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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その417

b0083728_221652100.jpg個人的経験:
NBC交響楽団と
ベートーヴェンの
交響曲全曲演奏会という
大業を果たした後、
トスカニーニは、
休暇を取って
グランド・キャニオン
に向かったという。
1939年の12月、
この大自然の威容を前に、
トスカニーニは心打たれ、
感動を手紙に認めている。


「愛しいアーダ、私は美に酔いしれている。
グランド・キャニオン以上に、
これ以上に幻想的で超越的な脅威を、
見つけることは不可能かもしれない。
昨日の夕暮れ時、今日の日の出、
この自然の奇跡による感情に、
私の目から涙がこぼれた。
このあたりの人々、
カリフォルニアの人たちも、
良い人たちだ。
私が崇める君がここにいて、
手を取り合って、静かに、
神、自然、時の流れが、
何百万年もかけて作り上げた
この荘厳な、壮大で、
畏敬すべき奇跡を、
共に愛でることが出来たなら・・。」

アーダは、イタリアにいたはずなので、
まだ、直接の戦争には至ってはいないものの、
それどころではない状況だったはず。

米国に亡命状態のトスカニーニ自身も、
戦火のヨーロッパに戻る日が来るとは、
72歳という年齢から言って、
信じていなかった可能性もある。

トスカニーニは、そうした事にも思いを馳せて、
涙を流した可能性がある。

このトスカニーニが指揮した、
「グランド・キャニオン」組曲、
BMGジャパンが1997年に発売したCDは、
オリジナル・LPデザインを銘打っていただけあって、
楽しくノスタルジックな表紙が素晴らしい。

トスカニーニが吠えるばかりの、
彼の録音の中で、これは、出色の逸品ではないか。

しかも、非常に良い演奏で、
トスカニーニの逞しい緊張感と、
感動的な歌心がマッチして、
多くの人が、通俗名曲に数えている、
このカラフルなメロディの集合体を、
一幅の交響絵巻として繰り広げている。

私は、正直、この録音には、
まったく何も期待していなかったのだが、
これはどえらい収穫で、
台風がたくさん来たせいか、
この夏、いちばん聴いた音楽かもしれない。
戦後すぐの録音ながら、
独奏楽器の音色も美しい。

1945年9月10日という、
旧連合国側が、対日勝戦記念日(VJデー)
と呼んでいる9月2日の終戦記念の後、
すぐの録音である。

第1楽章「日の出」から、
新しい朝が来た気分が横溢し、
まるで、平和への感謝の歌のように、
どんどん高揚していく音楽に、
多くの聴衆が涙を流したのではないか、
などと妄想が湧き起る。

民間人であれば、何事もなく
戦争を終えた人もいたかもしれないが、
何十万人もの兵隊が、
アメリカでも命を落としている。

第2楽章の「赤い砂漠」も、
清冽な歌には、いささかの甘味もなく、
ただ、澄んだ情感がたちこめるが、
虚無の世界に沈んでいく。
他の指揮者では、こうはならないのではないか。

第3楽章の「山道を行く」は、
楽しくロバが行くが、
中間部で、風の流れのように鳴り響く音楽は、
はるかかなたを見つめる眼差しを感じずにはいられない。

第4楽章「日没」は、
第1楽章「日の出」と対をなす楽章であるが、
神秘的な弦楽の音色が、
単なる効果音楽としてではなく、
超俗的な雰囲気にまで高まっている。
そして、後ろ髪をひかれるようなメロディで、
痛切な響きを増し、やがて消えて行く。

このあたりがプッチーニ的な哀切を感じさせるのは、
さすが、トスカニーニならでは、と感じ入る次第。
戦争が激化する前に、グランド・キャニオンで、
アーダを思った日の事を、彼は、思いだしただろうか。

第5楽章「豪雨」は、入魂の楽章であり、
変化に富んで、一番長い楽章である。
起承転結としては、
「日没」で終わってもおかしくないのだが、
この盛り上げる終曲があって良かった。

もちろん、基本は劇伴音楽的なのだが、
危機を乗り切った後の解放感には、
カタルシスのような効果がある。

しかし、このように有名な音楽であるが、
グローフェが、どのように、この曲を作曲したかを、
書いた本を私たちは読んだ事があるだろうか。

リッチなホテルから眺めた風景なのか、
実際に山道を歩きながら見た風景なのか。
今回の試みは、ネット上に、
もう少し情報が落ちていないか、
探し出すことである。

なお、この曲のみならず、
2曲目に入っているガーシュウィンの
「パリのアメリカ人」も、
同じ意味で素晴らしい。

張り詰めた真剣勝負の雰囲気が、
聴くものの心を、どんどん吸い込んでいくような、
忘れがたいガーシュウィンである。

ただし、解説は、
どこにでも書いてあるような事しか書いていない。

b0083728_221743100.jpgちなみに、曲順は異なるが、
RCAビクターが出していたCD、
トスカニーニ・コレクション
にも、同じ音源が使われている。
この指揮者が、
大峡谷を訪れた時の写真があるし、
Made in USAの
商品ということで、
私は、きっとこの解説は、
マシだろうと考えていたが、
読んで見ると、
これまた、
たいした事は書かれていない。

「大戦中に、アメリカの音楽を沢山取り上げたが、
最も、実り豊かなものは、1945年録音の、
ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』であろう」
とか書いてあって、
トスカニーニによるガーシュウィンの演奏が、
意外に良い、ということは強調されている。

しかし、グローフェについては、
以下のような事しか書かれていない。

「1924年、ガーシュウィンは、
ポール・ホワイトマンの楽団によって初演された、
ラプソディ・イン・ブルーによって、
コンサート作品の作曲家として、
最初の大成功を収めた。
それまで、ガーシュウィンは
ミュージカルのすぐれた作曲家ではあったが、
こうした劇場のものと同様、
オーケストレーションは、
他の人に任せていた。
ラプソディに関しては、
ホワイトマンの楽団のチーフ・アレンジャー、
グローフェに委ねられた。
グローフェには当然、
自身作曲のコンサート作品があり、
最も有名なものは、
『グランド・キャニオン組曲』である。
トスカニーニは、これを1943年と
1945年に演奏している。」

たった、これだけである。
せっかく、グランド・キャニオンと、
マエストロの写真が出ているのに、
彼が、その風景の前で、どうしたかなどは、
まったく触れられていないのである。
(なお、冒頭に紹介した手紙とは違って、
この写真は11年後の1950年に撮影されたものだ。)

音としても、BMGジャパン盤の方が、
少し良いような気がする。

さて、この指揮者が、
遠く離れた恋人に手紙を書いた、
20年以上も前になるが、
マエストロの身分とは大違いの、
若くて、たいした定職もない、
流しのピアニストが、これまた、
グランド・キャニオンの日の出を見ようと、
アリゾナ砂漠をジープで横断していたという。

「私がそれ(グランド・キャニオン)
を最初に見たのは、夕暮れの中でした。
そこで前の夜から、
キャンプしようとしていたのです。
私は、その静寂の中で
魔法にかけられたようでした。
明るくなるにつれ、
鳥たちの囀りが聞こえ、
自然が命を取り戻すかのようでした。
そして突然、ビンゴ!となりました。
日の出です。
私は言葉を失いました。
何故なら、言葉は無力ですから。」

これが、作曲家グローフェ自身の回想である。
アメリカを代表的する管弦楽曲、
組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」を書いた大家が、
「ビンゴ!」などと言うとは知らなかった。

このグランド・キャニオンのキャンプは、
1916年の事だそうなので、
グローフェが24歳の頃の話となる。
こじつければ、22歳のシューベルトが、
訪れたシュタイアーの街で、
「天国のように美しい」自然に触れたのと、
ちょっと似ていて、
ちょうど100年後くらいに相当する。

ちなみに、シューベルトは、すぐに作曲したが、
グローフェは、1929年まで、
「グランド・キャニオン組曲」は作曲しなかった。

そして、さらに10年して、1939年、
トスカニーニがこの峡谷を訪れたわけだが、
1945年に戦争が終わるまで、
トスカニーニは、この曲を録音しなかった。

グランド・キャニオンの悠久の歴史に相応しく、
彼らの体験が音となってほとばしるまでには、
それなりの年月を必要としたようである。

さて、ほとんど、
この曲一曲しか知られていない、
作曲家グローフェは、
1892年に、ドイツ系の家庭、
ヴァイオリン弾きの父と、
ピアノやチェロを弾くの母のもと、
ニューヨークに生まれた、
などと書かれている伝記は多い。

その後、これは、よく知られた話であるが、
彼は、前例のないようなキャリアを積み上げていく。

14歳で学業を放棄、
牛乳配達や製本や劇場の案内係から、
歓楽街のヤバい店のピアノ弾きなど、
へんてこな仕事で糊口をしのいでいる。

しかし、もともとは、
大変、教育熱心な家庭の出だったようで、
グローフェが8歳の時に、夫が亡くなった後、
母親は彼を、何とライプツィッヒに連れて行き、
作曲を含む、様々な音楽の勉強をさせたというのである。

私が、「グランド・キャニオン」を初めて聴いたのは、
もう、40年近く前のことだと思うが、
オーマンディの廉価盤LPが出た時であった。

ただし、この曲については、
野呂信次郎著の「名曲物語」(現代教養文庫)で、
それよりずっと前から知っていて、
実際のグランド・キャニオンの眺めの紹介から、
音楽の内容の紹介までを読みつつ、
果たして、どんな曲であろうかと、
妄想を膨らませたものであった。

手軽に入手できるオーマンディのシリーズが出ると、
一番に手にしたのがこの曲であった。
恐らく、かつて渋谷にあった、
東急文化会館の中のレコード屋で購入したはずである。

「グローフェは『私の音楽は、私を育ててくれた
アメリカの生活や風物をキャンバスに音で描き出しています』
と言っていますが、組曲『大峡谷』は
見事にグランド・キャニオンの美しさを描いた音画です」
と、「名曲物語」では紹介されている。

改めて読み直してみると、
母親はライプチヒ音楽院でチェロを学んだ、
とあり、
再婚した義父が音楽を嫌ったので、
家を飛び出した、ともある。

結構、この本は、いろんな情報が
詰まっていたことに驚いた。

が、改めてウィキペディアを見ると、
父親は喜歌劇のテノール歌手とあり、
ヴァイオリニストではなかった。
一方、母親の方は、遥かにすごく、
母の父はメトロポリタンの
オーケストラのチェロ奏者、
兄弟は、ロサンジェルス・フィルの
コンサートマスターであった。

こんな一家の母親が、本当に、
音楽の嫌いな男と結婚したのかが気になるが、
この母親の名前、Elsa Johanna Bierlichで、
ネット検索しても、
彼女はロサンジェルス交響楽団の最初の女性団員になったとか、
指揮者ウォーレンシュタインの音楽の先生だったとか、
そんな話題ばかりが出てくる。

しかし、JAMES FARRINGTONという人が書いた、
フロリダ州立大学の論文がたまたま見つかった。
ほとんど、グローフェの前半生がよく書かれている。

さらに、グローフェの生い立ちのあたりを見て仰天した。
彼の母親だった女性は、かなりの人物のようなのである。

「グローフェの祖父、ルドルフ・フォン・グローフェ博士は、
音楽家ではなく、ハイデルベルク大学の化学の教授だった。
化学の分野の功績でカイザーから勲章をもらっている。
父親のエミールは、ドイツのグラウンシュバイクで生まれ、
アメリカへ移住して、ボストン市民になり、
少しは知られた喜歌劇場の歌手および俳優になった。
彼およびグローフェの母親も。
アマチュア画家でもあり、よく文章を書いた。
しかし、彼は、グローフェによると、
大変な大酒のみで、よい夫ではなく、
彼女は彼のもとを去った。
その時、グローフェはまだ生まれて数か月であったが、
その後、父親と会うことはなく、
やがて、彼が、1899年に、
ハンブルクで死んだことを知った。」

という具合に、グローフェの人生は、
生まれて数か月して、いきなり波瀾万丈だったようだ。
そもそも、実の父親もかなり問題がある。

「グローフェの母親、エルザ・ジョアンナは、
熟達したチェロ奏者で、ヴァイオリン、ヴィオラ、
さらにピアノを演奏した。
彼女の父親ともどもドイツ語、フランス語、
イタリア語、スペイン語、英語の五言語を流暢に話し、
ニューヨーク在住中は、野外ガーデンの女性オーケストラで、
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを演奏し、
1892年にカリフォルニアに、家族と移住、
ロサンジェルス女性交響楽団のチェロの首席奏者となり、
その後、ロサンジェルス交響楽団の名誉会員となった。
彼女はチェロ教室を始め、
生徒には高名なアルフレッド・ウォーレンスタインがいた。」

さらに、グローフェの生い立ち
についての記載も重要だ。

「グローフェは、1892年3月27日、
ニューヨークの第1ストリート、
第1アヴェニューと第2アヴェニューの間で生まれた。
彼の母親は、カリフォルニアに出て、
ショーンメーカー氏と結婚したが、
実家のビーアリッヒ一族も一緒に、
1892年にロサンジェルスに移った。
1900年、彼女は、その人と別れ、ドイツに移り、
自分と息子の名前をフォン・グローフェとした。」

祖父がそれなりに高名な人物だったので、
酔っ払いの方の名前を選んだのだろうか。
注釈にも、何故、旧姓に戻さなかったのか謎、
と書かれているが、「フォン」が付いた方が、
特に、ドイツでは、絶対にかっこよかろう。

「彼が五歳になると、母親は、ヴァイオリン、ピアノ、
および基礎的な楽譜用記号を教え始めた。
グローフェは音楽が好きで、レッスンを楽しみ、
リサイタルを開いたりもした。
しかし、その年齢の子供らしく、
他の事で簡単に練習は邪魔された。
彼が練習をするように、
母親が部屋に閉じ込めても、
彼は窓から逃げて、
近所の子供と遊びに行ってしまったりした。
彼は、音楽を始めてすぐ、
聖ヴィンセント・カレッジに入った。
1900年3月、エルザは、ライプツィッヒに行き、
チェロの大家、ユリウス・クリンゲルに学んだ。
彼女はグローフェを連れて行き、
夏には、ビュッテンブルク近郊の
特に温泉で知られる小さなリゾート・タウン、
ウィルドバットの親戚に預けた。」

地図を見ると、ドイツ南西部で、
フランスと接する、バイエルンの西であった。

「彼はそこのプライベート・スクールに入り、
ヴァイオリンを学び、鍵盤、和声を、
オットー・レオンハルトに学んだ。
後に、グローフェは、この鍵盤、和声の勉強を、
『指先で正しい和声を探れる』
と高く評価している。
1902年の秋、彼らはアメリカに戻り、
母親は、知られざる理由で、
ニューヨークに行ってしまったが、
グローフェはすぐにロサンジェルスに戻った。
結局、彼女もカリフォルニアに戻り、
1904年に3回目の結婚をしたが、
おそらく職業的な理由から、
名前を変えることはなかった。
彼女の新しい夫、ジェームズ・B.メナスコは、
前の結婚で、
2人の息子と2人の娘の4人の子供連れであった。
グローフェは新しい家族とうまくやれず、
1906年の4月、祖父母の家に移った。
彼は、この時、第7グレードを終える直前に、
学校に行くのもやめてしまった。」

ということで、
先に述べた、いろんな伝記の切れ端は、
かなり修正が必要であることが分かった。

私は、ライプツィッヒから逃げたと思ったが、
単に、よくある話で、家庭の事情で、
不登校になったということだろう。
有能な音楽家であった、
祖父の指導も受けられる立場であったわけだ。

が、興味深い事実も、
この論文には出ていた。

「グローフェは、祖父の家で、
ピアノの練習だけはさせて貰えなかった。
祖父は、非常に繊細な耳を持っており、
ピアノの狂った調律に耐えられず、
特に高音が、彼には激しいストレスになった。
そこで、グローフェは、
近くの、ジュリーおばさんの家に行って、
ピアノを練習した。
その家の皆はアマチュアの音楽家で、
しばしば即興で合奏をしたし、
ユリウスおじさんは、
素晴らしい楽譜の蔵書を持っていた。」

つまり、祖父母のみならず、
一族を上げて、助けられた感じであろう。
これは、恐ろしく恵まれた環境だった、
と言わざるを得ない。
1908年頃、つまり、16歳頃から、
作曲を始め、ジュリーおばさんの家で、
自作の室内楽を演奏していた。

が、母親は、グローフェが、
絶対、父親同様、アル中になると信じていて、
彼が、エンジニアになるように望んでいたという。

しかし、祖父の指導もあって、
彼は、オーケストラのヴィオラ奏者としても活動、
母親の教室で教えるようなこともしたようだ。
その間、ピアノの勉強もして、劇場で弾いたりもしている。

グランド・キャニオンでキャンプした頃、
1916年の彼の一日が紹介されていて、
いかに、彼が活動的な音楽家であったかが、
紹介されている。

「朝:交響曲のリハーサル
 ランチタイム:ブルーバード・インで演奏
 午後:映画館で演奏
 夕食時:ゴッドフライ・カフェで演奏
 9時から:クラブで演奏。」

だが、ここには、残念ながら、
グランド・キャニオンでのキャンプの話はない。

1915年に彼は、ダンサーと結婚し、
1917年には、インフルエンザの流行で、
ロスでの仕事がなくなり、
仕事を探しに、アリゾナに行ったりしている。
彼は、演奏家としてだけでなく、
編曲でも稼ぐようになり、
ポール・ホワイトマンとの仕事を始め、
1920年にはガーシュウィンと初めて会っている。

ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を
委嘱、初演したことで有名な、
ポール・ホワイトマン・バンドであるが、
この論文では、彼らのが、成功し、
ものすごい社会現象になったことを詳述している。

例えば、「シンフォニック・ジャズ」といった、
「批評家が、どう呼んで良いか分からないような、
個性的な音楽」(グローフェ)の確立などに、
グローフェがいかに重要な役割を演じたかが分かるが、
(たとえば、ラプソディー・イン・ブルーには、
グローフェのアイデアがたくさん入っていることなど)
97ページの大著を読み込んでいては、
なかなか、トスカニーニの話にならないので、
非常に面白いのだが、どんどん読み飛ばす。

グローフェ自身、トスカニーニが、
「グランド・キャニオン」を振った時が、
人生のハイライトの一つだと語っているが、
トスカニーニは、何故、これを取り上げたかを聴かれ、
「音楽には、良いのと悪いのと、二つがあって、
これは良い音楽なのです」と答えた、
というエピソードが記されている。

この論文では、グローフェが大峡谷を、
初めて訪れたのは、1916年ではなく、
1917年だとしている。

そして、グローフェが、
上述のアリゾナに行く際か、
そこから帰る際に立ち寄ったのではないか、
と書かれている。
一緒にいたのは、
郡の保安官(シェリフ)だった友人だとある。

「あるインタビューでは、グローフェは、
この曲の作曲を、1922年に、
アリゾナのキングマンで、
休暇を取っていた時に思いついたという。
グローフェは後に、
グランド・キャニオンをもとにした作品は、
ホワイトマンが英国に行っている間の、
1926年の休暇に、最初に思いついた、
とも言っている。
それにも関わらず、作品のスケッチは、
1929年まで、紙に残されることはなかった。
グローフェは当初、
峡谷の日の出から日没を描いた、
4楽章の作品にしようと構想した。
ある楽章は、「ホピ族のインディアン」と題され、
他の楽章は、赤い砂漠や、石の森といった、
峡谷を囲む、他の自然の驚異を描くはずだった。
『山道を行く』は、グローフェ自身は、
歩いた事はなく、
コロンビア・レコード、
ホワイトマン担当録音マネージャーの、
エディー・キングから、
グローフェが提案されたものである。
『日の出』は、1929年の秋、
グローフェがハリウッドにいた時、
次に書かれた楽章は『日没』で、
翌年の夏に書かれた。
この楽章のアイデアは、
グローフェが、ニュージャージーの、
ハッケンザック・ゴルフ・クラブの、
第9ホールにいた時に見た日没から着想され、
彼は、その場で書き下ろした。」

「『赤い砂漠』が、何時書かれたかは、
正確には分からないが、
ホワイトマンが作品完成を促した後、
『山道を行く』と共に、
1931年の夏に書かれた事は明らかである。
終楽章の『豪雨』は、
11月22日の演奏会の2週間前まで、
着手されていなかった。
ホワイトマンのアドバイスで、
グローフェは、ウィスコンシンのティペア湖に、
チャーリー・ストリックファーデンと、
作品を完成に専念するために2、3日滞在した。
彼はすでにプログラムを構想しており、
シュトラウスの『アルプス交響曲』や、
ベートーヴェンの『第6』、
ロッシーニの『ウィリアム・テル』など、
オーケストラによる
様々な嵐の情景を研究していたが、
まだ、何も書いていなかったのである。
彼らが、湖に着いた日、
嵐が起こり、最終的にグローフェに、
この特別な情景への霊感を与え、
コンサートの6日前に、
スコアを仕上げることが出来た。」

この後、グローフェはホワイトマンの楽団を辞め、
「グランド・キャニオン」のシカゴでの演奏計画に、
横やりが入るなど、確執を深める様子が語られるが、
気が滅入る内容である。

このあたりで、この論文は終わっているが、
グローフェは、これから40年も生きているはずだ。
そして、この時、グローフェは40歳だった。

これまで読んできた感想としては、
仕事人間グローフェという感じである。

「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれた、
華のあるホワイトマンと別れ、
夭折の天才ジョージ・ガーシュウィンが亡くなり、
グローフェの人生は、
何となく、無味乾燥なものになったように見える。

あとは、自作の指揮や教育の仕事ばかりである。

なお、戦前のアメリカの音楽界で、
重要な役割を演じた、この二人の隙間風には、
ポール・ホワイトマンの当時の奥さん、
マーガレット・リビングストン
(無声映画時代の女優)
が絡んでいたようだ。
彼女は、楽団の運営に口出しし、
グローフェのやり方にも干渉を始めたのである。

なお、このCDには、バーバーの「アダージョ」の、
しみじみとした演奏があって、
スーザの行進曲など騒がしい音楽が続く。

得られた事:「音楽には、良いものと悪いものの二つがあって、『グランド・キャニオン』は良い音楽だ、とトスカニーニは考えた。」
「この曲の演奏には、この指揮者の強みとなった表現力の魔法が圧縮されており、第二次大戦終結直後の激しい感情の振幅までが記録されているようだ。」
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by franz310 | 2014-09-27 22:20 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その416

b0083728_23304236.jpg個人的経験:
トスカニーニが指揮する
シューベルト録音は、
LP時代から、
最後の二曲の交響曲が、
広く日本でも知られていたが、
私が驚き、息を飲んだのは、
TESTAMENTから、
「グランド・デュオ」の
ヨアヒム編曲版が出た時であった。
これは、ありがたい事に、
「第2交響曲」との組み合わせで、
こちらも、知られていなかった。


今回、改めて録音年月日を見て、
これまた、感慨を新たにしてした。
「第2交響曲」が、
1940年3月23日。
これは、1939年秋に、
「未完成」で始めたシーズンで、
有名なベートーヴェン・チクルスを
振った流れに位置している。

3月も23日と言えば、
ほとんどシーズンも終わりであろう。
ある意味、二曲のシューベルトで、
ベートーヴェン・チクルスを含む、
偉業たる、このシーズン全体を、
サンドウィッチした形になる。

また、「大二重奏曲」は翌年のもので、
1941年2月15日の録音。
この後、巨匠はNBC交響楽団と、
仲たがいして、この年の秋に、
フィラデルフィア管を振って、
「グレート」の名演を残すことになる。

つまり、さらに年単位で考えると、
戦前に、トスカニーニが、
ベートーヴェンなど、
(交響曲の演奏会シリーズに、
ハイフェッツとの協奏曲録音も続いた)
ドイツ古典に集中した時期に、
「未完成」と「大ハ長調」を演奏し、
その間に、この二曲が挟まれている構図とも言える。

1939年のベートーヴェン・チクルスに関しては、
様々なレコード会社からCDが発売されているが、
その有名なシリーズと同列に語られるべき流れに、
これらのシューベルト録音を位置付けてもよさそうだ。

最近でこそ、「第2」は、
演奏会の最後に、締めくくりの曲として
取り上げられたりもするが、
当時は、まだ、少年期に書かれた、
知られざる習作みたいな
位置づけではなかっただろうか。
(CD解説にも、それが触れられている。)

このあたりのシューベルト受容史も気になるので、
このCDを無視して先に行くことはできない。
この時期のベートーヴェン演奏の勢いからして、
演奏も、きりりと引き締まったものであると予想され、
こうして、凝集されたシューベルトへの思いが、
フィラデルフィア管弦楽団での、
自信に満ちた壮麗な演奏に繋がったものであろう。

このように、演奏の時期からして、
非常に期待の出来る録音ではなるが、
このCD自体の表紙デザインは、
あまり薦められるものではない。

単なる白黒のスナップ写真のようで、
これでは、この不機嫌な顔立ちの人物が、
何者かすら分からないではないか。

何も知らない人が贈られて、
嬉しくなるような代物ではない。
クラシック音楽が好きな人のうちで、
トスカニーニが好きな人で、
シューベルトが好きな人だけ、
仕方なく買うような仕様であろうか。
ほとんど、自殺行為の商品である。

しかし、好意的に解釈すれば、
この鋭い眼差し、意志の強そうな口もとから、
トスカニーニの研究者としての側面を
見事に捉えたもの、と言っても良いかもしれない。

トスカニーニが、
いかに、楽譜を研究し、
ベートーヴェンに関する、
あらゆる書物を読み漁り、
原点に戻った解釈を聴かせたかが、
これまで日本では、
あまり語られてこなかったが、
そんな記述を、このトスカニーニ像から、
思い出してみるのも良いかもしれない。
(解説にも、そのような記述もあり驚いた。)

この「グランド・デュオ(大二重奏曲)」は、
初めて公になるものとあるが、
1989年に出た、諸石幸生著の
「トスカニーニ」の巻末ディスコグラフィには、
ヨアヒム編「ガシュタイン交響曲」と記載されている。

同日には、モーツァルトの協奏交響曲(VnとVa)が
演奏されたようで、やはりウィーンの古典、
この本には、1940年3月23日の
「第2」の方が記載されておらず、
1938年11月12日に、
この曲が演奏されたような記述になっている。

ただし、この3月23日の「第2」は、
ナクソスからも、
「パルシファル」のハイライトと一緒に、
同日の演奏として発売されたから、
日付としては正しいものと思われる。

解説は、「トスカニーニ、NBCイヤーズ」の著者、
モティマー・H.フランク(Frank)で、
Wave・Hill・トスカニーニ・コレクションの、
キュレーター(学芸員)だとある。

最近、キュレーターという言葉は、
ややこしい事を分かりやすく、
情報整理する事として、
この情報過多の時代に重要と、
流行りであるが、
このCD解説は2006年のもの。

「1954年に、トスカニーニが
空前の68年のキャリアを終えた時、
彼の名前は、指揮という言葉と結びついていた。
そのキャリアは、その長さだけでなく、
スカラ座の監督としての
3回にわたる任務(1898-1903、
1906-08、1921-29)や、
メトロポリタン歌劇場との8年の関係、
彼の名前をオーケストラの監督に結びつけた
1926年に始まる10年にわたる
ニューヨーク・フィルとの関係など、
それが影響した範囲もまた、
どえらいものであった。
フィルハーモニックとの10年は、
彼のキャリアを劇場から、
コンサート・ホールへと、
おおきく変遷させた。
1936年、69歳の年のリタイア時、
アメリカは彼を見る最後だと考え、
トスカニーニも自身、
どのような職業がどうなるか、
確かなものを持ってはいなかった。
70歳の誕生日に、
『私は病気ではないが、
70歳を超え、何をしている。
どこかに出て行き、指揮をするべきだろうか。』
と書いたように、
彼にとっては、人生とは仕事であり、
仕事のない人生は、死への委託を意味した。」

このように、シューベルトとは、
無関係な事が列挙されているので、
最初の部分は、私にとっては、
良いキュレーターの仕事ではない。

「幸運なことに、RCAの社長の、
デヴィッド・サーノフや、
RCAの子会社のNBCが、
別の道に導いた。
彼の野心と予見は、
後世のために、交響楽の歴史の
ユニークな遺産を残すことになる。
トスカニーニのフィルハーモニック離任時、
サーノフは、トスカニーニが率いる
このオーケストラの全米ツアーを思いつき、
NBCがそれを放送すればよいと考えた。
トスカニーニが、その提案を蹴った時、
サーノフは、ラジオ放送と、
トスカニーニのために、
新たなオーケストラを組織するという、
さらに練った、驚くべき提案を行った。
1931年に、BBCのための、
放送用オーケストラは作られていたが、
アメリカには、こんな冒険をする経営者は、
ひとりもいなかったのである。
トスカニーニが、この提案を受け入れるや、
ものすごいスピードでオーケストラが組織された。
他のアンサンブルで首席についていた、
21人が職員として採用され、
何人かはNBCでも同様のポストに就いた。
その中には、コンサートマスターの
ミッシャ・ミシャコフ、
ヴィオラのカールトン・クーリー、
オーボエのロバート・ブルーム
がそうだった。
他のメンバーは、才能ある若手から選ばれた。
特に弦楽は、オーケストラ以外に、
重要な並行したキャリアを身に付けた。
特にチェロのアレン・シュルマンは、
作曲家としても有名で、
その兄弟でヴァイオリン奏者であった、
シルヴァンは、契約メンバーで、
Stuyvesant四重奏団の一員だった。」

このあたりの話は読んだ事がなかったので、
それなりに参考になるが、
21人以外は、正規採用ではなかったのだろうか。
そもそも、NBC交響楽団については、
雇用関係が微妙で、良くわからない。

「モントゥーとロジンスキー
(彼がトスカニーニのためにオーケストラに練習をつけた)
による、予備放送の後、
1937年のクリスマスの夜、
トスカニーニは、彼のNBC交響楽団を、
デビューさせた。
ヴィヴァルディの合奏協奏曲作品3の11、
モーツァルトの交響曲第40番、
ブラームスの交響曲第1番というプログラムは、
各曲が、音楽史の別の時代から選ばれ、
いずれも短調、いずれも劇的で、
マエストロの厳粛さへの冒険を予告していた。
そして、典型的なコメント、
『ラジオがベストを尽くしてラジオが賞賛された』
という風に、
誰も予想できなかった程、聴衆は熱狂した。」

ということで、
NBC交響楽団創設時のエピソードに終始しているが、
この後は、サーノフとトスカニーニの偉業が語られ、
最後には、シューベルトの話が出てくる、
という構成のようだ。

「この頃は、トスカニーニが、
この冒険によって、
スカラ座での16年を超える、
17年もの仕事への関わりを
この後のキャリアに加えることになろうとは、
誰も予想してはいなかった。
しかし、このプロジェクトで、
最も注目すべき点はその遺産であった。
NBC交響楽団のすべての放送は、
技術的に優れた録音で保存された。
当時の他のどの指揮者の仕事も、
これほど豊富に記録されたものはない。
事実上、サーノフのヴィジョンが、
そこを通ることによって、
人々が歴史の中を歩き、
どのようにトスカニーニが、
レコーディング・スタジオでの真空状態より、
背後の聴衆と共にある、
解釈者として振る舞ったかを
学ぶことが出来るドアを作ったのである。
さらに、彼が、自身の中心となる
レパートリーについて、
常に再検討していたかを
知ることが出来る。
同様に重要なのは、
トスカニーニがスタジオ録音しなかった、
曲目についての演奏である。
それは、このCDにおける2作品についても言え、
今回のリリースで、初の商業発売となる。」

これまで、トスカニーニが偉い、
という話は多く読んできたが、
企画したサーノフが偉いというのは、
確かに強調しても良いことだろう。

「4手用ピアノ・ソナタである、
シューベルトの『大二重奏曲』を、
ヨーゼフ・ヨアヒムが、
1856年にオーケストレーションしたのは、
疑いなく、ロベルト・シューマンと、
誰よりも、この作品が、
失われた『ガシュタイン交響曲』
のスケッチであると考えた
ジョージ・グローブに後押しされた、
信念によるものに相違ない。
この説は近年の学者が否定しているものだが。
1936年、サー・ドナルド・トヴェイが、
『音楽分析のエッセイ』の中で、
『ヨアヒムの編曲のおかげで、
シューベルトの最大級の交響形式の実例を
聴く機会が出来た』と書いて、
間接的にこの考えを後押しした。
トスカニーニはトヴェイの著作を信奉しており、
それが、トスカニーニにオーケストレーションを
促したものと思われる。
しかし、NBCのアナウンサーの、
ジーン・ハミルトンが放送で言っているように、
総譜もパート譜もフィラデルフィアの、
公共図書館から調達しなければならなかった。」

この「オーケストレーションを促した」
という言葉は、
オーケストラでの演奏を促した、
と読むべきなのであろうか。

トヴェイ(Sir Donald Francis Tovey)は、
トーヴィーと読まれるらしく、
単なる評論家ではなく、
CDも発売されている、
作曲家であった人らしい。

1875年生まれというから、
トスカニーニより若い同時代人であるが、
何と、この演奏がなされた1940年、
7月10日に、エディンバラで亡くなっている。

スコットランド独立反対多数の
ニュースが流れた後なので、
かの地に、しばし、思いを馳せた。

音楽の研究が、こうした演奏に繋がっているとは、
何も、近年の古楽に限った話ではなかった。
トスカニーニは、単なる、
ガテン系の頑固一徹親父ではなく、
同時代の研究を無心に読み解く
文人風の面影も持っていたわけだ。

反対に、トーヴィーは、
トスカニーニが演奏した、
シューベルトの音楽を、
ラジオなどで聴くことが出来たのだろうか。

「興味深いことには、トスカニーニは、
明らかに、フィナーレをヨアヒムが、
アレグロ・ノン・トロッポにしたことに反対で、
この演奏からも分かるように、
シューベルトの
アレグロ・ヴィヴァーチェの指示に戻している。
多くの見地から、
このオーケストレーションには、
この作曲家の最後の交響曲のエコーが響き、
特に野心的な金管の扱いがそうである。
トスカニーニが指揮すると、
テクスチャーは透明度を保ち、
過度の重々しさから解放されているが。」

この演奏が、同曲の演奏より、
簡潔に引き締まって聞こえるのには、
こうした理由もあったのである。

「おそらく、この放送は、
ヨアヒムの仕事の
最初のアメリカでの演奏だった。
全ての状況を照らし合わせて、
これはトスカニーニのただ一度の演奏であった。」

これはまた、貴重な記録が入手できたものである。
放送された機会も一度きりだったのだろうか。
ますます、トーヴィーが聴いていたことを、
願わずにはいられない。

「ある方面からは、
トスカニーニのNBC時代は、
概して、彼のニューヨークでの
10年に劣ると言われる。
NBC放送の研究をすると、
しかし、この意見には賛同しがたい。
事実、彼のNBC時代は、
フィルハーモニック時代には手がけなかった、
広大なレパートリーを含んでいる。
こうした作品の中に、
シューベルトの『第2交響曲』があって、
これは、明らかにトスカニーニが、
NBCに来てから取り組んだものだ。
今回のこの記録は、3回ラジオ放送されたものの、
2回目のものである。」

第2交響曲は、「大二重奏曲」よりは、
聴くチャンスが多かったようだが、
そういえば、ニューヨーク・フィルを振っていた、
バルビローリがこの曲を好んでいたことを思い出した。

トスカニーニが、1940年3月23日に振った前後の、
ニューヨーク・フィルの演奏曲目をHPで調べると、
1939年3月と11月に、
また、1940年1月21日にも、
バルビローリがこの曲を振っていた事が分かる。

バルビローリ・サイドから見ると、
ニューヨーク・フィルへの敵愾心を、
露わにしたレパートリーとも見えなくもない。
が、「大二重奏曲」は、ニューヨーク・フィルは、
演奏したことがなさそうだ。

さて、3回も放送した、「第2」であるが、
この時の演奏が採用された理由が続く。

「それは、これらの中で、
最も音質が良いからで、
これは、主に、
ドライな8Hスタジオで、
反響を捉えようと、
NBCの技術者らが
補助マイクを持ち込んだ
時期のものだからである。
78回転時代は、この交響曲は、
国際的知名度のない指揮者による、
レコードが一種あっただけだった
と言うことも特記しておく価値がある。」

バルビローリの例があるので、
これは、それほど特記する必要はなくなった。

「この3つの放送は、
無視されていた作品に対しての、
彼の興味を示すもののみならず、
快活で優美なカンタービレのラインや、
引き締まったバランスのとれたソノリティ―は、
18世紀のスタイルにルーツを持つ音楽への、
彼のセンスを表している。」

今回聴く2曲の録音は、いずれも、
悪評の高い、8Hスタジオのものだが、
それほど悪くない。

CDは、まず、この解説とは異なって、
「第2交響曲」から始まるが、
序奏部からして、夢を孕んだ緊張感が聴きもので、
各声部が躍動して、木管楽器などの装飾音も楽しい。

この時期のトスカニーニに共通する、
体中が火照ったような表現ゆえに、
細かい音形が重なって行く展開部では、
ヴァイオリン群が崩壊寸前である。

デジタル・リマスタリングは、
Paul Bailyという人が担当したらしい。
ライセンスは、Eroica Productionによる、
とあるが、変な名前である。

この音源は、よほど保存が良かったのか、
先のマイク利用の効果ゆえか、
同シーズンのベートーヴェン・チクルスより、
音質的には聴きやすいような気がする。

第2楽章も、各楽器の歌わせ方が愛らしく、
高齢の巨匠も、青春時代の夢を慈しむような感じ。
弦の広がり感や、管楽器の奥行き感が美しく、
名残惜しげな余韻も痛切である。

トスカニーニのような巨匠が放送していながら、
この演奏が、ほとんど知られていないのは、
不思議としか言えない。

第3楽章は、リズムを激しく叩きつけながら、
造形がしっかりした格調の高い表現で、
トリオ部のオーボエなど木管の無垢な表現にも、
心打たれるものがある。

第4楽章も、第3楽章同様、
激しいリズムだが、弾力があって快適である。
オーケストラが体を張って推進力を生みだし、
爆発的に共感を発散させている。

拍手も収録されているが、
ブラボーがないのが不思議なほどだ。

後半に、「大二重奏曲」が収録されているが、
第2交響曲に、この大曲を収めて、
収録時間が60分51秒で済んでいるのは、
こちらの曲が、かなり、広がりよりも、
逞しく引き締まった力感に
重きを置いた演奏になっているからだろう。

シューベルト特有の、
あふれ出るメロディが、
次々と生まれては消えて行く。
休止があまりない感じだろうか。
音楽が常に律動して、
脇目も振らずに目的地に向かって行く。

この曲あたりになると見て取れる、
シューベルト後期の崇高さや寂寥感も、
この逞しい流れの中では、
さっと描きこまれた陰影に過ぎない。

コーダ部では青白く焔を上げて興奮し、
音楽が大きく膨らんで、
いかにも英雄的で自信にあふれた、
成長したシューベルト像である。

第2楽章は、歌謡的な楽章だと思っていたが、
落ち着きがないほど、何か先を急いでいる。

この時期のトスカニーニのベートーヴェンは、
余分なものを取り去って、
本質のみを語ろうとした、
ノミで削った後も生々しい潔癖さが魅力だったが、
この曲の演奏でも、その傾向が認められた格好だ。

この美しい楽章には、
録音にも、もう少しうるおいが欲しい。
が、この指揮者ならではの音楽が、
しっかりと聞き取れるレベルではある。

第3楽章は、いかにもスケルツォらしく、
無骨でごつごつしているが、
ほとんどベートーヴェンの第9に迫る程に、
豪快かつ、眼もくらむような巨大さが新鮮である。

シューマンを先取りするかのような、
トリオ部の幻想性も素晴らしい。
予測の出来ない痛みを伴って、
弦楽群が唸っている。

第4楽章は、トスカニーニが、
ヨアヒムの指定を変えたと書かれた所であるが、
様々な楽器が生命力を持って鳴り響き、
細かい音形が増殖していくような迫力は、
このテンポで生きて来るような気がする。

いろいろと、難癖が付けられることの多い、
ヨアヒムのオーケストレーションであるが、
この演奏を聴く限り、
寄せては返す波のごとく、
素晴らしい活力に満ち、
幻想的でもあって、まったく文句はない。

コーダの燃焼も熱く激しく、
演奏も共感に溢れていて、
トスカニーニが、何故、一回しか、
この曲を演奏しなかったか、
理解できないほどである。

これらのシューベルト演奏を聴きながら、
再び、このCDの表紙を見ると、
何となく、忘れられていた交響曲を、
復活させようと意気込んでいる、
「指揮者の中の王」の志のほどが、
表情からも読み取れるような気がした。

得られた事:「1939年の、トスカニーニは、ベートーヴェン・チクルスの流れに乗って、シューベルトの再評価を行った。」
「トスカニーニは、英国の作曲家で音楽学者であった、トーヴィーの研究を読んで、シューベルトの『大二重奏曲』を演奏会で取り上げた。」
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by franz310 | 2014-09-20 23:32 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その416

b0083728_16381735.jpg個人的経験:
トスカニーニの
シューベルトと言えば、
「未完成」というより、
「大ハ長調」にまず、
指を屈するべきであろう。
トスカニーニは、
この曲を非常に大切にし、
彼が、最初に振った交響曲が、
この曲であると伝えられるし、
雄渾な曲想からしても、
トスカニーニ的な作品で、
多くの録音も伝わってもいる。


ドナルド・キーンの著書などでも、
この曲を聴くなら、トスカニーニだ、
といった一節があって、
私はかなり驚いたものであったが、
トスカニーニの演奏の一途に、
しかも魂を込めて歌いぬく演奏は、
シューベルトが「未完成」の諦念を突き抜けて、
到達した境地と似たものがあってもおかしくはない。

早い時期のものとしては、
1941年11月16日に、
珍しく、フィラデルフィア管弦楽団を振ったものがある。

戦争勃発時期に、NBC交響楽団と、
ベートーヴェンの全曲チクルスをやったのが、
1939年であるから、2年が経過している。
トスカニーニは、1967年生まれなので、
このフィラデルフィアとの演奏は、74歳の時である。

2006年に出た、Sony/BGM盤は、
表紙のトスカニーニの雄姿も素晴らしく、
写真を取り巻く洒落た図柄も、
この時代を象徴して優美である。

つまり、真珠湾奇襲は、
3週間ほど後の事なのだ。

トスカニーニ自身の事としては、
記念すべきチクルスの翌年、
1940年あたりから、
何と、NBC交響楽団との関係が、
うまく行っていなかったようで、
1941年の冬のシーズンは、
シカゴ響、ニューヨーク・フィル、
フィラデルフィア管弦楽団などを振って、
トスカニーニは、NBCとの演奏は行っていない。

この間、ストコフスキーなどが、
NBCに関しては、振って繋いだが、
トスカニーニのNBC響以外との演奏が、
まとめて残されていることは、
有難い限りと言って良い。
ただし、この録音には、
様々な伝説があったようで、
トスカニーニが演奏を認めなかったとか、
息子が発売を認めなかったとか、
録音が悪すぎた、とか、
諸石幸生著「トスカニーニ」には、
整理しきれない記述が並んでいる。

私は、これを知っていたので、
これまで聞く気にならずにいたのだが、
CD化されているものは、
丁寧な復刻がなされているのか、
時々、ノイズが混ざるが、
まったく鑑賞するのに問題はない。

Mortimer H.Frankの解説に、
「1930年の終わりにかけて、
トスカニーニとストコフスキーは、
指揮台を交換しており、
ストコフスキーはニューヨーク・フィルに行き、
トスカニーニはフィラデルフィアに向かい、
ここで、彼は忘れがたい印象を残した。
11年後、彼が少しNBCを離れた時、
トスカニーニはフィラデルフィアに戻り、
再度、演奏会シリーズを持った。
この登場を知って、団員は再度、
自分たちのパートを見直し、
さらい直し、彼の要求に完全に答えるようにした。」
とあるが、
楽団員も恐ろしい期待と不安で、
そして、万全の準備を持って、
巨匠を迎え入れたわけである。

「首席バスーン奏者の
Sol Schoenbachは、
マエストロがディナーミクを
大切にすることを知っていたので、
楽器に綿やハンカチや靴下を詰めて、
チャイコフスキーの『悲愴』の
第1楽章でppppppに応えられるようにした。」
と書かれているが、
この「悲愴」は、トスカニーニが、
NBCと残した数多くの「悲愴」の中で、
最も、説得力があるもののように聞こえる。
(ただし、諸石氏の著書では、トスカニーニは、
この独奏が気に入らなかった、とある。)

しかし、弦のしっとり響く様は、
他のトスカニーニ録音では、
なかなか聞けないもので、
チャイコフスキーになると、
これが、どうしても必要に思えてくる。

NBC交響楽団は、
腕利きだったかもしれないが、
歴史が浅い放送用のオーケストラで、
特にヴァイオリンは優秀な若手を揃え、
超絶技巧ではあってもシルキーではなく、
先鋭ではあっても、豊かな感じはしない。

そもそもホールにも問題があって、
どうしても、硬い演奏に聞こえがちであった。

それに引き替え、フィラデルフィアは、
ストコフスキーの薫陶を得た、
歴史ある名門であり、
その音色は、ラフマニノフが絶賛するもので、
1940年に作曲された、
「交響的舞曲」などは、
この楽団の豊かな音色を想定して書かれたと言われる。

このようなリッチなオーケストラと、
過激派のトスカニーニのがちんこ勝負は、
おそろしく魅惑的なものであったに相違ない。

トスカニーニは、
イギリスのオーケストラとの録音も有名だが、
ゴージャスさにかけては、
フィラデルフィアに敵うものではないだろう。

Sony/BGMの三枚組CDには、
1941年11月16日の「グレート」、
18日のドビュッシーの「イベリア」、
翌日のレスピーギ「ローマの祭」に加え、
年が明けて1月11日の、
シュトラウスの「死と変容」、
翌日にかけてのメンデルスゾーンの「真夏」、
2月8日、9日には、
チャイコフスキー「悲愴」、
ドビュッシーの「海」、
ベルリオーズの「女王マブ」が演奏され、
録音されている。

これらの間にアメリカの参戦が決まった時期。
かと言って、「悲愴」が、
とりわけ悲愴なわけでもないのだが。

それにしても、
「欲しがりません、勝つまでは」
のシリアスな状況下にあって、
アメリカ音楽界はゴージャス、
これらも、オーケストラの魅力を全開にした、
魅惑的なプログラムではなかろうか。

当然、指揮者の王様が、
王様のようなオーケストラを振ったのだから、
それに見合った演奏でもあって、
解説には、以下のような記載がある。

「同様に興味深いのは、トスカニーニが、
フィラデルフィア管弦楽団に見せた敬意で、
例えば、弓を揃える時も、バランスを取る時も、
彼は、決して、その伝説のソノリティを、
変えようとはしなかった」ともあって、
トスカニーニくらいの大家となると、
こうして築かれた伝統を、
ぶち壊すような愚についても、
よく理解していたということが印象的である。

チャイコフスキーの「悲愴」における、
弦楽の軽やかな飛翔、
木管の旋回など、
ため息が出てしまうほどである。

「これらの尊敬が、この録音群にも聞き取れる。
フィラデルフィアの音はNBCのものより、
シャープではないかもしれないが、
暖かく、重みがあり、より多彩である。
同時に、NBCやニューヨークで聴かれた、
マエストロの仕事の刻印である、
ラインのつながりや、アタックの正確さ、
慎重に計算されたクライマックスは、
ここでもしっかりと聞き取れるのである。」

まさに、良いとこどりの、
奇跡の名演集という感じがする。

「悲愴」の終楽章などは、
この豊かな弦楽の深みや、
ぴんと張り詰めたトスカニーニの歌心と、
熱い魂が、見事に音として鳴り響いた部分であろう。

「このように、トスカニーニの
フィラデルフィアの録音は、
特別なアイデンティティと、
独自性の質感を矯めることなく、
オーケストラに、
その要求を満たさせる、
彼の能力を立証するものとなっている」と、
フランクは、彼のパートを結んでいる。

メンデルスゾーンなども、
トスカニーニが繰り返し録音したもので、
ニューヨーク・フィルの演奏が有名であるが、
その時の録音と比べると明らかに優れた、
豊かな音質で残っていることに感謝せずにいられない。

ここでは、曲目も多く、
序曲から間奏曲、夜想曲、合唱付きの歌、
結婚行進曲、メロドラマとフィナーレと、
二重唱(Edwina Eustisと
Florence Kirk)、
合唱(ペンシルバニア大学、女声グリークラブ)
まで登場する豪華版である。

この曲の序曲からして、
トスカニーニは乗っているのがよく分かる。
リズムは浮き浮きと前進し、
手に汗握る緊張感も漲っていて、
聴き飽きたはずのこの曲が、
心から楽しめる。

William H.Youngrenの解説にも、
「1896年という、
オーケストラの指揮者としての最初期から、
トスカニーニが明晰さと繊細さ、
透明なテクスチュアを持つ、
メンデルスゾーンの音楽を愛して来たかを、
理解するのは困難ではない。」
と書かれており、
スカラ座時代から録音を残していて、
ニューヨーク・フィル、
BBC響との録音も紹介されつつ、
1930年の欧州ツアーでは、
ほとんど半数のプログラムで、
この曲が演奏されたと解説されている。

解説者は、フィラデルフィアの、
羽根のような弦楽や、
水銀のような木管が、
この曲には理想的だった、と書き、
「この演奏の
興奮と優美さのミックスによって、
自信に満ちた確かさは、
ほとんど筆舌に尽くし難く、
痛切に感動的である」と結論付けている。

女声合唱と独唱、
楽器のブレンドは、
まったく戦争の時代を、
忘れさせるほどに夢幻的である。

何となく、厳格に語られがちな、
トスカニーニの仕事の中に、
女子大学生の合唱が紛れ込んでいるのも、
初々しくて、貴重である。

ベルリオーズの「女王マブ」は、
メンデルスゾーン同様、
シェークスピア由来の霊感に満ち、
幻想的で、オーケストラの繊細な響きを
聴かせる作品だが、
胸いっぱいになるような、
魅惑的な響きと輝きに満ちていて、
言葉を失うほどである。
いかなる最新録音を持ってしても、
この精妙な色彩の魔力を
越えることは難しいのではないか、
とすら考えてしまった。

解説者も、
NBCのものもエキサイティングだが、
フィラデルフィアのものは、
「ベルリオーズの多彩で独特な管弦楽の色彩に、
ユニークな感受性を持って」
臨んでいる点を評価している。

まことに夢幻の響きと言うしかない。

普通、アメリカのオーケストラで、
進んでシューベルトを聴きたいとは、
思わないのだが、
ベートーヴェンで、
本質をえぐるような演奏をした
トスカニーニが指揮するものであるから、
悪いはずはない。

そんな期待が込み上げる。

単に、フィラデルフィア・サウンドの
シューベルトであれば、
まったく触手が動かないのが実情であろう。

それに引き替え、
ドビュッシーくらいになると、
最初から期待は大きい。

トスカニーニが指揮する「海」は、
NBCのものも、張り詰めた空気感が素晴らしかったが、
(吉田秀和氏も絶賛していた)
このフィラデルフィア録音は、
もっと、広がりのある大気の香りに満ちている。

諸石幸生氏の本には、
この録音を聴き直した、
トスカニーニが最初は喜んでいたのに、
第2楽章になって
怒り出した話が出ていて印象的だが、
当時の録音で、この水準は驚異的に思える。

あるいは、復刻作業が成功したのかもしれないが、
そもそも、そんなにひどい録音だったのなら、
トスカニーニは最初から聴かなかったはずだ。

ずっとお蔵入りになって、
トスカニーニの死後になって、
日の目を見たフィラデルフィア録音であるが、
この曲の第1楽章の最後の、
雄渾さや輝きを、適確に捉えている、
このような再生音に実際に浸っていると、
何やら、NBC関係者の陰謀めいたものすら、
感じずにはいられなくなる。

第2楽章も、冒頭の木管の掛け合いなど、
柔軟かつ眩しく、何ら不足を感じない。
さすがフィラデルフィア、
などと満足する方が支配的である。
終楽章のハープの弾奏も上品に聞こえる。

解説には、「『海』と『イベリア』は、
マエストロの好きなドビュッシーの2大名曲であった」
とあるが、ドビュッシーは、
前者に関しては、
トスカニーニの示唆したスコアの
微修正を認可したそうである。

このCDの解説でも、
BBC、フィラデルフィア、BBCと、
約7-8年ごとに現れた、
トスカニーニの「海」はどれも素晴らしいと書いている。

このフィラデルフィアのものは、
ふわふわとして上品だとある。

「イベリア」は、
冒頭の突き抜けるような音響からして、
実に鮮烈な録音である。
逞しいリズムに、
鮮烈な音色が絡み合うが、
途中に目立つノイズがあるせいか、
ずば抜けた出来とは言えないような気もする。

このCD集の中では、
いくぶん、中だるみ的な印象。

彼がニューヨークで世界初演した、
レスピーギの「祭」も、
録音の古さが目立った感じ。

あと、豊穣なオーケストラの響きにかまけて、
さすがのトスカニーニも、
前半は、溢れるような色彩を、
十分に制御しきっていないような印象を受ける。

この曲あたりが、
一番、期待していた曲目であったが、
意外な感じがしなくもない。

解説には、この演奏は、
「この曲に相応しく名技的で色彩的、
レスピーギの豊潤なオーケストレーション、
豊かなムードを伝えている」とあり、
「同時にトスカニーニのセンスで、
作品に気品とバランスを与えている」とあるが。

後半になると、ようやく音楽は落ち着いてきて、
終楽章には、ジューシーな音が、
したたり落ちて来る。

シュトラウスの「死と変容」も、
トスカニーニが1905年に、
初めて演奏して以来、
BBC響、ウィーン・フィルとも演奏した、
長いキャリアを通じて演奏してきた曲目らしい。

この解説者によると、
1952年のNBCの録音が、
このフィラデルフィア盤よりも、
幅広く劇的であるとあるが、
それでも、序奏部で、
各楽器が浮かび上がる様は、
さすがフィラデルフィアと言いたくなる。

解説者も、
「作品の最初の短い、
高く弧を描く連続の
独奏木管楽器の演奏の美しさ」を特筆している。

私は、この仰々しく、
最初と最後が良く聞こえない、
センチメンタルな音楽が苦手であるが、
トスカニーニの推進力のある演奏では、
かなり楽しんで聴くことが出来る。

さて、いよいよ、
「大ハ長調」を聴きたい。

解説も、この曲に対する記述が、
他の曲と比べると、
際立って長く、別格扱いなのが、
シューベルト愛好家の心をくすぐる。

総括として、このように書かれている演奏である。

「フィラデルフィアの演奏は、
そのほとんど完璧な合奏の凝集力と、
素晴らしく美しい木管ソロによって、
トスカニーニ最大の到達点の一つであって、
シューベルトの傑作に対する、
洞察と修正といった、生涯を賭けた、
彼の問いかけと再発見の一つのステップの、
貴重な記録となっている。」

冒頭のホルンから、
美しい音色で魅了し、
弦楽のピッチカートや、
木管の絡まりも、とても豊かな印象。
テンポは、落ち着いているが、
どんどん先に行く集中力を感じる。

各楽器の独奏に色彩を感じるのは、
NBCでは、あまりないことだ。
これは、序奏の後半で、
美しいメロディが歌われるところで顕著で、
主部に入ってからの格調の高さにも、
指揮者の音楽への慈しみを感じずにはいられない。

第2主題にしても、
楽器の重なりが堪能でき、
単なる主題提示にはなっていない。
足取りには自信が感じられ、
盛り上がり方にもひたむきさがある。
うちよせる波のように感興が高まって行く。

1939年のNBCのシーズンは、
シューベルトの「未完成」で始まったが、
マエストロは、この1941年のシリーズでも、
この逞しいシューベルトで、
始めているのが頼もしいではないか。

彼の、この曲に対するアプローチの歴史が書かれた、
このCDの解説もいろいろと勉強になった。

しかも、単に威勢が良いだけではなく、
低音弦に、痺れるような痛みを伴いながら、
静かに耐え忍ぶような表情も忘れてはいない。

「この作品が、彼にとって、
ずっと特別な意味を持っていて、
そして、それからもそうであったがゆえに、
トスカニーニが、
シューベルトの『大ハ長調』交響曲を、
フィラデルフィアとの最初のシリーズに選んだ事は、
驚くに値しない。
1896年3月、トリノ、
彼は、最初に振ったオーケストラの演奏会でも、
1か月後のスカラ座の演奏会でも、
彼は、この曲を演奏しているのである。
40年前のトリノでの演奏会を回顧してか、
彼は、シューベルトのハ長調を、
1936年4月のニューヨーク・フィルでの、
最後の定期演奏会でも取り上げている。
それ以前にもニューヨーク・フィルとは、
1929年、1932年と1935年に演奏している。
NBCとは、1938年の元旦に、
第2回演奏会で取り上げていて、
3つの放送用の演奏があって、
1940年の南米ツアーでも演奏している。」

トスカニーニと言えば、
ベートーヴェンが良いが、
このように、シューベルトもまた、
彼の主要レパートリーだったことが分かる。

第2楽章は、この曲特有の広がりよりも、
峻厳さを捉えた演奏で、
非常にきびきびと一途な足取りを見せる。
中間部の夢見るような主題登場時にも、
透徹した、孤高の表情を見せる。

解説には、
「まさに最初のうちから、
トスカニーニのアプローチは、
権威主義的でなく、
その緊張感とエネルギーゆえに、
また、伝統的なウィーン風のリラックスや
ゲミュートリヒカイトがなく、
伝統的ではないと批判されていた。
1935年、ウィーン・フィルで演奏した時、
シューベルトのおひざ元であったにも関わらず、
彼の解釈は完璧に説得力があるとして、
奏者たちは、その演奏を楽しんだ。
事実、トスカニーニ特有の、
交響曲に対する直線的なアプローチは、
第2楽章の早めのテンポと共に、
今日の聴衆が自然に受け入れている、
他の多くの指揮者たちが、
最終的に採用したものであり、
彼の様々な演奏の中でも、
魅力的な独自性を
持っていることが分かる」
と書かれている。

シューマンが指摘した天上のホルンの独奏も、
少しだけテンポを落とすだけの感じである。
金管が吹き鳴らされるクライマックスは、
悲鳴を上げるような感じではなく、
意外にも続く諦念の方を強調した演奏である。
この抒情性が、
オーケストラの個性による美感によって
支えられていることは言うまでもない。

「特に、トスカニーニは、
この交響曲をフィラデルフィアと録音しただけでなく、
NBCとも2回録音している。
これは、彼が3度もスタジオ録音した、
唯一の大曲である。
明らかに、自らの演奏の中に、
何か重要なものを見出していたのである。」

第3楽章は、毅然と進むが、
毎度のことながら明滅する楽器に耳を奪われる。
しかも、聞き逃しがちな、
弦楽を補助する木管とか、
背景できらきらする音型などが、
とても意味深い。

そして、トリオの幅広い流れ。
フィラデルフィア・サウンド待ってました、
という感じがしなくもない。
コントラバスやティンパニの刻みも雄大だ。

まったく余韻を残さない感じで、
この楽章は終わるが、
終楽章への緊張感を大切にしたものだろうか。

初演しようとしたウィーン・フィルが、
恐れおののいた、小刻みなヴァイオリン音型も、
美感を失わずスリリングで、
ひたひたと押し寄せる興奮を押さえながら、
音楽が進んで行く様子は壮観である。

しかも、凝集されたエネルギーが、
生みだされ噴出しては拡散していく。
金管がさく裂するときの余裕も、
このオーケストラならではのものだ。

コーダでの執拗なリズムのうち返し、
テンポを速めての終結部も、
恐ろしい気迫に満ちながら、
まったく下品にはなっていないのが素晴らしい。

「トスカニーニは年を取るごとに、
その演奏は、どんどん速く、
どんどん硬く、人間味のないものになった、
とよく言われるが、1936年の、
ニューヨーク・フィルの演奏は、
1953年のNBCのものより、
どの楽章も演奏時間が短い。
さらに言うと、
フィラデルフィアの演奏の第1楽章は、
1936年、1953年のどちらより短く、
終楽章は、どちらよりも長い。
第2楽章は1936年のものが速く、
きびきびした勇敢な感じが欠け、
1941年のものではそれが獲得され、
1953年のものもそれがある。
1936年のものは、1941年のものより、
多くの楽章が軽いタッチとなっているが、
1941年のもので制御されているほどには、
1936年のトゥッティの衝動は押さえられていない。
しかし、第1楽章に関して言えば、
1941年のものは、1936年のものや、
後年のものより、衝動的で力強く自信に満ちている。」

何だか、このあたりは、
1936年のニューヨーク・フィルの演奏を
聴かないと分からない感じだが、
私は聴いたことがない。

いちおう、総括が書かれているので、
それを信じるしかない。

「概して、フィラデルフィアの演奏は、
トスカニーニが進化させてきた、
シューベルトの大ハ長調交響曲に対するコンセプトの、
美学的最終段階の中間点を示していることが、
録音からも分かる。
1941年以降、楽章と楽章のテンポや、
ドラマ性の変化や、フレーズの抑揚は、
スムースとなり、
音と律動の持続性はしっかりと保持され、
その中で、テンポやテクスチャーの変化は、
気が付かないほどに微妙なものとなる。」

ベートーヴェンの場合も、
1939年のチクルスが、
同様の位置づけであったと思うが、
70を超えて、さらなる飛躍を伺っていた、
この巨匠の気力、体力充実期を、
こうした録音で追体験できるのは、
非常に有難いことではないか。

得られた事:「トスカニーニは、シューベルトの大ハ長調交響曲を演奏し指揮者としてデビューした時から、これを愛し、重要な節目には、この曲を取り上げた。」
「日米開戦を控えた頃、1941年秋のこの曲の演奏は、トスカニーニ残した録音の中で、第1楽章が最も短く、終楽章が最も長いという特徴的なもので、円熟期の自信に満ちた歩みに、フィラデルフィア管の美しい音色と合奏の力が華を添えている。」
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by franz310 | 2014-09-13 16:38 | シューベルト