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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その390

b0083728_19463641.jpg個人的経験:
最近、名曲なら何でも指揮して、
何のスペシャリストか
だんだん分からなくなっている
ロジャー・ノリントンであるが、
ベートーヴェンやブラームスでは、
二度も交響曲全集を作っているのに、
シューベルト以降については、
つまみ食い的な記録しか残っておらず、
これまた、悩ましい感じである。
ノリントンの方が選んでいるのか、
CDを作ったり売ったりする方が、
これは、売れないと判断しているのか。


今回、ここに聞く、シューベルトの交響曲集も、
「4番」、「5番」、「6番」、「未完成」だけと、
ちょっと微妙な選曲で、
「未完成」以前の作品では、よく演奏される
「3番」などは含まれていない。

かつての主兵、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏。
おそらくEMIから出ていたものをまとめ直して、
ヴァージン・レーベルから、
2枚組の廉価盤として出されたもので、
ロマンティックな風景画が表紙にあしらわれている。

「ライン川の眺め」という、
W.Klunenbrosch(クルーネンブロシュ)
という人が1853年に書いたものとあり、
シューベルトよりもシューマンの時代に近い作品だ。

川が大きく湾を作り、
山上の城には旗がたなびき、
澄んだ川面には風景が映って、
船なども浮かんでいる。

手前では、村娘みたいなのが、
黒衣の男にブドウを売ろうとしているが、
妙に意味有り気な情景で、
シューベルトというよりも、
シューマンに近い時代の作品ゆえ、
実は、何か秘めたメッセージがあるのだろうか。

というのも、何ともビーバーマイヤー風で、
描写の質そのものは、稚拙とも言えるので、
そんな事よりも描き出したかったものがあるのではないか、
などと憶測した次第である。

何か頭の上に乗せて運んでいる、
少し向こうの女などは、やたら小さくて、
遠近法もめちゃくちゃである。
川岸になびく草が、手前と同じ長さなので、
実にヘンテコである。
ポーズも投げやりである。

その向こうにある建物も、
書割みたいにうすっぺらである。

しかし、山間の街はずれならではの、
空気の爽やかさだけはよく描き出されていると思う。

が、そんな事が描きたいのなら、
手前の男女は描く必要はなかった。
ということで、堂々巡りのように、
いったい、この絵は何なんだ、という事になる。

その男女の様子を、だらしなく座ったまま、
無表情で見ている、左側の女は何なのだ。

このW.Klunenbroschという画家について
非常に気になって来るのであるが、
ネット検索しても、
この絵を描いたとされる人、
としか出てこない。
これは、いったいどういうことだろうか。

ということで、この絵が気になり過ぎて、
シューベルトどころではない。
せめて、ドナウの風景にして欲しかった。

さて、ノリントンの話に戻すと、
彼が、このCDのための録音を行ったのは、
1988年から90年と、ものすごく昔である。

彼は、同時期に、すごいスピードで、
ロマン派の有名な交響曲を録音していて、
シューベルトにばかり、
かまけている時間はなかったのかもしれない。

つまみ食い的な録音が多く、
典型的なのは、ブルックナーで、
「第3」だけが録音された。

最近、シューマンは全集が出たようだが、
それまでは、3番と4番だけが録音されていた。

そんな中、彼は病魔に倒れ、
復活して、彼は、いち早く、
シューベルトの「グレート」を再録音したので、
この曲については高く評価していることは伺える。

事実、CDにおいても、
妙に熱い演奏を聞かせていることは、
この前、確認することが出来た。

その一方で、ノリントン自身の言葉ではないが、
彼が再録音した「グレート」のCD解説には、
「未完成」などは、失敗作、と書かれていた。

いったい、彼にとって、シューベルトは、
どんな作曲家なのか、妙に気になって来た。
というのも、最近、この指揮者は、
3度目の「未完成」を録音したというのである。

私は、それをネットで注文したが、
まだ届いていないので、
彼の第一回録音を聴いてみる。

ただし、このCDは、最初に書いたとおり、
廉価盤として再発売されたものなので、
ノリントンのCD特有の、
リッチな解説がついていないのが残念である。

解説はMark Audusという人が書いて、
饒舌なノリントン自身の言葉が読めないのは、
ノリントンの指揮したCDの楽しみの、
多くの部分が奪われた感じである。
かなり、物足りなさが残る商品といえる。

解説は、次のように始まっている。
「彼の生前、シューベルトは、
主に、歌曲、ピアノ曲、室内楽の
傑出した作曲家として知られていた。
早すぎた死の時までに、
彼は7曲の完成された交響曲と、
6曲の、様々な段階でのこされた、
さらなる6曲を残していたのに、
彼の最も親しい友人たちですら、
その交響曲については、
あまり知らなかった。
後世の人の方が、これらの作品を大事にして、
今や、レパートリーの中でも、
最も好まれるものになっている。
シューベルトの最初の6曲の交響曲は、
ベートーヴェンの最初の8曲が、
すでによく知られるようになってから書かれたが、
シューベルト風の際立った抒情性はあっても、
それらはもっと以前の古典的なモデルに、
先祖がえりしている。」

まあ、初期の交響曲の解説は、
こんなものになるだろうが、
逆に、シューベルトの場合は、
これらの作品の方が、学校のオーケストラや、
有志によるオーケストラで演奏されていた。

第4交響曲が二枚組のCD1の最初に入っている。
解説には、こうある。

「第4交響曲(1816)に、
『悲劇的』というタイトルを加えたのは、
シューベルト自身だが、
ハ短調というベートーヴェン風の調性でありながら、
それは、悲劇的というより、興奮や哀愁のムードで、
ハイドンやモーツァルトの
短調で書かれた『疾風怒濤』交響曲に近い。」

これも良く書かれることで、
私は、このような解説を読むたびに、
書いている人は、
シューベルトが、正しいドイツ語を知らなかった、
と言いたいのか、
などと、いつも問い詰めたくなる。

あるいは、「悲劇的」という題など、
真に受けてはいけませんよ、
とでも言いたいのだろうか。

作曲家が書いた事を実践せよ、
と主張しているノリントンも、
このような意見と同じなのだろうか。

彼なら、当時の「悲劇」というのは、
現代の悲劇とは異なるものであった、
などと書くのだろうか。

初期の交響曲で、唯一、短調で書かれた、
この作品は、少なくとも悲愴な雰囲気を持ったものであり、
異常に神経質とも言え、内省的で、やけっぱちな面もあり、
ハムレットのように、悲劇を引き起こす可能性はある。

「開始部のゆっくりとした序奏は、
モーツァルトの『不協和音』四重奏曲を想起させる。」
と続くが、確かに、似た雰囲気である。
が、こうした解説は、
いかにも、背伸びした若者が、
仕方なく、巨匠の作品をぱくりました、
と書いているように見えて情けない。

実際には、この魅力的な序奏の先頭には、
ばーんという大げさな一撃があり、
主部に移行してからも、
ティンパニを打ち鳴らしながらの、
英雄的なメロディが流れ、
爆発的な絶叫がある。

第2主題も、透徹した雰囲気を持ち、
シューベルトが、この楽章だけでも、
何らかの闘争を描いていると考えて良さそうだ。

「不協和音」の例だけを上げてお茶を濁すのは、
木を見て森を見ずの解説と言わざるを得ない。

ノリントンの指揮は、
弦楽の透明度が高いので、管楽器の分離が際立ち、
ティンパニの強打にもインパクトがある。
コーダなどは、壮絶な表現ですらある。

第2楽章は、闘争の後の憩いのような開始だが、
途中から、葛藤するようなフレーズが現れる。
解説には、
「続くアレグロや、この曲のいたるところで、
シンコペーションや絶え間ない内声の動きが、
不安感をかき立てている。」
とあるが、ここにあるように、
全編を通じて、非常に苦悩を背負う姿勢がある。

それが「疾風怒涛」だ、
と言われれば、それまでであるが。

この曲の解説は、以上で終わりであるが、
終始、不安感をかきたてるのであれば、
十分、悲劇的と言えるような気がする。

第2楽章、ノリントンは、憩いと憧れ、
こみあげる不安を交錯させて、
とても表情豊かな音楽を作り出している。
この楽章のエンディングは、
木管が重要な役割を果たすが、
その効果も鮮やかである。

続いて、粗暴とも言える、
やけっぱちな第3楽章の、
全然優雅ではないメヌエット、
焦燥感をもって、破滅に向かうような終楽章が来る。

ノリントンは、第3楽章のトリオを、
かなり速めに演奏し、緊張を保っている。
第4楽章でも、内声部の、不気味な動きを際立たせ、
脈動、律動する感じを大切にしている。
ティンパニの打ち込みも鮮烈である。

ばーん、ばーんとさく裂するような、
金管群も存在感があり、
木管の軽妙な動きも異質なものを感じさせる。

このように聴いてくると、
ハイドンやモーツァルトにはなかった世界であり、
私は、「悲劇的」というタイトルで問題なしと見る。

「第4」の次には、「第6交響曲」が収録されているが、
解説では、CD2の最初に入っている、「第5」が来る。
「シューベルトの初期の交響曲で、
最もポピュラーなものである、
『第5』(1816)は、
天才の火花の四つの音符が、
メイン・テーマを開始するカーテンを開く。」

この解説は、聴きたいという気持ちを引き立てるので、
大変、良いと思うし、うまい言い方だと思う。

「作品に漲る魅惑の一部は、
フルート一本、各一対の、
オーボエ、バスーン、ホルンに限定された木管を伴う、
室内楽風のスコアに基づく。」

実際、この曲は、フルートの音色が、
冒頭から非常に印象的なものである。

このような楽器の分離は、
ノリントンが得意とするところで、
この演奏でも、まるで、空に描かれた虹のように、
フルートのひなびた音色が、
要所要所で舞い上がる。

この曲は、多くの大指揮者が演奏してきたものだが、
それらと比べて、すっきりした編成で、
速いテンポで飛ばして行く。
コクもあってキレもある感じだが、
ちょっと落ち着かない感じもあるかもしれない。

休日の朝の音楽と言えば、
ハイドンを想起してしまうが、
それよりもずっと天国的で、自然である。

「モーツァルト風の均衡と創意が、
シューベルト特有の
大胆な和声の寄り合わせと組み合わされている。」

解説は、これで終わっていて、
どの曲も、一部の事にしか触れられていない。

第2楽章も、穏やかで優美な音楽で、
まるで、故郷に帰って来たような懐かしさを感じるが、
ノリントンの指揮では、変幻自在の音楽つくりが、
潜んでいた不安感を抉り出す感じ。

中間部の内省的な音楽が、妙に身に染みて痛い。
ここでも、第4交響曲同様、
ざわざわと落ち着かない内声部の動きが強調されている。

確かに、シューベルト自身の心情は、
こんな感じだったかもしれないが、
まさか、それを表現しようとして、
この曲を書いたわけではないだろう。

第3楽章も、少し、
しかめっ面のシューベルトになっている。
青春の希望に満ちた交響曲として、
これまで大家が取り上げて来た作品であるが、
「悲劇的」同様、何か、強烈な焦燥感を漲らせている。

トリオなども、ぶっきらぼうで、
これまでの演奏では、自然に抱かれるような、
優しさがあったはずだが、
畳み掛けるように演奏されて、
都会の孤独に立ち尽くすシューベルトになっている。

終楽章は、ラヴェルのピアノ協奏曲のように、
「お開き」の終楽章という位置づけであろうか。

が、ここでも、主テーマこそ、
明るい微笑みが感じられるが、
曲が進むと、何だか苛立たしげな表現が錯綜し、
まったくもって、
疾風怒濤の音楽になってしまっているではないか。

第1楽章で虹を描いていたフルートは、
何だか、檻の中に閉じ込められてしまった感じ。

第4が春に作曲されたのに対し、
むしろ、この交響曲は、10月の音楽だった。

「第6交響曲」も「第4」と同じ、
じゃじゃーん系の序奏を持っている。
CD1の後半、「第4」に続いて収録されている。

「時として、『小さな』ハ長調と呼ばれる、
『第6交響曲』(1817-18)は、
シューベルトの新境地の模索を見せている。
まごうことなく、未だ古典的であるとはいえ、
ベートーヴェンやロッシーニ(ヴィーンではやっていた)
の影響が見える。」

これは、良く書かれる事であるが、
確かに、ばーんばーんと威勢の良い音楽である。

時として、単に、ロッシーニの影響で、
単純明快であることばかり語られる音楽であるが、
下記のポイントは、あまり注意して考えた事がなかった。

「独立した木管楽器の書法は新基準に至り、
シューベルトは第3楽章に初めて、
『スケルツォ』と記した。」

確かに、序奏部からして木管アンサンブルが、
独特の効果を見せていて、
何と、第1楽章のメインテーマまでが、
この編成で歌いだされる。

ノリントンの指揮では、
いつもながら、すっきりと風通しよく、
弦楽と管楽器の描き分けが美しい。

第2楽章は、中間部で、どんちゃら始まるので、
いや、それ以前に、
弦楽でひそひそ話風に始まる主題からして、
ロッシーニのオペラの一場面を見る感じがする。

ティンパニもどかどか鳴って、
この曲で、軽妙なアリアを歌わせるだけで、
シューベルトはヒットするオペラを書けたかもしれない。

ノリントンはそういえば、
ロッシーニも得意とする指揮者だった。

一つ一つの楽節の息遣い、間の取り方、表情など、
ものすごく、ツボを押さえた演奏だ。
ロッシーニが完全に憑依した音楽になっている。
舞台の上のパントマイムすら目に浮かぶようだ。

これには、私は、完全に参ってしまった。
ロッシーニ風という言葉が、
完全に納得されてしまった。

第3楽章も、めくるめく音楽で、
劇場用の音楽でないことが惜しまれる。
ロッシーニの喜劇で起こる、ぺてんや陰謀の、
やばい雰囲気が、完全に、ここで再現されている。
ロッシーニも、交響曲の作曲をするなら、
こんな曲を書いて、聴衆にあっかんべをして見せたかもしれない。

トリオの、意味有り気なリズムの刻みも、
舞台上の俳優の一挙手一投足を見ているような感じである。
リズミカルに、テンポよく、場面が転換する。
木管楽器のコミカルな響きが、
この場面が、秘密の場面で、聴衆にだけ見せてあげる、
という感じを出している。

この交響曲は、初期の6曲の中では、
むしろ、単純なものだと考えていたが、
これはかなり高度なパロディである。

終楽章でも、ロッシーニ風の、
ひそひそと、種明かし、緊迫した一瞬に、
大団円風の雄大さが交錯していて、
これは、魔法と想像力に溢れた交響曲だと得心した。

さすが、シューベルトは、
ロッシーニの毒に当てられて、
ただ、模倣したわけではない。
みごとに、その管弦楽法の効果を会得し、
声や演技なしで、ロッシーニの音楽で、
くり返されている人間の営みを描き出してみせた。

「第6につづいた
シューベルトの交響曲の創作の試みは、
満足できるものではなかった。
『未完成』に先立つ2曲は完成されなかった。
その間、シューベルトは、
ゲオルグ・フォン・ホフマンのメロドラマによる、
『魔法の竪琴』の音楽を書いた(1820)。
舞台のための音楽は、常に、シューベルトに、
少ししか成功をもたらさなかったが、
この序曲は彼の作品の中で、
最も洗練され華麗なもののひとつである。」

この序曲は、この二枚組の最後に収められているが、
ノリントンは、シュトゥットガルトでも、
これをすぐに再録音したから、
この曲が好きなのであろう。

「ロザムンデ序曲」として知られるものだが、
これを何度も演奏して録音した指揮者は、
そんなにいないのではないか。

序曲に相応しく、ノリントンの指揮による演奏は、
思いっきりが良く、豪壮で軽妙。
速めのテンポで飛ばすが、
長いオペラなどが続く場合、
いかにも、こんな感じで幕が開くのかもしれない。

劇場でのリアリティが感じられる演奏で、
そう思って聴かないと、
せっかちな演奏に思えるだろう。

録音も、陰影が乏しく、
この曲だけを聴くには、
別に、この演奏である必要はない。

このような前提で聴かないと、
ノリントンの指揮は、悩ましいものも多く、
だいわ文庫の「クラシック名曲名盤独断ガイド」でも、
「未完成交響曲」の「ワースト演奏」に挙げられている。
「直線的な演奏」と断じられている。

以下、「未完成」についての解説である。

「『未完成交響曲』に先立つ、
シューベルトの初期の作品は、
この作品ほどの規模と凝縮を持つものはない。
この作曲家の最も重要な、
交響曲のトルソである。
『梅毒』の症状の始まりが、
この作品を完成させなかった原因かもしれないが、
しかし、シューベルトは、
単に、この完成された2つの楽章に、
続けることが出来ないと考えたのかもしれない。
この作品の調性『ロ短調』からして、
当時のオーケストラの作品には例外的で、
トロンボーンの追加によって、
深刻な響きをもたらし、
驚くべき開始部の深さから、
2つの楽章の激情的な頂点を経て、
ほとんど諦めるような微妙な終結まで、
作品は幅広い表現力を探求している。」

この解説は、この作品の聴きどころや、
特徴が要領よくまとめられていて悪くない。

このCDの演奏、
私が聴いた感じでは、ノリントンにしては、
たっぷりとした息遣いを感じさせ、
「グレート」の時のような意外さはなかった。

かといって、ワルターのような、
どっぷりロマン派であるはずはなく、
解説にあるような、病気の影響で、
後が書けません、というような危機感のあるものでもない。

ノリントンの行き方であれば、
当時はこんな編成で、
こういう美学で書かれたはずだから、
こんな演奏がいいでしょう、みたいな感じだろう。
当時のオーケストラの楽員や聴衆が、
納得したであろうような演奏を、
心がけているはずである。

古典的にすっきりさせることを優先しそうで、
それが「直線的な演奏」と書かれる理由と思われるが、
第1楽章など、じっくりと、論理的に、
圧倒的なクライマックスを築いており、
美学こそ古典的かもしれないが、
壮大な構想で組み立てられた、
立派な作品、という感じをちゃんと引き出している。

再現部なども、
主題が、息づくようなフレージングで処理されており、
コーダも、表情は豊かで、
作曲当時の基準では、
十分にぶっとんだ作品であった事が理解できる。

第2楽章が、むしろ、直線的と言われる所以かもしれない。
歯切れよく、かなりあっさりと進んでいく。
しかし、「グレート」の演奏でも、
緩急の差は、古典の時代は少なかった、
と主張する彼の事であるから、
あまりに美しい楽章であるからと言って、
これだけを、嫋々と演奏するわけにはいかないだろう。

その代わり、第2主題などは、
出来る限りの表情を付けており、
クライマックスとの対比が痛い。

ベートーヴェンの交響曲が超前衛だったとしても、
このあたりの表現は、それをさらに先に進めた、
破格の音楽であることは、よく分かる。
むしろ、これは、それを伝えるための演奏のはずである。

得られた事:「ノリントンの指揮で聴くと、典雅な『第5』は、疾風怒濤の感情を秘め、明朗な『第6』は、ロッシーニが演技と声で表して来た、人間存在の多面的なリアリティが管弦楽だけで描かれていることが分かる。」
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by franz310 | 2013-09-29 19:46 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その389

b0083728_1545282.jpg個人的経験:
ノリントンは、一時、
病気で活動を中断していたので、
自ら創設した楽団は、その間、
惜しくも解散してしまった。
その後、彼は復活して、
活動を再開したが、
それは、通常のオーケストラの
指揮者としての活動となった。
転んでもただでは起きない感じで、
彼は、かつて録音していた曲目を、
改めて録音し直していった。
したがって、「グレート」にも、
こうした再録音盤がある。


ドイツのヘンスラー・レーベルに録音したもので、
表紙は、リーダーの筆による、
シューベルトの堂々とした肖像画を配し、
その後ろにノリントンの写真が、
ごく控えめに合成されている。

このシリーズは、
ベートーヴェンの「第9」など最悪だったが、
表紙を、やたらノリントンの写真だけで、
安易に乗り切る傾向が強い。

だが、2001年7月の録音である、
このCDは、まだ、凝ったデザインとなっている。

あと、おもしろいことに、
ロンドン・クラシカル・プレイヤーズとのCDでは、
「繰り返しはすべて行うべきだ」
と語っていたのに、
シュトゥットガルト管弦楽団との録音では、
第3楽章と第4楽章がかなり短くなっている。

そのため、全体の演奏時間が、
10分も短くなってしまったので、
申し訳ないと思ったのか、
前回は1曲勝負だったのに、
「魔法の竪琴」序曲が併録されている。

自由自在に使えた集団の方が、
ユニークな演奏が出来たかもしれないが、
再録音に及んだとすれば、
既成の勢力との拮抗からも、
何らかの新境地が生まれたのであろう。

ライブ録音という事もあって、
かなりノリのよい演奏になったと思う。
第1楽章で、序奏から主部に向かって、
速度を増す時の、
気迫のこもった素晴らしい加速感は、
演奏会の熱気に後押しされてこそ、
という感じがする。

旧盤は、これに比べると、落ち着き払っている。

しかも、解説は、前の論調の続編のような感じで、
なおも、ベートーヴェンとの関係を力説しているのが興味深い。
ただし、ノリントン自身の解説ではなく、
ハルトムート・リュックという人が書いている。

ベートーヴェンの「第9」の歌詞、
「Freude,schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium」
から取って、
「神々の火花に霊感を受け」
という題名になっているので、
全編がこの調子だと言いきって良い。

「『ベートーヴェンの後で、
誰が、何か重要な事ができるだろうか。』
友人のシュパウンに宛てた手紙に、
シューベルトが書いた問いは、
確かに、1820年代の
一般的感覚を表現しているが、
これこそが、シューベルトの交響曲の書法に、
非常に特別な道を開くこととなった。
1813年から1818年の間に書かれ、
今日、『若々しい交響曲』と考えられている、
彼の最初の6曲の交響曲では、
この問いは単純に現れておらず、
シューベルトは、ハイドンやモーツァルトの、
古典的な交響曲のコンセプトをマスターし、
彼自身の中にその伝統を入れて、
個性的なものとした。
シューベルトは、ベートーヴェンが、
1803年から4年にかけて作曲した、
第3交響曲『英雄』で明らかに宣言していた、
画期的な新しい交響曲の考え方を、
ただちに認め、対応しようとしたのではなかった。
しかし、その『若々しい交響曲』の時代が終わると、
シューベルトは、
『ベートーヴェン以降の作曲家』としての
すさまじい自覚を持つに至った。」

この「若々しい時代の交響曲」に対しては、
ノリントンは、あまり、録音していないが、
シューベルトに関しては、危機意識を反映した作品に、
興味が集中しているのであろう。

ただし、ここで録音されている
「魔法の竪琴」序曲も、比較的若い頃の作品である。
非常に豪快な演奏で、開放的だが、
少々、炸裂音が目立つ、
やかましい感じの音楽になっている。

さて、解説は、以下のように延々と続く。

「『ベートーヴェンの後で何が出来るだろう』。
この問いを自問した時、
長い格闘の年月、
彼が交響曲の世界に足を踏み入れるための、
ひどく苦しい追及の始まりとなった。
いくつかの交響曲の断片が、
その間、捨て去られ、
壮大な構想はどこかで潰え、
それから、ホ長調の交響曲が出来たが、
総譜としては短いドラフトが出来ただけであった。
しかし、これは、のちに多くの人によって、
オーケストレーションされることとなった。
最後に、たとえ、最初の2楽章の後は、
第3楽章のスケルツォの、
打ち捨てられた草稿が示すように、
エネルギーもアイデアも尽きた、
失敗の告白となったとはいえ、
明らかに彼自身の目指す方向の、
巨大な一歩と言える、1822年の
『未完成交響曲』ロ短調の2つの楽章が来る。
(シューベルトの失敗の中においても、
天才的なものがある。)」

と、「未完成」も「天才的失敗作」と断じて、
先を続けている。

「正しい方向に導かれるために、
シューベルトには、何か、特別な機会が必要だった。
それは、皮肉にも、
ベートーヴェン自身が自らの交響曲の概念を越えた、
ベートーヴェンの作品であった。
シラーの『歓喜に寄す』を終楽章の合唱に持つ、
『第9交響曲』ニ短調であった。
1824年5月7日、ヴィーンでの『第9』初演に、
シューベルトが臨席していたという確実な証拠はない。
しかし、1824年3月31日に、
レオポルド・クーペルウィーザーに宛てた手紙に、
はっきりと、来たるべき演奏会について述べており、
彼がそこにいた可能性は大きい。
これまた、重要な事に、彼の所有物の中に、
ベートーヴェンの『第9』の第2、第4楽章の、
トロンボーンのパート譜があった。
(これは、シューベルトの大ハ長調交響曲が、
3本のトロンボーンを
極めて個性的に使っているという見地で、
極めて興味深い。)
したがって、シューベルトは、
『第9』を実際、よく知っていたのである。」

これは、すごい情報だ。
トロンボーンのパート譜だけからも、
何とか勉強しようとする姿勢に、
並々ならぬ情熱を感じるではないか。

「多くのハ長調交響曲に関するエッセイが、
終楽章の展開部の冒頭で、
ベートーヴェンの『喜びへの頌歌』のテーマの
パラフレーズが聴こえることについて述べている。
しかし、それだけなら、この観察は間違っている。
シューベルトの作品が、多くの重要な引用を含むとはいえ、
(イ長調四重奏曲D804での、グレートヒェン、
美しい世界、ロザムンデの付随音楽からの、
引用を思い出すだけで良い)
引用の使用は、彼の美学的思考にとって、
むしろ異質なものだった。
事実、『喜びよ、神の火花よ』の示唆は、
引用といえるものではなく、
シューベルトは、
すでに第1楽章のアンダンテから
すでに表れている、
彼自身の動機として、
あるいは、動機的な断片として
取り上げたのである。
この断片は、しかし、明らかに、
再び、ベートーヴェンに起因するものである。
ベートーヴェンの
『喜びへの頌歌』のテーマの音楽的素材は、
シューベルトの交響曲全曲に、
様々なヴァリアントや変容として浸透している。
ベートーヴェンの極めて単純なメロディは、
中音からドミナントで上がって、
トニックで下がる全音階のスケールに
従っただけの動機群を形成している。
(最初のスタンザ、
『Freude,schooner Gotterfunken・・
Himmlishe, dein Heiligtum!』)
同様の動機は、シューベルトの交響曲にも
見られるものである。
導入部のホルンのテーマでさえ、
ベートーヴェンの中間部分
(『Deine Zauber』という部分)に同様にみられる、
上がって下がる音形を含んでおり、
シューベルトの導入部の最後は、
主要主題と、トニックCへの中間音に
調整するために、再度、変容がある。
また、『喜びへの頌歌』の最初のラインは、
木管とホルンに聞くことが出来る。」

これは、歌詞で書いてあって、非常に分かりやすいが、
昔、日本で唱歌風に歌われた時のメロディそのままである。
「晴れたる青空 ただよう雲よ
小鳥は歌えり林に森に
こころはほがらか
よろこびみちて
見かわすわれらの明るき笑顔」
の「こころはほがらか」の部分、
実際の歌詞では、
「その魔法は結び合わせる、
断ち切ったものを」という意味の部分。

たまたまであろうが、
このシューベルトの作品も、
非常に「ほがらか」で、
「魔法」に満ちた作品に感じられる。

「第1楽章の開始部
(力強いリズミックな信号のような主題で、
巨大で、前進するエネルギーを生み出すもので、
ベートーヴェンの第7交響曲の最初の楽章と終楽章の、
リズミックな動機と同様、この楽章全体を支配する。)
の後も、『喜びへの頌歌』のテーマ、
または、その一部は、フレーズの後や、
遷移する際のテーマ処理に展開が続く。
シューベルトの終楽章の同様の箇所もまた、
この楽章の主題のアフター・フレーズや、
副主題を元にしており、
これもまた、4つの同様の音符からなる。
このように、まず、これは、
『自身の引用』とも呼べるもので、
ベートーヴェンは二義的なものなのである。」

ここまで、ベートーヴェンの影響を語りながら、
ベートーヴェンは二義的と言い切るのも、
かなり無理やりなロジックであるが、
とにかく、「ほがらか」主題が、
全編に溢れるのは、その構成のため、
と言いたいのであろう。

「このポイントを再度強調しておこう。
シューベルトはベートーヴェンの
『喜びよ、神の火花よ』を、
現代的な意味で引用したり、
組み込んだわけではない。
彼は、これを完全に自分のものにして、
主題の音楽的重要成分として適用した。
そこから彼が展開させたものは、
典型的なシューベルト的主題材料で、
それが、『喜びの頌歌』に似たものを産んだのである。
同様にベートーヴェンの遺産に属するものに、
4度の跳躍を伴う、付点リズムがある
第1楽章のメイン主題や、
終楽章のシグナル3度を伴う
柔らかいアフター・フレーズ(後楽節)、
分散三和音などがある。」

「歓喜主題」に似ているのは、
ベートーヴェンの引用ではなく、
確かにベートーヴェンの遺産であるが、
そこから発展したものであるという論法のようだ。
が、こんな事は、どうでも良い。

冒頭の高らかなホルンからして、
(幽玄なホルンではない)
「心はほがらか」な感じである。
その精神をシューベルトが、
しっかり受け取った事が分かれば良い。

どーんとこの序奏主題が繰り返される迫力も、
入魂の演奏となっている。

序奏の後半で、木管が歌いかわす部分も、
緊張感が高く、手に汗握る推進力である。

「それにしても、シューベルトは、
彼の唯一の完成された『大交響曲』に対し、
ベートーヴェンの『喜びへの頌歌』主題を、
そのスターティング・ポイントのように
選んだのだろうか。
その説明は、『時事性』というのは難しく、
シューベルトがその交響曲を
1825年から26年に作曲しているのに対し、
『第9』は1824年5月に初演されている。
しかも、シューベルトのような、
天才的なメロディストには、
主題を借りる必要などなかった。
モデルを引用することで、
自身の交響曲のデザインを、
より、確実なものにしたかった、
という考えは、
十分に自己不信の状態であったとしても、
同様に排除されるべきであろう。
彼が書き散らした交響曲の断片からしても、
そんな事はしないだけの自信を持っていた。」

かなり回りくどい文章で、
シューベルトは、真似をしたのではない、
ちょうど、彼の心情にマッチしたのだ、
と言っている。
それは、以下に述べられる。

「シューベルトの人生における、
その時の状況の中に、
その理由が見つけられる。
作曲家が絶望で、ひどく同様した様子を伝える、
1824年3月31日の、
クーペルウィーザー宛ての、
すでに紹介した手紙が、
特に、このことと関係している。
シューベルトは、感染した梅毒で、
長く生きられないことに気づいていた。
『一言でいえば、僕は、
健康が2度と回復することのない、
もっとも不運な、もっとも惨めな人間だと思える。』
このような状況下で、
シューベルトはベートーヴェンの『第9』を聴き、
『全人類は兄弟となる』という、
ヒューマニスティックな呼びかけと、
完全に聴覚を失っているばかりか、
慢性疾患に苦しみ始めていた作曲家の呼びかけを聴いた。
彼は、無気力状態から叩き起こされた。
芸術的にも、ヒューマニズムの理解という意味でも、
シューベルトは、
メッテルニヒの反動政治に反対し、
1848年の3月革命を先導するようになる、
フォアメルツ期の『ユンゲ・ドイッチュラント』
として知られるようになる文学運動を形成する、
作家たちに親近感を覚えていた。
シューベルトは、事実、彼の親友、
ヨーハン・ゼンがメッテルニヒの秘密警察によって、
捉えられる現場に居合わせた。」

このあたり、シューベルトの生涯のいろいろな事件が、
錯綜して書き込まれているが、
一番、気になるのは、
本当に、シューベルトは、『第9』を聴くまで、
Apathy(無気力)であったかどうかである。

1824年と言えば、シューベルト気違いなら、
すぐに、カロリーネとの年、ツェリス(ゼレチェ)の夏を、
思い浮かべなければならぬ。
5月と言えば、その月の末からかの地に出かけている。
この前に、イ短調、ニ長調の四重奏曲が書かれ、
八重奏曲が書かれていることを思うと、
くじけそうになりながらも、彼は無気力ではなかった、
と考えるべきであろう。
全く、「無関心」と訳されるような状態ではない。

が、これらの記載は、下記のような、
燃えるような賛美のための跳躍台となっている。

「ベートーヴェンの『第9』は、
シューベルトにとって、
一種のショック療法となった。
それは途方もない創造力の高揚を彼にもたらし、
長い間大切にしてきた、
交響曲のプランを最終的に結実させた。
そして、彼は、いくつかの事項で、
『ベートーヴェンの後で何か重要な事をする』
ための道を発見もした。
ベートーヴェンは、『合唱の部』を用いて、
自らの交響曲のコンセプトを越えて見せたが、
シューベルトはそれには倣わなかった。
事実、彼が他の多くの作品で、
(再び、イ短調四重奏曲が好例だが)
意味があるものであるのにかかわらず、
歌の部分なしに着想ができた。
そこから、何か新しいものを作り出した。
その初演における『第9』の熱狂的聴衆の反応と同様、
その後になって分かることだが、
ベートーヴェンの人間主義と、
兄弟愛の呼びかけは、時代の扉を叩き、
『喜びへの頌歌』のメロディは、
その意味を、時代を越えて満たした。
このように、シューベルト自身の
『想像上の合唱交響曲』は、
音楽的にも、政治的にも、
このようなベートーヴェンの精神を運びつつ、
シューベルトがピアノ曲や室内楽で開拓した、
独自の領域に収めた。
今や、彼は、これらをベートーヴェンの遺産と結びつけ、
驚くべき近代性を持った
革新的な交響曲のコンセプトを作り上げた。
ここではもはや、
ベートーヴェンの芸術にあった、
二元論的ドラマが支配するのではなく、
ひろいレンジで変容し、楽器の色彩を生かし、
くり返され、歌いつくされ、
動機の旋回が終わることなく止まるように見える、
ようなものが置き換わった。
これは後に、シューマンが、
1839年のこの交響曲に対する情熱的な記述において、
その『天国的な広がり』をジャン・パウルの小説と比較したのも、
正当化できるもので、
これは叙事詩的な作品という、
新しい交響曲の美学の嚆矢となった。」

という風に、「第9」で撒かれた種は、
どえらい大木に育ってしまった、
という感じである。

「音楽の発展と、社会的な緊張を考えると、
我々にとって、
シューベルトの音楽の何が新しく、
何が有意義でかを感じ、
そして、その意識下のメッセージを掴むには、
ある種の歴史的距離感が、
おそらく、必要なのであろう。
1839年3月21日の
ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスにおける、
フェリックス・メンデルスゾーンの演奏の時、
シューマンの報告にあるとおり、
この作品は熱狂的に賞賛された。
『この交響曲はベートーヴェン以来、
私たちにかつてない効果をもたらした。』
しかし、最近、この作品の真の初演は、
10年前に行われていたことが証明された。
1829年3月12日、ヴィーンにおける
『コンサーツ・スピリチュエルス』
の演奏会においてである。
このイベントは、新聞には何の反応も起こさなかった。」

こんな事があったとは、まったく知らなかったが、
フェルディナント・シューベルトは、
シューマンに、そう告げなかったのだろうか。

シューマンもジャーナリストであるから、
成功しなかったと思われる演奏などは、
知っていても、なかった事にしたかもしれない。

また、これは、革命期まで活躍した、
フランスの音楽集団、
コンセール・スピリチュエルとは関係ないのだろうか。

「シューベルトは、ハイドン、モーツァルト、
ベートーヴェンが用いた、
古典的な交響曲形式を固く守っている。
第1楽章には、ゆっくりとした序奏があり、
提示部は3つの主題を持ち、
大規模な展開部に再現部、
序奏の主題が回帰する、
加速するテンポによる、
拡大されたコーダが付く。」

この演奏を聴いていると、
素晴らしい推進力とリズム感によって、
目まぐるしく、目の前の光景が変わっていき、
様々な楽器が、解像度良好で彩りを添え、
さすが、ライブの熱気を感じずにはいられない。

ノリントンだけでなく、聴衆の顔を見ている、
楽団員の方もまた、何だか、はち切れそうな思いで、
この曲の流れに身を委ねている感じがする。

が、反対に、これが、いくぶん一本調子にも聞こえ、
力任せの感じがしなくもない。
この演奏では、
第1楽章が最も長く14分2秒かけているが、
後半になると、少し、そんな感じがしてきた。

「モデラートのテンポによる
『緩徐楽章』は、二重二部形式(A-B-A’-B’)
(拡大された三部形式と書く人もいる)で、
メランコリックな雰囲気は、
まるで断崖に出くわしたかのような、
3度のフォルテを伴う
ドラマティックなクライマックスに高まる。
突然の全休止の後、最後のセクションに移る。」

第2楽章のクライマックスは、
これまで、最後の審判のように思った事はあるが、
「断崖」だと感じた事はなかった。

この楽章の演奏もまた、
さく裂系で、ノリントンも楽団も、
熱に浮かされたような夢遊病状態で、
前半に突入するので、どうなるかと思った。

が、上記Bの部分では、
少し、心を落ち着かせて、
有名なホルンの呼び声のところなど、
神秘的な感じを何とか出している。

上記A’の部分は、再び、ティンパニの強打など、
乱暴な表現で、猪突猛進傾向のまま、
「断崖」のクライマックスに突入する。

猪突猛進ならどっかでぶつかるしかない、
という感じで、あまり、白日夢を見た時のような、
ぞっとするような恐怖感はない。

むしろ、この後、何故、
このような晴れやかさが戻るのか、
それがかえって不自然に感じられなくもない設計である。

この第2楽章、このような突進&激突系解釈が、
正しいかどうかは、これまでのノリントンの解説にもなかった。
彼は、ただ、後期ロマン派のような遅い表現は、
この時期の作品として不自然である、とは書いていた。

「性格的な第3楽章スケルツォは、
騒々しいレントラー。」

この楽章は、この解説では、
マーラーの先駆、
みたいな解釈が開陳されていたが、
普通の演奏なら、
さすがにマーラーのグロテスクさはない。

が、この演奏では、楽器編成のあっさりした所と、
様々な楽器が絡まり合う所と、
楽器が強奏されて、ぐしゃっとなる所の落差が大きくて、
テンポが速いこともあって、それを意識してしまうと、
異様な光景が繰り広げられているように見えてくる。

この演奏全体を特徴付ける、
熱に浮かされたような、
あるいは、脅迫観念に追われるような、
前進する力が、
たっぷりとした音楽だと思っていたトリオも、
急き立てるように進めて行く。

まるで、怒涛が押し寄せるような、
金管の破裂音も印象的である。
やりたい放題やっているのを聴くのは、
何となく楽しい。

「最後の楽章は、再びソナタ形式。
すでに述べたように、
第1楽章の動機の木霊が、
作品を締めくくる。」

無限とも思える繰り返しを要求されるヴァイオリン群も、
何となく、高揚感を持って、リズムに乗って、
血液がどくどく流れている感じがして良い。

これまた、突進・激突系で、ばーんと砕け散って、
次の音楽が再開する感じである。
旧盤のような、聴きなれない音形を介しての、
繰り返しはない。

それでも、火照りきった音楽が、
異常な高揚感を持ったまま、
ずっと続いて行くのは、
不気味な光景でもあり、
すごいことだとも思うが、
実演のその場に居合わせたわけではなく、
ちょっと引いてしまうかもしれない。

と言う風に、ノリントンのCDを聴いたが、
私は、この指揮者は、
もっとしなやかでスマートな演奏をする人だ、
と考えていただけに、少し戸惑っている。
演奏後、すぐにブラボーが出て、
聴衆の拍手も熱いのだが。

解説は、以下のように、
この曲の歴史的な立ち位置を紹介する、
最後のページに移っていく。

「しかし、この交響曲の次元は、
シューベルトの室内楽やピアノ曲で、
すでに見られた傾向であるが、
あくまで桁外れである。
音楽の流れは、
短いドラマのシーンからではなく、
叙事詩のプロポーションの、
幅の広い情景の挿画によって引き起こされ、
時として、意識下の、時として精力的な運動が、
拡大された形式各部を構成する。
これは、のちに、ブルックナーによって使われる、
交響曲の手法の基本であり、
その作品は、シューベルトのハ長調交響曲なしに、
想像することが難しい。」

私も同感であるが、
昔、ブルックナーが好きな友人に、
これを言って、
「最近、グレートを聴いてみましたが、
どこが似てるんですか」
と言われた事を思い出した。

ブルックナーとマーラーはまるで違う、
と言うのが、最近支配的な論調であるが、
以下のように、
どっちもシューベルトの子孫だという記述もある。

「同様の事はマーラーにも言え、
アドルノの言う『叙事詩的作曲』は、
シューベルト由来のものである。
そして、シューベルトに典型的な、
レントラー風の音楽は、
マーラーの後期にも見られ、
マーラーの『第9』の第2楽章がそうなっている。」

さらに、下記の作曲家は、
ちと違う、というのも面白い。
シューマンは、この曲を聴いて第1を書き、
ブラームスの第2は、この曲の子孫だと言われていた。

「こうした特徴は、ベートーヴェン以降の、
直系の交響曲にはなく、
メンデルスゾーン、シューマン、
ブラームスにも、これは見られない。」

という感じで、
締めくくりは、当然、
このようになるであろう、
という雄大な視点による総括である。

「このようにシューベルトは、
そのハ長調『大』交響曲で、
ずっと未来を見通していた。
しかし、シューベルトがすぐに、
ベートーヴェンの『喜びへの頌歌』の主題に
付け加えたメッセージは、
あたかも歴史の特使が伝えたもののようだ。
それは、ヒューマニズムを覚醒し、
抑圧からの解放、人類の兄弟愛に関するメッセージであった。
このように見て来たとおり、
シューベルトのハ長調交響曲は、自由の賛歌であり、
ベートーヴェンの『第9』の価値ある後継者なのである。」

得られた事:「シューベルトは、長らく『次世代交響曲』のコンセプトを模索していたが、ベートーヴェンの『第9』から、それとは違うビジョンを見出した。」
「解説も演奏も熱に浮かされた1枚。」
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by franz310 | 2013-09-15 15:05 | シューベルト