
日ごろ、心を動かされていたのか。

「しかし、彼らはすべて、宮廷の慣習や、
理想化された愛、その喜びや悲しみといった、
宮廷風の概念に影響されていた。
その他の主題も網羅されており、
政治的なもの、風刺的なもの、
悔やんだもの、みだらなものがある。
トルヴァドールの言語はオック語という、
地域の言語とそれに近い方言で、
これは、トルヴェールによって、
大きく変えられてしまった。
トルヴァドールの活動は、
カタロニアやイタリアにおよんだ。
多数のトルヴァドールの詩が残されており、
単声のメロディとリズムやパターンが、
詩句とセットになっている。」

ということで、ここまでは、あまり、
アラブの影響のような事は書かれていない。

しかし、Michael PoschとMarco Ambrosini
という人は、最後に、「解釈」という項を設け、
前に読んだ、セクエンツィアのバグビー同様、
以下のような釈明をしている。

前者はここで演奏している
アンサンブル・ユニコーンのディレクターであり、
後者は、共演している
アンサンブル・オニ・ウィタルスの創設者である。

「トルヴァドールの音楽や言葉は、
それらで表現されたものと共に、
何世紀もの歴史の中で重要さを失うしかなかった。
現代においては、
南フランスやカタロニアの音楽的、詩的文化にのみ、
その影響が、特に民謡などに見て取れるだけである。
このレパートリーの真の理解に、
理想的な解釈者となる人物を探す中で、
我々はマリア・ラフィッテを選んだ。
彼女は、カタロニア歌曲の最も重要な歌手の一人で、
古楽アンサンブルとの共演の長い経験、
地中海のロマンス語の分野への深い研究経験が、
その詩的表現法、解釈の深さに結びついている。」

これには驚いた。
何と、彼らは、自分で研究したというより、
一人の女性歌手を選んで、その解釈を頂いた、
という立ち位置だというのであろうか。

秘境から連れて来られた、
古老のような存在かと思ったが、
ネットで調べると、1902年に生まれ、
1986年に亡くなった、ハイカラさんが出てきて、
「スペインの貴族、作家、
美術批評家、女性の権利活動家、
および女性の社会学研究におけるセミナーの創立者」
とあった。

さらに不思議なのは、このCDで歌っているのは、
Maria D.Laffiteという名前の女性で、
先のマリア・ラフィッテの間に、Dが入った点のみが異なる。
同一人物ではありえない。
録音の辞典でさっきの大物の方は亡くなっているのだから。

この人も調べると、2008年に亡くなっていた。
非常に魅力的な声で魅了してくれていたのに、
残念なことである。

1949年生まれであるから、
60歳を前に若くして逝ったという感じだが、
年齢関係からして、本家の娘ではあるまい。

いったい、どっちのマリア・ラフィッテの解釈だと言うのか。
前者は世界大戦前の人で、いかにもと思わせる。
長命だったし、それっぽいが、都会人っぽすぎる。
そもそも音楽の筋の人ではない。

後者はオック語の伝統を受け継ぐにしては最近の人だ。
だが、完全に音楽関係者である。

解説から離れて、CDの音楽に耳を澄ます。
歌っている本人の勢いからして、
どうやら、後者の解釈と考えるべきであろう。

とにかく、こういった民族音楽的系統の解釈であることは、
CD内に明記されていたということになる。
続きを読んでみよう。あと、半分ある。

「この音楽は現在も生き続けている伝統
という信念のもと、
地中海音楽の継続している伝統と、
古楽のフィールドの要素からの、
解釈に行き着いている。
アンサンブル・ユニコーンと、
これら二つの流派のトレンドを代表した
オニ・ウィタルス・アンサンブルのコラボが、
非常に効果的なことが実証された。
良く検証された歴史的研究と、
即興の広範な自由さと、
様々な楽器と厳格なテキスト由来のアレンジで、
この録音には、詩的な豊かさと、
生き生きとした豊かな色彩が与えられた。」

このように、「アラブ的」ではなく、
地中海的という視点で演奏されており、
その視座から言えば、
「王妃エレアノール」が、
持っていたであろう世界観であろう。

これらの解釈は、ある意味、
ラフィッテの妄想の世界かもしれないが、
その彼女も亡くなってしまった今、
改めて、このCDは、
ここに書かれているとおり、
詩的かつ色彩的な音楽が充満した、
非常に価値あるものと思われる。

そもそもクラッシック界と民族音楽の
クロスオーバー的演奏が、
こうした形で出たとしても、
別におかしくないし、おかしいと思う方が、
何だかおかしい、と考えてしまった。
少なくとも、二つの楽団と、そのリーダー、
さらには、多彩な歌や語りを聴かせて、
年季の入ったその筋の歌手が、
それぞれの意見を持ち寄って、
至った結論がこれだとすると、
納得せざるをえないような気がしてきた。

ボットのCDの解説を書いた、
ジョン・スティーヴンスは、
こうした想像力の広がりを否定できるだろうか。

ちなみに、これらの楽団についての解説も見ておこう。
オニ・ウィタルスは、
中世、ルネサンス期の音楽と
アラブとトルコの伝統音楽を演奏するために、
オーストリア、ドイツ、イタリア、イラン、ハンガリー
イギリス、スペイン、アメリカからメンバーが集まり、
1983年に作られた団体で、
中世・ルネサンスの西洋の楽器や、
現代に伝わるアラブや東欧の楽器を駆使するという。
東洋と西洋、古楽と現代を結び付けようとしている。

創設者のアンブロジーニはイタリアに生まれ、
弦楽器や作曲を格式高い音楽院で学びながら、
ジャズの作曲家であり、演奏家であるとも書かれている。

また、アンサンブル・ユニコーンは、
新しい解釈で、中世、ルネサンスの音楽を演奏する団体で、
オーストリア、イタリア、ドイツからメンバーが集まった。
その演奏の技量で、歴史的に裏付けられた即興を得意とし、
楽団員自らが、研究を重ねているとある。
オーストリア政府からの援助もあるというから、
かなり期待された楽団のようだ。

主催者ポッシュは、1969年生まれのオーストリア人で、
やはり、厳格な音楽教育を受けた人で、専攻した楽器はリコーダー。
クレマンシック・コンソートや
コンツェルトゥス・ムジクスとも共演したらしい。

ヴィーンで古楽を教え、そこでのディレクターだとある。
とんでもない権威ではないか。

「栄光の王」の作者たるボルネイユの名では、
このNAXOS盤にはもう一曲あるが、
これとて、この演奏ならではで、
「歯の痛みを抑えられない」という題名のとおり、
とにかく大騒ぎしてやかましい。

Track2.
キャサリン・ボットのCDに戻る。
NAXOS盤に比べ、このワン・ヴォイスが、
すべて、そんな風に辛気臭いかというと、
そんな事はなく、2曲め、
ド・モーの「夫は嫉妬深くて」は、
田舎者の夫より、
「礼儀正しい陽気な恋人」が欲しい、
という、いかにも、という小唄。

まさしく、辛気臭いフランス王の元を去った、
エレアノールのような状況の若妻が喜びそうなもの。
これは、宮廷風民衆歌だとされている。

ただ、この作曲家(詩人)は、
13世紀の人とされていて、
エレアノール(1122-1204)とは、
少し時代がずれている。

Track3.は、
一人、遠くに思いを馳せる独白調、
なだらかな美しい曲なので、
無伴奏でも良いかもしれない。

リュデル作の「五月」という歌曲で、
この季節、遥かな恋が思い出される、
というロマンティックなもの。
「ああ、巡礼であったなら」といって、
感極まって舞い上がるメロディは、
まことに自然で内発的で美しい。
格調高く、解説に、
「宮廷風本格歌曲」とある理由が肯ける。

この曲は、NAXOS盤にも入っていて、
最後に置かれて、17分半もの大舞台を繰り広げる。
ボットのCDでは6分強の演奏時間である。
ラフィットの個性的な声が、
残響豊かな空間に広がり、
様々な楽器が恭しく登場する。

ヴィーンのW*A*Rスタジオでの録音とあるが、
いったい、どんな空間なのか。

歌はますます熱気をはらみ、
何だか、祈禱の場にでも
居合わせているかのような迫真のドラマに、
思わず、歌詞を読み直してしまった。

「神の愛により、遥かな恋を乞う時、
どれほど楽しいことだろう」などと、
確かに神に祈るような歌詞も見えるが。

ハチャトゥリャンのピアノ協奏曲に登場する、
フレクサトーンのような、
不思議な音色の楽器が導く間奏曲は、
かなり長大で、笛や打楽器によって高まり、
リズムの刻みも激しく、
再び、熱気をはらんだ祭典が続いていく。

さらには、語りも入り、
南フランスの古い歌というより、
古代地中海の秘儀といった雰囲気だが、
録音も良いし、何でもよいから浸ってしまえばよい。

ボットのCD、Track4.は、
ブリュレ作、「やるせない」も、
同様に、格調高い「本格歌曲」だが、
メロディに跳躍があって、
器楽伴奏があった方が歌いやすいと思われる。

「新鮮なメリスマ風旋律」とされているが、
「フランスで最も美しい麗人よ」と、
こんな節で歌い上げられたら、
高貴なご婦人も、ほほを染めるかもしれない。

この曲は、「本格」とされるだけあって、
6分とか8分とか、かなり長い曲で、
自分が夢中であること、不安であること、
友人が裏切ったこと、イエズス様に祈ること、
あまり核心的でもないことも含め、
いろんな事がつべこべ歌われている。

解説に、この人はトルヴェールだったとある。


Track5.のル・バタール作、
「真の愛は」は、小唄風で楽しいが、
「常套句が連続する」と書かれているように、
「フランスで最も麗しい人」に、
美辞麗句を連発したものだ。

Track6.に、有名な、
「雲雀が喜びのあまり」という、
ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの曲が来る。
この作者は高名であるがゆえに、
様々な演奏で聴けるが、
このボットの歌唱は、非常に物悲しい。
繰り返し、繰り返し、物悲しさが、
強調されて、気が滅入るほどである。

雲雀が陽に向かって夢中で羽ばたいて、
我を忘れて落ちるのが羨ましい、
という内容で、本格歌曲だけあって、
愛さずにいられない苦しさ、
無力さ、女性への恨み、
絶交だ、さすらいだ、と、
あらゆる恨みつらみが披瀝され、
6分半もかけて歌われる。

解説は、この曲に多くの分量を割いているが、
この繰り返しの厳格な様式を説明し、
かつ、同じ言葉を繰り返さない、
語り口で巧妙に変化するリズムなどと共に、
宮廷風の落ち着きのある拍子を特筆しながらも、
「変化が乏しい」ということは認めているようだ。

これらの歌曲は、「有節歌曲」であるが、
繰り返されることに意味があり、
旋律が言葉の響きを写しているわけではない、
などと、シューベルト歌曲では、
それではいかん、と書かれていたような事が、
むしろ特筆されているのが興味深い。

「それらは、ロマン主義的な意味における
ラヴ・ソングではなく、愛についての歌」
という、マーシャルという人の言葉が引用されている。

自問自答を聴き手と共有する儀式のような芸術、
という事であろうか。
妙に哲学的な解釈であるが、だとすれば、
器楽の伴奏など不要、禅問答のような世界なのだろうか。

NAXOS盤でも「儀式」という言葉を使ったが、
この時代、何らかの交流が行われるための力が、
音楽には求められていた可能性は高そうだ。
NAXOS盤のTrack6.
「鳥たちは歌っていた」(リュル)では、
壮絶な太鼓の連打が繰り返さるが、
この反復の中には、明らかに忘我の瞬間がある。
ただ、こうした音楽は、
どのような空間で鳴り響いたのだろうか。

ボット盤、Track7.作者不詳の「可愛いヨランツ」。
これは、シンプルな「お針歌」であるが、
ちょっと、戯れ歌にしては、
ワン・ヴォイスでは華やぎに欠ける。

裁縫をしながら女性が口ずさむ妄想の愛。
しかし、この歌では、恋する彼が本当に来て、
寝床にまで行ってしまう。

Track8.ディア伯夫人作、
女性の歌として珍しいらしい。
「宮廷風恋愛歌曲」の人気作、
「嫌なことも歌わなければ」という、
へんてこなタイトル。

嫌なら歌わなければ良いではないか、
という気持ちもあるが、歌詞を見ると、
「言いたくないけど、言わせてもらう」、
みたいな内容。
あなたの冷たさに傷ついていることを、
どうして、あなたは分かってくれないの、
と、手紙に認めている。
独白調のメロディもそれらしく真実味があり、
この曲などは、伴奏はなくても良い。

Track9.ナヴァール王作。
次々に、高貴な作者が現れるところが、
トルバドゥールたる所以だろうか。
この前に聞いた、トロバイリッツのCDは、
作者不詳が多すぎた。

この王様による、
「神はペリカンのようだ」という、
突飛なタイトルながら、
教会の偽善を描いた宗教的なものらしい。

確かに、きつい厳しい言葉が乱舞するが、
これなどは、ワン・ヴォイスでは、
いささか迫力不足ではないだろうか。
誰が聴く事を想定した歌なのだろう。

Track10.フルニヴァル作は、
「愛された時、愛しませんでした」という、
魅惑的なタイトル。
失った愛の後悔を切々と歌う。
これは、「ああ、わたしはなぜ生まれたのでしょう。
自尊心から恋人を失ったのです。」
といった結尾の句を彩る絶唱系が胸を打つ。
非常に繊細な言葉の抑揚が、
古からの身近な情感を駆り立てて美しい。

Track11.ボルネイユ作。
「もし助言を求めたら」は、
愛を巡っての助言を求める、
ギラウトとアラマンダの対話形式なので、
もっと鳴り物があってもよさそう。

Track12.ファイディト作、
「何とつらいことだろう」は、
獅子心王、リチャードの死に寄せる哀歌。
この曲は、非常に有名だが、9分半にわたって、
シャルルマーニュやアーサー王に比し、
異教徒を恐れさせた王の生涯を歌った演奏、
そして、何の伴奏もない例は、他に知らない。

「もはや聖地を奪回できる王はいない」と歌われ、
「勇敢なご兄弟、ヘンリーやジョフロワ」にまで触れ、
これは、まさに、
「王妃エレノアール」が最も愛した息子であり、
そして、まさしく、この兄弟争いから、
どんどん、帝国が崩壊していくさまを描き出し、
十字軍の最終的な失敗まで描き、
先にあげた物語を読んでから聴かなければ、
よく分からないような内容が、
ばっちりと描かれ歌われている。

得られた事:「伴奏なしが正しい再現とするボット盤、民族楽器も交えての激しい色彩感のNAXOS盤、共に、祈りと忘我があり、完全には否定しがたいトルヴァドールの音楽。これら両極端を聴いて、この中間のどこかにある、中世南仏に生きた人の感情の高ぶりを空想する。」
「トルバドゥールやトルヴェールの歌は、自問自答であるがゆえに有節歌曲であり、その反復の中から精緻な愛を聴き手と共有する禅問答であった。」
「ディア伯夫人作『嫌なことも』や、フルニヴァル作『愛された時』などは、愛への省察の細やかな語り口が、その言葉の抑揚と共に心を打つ。リュデルの『五月』では、二つのCDの差異の聞き比べに好適。」
[PR]
by franz310 | 2017-10-09 20:48 | 古典