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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その394

b0083728_21123042.jpg個人的体験:
バルビローリは、
シューベルトの音楽を、
実際、我々が知っている以上に
大切にしていたようである。
「コロンビア・マスターズ」として、
まとめられた1940年前後の、
彼の録音集にはないのだが、
コロンビアでの録音を始める前の、
「ビクター・レコーディング」には、
その「第4交響曲」があって、
「ドイツ舞曲」D90も、
別のCDだが聴くことができる。


10分に満たない小品集ではあるが、
バルビローリは、この曲が好きだったようで、
ニューヨーク・フィルで、
「シューベルトの夕べ」を特集した時は、
この曲で始め、「大ハ長調」で閉じている。

「ビクター・レコーディング」の、
このCDの表紙は、前回、紹介した、
シューベルトの「第4」が入ったものと、
あまり大きくは変わらないデザイン。
前のが黒基調に赤だったのが、
赤基調に黒になっただけの感じ。

ただし、The Victor recordingsと書かれた、
メダル型のアイコンが付いている所が違う。
ただし、こちらの方は、やっぱり出そうか、
という感じで付け足しで出て来たものに見える。
製品番号が19も離れているし、
発売時期も3年も違う。

ここでは、おそらく、レスピーギの
「ローマの噴水」がメインの曲目であるが、
表紙には堂々と、それに並んで、
シューベルトの名前が見える。

あと、付け足し的に見えるのは、
最後にクレストンとメノッティという、
アメリカの作曲家の作品が、
こっそり収められているからで、
1939年までに行われた、
一連のビクター・レコーディングとは、
明らかに違う出所のもので、
1942年あたりの録音、とあって、
バルビローリのニューヨーク時代最後期であるらしく、
データ的にも心もとないものである。

「何となくミステリー」と書かれていたりする。
バルビローリ協会のメンバーが持っていた、
78回転シェラック
(当時のレコード素材で虫から取ったとされる)
からの復刻で、アメリカ戦争情報局が、
海外派遣された軍人用に作ったものとされる。

受け入れられやすい音楽が選ばれたようで、
Track17.ポール・クレストンの「哀悼歌」は、
静かなゆっくりとした、10分半の、そこそこの規模の音楽。
この時代に相応しい悲しさとはかなさと安らぎが感じられる。
途中、泣き節や、打楽器による緊張感もあって、
バルビローリに相応しく、かなり聴きごたえがある。
ハープが刻む終結部もおしゃれである。

Track18.メノッティの「老女中と泥棒」序曲は、
3分ほどの小品だが、題名に相応しく
楽しく、リズミカルな音楽で、爽快である。
バルビローリが同時代の作曲家を大事にした証拠。
これらの作品が聴けることも、
このCDの価値を上げている。

Track1~4は、レスピーギの「ローマの噴水」。
むしろ、トスカニーニが得意にしていそうな音楽だが、
これがまた、まったく悪くない。

1939年2月録音という、
ものすごく昔のものであるが、
多少、ざらざら感のある経年劣化は、
仕方ないが、このレスピーギのみずみずしさには、
妙に心を引き寄せられる。

ぴちぴちと弾ける楽器群の心のこもった雰囲気、
バルビローリならではの、優しさが感じられる、
丁寧かつホットな語り口のおかげであろう。

Track4の「黄昏のヴィラ・メディチ」の噴水の、
忘れがたい寂寥感のあたりまで来ると、
黄昏を追い求めるように、
この演奏が終わらないで欲しいという感じになる。

Track5.レスピーギの「古代のアリアと舞曲」、
第3番より、第2曲「宮廷のアリア」の、
たっぷりとした情感も美しく、
ここでは、弦の優秀さがよく分かる。

この昔日の回想の念は、バルビローリにぴったりで、
まるで、エルガーの音楽を聴くようだが、
「ローマの噴水」ともども、復刻されて良かった。
しかし、何故、全曲録音してくれなかったのか。

Track6-11は、
バルビローリ編曲のパーセルに基づく、
「弦楽、ホルン、フルート、コールアングレのための組曲」。

この手の古い音楽の編曲ものは、
バルビローリが実演でもよく演奏していたもので、
「エリザベス朝組曲」など共々、多くの録音がある。

これまた、懐旧の音楽で、ものすごい慟哭のような、
低音弦から始まる。

Track6.情念の弦楽の渦に、ホルンが気高く響く。
「ほどかれたゴルディウスの結び目」という劇音楽の序曲。
バルビローリは、これでもかこれでもかと、
マエストーソの地鳴りを引きずり、
主部の壮麗なアレグロに続けるが、もとは、
アレキサンダー大王の故事に由来する劇らしい。

Track7.「高潔な妻」という音楽からの
メヌエットで、フルートのひなびた響きが印象的だが、
悲しい情緒に満たされている。

Track8.「アーサー王」からの、
アンダンティーノで、物思いにふけるような音楽。

Track9.「アブデラザール」の「エア」による、
アンダンティーノ・ジョコーソで、
ようやく、楽しげなリズムになるが、
雲が晴れることはない。

Track10.3分半もかけ、
ものすごくゆっくりと奏される
「ディドとエネアス」のラメント。
「ラルゴ」と題され、コールアングレが、
喪失感たっぷりの響きで立ち上がって来る。

Track11.「アーサー王」からの「アレグロ」。
いかにもバロック期の組曲で、
弦楽や金管が活発に活躍する対位法的な終曲。
が、1分ちょっとで、ばーんと盛り上げて、
名残惜しそうに終わる。

この曲は、ハレ管弦楽団との、
ステレオによるスタジオ録音があるが、
これは1969年という
録音の良さも相まって、
広がりや空気感に満ちた、
ものすごく雰囲気豊かな名品となっている。

バルビローリの最晩年ということもあって、
必聴の名演であるが、この時期の、
張り詰めたバルビローリの心境を、
1938年のニューヨーク盤に聞き取るのも、
あながち間違いではなさそうな気がする。

前回の「コロンビア・マスターズ」のCD解説は、
素晴らしく充実しているが、
そのため、前に紹介した部分は途中までであった。

今回は、このビクター・レコーディングスについて、
関係しそうな内容も出てくるので、
残りの部分を紹介しよう。

その解説は、「桂冠指揮者、バルビローリ」という、
1971年の本から採られた内容で、
2003年に著者ケネディが書き直した模様。

まだ若かったバルビローリが、
神格化されつくした巨匠、
トスカニーニの後釜として、
ニューヨーク・フィルの指揮者になったのは、
彼が考えていた以上に恐ろしい責務だった。

様々な陰謀があって、いろんな噂が飛び交う中、
彼は、追い詰められていく。
そんな話の途中であった。

「彼のいつもの不安の中、
長く何もできない期間の後、
バルビローリはようやくシーズンにこぎつけた。
『最初のリハーサルを待ちわび、
私に残される音楽があるのだろうかと考えると、
いつも心配でたまらない。』
彼は、落ち込みの周期的発作にかかっていた。
『しかし、僕はこの仕事の中に慰めを求めた』。
このシーズンを通して彼は不眠症に悩み、
その手紙はしばしば朝の3時と記され、
6時に書かれることもあった。
眠れない時間、指揮の練習をしたり、
スコアに書き込んだりして過ごした。
『コンサートには有り余るエネルギーがあるが、
僕は精神的に疲れ果てた』と、
イブリンに書いている。
ホワイトハウスにおける、
ルーズヴェルト大統領との夕飯や、
ピアストロ、コリアーノ、
プリムローズらとの四重奏で、
アメリカで最初にチェロの腕を披露した、
ニューヨークの紳士会、ロータス・クラブでの、
12日節の前夜祭で彼の栄誉をたたえる晩餐会など、
楽しいものもあったが、社交界での活動が多すぎた。」

このあたりも、かなり、私としては、
読んでいるだけで、彼が気の毒になった部分である。

はたして、このような、いかにもチャラい世界に対し、
気難しい老人だったトスカニーニは、
どう接していたのだろうか。
あるいは、バルビローリは、
それよりはまだまし、という感じで、
ちやほやされることもあったかもしれない。

「彼は、ほとんど何も言っていないが、
トスカニーニとNBC交響楽団に対し、
ライヴァル意識を常に持っていたはずである。
特に、共にベートーヴェンの『第5』を、
連続して演奏するようになったシーズンの初めにおいては。
批評家のハーバート・ラッセルは、
バルビローリを賞賛したが、
ミュンヘンを意識して、こう付け加えた。
『英国にもまた、こうした勝利がどうしても必要だ。』
バルビローリのすぐあとに、
トスカニーニが同じ作品を指揮することは、
よく言われることであった。
フィルハーモニックのプログラムは、
当然、NBCの十分前に決められて印刷されていた。」

これなどは、何じゃこりゃの裏話である。
いくら、バルビローリにその気がなくとも、
トスカニーニ(というか、NBCの経営層)側が、
こんな事をしかけて来たのなら、
自然と、世の中は、そういった目で見るようになるであろう。

「こうした陰謀は続いたが、
ジョンには効かなかったように見える。」
と、解説は続くが、
そこまであからさまであったのかは、
疑問を持っても良いかもしれない。

「彼は、何よりも、オーケストラと聴衆と良好な関係にあり、
そして2月、次の年の契約が始まると共に、
彼は、イブリンに書き送った。
『昨日、重役会議で満場一致で、
私の契約が終わっても、
さらに何年かの再契約となることに、
熱狂的な賛同を得た。
A.J.は、5年契約にも出来た、
と言っていた。』
マージョリーとの離婚届は、
1938年12月5日に承諾されていて、
翌年の6月に実効となり、
イブリンをニューヨークに呼び寄せての
結婚生活に向けて集中することが出来た。
『僕は自分にたくさん欠点があることを知っている』
と彼は書き、
『しかし、僕が考えているある事が分かれば、
時々、気難しくなる事も分かって貰えると思う。
誰かを傷つけることも恐れている。
僕は公的な生活の中で一種のサイの皮で自分を武装し、
悪意や無知や羨望の矢を受け止めて来た。
しかし、それらはすべて痕を残しているんだ。』
彼は、そのオーケストラについても付け加えている。
『僕は、Tや他の人たちに指導されて、
こんなにも冷酷になっていたアーティストたちが、
今や、その才能と人間性に輝いていることを、
誇りにも思う。
後世の人が、僕の音楽家としての価値を判断するだろう。
しかし、むしろ、僕がここに来たことで、
彼らの演奏の基準を保つのみならず、
彼らに優しさや幸福の感覚を与えられたことを、
僕はむしろ感謝しているのだ。』」

このように、バルビローリは、
トスカニーニを意識し、さらには、
巨匠との違いを、
「a conception of kindness and happiness」
だと認識して、言葉にしている点に驚いた。

我々が、何となく考えている、
音楽に対して、一点もゆるがせにしない、
妥協なき暴君、トスカニーニのイメージは、
当時のものとあまり変わっていない、
という事であろう。

もし、若手の指揮者が、そんな先輩に対抗するとすれば、
やはり、「優しさや幸福感」を、
そこに追加して差を出そうとするだろう。

が、冒頭に書いたように、
このような戦略のせいか否か分からないが、
歴史解釈は、トスカニーニ以降の時代を、
ニューヨーク・フィルの低迷期と位置付けた。

オーケストラの楽員の幸福感は、
もろ刃の剣でもある。
うまくすれば、それが音楽に現れて、
聴衆をも幸福にするだろうが、
うまく行かない時には、
単なるぬるま湯体質の温床となる。

「優しさ」などとなると、さらに危険である。
「厳しさ」の欠けた、甘い団体になってしまうと、
せっかくのトスカニーニの遺産を台無しにしてしまう。

もちろん、バルビローリの後、
トスカニーニ路線の再来のようなロジンスキや、
振り子が戻るように、音楽の殉教者、
ミトロプーロスの時代が、
ニューヨーク・フィルにはあった。

「1939年3月、シュナーベルを独奏者として、
オーケストラをボストンでの演奏会に率いて行った。
『ボストン・ポスト』は、この指揮者に率いられた、
フィルハーモニックを祝福した。
『安心感、安定、揺るぎなく、全般的に満足を、
今や、人々は彼の中に感じる』。
これは、ダウンズが、3月23日に、
エルガーの『第2交響曲』に対して、
『長くて壮大でブルジョワ風。
それは、ソファーカバーや、婦人帽の、
ポークパイ・ボンネットの時代の、
満足と退屈を反映したもので、
後期ロマン派の大げさなオーケストラ様式と、
センスの悪さに突き動かされたものだ』。
もし、バルビローリに、
ダウンズを嫌う理由がなかったとしても、
これだけで十分だっただろう。
ダウンズは、ニューヨーク万国博覧会の
音楽監督であって、ジョンはイブリンに、
喜んで報告している。
『4月30日、日曜日、
万博オープンをオーケストラで飾ったが、
(前日のコンサートで疲れていたが。)
これは嬉しかった。
ダウンズの野郎は、
ストコフスキーとフィラデルフィアで
やりたかったみたいだからね。』
ダウンズがバルビローリに宛てた手紙は、
一つだけ残っていて、
万博のためのプログラムのもので、
最後に、『あなたの完璧なバトンさばきに』
とお世辞で終わっている。
それ以上のことはなく、
彼は、おそらくそう感じたのだろう。」

この1939年の春の出来事に先立って、
バルビローリは、ビクターへの最後の録音を行っている。

1939年2月21日のレスピーギとシューベルトである。

「彼は、6月に英国に戻って、7月5日、
ホルボーン・レジスター・オフィスで結婚式を挙げた。
ジョンは39歳、イブリンは28歳だった。
花婿付添人はトミー・チェーザムで、
スコティッシュ・オーケストラの、
ランカスターの同僚だった。
セレモニーの後、
ゲストはパガーニのエドワード7世の部屋で昼食をとり、
ロッティンディーンで一夜を過ごした後、
ノルマンディーへの新婚旅行のため、
ニューヘブンからディエップに渡った。
5年後には、血なまぐさい戦闘が繰り広げられる街を、
彼らは訪れ、滞在したが、そこで、何よりも、
カルバドスというリンゴ酒の効用を発見した。」

このあたりは、あまり、音楽とは関係なく、
地名も列挙されてややこしいが、
1939年の7月を挟んで、
前のシーズンには、先のCDに収められた、
ビクターへの録音があり、
その年の秋、11月には、
チャイコフスキーの「第5」などの録音がある。

ここでトスカニーニとの関係を思い出せば、
トスカニーニは、チャイコフスキーは、
交響曲でいえば、
「悲愴」と「マンフレッド」しか、
興味を示さなかったと言われている。

「彼は、その頃、ヴェネチアの指揮者、
ジョルジオ・ポラッコと親交を結んでおり、
彼がコヴェントガーデンにいた時、彼らは初めて会い、
ポラッコは、国際シーズンのレギュラー客演であった。
バルビローリが『蝶々夫人』のリハーサルをしていると、
偶然、ポラッコが居合わせて、
この若手の仕事ぶりに感銘を受けて、
最後まで聞きとおしていた。
ジョンの方は、ドビュッシーのペレアスを指揮する
ポラッコに魅了され、それを理想とした。
今回、シカゴでの仕事を引退して、
ポラッコはニューヨークに来たので、
彼らは再び交友をはじめ、
コンサートの後はイブリンとジョンと3人で、
イタリアレストラン『ママ・ブロンゾズ』で、
演奏について論じるのであった。
ポラッコは、必要な時には、
決して無批判ではなかったが、
ジョンを勇気づけ、自信を取り戻させた。
他に、信奉者のような友人としては、
テオドール・スタインウェイとその妻など、
ピアノ会社を運営していたスタインウェイ家があった。」

このあたり、かなりのバルビローリ気違いでないと、
どうでも良い内容であるが、
傑出した先輩指揮者が、バルビローリの若い頃から、
一貫して、バックアップしてくれていた、
ということは、覚えておいても良いかもしれない。

ポラッコは1875年生まれというから、
バルビローリより24歳年長で、
1939年といえば、64歳。
トスカニーニより10歳若いが、
引退してもおかしくない年の大先輩にあたる。

「ジョンは、ニューヨーク在住の
チェコの作曲家、ワインベルガーが、
(バグパイプ吹きのシュワンダの作曲家)
献呈してくれた新作の研究にも没頭していた。
これは、『古い英国の歌による変奏曲』で、
ジョージ6世がボーイ・スカウトで、
『大きな栗の木の下で』という歌を、
ジェスチャーを交えて歌っていた
ニュース映画を見て、霊感を受けたものであった。
『10月8日、午後10時45分:
私は、ワインベルガーのフィナーレに、
チューバを加筆したところだ。
金曜日に会った時に、
彼にこのことを言うと、
どんな風に響くか知りたいと言った。
それから、ちょうど、
明日、オーケストラに言うべき言葉を思いつき、
それを書きつけたところだ。
私たちはいかなる国籍、信仰にあろうとも、
太陽の下に生きている。
音楽を奏でるという、
ただ一つの目的のために、
カーネギーホールにいる、
ということが分かって欲しい。
そこでは、いかなる政治的な議論も許さない。』
『変奏曲』は、10月12日、
第98回フィルハーモニック・シーズンの
オープニングに初演された。
ハワード・タウブマンによれば、
『新鮮に、否応なく乗せられる、
アクセントと輝かしさで演奏された。
聴衆は歓呼した。』」

このワインベルガーの曲は、私は聴いた事がない。

さて、1939年の秋冬の話となる。
下記のようにあるから、
バルビローリのニューヨークでの
正式契約は、1937年からのようだ。
1936年にトスカニーニが辞任し、
その秋からは、前に紹介した、
モーツァルトやベートーヴェンの
交響曲の録音が残っているが、
これは、正式契約前と言うことになる。

「バルビローリの当初の契約の、
第3シーズンは、多彩な魅惑的な、
今日では、垂涎ものの演奏会が並んだ。
アメリカ作品が再び前面に出て、
バーバーの『弦楽のためのアダージョ』の、
フィルハーモニックにおける最初の演奏、
バーナード・ハーマンの
カンタータ『白鯨』初演は、
作曲家と指揮者の長い友情の始まりとなり、
マクダウェルのピアノ協奏曲第2番、
フライハンの『協奏交響曲』、
サンダースの『小交響曲』、
ギルバートの『ニグロの主題によるコメディ序曲』、
その他があった。
他に珍しいもの、または知られざる作品では、
ウォルトンの『ポースマス・ポイント』、
カステルヌオーヴォ=テデスコのピアノ協奏曲、
ディーリアスの『ブリッグの定期市』、
ブリスのダブル協奏曲、
ヴォーン=ウィリアムズの『ロンドン交響曲』、
ショスタコーヴィチの『黄金時代』バレエ組曲、
ドホナーニの『女道化師のヴェール』バレエ、
交響的小品集作品36などがあり、
このシーズンの他のハイライトとしては、
『シューベルト・コンサート』、
ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第1、第2組曲、
ヘレン・トローベルとの『ワーグナー・コンサート』、
これは、9月に亡くなった批評家、
ローレンス・ギルマンの思い出に捧げられた。
ドビュッシーの『サクソフォン・ラプソディ』、
イベールの『サクソフォン協奏曲』、
フランチェスカッティの弾くパガニーニの協奏曲、
クライスラーは論議を呼んだ版による、
チャイコフスキーの協奏曲、
フォイアマンで、ハイドンのニ長調協奏曲、
メニューインでベートーヴェンの協奏曲、
シベリウスの第2交響曲
(1940年1月14日、
バルビローリはこの時、
チェロを右、全ヴァイオリンを左にした)、
ブルックナーの第7交響曲、
(ほとんどニューヨークの全批評家が完全に誤解した)
ラフマニノフを独奏者にしての、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。
この曲はラフマニノフが演奏した、
唯一のベートーヴェンのピアノ協奏曲で、
彼は、ジョンにこう言ったとされる。
『他のはピアニストにとって退屈だね。』
ミシェル・ピアストロを独奏者にしての、
ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、
イブリン・バルビローリの回想では、
素晴らしい演奏だった。
ブライロフスキーとのショパンの、
ホ短調ピアノ協奏曲、
ロザリン・テュレックとの第5協奏曲。
ホロヴィッツとのチャイコフスキーの変ロ短調協奏曲は、
ダウンズも完全に兜を脱ぎ、
ルドルフ・ゼルキンとは、ブラームスのニ短調協奏曲を演奏した。」

ということで、1939年のシーズンの、
一つの目玉のように書かれているのが、
「シューベルト・コンサート」である。

冒頭にも書いたように、
このコンサートの最初に演奏されたのが、
シューベルトの「5つのドイツ舞曲と7つのトリオ」D90
である。

バルビローリは、1939年にも
1月4日に、同様のコンサートをしていて、
この曲、「第4」、「第9(大ハ長調)」を演奏しているが、
何と、1月7日にも、この曲、
さらに「ペレアス」の組曲、
ブスタボ独奏で、シベリウスの協奏曲を連ねた演奏会があった模様。

1940年の1月21日が、この解説にあるコンサートだろうが、
ここでは、上記の演目のうち「第4」が、
シューベルトの「第2」に変えられたものが演奏されている。

バルビローリ指揮のシューベルト、
「第2交響曲」もあったのである。

さて、このCDのTrack12-16が、
「5つのドイツ舞曲」だが、
ドイッチュ番号が90とあるように、
シューベルトがまだ若い時期の作品。
トリオの数が多いのは、最初の舞曲などに、
2つのトリオが含まれているからである。

この曲、舞曲こそ、はつらつとしているが、
各曲に挟まれたトリオの気だるい情緒は、
典型的なウィーン風で、
これが、むせかえるような表現で、
むしろ、舞曲の部分は言い訳で、
トリオのねっとり、むらむらの情感が本質なのかもしれない。
いや、絶対、そうだ。
うっとりした男女の眼差しが見えるような音楽。
最後は、後ろ髪を引かれるような切なさで、
消えるように終わる。

こうした音楽は、シューベルトの若い頃の音楽として、
はやくから知られていたようで、
1831年のディアベリによる目録にも、
1814年の作品として整理されている。
1813年という説もあるが、
シューベルト17歳前後の作品で、
アインシュタインなどは、「考察外」と書いたが、
バルビローリはよく取り上げてくれた。

得られた事:「シューベルトが若い頃に書いたドイツ舞曲(D90)は、むしろ、トリオの悩ましい表情に青春の火照りが感じられる。」
「ニューヨーク時代、バルビローリの得意のプログラムにシューベルトの夕べがあった。」
「ニューヨーク・フィルとNBC交響楽団の関係は、ほとんど現代のビジネス書を読むようで、バルビローリは、トスカニーニ陣営の様々な攻勢に、不眠症になりながらも、仲間と一致団結し、音楽に集中した。」
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by franz310 | 2013-11-23 21:15 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その393

b0083728_14382870.jpg個人的経験:
戦前、カリスマ指揮者、
トスカニーニの後任として、
ニューヨーク・フィルに
若くして着任した
ジョン・バルビローリについては、
バルビローリ協会が出した、
数多くのCD解説で、
いろんな情報を知ることが出来る。
華やかに見える指揮者という職業の、
その後ろ側で演じられる、
どろどろとした側面が、
リアルに感じられて興味が尽きない。


しかし、これらの記事を読んでいて思うのは、
1936年のトスカニーニ辞任以降、
58年のバーンスタイン着任までは、
「オーケストラは低迷した」、などと言われる、
最初のA級戦犯的な役割を、
晩年には、神格化されるほどの
人気を誇ったバルビローリが、
何故、担わなければならなかったか、
ということである。

各CDの内容や解説を読んでいくと、
単純に、30代では、重責すぎた、
などと片付けられる感じでもなさそうだからだ。

バルビローリのニューヨーク時代前半は、
ビクターがレコードを出し、
後半は、コロンビアがレコードを出している。

このコロンビア時代の録音を集めたCDは、
バルビローリの肖像も、
いかにも白面の貴公子風で、
かっこいいのだが、
こんな青二才では、
さすがに、人間国宝のような、
トスカニーニの代わりは無理だよね、
と思う人もいるかもしれない。

このCDでは、トスカニーニの遺産として、
鍛えられたオーケストラ(ニューヨーク・フィル)を使って、
さらに、バルビローリが、自身の個性をも反映させた、
より柔軟な音楽を目指していたかを体感することが出来る。

曲目が、モーツァルト晩年の
神の領域のような傑作、
最後のピアノ協奏曲と、
クラリネット協奏曲であることもすごい。
(近年の研究で、これらの作品が、
もっと前に構想されていた、
などというややこしい話はここでは置いておく。)

こうした組み合わせの録音は、
確かにトスカニーニ風ではない。
また、交響曲第25番という、
若いモーツァルトも挟まれている。

私は、カサドゥシュの弾く
モーツァルトのピアノ協奏曲が好きで、
セルがバックを振った、
クリーヴランド(コロンビア響)との共演の録音は、
ミュージック・テープでも、LPでも、CD化されてからも、
何度も何度も、買い替えて持っている。

このバルビローリ盤は、
1940年の録音とは思えないほどで、
CDをかけるや、序奏と共に、
豊かかな雰囲気が立ち上って来る。

いかにもこのピアニストらしい、
澄んだ響きで音楽が捉えられており、
ニューヨーク・フィルとの共演となれば、
もっと聴かれても良さそうなものだが、
これまで、こんなのが有ったとは知らなかった。

カサドゥシュは、バルビローリと同じ、
1899年の生まれなので、
40代になったばかりのダンディな二人が、
共演する様は、おそらく視覚的にも、
見ごたえがあったことであろう。

オーケストラには、この曲で求められる、
柔らかな肌触りが漂い、陰影も豊かで、
ヴァイオリン群の奏でるメロディも、
まるで、夢想に酔うように美しい。

2曲目の交響曲は、当然の事ながら、
もっと、バルビローリとオーケストラに、
集中して楽しめるわけだが、
「小ト短調」と呼ばれる疾風怒濤の作品を、
アンサンブルも爽快に描ききっている。
録音も、無理な感じが全くしない。

第2楽章などは、バルビローリらしい、
慈しみを感じさせる語り口で、
第3楽章の殺伐とした情感にも、
リアルな苦悩がにじみ出る。

終楽章には活力と自発性がある。

クラリネット協奏曲は、
ジャズで有名なベニー・グッドマンの独奏。
このクラリネット奏者は、
この後、ミュンシュだったかの指揮で、
再録音したものを聴いたことがあったが、
ミュンシュの大柄なイメージと相まって、
変な演奏という印象が強かった。

これまで未発売だった音源のようだが、
ここでの演奏は、ずっと格調高く感じられる。
第2楽章の寂寥感も、胸に迫るものがある。
第3楽章などでも、霊感よりも美感を大切にして、
丁寧に吹いていて共感を覚えた。

バルビローリの指揮も、この指揮者ならではの、
愛情に満ちたものであるが、
他の2曲が1940年11月3日で、
この曲は同年12月16日と、
同時期の録音でありながら、
立ち上がりの滑らかさの点で、
音質に苦しさが散見されるのが残念である。

が、それに気を捕われなければ、
全体的に落ち着いたサウンドで、
この音楽の持つ豊かな情感に身を委ねることが出来る。

また、ここでは、下記のような解説が読める。

書いているのは、この道の第一人者、
マイケル・ケネディである。
彼の書くものは、個人的に交友のあった、
バルビローリへの思い入れが強すぎるだろうが、
収録された曲目とは、まるで関係ないのが残念である。

まあ、それを越えて、この時期のバルビローリを語る
いろんな資料が極めて貴重である。
彼がいかに追い詰められていたか、
恋人イブリンに宛てた手紙の数々も興味深く読める。

「New York 1937-40」と題されているが、
いきなり、トスカニーニと、
やがて強敵となる、
彼の新しいオーケストラの話から始まる。

「トスカニーニのための新しいオーケストラは、
彼がザルツブルクで知り合った、
アルトゥール・ロジンスキによって、
メンバーが集められていた。
ロジンスキは1936年から37年の、
ニューヨーク・フィルのシーズンの残りを、
振るように選ばれていたが、
彼の契約が始まる前に、
バルビローリの3年契約がアナウンスされた。
ロジンスキはポストが提供されなかった事に憤り、
トスカニーニがニューヨークに戻るや、
バルビローリを罵る機会を逃さなかった。」

最初の何行かを読むだけで、
ややこしくなる先行きが怖すぎる。
トスカニーニもロジンスキも、
感情爆発系の指揮者であって、
この人たちの思惑の外で、
バルビローリは選ばれ、
何も分からないままに、
懸案のポストに嵌ってしまった感じ、
という風に読める。

だいたい、トスカニーニもトスカニーニである。
彼は、ニューヨーク・フィルを離れると言いながら、
専用のオーケストラ(NBC交響楽団)が、
創設されると聞くと、すぐに、
ニューヨークに戻ることに、
躊躇を見せなかったようなのだ。

「ジラートが私に書いたように、
『いくつかの不幸な誤解から、
トスカニーニはフィルハーモニックにおける、
バルビローリ時代のはじめは、
彼をあまり好まなかったが、
その多くはロジンスキのせいだった』。
(さらに、ジョン(バルビローリ)は、
彼が賞賛するハイフェッツ、クライスラー、
ワルター、ルービンシュタインといった、
音楽家たちを、トスカニーニが、
軽蔑するのを好まなかった。)
英国に短い滞在をした後、
一月の終わりにニューヨークに戻る時、
ジョンは悪天候で船が遅れてしまい、
(彼は良い水夫で、それを楽しんだのだが。)
カーネギーホールでの最初の演奏会を逃してしまうのではいかと、
落胆しており、また、ホームシックにもかかっていた。
『再会できるまで、ものすごく長く感じた』
と彼は、(恋人の)イブリンに書いている。
『私はね、かわいいイヴィー、
決してどえらい人間だと思ったことはないんだ。
だから、ちっぽけなロンドンっ子ジョニイを、
見ていてくれる君には感謝している。
良きにつけ悪しきにつけ、
僕の運命はそこで見つけるしかない。』
彼は、よく自分の立場をわきまえていた。
晩年になると、彼は、特に私的な楽しみにおいては、
あるいは、彼が寂しい時、落ち込んだ時、
ロンドン言葉を使うのを好んだ。」

着任早々の遅刻というシリアスな話題から逸れて、
この節、後半は、ニューヨークと関係ない話である。

「ニューヨークに着くと、彼はそのオーケストラと、
最初の録音を行った。
(彼のパーセル組曲、ドビュッシーのイベリア、
チャイコフスキーのフランチェスカ・ダ・リミニ、
メニューヒンとのシューマンのヴァイオリン協奏曲。)
しかし、彼はもっとかき乱されるニュースを聴いていて、
イブリンにこう書いた。
『ホテル・サンモリッツ、
私は、A.J.と静かに食べた・・』」

この会話の部分については、
すでに、前回、紹介した内容なので省略する。

ただし、前回は、
バルビローリの不吉な将来予測を、
ニューヨーク・フィルのマネージャー、
「A.J.」ことアーサー・ジャドソンがした所で終わっていたが、
ここでは、バルビローリの手紙はさらに引用されている。

バルビローリは、芸術の理想主義の使徒のような、
いかにも新進の若手指揮者を思わせる発言をしている。

「『しかし、愛する君のために言うと、
僕は平静でいるし、自分の音楽を最高に作り上げるために、
たった一つのことしか心配していない。
マスコミの一部では、エネスコが指揮者になるべきだった、
などとほのめかしている。
しかし、それは本当に間違った伝達だ。
事実、彼には、そんな気持ちはない。
財政的にも、こんな具合だ。
彼の滞在中、最初の週は250ドル払った。
第2週は650ドル、第3週は750ドル、
そして、第4週には、メニューインが、
中古の家2軒を要求したんだ。
こうしたイカサマや、嘘や裏切りに、
僕が無関心でいられるよう、
ここで、何人かの仲間と一緒に、
素晴らしい芸術を遂行できるよう
祈ってほしい。
今夜はイタリアの慈善演奏会に行かないといけない。
トスカニーニが『第9』を演奏する。
行かなければならないし、当然、興味もあるけど、
この2、3日の暴露話があって、あまり楽しめないんだ。』」

ということで、バルビローリは、
何とか、平静を装って、音楽に集中しようとしている。
が、新天地における常識というか慣習に対して、
どのように柔軟に対処したかは、
少々、心配になるような文面である。

巨匠トスカニーニとも、
うまく行くのか行かないのか、
心配でしょうがない。

なお、これは、最初のレコード録音の前の事だというから、
1938年のはじめの事であろう。

整理すると、トスカニーニがニューヨーク・フィルを辞任したのが、
1936年の4月、その年の秋からは、
バルビローリがニューヨーク・フィルを振った放送がされている。

つまり、バルビローリが、陰謀などから隔離されて、
まるまる過ごせたのは1937年の1年だけだった、
ということになるわけだ。

先の手紙が書かれた1938年になると、
最初から暗雲が垂れ込めた事になる。

「そのシーズンの残りは、
彼の手紙は『汚い陰謀や誹謗中傷』についての記述が続く。
彼が、いかに関係ないそぶりを見せても、
それは彼を落ち込ませ、
いつも不安定な自信がさらに無くなって、
一人で不快になることがあった。
しかし、そこから彼は立ち直り、
オーケストラの忠誠に、聴衆の喝采に、
そして音楽そのものに、その慰めを見出した。
フラグスタートとのワーグナー、
ハイフェッツとのエルガーの協奏曲など、
後者に関しては、鋭いコメントを残しているが。
『彼は素晴らしい演奏をした。
しかし、たぶん、十分にハートは籠っていなかった。
彼は、おそらく傷ついた事のない人間なのだろう。』
しかし、彼は、この協奏曲に感動して、
彼は、イブリンに手紙を書いている。
『ほとんど知られていないし、
おそらく誤解されている作品だとわかった。
私は、彼に最後に会った時の事、
そして、彼が私を抱きしめ、
いかに、私が会いに行った事を、
喜んだかを生き生きと思い出した。
私は、その時、英国の人々が、
いかに彼の作品を誤解しているかを、
彼が感じている事を知った。
しかし、確かに、かわいい君、
何時の日か、時代を越えて最高の作曲家のひとりと、
世界中の人が気づく日が来るだろう。』」

マイケル・ケネディの書き方の癖なのか、
この一節でも、前半、バルビローリの
ノイローゼ状態が心配だが、
後半のエルガー問題に逸れて行く。

とはいえ、こうしたところに、
作曲家の実像に迫るエピソードは読み取れる。
このようにエルガーは生前から、
自分が認められない事に失望していたのであろう。

「多くの共演した真の音楽家たちの賞賛が、彼を鼓舞した。
『オーケストラは熱狂的で』と、彼はイブリンに書いている。
『イヴィー、もし、彼らがそう感じるなら、
彼らに何かを上げなければいけないだろうね。
僕は、私たちの音楽が心をこめて響くように、
必死に働いている。
君と僕の音楽のために、全力を尽くしている。
多くの聴衆や愛しい友人たちは私と一緒にいてくれる。
そして、私は君のために勝利するよ。』
デトロイト交響楽団との、利益の多い、
フォード・サンデー・イブニング・アワー・コンサートという、
最初のアメリカ客演契約でニューヨークから離れるまでに、
彼は、最初のシーズンの財政的成功によって、
彼は幸福の絶頂に押し上げられていた。」

ニューヨーク時代は、
バルビローリにとっても、
敗北続きの時代では決してなかった。

「彼は、ニューヨークのある聴衆によっても激励され、
その一人、H.S.アレキサンダー氏は、
彼が、ダウンズが書いた、
『バルビローリ氏には、彼の友人の支えが頼りだ』
という記事に対し、オリン・ダウンズ自身に、
書いた手紙のコピーを送ってくれた。
『ダウンズ氏にとっては、悲しいことかもしれないが、』
とアレキサンダーは書いた(1938年4月11日)。
『我々聴衆は、
トスカニーニ氏からの宣伝のようなものに、
完全に嫌悪を覚えている。
私が知っている多くの人を『苛立たせる』のは、
スコア・リーディングの恐るべき複雑さや、
いかにトスカニーニ氏が、その記憶力によって、
精神的な偉業に到達しているとかいった、
繰り返されるペテンの一節である。
そんな事は多くの指揮者が日常茶飯事に行っている。
あなたのコメントの有害な効果は、
完全に受け入れられ、他愛ないものだと理解しているが、
あの紳士を板挟みにするものだ。
あなたが、バルビローリ氏の友人たちが、
トスカニーニ氏を踏み台にして、
彼を誉めようという間違った道に行こうとしている、
というならば、それはそうだろう。
彼は、そんな賞賛過多は必要としていないし、
私が思うに、バルビローリ氏は、
そんな事を許さないと信じているからだ。』」

いろんな人が出てきて、ややこしい話だが、
バルビローリは大先輩のトスカニーニを貶してまで、
自分を正当化するような人間ではなかったということだ。

が、先の陰謀は、80年くらい経った今でも、
立派に効果を残しているのではなかろうか。
バルビローリは、トスカニーニの後任として、
先輩大指揮者と張り合うという愚を犯し、
ニューヨーク・フィルを低迷させた、
というような書きぶりの記事は、
何度か見たことがある。

それはともかく、先を急ごう。

「もう一つの慰めは、忠実な若い秘書で、
非常に音楽に鋭敏な感覚を持っていた、
ジョン・ウッドフォールドと友情を育んだことであった。
英国での夏、6月29日には初めてTVインタビューを受け、
イブリンとフランスで休日を過ごし、
ミュンヘン協定のあった1938年の秋、
彼は、ノルマンディー号でアメリカに戻ったが、
この時、トスカニーニ(非常に愛想よくおしゃべりだった)と、
ロシア人の政治家ケレンスキーが一緒だった。」

ノルマンディー号は、「洋上の宮殿」と呼ばれ、
当時のフランスが誇った世界最大の豪華客船だが、
確かに、こんなところでは、
トスカニーニのような名士などとも遭遇するのだろう。

「『こんな人と君のジョニーが一緒になるのは、
おかしな事だと思わないかい』、
『君のためには最善を尽くそう』と彼は書き、
『僕は、これが耐えられなくならないよう祈るばかりだ』。」

この興味深い遭遇について、
これ以上のことは書かれていないが、
ケレンスキーとは、ロシア革命の立役者でありながら、
フランスに亡命していた人で、
この時、合衆国に逃れるところだったようだ。

以下、バルビローリが、トスカニーニとの直接対決を、
むしろ望んでいなかった様子を伺わせる、
選曲されたレパートリーの列挙がある。

バルビローリ・ファンには垂涎ものだが、
トスカニーニを好んで聴く人は、
まるで興味を持てない内容かもしれない。

「彼は、アメリカやイギリスの近代音楽を含む、
困難なシリーズのプログラムを選んでおり、
104回のコンサートを指揮する予定だった。
それは、グリフィスの『白クジャク』、バックスの『第4』、
ヴォーン=ウィリアムズの『田園交響曲』、
ディーリアスの『ヴァイオリン協奏曲』、
エルガーの『第2交響曲』、
ライオネル・ターティスがヴィオラ用に編曲した、
『チェロ協奏曲』などであった。
彼は、友人のナディア・ブーランジェと、
コンサートを半分ずつ振って、
彼は、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』から
彼自身の抜粋した組曲を指揮した。
あるコンサートは、イゾルデにフラグスタートを招き、
トリスタンのカットなし第二幕を演奏、
また、あるコンサートには、
ロッシーニの小ミサ・ソレムニスを充てた。
ハイフェッツ、ラフマニノフ、ミルスタイン、
ギーゼキング、ガスパール・カサド、
ルドルフ・ゼルキン、ヨーゼフ・ホフマン、
シュナーベル、ルービンシュタイン、
アドルフ・ブッシュ、ヨーゼフ・シュルスターが、
それらの演奏会の独奏者であった。」

曲目のみならず、共演者もキラ星のようだ。
が、このCDで取り上げられている、
カザドゥシュやベニー・グッドマンなどが、
ここに登場しないのは、このCDの最大の弱点であろう。

そもそも、ここで挙げられた曲目で、
今、バルビローリ協会盤で出ているものがないのも悲しい。

また、ここで、ケネディ氏得意の裏話が出る。
下記のエピソードも興味深い。

「彼は、時に、まったく彼らから
逃げてしまいたい事もあったが、
音楽家たちと社交を楽しんだ。
しかし、悪名高い室内楽奏者、
ミッシャ・エルマンらとの弦楽四重奏で、
その晩を締めくくろうとしたなど、
彼は彼らとの面白い逸話にも不足しなかった。
エルマンのユダヤ風のアクセントや、
気まぐれの節回しなどは、
同席者の楽しみの一つだった。
『翌朝』と、ジョンは言った。
『エルマンは、カーネギーホールの外で、
私の友人に会ったエルマンはこう言った。
<昨晩、バルビローリと演奏したのだが、
私が独奏して、彼が弾かない時、
彼は素晴らしいチェリストだったよ。>』
ジョンは、どんなアクセントでも真似をして操った。
アイリッシュ風、スコットランド風、コックニー、
ランカシャー風、中欧風など。」

ここでも、関係ない話が紛れ込んでいるが、
以下の、演奏会に対するバルビローリの手紙は、
この指揮者が好きな人にはたまらない内容となっている。

「1938年から39年のシーズンの、
音楽と音楽家たちに対する見解ついて、
彼は手紙でイブリンに、
歯に衣着せぬ内容を書いている。
(今や、彼はセントラルパーク・サウスの
ハンプシャー・ハウスに1フラット持っていた。)
『11月9日
今日はかなり素晴らしいコンサートだった。
ドンキホーテとラフマニノフ自身が弾く第1。
彼は、僕が今まで聴いた中で、
本当に最も素晴らしい(その真の意味で)
ピアニストだ。
彼は、すべてに満足したようだった。

1939年2月16日
田園(V.W.)が好きで魅了される。
それは、これまで、
そこまで感動させられるとは、
思っていなかったほどに感動させられた。
僕が思うに、オーケストラは、
この作品の演奏の中でも、
最高に美しい演奏をした。
彼らも愛し、すごく自然に、
速めたり急がせたりせずともよいテンポだった。

3月2日
エニグマ変奏曲は、最高の熱狂をもたらした。
演奏後にお客さんが会いに来る前に、
僕は少し泣いていた事を告白するよ。
この音楽の中には、すべての言葉を越えて、
僕の心に触れるものがあるんだ。

3月8日
今夜は、僕たちはタリス幻想曲(V.W.)、
ベートーヴェンの第1交響曲、
シュナーベルとのブラームスの第2協奏曲を演奏した。
タリスはもっとも深い印象を与え、
これは本当に美しい作品で、
英国のカテドラルの中でも最高に美しい場所を思い出した。
オーケストラはこの曲に夢中になったが、
これはいい事だろう。
ブラームスは壮麗だったが、
それは、昨日のリハーサルで、
僕が、シュナーベル氏が生まれて初めて経験する、
オーケストラの前での注意をしたからだ。
弱いもの苛めみたいな感じで、
自然とすぐに彼は静かになって、
今夜は、本来あるべき、
ピアノ・オブリガード付交響曲のように、
僕は指揮した。

3月16日
今夜の最高のヒットは、『ジプシー男爵』序曲だった。
僕の仲間らが、どんな風に演奏したか聴かせたかった。
あるヴィーンの老人が後で来て、
僕を、『Herr John・B』と呼んでね。
今夜は本当に素晴らしかった。
ボイスの美しい合奏協奏曲、シューマンの2番、
チャイコフスキーの4番。
シューマンで私が追加した、
新しいホルン・パートやその他を、
可愛い君に聴かせたかったよ。
シューマンに余計な修正はしたくなかったが、
僕は彼を助けたと思う。
何と素晴らしい音楽だろう。
この曲の第2楽章に君も加わればよかったのに。』」

と言うことで、彼が、音楽の事ばかり考えていた、
と多くの人が言うのも肯ける内容である。

どの曲も、彼は最高とかもっとも素晴らしいとか、
連発しているではないか。
しかし、こんな事を考えながら
指揮をしている人の音楽を聴くときは、
おそらく、至福の時に違いない。

この解説はまだまだ続くが、
今回は、このあたりで終わる。

得られた事:「NBC交響楽団は、創設当初から、ニューヨーク・フィルとの戦いを義務付けられた団体であったが、バルビローリは演目などでも対抗、トスカニーニの神格化を嫌う勢力もあって、これはバルビローリ側についていた。」
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by franz310 | 2013-11-10 14:40 | 古典 | Comments(0)