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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その379

b0083728_1145589.jpg個人的経験:
エルガーが書いた、
合唱付き交響詩のような、
「ミュージック・メイカーズ」という
不思議な作品(作品69)を聴いたが、
これは、第2交響曲作品63や、
ヴァイオリン協奏曲作品61という、
円熟期の絶対音楽と三部作をなす、
これまた、へんてこな位置づけであり、
共感して良いような悪いような、
悩ましい内容の作品でもあった。
音楽家であることの誇りと疎外感が、
ごちゃ混ぜになった歌詞である。


ヒコックスのCDの解説者はシュトラウスの
「アルプス交響曲」になぞらえていたしが、
多くの人は、自作引用の自画自賛に見えるのか、
「英雄の生涯」と比較したりもする。

が、聴いた感じのとりとめのなさでは、
アンチ「ツァラトゥストラ」みたいに聞こえる。

エルガーはシュトラウスの技法に憧れていたというが、
出来上がったものは、
ニーチェ、シュトラウス連合なら、
鼻で笑って一蹴するような、
めそめそ音楽になってしまっている。

EMIから出ていたヒコックス指揮のCDでは、
この40分ほどの作品に、
逆に、作品番号の若い、作品37の、
「海の絵」という20分ほどの歌曲集が、
併録されていた。

一つ前の作品36が、出世作の
「エニグマ変奏曲」であるから、
その位置づけは、私の中では、
「若書き」という感じである。

「ミュージック・メイカーズ」は、
どうもつかみどころのない作品で、
終わり方も消えるような感じであったが、
この「海の絵」の方も、
大オーケストラを駆使して、
あちこちで盛り上がるのだが、
どうも、散漫な印象を感じる。

ヒコックスのCDでは、
「ミュージック・メイカーズ」が、
消えるように終わると、
「海の絵」の、センチメンタルで
静かな序奏が始まるので、
前の曲がいつ終わって、
後の曲がいつ始まったか、
分からない感じであった。

この曲は、古くから、バルビローリのレコードで、
広く知られていたが、他に、どんな歌手が歌っているか、
考えても、まるで思い出すことが出来ない。

そもそも、自作の録音を多く残したエルガー自身、
この曲を録音していないのではないか。

さらに書くと、バルビローリが指揮した録音でも、
この曲は、ひどい紹介のされ方になっている。

私はずっと昔から、バルビローリが指揮し、
悲劇の女流チェリスト、
ジャックリーヌ・デュプレが独奏を務めた
エルガーのチェロ協奏曲のLPは持っていたが、
それはディーリアスのチェロ協奏曲が入っていて、
「海の絵」が併録されたものではなかった。

改めて購入したのは、
先ごろ、やたら安売りしていた、
EMIマスターズの、
Great Classical Recordingsシリーズのものである。

安いが、ちゃんと解説もあって、
オリジナル・テープからリマスタリングしたという、
何となくお買い得感のあるものだが、
表紙写真がデュプレの大写しというのは、
いかがなものだろうか。

演奏者名もデュプレだけが大きく赤字で、
エルガーに迫っており、
「海の絵」を歌うジャネット・ベイカーも、
バルビローリのロンドン交響楽団も、
みな、デュプレの文字の半分以下の黒字なのである。

1965年録音の「チェロ協奏曲」や、
ベイカー独唱による「海の絵」だけでなく、
表紙には書かれていない、
演奏会用序曲「コケイン」が、
(オーケストラはフィルハーモニア)
最初に収められているので、
むしろ、バルビローリが主役のようなCDである。

こんなCDを聴きながら「海の絵」を語ろうというのも、
多少、気が引ける感じがする。
が、マスターテープからのリマスタリングのせいか、
1962年録音の「コケイン」序曲も、
けっこう、豪壮な鳴りっぷりで、
EMIの録音で感じがちだった、
もこもこ感が解消されてうれしい。

また、解説はかなり読み応えがあり、
「エルガーの生涯」(2004)とか、
「桂冠指揮者バルビローリ」(1971、改訂増補版2003)
といった、かなりディープな書物の著者、
マイケル・ケネディという人が書いている。

ただし、「海の絵」に関しては、
いかに、この筋の専門家の筆であろうとも、
聴き始めるに当たって、気分が高ぶらない内容。

「作品へのその愛情と比べると、
バルビローリは演奏会で、
これをあまり取り上げなかった。
彼は、この作品を好きではなかった、
キャスリーン・フェリアと、
不幸な経験を持っていた。」

なんなんだ。いったい、何があったのだ。
が、それに関しては、それ以上は書かれていない。
文脈からして、想像できるのは、
コンサートで失敗したのであろうということ。
が、まったくの妄想かもしれない。

ウィキペディアによると、
何と、この曲で、名歌手フェリアは、
この指揮者のバルビローリと出会ったとある。
1944年12月の事である。

フェリアは、1912年生まれであるから32歳、
バルビローリは、1899年生まれなので45歳である。
この二人が親密な関係であったのは良く知られた所であるが、
フェリアは1953年にわずか41歳で亡くなっているから、
そうした事いっさいを含めて、
この解説者は、「不幸な体験」と書いたのだろうか。

「しかし、バルビローリは、1964年に、
『ゲロンティアスの夢』の録音で共演して、
ジャネット・ベイカーに、
この曲が合っていることを知っており、
特に、『珊瑚礁のある所』の
彼女の魅力的な歌唱は彼にそれを確信させた。」

ベイカーは1933年生まれなので、
64年と言えば、フェリアが現れた年に近い。
さすが碩学、フェリアの話から、
いきなりベイカーに話が移っている。

が、せっかく出て来た、
このCDでの独唱者であるが、
下記にあるように、
ベイカーもまた、この曲が好きではないという。

「彼女は最近のインタビューで、
この曲をお気に入りだったことはない、
と認めているのだが。
『<珊瑚礁>と<海の安息日の朝>は、
美しいと思います。
でも、JBの天才は、それを確信させました。
あなたもそう信じるでしょう。
私は録音の間、そう信じました。
みんなそう思い、私も歌って嬉しかった。』
私は、サー・ジョンがまさしく、
その録音セッションの合間に、
電話をかけてきて、
いかに興奮しているかを伝えてきたことを覚えている。」

いったい、この解説者は、何歳なのだろう、
と調べてみると、1926年生まれで、
ヴォーン=ウィリアムズの晩年の友人でもあったらしい。

1965年の時点では32歳である。
66歳のバルビローリが、
自分の半分の年にも満たない小僧に、
わざわざ電話をかけて来たのだろうか。

「『彼は、砂浜に打ち寄せる波を、
(海の安息日)あなたの前に描きだし、
あなたは潮の満ち干を感じることが出来るだろう。
そう思わないかい、ディア・ボーイ?』
そういって、実際、彼は実際、そうしていて、
オーケストレーションは、
前年の『エニグマ変奏曲』同様、
生き生きとして、それでいて、
透明感のある質感を保っている。」

ここでの「彼」は、エルガーということであろうか。
碩学が書くと、いろんな人がいっぺんに出てきて、
絶え間なき頭の切り替えが重要となる。

「クララ・バットが、
その年のNorwich Festivalで歌うために、
1899年に書かれた『海の絵』は、
オーケストラ歌曲集の初期の一例である。
エルガーは、ロデン・ノエル、エリザベス・バレット、
リチャード・ガーネット、
アダム・リンゼイ・ゴードンによる、
様々な愛に関する5つの詩を選び、
第2曲『港にて(カプリ島)』は、
作曲家の妻、アリスによるものである。」

こんな風に、一部、公私混同があったりするから、
この曲は、なんだか散漫な印象があるのだろうか。
それにしても、1899年といえば、
バルビローリが生まれた年で、
こんな事からも、
彼のこの曲への愛着があったのかもしれない。

「この曲をエルガーは1897年に、
ピアノ伴奏歌曲として書き、
後に歌曲集に入れ込むために、
改訂してオーケストレーションした。
この曲と、1880年代のカドリール舞曲から発展した、
『珊瑚礁のあるところ』は、軽い編成であるが、
『安息日の朝の海』の宗教的、官能的な情熱や、
『泳ぐ人』のワーグナー的な嵐には大編成を使った。」

このように、「海の絵」の解説は、
最初に書かれているが、収録は最後である。

なお、このCDには、この手の廉価盤の常として、
歌詞はついていない。
幸い、ヒコックスのCDには、歌詞があったので、
これを参考にすることが出来た。

Track6.「海の子守唄」(ロデン・ノエル詩)
1834年に生まれ、
エルガーが、この曲を書く頃まで生きていた詩人。

この曲のセンチメンタルな導入が、
どうも、なよなよしていて、私は苦手である。
エルガーは、もっと剛毅であって欲しい。

「海鳥たちは眠り、世界は悲しむことを忘れ」
と歌いだされるもので、
時折、扇情的な盛り上げや、
ハープや木管楽器による装飾的な音形なども、
何となく安っぽい広告のようだ。

歌詞も、どうもぴんと来ない。
「私は心優しき母。
心落ち着けてわが子よ、
荒々しい声は忘れて。」
と、メルヘンチックである。

エルフィン・ランドでの光景のようだが、
これは、「妖精の島」とでも訳すのだろうか。
どしんどしんと打ち付ける波の描写は、
だとしたら、大げさにすぎないだろうか。

どうも、クラシック音楽というより、
童話の挿入歌みたいな感じがする。
「ヴァイオリンのような海の音。
悲しみ、おののき、罪は忘れなさい。
おやすみ、おやすみ。」

しかし、味わうべきは、
ジャネット・ベイカーの、
いくぶん陰りのある、しかし、
冴え冴えとした格調の高い歌いぶりで、
非常に、情感を込めながら、
安っぽくなっていないのがすごい。

ヒコックス盤では、フェリシティ・パーマーが、
いくぶん、成熟した強靭な声を聴かせ、
オーケストラもよく反応している。

Track2.「港にて(カプリ)」(C.アリス・エルガー詩)
これも、In Havenという題名に、(Capri)と、
わざわざ断っているのが、意味深で嫌味な感じ。

なぜなら、下記のような情熱的な歌詞は、
別に、カプリ島である必要はないと思われるからである。
軽妙な小曲で、曲想は、まさしく童謡みたいだ。

「わたしの唇にキスして、やさしく言って。
『喜びは、波で洗われ、今日、消えるかもしれない。
でも、愛だけは残るだろう』。」

ヴァイオリン群がヴィヴラートで伴奏する部分など、
ムード音楽的発想である。

Track8.「海の安息日の朝」
(エリザベス・バレット・ブラウニング詩)
この人は、19世紀初頭に生まれた女流。
肖像画で見る限り、かなりロマン派的な、
やばそうな感じの風貌。

これは、ベイカーも美しいと書いた曲だが、
解説者も官能的、宗教的と書いた。
そんな感じの序奏から期待が高まる。

かなり、前の2曲とは異なり、
この魔性の瞳の詩人のせいか、
レチタティーボ調で、エルガーらしい、
剛毅と感傷の交錯が成功している。

ベイカーが、このほとんどメロディを歌わない、
禁欲的な歌を「美しい」と書いたのには、
何故か、嬉しくなってしまった。

「厳粛に船首を向けて船は進んだ、
深い闇を見つけるために、
厳かに、船は行く。
私は力なくうなだれ、
別れの涙と眠気によって、
瞼が重みで下がって来る。」

安息日の朝とあるが、
とても朝とは思えない。
また、女流とは思えない、
妙なイケイケ感が漂っている。

「新しい光景、新しい不思議な光景、
回りの海は、荒れ狂い、
空は、私の上で、
月も太陽もなく穏やか。
ただ、その日の輝かしさを讃えよう。」

ここで、交響曲のような、
壮大な楽想が現れるのは、少々、安っぽいが、
いかにもエルガーらしい、
いや、ワーグナーみたいだが、
居丈高な様子が、何となく許せてしまう。

「私を愛せ、友よ、この安息の日に。
回りの海は歌う、君たちの歌う讃美歌に合わせ。
私が跪いた所で、祈ってほしい。
君たちの声は、届かないのだから。」

こうなって来ると、もう、歌詞の内容は理解困難。
いったい、この人は、どうなっているのだ。
ナルシスムと、意味不明な高揚感で、
確かに、官能と宗教の交錯だ。

「わたしのこの安息日には、会衆の賛歌はないが、
神の精霊が慰めを与えてくれる。」

この人はイタリアに駆け落ちをしたというが、
その時の歌であろうか。

以下の部分は、まるで、マイスタージンガーのような、
英雄的な歌となって高まって行く。
波が打っては返し、すごい高揚感である。

「私を助け、高いところを見せてくれます。
聖者がハープと歌で。
終わりなき安息日の朝。」

Track9.「珊瑚礁のある所」(リチャード・ガーネット詩)
エルガーがこの曲を書いた時、
まだ存命であった1935年生まれの詩人。

軽い編成で、ベイカーも好きな曲だとある。
ヘンテコなリズムで、
エキゾチックな南国への憧憬。

ベルリオーズの「夏の夜」みたいな感じである。

「深い所に優しく静かな音楽がある。
風がしぶきを優しく誘うと、
僕に行こうと誘う、
珊瑚礁のある場所を見に。」
という感じの軽めのソネット風。

Track10.「泳ぐ人」(A.リンゼイ・ゴードン詩)
1833年生まれ、1870年に早世した、
オーストラリアに渡った詩人。

この曲は、編成の大きさで知られる。

この詩は、長いし、ごちゃごちゃしている。
結局は、目を凝らして眺める海の嵐になぞらえた愛の歌。

エルガーの音楽は、風雲告げる序奏から、
雄大な楽想の断片が見えて、
レチタティーボ風の歌唱が始まる。

何となく、シューベルトのバラード風の緊迫もある。

「短く鋭い激しい閃光で見える
南の方に、見える限りに見えるのは、
渦巻く大波、
海は盛り上がり、波頭が砕け散る。」
などと、恐ろしい描写のたびに、
音楽は素晴らしい高揚を見せ、
これまた、ワーグナーのような 絶唱となる。

こんな所で、いつ泳ぐのかと思うのだが、
長い長い詩を読み飛ばして行くと、
「血塗られた刃のような一筋の光が、
水平線を泳ぐ。緑の湾を赤く染めて。
虚ろな太陽の死の一撃で、嵐の絡まりを打ち破る。」
などと後半になって出てくるから、
「泳ぐ人」とは、こうした嵐が終わる光景を、
見ている人か、嵐の中の太陽の光を指すのだろうか。

愛の歌だと思えるのは、
何だかよく分からないなりにも、
最後がこんな風になっているから。

「集まり、跳ねた、勇敢な白馬たちよ。
嵐の精は吹きすさぶ手綱を緩めた。
今や、もろい小舟もがっしりとした船だ。
そのへこんだ背中に、その高く弧を描くたてがみに。
誰も乗ったこともないような乗り方で、
眠たげな、隠された渦巻く大波の中、
禁じられた衝突を越え、予告された湾に向かう。
光が弱まることなく、愛も衰えない所へ。」

が、これは、いったいなんだろうか。
困難な愛に向かって突進していく男の美学なのか。
あるいは、嵐が収まったところで、
改めて、愛情を再確認しているのだろうか。

何となく、しょぼい感じで始まった歌曲集だが、
演奏会で、この大言壮語の美辞麗句と大音響で、
これだけ盛り上げれば、聴衆も喜ぶかもしれない。

が、この曲にエルガーの好みと、私の拒絶反応の、
エッセンスのようなものが同居していることが分かる。

過剰なレトリックで、言葉が濫用され、
その一つ一つに過剰に感情を膨らませ、
何だか、結果として、聴くものが興味のない世界にまで、
むりやり誘おうとしている。
これでは、ついて行けない。

ひょっとして、これは、何の象徴、みたいな解説があれば、
もう少し楽しめるのだろうか。

さて、「海の絵」の解説の後、
エルガーの「チェロ協奏曲」の解説になるが、
この文章を書きながら、これを流していても、
リマスタリングの効果が素晴らしいことが分かる。
生々しいチェロの音色は、
その弦の震えまで見えるようである。

それに加えて、当然語るべきは、
デュプレの演奏、その気迫のすさまじさだが、
解説に面白いエピソードがある。

先の解説の引用は、「海の絵」に関するところから、
抜き出して始めたが、
冒頭は、こんな感じで、この録音の意義から、
書き出されている。

「1965年の8月に、
サー・ジョン・バルビローリが、
エルガーの『チェロ協奏曲』と、
『海の絵』を録音した時、
彼は、アーティストとして多大な賞賛をし、
個人としても大きな愛情を持っていた、
チェリストのジャックリーヌ・デュプレと、
メゾ・ソプラノのジャネット・ベイカーという、
二人の若手を起用した。
1956年に彼は、
ジャックリーヌ・デュプレが、
11歳の時に、スッジア賞を受賞した時の、
コンクールの審査員であった。
彼は、興味をもって、
彼女のキャリア発展を見ており、
1965年、ハレ管弦楽団に彼女を、
エルガーの演奏に招いた。
彼女は作品に自由奔放に接し、
バルビローリは、彼女の解釈を、少し落ち着かせ、
常に気持ちを途切れさせることのないように説得した。
しかし、彼は彼女のテンペラメントを賞賛し、
『若い時にやり過ぎなくて、
後で何を切り詰めるんだい』と語った。
生粋のエルガー信者の中には、
彼らの解釈はもっと平静を保つべきだ、
という人がいるかもしれないが、
エルガー自身はそうは言わなかったかもしれない。
1932年、少年だったユーディ・メニューインが、
『ヴァイオリン協奏曲』を演奏して、
その厳格さを奪ったとして、
やり玉に上げられた時、
作曲家は、こう言い返した。
『厳格さなどどうでもよい。
私自身、厳格な人間ではない。』
経済的理由から、EMIは、
これらの録音に際して、
バルビローリの愛したハレ管弦楽団ではなく、
ロンドン交響楽団(LSO)を起用した。
若い頃、バルビローリは、LSOのチェロセクションで、
エルガーのチェロ協奏曲の初演でリハーサルを経験し、
1927年には、エルガーの『第2交響曲』を、
24時間以内に勉強して演奏するという機会に、
このオーケストラを初めて指揮した。」

これは、ビーチャムの代役として登場したのである。
さすがバルビローリ研究家である。
すごい薀蓄だが、あまりこのCD鑑賞とは関係ない。
むしろ、コケイン序曲が、
何故、フィルハーモニア管との録音か、
などを知りたくなるのだが。

「1965年8月19日、
彼らは協奏曲の第1楽章とスケルツォを、
ほとんど一回のテイクで録音し、
オーケストラから自然に、
ジャックリーヌ・デュプレに拍手が沸き起こった。」

スケルツォとは、
第2楽章の「レント―アレグロ・モルト」のことで、
前半2楽章がぶっとおしで演奏された結果が、
ここに収録されている、ということである。
自然に拍手が起こるというのも、
分からなくない演奏の勢いである。

第2楽章は、主題をぽろぽろ、
ピッチカートでチェロがかき鳴らして始まる。

豪壮な悲哀のメロディを挟んで、
めまぐるしい軽妙な部分が続く。
ここでも、大きく、デュプレは、
出て来たメロディを、これ以上ないほどに、
共感を込めて歌いながら、
集中力を切らさず、細かいパッセージを散りばめていく。

オーケストラが薄いのに対し、
チェロは、すごい技巧を畳み掛けなければならない。

確かに、緊張感からしても、
これを弾ききった時には、
拍手が起こってもおかしくはない。

が、この録音の説明の最後には、
意外な事が書かれている。

「このレコーディングのリリースは、
予想どおりの成功だった。
彼女が、最初にこのディスクを聴いた時、
『私がやりたかったことと全然違う』と、
大泣きしたにもかかわらず。」

しかし、
This is not at all what I meant!
と演奏者自身が言ったという録音が、
我々の心を打つとしたら、
彼女が満足した演奏は、
我々の心をもっと打つのか、
打たないのか。
悩ましい言葉である。

この曲は、この演奏と共に語られて来たような、
幾度も語り尽された世紀の名演奏であるから、
私が、それに付け加えるべきはない。

LPでも買ったし、CD化されてからも買った。
そして、このリマスタリング盤も購入した。

解説には、まだ、この曲についての説明がある。
「1918年から19年に書かれたチェロ協奏曲は、
彼が毎年、訪れていた、
最後の3曲の室内楽曲を書いた、
サセックスのコテージで書かれた。
彼は病気がちで第1次大戦の殺戮に絶望し、
協奏曲は悲劇的で秋の気配が濃厚なものになった。
ある世界への郷愁が消え去ってしまった。
作品はなおも精力的で、
最後の楽章のある部分は、
1914年以前の作品の持つ
ある種の居丈高や興奮があるが。
彼は、この作品を、
『真の意味の大作で、
良い作品で生命ある作品だと思う』
と書いた。
聴衆の脳裏に残る
アダージョでの寂しい晴朗さや、
フィナーレの最後に爆発的な怒りがあるが、
この録音では、それが痛切に描かれている。」

デュプレは、おそらく、こうした要素を、
直観的に嗅ぎ当て、
共感を増幅させ、感情を没入させて、
チェロをうならせていったのだろう。

19歳の青白い炎が、
エルガーが晩年まで持っていた、
鬱屈した情念に見事に引火した感じであろうか。

第3楽章のアダージョ。
諦念に満ち、苦み走った美しいメロディを、
ひとり任されたチェロ独奏は、
恐ろしいほどの感情移入で、
オーケストラを圧倒している。

というか、バルビローリといえども、
これを邪魔するようなノイズを入れるわけにはいかない、
などと思ったはずである。

終楽章冒頭は、みごとに、
チェロの没入に見合った迫力で、
びしっと決めているが、
楽団員は、目の前で神がかり状態になって、
興奮と沈潜を大きく行き来する、
巫女的な演奏者を見ないように、
ただ、バルビローリにすがり付いている感じ。

このCDで聴くと、何やら唸り声が聞こえるようだが、
バルビローリの叱咤激励であろうか。
確かに、このような独奏を前に、
自分たちは何をして良いのか、
茫然自失となってもおかしくはない。

「海の絵」が盛り上がるにつれ、
私の頭が真っ白になるのと同様の作用が、
この場合、スタジオ内で起こって行ったに相違ない。

得られた事:「エルガーの歌曲集『海の絵』は、ワーグナーの壮大さと、メルヘン・ワールドの混合体で、修辞的表現満載。」
「安っぽさと熱気が同居しながら、最後は盛り上げ、無理やり一つの曲集になっている。」
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by franz310 | 2013-05-26 11:47 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その378

b0083728_22164641.jpg個人的経験:
ヒコックスについて
書いているうちに、
私が、この指揮者を
知るきっかけになった
懐かしいCDを思い出した。
昔、まだイギリス音楽が、
それほど紹介される前、
秋葉原かどこかで見つけた、
美しい表紙のものである。
歌曲集「海の絵」が
収録されているからであろう、
砂浜で、微妙な距離感で並ぶ男女。


言いたい事が言えないような、
初心なのか、訳ありなのかが、よく分からない。

春先なのであろうか、空もすっきりせず、
妙に寂しげな光景である。
ピンクのワンピースの女性は、
何だか神妙な面持ちである。

ポール・シュテファンセン(Poul Steffensen)の
「海辺」(By the Sea)というもので、
名前からして北欧系、調べてみると、
デンマークの人らしい。
1866年の生まれなので、
1857年生まれのエルガーと、
ほぼ同時代人である。

エルガーは1934年まで生きて、
多くの録音を残したが、シュテファンセンは、
それより五年前、1929年に亡くなっている。

The bridgeman Art Libraryの協力による、
とあるので、特定の美術館で見られるものではなさそうだ。

まずは、この珍しい絵画が紹介されているだけで、
貴重なCDだと言える。
さらに、この絵画の、妙に懐古的で甘ったるいトーンは、
エルガーの音楽にも感じられるものであるが、
エルガーの絶対音楽群は、こうした甘さなしには、
聴けないような硬質感があるのが、また、魅力であろう。

が、ここに収められた声楽作品はどうだろうか。
エルガーに期待する硬骨漢の魅力はあるだろうか。

私の先入観としては、これが裏切られる感じ。
この表紙絵画そのままに、なんだか甘ったるい音楽。
ただし、実は、今日まで、
歌われている内容まで吟味したことはなかった。

そもそも、このCDのために、
1987年にバーネット・ジェイムズという人が、
「エルガーの合唱曲の中にあって、
『ミュージック・メイカーズ』は、
何年にもわたっていささか厳しく叩かれてきた」
という書き出しで書いた解説は、
初めて聞く曲の解説にしては、
多少、シビアにすぎたというべきであろう。

語り口は堅苦しいし、
読んでいて、全然、良い曲には思えない感じ。
特に、最初の方だけ読んで最後まで読まなかった、
私のような横着な聴き手にとっては、
最悪の解説だったかもしれない。

このCDも、EMIのものだが、
たとえば、東芝EMIなどから日本盤が出た記憶はない。
そもそも、これ以前に、日本で、
この曲は紹介された事があったのだろうか。

「故フランク・ハウズのような、
ある種の批評家たちは、
明確に『B級』エルガーとして片づけている。」
などとあって、日本ばかりでなく、
これまで、本家英国でも、誰も擁護したり、
これを良い曲として紹介したりしたことがない、
といったような印象を受けてしまう。

実は、ここまで読んで、私も、
この曲は、この作品をB級品として信じてしまい、
20年、いや25年くらいだろうか、
四半世紀にわたってCDは保管していても、
愛聴した記憶がまるでないのが実態だ。

エルガーという作曲家は、
長生きした事もあって、
マーラーより年配であったのに、
大量の自作録音を残すことが出来た人だが、
この助奏と9節、全10部からなる、
40分近くかかるこの曲の、
10分程度の抜粋を残しているだけである。

解説は、なおも、理由をあげつらい攻撃を続けている。

「主な理由は二つあって、
まず、最近では、アンソロジーものでしか、
読まれることがないが、
おそらく時代の子と言っても良い、
その時代の人気詩人、
アーサー・オショーネシーによる、
この曲のテキストが、
最も良く言われることで、
二番目は、エルガーが、
この作品中で取った方法だが、
もっとも顕著なのは『エニグマ変奏曲』、
(主に『ニムロッド』)だが、
作品中に、様々な自作引用があることである。」

この記載もエルガーをよほど聞いた人でないと、
気が滅入る話である。
すべての引用を、その原曲と照らし合わせて、
語れるようにならないと、
このへんてこな音楽を楽しむ資格が、
ないような感じすらしないだろうか。

そして、実際、この音楽は、
大量のどこかで聴いたメロディの、
二番煎じだらけなのである。
有名な二曲の交響曲、
出世作「エニグマ変奏曲」あたりを、
知っているだけで、もう、かなりうんざりするはずだ。

したがって、下記のような記載は、当然、という感じもする。

「この特色は、この作品をしばしば、
批評家があきれたという視点と合わさって、
『でっちあげ』のものと思わせた。
事実、『ミュージック・メイカー』は、
詩が、芸術家や、世界における芸術家の役割に、
敬意を払う、彼自身の感じ方を正確に表現しているだけでなく、
作曲家自身をぴったり表している。
それは、彼の生涯を貫く、
横糸を拾い上げている。
『われら音楽の作り手は、
夢の中で夢見る者だ。
寂しい白波をさまよい、
人気ない流れに座するもの』
これは、エルガーがまさしく、
その生涯の最後の日々に語った、
その言葉にそっくりなのである。
『私はいまだ、夢見る少年のままなのだ。
いつも、セヴァーン川のほとりの葦の中で、
音を書きとめようと紙の束を持っていた。』」

このセヴァーン川とは、
ウェールズからイングランドにかけて流れる、
イギリス最長の川で、
地図で見るとロンドンの真西くらいにある。

「『夢の中で夢見る人』、エルガーは生涯を通じて、
こんな風に生きた人だった。
それは彼の想像力の源の一つであり、
オショーネシーの詩は、
エルガーの中で深く共鳴する木霊としてそれに応えた。」

ということで、少し、解説にも、
同情の気配が見えて来た。

エルガーは、そもそも夢うつつの中で生きた人だったので、
ヘンテコでもしょうがない、という感じだろうか。

「『ミュージック・メイカーズ』は、
第2交響曲とヴァイオリン協奏曲の間に挟まれた作品で、
これらをエルガーはある種の三部作と見ていて、
これらの中には、彼の言葉でいう、
『ありのままの魂』がある。
これら3つの重要作の、内面的、相互関係的は、
かすかであるが、広範囲に行きわたっている。
これらの三作は、非常に個人的なものであるが、
『ミュージック・メイカーズ』は、
とりわけそうなのである。」

私は、このCDを買う時に、
一応、作品69という、円熟期の作品であることは、
ちゃんと確かめていた。
エルガーのように、当時は、
ほとんど知る人ぞ知るみたいな作曲家の、
習作期の作品などを冒険して買うような余裕は、
CDも高かったし、当時の私にはなかった。

が、第2交響曲とヴァイオリン協奏曲の間、
という認識まではなかった。

「全曲のテクスチャーに関わり、
コントラルト独唱が、
『しかし、その男の心の中で壊れたとしても、
光はそこから離れたりはしない』とクライマックスを築く、
『エニグマ変奏曲』の引用以外にも、
以前のエルガーの作品からの引用はたくさんあって、
『ゲロンティアスの夢』、『海の絵』、
ヴァイオリン協奏曲、第2交響曲のみならず、
『ルール・ブリタニア』、『マルセイエーズ』など、
短い良く知られた引用され、
『私的なエルガー』の要素が強いにしても、
いわば、『血統と国家』の賛美者としての、
『公的なエルガー』と関連つけられている。
このごちゃまぜが恐らく見られてきて、
いまだ、酷評家やあらさがし屋には、
そう見えるだろうが、
いずれにせよ、エルガー自身、
それらに耐えられなかった。
『ミュージック・メイカーズ』は、1912年の夏に完成され、
その10月にバーミンガム音楽祭で初演された。
まさにエルガーの作品集では後期の作品で、
この見方をすると、エルガーの作品同様、厳しく、
たびたび近視眼的な批評にされされてきた、
シュトラウスの最後の交響詩、
『アルプス交響曲』に似ている。
これらの作品は幸い、近年、再検証され、
再評価されている。
(これら2作は、ほとんど同時代のもので、
エルガーは1912年、シュトラウスは1915年のものである。)」

むしろ、引用だらけの「英雄の生涯」とでも、
比較すべきだと思うが、ここでは、
別のシュトラウス作品が取り上げられている。

が、「英雄の生涯」が、非常に、雄大な主題で、
この曲を特徴づけ、人気作にしているのに対し、
「ミュージック・メイカーズ」には、
この曲の主題となるオリジナル・テーマがないのは、
重大な欠点であり、過失であると言って良い。

「一度だけだった『ミュージック・メイカーズ』の人気は、
その合唱主体のスタイルや特別なセンチメンタリズムからの
発展であったことによって、
すたれる傾向にあるかもしれないが、
今日、それを振り返ることによって、
1910年代にはよく見えなかった視点が見えてくる。
オープニングのフレーズをとってみると、
輪郭やアウトラインは異なるものの、
ブラームスの『第3交響曲』第3楽章と、
まちがいなく関連がある。
これはイギリスの作曲家にはありがちなことで、
エルガーにせよ、誰であれ、
意識してであれ無意識であれ、
ブラームスの影響を受けていた時代があった。
ブラームスは当時の英国の作曲家に、
広く影響を及ぼしていたが、
1905年11月、バーミンガム大学で行った、
いわゆる『ペイトン(Peyton)・レクチャー』
でも明らかなように、
エルガーはブラームスの交響曲に、
特別な関心を持っていたということから、
これはとりわけ意味があることである。
ブラームスの『第3』は、
その時、述べていたように、
残照の交響曲であって、エルガーの『第2』と共に、
『ミュージック・メイカーズ』は、
本質的に、残照の音楽なのである。
オーケストラによる前奏曲は、
このブラームス的なテーマを、
オリジナルの『エニグマ』の主題と結合したものである。
このように、最初からこのことは明確で、
それゆえ、続く引用と追憶なしには成り立たないものであった。
合唱の導入は、それをさらに強調する。
それは、明確な引用はないが、
どこか、『子供の魔法の杖(The Wand of Youth)』の
雰囲気の中にあって、
『ゲロンティウス』からは『夢の中で夢見る者』、
『海の絵』からは、『寂しい波打ち際』、
『エニグマ』からは『人里離れた流れ』といった、
次の三重構造をもたらし、
これらが構成と共に、
エドワード・エルガーの心理的性格を明らかにしている。
事実、『ミュージック・メイカーズ』の全曲を通じて、
『エニグマ』に新しい思惑を加え、
エルガーの人生とキャリアにおける位置づけを加えている。
『私は』と、彼は書いている。
『エニグマ変奏曲の最初のいくつかの小節を使ったが、
それは、それが、オードの最初の節における、
芸術家の孤独を表していると考えたからだ。』
この『孤独』は、このテーマをつけられた言葉、
『人里離れた流れに憩い』によって、
さらに強調される。
それはほとんど、
エルガーのセヴァーン川沿いの
少年期の夢想の回想、
さらに言えば、彼が生涯愛し、
『かつてあった川の中で最も美しい川』と書いた、
その支流、テメ川の回想を想起させる。
テメの流れは、エルガーの生涯や作品を通じて、
蛇行して現れ、決して、人里離れた川ではないが、
この孤独感は、作曲家の魂や心の中のものであった。」

このように、この曲は、残照、郷愁の音楽のように、
解き明かされて行くが、だからと言って、
傑作だというロジックにはならない。

ただし、エルガーの音楽を愛する者なら、
ここに耳を澄ませて、エルガーの郷愁に、
浸るということは、それなりの楽しみになりそうだ。

が、過剰な引用についても、
何らかの答えを出す必要を解説者は感じたようだ。

「この自身の作品の引用は、
エルガーにとって、別に特別なことではなく、
『ミュージック・メイカーズ』は、
その顕著な例なのである。
『ミュージック・メイカーズ』が、
エルガーの個性と、
彼の多くの音楽を特色付けながら、
あまり表だっては出てこなかった
思考と感情の探求の両方を、
意味することは明らかである。
『ミュージック・メイカーズ』は、
和声的にも、教会旋法や全音階など、
彼の音楽にたびたび出て来ていたが、
それほど強調されなかった部分を前に進めている。
このように、『ミュージック・メイカーズ』は、
合唱趣味の時代が古びて時代遅れになったと考えた、
視野の狭い批評家たちが理解を表明したよりも、
ずっと微妙で、意味深さを持ったものなのである。
もちろん、弱点はあるのだろうが、
エドワード・エルガーは、
小さな欠点のない因習的形式より、
完全ではないが、大規模な作品を書いた。
『ミュージック・メイカーズ』は、まさしく、
『魂を晒し出した』三部作の一つなのである。」

と言うことで、「第2交響曲」も「ヴァイオリン協奏曲」も、
大切な作品だと考えている私は、
この作品に、もっとまじめに耳を澄まさなければならなかった。

Track1.「イントロダクション」
解説に、「ブラームス的なテーマを、
オリジナルの『エニグマ』の主題と結合したもの」とあったが、
悲劇的な色調、危機的な緊張感を持った序奏部は、
確かに、ブラームスの変形に見える。

そこに、よりメロディアスな、エルガーらしい、
高貴なメロディによる幅広い主題が組み合わされている。
私は、全部、旧作の寄せ集めのように思っていたが、
そんな事はなかった。

ただし、この「イントロダクション」は、
十分に展開されることはなく、
独立した楽曲になる寸前の規模。
思わせぶりなニムロッド風のテーマで盛り上げて、
三分ほどで次の合唱を導く。

Track2.合唱:
「我々は音楽の作り手だ」
という部分、静かに歌いだされ、
いかにも世を忍ぶような風情。

「われらは音楽の作り手だ、
そして、夢の中で夢見るもの。
寂しい海辺をさまよい、
人里離れた流れに佇む。」

「『ゲロンティウス』からは『夢の中で夢見る者』、
『海の絵』からは、『寂しい波打ち際』、
『エニグマ』からは『人里離れた流れ』」
と解説にあったが、確かに、これらの後奏のように、
各曲の余韻が木霊している。

これまでの部分は、
ひそひそ歌われていて聞き取りにくい。

「世界ののけ者、世界を見捨て、
青白い月の光が照らしだす。」
の部分はいくぶん、はっきり聞こえる。

この後は、悲劇的な音楽であるが、
ヒコックスの指揮は、うまく構成し、
ティンパニの連打を合図に、大きくうねる。

長年、批判にさらされて、
委縮しがちな音楽を、
稀有壮大に最大限、膨らませている。

「だが、永遠に、
世界を動かし、震わせるように見える。」

ニーチェなら、キリスト教を断罪したように、
「ルサンチマンの音楽」と一蹴しそうな内容。

Track3.合唱:
テンポが速まり、対位法的なドンパチが始まる。
序奏の疾風のような音楽も合いの手を入れる。
「素晴らしい不滅の歌たちで、
世界に大都市を築くのだ。
途方もない物語で、
王様の栄光を讃える。
夢を持った男は、好きな時に、
前に進んで王冠を奪うだろう。
新曲の最初の3小節で、
王国を踏みにじることが出来るのだ。」

最後は、王国が粉砕されるような、
崩落の音楽となる。

Track4.合唱:
「地球の過去を葬った時代にあって、」
かなり、うじうじした部分だが、
以下の部分は、
だんだん、行進曲風になる。
「ため息でニネヴェを作り、
陽気にバベルを建てよう。」

対位法的な処理や複雑な展開で、
何を歌っているのか分からないが、
だいたい歌詞の内容にあった曲想だ。

1分40秒くらいから、
美しく、胸を焦がすような曲想が現れる。

「そして、新しい時代の価値では、
古びているとして、
預言でそれを倒そう。
すべての時代のための夢は終わり、
新しい夢が生まれようとしている。」
ハープやヴァイオリン独奏の断片が、
精妙な効果を見せる。

ティンパニが低く連打され、
序奏の音楽が静かに戻って来る。

「(われらは音楽の作り手だ、
そして、夢の中で夢見るもの。)」

Track5.合唱:
再び、朝が来て霧が晴れていくような曲想。
静かに歌われるので、聞き取りにくい。
「われらの霊感の一息は、
それぞれの世代の命となった。」

このあたりは、訥々と繰り返される。

「われらの夢の素晴らしいものが、
超自然的で見ることはできない。
われらの夢が現れるまで、
兵士も王様も小作人も一つになって、
世界でその働きがなされた。」

ここでは、音楽は興奮して高鳴り、
新しい世界の到来を夢見ているようだ。
低音では、オルガンが鳴り響いている。
ティンパニの静かな連打やハープの弾奏と共に、
曲は消えて行く。

Track6.独唱:
ここで、フェリシティ・パーマーが、
声を上げるが、司祭のように、
過去を回想する。

「彼らが良い家を建てた時、
彼らは驚くべきビジョンもなかった。
彼らが国を行く時、
神のお告げはなかった。
しかし、一人の男の魂が痛めば、
光は消えることはない。」

このあたり、かなり「ニムロッド」の
メロディが散りばめられ、
次の崇高な合唱に高まっていく。
エルガー・ファンならたまらない部分。

合唱と一緒に:
「しかし、一人の男の魂が痛めば、
光は消えることはない。
彼が見て、彼が言葉を語ると、
他の人の心にも炎がともる。」

Track7.独唱と合唱:
トロンボーンがひと吹きされて、
風雲急を告げる部分。
ティンパニは強打され、
まるで、革命が起こりそうな勢いである。

「過去の事はようやく満たされて、
今日はまた何かが起こる。
民衆は力を合わせる。
彼らの父親たちが認めなかった信頼の中に。
明日の夢を蔑むことは、過去のことになり、
彼らは、世界の中で、
その喜びと悲しみのために、
昨日には蔑まれた夢を見るだろう。」

合唱:
「(われらは音楽の作り手だ、
そして、夢の中で夢見るもの。)」
このたびは、この部分は、高らかに歌われる。

オーケストラは絶叫し、
合唱は盛り上がり、
独唱も負けじと歌うので、
何が何だかよく分からないが、
下記のような歌詞が歌われているのであろう。

独唱と合唱:
「だから、今日はまた何かが起こる。」

合唱:
「(我々は、永遠に、
世界を動かし、震わせる者に見える。)」

独唱と合唱:
「民衆は、その喜びと悲しみのため、
昨日は蔑まれた夢をもって、
世界を進む。」

静かに落ち着いて来ると、
序奏の気味の悪いメロディが重なって来る。
闇に沈むような感じ。

Track8.合唱:
闇の中から立ち上がる感じで、
誇り高い、ミュージック・メイカーズの、
自負が歌い上げられる部分。

「しかし、われらは、その夢と歌を持って、
絶え間なく、悲しみもない。
われらのに輝かしい未来を見つめる、
誉れを持つわれらには、
音楽の高鳴る魂がある。
おお、人々よ。
夢の中、歌の中に住むわれらは、
あなたがたと離れていなければならぬ。」

この最後の詩句に明らかなように、
最後は、諦観に満ちた、
別れの雰囲気たっぷりな音楽となって行く。
ここは、もっとも、胸を打つ部分であろう。

Track9.合唱:
ミュージック・メイカーの主題というべき、
恨みつらみの音楽が、
第1交響曲の誇り高い主題に高まって行く。

「夜明けから遠く離れ、
太陽がまだ高くなる前に、
無限につづく朝の外で、
勇敢な君はわれらが叫びを聴く。」

この「朝」というところで、
高貴な主題は、絶唱となっている。

が、すぐに暗転し、
下記のような怒りの部分に降下する。
「君たち人間のあざけりにも関わらず、
再び神の未来は近づいている。
君たちの過去は死すべしと、
すでに警告は出た。」

最後の詩句は、吐き捨てるようなニュアンスで、
エルガーのルサンチマン的音楽の絶頂となる。

Track10.独唱:
ここからは、最後の高まりで、
さえざえと独唱が歌い始める。

「大いなる呼びかけよ。
来たるべきものにわれらは叫ぶ。
めくるめく未知の岸辺より。
あなたの太陽と夏をもたらし給え。
昔ながらの世界を一新せよ。」

下記の部分などは、完全に、
マーラーの「大地の歌」みたいな感じ。

「あなたの新しい歌を教え、
かつて見たこともない夢を見せ給え。」

下記の部分は、静まって行くように、
合唱を引き寄せる。
「輝かしい未来を見る
あなたには誉れがある。
あなたの魂には高貴な音楽が高鳴る。」

合唱:
「おお、人々よ。
夢の中に住み、夢の中に住むわれらは、
すこし離れていなければならぬ。」

下記の部分は、独唱と合唱が、
別の歌詞を一緒に歌うので、
何が何だかよくわからないが、
音楽は、低温ながらふつふつと沸騰している。

合唱:
「われらの夢の中、歌の中、
おお、人々よ、われらは離れていなければならぬ。
夜明けから離れ、
太陽が高くなる前に。」

独唱:
「あなたの新しい歌を教えたまえ。
まだ夢見たこともないものを見せ給え。
あなたの太陽と夏を引き寄せ、
昔ながらの世界を一新せよ。
あなたの新しい歌を教えたまえ。」

独唱:
「まだ夢見たこともないものを見せ給え。」
ここまでは冴え冴えと歌われていた独唱は、
次の部分で、不思議な失速を見せる。

「そう、まどろんだ夢見る人や、
もはや歌わない歌い手は無視して。」

これは、いったい、どういう結論なのだろうか。
「歌わない歌い手」は、声を失ってしまう。
序奏の不気味なメロディが静かに回想される。

合唱:
「もはやない、もはやない。」

7分40秒くらいで、音楽は完全に休止。
そして、最後の1分くらいを、
下記のモットーが静かに繰り返される。
合唱:
「(われらは音楽の作り手だ、
そして、夢の中で夢見るもの。)」

残りの部分に、「海の絵」作品37が入っているが、
もう文字数をオーバーした。

得られた事:「『ミュージック・メイカー』は、交響曲とヴァイオリン協奏曲と共に、エルガーの魂の三部作をなすが、この魂は、ルサンチマンの魂である。」
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by franz310 | 2013-05-11 22:20 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その377

b0083728_23544216.jpg個人的経験:
デュリュフレの「レクイエム」、
A.デイヴィスが指揮をしたLPを、
30年くらい前に買って、
それなりに聴いてはいたが、
所詮、フォーレの亜流という認識で、
うかつにも最近まで生きて来た。
が、グレゴリオ聖歌などを聴いて、
再度、この曲に耳を澄ませてみて、
その認識が完全に間違っていることに
ようやく気付いたのであった。


そのきっかけになったのが、
今回、紹介するリチャード・ヒコックス指揮、
ロンドン交響楽団の演奏であった。

このCDはしかし、演奏はともかく、
商品としては、かなり適当に作られた、
廉価盤の典型的なもので、
表紙はキリストの十字架のお守りが写っているだけ、
解説もないというお粗末さ。
ユニバーサル・ミュージックの輸入盤。

収録時間の長さと、
カップリングだけは重要と考えたのか、
フォーレの「レクイエム」の
ジョージ・ゲスト指揮の
セント・ジョーンズ・カレッジの演奏が入っている。

ややこしい事に混乱しそうだが、
セント・ジョーンズ・カレッジの演奏は、
この前、クリストファー・ロビンソン指揮の、
デュリュフレ(98年録音)を聴いたところであるが、
これは、ロビンソンの前任者が、
70年代に録音したフォーレである。

この二大レクイエムが一枚で聴けるという以外、
これといった特徴のないCDであるため、
あまり期待しないで聴いたのだが、
何故か、吸い込まれるような錯覚に陥った。

あるいは、24ビット化してからCD化したという、
AMSIというマスタリングの効果であろうか、
非常に柔らかい感じで、立体感のある音作りになっている。

ただし、デュリュフレの方は、
1983年に出されたDDD表記なので、
再度のデジタル信号処理に、
どれくらい、効果があるのかは分からない。

この録音だけで、すっと、演奏に、
吸い込まれたわけではないだろう。

私は、しばらく前から、
このヒコックスという指揮者が、
実は、名指揮者だったのではないか、
などと思うことがある。

いくつかの作品で、今回同様、
こんないい曲だったっけ、
などと感じる場面に出くわしたのである。

たとえば、ヴォーン=ウィリアムズの、
「ロンドン交響曲」(1913年バージョン)など、
冒頭から非常に心躍る内容で、長らく、
何が良いのかさっぱり分からなかった、
この交響曲を、非常にすっきりと、
しかも魅惑的に響かせてくれた。

かなり、楽天的な感じが印象のある指揮者であるが、
それが演奏にも反映して、適度な推進力が心地よい。

この指揮者は、日本にも来て新日フィルなどを振ったから、
もっと知られても良い存在のような気がするが、
まったくもって、人気がなかったような気がする。

しかも、もう5年も前になるが、2008年、
1948年生まれのこの指揮者は、
実は、60歳という若さで亡くなっているのである。

長く、ロンドン交響合唱団の指揮者をしていた関係で、
(このCDでも、この楽団を使っているが)
ずっと合唱指揮者みたいに見られていて、
CD時代になってからシャンドス・レーベルなどで、
意欲的な活動を始めてからも、
どうも私には、イギリス音楽のスペシャリスト、
というより、合唱音楽のスペシャリストという印象が、
ずっと尾を引いていた。

そして、合唱が入る作品が、これまた、
説得力あるので、ますます、
そのような印象が強まっていった。

ものすごくひどい例が、
ボーイ・ソプラノで一世を風靡した、
アレッド・ジョーンズを起用した
フォーレの「レクイエム」の日本発売CDで、
ジョーンズは3分くらい
(と、二曲目のバーンスタインでもそれくらい)
しか出てこないのに、
前面に押し出したセールスがなされ、
ヒコックスの名前はほとんど無視して売られていた。

東洋の島国では、
このような悲惨な状況に甘んじながら、
地元の英国では、手堅く音楽活動の幅を広げ、
主要な英国近代の作曲家の交響曲の録音を、
かなり一手に任されるような重鎮になっていたようだ。

ヴォーン=ウィリアムズの門外不出の、
1913年版の「ロンドン交響曲」も、
ヒコックスだけが、作曲家夫人から信頼されて、
演奏許可が下りたのだと言う。

さて、このデュリュフレの「レクイエム」に戻ろう。
メゾ・ソプラノには、フェリシティ・パーマー、
バリトンにはシャーリーカークを起用して、
ブリテンのオペラなどで活躍した、
英国の巨匠級が集められていることも、
当地におけるヒコックスの人徳なのかもしれない。

主兵のロンドン交響合唱団に、
ウェストミンスター聖堂の少年合唱団を混ぜ、
ややこしいと言うべきかロンドン交響楽団が、
オーケストラ部を受け持っているが、
オルガン奏者の名前はない。

Track8.
入祭文とキリエ
オーケストラの助奏から魅惑的で、
男声合唱は妙に渋めであるが、
女声合唱は天上的に美しい。
これが、人間の祈り(グレゴリオ聖歌)に、
天使たちが答えるような印象を与えるのかもしれない。
オーケストラは、うららかな春の日差しを、
柔らかく降り注ぐ。
少年合唱はよくブレンドされている感じか。

キリエ:
ここでも、男声合唱から、
憐みたまえの祈りが、
こみ上げていくような効果がある。
今回、聞き直してみて思ったのは、
ちょっとオルガンが弱すぎる点だろうか。

何だか遠いところで、
ぼそぼそと言っているだけである。
金管群も、かなり控えめに合唱を補助している。
その代わり、合唱は、絶叫に近いくらいに興奮している。

オーケストラの後奏は、
香しく立ち上る感じが好ましい。

Track9.
「主、イエズス・キリスト」
このあたりは、ヒコックスならではの、
健康的な推進力がさく裂する部分で、
楽器群も声楽も爆発するような音響をぶつけるが、
ふっくらとした響きを大切にしている感じ。

シャーリーカークの独唱は、
オペラを想起してしまうが、
伴奏の緊迫感も含めて、
作品の立体感に一役かっている。

その後のうらぶれた響きも、
身に迫るものがある。

Track10.
「サンクトゥス」
この部分の光が降り注ぐようなオーケストラの表現、
リズム感も、このCDの魅力ではないだろうか。
「ホザンナ」の歓呼の声への期待感の盛り上げや、
そのクライマックスも自然な高鳴りを感じさせる。

Track11.
「慈しみもて主イエスよ」
パーマーの独唱。
これまた、オペラの悲劇的な1シーンにも聞こえるが、
真摯に「平安を与え給え」という、
巫女の声にも聞こえるかもしれない。

Track12.
「アニュス・デイ」
デュリュフレがそう仕込んだのか、
ヒコックスの指揮が、それを強調したのか、
緊迫の楽章に続いて、
清らかな光が、水面に反射するような、
美しく穏やかな音楽が始まると、
心から癒されるような気がする。

ヒコックスのうまさは、
この脈動するリズムに、
生命の息吹が感じられるような、
推進力と陰影を与えている点であろう。

Track13.
「主よ、とこしえの御光をもて彼らを照らしたまえ」
と歌われる部分で、合唱の豊かな響きと、
上品な香りのする、控えめなオーケストラが、
聴き手を包み込む。

Track14.
「主よとこしえの死よりわれらを救いたまえ」
で、フォーレの「レクイエム」では、バリトンが、
悲壮感のある独唱を聴かせた部分であるが、
デュリュフレでは、緊迫感のある合唱に、
一瞬、バリトン独唱が、劇的な楽句をさしはさむ感じ。

その後の「かの日こそ怒りの日」という、
合唱がまた壮絶で、
最後には、祈りへと収束していくのだが、
ここでの起伏に富んだ音楽づくりも印象的である。

Track15.
「天使はなんじを楽園に」
先ほどの緊張感の後の虚脱というか、
そのまま涅槃の境地に達したような、
天上に吸い込まれる音楽。

ここでは、少年合唱以外は、
すべてが霧の中に霞むような表現が、
夢幻的とも言える。
ほとんど、何が起こったかわからないまま、
安楽死するように消えてしまう。

合唱勝負みたいな感じで、その濃淡だけが勝負という、
水彩画とか墨絵の滲みみたいな感じで、
ヒコックスの得意領域に引きずり込まれてしまう。

ということで、この演奏は、
光が射し、朦朧とした水面の反射のような息遣いに、
不思議に生き生きとした息遣いが感じられるのが魅力と言える。

それ以外の部分での立体的な構成感も、
全体として、この魅力を倍加させる力がある。

それにしても、この録音は、誰が、いかなる目的で、
企画したのかを考えさせられる。

出来れば、まだ新鋭だったヒコックスが、
定期演奏会か何かで、この曲を取り上げ、
その評判がよくて、
名門デッカが録音に踏み切った、
みたいな乗りが嬉しいのだが。

まったく違って、デジタル時代になって、
一発、デッカ・レーベルでも、
最新録音で「デュリュフレ」やるか、
みたいな乗りだと嫌だなあと思う。

1998年の時点でも、
クラシック名盤大全「交響曲篇」(音楽の友社)には、
ヒコックスの名前は目次に三回しか登場しない。

しかも、ハイドン、
モーツァルトのような古典派ではもちろんなく、
ベートーヴェンやブラームスなど
独墺系の本流でも、
ブルックナー、マーラーのような、
やたらCDが多いものでも、
その他、ロシア、フランスでもなく、
エルガー、ヴォーン=ウィリアムズ、
ウォルトンのような、
イギリスの人気作においても、
ヒコックスはお呼びではない。

かろうじてラッブラの交響曲第6番(96年録音)、
ティペットの交響曲全集(92-94年)といった、
一般愛好家は知らないような曲目で、
登場するだけなのだ。

2000年になって、このMOOKの
「オペラ・声楽曲篇」では、
さすがに、認知度が上がったのか、
あるいは、得意の声楽曲のせいか、
ヒコックスの活躍はすごい。
目次には17項目に名を連ねている。
以下、()内は録音年代である。

1.バーンスタイン、チチェスター詩篇(86)
2.ブリテン、ノアの洪水(89)
3.ブリテン、ピーター・グライムズ(95)
4.ブリテン、ルクレティアの凌辱(93)
5.ブリテン、戦争レクイエム(91)
6.バーゴン、合唱作品(87)
7.ディーリアス、フェニモアとゲルダ(97)
8.ディーリアス、海流、他(93)
9.エルガー、ゲロンティアスの夢(88)
10.エルガー、生命の光(93)
11.フィンジ、クリスマス(87)
12.ホルスト、サーヴィトリ(83)
13.ホルスト、合唱幻想曲(94)
14.ハウェルズ、楽園賛歌(98)
15.ヴォーン=ウィリアムズ、海に乗り出す人々(95)
16.ヴォーン=ウィリアムズ、天路歴程(97)
17.ウォルトン、トロイダスとクレッシーダ(95)

ああ、やはり英国圏を越えられなかったヒコックス。
バーンスタイン以外は、みんな英国の作曲家、
さらに言えば、クラシック好きなら、
誰でも名前ぐらいは知ってそうなのは、
ブリテンの作品くらいではなかろうか。

もっと言うと、録音年代から分析するに、
80年代も後半になってからでないと、
この人の花は開かなかったような感じ。

したがって、83年以前の録音の、
このデュリュフレが、待望の録音ではなく、
カタログの埋め合わせ的な状況で生まれた、
と考える方が自然であろう。

ちなみに、先のMOOKに出ているデュリュフレは、
グラーデン指揮の聖ヤコブ室内合唱団(92)
と、1959年頃に録音されたという、
作曲家自身の自作自演盤である。

さらに見ると、フォーレの「レクイエム」は、
クリュイタンス盤(2種)、コルボ盤、
フルネ盤(2種)、フレモー盤、ヘレヴェッヘ盤が、
名盤として並んでいる。

この中に、デッカが当時、本気で出すなら、
デュトワくらいを起用したかったはずだが、
彼もようやく人気が出てきて、
まだ、サン=サーンスなどを録音していたから、
デュリュフレどころではなかったに相違ない。

さて、先のヒコックス指揮の、バーンスタイン作曲
「チチェスター詩篇」のCDこそが、
先に触れた、ボーイ・ソプラノ、
アレッド・ジョーンズの歌った、
フォーレの「レクイエム」と同じものなのである。
1986年の録音で、ここではオーケストラは、
ロイヤル・フィルになっている。

合唱は当然、ロンドン交響合唱団
(ロンドン・シンフォニー合唱団)である。
日本では、クラウン・レコードから出ていた。

バーンスタインの作品は、ヘブライ語の聖書への付曲で、
チチェスター大聖堂の依頼で1965年に書かれたものらしい。

チチェスター大聖堂は、
作曲家のホルストなどが埋葬されている
英国の教会であるが、
ローマのブリテン侵攻の足がかりの地だとされる。

何故、このようなところから、
ユダヤ人のバーンスタインが依頼を受けたのかは
実は解説にも書いていなくて不案内なのだが、
第二楽章にボーイ・ソプラノが活躍する部分があるので、
アレッド・ジョーンズを起用するということで、
ヒコックスに押し付けられた
カップリング曲というような感じがする。

ついでに、この曲も聞いてしまうと、
第1曲からして、
いかにもバーンスタインらしい、
豊穣なオーケストラのじゃんじゃかと、
リズミックな声楽が絡み合った音楽である。

Track8.第1楽章:
旧約聖書の「詩篇」からの寄せ集めで、
「賛歌」のイメージで晴れやかな歌詞が集められている。

詩篇108から、「ウーラ、ハーネヴェール」と、
「竪琴よ、琴よ、さめよ、」と歌いだしの宣言がなされる。
管弦楽は居丈高に、じゃんじゃんリズムを刻み、
大げさな、開始が告げられる。

詩篇100の「感謝の供え物のための歌」という、
まくし立てるような合唱が続き、
シンバルなどを伴って、
「全地よ、主に向かって喜ばしき声をあげよ」
という、お祭り騒ぎが盛り上がって行く。
男声合唱も女声合唱も、いかにも楽しげな、
群衆シーンみたいな弾け方である。

こんな音楽が教会で演奏されたのであろうか。

ティンパニのさく裂し、
合唱が盛り上がるが、
途中、繊細な部分を挟み、
「主は恵み深く、その慈しみは限りなく」
と、ボーイ・ソプラノと、
スティーブン・ロバーツのバリトンの二重唱がある。

Track9.第2楽章:
ここで、大人気だったボーイ・ソプラノ、
アレッド・ジョーンズの歌が入るが、
ハープのちゃらん、という音から入り、
伴奏も、簡素なハープ主体なので、
極めて清純な音楽に聞こえる。

というか、
「ウェストサイドストーリー」の、
「マリア」などに通じそうな、
清冽なナンバーとでも言いたくなる。

詩篇23の「主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない」という、
満ちたりた天上の歌となっている。

この詩篇23は、
我々人間は、単なる羊であって、
神様の働きによって、
緑なす牧場に憩い、死の谷も恐れずに通れる、
と歌われるもの。

キリスト教徒も、勝手に読み換えたのか、
「よき牧者の姿は、牧者たるイエスの愛を示すもの」
などと書いて、この詩を大事にしてきた。

面白いことには、シューベルトにも楽曲がある。
しかも、この場合(D706)は、
作曲家のメンデルスゾーンの祖父で、
高名な哲学者であった、
モーゼス・メンデルスゾーンが、
ドイツ語に訳したものに、
シューベルトは作曲している。

これは、1820年に作曲された、
ピアノ合唱による女声合唱曲(D706)である。
シューベルトの書いた女声合唱曲の中では、
屈指の人気作で、ピアノの清純な響きもあって、
非常に詩的な音楽になっている。

なるほど、このシューベルト作品も、
このように比べて聴けばよくわかるが、
バーンスタイン同様、神様に守られた、
至福の状況を音楽にしている感じだ。

また、面白い事に、シューベルトは、
晩年に、ユダヤ教の教会から、
詩篇の作曲を頼まれている。
こちらは無伴奏の合唱曲で、
バリトン独唱が入る。

古くから、ユダヤ教からも、
キリスト教サイドにも、
歩み寄りを見せていたようだ。

さて、バーンスタインの音楽に戻ると、
この詩篇23の部分だけなら、確かに、
教会で歌われそうな感じだが、
途中、激しい打楽器と合唱の音が打ち付けられ、
詩篇2の、「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、
もろもろの民はむなしい事をたくらむのか」
という部分が乱入して、
いかにも「ウェストサイドストーリー」の喧騒が現れる。
不気味に緊迫感を高める中間部が挟まっている。

詩篇23の「わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」
という平穏な音楽に戻る。

Track10.第3楽章:
かなり、緊張感の高い序奏で、
バルトークとかショスタコーヴィチさながらの、
粛清の予感すらする厳しい音楽。
そういえば、バーンスタインはユダヤ人だった。

このような恐怖は他人事ではなかったのであろう。

が、その試練を越えたかのように、
ハープが波打つ中、美しい楽節がはじまる。

詩篇131の「主よ、わが心はおごらず、
わが目は高ぶらず」という、敬虔な歌で、
「わが魂は乳離れしたみどりごのように、
安らかです」という満ち足りた合唱があり、
女声合唱が優しく重なってくると、
本当に清らかな感じになる。

これは、「神への帰順」の歌とされ、
キリスト教の人も、このユダヤの言葉に、
イエスの言葉を重ねているようである。

まさしく子守唄のような感じ。
あるいは、マーラーの「大地の歌」の
「告別」のように、
人間世界からの旅立ちの波音にも聞こえる。

マーラーの交響曲同様、
この引き伸ばされた楽章は、
前の2つの楽章を、
足したぐらいの長さになっている。

私は、この曲を初めて聞いたので、
ヒコックスの指揮がどうかはよく分からないが、
このあたりは、デュリュフレのレクイエムに感じた、
天空からの恩寵の光を感じずにはいられない。

最後に、アレッド・ジョーンズと、
スティーブン・ロバーツの二重唱があって、
「見よ、兄弟が和合して共におるのは、
いかに麗しく楽しいことであろう」という、
詩篇133から採られた、
感動的な世界平和の祈りに昇華していく。

詩篇133は、「むつましさ」を歌ったものとされ、
まさしく、キリスト教徒も、これには飛びついており、
「互いに愛し合うことによってキリストの弟子と認められる」
という新約の言葉と重ねている。

そうした意味で、英国国教会で歌われても、
喜ばれるということであろう。

ただ、ファンには怒られるような気がするが、
アレッド・ジョーンズの歌声は、
わたしには、それほど清純な感じには聞こえず、
ふつうのソプラノという感じがした。

バーンスタイン作曲の
「チチェスター詩篇」は、
最終的な「和解」を歌うという意味で、
キリスト教の教会が、
ユダヤの作曲家に委嘱したことに、
答えるのにふさわしい音楽となっている。

さて、このCDと一緒に入ったフォーレのレクイエム、
さらには、デュリュフレのレクイエムと一緒に入った、
G・ゲスト指揮のフォーレにも触れたいところであるが、
紙片が尽きてしまった。

そういえば、今回のテーマは、
日本ではヒットしなかった名指揮者ヒコックスについてだった。
一聴した限りの印象では、
しかし、このフォーレのレクイエム対決、
ゲストの盤の方が雰囲気豊かな演奏という感じがした。

おそらく、録音の効果も大きいだろうが、
オーケストラの名前からくる印象そのままなのだ。
ヒコックス盤は、ロイヤル・フィルで、いかにも堅そう。
ゲスト盤は、アカデミー室内管弦楽団で、いかにも、
マリナー時代のブレンド感最高みたいな空気感がある。

ヒコックス同様、ゲストのCDでも、
ボーイ・ソプラノを起用していて、
ジョナサン・ボンドという人が受け持っている。
これが、しかし、弱々しい声で、
それがまた、無垢な印象を倍加させているのである。

先に、アレッド・ジョーンズは、
「普通のソプラノみたい」、
などと書いたが、その裏返しとして、
この、やはりボーイ・ソプラノは、
ソプラノとは違って子供っぽいな、
という感じが、ボンド君の録音では、
妙にいじらしく感じてポイントが高いのである。

実は、これを書いていて思い出したのだが、
私が最初に買ったヒコックスのCDは、
エルガーの「ミュージック・メイカー」であった。

私は、単にエルガーの音楽を聴きたくてこれを購入したのだが、
結局、このへんてこな題名ゆえに、どう付き合って良いか分からず、
長らく、仕舞い込んだままにしていた。

そして、これを改めて見て、かなり驚いた。
コントラルト独唱が、
今回聴いたデュリュフレの「レクイエム」同様、
フェリシティ・パーマーであって、
さらに、86年5月の録音とわかった。

つまり、この年の4月30日から5月2日の、
ゴールデンウィーク(今は、2013年のGWだが)
に録音されたフォーレとバーンスタインの後、
すぐに、このエルガーの声楽作品を録音した、
ということ。

つまり、この後、ヒコックスは、
英国音楽の守護神のような立場に祭り上げられて行く。

デュリュフレやフォーレの「レクイエム」は、
普通の指揮者としての、
ヒコックス自身の「レクイエム」にもなっているではないか。

得られた事:「バーンスタインは、キリスト教の教会から頼まれて詩篇の作曲を行ったが、シューベルトにも同様の経緯で生まれた『詩篇』がある。詩篇には、2つの宗教を結びつける働きがあると見た。」
「日本では無名に終わった名指揮者ヒコックスがメジャーになる寸前に録音された、デュリュフレとフォーレの『レクイエム』は、この後、彼がイギリス音楽に専念させられる前の貴重な録音。」
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by franz310 | 2013-05-05 23:56 | 現・近代 | Comments(0)