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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その399

b0083728_1675864.jpg個人的経験:
ニューヨーク・フィルを使って
トスカニーニが録音した、
ベートーヴェンの「第7」は、
永遠のスタンダードのような
評価を受けているが、
それほどの説得力を持つだけの
録音かというと、
1936年という音の古さから、
今一つ、釈然としなかった。
が、そういえば、
このレーベルがあったと、
思い出したのがオーパス蔵だった。


このレーベルは、録音した会社に保管されているような、
マスターテープや原盤至上哲学や、
ノイズは当然、悪でしょうという原理主義から離れ、
「音楽・音質を最優先に考え、
スクラッチノイズを敢えて残している」と書き、
そもそも、当時はどんな音で鳴らされていたか、
という切り口で、レコード文化に向き合っている。

手に入ったSPレコード(やLPレコード)から、
最良のものを選んで、それを鳴らして復刻するので、
たとえば、あらえびすが聴いて感動したのと、
恐らく同じような響きを、
我々もまた楽しめるわけである。

今回、使われたSP盤は、
「アメリカ盤か日本盤か迷ったが、
結局日本盤の音に艶が感じられたので日本盤を採用した」
とあった。
まさしく、あらえびすが聴いたであろう音と妄想した。
(実際には、あらえびす氏は、
輸入レコードをよく物色していたようだが。)

同様の方法は、オバート=ソーンなども、
もちろん、行っているが、
彼は、演奏はこんな感じだったはず、
という視点で、
聴きにくいぱちぱちノイズを除きました、
みたいな復刻をする中、
あえて、ぱちぱちざらざらノイズが
「残す」と断言してくれている点がうれしい。

私は、オーパス蔵のCDのいくつかを持っているが、
トスカニーニの「ボエーム」などは、
こんなに美しい演奏を、何故、今まで知らなかったのか、
といった感動を覚えながら聴いたものである。

が、まさか、よりによって、
もう10年も前(2004年)に、
ニューヨーク・フィルとの「第7」も、
このレーベルで復活していたとは、
ノー・チェック状態であった。

「ボエーム」は46年の録音なので、
トスカニーニのベートーヴェンと言えば、
当然、有名で、これまた名盤とされる
NBCとの全集(「第7」は51年)
を優先すると思っていたが
さすが、こうしたこだわりレーベルは、
着眼点が異なるようである。

ということで、店頭で発見して歓喜した。

私は、RCAの録音なら、
XRCD化とか、SACD化できそうだが、
きっと、ここまでは、
手が回らないだろうと思っていた。
思わぬ伏兵が援軍に現れた感じである。

このCD、まず最初に、1940年、
NBC交響楽団を使っての、
ハイフェッツを独奏とした、
ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」が
収録されている。

ハイフェッツには、ミュンシュと共演した、
ステレオでの再録音があるが、
トスカニーニとの演奏の方が冴えているとされる。

しかし、ルービンシュタインとの
「ピアノ協奏曲第3番」と
抱き合わさた形のCDで聴いた感じでは、
あまりに録音が悪いという印象しかなかった。

よって、この曲も、どのように蘇るのか、
非常に興味があったので、
迷わず、本盤も購入してきた。

聴いてみていきなり聞こえるのは、
サーフェス・ノイズというのか、
針をこするサーサー音が続いていることである。

が、ヴァイオリンの音色は、明らかに繊細な表情、
ジューシーな滴りを見せ、
オーケストラも、印象ではべたっとしたイメージだったが、
今回のものでは、比較的、風通しがよく抵抗が軽減された。

解説を読むと、このあたりの感想は、
多くの人が持っていたようで、
非常に、納得できてしまった。
創業者の相原了氏が、
こだわりの音源選択を書いている。

今回使われた、アメリカ盤SPは、
「あじがある演奏」であるらしい。
実際は、もっとニュアンスや、
品のある演奏だったのが、
戦時下という状況もあって、
強引演奏的に聴かれて来たのではないか、
などと書かれている。

さらっと書かれているが、
これは恐るべき言葉ではなかろうか。
実演の特徴など、レコード化するときに、
いかようにも変えられます、
みたいな感じである。

確かに、こうした記載は、
様々な機会に、読んできた事ではあるが、
そもそもトスカニーニが共演したという時点で、
繊細、上品というイメージから離れてしまうのが、
少なくとも私の先入観であった。

が、演奏が目指すものは、
その音を、どのようなバランスで捉えて録音したかとか、
どこをどう補正してレコード化したかとか、
演奏家に張られたレッテルや、
名盤が語られる時の世評、
さらには、レコードのジャケットなどによって、
どんどん、見えなくなってしまう事がありそうだ。

私が最初にこの演奏を知ったのは、
トスカニーニの横顔もいかめしいLPで、
いかにも、頑固おやじが、
オレ様の演奏をするぞ、というイメージばかりが残った。

今回、しかし、改めて、
このCDを聴いて確かそうなのは、
推進力のある速めのテンポで流れる音楽、
ハイフェッツのきっちりした音の制御と、
オーケストラの隙のない応答であった。

びしっと決まるアタックの迫力は、
残響のなさや、ダイナミックレンジの狭さによって、
本来の役割と違った作用を及ぼすことになったようだ。

ハイフェッツは、一本調子ではなく、
かなり細かく表情を与えて、
素晴らしい集中力を見せているし、
歌うべきところを、すかっと歌わせる、
トスカニーニならではのカンタービレにも、
もっと耳を澄ます必要があったのだ、
と考え直してしまった。

この古くて、本来、硬い録音でも、
演奏家のこうした特徴は、
しっかり刻まれていた。

ここにも、こんな特徴が残っている、
ここにも、こんな発見があると、
ついつい、最後まで聞いてしまい、
その時には、サーサー・ノイズは、
すっかり意識になくなっている。

しかし、こうした復刻の喜びは、
復刻「前」の録音の印象を知ってこそ分かるもので、
恐ろしく深みに入ったオタクの世界と言えまいか。
良くない復刻と比べることで、
良い復刻が分かるので、
結局、両方、所有することになってしまう。

では、私が、様々なCDで聴いて来て、
さっぱり、往年の世評を共有できなかった、
「第7交響曲」はどうなっているのであろうか。

これまた、壮大なざらざら音から始まるが、
遂に、腹に響く、低音の迫力がその中から蘇った。
私は、最初の和音に続く、
透徹した表情で緊張感を漲らせた序奏部からして、
これまで聞いて来たのは、何だったのだろう、
と思った。

あらえびすが、この演奏を聴いて、
「奔騰する美しさ」と評したのに、
ようやく同意することが出来た感じがする。

第1主題が始まってからも、
どんどんテンションが高まっていくが、
こんな所も、あらえびすの言うとおりである。
もし、木管楽器のソロなどの、
軽やかな歌い回しがなければ、
同じ演奏とは、まったく思えないではないか。

私は、この復刻と、例えば、オバート=ソーンの復刻では、
レコード再生の回転数が違うのではないか、
と考えた。
きっと、このCDの方が、回転を上げて、
スピード感で緊張を増しているのだろう。

しかし、第1楽章の収録時間を見ると、
逆に、以下のようになった。

トスカニーニ・コレクション:11分27秒(テイク2)
ナクソス、グレート・コンダクターズ:11分26秒(テイク2)
                 :11分49秒(テイク1)
オーパス蔵:12分04秒(テイク1)

ということで、どのCDよりも、
オーパス蔵盤は、時間がかかっているのである。
テンポを速めれば、緊張感が高まるのではなさそうだ。

私は、この10秒以上の差が、
何を意味するのか分からない。
ちなみに、第2楽章以下は、
すべて、数秒以内の差異しかない。

が、これらの楽章も、
ヒステリックなまでに、
高揚した雰囲気は共通である。
静かな部分が、すごく緊張感を持っていて、
盛り上がる部分になると、
音が汚くなるのは承知の上で、
割れるようなアタックを響かせている。

したがって、音のレベルが、
たとえば、3から10の間で鳴っている感じで、
他のCDでは、これが1から8の間で鳴っている印象。

その10の部分で初めて、
強烈な低音が再生されている感じである。
第4楽章でも、ティンパニの連打が、
分離こそ悪いながら、
ずんどこずんどこと腹に響いて、
かなりの迫力で、聴くものを圧倒する。
低音弦は、ぶんぶん唸っているし、
びしっと決まるアタックが耳をつんざく。

ナクソスの解説によると、
そのレーベルの復刻を担当している
オバート=ソーンについて、
「彼は、最も状態の良い78回転盤を使い、
オリジナル録音を現在所有する会社による、
メタルパーツを使った復刻技術者たちより、
すぐれた成果を出し続けている。
彼の復刻は、古い録音本来のオリジナル・トーンを保ち、
中高音のディティールや低音周波数を最大限生かし、
多くの商業的な復刻商品にはない、
音楽的高基準に達している。」
と、書いたが、
聴き比べてみると、
ノイズのしわをアイロンで伸ばし、
音楽をより滑らかにしている感じがする。

オーパス蔵の音質は、
もっと猥雑な感じがして、
演奏家たちの息遣いというか、
存在感を想起させるような、
ざわざわ感が残っている。

しかも、鋭いアタックによって刻まれていく、
音楽の句読点、足取りのようなものが、
ずっと生かされていて、
一歩一歩踏みしめられながら高揚していく、
音楽づくりがよく分かるようになっている。

私は、何度か、聴き比べたが、
オーパス蔵で聴く「第7」の第1楽章は、
このような足取りの確実さによって、
RCAやナクソスのものとは、
かなり違う演奏に聞こえた。

こうなって来ると、
何が本当で、何が嘘か、
何が本家で、何が本元か分からなくなるばかりである。
が、今回の効き比べで感じたのは、
ぐっと足を踏みしめながら進み、
要所要所で、ばーんと、
弾け散るような効果の素晴らしさであった。

この弾け散る時に飛び散るものが、
ノイズ除去によって失われてしまうのではないか。
単に音が割れて、
ざらざら感が増しているだけにも感じるが、
踏みしめの確実さと、
蹴り出しの瞬発感の対比が、
音楽を多彩に息づかせていると思われるのである。

フルトヴェングラーの演奏で言われていた、
「緊張と弛緩」は、
トスカニーニの演奏においても、
十分に聞き取ることが出来るもので
フルトヴェングラーでは、
ここに、ある種のおどろおどろしさが、
伴って強調されているようだ。

オーパス蔵には、フルトヴェングラーの振った
ベートーヴェン「第7」があって、
私は、メロディア「青レーベル」から
復刻されたもの(1943)を持っているが、
トスカニーニのものと比べると、
このおどろおどろしさが、
音をすぱっと切って爽快な、
トスカニーニとは違って、
残照のような微光を残す、
息の長いフレージングによって、
生み出されていることが分かる。

今回、トスカニーニの音というものが、
レコード購入者の期待を予測して、
いろいろと変えられている可能性があることも分かった。

得られた事:「確実に足を踏みしめるような、鋭いアタックの刻みに、そこからさく裂して広がる弾け飛ぶ音のふくらみが対比されて、トスカニーニ特有の緊張感が生まれている。」
「時代が好む音作りについて。」
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by franz310 | 2014-01-26 16:14 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その398

b0083728_2317829.jpg個人的経験:
1936年に録音され、
当時の人々を驚かせ、
その後のスタンダードとなった
トスカニーニのベートーヴェン。
パールや、ナクソスのCDで、
リマスタリングを担当したのは、
どういうわけか同じエンジニア、
オバート=ソーン氏であったが、
音質に明らかな違いがあって
驚いてしまった。
機材や原盤が違うのだろうが、
演奏のイメージも変わるのには困った。


しかも、ナクソスの
日本語ホームページを見て、
さらにびっくりした。

ナクソスは、「復刻エンジニアの第一人者」、
オバート=ソーンと契約しているが、
「音響復刻技術の発達」によって。
同じ人が、前に行った復刻より、
「良い音がする場合がある」と書いてあるではないか。

やはり、音が違うのは間違いではなかったようだが、
トスカニーニの「第7」(36年)に関しては、
ナクソスの勝ちという感じはしなかった。

ナクソスの復刻がどうかという以前に、
トスカニーニの36年の「第7」から、
いったい、多くの人は何を聞き取って来たのだろうか。

オーケストラの華やかさを全面に押し出した、
この曲は、ショーピース的な側面もあって、
ベートーヴェンの交響曲では珍しく、
初演時から成功したものであったとされる。

野村あらえびすの時代から、
この曲は、「不思議な情熱を持った曲」、
「奔放な表現を要するもの」とされており、
言外に、どんな理由で、ベートーヴェンが、
こんな興奮した音楽を書く必要があったのだろう、
というような疑問が感じられるが、
私も、そういう意味の「不思議」さには共感できる。

あらえびすは、さらに、
「この曲の奔騰する美しさは、
トスカニーニの表現を以て
第一とすべきである」と書いているが、
この録音から感じられるのは、
「奔放」とか、「不思議さ」からは、
かなり遠いものではないか。

トスカニーニには、この3年後、
NBC交響楽団とライブで、
ベートーヴェン・チクルスをやっているが、
そちらの演奏の方が新しいせいか、
あるいはオーケストラが変わったせいか、
もちろん、ライブのせいもあるだろうが、
あらえびすが、36年盤に対して書いた、
「燃え上がる焔のような激しさ」が、
生々しく記録されている。

私は、「36年盤」から、どうやったら、
「奔放さ」、「奔騰する美しさ」や、
「燃え上がる焔のような激しさ」が聞き取れるのか、
むしろ、それがよく分からなくなってきた。
「激しさ」よりも、「均衡」とか「抑制」が、
感じられてしょうがないのである。

もちろん、この演奏のしなやかで、
晴朗さすら感じられる古典的な格調によって、
私は、これらのCDで聴ける音楽を、
否定することはできないのだが。

そこで、改めて、1991年に出た、
RCAビクターの遺産を引き継ぐ、
BMGの「トスカニーニ・コレクション」の
同じ曲を聴いてみることにした。

このBMGの「トスカニーニ・コレクション」は、
82枚にも及ぶ、トスカニーニの録音の集大成で、
いっかつで買っても中古では、かなり安く入手できる。
ただし、私は、数えるほどしか持っていない。

これは、日本で出た、30タイトルの
「トスカニーニ・ベスト・コレクション」や、
20タイトルの「エッセンシャル・コレクション」の、
もとになったものと思われるが、
私の印象では、日本で出たものより、
音が自然なような気がしている。

表紙は、トスカニーニの
指揮姿の写真をベースにしていて、
白黒を基調にしていて、シックで悪くない。
解説もそこそこしっかりしていて、
「ベスト・セレクション」にあるような、
いい加減なものではない。

この「トスカニーニ・コレクション」で聴くと、
ざらざらノイズが目立つ代わりに、
アタックの強靭さなどが、
ナクソスやパール盤より、
再現されているような気がしてきた。

解説も読んでみると、こんな事が書かれていた。
「トスカニーニ/フィルハーモニックの録音の中で、
ベートーヴェンの『第7』は、
もっとも高く評価されたものだ。
これは、マエストロの解釈のスタイルの、
ほとんどすべての美徳が表された演奏である。
常にぴんと張った彼の手綱さばきによって、
成し遂げられた劇的な緊張に至る、
フィナーレの統御されつくしたドライブがある。」

私は、どちらかと言うと、
曲の冒頭で、だんだん高まって行く、
感興のようなものを期待していたが、
この解説によると、
フィナーレこそが最初に語られるべきもののようである。

いや、確かに、このBMG盤で聴くと、
フィナーレでは、トスカニーニの興奮した唸り声と共に、
するどいリズムの切り込みから、
次第に高揚して行く音楽の確かな足取りが小気味よく、
気迫と集中で煽り立てられていく様子が、
より明確に感じられるのである。

この解説は、Mortimer H.Frankが
書いたものだが、このように続く。

「そして、ここでは、
きびきびとした推進力によって、
第1楽章が長短短のリズム構成で鮮やかに描かれ、
その表現力を豊かにしている。」

長短短の話が出たので、
リズムパターンを気にして聴いてみると、
序奏部は、たたたた・たー、たたたた・たーと、
背景から、後にシューベルトが影響を受けそうな、
音形の集積が聞こえてきて興味深かった。

解説にあるように、第1楽章は、きびきびと、
むしろすいすいと描かれて行く方が目立つ、
とてもなだらかな音楽であって、
尖がっているリズムよりも、
リズムをしなやかに歌わせている感じが強い。

「また、第2楽章と第3楽章のトリオは、
しばしば、テンポが正統的ではないと言われ、
これらは、当時の慣習よりも速く演奏されている。
疑いなく、これらの特徴は、
1930年のフィルハーモニックのヨーロッパ・ツアーで、
トスカニーニがこの曲を演奏した時、
欧州の聴衆を驚かせたものである。」

第2楽章は、十分、慟哭する感じで、
今日的には早すぎるとは思えず、
トリオは、素っ気ないので、
速すぎるように感じてもおかしくない。

このように、速いテンポで、
きびきびと演奏されているのは分かるが、
「燃え上がる焔」を感じるまでにはいかない。

そんな私の感じ方を代弁してくれるように、
この解説は、こうも書いてくれている。

「のちのトスカニーニの録音と比べても、
この録音は、多くの点で異なっている。
彼の4種類のNBC交響楽団との、
放送録音と比べても、軽めで、音がよりまろやかで、
第1楽章では、リズムに柔軟性があり、
(再現部直前のリタルダンドのように)
アレグレットはいくぶんゆっくりで、
終楽章はたっぷりと演奏されている。
とはいえ、テクスチャーの明解さ、
推進力やどんどん増大する力など、
後年の彼の解釈に刻印されているものは、
ここでも同様に聞き取れる。」

そして、最後に括弧書きで、
「この再発売では、
第1楽章の導入は、
より推進力があり、良い録音の、
第2テイクを使っている。
すべてではないが、
過去、多く発売されたものは、
トスカニーニの好みを無視していた。」
と、記載してある。

このあたりは、前回、ナクソスのCD解説で、
読んだものと同じである。
この演奏のピュアなコンセプトや、
ノイズも厭わず、ストレートな音質を、
より追及した姿勢からすると、
このような選択は十分、妥当性が感じられる。

が、総じて、腹に響く低音があまり感じられない。
これは、この時期のトスカニーニの特徴なのか、
録音上の制約なのかは結局、判然としなかった。

さすがに51年、カーネギーホールにおける、
NBC交響楽団との放送録音とされる、
有名で、広く流通した演奏では、
いきなりズーンと来る低音が聴ける。
(97年にBMGジャパンから出た、
トスカニーニ・ベスト・コレクション)

このCDでは、「厳格なる情熱」という言葉で、
演奏の特徴が述べられているが、
低音が響くのはともかく、
高音も刺激的な音響が多く、
演奏がどうかを語る前に、
全体として下品な印象を残す録音となっている。

第2楽章も声を張り上げるような盛り上がりが、
微妙なテンポの揺れを伴いながらの、
精妙な息遣いをかき消してしまう。
ヒステリックなまでに盛り上がろうとする気配に、
耐えがたくなってCDを止めてしまった。

「燃え上がる焔」ではなく、
アクセルを踏みっぱなしのエンジンみたいに、
いかにも戦後のアメリカ文化を象徴し、
人工的なゴージャス感に疲れてしまう。
つくづく、ニューヨーク・フィルの録音を、
よい音で聴きたいものである。

一方、ニューヨーク・フィルとの、
貴重な演奏を集めた、
先のBGMのCDでは、
続くハイドンの「時計」交響曲なども、
序奏から雰囲気が豊かで、繊細さすら感じさせ、
ついつい、引き込まれてしまう。
1929年と、ずっと古い録音ながら、
木管が軽やかに舞う空気感も良い。

なお、ハイドンのこの曲も、
トスカニーニは、戦後に再録音しているが、
強奏になると、たちまちやかましくなって、
いかにも、放送用の狭いスタジオで録音された感じ。

この曲は、悪名高い8Hスタジオより狭い、
3Aスタジオでの録音とのこと。
経費の節約でもあったのだろうか。

ひょっとして、トスカニーニの戦後の録音の、
息苦しい感じは、こうした商業主義の影響を、
間接的に受けているのではあるまいか。
貴族的なおおらかさが、
ニューヨーク・フィル時代にはあった。

第2楽章のような静かな部分は、
このスタジオでも悪くはないが、
第3楽章のような、てきぱきした部分では、
ぎらぎら感が出てしまう。

トスカニーニが目指したとされる、
室内楽的な表現の部分なら、
狭いスタジオなら、むしろ好ましいはずだが、
指揮者はともかく、
時代は、そこまで成熟していなかったのだろう。

さて、パールのCDで、
オバート=ソーンが書いていた事を、
読み終えてしまおう。

「ベートーヴェンを録音してすぐに、
トスカニーニとフィルハーモニックは、
ブラームスの『聖アントニー』変奏曲に取り掛かった。
これは、ネヴィル・カーダスが、
BBC交響楽団との他のブラームス演奏(『第4』)
で、絶賛してから10か月後の記録となっている。
『彼は、もっとも満足のいくブラームスを聴かせてくれた。
雄弁かつ率直、そのバランスされたラインの美しさ、
そしてエネルギーに満ちている。
それでいて、常に人間的で多面的である。
これは男性的なブラームスであると同時に、
人生における優しさを愛するブラームスである。』
こうした質感は、この作品56aについても言え、
恐らく、マエストロによる、
この最初のブラームス録音の素晴らしさは、
明るさ、透明さ、解釈の流れにあって、
当時のブラームス演奏家たちの多くに見られる、
退屈にリズムが変化するような、
ブラームスへのアプローチではない。」

このトスカニーニによるブラームスは、
私は素晴らしいものと断言せずにいられない。

交響曲を書く前の試作品のように語られてきた、
この大変奏曲に、これほどの愛情をこめて演奏したのは、
初めて聴いたような気がするのである。
木管楽器などの寂しげな風情や、
機動的に動く弦楽器群の精妙さなど、
表現の上で聴くべき所が満載で、
録音も立体感や生き生きとした立ち上がりが素晴らしい。
唯一の難点は変奏曲ごとにトラックが振られていない点で、
BMGのトスカニーニ・コレクションでは、
その点、変奏曲ごとのトラックに加え、
変奏曲ごとの解説まである。

これは、やはり、
Mortimer H.Frankが書いたもの。
この人は、生粋のニューヨーカーで、
トスカニーニの演奏に若い頃から心酔し、
音楽評論の道に入った人で、
ニューヨーク市大学の名誉教授の肩書を持つらしい。

「ブラームスの『ハイドン変奏曲』は、
トスカニーニお得意の演目。
長年にわたり、彼のコンセプトは変わらず、
演奏の違いは、もっぱらバランス上のものか、
第7変奏(Track14)の第2のリピートが
あるかどうかの違いである。
多くのマエストロの現存する演奏の中でも、
1936年の録音は、その音響の豊かさ、
オーケストラの技量の魔術、
後年の演奏では、ここまで強調されていない、
いくつかの劇的な対比によって傑出している。
特に目覚ましいのは、
第6変奏のホルンの豊かさや、
第5変奏の跳ね回るユーモア、
さらには、パッサカリア終曲の開始で、
低音弦が歌いだす時の
異常なまでの壮大さである。
同様に、素晴らしいのは、
このパッサカリアに対する、
トスカニーニのしなやかさである。
たとえば、誇らしげな結尾の主題爆発での、
わずかなリズムの弛緩や、
いかに、かように微妙な脈動の変化が、
この主題が古典的な変奏の過程を経て、
素晴らしく変容したかを強調しているか、
が注目される。」

トスカニーニの後年の録音は、
日本でも廉価盤で大量に出回ったので、
「ハイドン変奏曲」の1952年の録音も、
簡単に入手することが出来る。

最初から、このNBC交響楽団との演奏で失望するのは、
痩せた音で、割れ気味になるオーケストラの音響で、
新しい録音だけに、明るく色彩的ではあるが、
乾いていて堅苦しく、1936年盤で聴けた、
魔法のようなひらめきが捉えられていない点であろう。

やたら、威勢よく鳴っていて、
微妙な節回しも慌ただしく落ち着きがない。
したがって、前述の第5変奏も、
機動戦車部隊みたいであり、
第6変奏もこのスピードで鳴る事が重要、
みたいな一過性のアプローチに聞こえる。
ニューヨーク・フィルの録音には、
もののあわれの風情があったのだが。

最後のパッサカリアは、
NBCの録音でも、ためらいがちに始まるが、
すぐに絶叫気味の力技がさく裂するので、
聴いていて、しみじみできない。
それどころか、リズムが先走って、
混乱、錯綜の様相さえ示すのはいかなることか。
爆発するような主題回帰も唐突で、
この演奏では、何度も聞き直す気にならない。

さて、これまで、4回に分けて読んできた、
パール盤の解説は以下のように語り終えられている。
「RCAビクターは、ベートーヴェンとブラームスに、
2つのフル・セッションを用意していたが、
すべて順調に行ったため、
2日目には時間が余った。
トスカニーニは個人的に、
残った時間で、
2曲のロッシーニの『序曲』を
録音することを希望した。
(『セミラーミデ』はとっさの思いつきに見え、
12分を12インチの4面にたっぷりと収めてある。)
6面のうち、1面のみが録り直しされたが、
何年もかかって、これほどまでに、オーケストラは、
マエストロの要望に沿えるようになっていた。
それに引き替え、
このコレクションの最後に収めた、
『セヴィリャの理髪師』序曲は、
1929年11月21日のものだが、
録音中に5回のセッションを必要とされた。
そのため、ユーモアをたたえながら、
自然な響きを持っている。
7年後のロッシーニ録音を比較して聴くと、
フィルハーモニックとの時代を経て、
トスカニーニの解釈アプローチにも、
明らかな進化が見られるのが良くわかる。
後の録音の方がずっと微妙で、
明白な修辞的な手段に依存していない。
全体的なコンセプトが流れるようである。
一方で、初期の録音では、
幅の広い歌うような線が、
当時のオーケストラの習慣での
弦でのポルタメントの使用が、
心に触れ、輝かしい完璧さの
1936年のシリーズにはない、
自然な魅力を垣間見せる。
1929年の時点で、
ブラームスの『変奏曲』や、
『ジークフリート牧歌』などが残されたら、
さぞかし、後年のものとは違ったものになっただろう、
と推測すると楽しい。
いかなる場合においても、
フィルハーモニックの録音は、
トスカニーニの芸術の鑑賞や、
当時の聴衆や
多様なバックグランドを持つ音楽家たちから、
何故、それほどまで彼が尊敬されたかを
理解するのに絶対的に重要な
グループをなすものである。
後の、より高忠実度をもつ、
NBCの録音以上に、
彼の力の絶対的な頂点や、
10年を超す共演で得られた
第1級のアンサンブルとの境地を、
これらの録音は示している。
これらの録音のほとんどが、
これまで30年にわたって、
一般には手に入りにくかったり、
手に入ったとしても単発だったのは、
信じがたい事である。
パールによるこれらのCD登場で、
こうした状況は正されることになり、
アルトゥーロ・トスカニーニの、
並外れた力を、後世にまで、
正しく伝えることが出来た。」

BMGジャパンから出ていた、
トスカニーニ・ベスト・セレクションに続く、
トスカニーニ・エッセンシャル・コレクションからも、
ベートーヴェンの「第7」、ハイドンの「時計」など、
ニューヨーク・フィルの演奏が出ているが、
リマスタリングを行ったのが誰か分からず、
たまに中古で見かけても、購入には至っていない。

そもそも、BMGファンハウスの時代になって、
20世紀の終わりに出た、
「不滅のトスカニーニ」シリーズでは、
先の「トスカニーニ・コレクション」を否定し、
「前回より良好な状態のマスターテープを発見した」とか、
「前回のものは概して硬く、メタリックで、
しかも厚みのないサウンドであった」とか、
無責任な能書きが書き連ねられているのである。

ここでは、トスカニーニの孫までを駆りだして、
正統性を主張しているが、
「かつて出していた商品はすべて嘘の音でした」、
と謝っているのがすごい。

とはいえ、ワルターの録音などは、初期のCDの方が良い、
という伝説もあって、
何が何だか分からないのが、この世界である。

そもそも、「不滅のトスカニーニ」シリーズには、
ニューヨーク・フィルとの録音は含まれていなかった。
確かに、「20bitリマスタリング」
と強調しているだけあって、
きめ細かい感じはするが、
音源が遠ざかって、
無理に彩色したような印象が出た。
ダイナミックレンジはやはり狭く、
金管などが割れ気味なのは同じで、
最悪なのは、表紙デザインが手抜きであることだった。

その点、ほとんど満足する音質のものはないのだが、
BMGジャパンの「ベスト・セレクション」や、
「エッセンシャル・コレクション」は、
オリジナル・ジャケットを使用していて、
眼で見る楽しみは100倍も大きい。

得られた事:「トスカニーニ、ニューヨーク・フィルの録音で、ただ、足して欲しいのは、腹に響く低音であるが、彼の場合、新しい録音になると、低音と引き換えに、ぎらぎら音がついて来る場合がある。」
「ナクソスはパールなどのリマスタリングより、良い場合がある、と書いているが、例外もあり、BMGは、過去の自身の復刻を完全否定しているが、過去の復刻も悪くなく、ナクソスより良い場合もある。」
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by franz310 | 2014-01-12 23:21

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その397

b0083728_20163766.jpg個人的経験:
2014年の1月になった。
2013年は相次ぐ、
異常気象の年であったが、
地球温暖化が進む中、
こうした気候が異常ではなく、
定常的になるということで、
何が起こっても
おかしくはない元年として、
2013年は記憶されるように
なるのであろうか。
そのせいか、年末年始の、
神聖な雰囲気が感じられない。


年末の掃除で出て来た本の中に、
「動物農場」などで知られる
イギリスの作家、詩人、評論家、
ジョージ・オーウェルの評伝があった。
ぱらぱらとめくってみて、
彼が、
「ビクター蓄音機工場付近の荒れ果てた農場にて」
という詩を書いていることを知った。

「野原に立ち込める悪臭、
そびえ立つコンクリート」、
などと、
荒廃する故郷を歌ったものらしい。

残念ながら、出典までは確認していない。

この詩人は、1903年に、
父親が働いていたインドで生まれているが、
母親は翌年、子供たちを連れて、
オクスフォード州、ヘンリー・オン・テームズに
帰ったとある。
テムズ川が流れる落ち着いた街とあり、
ロンドンの西55kmというから、
相模川が流れる厚木あたりを想像した。
そのあたりにビクターの工場があったのだろうか。
そういえば、日本ビクターの横浜工場というのもあったな。

私は、昨年末から、
トスカニーニのニューヨーク・フィル常任時代の、
録音を聴いて、いろいろ初期の電気式吹き込みについて、
読んできたが、
まさか、蓄音機工場が公害の象徴のように、
描かれることがあったとは知らなかった。

トスカニーニのレコードや、
それを鳴らす蓄音機は、
オーウェルの故郷の田園地帯を、
悪臭で覆う工場の産物だったのだろうか。

さて、この時代、
昭和14年に出た、
あらえびす著「名曲決定盤」
(今読めるのは中公文庫)は、
「トスカニーニ」の項を、
「今日世界の大指揮者といわれるものは、
恐らく十指にも余るだろうが、万人が認めて
一流中の一流指揮者とするものは、
トスカニーニ、フルトヴェングラー、
ワルター、メンゲルベルクらであろう。」
と書きだしている。

当時から、トスカニーニは、
指揮者の王様のような存在だった事が分かる。

また、この著作では、
「さてトスカニーニのレコードでは、
ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮したのが、
今のところ最も良い。
その条件に叶った新しいレコードは、
ベートーヴェンの『交響曲第七番=イ長調』(作品92)
(ビクター、JD819-23、名曲集622)
であろう。」と結論づけている。

このあらえびすの著書でも、
トスカニーニは、すでに、
ニューヨーク・フィルを離れたことが書かれているが、
この「第7」は、1936年4月9日、10日の録音で、
4月29日にはラスト・コンサートがあったというので、
トスカニーニが常任だった最後の記録となった。
この時、ブラームスの「ハイドン変奏曲」も録音された。

ただし、あらえびすはブラームスについては触れておらず、
この人は、そもそもブラームスの演奏をあまり、
文中に取り上げていないような気がする。

この「第7」の録音は、
有名なところでは、1990年代に、
BMGの「トスカニーニ・コレクション」でも出たし、
事あるごとに、「赤盤復刻」シリーズなど、
日本盤も出ていたので、
非常に良く聴かれた演奏のはずである。

また、1980年代の終わりには、
英Pearlから復刻されており、
今世紀になってからも、
ナクソスから「グレート・コンダクターズ」
のシリーズでCDが出た。

ただ、不思議なことに、
パールもナクソスも、
マーク・オバート=ソーン氏が、
リマスタリングをしたとある。
さらに、ややこしいことに、
ナクソスは、すでに1933年の「第5」を、
別の人が復刻してCD化しているのに、
ここでも併録されているのは同年録音の、
トスカニーニの「第5」となっている。

同じ曲からいろんな演奏が出てくるのが、
クラシック業界の面白い所であるが、
同じ音源から、いろんな復刻が出るという、
無限のビジネスモデルが確立されつつあるようだ。

このうち、ナクソスのCDは、
プライヴェート・コレクションからの、
カバー・フォトグラフということで、
いかにも、演奏会に居合わせた人が撮った、
といった感じのトスカニーニのスナップとなっている。

トスカニーニも、また、虚を突かれたような面持ちに見える。
記録として自然ではあるが、
商品としては、お薦めのデザインではない。

とはいえ、このCDの良い点は、
他にもいくつかあるのだが、
オバート=ソーン氏に関する解説も出ているのは嬉しい。

「マーク・オバート=ソーンは、世界で最も尊敬されるべき、
トランスファー・アーティスト/エンジニアの一人である」
とあって、その復刻技術の技は、
すでに芸術の域に達しているようだ。

この人は1956年、フィラデルフィア生まれなので、
まだ、そんな年ではない。

「彼は、パール、ビダルフ、ロモフォーン、
ミュージック・アンド・アーツを含む、
多くの専門レーベルで業績を残している。
彼の復刻したものの3つはグラモフォン賞に
ノミネートされている。
傑出したピアニストであり、
音楽、歴史、プロジェクトへの取り組みに熱意を持っている。
この三つの領域すべてを統合し、
歴史的録音からの復刻という道を見出した。
オバート=ソーンは、
古いアコースティックな録音に、
何かを追加したり、大きな変更を施したりする、
『純粋主義』、『再構成派』を嫌い、
むしろ、『適度な仲介役』だと自らを表現している。
彼の考えでは、良い復刻とは、
それ自身に関心がいくようなものではなく、
素晴らしい明晰さで、
演奏が聴かれるようにするもので、
あるべきなのである。
オバート=ソーンの復刻では、
過度な反響の『カテドラル・サウンド』も、
多くの権威的な商業発売のような、
『貧弱な低音と甲高い中域』しかないものでもない。
彼は、最も状態の良い78回転盤を使い、
オリジナル録音を現在所有する会社による、
メタルパーツを使った復刻技術者たちより、
すぐれた成果を出し続けている。
彼の復刻は、古い録音本来のオリジナル・トーンを保ち、
中高音のディティールや低音周波数を最大限生かし、
多くの商業的な復刻商品にはない、
音楽的高基準に達している。」

このように書かれると、いかにも、
ビクターのオリジナル音源から復刻する、
いわゆる正規の筋の商品は、
へんてこな音がするような感じだが、
この発言に影響されたのか、
BMGから出た、
トスカニーニ・コレクションの
Andre Gauthier氏の復刻のものは、
それほど悪くないと思う。

トスカニーニ・コレクションには、
その最後の演奏会の時の様子が、
下記のように解説に書かれていて、
(ファンファーレやステレオファイルの
コントリビューティング・エディター、
モアティマー・H.フランクによるもの
(Mortimer H.Frank))
これはこれで私は好きなCDである。
特に、ここに示した第65巻は、
ハイドン変奏曲(36年4月録音)に、
ジークフリート牧歌(36年2月録音)という、
両雄激突の感のある、
2人の大作曲家の管弦楽の代表作が
収められているのが嬉しい。


表紙のトスカニーニの写真も、
さすがに本家のもので、
ナクソスのものなどより、
すっとさまになっている。

「1936年、4月29日、
馬に跨った警官たちが、
5000人の群衆を制御するために、
カーネギーホールに集められた。
彼らは、トスカニーニの
ニューヨーク・フィルとの、
さよならコンサートの
数少ない立見席券を買うために
売り出しを待っていた。
多くは、トスカニーニをアメリカで見るのは、
これが最後だと考えていた。
これこそ、
トスカニーニがフィルハーモニックと、
成し遂げた素晴らしい成功を物語る、
聴衆の反応であった。」

なお、この最後の演奏会で演奏会で、
演奏された曲目は、
前半がベートーヴェンで、
「レオノーレ序曲」第1番と、
ハイフェッツを独奏者にしての
ヴァイオリン協奏曲が演奏され、
トスカニーニだけが主役ではなかった模様。

後半はトスカニーニ的で、
ワーグナー・プログラムで、
「マイスタージンガー序曲」を手始めに、
トスカニーニお気に入りの演目が並ぶ。
つまり、「ジークフリート牧歌」、
「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と「愛の死」、
そして、「ヴァルキューレの騎行」である。

ちなみにその前の演奏会では、
シューベルトの「大ハ長調」が演奏されていて、
トスカニーニが、シューベルトを好んでいた事が、
垣間見える。

フランクの解説は、以下のように続くが、
今度は、トスカニーニ登場の頃の話になっている。

「オーケストラによる、彼への尊敬は、
彼が1926年に最初に、
彼らの前に立った時の
音楽家たちの反応からも明らかだった。
フィルハーモニックのコントラバス奏者だった、
マーティン・バーンスタインが言うには、
『オーケストラのメンバーは、
集まった時に練習ものだと一般に考えていましたが、
トスカニーニと一緒なら、
最初に彼が何を演奏するかを書庫に調べに行き、
家でパート練習してきたのです。』
しかし、おそらく、
マエストロと彼のフィルハーモニックに対する、
最大の賛辞は、
1967年にジョージ・セルから出た物で、
彼は1930年のヨーロッパ・ツアーにおける
アンサンブルを聴いていた。
『このオーケストラの演奏は、
我々皆にとって、まったく新しい何かでした。
テクスチャーの明晰さ、バランスの正確さ、
オーケストラの各セッション、各独奏者の名技性、
そして、その頂点では、
それらが目立つことなく統合し、
文字通り一夜にして、
新しい見たこともない基準が出来たのです。』
そして、この水準は、
トスカニーニとオーケストラの
残りの7年にわたって維持された。
重み、音の純粋さと豊かさ、
アタックの正確さ、柔軟なコントロールなど、
この楽団とマエストロが残した録音は
セルが観察したことを強調するものである。
事実、我々が、今日、
最高のオーケストラから聞く素晴らしい演奏は、
多くはトスカニーニが、
フィルハーモニックと作り上げた基準に負っている。」

トスカニーニとニューヨーク・フィルが、
オーケストラの世界に新しい境地を拓いた。

このような事は、ナクソスのCDにも、
以下のような表現で書かれている。

ハリー・ポッターならぬ、トゥリー・ポッター
(Tully Potter)と言う人の筆。
イギリスの音楽学者で、弦楽四重奏が専門らしく、
非常に興味深い一節が出てくる。

「まだ、オーケストラのスタンダードは、
我々が今日想像するよりもひどいものであった。
細部まで気を配ったリハーサルを通し、
トスカニーニはこれらの水準の向上に、
大きな役割を演じた。
彼は、現代のオーケストラが、
より厚く、より激しい音に発展した期間を通じて、
それを統轄した。
彼は、19世紀的な出自を
忘れたことはなく、
長い生涯を通じて、
明るいサウンドを保持した。
コントラバス奏者のクーセヴィツキーや、
オルガン奏者のストコフスキーが、
12本のコントラバスを投入して、
重々しい音の壁を作り上げたのに対し、
チェロ奏者だったトスカニーニは、
バスラインを軽く、たくましくした。
内声部は今までになく重視され、
バランスのとれた弦楽パートと対等とされた。
トスカニーニは多くの弦楽四重奏曲を良く知っていて、
ブッシュ四重奏団の練習を聴くのが好きだった。
歌うようで、しなやかな優美さを持つ、
同僚のチェロ出身のバルビローリのような、
チェロのラインの必要以上の強調は、
彼にとっては、必要なものではなかった。」

南欧の暴君トスカニーニが、
実は、北国の弦楽四重奏団を好んでいたとは、
初めて知ったが、
ポッター氏は、このようなトスカニーニを育んだのは、
同郷の作曲家、ヴェルディだと言う。

「明らかにトスカニーニが、
ヴェルディから学んだある一つのものは、
一つの音符、和音のインパクトであり、
鳴り響くアタックの正確さが、
その重みより重要だということである。
彼の和音は、鞭の一撃のようであり、
特にベートーヴェンでは、
他の指揮者の朗々とした和音より、
興奮を高めることに貢献している。」

このように、トスカニーニによって、
近代的なオーケストラが出来た事が、
これらの解説のどちらからも読み取ることが出来る。
そして、二つのCDの解説が、
共に、アタックの正確さを取り上げているのが重要である。

いかにも、一点一画もおろそかにしないとか、
一音入魂という感じがする。

トスカニーニの演奏を聴くと感じる、
しなやかさや風通しの良さは、
こうした、鋭いアタックによるものかもしれない。

さらにこのナクソスのCDにはすごい点があって、
「第7交響曲」の再発売時、
SPの原盤が壊れたことによって、
代替されたテイク2を使った版での録音も、
収められているのである。

たとえば、諸石幸生著「トスカニーニ」(1989)でも、
「このレコードのLPとSPは完全に同じものではない」
という謎の一節に巡り合うが、
そのあたりの経緯が詳しく語られている。

碩学のオバート=ソーンが、
以下のような「プロデューサーズ・ノート」
で説明しているのである。

「ベートーヴェンの『第7』の第1楽章は、
3面を要したが、2つのテイクが要求された。
トスカニーニは、このセッションが終わると、
ヨーロッパに出航したが、
どちらのテイクを発売するかは、
サミュエル・チョジノフ
(Samuel Chozinoff)ら、
親しいサークルに一任した。
第1面のテイク1が、第2、第3面のテイク2と一緒に、
オリジナルで発売された。
1942年になって、第1面の原盤が摩耗したと考えられ、
代わりが求められたが、第1面に差し替える、
テイク1Aなどは存在せず、
RCAには2つの選択肢が残された。
第1面を追加録音するか、
(これは音響的な妥協となる)
残された代替物であるテイク2を使うかである。
指揮者の承認を得て、後者が選ばれた。
トスカニーニは後に、
彼自身は好きだった方のテイクだったと述べている。
しかし、彼の賞賛者たちは、
幅広い最初のヴァージョンと、
12秒短い、より引き締まった第2の試みと、
どちらを支持するかで意見が分かれた。
今回初めて、続けざまに、全楽章を収めたので、
現代の我々は、好きな方を選んで聴くことが出来る。」

このように、厳格なトスカニーニであっても、
かなり違ったテンポで演奏することがあったことが分かる。

この最初の4分半は、ほぼ、
「第7」の第1楽章の序奏部に相当する。

まとめて書くと、
オリジナル版:
ゆっくりしていて、12秒長い。
このCDのTrack5(録音時のテイク1)

こちらは明らかに厳かに、
何かが形成されていく感じで、
極端なことを書くと、
「第9」の乗りである。
最初なので、慎重に行ったのかもしれない。
マトリクスNo.で、
CS-101200-1とあって、
パールのCDと同じ音源であるようだ。

摩耗対策版:
このCDのTrack6(録音時のテイク2)
引き締まっている。
やり直しによって、勢いが出たという感じか。
トスカニーニはむしろこちらが良いとする。

こちらの方が最初の部分との対比が明解で、
雄渾な感じが出ている。
マトリクスNo.で、
CS-101200-2とある。

いずれの版で聴いても、
トスカニーニ/ニューヨークの「第7」は、
非常にしなやかで透明度が高く、
弦楽セクションなどは、速く細かい動きでも、
合奏というより、一つの楽器が演奏しているかのように、
音の塊の密度が高く、ばらつきがない。

したがって、重量感や押しつけがましさがなく、
先入観として持っていた、
アメリカの拝金主義の象徴のような、
RCAというレーベルとトスカニーニの印象とは、
まったく異なるベートーヴェンになっている。

第2楽章(Track7)も、
纏綿と歌われる感じで、
あらえびすが書いて、
この指揮者の代名詞のようになった、
「燃え上がる焔のような激しさ」というのは、
あまり感じられない。

むしろ、室内楽的な精度、精緻さの方が、
前面に出ているような気がする。

第3楽章(Track8)も、もったいぶった点が皆無で、
さらさらと進んでいくので、素っ気ないほどである。
芝居がかった表現を良く聞く音楽だけに、
もうちょっと、演出を頼みたいような気もするが、
これが古典的明晰さなのかもしれない。

第4楽章(Track9)では、
いくぶん、リズムの伸縮が見られるが、
ちょっと、味付けしただけという程度で、
気違いじみたリズムの共演よりも、
一糸乱れず、格調高い音楽が紡がれていく感じがする。
ただし、終結部になると、ものすごい集中力が見られ、
トスカニーニの咆哮も聴かれるような気がするが、
それほど興奮できないのは、
当時の録音技術の限界であろうか。

前述した諸石氏の本によると、
トスカニーニは、
「毎週4、5回のリハーサルと、
3、4回の演奏会、
とくに1つのプログラムで3、4回の演奏に疲れたため」
ニューヨーク・フィルを辞任したとあるが、
まさか、10年も付き合って、
マンネリになっていたのではあるまいな、
などと考えてしまった。

そう考えながら、
まさか、違いがあったりしないだろうな、と、
同じオバート=ソーン氏による復刻であるが、
一応、パール盤を比較して聴いてみることにした。

私はびっくりした。

ナクソスより、パールのCDの方が、
音に勢いがあるような気がするのは気のせいだろうか。
一応、収録時間を比べると、
何と、どの楽章も、パールの方が時間が短い。
これは何を意味しているのだろうか。

第4楽章の迫力は、まるで渦を巻くようで、
もっと、濃厚な表現に聞こえる。

では、ちょうど良いので、
同じマーク・オバート=ソーンが、
2001年にナクソスで仕事をする10年前、
1989年にPearlレーベルのCD用に書いた、
解説を読み切ってしまいたい。

よく考えたら、オバート=ソーンは、
この時、まだ、30代になったばかりの頃の仕事である。
まさか、オバート=ソーン氏の若さや覇気が、
むしろ、このパール盤に出ているわけではないだろうな。

この解説では、前回に引き続いて、
エンジニアたちの涙ぐましい苦労が語られている。

「1930年代に先立って、
トスカニーニが録音プロセスに対して感じる事は、
78回転盤の片面分の、
4分半ごとに演奏を、
中断したり始めたりすることであった。
マエストロにマイクの前に戻るよう、
懇願するべく、
彼がうんざりしないように、
ビクターやHMVも
様々な工夫を経験していた。
このシリーズの先立つ巻で見て来たように、
カーネギーホールにおける
トスカニーニとフィルハーモニックの
ベートーヴェンの実演を
フィルムに録音するために、
RCAは、1931年、33年に、
3度の試みを行っていたが、
マエストロはそのどれをも認可しなかった。」

ここで3度というのは、
出来そこないとされる31年の「運命」と、
33年の失われた「田園」と、
何とか残された「運命」を指すものと思われる。

「1935年6月、HMVは、
ワックス材料に直接記録することで、
トスカニーニがBBC交響楽団に客演した際の演奏を、
クイーンズホールで『ライブ』録音した。
マエストロはテストで聴くことさえも拒絶した。
アーネスト・ニューマン(Ernest Newman)
の意見も、聴くべく送られたが、
どれも許可されなかった。
(これらのいくつかは、
賞賛を得てLPとしてはリリースされている。)」

ここで、唐突にしゃしゃり出て来た、
アーネスト・ニューマンという人は、
サンデー・タイムズを中心に活躍した、
トスカニーニと同世代の英国の批評家である。
ワーグナー、ヴォルフ、シュトラウスに著作がある。

トスカニーニは、その強烈なパーソナリティに関わらず、
自分の録音を聞き返すことが嫌いな人だったようだ。
先の、「第7」でも、他人任せにしているが、
ロンドンでも同様の事が起こっているのが興味深い。

「1937年から39年の、
後の正式なBBCとの録音セッションでは、
HMVの技術者たちは、
リレー式に録音できる一連のカッティング台を用意し、
彼らが必死にマトリックスからマトリックスに
カッティングを切り替えている代わりに、
マエストロが序曲や交響曲の楽章を、
通しで演奏できるようにした。
(この方法が完璧でないことは、
トスカニーニのベートーヴェン『田園交響曲』の、
第2楽章の終結部のサイドに、
数秒の失われた部分があることからも分かる。
最近のEMIの復刻では、
未確認のソースから脱落が補われている。)
ここに収められた1936年の録音では、
RCAビクターは、マエストロと折衷案を取った。
彼は、各面の終わりで演奏を止めたが、
それは一瞬だけであった。
これによって技術者には、
マイクロフォンの線を、
一方のターンテーブルから他方に切り替えるのに、
十分な時間が与えられた。
この修正されたスタート・ストップ方式は、
これまでのやり方同様、
困惑させるものだったかもしれないが、
それにもかかわらず、
ここに記録された演奏には、
指揮者とオーケストラ両方の
集中と制御の証拠、
と誤って伝説となった程の勢いがある。
ここでのコレクションは、
トスカニーニの録音記録でも、
正統的に有名な『第7』で始まる。
これに関しては、
過去半世紀にわたって、
これに関して花開いた賛美に、
加えるものはほとんどない。
最初に登場した時から満足され、
この真の伝説的録音は基準とされ、
多くの対抗馬は、多かれ少なかれ、
不足が見出されてジャッジされた。
マエストロ自身でさえ、
1951年のNBCとの再録音をもってしても、
この特別のたいまつに点火することはできなかった。
まさしく理想郷の一端に遭遇するような、
完璧な交響曲解釈に近いものである。」

まだまだ解説は続くが、規定の字数をオーバーするので、
これまでとする。

得られた事:「トスカニーニは、ヴェルディ譲りの一音入魂のアタックを基本に、ブッシュ四重奏団などとも交流して室内楽的精緻さを追及、近代オーケストラの基準を確立した。」
「PearlとNAXOSから、オバート=ソーン氏のリマスタリングによるトスカニーニの歴史的録音が発売されているが、Pearl盤の方が迫力があるように思える。」
「当時の録音時間の限界の問題のため、トスカニーニは、マイク切り替えのために休止させながら通しで演奏するという変則的な妥協策を取った。」
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by franz310 | 2014-01-04 20:17 | 古典