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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その388

b0083728_2227308.jpg個人的経験:
前回、ノリントン指揮による
ヴォーン=ウィリアムズの
「交響曲第4番、第6番」を
さらっと聴いてみたが、
常に話題を振りまいて来た
この指揮者がシューベルトを、
どのように捉えているかを、
ちょっと再確認してみたくなった。
変わった演奏である事は知っている。
うまい具合に、1988年に
EMIに録音した「大ハ長調」には、
彼自身が書いた解説が載っていた。


オリジナル楽器での演奏を集めた、
REFLEXEシリーズのもので、
アルプスの高峰をあしらった、
Tim Gravestockによるイラストも、
志高く、秀麗なれど、孤独という感じが、
それらしくて好感が持てる。

彼自身が創設した、
ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによる演奏で、
Abbey Roadスタジオでの録音。

彼が書いた解説の題名にも、ずばっと、
「Schubert:Symphony No.9
in C major,“Great”」
とあって、
ノリントンのこの曲に対する敬愛が、
何となく読み取れたような気もした。

シューベルト没後150年の1978年、
ドイチュ番号カタログ全面改訂版以来、
この曲は8番とする流れがあるが、
あえて、「9番」としているし、
「Great」と言い切っているのも、
ちょっとうれしい。

しかも、冒頭から、
「シューベルトの大ハ長調交響曲は、
初期ロマン派における一つの勝利である。」
と断言していたりして、
うれしい限りである。

そして、以下のように、古典の伝統に則した
解釈の重要性が語られていく。

「全体として、
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの
古典的交響曲群の後継者としての価値を持ちながら、
この曲は極めて個性的である。
田園交響曲の伝統による喜びの賛歌であり、
盛期、後期ロマン派を通して聴かれる、
ロマンティックな新しい和声が鳴り響いている。
この作品は、私たちも彼自身も、
シューベルトの成熟した交響曲群や、
もっと普通に、彼が長生きしていたら、
疑うことなく登場したであろう
オペラ群の最初の傑作である、
とみなすべきものであった。
歌曲とピアノ曲の輝かしい時代、
セミ・プライヴェートな演奏会用の
室内楽や小規模の交響曲群の時代を経て、
ヴィーン近郊を越えて彼の名前を轟かすような、
大規模な公的発言としての
『大交響曲群』の時代が到来した。
これは、しばしば誤解されてきたような、
別れの音楽では決してなく、
むしろ若々しく新鮮で、
集中して前を見た作品なのだ。」

過去の巨匠たちの流れの中から、
この新世代のホープが放った快挙として、
ノリントンは最大級の賛辞を送っている。

「ベートーヴェンの生涯の幕が
引かれようとしている時に、
シューベルトは、自身の傑作に、
最後の筆を入れ、楽友協会に提出した。
ベートーヴェンの影を引きずった、
舌足らずの作品ではなく、
この交響曲は異常なほどの自信を見せる。」

確かにそうだ。
そして、ノリントンは、
楽聖との関係をかなり意識した解説にしている。

「成熟した新しい雰囲気は、
すでに『未完成交響曲』に鳴り響いていた。
しかし、もはやためらいはなく、
完全なる達成があった。
多くのベートーヴェンの後期作品、
特に『第9』は、
シューベルトを含む
その追随者を驚嘆させた。
『ハ長調交響曲』をもって、
シューベルトは、異なる道を指し示したようだ。
音楽は、新しい事を言うために、
ほとんど不格好になるまでに、
凶暴である必要はない。
古くからの古典形式は尊重可能で、
たとえば、展開部では、
言うまでもなく、物語を語ることが可能だ。
ベートーヴェンが古典形式を、
ドラマに向けて変えたのと同様に、
シューベルトは抒情に適合させた。
シューベルトのベートーヴェンへの尊敬は、
新しい交響曲のモデルを確立するという意思と共に、
このハ長調交響曲の中で、様々な強調となった。
彼は非常に個性的な管弦楽法を駆使した。
ベートーヴェンより木管を唱和させ、
ベートーヴェンがキーとなる瞬間にしか使わなかった
トロンボーンを活気ある部分のあちこちで利用した。
彼は長大な作品とし、
多くの古典音楽に舞踏の要素を強調し、
新しい穏やかな(ゲミュートリヒな)ものとした。」

という風に、あくまで古典派の風土から、
少し、シューベルトの風味を加えるだけで、
まったく新しい響きを作り出したのだ、
というストーリーである。

そして、以下には、ベートーヴェンの「第9」と、
「グレート」が、いかに、緊密に関係しているか、
そして、ベートーヴェンの多くの交響曲が、
どのようにシューベルトの中で咀嚼されたかが、
いかにこの二人の関係が、
切っても切れないものであるかが、
書き連ねられている。

「さらに、彼は、ベートーヴェンの『第9』の
喜びのテーマの、まごうことなき引用を、
終楽章の展開部でしている。
ベートーヴェンの『第4』、『第6』、『第7』交響曲への
愛情を明らかにしながら、
それでいて、優雅にしかし、しっかりと、
新しい世代が新しい形式を創造することを見せつける。
それにもかかわらず、『大ハ長調』の支配的な主題は、
『喜ぶこと』にあるように思える。」

そして、シューベルト自身の体験、
ガスタインへの旅がまた、
ここでは、これまた、強調されているのである。

「『喜び』、そして、『旅すること』。
Mosco Carnerは、
その興味深い研究の中で、
この交響曲の多くのリズムが、
同時期の『さすらい』をテーマにした歌曲と、
似ていることを示した。
明らかにこの交響曲は、
1825年5月のガスタイン山地の徒歩旅行において、
着想されたものと考えられる。
いたるところで聴かれる強強格のリズムは、
ホルンによる最初の小節から根幹をなし、
強く、人間の足取りを想起させる。」

このように、冒頭の楽想が、
2分の2拍子である必要が、
早くも予言されているのである。

以下、この交響曲が、いかに解釈されてきたかが、
書かれているが、
確かに、ベルリオーズやシューマンが、
思いつきそうなストーリーである。
「イタリアのハロルド」や、「マンフレッド交響曲」
みたいな音楽として捉えられていた、
ということであろう。

「1828年からあると思われる
典型的な文学的解釈のように、
この交響曲はよく知られている。
『若者は友人と共に、
熱狂をもって人生の巡礼に出る。
彼は悪路を取るが、彼自身の小径に戻ってくる。
第2楽章では悲劇も起こるが、
彼は先を急ぐ。
こうした危険に向かい合いつつも、
歌と踊りに憩いを見つける(第3楽章)。
そして、自然と人間性を肯定しつつ、
知恵と喜びをもって旅を終える。』
この交響曲が、彼の総括で、
1828年の『冬の旅』の、
喜ばしい対比であるとすれば、
彼の人生の旅は第2楽章を越えることが出来なかった。」

ノリントンは、ここで、第2楽章は、
確かに死の音楽だと認めているような記述を続ける。

「この楽章に最も似たリズムの歌曲は、
『冬の旅』の『道しるべ』である。
その言葉には、こうある。
『誰もそこから帰ったことのない旅に、
私は出なければならぬ』。
1828年の終わりを前に、
シューベルトは死んだ。」

このあたりのセンテンスはぞっとさせる内容である。

「彼がかくも希望を持ってムジークフェラインに提出した、
この交響曲はおそらく試演もされなかったか、
あるいは、一部が演奏だけであっただろう。
シューベルトが兄のフェルディナンドのところに、
積んでおいた楽譜の中から、
10年後にシューマンが出くわすまで、
これはほとんどまったく知られないままであった。」

このあたりは有名な逸話だが、
以下の部分は、シューベルト以降の世代に、
この大作が、どんな効果を与えたかを、
具体的に書いてあって、何だか、
わくわくしてしまった。

「同様に多作な歌曲作曲家であったシューマンにとって、
『楽器が驚くほど聡明な人間の声のように歌う』、
そして、シューマンやブラームスの交響曲に、
決定的な影響を与えた、新しい抒情様式として、
それは驚くべき啓示であった。
しかし、彼が友人メンデルスゾーンに、
ライプツィッヒでの演奏を急がせたのにもかかわらず、
それは極めてカットが多く、
しばらくは、たまにしか演奏されなかった。
そのため、初期ロマン派の高みで書かれた音楽は、
ブラームスやワーグナーの時代になって、
ようやく知られるようになったのである。」

このあたりは、「未完成交響曲」の場合にも、
言われることであるが、
ベートーヴェンの実例を引かれると、
妙に納得してしまう。

「ベートーヴェンの交響曲の演奏の伝統が、
1827年以来、非常にゆっくりと、
しかし、絶え間ない変化を体験したのに対し、
シューベルトの『大ハ長調』は、事実、
彼が敬愛していたことで知られる
古典的な簡潔さで演奏された事は一度もなかった。」

さて、このような前提に立って、
このCDは録音されたのである。
以下のように、いかに、伝統的な解釈を、
彼らが苦労して乗り越えたかが書かれている。

「それゆえ、この曲へのアプローチに当たって、
ロンドン・クラシカル・プレーヤーズと私は、
非常に特殊で変わった機会を持った。
ほとんど、その歴史上初めて、
古典的霊感にもとづく経験を確かめた。
この曲のロマンティックな要素は、
爛熟し、年を経て黒ずんだものではなく、
新しく新鮮で実験的なものである。
ここに、ヴィーン派の巨匠たちの、
極めて若い後継者の手による、
偉大な交響的マスターピースが現れたが、
これは、さらなる広い見地での
再評価が求められるように思える
我々は、その演奏上の可能性を、
細部にわたって未検証のまま残さないよう試みた。」

まことに、実験的とも言える作業である。
まず、楽器について書かれている。
そして奏法、楽団のサイズ、調律も。

「楽器は当然、ベートーヴェンの交響曲同様で、
今やおなじみの過渡期の弦楽器、
古典派の木管楽器、ナチュラル・ホルン、
ナチュラル・トランペット、トロンボーン、
木のばちで叩く、小型の革張りティンパニが、
我々の使った楽器である。
当時のアーティキュレーションに沿った、
いつもの木管利用、
シュポアのヴァイオリン教則(1830)にある、
古典的ボウイングで、
今日より弦の上に置かれており、
ヴィヴラートは表現を高める時にのみ用いられた。
オーケストラのサイズは、
劇場サイズとヴィーンの大チャリティ・コンサートで、
沢山集まる場合の中間のものとして、
A=430の調律とした。」

さらにオーケストラの配置。

「実際の古典派のレパートリー同様、
ホルンとトランペットの応答頌歌風の対比を際立たせ、
同様に第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンもそうした。
シューベルトの素晴らしく創造的な、
3本のトロンボーンの導入だけは、
基本的に古典派の色彩のオーケストラに、
新奇な色彩を通して加えている。」

それから、自筆譜と出版譜の関係の見直し。

「出版用にシューベルトは楽譜の校正をしなかったので、
沢山の矛盾が認められる。
しかし、全体として、その詳細な意図は、
驚くほど明確である。
したがって、ブラームス、その他によって加えられ、
シューベルトが1826年か7年には修正していないはずの
最近分かった変更は採用していない。」

ここまで細かい配慮を行えば、
楽興とは別次元の話にならないか心配なほどだ。

「スコアにあることを正確に演奏することは、
一方で、我々音楽家の皆にとっても、
全く異なる伝統を作ることになり、
非常に困難なことであった。
たとえば、交響曲の開始を告げる
Alla Breve(アラ・ブレーヴェ)
(1小節での2ビート)記号は、
初期の印刷譜では無視されている。
しかし、修復された今でも、
演奏者にとって、それは、あたかも、
『魔笛』や『ドン・ジョヴァンニ』のようなもので、
最初からスイングする
2拍子で演奏するのをためらうことを
乗り越える事は大変なことである。」

このように詳しく書いてあるように、
このCDをかけて、いきなり驚くのは、
このすいすい行く序奏である。

二分の二拍子をCに縦棒、
四分の四拍子Cと書く表記があるそうなので、
その読み間違えで起こるということか。

たーたた、たーたたー
ではなく、たー、たった、たー、たったーと、
さくさく演奏されて、まるで威厳がない。

どーんと強奏される所では、
威厳も出るが、
そそくさと先を急いでいる感じで、
これから、壮大なドラマが始まる感じではなく、
ヴィーンからガスタインに、
速足で夜逃げするようでもある。

第1楽章は、この速いテンポで、
どんどん山越え谷越え行ってしまう。
非常に慌ただしいので、
各主題が、車窓を過ぎ去る景色のようである。
この曲特有のリズムの刻みが、
しゅっぽっぽしゅっぽっぽと、
徒歩旅行ではなく、
当時はまだない汽車での旅みたいだ。

ノリントンは、徒歩のテンポだと強調している割に、
必ずしも歩くスピードには拘っておらず、
第2主題では、低音がごわごわと魔の手を差し伸べ、
そんな中を、どんどん逃げて行くような音楽となった。

時折、輝かしいファンファーレが鳴り響くのも、
あまり壮麗ではなく、悪魔の高笑いのように聞こえる。
「幻想交響曲」の録音でデビューした人だけのことはある。
今まで、そんな風に考えたことはなかったが、
今回、聞き直すとそう聞こえた。

以下、楽曲解説もだんだん難しくなる。

「同様に忘れられている古典的伝統は、
ポルタートで、付点やスラーで示される
非常にスムーズなフレージングである。
今日、不幸なことに、
ボウイングの便利さと混乱されて、
非常に離されて弾かれている。
しかし、シューベルトは、
この手法がいかに重要かを、
アンダンテ楽章の最後で、
我々に教えてくれている。
ベートーヴェンの『第7』のように、
スムーズな部分とスタッカートを、
彼は、ここに聴かれるように、
楽しげに交錯させている。
ポルタートが、
分かりにくい古典的なコードの一つで、
付点とウェッジの大きな違いは、
これまで違いが分かりにくかった。
しかし、多くの演奏では、
シューベルトが愛しげにスコアに書き込んだ
それらをほとんど、あるいはまったく無視している。」

神経質なまでにアクセントと軽い音を描き分け、
この楽章もまた、荘重な悲劇の色彩は薄まり、
戯画的とも言える活劇調になった。

美しい木管の中間部が立ち上がる部分は、
それがゆえにコントラストが効いているものの、
いくぶん、とって付けたような設計である。
有名なホルンの呼び声も、
当然、普通に通り過ぎる。

わざわざ、「冬の旅」の1曲を参考に出した割には、
そうしたセンチメンタルな要素はなく、
立ち上がりの良い金管が鳴り響き、
これまた、さくさくとクライマックスが築かれる。

が、その後のふっきれたような、
爽やかな足取りは、非常に美しく、
若い巨匠の前途を祝うように、
全ての楽器が寄り添っている。

そして、最後の部分になるが、
ノリントンが書いたような、
スタッカートとなだらかな音の交錯。
確かにベートーヴェンにそっくりに聞こえる。

「この演奏は、
作曲家が、おそらく、
自身の歌曲作曲から引き出した手法で、
いかにこの作品が、
フレージングされたかったかを、
まったく個性的で細部まで詰め、
いかに彼が、大きな形式の作品で、
新しい情熱の発露の確立を、
模索していたかを示すものである。
私たちはこれらの情報すべてを、
そこにないものとして無視できるだろうか。
この交響曲の、
ゆっくりとした、滑らかな荘厳な、
『後期ロマン派』の解釈においては、
これらのアクセントは邪魔なものである。
しかし、こうしたゆっくりした荘厳さを、
このようなテンポの書き込みから
考えるのは困難である。」

ということで、とにかく、
この演奏は、まず、後期ロマン派的である部分は、
なるべく、そのように演奏しないようにしたいのだ。

「1820年代においては、
アンダンテはまだ、それほどゆっくりではなく、
アンダンテ・コン・モートは、
もっとそんな事はなかった。
この交響曲の開始部は、
これらのすべてを予言している。
私たちは、
ここにどんどん進むアンダンテや、
4/4拍子ではなく
2/2拍子のアラ・ブレーヴェで、
沢山のアクセントがついていること、
そして、全編にわたって特徴的に行進するような、
楽しげな曲想を見つける。」

ということで、ノリントンの言う、
後期ロマン派的でなく、古典的であるということは、
この豊かなアクセントによって、
まるで、モーツァルトの「39番」のような、
晴朗さを勝ち得ようとしてるみたいだ。

しかし、このような細部に、
眼を光らせすぎたのか、
躍動感はあるが、神経質で、
オーケストラは完全に音楽に、
乗り切れてはいないように感じる瞬間が多々ある。
しかし、新しい試みの中、
それはそれで、仕方がないのだろう。

「事実、このテンポの工夫は、
それほど遅くない序奏は、
ほとんど気づかれないほどに、
それほど速くないアレグロに滑り込み、
さらに効果を増し、独自のものとなる。
ちょっとでも、
(これまで、それはあまり当てにならない、
とされてきたのは別として、)
メトロノームのマークを残さなかったのは、
恐らく、シューベルトにとって残念なことだった。
しかし、彼の意図は、
後に十分明らかなものとなる。
この楽章のまさに終わる時に
音楽はさらに早まり、
詩的なオープニングのホルンは、
作品のこれまでのゴールのように、
今や全オーケストラに変容して響き渡る。
これは、オープニングのテンポと、
同じように聞こえるべきなのは明らかであって、
このことからも、この楽章の二つの部分は、
似たようなテンポであるべきことが分かる。
シューベルトは、指定もしていないのに、
演奏者が速度を変えたら怒るに相違ない。」

が、シューベルトの時代から、
フォーグルのような歌手は、
歌い崩していたようで、
シューベルトは怒りながらも、
それに付き合っていた。

また、第1楽章の終わりで、
ホルンが冒頭主題を吹き鳴らす効果は、
しかし、別に、ノリントン風解釈でなくとも、
これまでの演奏からも十分感じられるもので、
ノリントンテンポでしか得られない効果ではないだろう。

「同様に古典派のバックグラウンドの性格からして、
(シューベルトはモーツァルトの音楽を賛美していた)
上述のように緩徐楽章はよりコンパクトで、
しかも、繰り返しが求められたことは疑う余地がない。
散々なカットが施された、
初演から150年を経た今日ですら、
完全に演奏されるのは稀なのである。」

このように、繰り返しの重要さが力説されているが、
確かに多くの演奏では、もっとも短いはずの、
第3楽章のスケルツォが、この演奏では、
全曲の中で最も長くなっている。

ちなみに、このCDのトラック表記からすると、
1.14分23秒
2.12分44秒
3.15分38秒
4.15分34秒

となっている。
かつて、吉田秀和のような評論家が辟易した、
第4楽章よりも長いのである。
私が、聴きながら育ったサヴァリッシュ盤は、
14分22秒、16分50秒、12分13秒、12分39秒
となっていて、ノリントンの主張と、
まったく反対であることが分かる。

長い順に並べると、
サヴァリッシュ:2→1→4→3
ノリントン  :3→4→1→2
と言う風に、ここまできれいに反転するかと思うほどだ。

第3楽章は、船旅のような、
トリオ部のリズムが美しい楽章だが、
これまで聞いていた演奏をすべて、
カリカチュア化したかのように、
どんぶらこ、どんぶらこという感じ。

この勢いの良さがあるので、
音楽はどんどん進んで飽きることはない。
ノリントンはノリントンで、
楽器のさく裂や、リズムの強調で、
切り口を変えて音楽に向き合い、
この長大な部分を息づかせているのである。

「また、ここで録音されたように、
スケルツォが全て、トリオの反復の後に、
くり返されることが、これまで可能だっただろうか。
こうした繰り返しは、決して理論的なものではない。」

第3楽章の最後は、「これでどうだ」とばかりの、
音楽を投げつけるような表現にしているのが面白い。

ようやく第4楽章に来た。
これも、極めてはつらつとした音楽で、
第1楽章の起伏に富んだ楽想を、
こわごわ表現していたようなオーケストラも、
この繰り返しの多い後半では、
かなり、音楽に乗ることが出来たようだ。

「終楽章でも、シューベルトの中で、
聴いたことがないような何小節かを、
聴くことが出来るだろう。」

とあるが、分かりやすいのは、
ソナタ形式の提示部繰り返しのような部分で、
激烈なエネルギー・チャージの経過句が現れるところか。

「しかし、もっと重要なのは、
それが、この全作品を形作る効果を持つことだ。
古典的な素地と、
初々しい明快なロマンティシズムの
創造的な緊張感は、
若いシューベルトからの、
魂の神々しいほとばしりより、
感動的な壮大さを強調しすぎることはない。」

「魂のほとばしり」とあるが、
実に、この第4楽章みたいな音楽が、
この曲以前にありえただろうか、
などと考えてしまう演奏でもある。

ノリントンが思い描いているのは、
同じく、リズムで押し通す、
ベートーヴェンの「第7」であろうが、
もっと、ふっくらとして、微笑みにあふれたものである。

ノリントンは、ここにベートーヴェンの「第9」と、
ほとんど同じ調子を聴くようだが、
私には、そこまで似ているとは思えない。
シューベルトの色彩の魔法は、
ずっと、微妙な感情にまで入り込んでいるように思える。

さて、ノリントンの書いた解説は、
以下のように締めくくられている。

「ここでの我々の努力は、
その形、速さ、しぐさ、それらを築き上げる音を、
捉え直そうという試みであった。」

聴き終わっての感想は、悪いものではない。
様々な解釈で、様々な様相の演奏で、
多角的な楽しみ方が出来ることは、
非常にありがたい事である。

得られた事:「ノリントンにとって、シューベルトの『大ハ長調』は、ベートーヴェンの『第4』、『第7』、『第9』を合体させた、スーパー『古典』交響曲なのである。」
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by franz310 | 2013-08-31 22:28 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その387

b0083728_21255775.jpg個人的経験:
ノリントンという
イギリスの指揮者は、
様々なレーベルからの、
その膨大な録音数からして、
かなりの大物であるはずだが、
もともとは歌手であり、
さらには合唱団を創設しての、
古い音楽の専門家だったし、
オリジナル楽器を用いた、
オーケストラの創設者でもあり、
異質な音楽家のイメージが強い。


が、ベートーヴェンの交響曲全集や、
ブラームスの交響曲全集などを、
これまで2回も完成させ、
ブルックナー、マーラーなど
独墺系の大家の大作もものともせず、
シューベルトの「大ハ長調」なども、
私が知っている限りでも、
2度にわたって録音している。

ありがたいことに、
定期的にNHK交響楽団に客演して、
我が国を大事にしてくれていて、
また、そこでも好評を博している。

このように今では、
通常のオーケストラを指揮して、
ユニークな演奏を聴かせているが、
様々な経歴ゆえ、
あるいは病魔と闘ったせいか、
もう80歳にもなろうというのに、
巨匠として認められるまでには、
かなりの時間を要したようだ。
そもそも、そのフレッシュな演奏は、
巨匠という言葉の持つ、
重々しさはないのであるが。

そんなノリントンが、1990年代後半に、
母国の作曲家、ヴォーン=ウィリアムズを、
デッカ・レーベルに集中的に録音した時のCDには、
「サー・ロジャー・ノリントンによる紹介」
という一文が冒頭に掲載されていて、
実は、これが、非常に味わい深い。

数多くの作曲家を取り上げて来た、
この多才な音楽家の言葉として、
特に、共感を呼ぶものである。

「遂に、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズの
交響曲集を録音できる機会を得た、
私にとって、これは素晴らしいことだ。」

という冒頭の一語からして重い。

ヴォーン=ウィリアムズの交響曲は、
まだまだ、録音しても売れない、
という現状を捉えているようにも思え、
当時、還暦を越したノリントンが、
自分が歩いて来た道を、
改めて噛みしめた言葉にも思える。

作曲家も、自分も、ようやく、
受け入れられるようになった、
という安堵感も木霊のように響いている。

「最初の3曲は、生涯を通じての付き合いであり、
他の6曲は、私の成長と共に現れた。
『第6』の初演が放送された時、
家族揃って聴いていた。
それは、私たちにとって、
その年の大きな音楽イベントであった。」

このように、ヴォーン=ウィリアムズの音楽に対し、
家庭の中のイベントとして暖かく想起し、
実体験に裏打ちされた愛情を、
そのままに表明した音楽家の指揮で、
これらの交響曲を聴けるのは、
何か、大切なものを受け継ぐような有難さがある。

ヴォーン=ウィリアムズの「第6」の、
これまた、英国での位置づけを、
このエピソードは、我々に対しても、
生々しいリアリティを持って迫る。

それだけではない。
実際に作曲家に会った体験談も貴重だ。
ヴォーン=ウィリアムズは、
1958年まで生きていたので、
1934年生まれの人であれば、
その晩年の姿を、思春期から青年期の、
多感な時期に瞼に焼き付けることが出来た。

しかし、そんなエピソードは、
あまり語られるのを聴いた事がない。

「それから、ボールトやバルビローリの指揮で、
他の交響曲を聴き、
遂に私自身が、
オックスフォードのシェルドニアン劇場で、
彼自身の指揮で演奏することとなった。
彼に会った時、
私は彼の学生のような気さくさに、
アットホームな雰囲気を感じたが、
同時に、彼の持つ力、
彼の思慮深い厳粛さ、
理想を求める集中力も感じたのであった。」

前回、このブログでは、
ノヴェッロ・ショート・バイオグラフィーの、
オッタウェイ著、「ヴォーン=ウィリアムズ」を、
途中まで読んだが、
ノリントンの回想は、先の伝記の後半を、
うまく補足するような内容となっている。

この伝記は、作曲家の後半生は、
かなり急ぎ足で書いている感じで、
1953年に80歳を超えて再婚した後は、
十数行しか割かれていないのである。

ノリントンの次のような回想は、
この十数行に、みごとな花を添える。

「最後に私がヴォーン=ウィリアムズと会ったのは、
彼の心温まるオペラ、『恋するサー・ジョン』を、
BBCで録音した時であった。
(これは私のプロの歌手としての最後の仕事となった。)
私は、この80歳の作曲家が、
すべての女性キャストにお休みのキスをする元気さや、
地下鉄でさっさと帰る気取らなさが嬉しかった。
これは、一人の男である作曲家を理解する、
重要な手がかりであった。
彼は情熱的で理想主義者であった。
自然な社会主義者であり、
大衆と共にあった。」

ノリントンの言葉はまだ続くが、
このあたりで、ノヴェッロの伝記の後半に戻ろう。

「今や、作曲家は50代になって、
これまでよりさらに活動が充実してきた。
作曲に集中するのに、
妬まれるほどの許容力の他に、
彼は、異なる方面に、
自身のエネルギーを向ける能力があった。
夫人の病気による必要性から、
ロンドンからドーキングに引っ越す決断によって、
ただ、バッハ合唱団の指揮は1928年に諦めた。
しかし、まだ10年以上、
R.C.M.での授業は続けた。
偉大な教師ではなかったが、
彼はパリーの精神を引き継ぎ、
学生たちに、自分に忠実であることを奨励した。
その初期の生徒の一人に、
ゴードン・ジャーコブがいてこう言った。
『彼は、音楽における天性の詩人で、
職業的技法と技術優先を嫌っていた』。
彼は年を取るにつれ、
彼は、表面上の滑らかさを加える、
こうした能力は必要がないと気づくようになった。
そして、後年の生徒はよく検査をされた。
ジャーコブについても、ヴォーン=ウィリアムズは、
『技法にかけては、
私より彼が知らなかった事はなく、
彼に教えることは何もなかった。
以来、私はオーケストレーションにおいて、
彼のアドヴァイスを受けた。
実際、私は、作曲家の技術において、
何かちょっとでも工夫したかったからね。』
と明かしている。
2つの心が出会う時、何かが起こり、
ヴォーン=ウィリアムズにとって、
教える事も、学ぶことも、常に実りある関係であった。」

これは驚くべきエピソードだと思った。
この作曲家は大家になってからも、
何の気取りもなく、
謙虚に学ぶ姿勢を保っていたのである。

もちろん、そうした気さくさは、
副作用もあったのであろう。

「ある者にとっては、疑いなく、
彼のアプローチは好感を与えるとともに、
失望でもあった。
絶対的な権威者を求める生徒には、
自分自身による判断を促した。
彼が全く寛容でなかったただ一つのものは、
生徒からであれ、同僚からであれ、
わざとらしい芸術性を感じた時であった。
そうした一例となる
ウォルフォード・デイヴィスに関する逸話があった。
デイヴィスは一度、こう言った。
『レイフ、この荘厳なメロディは、
私自身、祈りながら書いたのだよ』。
その答えは、
『君が聴いた私の新作交響曲は、
キッチンのテーブルで書いたけどね。』
キッチン・テーブルとは、音楽における詩人の、
抗弁や保護手段であろうか。
一部はおそらく、後年、ほとんど伝説になる、
ぶっきらぼうさは、
一般に考えられているより、
その内気や神経質を隠すためのものであった。
彼が『めかし屋』と呼んだ、
気取りやエリート意識への彼の敵意の見せ方には、
洗練されたものは何もなかった。」

ぜひ、その毒舌の例を書いて欲しかったが、
それ以上に以下の記述は味わい深い。

「自身の作品への態度も、際立って実務的、
かつ現実的なものであった。
彼は常に、自らの体験の光に導かれ、
自身の、あるいは他人の作品を、
改訂するかどうかを考えており、
しばしば、そうした。
作曲家-指揮者として、彼は非常に公平で、
彼のコメントは、常に変わらず、
テンポ、強弱法、フレージング、音の重み、
といった純粋に技術的な事柄に限られていた。
オーケストラは詩的な指示や、
個人的な啓示を期待しても無駄だった。」

これはこれで、一つのやり方だが、
エルガーのように、オーケストラは、
作曲家直伝の秘話を聴きたかったに違いない。
私も、そんな話を読んでみたいものだが、
どうやら期待できそうにない。

「1920年代の半ばから終わりにかけて、
『Flos Campi』、
『Sancta Civitas』、
そして『海を目指す者』といった、
3つの非常に違った作品で、
ヴォーン=ウィリアムズの幻視の力は、
深まり、増幅された。
そして、バレエ『ヨブ』(1930)では、
悪魔という重要な存在が、
さらなるスタイルの拡大を導いた。
この新しい悪魔的な傾向は、
『第4交響曲』に直接受け継がれた。
1935年、この交響曲は、
民謡収集家、田舎の休日派、
それからすべての、(誤って)田園情緒を、
安息の逃げ道にしていた連中を追いやってしまった。
同時に、それは、ずっと、この作曲家を見下していた、
多くの『モダニスト』の賞賛を得た。
力強い不協和音の利用、いわゆる音階和声の放棄、
多調に向かう傾向、
こうしたものが示唆する特徴が、
ヴォーン=ウィリアムズを時の人にした。
しかし、実際は、彼は、ずっとこれまでと同じであって、
無所属であった。
1932年、ペンシルヴァニアの、
Bryn Mawr大学で行われた講義
(『ナショナル・ミュージック』として出版された)
の中で、流行や好みを楽しんだだけ、
といった心情を語っている。」

このように、彼の、創作の霊感は、
ある意味、謎に包まれている。

「この独立不羈の精神は他の面でも見られた。
1934年にエルガーが亡くなると、
ヴォーン=ウィリアムズは、
国王の音楽師範の地位を継ぐよう誘われたが、
少し前に、ナイトの叙勲を拒んだように、
彼は、これを辞退した。
翌年、彼は、彼はメリット勲位を受けたが、
これは、彼が官庁から受けた唯一の栄誉であった。
単なる「ミスターや、お好みならドクター」
であることは、(天路歴程の)バニヤン、
(ヨブの)ブレークや、
(海の交響曲の)ホイットマンに連なる芸術家であれば、
また、サリー州の自治体で合唱を楽しむ者にとっては、
自然なことであった。
彼は、ホルストのように、
いかなる形での上流崇拝を嫌うばかりか、
社会的なエリートという罠に想像力が奪われ、
プレッシャーにさらされることを彼は知っていた。」

こう書かれると思い出すのが同僚、バックスのケースだ。
Master of the King's Musickという肩書を得てから、
バックスはほとんど作品を書くことが出来なくなった、
などと言われている。

「グスタフ・ホルストの死は、辛い打撃であった。
『私が思うただ一つの事は、
彼なしにどう行けば良いのか、
何をすれば良いのかということだ。
すべての事が彼に帰結し、
グスタフなら、どう考え、助言し、
行動するかということだ。』
これは彼の友人の未亡人に宛てた手紙にあるもので、
ホルストとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
良く物語っている。
彼らの人生は創造の世界でも、
実際の多くの音楽活動を通じても、
織り合わされていた。
ヴォーン=ウィリアムズは、
モーレイ・カレッジにおける事業や、
セント・ポール女子校、
Whitsuntideシンガーズでの仕事などで、
ホルストに関与していた。
ホルストのヴォーン=ウィリアムズの
作曲への影響は、
この十年あまりにわたり、
かなりのもので、
ホルストは、この分野で、
彼の指導者であり良心であった、
オーケストラのテクスチャーにとどまらず、
『ヨブ』や『第4交響曲』に明らかなように、
音楽のスタイルにおいても影響は大きかった。
ある人々は、『5つのチューダー王朝の肖像』(1936)や、
『音楽へのセレナード』(1938)、
『第5交響曲』(1938-43)など続く作品で、
ヴォーン=ウィリアムズが、
初期の様式に『復帰』しているのは、
ホルストの死に直結した問題だと示唆している。」

ヴォーン=ウィリアムズは、ホルストに導かれ、
新しい表現様式を手に入れ、
盟友亡き後は、道を見失ったとも読める。

「この観点に関しては確かに何かありそうだが、
回帰とはあまりに限定した見方である。
なぜなら、この作曲家が、
一貫した発展を妄信した人、
といった見方を、
我々はできないからである。
1910年あたりから、
彼は様々な表現方法に対しオープンであり、
最もふさわしい想像的形式を使ってきた。
カンタータ『Dona Nobis Pacem』
(「私たちに平和を与えよ」(1936))
のような機会音楽には特に、このことが言える。
実は、これは、ずっと初期の、
ホイットマンの詩による
『二人の老兵への哀歌』への付曲が、
いささか危なっかしく様式を揃えて、
組み込まれたものである。
『Dona Nobis Pacem』は、
フッダースフィールド合唱協会の
100周年のために作曲されたが、
同時に『時世のミサ』でもある。
これは、賢明な民衆みんなが感じていた、
怒りや焦燥を、30年代の痛みを伴う進展に対する、
ヴォーン=ウィリアムズの共有のようなものである。」

私は、ナチスとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
これを読むまで知らなかったが、
下記のような顛末があったようだ。

「1937年、ハンブルグ大学が、
シェークスピア賞で、彼を讃えようとした際、
彼は特有の露骨さで答えた。
『私は、現在のドイツの政権の
すべてと戦うことを目的とする
英国社会に、単に、
属しているだけではありません・・
私はこの素晴らしい賞を、
良心の満足を無視してまで、
受け入れることができません。
受け取ることによって、
自身の意見の自由な表現が、
阻止されていることすら、
感じなくなるような賞を。』
賞金はドイツから持ち出せなかったので、
彼は、うまくいかなかったものの、
ユダヤ人亡命者のための、
クエーカー教の福祉基金に寄付しようとした。
1939年初頭、さらに異なる領域の栄誉が転がり込んだ。
ナチスによって、彼の音楽は禁止された。
これはドーキングの亡命者委員会のメンバーに、
彼の存在を知らしめた。」

勲章は拒否しながら、賞金は貰おうというのも、
使い方はともかく、ヘンテコな感覚である。
が、ドイツでヴォーン=ウィリアムズが、
演奏できなかったのであれば、
バルビローリが、マーラーなどと同様、
戦後のドイツで、自国の作曲家を、
取り上げようとした歴史的意味がよく分かった。

「戦争中、亡命資金や畑仕事から、
外国人収容者の解放のための内務省委員の仕事まで、
彼は、出来り限り、戦争と向き合っていた。
ナショナル・ギャラリーの
ランチタイム・コンサートの立ち上げに協力し、
音楽芸術奨励のC.E.M.Aや、
音楽活動を続ける組織のために多くの時間を割いた。
1943年、新音楽推進委員会が設立されると、
V.W.は自然に総裁に選出された。
若い世代の音楽家と、
音楽愛好家一般の両方と交流可能だということで、
これまでに、彼は家父長的な存在となっていた。
ヴォーン=ウィリアムズを、
英国第一の音楽市民であるという見方は、
彼の戦時中を代表する作品、
『第5交響曲』として結実したように見える。
彼の英国気質のみならず、
彼の初期の作品にあった、
もっとも価値ある気品ある部分が、
ここに統合されている。
彼は、この時、70歳を超えており、
バニヤンによる未完のオペラ『天路歴程』に基づき、
深くキリスト教的含蓄に富む、その精神性からも、
多くの人々は、当然、これは、
彼の最後の交響曲だと考えた。」

このような感覚も、この本を読んで知った。
私たちは、最初からV.W.の交響曲は、
ベートーヴェン同様9曲と知っているが、
確かに、70歳を超えた人が、
瞑想的な大作を披露したら、
そんな感覚に捕われても不思議はない。

「しかし、作曲家はすべての先入観を打ち砕き、
さらに4曲の交響曲が続いた。
そして、『第6』(1944-7)は、
前作の精神的基盤に、
完全に挑戦するものに見えた。
異常なエピローグは、まったくの空虚、
生命なき虚無の世界に見えた。
これがヴォーン=ウィリアムズにとっても、
どのように響くものであったかは明らかだ。
彼は、決して、信仰を公言する、
キリスト教徒ではなかったことも。
(ウルズラ・ヴォーン=ウィリアムズの
『バイオグラフィー』29ページ参照。
『彼は、チャーターハウスやケンブリッジでの、
最後の何年かは、無神論者であった。
彼は後に、楽観的な不可知論者となったが。
彼は、信仰を公言したキリスト教徒ではなかった。』)
表現の性格はまったく異なるとはいえ、
『第5』と『第6』交響曲は、
予兆、予言の音楽である。」

この一節は、名言であろう。
簡潔にこれらの兄弟作の共通点を言い当てている。
音楽の様式は全く異なるが、
背景にある作曲家の精神は同じなのである。

「ホイットマンが『広大な比喩』は、
『すべてを繋ぐ』と書いたように、
普遍的真実を忘我的に感得しようとする
彼の探求において、ヴォーン=ウィリアムズは、
『宗教的な』芸術家であるが、
彼の探求は、人間の経験に向かうもので、
宗教学な意味合いのものではない。」

このあたりから、伝記の記載は、
簡潔に飛ばし気味となる。

「彼の最後の10年は、
輝かしく行動的であった。
戦争中、彼は映画音楽に新しい刺激を得た。
その彼の最もすぐれた映画音楽は、
『南極のスコット』(1948)で、
彼の様式に印象的な刻印を残し、
色彩的に楽しく、
彼が、『フォーンズ』、『シュピールズ』と呼んでいた、
特にはっきりしたピッチの打楽器が、
最後の色彩を決め、これらは、
彼の最後の3つの交響曲を彩ることになる。」

私は、常々、彼の「第4交響曲」などは、
もっと打楽器がさく裂すればいいのに、
などと考えていたので、
ヴォーン=ウィリアムズ自身も、
時代の流れと、自作を比較して、
そんな楽器の不足を発見したのであろう。

「これらの3曲の交響曲は、
第4から第6に比べると、
もっと気楽な、もっと奇抜なもので、
そんな理由から、
特に『第8』などは大騒ぎするフィナーレゆえに、
安易に過小評価されてきた。
『第8』のカヴァティーナ、
『第9』の多くのページには、
老年に対する洞察があり、音楽的にユニークである。
『第7(南極交響曲)』は、
その多くの印象的なパッセージに関わらず、
交響的というより描写的で、
これらの中では、もっとも成功しなかった。
彼は聴覚が衰える中、自作の指揮を続け、
プロムス、チェルトナム(Cheltenham)音楽祭、
3つの合唱団の顔として出演を続けた。」

問題作ぞろいの戦争交響曲群に比べ、
晩年の3曲は、今一つ、
ピンとこない作品群だが、
これを読んで、妙に関心が掻き立てられた。

一方、作曲家の作曲以外の活動の方は、
元気なのは良いが、後進の活躍を阻害していないか、
いささか心配になる記述である。

そうこうしているうちに奥さんの方が、
限界となったようだ。

「アデリーン・ヴォーン=ウィリアムズは、
長年、関節炎で不自由な暮らしをしていたが、
1951年、80歳で亡くなった。
1953年、作曲家は、
親しく家族の友人として付き合ってきた、
ウルズラ・ウッドと再婚し、
リージェント・パークの
ハノーバーテラスに移り住んだ。」

Hanover Terraceを、
地図検索すると、
ロンドンの北部、動物園もある大きな公園、
クイーン・メアリーズ・ガーデンなどもある
リージェント・パークに
隣接した場所が出て来るが、
こんな都会の真ん中のような場所に、
81歳の老作曲家が住んだのだろうか。

それまでは、ロンドンの南方、
郊外の田舎町ドーキングに住んでいたのだから、
湘南とか相模ナンバーの車の走る場所から、
いきなり上野あたりに出て来た感じを連想した。

「ロンドンの文化生活が再度、
彼の身近なものになった。
30年代から、久しく経験しないものであった。
音楽会やオペラ、映画や特にお好みの演劇は、
いささか難聴で楽しみを妨げられたが、
多くの友人たちには、
彼が年を取るより、むしろ若返ったように見えた。
彼はさらにアメリカに足をのばし、
カーネル大学で講義を行い、各地を旅行した。
イタリアやギリシャで休暇を過ごし、仕掛品があった。
1958年8月の夜、
眠っている間に、彼が突然死んだ時、
その真実は把握するのが難しかった。
彼が想像できたより、はるかに多くの人々にとって、
V.W.なき英国音楽は痛ましく戸惑いを感じるものだ。
公共の舞台を満たす他の音楽家もいるが、
彼自身はかけがえのない存在である。
ある時代は終わり、その欠落は埋められていない。」

以上で終わり。
かなり余韻の短い記載なので、
私が、ノリントンの回想を補足したかった意味を、
ご理解いただけたものと思う。

ノリントンのCD解説は、
「これらの録音で、音楽の表層の下を探り、
この傑出した作曲家の火と情熱とを、
掬い上げることが出来れば、と思う。
彼は私が会った中で最大の人物であった。」
という熱意で締めくくられている。

私は、ヴォーン=ウィリアムズが、
極めて即物的に音楽を語った事を読んで、
このノリントンという指揮者に通じるものを感じた。

この指揮者の膨大なレパートリーも、
ひょとしたら、そうした実務的手腕によるのかもしれない。

彼は、マーラーだろうがベートーヴェンだろうが、
身もだえして苦悩することはなく、
極めて明確な立体感で、風通し良く、
充実した音楽を鳴り響かせる。

今回聴くのは、ヴォーン=ウィリアムズの問題作、
「第4」と「第6」を収めたCDである。

ちなみに、見たこともない変わった体裁で、
RWVの銀文字はケースに印刷されており、
このパワフルな交響曲に似合わず、
赤い花咲く牧場の写真があしらわれている。
が、曲想を暗示してか、赤い部分には、
たくさんの傷状の模様が施されている。

演奏は、この難解な作品を、分かりやすく、
上質の肌触りで聴かせてくれており、
金管がさく裂するところでも、
絶叫にならず輝かしく、
木管が浮かび上がるところなども、
爽やかで効果的、
リズム感もノリノリノリントンで、
実演で聴いたこの指揮者の特徴が確認できる。

スケルツォ楽章など、非常に心地よい。

が、この路線では、これらの問題作の背後に込められた、
何らかの情念へのヒントは手薄にならざるを得ない。

得られた事:「指揮者ノリントンが、今まで会った最高の人物と書くヴォーン=ウィリアムズは、人々と語らうことが出来るような音楽を書こうとした理想主義者であった。」
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by franz310 | 2013-08-15 21:27 | 現・近代

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その386

b0083728_21321774.jpg個人的経験:
前回、作曲家自身が、
「田園交響曲」と名付けた、
三番目の交響曲が、
戦争体験を音にしたものと知り、
今更のように驚いてしまった。

私は学生時代から
ヴォーン=ウィリアムズの音楽が好きで、
卒業旅行でロンドンに行った時にも、
この作曲家に関するパンフレットを、
持ち帰っていた。

ハフ・オッタウェイという人が書いた、
ノヴェッロの伝記シリーズの一冊。
20ページ足らずの冊子だが、
結構、難しい内容で、
ほとんど読んでいなかった。


ヴォーン=ウィリアムズの生涯については、
ラヴェルに学んだとか、
英国の民謡を採取したとか、
古いイギリスの音楽を発見したとか、
映画音楽を転用して交響曲を書いて、
生涯にわたって交響曲を書き継いで、
大往生を遂げたみたいな断片的な知識しかなかった。

しかし、ショスタコーヴィチ並みに、
戦争の時代を生き抜いた作曲家だったことが分かり、
いかにも、田園風景を描いた交響曲が、
何と、生々しい戦場体験に基づくと知って、
私は、彼の人となりに、これまで、
まったく注意を怠っていたと反省した。

今回は、この小冊子を読んで、この作曲家について、
もう少し、勉強しておこうと思う。

「ヴォーン ウィリアムズ
(1872年10月12日-1958年8月26日)
もし、ヴォーン=ウィリアムズがパーセルや、モーツァルト、
シューベルトと同様の年で死んでいたら、
彼は、音楽史において、
世紀の変わり目の英国の作曲家の中で、
たいした地位を占めなかったであろう。
もはや、これは『大器晩成』の好例という以外にない。
40歳の時に、ようやく、
自分の進むべき方向を見出したにすぎず、
ハウズマンの詩による歌曲集
『ウェンロック・エッジにて』(1909)や、
『タリスの主題による幻想曲』(1910)は、
個性的なスタイルがしっかり確立した、
最初期の作品である。
70歳にして、特に、『第5交響曲』(1943)の後、
英国音楽界に確固とした地位を築いた。
今世紀、ヴォーン=ウィリアムズの晩年のような
成功と個人的尊敬を勝ち得た作曲家は少ない。
疑うことなく、専門的な聴衆から、
より広範な反応を得た作曲家はいた。
シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミットなど、
すぐに思いつくが、それらは、違う尺度のものであった。
ヴォーン=ウィリアムズは一般の人たちから
数多くの崇拝者を勝ち得、
しかも妥協をすることもなかった。
たとえば、第6交響曲の初期の受け止められ方を考えてみよう。
いかなる基準であれ、これは、頑固で無防備な作品ながら、
何度も何度も、多くの聴衆の前で演奏され、
実際、『ベスト・セラー』になった。
このような痛々しい思いっきりモダンな音楽が、
空前の規模で、である。
人々は、この曲を覆う難しい響きに関わらず、
作曲家が純粋な抽象をもてあそび、
難解なパズルを楽しんでいるわけではないと理解した。
その音は、何か人間の言葉を思わせ、
それは何か差し迫った、
やむに止まれぬ経験を差し出し、
『多くの経験』は、啓示のような独特の効果をもたらした。
私は、これを危険な偶像崇拝だと知っている。
我々が語られる音楽は、自給自足のもので、
その『意味』は、その中で語られている。
この抽象的な見地は、古くから、そして近代においても、
ずっと厳格に尊重された意見であった。
しかし、それは絶対の普遍のものなのか。
我々は、自らの音楽体験の改ざんなしに、
それを受け入れることが出来るだろうか。」

ということで、一般の聴衆が、
その意味を、心を込めて聞き取ろうとした音楽を書いた、
稀有な20世紀の作曲家という切り口が紹介される。

「ヴォーン=ウィリアムズは、
音楽の意味という疑問と向き合った時、
非常に慎重であって、
彼は気まぐれで、表面上の『解釈』の危険性を知っていた。
彼のこの立場を疑うことはできない。
『作曲家は』と彼は書いた。
『自分を隔離して芸術の事を考えるべきではなりません。
彼は仲間たちと生き、コミュニティの全人生の表現として、
その芸術を語らせなければなりません。』
そして、また、
『作曲家の人生から、
彼の生きるコミュニティ、
その属する祖国に向かって育たなければ、
芸術にどんな意味があるでしょう』と書いている。
(1912年に最初に、R.C.Mの雑誌で掲載された、
『誰が英国の作曲家などを望むのか』による。
1950年フーバート・フォスの
『Ralph Vaughan Williams』に再録。)
このレベルにおいて、ヴォーン=ウィリアムズは、
音楽には意味がある、
単に、受け入れられやすいとか、
分かりやすいとか、論理的であるだけでなく、
人間の言葉として意味があると主張している。
現実世界で生身の人間に属しているという感覚、
音楽的市民性の感覚が、
彼の生涯を通じた仕事に行きわたっており、
これが彼が多くの人に支持される理由となっている。
こうしたアプローチは、音楽的資質と共に、
卓越した人間性を求められる。
ヴォーン=ウィリアムズが到達したところを、
単に、いわゆる創造の天才という点でのみ論ずるなら、
沢山の重要な点を見逃すことになるであろう。
天才が、混乱した新聞記事みたいな表現で、
高度な技法という事なのであれば、
我々はそれをすべて無視しよう。
ヴォーン=ウィリアムズは、
けっしてすらすらと書いた人ではなかった。
彼の生来の資質には、エルガーや、バックスや、
ブリテンのような輝かしさはなかった。
彼が、生涯を通じて『素人みたいな技法を克服する』
ことと格闘していたと、彼が言う時、
彼は、それをお話として言ったのではなく、
まったくもって事実だったのである。
彼の偉大な才能は、技術的な名技性ではなく、
ヴィジョンのようなものにあった。
彼の音楽は、それゆえに、狭い了見のプロを、
しばしば困惑させた。
事実、イマジネーションを抗しがたい魔法と、
直接性で翻訳した、初心者のような作曲家がいた。
ヴィクトリア朝の名士で、
ケンブリッジや王立音楽院で学んだ、
初心者などを考えることは困難である。
しかし、私は、彼が最も特徴的な表現技法を、
知りえるための重要なステップであったと、
信じている。」

著者は、ヴォーン=ウィリアムズは、
その技法においてすぐれているのではなく、
音楽に描こうとした内容(ヴィジョン)が、
素晴らしいと言っているようだ。

「この郷土の名士は、グロースターシャー(Gloucestershire)と、
ウィルトシャー(Wiltshire)の境界近くの村、
ダウン・アンプニー(Down Ampney)の生まれなので、
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズは、
グロースターシャーの作曲家とされるが、
生まれた所に関する限りの話である。
彼の父親のアーサー・ヴォーン=ウィリアムズ牧師は、
レイフが3歳になる前の1875年に亡くなっており、
少年は母親の実家、
サリー州のライス・ヒル・プレイスで成長した。」

位置関係が良くわからなかったが、
調べてみると、
グロースターシャーは、
ロンドンのはるか西であり、
サリー州は、ロンドンのすぐ南であった。

「コッツウォールドではなく、
ノース・アンド・サウス・ダウンズが、
彼の幼少期の風景を形成したもので、
生涯を通じて、ドーキングやレイス・ヒルの地域で、
彼は過ごした。
彼は、ロンドンっ子だと自分のことを考えており、
彼の母親、マーガレットは、
ヨシア・ウェジウッド三世の娘であり、
チャールズ・ダーウィンの姪であった。
ヴォーン=ウィリアムズの独立不羈の性格が、
こうした方面から来たことはおそらく考えられるだろう。
父親の家族は多くは弁護士で、
作曲家の祖父、
サー・エドワード・ヴォーン=ウィリアムズは、
民事訴訟の最初の判事であった。
レイス・ヒル・プレイスでの生活は洗練されたもので、
控えめであり、いくぶん偏狭で禁欲的であったが、
様々な点で自由であった。
子供たちはそれぞれ好きな事に集中することを奨励され、
母親、みな年上であった兄、姉より、
レイフと最も近い関係にあったのは、
叔母のソフィーであった。
彼女は最初の音楽レッスンを担当し、
『子供の通奏低音入門』と呼ばれる本を教えた。
これに、スタイナーの『和声』が続き、
彼は私立小学校に入学するまでに、
ヴァイオリン、ピアノ、オルガンと、
音楽理論を知るようになっていた。
『私と兄と姉は、私が好きだった、
<メサイア>、<イスラエル>のコーラスを含む
妙な古い本で連弾することを奨励されたが、
<ドン・ジョバンニ>や<フィガロ>のアリアは
退屈だった』という、彼のこうした初期の日々の言及は、
いかにも典型的な当時のアマチュアらしくまじめな、
何より家庭的な音楽生活を物語っている。
多くの『少年とソフィー叔母さん』は当時いたので、
彼も、それほど素質があるようには見えなかった。
恐らく、ヴァイオリンを除いては。
鍵盤楽器については不器用で、
音楽ではヴァイオリンが唯一の救いだった。
小学校でもヴァイオリンとピアノを学んだが、
バッハとの出会いがあった。
そこには、すばらしい、
『私が知っていたものとは違った何か』があった。
ヴォーン=ウィリアムズにとっては、
バッハは、『私の中で安置されている』のであり、
多くの音楽家にもそうかもしれないが、
こんなにも早い時期からそうなのは、
きわめて稀なことである。
これは、通常とは異なる音楽能力の
最初の明らかな証拠である。」

ヴォーン=ウィリアムズの幼少期の環境は、
おそらく現代の我々と、それほど違わない印象である。
都市があって、そのベッドタウンのような場所で暮らしている。
しかも、古典的な音楽のダイジェストのような楽譜を見て、
初歩的な勉強をしている。
が、名門であり、父親がいない末っ子というのは、
偏見かもしれないが、いかにも偏屈そうな感じがする。

「チャーターハウス校での3年は、
多くの新しい経験があった。
レイス・ヒル・プレイスや、
未婚の叔母が担っていた役割が取って変わられた。
特に宗教的な事など、
後の作曲家の生涯で明らかな、
基本的な公正な心情が目立つようになる。
家族のために教会には行っていたが、
宗教的儀式は自分には意味がないことを知っていた。
学ぶ者として彼は勤勉で、
ラテン語と数学に特別な才能を見せたが、
それ以外はそれほどでもなかった。
文学は彼には重要で、多読家であり、
特に他の者が遊んでいる時は本を読んでいた。
しかし、この頃までに彼は、
音楽の中に身を置きたいと考えるようになり、
ヴァイオリンをヴィオラに持ち替え、
学校のオーケストラで演奏し、
家族が、それがあまりに不安定だと主張しなければ、
オーケストラの楽員になっていたかもしれない。
この頃の安定と社会的地位を考え、
大部分の職業音楽家が座った教会オルガン奏者を目指した。
そして、それは許され、他に何が出来たであろうか、
レイフはオルガニストになる訓練をしなければならなかった。
ロンドン近郊、南ランベスの聖バルナバス教会で、
オルガニストになった彼は、
それが、実にやっかいな仕事だと知った。
しかし、それは後の事で、
この後、5年は、ロイヤル・音楽カレッジと、
ケンブリッジのトリニティ・カレッジで過ごした。
これほどまでに長い間、正規の教育を受けた音楽家は稀で、
彼の先生たちからは、そこにいったい、
何の実益があるのかと思われたはずである。」

ということで、何だか分からない大学生活を送っている、
現代の若者像と、これまた、あまり違いはなさそうだ。

「ヴォーン=ウィリアムズが王立音楽院(R.C.M)に入った、
1890年、それはまだ創立7年の新しい施設であった。
あらゆる面で洗練されておらず、
あまりに英国内での音楽活動を反映したものであった。
しかし、当時最大の英国の音楽的良心であった
ハーバート・パリーが、そこで作曲を教え、
2学期を経た後、ヴォーン=ウィリアムズは、
彼について勉強した。
パリーは学生たちに深い印象を与え、
教師としての力と共に、
その高潔さと芸術的理想がさらに強い印象を残した。
後にヴォーン=ウィリアムズは、
自身を、『実に初歩的な生徒で』
『痛々しいばかりに教養がなく』と書いたが、
パリーについては、常に永続的な感謝を感じていた。
激励と、作曲における何か特徴的なこと、
個性の尊重、そして新境地を拓く能力、
これらがパリーの原則で、
これらが若いヴォーン=ウィリアムズに、
驚くべき作用を与えた。
しかし、スタンフォードの場合は、
まったく違っていた。
その露骨な皮肉、『すべてがくだらないよ、君』は、
頑固な気質に痛く響いた。
ケンブリッジでは、チャールズ・ウッドに作曲を習ったが、
この人に対しては、本物の職人芸を見たが、
パリーの理想や高潔さを見出すことはできなかった。
彼は、この3人の先生を、
何年も後に、『音楽的自伝』の中で、
あからさまに描き出した。
誰を描きだしたのか。
1890年代の若い音楽家か、
グランド・オールド・マンか。
基本的に、ヴォーン=ウィリアムズは、
50年か60年前の事を、
驚くべき明晰さと冷静さで見つめなおしたように見える。
彼は、いくぶん厳しすぎるかもしれない。
しかし、私たちは、
『スタンフォードは、
私も無駄に終わることを恐れたのだが、
私のテクスチャーを軽くしようとした。
私は、どうしても教えられない存在だった』
とあるのを読むと、
そこに思い描くのは、
カリカチュアそのものでしかない。
チャールズ・ウッドは、決して、
作曲家を作り出しているとは思わなかったが、
それは、彼だけがそう思っていたのではなかった。
グヴェン・ラヴェラットは、
彼女のケンブリッジでの幼少期に関する回想で、
何度も、『気違い小僧、ヴォーン=ウィリアムズが、
どうしようもなく絶望的なのに、
音楽に取り組もうとしている』という会話の断片を
耳にしたと回想している。
そっとそれを裏付ける証言もある。
しかし、これらすべては、
私たちが最も知りたいことを伝えるばかりだ。
彼が不撓不屈の男だということ以外、
彼のことは何も語られていない。」

このあたりを読むと、小泉八雲や、夏目漱石のような、
癖のある先生がいた、当時の日本を想起してしまった。
この問題児は、「坊ちゃん」みたいなものかもしれない。

「1895年、ヴォーン=ウィリアムズが
音楽の学士と歴史の学士号を取って
ケンブリッジからかえってくると、
彼は、もう、アカデミーサイドが烙印を押した、
気違い小僧ではなかった。
彼は内気で、いくぶん神経質な気質であったが、
見せかけを蔑み、自分の意見に関しては、
とてつもなく誠実だった。
マーラーが『トリスタン』を指揮したのを聴いた後は、
一晩中寝られなくなるほど、
想像的経験に関しては集中力を持ち、
自分の判断には、非常な自信を持っていた。
もったいぶって、遠回しに言うので、
すぐに、その内気な後ろには、
強烈な性格が隠されていることが分かった。
明らかに、あるものは腹を立てたが、
ハフ・アレンやG.E.ムーア、
G.M.トレベリャンなどは生涯の友人となった。
音楽的に彼は、いまだ手さぐりであって、
自身、それが分かっていた。
自分自身の技法の問題や、
支配的なアカデミズムの事もあって、
彼は再びR.C.Mに戻り、
そこでグスタフ・ホルストに出会った。」

出来たてほやほやのこうした特別な学校で、
奇人変人有名人が出会うのも、
世紀の変わり目に、我が国でも繰り返された風景である。

「ホルストとヴォーン=ウィリアムズ、
ドビュッシーとラヴェル、
ブルックナーとマーラーなどなどは、
どの場合も紛らわしい一対である。
彼らを取り巻く世界の外見は、
共に過激であるとはいえ、
ホルストとヴォーン=ウィリアムズは、
気質の上で大きく異なっており、
それが、その音楽にも反映している。
1934年のホルストの死まで続く、
彼らの友情は、実にユニークなものだった。
ほぼ40年にわたり、彼らは、
生みの苦しみの最中にあっても、
互いの批評を求め、
ホルストは、ヴォーン=ウィリアムズの美学を重視し、
ヴォーン=ウィリアムズは、ホルストの鋭い耳に信頼を寄せた。
腹を割った、そして独立した、
共通の目標を持った者だけがこれを可能にした。
1897年、ヴォーン=ウィリアムズは、
ベルリンでマックス・ブルッフに教えを乞い、
11年後には、パリでラヴェルに学んだ。
どちらの機会にも、自身の技法を深めるために、
大陸に向かったが、同時に彼は、
真の英国音楽の復興は、
外国の音楽の真似からは、
決してなしえないと確信した。
一方で彼は、最高のプロの基準を求め、
一方で自分自身と伝統の音楽語法に忠実だった。」

ということで、ブルッフやラヴェルも、
何だか変なのが来たなあ、と思ったのではないか。
ちなみに山田耕筰がブルッフに学んだのは、
1910年頃で、少し後の話のようだ。

「彼が英国の民謡と、
エリザベス朝とジャコビアン様式の音楽の偉大さを
発見するまで、
音楽的にこの遺産は、
限られているように見え、
それにうんざりさえしていたが、
ホルストと共にこれに熱狂した彼は、
そこに明らかな道を見出した。
彼は、1903年に、
最初の民謡集『藪と野ばら』を編纂し、
すぐに、宗教的なまでの情熱を持って、
サセックス、エセックス、
ノーフォークに向かった。
『ノーフォーク狂詩曲』と名付けられた、
3つの管弦楽曲集(1906-7)は、
それらの中の最初の果実であるが、
この時期の作品として
記憶に留められるべき最大の作品は、
民謡の影響はほとんどない、
『海の交響曲』(1903-9)である。
ここには単純な、既製品的な書法はなく
この大規模な劇的な作品の語法には、
民謡もチューダー王朝風のポリフォニーも
見受けられない。」

こうした合唱と管弦楽の大作を書いたのは、
バッハの影響もあるのだろうか。

「その間、ヴォーン=ウィリアムズは、
ケンブリッジで会った才能あるアマチュアの音楽家、
アデリーン・フィッシャーと結婚し、
ロンドンに居を構えていた。
こうした期間に、教会オルガニストとして、
英国聖歌の編纂をし、
1905年に彼の姉が始めた、
レイス・ヒル音楽祭の主力となった。
約50年にわたって、この有力な音楽祭に、
彼は、指揮者としてだけでなく、
啓蒙者、奨励者として、精力的に参加した。
彼の演奏するバッハ、
特に『マタイ受難曲』は、
歌った人たちの記憶に長く残った。
彼は実際の演奏家として、
そして音楽をする人たちとの交流も、
非常に高く評価され、
1953年まで、その指揮棒を置くことはなかった。
金銭に関しては問題になることはなかった。
後年は、ヴォーン=ウィリアムズは、
自身の音楽で十分に生計が立てられたが、
世界大戦の前には、
こまごまとした私的な不労所得によっていた。
写譜の仕事やもっと単調な音楽指導などの話もなかった。
彼は、報われるとは思われない
いかなる音楽的雑用も拒むことが出来たので、
実際、彼は、そのいくつかは放棄した。
ハイドン以来、こうした外部の活動と、
想像の中の内的生活を調和させられた例はまれであった。」

おそらく、名門であるから、いろんな資産があったのであろう。
このあたりから、ようやく、我々が良く知った、
彼の作品のリストが並び始める。

「その想像力の凝縮は、
ダブル弦楽オーケストラのための、
『タリスの主題による幻想曲』で発揮された。
ここにあるのは独特の声部であって、
新しい量感と華麗さ、静かな熟考、
常に感じられる不思議な感覚が、
ヴォーン=ウィリアムズ特有のエッセンスとして、
認められるようになる。
つづいた、『揚げひばり』や『ロンドン交響曲』や、
1914年に大部分が完成された、
オペラ『牛追いのヒュー』には、
強い個人的な様式が開花している。
『ロンドン交響曲』は、その想像力の豊かさによって、
生き生きとした創造的な外見を誇っている。
それは、その頃、作曲家が主張していたもので、
前に、『コミュニティのための音楽であれ』と
言ったことを述べた通りで、
この段階に彼が発展したことを示している。
彼の増大化する自信は、
彼こそが、その世代で、
もっとも約束された英国の音楽家である、
という認識の高まりとマッチしたものであった。」

第一次大戦と「田園交響曲」の関係を、
この前、スラットキンのCD解説で学んだが、
続く一節が、まさしくそれに相当する部分である。

「そして戦争が始まった。
ヴォーン=ウィリアムズは、
42歳になろうとしていたが、
彼はR.A.M.Cに志願し、
救護兵としてフランスで任務につき、
Salonika(ギリシャのテッサロニカ)
の前線に配備された。
1918年の初頭、王立守備砲兵隊の任務で、
フランスで再び駐屯した。
休戦後、すぐに彼は、第1陸軍、B.E.Fの
音楽監督となって、
彼が得意とした素人音楽団の編成を任じられた。
彼は戦争を必要悪だと感じていたが、
力ずくで積極的な活動をさせられたとも感じていたが、
喪失感、無意味さを感じ、嘆きは深かった。
こうした思いは、抵抗活動とか、
因習打破といった方向には向かわず、
より瞑想的な哲学的な表現の探求となった。
『田園交響曲』(1921)には、苦痛が底流し、
作曲家の戦時中の体験が関係しているとされる。
西部前線のEcoivesで、
彼が救護兵として働いていた時に、
その大部分の構想が発芽し始めた。
この作品や、他の戦後の作品、
特に、『ト短調ミサ』や、
『楽しい山の羊飼い』の中には、
胸に秘めたような音符が現れ、
集中し、思索的で内的凝集の産物である。」

前のCDの解説では、このあたり、
作曲家は戦争後遺症に悩んだとあったが、
ここでは、いきなり仕事に追われ出している。

「ロンドンに戻ってみると、
やるべきことがたくさんあった。
1920年、ヴォーン=ウィリアムズは、
新しい校長、ホフ・アレンの招きで、
R.C.Mの教員に加わり、
アレンの後任として、
バッハ合唱団の指揮者の地位を引き継いだ。
レイス・ヒル音楽祭の復活は、
当時のもう一つの重要な懸案事項で、
民謡協会の仕事も忙しかった。
1922年、裕福なアマチュア音楽家の招きで、
彼はアメリカを訪れ、
『私はパトロンなどいらない。気が滅入るからね』
と、『田園交響曲』の公演を指揮した。
これらの活動の影で、彼は作曲にも勤しみ、
古い作品を改訂し、新作を書いた。
彼の音楽は、今や広く関心を惹き、
ますます議論の種となったことからもそれが分かった。
彼の多くの新しい友人には、
若い指揮者のエイドリアン・ボールトがいて、
たちまち、彼の最も共感豊かな解釈者になった。
国際現代音楽協会の新設も1920年代のことで、
そのヨーロッパ音楽祭で、
彼の作品のいくつかが演奏され、
ザルツブルク、ヴェネチア、プラハ、ジェノヴァなどでは、
この機会に彼の音楽が初めて演奏された。」

音楽祭があって、そこから知名度が上がる、
というのも、現代の感覚に近いものがある。

という事で、これまで聞いていた、
「第3交響曲」のあたりまで読み進め、
この有名だが、まだ未知だった作曲家の、
円熟までの道のりを知ることが出来た。

得られた事:「ヴォーン=ウィリアムズは、シャイで神経質な性格をぶっきらぼうな仮面で隠していた作曲家であったが、その素晴らしいヴィジョンを作品にする技法に関しては、常に研鑽を続けていた。」
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by franz310 | 2013-08-03 21:34 | 現・近代