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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その407

b0083728_2225412.jpg個人的経験:
トスカニーニの戦前の、
ベートーヴェン録音は、
どれも聞き逃せず、
ニューヨーク・フィルとの、
「第5」と「第7」、
BBCとの「田園」など、
ファン垂涎の名盤が並ぶが、
私にとっては、
「第4」が貴重である。
人気があるとは言えないが、
何故か、同時代の演奏が、
聴き比べられるからである。


NBC交響楽団では、伝説的と言われる
ベートーヴェン・チクルスのものがあり、
第2夜に「第2」と一緒に演奏された、
1939年11月4日の放送用の録音がある。

また、同じ1939年には、
これより半年前の、6月1日に、
英国のBBC交響楽団との最後の記録として、
演奏されたのが、
やはり、この交響曲であった。

さらに、3年さかのぼれば、
1936年2月2日の
ニューヨーク・フィルとの録音があり、
まことに贅沢なことに、
トスカニーニ所縁の3つのオーケストラの違いを
聴き比べることが出来る。

それだけではない、1936年と言えば、
トスカニーニがニューヨーク・フィルを辞任した年で、
その後任となった、バルビローリの演奏が、
やはり1936年12月13日の演奏がCD化されていて、
これは、以前、紹介したことがある。

トスカニーニのライヴァルということでは、
フルトヴェングラーも、
少し遅れるが、戦時中、1943年に、
この曲の代表的名盤とされるものを録音している。

さらに下れば、バルビローリのライヴァル、
トーマス・ビーチャムもこの曲を、
1945年に録音しており、
ここまで時代を下れば、
トスカニーニの1951年のライブを聴いて、
さらに比べても良いかもしれない。

「英雄」や「第9」も、
トスカニーニはやたら演奏が残っていて、
聴き比べできるが、
肝心のニューヨーク・フィルのものがない。
(あるのかもしれないが、私は知らない。)

ということで、この「第4」を軸に、
いろんなことを考え、非常に楽しい体験ができる。
「第4」は、なかなか表題を付けにくい作品だが、
極めて個性的で、一筋縄ではいかない交響曲だ。

そのせいかは分からないが、
アンセルメのような、
ベートーヴェンとは関係なさそうな指揮者が、
1958年にライブ録音を残していたり、
東独の大御所コンビチュニーが、
西側のザルツブルクに出てきて演奏した、
という興味深い録音がぽつんとあったりする。

カラヤンが最後に日本で演奏したのも、
この曲だったのではなかろうか。

全くの偶然であるが、こんな聴き比べは、
実は、ドナルド・キーン氏も行っていて、
中公文庫の「音楽の出会いと喜び」に、
「アメリカ人演奏家のために」という一章がある。

ここでは、ちまたで言われているように、
本当にアメリカのオーケストラはだめだめなのか、
と検証するべく、
ラインスドルフ、ショルティ、
マゼール、セル、バーンスタイン、
オーマンディ、カラヤン、ベームという、
いかにも1979年に実施したに相応しい録音で、
この「第4交響曲」を聴き比べしているのである。

彼が、この曲を聴き比べに使った理由は、
この曲には、「人間みと暖かみ」が必要とされるから
(本当にアメリカの楽団には暖かみがないかを調べるために)
であった。

また、キーン氏は、
「この曲は、多くの解釈の余地を残す偉大な作品」
と書いてもいるが、多くの指揮者が、
様々なアプローチを行う理由もここにあるのだろう。

しかし、この時代に比べると、
レコード産業はかなり衰退したらしいが、
確かに、上に並んだ指揮者による、
「第4交響曲」がすべて出ていた時代は、
違う意味で「すごい」とも言える。

実際のところ、
私は、どれも聴きたいと思わないからである。
あえて言うなら、セルだろうか。

ちなみに、私が最初にこの「第4」を聴いたのは、
ちょうどこの時代であって、モントゥーが指揮したものが、
廉価盤LPで出たのを機にしてのことだった。
この時、モントゥーは、「第2」も出たが、
どちらも美しい音楽で、
調べると、ウィーン・フィルとの録音だったらしい。

「人間味と暖かみ」が必要であるとすれば、
この組み合わせの録音で、
この曲を知った私は幸福であったと言えよう。

ちなみに、私は、レギュラー価格で出ていた、
カラヤン、ベーム、マゼールなどは、
とても買える境遇ではない学生であった。
その「恨み」のような感情が、
ひょっとすると、
これらの指揮者を聴きたくなることを
妨げているのかもしれない。

ということで、トスカニーニの「第4」であるが、
1939年の録音は、連続演奏会の放送用のもので、
多くのレーベルで入手可能。
NAXOSのものはコンサートごとにまとめており、
しかも、放送用のアナウンサーの声も入っている。

Music&Artsのものは、
基本はコンサートごとだが、
アナウンサーの声はなく、
「第7」と「第8」は、
コンサートとしては別の日であったが、
同じCDに詰め込まれている。

また、私が音質的に好きなのは、
GRAMMOFONO 2000のものだが、
これは、交響曲の番号順にまとめてある。
今回は、このCDで聴いたが、
1998年に出たもので、
「NEW 24-BIT RESTORATION」
と大きく書いてある。

全体が黒を基調にまとめられ、
トスカニーニの横顔があしらわれたデザインだ。

ただし、Music&Artsの解説が、
聴き比べをする際には便利なので、
再び、これを読んでいくことにしよう。

「第4交響曲は、NBCのプログラムで、
1951年のライブ録音を含め、
たった3回しか演奏されておらず、
比較的演奏されなかった、
もう一つの交響曲である。」

ということで、トスカニーニの演奏は、
たまたまこの時期に重なっていただけで、
彼自身、この曲を好んでいたかは、
分からない記載である。

「この曲においても、1936年2月の
ニューヨーク・フィルとの、
早い時期のバージョンでは、
特に第1楽章で、リラックスしたテンポ、
古典的な抑制が見られ、
同様に、1939年5月の
BBCのバージョンでは、
この場合、木管が遠くて、
録音の解像感がないことによって、
いくぶん、損なわれているとはいえ、
親しげな自発性が見られる。」

このように、各楽団とのアプローチの違いが、
いきなり強調されている。

「そして、1939年5月のBBCの演奏会のものや、
古いワインガルトナー、LSOのような敏捷さが、
少し硬いスケルツォには欠けているとはいえ、
ここでも、真の劇的な迫力、
演奏の正確さと、堂々とした点で勝っている。」

ということで、聴くときのポイントは、
1.第1楽章の序奏のテンポ
2.スケルツォの俊敏さ
3.演奏が堂々としているか
ということにあるようである。
「堂々としているか」は難しいが、
テンポの遅い速い、
俊敏であるかないか、
は、そこそこ簡単に聞き分けられそうである。

「そうは言っても、トスカニーニは、
38小節に及ぶ序奏部を、
ミクロコスモスの世界を創造しており、
興味深いことに、BBCでの録音同様、
正確に3分半をかけており、
ニューヨーク・フィルとの超拡張アプローチから、
30秒も短くしている。
しかし、ここでも録音にいささか難があり、
8HスタジオのX線のような音響効果は、
伴奏バスと低音木管の繊細なバランスが残ることを許さず、
すべての魔法の痕跡が消え失せている。
事実、この録音の音には、
こうしたことを考慮する必要がある。」

ということで、録音が良いかどうかも重要そうである。
特に、BBCのものは、スタジオ録音で、
最も、条件が良いはずだが、
木管の音が「遠い」と文句をつけられている。

「この夜の魔法は、翌日のダウンズの記事、
『第4交響曲の演奏は、
ベートーヴェンが牧歌的な気分で書いたことを、
しばしば想起させるオーケストラの、
まるで神秘的な沈黙と憂鬱のような部分に、
音の透明性を与えて素晴らしかった。』
からも推し量ることが出来よう。」

この後は、同日演奏された他の曲目の
演奏会評であるから、第4に関しては、
影のある部分の透明性が重要だったようである。

では、序奏の印象勝負:

1936年2月ニューヨーク・フィル盤:
最初の木管楽器の音色がずっと続いて、
しかも、かなり、ゆっくりとした音楽。
まるで、荒涼たる荒野を彷徨っているような風情。

ちなみに、主部になると、猛烈なドライブで、
オーケストラが煽られていくが、
第2主題では、テンポが落ち着く。

経年変化であろうが、
目立つがりがりノイズがあるが、
鑑賞の妨げになるものではない。

1939年6月BBC交響楽団盤:
緊張感が増し、何かが起こりそうな、
不気味さが冒頭から充満している。
しかし、霧が晴れていくように、
少しずつ、隙間が開けてくる感じ。

主部に入る前のじゃーんは、
英国風なのか、マイルドな感じで、
主部に入ってからも、
何やら微笑みのような余裕を感じる。
格調高く曲は進むが、
確かに木管による主題の登場は、
いささか分離が悪い。
しかし、逞しく、余裕があり、古典的である。

1939年11月NBC交響楽団盤:
かなり即物的で、
それほど、神秘感も不気味さもない。
ただ、リズムをがつがつと踏みしめて、
平常心で先に進む感じである。

演奏会場が、悪名高い8Hスタジオのせいか、
いささかダイナミックレンジに余裕がない。

主部に入る前の爆発はさく裂系であるが、
ここに入ってからも、
テンションは高いが、
基本的にきちっとした感じが強い。
戦争が始まって規律重視になったのだろうか。
音がぎゅうぎゅう締め付けられているようだ。

この時期(以降)のトスカニーニに
共通して感じるのは、
木管のふっくらした感じなどは、
どうでも良い解釈ではないかということ。

1936年12月バルビローリ、ニューヨーク・フィル盤:
序奏のテンポは遅く、
ねばねばするくらいに音が延ばされている。
が、各楽器の音色が出ては消えて、
無重力感というか、不思議な空間に迷い込んだ感じ。

主部に入る前のじゃーんも、
長く延ばされて、
主部に入ってからも、
バルビローリらしい優雅さを感じる。

木管主題も、色彩的だが、
トスカニーニのような推進力よりも、
流麗な音の連なりを重視した音楽である。

1943年6月フルトヴェングラー、ベルリンPO盤:
(ソ連変換からのライブ)
ものものしい中、静かな緊張感が目指されたか、
客席の咳などノイズが目立つ。
じゃーんになるまでの、
テンポのゆらぎがフルトヴェングラー的である。
テンポはトスカニーニのニューヨークPO盤より速く、
思ったより遅くはない。

この交響曲に、
かくも強烈なティンパニのさく裂がある事は、
この録音まで気づかなかった。
木管主題は、そこそこ印象的であるが、
この前後のテンポの揺らぎの方が気になる。

なお、これを聴いて注意して聴きなおすと、
トスカニーニ、ニューヨーク・フィル盤も、
かなり、ティンパニを強打していた。

1945年8月、10月ビーチャム、ロンドンPO盤:
かなり速く、妙にギクシャクしたテンポの序奏、
かなり肩の力は抜けている。
神秘感はよく漂っているが、
主部も軽快で、走り抜けて行く感じ。

1951年2月、トスカニーニ、NBC交響楽団盤:
1939年盤同様、神秘性などはなく、
また、39年盤のような緊迫感もない。
ただ、主部が来るのを待っているだけみたい。
この曲で序奏が、これほどまでに軽くみられると、
第4のありがたさは半減した感じもする。

主部では、新しい録音だけに、
木管の響きなどが明晰ではあるが、
かなり気忙しい音楽で、むやみな激情型。

よく言われることだが、
高齢のトスカニーニは、
微妙なニュアンスを
伝えることが出来なかったのではないか、
という意見に納得せずにいられない。

第2楽章比較編:
トスカニーニ、ニューヨークPO盤:
かなり音質が悪いが、
そんな中から聞こえてくるクラリネットの音色など、
あえざえとして美しく、夢いっぱいの音楽である。
8分56秒かけていてトスカニーニの中では長いが、
他の指揮者は、トスカニーニよりけた違いに長い。

トスカニーニ、BBC交響楽団盤:
確かに、クラリネットがよく聞こえない難点はあるが、
きわめて格調が高いなか、微笑みを感じる。

トスカニーニ、NBC交響楽団盤(1939):
毅然とした感じで、強い意志を感じさせる曲の進行。
音がデッドで、クラリネットの音色の魅力は乏しい。
しかし、うっとりと歌っている感じは伝わる。

バルビローリ、ニューヨークPO盤:
10分12秒かけていて、恰幅が良い。
最初から、弦のたっぷりとした魅力的な歌で聴かせる。
クラリネットも印象的で、
テンポの動かし方も丁寧な演奏である。

フルトヴェングラー、BPOライブ(1943):
11分59秒という、意識が遠のいていくような、
恐ろしいテンポ設定で、ほとんど音楽が止まっている。
そこに、ティンパニが撃ち込まれながら、
活力を増して行って、クラリネットで忘我の歌が出る。

ビーチャム、ロンドンPO盤:
9分35秒。
陶酔的なものではなく、ロマンティックでもない。
よく流れる音楽で、クラリネットも格調高い。

トスカニーニ、NBC響(1951年)盤:
これはカーネギーホールでのライブなので、
もっと、豊かなニュアンスが欲しいところだが、
録音のせいもあるのか、平板な印象の音楽に聞こえる。

第3楽章のスケルツォ比較編:

トスカニーニ、ニューヨークPO盤:
音が悪くてかなり不利だが、
ストレートで気迫にあふれた音楽で、
木管楽器はここでも美しい。

トスカニーニ、BBC盤:
さすがスタジオ録音で、解像度が増し、
ロンドンのクイーンズ・ホールの録音であるためか、
このがちゃがちゃした音楽の残響や、
楽器の遠近法のようなものが堪能できる。

トスカニーニ、NBC(1939年)盤:
ここでは、1点1画をおろそかにしない、
きちっきちっとした音楽が、
抽象的な美学にまで達しているような感じ。
楽器の出たりひっこんだりも、
かちかちっと決まっている。
「少し硬いスケルツォ」とされたが、
確かにそんな感じ。
「俊敏さに欠ける」というのは、
オーケストラの機能が悪いと言うか、
この演奏の量感を生かした解釈によるものだろう。

バルビローリ、NPO盤:
これは、トスカニーニ、NBC(1939)とは、
明らかに異なる美学を感じる演奏である。

量感をぶつけるのではなく、
あくまでも音の美質を追及していて、
どの瞬間にも破綻がなく、
各楽器の音色が際立っている。
音楽の自然な流れが、この指揮者には、
非常に重要だったことが分かる。

フルトヴェングラー、BPO(ライブ):
噛んで含むような、妙に落ち着いたスケルツォで、
ぎくしゃくとした音の面白さを楽しむ風情、
各楽器のブレンド感も立体的で良い。
この巨匠にしては、ここで、ひと息つきたかった感じか。

ビーチャム、LPO:
これだけいろいろ聴くと、
それほど特色があるものではない。
ただし、トリオに入る前には、
効果を狙った入魂の一瞬がある。

トスカニーニ、NBC響(1951年)盤:
力ずくでごりごりしているが、
木管楽器が出たり引っ込んだりするときの、
立体感や、色彩感は印象に残る。

終楽章比較編:

トスカニーニ、NPO盤:
非常に雄渾かつ開放的で胸躍る演奏である。
劣悪な録音ながら、
カーネギーホールでの演奏であるせいか、
楽器の魅力が聞き取れる。

この演奏はあまり普及していないものだが、
全体的にトスカニーニ、ニューヨーク・フィルの、
魅力を現代に伝える貴重な録音と言わざるを得ない。

有名なRCAとの「第7」は、
この演奏の2か月後のものだが、
大交響曲のはずなのに、立体感に乏しく、
どうも単調な感じがしていたが、
この「第4」は、色彩的で推進力もあり、
何かしら柔軟、繊細ですらある。

トスカニーニ、BBC盤:
古いながら録音条件が良かったため、
音質は格段に良いと思える。
確かにファゴットなどの軽妙な音色を、
もっと捉えて欲しかった気はするが。

音楽の活力、よく言われる自発性に加え、
推進力や迫力、楽器の音色の魅力も
言うことがない。

トスカニーニ、NBC盤:
一心不乱で突き進み、
ざっくりと切り刻んでいく迫力はすごい。
ダイナミックレンジに限界がある録音がまた、
この感じを強調しているようだ。
トスカニーニの入魂の度合いも、
全二者とは違うようで、パンチがある。

バルビローリ、NYP盤:
これまた音質に限界があるが、
さすが、バルビローリの美質は、
この初期の録音から健在という感じで、
とにかく、音の有機的なつながりも、
情熱的な表現も、この指揮者らしさを放っている。

ぼわーんという盛り上げも、
自然に湧き上がってくる感じが素晴らしい。

フルトヴェングラー、BPOライブ盤:
出だしこそ抑え気味であるが、
ベルリン・フィルの機動力解放という感じ。
ティンパニが連打され、
どうしても戦時中の音楽を意識してしまう。
この演奏は、繊細さと剛毅さのバランスが、
緊張感に耐えられず雪崩を打つような演奏。

この楽章だけで、
これだけのドラマを描いて行くのは、
どえらい演奏の証しなのであろう。

ビーチャム、LPO盤:
オーケストラからぴちぴちした表現を引き出し、
楽器の美観も良く、大騒ぎせず節度がある。
大人の音楽という感じ。

トスカニーニ、NBC盤(1951):
何だかヒステリックで、
1867年生まれなので、
84歳という高齢になっていたトスカニーニは、
すでに難聴気味にでもなっていたのではないか、
などと考えてしまった。

「第2交響曲に対しては、
彼はいくらか保留をしており、
『最初の二つの楽章は、
そうであって欲しいという理想的なもので、
トスカニーニ氏がラルゲットでとったテンポは心地よく、
流れるようで愉悦感に溢れ、
歌を弛ませたり、感傷的に堕したりすることがなかった。
しかし、スケルツォには、我々は、
無愛想で身なりの悪いベートーヴェンより、
もっと、デリケートで18世紀的な清潔さを期待する。
もう少し礼儀正しいベートーヴェンを、
スケルツォやフィナーレでは期待する。』
これに引き替え、『レオノーレ序曲第3番』では、
彼は、『荒々しく劇的』であるとしている。
『Musical America』誌では、
『バランス、明晰さ、音の磨かれ方、
構造的な結合、生命力、リズムの説得力の驚異』と、
列挙し、トスカニーニの演奏は『圧倒的』としたが、
実際、トスカニーニは、これ以降、
いくつかの試みを行ったものの、
1951年2月まで、同様の高みまで至ることはできなかった。」

ちょうど、今回、1951年2月録音の、
RCAへ録音した「第4」までを聴いてみたが、
この時期のトスカニーニは、
気忙しく、音楽の美しさに酔わせてくれない。

トスカニーニが振った
ベートーヴェン「第4交響曲」の
各楽章のタイミングを見てみると、
1936年のニューヨーク・フィル盤と、
1951年のNBC交響楽団盤の演奏は、
ほぼ同じ長さになっているが、
その印象はかなり違う。

1936年のものは当然音質は劣悪なのだが、
ずっとニュアンスが豊富で、
音楽に詩的なものが多く含まれている。

しかし、戦争が始まるころから、
トスカニーニは、そうした情緒的な要素を、
極力排除して、力学的、構造的な方向に向かっていったようだ。

なお、1939年のベートーヴェン・チクルスは、
多くの復刻で入手可能だが、今回は、
GRAMMOFONO 2000のもので聴いた。

得られた事:「トスカニーニにとって、1939年は大きな変化の年で、前半のBBCの録音と、後半のNBCとの録音で、かなりの差異がある。」
「1936年の前半と後半とで、トスカニーニとバルビローリが、同じニューヨーク・フィルを振ってベートーヴェンの『第4』の録音を残したが、トスカニーニのものはむしろ主情的、バルビローリのものは造形的である。この後の動きを見ると、むしろ、それぞれが反対の路線に近づいたような感じすらする。」
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by franz310 | 2014-04-26 22:05 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その406

b0083728_17211873.jpg個人的経験:
1939年にトスカニーニが、
すさまじい集中力で振った、
ベートーヴェン・チクルス。
その伝説的連続演奏会の
第2夜(11月4日)は、
比較的演奏機会の少ない、
「第2」と「第4」を
集めたものであった。
これでは足りないと思ったのか、
最後に一連の序曲の中では有名な、
「レオノーレ序曲第3番」
が演奏されている。


このNAXOSのCDは、
この夜の演奏をすべて収めたものだが、
タイミング表示を見ると、
短めなはずの「第2」も「第4」も、
かなりたっぷりとした演奏で、
いずれも両者とも33分ほどの時間をかけていて、
CDも2枚組となっている。

LP時代のトスカニーニは、
これらを30分程度で演奏して、
LPの片面ずつに入れていたが、
ちょっと様子が異なるようである。

トスカニーニというと、
どうも豊穣なイメージではなく、
無機質で窮屈な感じが付きまとうが、
以上のような特徴から、
この2枚組CDは、
その先入観を打破するかもしれない。

表紙写真の、トスカニーニの表情からして、
いったい何なのだ、と言いたくなる。
が、この指揮者の一面を表し、
他に類例がないので、貴重なものではないか。

ただし、この表紙写真については、
残念なことに、何も書かれていない。

さらに、このCD(シリーズ)には、
トスカニーニの演奏の解説もない。

また、実際にCDを聴き始めると、
アナウンサー、ジーン・ハミルトンの、
放送当時のラジオ放送用のコメントから始まって、
この人の存在感が、妙に大きいことが分かる。

「グッド・イブニング、
レディーズ・アンド・ジェントルマン」
から始まって、
「土曜の夜、大きなスタジオは、
ナショナル・ブロードキャスティングの、
シンフォニー・ホールとなって、
大勢の聴衆で埋め尽くされて、
開演を待っています」
という感じで、
聴くものを、録音や放送があった、
当時のアメリカに誘ってくれるかのようである。

「先週から始まった、
歴史的なベートーヴェン・シリーズも第2回」とか、
「次々の交響曲の全曲と重要作品が演奏される」
とか、スリリングなイベントに立ち会っている、
という感じがこみあげてくる。

「アルトゥール・トスカニーニが袖に現れ、
ステージ上のマエストロのオーケストラの前に立ち、
ベートーヴェンの『第2交響曲ニ長調』を聴かせてくれます。」
というアナウンスに合わせて、
どんどん拍手も大きくなって行き、
我々の期待も大きく膨らむのである。

トスカニーニの演奏がどうだった、
という記事はないが、
このCD、曲目解説は、
廉価盤レーベルにしては、
かなりしっかりしたものと言って良い。

たとえば、「第2」などは、以下のように、
この曲が、いかに革新的な傑作であるかを、
十分に伝える内容になっている。

「ベートーヴェンの難聴は、
彼に語りきれない苦しみと苦悩を与えたに相違ない。
しかし、彼は、それにもかかわらず、
1802年の夏、
ウィーン近郊のハイリゲンシュタットで、
二番目の交響曲の作曲に取り掛かった。
彼の主治医、シュミット博士は、
神経を休めるために、彼をそこに送り、
そして、彼は、村の外の丘の家に住み、
シュミットと、弟子のリースだけを、
客人として迎えながら過ごした。
ここで、秋になって、
彼は弟たちに、後に、
『ハイリゲンシュタットの遺書』
として知られる手紙を書き、
内に込めた思いを書き、
音楽だけが、
自殺を思いとどまらせると宣言した。」

第2交響曲が、
この遺書と関連付けて語られるのは、
毎度の事だが、同時期のことであっても、
それがどう関係するのかは、
良く書かれてはいない。

ちなみに、指揮者の金聖響は、
講談社現代新書の「ベートーヴェンの交響曲」で、
「ハイリゲンシュタットの遺書」には2つあって、
一方は悩み、もう一方は、
「決意や未来への希望」が読み取れるとして、
これら2つの間の5日に、
悩みぬいて「再スタートを決意した」
と書いている。

また、この著書では、
この曲を聴くときは、楽譜を見ながら聴くべし、
などというアドバイスが書かれていて、
「何度でもながめて一生繰り返し楽しめる」
というコメントが補足されているのが面白い。

さて、NAXOSの解説に戻ると、
このような奮起のための交響曲というより、
当初、おそらく発表当時、この交響曲が、
極めて異質な作品として、
受け取られた事が書かれている。

「第1交響曲を歓迎した聴衆も、
ある批評家などが、
作曲家は、故意に、
新奇性と驚きを与えようとしている
と書いたように、
この新作は奇妙なものとして受け取った。
他の人たちも、あまりにも長く、
衝動的であるとしたが、
ある人々は、それにもかかわらず、
新手法を歓迎した。
終楽章で、ある批評家は、
不快でたまらなくなって、
作品を、『ぞっとする怪物』となぞらえた。
『傷ついた、尻尾を痙攣させた蛇が、
荒々しく悶え、恐ろしい息を吐いて、
最後は死の苦しみに息絶える。』」

ハイリゲンシュタットの苦しみで書かれたとしたら、
このような表現であってもおかしくはないが、
このような意見があったことは参考になる。

この書き方からは、ベートーヴェン自身が、
苦しみ悶えるのが聞き取れる音楽、ということになる。

ただし、ニ長調という輝かしい調性からしても、
そこまでこじつけるのは難しい。
初めてこんな巨大な音楽を聴かされた、
当時の人々ならともかく、
現代の我々からは、これほどまでに、
極端な意見は出てこないだろう。

が、このような評論を紹介されることによって、
ベートーヴェンが陥っていた、
そもそもの境遇を想起できるのは良い事である。

一方、
「もっと偉大な革新者であった、
ベルリオーズは、全体として、
音楽に、より明確なメッセージを読み取っている。」
という書き出しで、
以下のような文章が続く。

ベルリオーズ自身の言葉であろう。
このベルリオーズには、
「ベートーヴェンの交響曲」という
著書があるから、
そこからの引用かもしれない。

「1.序奏:アダージョ・モルト、ニ長調3/4;
アレグロ・コン・ブリオ、ニ長調4/4。
この交響曲は全曲を通じ気品があり、
エネルギーに満ち、誇り高い。
序奏は傑作である。
最も美しい効果が、
整然と次々と流れ出し、
しかも、予期することが出来ない。
歌は心を打ち、荘厳で、
すぐに敬意を感じずにはいられず、
聴くものの感情を高ぶらせる。
リズムは、常に大胆で、
楽器法は豊かで、朗々としており、多彩である。」

この10行ばかりは、わずか3分たらずの
序奏部33小節だけの解説であり、
ベルリオーズともなれば、
ここから、これだけのものを聞き取るのである。

このベルリオーズを手掛かりに、
金聖響の著書にしたがって、
楽譜を眺めながら聴くと、
確かに、いろんなことが見えてくる。

「じゃじゃーん」の後、オーボエが歌う、
流れ出すメロディ、繊細で慎重であるが、
確かに、「流れ出し」、「心を打つ」。
奇妙なリズムが刻み、「大胆」。
ホルンの応答の中、
不安や期待も「高ぶらされ」、「荘厳」。
フルートとファゴットが、
ヴァイオリンの楽句を模倣し、
以上書きだしただけでも「楽器法は豊か」。

序奏の中間部では、
スフォルツァンドのホルンが
アクセントを付けながら、
低音がぐるぐる旋回すると、
他の楽器が、
ああでもない、こうでもないと、
思い悩むような音形が繰り返される。

確かに、様々なものが実験されている序奏部である。

それにしても、このような文体は、いかにも、
ベルリオーズその人を表しているようで、
まるで、彼自身の交響曲の解説を読んでいるようである。

この作曲家が、どんなに、
ベートーヴェンに私淑していたかを、
体感できるような内容でもある。
ベルリオーズも高名な指揮者であったからか、
金聖響氏の意見とも、非常によく合致している。

「幻想交響曲」の、
あの神秘的な序奏も、
ベートーヴェンのこの曲を念頭に、
かくあるべし、と、
考えながら書いたのではないか、
などと考えずにはいられない。

「心を打つ歌」、「予期できぬ展開」、
といったものは、どれを取っても、
ベルリオーズが目指したものではなかろうか。

この序奏部の解説だけでも、
ベルリオーズの交響曲を聴いているような
気分に浸れる。
金聖響氏の著書に書いてあることも、
妙に肯けるのである。

トスカニーニの指揮は、
この悩ましい序奏部から、
恐ろしい気合いの入れ方で、
唸り声がひんぱんに出てきて、
魂を入れ込もうとしているかのようだ。

が、ここまで、峻厳な音楽を聴いていると、
改めて、この曲の初演時に、
初めてこの曲を聴かされた聴衆の気持ちも、
分からないではないような気がしてくる。

通常、もう少しほんわかとした印象を持つ、
この交響曲の、研ぎ澄まされた側面が、
びしびしとさく裂していき、
圧倒的なエネルギーがぶつけられてくるのである。

トスカニーニの後年のRCAへの録音は、
序奏部から飛ばし過ぎていて、
ベルリオーズの書いたような、
次々と繰り出される魔法が、
十分に味わえるようにはなっていない。

「アレグロ・コン・ブリオの魅惑的な疾走が、
この賞賛すべきアダージョに続く。
ヴィオラとチェロのユニゾンで導かれる
主題の最初の小節に見られる
けばけばしい装飾のグルペットは、
やがて独立して、クレッシェンドや、
木管や弦楽によって発展する。」

これもそう。
劇的交響曲「ロミオとジュリエット」が、
騒がしく駆け回るリズムで始まるのを想起した。

トスカニーニの演奏は、
直進するエネルギー感のようなものを、
重視して、火の玉が飛んでいくようなイメージ。
各楽器の反応も明敏極まりなく、
目まぐるしく、楽器が入り乱れる音楽進行が、
鮮やかに捌かれて行く感じである。
思いきりが良く、ティンパニの連打が強烈で、
すごい波にのまれていくようで心が高鳴る。

「2.ラルゲット、イ長調、3/8。
ラルゲットは、第1楽章の様式で捉えてはならない。
古典の模倣による主題ではなく、
むしろ、率直な歌である。
それは、最初はまず弦楽で奏され、
明るく滑らかな音形によって、
素晴らしく優美な刺繍を施される。
その性格は主要な着想が持つ、
独特の性格を形作る優しい憂愁から、
遠く離れることはない。
これは無垢の喜びの美しい描写であり、
ときおり、物思いのアクセントが、
わずかな影を宿す。」

ベルリオーズにも、
やはり、このような瞬間があった。
「愛の情景」を思い出すだけで十分だ。

トスカニーニの音楽は、
透明度が高く、色彩的ではないが、
硬質のペンで一息に描かれたような、
しっかりとした流れが魅力である。
陰影も最低限の斜線のような感じで、
べたつきがないのが、私には快感である。

ベルリオーズの意見に戻ると、以下に続く、
スケルツォの描写はいかがであろうか。
恐ろしく誇大妄想的で、
完全にベートーヴェンのイメージを突き抜けている。

いや、ベートーヴェン自信、
巨大な存在なので、
こういった要素も包含しているのだろうが。

ベルリオーズの書きぶりは、
同時代のシューマンが書いた、
シューベルトの交響曲の賛辞すら木霊しているようだ。

「3.スケルツォ:アレグロ、ニ長調、3/4。
スケルツォは、幻想的な気まぐれの中、
単純に陽気なもので、
第2主題は、全体的に晴朗な幸福感を持ち、
この交響曲に笑顔を見せる。
最初のアレグロの戦闘的な爆発は、
完全に暴力からは遠く、
そこには気高い心の青春の情熱だけがあり、
汚れなく、最も美しい人生の幻影が保たれている。」

私は、この打ち付けるような主題が、
戦闘的であって、情熱的であるが、
暴力的でないことは認めよう。

「作曲家はいまだ、愛や、不滅の栄光や、憧れを信じている。
この陽気さには、放棄されるものはない。
何と言う機知、何という皮肉。」

しかし、ここまで読み取るのは難しい。

「第2主題」とは、トリオの部分であろうか。
これもあっさりしたものではあっても、
「晴朗な幸福感」までを感じるのは困難だ。

特にトスカニーニの場合、
すごい起伏で、このスケルツォを責め上げ、
そのドライブへの没入が激しく、
時折、その頂点で唸り声を上げている。

「様々な楽器を聴いていると、
どれも完全な形をなさぬ、
主題の断片の上で論争し、
これらの断片が、千ものニュアンスで彩られ、
互いを呼び交わし、
オベロンの優雅な妖精たちの、
神秘的な遊戯を見ているような気持ちになる。」

楽譜を眺めれば、
様々な楽器に、音符が散りばめられて、
ベルリオーズが書いたような内容が、
そのまま図形になっているようにも見える。

さすがに、ここまで書き連ねて、
ベルリオーズも反省したのだろうか。
最後の楽章の解説は、
ショパンのソナタのように短い。
楽譜では、400小節以上もあって、
実は、それだけ変化に富んでいる。

「4.終曲:アレグロ・モルト、ニ長調、2/2。
終曲は、自然そのものである。
2/2拍子の第2のスケルツォのようで、
ふざけているように見えるが、もっと繊細で、
もっと愉快なものだ。」

トスカニーニには、ぜひとも、
この楽章のような、ぎくしゃくした音楽を、
結局、こういうことだろう、と、
男気を示して解釈して欲しいところだが、
この演奏では、それが裏切られることはない。

ということで、この解説は、
トスカニーニでもベートーヴェンでもなく、
ベルリオーズの存在感がやたら大きな解説である。

このCDの主役であるトスカニーニは、
「幻想」は振らなかったが、
ベルリオーズに心酔していたので、
それも許されるのかもしれないが。

肝心の1939年の、
ベートーヴェン・チクルス。
読み物としては、
Music&Artsの全集ものの解説が、
興味深いことを教えてくれる。

クリストファー・ディメントという、
トスカニーニの研究家が書いている。

「11月4日に行われた、
第2回めの演奏会は、
第2交響曲と第4交響曲を含み、
『レオノーレ第3番』序曲で閉じられるものであった。
他のどのベートーヴェンの交響曲より演奏頻度が少ないが、
この第2交響曲は、トスカニーニの残したものの中で、
もっとも初期のもので、しかも最良のものである。」

ということで、トスカニーニの、
ベートーヴェンの「第2」なら、
この演奏と、お墨付きがいきなり貰えるのが嬉しい。
フルトヴェングラーの場合も、
「全集」を作る時に、
この「第2交響曲」の録音が、
なかなか見つからなくて、
しばらく欠番だったはずである。
この曲は、「エロイカ」の成熟を前に、
しかも、「第1」の硬さも取れて、
良い感じの青春交響曲になっているはずだが、
何故、この両巨匠は、この曲を敬遠したのだろう。

下記のように演奏機会そのものが少なかったようである。

「ニューヨーク・フィルとは4度の機会に、
11回の演奏を行ったが、
NBC交響楽団とは、RCAへの録音を含め、
たった4回しか演奏していない。
この演奏では、彼は、いくぶん、
ドラマティックな説得力を孕ませ、
いかなる競合盤を凌いでいる。」

この解説を書いているディメント氏は、
ワインガルトナーの研究家でもあるので、
参考に書きだされているのが、
ワインガルトナー盤であるのが微笑ましい。

「ラルゲットに牧歌的な抒情性を持ち、
スケルツォにははち切れんばかりの機知がある、
1938年、ワインガルトナーが、
LSOを振った演奏とこの演奏のスピードが、
あまりにも似ていると考える人がいるかもしれないが。
彼はトスカニーニ同様、第1楽章を推進させる、
沢山のスフォルツァンドの機能を意識している。
しかし、ワインガルトナーは、
NBC交響楽団のようなオーケストラも、
トスカニーニのような劇的な天性も持っていなかった。
そして、この序奏の異常なまでの広がりや、
アレグロのダイナミズムは、
1949/51年のRCA録音を軽く凌駕する。
さらに、この楽章323小節で、
木管がいかにも自発的に刻々とテンポを変え、
340小節以降、コーダの最終ページで、
少しリタルダンドして、
後の録音で平板になったものより、
より複雑なテクスチャーとリズムを
取り入れていることも注目に値する。」

この解説では、後年の録音との差を、
「序奏の長さ」、「ダイナミズム」、「自発性」と要約し、
後年のものを「平板」と書いたようだが、
このあたりは、この交響曲の真髄とも言えるもので、
ここは押さえて欲しいところだ。

このCDのTrack7は、
オーケストラのチューニングに重なって、
アナウンサーの紹介で、
サミュエル・シャッツナー氏が語る、
「第2交響曲」の解説となる。

最初は、第2交響曲が何を表しているか、
などの話題から入り、
ある人は、これは「喜び」の表現だと言っている、
などと続けている。
「第1楽章はいささか荘厳で、いささか内省的だが、
すぐに、素早く明るい気持ちの音楽に飲み込まれる。」
「第2楽章のラルゲットは、
愛らしい歌だが、悲しくはなく、
ある人は抒情的で楽観的であるという。」
「第3楽章のスケルツォは、そこにあるべき、
機知に富んだユーモラスなもので、
第4楽章は、雲一つない
きらめくような喜びである。」

そして、
「明らかに、第2交響曲は、
成功した32歳の作曲家の
バイタリティや、高邁な精神、
自信、健康を表しているが、
ベートーヴェン自身は、
精神的にも肉体的にも、
最悪の状況にいた」
として、
後半はハイリゲンシュタットの遺書の紹介となっている。

「ハイリゲンシュタットの農家の、
小さな2部屋に引きこもっていたが、
弟子のリースがやって来て散歩に出た」
といった、伝記の一節のような記述が読み上げられ、
「羊飼いの笛が聞こえなかった」
という有名なエピソードが語られる。

ハイリゲンシュタットの遺書の内容は、
「難聴を隠すことによって、
社交から遠ざかり、
誤解されることが私を二重に苦しめる。
半年ばかり田舎に住んでいるが、
隣にいる人が聞こえる羊飼いの笛が聞こえないとは、
何と言う屈辱だろう。
そして自殺も考えたが、『芸術』がそうさせなかった。
求められた全てを創造するまでは、
死ぬわけにはいかない。」
というものだが、
「『徳』こそが、人間を幸福にする」という、
有名な言葉がこれに続く。

言うなれば、「徳のある芸術」が、
この第2交響曲などを支えた考え方なのかもしれない。
したがって、めそめそしたり、
悲劇ぶったりする交響曲は書かれず、
力強く、人間の生きるエネルギーを、
神に感謝するような音楽が生まれ出たというわけである。

なるほど、「ハイリゲンシュタットの遺書」と、
「第2交響曲」は、こんな関係で捉えられるわけだ。

なお、このCD(1枚目)最後(Track8)には、
最後の演目である「レオノーレ序曲」の解説が、
アナウンサーの声で入っているが、
おそらく、休憩時間の残り時間を利用したものなのだろう。

得られた事:「ハイリゲンシュタットでの絶望を克服するとき、ベートーヴェンは恨みつらみではなく、『徳と芸術への感謝』で復活したので、生まれ出た交響曲(第2)も、様々な楽器がその存在感を溢れ出させる輝きの交響曲となった。」
「ベートーヴェンの『第2』のトスカニーニの39年盤は、その輝かしさの中に、エネルギー感とパンチ力があり、ハイリゲンシュタットでベートーヴェンを追い込んだ運命の苛烈さや、ベートーヴェンの反発力の強さがびしびしと感じられる。」
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by franz310 | 2014-04-13 17:22 | 古典